●巻三

 

◎李鳳岡知府

 

わたしの郷里の李鳳岡知府(威)は、文学・政治の才は中外[1]がみな尊んでいる。聞けばかれが刑部の司員[2]をしていた時、某大官が都を出て事件を審理するのに従い、夜、宿屋に泊まっていたところ、一人の婦人が出てきて寝台に入った。李は人でないことは分かっていたが、彼女が美しいのを気に入り、枕席をともにした。下役が帰り、またこの店に泊まると、その婦人はまた出てきたので、衣を脱いで寝ようとしていたところ、たちまち李の太夫人[3]が杖を持って来、女を痛打し、言った。「妖狐め、うちの息子を惑わすな。」すると女は逃れ去った。李は思わず悲しんで泣くと、太夫人もすぐに見えなくなった。そもそも太夫人は歿して年を経ていたのであった。李は精神が堅強であったが、今回さらに惑わされれば、命の憂えがあるのを免れないので、太夫人ははるばる救いにきたのであった。そもそも先生はもともと八法[4]に巧みで、真・草・隸・篆いずれも絶妙で、乾隆戊戌[5]に、閣中書から会試に合格し[6]、廷試の答案はすでに鼎甲[7]の選に入ろうとしていたが、引見せられると、詞館[8]の選に入ることができなかった[9]。後に刑部郎から地方に出、広州の知事となり、蒋礪堂[10]督部[11]に重んぜられ、つよく朝廷に推薦せられたが、先生はすでに病と称して去っており、引き留めても、叶わなかった。京師に十余年おり、また灑然[12]と帰郷し、龍溪[13]の山長[14]となってその身を終えた。道光庚寅にかさねて鹿鳴の宴をするはずであったが[15]、省城から遠かったので、祝宴に赴かず、九十になろうとしていた。家大人は先生とともに京師で官員となり、後進であったので忘年の契りを結び、かつて聞いた往事について先生に質したところ、先生は泫然として言った。「事は本当にありましたが、わたしはそれから人が一挙一動するときは、いずれも鬼神・祖宗がその上にいるかのよう、その左右にいるかのようであることをはじめて知りました。これは本当に母が助けてくれたものであり、忘れるわけにはゆきません。」そもそもわが福建先輩で中外を歴任し、品行学業がともに優れ、進退の泰然として身名ともに安らかであったものとしては、先生が第一である。

 

◎悪龍が雨を降らせること

 

熊鉛山先生[16]が家大人に言った。法務を司るものは明敏であることを貴び、もっとも果断を貴ぶが、明敏であって然る後果断にすることができ、それらを兼ねているのはわたしの友人金蘭畦[17]先生だけであった。言い伝えでは、先生は部曹[18]で官であった時、ある同僚が夢みてとある場所にいったが、燈燭は輝き、侍衛が厳かに列なり、正面に坐するものは金、側面に坐するものは二人で面識はなかった。門の外では大勢が怨みを鳴らす声がしていたが、まもなく一匹の龍を擁して階の前に来、訴えた。「悪龍が雨を降らせ、住民を沈めさせることは数えきれませんので、お裁きを求めます。」さらに一人の下役が走って進んだ。「天条[19]によって、斬罪にするべきでございます。」金が許可せずにいると、側面に坐するものが言った。「それなら慣例に従いましょうか。」金は(つくえ)を打ち、下役を叱った。「雨を降らせたのは、公務で沈めているもので、過ちは無心に出たものだから、法では流罪にするべきだ。」下役が慣例に従って争うと、金は怒った。「おまえたちは法を曲げたから斬罪にするべきだ。」すぐに龍を許すように命じると、龍はたちまち天に躍り上がっていった。怨みを鳴らすものは群がって金を罵り、金は(つくえ)を推して起き、目ざめた。後に同僚は、その夢のことでそれとなく金を諌めたが、金は笑うばかりで従わなかった。一年後、金は公務で江を渡っていたとき、にわかに暴風に遭い、舟が覆ろうとしたが、にわかに一匹の金龍がその船尾を支え、浪はにわかに穏やかとなり、すぐに対岸に達した。

 

顧宦

 

乾隆年間、門に顧某というものがおり、南雅先生[20]の遠戚であった。河南の商邱で官となったことがあったが、県に富豪の寡婦がおり、親族は彼女の財産を狙い、姦通していると偽り、腹の中に子がいるとも言った。前の県官は賄賂を得、それに従って事件を判決しようとした。寡婦は上訴したので、顧某に事の審理が委ねられたが、名誉回復することはできなかったし、さらに賄賂を得て前の官を弁護した。寡婦はみずから怨みを晴らせないことを知ると、なんと出廷する時、懐にしていた匕首を取り、みずからその腹を裂き、すぐに死んだ。顧某はそのために免職となり、帰郷して数年、じっとしているばかりであった。斉門[21]の外に楊姓の者がおり、蘭陽[22]で商売し、ある村を通り掛かったが、まさに寡婦の旧宅であった。その宅はすでに他家に売られ、飯店を開き、店の裏に大きい楼三間があったが、もともと幽鬼がいたので、人は住もうとしていなかった。その日、日が暮れ、楊が投宿しようと焦っていると、主人は言った。「今夜は客が多いですが、大きい楼にはさらに幽鬼がいますから、泊まられてはなりません。」楊はみずから大胆であることを恃んでいたので、投宿した。二更前、本当に一人の女の幽鬼が歩いて来、「お客さまは蘇州の方でございましょうか。」と尋ねた。[23]「怨みがあって報いようとしております。あなたに禍いたすものではございません。」楊は言った。「わたしは役人でないから、おまえの怨みを晴らせない。」幽鬼は言った。「わたしを連れてゆくことがおできになれば、かならずご恩に報いましょう。」楊は言った。「その通りにしよう。どのようにすれば連れてゆくことができるのだ。どうか教えてくれ。」幽鬼は言った。「ご出発される時、賢妹[24]と一声呼び、途中で通る橋や過ぎる船があれば、小声でわたしをお呼びください。蘇州に着きましたら、傘一本をお持ちください。わたしは中に隠れ、顧某の家にゆきますから、その門の中に抛たれれば十分でございます。」幽鬼はさらに言った。「わたしが久しくこの楼を離れませんのは、千両の価値のある金珠一篋が××に蔵せられているからでございます。今すぐにそれであなたにお礼できます。」そう言うと去り、寂然とした。夜明けになり、楊がその言葉の通りに探したところ、本当に一つの篋を見つけた。そこで呉に帰ったところ、顧某はその日ちょうど劇を演じ、客を招いていた。楊は人込みの中から傘を持って門に入ったが、人々は気付かなかった。顧は客と酒宴して歓笑していたが、ふと見ると、一人の娘の幽鬼が手に匕首を持ち、鮮血淋漓として堂下に立っていたので、顧は大声で「(かたき)が来た。」と叫んだ。客たちが驚くと、見えなくなった。その夜、顧はみずからこの事件の顛末を一枚の紙に記し、壁に貼り、みずから縊れて死んだ。だから蘇州の人は今でもみなこのことを語れ、南雅先生も家大人に述べたのであった。

 

沈曲

 

山陰の沈曲園は河南に遊幕し、光州[25]の陳刺史に招かれ、たいへん信任せられていた。光州に老貢生某がおり、一人息子は遠方に旅し、数年帰らなかった。嫁は若く、容色が美しく、一人の娘を育てていたが、わずか五歳で、翁と嫁は寄り添い、糸を紡いで暮らしていた。息子は家を出た時、隣人某に銭幾ばくかを借りていたが、ながいこと償還していなかった。隣人某はかれの嫁が美しいのを覗き見ると、一枚の偽りの証文を書き、妻が抵当になっていると言った。訴状で役所に頼み、州の吏目[26]朱景軾[27]が渡りをつけ、贈賂し、州に訴え、曲園は嫁を隣家に嫁がせるように判決させた。某貢生が従わないと、学校に送り、訓戒させ、鞭で辱めさせたので、某貢生はたいへん憤り、自経した。その嫁は翁が怨みを含んで死んだことを悲しみ、かならず免れないことを悟り、先に幼い娘を絞め殺し、やはり自経した。一年後、陳刺史は開封の知府に選ばれて去ったので、朱景軾は州の事務を代行し、曲園も別に杞県の周公の幕下に入り、さらに朱景軾のために奔走し、杞県の県尉[28]戴師雄に病と称するように強制し、景軾をその空席に補任した。乾隆丙午正月七日、曲園が見ると、夜に頂戴[29]をしたものが一人の若い娘と幼い女を連れてかれの牀に登り、咳をさせたが、すぐに薄紅の痰を吐いた。それから、三人の幽鬼は昼夜纏い付いて騒ぎ、全身を掴み、青紫色にし、あるいはひとり坐する時は喃喃として自問自答した。その時、事情を知るものはいたが言おうとしなかった。十四日の昏になり、曲園の大小二人のしもべが粥を持って入り、瞥見すると、窓の下に一人の巨人が立っており、体は軒の上に出ており、大きな手で大きいしもべを打った、小さいしもべもそれを見、同時に驚いて倒れ、口から白い涎を吐き、人事不省となった。ものを飲ませて救うとはじめて目ざめたが、打たれたしもべは、顔が黒い鍋煤のようになったので、みな驚いた。十五日、役所で劇を演じていたところ、曲園は寝室で、大声で一声叫んで絶命したが、その屍は椅子の上に横ざまに伏しており、口は開き、鼻は捲れ、鬚はすべて直立し、両目は鈴のようになっていたので、見るものはみな後退りした。朱景軾は棺を買って納めてやり、西門の観音堂に預けた。一年足らずで、景軾は二子一妻がともに死に、さらに風癱[30]で官を去り、杞県尉にはふたたび戴師雄を補任した。

 

君美

 

門に君美という者がおり、胥吏や捕り手と交わりを結ぶことを好み、あらゆる悪さをし、かれに殺害されたものは数えきれなかった。ある日、突然発狂し、裸体で刀を持ち、門の外の人混みの中に出ると、みずからの肌や肉を裂き、つねにある場所を裂き、これは××の事件の報いだとみずから語った。その陰部を切り、言った。「これは他人の妻女に淫した報いだ。」その舌を裂き、言った。「これは人の閨閫[31]を誣いた報いだ。」人は尋ねた。「舌を切り去ったのに、どうしてまだ話せるのか。」黄は言った。「幽鬼がわたしに代わって語っているのだ。」さらに言った。「今は剥皮[32]についた。」亭の上にある一聯を指していった。「冤孽[33]而今[34]かさねて対対たり[35]、人心ここに到ればふたたび惺惺たり[36]。」このようにすること一二日、さらに刀でみずからの腹を裂き、(しん)達して死んだ

 

さらに、門に土豪の某というものがおり、権勢を濫用していたので、人人は悲しんだり怨んだりしたがどうしようもなかった。ある日、某が山に遊ぶと、一人の娘を見たが、異常に美しかったので、門下の客と奪うことを計画した。尋ねると鎮の××家だと知り、姻戚であったので、がっかりして帰った。後にまた思い、寝食を忘れるに到った。門客は献策し、すぐに招くことができると言ったので、某は喜び、そのわけを尋ねると、客は耳打ちして去った。数日後、鎮の××家は夜に大盗に遭い、火を明るくし、武器を執り、面具を戴き、その娘を縛って淫し、財物は一つも取らなかった。人々は怪しみ、ひそかにその後を尾けるものがいた。見ると盗人はすべて船を下りたが、その面具を去ると、土豪であった。そこでお上に訴え、捕らえ、尋ねたところ、事実が分かったので、すぐに斬罪の判決を受けた。門客も法に服したので、みな喜んだ。これらはすべて乾隆年間のことであった。

 

◎左富翁

 

丹徒の富豪に左姓のものがおり、その友とともに蘇州へゆき、妾を買おうとしたが、一人の娘がたいへん美しかったので、尋ねたところ、かれの父が某営の守備[37]で、事情があって謫戍[38]となったため、娘は身を売って父の罪を贖うことを願い、千両の代金を求めているということであった。契約書を作ろうとすると、その友が左に言った。「うわべは美しいが、その肌がどのようであるか、暗病(しものやまい)瑕疵(きず)があるかは分からないから、はっきり見てはじめて取り引きすることができよう。」左もそう思い、媒妁に諮ったところ、娘は泣いて言った。「わたしは父のために死さえ顧みないのですから、どうして人に見られることを悲しみましょうか。」そこで密室の中で衣と裙を脱ぎ、左を呼んで入らせた。その友も窓を隔ててこっそり見たが、腰の下に黒い疵一片があったので、友は左に言った。「これは完璧でない。」話はにわかにおじゃんとなった。女は大声で泣いて言った。「わたしは父の罪のためにみずから売ることになりましたが、ここまで辱められたからには、これ以上人として生きることができましょうか。」そして自経して死んだ。一年足らずで、その友はこの女が命を奪いに来るのを見、やはり自経して死んだ。左は後に一子を得たが、美しい姿ではあったものの潔癖であった。ひどく書画珠玉骨董の類を好み、すこし瑕があるだけでも、すぐに棄てること土苴(ごみ)のごとくであった。庭園を造ったことがあったが、職人はみな新しい衣に換えてから、入ることができるのであった。楼台亭は、一点でも塵に汚れれば、かならず改めて造らせるのであった。着物と履物は一日に一度換え、それが体を汚すことを恐れ、毎日の食事はすこしでも清潔でないことがあれば、終日食べなかった。そのため家は破産した。今、丹徒の人でこのことを述べられない人はいない。

 

◎陳生

 

呉中に陳生というものがおり、婁門[39]におり、若くして聡明で、能文であった。年は十七で、その父は遠地で役人をしていたので、外祖父に頼っていた。師を招き、勉強を教えさせ、師もたいへんかれを重んじていた。ある日、朝起きると、泣いてその師に言った。「昨夜夢みましたら、死んだ母がわたしに告げました。『おまえは三世前の罪状が露顕し、明日、冥土の長官に取り調べられる。鉄鎖の音を聞いたらすぐに去り、家人に頼んで泣かないようにさせ、屍を移させさえしなければ、まだ人の世に帰れようが、そうしなければ、戻れない。』」師はそれを聞くと、叱った。「ただの寝言だ。」翌日、日暮れになろうとする頃、生は鉄鎖の音が聞こえるとみずから言ったが、師には聞こえなかった。まもなく、生は死んでしまったので、家中はみな驚き、師もたいへん驚き、夢のことを述べ、哭かないように頼んだ。一時ばかりを閲して、はじめて蘇った。生がみずから言うには、昏倒した時、三人の役人に捕らえられ、胥門[40]の外に出たところ、一つの広間を見、引き込んで階下に跪かせ、一人の娘の幽鬼と質疑弁論したところ、三世前は諸生であったが、ある同学の妻があらたに寡婦となったので、彼女と姦淫し、その財物を騙し取り、妻が憤って死んだことを知った。彼女は冥土の長官に訴え、かれの学籍を削らせ[41]、転生して乞食とならせた。かれの隣家にいた某挙人は、つねにかれを救済したので、凶悪な乞食たちも挙人に金を求めたが、失敗したため、誘い合わせてその家に放火し、掠奪しようとした。生はおもてむきは承諾し、ひそかにそのことを挙人に漏らした。期日になり、乞食たちは騒然として来ると、挙人の家はすでに防備していたので、全員を捕縛し、火に投じたが、生もその中に入っていた。冥冥のうちにすでに前世の罪を償ったと思った。冥土の長官は、生に報恩の善念があったため、すぐに挙人が不当に殺したことを理由に、かれの禄籍を奪い、生に与え、今生で合格でき、官位は五品になるように判決した。しかし前世で密通した婦人は承服せず、しばしば東岳神[42]に訴えてやまなかった。東岳神は判決した。「ひとまずかれの今生を観察し、ふたたび罪を犯せば、取り調べ、あらためて咎めればよい[43]。」近頃たまたま悪念を兆したために、捕らえられ、生は婦人にむかってつとめて是と非を弁じ[44]、さらに婦人が先に走って来、婦人が執拗に姦通に誘ったのだとした。双方は争い、決着することができなかったので、冥土の長官は怒り、幽鬼が孽鏡[45]を持って来て婦人を映すように命じたところ、淫奔のありさまが映し出された婦人は弁解の言葉がなく、冥土の長官は婦人にイヌの胎児になるように判決し、生は乞食になることを免れたが役人になることは許されなかった。すると号泣して傍らに跪き、お願いするものがいたが、それは生の亡母であった。冥土の長官は言った。「おまえの子は学籍を削り、字を知ることを許さないようにしよう。」いそいで幽鬼に命じ、湯を持って来させ、生の口に注ごうとした。その母はさらに泣き、その半ばを傾けたので、三たび飲んだだけであったが、口がたいへん腥くなり、腸は裂けそうになった。そして釈放されたが、幽鬼たちは争って賄賂を求めに来たので、その母はさらにつとめて防いでやった。別れに臨み、母は再三言い含めた。「人の世に帰り[46]、すぐに善事を三百行えば、まだ学校で勉強することができる。」押して目ざめ、病むこと一月あまりで、はじめて平復した。その後、生はつとめて善事を行い、数年足らずで本当に学校に入り、その師王君寿祺[47]がこのことをくわしく人に告げた。

 

潘生

 

周竹庵観察(縉)がわたしに語った。「数年前、幕客に県の秀才潘某というものがおり、わたしのために書記を司り、写字・作文いずれも巧みであった。さらにもともと挙子の業に優れ、筆耕で口を糊していたものの、甲乙科[48]は得るのは確実のようであった。後に別れて数年、たまたまほかの場所で会ったが、容貌は枯槁で、志気は衰えまったく従前の聡明さには及ばなかった。聞けばかれは最近精神病を得、発病するたびに元気がなくなり、酔っているかのよう、呆けているかのようになるそうであった。壁に書画の軸や聯などがあると、かならず火で焼いたため、家人はたいへん厳重に防備したが、潘生は自覚がないのであった。その後、大小の試験になると、事を終えないで退出した。困窮してその一生を終えることであろう。わたしはたいへん怪しみ、後にかれの親しいもののところからかれが病気になったわけを知った。潘生は前年に某の幕客となり、主客はたいへん親しかった。某主人の子は放埓で節度がなく、その家名を破綻させようとする勢いであったので、某は子をたいへん怨み、潘生に言った。「人はみな死がありますが、このような倅がはやく死ぬことができれば、まさにわが家の幸福でございましょう。」潘生は何気なく答えた。「君主が臣下の死ぬことを望むのでしたら、臣下は死なないわけにはゆきません。父が子の死ぬことを望むのでしたら、さらに容易いことでございます。」主人は心がにわかに動き、その夜のうちにその子を酔わせ、絞め殺した。翌朝、潘生はそれを知り、たいへん失言を悔いた。それからにわかに常軌を逸し、口は喃喃[49]として見ているものがあるかのようにしたが、それが某知事の子の祟りであることは疑いなかった。わたしはそれを聞いて慨然として言った。『人の父がその子を殺そうとするのは、人倫の大異変だが、はじめはまだ我慢して行わなかった。知り合いに述べれば、知り合いはつよく宥め、挽回を願うべきなのに、どうして片言でこのことを激成したのか。古人は『わたしは伯仁を殺さなかったが、伯仁はわたしによって死んだ』と言った。潘生が病気で廃人になったのは当然である。」

 

◎丁生

 

天津に丁生というものがおり、家は貧しく勉強し、婚約はしていたものの、結婚はしていなかった。妻の実家はたいへん裕福であり、婿が貧乏なのを見ると、後悔の念を抱いた。そこで人をやり、丁家に迎えて来させ、豪勢な食事でもてなした。丁はもともと酒豪で、酒を見ると辞さず、思わず酔った。義父某は語った。「わたしの娘は残疾があり、箕帚[50]を奉ずるに足りませんので、千両を篝火の資金になさることを願います[51]。あなたは名を成されました後、ほかによい人を娶ることができましょう。」すぐに去り状を書くことを求めた。丁は生来気丈で、酔ってもいたので、気前よく言った。「妻を売ることはわたしはしません。千両でどうしてわたしの心を動かすに足りましょう。人は妻子がないことを憂えません。あなたが願わないのでしたら、すぐに去り状を作ることを求めましょう。」義父某がたいへん喜び、紙と筆を呈すると、丁は酔いに乗じ、筆を一揮いして外に出た。道で同窓の某に会い、家に迎えたが、かれがどこへいったかを尋ねたので、事情を告げた。某はたいへん不満であったが、丁は夷然[52]として構わなかった。某は家がもともと豊かであったので、媒酌に縁談を持ちかけにゆかせた。かれの義父某は家柄相当と思い、すぐに承諾し、某は期日を定め、娶ったが、その数日前に丁に告げた。「あなたが棄てた奥さんをわたしはすでに娶りました。わたしはあなたと交際がもっとも親密で、わたしを祝わないのはよくありません。」丁はもともと曠達[53]であったので、「わたしはすでに離婚し、見ず知らずの人と同じだから、障りない。」と言った。合[54]の期日になると、丁は祝いにゆき、某は丁を迎えて新妻に会わせたが、顔色はたいへん麗しかった。丁はたいへん心が動いたが、すでにどうしようもなかった。そこで席に入り、痛飲した。某もまた客たちに殷勤に酒を勧め、泥酔し、昏睡して人事不省となるに到った。某は人に命じて丁を送らせ、新らしい床に臥させ、外からその門に鍵を掛けた。丁は五更になってはじめて目ざめたが、見るとすでに洞房に臥しており、新妻が装いを凝らし、坐して待っていた。たいへん驚き、いそいで門を開けようとしたが、門はすでに閉ざされていたので、大声で叫んだ。某は鍵を開けて入り、丁に言った。「あなたはすでに新妻と結婚し、連れ帰ることができます。」丁がつとめて天の日に誓うと、某は言った。「これはわたしの意思で、あなたの義父が文句を言いましたら、わたしはかれと訴訟しましょう。」その時、新妻も元の夫であることを知り、丁とともに帰った。某が人に頼み、その義父某の家に告知しにゆかせたところ、義父某はたいへん恥じ、よそに言おうとしなかった後に丁は某とともに孝廉に挙げられた。人の婚姻を叶えてやった功績はたいへん大きく、この挙はもっとも豪傑らしい振る舞いであり、天が善人に報いたのは当然であった。その姓名が伝わっていないのは惜しいことである。

 

◎義犬

 

過竹溪訓導(夢サ)が言うには、つねに蜀中に遊幕していた時、聞いたのだが、納溪県に兄弟二人がおり、家は素封で、兄は歿して子がなく、嫂には遺腹がおり、弟はかれが子を生み、財産を分けることを恐れ、産婆に、産む時に女であればそのままにし、男であれば殺すようにとひそかに頼んだ。産むと、男で、地に落ちても泣かなかったので、嫗はすでに死んでいますと偽った。妻は気づかず、裏庭に埋めた。一か月後、妻が実家に着こうとしたところ、たちまち一匹の牝イヌが某の裾を銜えて放さず、追い払っても去らなかったので、妻は驚き、イヌについていった。イヌは倉の板の下にゆき、一人の子を銜えて出し、ふたたび生かし、婦はすぐに自分の子かと疑い、いそいで人をやり、子を埋めて殺したところを見にゆかせると、すでに掘られて穴になっていたので、妻はイヌがしたことを知り、子を連れ帰った。夫の弟がお上に訴え、嫂が他人の子を子としているというと、お上は妻を呼び出し、子連れで訊問することにし、イヌも役所についていった。イヌがぐるぐる回って傍らに伏すと、子はすぐにイヌについて乳を飲んだ。官はその珍事を質し、その事情を察し、婦に命じて子を連れかえらせた。楽隊に命じてイヌを送って帰らせ、「義犬」の牌[55]を書き、夫の弟を処刑した。これは道光五年のことで、惜しいことに姓が記録されていないが、この子はすでに二十二になっていよう 。

 

◎前生は城隍であること

 

陳漢題国柱は、杭州の人で、無一文から家を成した。その子宝斎は、二十五六時、病を患った。二月あまりして、終日牀に臥して目ざめず、しばしば寝言を言った。治癒した後、みずから言うには、前生は某県の城隍であったが、突然城隍が挨拶しに来、事件があり、あなたの任地でのことだから、いっしょに訊問しにゆくべきだと言ったので、思わずついていった、事件は、ある寡婦が一子を産んだが、家が大金持ちだったので、夫の弟二人がその財産を狙おうとし、偽って、妻が不貞であるから、慣例では離婚の判決をするべきだと称しているのであった。寡婦は県庁に訴え、県令はその夫の弟を捕らえ、ともに訊問したが、事件に証拠はなかった。夫の弟某は五千両を贈り、知事はそれを収めた。その妻に告げると、妻は言った。「それは天理を欺くことで、してはなりません。」極力諌め阻んだので、知事はたいへん怒り、妻を罵り責めたところ、自経して死んだ。知事は賄賂を受けた後、寡婦に離婚の判決をしようとしたので、寡婦は憤って亡くなり、その子はすぐに叔父に殺された。その財産は寡婦の夫の弟たちが瓜分した。寡婦は歿した後、冥府に訴えたが、知事は寿命が終わっていないので、事件は決着していなかった。今回、犯人はすべて冥土に来たので、帝の命を奉り、ともに訊問し、知事と寡婦の夫の弟二人はいずれも斬罪となった。寡婦は転生して孝廉となり、官位は県令となった。知事の妻はその正室となり、妻の子はふたたびその子となった。その姓名・住所はとも言おうとしないが、そもそも冥土は漏洩を許さないのであった。宝斎は年が三十近く、恂恂[56]として処女のようで、今なお勉強しているが、これは世の貪欲不仁のものを戒めるに足りる 。

 

将軍の馬

 

王将軍は、その名は伝わっていないが、西安将軍に任ぜられたことがあり、軍馬が死ぬと、西安城外に葬ったが、「王将軍葬馬処」という碑があった。言い伝えでは、将軍は昔羽林[57]に属し、ちょうど休暇の日に市街に遊び、見ると牝馬を引いて来るものがいた。馬は一見すると長く鳴き、数歩ゆき、たまたま振り返ると、馬も長く鳴いた。将軍は心が動き、馬を引くものに尋ねれば、買って屠殺するのだと言った。馬は白色で、鼻を患っており[58]、その値を尋ねると、八千だが、肉と皮を売れば十千を得られると言った。売ることを願うか尋ねた。利を得ればすぐに売るといった。将軍は十二千で買ったが、厩に空いている飼い葉桶はなく、墓地を西山に所有していたので、すぐに墓守に引き渡し、引いてゆかせ、放牧させた。馬は孕んでおり、胎火[59]で鼻を患っていたが、水草に近づくとすぐに癒えた。一頭の子馬を産んだが、黒い色で力があった。その時、金川で戦争があり[60]、将軍は兵を率いてゆき、良馬数頭を選んだ。子馬は力が強かったので、武器を負わせていった。かの地にいって一月あまりして、数頭の良馬は相次いで病死した。木果木[61]の変で、将軍はこれに乗って闘ったが、異常に勇健で、人が近づけばすぐに蹄で蹴り、賊は防げなかった。将軍はまっさきに血戦し、矢石を冒し、囲みを破って出た。功を立てた後、西安を鎮守し、馬が久しく勤労ので、おもがいを施さず、松棚[62]一間を組み立ててやった。馬は昼は城を出、終南山に入り、みずから水草を選び、夜はかならず帰り、ある門から出ると、ふたたびその門から入った。西安城は日暮れに鍵を掛け、しばしば門を閉ざすのだが、待っていた。馬は酒を一斗あまり飲め、焼いた肉をおかずにした。数日おきに、かならず[63]入り、将軍に会い、その足を嗅いだ。将軍はかならず撫で摩ってから、はじめて飲食を出した。ある日突然晩く帰ってきたが、汗が全身を濡らしていた。将軍は人が乗っていることを疑い、翌日下役をひそかについてゆかせた。ある峰の下にゆけば、トラがおり、馬が来たのを見るとすぐに闘い、晩になると逃げた。峰の側に古刹あり、弁僧に尋ねると、闘うこと数日であると言った。帰って報せると、将軍は馬が傷つけられるかもしれないことを恐れ、健卒を選んでトラを捕らえにゆかせた。以前の下役に案内させ、あまねく探したがその居所が見つからなかったので、銃砲を置き、射撃させた。後に馬はふたたび毎日城を出、帰っても二度と汗をかかず、一年あまりして死んだ。将軍は泣いて埋葬した。

 

◎ウシに変わって借りを返すこと

 

黎思之県尉が言った。蜀の南部県[64]城から四十里に小さい村があり、村内の李某は年が六旬(むそじ)に近かったが、二子を生んだ。父子は心がけが忠厚で、耕作することを生業とし、わずかに口を糊することができていた。道光六、七年[65]凶作で、その村の富豪陳良棟から銭百貫を借りた。数年足らずで李家の父子は勤倹によって家を保ち、家産はだんだん豊かになった。李翁は突然病み、臨終の時、二子を呼んで牀の前に来させ、告げた。「以前、陳家の金を借りたから、清算して元本利息を返すがよい。あの人は裕福だが不仁だから、ぜひとも証文を取り戻し、累を受けるのを免れねばならない。」二子は命に従い、銭を持ってゆき、返した。陳家は銭を受け取った後、証文は探しようがないと偽った。李翁はふたたび二子を遣わし、求めようとしたが、陳は結局与えなかった。数ヶ月足らずで、李は亡くなった。二子はますます勤倹にし、暮らしはますます豊かになった。陳はにわかに良心に背き、証文を持ち、李家にふたたび債権を求め、李姓の二子は以前金を返したと返答したが、陳は証文を指して証拠とし、返していないと称し、返さなければかならず役所に訴えると称した。李は厄介を恐れ、陳翁に命じ、天に誓いを立てさせた。陳は階の前に跪き、誓った。「あなたの借金を二重取りしていれば、来生で牛馬に変わって償おう 。」李はそこでまた銭を返し、証文を取って帰った。一年あまりして、陳はにわかに病んで死にそうになり、妻子に告げた。「李家へ借りを返しにゆく。」そう言うと亡くなった。陳が亡くなった時、李姓の家のウシがたちまち一匹の子牛を産んだ。額に字があるかのようであったが、はじめはまだぼんやりしていた。一年あまりで、字ははっきりしたが、「陳良棟」の三字であった。陳の妻子が夢みると、陳が哀願してかれと身を贖い、まだ深く信じなかったが、李姓の家のウシの額に字があることを聞くと、母子ともにゆき、見ると本当にそうであった。ウシは跪いてかれに求め、のようなありさまであった。陳の妻子はそこでたいへん悲しみ、李家から二重取りした金を李に渡し、ウシを贖うことを願った。李は承諾しなかったので、後にさらに再三頼み、千両で贖おうとしたが、李はなおも承諾しなかった。陳の妻子は官に訴えた。県令は陳・李二姓を堂に呼んで来させ、銀千二百両でウシを贖い、陳家に返すように判決した。李は判決に従わなかったので、再三諭させたが、李は結局従わず、知事もどうすることもできなかった。道光十一年[66]にこの村を通り掛り、このことを聞き、おかしいと思い、見にゆけば、ウシの額の字ははっきりしていた。果報の説はほんとうに嘘ではない。しかし李姓の兄弟が判決通りに贖わせなかったことも、大過のようである。

 

◎戯言の冥報

 

程仲蘇がいった。嘉慶年間、河南某県に余姓のものがおり、張姓のものともともと親しく、同じ師のもとで勉強し、ともに生員であった。端午にそれぞれ勉強を終えて家に帰り、張は一通の手紙を書いて余に寄せ、ふざけてその妻が不貞だと言った。余はそれを閲してたいへん怒り、にわかに瘋疾を発した。余には二男一女がいたが、たちまち刀を持って先にその妻を殺し、さらに子女をすべて殺し、余もみずから縊れた。一年後、張は家にいたが、たちまち刀を持って余某が来たとみずから言った。そして刀でその腹をみずから裂き、一時して死んだ。友人であるのにふざけるのは、もとよりよくなく、ゆえなく閨門を汚すのならばなおさらであった。余がみずからその妻子を殺さなかったとしても、冥報は免れず、一言でつづけて数人の命を殺したのならなおさらであった。

 

◎戯れて戒めを示すこと

 

杭州に翁某といい、染物屋を生業としているものがおり、家は素封であった。西湖は、二三月になると、かならず厳州[67]・衢州[68]一帯の婦女たちがお参りしに来た。その日、翁が連れだって花神廟[69]を散歩していると突然、容貌のたいへん麗しい女が、数人の下女を従え、廟に入って来て遊覧した。ある人が翁に戯言を言った。「女を一笑させられれば、酒を用意してもてなしましょう。」翁は言った。「おやすいことだ。」そこで頭じゅうに花を挿し、わざと転ぶ動作をした。女は顧みてかすかに笑い、人々はみな拍手した。数年後、翁は突然大病し、病中みずから語るには、女が家に帰った後、下女は主人に告げ口し、奥さまは軽薄で、男を振り返って笑いましたと言った。そもそもこの下女はもともと主人に愛されていた。主人は下女の讒言を入れ、女を罵り責めたので、女は釈明するすべがなく、自経して死んだ。死後、閻魔に訴え、下女は先に死に、後にさらに花を戴いて戯れた人を訴えた。閻魔は鬼卒に命じて翁を捕らえにゆかせ、翁は女と対質したが、ほんとうに悪意はなかった。閻魔は言った。「おまえは転ぶことを愛しているなら、すぐにおまえを一転びさせ、許して帰らせよう。」翁は病が治った後、数年足らずで家がにわかに没落し、翁は没落して終わった。「一転び」という言葉には験があった。ああ。翁はたまたま遊び戯れたため、しらぬまに罪過が纏いつき、つづけて数人の命を失うことを招いたのである。悪意はなかったとはいえ、その罪は大きかった。冥罰から逃げようとしても、できよう。于蓮亭は言った。「翁の子はわたしと平素から知り合いだ。翁はつとに明敏有能と称えられていたが、どうして素封の家が突然貧民になったのか。後に、翁が病中みずから述べるのを聞いたので、ひそかに冥罰を受けたことを知った。」翁が歿した後、その子は三十余歳ではじめて秀才に合格した。わたしが京官であった時、翁の子が突然都に来たが、容貌は憔悴し、落拓[70]として身を置くところがなかった。おりしもわたしは亡き父の喪に服して帰郷したので、後にどこで死んだか分からなかった。ああ。親の教育が善くなく、殃が子孫に及ぶのは、恐ろしいことである。恐ろしいことである。

 

盗賊の妹

 

李春潭[71]観察[72]が言った。蘇州に某甲がおり、杭州で商人をし、姿が美しく、年は十八九で、父母の命に従い、蘇州に帰って結婚した。太湖を通りかかり、船を雇って進んだ。船頭の兄弟二人は、大盗であった。盗人には一人の妹がおり、年は十七八、容色は美しく、武術に長けていた。某は舟に乗った後、女が若いのを見、心が動き、しきりに見、女も注目してやまなかった。まもなく、船頭三人が岸に赴いて引綱を牽き、舟の中は女と某だけになった。四つの目で見つめあうと、女はたちまち尋ねた。「どうしてわたしをご覧になります。」某はやさしく答え、言葉は諧謔を帯びていた。女は言った。「今晩よくないことになりましょう。」某はまだ気づかなかったので、女は手で板を除き、白刃を出して示した。刀の光は閃いて恐ろしく、某ははじめて地に平伏し、救いを求めた。女は尋ねた。「奥さまを娶っていらっしゃいますか。」某は娶っていないことを告げ、親の命を奉り、蘇州に帰って結婚すると言ったところ、女は黙った。まもなく、船頭が舟に戻ってすこし休み、ふたたび上陸した。某はふたたび泣いて救いを求めたので、女は心が動き、尋ねた。「箱の中に大金をお持ちですか。」某がないと告げると、女は計略を設け、病気の振りをし、痛いと叫び、鍵を二里の船頭に渡し、箱を開けて薬を探させれば、禍を免れることができましょうと言った。船頭が舟に戻ると、某はその言葉の通りにした。船頭は箱を開けてじっくり見、薬がないことを告げると、某は記憶違いだったと言った。二人はふたたび上陸し、ほかに小舟に坐し、女は某に告げた[73]。「銀はお持ちでありませんが、服はたいへん綺麗ですから、結局逃れられないでしょう。」そこで刀を授け、暗闇に伏させ、かれらが頭を突っ込んで入ってくるのを待ち、すぐに手ずから斬った。その時、すでに夕方で、某は手が震え、全身が戦慄した。女はそこで船室に入り、刃を持った。まもなく、彼女の長兄が頭を突っ込んで入って来たので、女はすぐに手ずから斬った。かれの次兄は声がしないのを見ると、客には備えがあると疑い、入ろうとしなかった。船首に走ってゆくと、女は篷に躍りあがり、刀を持って刺したので、次兄も死んだ。某が逃げようとすると、女は涙を浮かべて告げた。「このような事になりましたのに、どこにゆこうとなさいます。ごいっしょに出頭しましょう。」そして手に一包みを持ったが、中味はすべてかれの兄が殺した人々の辮髪であった。役所にいった後、その兄がふだん凶暴で人を殺したありさまを逐一語り、今日のことは本当にやむをえずしたことだとし、泣きながら死ぬことを願った。官はすでに辮髪が累々としているのを見ると、さらに旧い事件を調べたが、二人の船頭は本当に江湖の大盗であった。娘は兄を殺した罪があるが、大盗は彼女によって滅ぼされたので、功を消すことはできなかった。彼女が若いのに嫁ぎ先がないことを憐れみ、某に彼女を娶り、命を助けられた恩に報いるように命じた。某はみずから妻がいると言い、さらに彼女が手ずから二人の兄を斬ったのを見たので、心は惴惴[74]としていた。官はそこで諄諄と諭すこと再三、証明書[75]を賜い、連れ帰らせた。某の岳父は某にすでに妻がいることを聞くと、よそに嫁がせた。女はそこで某に従い、家にゆき、夫婦となった。女は舅姑に事えて孝、徳性は柔順で、夫婦も睦まじく、賢婦と称せられた。この女は某が若いのを見、たがいに目で合図しあい、つづけて二人の兄を斬ったもので、もとより「大義親を滅ぼす」[76]とはいえなかった。しかし彼女の兄は人の財貨を奪い、人を殺すこと草芥のようであり、王法にかならず誅せられるものであったのだから、かれらの妹が白刃を加えたのは、多くの怨霊が彼女の身に憑いていたのかも知れなかった。女は嫁いだ後、まったく暴戻の気はなく、よく婦道を全うして亡くなり、彼女自身にも採るに足りるものがあった。だから記した。

 

◎蒋栄禄の華表[77]

 

門の蒋栄禄公の墓道[78]は陽抱山[79]にあったが、乾隆四十八年六月十八日、激しい風で、墓前の華表が地に倒れ、一人の不孝者の脳に中たり、すぐに死なせた。公の曽孫古愚封公[80]は言った。「亡き栄禄は平生純孝であり、湯文正公[81]に重んぜられましたので、歿後もこの不孝者が人の世に生きながらえることを許さなかったのです。」

 

◎悪い嫁がブタに変わること

 

乾隆己酉[82]十一月、常熟の東南任陽[83]に、不孝な嫁で、姑を殺そうとしているものがおり、毒薬を(へい)の中に入れてみずからはよそに泊まって避けた。姑が食らおうとしたところ、たちまち一人の乞食がきてその餅を求めた。姑ははじめ与えようとしなかったが、乞食は袖から一着の緑綾の衫を出して与え、換えて去った。嫁が家に帰ると、姑は喜んで衫を嫁に示し、嫁はさらに奪った。身に着けると、たちまち地に倒れた。姑はいそいで助けたが、起きられず、たちまちブタに変わり、隣人はみな集まって見た。嫁はまだ人の言葉を話した。「わたしはもともと天に誅せられるはずでございましたが、今生でほかに罪がございませんでしたので、ブタに変わって人に示すのでございます。」そう言うと、ブタの叫び声となったが、前だけはまだ手に似ていた。さらに、同じ頃、山東定陶県[84]のある農家の嫁は、もともと姑を虐げていた。姑は両目を失明しており、糖湯[85]を飲もうとしたが、婦は罵ってやまず、鶏糞を湯の中に置いた。姑は気づかなかった。するとたちまち雷電がはげしく起こり、霹靂一声、嫁はブタに変わり、厠に入って糞を食べた。一時に見るものは日に数百人、一年あまり経ってもまだ死ななかった

 

◎悪い嫁がロバに変わること

 

陜西城固県城外の人に不孝な妻がおり、ふだんその姑を待遇するさまは、奴婢を虐げるかのようであり、一日だけではなかった。嘉慶庚辰正月初一日の朝、妻はたちまち姑に向かって罵り、喃喃としてやまなかった。姑は相手にせず、別の家にいって年賀の挨拶をした。まもなく、不孝な妻は部屋に入り、門を閉ざして臥したが、しばらくしても出てこず、部屋の中では牛馬が走っているかのような音がするばかりであった。姑が帰って部屋に入ろうとすると、見えず、いそいで他人を呼んで門扉を踏み破らせた。人が見ると、妻は地に臥しており、片足はすでにロバに変わっていた。数ヶ月後に死んだ。

 

不孝者が焼かれること

 

嘉慶己卯五月十日、蘇州に衛兵がおり、人足に火薬百斤を担がせ、練兵場にゆかせた。たまたま都亭橋周亜子巷の鍛冶屋の入り口を過ぎたが、店内の人が鉄を打っていたので、火花が爆ぜ、荷物入り、たちまち轟然一声、町中が焼いたかのようになり、死者は五六人であった。中に一人の男がおり、鬚と髪はともに焼かれていたが、まだ死んでいなかった。かれを知るものが言った。「その人はごろつきで、賭博を事とし、幼名は『和尚』といいます。老母がおり、年は七十余りですが、和尚は世話できていませんし、一度も母と呼んだことがありません。」ここに至って、母はかれが悲しみ苦しんでいるのを憐れみ、あらゆる手段で治療してやった。和尚は悲しんで泣き、大声でその母を呼び、一昼夜で死んだ。

 

◎天が孝子に米を賜うこと

 

道光二十七年[86]七月、雷が嘉興の農家の孝子に米を賜った一件は、一時に広まった。語るものは、かれの姓名は忘れたが、張叔禾[87]先生の佃戸であったと言った。かれはたいへん貧窮しており、孝子と母・妻の三人だけであったが、食物はつねに不足していたので、妻と相談し、飯を母の食事とし、自分は妻とともに粥を食べ、長年そのようにしていた。その時になると、母の飯もたまたま不足したので、粥を進めた。母は乱暴な性格であったので、食べず、厠に傾けた。するとにわかに雷が殷然と起こった。母は恐れ、庭に跪いた。子と嫁は走って見にゆき、尋ねてそのわけを知ると、すぐに厠へいって取りだし、水で清め、向かい合って食べた。そしてすぐにいっしょに跪き、叩頭し、罪を認め、母のために取り成した。するとまもなく雷がふたたび轟き、天から米二十四石が降って来、中庭に堆積した。村の隣人たちはそれを環視し、天が孝子を憐れむさまはこのようなものかと驚嘆した。驚喜が収まり、孝子が米袋に書かれている字号を見れば、叔禾先生の穀倉のものであったので、さらに驚いてその主人に告げにゆき、返そうとした。先生は言った。「これは天が孝子に賜ったもので、わたしのものではない。」かたく受けなかったので、人は双方を義であるとした。

 

◎山陰[88]秀才

 

山陰の秀才某は、年が三十ばかりで、郷試を受験したが文はたいへん意に適っていた。三場になり、燭を切り[89]、対策[90]を書いていると、同じ号舎の生員は婦人が某の名を呼ぶのを聞いたが、某だけには聞こえなかった。再三呼ぶと、号軍[91]は大声で言った。「某を呼んでいるのはいったい誰だ。」某が呼ぶのを聞いて驚くと、すぐに一人の女が号舎に駆け込んで来、言った。「わたしが分かるか。わたしはおまえの母だ。」某が母は現におり、どうしてほかに母がいようと答えると、こう答えた。「わたしはおまえの嫡母で、おまえは後妻の子だ。なぜ急に忘れた。おまえは姉がおり、寡婦となり、貧窮にあるのに、おまえは同腹の生んだものでないと言い、まったく顧みず、どうして心が安らかなのだ。わたしは死ぬ時、おまえの父は不仁で、像を描いてくれず、わたしは祭祀のたびに、座に入れず、傍らに立ち、その余りを待っているのに、おまえはどうして耐えられるのだ。」「姉さんが救済を受けないことに関しましては、咎めを拒みはいたしませんが、お母さまのお姿は今では描くすべがございません、それに冥土のことは知ることができません。」「わたしは死んだが、おまえの姉はまだ生きており、わたしと姿がたいへん似ているから、その姿に基づいて描くことができる。わたしにいっしょに祭祀を享けさせろ。さらに頻繁に姉さんを救済すれば、わたしははじめておまえを許そう。わたしは嫡室、おまえの母は継室で、おまえは書を読む人間だから、これらの名分をどうして知らないことがあろう。毎日おまえの父の遺容[92]を懸けてわたしだけを忘れ、すこしも記憶していないが、これが道理を弁えた人の心掛けなのか。今からおまえはわたしの言葉を守ることができれば、まさに道理に叶っているが、さもなければ功名のことは考えるな。」某はそこで叩頭して過ちを悔い、すべて泣いて従うと、たちまち婦人は見えなくなった。次の試験で、某ははじめて合格し、またこのことを人々に言い、家に嫡室継室がいるものたちはみな恐れて悟った。

 

◎生きながらブタに変わること

 

銅陵[93]の張灃南先生がみずから言うには、かれの祖父が生きていた時、川向こうに居住している佃戸がおり、三年体が麻痺していたが、突然かれの家族を呼んでこう言った。「わたしは病気ではない。わたしは章家の銀を借りていたので、冥罰によりかれの家のブタとなり、その借りを償うのだ。わたしは人だが、本当は家畜なのだ。おまえたちはいって、はやくこのブタを屠り、前世の罪を終わらせてくれ。そうすれば、転生して人となることを願えるかもしれない。」かれの妻が章の家にゆき、事情を告げると、章翁は言った。「家の裏でブタを飼い、大事に備えてあります。隣人たちでわたしに負債があるものは少なくないのに、どうして××[94]の負債にだけ報いがあるのでしょうか。」しかしその妻の言葉を聞くと、佃戸が病気に苦しんでいるのは、ブタを養っている年数と同じくらいであり、報いは原因がないものではないだろうから、屠るべきだと思った。屠られる日、ブタは刀に就き、大声で鳴き、佃戸も床で大声で泣き、さながらブタの声と同じであった。湯を掛け、膚を削ぐと、ブタは鳴かなかったが、佃戸は大声で泣き、さらに身に白い水泡が生じ、あたかも湯火に損なわれたかのようであった。肉を切り分ける際は、佃戸は大声で叫んだが、やがて声がかすかになって死んだ。世の冥報を載せるものは多いが、大半は曖昧なものである。しかし、このことだけは、身がまだ家で生きていたのに、魂がすでに他の場所でブタに変わっていたものである。世の財貨を得て良心を失うものたちは、貸借は詐欺と違い、負債があっても差し障りないと言うが、これを鑑みて悟ることもあろうか。

 

◎悪を改めること

 

『咫聞録』[95]いう。廉州[96]合浦[97]南康墟[98]にブタの屠殺を生業とするものがおり、語るには、屠殺に臨む時、ブタが刀斧に就くのを恐れ、大声で叫ぶのを見ると、心に忍びず、いつも廃業しようと思っていたが、これよりほかに一家八人を養うすべがなかったので、むりに我慢していた。その後、子が年となると、別の仕事を学ばせ、それによって口を糊することができるようになったので、すぐに仕事をやめ、菜食し、経を誦えた。雷鳴が起こるのを聞くと、食べるたびにかならず箸を停め、口を漱ぎ、跪き、雷経[99]を誦え、雷が音を収めて止むのを待ち、このようにすること八九年、すこしも怠ることがなかった。ある日、朝、門を出ると、突然、隣家の老婆が肉屋に手招きし、告げることがあるかのようであったので、いってみたが、闃として人はおらず、隣家の牝ブタが出産しようとしてぶうぶういっているばかりであった。老婆を呼んで何事か尋ねようとしたところ、にわかに頭が眩み、目が暗くなり、地に倒れ、魂が子豚の腹に入り、話そうとしたができなかった。これは殺生して命を害した報いで、転生してブタとなったのだ、どうしたら助かるだろうと考えた。そして世間では経を念じ、禍を消すことができていることを思い出し、ひそかに雷経四十九回念じたところ、突然雷電がこもごも加わり、霹靂一声、ブタの身を打ち殺して魂は体に戻った。老婆は驚いて出て見ると、言った。「ブタはすでに子を産んだが、隣の肉屋がなぜ階段で眠っている。」呼んでも答えなかった。老婆は言った。「先ほど雷に撃ち殺されたか。どうしてかれの家で撃ち殺されず、うちの庭で撃ち殺されているのだろう。」すぐにかれの家人を呼んで来させた。寡人が大声で泣いていると、肉屋は蘇って起きた。事情を尋ねると、以前のことをくわしく述べた。老婆は言った。「いつ来たのです。呼んでいませんのに。」みな驚いた。これは嘉慶四年のことで、今ではすでに二十年を閲している。近頃、廉州から来たものがこれを述べたが、肉屋は白髪が蒼蒼[100]として、まだ世に生きていることを知った。これにより、天道の昭昭としていることを証明することができる。はじめ手招きしていたものは、老婆でなく牝ブタで、かれの魂が転生してブタとなったのは、かれがブタを屠殺した悪を憎んだのであった。肉屋がひそかに経を唱え、雷を動かしたのは[101]、かれの善に従う心を明らかにしたのであった。この寿命を耄耋[102]に延ばしたのは、かれが心を変え、面目を改めたことを取ったのであった。「過てば則ち改むるを憚るなかれ」は、本当に至聖の格言である。

 

◎財を見てかりそめにせぬこと

 

華亭の廖寿彭[103]の祖父(景明)は、兄弟六人がみな役人となっていたが、公はかれの末子であり、財を軽んじ、義を重んじ、危険・苦難を救うことを好んでいた。山西の偏関[104]臨晋[105]諸県の知事を歴任し、後に南宝川州知州に選任せられ、まもなく広西直隷州知州に昇任した。これより前、ある大官が、前任の某が倉庫の金を着服することがたいへん多かったことを聞き、公に摘印[106]封印しにゆくように委嘱した。公は下役に、一物も取らぬように命じ、隠匿しているものは本当にないと報告してやり、欠損していた銀はすべて公が賠償し、ねんごろに援助し、罪は減刑となったので、某はかれを徳とした。某は遼東の人で、故郷を隔てること一万余里、家族は多く、債務は累累としていたため、一家は流落しそうになっていた。ある日、某が突然来、公に言った。「わたしの損失は、すべて自業自得ですし、年老いてもおりますから、死んでも怨みはございません。しかし一家の老若は異郷に留まり、まもなく餓殍[107]となりましょう。今、一言お告げしましょう。在任中、かならず今日があろうことを予測し、三千両をひそかに役所の裏庭の地下に隠し、帰郷の資金を準備しておりました。にわかに捜査・没収が来ようととはまったく予測しておりませんでした。公がわたしを憐れんでくださいますなら、千両をお分けくださり、一家がそれによって帰郷の計画を立てられるようにしてくだされば、もとより願わしいことでございます。そうでなければ、公がご自分のものにしてくだされば、わたしも恨みはございません。後日他人に取られぬようになさってください。」公は言った。「何を仰います。あなたがこのような結果になったのを、お救いできず、みずから深く恥じております。今、利を見て義を忘れようとしましょうか。」そして某を役所に宿泊させ、夜が更け、人が静まると、親族数人を率い、某とともに指示された場所にゆき、それを発掘し、すぐに酒甕の中に入れ、送り返した。まもなく、公は属吏の失出[108]事件を問題にされ、辞官し、南へ帰ったが、両袖の清風[109]で、飯を作るにも事欠かんばかりであった。当時、公は年が五十で、後継ぎはまだなかったが、翌年一子を得、槎と名づけた。山左に幕遊し、後に東河の官署で箋奏[110]を司り、布衣でありながら一時の声望を担った。孫は四人おり、出仕したものは三人であった。曽孫六人は、いずれも儒学を学んでおり、元孫は二人いる。現在五房[111]はいずれも人がいず、公の一線の緒[112]に頼っているのは、厚徳の報いではないか。

 

◎斉観察[113]

 

直隷の人斉観察は、詞垣[114]から南迤南[115]兵備[116]選任せられた。平素、文を語ることを好んでおり、道光甲申[117]嘉平(しわす)[118]に、任地から二人の妾を連れ、中央官となった。乙酉の元旦、各大憲[119]とともに。朝賀しおわり、寓居に帰り、蟒服[120]して坐していたが、何かを見たかのように、すぐに家人に知府[121]を呼びにゆくように命じた。知府は、佟鏡堂先生(景文)[122]であり、大事なことを申しあげるとのことであった。一時足らずして知府が来、尋ねると、こう称した。「某年の山西の事件が発覚し、某某がこの地の省城隍于忠肅公に訴え、公が人に命じ、対質のために呼びに来させましたので、ゆかざるを得ません。そもそも××年に山西省で横領事件を調査しましたが、わたしは当時随行の司員をしており、一万を横領したものは一か月を期限に返還させ、期限を越えたらすぐに死刑にしましょうと論じました。返還できないで早まった考えを起こして死んだ者は、わたしの立論が公正でない、一万を横領したものには一月の期限しか与えないのに、十万を横領したものには十か月の期限を緩め、早まった考えを起こして死ぬことを招いており、心は本当に我慢できぬとし、こちらに来て尋問を求めました。わたしは一時の過ちで、にわかにここに至りましたが、わたしが死にましたら、わたしの眷属をきちんと本籍に送り返し、あまねく仲間に告げ、重大な事態に遇えば、けっしてでたらめな考えを出さないことを望みます。」そう言うと亡くなった。張鏡蓉銑[123]はもともと南の人で、ちょうど省城におり、斉観察が急死した凶報を聞いたので、このように事情を知っていたのであった。

 

最終更新日:2018222

北東園筆録

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[1]http://www.zdic.net/c/d/150/332807.htm朝廷内外、中央と地方。

[2]http://www.zdic.net/c/8/70/110877.htm司官。http://www.zdic.net/c/8/70/110864.htm各部の属官。

[3]http://www.zdic.net/c/a/6b/104827.htm官吏の母。

[4]http://www.zdic.net/c/b/143/313164.htm

[5]http://ja.wikipedia.org/wiki/1778%E5%B9%B4

[6]こちらが合格者名簿。

[7]http://www.zdic.net/c/e/23/54925.htm状元、榜眼、探花の

[8]http://www.zdic.net/c/d/f4/252808.htm翰林院。

[9]進士の中で優秀なものが翰林院に残る

[10]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A3%E6%94%B8%E9%8A%9B

[11]未詳だが、総督であろう。

[12]http://www.zdic.net/c/2/10d/290134.htm欣然。

[13]龍溪書院。グーグル検索結果龍溪書院考略

[14]http://www.zdic.net/c/1/10a/287995.htm書院の長。

[15]https://www.google.co.jp/#q=%E9%87%8D%E5%AE%B4Zdic重ねて鹿鳴に赴くこと。http://www.zdic.net/c/d/ed/242851.htm清の制度で、人が郷試合格後六十周年で、重ねて原科(同一干支の年)逢うと許可を、新たに合格した人とともに鹿筵宴に赴いたが、それを「重赴鹿」と称した。

[16]http://baike.baidu.com/view/2821232.htm

[17]http://baike.baidu.com/view/1005837.htm

[18]http://www.zdic.net/c/8/1d/44981.htm各部司官

[19]http://www.zdic.net/c/9/16/34125.htm天の律令、法

[20]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%A7%E8%92%93

[21]http://baike.baidu.com/view/4709675.htm

[22]http://baike.baidu.com/view/2059759.htm

[23]ここに脱文があるか。

[24]http://www.zdic.net/c/4/ed/242323.htm人の妹に対する敬称

[25]http://baike.baidu.com/subview/101309/5800888.htm#viewPageContent

[26]http://www.zdic.net/c/f/4/7882.htm補佐官

[27]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E6%99%AF%E8%BB%BE

[28]http://www.zdic.net/c/f/d5/207433.htm典史

[29]原文「曲園夜見一戴頂者攜一少婦幼女登其床」。「戴頂」が未詳だが、をしたものの意であろう。は、する帽

[30]http://www.zdic.net/c/e/2c/69742.htm麻痺の通称。

[31]http://www.zdic.net/c/a/156/341743.htm房の秘事

[32]グーグル検索結果

[33]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic86ZdicA4331407.htm仏教悪業なしたことによって招いた悪報

[34]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8Zdic80Zdic8C63101.htm如今、

[35]「対対」という言葉は未詳。対になってやってくるということか。

[36]http://www.zdic.net/c/a/14c/329505.htm清醒のさま。

[37]http://www.zdic.net/c/8/13b/300846.htm武官名。

[38]http://www.zdic.net/c/a/ed/242165.htm有罪の人を方に派遣して守備させること

[39]http://baike.baidu.com/view/4668124.htm

[40]http://baike.baidu.com/view/649341.htm

[41]原文「削其籍」。未詳だが、訳文の意に解す。「削籍」に関して漢典に適当な語釈なし。

[42]https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E5%B2%B3%E5%A4%A7%E5%B8%9D-1375473

[43]原文「倘再有罪孽、不訪提訊、另科可也。」。「不訪」は「不妨」の誤りであると思われるが未詳。とりあえずそう解す。

[44]原文「生對婦力辨は和非強」。「強」が未詳。衍字か。

[45]未詳だが、であろう。

[46]原文「回陽」。漢典に適切な語釈なし。

[47]未詳。

[48]http://www.zdic.net/c/2/9e/181230.htm試験の甲乙二科の合称。ひろく科第を指す。

[49]http://www.zdic.net/c/3/149/321981.htmたえず小声で話すあるいは読書する

[50]http://www.zdic.net/c/5/a5/192689.htm箒で掃除する。家内の雑務を行うこと

[51]原文「願而千金為篝火之資。」。「篝火之資」がまったく未詳。文脈からして勉強のための灯り代ということか。http://www.zdic.net/c/d/31/77991.htm

[52]http://www.zdic.net/c/7/16/35219.htm平静定のさま

[53]http://www.zdic.net/c/7/108/283797.htm心が伸びやかで楽観的であること。

[54]http://www.zdic.net/c/8/145/317327.htm結婚した男女が同じ杯で酒する礼、後にひろく結婚指す。

[55]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7Zdic89Zdic8C142474.htm

[56]http://www.zdic.net/c/2/150/333620.htm小心慎のさま

[57]http://www.zdic.net/c/d/14f/331041.htm

[58]原文「馬白色、患下鼻」。「下鼻」が未詳。とりあえずこう訳す。馬鼻肺炎か。

[59]http://baike.baidu.com/view/3968048.htm 病名。

[60]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B0%8F%E9%87%91%E5%B7%9D%E4%B9%8B%E5%BD%B9

[61]こちらによれば山名らしい。こちらによれば、乾隆三十八年に貴州提督牛天畀が敗れたところらしい。

[62]http://www.zdic.net/c/e/3d/93958.htm枝葉で組み立てた小屋。

[63]http://www.zdic.net/c/5/3d/94755.htm役所の内院

[64]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%8E%BF

[65]一八二六、七年

[66]一八三一年

[67]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A5%E5%B7%9E_(%E6%B5%99%E6%B1%9F)

[68]http://baike.baidu.com/view/7760.htm

[69]グーグル検索結果

[70]http://www.zdic.net/c/d/e7/233117.htm困失意。

[71]グーグル検索結果。李源というらしい。

[72]http://www.zdic.net/c/2/152/339176.htm

[73]原文「二人又登岸、另坐小舟、女告某曰」。「另坐小舟」の主語が未詳。この文、落ち着きが悪い。衍文か。

[74]http://www.zdic.net/c/4/9e/181534.htm懼戒慎のさま

[75]http://www.zdic.net/c/7/156/341405.htm何の証明書か未詳だが、結婚の許可を証明するものか。

[76]http://www.zdic.net/c/7/23/54406.htm守るために罪を犯した属に対し私情に従わず懲罰を受けさせること

[77]http://www.zdic.net/c/e/151/334916.htm表柱」とも殿、陵墓等の前に設けられた装用の石柱グーグル画像検索結果

[78]原文「塋道」。未詳。とりあえずこう訳す。

[79]グーグル検索結果

[80]未詳。

[81]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%96%8C

[82]http://ja.wikipedia.org/wiki/1789%E5%B9%B4

[83]グーグル検索結果

[84]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E9%99%B6%E5%8E%BF

[85]グーグル検索結果

[86]http://ja.wikipedia.org/wiki/1847%E5%B9%B4

[87]未詳。

[88]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%98%B4%E5%8E%BF_(%E6%B5%99%E6%B1%9F%E7%9C%81)

[89]http://baike.baidu.com/view/3596190.htm長くなった灯心を切る動作。

[90]」とも。政事、経義などの設問に関して出題せられる。http://www.zdic.net/c/9/25/58543.htm

[91]http://www.zdic.net/c/7/a1/188482.htm試験場に置かれた監視員

[92]http://www.zdic.net/c/7/ef/247348.htm遺影

[93]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%93%9C%E9%99%B5%E5%B8%82

[94]ここには佃戸の名が入るものと思われる。

[95]http://ctext.org/library.pl?if=gb&res=3553

[96]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%89%E5%B7%9E%E5%BA%9C府名。

[97]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%B5%A6

[98]http://www.gg-art.com/dictionary/dcontent_b.php?bookid=33&name=%ABn&columns=2&bookdetailid=19923

[99]未詳。

[100]http://www.zdic.net/c/d/e8/235296.htm灰白色。

[101]原文「屠默理經而感動伏雷者」。「伏」が未詳。衍字か。

[102]http://baike.baidu.com/view/24605.htm八九十

[103]http://www.gg-art.com:8080/dictionary/dcontent_b.php?bookid=34&name=%B9%F9&columns=2&bookdetailid=49802

[104]http://baike.baidu.com/view/726164.htm?fromtitle=%E5%81%8F%E5%85%B3&fromid=1178083&type=syn

[105]http://baike.baidu.com/view/3168757.htm

[106]http://www.zdic.net/c/8/8b/152925.htm地方官罪を犯すぐに免職するべき場合、督派遣し、当印章收取、期限を設けて離任させること

[107]http://www.zdic.net/c/f/156/342760.htm餓死者

[108]http://www.zdic.net/c/1/69/100191.htm重罪を裁いたり判決するべきなのに判決せぬこと

[109]http://www.zdic.net/c/4/158/345687.htm両袖の清の外、所有するものがないこと。役人として清廉で、余がないこと

[110]http://www.zdic.net/c/a/8d/157148.htm札、奏章。

[111]六人兄弟のほかのものの血筋のことであろう。

[112]グーグル検索結果。未詳だが、一粒種のことであろう。

[113]http://www.zdic.net/c/2/152/339176.htmhttp://www.zdic.net/c/3/10e/292680.htmhttp://www.zdic.net/c/3/e8/234603.htm省以下、府以上一の官

[114]http://www.zdic.net/c/d/f4/252729.htm翰林院

[115]http://baike.baidu.com/view/5310249.htm

[116]http://baike.baidu.com/view/390346.htm官名。

[117]http://ja.wikipedia.org/wiki/1824%E5%B9%B4

[118]http://www.zdic.net/c/9/71/113113.htm臘月

[119]http://www.zdic.net/c/7/23/55271.htm督あるいは巡

[120]http://www.zdic.net/c/2/a5/192549.htm蟒袍

[121]http://www.zdic.net/c/6/31/77652.htm省会が存在する府

[122]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9F%E6%99%AF%E6%96%87

[123]未詳。

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