薩真人夜断碧桃花雑劇
楔子
（冲末が張珪に扮し、老旦の夫人とともに浄の張千を連れて登場）わたしは姓は張、名は珪、字は庭玉といい、東京の人。かたじけなくも進士に合格、広東は潮陽県県丞を授かった。三人家族で、夫人は趙氏、倅は張道南という。この子は経書を博覧し、文史に精通し、人々はみな卿相の器だと言っている。これはわが家が功徳を積んだことの結果だ。わたしが住んでいる場所の知県の徐端は東京の人。かれには一人娘があって、幼名は碧桃といい、かつて倅の妻となることを約したが、今でも結婚していない。妻よ、明日は三月十五日、わたしは親家をお招きし、牡丹を賞でるつもりなのだが、どう思う。
（夫人）旦那さま、お気に召すままに。
（張珪）それならば、張千よ、徐親家を招きにゆくのだ。ご承諾いただいたら、はやくきて報告するのだ。
（張千）かしこまりました。（退場）
（張珪）張千は行ってしまった。妻よ、わしはそなたとみずから宴を調えなければならぬわい。粗略にしてはならないぞ。
（詩）官を同にし、地を異にして、残んの春を惜しみたり。酒を調へ、相遨へ、牡丹を賞でたり。沈香亭の北側で、傾国をして闌干に倚らしむる必要はなし。（退場）
（外が徐端に扮し、貼旦の夫人とともに丑の李万を連れて登場、詩）潮陽の令となり、にはかに数載の過ぎたるに驚けり。秋雁はおほむね少なく、夜猿は多し。僻地にて逢迎[1]は簡にして、南天に瘴癘は盛んなり[2]。聖恩は雨露のごとくに厚ければ、蹉跎たるをゆめな嘆きそ。
わたしは姓は徐、名は端、字は章甫と申し、東京の人。若いとき合格し、銭塘の簿[3]となって、こたびは広東潮陽県知県に昇った。四人家族で、夫人は李氏、生まれたは二人の娘、上の娘は碧桃といい、年は十八、下の娘は玉蘭といい、年は十五だ。こちらには県丞の張珪がおり、東京の人、道南という息子があって、まさに二十歳だ。あの息子はとても聡明、あのものの内才と外才を見たのだが、ゆくゆくきっと出世しよう。一つには、張珪はわたしと同郷、二つには、さらには任地が同じであった。それゆえに上の娘を張道南の妻とすることを約した。婚約をしたものの、まだ結婚はしていない。本日は何事もない。李万よ、入り口で見張っていろ、誰かがきたら、知らせるのだぞ。
（李万）かしこまりました。
（張千が登場）わたしは張千。旦那さまの命令を奉り、徐親家を招きにゆこう。門番よ、取り次いでくれ。張親家さまが人を遣わし招待状を送ってきたと。
（李万が報せる）旦那さまにお知らせ申し上げまする、張親家さまが張千を遣わして、招待状を送ってきました。入り口におりまする。
（徐端）通すがよい。
（張千が入る）
（徐端）張千よ、こたび来たのは何ゆえぞ。
（張千）主人の厳命を奉じております。時は春、牡丹が盛りにございますから、旦那さまと奥さまをお招きし、賞でていただきたいのでございます。
（徐端）わたしにいかなる徳があり、親家にかようにお気使いしていただけるのか。妻よ、酒宴を断りたいが、どう思う。
（夫人）親家がねんごろに招きにきたのに、どうして断られるのでしょうか。いっしょに牡丹を賞でにゆくことにしましょう。
（徐端）そなたが牡丹を賞でたいのなら、酒を飲みにゆくのも障りないだろう。張千どの、さきに戻ってゆかれよ。わたしと妻は後からまいろう。
（張千）すぐに報告しにゆきましょう。（退場）
（徐端）乳母と梅香に命じよう。繍房でしっかりと二人の娘の世話をするのだ。妻と牡丹を賞でにゆき、すぐに戻ってくるからな。（ともに退場）
（正旦が碧桃に扮し、梅香を連れて登場）わらわは徐知県の娘、幼名は碧桃といい、年は十八。父上はわらわを張県丞の子の張道南に娶わせて妻となされた。今日、両親は義父母の家へ牡丹を賞でにゆきたまい、妹の玉蘭は繍房で刺繍をしている。梅香や、裏庭へ気晴らしをしにゆこう。
（梅香）お嬢さまが遊びにゆかれ、旦那さまがお知りになれば、梅香をお打ちになりましょう。
（正旦）おまえといっしょにちょっと行き、ちょっと見て、すぐに戻れば、父上はお気づきにならないだろう。
（梅香）それならば、すぐまいりましょう。（行く）お姐さま、ご覧下さい。この花園で、白いのは梨の花、紅いのは桃の花、紫は牡丹、黄は薔薇、まことに心を楽しませます。
（副末が張道南に扮し、浄の興児を連れて登場）わたしは姓は張、名は道南。父は今、こちらの県丞をしている。本日は役所では牡丹を賞でて、酒筵では賓客が笑い楽しむ。ところが、籠から白鸚鵡が逃げ、はるかに眺めれば、この花園へ飛んでいった。興児よ、はやくわたしに従って探しにゆくのだ。（塀を跳び越える）
（興児）若さま、あの鸚鵡はどちらにいるやら分かりませぬ。大騒ぎなさいませぬよう。先方がわれらを捕らえ、賊だと言えば、屁を嚔ることもできなくなってしまいましょう[4]。
（正旦）梅香や、あの薔薇の花壇の辺りに人がきたのではないかえ。
（梅香）お姐さま、お眼が霞まれたのでしょう。風が花影を動かしたのです。人が来るはずがございませぬ。（張に会う）ああ、ほんとうに二人の男がいる。何者ぞ。昼日中、塀を跳び越え、わが花園の中へ来るとは、賊となるつもりかえ。
（興児）われらは賊ではございませぬ。二度強盗をしたことがあるのみにございます。
（梅香）賊ではないか。
（張道南が慌てる）悪人ではございませぬ。隣の県丞の役所の舎人の張道南です。家で牡丹を賞でていたとき、はからずも籠の中から白鸚鵡が逃げ、あっというまに花園の中に飛んでいったのでございます。この角門は鎖されており、入ることができなかったため、塀を跳び越えてきたのです。ほんとうに悪人ではございませぬ。どうかお許しくださいまし。
（梅香）張県丞さまの舍人だと仰いますが、ほんとうかどうかは分かりませぬ。お姐さまに言いにゆきましょう。お姐さま、ほんとうに二人の男が塀を跳び越えてきました。誰だかは分かりませぬので、お姐さまにお知らせ申し上げまする。
（正旦）梅香や、ひとまず呼んできておくれ。尋ねてみよう。
（梅香）お姐さまがお呼びです。
（張道南が見る）
（正旦）男の方、どちらのお方で。ご姓とお名は。なにゆえにこの花園に来られましたか。正直に仰いまし。
（張道南）わたしは姓は張、名は道南。父親は今、この土地の県丞をしております。本日、家で牡丹を賞でていましたところ、籠から白鸚鵡が逃げて、花園の中に飛んでいったのでございます。わたしは一時の過ちで、塀を跳び越えてきたのです。お嬢さまはどちらのお方でございましょうや。わたしの罪をお許しになり、出てゆかせてください。
（正旦が頭を垂れる）わらわは徐知県の娘、幼名は碧桃と申します。父親は義父母の家へ牡丹を賞でにゆきました。わらわはたまたま退屈であったため、梅香とともにこの花園で気晴らしをしていたのです。
（張道南）碧桃お嬢さまだったのですか。そのかみわたしの妻となることを約され、はからずも今日会うことができましたのは、ほんとうに天が便宜を与えたもうたのでございます。（挨拶する）
（正旦が唱う）
【仙呂賞花時】わたしは笑顔を浮かべつつかれに問ひたり。
（張道南）お嬢さまに付きそっていっしょに花を見るとしましょう。
（正旦が唱う）かのひとはまめまめしくし、わたしにしたがふ。
（徐端が夫人とともに登場）さきほど牡丹の花を賞で、繍房に戻ったが、上の娘がなぜ見えぬのだ。梅香とともに裏庭へ花を見にいったのだろう。妻よ、われら二人は娘を見にゆくことにしよう。
（正旦が唱う）鶯の声に呼ばれて、ふと振り返る。
（徐端）おい、梅香。
（張道南と興児が驚く）人が来ました。いっしょにはやく逃げましょう。（ともに退場）ああ、両親が突然背後に現れた。どうすればこの羞を隠せよう。
（徐端が怒鳴る）ああ、小娘め、結構なことをしておるな。
（正旦、梅香が跪く）
（徐端）おい、家を辱しめた小娘め、良家の娘であるというのに、なぜこのような禽獣の行いをする。わたしはおまえを打とうと思うが、父子の情腸を損なうことが恐ろしい。ほんとうに、ほんとうに腹立たしいわい。
（夫人）碧桃や、大人になるまで育てあげたに、針仕事を習いにゆかず、どうしてこんなことをしたかえ。人に顔向けできるかえ。ああ、ほんとうに恥かしいよ。
（正旦が唱う）
【幺篇】かれはあちらで春風に悩乱し卒に休むなし、
（梅香）お嬢さま、この事はいかに始末をつけましょう。
（正旦が唱う）わたしはひとり花前に立ちてひそかに愁へ、泪をたえず流したり。（背を向け、唱う）かのひとこそは天縁のある配偶ならめ。諺に言ふ「女は育たば家に留まることなし」と。
（梅香とともに退場）
（徐端）妻よ、このような事があろうとは思わなかった。ほんとうに腹立たしいわい。
（夫人）老旦那さま、ひとまず怒りを鎮められませ。わたしがふだん教育を欠いていたのが悪かったのです。
（梅香があわてて登場）お嬢さまは、老旦那さまに何回か詰られたため、寝室に行き、たちまち身罷られました。どうしたらよろしいでしょう。老旦那さまにお知らせせねばなりませぬ。（会う）
（徐端）梅香よ、あわててどうした。
（梅香）さきほどお嬢さまは、老旦那さまに何回か詰られたため、寝室でたちまち憤死されました。旦那さまにわざわざお知らせにまいりました。
（徐端が驚く）ほんとうか。（悲しむ）わたしの娘よ。
（夫人）そういうことなら、親家に報せなければなるまい。急病で死んだとだけ言い、この花園に土地を選んで、娘の骸を埋葬し、恥を晒すのを防ぐとしよう。娘や。おまえのせいでほんとうに悲しいよ。（ともに退場）
第一折
（張道南が興児とともに登場、詩）ひとり丹墀に対するに日はなほ中せり。君恩により錦袍の紅なるを賜りぬ。世の人は文章の力を知らず、ただ言ふ家門に善功を積みたりと。
わたしは張道南。父親はかつて潮陽県県丞となり、三年の任期が満ちて帰還して、東京に閑居している。わたしは受験し、さいわいに状元に及第し、潮陽知県を授かった。今は官衙に落ち着いて、父母を迎えにゆかせたが、まだ来たまわず、興児が世話をしているだけだ。日はすでに晩れ、役人たちと幾杯か酒を飲んだが、心の中は退屈だ。月影の中、花園で興児と気晴らしせずばなるまい。
（興児）若さま、この裏庭はまことに美しゅうございます。
（張道南）興児よ、見ろ。夜は静かに深まって、風は清しく、月は朗るい。古詩に「花に清香あり月に陰あり」[5]というのは、この景色だな。ただ惜しむらくは、春は終わらんとして、花々がすっかり散ってしまったことだ。しかし、あの海棠軒の脇の土手では、一樹の碧桃が今まさに咲いているわい。興児よ、いっしょに見にゆこう。
（興児が見る）若さま、興児は思い出しました。そのむかし、白鸚鵡が逃げ、若さまと捜しに来、塀を跳び越え花園に来て、徐知県のお嬢さまと会ったのを今でも憶えておりまする。今日、若さまと花園の中に来て、ふたたび遊覧するとは思いませんでした。若さまは心の中で、今もなお、あのお嬢さまをお思いでしょうか。
（張道南）興児よ、そなたが語り起こさねば。忘れていたぞ。あの時は花園でいっしょにお嬢さまに会ったが、まもなく病死されたのだ。これぞまさしく「人面はいづこにゆけるかを知らず、桃花は今なほ春風に笑へるに」[6]だな。いたずらに悲しみが増すだけだ。夜も更けたから、ひとまず戻ってゆくとしよう。興児よ、碧桃の満開の枝を選んで折ってきて、胆瓶[7]に挿してくれ。わたしが見るから。
（興児）かしこまりました。（花を折る）
（張道南）いっしょにわたしの書斎へゆこう。興児よ、琴を持ってきてくれ。一曲弾いて、気晴らしをするとしよう。
（興児が琴を取る）琴はこちらにございます。若さまがご自身で弾かれてください。わたくしは休みますから。（退場）
（張道南が琴を弾く）
（正旦が登場）こちらには人がいない。わたくしはもともとは徐碧桃。不幸にもこの世を去ったが、陽寿がいまだ尽きていぬため、一霊真性は散じていない。聴けば張道南さまが官位を得られ、このお屋敷にお住まいだとか。今夜は書斎で琴を撫していらっしゃるから、隣家の女に姿を変えて、琴を聴きにゆくとしよう。（唱う）
【仙呂点絳唇】わが杏顔は春を隠して、柳眉は恨を標して、方寸結ぼる。東君はいかんともせず、花の落ち春の尽きなんとしたるを。
【混江龍】一天の愁悶を得消さず。清明の時節なれば、雨は紛紛。粉黛を施すことは慵うて、朱唇を点ずることに倦みたり。あたかも薄命昭君の青塚の恨、少年倩女の緑窓の魂にぞ似たる[8]。今まさにわれは愁へたり。ただ見るは、翡翠の巣の空なる、麒麟の塚に臥したる[9]。
【油葫蘆】などわれは青山に上りゆき化身する。まことに悲しや。つねに腸をば断ちて、また黄昏れぬ。懨漸漸たる鬼病と成り、重重畳畳たる恨をぞ積めるなる。虚飄飄たる悪夢を見、凄凄凉凉たる運にぞ得耐へざる。あるときは急急煎煎、腹は焦がれて、あるときは尋尋思思して、心に忍べり。棄てられて、悲悲切切、孤児寡女は身を寄するなし。凄凄惨惨、言葉なくひそかに消魂したるなり。
【天下楽】憐れやな。夢裏の顔、病裏の身。今春いたく憔悴し、花枝よりも幾分か痩せたり。鏡鸞[10]に向かふ心もなければ、鬢雲を整ふる心とてなし。韶光もまた人を妬みたるにや。
【那吒令】碧桃の樹に沿へば、繊繊と月痕は照り。蒼苔の径を繞れば、微微たる露痕を歩むなり。香羅の袖は湿ひて、行行[11]の泪痕を搵へり。今、夜はまさに深うして、尽きなんとせり。（聴く、唱う）かの琴の音はいづこより聞こえくるなる。
（張道南）げに春色は人を悩まし、得も寝ねざらしむ。見よやかの月の移りて花影の闌干に上れるを。しばし書斎の外に出で、かの月色を見るとせん。（門を開ける。正旦が避け、唱う）
【鵲踏枝】誰なりやと見んとせば、かのひとはぎいと扉を開きたり、
（張道南が見る）花陰にうるはしき一人の娘。かのひとの雲の鬟、霧の鬢、杏の顔、桃の腮、柳の眉、星の眼を目にすれば、おぼえずわたしの心は動けり。言問はん。娘さん、いづこのお方ぞ。更闌けてなどてこなたに来たまひし。
（正旦が唱う）ああ、詩を題したる相如さま、琴を聴きたる文君に問ひたまふことなかれ。
（張道南）春の景色が悩ましいため、ぼんやり月を眺めていたのでございます。娘さんに遇うとは思いませんでした。
（正旦が唱う）春の景色に悩まされ、孤眠の穏やかならざりしなり。わらはのために夢魂を疲れしめたりしにや。
（張道南）お尋ねしますが、娘さん、どちらのお方で。どちらに住まわれ、なにゆえこちらに来られましたか。
（正旦）隣家の娘にございます。月が明るく、人が静かであるために、この花園へ琴を聴くためまいったのです。
（張道南が揖をする[12]）娘さんがいらっしゃるのが分かっていれば、お迎えいたすべきでした。お迎えいたしませんでしたが、お咎めになりませぬよう。
（正旦が唱う）
【寄生草】かのひとは寒温[13]を叙べ、礼数は勤し。
（張道南）お会いして、わたしには三生の幸福がございましょう。
（正旦が唱う）ただ見る。かれは曲躬躬として笑みつつ問へり。わたしは羞答答としていそぎ身を退き、やむなく俏冥冥としてひそかに顔を認めたり。
（言う）お尋ねしますが、若さまのご姓は。
（張道南）姓は張、名は道南にございます。
（正旦が唱う）これぞまさしく「月明千里故人の来る」なる。ありがたや。東風は一夜にて芳訊をぞ伝へたる。
（言う）若さま、なにゆえこちらに来られましたか。
（張道南）今、この県で知事をしているのです。さいわいに娘さんと会うことができました。一言申して宜しいでしょうか。
（正旦）若さま、仰ってみてください。
（張道南）わたしはひとりで旅邸に居ります。お嫌でないなら、書院でしばらく話すのはいかがでしょうか。
（正旦）若さまがわらわを留めるお心をお持ちでしたら、ごいっしょに書斎へ行って、お話ししましょう。
（張道南）娘さん、お掛けください。この娘は見目麗しく淑やかで、ほんとうに天の賜物。おもわず心が動くわい。お尋ねしますが、娘さんのお住まいはどちらでしょうか。
（正旦が唱う）
【醉中天】天地無窮の恨みを抱き、雨露深恩を蒙りしことぞある。
（張道南）お住まいのお隣はいかがでしょうか。
（正旦）野草閑花とつねに比隣となれるなり。
（張道南）お家はどのくらい遠いのでしょうか。
（正旦が唱う）わたしの住まひは、路は天台に接して近し。
（張道南）お住まいにはほかにどなたがいらっしゃいますか。
（正旦が唱う）わが住まひには秦人も晋人もあり。ひたすらにくどくどと根掘り葉掘りし尋ぬるなかれ。
（張道南）娘さんがこちらにいらっしゃったのは得難いことです。お話がございますが、申すわけにはまいりませぬ。
（正旦）どのようなお話がございましょうか。とにかくお話しくださいまし。
（張道南）わたしは結婚しておらず、娘さんも空閨を守ってらっしゃる。二人が一つ処に住めば、まことによくはございませんか。
（正旦が唱う）
【金盞児】かれはわたしに親切にして、わたしはかれに殷勤にせり。口は言ふことなかりしも、すでに心は順へり。われら二人はまさにかの「親によらずにむりに縁を結ぶ」ものなり。
（張道南）この月のもと、ごいっしょに幾杯か飲むならば、まことに宜しゅうございましょう。
（正旦が唱う）花前にともに酒を酌み、灯下にてじつくりと文を論ぜられんとせり。
（張道南）このような良い夜ですから、すみやかに洞房花燭を成就するべきでしょう。文を論ずる気持ちなどございませぬ。
（正旦が唱う）風の清けく月の明るきこの宵に、洞房と花燭の春を成就せんとぞしたまへる。
（言う）若さま。わたくしの千金の体をおんみに委ねた以上は、後日、裏切られないでください。
（張道南）娘さん、ご安心なさい。負いたら、天は蓋わず、地は載せず、日月は照臨しないことでしょう。おんみがかならず五花官誥を得、駟馬香車に乗り、とこしえに秦晋の匹となるようにしてあげましょう。
（正旦）若さまと結婚いたしましたから、珠玉の詩か詞を、一首求めて、再会をするためのよすがとしましょう。
（張道南）学問が浅いため、娘さんのもとで自作をひけらかそうとは思いませぬ。
（正旦）願はくは珠玉を求めん。
（張道南が書く）
（詞）縞衣[14]の仙子はいづこより来たりしや。桃源の路は咫尺に近く、武陵の溪の畔に住めりと言ひたりき。玉繊[15]をはつかに露はし、金蓮はしかと歩めば、鶯と花は妬まん。劉郎に邂逅し、一顧を垂れしに、何事ぞ匆匆として帰りゆく。別れに臨み、言ひ含め、しきりに頼めり。「柳亭花館、月窓雲戸に、春をな徒にしたまひそ」[16]とぞ。右調『青玉案』に寄す。張道南作。
（正旦）若さまは、ほんとうにすぐれた才をお持ちです。
（張道南）蕪詞拙筆で、いたずらに仙眼を汚すのみです。
（正旦が唱う）
【後庭花】書きたれば、銀鈎[17]のごとくに一字一字が真しく、珠璣のごとくに一句一句が新たなり。げに筆が落つれば風雨を驚かしめ、詩が成れば鬼神を泣かしむ。贔屓をするにあらざれど、この一篇の談論を聴きたるに、かのひとは能書なること王右軍のやう、能文なること揚子雲のやう。このたびは双鳬[18]を擁して宰臣となり、わたくしに五花誥と県君となることを約したまへり。
（正旦）若さま、わらわはこの詞を収め、ながく家宝といたしましょう。
（張道南）わたくしの詞は優れたものではございませぬのに、娘さんからかばかりに重んじていただけますとは。
（正旦が唱う）
【柳葉児】言ひて信あることのみをしぞ願ふなる。おんみは鬼を嚇かし神を瞞くことを須ゐず。げに十分の才を持ち、十分の俊をぞ持てるなる。わが心をば疲れしめ、脚をな忙はしくせしめたまひそね。われら二人は夢の中にて、暮の雨、朝の雲となりぬべし。
（言う）若さま、まもなく夜が明けますから、わらわは戻ってゆきまする。明日の晩、ふたたび会いにまいります。
（張道南）わたしは明晩、お待ちしていますから、どうかはやめにいらしてください。約束をお破りになりませぬよう。
（正旦が唱う）
【賺煞尾】これよりは紅葉に詩を題せず、青鳥を調へてさきに信を伝ふべし。
（張道南）裏切ったりはいたしませぬ。裏切れば、神明が御覧になっていることでしょう。
（正旦が唱う）ただ要す。おんみの言ひたまひしことの偽りなきを。われをして薄幸[19]の王魁[20]を海神に訴へしむることなかれ。
（張道南）拝見したところ、娘さんは千嬌百媚、はやくもわたしの魂を引きつけました。
（正旦が唱う）麗しき御心は三魂を引きつけたれば、本日は終身を托し、燕爾新婚せんとせり。
（張道南）この一晩の歓愛は、錦鴛の対と成り、彩鳳の双と成るがごときなり。ほんとうに一夜の夫妻は百夜の恩。
（正旦が唱う）な忘れそ。一夜の夫妻に百夜の恩のあることを。
（張道南）ただ願はくはおんみのただちに連理を諧へ、もろともに于飛に效ひて、平生の願を満たさん。
（正旦が唱う）おんみが日ごとに親しまば、われはおんみに随はん。
（張道南）汝が厚情に感ずれば、われはただ、かの張敞に学ばんとして、断じて王魁にはならじ。
（正旦が唱う）ああ。眉を画けるおみは裏切り者となりたまふことなかれ。（退場）
（張道南）今宵、娘さんに遇えるとは思わなかった。あのひとは千般の麗しさ、万種の清らかさを持っていた。これは夢ではあるまいか。
（詩）多情は花を惜しむ心を引き起こし、この夜、歓娯は万金にしぞ抵るなる。両情は相投じ、情はまさに美しく、知音は知音に負かざるべし。（退場）
（徐端が妻、李万とともに登場、詩）人に千年の誉あれども、花に百日の紅はなし。みづからは種を修めず、かへつて天公を怨むなり。
老いぼれは徐端。だんだん年をとってきたため、致仕閑居して、今は洛陽城外の村に住む。碧桃が死んでから、はやくも三年。老いぼれは頼る息子がおらず、心の中はとても悲しい。次女玉蘭があるのみで、当年とって十八歳、他人と婚約していない。去年、張道南は一挙に名を成し、潮陽知県を授かる、老いぼれと交替をした。かれが別れを告げにきた時、老いぼれは心の中で次女のためかれを招いて婿にしようと考えた。ところが、かれは赴任して一月余りで、病気に罹った。若者は瘴癘に侵されるのに耐えられなかったのであろう。張親家はかれのため上表し、辞職させようとした。聖上は憐れと思われ、かれが帰郷し、療養するのをお許しになり、快癒した日に、都に赴きあらためて用いることとしてくだされた。かれはこのたび家に着いた。老いぼれはほんとうはみずから見舞いにゆこうとしたが、いかんせんそれには多くの差し障りがある。まずうちの乳母を遣わしてゆく方がよいだろう。一つには見舞いのため、二つにはこれを機会に縁談を持ち出すためだ。妻よ、そなたはどう思う。
（夫人）老旦那さまの仰る通りにございます。
（徐端）左右のものよ、どこにいるのだ。このわしの命令により、乳母を張家の屋敷にゆかせ、婿どののご病気と、最近の安否を問わせろ。二つには縁談を持ち掛けさせろ。細心にして、はやく行き、はやく戻ってこさせるのだぞ。
（李万）かしこまりました。（ともに退場）
（張道南が病になり、興児が介添えしながら登場、詩）碧桃の花の下、嬋娟に遇ひ、やむをゑず郵亭に一夜眠れり。今に至るも春の消息を漏らすを恐れ、鸚鵡の前で言はんとはせず。
わたしは張道南。あの娘さんと会った後、はからずも病に罹り、もうすぐ死んでしまうだろう。父上はわたしのために上表し、辞職させ、帰郷して療養させることを願った。聖上は承知されたが、いかんせんあの娘さんと別れてしまった。今では医者や薬を求めているものの、ふたたび癒えることはなく、むざむざとあの娘さんを棄ててしまった。ああ、何とかしてあの娘さんにまた一目会うことができるなら、死んだとしても願うところだ。
（興児）若さま、罹られたのは、いかなる病にございましょう。便秘でしょう。医者を呼んできて若さまのご病気を見させることにいたしましょう。
（張道南）興児、医者は呼ばずに、休ませてくれ。
（正旦が乳母に装いを改めて登場）老いぼれは徐知県の家の乳母。老旦那さまのお言葉を奉り、張親家さまのお屋敷に行き、婿どののご病気のいかんを尋ねる。二つには、玉蘭お嬢さまの縁談を持ちかけにゆかねばならない。（唱う）
【中呂粉蝶児】暮景は催し[21]、桑楡なる半竿の紅の日を嘆き[22]、無情の免の走り、烏の飛ぶを恨みたり[23]。鶯花のために、せんすべもなく魔障[24]せられて、人はみなわれの憔悴せるを笑へり。今となりては翠は両の眉に減じ、鬢の霜をば見るを羞ぢ、鏡鸞[25]に対ふことぞ懶き。
【醉春風】われはこちらで世事の浮き雲のごとくして、光陰の逝く水のごときことをぞ嘆くなる。大人の家にながらく仕へしことは、げにや嬉しき。げにや嬉しき。お嬢さまは謙和[26]にて、若さまは寛厚[27]にして、さらに夫人は賢慧[28]なるなり。
（乳母）はやくも着いた。興児や、取り次いでおくれ。徐親家が乳母を遣わし、お見舞いにまいらせましたと。
（興児が報せる）若さま、徐家の乳母が入り口におりまする。
（張道南）はやくお通しするがよい。（会う）
（乳母）若さま、老いぼれは老旦那さまのお言葉を奉じております。ほんとうは老旦那さまみずからがお見舞いにこようとなされたのですが、ご病気の若さまにお迎えいただくわけにはまいりませぬために、老いぼれを訪ねてこさせたのでございます。近頃はご病体はいかがでしょうか。
（張道南）わたしが罹った病は陰でなければ陽でもなく[29]、発寒[30]なのやら発熱なのやら、いかなる病か分かりませぬ。（乳母が唱う）
【紅繍鞋】かれは黄甘甘として容顔は憔悴し、くはへて骨体の羸きに堪へず。秀才たちの花酒病[31]はもつとも医し難きなり。
（張道南）わが病気はただ添ふることあるのみにして、減る日なし。
（乳母が唱う）あるときは精細[32]を覚え、あるときは昏迷を覚えたり。おんみは病むこと懨懨として些かの気力さへなし。
（張道南）乳母どの、わたしの病はますます重くなりました。
（乳母）若さま、ご病気を当ててみましょう。（唱う）
【普天楽】王事[33]を断じて精神を費やしたるにや。
（張道南）違います。
（乳母が唱う）食事のために脾胃を傷ひたりしにや。
（張道南）違います。
（乳母が唱う）風寒により感冒の病となりしにや。
（張道南）違います。
（乳母が唱う）文章の上に心を費やしたりしにや。
（張道南）違います。
（乳母が唱う）鞍馬の上に疲るることの多きにや。
（張道南）みな違います。（嘆息する）
（乳母が唱う）ああ、かのひとはあちらにて言葉なく、ただ長嘆息するのみぞ。やすやすと天機を漏らすを恐れたるらん。かのひとははつきりと言はんともせず、かばかりに懨懨として痩損し、われをして心の中で疑はしめたり。
（言う）若さま、興児に医者を呼んでこさせて、いささか薬を用いれば宜しいでしょうか。
（張道南）従いたくはないのだが、旦那さまのご好意に負いてしまう。仕方ない。興児よ、医者を呼んできてくれ。
（興児）かしこまりました。門を出た。先生、ご在宅ですか。
（浄が医者に扮して登場、詩）医者となり、伎倆は高く、『難経』と『脈訣』をかつて学べり。まるまる十年、病人を一人も癒すことを得ず、兵馬司で牢に坐したり。
わたしは賽盧医。見てみよう、わたしを呼びにきたのは誰かを。
（興児）わたしの家の若さまがご不調ですので、わざわざお招きにきたのです。
（医者）それならば、すぐまいりましょう。（会う）お尋ねしますが、若さま、罹られたのはいかなる病にございましょう。
（乳母）お医者さま、じっくり御覧になってください。
（医者）乳母どの、安心なさるがよい。わたくしは三代医者をし、医書脈訣にはすべて通暁しておりますから、たやすく病は除かれましょう。わたくしの名声は四海に伝わり、わたくしに及ぶ者はおりませぬ。わたくしは賽盧医といい、嘘をつくはずがございませぬ。
（乳母が唱う）
【石榴花】かのものは口では大語し、賽盧医と言ひ、名声は誰か及ばん、医書脈訣を幼きときに習へりと誇りたるなり。
（浄が脈を見る）
（乳母が唱う）この病は風寒か暑湿か飢飽か労役か。
（言う）お医者さま、どのような薬を処方されますか。
（医者）建中湯[34]を処方しましょう。附子を減らして、官桂[35]を加えれば、ご病気はすぐ癒えましょう。
（乳母が唱う）おんみが建中湯を用ゐて、附子を去り、官桂を加へなば、かならずや功效の神奇なるを見ん。
（医者）寸、関、尺の三つの脈は微かだったり、沈かったり、細かったりし、つねに寒さと熱さとが往ったり来たりしています。このご病気はすこしおかしゅうございましょう。わたくしが脈を診ることができぬと仰いますな。
（乳母が唱う）なにゆゑぞさらに言ひたる。寸、関、尺の三つの脈は沈くかつ細くして、さらにこの病にいささかのをかしきところのあらんとぞ。
（張道南）この医者はでたらめを言い、まちがって脈を診た。罹った病は風月によるものなのに。
（乳母が唱う）
【闘鵪鶉】そもそもは風月の上に情を留めたりしなり。寒熱の間に病みたるにはあらず。おんみは雲雨せんとして、些も国家のためにせんとせず。諺に言ふ。「心の病を医す薬は昔からなきものなり」と。おんみのやうにむなしく物思ふ人はなし。むなしく夢裏の佳人を思ひ、色中の餓鬼となりたり。
（張道南）乳母どの、この医者を帰らせることにしましょう。
（医者）帰れと仰るのであれば、薬代をお出しください。
（興児）若さまはおんみの薬を一片も飲んでいられぬ。薬代などやれぬわい。
（医者）薬代を払われぬのなら、あなたの家で死にますよ。
（死ぬ）
（興児）死なれたら、狗を呼んできて咬ませましょう。
（医者が起きあがる）それならば、若さまにわたしの薬を飲ませてください。若さまを死なせることといたしましょう。（退場）
（乳母が背を向ける）あのひとの気掛かりを話題にし、何と言うかを見るとしよう。若さま、お喜びくださいまし。
（張道南）何を喜べと仰るのです。言ってください。
（乳母）若さま、罹られたご病気が風月の病でしたら、媒酌をしてさしあげますが、いかが思し召されましょう。
（張道南）乳母どの、媒酌をしてくださるのは、どちらのお嬢さまでしょう。
（乳母）ほかでもございませぬ。わが老旦那さまのお嬢さま。字は玉蘭さまにございます。生まれつき、ほんとうに麗しゅうございます。若さまの奥さまとなり、再婚をなさるのはいかがでしょうか。
（張道南）玉蘭さんは碧桃さんより器量良しですか。
（乳母が唱う）
【上小楼】お嬢さまはいと麗しく、千般の嬌媚あり。かのひとは生まれつき繊繊たる玉笋、小小たる銀鈎[36]、淡淡たる蛾眉を持たれたり。
（張道南）見識はありますか。
（乳母が唱う）ございます。
（張道南）健康ですか。
（乳母が唱う）健康にして、匹配となるに堪ふべし。
（張道南）わたしの家に来れば夫人[37]ということになりますが。
（乳母が唱う）五花誥[38]と県君[39]の名を辱しむることはなからん。
（張道南）そうはいっても、あの娘さんの方がよい。このことはなかったことに。
（乳母が唱う）
【幺篇】なにゆゑぞ、問ふほどに、応ふることなく、言ふほどに、ますます構ふことのなき。
（言う）分かりました。
（張道南）何が分かったのでしょうか
（乳母が唱う）雲愛雨歓[40]、海誓山盟[41]、月約星期[42]に恋々としたまへるなり。かのひとはあちらにてかつ悩み、かつ嘆き、何の意のあるかを知らず。わたしは女楊修[43]なれど唖謎を解くことこそ難けれ。
（張道南が嘆く）わたくしは病人ですから、おんみの家の老旦那さまはこの縁談をお許しになられますまい。
（乳母が唱う）
【満庭芳】おんみを招いて婿となされん。かのひとは一言を出だしたまへば、心の中で疑ひたまふことなかれ。
（張道南）お嬢さまは字を知っていられますか。
（乳母が唱う）あのお嬢さまは詩書を習へり。
（張道南）賢いですか。
（乳母が唱う）あのお嬢さまはとても優しく、とても美しく、とても賢うござゐます。
（張道南）とても賢く、孟光[44]も比べものになりませんか。
（乳母が唱う）かのひとは孟徳耀より艶質多く、張京兆はいかでか蛾眉を画かん[45]。げに天縁の一対なるべし。とにかく養生なされかし。かならずや運が至らば良医に遇ふべし。
（言う）若さま、この縁談を成就しますかしませんか、一言ご返事くださいまし。
（張道南）ほんとうはあのひとはいらないのだが、ひたすら纏いつかれているから、ひとまず承知し、後で相談するとしよう。乳母どの、太山どのにはよろしくお伝えくださいますよう。わたくしは鞭と鐙に随いますと[46]。
（乳母）この縁談が決まったことをひとまず喜ぶ。老旦那さまに報告しにゆこう。（唱う）
【煞尾】若さまにとりあへず別れを告げん。
（張道南）乳母どの、おんみは媒酌をするのに慣れていらっしゃる。
（乳母が唱う）媒酌するに慣れたるはもちろんなれど、話をし、この事を成就するため、たくさんの元陽の気[47]を費やせり。奥方さまと旦那さまには、さきによろしき報せを届けん。（退場）
（張道南）乳母どのはいってしまった。興児よ、わたしを扶けて寝屋へ休みにゆかせてくれ。
（詩）結婚をするが懶きにはあらず、心におのづと愛しき人あり、縁ありてまた会ふを得ば、霊丹に幾分か勝らん。（興児が介添えをして退場）
第三折
（張珪が張千を連れて登場）老いぼれは張珪。潮陽の県丞になり、三年の任期が満ちて、東京に戻り、閑居している。息子は張道南、一挙に状元に及第し、潮陽で県知事となっている。ところが息子は病に罹り、薬も効かない。邪魔と外道に惑わされ、癒えぬのだろう。こちらは城から二十里の丹霞山。道士の薩真人さまは、五雷正法[48]を行い、とても霊験あらたかだ。老いぼれは今日、投詞[49]を書いて、あの先生に倅を見にこさせることにした。そろそろやってくるだろう。
（外が薩真人に扮し、弟子を連れて登場）貧道は薩守堅、汾州は西河の人だ。貧道は幼年にして医術を学び、薬を用いてあやまって人を大勢殺したために、医を棄てて、道を学んで、方外に雲游し、名山洞天を訪ねた。後に西蜀峡口に到り、道人の虚靖天師に出会ったが、虚靖天師は貧道に仙風道骨があるのを見、咒棗の術及び神霄青符、五雷秘法を伝授なされた。貧道はさらに龍虎山[50]へ行き、参籙奏名[51]し、天下の妖邪鬼怪を除き、一切衆生を救おうと誓い、荊、襄、江、淮、閩、広などをあまねく游した。今月、貧道は雲游し、洛陽城外丹霞山中の紫府道院にやってきて、修行している。昨日は郷官張県丞が、壇下に投詞し、かれの息子の張道南が病に罹り、癒えることなく、薬も効かなかったため、邪魔鬼怪が纏うているかもしれないと考えて、つつしんで貧道を招いて山を下らせて、この人を救わせるのだ。貧道は上帝さまの好生[52]の徳を念じているから、どうして救わぬことがあろうか。本日、かれの家に着いたぞ。門番よ、取り次いでくれ、貧道がまいりましたと。
（張千が報せる）若さまにお知らせします、薩真人が入り口に来られました。
（張珪）お通ししてくれ。
（張千）お入りください。
（真人が会う）
（張珪）真人さま、こたび、倅の張道南が病に罹り、癒えませぬので、真人さまをお招きし、いかなる神鬼か診ていただくのでございます。
（真人）貧道が診てみましょう。老旦那さま、この病気は陰鬼が纏うて起こったものにございます。貧道は祭壇を設け、この鬼を除こうと思うのですが、旦那さまのお考えはいかがでしょうか。
（張珪）ありがとうございます、真人さま。
（真人）貧道は壇に登った後は、お構い申し上げられませぬ。老旦那さまはしばらく避けていられてください。
（張珪）真人どの、ご自由になさってください。（退場）
（真人）道童よ。道服、剣を持ってきてくれ。（道童が渡す）
（真人）道香一炷、法鼓[53]三冬[54]、十方は粛み敬ひ、万神は徳を仰がん。恭んで道香を焚き、無為清静、自然の香は三界を超え[55]、香は瓊楼玉境[56]に満ち、周天法界に遍し。誠意もて恭んでお招きし、叩歯[57]して香を焚きたり。三天使者、五老神兵をば招き、符を銜み、剣を背にして雲間にあり。虎に跨がり、鸞に乘り、月下に来たれり。今、信士張珪の子の張道南は病に罹り、薬を飲めども効き目なければ、本日は香灯花果を壇前に列ね、法をもて神兵を遣はして左右に列ねつ。わたしは太上老君を奉りたり。急急如律令、摂[58]。天清を一撃し、地霊を二撃し、五雷を三撃し[59]、すみやかに真形を変ふ[60]。（筆を取る）天は圓、地は方、律令九章[61]、神筆の到る処、万鬼は潜み藏るべし。（符を書く）天上麒麟の子、にはかに黄金の鎖を断ちて、ひそかに天を下りきたれば、人の世はわれを容れたり。紫微の殿下に丹霞は繞り、白玉の階前に剣佩は斉ひたり。十二童子は詔を伝へて、星冠と雲冕は一斉に戻りたり[62]。（剣で撃つ）老君は駆邪剣を賜はりつ。離火[63]をもて煉成し百煉を経つ。匣より出だせば森森[64]として雪霜[65]寒く、手に入れば輝輝として星斗は現る。（水にまじないをする）わたしが持てるこの水は、凡水ならず、九龍の吐き出だしたるものにして天地をしぞ浄むべき[66]。太液池中千万年、今、持ちきたりて妖気を浄めん。（剣を持ち、歩罡[67]する）つつしんで当日功曹、直符使者に請ふ。われはこれより、おみらを用ゐん。すみやかに壇前に至れかし。わたしは太上老君を奉りたり。急急如律令、摂。
（浄が直符に扮し登場）わたしは直符使者。上仙さまが呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（真人）神将よ、百花園の中へゆき、碧桃を捕らえてくるのだ。
（直符神）かしこまりました。
（外が馬、趙、温、関天将に扮し、護送しながら登場）
（天将）はやくしろ。
（正旦が唱う）
【正宮端正好】師父は法力を施し、天将は神通を顕はせり。今は急急煎煎として、裏庭で到る処をあまねく捜し、かの森羅殿を鬧がさんとす。
【滾繍球】あるものは戧金[68]の鎧を身に着け、あるものは蘸鋼[69]の鞭を腕に懸け、それぞれの気は昂昂として性は善からず、かれらはすべて叫ぶこと吼吼として腕まくりせり。走ればわたしの腿は疲れて、脚は萎え、おぼえずわたしの心は驚き、胆は戦き、笑顔を浮かべて後に退き、前へ趨かねばならず。見よや怨霧の昏昏として千里に迷り、浮雲の惨惨として九天に散ぜるを。げにげに苦海は無辺なり。
（直符が旦児を連れて見る）碧桃よ、面を上げよ。
（真人）下の娘よ。そなたはいずこの鬼怪、いずこの妖精。なにゆえに張道南に纏いつき、人の命を損なうか。正直に申すのだ。正直に申すなら、万事はすべて終わりになるが、正直に申さねば、罰として鄷都へ行かせ、とこしえに餓鬼にしようぞ。
（正旦）上仙さま、憐れと思し召されまし。はじめからゆっくりと申し上げるのをお聴きください。
（真人）言うがよい、貧道は聴くとしようぞ。
（正旦が唱う）
【呆骨朶】師父さま、どうか雷霆の怒を息め、釈明を聴きたまへかし。じつくりと事情を申し上げますからに。
（真人）そなたは俗世のことを思うた神女であろう。
（正旦が唱う）。神女の俗世のことを思ひしにはあらず。
（真人）天魔地仙であろう。
（正旦が唱う）天魔地仙にはあらず。
（真人）そなたはいかなる鬼怪であるか、はじめから正直に言え。
（正旦）わらわは潮陽徐知県の娘、字は碧桃、父はわたしを張道南の妻にすることを約束しました。そのむかし、父が家に居なかったとき、わらわは梅香といっしょに裏の花園へ気晴らしをしにゆきました。張道南は白い鸚鵡が逃げたため、塀を越えてきて、鸚鵡を捜し、たまたまわらわと会ったのでございます。話していますと、父親がやってきたため、張道南は恥じ入って逃げ、父はわらわをあれこれと叱りました。わらわは繍房へと戻り、怒って死に、今では三年を経ておりまする。父親はわたしを裏の花園に葬って、墓頂には一本の碧桃の樹が生えました。わらわはいまだに二十年の陽寿が尽きていないため、一霊真性は散じないのでございます。はからずも、張道南は受験して及第し、潮陽で知事となりました。わらわはむかしの盟を念い、あのかたとふたたび結婚しようと思っておりまする。張道南は『青玉案』の詞を作り、証拠に残しておりまする。これが実情にございます。上仙さまにはご判断を錯たれませぬよう。
（真人）死んだのに、なぜ陰府ではそなたの三魂七魄を収容せぬのだ。
（正旦が唱う）二十載の陽間の寿があればなり。
（真人）そなたはさらに陽寿があって、天曹地府に構われぬため、かように祟りを為しておるのか。
（正旦が唱う）さらに一万種の心頭の怨あり。
（真人）怨むとは、何を怨んでいるのだ。
（正旦が唱う）夢のなかにて十二の峰の雲となれるも徒にして[70]、葬られ荒墳に閉ざさるること三四年。
（真人）そなたは死んで、魂霊はどこへ行ったのだ。
（正旦が唱う）
【倘秀才】生死を判ずる閻王の殿前にゆきしなり。
（真人）ほかにはどこへ行ったのだ。
（正旦が唱う）さらにかの善悪を掌る曹司の案の辺に到れり。かれは言ひたり。わたしが不当に死にたる事はまことに憐れむべきなりと。姻縁は定めらるること五百載にして、陽寿は二十年ありしかば、陰魂を放免したりき。
（真人）そなたはどうして県庁に入り、陽官に纏わりついたか。さらに正直に申すのだ
（正旦が唱う）
【滾繍球】わたしは天に構はれず、地に容れらるることぞなき。かの一夜、風清く、月圓かにて、静巉巉たる海棠の庭院に、あたかもかれの花陰を趁ひて墓前へゆくに遇ひたり。
（真人）あのものは墓前に行って何と申した。
（正旦）二句の詩を誦へたるのみ。「人面はいづこにゆけるかを知らず、桃花は今なほ春風に笑へるに」。
（唱う）かのひとは碧桃の花を一枝折りて、古人の詩を一聯誦へたりしかば、わが魂のかのひとのがり現はるることを招けり。
（真人）あのものはそなたを見たらどうしたか。
（正旦が唱う）醉醺醺と花の裏にて神仙に遇ふ。憐れや、われはむざむざと孤塚に三年埋められ、書斎に一夜眠るのみなるを恨める。こは虚言にあらざるぞかし。
（真人）おまえたち二人が会った時、あのものはそなたにいかなる物を与えた。
【倘秀才】かのひとは金星[71]の硯を拂ひ、龍香の墨を研り、紫霜の毫を潤して、花箋の紙を展べしなり。
（真人）ああ、あのものは何を書いたのだ。
（正旦が唱う）『青玉案』新詞を一篇書きたまひたり。（真人）あの秀才はそのように酒を恋い、花を貪っているのか。
（正旦が唱う）かのものの酒腸の寛きありさまは海のやう、げに色胆は大いなること天のやう。
（真人）なぜすぐにあのものに従ったのだ。
（正旦が唱う）かのひとにおぼえず気を引かれたるなり、
（真人）あのものもそなたの前で、なにか気を引かれたようだったか。
（正旦が唱う）
【滾繍球】かのひとは山の盟と海の誓を立てられて、羅の幃と錦の帳にぞ眠りたまひし。
（真人）あのように病んでいるのに、どうして死ぬのを恐れないのだ。
（正旦が唱う）花を惜しめる心は死すとも怨むことなし。
（真人）いつかれのもとに行ったのだ。
（正旦が唱う）月の下、星の前なる佳期に赴きたりしのみ。
（真人）ゆかぬのも、そなたの自由だったのに。
（正旦が唱う）かれはわたしを必死に留め、わたしはかれに必死に纏ひ、われら二人は願を満たすことを得つ。
（真人）あのものはその後、帰郷を告げて養生し、そなたはともにゆくことができなかったが、そなたは今でもあのものを思うているのか。
（正旦が唱う）今に到るも千万の愁悶あり。
（真人）そなたは何を愁えているのだ。
（正旦が唱う）愁ふるは北邙の衰草に狐免の隠るる。恨めるは西嶺の斜陽に杜鵑の泣けるなり。語り起こせば両の泪は漣漣たり。
（真人）この婦人は、二十年の陽寿があり、もともとは張道南と五百年の姻縁があるから、夫妻とするべきだと言うのだが、口先の話を信じることはできない。直日功曹、生と死を掌る判官を連れてくるのだ。
（直符）生死の文書を掌る判官はどこにいる。
（浄が判官に扮し、文書を執って登場、詩）皇天の聖敕をみづから奉じて遣はされ、死生の文簿を手中に持てり。空中に神道なくば、霹靂と雷声はいづこよりくる。
わたしは陰府で生死を掌る判官。上仙さまが呼ばれているから、目通りをしにゆかねばならない。（会う）上仙さまが呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（真人）ここに徐知県の娘、字は碧桃というものがいる。亡くなってもう三年になるのだが、鬼魂は祟りを為して、陽官の張道南に纏いつき、病気にさせた。貧道は碧桃を壇前に捕らえてきたが、碧桃は二十年の陽寿が尽きておらぬと言うのだ。それゆえにそなたを召して尋ねるのだが、ほんとうに陽寿があるのか。
（判官）ほんとうにさらに二十年の陽寿がございます。
（真人）それならば、当日功曹、姻縁簿を掌る判官を連れてきてくれ。
（直符）姻縁の文書を掌る判官よ、どこにいるのだ。
（外が判官に扮し、文簿を執って登場、詩）雷の声は響きて山川をしぞ振るはせる。この際、誰か天を恐れぬことのあるべき。雨が収まり、雲が散りなば、凶党悪徒はふたたび元の通りとならん。
わたしは姻縁の文書を掌る判官。上仙さまが呼ばれているから、目通りをしにゆかねばならない。（会う）上仙さまが呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（真人）ここに徐知県の娘、字は碧桃というものがいる。亡くなってもう三年になるのだが、鬼魂は祟りを為して、陽官の張道南に纏いつき、病気にさせた。貧道は碧桃を壇前に捕らえてきたが、碧桃は張道南と五百年の姻縁があると言うのだ。折り入ってそなたを召して尋ねるのだが、まことに姻縁はあるのか。
（判官）この婦人にはほんとうに夙縁がございますから、夫婦となるべきにございます。
（正旦が唱う）
【倘秀才】姻縁の帳簿を掌るものは縁の有無を記したり。生死の文書を掌るものは十年五年をば定めたり。これぞまさしく書案の傍の一言ぞかし[72]。
（真人）碧桃よ、わたしはそなたを蘇らせて、夫妻をかさねて結婚させて、父母を団円せしめたが、そなたはこれをどう思う。
（正旦が唱う）夫妻がかさねて結婚し、父母がふたたび団円すれば、わたしは天に謝せずばならず。
（真人）この婦人を蘇らせたいのだが、いかんせん、亡骸はすでに腐ってしまっているから、こうするよりほかないだろう。生死の文書を掌る判官よ、生死簿に、早晩死ぬべき若い婦人が記されているならば、碧桃に亡骸を借りさせて蘇らせよう。何のよくないことがあろうか。
（判官）真人の法旨を蒙り、生死簿を見る。徐知県の下の娘の玉蘭は、今日の夕方、死ぬことになっているから、亡骸を借りさせて蘇らせよう。
（正旦が拝する）そうすることができますならば、上仙さまに御礼申し上げましょう。
（唱う）
【賺煞尾】師父さまの、正法[73]を承け、つねに諸処を見、方便を施され、闡教を開き、ひろく衆生の倒懸[74]を解きたることに感謝せり。夫妻の夙縁を成就し、鸞鳳を結婚せしめ、心願を適へられたり。喜ぶは、先つ頃、張郎[75]のまさに少年なるを度し、災を除かれて、病みし体を癒やしたまへる。かのひとは詩礼、儒風を代々伝へたるを愛せず、かのひとは簪笏、栄名、聖主の宣を愛せず、玉を惜しみ、香を憐れむ優しき性児を愛したるのみ。（退場）
（真人）かようにおかしな事があるとは思わなかった。徐碧桃はすでに屍を借りさせて蘇らせた。明朝になったら、また徐知県の家を訪ねてゆくとしよう。神将たちよ、もとの持ち場に戻ってゆくのだ。
（直符、判官）かしこまりました。（退場）
（真人の詩）太上[76]の玄門[77]に道法尊く、生死簿をもて前世の因果を勘べたり[78]。撥霧拿雲[79]の手を伸ばし、魂を追ひ魄を奪へる人をぞ帰らしめたりし。（退場）
第四折
（徐端が夫人とともに正旦を扶けて登場）老いぼれは徐端。ほんとうに悲しいわい。碧桃が亡くなってから、はやくも三年。はからずも玉蘭は昨夜の三更、急病で亡くなった。屍を堂に停めて、張親家どの、婿どのにお報せし、かれらがきた時、納棺しよう。ほんとうに、ほんとうに悲しいことだ。
（正旦が目醒める）
（夫人）娘や、しっかりするのだよ。
（正旦が唱う）
【双調新水令】わたくしの麗しき身は三年土中に埋められしも、今日蘇り、天界に昇るを得たり。寒灰のまた焰を発し、枯樹のふたたび花を開けるかのごとし。苦は尽きて、甘は来るなり。諺に言ふ。「否が極まらばはやくも泰を生ぜん」[80]と。
（夫人）ありがたい。娘が目醒めた。
（徐端）定魂湯を娘に飲ませることにしよう。
（夫人が湯薬を渡す。徐端）娘よ、しっかりするのだ。一杯の定魂湯を飲むがよい。
（正旦が起き上がり、拝する）
（夫人）玉蘭や、おまえはどこにいたのだえ。
（正旦が唱う）
【歩歩嬌】おんみのもとへゆるゆると来て、ふかぶかと拝したり。
（徐端）娘よ、どうして拝しているのだ。
（正旦が唱う）憐れやな。わが白頭の父母はいづれも年老い、別れたること三二載。
（徐端）どうして「二三年」なのだ。
（正旦）父母と別れし後に、
（唱う）わたしはまさに幾度か南柯の夢中に来たるなり。
（徐端）どういうことだ。
（正旦）わたしは碧桃。
（唱う）幼名をしかと言ひたり。
（徐端）そなたは碧桃だと言うが、碧桃はすでに死に、三年になる。そなたはずっとどこにいたのだ。
（正旦が唱う）われは開きつ落ちつしてかの荒郊の外にあり[81]。
（徐端）ほんとうにおかしなことだ。碧桃はすでに死に、三年になるというのに、なぜ生き返ったのだろう。妖邪鬼怪が、草に倚り、木に附いたのではあるまいな。人を遣わし、張親家を呼びにゆかせたが、今になってもどうして来ぬのか。
（張珪が妻、張道南とともに張千を連れて登場）わたしは張珪。思えばまことに悲しいことだ。倅の張道南は徐章甫どのの上の娘の碧桃どのと婚約したが、碧桃どのは死なれてしまった。このたびは下の娘の玉蘭どのと婚約し、さいわいに道南の病がふたたびよくなったのだが、縁談を成就しようとした矢先、今日の朝、人が報せにきて言うには、玉蘭が昨夜の三更、急病で亡くなったとのことだった。老いぼれは思うのだが、わが道南には姻縁が訪れていないのだろう。今から夫人、道南とともに、あのひとの家へ弔問をしにゆかねばならぬ。はやくも着いた。取り次ぎは必要ない。そのまま入ってゆくとしよう。（会う）親家どの、ほんとうに悲しいことで。
（徐端）親家どの、碧桃は蘇りました。
（張道南が驚く）ほんとうにおかしなことだ。碧桃どのがなぜ生き返られたのでしょう。
（正旦が会う）張道南さま、わたくしがお分かりになりますか。（唱う）
【折桂令】そもこれは「朋あり遠方より来たる」なり。おんみは済済たる衣冠、楚楚たる人材。情は重きこと山のやう、恩は深きこと海のやう、病みぬれば骨は痩せ、柴のやう。これ以上、鬧攘攘と大騒ぎして、悄促促と冥土の使のやうにせらるる必要はなし。
（張道南）わたしはおんみと会ったことなどございませぬに、このように仰られるとは。
（正旦が唱う）思へばわれらは情懐は繾綣、水魚のごとく睦みたり。吾は汝がために巫山を下り、汝は吾がためにあやまちて天台に入る。
（張道南）お嬢さん、わたしがおんみとどこで会ったか言ってください。わたしに聴かせてみてください。
（正旦が唱う）
【沽美酒】そのかみ、花園にて睦み、書齋にて娯しみたりき。海の誓と山の盟を誰か道ひたる。ああ、読書せらるる秀才さま、われら二人は結婚を成就せんことを謀りて、反故にせんことを謀らず。
（張道南）お嬢さん、でたらめを仰いますな。あなたと会ったと仰るのなら、いかなる証拠をお持ちでしょうか。
（正旦）ございます。ございます。（唱う）
【太平令】頑固を装ふ官人よ、な咎めたまひそ。わたしは新詞を袖の裏よりいそぎ出だせり。（詞を出し、唱う）一字一字が憐れむべく、愛すべきなり。一句一句が学ぶは難く、賽るは難し。客たちにむかひて開げ、告げ述べん。ここにある『青玉案』はいかなるひとの親筆なりやと。
（徐端）まことに天下随一のおかしな事だ。その間のいきさつにつき、はっきりとした証人があればよいのだが。
（薩真人が突然登場）貧道は薩真人。本日は徐知県の家を訪ねてゆくとしよう。（会う）みなさま、貧道は稽首いたします。
（張珪）これは薩真人さま。先日、倅の病のために壇下に投詞いたしましたが、お礼をいたしておりませぬ[82]。今日はちょうどよいところに来られました。親家どの、ご令嬢が蘇った事につき、証人があればと言われていましたが、真人さまに問われれば、きっと事情が知れましょう。
（徐端）真人どの、上の娘の碧桃は死んでもう三年になりますが、昨晩、下の娘が急死し、今朝、急に蘇り、碧桃が蘇ったのだと申しておりまする。これはどういうことなのでしょうか。
（真人）老旦那さまはご存知ございますまいが、貧道がじっくりと話すのをお聴きください。老旦那さまは、そのむかし、碧桃さまを張道南さまの奥さまとすることを約されました。あの年の三月の十五日、あなたがた夫婦二人は、張県丞の家にゆき、牡丹の花を賞でられました。ところが、張道南さまは、白い鸚鵡が逃げたため、塀を跳び越え、おんみの家の花園へ鸚鵡を探しにゆかれたのです。そして、碧桃さまに遇い、顔を合わせて話しをしようとしたところ、老旦那さまが帰宅され、お嬢さまは罵られたのでございます。お嬢さまは、部屋に戻られ、たちまち亡くなられました。おんみの家はお嬢さまの亡骸を裏の花園に埋められました。お嬢さまは陽寿が絶えてらっしゃらず、精神は散じていられず、お墓には一株の碧桃花の樹が生えてきて、お嬢さまの魂は碧桃の樹に附かれたのです。三年後、張道南さまは一挙に及第し、この県の知県を授かり、おんみのむかしの役所に住まわれたのでした。その夜は、風は清く、月は明るく、張道南さまは、ぶらぶらと碧桃の樹の辺へとゆかれたのです。花は咲き、見るのにちょうどよかったために、一枝を折り、胆瓶に挿されたのでした。ところが、碧桃さまはその晩、書斎で張道南さまと契られて、雲となり、雨となりして、誓を立てられたのでした。そのため、張道南さまは、みるみるうちに死にそうになられました。張道南さまのご父君は上表し、道南さまを辞職させ、家に帰って養生をさせようとされ、聖上の許しを得たため、道南さまは離任して故郷へ行くことができました。碧桃さまはいっしょに来られなかったのですが、道南さまの病体はすぐには癒えませんでした。ご父君は道南さまの病がみるみる重くなり、薬を飲んでも効かないのを見て、妖精鬼怪が纏いつき、祟りを為していることを恐れられ、貧道の壇前に投詞されたのでございます。貧道は祭壇を設け、天将を遣わして、碧桃さまを壇下に捕らえてまいりました。碧桃さまは二十年の陽寿があり、張道南さまと宿縁前契、夫妻の誼があると仰ったのでした。貧道は信じずに、生死、婚姻を掌る判官を呼んできて尋ねたのですが、はたして嘘ではありませんでした。貧道は碧桃さまを蘇らせることにしましたが、いかんせん、屍は腐っていたため、元に戻すのは難しいことでした。ところが、おんみの下の娘の玉蘭さまは、食は尽き、禄は絶え、昨晩の三更に亡くなりました。判官に命令し、玉蘭さまの屍を借り、碧桃さまを蘇らせましたのは、みな貧道の力なのです。
（徐端）娘よ、真人さまが仰っていることは本当か。
（正旦）上仙さまの法力がございませねば、今日はなかったでしょう。（唱う）
【豆葉黄】憐れやな。わが滞魄と游魂[83]は、海角と天涯に流落し、野草と閑花、残煙と断靄に長く伴ふ。われは思へり。暁色の夜台に到りしことなきに、はからずも万里を帰りきたるなり。喜喜歓歓と、父母をふたたび拝したり。
（夫人）娘や、そなたは蘇ったが、玉蘭は惜しいことをした。まことに苦しく、まことに悲しい。
（正旦が唱う）
【七弟兄】こはなれの運の衰へ、かれの命の尽くべきぞかし。二人の裙釵を留め得ず。薩真人が神通の大なるを顕はさずんば、わが墓の頂に遠郷牌[84]を釘打たれたりつらむ。げに一霊はながく鴛鴦債を借りたり[85]。
（張道南）おんみが碧桃お嬢さまなら、そのむかし、会った時、どうしてわたしにはっきり仰らなかったのです。わたしはかような病になって、あやうく死ぬところでしたよ。
（正旦が唱う）
【梅花酒】嘘をつき、悪戯するを好みたるにはあらざりき。粉臉と香腮の、おんみの密意幽懐[86]を引き起こし、かへつて横禍飛災[87]となるを恐るれば、鬼の名をひそかに改め、真の姓をひそかに隠したりしなり。くはへて陽寿はいまだ尽くべきにはあらで、婚姻簿にもしかと記載がありしかば、天は麗しき身材を与へたまへり。雲と雨とを調へて、連理の樹をばしかと栽ゑ、合歓の花を思ひのままに摘みたり。
（張道南）お嬢さま、わたしはおんみとむかし別れて、とこしえに生死を隔てたものと思っておりました。ところが今日は蘇り、ふたたび夫婦となりましたから、われら二人はまさに喜ぶべきでしょう。
（正旦が唱う）
【収江南】ああ、今日は月明千里、故人は来たりて、鏡鸞は妝台に重ねて整ふ。これこそ人の肌骨を換へて、人胎を奪ひたるなれ。みだりに猜ふことなかれ。君見ずや、桃花のふたたび春に咲かんとするを。
（張珪）親家どの、さいわいにご令嬢が蘇り、姻縁をふたたび結ばれましたのは、みな真人の法力によるものでございますから、わたしたちは家を挙げて真人に拝謝しましょう。
（真人）これはもともと天の定めにございます。貧道は法力を施して、あのひとを屍を借りて蘇らせて、ふたたび結婚することを諧えただけで、謝するには足りませぬ。
（徐端）張親家どの、下の娘とご令息は、あらためて吉日を選び、結婚させることにしましょう。われわれはまず真人さまに拝謝することにしましょう。（拝謝する）真人さま、上座へどうぞ。わたしたちが一拝するのをお受けください。
（真人）滅相もございませぬ。滅相もございませぬ。
（詞）徐碧桃は艶質天然、はや三載、骨を重泉に閉ざしたり。しかるにかれの一霊は散ずることなく、夫君とひそかに花前に会へり。風情のため情懨懨として病と成り、さまざまな薬も癒し難ければ、投詞して、禳祷し、貧道に事情を識破せられたり。妹がにはかに死ぬる時に当たりて、屍を借り、生き返りたり。懐中の新詞を出だし、証拠とし、はじめてわたしの法力の無辺なることを知りたり。これはもとより生前に定められたることにして、再合の姻縁を天の配せられたるなり。高堂に盛大に筵宴を排べ、骨肉の団円をしぞ祝賀せん。（ともに退場）
最終更新日：2010年11月10日