●巻二

 

◎漳州の城隍

 

福州漳州府の城隍神は、言い伝えでは、李容斎布政使(賡芸)[1]だといい、霊威はたいへん灼たかであった。戴昆禾知府(嘉穀)[2]が漳州[3]を治めていた時、刑名友[4]の沈小隠を招いた。紹興の人で、数年いっしょにおり、たいへん褒めて親しくしていた。戴が福州に転任する時、沈がいっしょにゆくことを望んだが、沈は承諾しなかったので、戴はたいへん怒った。ある日、家人たちに言った。「沈師爺[5]はわたしを数年間たいへんよく助け、わたしの待遇も悪くなかった。わたしは知府に転任すれば、事はさらに煩雑になるから、自分が信頼しているものがともにゆくのが安心なのに、いっしょにゆこうとしないのは、とても腹立たしいことだ。」ある家人がおもむろに答えた。「沈師爺がゆかないのは、ご主人さまの幸福でございます。」戴が愕然とし、わけを尋ねたので、家人は知っている、賄賂を得て法を枉げた数件を答えた。戴がひそかに探ると、嘘ではなかった。出発するになると、戴は書斎に潜んで一通の疏文を書き、あやまって悪人を用いていたことをみずから咎め、ならびに一つも自分が関与していないことを告げ、城隍廟に遇うごとに焼いた。その日、沈はまだ寓所を移していなかったが、日暮れ時にすぐに病んだ。かれの家族は弱によるものだと思い、高麗人参の(スープ)を煎じて飲ませたが、効かなかった。さらに州の名医某を招いて診察させたが、某が来、門に着くとすぐに、一人の男が中から出て来、卒然として尋ねた。「おまえは沈某を治しにきたのか。」「はい。」その人は言った。「この人は治療できない。治療して効果があれば、おまえによくないことがある。」某は惶然[6]とし、よく見ると見えなくなった。某はかれが治せないことを知り、入って診察したが、処方を書いてやらなかった。その妻はいそいで人参を煎じて飲ませようとし、表の間にいったところ、三人の男がいた。一人は長身で、二人はやや短身であった。長身の者は鉄鎖を手に執っていた。さらに見れば、紙で作ったものであった。二人は一人が牌を持ち、一人が扇を持ち、すぐに中に入った。その妻がいそいで帰ると、燈火はにわかに消え、沈は亡くなっていったので、はじめてはっと気がついた。見えた三人は、閩中のいわゆる「走無常」[7]であった。神がしばしも時を延ばさないことはこのようであった。

 

◎姚伯昂先生が述べた二事

 

姚伯昂先生[8]は言った。門人湯海秋侍御(鵬)[9]の夫人唐氏が難産で死んだ。その日、ちょうど折差[10]が湖南に帰ることになっていたので、湯は家書を作ったが、時間が切迫していたので、草草として数行をその義父に書き送っただけで、病気の顛末を述べるに及んでいなかった。かれの義父は城外に住んでおり、城から離れていた。手紙を得ると、娘を悼み、たいへん悲しんだが、病因は分からなかった。その晩、乩を設けて尋ねた。まもなく、乩が動き、娘が来て言うには、海秋は、前生は四川綿竹[11]の知事、彼女は幕友であり、主客はたいへん親しくし、主人の銀を使い、万両に及ぼうとしたことがあった。現世では男子の身に転ずるはずであったが、主人の銀を返さず、恩に報いていなかったので[12]、とくに娘の身を現して報いたが、今は縁が尽きて死ぬことになっているので、留まれないということであった。病んだ事情を、とくに詳しく述べていた。これは道光甲午年[13]のことであった。世間では、人の世の妻子には返済する者と取り立てる者がいると言っている。わたしはそこで思い出したが、以前、妹がおり、五歳の時に痘瘡で危篤となり、呻吟してたいへん哀しく、幾昼夜も声が絶えなかった。張太夫人がはやく去ってはどうかと言うと、大声で言った。「まだ八千文の負債があり、償いきっておりませんから、すぐには去れません。」亡き贈光禄公はわたしに告げさせた。「かならずその銭で納棺し、さらに千文を加えて紙銭を焼いてやるから、はやく去るべきだ。なぜそのように苦しみを嘗めているのか。」わたしがそのことを告げると、その晩、すぐに死んだ。だとすれば、返済・取り立ての話誤りはない。

さらに言った。河南彰徳営の参将は、−その名は忘れた−、奇病となったが、医者はどんな病気か分からなかった。日々ひとりで語り罵り、債権を取り立てるもののようであった。かれの配下の穆守備斉賢は口才があったので、宥めにゆくと、病人は大声で叫んだ。「わたしは前世で四川総督、××は総兵だったが、わたしの万両を借りたのに償わなかった。数十年探し、今回はじめて探し当てたが、××は裏切りが本当にひどかったから、許せない。かならずかれの命を取ろう。」穆は言った。「参戎[14]は負債を償いませんでしたので、大人がお怒りになるのもご尤もですが、世を隔てた事であり、今、参戎は一貧ここに到っていますから、どうして償えましょう。かれの命を奪ってゆかれても、大人に何の利益がございましょう。かれに金額通りに紙銭を調えさせ、焼いて償って差し上げさせるのは、宜しいでしょうか。」病人は許諾した。そこで紙銭を買って焼くと、病人は言った。「銀の質はたいへん劣っているし、平もたいへん短いから、相殺できない[15]。」穆はそこで資金を集め、金銀箔を買い、人々に頼み、折って錠にし[16]、焼かせた。病人は言った。「今回は銀の質はたいへんよいが、まだ若干平が短い[17]。」穆がさらに補うことを請うと、病人は言った。「必要ない。おまえも今回は苦労したから、短いのは労に報いているのだ[18]。」感謝を述べて去り、参戎の病も治った。だとすれば、紙銭は本物の銀と相殺できるのだろうか。

 

◎貧しい女が恩に報いること

 

人煙が輻輳している地区では、吉日になると、結婚がつねに十余件あった。ある日、二つの家がともに娘を嫁がせたが、一人はたいへん富んでおり、一人はたいへん貧しかった。道半ばに差し掛かると、雨がはげしく来、担ぐものはそれぞれ彩輿[19]を郵亭に置き、四散して雨を避けようとした。貧しい女は輿の中でたいへん悲しく泣いたので、しばらくすると、富豪の娘も心を動かし、下女を遣って尋ねさせた。「娘が人に嫁ぐ時は、父母から離れ、兄弟から遠ざかり、本当にたいへん苦しいものですが、なぜそのように悲しみ嘆くにいたったのです。」貧しい女は言った。「わたしの実家はもともと貧しゅうございますが、嫁ぎますのも乞食の子で、明日はどうなりますやら分かりませんので、嘆いているのでございます。」富豪の娘はそのために惻然とした。俗に嫁ぐ娘の両袖にかならず貴重品を入れ、それを「圧袖」というのだが、富豪の娘は袖に荷嚢[20]二つを貯え、それぞれ金錠一緘、重さは約二十余両であった。そこでそれを出し、下女に命じ、貧しい女の懐に収めさせ、「萍水[21]の出会いで、贈りものにするものがありませんが、これを持ち、粥を求めれば、にわかには飢えと寒さを致さぬかも知れません。」と語ったところ、貧しい女は受け取った。姓名を尋ねようとしていると、雨が晴れ、輿夫が集まり、二人は路を別々にした。貧しい女は嫁いだ後、贈られた金を出し、その夫に元本利息を計算させ、十分の一の利を求め、豊かになり、大商人となり[22]、家はにわかに栄え、ひろく田園を買った。しかし買った財産は、田はかならず二か所、屋はかならず二か所で、原資と得た利はかならず等しく、人々はどういう意図なのかを解せなかった。生来施しを好み、わたしの同郷人たちはみな善人と称した。しかし後継ぎはなかなか授からず、十年を経てはじめて男子が生まれると、掌上の珠のように思い、乳母を選んで育てさせた。乳母が来た時、下女たちはしもべの家の裏の楼三楹を指し示し、言った。「毎朝、奥さまは沐浴を終えると、すぐに香を捧げ、従者を遠ざけ、その上にゆきますから、けっして登ってはなりません。逆らえばけっして許されません。」なぜかと尋ねると、人々は言った。「わたしたちはこちらに来て十余年になりますが、みな知らず、つつしんで決まりを守っているばかりです。」乳母が育んだ子は、だんだん歩けるようになり、たちまち縋って登ろうとし、乳母が阻めば、叫び跳ねてやむことができなかった。いっしょに登って入れば、その中は空洞で何もなく、香案だけが設けられており、南向きの一龕は、幕で遮ってあった。乳母はしばらく掲げて見ると、思わず大声で泣いた。人々が声を聞き、女主人に告げ、争って尋ねると、乳母は罪を認め、言った。「坊ちゃまが登ろうとなさいましたので、転ばれますことを恐れ、倉卒の間にこまかく考えるに及ばず、ご無礼致したのでございます。どう罰するべきかは、ご主人さまのご命に従いましょう。」どうして泣いているのかと尋ねると、乳母は涕を揮って言った。「先ほど見ましたところ、その中に荷嚢が掛かっており、わたしが嫁ぐ時に圧袖にしたものと似ておりました。あの日ゆく途中、貯えていたお金を嫁ぐ娘に送りました。その時、実家と婚家はいずれもたいへん盛えていましたので、まったく意に介さず、お金が貴ぶべきものであることも知りませんでした。ところが今日はここまで落魄するに到りました。」そう言うとまた泣いた。下女たちは怒鳴ると泣き止んだ。主人は尋ねた。「おまえが嫁いだのはいつだ。」乳母は某年月日を答え、尋ねた。「その日は雨に遭ったか。」乳母は言った。「雨が降らなければ、わたしの荷嚢はもとよりございました。」主人は聞いて黙然とし、彼女を罰しもせず、その夫を探してきた。乳母は自分を追い出そうとしていると思い、ますます悲しみに勝えなかった。翌日、主家は燈彩[23]を設け、梨園を召し、貴賓を持て成そうとしているかのようであった。ならびにその親族を召してみな来させた。その時になると、堂中に二席を並べ、二座を設け、傍らに二つの(つくえ)を連ね、帳簿を高さ一尺ばかり積んだ。乳母の夫はおもてにおり、四人のしもべに命じて引き入れさせ、四人の女は部屋の中から乳母を擁して出し、それぞれ二人を上座に着かせ、動かぬようにさせた。主人・女主人は身を倒して跪拝し、拝すると、起きて言った。「以前お金を贈わりましたのは、わたしども夫婦でございます。乳母どのがいらっしゃらねば、今日があるはずがございません。荷嚢を収蔵し、忘れぬことを示し、日々頂礼し、お会いすることを願い、財産は二つに分け、利益をもっぱらにしようとしませんでした。今さいわいに天が縁をお与えくださり、恩に負いて世を終えなくてすみました。この地産の帳簿は二つに分け、その一つを留め、一つを舅姑にお返しすることを願います。」親族に示したところ、異議はなかった舅姑は慌て、声を揃えて、とんでもない、とんでもないと何度も称するばかりであった。主人はそこで席に着くように促し、酒杯を奉り、宴を開き、楽を奏でさせた。二鼓になると、灯を掻き立て、東院に送り返して泊まらせたが、几案衾榻は、主人の住まいとすこしも違いがなかった。舅姑はもともと富豪出身であったので、もとからあったもののようにそれに安んじた。乳母は娘を生むとすぐに、他人に預け、養わせ、自身は家を出、雇い人となっていたが、ここに至って迎えて帰った。後に成長すると、乳を飲ませた子に婚約させた。『両家は代々結婚し、朱陳村[24]のようであった。世人は、舅姑はその成功を坐して享受したもので、たなぼたに近いのではないかと疑うが、金を贈ったとき、特に惻隠の一念が感応して齎されたものであることを知らないのである[25]。貧しい女はにわかに富むと、すぐに恩に報いることを誓ったが、天がひそかに助けたのは当然であった。造物はどうして人にみだりに福沢を与えようか。

 

◎神廟の香火の資金

 

山西解州の関帝廟[26]は、西門の外にあり、霊験は常ならぬものであった。廟の中には昔、香火の資金にする銀二万両が蓄えられていた。胡州牧というものがおり、この州を治めていたが、三千両を借用し、返さぬことを望んだ。辞官し、新任のものが来ると、胡は館舎[27]に引っ越したが、夜、人が門を叩いたので、尋ねると、こう答えた。「西門外の、姓を周というものですが、お役人さまに返済を求めます。」このようにすること三夜、毎晩このようにすること三たびであった。胡は心の中でそのわけを知っていたが、最後までそれを惜しんだ。去る前の晩、また来、さらに言った。「このお金は、用いるべき公務がございますので、はやくお返しになるべきでございます。さもなければよくございません。」言葉はたいへんやんわりとしていたが、胡は恐れ、金額通り金を返した。まもなく、劉松嵐(大観)[28]が河東を観察し[29]、着任しようとし、平定[30]にゆき、夜、夢みたところ、関帝が前に来たが、赤い旗があり「漢寿亭侯」[31]と大書していた。劉が身を屈め、進み出て迎えると、神は言った。「河東は、わたしの郷里なので、災難があったら、よくごらんになるべきだ。」劉は目ざめたが、意味が分からなかった。歳甲子、乙丑、丙寅の間[32]で、解州は大旱魃であったので、劉は上司に求め、粥を設けて救った。賑廠(すくいごや)はすぐに廟の前に設けられた。公費が尽きようとしたので、増額を奏請しようとしたが、さらに時日を要したので、心のなかでたいへんそれを心配していた。夜に夢みたところ、周将軍[33]が語った。「救う費用は足りぬから、廟の中に蓄えてある金を借りてはどうか。」劉は目ざめると、廟内にある銀三千を借りて用いたが、胡州牧が返したそのままのものであった。人々はそこで前に胡に返済を求め、用いるべき公務があると言っていたのは、そのことなのだと悟った。劉はそこで廟を修理し、文を作り、石碑に刻んだ。そもそも人は欺けぬが、神ならばなおさらである。債務は踏み倒せぬが、香火の資金ならばなおさらである。周将軍は処置が善を尽くしているといえる。俗に伝えるには、周将軍は剛猛[34]の気が多いとのことだが、この件では語気はやんわりとし、まったくかれの平生に似ていなかった。世の冠帯[35]の人で、借金を取り立てられ、腹を立てて向かい合い、反目し、仇敵となるものは、やはり恥ずべきである。

 

◎晋寧の科甲

 

葉庶常(桂)は、甘粛晋寧州の人であった。かれの父親は、官位は把総[36]で、みずからは読書できなかったので、子に望むことがもっとも切実であったが、子は久しく場屋に苦しんでいたので、鬱鬱として亡くなった。某科郷試で、初八の夜、葉が夢みたところ、かれの父が来、責めた。「しばしば受験したが及第せぬのは、すべておまえが不注意だからだ。某と某は今回すでに合格しているが、おまえは努力すれば、今回の試験も望みがあるから、励め。励め。」話が終わると、号軍[37]はすでに問題用紙を受け取りに来いと叫んでいた。葉は目ざめたが、まだ惴惴[38]としていた。そして夢の中で挙げられた合格する二人については、まったくその名を記憶していなかった。合格発表があると、晋寧で合格したものは三人で、葉もその中にいた。その二人は劉伯欧、王汝舟で、夢の中で挙げられていたのは、そもそもその人であった。晋寧は国朝になって以来、一科で三人が合格したことはなく、これが初めてなので、かれの父親はそれに欣喜し、かれを励ましたのであった。壬午[39]の春、葉は進士となり、毛春門礼部(鼎亨)[40]の門下に出た。庶吉士を授かった日、毛が夢みたところ、一人が進み出て言葉を述べた。「葉某は、わたしの伜でございます。お引き立てを蒙りましたので、とくに拝謝しに参りました。」毛はそのことを葉に語り、さらに夢の中の人の風采挙動を述べてやったところ、すべてかれの生前のようであった。平生の思いが、一旦にして遂げられたので、数千里を遠しとせずに思いを致すに至ったのであった。だとすれば、孝子慈孫で顕揚の願いを持つものは、どれほど励むべきであろうか。孫山[41]の外となれば、冥冥の中に涕を流し、欷歔に勝えないものは、どれほどであろうか。

 

◎龍溪の知事

 

龍溪[42]は、漳州の首邑[43]であり、風俗は剽悍で闘いを好んでいたので、人命事件が多かった。婺源[44]の程某はこの県の知事となり、李森図を招き、刑席[45]を司らせた。その時、鍾雲亭制軍[46](祥)[47]が福建・浙江を総督し、各属官が事件を調べるのが遅く、下手人の捜査捕縛を理由に、事件を決着させようとせぬことが多いのを怒った、州県に命令を下し、判決を遅らせてはならない、悪人を捕らえられないことを理由にしてはならないとした。程はいそいで上官によいところを示そうとし、ある事件で正犯が真犯人でなかったのに、すぐに事件を決着させようとした。李は手紙を程に送り、真犯人でないから、判決できないと言った。程は答えた。「真犯人でないことは分かっているが、いかんせん上司の催促が厳しいから、こうせざるを得ないのだ。」李はさらに言った。「九つの事件のうちすでに八つを決着なさったのですから、この事件がすこし遅れても、遅くはございません。」程は冤罪があればわたしが責任を負う、あなたとは関わりないと答えた。そして事件を決着させ、それを上申した。程はすぐに事情があって官職を去り、李は解雇され、城隍に上書し、みずから告げた。その夜、程は夢みて冥府にゆき、調べを受け、頭を垂れ、罪を認めた。程は役人の稼ぎが豊かで、多くは蘇州で運用していたので、家族を連れて蘇州へいったが、まもなく、病気になり、みずから剄って死んだ。本籍で営んでいた田園・家屋は、一日も安らかに享受できなかった。論じるものは言った。「李は程の俸禄を食み、囚人の冤罪であることを知り、争って従われず、去れなかったが、これも過ちがなかったとはいえない。」

 

◎刑官の前世の罪

 

『竹葉亭雑記』[48]にいう。刑部の老いたp隸が、夢みてとある場所にゆくと、宮殿は巍峨とし、上座には東岳廟の塑像のようなもの、階の下には無数の幽鬼を列ねていた。まもなく、一人の男を引いて来、問答したが、聞いてもはっきりしなかった。上座にいるものは怒って言った。「絞罪にするべきだ。」p隸がじっくり見れば、その役所の秋審処[49]提調[50]の張某であった。まもなくさらに一人を引いて来たが、前のように問答し、上座にいるものは言った。「斬るべきだ。」p隸がじっくり見れば、今度はその役所の秋審処提調の某であった。まもなくさらに一人を引いて来たが、体と顔はたいへん大きかった。上座にいるものは怒りがやや晴れたかのようで、両目を除かせた。隸卒がじっくり見れば、本部尚書長牧庵相国麟[51]であった。隸卒は股が震えて目ざめた。まもなく、張は地方に出、観察となった。ある日、紅衣の二人の娘が祟りをなし、あらゆる手段で懲らしても去らなかったが、観察が太夫人の部屋に避けると、幽鬼は入ろうとしなかった。太夫[52]は、節婦であった。後に太夫人が寝ているのを窺い、にわかに入り、締め殺した[53]呉は後に某府を治め、頚に瘡を生じたが、これが世にいう断頭瘡で、亡くなった。長相国は失明を病んだだけであった。法務を司るものは慎まぬことができようか。家大人はいった。長牧庵閣老は亡き叔父太常公[54]の乙未[55]の同年で、正人君子であることを失っていないようだ。乾隆年間、公は山東を巡撫した。当時、毎年某関所には、撫署[56]を護送するための公費が幾ばくかあったが、公は上奏して公的機関に属させようとした。かれの長公子懐亦亭[57]雲麾[58](新)は、ちょうど十余歳であったが、不可だと思い、言った。「大人(たいじん)[59]がこのお金を取られなくても、清廉とするに足りませんし、上奏して公的機関に入れましても、代わるものが来たとき、かならず旧例に従い、関所を司るものに二倍出させることでしょう。」従わなかったところ、後に本当に公子の言葉の通りになったので、公もいささか見識が深くなかったことを悔いた。カシュガル弁事大臣[60]となると、することはたいへん要領を得ていた。これより前、新疆が置かれた当初、一切の賦税はジュンガルの時に比べると減ずることはあっても増すことはなかったので、回民[61]は喜んで服属した。カシュガルの回民には、()()()()[62]という種族がおり、もともとみな運送・販売で生計を立てているものたちであり、まったく恒産がなく、毎年の慣例は、金十両、金絲緞三匹であった。乾隆二十七年、莫薩という知府がおり、正供[63]以外に普爾銭[64]二十千文を求めた。弁事大臣海明[65]調べ出し、すぐにこの銭を正賦[66]にした。公は上奏し、賦税[67]のもとからあるものでないのだから、すぐに除くべきだとし。さらに伯徳爾格ははじめ八十余だけであったが、乾隆四十五年になると、四百余戸になっていた。弁事大臣瑪興阿は貢金四十両を増すことを論じ、公は、中国か外国か、人民か回民かを論ぜず、人口は日々多く、生計も日々苦しくなっているが、昔から戸数を数え、賦税を増す例はないと考え、すぐに除いてやった。さらにカシュガルの果樹園を管理する回民は、一年に葡萄千斤を献上していたが、弁事大臣永貴[68]は台站[69]を労するだけだと論じ、二百斤だけ収め、残りの八百斤は斤銭十文に換算して庫に貯えた。公は事が微細でも、規則に合っていなければ、一切それを免除した。これらはすべて、深く辺境統治の体裁を得ていた。このように廉明通達であれば、かれが刑部で過失を致したり、枉縦[70]することがなかったであろうことが分かる。

 

◎妄念によって身を辱めること

 

懐亦亭雲麾が言った。かれの同僚某の親戚の家の花園にキツネがいた。某は親戚の家を訪ねて酒を飲むことになったことがあった。かれのしもべはついてゆき、つねに園の隙に潜んで黙祷し、仙女に遇うことを願っていた。ある日、なんと美人が翩翩としてやってきたので、望外の喜びで、すぐに亭にとどめようとした。美人は望まず、言った。「亭は外の回廊に近く、人に知られる恐れがございますし、こちらの奥の建物はたいへん静かで、人は来ず、ここでなければ楽しみを遂げられぬことでございましょう。」童僕はついてゆき、三たび曲がって小さな穿堂[71]にゆくと、長榻は瑩然[72]としていた。美人は童僕に命じ、先に衣を脱いで臥させた。美人は襦[73]脱ぐとすぐに、偉然たる皓首龐眉[74]の老人となり、かれの臀を抑えて突いた。つとめてもがいても逃れることができず、痛がる声、怨む声は烈しかったが、結局外に聞こえなかった。身を翻して座を離れると、股の下が茸茸然[75]として新しい綿の間に坐しているかのように感じられ、老人はすでに見えなくなっていた。疲れて園を出ると、にわかに邸内の人に会い、結局このことを隠せなかったのであった。それから、肛門の傍に白髪が生え、周囲に群がった。それを人に示したことがあり、みずから隠しもしなかった。妄念を持つものの戒めとなすことができる。

 

◎借財

 

李進士貢南は、光州[76]の人であった。及第する前、狂疾を得、治癒すると、幽鬼を使役することができるようになり、しばしば事前に予言し、すべてくすしく当たるのであった。かれに手紙を寄せる人がいると、手紙が来ないうちに、先にその手紙の中の言葉を言えたが、すべて夢に託されるのであった。固始の曽舎人資見の家で勉強を教えた。固始に秀才図南というものがおり、貧しくて死に、残された妻と幼子は、自活することができそうになかった。その妻は苦しみを嘗めながら、貞操を守っていたので、一族の人々はみな憐れんだ。舎人には族弟の某という者がおり、李と親しく、秀才とも莫逆の交わりで、つねにかれの家が貧しいことを心配していた。ある日、李に尋ねた。「幽鬼を使うことがおできになるそうですね。わたしは手紙を図南さんに届けたいのですが、できますか。」李は言った。「できます。」ひそかに一通を封じて与えると、李は「李翼」の二字を封面の右に朱書し、その左に「値日功曹[77]に送付を仰ぎます」と書き、火を取り、書室の(なかにわ)で焼いた。晩になると、李は突然返書をしたためてやったが、返事を述べることはたいへん詳しく、見るものは李が幽鬼に仮託しているのだと思ったが、李はがかれに答えるように頼んだのだと言った。李はもとより前の手紙を見ていないのだが、答えは外れていなかった。手紙の中でかれの妻の貧窮を思うさまは、たいへん耿耿[78]とし、曽の配慮に謝するさまはたいへん殷殷[79]としていた。手紙の末尾では、かれが生前親戚友人に貸した金を、某某は三千、某某は二千と、すべて開陳し、その妻に請求するように言い含め、それを得ればすぐに生活でき、都合銭九十七千余文であるとのことであった。曽はその手紙をの妻に示したが、妻はまったく信じず、ひとまず手紙を持ち、負債があるものの家に示したが、みな悚然としてそれを返し、本当にその金額の通りで、彼女の家はそれによって生活できた。このことは曽舎人がみずから人に語ったことで、債務は踏み倒せぬこと、冥土の記録は、すべて違わないことを見るに足りる。しかし李は名を貢南というが、書面に書かれていたのは李翼であった。もしや陰陽二つの名があるか。

 

◎孝を勧めること

 

杭州に某甲がおり、病魂が家を離れ、冥府にゆき、一人の下役に会ったが、かれの旧友であったので、帳簿を調べてやったところ、眉を顰めて言った。「きみは父母に逆らっているので、法では(かまゆでじごく)に送られるはずだが、さいわい寿命が尽きていないから、ひとまず去り、天寿を全うしたらまたこい。」甲が慌て恐れて助けを求めると、下役は言った。「この罪は到って重く、仏も救い難いから、わたしに何ができようか。」甲は泣いて頼んでやまなかった。下役はしばらく沈思すると、言った。「諺に、『鈴を解くにまた鈴を繋ぐ人を要す[80]。』という。父母に無礼があるのなら、すぐに父母に孝行して懺悔すれば、挽回できるかもしれない。」送って帰ると、汗が出て治った。すぐに父母に向かってくわしく見たことを述べ、それから穏やかな表情で、世話するときはひたすら慎み、ならびに妻を戒めて温和にして怠らないようにさせ、たいへん父母の歓心を得た。父母が亡くなると、葬礼は礼式通りであった。後に年七十を越えて天寿を全うしたが、孝行によって挽回したのであろうか。

 

◎孝鬼草

 

姚舜賓は、無錫の人、忠直篤実で、農村では長者と目せられていた。家はきわめて貧しかったが孝行であった。母は年が七十であったが、句読を教えて養い[81]、たいへん温和な顔をし、菽水を欠かそうとしなかった。乾隆五十年は、大飢饉で、生徒はすでに散じ、日々薄粥も給せなかったので、焦慮窮迫し、まもなく病死した。葬式を挙げることができなかったので、家の裏の空き地に埋めた。翌日、見ると、土の上にたちまち一本の草が生えたが、形は山薬(やまいも)に似、種子を累々と結び、香ばしく、甘く、粘りけがあった。妻が採って食べると、終日飢えなかったので、姑に供した。朝に採れば(ひる)に生え、採っても尽きなかった。草は長さ四五尺、母が撫でて泣くと、すぐに地に伏して揺揺[82]と拝しているかのようであった。県内で噂が広まると、見るものは垣根のようで、みなかれの孝を嘉し、それぞれ美食を出してその母を養った。孝心が天を感動させることは、生きても死んでも変わらないが、これが経書にいう「()きず」[83]である。

 

◎宿怨で命を奪うこと

 

蘇州史家巷の蒋孝廉(東吉)に、息子がおり、徐氏を娶り、夫婦はたいへん睦まじくしていた。ある日、突然置酒し、夫とともに杯を手に取って言った。「わたしは宿怨がすでに訪れ、勢いを挽回することは難しゅうございます。さらに一杯を尽くすことをお勧めしてお別れしましょう。今後は、どうか思わないでください。」袂を掩って大声で哭いた。蒋生が背を撫でて慰めると、まもなく、氏はたちまち肩を聳やかして目を怒らし、大声で叫んだ。「おまえは万暦十二年、二人で謀りごとを設け、わたしを影光書楼[84]で斬殺したことを憶えているか。」手ずから頬を打ち、さらに鋏であまねくその体を刺したが、訛りは山東の人に似ていた。一家は伏し、跪き、哀願したが、結局祓われなかった。中街路[85]吉祥庵[86]の僧がおり、名を蓮台といい、もともと道行[87]によって有名であったので、人をやって召してこさせた。徐氏は不安そうにして言った。「禿めは恐ろしいから、ひとまず去ろう。ひとまず去ろう。」僧が出ると、さらに罵った。「おまえの家の嫁の部屋に朝晩和尚を住まわせられるのか。」僧は言った。「前世の仇で、二百余年でやっと探しあてられたものです。ぐずぐずするのが長くなるほど、怨みは深く、報いも厳しくなりますから、拙僧にできることはございません。」僧は辞して去り、徐氏はすぐに耳を切り、手を刺し、身を掐り、完膚がなくなって死んだ。

 

◎醵金して女を贖うこと

 

県の許也秋進士(大鉉)は、進士で需次[88]在籍[89]していたが、親戚の中に妾を買った者がいたので、日々肩輿[90]を担いで女の家にいってみた。ある日、二人の女を見ると大家の風があったので、尋ねると、父は貢生で、某兄も孝廉であった。そのため気の毒に思い、醵金して贖い、義女とし、先後して土地の人を選んで嫁がせた。このことは道光庚寅年[91]にあった。さらに一年後、也秋の子達泉(源)は壬辰の郷試に合格した。丙申に進士となり[92]、出て某県を治めたが、すでにたいへん循良の誉れが顕著であった。

 

◎砒素毒を解く処方

 

歙県[93]の医者蒋(紫垣)には秘方があり、砒素毒を解くとすぐに験があるが、かならず大金を要求し、要求を満たさないと、坐してその死を見ていた。ある日、献県[94]に治療にいったが、真夜中ににわかに亡くなり、宿屋の主人の夢に現れて言った。「わたしは利を貪ったために、九人の命を損い、死者は冥府に訴え、冥府は九世砒素を服して死ぬと判決し、今転輪に赴こうとし、わたしは鬼卒に賂し、砒素毒を解く処方を授けにきた。わたしのために一人を生かせば、わたしは一世の業報を受けずにすむのだ。あまねく伝えて世を利することができれば、あなたはさらに福を得ること無量であろうか。」そう言うと、泣いて去り、言った。「わたしは悔いても手遅れだ。」その処方は、防風[95]一両を研いで粉にし、水で溶かして服すもので、ほかの薬はなかった。南城[96]のケ葵郷の『異談可信録』はさらに載せているが、冷たい水に石青[97]を混ぜると、砒素毒を解くこと神のようであるという。善知識[98]が、心にとどめてあまねく救うことを願う。

 

◎負債でロバになること

 

蘇州の人薛端書(楷)は城西から夜に帰宅する途中、桐橋[99](おばしま)でしばらく休んでいたが、一人のp隸が囚人を繋いで先に坐していた。囚人は啜り泣いてやまず、p隸は鞭うっていたので、心に忍びないと感じ、傍らからとりなした。皀隸は言った。「これは南濠[100]の仲買人で、客商の銭を横領して、千に満ち、百を重ね、逃亡中も花街で楽しんでいた。仲買人徒手空拳でありながら、楽しみは素封家に等しく、客商が難を踏み、険を渡り、妻や子を棄て、命がけでこの阿堵物(かね)得たことを考えなかった。今回、冥府は山東の道上のロバにし、護送していって生まれさせるように判決したので、また遠い路をゆかねばならない。生前は客商の資金を糞土のように浪費していたのだから、今日はわたしに一杯の酒を買う一枚の紙銭もないはずはあるまい。まだ逗留して去ろうとしないか。」端書が竦然として立つと、皀隸と囚人はともに見えなくなった。

 

◎戯言を戒めること

 

湖南瀏陽県に欧陽生という者がおり、人となりは軽薄で、某生と同じ塾で勉強していた。その時、某生は娶ったばかりであったが、欧陽生は某生が娶った新妻がいかに美貌か、彼女と馴染みで交際し、いつもいっしょに親しみ合っていたことを述べた[101]。某生は性格が愚鈍で、かれが自分にふさげているのが分からなかった。帰るとその妻に喧嘩を売り、言い争い、親しまなくなったが、妻は理由が分からなかった。後に某生は妻が実家にいた時に家庭がだらしなかったと公言し、その妻は弁明するすべがなかったため、すぐに首を吊って死んだ。同塾のものたちはそのことを聞くと、戯言で事を誤ったとして、欧陽生を咎めたが、欧陽生は同窓の冗談だとして、意に介さず、まもなく事も収まった。乾隆戊申[102]秋闈で、欧陽生は試験に赴いた。試験場に入ると、×字第一号で、号房の外が騒がしかったため、第八号の某翁と交換した。某翁は湯茶が近くにあったので、やはりすぐに承諾した。その夜の三更過ぎ、突然、娘が簾を掲げて入って来、訝った。「どうして号房は合っているのに人は違うのだ。」疑い訝っていると、突然すぐに退出し、簾の下を徘徊し、嗚咽の声を出した。某翁は異変があることを悟り、こう質した。「報いる怨みがあるのだな。誰を探そうとしている。わたしに告げてはどうだ。おまえのために計らおう。」女は欧陽生のことを訴え、さらに欧陽生は今回の試験で合格するだろうから、阻みに来て、宿怨に報いるのだと言った。某翁は言った。「これは戯言を誤って聴いたもので、故意でないので、許せる。しかし、あなたの死はもとより不当なことだから、かれに七七四十九日の法事で済度してもらってはどうか。」女は言った。「それはもとより従えますが、欧陽生は人として信義がございません。」翁は言った。「おまえのために謀ってやろう。」女を留めてしばらく待たせ、翁はすぐに欧陽生に告げにいった。「×生の妻×氏があなたに尋ねに来ました。」欧陽生は話しを聞くとなすすべもなく、黙して語れなかった。翁は慰めてやり、今回の試験はかならず合格し、試験場を出た後、七七の法事を行えば、はじめて怨みが解けることを告げた。欧陽生は唯唯としていた。翁はかれに信義がないことを恐れ、契約書一枚を書くように求め、帰って女の幽鬼に告げた。某氏は字を見、半ば信じ、翁を保証人にし、翁は「保」の字を書き、紙を焼いてやった。女はすぐに涙を落とし、[103]して謝した。「このものを許すしかございません。」後に生は試験場を出、すぐに法事をしてやった。合格発表になると、本当に合格した。この試験の首題は「夫子は聖なる者か。何ぞ其れ多能なる」[104]であったが、欧陽生はあやまって「夫子は聖なるか」と書き、磨勘[105]で、罰として三回の受験を止められ、一回受験しただけで亡くなった。

 

殺尼姑弄

 

嘉善県[106]の北門内殺尼姑弄があり、その名の由来は分からなかった。言い伝えでは、弄に以前尼寺があり、一人の尼が先に肉屋と密通し、さらに他にも愛人を持っていた。肉屋は間男を嫉み、夜に乗じて部屋に入って殺した。証拠湮滅しようとし、その屍をばらばらにし、袋に収め、負って北門を出、河に沈めようとした。その時はまだ五更で、門番が質したので、婚家が神に供えるために屠殺したものだと答え、ごまかして出た。吊橋[107]につき、瞥見すると、黒くて鬍を生やした者が刀を持って橋の真ん中に立っていた。恐れて通ろうとせず、何回かたちもとおっていたところ、空はだんだん明るくなった。城外の人で市街に入ろうとするものは、袋の口から血が漉漉[108]と垂れているのを見ると、尋ねたが、門番に答えたように話した。しかし様子があたふたとしており、異変があるようであったので、負っているものをむりに開き、見たところ、つるつるの女の首で、四肢は分けられ、尼の屍であったので驚いた。叫んで捕らえて役所に赴き、取り調べると事実を述べたので、法律に従って斬罪にし、その庵を壊した。人はそこで弄を殺尼姑と名づけた。思うに、北門の外の柳洲亭[109]に関聖廟があるから、黒い鬚で刀を持っていたのは、周将軍の霊が、路で淫凶[110]を斬り、網を漏れないようにさせていたもので、やはり神威のあらたかであることを見るに足りる。

 

◎難を救ってたくみに報いること

 

山陰の陳某は、その名は伝わっていない。省試に赴き、舟が蕭山[111]の西興駅[112]に泊まっていると、たちまち市街で火が起こっていることを聞いた。舟を乗っていってみると、避難したものが紛紛としており、炎の中で、一人の娘が身に寸縷もなく、蹲って地に臥し、恥じ、恐れ、身の置き所がなくしていた。陳がいそいで一着の(うわぎ)を取り、抛って与えると、女は衣を得て体を掩ったが、家人が散り散りとなり、身を寄せる場所がないと号泣し、陳に救ってくださいと哀願した。陳は舟の一等の船室に泊まらせ、終夜一言も交わさなかった。朝起き、その実家を尋ね、助けて帰らせたが、たがいに急いでいたので姓名を尋ねる暇がなく、衣も返さず、陳はすぐに長江を渡って去った。試験場に入り、問題用紙が配られたが、文才は発揮できず、一字も思いつかなかった。苦しんでいると、隣の号房から呻吟する声が聞こえたので、覗いたところ、一人の生員が重病となっており、陳に言った。「わたしは病気になり、文はできましたが書けませんので[113]、白紙答案を出して試験場を出ることを求めるしかありません。わたしのために受験用具を点検してくだされば[114]、感謝は朽ちないことでしょう。」陳がかれのために計らってやると、生は尋ねた。「あなたの文はどうされましたか。」陳は事情を告げた。生は言った。「文はもう必要ございません。あなたの義に感じ、お送りしましょう。」陳は文を受け、生を助けて出した。号房に帰ると、すべてその文を録した。合格発表があると、結局合格していた。すぐに某生を探したが、知るものはいなかったので、しばらくすると放置してしまった。後に陳が大挑[115]で、安徽に派遣されたところ、一人の選任待ちの知事に会ったが、会ったことがあるようであった。じっくり見ると、昔、病を患っていた某生であった。それぞれ往事を述べたところ、某は蕭山の人で、あの年、試験場を出た後、病はすぐに癒え、次の試験ではかれも合格し、昨日こちらに来たばかりだということが分かった。陳はかれに感謝した。たまたま振り返ると、檐の下に衣が干してあったが、以前贈った娘の衣であった。思わず何度か振り返ると、某は訝って尋ねたので、陳はその顛末を語り、さらに衣を得た理由を尋ねた。某はぼんやりとして言った。「本当ですか。会われた娘は、家内です。火事にあった時はまだ嫁いでおりませんでした。わたしに嫁いだとき、笥にこの衣がございましたが、家内がわたしに語るには、昔、火災に遭ったところ、さいわい一人の士人が一着の衣を抛ってくれたので、体を掩って帰れた、たがいに急いでいて姓名を尋ねる暇がなく、衣も返しませんでしたので、つねに申し訳ありませんと呼び掛けております。ですから夏の日にはかならず干して収蔵し、報いようとしているのでございます。そもそもあなたがわたしに会われ、わたしがあなたにお贈りしたのは、すべてあなたの陰徳が齎したものだったのですね。冥冥のうちにわたしの手を借りて報いたのは、偶然ではございません。」そう言うと、妻を呼んで出して謝させ、それからは交際すること通家[116]のようであった。これは嘉慶初年の事であった。

 

◎幽鬼が孝子を恐れること

 

呉中の肉屋劉四は、大胆で、中年で資金数千両を貯え、納監[117]し、衣冠[118]に列なった。屠殺の刀を棄てたが[119]、仏になれず[120]、日々不良少年たちと飲酒、賭博、詐欺、あらゆる悪さをし、士林[121]はかれと伍することを恥じた。しかし、母に事えるときはたいへん孝順であった。ある日、かれの仲間が郊外の××家に悪鬼がおり、人が住もうとせぬことに言及し、劉四と約し、泊まる勇気があるなら、酒食でもてなすことにした[122]。劉四は欣然としてひとりでいった。人々は劉が幽鬼に苦しめられることを恐れ、みなで外に伏して見守っていた。霧色は蒼茫、月光は黯淡として、烏は鳴き、幽鬼は叫んでいた。ともに惴惴として戦慄し、「草木はみな兵[123]」のありさまだったが、突然、人[124]が声高に『蓮花落』[125]を歌うのが聞こえた。進んでいって戸を押すと、幽鬼がたちまち人の衣袂の下からにわかに進み、止めて言った。「劉孝子が中にいるので、わたしたちは野宿することしかできない。杯の酒はまだ温かくないから、おまえははやく帰って休め。」唧唧とすること数声で去った。人々はさらに驚き、衣を引いて走って帰った。幽鬼たちが追うと、塵沙は衣を染め、路傍の厠に落ちる者がおり、頭じゅうにあまねく木樨の花を挿して去った[126]

 

医地

 

人生で福を迎える心が極まれば、事として断じてその理がないものでも、にわかに信じて疑わない。青烏[127]説は、もとより廃することはできないが、一たび動かされれば、かならず最後は愚かとなる。都に趙八瘋子という者がおり、医地の説を創出した。これは亘古の奇語であるが、なんと信じるものがいる。以前、武清の県令に任ぜられたことがあるもののために地を占い、告げた。「先ほど吉壤[128]を見つけましたが、某村××家の厨房にございますから、その家を撤去すれば、吉穴を得られましょう。」某知事はそこで別に地を買い、家を造り、その人を移し、その家を買った。竈を壊すと、趙はさらによくみて言った。「この地は、惜しいことに、竈によって漏らされたために、地力が弱うございます。」某知事は言った。「どうしようか。」「癒やせばおのずと復元できます。薬は人参一斤、肉桂半斤を用いるべきでございます。この二つの物を得ましたら、わたしにお渡しください。ほかの薬はわたしがみずから調合してさしあげましょう。」某知事はかれの教えの通りにし、人参・肉桂を調えて授けた。一日後、地を掘って薬を下し、さらに告げた。「三日後の夜半に、一里離れたところに立ち、はるかにこの地に炎が上がるのを見れば、元気は大いに復しましょう。」そこでひそかに火薬を施し、地の外で、ひそかに人をゆかせ、某夜にはるかに提灯が前をゆくのを見たらすぐに燃やすことを約した。期日が来ると、某知事はその家族に命じ、その夜中の提灯を迎えさせた。見にゆき、真夜中になると、言った。「今だ。」そこでともにいった。しばらくして、はるかにその地を望むと、本当に炎が噴き出していたので、狂喜した。「あなたの家は福がたいへん大きゅうございます。元気の回復するのがこのように早いとは思いませんでした。」某知事もたいへん喜んだが、薬物のために、家産を半分以上消費した。趙はその人参・肉桂を売り、暮らしは安定した。まもなく、趙の子はともに亡くなり、趙も奇病となり、身はすでに死んだかのようで、飲食することができるばかりであった。そこではじめて大いに悔いた。平生騙されるものは某知事にとどまらず、人参・肉桂を売った資金も尽きた。身がその報いを受けたのは、天道の当然であった。騙されたものが、まったく理の有無を考えなかったのも、愚の愚であった。

 

◎薛二

 

蒋伯生大尹(因培)[129]が言った。山東の試用[130]の薛大尹(定雲)は、無錫の人であった。ある日、公館に坐し、湯麺を食べていると、たちまち一人の隷卒が前に来、尋ねた。「薛さまでしょうか。」「そうだ。」「排行は二番目でしょうか。」「そうだ。」隷卒は言った。「主人がわたしにあなたを呼ばせました。」薛は言った。「ご主人はどなただ。」「会えばすぐに分かりましょう。」食べ終わってからゆこうとすると、隷卒は言った。「帰って食べられても遅くございません。」薛はそこで思わずついていった。ある場所にゆくと、役人に会ったが、衣冠は州県知事と等しく、卒然として尋ねた。「おまえは薛二か。」薛は返事したが、心のなかでは官位が等しいのに、どうしてにわかにこのように呼ぶのかと怒っていた。上座に着いているものは怒鳴った。「わたしに会ったのに、なぜ跪かない。」すぐに引き下ろさせ、平手打ちにすること二十回であった。薛は、わたしを責められるものならば、官はわたしに勝っているはずであるとも思ったが、自分でどんな事を犯したか分からなかった。そこで大声で言った。「知事さま、どうかはっきりお調べください。小職は何事を犯したのでございましょう。」上座にいるものも大声で言った。「おまえは何者で、小職と称しようとする。」薛はそこで現在知県として試用されていることを述べた。上座にいるものは(つくえ)を推して立ち、にわかに進み出て謝罪し、誰がこちらに招いてきたかを尋ねたので、隷卒は跪いて返答した。するとはげしくその隷卒を三十回杖うち、薛を送り帰らせた。門を出て振り返れば、郷里の土城隍祠であった。公館にゆくと、その麺はまだ冷めていなかった。両頬はにわかに腫れたが、十日暇を取ると治った。その日、薛の隣家の僚友の長随[131]薛二がにわかに亡くなった。そもそも捕縛を誤ったことによるものであった。一日後、土城隍祠がたちまち火事で焼けた。薛も半年足らずで亡くなった。そもそもかれの精気はすでに疲弊し、俗にいう「火炎高からず」[132]であったので、鬼卒は近づくことができたのである。上座に着いていたものはその[133]罪を察せず、にわかに刑を施しにゆき、無辜の人があやまって打たれることを致したのであった。聡明正直でも何になろう。かれがすぐに冥罰を受けたのは当然である。

 

◎スッポンを食べるのを戒めること

 

新建[134]の漁師が一匹のスッポンを捕らえたが、きわめて大きく、背に八卦の形を連ねていた。見たものは驚き、逃がすように勧めた。漁師は愚劣凶暴であったので、言った。「所詮スッポンだ。」結局、料理して食べた。一日後、再び江で漁すると、無数のスッポンの群れが、舟を巡って浮遊したので、漁師たちは争って進んで捕らえ、闘いを招いた。以前大きなスッポンを捕らえた漁師が死ぬと、スッポンの群れは散じた。ああ。スッポンで紋様があるものは、通常の魚介ではないのに、(しおから)にされることを避けられなかったが、もしや智恵が晦まされていたのだろうか。老杜の『義鳥詩』[135]に「物情[136]報復あり、快意目前を貴ぶ」という。漁師がその仲間に報せれば、みだりに殺生するものの戒めとなせる。恐ろしいものである。怨恨の結末は。これは嘉慶己卯[137]冬の事であった。

 

◎アヘン

 

朱某は言った。官界にはアヘンを好むものが多い。あるものが言うには、文書を扱うのに疲れたときに喫すれば、精神を奮いたたせ、花柳の巷の遊蕩の助けとなるということであった。花柳の巷の男子、婦人などにも、やはり喫するものがいた。朱は蘇州で宴会した時、一人の老妓に尋ねたことがあり、これを喫する弊をたいへん詳しく語った。話では、男子がこの煙草を喫すれば、房事では数倍激戦することができ、婦人が喫すれば、まさにかれと対抗することができるということであった。しかしそれが久しくなると、男子の(へのこ)は損なわれ、日々縮み、だんだんなくなり、闘えなくなるのみならず、闘いの具すらなくなるに到るのであった。婦人は久しくこれを喫すると、精血がひどく損なわれ、すべての房事を苦しいこととし[138]、苦しみはもっとも名状できないものであった。人がすべて知ることができないのを恐れ、戒めを記して示す。

 

◎銭学士

 

銭金粟学士(林)[139]が、毎年つねに冥土に入って裁判していることは、人々がみな知っている。道光甲申[140]、同年の宮辛楣洗馬[141](煥)[142]と閑談したところ、宮は大考[143]を心配していた。銭は言った。「心配することはない。試験が受けられればそれでよい。」その後、宮は七月になって物故し、九月にはじめて大考があった。宮が病んでいた時、銭は見舞いにゆかず、病が革まると、はじめて臥榻の前にゆき、袖から一枚の紙を出し、焼いて去った。宮の子が火中からそれを攫うと、燃えかすだけが残っており、外の簽に「××の時に封ず」の三字があり、宮はまさにその時に歿していた。大考で官を選んだ後、さらにかれが冥土に入ったことを聞いたものがいた。尋ねたところ、「八月二十七日に一度だけだ。」と言った。何事かと尋ねると、「人を捕らえたのだ[144]。」と言った。何に拠るかと尋ねると、言った。「その冊子の注によれば、おおむね財を貪るものが多いが、貪るものが千に満ち、万を重ねるに到っても捕らえないこともある。」なぜかと尋ねると、言った。「わたしも分からない、その時にはよいと感じ、すぐには捕らえないだけだ[145]。」冊子を閲した時、下役が傍らにおり、冊子の中の二人の捕らえるべきものを指摘した。わたしはかれが余計なことを言うのを憎み、またかれに不正があることを疑い、捕らえなかった。それが済むと、衣冠をつけた顕官が(つくえ)に拠っており、冊子を受け取ったものが冊子を献じた。その人は閲し終わると、捕らえたものはきわめて合っており、二人が漏れているだけだと言ったが、まさに前の下役が指していたものであった。わたしが補って捕らえることを求めると、顕官は言った。「命を奉じてあなたを招いて来、これを弁じさせたのだから、捕らえるのもあなた次第、許すのもあなた次第で、補えない。」その時、家大人と程春廬先生(同文)[146]はともに盤山の行帳[147]におり、学士がこのことを述べるのをみずから聞いた。その冬、学士はすぐに道山に帰した[148]。程は言った。「下役に不正があることを疑い、二人だけを許したが、この下役の術中に落ちたことをまったく知らなかった。」だとすれば幽明はほとんど異なることがないか。財を貪ることが千に満ち、万を重ねるに至っても捕らえないということには、かならず別に大きな処分があるはずで、一回帳消しにしただけで事を終わらせているものではない。ああ。恐ろしいことである。

 

最終更新日:2018222

北東園筆録

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[1]http://baike.baidu.com/view/744020.htm

[2]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B4%E5%98%89%E8%B0%B7

[3]http://baike.baidu.com/view/13823.htm

[4]刑名は幕僚。「友」は幕友

[5]http://www.zdic.net/c/8/2a/64764.htm官署の幕僚の俗称。

[6]http://www.zdic.net/c/6/13e/307720.htm恐懼不安のさま。

[7]http://baike.baidu.com/view/535650.htm冥府が生きているものの魂を利用し、冥土のために仕事させること

[8]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9A%E5%85%83%E4%B9%8B

[9]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E9%B5%AC_(%E9%81%93%E5%85%89%E9%80%B2%E5%A3%AB)

[10]http://baike.baidu.com/view/9485240.htm郵便配達

[11]http://baike.baidu.com/subview/65144/11295478.htm

[12]原文「以主人之銀未還而情未答也」。「情未答」が未詳。とりあえずこう訳す。

[13]http://ja.wikipedia.org/wiki/1834%E5%B9%B4

[14]http://www.zdic.net/c/2/14/30255.htm武官の参将を、参戎と俗称する。

[15]原文「銀色太差、平亦太短、不能抵也。」。「平亦太短」の「平」「短」がまったく未詳。後ろにも出てくる。

[16]原文「屬眾折為錠」。「錠」は「銀錠」、いわゆる馬蹄銀。それを折り紙で作り、燃やすのである。

[17]原文「惟尚短平若干。」。これも未詳。

[18]原文「君此番亦辛苦、短者即以酬勞」。これも未詳。

[19]http://www.zdic.net/c/9/77/121786.htmhttp://www.zdic.net/c/9/79/125905.htm。女子が出嫁する時に乗る画像検索結果

[20]未詳だが、荷包であろう。小物入れ。画像検索結果

[21]http://www.zdic.net/c/d/e8/235234.htm萍草が水に随い漂泊すること。聚散して定まることがないので、人の偶然の出会いを喩える

[22]原文「乃行大賈」。「行」が未詳。とりあえずこう訳す。

[23]http://www.zdic.net/c/f/24/56051.htm「灯彩」とも。装観賞にする花灯画像検索結果

[24]http://www.zdic.net/c/1/13d/304631.htm唐白居易『朱村』徐州古豊、有村曰朱…一村唯両姓、世世婚姻。

[25]原文「世或疑翁媼坐享其成、幾於幸獲、不知皆其贈金特惻隱之一念所感召也。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[26]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E5%B7%9E%E5%85%B3%E5%B8%9D%E5%BA%99

[27]http://www.zdic.net/c/6/107/281109.htm賓客接待し、宿泊させる場所

[28]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%A4%A7%E8%A7%80

[29]劉大観は河運使。

[30]http://baike.baidu.com/view/7758.htm

[31]http://baike.baidu.com/view/1056583.htm

[32]千八百四年から三年間。

[33]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%80%89

[34]http://www.zdic.net/c/a/11/27596.htm剛強勇猛。

[35]http://www.zdic.net/c/0/10/26080.htm官吏、士。

[36]http://www.zdic.net/c/a/e0/221760.htm各地の兵の配下及び巡捕五設けられた低級な武官。

[37]http://www.zdic.net/c/7/a1/188482.htm試験場に置かれた監視員

[38]http://www.zdic.net/c/4/9e/181534.htm恐懼のさま

[39]http://zh.wikipedia.org/wiki/1822%E5%B9%B4

[40]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E9%BC%8E%E4%BA%A8

[41]http://www.zdic.net/c/9/77/121951.htm最下位合格。

[42]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%99%E6%BA%AA%E5%8E%BF

[43]未詳だが、府庁が存在する県であろう。

[44]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A9%BA%E6%BA%90

[45]http://www.zdic.net/c/1/6a/100994.htm幕友。俗称は「刑名師爺」

[46]http://www.zdic.net/c/6/6a/101476.htm

[47]千八百三十六から千八百三十九まで閩浙總督

[48]http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=231593ただ、検索してみても、以下に述べられている話らしきものは出てこない。

[49]未詳だが、秋審死刑案件の再審制度。それを管掌する部署であろう。

[50]http://www.zdic.net/c/0/8b/151831.htm官名。

[51]http://baike.baidu.com/view/7742991.htm?fromtitle=%E9%95%BF%E9%BA%9F&fromid=4552859&type=search

[52]原文同じ。「人」が抜けているのであろう。

[53]原文「後伺太夫人寢、突入、拉殺之。」。未詳。とりあえずこう訳す。「拉殺」につき、漢典は「用杖撃殺」とするが、それでは前の「絞罪にするべきだ。」と合わないので、すくなくともここでは訳文の意であろう。

[54]梁上國

[55]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E4%B9%BE%E9%9A%86%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%B9%B4%E4%B9%99%E6%9C%AA%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[56]http://www.zdic.net/c/a/8c/154224.htm撫の役所

[57]https://www.google.co.jp/?hl=zh-CN&gws_rd=cr,ssl&ei=gOSeVLGpHaOomgWm14CACw#hl=zh-CN&q=%E6%87%B7%E4%BA%A6%E4%BA%AD

[58]http://www.zdic.net/c/1/103/277209.htm軍の名号。

[59]http://www.zdic.net/c/7/15/33273.htm父母叔伯等長輩対する敬称

[60]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%BD%E7%90%86%E5%9B%9E%E7%96%86%E4%BA%8B%E5%8B%99%E5%8F%83%E8%B4%8A%E5%A4%A7%E8%87%A3

[61]http://www.zdic.net/c/e/15d/353134.htm回族

[62]グーグル検索結果『清史稿』の用例

[63]http://www.zdic.net/c/3/32/79118.htm常供、法定の税。

[64]http://www.zdic.net/c/e/35/80611.htm清代新疆、西蔵地区で通行している貨幣画像検索結果

[65]『清史稿』の出現箇所

[66]http://www.zdic.net/c/3/13d/304066.htm主要な税。地丁税。

[67]http://www.zdic.net/c/b/1b/41751.htm税。

[68]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E8%B2%B4

[69]http://www.zdic.net/c/0/a1/188286.htm辺遠地区に置された站に似した機構。家口、喜峰口、独石口、古北口、虎口等の地にはみな台站を置した。

[70]http://www.zdic.net/c/9/80/136128.htm法を曲げ、刑を軽減あるいは無辜の者に害を受けさせること。

[71]http://www.zdic.net/c/f/15/32115.htm房屋の通路

[72]http://www.zdic.net/c/9/84/140137.htm明亮のさま

[73]http://www.zdic.net/z/24/js/8966.htm 短衣

[74]http://www.zdic.net/c/e/150/332456.htm眉毛が黒白になっているもの

[75]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic8CZdicB8326070.htm細濃密のさま。

[76]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%B7%9E#.E5.8E.86.E5.8F.B2.E6.B2.BF.E9.9D.A9

[77]http://baike.baidu.com/view/302166.htm

[78]http://www.zdic.net/c/f/144/316002.htm焦燥不安、心配が重重たるさま。

[79]http://www.zdic.net/c/7/13f/309239.htm情意深厚のさま。

[80]原文「解鈴還要系鈴人」。「鈴還需系」に同じ。厄介事はそれを引き起こした本人がなんとかして解決しなければならないということ。

[81]子供たちに勉強を教えて母を養った。

[82]未詳だが、「ゆらゆら」といった意味であろう。

[83]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB8Zdic8D289470.htm·大雅·既醉』「孝子不匱、永錫爾類「匱、竭。」孝子行非有竭極時。」

[84]まったく未詳。なお、この話が袁枚『子不語』にも見える。 

[85]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E8%A1%97%E8%B7%AF%20%E8%98%87%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[86]グーグル検索結果

[87]http://www.zdic.net/c/3/143/314740.htm修行の成果

[88]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE9Zdic9CZdic80264671.htm官吏が職を授かった後、資歴に従い順番に缺されること。

[89]http://www.zdic.net/c/8/6b/104272.htm官籍に名を記入すること。

[90] http://www.zdic.net/c/9/94/169382.htm 画像検索結果

[91]http://zh.wikipedia.org/wiki/1830%E5%B9%B4

[92]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E9%81%93%E5%85%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%B9%B4%E4%B8%99%E7%94%B3%E6%81%A9%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C

[93]http://zh.wikipedia.org/zh/%E6%AD%99%E5%8E%BF

[94]http://zh.wikipedia.org/zh/%E7%8C%AE%E5%8E%BF

[95]http://zh.wikipedia.org/zh/%E9%98%B2%E9%A2%A8

[96]未詳。江西建昌府の県名か。http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%9F%8E 

[97]http://www.zdic.net/c/3/a0/184749.htm藍銅鉱

[98]http://www.zdic.net/c/4/72/114654.htm仏教。梵語の善友、好伴の意。後にひろく高僧をも指す。

[99]グーグル検索結果

[100] http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B5%A9%E8%A1%97  

[101]原文「歐陽生、某生所娶新婦如何美貌、與伊熟識往來、常與相狎。」。この文、脱文があると思われる。「述べた」という言葉を補って訳す。

[102]http://zh.wikipedia.org/wiki/1788%E5%B9%B4

[103]http://www.zdic.net/c/3/15f/358679.htm女子が行う礼、衣服の下の角を引き上げる。

[104]http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E5%A4%AB%E5%AD%90%E8%81%96%E8%80%85%E6%AD%9F%EF%BC%9F%E4%BD%95%E5%85%B6%E5%A4%9A%E8%83%BD%E4%B9%9F

[105]http://www.zdic.net/c/8/9a/177780.htm・会試の答案対し、翰林院が儒臣等を派遣し、審査すること。

[106]http://zh.wikipedia.org/zh/%E5%98%89%E5%96%84%E5%8E%BF

[107]こちらに見える。固有名詞。

[108]http://www.zdic.net/c/9/8c/154143.htm湿るさま、流れるさま。

[109]グーグル検索結果

[110]漢典に適切な語釈なし。淫乱凶悪の意であろう。

[111]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A7%E5%B1%B1%E5%8C%BA#.E5.8E.86.E5.8F.B2

[112]http://baike.baidu.com/view/5688761.htm#3

[113]原文「文成而不能寫」。下書きができたが繕写できないということであろう。

[114]原文「子その為我點檢考具、感且不朽。」。「點檢」未詳。

[115]http://www.zdic.net/c/7/d9/211384.htm乾隆以後まった制度、三度以上会不合格であったから一等のものを、知として、二等のものはとしていた。六年一度せられた

[116]http://www.zdic.net/c/a/14b/327776.htmたがいに代々交、一のようであるもの

[117]http://www.zdic.net/c/3/17/37171.htm富家の子弟が金を納め監生となること

[118]http://www.zdic.net/c/3/a6/195179.htm縉紳、士大夫。

[119]ここでは読書人の仲間になったことの喩えであろう。

[120]原文「雖放下屠刀、未能成佛」。未詳。とりあえず、こう訳す。

[121]http://www.zdic.net/c/b/31/77093.htm識人の世

[122]原文「當釀酒食、啖。」。文意未詳。とりあえずこう訳す。

[123]http://baike.baidu.com/view/44660.htm#1山上の草木をすべて兵と思うこと。人が驚き慌てた時に疑神疑鬼になること。

[124]劉四を指していると解す。

[125]http://www.zdic.net/c/2/152/337144.htm芸能の一種。もともと乞食の歌ったもの。

[126]「糞まみれになって帰った」ということ。

[127]http://www.zdic.net/c/2/fd/268752.htm輿

[128]http://www.zdic.net/c/9/6b/103312.htm水の良い墓地

[129]http://baike.baidu.com/view/4846887.htm

[130]原文「試用」。「試用」は後ろにも出てくる。http://www.zdic.net/c/5/f5/254661.htm正式に任用する前に、一定期間試し、その働きを見ること。

[131]http://www.zdic.net/c/f/f0/249047.htm下僕。

[132]原文「火焰不高」。グーグル検索結果。出典のある言葉ではなさそうである。

[133]鬼卒。

[134] http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%BB%BA 

[135]http://baike.baidu.com/view/10792017.htm正確には『行』。

[136]http://www.zdic.net/c/9/86/147125.htm物理人情、世情。

[137]http://zh.wikipedia.org/wiki/1819%E5%B9%B4

[138]原文「以合房事為苦事。」。「合」が未詳。とりあえずこう訳す。

[139]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A2%E6%9E%97

[140]http://zh.wikipedia.org/wiki/1824%E5%B9%B4

[141]http://www.zdic.net/c/7/4/8338.htm官名。

[142]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E7%85%A5

[143]http://www.zdic.net/c/7/6c/106891.htm翰林、・事の昇級試験。

[144]原文「勾人名耳。」。「名」は「命」の誤字と思われるが未詳。とりあえずこう訳す。

[145]原文「亦不自知、但其時覺其可不即勾耳。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[146]http://zh.wikipedia.org/zh/%E7%A8%8B%E5%90%8C%E6%96%87

[147]http://www.zdic.net/c/c/72/115633.htmひろく高武官の在外の住所を指す

[148]http://www.zdic.net/c/3/29/62994.htm 人の死を「道山に帰す」称する

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