●巻六
◎高郵の蘇某
高郵の蘇某は、夫婦ともに四十歳、一子がいるだけで、拱璧[1]のように愛していた。ある日、若い下女が抱いて外庁を出、雨で足を滑らし、子は階下に転がり、頭が割れて亡くなった。蘇某はそれを見ると、すぐに下女に頼んではやく実家に逃げ帰らせ、みずからその子を抱き、入って自分が手を滑らして転んで死んだと言ったが、そもそもその妻の性格が短気で凶悪であることを知っていたのであった。その妻がいそいで下女を探そうとした時には、下女はすでにいなくなっていた。まもなく、蘇某はふたたび一子を挙げた。そもそもこのことは『因果録』[2]に載せられており、昔、家大人が京師で役人をしていた時、朱文定公(士彦)から仄聞したことでもあった。そもそも公はもともと高郵の人で、その郷里の美談を述べたことがあるが、その話を尽くしておらず、今も蘇氏の子がどうなっているかは知らない。理によって推せば、その後裔が盛んであったことは疑いない。わたしの同郷人で、前明の馬恭敏公(森)[3]にもこのことがある。すなわち、除夜に下女が子を抱き、入り口で遊び戯れていた時、子があやまって隣家の爆竹の盆の中に入って死んだ。恭敏の父も下女をすぐに遠方に逃げさせ、妻を宥め、このことを不問にさせた。子は身にもともと傷があった。一年後また子が生まれたが、傷痕はそっくりそのままであったので、もとの子が転生してさらに来たことを知った。これが恭敏であった。恭敏は戸部尚書を致仕して家におり、数句で民変を鎮め、しばしば農村の困難を緩和したことがあった。このことは徐興公の『榕陰新検』[4]に詳しい。だとすれば、今の蘇氏の子は、たとい馬恭敏のようになれなくても、その父の厚徳は恭敏の封翁[5]とまさに同じであり、将来もかならず世に顕れることがあろうから、わたしは耳を洗って[6]それを待とう。
◎霍節婦
徽州の霍家も豪族で、家に節婦がいたが、賢明であるものの懦弱であった。しばしば近隣の一族に侮られていたが、争ったことはなかった。城内に胡某という者がおり、ひどく堪輿の術を好み、技術は優れていなかったが、資産は豊かであった。たまたまある田地を見、中に大穴[7]があると思ったので、尋ねたところ、霍節婦の地産であった。買おうとしたが叶わなかったので、売買契約書を偽造し、仲介者の証文[8]を捏造し、法廷に訴状を投じた。霍節婦は恐れ、この田地を胡に属させることを願ったが、葬る土地がなくなってしまうと言った。胡は欣然として痩せた田数畝をそれに易えたが、かれが思っていた大穴は、無穴[9]であり、かれが痩せた田と思ったものは、真霊穴[10]であった。霍節婦はやむをえず、卜してその夫を痩せた田に葬った。しかし三十年内、子孫は科甲[11]につづけて合格した。胡某はみずから卜し、大穴に葬られた後、家はだんだん零落した。心機を費やし尽くしても、益がなかったばかりでなく、かえって害があったが、どうして技が優れていなかったことのせいだけであろうか。
◎賈某
山西の賈某は、若くして孤児となったが、幼いときに王某の家と婚約していた。王はかれが貧しいのを見ると、迎えて家に置いた。長ずるにおよび、合卺し、妻はすぐに亡くなったが、王某は相変わらず優待した。王には妾がいたが、容色が美しかったので、賈某は誘って逃げ、ならびにその旅費を盗んだ。河南に逃げてゆき、なんと家庭を作り、さらに一男二女を産んだ。後にその妻の実家は追跡して探しあて、かれに帰ることを勧めたが、顧みなかった。道光辛丑[12]、祥符[13]の決潰に遭い、一家は魚腹に葬られた。
◎擺攤盤
揚州は賭博がもっとも盛んであり、最近は揺攤[14]の遊戯があり、官員と商人の区別なく、資金によって勝負を競い、意気はおのずから壮んで、南北に派遣される官員でこの地に往来するものでも、これに沈溺せぬものは少なく、楽しんで帰るのを忘れるのであった。ひどいものになると賭場に誘い、外に宴を設け、中に裙衩を貯え、「擺攤盤」ということがあり、もっとも人心風俗の害となっていた。聞けばこの数年来、その風習はますます盛んであり、竹西[15]歌吹の外では、局面はさらに一新しされているという[16]。近頃、某甲という商人がおり、家に攤盤を設け、人の子弟を誘い、他人を破産させるものも数えきれなかった。その子は秀士[17]で、秋闈[18]を受験していた。ある夜、突然吉報が門に来たが、人々は多くは信じなかった。翌日、題名録を取って見ると、なんと某甲の子であった。人々はみなこのような家なのに、このような善報があるとは、天道はほとんど曖昧で理解できないと言った。わたしも聞いて疑った。ある日、羅茗香に会ったところ、かれはわたしに告げた。「某甲の家の慶事を、人はみな訝っているが、某甲の最近のことは、人は知らない。某甲は攤盤の中で、毎年かならず一二人の若い女を買い、囮にしていたが、去年、一人の中年の婦人を買い、賭場に入らせた。はじめて来た時、すぐに彼女の顔色がすぐれないと感じたので、くわしく質したところ、ある役人の家の妻であること、その夫は邗上[19]で役人をしたことがあるものの、死後、家に男子がおらず、自活できなくなり、しかたなくこちらに来たこと、賭場に入った後、今まで数か月を閲しているが、しっかりとみずからを保ち、汚されなかったことを知った。某甲はすぐに憐憫の情を動かし、清節堂[20](恤嫠局)に送り込み、極力彼女のために口利きしてやり、居所を得させた。この女もたいへんそれを願い、それを賭場にいるのと比べれば、判然として仙界と俗界のようであった。わたしは言った。「結構なことだ。功徳はたいへん大きく、こうした大きな善があれば、多くの不善はおのずと消えるから、その善報を得たのは当然だ。」
雲南嵩明州の某甲は、しばしば城外でささやかな恩恵を施すことを好んでいたので、近所には喜んで従うものが多かった。しかし役所の人に会うと、つねに仇敵のように見なし、極力牽制妨害したので、たいへん地方に有益であったが、怨みを結ぶことは深かったので、平生、軽々しく城内に踏み入らなかった。たまたま娘を嫁がせる年になったので、城内に入り、雑貨等を買ったが、まもなく胥吏に会い、すぐに護送され、役所に入れられ、上官には昔の事件を捜査すると報告し、某甲を杖で責め、枷号[22]を加え、かれの郷里に送ってゆき、人々に示すことにした。二人の下役が護送していったが、ちょうど深い水の渡し場に差し掛かると、某甲は恥ずかしくてたまらなくなり、枷を帯びたまま水に跳び込んで死んだ。その時、州牧趙某は広間に安座していたが、それを聞いてもあまり意に介さなかった。半年後、昼に仮眠していたが、突然、枷を戴いた人が昂然とまっすぐに入って来た。まもなく、奥で若い下女が、二夫人がすでに麟児を生んだことを報せに来た。趙某にはもともと子がいなかったので、役所じゅうはみな祝ってやったが、趙某だけは深い憂えを抱き、みずから疏文[23]を撰し、醮壇[24]を設け、祓ってやった。一年あまりになろうとすると、たちまち夢の中で、前の枷を戴いた人が言った。「わたしは農村にいた時、もともと善人と称せられており、人民を苛めたことがなく、人のために調停していたに過ぎず、どうしても許されないことになるはずがない。わたしを懲らそうとするにしても、わたしを枷に掛け、郷里の人々に示し、面子を潰させる必要はない。わたしを死に追いやるのでなくて何か。おまえはわたしの命を取ったが、わたしは死ぬほどの罪は犯していなかったのだから、どうしておまえと事を収めようとしようか。今回おまえの家に来、おまえがしばしば後悔しているのを目にし、おまえが本当にわたしの命を害しようとしていなかったことが分かった。怨みは解くのがよく、結んではならぬから、わたしは去っておまえと仇を結ばない。」そう言うと、悠然として去った。夢がにわかに醒めると、奥からあらたに公子が産まれたがたちまち急病を発し、勢いはとどめられぬことを伝えるのが聞こえ、役所じゅうが慌てふためき、まもなく公子が亡くなったことが報された。内外のものたちはみな慰めに来たが、趙某はひそかに重荷を下ろしたかのようで、その後も寂然としていた。
◎章邱[25]の孝子
章邱の陳孝子は、鏡を磨くことを生業とし、天性誠実であった。年は四十二で、家が貧しかったため、まだ結婚しておらず、年が六十六の、一人の老母がいるばかりであった。孝子は鏡を磨いた金で美食を奉り、心をあらかじめ察し、その母はそのために貧しく老いていることを忘れた。ある日、母が股疽[26]となり、夜通し呻吟すると、孝子は天に号泣し、身をもって代わることを願った。終夜助け侍し、衣帯を解かないこと一年あまりであった。医者はこの病は癒やせる薬がないが、啜るとその痛みがやや減じることができるので、孝子はすぐに毎日口ずから数回啜り、汚らわしいと思わなかった。母の病のために学業を廃し、貧しくて生計を立てるすべがなく、美食を母に供する外は、日々糠秕[27]数合を食べ、後にその母は身は長寿を得、暮らしも安定し、孫も郷試に合格した。
◎浦城[28]の痴翁
浦城の周某は、生来温厚で、人々は痴翁と称していた。夏に客と碁を打っていると、突然、一人の貧士が吠えながら走って来、言った。「おまえから銭二千を借りただけなのだから、執事に命じてわたしから取り立てさせる必要はない。」某がまだもじもじとしていると、その人はほしいままに罵り、棋局を壊した。某はおだやかに諭して言った。「免除してもらおうとなさっているのか。」すぐに筆を濡らし、棒引きの書きつけを渡すと、その人はいそいで謝して去った。座中の客たちが某の盛徳に感嘆すると、某は言った。「あのものは、容貌が凶悪で、言葉が粗暴でした。怒らせますと不慮の変事を起こす恐れがございましたので、許したのです。」日が暮れると、突然、その人が厠で死んでいることが報告せられた。その時、客はまだ座にいたので、ともにそのわけを質したところ、その人は債務に迫られてなすすべがなく、服毒して来、詐欺を図ろうとしたことを知った。周翁の意に感じたので、いそいで帰って糞清[29]を探して解毒しようとしたが、薬効がにわかに生じ、解毒するのが間に合わなかったのであった。某はそこで天に謝し、客もたいへん敬服を加え、ある人が言った。「この翁は本当に貧しいものを憐れんで辱めを忍ぶことができるものではなく、智によって禍を免れることができたものに違いない。痴とはもとよりこのようなことなのか。」
◎雷が不孝者を殺すこと
大湖[30]の于某は、年は六十二歳で、田を耕すことを生業とし、家には二子がいるばかり、長子は年が二十八、次子は年が二十四、たいへん貧しく、いずれも結婚していなかった。于某はおりしも痢病がたいへん重篤であったが、長子はたいへん孝行で、日々湯薬に侍し、すこしも離れることがなかった。次子は性来放蕩で、冷淡にして気にしなかった。医者を呼び、処方を書かせたところ、医者は、よく煎じた後に一晩露を受けさせ、翌朝それを飲むとすぐに効くと言い含めた。長子は日々父の側に侍し、一刻も休むことなかったので、薬を煎じ、中庭で露を受けさせる時は、弟に頼んで番させた。弟は隣家の女と密通しており、その日、隣家の妻の夫が外出したので、こっそり泊まった。ところが薬はヘビに毒せられ、翌朝、その父は薬を服するとすぐに毒に中たって死んだ。その父の死は息子に殺されたのではないが、父が病んで危篤の時もなお、淫悪の事をし、薬にヘビの毒があり、父が毒で亡くなることを致した。これより大きい不孝があろうか。その後、父の遺骸を葬らないうちに、次子は雷に殺された。
◎台湾の唐某
台湾の唐某は、家が豊かであった。もともと飴を売って利を得ていたので、人々は糖叟と称していた。中年で癆咳のために死んだが、妻はまだ若くて子がなかった。族侄[31]某はつねにその家に往来していたが、若く、美しい姿をしており、糖叟の財産を狙い、あらゆる手段でかれの妻を挑発し、姦通した。同時にその妻を唆し、親族に自分を立てて跡取りとするように告げさせ、その家を占拠し、当然のようにしていた。親族には後ろ指をさすもの、胥吏に頼んで陥れさせるものもいたが、某はすべて多くの賄賂で事を収めた。おりしも陳辨の乱[32]で、一家は殺され、かれのおい某は屍を路に横たえた。
◎馬瘍科
高州[33]の馬瘍科は、技術がたいへん優れ、患者がいると、先に薬を用いて爛れさせ、大きな孔にし、さらに代金を交渉し、要求を満たさない者がいると、放置して治療せず、そのため命を落とすものはその人一人だけでなかった。馬家は資金を数万両貯えるに及んだが、たちまち人面瘡を患い、自分で癒やせず、転げ回って死んだ。かれの妻は子がなく、一人の娘しかいなかった。妻は醜悪淫乱で、大金で不良少年の喜びを博し、家は市場のようになり、淫瘡[34]が体に満ちた。かれの娘は年が十七、母のように醜かったが、やはりともに門に倚った[35]。そもそも母娘はともに醜いのに、どうして家が市場のようになったのか、大金がなければ、どうしてこのように淫らなことをするにいたろうか[36]。それから城内の瘍科を業とするものは、みなそのために意気沮喪した。
◎愚かな師の報い
建安[37]の周某は、耕作牧畜によって家を興し、晩年に一子を生み、隣家の生員徐某を招いて教育させた。子が八歳で塾に入ると、謝礼を厚くしたが、豪族世家も及ばないものであった。主客師弟は仲良くしてたいへん親しんでいた。八年して周某は病歿した。子はすでに十六歳となっていたが、徐はすぐに悪事に誘い、さらにそこから利を得ていた。周の母はそれを知り、怨みを抱いて憤死した。すると徐はその家政を司り、子は日に日に淫蕩となり、五年足らずですでにその財産の半ばを費消した。ある日、徐が家で昼寝していると、突然、周某が槍を持って入って来、ただちにその胸を刺したため、すぐに死んだ。その時家で見ていたものは二十人、家には一子がいるばかりであったが、夜半にやはり死に、下女や妾は星のように散じた。周某の子はこのことを目撃し、はじめて大いに悔い、家産を取りもどした。
◎銀が祟りをなすこと
湖州[38]の江某は、翰林から改官[39]し、直隷青県知事に任ぜられた。おりしも凶作で賑恤が行われていたが、その中から経費を倹約し、数万両を得、上官の責めを恐れ、病と称して帰った。家に着くと、すぐに大きな幽鬼を見たが、長さは数丈、青い面、高い鼻、赤い眼、白い衣を着け、手に鉄の槍を持ち、殺そうとしているかのようであった。江がたいへん恐れ、いそいで家人を呼ぶと、たちまち見えなくなった。その後、謡言が広まり、直隷で賑恤の件が露見し、抄家[40]があろうとのことであった。江はますます恐れ、あるものをすべて埋めようとしたが、知る人はいなかった。まもなく、突然風疾[41]に罹り、話せなくなり、両手足はすべて攣縮し、終日臥榻の上におり、酔っているかのよう 、呆けているかのようにしていた。それから室内に幽鬼は日に日に多くなり、そのありさまは獰猛凶悪、騒ぎ立て、何もせぬ日はなかった。江が死ぬと、家運も傾き、一人の孫だけが残ったため、引っ越した。家は他家に売られ、埋めた銀は誰の手に帰したか分からなかった。
◎不孝者
呉門の沈某は、葑溪[42]に住み、暮らしはもともと安定していた。その叔父は大金を擁しながら子がなかったので、死ぬと某を立てて跡取りとした。某はもともと無頼で、継母によく仕えず、さらに日々放蕩し、まったく家を顧みなかった。継母が亡くなると、草草と納棺し、棺を留めて葬らないこと十余年にいたり、折々に祭ることも忘れていた。ある晩、幽鬼が嘯いたので、某が灯りを点けて出たところ、たちまちその叔祖母[43]に棍棒で打たれた。大声で叫んで逃げたが、さらに追われ、たちまち死に、家産は蕩然[44]とした。さらに常熟の諸生鄭宗臣という者がおり、一子を生んだが、わずか十五六歳で、よくないことをするのを習慣としていた。宗臣は憎み、子も父の束縛に苦しんでいた。そこで墨匣[45]を取り、小さい棺に改め、泥像を捏ねてその中に置き、「清故県学政鄭宗臣の柩」と題し、庭に埋めた。そのしもべはそれを見て諌めたが、聴かなかった。埋葬が終わるとすぐに、両足がたちまち跳ねあがり、悲しみ泣いてやまず、弾指の間に、息絶えた。この二事は、いずれも家大人が蘇州にいた時、蒋伯生邑侯(因培)[46]に聞いたことであった。天が不孝者を誅するのが、これほどはやいことはなかった。
◎湖北の夏某
湖北の夏某は、道光十一年[47]に水荒に遭い、父母はともに亡くなり、時にその年はすでに十歳、飢えて路傍に倒れた。王某という者がおり、慈悲心をもち、善行を好んでいたが、かれを見て憐れみ、連れ帰り、衣食を賜い、子弟と同じ塾に入らせて勉強させた。夏は天分がたいへん高かったので、すでに文を作ることができるようになった。ある日、王某一家が外に出て看燈したとき、夏もその後についていったが、王某の妾が若いのを見ると、挑んでともに語り、密通した。その妾に頼んで主人の金百両を盗ませ、つれてひそかに逃げた。舟が漢江を過ぎると、風が激して纜が断たれ、舟が覆り、江に沈んでみな死んだ。主人は人をやってその妾を追ってゆかせ、人ははるかにかれらを望みみたが、救えなかった。
徽州の程某は、堪輿の術に精しく、名声は四方に聞こえていたので、わたしの郷里の林某はかれを招き、土地をみさせた。林某は、悪人で、奸盗邪淫、あらゆる悪事をしていた。程某が一つの穴を占ってやったところ、真穴[48]であった。程某が穴を定めた後、夢みたところ、郡の城隍がかれを廟に召し入れ、その穴を選ばぬように命じた。目ざめて嫌に思ったが、その後、夢はあてにならないと思ったし、林某の大金が欲しくもあったので、ふたたび穴を選んでやった。まもなく陰雨で三昼夜暗くなり、雷が一撃し、穴は壊れた。程某は逃げたが、家に着かないうちに死に、林家もだんだん衰えた。みな墓地よりも心が善良であることが大事なのだと言い、土地を見るものはつねにそのことを挙げて戒めとした。そもそもこれはわたしの郷里の最近のことで、人口に嘖嘖としていることである。まったくどこの家かも分からず、『因果録』を見てはじめて林家と知ったが、それがどこの郡県であったかは詳らかでない。
◎湖南の熊某
湖南の堪輿熊某は、技はたいへん劣り、心はたいへん愚かで、人のために墓地を営み、泉水砂礫に葬ったことはどれほどか知らなかった。方節婦という者がおり、節を守ることすでに十年であったが、熊某に夫のために地を選ぶことを乞うた。熊は欺けると思い、他の地主と結託し、その言葉を甘くして誘い、その代金を重くして求めようとした。節婦はやむをえず、住宅を抵当に入れ、代金を払ったが、その地が本当に絶滅凶宅[49]であることを知らなかった。葬って一日で、夜に夢みたところ、神が事情を告げ、葬らないように戒め、さらに、熊は酷い心で理に背いたから、罪は逃れられないと言った。節婦はまだそう思わず、夜が明けると人をやって熊某を見させたが、すでに真夜中に死んでいた。
◎人の結婚を破綻させること
乾隆丁酉[50]科で龔懐青太史(大万)[51]、姚佃芝主事(梁)[52]は、ともに広西の郷試を監督した。第一問は「斯民也」の二句[53]であった。某房がある答案を見つけ、推薦しようとしたが、ふと夢みたところ、人が言った。「このものは他人の結婚を三度破綻させたので、推薦するのはよくない。」某は夢が拠りどころとするに足りないので、推薦した。主司[54]もたいへんその文を褒めたが、某は夜にまた夢みたところ、こう言った。「この答案は陳勾山[55]の旧文を剽窃したもので、陳勾山の稿中に現にその文がある。推薦して合格せねば、衣巾[56]はまだあるが、推薦して合格すれば、新しい規定によってかならず名を除かれよう[57]。おんみは大きい処分がないが、人を害することはない。」某は二つの夢を告げ、主司は、わたしたちが陳勾山の文字を評価したのは、眼力の優れていることを証明するに足りる。上位に置けば、磨堪[58]に遭う恐れがあるから、末尾に置けば、障りなかろうと思った。主司は結局合格させたが、部にいって磨堪したところ、官も夢みること前のごとくであったので、剽窃のかどで名を除かれた。そもそも合格しなければ名を除かれるはずがなく、合格しても夢に入らなければ名を除かれるにいたらなかったのだが、冥府の報いは、二度三度夢みるに至ってもやまなかったので、やはり余力を残さなかったといえる。
◎銭梅溪[59]が述べた悪報六件
銭梅溪は悪報を語ることを好んだが、いずれも最近のことであった。こう言ったことがあった。常熟の黄草塘[60]に須姓のものがおり、ウシを屠殺することを生業としていたが、一頭のウシを殺す時、かならずその舌を切って食べ、美味と思っていた。ある日、屠殺用の刀を門の上に置くと、突然二匹のネズミが争うのが聞こえたので、顔を挙げて見たところ、刀がまさにかれの口に落ち、舌を断たれて死んだ。さらに言った。魚行橋[61]に猟師がおり、鳥を撃つことは数えきれなかった、後に病を患い、医薬は効かず、床褥を転げまわった。ふと夢みたところ、神が告げた。「病が癒えるのを望むなら、藁で一体の人形を作り、おまえがふだん着けている衣冠を着せろ。中に生年月日を蔵し、木の上に掛け、鳥銃で撃てば、病はすぐに治せよう。」目ざめると、夢をその子に告げ、方法通りにそれを行うように命じた。ところが鳥銃が一発せられると、大声で笑って絶命した。さらに言った。わたしの近所に薛慶官という者がおり、ヒツジを屠殺することを生業とし、家はたいへん豊かであった。年は四十余で、突然病み、病が治った後、顔面がヒツジのようになった。三百両を持って安徽宗陽[62]にゆき、米を買い、江で死んだが、その屍は見つからなかったので、空の棺を帰葬した。一二ヶ月後、ある人が見ると、薛が一つの包みを背負い、一本の傘を巻き、後宅[63]から打鼓橋[64]にゆき、ひとり歩き、ひとり泣いていたが、そもそも幽鬼がまた家に帰って来たのであった。さらに言った。楓鎮[65]の沈二は、イヌ肉を食べることを好み、平生イヌを殺すことは数えきれなかった。乾隆丙子の年、重病となってたいへん篤く、昏迷の中、イヌたちが牀を巡り、争ってかれの体を咬むのを見たので、叫んで救いを求めた。臨終の時は、みずから牀の下に入り、両手を地に着け、イヌの吠え声を数声発して絶命した。さらに言った。婁東[66]に無頼の楊姓のものがおり、ニワトリを奪って食事としていたが、その術はたいへん秘密で、人々は知らなかった。その後、楊の背に突然ニワトリの羽一本が生えたので、人に頼んで抜かせようとしたが、痛くて堪えられず、みずからニワトリを盗んだ報いであると言った。さらに言った。湖州の南潯鎮[67]に貧家の妻の顧氏というものがおり、容貌はたいへん美しかった。おりしも県庁の下役の某が税を取り立てて彼女の家に来、その夫が遠出しているのを窺い、にわかに奥の間に入り、手を挙げて彼女の頚を摩った。顧はたいへん驚き、帰って部屋に入り、泣いてその小姑に言った。「この頚にたちまち男子の手を加えられ、どうして洗えましょう。」そして縊れ死んだ。その小姑も県庁の下役が誰か分からず、傍らで知るものはいなかった。二月後、某下役はたまたま舟に乗って南潯を通ったが、ふと見ると顧氏がその舟に乗ってきたので、下役はたちまち水夫に告げた。「わたしは以前、手で彼女の頚を摩ったに過ぎないのに、どうして死んだのだ。」そこで水に跳び込み、ちょうど来た船の引き綱がかれの頚に纏いつき、解けなくなり、すぐに血を流して死んだ。水夫はその言葉を伝え、小姑に聞かせたので、このことははじめて明らかになった。封翁もそれを奇とした。さらに言った。長洲に徐某というものがおり、裕福であったが吝嗇で、親戚友人が借金しようとしても、つねに拒んで会わなかった。その子は年が弱冠で、おおいに幹蠱[68]しようと思い、しばしば接待し、ひそかに救済したりもした。その父はたいへん怒り、不肖と思い、かれが客に会う時を待ち、杖を持って鞭うち、その交際を断とうとした。まもなく、その子は病み、医薬は施しがたくなったが、ある人がカワウソの肝で癒やせると言ったので、大金で一匹の小さなカワウソを買い、その肝を取った。服用しないうちに、カワウソの幽鬼が命を取りに来、言った。「わたしの子を殺し、おまえの子を癒やすとは、どうして天理に容れられよう。」その薬を奪って去った。徐某はあらゆる手段で祓ったが、結局効かず、その子は結局顛癇で死に、暮らし向きは落ちぶれた。
常熟の張塘楼に某甲がおり、田を耕すことを生業とし、暮らし向きは安定していた。隣家にいる雇い人は、たいへん美しい妻を娶っていたが、某甲はその妻を見ると、ひそかに思った。「あの女房を妾にできたら、死んでも恨みはない。」そこで雇い人を召して家に置き、かれが満腹した後を待ち、かれに重いものを負わせ、このようにすること一年あまりで、かれは病を得て死んだ。すぐにその妻を収め、願いが叶ったと思った。一二年後、八九月の間、雨がにわかに晴れ、稲禾が熟れた。某が田の畔を散歩していると、草叢で雇い人の棺が朽ちようとしているのが見えたので、ふと善念を生じ、この人はわたしのために死んだから、今年の晩冬にかならずこの棺を埋葬し、その幽魂を慰めようと思った。するとたちまち棺の中で音がし、にわかに一匹の蛇が出て来、かれの足を咬んだ。某甲はたいへん驚き、傷を負って走ったが、蛇はなおも足にいて蠢き、何度も除こうとしても去らなかった。某はひどく疲れ、以前の謀略を人々にみずから吐露し、村じゅうの老若はみな来て集まって見た。某甲は気絶してまた意識を取り戻すこと数回、突然その妾に言った。「わたしは腹が痒くて堪えられぬから、いそいで刀を持ってきてわたしの腹を割き、その中にいったいどんな物があるか見てくれ。」そしてその妾を抱いて死んだ。まもなく妾も死んだ。
◎猫を飼わないこと
わが福建の田舎の諺に「三代猫を養はずんば、一家に病なし」という言葉がある。聞けば福清[69]に葉叟というものがおり、台山相国[70]の子孫で、もともとネズミを憐れみ、猫を養わなかった。年が四十余の時、突然、春に噎の病を患い、冬になるとますます激しくなり、薄い粥も呑みこめなくなったので、かならず死ぬと思い、長い夜を寝ず、燈を燃やして枯坐していた。おりしも几の上に炒米半瓶があり、ネズミたちはひそかに食らおうとして口に入れられなかったが、にわかに一匹のネズミが一本の箸を銜え、瓶の中に立てると、口で箸を咬んだ。さらに一匹のネズミがその尾を銜えて引くと、瓶は倒れたので、ネズミたちはあらそって近づいて食べ、嘯き楽しんだ。葉叟はそれを見ると、思わず大声で笑い、赤い物を吐きだしたが、産まれたばかりの子供の拳のようであった。にわかに胸の前がすっきりするのを感じ、粥を食べることができるようになり、十日ですっかり治った。さらに四十余年して天寿を全うした。思うにこのことはたいへん小さいことだが、ぴったりの報いに逢ってないとはいえない[71]。
◎キツネが恩に報いること
江陰[72]の高柏林は、若くして無頼であり、容貌は美しく、広福寺[73]の傍らに住んでいた。ある日、僧たちが一匹のキツネを縛り、刃に掛けようとしていた。高が再三やめるように勧め、縛めを解くと、キツネはすでに逃げ去っていた。後に仏前で一生のことを尋ねると、吉笤[74]を得たので、心のなかでひそかに喜び、後日験を得れば、この寺を新たにしようと考えた。朝になると、某県令が高を召し、長随[75]にし、たいへん寵任し、「小高」と呼んだ。職務はもとより煩雑で、命令は絡繹としていた。ある日、欽差が通るので、小高を召し、千両を渡し、供応の準備をさせた。小高が駅にゆくと、先発隊がすでに来ていたので、あたふたと迎えたところ、突然金がなくなったので、たいへん憤り、水に跳びこんで死のうとしたが、まもなく一人の老人がかれを救い、言った。「おまえは大金持ちになる運命だ。ここはおまえの死ぬ場所ではない。」その時、供応の設備は一つも調っていなかったが、欽差はもともと清廉であったので、一見するとかえってたいへん喜び、よい官だと思い、そのしもべを召して談話し、かれが伶俐であるのを見ると、すぐに従者とした。その後、名声はますます大きくなり、関差[76]塩政は、すべて管理を任せた。十年足らずで、数十万両の資産を擁し、知府以下にはかれと蘭譜[77]を通じるものが多かった。役所に出入りすれば、招かれて上客となり、後に本当に広福寺を再建した。地方官は小高の意向を仰ぎ、かれのため民間に科派[78]さえしたので、人民は騒然とした。善事があるものは碑を撰して一篇を記し、郵便により、ただちに撫軍[79]に伝え、撫軍はこのことを察し、事実に基づいて奏聞し、欽案[80]となった。これより前、小高は老人の恩により死なないですんだことに感謝し、家に像を造り、毎朝かならず礼拝していた。ここに到って事件が発覚したので、泣いて像の前に跪き、救いを求めた。その晩、家で突然叫び声が聞こえた。翌朝、見ると塑像から汗が出、このようにすること三夜、たちまち事が軽く処理されたことを聞いた。ある人が言った。「この老人は某公がかれのために取り成すように頼みにいったが、小高は本当に知らなかったのだ。」後に老人がキツネであったことを知った。
◎キツネが仇に報いること
嘉慶乙丑[81]の間、陜西甘棠県に高中秋という者がいた。もともと無頼であったが、鬚髯が美しく、身長は八尺であった。以前、山に入って狩りしたところ、キツネ数十匹がいたので、すべて殺し、その皮を剥いで食べた。その年の十二月、突然、二人の娘が天から下りてきたが、美しさは抜群であり、みずから瓊宮侍者だと言い、中秋に言った。「上帝さまがわたしをあなたに侍させることとなりました。あなたは九五の尊[82]がございますから、ご自愛なさいますようにお願いします。」中秋はひそかに喜んだが、輔佐する人がいなかったので、同県の武生[83]王三槐および本営参将旗牌官[84]の高珠に告げた。王・高はいずれも狩りの仲間であったが、それを聞くといずれもたいへん喜び、王の娘を中秋の正宮にし、二人の娘を妃嬪にすることを約束した。二人の娘は、豆を撒いて兵とし、石を点じて金とする法術ができ、試すと本当にそうであったので、不軌をなすことを計画した。中秋には傭工の史満匱という者がおり、二高はかれを脅して将軍にしようとしたが、史は潔しとしなかった。ある日、二高が王とともに満匱の首を斬って旗を祭り、事を起こそうとしており、期日はまもなくであることを聞いた。満匱は夜に城内に入って太鼓を撃ち、県令はこのことを知ると、上官に急報し、満匱を案内役とし、全員を捕らえた。この時、方葆岩先生[85]は陜西巡撫をしており、このことを朝廷に述べたため、中秋らはみな凌遅となったが、二人の女だけは杳として姿がなかった。そもそもキツネが仇に報いたのであった。キツネもたいへん悪いものである。
◎又
淮南の王某は、素封家で、質屋を開き、隣家にまで広げていた[86]。見ると子ギツネが三匹いたので、家人がともに追い払ったが、王はどうしても殺して根絶やしにしようとし、その二匹を殺した。それから家で騒ぎが起こり、何もない日はなかった。嘉慶己亥[87]の冬、質屋は火で焼かれ、ひどく損害を受けた。そのため張真人[88]に訴え、牒[89]を賜わって帰って来た。数ヶ月静かであったが、また元通り騒いだ。王はその騒ぎに堪えられず、焼け残った質物である古本四万余両を程家に売ろうとした[90]。すると、程家ではたちまち空中から言葉が聞こえた。「わたしは王家と仇があるから、おまえは買わぬがよい。」その妻はたいへんはっきり聞いたので、成約しなかった。辛丑[91]の三月、質物を保管する楼でまた火災が起こり[92]、焼き尽くして余すところがなかった。
◎蛇の報い
呉県の農民某は、穹窿山[93]にいってお参りしたが、船頭が一匹の小さい蛇を打っているのを見たので、傍らで戯れて語った。「蛇は命を奪うことができ、打つものはしばしば不幸になる。」そう言うと、すぐに逃げ去り、救いもしなかった。その夜、夢みると一匹の蛇が人のように立って言った。「死にそうなものを見ながら救わないとは、なんとむごい心か。」尾でかれの腮を打って目ざめさせた。目ざめると歯が異常に痛み、たちまち黒い血数升を出した。医者を呼んで診させると、言った。「これは蛇の毒です。」治療すること半年ではじめて治ったが、家産は蕩然とした。そもそもこのことはなかなか小さいが、死にそうなものを見ながら救わない心を推し広げれば、あらゆる悪事をするから、かれが蛇の報いを得たのも当然であった。
◎スッポンを食べマルスッポンを食べること
常熟の葛友匡は、里中の富豪で、平生スッポンを食べることを好み、つねに数十頭を買い、甕の中で養い、不時の求めに備えていた。ある日、ひとり中堂に坐していると、甕の中で人が語った。「友匡よ、おまえはわたしの一族をすべて滅ぼそうとするのか。おまえは月内に死ぬのに気づかず、なおも多くの命を害しようとするのか。」友匡はたいへん怒った。「怪を見て怪しまなければ、その怪はおのずと滅ぶ[94]。」そこですべて料理しておおいに食べた。十日たらずで本当に死んだ。さらに呉門に富豪がおり、巨万の資産を擁し、その子某は珍味を食べることを好んでいた。ある日、客をもてなそうとし、巨きなマルスッポンを買った。料理人が殺そうとすると、マルスッポンが涙を垂らしていたので、某に申し、河に放つことを求めた。某は怒り、刀を持ってみずからその首を断ったが、首は地に落ちると、たちまち梁に跳ねあがったので、みな驚いた。そこで、料理して食べたところ、味はたいへんうまかったので、半分をその婚家に送り、半分で客をもてなした。某が数枚の切り肉を賞味すると、すぐに目が眩み、神が迷い、梁がすべてマルスッポンの首に見えた。扶けて寝室にゆけば、寝床にすべて満ちていた。某は数百のマルスッポンがきてかれの足を咬んでおり、痛みは忍べないとみずから言い、叫ぶこと三日で死んだ。
◎放生の詩
呉門の終生(存)は放生を喜び、一度放生するたびに、かならずささやかな詩で記録していた。大きな鯉魚を放ったために詩を作ったことがあったが、その末句は「もし龍に従ひて去らば、また施せ潤物[95]の功。」といい、会心の出来であった。後に郷試を受験したところ、詩題は「白雲空に向かひて尽く」であった。詩ができてから、結句の語意が良くないことに苦しんでいたところ、突然みずからが放生詩を作ったことを思いだした。末尾の二語を結びとしたところ、主司[96]は褒め、合格した。
◎ロバが債務を償うこと
蘭州の住民である張家では、一頭のロバを飼っていた。よく走り、一日に二百里ばかりであったが、よく見知らぬ人を蹴ったり咬んだりした。張父子三人が乗るときだけは、おとなしく御せられたが、他人は乗れなかった。たまたま医者で趙姓のものが、狄道人の招請に応じようとし、ひとまず借りてみた。すると帖然として懐いたので、乗っていった。帰ってから、夜に夢みたところ、黒衣の人が語った。「わたしは、張家のロバですが、前生であなたに三百銭をお借りしながらお返ししませんでしたので、今、償わねばなりません。昨日わたしに乗って狄道士のところへゆかれましたが[97]、往復わずか二百八十里で、まだ数を満たしておりませんので、はやくわたしを借り、さらに二十里乗られれば、わたしの仕事は終わりましょう。」「おまえは張家の銭をどれほど借りた。」と尋ねると、顔を顰めて言った。「多くて、お話しできません。」趙は目ざめると、珍しいことだと思い、本当にまた借り、よそへいった。その後、事情を忘れた。帰路はやや長かったが、突然躍りあがって趙を地に振り落とした。路程を計れば二十里を越えていた。趙はますます驚き、轡を執って祈った。「わたしは事情は分かっているが、今わたしの家から十里で、おまえに乗らねばどうして着けよう。帰ってから十銭で秣を買っておまえに食べさせるのは、どうか。」ロバは佇んでしばらく見ると、またおとなしく乗られた。後に趙はわざとロバを試そうとし、鞍に近づき、騎ろうとする動作をしたところ、すぐに鳴いたり咬んだりしてながく鳴いた。そもそも畜生に変わり、借りを返すことは、小説にたくさん見える。これは家大人が甘粛布政使の任期中に役所の書吏が口述した最近のことであり、真実を証明することができる。
◎カワウソが命を奪うこと
李春潭観察は癸巳年[98]三月に、糧船を護送し、懐寧県[99]に属する大長溝[100]に到った。下役の龔トが夜に夢みたところ、一人の老人、鬚と髪が皓然としているものが、明朝災難があり、どうか援助してくれ、後にお礼を図ろうと言った。目ざめたが、言っていたことが分からなかった。翌朝、隣の舟で騒ぎがあったので、いって見ると、一匹の大きいカワウソが首を延ばして舟に近づき、浮かんだり、沈んだりしていた。水夫が集まって見、にわかに捕らえられ、龔は夢を思いだして心が動き、銅銭五百を出して近づいて買った。人々はみな承諾したが、水夫の陳四だけは許さず、さらに言った。「一枚の皮だけでも数両の価値があるのだから、どうして五百文で買えよう。」龔が銭を添えようとすると、陳は鉄叉でカワウソの首を撃ったので、カワウソはすぐに死んだ。その皮を剥ぎ、裂いてその肉を食べた。後に肉を食べたものはみな病み、陳はもっとも激しく、意識が混濁した中でみずから言うには、わたしは長年修行し、たまたま厄難に遭い、人々はみな売ることを承諾していたのに、おまえだけが許さず、わたしを撃ってすぐに死なせたから、かならずおまえの命を取ろう。人々は祈ってやったが、承諾せず、病に臥すこと数日、叫んでやまずに亡くなった。于蓮亭[101]がいった。物はいたって賎しいが、みな命を惜しみ、浮屠氏の教えはもっとも殺生を戒めることを重んじ、蓮池大師[102]には放生池があり、杭州の人は今でも廃していない。まして水族の物でありながら、結局人の夢にあらわれられたのだから、それに霊威があることが分かる。龔は銭を出すことが多くなかったとはいえ、まだ善根があるようであったが、陳四がすぐにカワウソの命を奪ったのは、本当に残忍で、かれに報復してたがわなかったのは当然であった。以前聞いたが、某某がスッポンを好んでいた。ある晩、夢みたところ、黒衣の人が叩頭して命ごいし、その妻の夢も同じであった。翌朝、漁師が一匹の大きなスッポンを送ってきたので、某はたいへん喜んだが、妻は勧めた。「昨夜、黒衣の人を夢みましたが、これがそれでしょうか。放たれてはいかがでしょう。」某は承諾せず、料理してむさぼり食った。たちまち湯浴みしようと思ったが、しばらくしても音がしないので、妻がいって見れば、盆全体がすべて血の水で、骨肉も残っておらず、一本の辮髪を残すばかりであった。このこととちょうど照らし合わせることができる。
◎タウナギが命を奪うこと
貴州の黄兌眉[103]上舎[104]が言うには、貴筑[105]に某某がおり、生まれつきタウナギを好み、食事のたびにかならず出させ、年は六旬に近くなっていた。ある日、市に赴いてタウナギを買い、肥えて大きいものを選ぼうとしたところ、魚屋はかれにみずから取らせた。某が袖を捲り、腕をはだけ、手を入れて缸の底を摩ったところ、たちまちタウナギたちが湧き起こり、きそってその腕を咬んでほとんどあますところなく、ひどく痛かったので地に倒れた。タウナギたちは累々として腕に掛かり、歯はすべて肉に食い込んでいた。すぐにその子を呼んでき、担いで家に帰らせ、鋏でタウナギの身を断ったが、タウナギの首はかたく咬んで放さず、すべて叩き落としたところ、腕の肉はすべて剥がれ、長く叫んで絶命した。市場中の人が集まって見、みな驚き、そのために殺生を戒めるものがいた。
◎鱸香館
山西の省城の外に晋祠があり、その地は人煙が輻輳し、商人は雲集していた。その地に飲み屋があり、ロバの肉を料理すればもっとも美味であった。遠近の、評判を聞き、飲みに来るものたちは日々千・百を数え、扁額には「鱸香館」とあったが、そもそも「鱸」を借りて「驢」になったのであった。その方法は、草をロバ一頭に食べさせ、たいそう肥えさせ、先に酒で酔わせ、全身を打ち、その肉を切ろうとする時は、先に四本の杭を打ち、その足を縛り、巨木一本を横たえ、背を押さえ、その頭と尾を打ち、動かないようにさせ、煮えたぎった湯をその体に注ぎ、毛をすべてこそぎとり、さらに快刀でこまかくその肉を裂き、腿を食べたり、腹を食べたり、背を食べたり、頭と尾だったり、それぞれ客に任せるのであった。客が箸を下す時、その肉はまだ死んでいないのであった。この館はすでに十余年続いていた。乾隆辛丑年になり、長白の巴公延三[106]が山西の布政使となり、このことを聞き、地方官に命じて調査捕縛させ、はじめてこれを業とするものが十余人であることを知った。按察使の官署に送り、その事件を治め、謀財害命[107]の条例を引き、首魁を斬罪とし、ほかはすべて辺地へ充軍にし、石に刻み、ながく禁じた。聞くものは喜んだ。
◎金陵の不孝な妻
戊申[108]六月、わたしは温州知府の任により、公務で省に入り、廉訪[109]周石生先生(開麒)[110]に目通りし、近著『勧戒録』[111]を献呈した。廉訪は温厚和平でもっとも因果を語ることを好んでいたので、大いにわたしと意気投合した。一日後、お別れする時、閑談していると、廉訪は言った。「わたしの郷里で事件があり、たいへん確かで、わたしが目撃したことですから、お話ししましょう。」そして言うには、金陵城内の寡婦某姓は、老いて盲目で、一子一孫しかおらず、子は妻某氏を娶っていたが、異常に凶暴で、人はみな彼女が不孝であることを知っていた。孫も嫁を娶ったが、たいへん礼義を知っており、つねにその姑を正しくないと思っていたが、どうしようもなかった。その子と孫はしばしば小さな商売のため外出し、家には姑と嫁の三代三人がいるだけで、門番のしもべや厨房の下女はまったくいなかった。悍婦はもとよりその姑を虐待していたものであった。ある日、事情があって口論したが、妻はたいへん怨み、姑を暗いところに押し込めた。一時後、なんと切り殺された。妻は外部の人はもとより知らぬが、その孫の嫁は欺くことは難しいと思い、その嫁に告げた。「大事なことをおまえに告げよう。終生人に言ってはならない。言えばおまえによくないだろう。」嫁は顔つきが良くないのを見、おおよそのこともほぼ分かっており、もともと彼女の凶暴さを恐れていたので、承諾するしかなかった。そこで事情を告げ、嫁が黙って声を立てないでいると、翁が帰って来、尋ねたら、病に罹って亡くなったとだけ言えばよいと言い含めた。そのため一家の内外にはまったく知るものがいなかった。一か月後、悍婦はたちまち夢の中で捕らえられ、大殿にいったが、緑の瓦、高い甍、堂上の神像は厳かで、燈燭は閃閃とし、台下にp役は粛然として立っていた。「不孝の妻某氏を呼び入れよ」と言うのを聞くと、戦慄して跪いた。まもなくさらに呼ばれて後殿にいったが、神の厳しさは前殿と同じで、階の下で声を揃えて叫び、不孝の妻某氏が来たことを報せた。すると突然殿上の者が言った。「人がこちらでおまえを訴えているのだ。」妻は階の下に一人の老婆が跪いているのを見たが、彼女の姑であり、こう言った。「以前のことを記憶しているか。」答えないでいると、さらに殿上のものが言った。「ひそかにおまえの姑を切り殺したのは、おまえ一人でしたことか。」女はごまかせないと思い、答えた。「確かでございます。」殿上のものは言った。「どんな罪に当たるか存じているか。」そして案を打って怒鳴った。「これはたいへん大きな罪で、人の世では凌遅処死となり、冥界では地獄に落ち、五百年後にはじめて解脱できるのだ。人の世の罪は、別に沙汰がある。おまえがこの事件を、世上で一人でも多くの人に告げ知らせることができれば、地獄で一日の苦しみを免れよう。よく憶えておけ。」さらに告げた。「このことはおまえの夫は聞いていないが、夫の綱紀は振るわず、生前に制することができず、死後も暴くことができず、母が非業の死を遂げるのを招いたのだから、ともに斬罪にするべきだ。帰ってゆけばすぐに分かろう。」階の下でp役が声を揃えて怒鳴ったので、たいへん驚いて目ざめ、前の夢を絵のように逐一述べた。三日足らずで、妻はすぐに悪瘡が全身に出来、潰爛して頭頂から踵に到り、ほとんど完膚がなく、四昼夜叫んで死んだ。その夫も同じ月にすぐに断頭瘡[112]を患って亡くなった。
◎採生[113]事件の概略
某県に商人がおり、よく商売して富を致した。県に邪悪な郷紳がおり、借金しようとしたものの、応じなかった。高利を約束しても、応じなかった。その後、公務で出張したが、やはり応じなかった。郷紳は深く怨んだ。商人の下女の二歳の娘が夭折すると、郷紳はしもべを誘って県庁に訴えさせ、商人が妖術で採生したので死んだと言わせた。県庁が受理しないと、郷紳はさらに時を同じくして娘が夭死したものを探し、五六軒を見つけ、利によって買収し、みな娘が某商に妖術で殺されたと訴えさせたが、県庁はまったく受理しなかった。府庁に訴えさせ、郷紳がみずから知府に言うと、知府某は言った。「そのような妖術は、昔からそうした話はなく、昔からそうしたこともないから、今そうした案件は処理できない。」やはり受理しなかった。郷紳は娘が夭死した家に頼み、司および院に訴えさせたが[114]、ともに受理しなかった。郷紳はそこで手紙を書いて都の当路のものに寄せ、商人が採生の妖術ですでに多くの命を殺したと言った。当路のものが手紙をその省の中丞[115]に転送すると、中丞は事件が発生し、自分に累が及ぶことを恐れ、やむをえず商人を捕らえ、訊問した。事件が結審し、罪はすぐに決定したが、刑に臨む日になると、天候はそのために変わり、にわかに砂嵐[116]が起き、白昼なのに市場が暗くなり、塀・壁・板・柱は眺めるとすべて黄色になっていた。人が省みると面色はすっかり黄色になっていた。城内の人はみな嘆息した。「これは某商の怨念だ。」まもなくその県から来たものが言ったが、郷紳の子がにわかに瘋疾に罹り、大声で怨みを鳴らし、言うことはすべて某商の言葉であるということであった。郷紳が入り、病気を見舞うと、すぐに手で指し、叫び罵り、郷紳は近づけなかった。数日後に亡くなった。十日あまりして、郷紳も瘋疾を病んで亡くなった。中丞は聞いて恐れ、しもべ三四人にみずから守らせた。ある日、司道[117]と公務について相談し、話していると、たちまち声を荒らげて言った。「おまえを殺したものは某郷紳で、わたしでないのに、なぜわたしに尋ねる。」司道はかれの側近に言った。「大人はご病気だ。」すぐに助けて入り、医者を呼んだが、数日足らずでやはり亡くなった。商人が刑を受けた後、郷紳父子および中丞が死ぬまで、前後十日足らずであった。これは乾隆四十余年のことで、その土地と人物を明言するに忍びない。言い伝えでは、この事件が起こった後、すぐにある台諌[118]がこのことを弾劾し、各直省に通知したという。
◎呉探花
仁和[119]の呉築岩編修(福年)[120]が諸生であった時、道光乙未年四月初二日の朝、住んでいる缸児巷から水漾口の河原を通過したが、見ると老婆が水に跳びこんでいたので、いそいで輿夫二人を呼び、水中から掬い上げさせた。正気づかせて尋ねれば、嫁と不仲で、口論して命を軽んじたのであった。言葉で宥め、金を出し、輿を呼び、送り返させた。その年すぐに秋薦[121]を受け、乙巳[122]の進士となり、一甲第三名で翰苑[123]に入り、丙午[124]に貴州で主試[125]した。
◎許司馬
仁和の許君修(延敬)は、周生駕部(宗彦)の子であった。庠生から府同知としてわが福建で官員となっていた。道光十四年、邵武同知の事務を代行した。同知の官は閑職であったが、君は民に徳政を及ぼせたので、民はかれを徳とした。民間では争いを好み、人を殺したものは賂して免れられたが、許君だけは受け取らず、辞職するまで収賄しなかった。県は水災に苦しみ、一斗の米が数千銭になったが、県令楊某が亡くなると、民はみな許侯が有能かつ清廉だと言い、連名で上書し、上官に県庁の事務を代行させるように求めた。おりしも小屋掛けを設け、平糶[126]していたが、許君は厳しく規則を作り、下役が侵奪できないようにさせた。さらに貧乏で食べるすべがないことを慮り、城壁を修理し、工事を賑恤に代え、救済されたものはたいへん多かった。そのため疲労して病気になり、一月足らずで亡くなった。亡くなった日、士民は弔問し、みな大声で哭いた。邵武の郷紳張公冕が夢みると、一人の官吏が会いに来たが、儀従はたいへん盛んで、総督・巡撫のようであったので、いそいで出迎えた。見れば許君であった。張に言うには、すでに邵武県の城隍となり、三月八日に着任するとのことであった。同時に夢みたものは数人で、すべて張と同じであった。夫人[127]荘氏は家にいたが、同じ夢を見ており。迎えてともに任所に赴くとのことであった。夫人は夢の中で承諾しており、まもなく病を得て亡くなった。十五年六月、邵県は大旱魃で、例年は府の城隍廟で雨乞いしていたが、県令子安(銜遠)は許君が恩恵を施し、霊験があらたかなので、特別に県の廟にいって斎戒祈祷した。すると雨が沛然とし、穀物の苗はすべて生き返ったので、全県の官民は奔走して香を焚き、許君の誕生日に祭りを設け、劇を演じ、頂礼膜拝[128]するものは絶えなかった。許君が生死一貫して邵武の民に恩恵を施すことはこのようであった。その年の閏六月、県民の扶乩するものがさらに筆で示すには「すでに粤西桂林府の城隍に移った」とのことであった。その後、浙江の人呉小ッ(公謹)は粤西の鬱林州[129]刺史の任に赴き、省城にゆくと、尋ねるまでもなく、すでに許君が転任して夢に現れたことが喧伝されており、感応するさまは響くかのようであった。わたしは、許君の弟子双(延谷)広文がその家の夢の予兆や籤の言葉に言及するのを聞いたが、霊威の跡はまだ多く、まことにいわゆる「聡明正直にして壹」[130]なるものであった。許君の令息(善長)は廩膳生[131]で、能文であり、かれが啓発して子孫が栄えているに違いないことも知れる。
◎金陵の周氏
金陵の周石生廉訪は、先代はいずれも孝友[132]で、廉訪の高祖は忠信で善事を楽しみ、施して倦むことがなかった。兄弟はおよそ三人で、財を二人の弟に譲り、年末ごとに銀を数両から数十両包み、累累と袋に盛り、みずから持ち、びっこのロバに騎って外出し、窮迫して年越しすることができないものに遇うと、扉を叩いて授け、姓氏を告げずに去っていたことがあり、数十年間一日のようであった。家はだんだん衰え、さらに貧しくなった。その後、かれの祖父中翰公が誕生したが、幼くして聡明で、年が十二ですぐに学校に遊び、十六で廩生となり、まもなく抜萃科[133]に合格した。乾隆三十年、かたじけなくも南巡に際会し、召試[134]で中書を授かり、枢庭[135]に宿直した。中翰公には二子がおり、長男は甲寅の孝廉で官位は県令であった。次男は廉訪の封翁で、年は二十で己酉の抜萃科に合格したが、体が弱かったために早世した。その時、廉訪はわずか五歳であったが、太夫人は貞節を守り、孤児を育て、舅氏の家に頼って師を招き、勉強を教えさせ、教育して成人させた。道光癸未、第三名の進士となり[136]、詞館[137]に入った。科道[138]を経、地方に出、監司[139]となり、按察使に選ばれた。役人ぶりは慈祥[140]仁恕[141]で、さらにその子孫をよくするすべがあるのは当然である。論じるものはみな先祖の厚徳の賜物、母堂の苦節の果報であると思った。聞けば、県令公が廉訪にこう語ったことがあるそうである。「わたしは生きては曽祖父に会うに及ばず、幼くして祖母に寵愛され、連れて起臥をともにした。ある日、夜に寝てたまたま目ざめ、瞥見すると榻の前で一人の老人が案に寄って立っていた。目には光があり、奕奕[142]とし、二竿の竹のようで、目に従って動いていた[143]。愕然として祖母に尋ねた。『あちらに立っているのはどなたでしょうか。』祖母は叱った。『深夜に子供が寝言を言うな。』そこで言おうとしなかった。その人の面目鬚眉ははっきりとまだ目にあった。後に年越しする時、先代の像を掛けて祭ったが、曽祖の真容[144]を見ると、以前見たもののようであった。よく考えると、以前夜に見た老人であった。その時、双眸の光は炯炯として遠くを射ていたが、歿して神になったのではあるまいか。」
最終更新日:2018年2月22日
[4]http://baike.baidu.com/view/7414610.htmhttp://ctext.org/searchbooks.pl?if=gb&searchu=%E6%A6%95%E9%99%B0%E6%96%B0%E6%AA%A2
[5]http://www.zdic.net/c/1/143/314147.htm子孫が顕貴であることにより封典を受けた人。
[6]http://www.zdic.net/c/7/14c/329096.htm一心に、うやうやしく傾聴すること。
[7]未詳だが、風水の用語でよい墓なのであろう。
[9]未詳だが、風水の用語でよくない墓なのであろう。
[10]未詳だが、風水の用語でよい墓なのであろう。
[15]http://www.zdic.net/c/9/9f/182273.htm亭名。揚州城北門外にある。歌吹亭ともいう。
[16] 原文「西歌吹之外,局面又一新矣。」。「局面又一新矣」が未詳。とりあえず、こう訳す。
[19]揚州。
[20]http://baike.baidu.com/view/1884870.htm清節堂は浙江一带で、もっぱら年少の婦人が節を守るために供せられた社会組織。
[22]http://www.zdic.net/c/7/7f/135201.htm犯人を枷に掛け、罪状を人々に示すこと。
[23]http://www.zdic.net/c/7/91/160885.htm未詳だが、文疏に同じいであろう。天に告げる文。
[27]http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE7ZdicB3ZdicA0315421.htm脱穀あるいは加工の過程で種子から分離される皮あるいは殻
[30] 地名かと思われるが未詳
[31]http://www.zdic.net/c/f/91/161549.htm高祖を同じくする従兄弟の子。
[34]未詳だが、性病に起因する出来物であろう。
[35]「売春した」ということ。http://www.zdic.net/c/a/e/20266.htm
[36]これは、母娘が夫の稼いだ大金で男を買ったことを述べているのであろう。
[39]http://www.zdic.net/c/9/143/313978.htm官員の昇進転任の制度。
[40]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CCcQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2F4%2F87%2F147728.htm&ei=EnpOU4b1OZW58gW8lIJ4&usg=AFQjCNFZY-9W1Tb5xC3_NvPgfd6X2DVn0Q&bvm=bv.64764171,d.dGI家産を捜査没収すること。
[41]http://www.zdic.net/c/e/25/58655.htm半身不随。精神異常。癩病。いずれかは未詳。
[42]未詳。
[48]未詳だが、風水の用語でよい墓であろう。
[49]http://www.zdic.net/c/6/10/25201.htm幽霊が出るあるいは常に凶事の発生する家屋
[53]http://ctext.org/confucianism/zh?searchu=%E6%96%AF%E6%B0%91%E4%B9%9F%EF%BC%8C%E4%B8%89%E4%BB%A3%E4%B9%8B%E6%89%80%E4%BB%A5%E7%9B%B4%E9%81%93%E8%80%8C%E8%A1%8C%E4%B9%9F%E3%80%82
[56]http://www.zdic.net/c/3/d2/200244.htm青襟の衣と方巾。明清の秀才の服。秀才の資格と待遇。
[57]原文「據新例必除名。」。「新例」が未詳。とりあえずこう訳す。
[58]http://www.zdic.net/c/8/9a/177780.htm郷、会試の答案を、翰林院の儒臣等を派遣して審査させること。
[62]地名かと思われるが未詳。
[63]未詳だが、家の奥であろうか。
[68]http://www.zdic.net/c/2/30/73243.htm父の蠱を幹すhttp://www.zdic.net/c/2/30/73225.htm父親が尽くしていない事業を完成すること。
[71]鼠が米を盗むのを黙認した果報として、痞がとれ、ものを食べられるようになったことをいう。
[74]未詳だが、何かの占形であろう。
[77]http://www.zdic.net/c/0/152/338927.htm兄弟の結義をする時に交換した帖子。
[78]http://www.zdic.net/c/1/a1/187118.htm力役、賦税を割り当てたり金銭を要求すること。
[80]http://www.zdic.net/c/6/8d/158222.htm勅旨を奉じて処理する案件。
[86]原文「擴鄰屋」。未詳。とりあえずこう訳す。
[88]http://baike.baidu.com/view/3189754.htm。こちらによれば、嘉慶年間の「張真人」は張ト。
[89]http://www.zdic.net/z/1e/js/7252.htm未詳だが、指示書の類であろう
[90]原文「將燼餘當包陳本四萬餘金賣與程姓」。「當包陳本」が未詳。とりあえずこう訳す。
[92]原文「包樓複起火」。「包樓」が未詳。とりあえずこう訳す。
[97]原文「昨乘我至狄道界」。「狄道界」が未詳。とりあえずこう訳す。
[100]未詳。
[107]http://www.zdic.net/c/b/f6/257866.htm財物を取るために人の生命を害すること。『大清律例』
[113]http://www.zdic.net/c/7/15/31106.htm生きた人を捕殺して神を祭ること。
[114]原文「紳囑夭女之家控司及院」。「司」は布政司・按察司、「院」は塩院などであろう。
[117]http://www.zwbk.org/zh-tw/Lemma_Show/164560.aspx「司」は布政使司と按察使司。「道」は道員。
[121]http://www.zdic.net/c/b/a2/189829.htm秋貢http://www.zdic.net/c/b/a2/189792.htmここでは郷試に合格することであろう。
[125]http://www.zdic.net/c/b/4/8820.htm試験を主持すること。
[126]http://www.zdic.net/c/3/14/30913.htm官府が荒年で食糧不足の時、倉庫に貯蔵してある糧食を平価で売り出すこと。
[127]これは許の夫人であろう。
[130]http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E8%81%B0%E6%98%8E%E6%AD%A3%E7%9B%B4%E8%80%8C%E5%A3%B9
[132]http://www.zdic.net/c/d/db/215163.htm父母に事えて孝順、兄弟に対して友愛であること。
[133]http://www.zdic.net/c/4/3/6623.htm。抜貢になったということ。抜貢は選抜せられ国子監に貢入せられた生員。
[136]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E9%81%93%E5%85%89%E4%B8%89%E5%B9%B4%E7%99%B8%E6%9C%AA%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C
[138]http://www.zdic.net/c/1/a1/187125.htm科道官。http://www.zdic.net/c/1/92/163123.htm六科給事中・都察院・各道監察御史の総称。
[139]http://www.zdic.net/c/1/99/174171.htm転運使、按察使、布政使等の通称。
[142]http://www.zdic.net/c/5/38/88652.htm光明のさま、亮光閃動のさま。
[143]原文「目有光奕奕、如兩竿竹、隨目而運。」。未詳だが、おそらく目から光線が竹のさおのように出ていて、目の動きに従って動くのであろう。