●巻一

 

◎五房六宰相

 

百菊溪先生(百齢)[1]は、亡き大父[2]資政公および亡き叔祖[3]太常公[4]と、乾隆戊子[5]郷試の同年で、春明[6]にいた時、唱和する交誼があった。家大人[7]は嘉慶初年に公車[8]で都に留まり、夏を過ごした際、年家子[9]の礼で目通りし、一度会ったことがあった。公[10]は封圻[11]を歴任し、降格され、六品の頂戴[12]を賜わり[13]、わが福建に派遣され、督撫の仕事を交代した時[14]、家大人は京員[15]から暇を取り、郷里に住んでいたが、公の寓館と一つの通りを隔てているだけであったので、交際ははじめて親密になった。家大人が蘭渚[16]中丞[17]の幕中にいた時、公と中丞が同族の誼を述べていたので、家大人がそれを訝ったことがあった。公は言った。「わたしがもともと漢軍の張姓であることをご存じないのですか。わたしの先祖は江西の人で、元以来、徳を積み、代を重ねましたが、知る人はいませんでした。××公は堪輿に詳しく、以前ある土地を卜し、かれの亡父を葬りましたが、葬り終わりますと、嘆きました。『わたしの子孫が先祖の功業を堕落させねば、後にかならず三公[18]が出よう』。隣人某はひそかにそれを聞き、その土地を占拠しようと計画し、祖父の屍骸を一つの小さい罐に入れ、こっそり塚の前に埋めました。公はそれを知りますと、隣人某に語りました。『わたしのよい墓地[19]をお分けすることを、拒もうとはしませんが、願わくは、いささか遠く偏られ、両家いずれにもその利を受けさせれば、幽明は等しく感動しましょう。』隣人某は公の盛徳に感じ、すべて約束通りにしました。その家人に、公を責める者がいましたが、某公は言いました。『これは良い風水の地で[20]、わたしの家だけでは享受できず、かならずひそかに分けるものがいよう。応験が遠くなるほど、繁栄はますます長くなるだろう。』葬った後、子を五人生みましたが、長子は振といい、その次は賢といい、その次は昭といい、その次は簡といい、その次は鐸といい、分かれて五つの家に住んでいました。その一は湖広におり、後に江陵相国(居正)[21]となり、謚を文襄といいました。その一は四川におり、本朝に入ると遂寧[22]相国(鵬翮)[23]となり、謚を文端といいました。その一は江南におり、京江相国(玉書)[24]となり、謚を文貞といいました。その一は安徽におり、桐城両相国(英)[25]となり、謚を文端といいました。文端の子(廷玉)[26]は謚を文和といいました。その一は長白山[27]におり、漢軍に入り、それがわたしの先代です。」按ずるに、公は嘉慶十八年、両江総督協弁大学士であったので、文敏と謚せられ、都合一族五房[28]で六人の宰相を出した。江陵の一房がもっとも先に興起し、先生がもっとも後に興起したが、もっとも盛んなのは桐城の一房であり、今なお科甲[29]続き、卿貳[30]が相次いでいる。そのはじめも盛徳により坐して吉壤[31]を得、世に竹立城(事はすでに三録に詳しい[32])として伝えられるものである。諺に「福地に福人(きた)る」と称するが、本当に嘘ではない。

 

門の蒋氏

 

門の蒋氏は科挙合格がもっとも盛んであったが、合格するのはかならず(ひのと)の年で、光禄少卿(文潤)が康熙丁巳科[33]に合格してから、礼部主事(文淳[34])が康熙丁卯科に合格し、この後、孫や曽孫には、(ひのと)の年になると名をなすものが相次いだ。乾隆丁酉[35]順天郷試では、蒋氏の一門に三世同榜となったものがいた。その時少司馬(元益[36])は江西学政から任期満了して帰朝していたので、朝士[37]が賀したところ、公は言った。「これはわたしの高祖母が一言で徳を施した余沢です。」ある人がそのことについて尋ねると、公は言った。「わたしの先代の憲副公[38]が貞山[39]に改葬した時、堪輿家が言いました。『この穴は本当に吉祥ですが、長男の家にはたいへん不吉です。』時に公の長男の嫁盛夫人はその言葉を聞くと、すぐにその子栄禄公(之逵[40])を呼んで告げた。『子孫はきわめて多いのだから、わたしだけに不吉であるなら、構わない。』。栄禄公はもともと孝行であったので、すぐに母の言葉を各房に知らせ、憲副公を改葬してあげることに決めた。その時、盛夫人の弟侍御公(符昇[41])は言った。『この一言ですでに陰徳を種えているから、堪輿の説は験がなかろう。』時日生克[42]を論じると、丁年に長男の房が興起し、後に本当に言っていた通りになった。」

 

◎長洲[43]の彭氏

 

わたしの家と長洲の彭家は代々交誼があり、三叔祖[44]岱岩公は[45]漫遊し、尺木先生(紹昇[46])と禅悦[47]によって親しくしていた。四叔祖九山公は翰林で官となり、鏡瀾先生(紹観)[48]と学問で切磋していた。三叔父の曼雲公[49]は遠峰先生(蘊輝)と同年で、ともに詞館[50]に入った。家大人が京師で役人をしていた時、修田先生(希濂)[51]と道義の交わりをなし、さらに葦間先生(希鄭[52])とともに儀曹[53]に入り、文芸を語り、もっとも親しくしていた。わたしたち兄弟は、詠莪副憲(蘊章[54])とは、さらに莫逆と称し、副憲はさらに家大人と先後して枢廷[55]に宿直し、紀群の交わり[56]を篤くしていたので、その家世を知ることがもっともくわしく、その陰徳を聞くことももっとも詳しかった。家大人は門で扇面の画冊を買ったことがあった。中に彭瓏[57]の一幅があり、字はたいへん秀麗であった、すべてそれをわたしに贈ったが、彭が誰かを知らなかった。たまたまそれを詠莪[58]副憲[59]に示すと、副憲は粛然として言った。「これはわたしの六代前の先祖で、字を一庵といい、またの字を雲客といいました。京兆試[60]に合格したことがあり、謁選[61]で都に留まっていましたが、突然、胸騒ぎがし、いそいで南へ帰りましたところ、父の病がちょうど篤くなっており、五昼夜して歿しましたので、人は本当に孝心が感知したのだと思いました。喪が明けますと、長寧[62]の令に補せられ、己を清め、民を愛しましたが、民事で上官と争い、誣告せられ、ほとんど危険なありさまでした。子の南均公(定求)[63]は難を聞きますと粤に赴き、香を焚き、天に叫び、事は晴らすことができました。公は脱然[64]本籍に帰り、父母の葬儀が終わりますと、みずから遺像を書室に掛け、起きたり臥したり出たり入ったりする時はかならず拝して語りかけ、その身を終えました。後に南均公が解元に合格し、元、亡き曽祖芝庭公(豊)も解元に合格し、元、官位は大司馬に到りました。三代伝えて今に至りました。科甲簪纓[65]が絶えなかったのは、すべて一庵公の遺沢であり、世に知るものは少なかったのですが、お尋ねでしたのでつつしんでこのように述べたのです。」按ずるに、彭氏が字の書かれた紙を惜しんだ報いを、わたしはすでにくわしく『前録』に載せたが[66]、これは一庵先生の逸事で、世に伝わっていることは少ないので、さらに記録した。

 

◎太倉[67]の李氏

 

太倉の李氏は科名[68]が盛んで、蘅塘[69]太史[70]は制義[71]に詳しく、当時、選政[72]に従事していたので、芸林[73]はかれを敬って模範[74]としていた。生徒を教えることがたいへん多く、かれによって上位合格を得たものはどれほどか分からなかった。ある人が言うには、その父親は没落していたところ、太史になってはじめて興隆したとのことであったが、まったく確かめられない。銭梅溪[75]の『履園叢話』[76]に載せる太倉の李堂字仁山[77]は、父を維徳といい、清倹によって家を起こし、つとめて善事を行っていた。仁山は父の風があり、人の緩急を見ればかならず救済し、もっとも誠実に付き合うことができ、徳を積み、善を行うことを勧め、人々は教化されることが多かった。師を招き、子を教えさせ、かならず敬い、かならず恭しくした。五子を生んだが、長子は蘅塘、名を錫恭[78]といい、嘉慶丙辰の進士[79]に合格し、官は翰林となった。次は錫信で、乾隆癸卯[80]の挙人であった。錫瓚は、己酉[81]の挙人であった。錫恵、錫晋はさらに嘉慶辛酉[82]にともに郷試に合格した。今は推されて江南の望族となっている。だとすれば家風を培って積み重ねることはすでに久しい。梅溪は仁山と交遊することがあったので、言っていることはでたらめでないはずである。

 

県の厳氏

 

県の東洞庭山[83]の厳氏は、明末、家産によって農村の雄となっていた。順治乙酉[84]、難民を救ってその家を傾けたが、その孫の厳暁山[85]という者になると、家産はさらに豊かになった。乾隆乙亥[86]大飢饉のとき、暁山は米穀をさし出すことを唱え、慈善の士たちとともに金を貸し、四鼓に起き、始終このことを処理し、ずっと他人の手を借りなかった。突然、夢みたところ、神が告げた。「おまえの家は(きのと)の年に徳を種えたから、乙の年に報いを受けよう。」乙未の年になると、暁山の子福は解元に合格し、翰林に入った。乙卯の年には、福の子栄も翰林に入り、官位は杭州知府にいたった。道光乙酉[87]、栄の子良裴はさらに挙人に合格した。良裴の実弟良訓は、さらに辛卯壬辰に郷試会試に連捷した。翰林に入った。今、良訓はすでに甘隴で司法官となっている。

 

◎秦封翁

 

蘭州の秦暁峰先生(維岳[88])は乾隆庚戌[89]の進士で、翰林・御史から出て監司となり、その弟某も孝廉から官は山西知県となった。その封翁某は、幼い時から家を出て生計を立て、某中丞に重んぜられ、出納を司らせた。月日を重ねると、家はたいへん豊かになった。年が四十を過ぎても子がなく、ふとみずからを省みて言った。「家産数万を誰に与えようか。」そこで万両を持って都にゆき、道員を買おうとしたが[90]、さらにひとり考えた。「官場は劇場のようで、一旦舞台を下りればすべてわたしの所有物でなくなるから、官にならないことの良さには及ばない。」嚢中の金をすべて使って書籍を買い、梱包搭載して帰った。家に着くと、まずは義学[91]を建て、近所の受験勉強できない者たちを教え、朔望のたびに、みずから学舎にゆき、かならず筆墨紙硯を賜って諸生を励ました。同時に行仁堂[92]を建て、貧民を救い、衣を施し、棺を施し、薬を施し、万事周到であった。まもなく、つづけて二子を生んだが、長子は暁峰先生で、後に年は九十を越え、みずから簪纓が膝を巡るのを見た。家大人は甘粛布政使[93]の官であった時、直接このことを知った。その時先生の家は蘭城[94]を隔てることなお三十余里、家大人は館[95]の後輩の礼で会いにゆき、風俗を尋ね、親しくし、たいへん楽しんでいた。惜しむらくは、封翁は数年前に天寿を全うしたため、その麗しい行いをよく聞くばかりである。

 

◎費封翁

 

今、江西の布政使費鶴江先生(開綬)[96]は、嘉慶庚辰[97]の翰林から今の職になったが、その父欧余先生[98]は、乾隆丙午[99]に副挙人から官位が陜西観察になったものであり、観察の父某は、常州府の書吏であった。人となりは、肝胆・知略があり、容貌は奇偉であった。乾隆年間、大旱魃があり、江陰の飢民千余人が徒党を組んで事を起こした時、大官は叛乱事件に坐させようとし、入奏することにしていた。費翁はその情況を知悉していたので、文書や名簿を、失火したと偽り、すべて焼き、府庁に自首した。知府はかれが賢いことを知っていたので、放置して問題にしなかった。この事件はそこで軽く処置することができた。事は二十余年を隔て、かれの子孫は蒸蒸[100]として日に日に栄え、[101]の人士はみなその顛末を知悉している。そもそもこれはわたしの郷里の廖東山封翁の故事と似ているが、諺にいう「役所では修行するによい」とは、このことである。

 

◎李書年宮保

 

霍邱県の民范二之は、家が貧しく、父は別の村で傭工[102]となり、范は某村の魏媼の家に婿入りして婿となっていた。媼は一人の娘がいるだけで、家も貧しく、(ワンタン)を売ることを生業としていた。范は婿入りして一年近く、翌年の正月十四日、突然いなくなった。媼は義子の韓三および隣人にあちこち探させたが姿がなかった。范の父はかれが殺されたと疑い、しばしば媼の家にいって騒ぎ立てた。その言葉が韓三を怒らし、韓に推されて転ばされたため、訴状で県に訴えた。県令王某は数回集めて訊問したが[103]、その実情は分からなかった。おりしも役所は一人の乳母を雇って来たが、魏媼と同じ村の人であったので、媼の婿[104]のことを知っているか尋ねた。すると言った。「知っております。隣家に聞きますと、姦通によって人を殺したようでございます。」王はそのため胸中に偏見を持ち、日々厳しく拷問したところ、范魏氏が韓三と姦通した、韓はその母娘とともに范二之を殺し、口封じする心を起こしたと称した。その屍骸の所在を質せば、屍はすぐにばらばらにし、鍋に入れ、煮て溶かし、土坑に撒き、骨を砕き、証拠隠滅することを期したと言った。数人が異口同音であったので、事件は決着し、囚人を府に護送[105]したが、異論もなかった。この時、安徽の按察使は夏邑[106]の李書年先生(奕疇)[107]であり、調べた時、供述はすべてすんなりと出、暗誦しているもののようで、しばしば難詰しても、言ったことを変えようとしなかったが、疑いがないわけにはゆかなかったので、院に上申しようとしなかった[108]。知府は期限を越えていたので、つよく上申を求め、さもなければふたたび首府[109]に送って審問することを求めた。先生は聴かず、あらためて知府某にふたたび訊問することを委ね、頼んだ。「この事件は、供述によれば、肉は煮られ、骨は磨られたとのことだが、肺肝腸腹はまだ行方が知れぬから、ここから追及できそうだ、ほかに手がかりがあるかもしれない。」高はそれに従った。犯人は本当に驚いて見、まったく知りませんと称したが、言うことはきわめて瑣末なことであった[110]。先生はさらに原差[111]を捕らえて厳しく拷問するように命じたが、供述によれば、県の令状を奉じ、范二之を尋問した当初、范に二軒の親戚がいることを知りました。先にかれの姑母の家に尋ねてゆきますと、話によれば、すでに正月十四日に殺されたのなら、どうして十五日にわたしの家で元宵を食べましょうと言いました。さらにかれの表伯母の家に訪ねてゆきましたが、やはりかれは十八日にわたしの家に泊まりましたから、どうして十四日に害されたと称するのですかと言いました。その時、わたくしはすでに范二之が死んでいないのではないかと疑い、県庁に帰りますと、その情況を告げようとしましたが、事件はすでに尋問されており、ひそかに門番に告げましたところ、かえって罵られ、小人がでたらめに申告するべきでないと言われましたので、余計なことを言おうとしなかったのでございますとのことであった。先生はそれを仄聞すると、慨然として言った。「この事件は本当に冤罪であり、けっして院に上申できない。」早く起き、夜も考え、属官に命じ、范父を催促させ、さらに探させたので、このことはぐずぐずとして半年処理されなかった。ある日、にわかに人が按察使の官署の大堂に来て泣き叫び、みずから范二之だと称し、以前、賭博で借財し、人に催促されたため、ひそかに外省に逃げたが、昨日隣人に会い、家の災難を告げられたので、みずから駆け付けて来たとのことであった。先生はすぐにみずからしっかりと訊問したが、何度しても異なることはなかったので、別室に置き、すぐに獄中の三人の囚人を引き出し、別々にその謀殺の情況質し、翌日すぐに囚人を護送し、院に上申する、おまえたちはみな法に服するべきだと述べた。三人の囚人はなおもそれぞれ頷き、悲しい顔はなかったが、范二之を召してともに飲ませると、人々ははじめて驚いた。范魏氏は真っ先に進み出、掴み止め、泣いて言った。「おまえはいったい人間か幽鬼か。今までどこにいた。わたしたちにここまで災いするとは。」泣き声が天を震わすと、魏媼は言った。「わたしはすでに一家の命をおまえの手により、葬り去られた。おまえが今日生きて帰ってくることは必要ない。」嘆いて死にそうになったが韓三だけは、顔を挙げてははと大声で笑った。たちまち堂上堂下のものはみなそのために袂で顔を掩った[112]。ひそかに見ると先生は堂上の座席に就いていたが[113]、やはり嗒然[114]として自失したかのように、一言も発しなかった。しばらくすると、はじめて三人の囚人に質した。「このようなひどい冤罪なら、前に取り調べた時、なぜ一言も異議を唱えなかった。」三人の囚人たちは声を揃えて泣きながら言った。「わたくしどもはその事件のために、府・県庁にすでに十余度ゆき、さまざまな拷問を受け尽くしました。これらの供述は、すべて県の下役に教えられたもので、供述を翻したために、上司が駁審[115]すれば、おまえたちはみな前のように多く苦しみを受けると言いました。わたくしは心胆がすでに砕け、近日中に判決があることだけを望み、これ以上冤罪を雪ぐことを求めようとしなかったのでございます。」先生が嘆いていると、突然府知事・県知事の二人がよろよろと外から闖入してきて、地に伏し、嗚咽して言った。「どうかわたしをお救いください。」先生はそこでやさしく慰め、言った。「あなたがたはふだんわたしが疑い深く、決断せぬことを笑われましたが、今回、この事件では、かえってわたしの疑い深いことが役に立ったことが分かりましたか。すべてあなたがたのすることに従っていれば、魏媼母娘および韓三はみな死刑になっていたはずですし、范の父の誣告、府県の失入[116]は、みな命で償うべきことになっていたはずですから、死ぬべきものは都合六人で、巡撫・按察使が流刑にするのは大したことではありません[117]。」その時、冤罪はにわかに解け、城内では万人が讃え、雲や霧を分けて青天を見るかのようで、大きい陰徳には、かならずあつく報いがあると思った。その年、先生は五十余で、まだ跡取りがいなかったが、翌年、一子を挙げた。銘皖と名づけたが、土地を記録したのであった[118]。後にさらにつづけて数人の子を挙げ、都合六人であった。銘皖[119]は庚子の進士[120]に合格し、現任の刑部主政[121]である。銘舒は癸卯の挙人に合格し、銘霍、銘啓らはみな学校で名声があった。聞けば、論じるものが言うには、その事件で冤罪を雪がれ、死を免れた者は六人で、先生が得た子の数とちょうど符合していた。果報は明らかであり、天道がこのように違わないのは、なんとも奇異ではないか。先生はもともと乾隆庚子の進士で、銘皖はちょうど道光庚子に進士[122]となり、その試験の時、先生は年が八十余であり、父子は先後六十年を隔てて進士の同年となったのは、芸林の佳話であり、世を挙げて二つとなかった。先生はかさねて鹿鳴に宴し[123]、かさねて瓊林に宴し[124]、みな恩を蒙ることが多く、宮保[125]に昇進した。天が善人に報いることは、まさに尽きない。そもそも先生は詞林[126]から官位は儀部[127]に改まったが、家大人はともに後塵を拝していた。先生が両浙を巡撫した時、家大人は武林の役所で謁見したことがあり、先生に冤罪を雪いだ盛徳があることを仄聞していたが、その詳細を知らなかった。今年、わたしは杭州で観政し、先生の令弟見斎邑侯(道融)と朝晩会い、見斎はわたしのためにくわしく述べたので、つつしんで記に著し、敬慕を記した。

 

◎陶雲汀[128]宮保

 

安化の陶文毅公は、巾巻[129]の寒門からにわかに顕達したが、わたしの『前録』はかれが微賎の時に別に娶った一件を述べた[130]だけで、かれの亡父の陰徳に関しては詳しく述べなかった。後に于蓮亭観察(克襄)[131]の『聞見録』を閲し、はじめてその積み重ねが厚いことを知ったので、くわしく載せ、後の人を戒めざるを得ない。そもそも文毅公の太高祖伯含公は陰徳が多かった。前明の末、農村には厳重に自衛するものが多く、窃盗犯を縛り、溺殺するものがいた。公が通り掛かると、賊は哀しみ叫んで言った。「お助けください。わたしは二度と賊とならないことを誓います。」公は人々にかれのことを宥めてやり、かれのもとの心がふたたび兆すことを慮り、渡し場に小舟を施し、人を渡させ、その生活に安んじさせた。公は死ぬまでに舟を八隻施したが、その人々はみな行いを改め、善行をした。公は外出するたびに小さい筐を持ち、砕けた磁器や瓦礫に遇えばかならず拾い、人々を利していた。亡くなった年には、空き部屋に積まれた砕けた磁器と瓦礫は、屋根に達するほどであった。かれの曽祖父文衡公も長者であり、以前、雪の夜、部屋に入って米を盗んだものがいたので、後をつけ、かれの家を知ったが、であったので、何も言わずに帰り、結局その人のことを言わなかった。歿後三十余年して、かれの連れ合いの彭氏の太夫人[132]がたまたまそのことを挙げて子孫に示したので、はじめてこのことが知れたが、なおもその姓名を秘していた。康熙戊子[133]九月、隣家が火に注意せず、焼けてすべて尽きたが、その宅は恙なく、その倉の隣家にあったものも残った[134]。江を隔てて火を消しにくる者は、紅衣の人が長袖で扇を持ち、塀の上に立って扇ぐのを見た。火は塀に達すると止まり、塀もそのために明るくなった。彭太夫人はすべて倉に貯えていたものを火事に遭ったものたちに与えた。さらにかれの祖父寅亮公は、性格が淡白で、経営することがなかったので、家は没落した。ある日、たまたま江の畔を歩いていて、落ちている金を見つけ、終日待っていたところ、一人の男があたふたと来た。顔色は土のようで、俯いて砂礫の中を見ては、ひどく悲しんでいた。尋ねると、言った。「傭工をし、数年帰郷しておりませんでした。家には老母がおり、今、数年の身金を貯え、帰郷して養おうとしていましたところ、すべて失いましたので、悲しんでいるのでございます。」その金額を尋ねると、まったく符合していたので、すべて渡した。その人は半分を分けようとしたが、公は言った。「あなたの金を分けるのでしたら、あなたを待っていたりはいたしません。」笑って去らせた。その人は叩頭して去った。かれの太翁賢公萸江[135]先生になると、義挙はもっとも多く、宮保の文集にくわしく見える。徳を積むことが広く深く、この福報いがあり、欧陽文忠が「その身になければかならずその子孫に」という[136]のは本当であった。

 

◎秦簪園[137]学士

 

嘉定[138]の秦簪園先生が、孝行によって一代の大魁となったことは、以前詳しく述べた[139]が、今さらにその厚徳について聞いたので、あわせて記録する。先生は若い時、(かお)がたいへん醜く、質実で文飾がなかった。合の晩、新妻は悶悶と坐し、涙を落としていた。先生は尋ねた。「わたしは才能はないが、学校に名を列ねている。家は豊かでないが、衣食は十分だ。今日は吉日なのに、なぜこのようなありさまなの。」新妻は言った。「幼い時に婿の家に嫁にゆくことになっていたのですが、父母はその人の貧しいことを嫌い、最初の約束を反故にしたのでございます。」先生が誰かを質すと、新妻はその姓氏を述べたが、同学の友であった。先生はすぐに走り出ると、人を遣り、同学の友を招いて来させ、事情を告げ、さらにあやまって娶った罪を謝した。さいわい結婚していなかったので、すぐに自分の洞房[140]を同学の友の洞房とした。翌日、嫁入道具や衣服をすべて同学の友に贈り、帰らせた。その後、乾隆癸未科[141]で礼榜[142]に登り、伝臚の前、上位十本[143]はすでに褚廷璋[144]、蔡履元、商衡、李調元[145]霽、董潮[146]、程沅、馮丹香、斉卿、張秉愚であると知られていた。第一位の褚公は長洲の人であったが、同郡の某宦と平素から仇隙があった。おりしも諸城[147]の劉文正[148]決定した十本を進呈したところ、某宦はかれを中傷しようとし、文正公に語った。「おもてにすでに新たな鼎甲[149]を迎えています。」公はもともと公正無私で、謀略だと分からなかったので、その言葉を聞くと、勃然として言った。「わたしに不正があるはずがありません。そう仰るのなら、改めなさい。」[150]そこで第十一から第二十までの秦大成、沈初、韋謙恒、董誥、孫効曽、費南英、祝徳麟、李家麟、孫良慧、曹焜の十本を進呈し、簪園先生が結局多士の首席となった。

 

◎孟封翁

 

わたしの郷里の孟瓶庵[151]先生の家で殺生を戒める物語を伝えていたことは、すでに『前録』に載せた[152]。前年、福州に帰り、さらにその封翁の逸事を聞いたが、大いに世を励ますことができる。封翁は、出身は貧賎であったが才智は豊かで、手元の貯金は二十余両に過ぎなかったが、他人のことを自分のことのように切実に考え、ただ殷殷[153]として人を救うことを考えていた。ある日、たまたま事情があって某郷の宿に泊まったところ、宿の隣の老婆と嫁二人の泣き声がきわめて哀切であった。封翁がひそかに尋ねると、知れたのだが、隣家の老婆に息子某がおり、数年前、他郷に商売に出たのであった。かれは去る時、三年でかならず帰ることを約していたが、その後、音信がなくなり、今は期日を過ぎてさらに三年であった。かれがすでに死んだことを伝えたものがいたので、嫁の実家は嫁を奪って再婚させようとし、日を決め、縁談が纏まれば、すぐに嫁迎えに来ることになっていた。老婆は嫁と離れるに忍びず、嫁も誓って嫁ごうとしなかったが、なすすべはなかった。封翁はそこでその息子がどんな商売をしているか、どこで商売しているか、いつの年に家を出たかをくわしく尋ねた。そして偽ってその子の家書を作り、十両を封じて箱に入れ、三年が満ち、旅装を調えようとしているが、商売がまさに繁盛しているので、すぐには帰ろうとしない、××が通り掛かったので、特別に家書ならびに銀十両を託し、帯びさせた。家に負債があれば、わたしが秋に帰ってきて清算するのを待てと述べた[154]。その夜、手紙をみずからその家に送り、すぐに避けて去った。老婆は手紙を手にすると、嫁に示し、嫁の実家はそれを聞き、前の計画はにわかに中止となり、二度とよそに嫁がせると言おうとしなくなった。その年の仲秋、その子が本当に帰って来たが、かれが外で商人をしていた事は、すべて手紙の中の言葉と合っていた。母がかれの手紙と銀を送られたことに言及すると、その子は茫然とし、言っていることが理解できなかったので、母は感嘆した。「これは神さまがひそかに守って下さったのだ。」そこで一家は空に向かって頓首感謝した。数年後、封翁にまた事情があって某郷を過ぎると、昔の宿はすでに主人が変わり、店は母屋と繋がっており、たいへん清潔であった。真ん中に小さい龕があり、龕位牌があり、その家人が日々香燭[155]を供し、朔望ごとに、家中の人々がみな来てたいへん恭しく拝礼していた。封翁はたまたまどんな神かと尋ねた。主人が、神が代わりに手紙と銀を送った事を述べると、封翁は莞然として言った。「それは神でなく、わたしの一時的にしたことです。それなのにお宅からこのような礼拝を受けては、わたしの福を損ないます。」かれが信じないことを恐れ、手紙の中の言葉を誦えてやったが、一字も違わなかった。すぐに位牌を撤去するように求めると、主人ははじめて泫然と泣き、はっと悟り、いそいでその母に求め、その家人を呼んでみな出させ、言った。「恩人がこちらにいらした。」みな羅拝[156]した。そもそもその子が帰って来た後、暮らし向きは安定し、宿屋を買い、自分の宅に入れたことを、封翁は知らなかったのであった。翌年は乾隆己卯で、瓶庵先生は発解[157]し、一年後は庚辰[158]であったが、すぐに連捷して進士となり、翰林から銓部[159]に改まり、司文枋を、病と称して帰った。しかし封翁はまだ健在で、今まで家は隆盛で、科挙及第は続き、福州の望族である。みな封翁の報いを受けているのであろう。そもそも数年前、わたしは李石舟観察(国瑞)[160]がその郷里儀封の張清恪公[161]が微賎であった時の逸事を語るのを聞いたが、これと似ている。清恪公のことは康熙年間のことであり、話も詳細でなかった。瓶庵先生の家の事は家大人は見ることができたので、かれを捨ててこれを録した。

 

◎顔軍門

 

顔軍門(嗚[162]は、粤東梅州[163]の人で、資性豪俊、読書を好んでいた。その頃、ある人相見が、かれは後日長い槍、大きい剣で功名を得るはずだと言ったが、顔はそのでたらめを笑い、刻苦してますます励んだ。年が三十になると、合格を急ぎ、父の喪に服していたが、喪が明けぬうちに、受験して学校に入ったため、同郷人非難せられた。ある人が言った。「人相見の言葉は験があろう。あなたの骨相は魁梧奇偉だから、後日朝廷から閫外の任を委ねられ、恥ずかしいことはない。どうして終生読誦を事としよう。」顔はその言葉を善しとし、読書を放棄し、騎射を習った。一年後、すぐに弓術が抜群となることができ、一回の試験で首席となり、武科に合格した。公車で北上し、舟が維揚[164]に着き、晩に停泊していると、隣の舟で郷里の言葉が騒がしかったので、いって尋ねれば、みな南越[165]の武会試に応ずるものであった。そこでともにゆくと、番禺の朱某が、病が激しく死にそうになっており、みなで岸に棄てることを相談しているのであった。心配しているのは、後日帰郷する時、朱の親族が屍と棺を求めて訴訟を起こすことであった。顔は言った。「これは酷い。あなたたちは朱君と同郷なのに、原野に棄ててイヌ・ブタの腹を満たさせるのか。」人々は言った。「おまえだって同郷だろう。おまえの舟に連れていってはどうだ。死者を立たせて白骨に肉付けできるかもしれない[166]。局外の人となるだけなら、議論は当たってはいない。」顔はそこで毅然として朱を連れ、舟に帰り、みずから湯薬を施した。一日後、舟を棄て、陸に登ると、朱は病がますますひどくなり、車中で歿した。途中、納めるものがなく、宿屋には死んだ者は入れなかったので、帕を死者の頭に被せ、にわかに毒に中たったと嘘を言った。車中の震動を恐れ[167]、背負ってゆくこと三十里、晩に宿屋に入ったが、主人は気づかなかった。翌日、土地を選んで埋葬し、土盛りして去った。試験場に入ると、顔はもとより文士であったので、武備は熟知していなかったが、策論[168]は洋洋として数千言で、場中に並ぶものはいなかった。同考官はかれが外場[169]は単好[170]に列なっただけだったので、ひとまず放っておいた。夜、仮眠すると、ぼんやりと案頭に奇すしき光が発するのが見えたので、起きて見れば、顔の答案であった。灯を掻きたて、抜き取って閲すると、思わず手を打ち、言った。「この人は後日将軍となれば、祭遵[171]、羊祜[172]に匹敵しよう。」主司劉文正公に薦め、その異変を述べ、首席合格した。後に海疆[173]歴任し、福建台澎鎮役所水師提督となり、功名を得て終わった。

 

◎陳黙斎総戎[174]

 

山陰の陳黙斎総鎮(広寧)は、世襲の雲騎尉[175]から寿春[176]、兗州[177]、揚越三鎮総兵を歴任し、『寿雪山房詩集』があった。官位が福州の中協[178]であった時、家大人と文字の交わり[179]をなし、さらにともに金石の学を語ることを好み、収蔵品はたいへん多く、儒将の風流と称することができた。人付き合いに熟達していたので、その家世を全うすることができた。そもそも康熙初年に陳理という者がおり、もともと山陰の旧家であったが、官位は広西平楽府の司獄となり、桂林の籍に入った。孔兵の乱[180]で、攫われた婦女千余人を救い、脱することができないのを恐れ、みずからその家を焼いたことあった[181]。事が収まると、さいわい本籍に帰れた。後に長子廷恭は康熙甲戍[182]の進士となり、官位は都察院左都都御史に到った。次子廷康熙庚辰進士に登り、官位は安徽廬州府知府に到った。(孫)斉襄は雍正七年、保挙賢良方正[183]に応じ、官位は江西の広饒九南道[184]に到り、その次の斉叡は官位が江南鎮江府通判、次の斉賢は官位が陜西[185]知府、次の斉芳は官位が湖北監利県知県、次の斉庶は官位が刑部直隷司員であった。外の四人は、いずれも雍正元年の同榜挙人であった。次の斉綬は、恩蔭生[186]であった。次の斉紳は、乾隆壬申に進士に合格し[187]、官位は翰林院編修であった。その曽孫聖瑞に到り、官位は刑部陜西司郎中で、聖時は官位が山東道観察御史、聖伝は官位が福建台湾県丞で、林爽文[188]の難に殉じ、雲騎尉を世襲した。聖修は官位が南府通判で、いずれも挙人であった。黙斎はその元孫で襲蔭[189]したものであった。科名仕官はたいへん盛んであるといえ、その亡父の陰隲がこのように大きいことを知らなかった。これは昆山徐氏の先の故事と似ており、かれがこうした衍慶[190]流芳[191]をともにしているのは当然である。

 

◎許氏が徳を積むこと

 

銭塘の許氏の陰徳に関しては、以前、許の姻戚戴君槐谷が述べたことに基き、楽亭先生が陝甘に遊幕し、災害を救った一件を、すでに三録に載せた[192]わたしは浙江で需次していた時[193]、家大人に侍して西泠[194]に僑寓し、戴君の家を再び訪問したが[195]、先生の曽孫許季伝広文が述べた、先生の楚省の幕中での一件は、陰徳がさらに大きいので、補録する。それによれば、楽亭先生は諱を尭堂といい、乾隆初年に湖北某府の幕中で法務を司っていた。おりしも教匪の事件が起こり、知府は賊魁数人を捕らえ、一党の姓名総冊を捜し出し、先生に草稿を作り、冊子を作り、上司に通告することを委嘱した。先生は冊子を閲したところ、そもそも数万軒で、みな無知な田舎もの[196]の、誘惑・脅迫されて従った者たちであったので、惻然としてそれを悲しみ、その難を救い、この案件を終わらせようとし、夜通し考え、毅然として起きると、結局冊子を取って焼いた。夜が明けると、知府に告げた。知府はそれを聞くと、はじめは憤然としたが、その後悟り、賊魁数人だけを通告し、処罰するように命じ、その困難は解決した。まもなく、子の石蘭公鉞[197]が乾隆戊午[198]の挙人に合格し、官位は司馬に到った。孫の学範[199]は乾隆戊子挙人に合格し、壬辰の進士となり、官位は治中[200]に到った。曽孫乃来は乾隆癸卯の挙人に合格し、官位は直隷州知州に到り、広西の名宦祠に祭祀せられた。乃大は嘉慶辛酉[201]挙人に合格し、官位は江蘇海州、藍翎[202]を賜った。乃済は嘉慶戊午[203]の副榜に合格し、庚申の挙人、己巳の進士、翰林に入り、肇羅[204]高廉[205]観察[206]から中央に入り、太常少卿[207]となった。乃谷[208]は道光辛巳[209]の挙人に合格し、敦煌の県官となった。乃普[210]は嘉慶癸酉の抜貢から、丙子の挙人、庚辰の一甲第二名の進士[211]に合格し、翰林に入った。枢廷に宿直し、南斎[212]に宿直し、紫禁城騎馬[213]を賜わり、今すでに官位は大司馬となり、しばしば文衡[214]を司っている。乃サは道光戊子の挙人で、乙未の進士に合格し、翰林に入り、今すでに侍講となっている。乃恩は道光癸卯[215]の挙人に合格し、季伝広文であった。かれの兄弟七人は、いずれも科甲[216]で、郷試は前の癸卯から始まり、後の癸卯に終わり、佳話として伝わっている。だから杭州の人は小郭汾陽[217]の称があって、海内で科名の盛んなものを言う時は、さらに「銭唐の許乃、固始の其」の対句があり、乃の字の世代以下の科名はまだ尽きないのであった。乃済の子桂身は道光乙酉挙人、普の子彭寿は道光甲辰の挙人で、丁未二甲第一名の進士となり、翰林に入った。乃サの子培身[218]は、道光丙午の挙人であった。乃来の孫の瑞は、乙酉の副貢であった。その学校に列なり、簪紱[219]を綰ねているものは、さらに指を屈するに勝えなかったが、すべて楽亭先生の本支[220]の末裔であった。さらに聞いたところでは、石蘭司馬は乾隆庚寅に帰郷し、土地を探し、親を葬った。青烏術に優れた李浙山がいたので、土地を里桐塢[221]に得たがその穴の所在が分からず、顧君善に遇い、占ってもらい、某月日の朝に紅衣の人がこの地上に立っているが、立っているところが穴であることを告げられた。その時になり、李君がはやく起きてそれを待っていると、本当に紅衣の人が来たが、農村の新妻で、山にゆき、柴を拾い、草を採るものであった。立っているところを見ると、沙は巡り、水は抱き[222]、カニの爪の形のようで、外は四つの山が取り囲み、前迎後送[223]、面面有情[224]、まさに吉壤であった。そこで楽亭先生をそこに葬った。先生の弟の華清公諱は、および石蘭公の昆従[225]で諱を鑑、諱を鈞というものも、みな合葬された。だから鈞の後裔でも、たとえば藕舲の庶子乃賡[226]、敬斎広文乃裕[227]、馥園孝廉は立身し、金橋主政[228]謹身[229]、蓮甫孝廉葆身[230]、鑑の子孫吉斎知府乃安[231]、聴樵孝廉乃寛など、科挙に及第するものが絶えないのである。許季伝孝廉はさらに言った。石蘭司馬はすでに桐塢に土地を選び、同時に赤山埠[232]でも土地を得、一族の中で力がないもののためにその先祖を葬ってやったが、術家はその土地がさらに勝れているから、易えるにしくはないと言った。石蘭公は言った。「かれらはわたしと一体だから、さらに幸福を得たとしても、どうして彼我を区別しよう。」結局、易えなかった。親族は葬った後、その末裔で粤東入籍した、名を其光[233]というものは、銭唐の乃の字の世代と同世代で、道光丙午科で広東の経魁[234]に合格したが、これも盛徳に由来する盛事であった。

さらに言った。尊父京兆公は、はじめ滇南の雲龍州[235]で官となったが、州城の外には山の崖が挟んで聳え、真ん中に急流があり、渡るが難しかった。こちらの岸で塩が採れたので、かならず向こう岸で商売したが、利に走るものには溺死するものが多かった。公は石壁を鑿で穿ち、鉄鎖を繋ぎ、土木で覆い、架け橋を造ったので、それからは往来に心配はなくなった。当時、公の長子は大挑[236]で越に赴こうとしたが、舟は鄱湖尾[237]の洪涛巨浸の中で転覆し、浮沈すること十余里、結局、恙なかった。そもそもひそかに助けるのものがいたのであった。さらにいった。公は黔西[238]で知事をしていた時、その地の塩税は有司に課せられ[239]、生員たちは塩をお上から受け、その税を払わないと、身を打って責められても、甘受して辞せず、ずっと慣習として怪しまなかった。公は言った。「わたしの子孫にも勉強するものがいるが、学校でp隸のように辱められることがどうしてできよう。」つねにその責めを許したので、人々も感激して納税を願い、塩課[240]に欠損はなかった。以上三つは、すべてかれの家乗が載せるに及ばなかったものなので、ならびに記述してやり、やはり公の家が世徳[241]を継ぎ、積善の余慶が記しきれないことを見るに足りる。

さらに言った。乃谷は孝廉から地方に出て甘粛知県となり、初任は環県[242]であったが、沙漠不毛の地であり、土地が痩せ、荒涼として寒冷であった。災害を処理する方法で治め、食糧を擲って世話してやり、山を掘り、石炭を得、井戸を浚い、甘い水を得、民はその利便に頼った。世俗を教戒する十八条があり、人民はみなそれを信じ、地方は日々裕福に、訴訟は日々簡素になった。その後、山丹[243]で溝渠を開き、土地を百頃手に入れ、民に九箇所を開墾するように勧め、ついで敦煌に赴任し、やはり民に水利農田を教えた。かれが着任するところ、辺地の人民はみなかれの賜物を受けた。過労のため任地で歿した。歿後、かれの弟滇生は江西の学署で、乩を迎え、君がすでに敦煌の土地神となったことを知った[244]

 

最終更新日:2018222

北東園筆録

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[1]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E9%BD%A1

[2]http://www.zdic.net/c/7/6a/102157.htm祖父

[3]http://www.zdic.net/c/4/10/26719.htmの叔

[4]梁上國

[5]http://zh.wikipedia.org/wiki/1768%E5%B9%B4

[6]http://www.zdic.net/c/5/2c/69393.htm

[7]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E7%AB%A0%E9%89%85

[8]http://www.zdic.net/c/c/1C/43492.htm人が会試を受験すること

[9]http://www.zdic.net/c/4/4/8574.htmのある

[10]百百齢をさす。

[11]http://www.zdic.net/c/1/2f/70756.htm封疆大吏。http://www.zdic.net/c/1/2f/70714.htm督、巡など一省あるいは数省の政大総攬する官

[12]http://www.zdic.net/c/6/107/280231.htmする帽飾り。「子」、「頂帯」とも称する。

[13]この辺の事情は、こちらの赤字以下の記述を参照。

[14]原文「發吾閩交督撫差遣時」。「交」が未詳。とりあえずこう訳す。督撫の仕事の一部を任されたということか。

[15]http://www.zdic.net/c/c/36/81734.htm京官

[16]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%B8%AB%E8%AA%A0

[17]http://www.zdic.net/c/d/150/332849.htm巡撫

[18]http://www.zdic.net/c/9/149/323216.htm、太傅、太保。

[19]漢典に適切な語釈なし。訳文の意に解す。

[20]原文「此大風水地」。「大風水」が未詳。とりあえずこう訳す。

[21]http://baike.baidu.com/subview/27396/4965889.htm

[22]http://baike.baidu.com/view/39459.htm?fromtitle=%E9%81%82%E5%AE%81%E5%B8%82&fromid=5515527&type=syn

[23]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E9%B5%AC%E7%BF%AE四川遂寧

[24]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E7%8E%89%E6%9B%B8

[25]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%8B%B1_(%E6%B8%85%E6%9C%9D)

[26]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%BB%B7%E7%8E%89

[27]これか。

[28]一族に五つの家があるのであろう。

[29]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA7Zdic91308035.htm科挙合格者。

[30]http://www.zdic.net/c/f/f/24524.htm卿相に次ぐ朝廷の大官。

[31]http://www.zdic.net/c/9/6b/103312.htm水が良い墓地

[32]話はこちら。その中で、「竹立城」という言葉が見える箇所。

[33]巳年には郷試も会試も行われないはずなのでこの記述は未詳。こちらを参照。

[34]こちらに名が見える。

[35]http://ja.wikipedia.org/wiki/1777%E5%B9%B4

[36]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A3%E5%85%83%E7%9B%8A

[37]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic9CZdic9D169891.htm中央の官

[38]グーグル検索結果

[39]未詳。

[40]グーグル検索結果

[41]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E7%AC%A6%E5%8D%87

[42]http://www.zdic.net/c/f/e2/227445.htm五行のの相生相克。

[43]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%95%BF%E6%B4%B2%E5%8E%BF

[44]http://www.zdic.net/c/4/10/26719.htmの三番目の叔父。

[45]http://www.zdic.net/c/4/71/112525.htm

[46]http://baike.baidu.com/view/2150029.htm

[47]http://www.zdic.net/c/5/8c/154719.htm禅定に入り、心神を怡悦させること。

[48]http://wapbaike.baidu.com/searchresult/?word=%E5%BD%AD%E7%BB%8D%E8%A7%82&uid=0CF48BB83F34C722E870268F82F2CB91&bd_page_type=1&st=1&step=1&net=0&ldr=-1

[49]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E9%81%8B%E6%98%8C

[50]http://www.zdic.net/c/d/f4/252808.htm翰林院。

[51]http://archive.ihp.sinica.edu.tw/ttscgi/ttsquery?0:0:mctauac:TM%3D%B4%5E%A7%C6%BE%FC

[52]グーグル検索結果

[53]http://www.zdic.net/c/a/e/20971.htm礼部の郎官

[54]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%AD%E8%95%B4%E7%AB%A0

[55]軍機処

[56]http://www.zdic.net/c/a/171/383515.htm・群は人名、陳紀群の父。累代の交情の喩え

[57]http://baike.baidu.com/view/122075.htm

[58]http://baike.baidu.com/view/384879.htm

[59]http://www.zdic.net/c/f/6a/102755.htm都察院副官左副都御史の

[60]順天郷試のことであろう。

[61]http://www.zdic.net/c/2/f6/256345.htm官吏が吏部に赴きずること

[62]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%95%BF%E5%AE%81%E5%8E%BF

[63]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%AD%E5%AE%9A%E6%B1%82

[64]http://www.zdic.net/c/1/e1/223283.htm超脱して累がないこと。

[65]http://www.zdic.net/c/a/77/120868.htm貴顕

[66]この話

[67]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BB%93%E5%B8%82

[68]http://www.zdic.net/c/1/e2/227549.htm合格して取得した功名。

[69]グーグル検索結果

[70]http://www.zdic.net/c/a/143/313380.htm翰林

[71]http://www.zdic.net/c/6/11/28497.htm八股文。

[72]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9Zdic80Zdic89247954.htm官を铨選、人材を提拔する事。

[73]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE8Zdic89ZdicBA338909.htm文学芸術界。

[74]http://baike.baidu.com/view/288974.htm

[75]http://wapbaike.baidu.com/view/189071.htm?uid=6B3A8EE3F804579E0E484AB5036C016D&bd_page_type=1&st=3&step=3&net=3&ldr=2&statwiki=1

[76]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=836326

[77]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=836326&searchu=%E4%BB%81%E5%B1%B1

[78]グーグル検索結果

[79]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E5%98%89%E6%85%B6%E5%85%83%E5%B9%B4%E4%B8%99%E8%BE%B0%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[80]http://zh.wikipedia.org/wiki/1783%E5%B9%B4

[81]http://zh.wikipedia.org/wiki/1789%E5%B9%B4

[82]http://zh.wikipedia.org/wiki/1801%E5%B9%B4

[83]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%9C%E5%B1%B1_(%E8%8B%8F%E5%B7%9E)

[84]http://zh.wikipedia.org/wiki/1645%E5%B9%B4

[85]http://baike.baidu.com/view/220562htm

[86]http://zh.wikipedia.org/wiki/1755%E5%B9%B4

[87]http://zh.wikipedia.org/wiki/1825%E5%B9%B4

[88]http://baike.baidu.com/view/1074727.htm

[89]http://zh.wikipedia.org/wiki/1790%E5%B9%B4

[90]原文「將捐道員」。「捐」は金で官職を買うこと。道員道台。省以下、府以上一的官

[91]http://www.zdic.net/c/9/31/75714.htm学校

[92]文脈からして明らかに救貧施設だが、普通名詞なのか固有名詞なのかは未詳。

[93]http://zh.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B8%85%E6%9C%9D%E7%94%98%E8%82%85%E5%B8%83%E6%94%BF%E4%BD%BF

[94]未詳だが、蘭州のことであろう。

[95]庶常館と思われる。

[96]http://wapbaike.baidu.com/searchresult/?word=%E8%B4%B9%E5%BC%80%E7%BB%B6&uid=0CF48BB83F34C722E870268F82F2CB91&bd_page_type=1&st=1&step=1&net=0&ldr=-1

[97]http://zh.wikipedia.org/wiki/1820%E5%B9%B4

[98]グーグル検索結果

[99]http://zh.wikipedia.org/wiki/1786%E5%B9%B4

[100]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic92ZdicB8235721.htm興隆のさま

[101]http://www.zdic.net/c/7/14a/324028.htm常州。

[102]http://www.zdic.net/c/3/e/20668.htm雇われて人のために働く人

[103]原文「縣令王某集訊數次」。「集訊」が未詳。とりあえずこう訳す。

[104]これは文脈からして韓三のことであろう。

[105]http://www.zdic.net/c/b/87/149804.htmすでに供述した犯人を上官に護送し再審すること

[106]http://baike.baidu.com/subview/74745/11105606.htm

[107]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%A5%95%E7%96%87

[108]原文「因此不敢詳院」。「院」が未詳。ただ、文脈からして按察司よりも上級の機関であろう。撫院すなわち巡撫のことか。

[109]http://www.zdic.net/c/6/31/77652.htm省会が所在する府

[110]原文「語甚支節」。未詳。とりあえずこう訳す。http://www.zdic.net/c/f/10b/289851.htm

[111]未詳だが最初に派遣された下役であろう。

[112]http://www.zdic.net/c/9/14c/329202.htm衣の袖で顔を掩うこと。面目ないという動作であろう。

[113]原文「竊視先生坐堂座中」。「坐堂座中」が未詳。とりあえずこう訳す。

[114]http://www.zdic.net/c/2/72/114296.htmの神情。

[115]http://www.zdic.net/c/3/36/83938.htm回再駁問審訊

[116]http://www.zdic.net/c/1/69/100293.htm罪を重く裁いたり、判決すべきでないのに判決したりすること。

[117]原文「而撫臬之譴戍又其小矣。」。巡撫・按察使が府・県知事を流罪にするのはたいしたことではないと言っているものと解す。

[118]原文「以地志也」。「銘皖」の「皖」は安徽のこと。

[119]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E9%93%AD%E7%9A%96

[120]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E4%B9%BE%E9%9A%86%E5%9B%9B%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%B9%B4%E5%BA%9A%E5%AD%90%E6%81%A9%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[121]http://www.zdic.net/c/b/4/8785.htm官名。旧各部の主事の

[122]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E9%81%93%E5%85%89%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%B9%B4%E5%BA%9A%E5%AD%90%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[123]https://www.google.co.jp/#q=%E9%87%8D%E5%AE%B4Zdic重ねて鹿鳴に赴くこと。http://www.zdic.net/c/d/ed/242851.htm清の制度で、人が郷試合格後六十周年で、重ねて原科(同一干支の年)逢うと許可を、新たに合格した人とともに鹿筵宴に赴いたが、それを「重赴鹿」と称した。

[124]http://www.zdic.net/c/d/ed/242892.htm重ねて林に赴くことhttp://www.zdic.net/c/d/1c/42309.htm清の制度で、士は合格後六十周年で、重ねて原科(同一干支の年)に逢うと、礼部の許可により、新たに合格した士とともに恩栄宴(通称林宴)に赴いた。

[125]http://baike.baidu.com/view/950315.htm

[126]http://www.zdic.net/c/d/f3/250489.htm翰林院

[127]http://www.zdic.net/c/a/e/20970.htm礼部主事及び郎中の称。

[128]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%BE%8D

[129]http://www.zdic.net/c/e/72/116069.htm学生

[130]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=65440&searchu=%E9%99%B6%E6%96%87%E6%AF%85%E5%85%AC

[131]https://www.google.com/?hl=zh-CN&gws_rd=ssl#hl=zh-CN&q=%E4%BA%8E%E5%85%8B%E8%A5%84

[132]http://www.zdic.net/c/a/6b/104827.htm官吏の母。

[133]http://zh.wikipedia.org/wiki/1708%E5%B9%B4

[134]原文「其倉在鄰舍中者亦獨存」。未詳。とりあえずこう訳す。隣家の敷地内に自分の倉庫を所有しているのか。

[135]グーグル検索結果

[136]原文「歐陽文忠謂不於其身必於其子孫」。出典未詳。グーグル検索結果

[137]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E5%A4%A7%E6%88%90

[138]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%AE%9A%E5%BA%9C

[139]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=773861&searchu=%E5%A4%A7%E9%AD%81%E5%87%BA%E5%AD%9D%E5%AD%90%E5%AE%B6

[140]http://www.zdic.net/c/e/143/314784.htm新婚夫の居室。

[141]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E4%B9%BE%E9%9A%86%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%B9%B4%E7%99%B8%E6%9C%AA%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[142]未詳だが、会試の合格掲示板であろう。会試は礼部試ともいう。

[143]原文同じ。「本」はここでは答案を数える量詞。

[144]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%9A%E5%BB%B7%E7%92%8B

[145]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%B0%83%E5%85%83

[146]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A3%E6%BD%AE

[147]http://baike.baidu.com/view/31356.htm

[148]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E7%B5%B1%E5%8B%B3

[149]http://www.zdic.net/c/e/23/54925.htm状元、榜眼、探花の称。

[150]原文「外間早已迎新鼎甲矣。公本公正無私、不知機詐、聞此言、勃然曰、難道我有弊乎。既有此言、盍改諸。」。この段未詳。とりあえずこう訳す。

[151]http://baike.baidu.com/view/234320.htm

[152]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=773861&searchu=%E5%BB%A3%E6%84%9B%E9%8C%84

[153]http://www.zdic.net/c/7/13f/309239.htm切実急迫のさま。

[154]原文「俟我秋間歸來易清也」。「易清」が未詳。とりあえずこう訳す。

[155]http://www.zdic.net/c/9/25/58380.htm祭祀用の香と蝋燭

[156]http://www.zdic.net/c/7/152/337478.htm囲んで拝すること。

[157]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdic91193868.htm郷試首席に合格すること

[158]http://zh.wikipedia.org/wiki/1760%E5%B9%B4

[159]http://www.zdic.net/c/8/fc/265236.htm官吏の拔を主管する部

[160]グーグル検索結果

[161]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A0%E4%BC%AF%E8%A1%8C

[162]https://www.google.com/?hl=zh-CN&gws_rd=ssl#hl=zh-CN&q=%E9%A1%8F%E5%97%9A%E8%87%AF

[163]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%B7%9E%E5%B8%82

[164]http://baike.baidu.com/view/798315.htm

[165]http://www.zdic.net/c/7/149/322772.htm広西。

[166]http://www.zdic.net/c/7/d5/207890.htm死人を救い、白骨に再び肉を生じさせること。人に再生の恩を与えることの喩え。

[167]原文「恐車中顛播」。未詳。とりあえずこう訳す。http://www.zdic.net/c/0/24/57720.htm

[168]http://www.zdic.net/c/6/a0/186652.htm政治問題について論説策を加えて提出する文章。

[169]http://www.zdic.net/c/6/13c/301414.htm、外分かれていた。外験し、内を試験した

[170]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=98755&searchu=%E5%96%AE%E5%A5%BD

[171]http://baike.baidu.com/view/272294.htm

[172]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E7%A5%9C

[173]http://www.zdic.net/c/7/4/8357.htm沿海地区あるいは沿海海域。

[174]http://www.zdic.net/c/b/17/36993.htm統帥。某種の武

[175]http://www.zdic.net/c/1/f6/258758.htm武官名。

[176]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%98%A5%E5%BA%9C

[177]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%97%E5%B7%9E

[178]原文同じ。まったく未詳。

[179]http://www.zdic.net/c/7/94/168466.htm交わる朋友。

[180]まったく未詳。

[181]原文「曾救釋被掠婦女千餘人、恐不得、遂自燒其廬。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[182]http://zh.wikipedia.org/wiki/1694%E5%B9%B4

[183]「保挙賢良方正科」という試験があり、それのこと。

[184]http://wapbaike.baidu.com/subview/14391371/14988115.htm?uid=53604FFC5A1DBF7E98A95726E520B56C&bd_page_type=1&st=0&step=8&net=0

[185]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%84%9C%E5%B7%9E

[186]http://www.zdic.net/c/b/152/338879.htm先祖に勲功があったことにより、特に任官の格を持つことを許されている人

[187]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E4%B9%BE%E9%9A%86%E5%8D%81%E4%B8%83%E5%B9%B4%E5%A3%AC%E7%94%B3%E6%81%A9%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[188]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%88%BD%E6%96%87

[189]http://www.zdic.net/c/d/d2/200582.htm先祖の官位爵号を承すること

[190]http://www.zdic.net/c/d/3d/94839.htm慶事が絶えぬこと

[191]http://www.zdic.net/c/1/143/312493.htm名をえること。

[192]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=773861&searchu=%E6%9D%AD%E5%B7%9E%E8%A8%B1%E6%B0%8F%E9%99%B0%E5%BE%B7

[193]http://www.zdic.net/c/0/fb/264671.htm官吏が授した後、経歴に従って順番に缺せられること。

[194]http://www.zdic.net/c/f/14c/329031.htm「西陵」とも称する。「西林」とも称する。名。杭州孤山の西北の端にあり、は孤山から北山に入る時に必ずる路

[195]原文「重訪君家の事」。「君」は戴君槐谷のことか。

[196]http://www.zdic.net/c/1/ee/244213.htm農村の人民への蔑称。

[197]http://lstic.tw/ls/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=thread&order=DESC&topic_id=300&forum=6

[198]http://zh.wikipedia.org/wiki/1738%E5%B9%B4

[199]http://baike.baidu.com/view/6412543.htm

[200]http://baike.baidu.com/view/59487.htm

[201]http://ja.wikipedia.org/wiki/1801%E5%B9%B4

[202]http://www.zdic.net/c/d/d4/203439.htm礼冠の上の飾り物。冠の後ろに挿し、尾で作り、色なので、かく称する。

[203]http://zh.wikipedia.org/wiki/1798%E5%B9%B4

[204]https://www.google.co.jp/#q=%E8%82%87%E7%BE%85

http://zh.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B8%85%E6%9C%9D%E8%82%87%E7%BE%85%E9%81%93

[205]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=754114&searchu=%E9%AB%98%E5%BB%89

http://zh.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B8%85%E6%9C%9D%E9%AB%98%E5%BB%89%E9%81%93

[206]http://www.zdic.net/c/2/152/339176.htm

[207]http://baike.baidu.com/view/10076336.htm

[208]グーグル検索結果

[209]http://zh.wikipedia.org/wiki/1821%E5%B9%B4

[210]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E4%B9%83%E6%99%AE

[211]こちらを参照。

[212]http://www.zdic.net/c/7/2/3966.htmhttp://www.zdic.net/c/7/a/17311.htm北京故乾清西南隅にあり、もともと清の康熙帝が若年で読書していたところ。後に翰林あるいは翰林出身の官そこに当直し文字を撰写する外、皇帝の旨意に従って令を起草し、政令を布する場所となった。雍正年処が成立した後は、もっぱら詞書画の事を司った

[213]グーグル検索結果

[214]http://www.zdic.net/c/7/91/160966.htm文章の高下を判定して士人を採用する

[215]http://ja.wikipedia.org/wiki/1843%E5%B9%B4

[216]http://www.zdic.net/c/1/13e/308035.htm科甲出身http://www.zdic.net/c/1/9e/180906.htm及第によって出仕の格を取得すること。

[217]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E5%AD%90%E4%BB%AA

[218]グーグル検索結果

[219]http://www.zdic.net/c/a/a8/199848.htm冠簪と纓帯。官。それによって貴顕、仕宦をもえる

[220]http://www.zdic.net/c/c/b/19169.htm同一家族の嫡系と庶出の子

[221]グーグル検索結果

[222]グーグル検索結果。風水の用語と思われるが未詳。

[223]グーグル検索結果。風水の用語と思われるが未詳。

[224]グーグル検索結果。風水の用語と思われるが未詳。

[225]http://www.zdic.net/c/6/2c/69165.htm兄弟子侄。

[226]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E4%B9%83%E8%B3%A1

[227]グーグル検索結果

[228]http://www.zdic.net/c/b/4/8785.htm各部の主事

[229]グーグル検索結果

[230]グーグル検索結果

[231]グーグル検索結果

[232]グーグル地図検索結果

[233]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E5%85%B6%E5%85%89

[234]http://www.zdic.net/c/f/e9/237271.htm明清の科試験分けて士を採用し、郷試及び会の上位五名は五中からそれぞれその首席を取り、魁と称した。

[235]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%91%E9%BE%99%E5%8E%BF

[236]http://www.zdic.net/c/7/d9/211384.htm三回以上会不合格の人の中から、一等のものを選んで知として用い、二等のものは教として用いたこと

[237]グーグル検索結果

[238]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%94%E8%A5%BF%E5%8E%BF

[239]原文「その處の鹽課於有司」。未詳。とりあえずこう訳す。

[240]http://www.zdic.net/c/0/e2/227117.htm象として徴収する税。

[241]http://www.zdic.net/c/6/3/7147.htm累代の功徳、先世の徳行。

[242]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%AF%E5%8E%BF

[243]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%B9%E5%8E%BF

[244]原文「知君すでに為敦煌土地神矣。」。「君」が未詳。文脈からして乃谷を指していることは間違いないのだがなぜ「君」というのかが未詳。

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