●巻四

 

◎冥判

 

わたしの郷里の允清県令(金)は、亡き祖父資政公と親しく交わり、その父は活無常と称せられていた(およそ冥府の下役をするものは活無常といい、あるいは走無常という)。家大人は若い時、つねに側に侍し、県令にねだって鬼神のことを尋ねると、県令は言った。「聞けば人の世の居室には、到るところに幽鬼がいるそうだ。幽鬼がもっとも恐れるのは三種の人で、一つは節婦、二つは営兵、三つは酔漢だ。にわかに会って避けるのが間に合わないと、その魂はかならず衝かれて散らされる。そもそも節婦の清規[1]兵の凶悪の気、酔漢の旺盛な気は、みなかれを衝くに足りる。」さらに言うには、近頃、某甲が舟の中にいたところ、突然かれの後ろで呼ぶものがいたが、それはかれの隣人であった。甲は言った。「あなたはすでに死んだのに、なぜこちらに来た。」幽鬼は言った。「わたしは客死しましたが、魂は漂ってたいへん苦しんでいますので、あなたについて帰ろうとしているだけです。」甲はもともとよく知っていたので、恐れず、なんと船に乗せてしばらく閑談した。冥府はもっとも何事を慎んでいるかと尋ねた。幽鬼は言った。「もっとも慎んでいるのは牛肉を食べることです。ウシを食べる人は、吉神が避け、悪煞[2]従います。ウシを食べない人は、吉神が従い、悪煞は避けます。」甲は言った。「仰る通りなら、わたしは今から誓ってウシを食らいますまい。」しばらくして、幽鬼が突然大声で哭いたので、甲はどうしたのかと尋ねた。幽鬼は言った。「もともとついて帰ろうとしていましたが、突然、福禄寿三星があなたの身を守りましたので、わたしは近づこうとせず、帰ることができなくなりました。」よろよろと岸に上がって去った。

 

◎某太守

 

[3]の周石藩(際華[4]は、家大人と揚州で会い循吏と称せられており、よく談論していた。以前、家大人語った。「わたしの郷里に君某がおり、某太守のお気に入りの婿であった。蘇は気質が粗暴であったので父に逆らい、父は役所に赴いて訴えたが、太守は世話してやり、免れることができた。ついでは妾を納めたため、太守の娘と反目し、娘は太守に訴えた。太守はたいへん怒り、かれの横暴なさまをお上に申し、かれの旧い事案を発いたので周はそれを受けいれ、獄に下した。蘇は憤りが極まって鬱積となり、疽が対口[5]発して死んだ。時論では太守がその娘に従ってその婿を毒殺したということであった。まもなく太守も対口瘡死んだが、これは蘇が祟れたのではなかった。蘇は父に逆らったので死ぬべきであったのである。太守はかれを庇ったし、すぐに娘のことで処刑したが、これについては蘇は死ぬ筋合いはなかったので、祟ったとしても妥当であった。

 

◎本籍を冒す冤罪事件

 

周石藩がさらに言うには、かれの弟南坪は、刑部の四川司[6]で主稿[7]していた時、四川で擅殺[8]の事件があり、堂官[9]に報告する際[10]、堂官の意に逆らったので、憎まれたとのことであった。道光壬午の春[11]の合格発表で、姚廷清[12]というものが合格した。「姚はもともと浙江の人で、貴州で幕僚となり、わたしと旧知であったが、後に貴州の籍を冒し、郷試に合格した。来京した際は、同郷人に挨拶せず、連捷[13]すると、あまねく挨拶したが、まったく受け容れてもらえなかった[14]。わたしが貴州西[15]住んでいるのを聞くと門番に告げずに、まっすぐわたしの寝所に会いに来、わたしの弟の印[16]求めた。そこで弟とよく相談し、同郷の官を集め、いっしょに相談した。席は満ち、人が多く、わたしは避けて去っていた。弟は人々に告げた。「かれはもともと郷試を経て来たのだ。郷里の人は攻撃しなかったのに、かれが連捷したので攻撃しては、すでに合格しているのにたいへん惜しい。それにかれを攻撃してもさらに一人の貴州の人を補うことはできない。」座中、水部[17]の宋某が言った。「かれに三百両を出させ、会館を修理させてはどうか。」人々は答えず、弟もよいと言わなかった。まもなく、[18]の某と西曹[19]某某はいずれも怒りを帯びて散じた。わたしが外から帰ると、弟はその状況を述べ、さらに言った。「わたしが先に人々に挨拶し、ひとまずそれを出し、後日ゆっくり得ることを考えればよいでしょう[20]。」そして姚を召し、かれに印結を与えた。某某は議論を喧しくし、孝廉の姓のものがつよく唆し、すぐに某の弟の革生、名は清というものを、都察院に赴かせ、訴えさせた。上奏して刑部に審査・処理を委ね、調べたところ、貴州の郷試によって来たものであったので、調行うこと決定しまもなく、清はさらに弟の南坪が姚の賄賂五百両を受けたとしてふたたび訴え、堂官は以前の恨みに報いるため、免職し、厳しく訊問することを奏請した。十日取り調べたが、手がかりはなかったので、さらに堂官に告げた。堂官は許さず、姚を拷問し、三百両を出して会を修理する話によって弟を誣告させた姚は忍びなかったが、厳しい拷問に耐えられず、その誣告に従った。すぐに弟を招いて尋問したが、三日判決できず、令状でわたしを呼び、ともに訊問させた。わたしは事情を推し量り、堂官がきっと弟に嫌がらせしているのだと気づき弟に語った。「かれはおまえの職を奪おうとしているだけだから、免職になってしまえ。この苦しみを受けるのには堪えられまい。」弟が無実の罪を認めると、覆奏した[21]。「周某は会館を管理する人です。この銀が手に入れば、横領もしませんが、転用もしません[22]。すでに免職を奏請しましたので、処罰する必要はございません。」この事件が一たび起こると、都下の人士は冤罪と思わなかった。まもなく革生清は、恐喝未遂のため[23]、獄に送られ、判決があると、路頭で死刑になった。その兄で西曹の某は京師で死に、下男下女たちは背いて逃れた。審理担当官某はほかの事件で、汚職の罪に坐し、西口[24]を出、異境で死んだ。姓のものは県令に補せられ、西曹の某は知府を得ていたが、同時に免職となった。烏は貴州に戻ったが、某知府は死んだ場所が知れなかった。まもなくこの事件を主管したものは、その焔も尽き、ますます重い罪を得た。わたしが見た報応で、このように速く、一人も逃れるものがなかったものはなかった。思うにすべてがこの事のためとは限らずこの事のためだけではあるまい。かの天は、どうして惴惴[25]としないだろうか。

 

◎劉幕僚

 

山東の呉県令(敬森)は貴州桐梓県を治め、事件によって省城に入り、その幕僚の劉某というものといっしょに家の客寓に泊まっていた。ある日、呉は遵義[26]県庁宴に赴き、二更の時に寓居に帰った。中に入ると、鬱々とした声が聞こえたので、誰かが劉幕[27]と闘っているのかと疑った。その寝室の入り口推し見ると拳を揮うさまは雨のようであり、脚も跳ねあげていた。押さえて語らせると、嗒然として失ったものがあるかのようになり[28]つよく事情を質すと、「×氏[29]がその娘を率いてわたしと闘おうとしたのだ。」と言った。それより前、桐県の童生某が岳父の家に婿入りしたが、衣服飲食をすべて岳父援助してもらったので妻は驕りの色があり、娘を生んですでに三歳になっていたが、反目の兆しはすでに一日ではなかった。某日、妻がかれを虐待したので、生はたいへん怒り、持って打ち殺した。娘が哭いて叫ぶと、やはり一撃で殺した。事件はお上に知らされたが、呉はかれが貧士だったので、その志気を壮んであるとし、憐憫を加えようとした。劉は謀をなしてその娘のことを消去し、いささか減刑できるようにさせた。劉はこの草稿を抄写していたので、怨霊が憑いたのであった。そもそも人命はいたって重く、法律文書は捏造しがたいものである。劉は好生[30]の一念から、減刑を求めたに過ぎないのに、幽鬼の責めを受けたが、収賄によってひそかに人の罪を変えているものならばなおさらである。これも周石藩が目撃したことであった。

 

◎孔生

 

孔生某というものがおり、貴州で梨園の子弟となった。当時、周石藩は太守芦州の幕下にいたが、ちょうど役所で劇を演じていたので、それを見た。その姓に驚き[31]、質したところ、語るには、原籍は山東で、その先代の官位は都[32]、貴州で歿し、居住した、だんだん没落し、凶作で身を売ったが値は青蚨[33]千四百文で、今は十四歳、この仕事に従事するのを恥じ、逃げようとしているがすべがないということであった。話しながら、涙を流し、字を教えることを求めた。石藩は憐れんだが、広文[34]は閑職であったので、孽海[35]の航人[36]に従おうとするのは[37]、たいへん難しいと思った。とりあえずその身を贖う金額を尋ねれば、百両でなければだめであった。そこでその事を尉の復廬[38]に述べると、も心を動かし、五十両で贖うことを約束したが、劇団長は承知しなかったので、いそいでかれを連れ、雲南に逃げた。たまたま昆明の太守が見てそれに驚き、その末を知り、気前よく言った。「百両なら、お易いことだ。」劇団長を呼び、すぐに招いた。劇団長はさらにその値を倍にしようとしたが、太守が怒って大府[39]に告げ、刑具で脅迫したところ、贖えた。制府[40]の伯公[41]は通海[42]の知事に頼み、教育させたが、そもそもかれは山東の同郷人であった。明経[43]君というものがおり、自薦し、謝金を取らず、みずからかれの師となった。一年で、はやくも四子全書[44]読みおえ、朱注にすべて習熟した。さらに三年して、貴州に戻り、蒲孝廉について学んで文を作り、すぐに石藩に会い弟子の礼を執った。石藩はさらに遵義の知事君岱庵逆らったため張は月に三両を与えて俸給の足しにし、またその以前の状況を胡梁園学士(枚)[45]述べ、学校に入らせた。制府の伯公はたいへん喜び、千両を援助し、ささやかな財産を買ってやった。癸酉[46]にすでに抜萃科に合格していた。石藩はそのことを記したことがあったあるひとが言った。「このことを記録するのはよくない。孔生の瑕釁となろう。」石藩は言った。「かれが十二三歳の時のことは、赤子が井戸に入ったかのようなものであり[47]、すこし生長するとすぐに恥じて去ることを求めたのだから、その志気はすでに千古に伝えるに足りている[48]。かれのことを記すのは、その志気を哀れみ、その境遇を幸いとするためで、どうして瑕釁となろう。」わたしは言った。「この若者は、みずから発奮し、足を洗い、その祖宗を辱めないことができたのだから、まさにいそいでそれを述べ、人を励みとするべきだ。そして皆さまがかれを援助育成した功績はもっとも掩い隠してはならない。今、石藩の家盛んで、明経・蒲孝廉はいずれもすでに進士となり、果報という必要はないが、果報はその中にある[49]。」

 

◎三[50]

 

林子川先生[51]許されて西域から戻ってきたが、ますます健になっており、なおも福州で生徒を教え、学問を講じ、日々家大人と交際し、文芸を談じれば、話は時事の驚くべきこと、喜ばしいことにまで及んだ。ある日、家大人に語った。「乾隆庚子[52]、わたしが公車で北上した時、督(宝)の家族が船について衢州[53]から杭州にいったが、一人のしもべが船を番していた。わたしはたまたま大人に何人の子がいるか尋ねた。すると答えた。『一子がいるだけで、生まれてわずか数ヶ月でございます。』そして述べるには、大人にはもともと二子がいたとのことであった。山西を巡撫した県令が外出していたが、ちょうど一騎が前をゆき、先導が怒鳴っても下りなかった。知事は縛るように指示したがその人はすぐに佩刀を抜き、抵抗した。刀先導に奪われたが、尋ねれば、配下の武進士であった。知事は刀を根拠に誣告し、大人は死刑に処したが、刑に臨み、かれの魂はすぐに巡撫の官署にゆき、大声で罵り、ひたすら冤罪だと称し、大人長男を扼殺し、さらにその次男を殺そうとした。大人は恐れ、ねんごろに言った。『わたしは知事に誤られたのに、どうして知事を仇とせず、わたしを仇とする。』『知事がどうしてわたしを殺せよう。わたしを殺したのはおまえだから、かならずおまえの血脈を絶ってやる。』さらに扼殺し、言った。『今はひとまず知事を殺そう。そして知事の役所にゆき、やはり大声で罵って冤罪だと称し、知事に言った。『おまえは冤罪でわたしを殺したから、わたしはかならずおまえを殺そう。』知事が地に伏し、しばらく命乞いすると、言った。『おまえはいずれ罪を得るから、ひとまず許そう。』そして去った。まもなく、知事は本当に罪のために離任し、家族を戻らせた。[54]出ると、知事の妻女はたちまち発狂し、みずからその衣を剥ぎ、真裸になり、冤罪でございますと叫ぶに至った。人々は驚いて見たが、その祟りはこのようなものであった。[55]に載せる伯有[56]の事によってそれを見れば、信じられないことではない。わたしはこのことを述べ、人を戒めたことがあった。わたしは新疆にいったが、同僚の王君[57]、全椒の人で、才学があり、わたしといっしょに州学の官舎に寓し、応酬すればたいへん打ち解けていた。話した時、わたしはこの事を述べてやったが、王はひとり黙然としていた。わたしがその事を河南の李君に述べると、李は言った。『ご存じありませんか。それは王さんの事件なのです。』わたしはしばらく舌を巻き、言った。『大したことだ。世間が狭いのは。』わたしは以前、王君のためにそのことをったことがあった。ああ。わたしはそのことを聞いた時、もとより誰か知らないで、漫然とそれを述べて戒めにしただけだった。ところが遠く万里離れたところで邂逅し[58]、たまたま数十年前の伝聞を述べたところ、それがまさにみずからその事をした人だったのである。そこでますます物事はみだりにすることはできず、言葉はみだりに発することはできないことを知った。王君の事は過ぎたことであったが、わたしは面と向かってそれを暴き、かれの秘密触れたのであった。わたしは王君の事をしばしば述べたが、まさにそれを王君に述べ、その手遅れ悔いたのであった。言行はおおいに謹まざるを得ない。しかし李君の言葉がなければ、やはり王君の事であることは分からなかった。この中には(さだめ)があり、王君を戒めることによって同時にわたしを戒めているようである。

 

◎真情を隠して法を枉げること

 

林于川先生はさらに言った。「平湖[59]の某翁は、老いて鰥夫(やもお)となり、一人息子は駅卒[60]となっていた。妻は美しく、入り口は飲み屋と並びで、無頼漢集めて賭博させていた。貴人のきれいなしもべが、しばしばその家を訪ねると、翁はかれのご機嫌をとり[61]嫁を囮にし、日を経ていた。しもべはつねにその嫁を独占しようとし、翁と謀り、かれの息子を殺そうとした[62]ちょうど息子がから遅く帰ってきたため、しもべに去るように促したが承知しなかったので、かたく留めた妻は事情を漏らそうとしなかった[63]。しもべはすでに郷里の酒飲みに賄し、凶器を買い、家に隠していた。夜になると、翁は酒肴を持ってきて息子と飲んだが、酒が酣になろうとすると、隠れていたものが背後から大きな椎を揮って打った。すると、一丈あまり躍りあがり、脳は裂け、血は淋漓としたが死ななかった。妻は恐れ、すぐに楼上に隠れたので、翁はを頚に繋ぎ、妻に命じて絞めさせようとした。妻は承知しなかったので、楼上で縄を揮い[64]妻を脅してそれを引かせ、みずから両手で絞め殺させた。それより前、無頼たちの中に某甲がおり、日夜翁の家で賭博し、帰ることを忘れていた。かれの家は厳しくかれを束縛し、闇夜に出られないようにした。翁はそのわけを質して知ると、「どうして男で女に抑えつけられるものがあろう。」と言い、その妻を売るように誘導した。甲は金を得ると、賭博に耽って憚らなかったので、金はすぐに尽きた。甲は妻を失い、金もなくなったので、たいへん翁を怨んだが翁としもべのことを知っており、その日往来して耳打ちするありさまを見ると、疑わしく思い、夜になるとひそかに窓の隙から窺い、飲みはじめてから凶行に及ぶまでの姿を、はっきりと目に収めた。朝起きると、人々に広め、さらにお上に告げた。貴人がひそかに書信を知事に送り、事を収めようとすると、人々は怒って騒ぎ、銭を集め、甲に渡し、甲は杭城に馳せ、銅鑼を鳴らし、街に沿って新聞[65]売り、役人に捕らえられた。尋問して事実が知れるとすべて処刑したが、知事も真実を隠して法律を枉げたため、死刑判決を受けた。そもそも知事の事件が露顕した時、貴人はみずから知事のところゆき、その書信を回収した[66]ので、知事はその罪を分けようとしてもそのすべがなかったのであった[67]。そもそも某翁の極悪は論ずるに足りず、どうして民の上にいるものが、いたずらに貴人権勢を恐れ、滔天[68]ほしいままにして禍をその身に及ぼせようか。

 

◎黟県の二事件

 

乾隆年間、徽州黟県で男が妻を娶ったが、後に父母がともに亡くなり、弟は幼かったので、兄と嫂が育てた。兄は他郷で商売した。後に弟が生長すると兄は他郷から帰ってきた。嫂は酒盛りして慰労し、義弟を呼び、いっしょに飲んだ。席上、先に義弟に酒を注ぎ、後にその夫に酒を注いだので、兄は疑った。一晩泊まり、早朝すぐに起き、振り返って言った。「わたしは財産よそに貯えているから掘りにゆき半月したらはじめて帰ろう。」そう言うと去った。嫂は義弟言った。「兄さんは先日帰った時、やさしい言葉でくどくどと語りましたが、家人がながく別れていれば、あのようになるのは当然です。昨日帰った後、心は索然とし、たいへん疑わしゅうございました。今わたしは家に帰り、わたしの父母に会い、かならずあなたのお兄さんが帰って後に戻りましょう。にはすべて鍵を掛け、きちんと番して下さればよいでしょう。」義弟は承諾して門で送った。夜、一更過ぎまで寝ると[69]、門を叩く音がたいへん激しかったので、起き出して尋ねたが、誰だか分からなかった。戸を開けば、裸の女であったので、いそいで戸を閉ざそうとすると、女は哭いて(おばしま)前に跪き、急難があり、あなたのおねえさんでなければ救えませんと言った。そこで言った。「嫂はすでに里帰りし、家には男のわたし一人がいるだけですから、泊められません。」女はかたく戸に縋り[70]、憐れみを求めてやまなかった。どうしようもなく、服を脱ぎ、はるかに擲ち、衣を着けて入らせ、嫂の空き部屋に泊まらせた[71]。まもなく喟然として言った。「わたしは男だから、深夜にを家に入れれば、どうみずからを弁明しよう。それにあのひとは服を持っていないのだから、夜が明けたら今度はどうして去らせよう。」そこで屋内の戸を鎖して外に出、嫂の父の家は遠くなかったので、真夜中にゆき、嫂に告げて帰って来させ衣を与えて追い払わせようとした。嫂は言った。「すでに真夜中ですから、わたしは帰れません。」その時、嫂の父が堂におり、言った。「それならば、義弟どのもしばらくわたしの家に留まり、朝にいっしょに帰られれば、うまく去らせられよう[72]。」義弟はそこで鍵を嫂に返し、ひとり別室で寝た。嫂の弟はそれを聞き、邪心を生じ、その鍵を盗んでゆき、いそいで家に入り、鍵を掛ける間もなく、抱きあって臥した。そこへ兄が夜に帰って来、門を推すとすでに開いていたので、身を傾け、ひそかに入り、幾重もの門を経、部屋の外に潜み、淫らな声を聞いた。たいへん怒り、刀を持って入り、どちらも殺した。そして走って妻の家に告げた。「あなたの娘さんが義弟と姦通しましたので、どちらも殺しました。」妻の父は言った。「何を仰る。娘と義弟(おとうと)さんはどちらもいます。」どちらも呼んでくると、兄は愕然として言った。「それならば女は誰だったのでしょう。」嫂が義弟とともに夜の事を述べると、兄ははっとして言った。「間違えた。しかし男は誰だろう。」嫂が一家を見回ると、弟が見えず、いそいで鍵を探したが、見つからなかった。そこで言った。「きっと弟がろくでもないことをしたのです。すでに刀下の幽鬼となっていましょう。」人々は家に走ってゆき、調べるとその通りであったが、女がどこから来たかは分からなかった。まもなく、姦夫を殺してその妻を逃したものがおり、喧伝してあまねく探していたので、かれを連れてきて検分させると、言った。「ああ。これでございます。さいわいにも代わって殺していただきました。」そこでいっしょにお上に知らせると、お上はそれぞれ埋葬させ、釈放させた。県にはほかにも姉妹二人がおり、嫁いだ夫の家は遠くなかった。里帰りする時、妹はつねに姉の所に立ち寄り、迎えていっしょに帰り、日が暮れていれ姉の所に泊まるのを常の習いとしていた。ある日、父の誕生日を祝おうとし、誘いあわせてゆくことにし、姉は食事を調えて待っていたが、日が暮れても来なかったので、その義弟言った。「ここからを越えるには、路が悪く、ながく待つのは難しいので、わたしは先にゆきましょう。妹が来たら、わたしの空き部屋に泊まらせ、朝を待ってゆかせればよいでしょう。」しばらくして、妹が来ると、義弟は門で迎え、嫂の意思を述べて留め、もてなし、泊まらせた。薄暮で暗くなかったので、義弟は臥していられず、外からその戸に鍵を掛け、市場をぶらぶらし、昼に酒を飲んだ店を訪ね、呼んでいっしょに語った。「どんなお客さまが来て置酒せねばならないのですか」と尋ねたので、義弟が事情を告げると、店員は言った。「それならば、帰られては不都合ですからこちらに留まっていっしょに飲めますか。」義弟は承諾し、肴を列ね、酒を斟ぎ、閑談し、楽しく飲んだ。義弟が泥酔し、帳場に隠れ横たわると、店員はかれの鍵を盗んでこっそりとゆき、中に入り、空き部屋の戸のほぞを見ると、錐抉った。妹は戸に音がするのを聞くと、言った。「義弟は今まで謹厳だったがどうして突然こんなことをするのだろう。」牀の後ろに板の扉があるのを思い出し、ひそかに開けて逃れ、薪小屋のに隠れた。店員は戸に入り、牀に登ったが、人がいなかった。そこで言った。「逃げていてもよかろう。ひとまず寝て待とう。」月はかすかに明るかった。すると部屋に女が匍匐しながら下りてきたので、抱いて牀に入れた。事が終わり、女に尋ねると、言った。「わたしは某の隣家の女房で、暇をみてその物を盗もうと思ったのです。あなたの声は義弟ではありませんが、本当は誰なのですか。」店員が事情を述べると、女は言った。「ふだんから知っていますよ[73]。何度も来てください。」店員は女の邪魔を嫌に思い、憎んで殺し[74]、こっそり帰ると、義弟はまだぐっすり寝ていたので、鍵を入れ、呼び起こして言った。「夜が明けようとしていますよ。」夜明けに慌てて帰ると、妹が薪の中から出て来、義弟を責めた。「何と善くないお方でしょう。うちの戸のほぞを削るとは。」義弟はそうしたことはなかったと力説し、妹はほぞが外れていることを挙げて証拠にした。義弟は訝って中に入り、牀屍体を見ると、言った。「これは隣家の女房です。どこから来たのでしょう。そもそも誰が殺したのでしょう。」そしてお上に訴えた。お上は調べ終わると、くわしく夜来の情況を尋ね、言った。「きっとおかしなことがあろう。」すぐに店員を捕らえ、厳しく質すと、事実を白状した。そこで判決し、義弟の無辜を雪ぎ、妹も難を免れ、その身を保った。

 

◎『海南一勺』の数事

 

広豊の徐柏舫吏部()は観音大士経呪をたいへんうやうやしく信奉し『海南一勺』内外函数十巻を編み、くわしく神霊の事迹を述べたことがあった。中に最近のこと数条があり、きわめて確かで証拠にすることができるので、ここに特に出する。たとえば海陽の周武堂明府が言ったことがあるが、『高王観世音経』および『大悲呪』は、厄難に遭った時に黙誦すれば、すぐに厄難を免れることができるという。嘉慶六年八月初八の夜、わたしは明府とともに路をいそいで省城に入り、恵陽[75]に着いてはじめて船に乗り、水夫は蒲帆[76]を張り、月影のほの暗い中を番禺鹿[77]いった。おりしも狂風船を覆し、わたしは深い淵に落ちたが、水底に物があり、わたしの足を支えて上がるように感じた。明府および同船していたものもいっしょに落ちたが救いを得た。その衣服と文書はすっかり湿っていたが、蔵している『高王経』だけは、外は湿っていたものの、中は乾いていた。ああ。珍しいことである。」さらに言った。「桂林の粟孝廉(楷)[78]の父某は、維揚に旅し、七月七日に河を渡った。すると海風がにわかに起こり、時に同行していた舟は半分が沈没し、その舟も河の真ん中で回転したが[79]、某が『観音宝呪』をたえず黙誦し、一万二千巻を印刷して施すことを祈願すると、にわかに関所[80]漂ってゆき、恙なきを得た。蘇州から揚州に帰る時は、重九になっており、江口[81]を出ると、波は舟を打ち、船頭は力を失い、舟を返したが、某が観音呪』を誦したところ、やはりすみやかに渡り、恙なかった。さらに言った。滇南の太守(廷)は、平素、大士をきわめてうやうやしく信奉し、日々『大悲呪』を唱え、忙しくてもすこしもやめなかった。道光癸巳秋、同知から永昌[82]の太守に選ばれ[83]経由で都に入った。ある日、たまたま船を出て眺めたところ、傍らの人が帆の向きを変えた際、足を滑らせて河に落ちた。おりしも風は速く、瞬く間に船は一里ばかり離れてしまった。みずから言うには、河に落ちた時、波が天に逆巻いていたが、水は膝に達するだけで、両足は物に支えられているかのようであった。すぐには沈まなかったが動くこともできず、袍の襟が水面を漂流しているばかりであった。いそいで『大悲呪』を誦えると、三遍足らずで救うものが来、身から上は湿らなかった。」さらに言った。「その年、浮梁[84]の程孝廉(昭)というものが、公[85]落第し、船を返して大江に至ると、怒涛が船を覆し、舟とともに十余里漂流するに至った。慌てふためき、一心にうやうやしく心経を誦えると、転覆した船の下で舷を抱くことができ、ある物がその足を支えているかのようで、それによってかろうじて坐ることができた。人の声が騒がしいのを聞くといそいで救いを求め、岸に上がった。さらに言った。上海の茹征[86]わたし[87]に言ったが、乾隆壬寅[88]十一月、かれの同郷人宗の妻が突然震えてうわごとを言った。「わたしたち姑と嫁の二人はこちらを通り、たいへんお腹が減りましたから、かならず酒食でわたしをもてなしてください。」喃喃としてやまず、その声をじっくり聞くと、無錫の人であった。かれの隣家の医者郁在中を迎え、近づいて診察させると、脈がなかったので、言った。「これは薬で治せず、祟りがあるかと疑われますから、観音堂の僧を招き、お経を誦えさせ、祓わせてはいかがでしょう。」兪はすぐに僧を招き、『心経』・『大悲呪』・『金剛経』を暗誦させ、一巡すると、すぐに病人が責め罵った。わたしはまったく入ろうとしなかったのに、おまえはどうしてもこちらに来ようとした。今、全身を飛刀[89]刺され、痛みは我慢できぬから、はやく去ろう。」嫁は唯唯とし、その後、寂然とした。それ以上震えることはなく、心はいささかぼんやりとしていたが、夜が明けて起きれば、すでに治っていた。

 

強暴が誅せられること

 

新安の富姓の某は、江右[90]で商売していたが、性格は軽薄粗暴であった。以前、いっしょに松[91]客遊し、道で美しい洗濯女に会い、童僕に命じ、促しての深い処に入らせ、辱めようとした。女は地に転げて哭き罵り、必死で抵抗した。某は放って去らせようとしたが、劉姓の旅人が、縛るように促し輪姦し、林で虐殺した。娘の家は屍を見つけると、お上に訴え、犯人を捕らえようとしたが、ながいこと捕らえられず、事件は沙汰止みとなった。某の一子は愚劣で凶悪、年は二十一、娘は美しくて賢く、年は十八で、婚約していなかった。朋輩とともに山に入り、茶を採っていると、雨がにわかに来、連れを見失った。ひとり岩の下に立っていると、突然、石壁の中から、その[92]呼ぶのが聞こえたので、たいへん恐れた。石の中で言った。「恐れるな。わたしは山の神だ。おまえの父は旅路で暴虐を逞しくし、良家の娘を辱めて殺し、娘はすでに冥府に訴え、おまえの身に報いようとしていた。観音大士はおまえの母が賢く淑やかであり、日々経呪[93]を誦え、たいへんうやうやしくし、長斎[94]して殺生を戒めていることを思い、大慈悲心を発し、おまえの厄を祓わせたのだ。おまえの父は悪事をなして悔いないので、大きな災厄が来ようとしている。おまえははやく帰るべきだ。ここはよくない場所だ。」娘がよろよろと雨を冒してゆくと、娘の朋輩が山亭[95]に集まって立っていた。まもなく四五人の不良少年が来、娘を指さして笑って言った。「岩の下にいず、なぜ狂奔してそちらにいった。」じっくり見て去った。女ははじめて「よくない場所」の言葉は、神が言わなければ、狂暴に遭いそうになっていたことを悟り観音の名号を誦してやめなかった。帰って母に語ると、母は嘆いたり哭いたりした。「お父さんの素行なら、どんな悪事でもするが、神仏は人を欺かない[96]。」それから戒律はますます厳しく、娘も誠実に大士を信奉した。その子は結婚せず、つねに母の命令に逆らった。ある日、人に騙され、このでは太監だけがもっとも楽しいと思い、みずから去勢して死んだ。まもなく、某が帰ってくると、妻は娘の事、子の死を詳しく告げた。某は頭を挙げて叱責した。「人は幽鬼を恐れ、仏を信じ、冥報[97]によってわたしを脅かそうとしている。本当に地獄があるなら、刀山剣樹[98]というものを遍歴し、見聞を広めたく思うからどうして恐れることがあろう。」妻は笑って言った。「あなたのなさったことからすれば、十八重地獄はすべて一遊していただかねばなりません。恐れますのは、留まり、帰るのを忘れ、ふたたび人の世に入れなくなることだけでございます。」某は怒り、分家して住んだ。わずか一月あまりで病むと、前に死んだ娘が、ある時は榻の前に立ち、ある時は室内に坐し、待つものがあるかのようにするのを見た。およそ数晩で、女はさらに二人の青衣を連れ、一人の男を枷に掛けて来させたが、以前、縛るように促した旅人の劉であった。某は悲しみに勝えず、妻女を呼んで前に来させ、慟哭し、見たことを告げ、経を誦え、懺悔してくれと求めたが話していると、突然声は喘ぐウシのようになり、「わたしは去る。わたしは去る。」と大声で叫んで死んだ。後にある人が江右から来て言うには、旅人の劉は某月日に自刃して死に、たいへん悲惨であったそうである。それはまさに某が死んだ一日前であった。徐柏舫が言った。「『庶女一たび呼べば、雷霆下撃す。』[99]という。この娘の正気が盛んで、百折不撓であったのは、憐れむべく、敬うべきことであった。なお怨むらくは、強暴の報いが遅遅としていることで、人心を快くしていないと思う。」これは嘉慶間の事であった。

 

◎冥遊確

 

長洲の朱生(兆庚)[100]がみずから述べるには、かれの妻陳氏はもともと肝臓病であったが、昨年五月に病が烈しくなり、さらに暑病となった[101]しばしば幽鬼の言葉語り、「大悲神呪を誦えて済度の助けにしてください」と頼んだ。わたしが荘重に七遍誦えてやったところ[102]病人は心がすこし鎮まった。わたしが幽鬼は病人と夙怨があるのかと尋ねると、「ございません。」と言った。「それならば病気は障りないのか。」「障りございません。誠実に念仏すれば、すぐに治すことができますから。」と言った。後日、わたしは塾に赴き、のために語ったが、半信半疑であった。わたしが朝晩大悲呪を誦えてやると、氏の病気は結局治った。今年八月初旬、前の病気がまた起こり、うわごとを言った。しかし病むこと二十余日に至ると、水や米も口に入れず、気息奄奄とし、口ではなお喃喃と阿弥陀仏を念じ、千百遍に至り、気力を尽くし、すこしもやめようとしなかった。九月初五日酉の刻になると、突然発狂して叫んだ。「人がわたしを呼んでゆかせます。船はすでに門の前にいますが、どうしましょう。」そして人事不省となったが、念仏する声だけは絶えなかった。しばらくするとみずから言った。「ここはどこですか。」すぐにまた老婆の口吻となって答えた。「ここは岳だ。」そして謁見・礼拝の動作をしたが、顔色は恐懼していた。まもなくさらにある場所にゆくと、ふたたび老婆の声になって言った。「この地にしばらく立ち、ひとまず門が開くのを待とう。」その後、さらにp隷が先払いする声、銅鑼を鳴らして大砲を放ち、太鼓を打つ音がした。しばらくすると、さらに「南面するものが座に登りました」と言った。冥王は冕冠紫袍で、両脇の判吏は堂上から廊下まで並び、すべて長い卓子であった。階下の軍[103]の站班[104]するものは二百余人であった。さらに書架は数えきれず、上に帳簿数万冊が置かれていた。ほかに文書があり、人の世の手巻(しゅかん)の様式のようであった[105]審理する案件はたいへん多く、審理し終わると、文書を宣布した。審理した第一群は、秀才で、色の衣を着け、腰に秋香[106]の手帕を掛け、中から入り、まもなく出てきたが、衣衿はすべて剥がれ、垢じみた顔、ぼさぼさ頭、全身すべて血で、身に完膚がなかった。吏に尋ねると、言った。「秀才は牛肉を食べることを好んでいたので、拷問を受けたのだ。」第二群は、一人の乞食で、壊れた竹籃を提げ、下半身はわずかにぼろぼろの(むしろ)一片で覆い、腰を曲げて堂に登った。すこし尋ねると、すぐに下りてきた。笑顔は溢れんばかり、口ではひたすら念仏し、宙に跳び、笑っていた。傍らで一人の下役が言った。「この人は宿業により、生前、罰せられて乞食になり、普段酒を食べず、つねに阿弥陀仏を念じ、夢の中でも声を絶やさなかった。冥王はその志を嘉し、歴劫[107]罪障をすべて除き、すぐに西方にゆくので、喜びが顔色に現れていただけだ。」第三群は、四人が肩輿を担いで来たが、中に一人の老婆が坐していた、冥王は出座し、一揖して別れた。輿の後ろにはウナギが十三担[108]あり、さらにカエル・タニシ・ハマグリ・エビ・カニは数えきれなかった。傍らの吏は罪人たちに言った。「この婆さんは年が八十三、二十三から念仏精進し、老年になっても倦まなかった。輿に従っているものは、みな生前に放生した生き物だ。」第四群は、ヒツジたちで、腥くて近づき難かった。一人が裸で進んでおり、ヒツジはみなかれの足を咬んでいた。吏は言った。「この人は生前ヒツジ売りであったのだ。」一件を調べるごとに、拷問はたいへん酷く、叫び声は外に響いた。氏はひそかに吏に尋ねた。「今日の調べでは、どうして殺生の事だけを尋ねる。そのほか不孝不慈および財を目当てに命を損なうなどのことは、犯すものが一人もいないことはあるまい。」吏は言った。「他の事件はそれぞれ掌管する役所があり、こちらでは取り調べないそれに忤逆[109]強盗の陽律[110]は恐ろしいので、犯すものはなお少ない。殺生のだけ、世人はほしいままに飲食を貪り、として怪しまず、ひたすら自分の美味を嗜み、誰が動物の怨み辛みを顧みよう。しかし、一たびここに至れば、生前の殺生の罪は、わずかでも報いがある。人の世へ帰るなら、今日見たことはすべて人に話して知らせろ。」第十六群まで待つと、はじめて程氏を呼んだ。程は層の階の前に跪くと、程姓で、翁はすでに亡くなった、姑は六十二歳で、父母いっしょに亡くなった、夫は儒学を学び、年は三十二で、五月生まれであったが、その日時はまったく憶えていないとみずから言った。堂上の者は怒鳴った。「すでに知っているから、多く語る必要はない。見ると案頭の帳簿は長さ三尺あまり、幅は二尺あまり、字は人の世の洋銭ほどの大きさであった。「朱程氏」の名の下に五行半の大きな字、赤丸つが注せられていた。傍らの黒い顔の判官が言った。「おまえはさいわい殺生すること少なかったので、案簿の上の字は寥寥として数行だけだ、これからは、今まで通り人のためにすれば、なおよいことがあろう。冥府はもっとも『金剛経および『大悲呪』を重んじ、罪があっても懺悔することができる。憶えておけけっして人々に従って多く殺生し、無数の敵を作ってはならぬ。」そして立つように命じ、階を下り、調べるのはどんな事案か知らず、尋問する人も見えなかった。心の中で恐れ、いそいで家に帰ろうとしたが、いかんせん鉄柵には鍵が掛かっていた。一人が刀の山に連れてゆき見ると剣が空を刺し、刀の上の人は胸を斬られ、脇を突かれ血肉は淋漓とし、さらにみな耳がなかったので、氏は見るに忍びず、いそいで走り出た。青石にしばらく休み、東を振り返れば、すべて惨惨[111]として憐れであった。そこで西に向かって見れば、みな自在に出遊し、喜びの表情が多かった。さらに中庭に衣を山のように積んであったが、傍らの人が言うには、これは剥衣亭といい、臨終の衣服が僭越であれば、罪の有無に関わらず、ここに来るとかならず剥ぎ取るとのことであった。まもなく、木戸が開かれ、押し合って出るものは紛紛とし、径は千万本あり、一人がかれらを率い、西側から押してきた[112]。中は暗闇で漆のようで、走り出るとすぐに船を泊める所が見えたので、ふたたび船に乗り、家に帰って醒めた(「ここはどこですか。」からこの句までは、すべて病人が口ずから語ったことである[113])。目ざめると尋ね、みなはっきりとしていて、ぼんやりしていた時に言ったことと異ならず、時に三鼓であった。そして粥を求めて飲むとすぐに眠り、夜明けになると寂然とした、病勢もだんだん退き、これはわたしが薇卿の五弟および娘・下女と、いっしょに牀の前におり、わたしの耳にはっきりしており、単にわたしの眼にはっきりしているだけでない。そこでその末を述べ、増減しようとせず、ただ善信[114]のものが陰陽の一理を悟り、果報の逃れ難いことを恐れつよく殺生のを戒め、輪廻に従うことを免れ、念仏の功徳を力行し、土に往生すことを願い、すぐにその篇を『冥遊確記』と名づけた。徐柏[115]が言った。「これは道光十三年の本当に新しい果報であり、その年、わたしは江蘇に旅したが、林少穆[116]同年がかれを官署に招いたので、かれの門下の士劉秀才嗣龍がこの帙を送った。朱と劉は同年[117]の友人で、すぐに編中に録し、世人はいっしょに見、いっしょに聞いた。

 

◎慈生編

 

辛田県令(川糦)が命を奉じて浦城を通ったとき、家大人はかれを留めて北園で食事させたが、『慈生編』一冊をわたしに贈った。中に一つもっとも世を戒められる話があったが、このようなものであった。人は誕生日、子が生まれた日、結婚と仕官の日に、盛大に賓客友人を集め、かならず一歩一歩が吉祥で快適であることを求める。率然と一つの餅を落としたり、一本の釵を断ったりすれば、かならず籍籍[118]として不吉かと疑う。しかし、料理人は(つくえ)の上でを抉り、胃を抉り、肉血は淋漓としている。この不吉と、さきほどの不吉はどちらが大きいのだろうか。病に至っては、すべて運命に関わっており、籠を開いて鵲を放ち、網を解いて魚を放ち、やや前世の罪を消せることを願うだけだ。今かえって屠殺調理して厄払いを願い、巫祝(かんなぎ)の命に従い、一度祈って験がなければ、二度に至り、三度に至り、いたずらに生物の命を奪い、殺業[119]増せば、益がなく、損があることは明らかである。思うにこれは山東の序堂先生(未彤)の言葉で、家大人が以前京邸で聴き、記録したものであった。

 

◎某方伯[120]

 

辛田はさらに言った。近頃、某方伯というものがおり、威福[121]を施すことを好んでいたが、平素は両府[122]に掣肘せられ、憤りは収まらなかった。おりしも督[123]が病と称して去ったので、撫部[124]総督の職務[125]を兼任したが、海浜に出て留まらねばならなくなったために、省城の諸務を顧みることができなくなり、巡撫の位を布政司引き渡して代理させることを奏した。某方伯はたいへん得意で、一月足らずで、[126]の知県十六人を審査[127]しようとし、知県二十人を選んで任用を待たせることを求め、名簿を作り、両司に上申するように頼むと、両司は難色を示した。しかし某方伯は考えがすでに決していたので、すぐに声を荒らげて言った。「わたしは上奏の草稿をすでに書いたから、公らが上申しなく[128]ても、その日のうちに上奏する。」時に大小の官僚たちはみな恐れてなすすべがなかった。まもなく部の命が来たが[129]××の事件のことが明らかになったため、方伯はすでに免職となっていた。翌朝、両司が目通りした時某方伯はなおそれを秘して述べなかったが、督部を代理するものは先に部咨[130]を奉じ、即日省に戻り、巡撫の印取り戻そうとした。両司はすでにそのことを知っていたので、落ち着き払って尋ねた。「過日、命を奉じ、ともに十六人の県令の詳文[131]選別いたしました。おりしも二人の県令がほかの事件で解任されましたので、十四だけしか上申するべきものがおりませぬが、やはり十六人揃えるべきでございましょうか。」某方伯はそこで愀然として部文[132]を出して示した。「『我躬(わがみ)すら()れられず、我後(わがのち)(うれ)ふるに遑あらんや』だ[133]公らもうよい。」そこで両司は黙然として外に出た。その事が喧伝されると、みな快く思った。

 

最終更新日:2018222

北東園筆録

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[1]http://www.zdic.net/c/5/111/299647.htm仏教で僧尼が必遵守する戒

[2]http://www.zdic.net/c/6/109/285260.htm神気凶な鬼神

[3]貴州/貴陽府の県名。

[4]http://baike.baidu.com/view/860742.htm?fromTaglist

[5]原文「疽發對口而死」。後ろに出てくる対口瘡を発病したということであろう。脳疽、対口疽とも。「對口」は口の裏側ということであろう。画像検索結果

[6]『清史稿』志八十九「順治元年、置尚書、侍郎各官。設江南、浙江、福建、四川、湖廣、陜西、河南、江西、山東、山西、廣東、廣西、雲南、貴州十四司、置滿洲郎中六人、五年摧ェ人。員外郎八人、五年搶\人。」。

[7]http://www.zdic.net/c/b/150/333320.htm稿の起草を担当すること

[8]http://www.zdic.net/c/5/94/167460.htm批准をにみだりに誅殺すること

[9]http://www.zdic.net/c/2/14b/327581.htm中央各部のたとえば尚、侍郎等の通称。

[10]原文「回堂」。まったく未詳。とりあえずこう訳す。

[11]http://www.zdic.net/c/5/10e/292531.htm

[12]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9A%E5%BB%B7%E6%B8%85

[13]http://www.zdic.net/c/e/ef/245635.htmク試合格した後、つづけて会で合格すること。

[14]原文「及聯捷、乃遍拜、皆弗納。」。「皆弗納」が未詳。とりあえずこう訳す。後ろに印結云々とあるが、これと関係があり、身元保証人となってもらえなかったということではないか。

[15]貴州会館のことであろうが「西館」が未詳。http://baike.baidu.com/view/3484060.htm

[16]http://www.zdic.net/c/0/11/27703.htm印章を捺した保証書。「」は責任を負うことあるいは解決を承することを示す証書。

[17]http://www.zdic.net/c/4/14a/323605.htm工部の属官

[18]戸部の別称。に同じ。

[19]http://www.zdic.net/c/f/a7/195572.htm兵部の称。また、刑部の称とも。

[20]原文「吾先有禮於眾矣、姑出之、容異日徐圖可也。」。「有禮於眾」、「姑出之」の「之」、「徐圖」の目の語が未詳。「徐圖」は「従容と方策を設けて謀取すること」。

[21]主語は堂官。

[22]原文「周某係管理會館之人、如此項銀兩入手、雖非侵蝕、亦不挪用。」。この部分、まったく未詳。

[23]原文「以惡詐不遂」。「惡詐」が未詳。とりあえずこう訳す。

[24]http://www.zdic.net/c/f/a6/195362.htm家口称。

[25]http://www.zdic.net/c/4/9e/181534.htmえ慎むさま

[26]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B5%E4%B9%89%E5%B8%82#.E5.8E.86.E5.8F.B2

[27]幕僚の劉

[28]http://baike.baidu.com/view/230947.htm沮喪したさま。

[29]()氏」は女性名。

[30]http://www.zdic.net/c/d/145/317149.htm生霊を惜し、殺生せぬこと。

[31]孔子と同じ姓の人(=孔子の一族)が役者のような賎しいことをしているので驚いた。

[32]http://www.zdic.net/c/d/1c/44550.htm地方で兵を率いる

[33]http://www.zdic.net/c/2/14a/324858.htm銅銭

[34]http://www.zdic.net/c/f/109/284897.htm教官

[35]http://www.zdic.net/c/d/149/322858.htm仏教海。種種の因によって人溺れさせる海。

[36]http://www.zdic.net/c/a/e7/232571.htm船夫。

[37]原文「欲從孽海航人」。未詳だが、「人助けしようとする」の意であろう。

[38]http://baike.baidu.com/subview/215118/15937678.htm

[39]http://www.zdic.net/c/7/3e/95618.htm巡撫。

[40]http://www.zdic.net/c/6/11/28469.htm総督

[41]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E9%BA%9F

[42]http://baike.baidu.com/view/1019264.htm

[43]http://www.zdic.net/c/e/16/35087.htm

[44]四子書のことか。四書に同じ。

[45]http://baike.baidu.com/view/224619.htm

[46]http://zh.wikipedia.org/wiki/1813%E5%B9%B4

[47]原文「渠始十二三、如赤子入井」。十二三歳で役者に身を落としていたのは、事故のようなものだということ。「赤子入井」の出典は『孟子』滕文公上

[48]原文「其志氣已足千古」。「足千古」が未詳。とりあえずこう訳す。

[49]原文「不必言果報、而果報在其中矣。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[50]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%9D_(%E8%A7%89%E7%BD%97)

[51]林雨化グーグル検索結果

[52]http://zh.wikipedia.org/wiki/1780%E5%B9%B4

[53]http://baike.baidu.com/view/7760.htm

[54]http://www.zdic.net/c/d/1c/44230.htm外城の

[55]『春秋左氏伝』のことと思われる。

[56]http://baike.baidu.com/view/1620856.htm伯有h、春秋時鄭大夫。死後鬼となって祟ったという。祟りについてはこちらを参照。 

http://ctext.org/chun-qiu-zuo-zhuan/zh?searchu=%E9%84%AD%E4%BA%BA%E7%9B%B8%E9%A9%9A%E4%BB%A5%E4%BC%AF%E6%9C%89

[57]グーグル検索結果http://baike.xzbu.com/1103554.htm

[58]原文「孰知遠對萬里外邂逅相遇」。「對」が未詳。とりあえずこう訳す。衍字か。

[59]http://baike.baidu.com/subview/77243/8581898.htm

[60]http://www.zdic.net/c/f/31/77442.htm差役を担当する士卒

[61]原文「翁ス之」。未詳。とりあえずこう訳す。

[62]原文「與翁謀殺其子」。翁に実の子を殺すことを持ちかけるのが不自然。未詳。

[63]原文「適子從驛晚歸、促之行不可、因堅留之、婦不敢洩。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[64]原文「為揮繩樓上」。何のための動作か未詳。とりあえずこう訳す。

[65]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE6Zdic96ZdicB0302209.htm瓦版

[66]原文「誘懷其札」。「誘懷」が未詳。とりあえずこう訳す。http://www.zdic.net/c/jd/?c=0/99/175339招引http://www.zdic.net/c/jd/?c=b/e0/222036

[67]原文「故令欲分其罪而無從也。」。「分其罪」が未詳。とりあえずこう訳す。

[68]http://www.zdic.net/c/4/df/220292.htm、災あるいは権勢きわめて大きいことの比喩

[69]原文「夜臥更餘」。未詳。とりあえずこう訳す。

[70]原文「婦緊掛」。「掛」が未詳。とりあえずこう訳す。

[71]原文「無奈、解衣遙擲之、令衣而入、宿嫂空房。」。未詳。とりあえずこう訳す。自分の、つまり男物の服を脱いで投げ、それを着させたということなのか。

[72]原文「若然、叔亦暫留吾家、晨當同歸、善遣之。」。「善遣」が未詳。とりあえずこう訳す。

[73]原文「素識也」。未詳。とりあえずこう訳す。

[74]原文「肆人患其擾惡而賊之」。未詳。とりあえずこう訳す。

[75]http://baike.baidu.com/view/184938.htm?fromtitle=%E6%83%A0%E9%98%B3&fromid=3076015&type=syn#1

[76]http://www.zdic.net/c/2/d4/204140.htmガマでんだ

[77]「■」は判読不可能。グーグル検索結果

[78]http://baike.baidu.com/view/1797431.htm

[79]http://www.zdic.net/c/c/111/298697.htm蓬草が随い飛転すること。人が流離し、四方漂泊することの喩え

[80]原文「関口」。未詳。とりあえずこう訳す。漢典に適切な語釈なし。

[81]未詳

[82]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%98%8C%E5%BA%9C

[83]http://baike.baidu.com/subview/47750/6167418.htm

[84]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E6%A2%81%E5%8E%BF

[85]http://www.zdic.net/c/c/1C/43492.htm人が会試を受験すること

[86]未詳

[87]徐柏舫を指していよう。

[88]http://zh.wikipedia.org/wiki/1782%E5%B9%B4

[89]http://www.zdic.net/c/e/29/62688.htm手裏剣

[90]江西

[91]http://www.zdic.net/c/e/13b/301093.htm山と思われる。

[92]未詳だが、結婚前の幼名であろう。

[93]http://www.zdic.net/c/f/152/337347.htm呪」とも。文と呪文。

[94]http://www.zdic.net/c/f/fa/262554.htm期間精進物を食すること。

[95]漢典に適当な語釈なし。山にあるあずまやであろう。

[96]原文「而汝父素行、何事不為、神仏豈欺人哉。」。「何事不為」が未詳。とりあえずこう訳す。

[97]http://www.zdic.net/c/5/69/100334.htm死後にいること

[98]http://www.zdic.net/c/0/10a/289126.htm仏教。地酷刑の一つ。

[99]『文選』江淹『詣建平王上書』「庶女告天、振風於斉臺。」李善注「『淮南子』曰、庶女告天、雷電下撃、景公臺隕、海水大出。許慎曰、庶女、斉之少寡、無子、養姑。姑無男有女、女利母財而殺母、而誣告寡婦、婦不能自解、故寃告天。」

[100]未詳

[101]http://www.zdic.net/c/1/14b/327169.htm漢方邪気感じて生じる疾病をいう。

[102]原文「予為莊誦七遍」。未詳。とりあえずこう訳す。

[103]未詳だが、兵卒のようなものであろう。

[104]http://www.zdic.net/c/9/e3/228661.htm官が出行する、属あるいは下僕らが両並び、待機すること。

[105]原文「似陽間手卷式」。「式」が未詳。とりあえずこう訳す。http://www.zdic.net/c/b/14b/327025.htm署名用に備える長

[106]http://www.zdic.net/c/b/a5/190659.htm菊花、桂花。それが描かれているものか。

[107]http://www.zdic.net/c/6/108/284524.htm仏教。各種の災ること

[108]」は荷物を数える数詞。

[109]http://www.zdic.net/c/4/150/334008.htm不孝

[110]http://www.zdic.net/c/3/101/272131.htm人の世の法律

[111]http://www.zdic.net/c/8/15/31274.htm昏暗のさま。陰森瑟のさま。

[112]原文「有一人領之從西邊排■走」。「■」は行人偏の字だが、判読不能。とりあえずこう訳す。

[113]これは原注。

[114]http://www.zdic.net/c/4/72/114663.htm仏法を敬虔に信仰すること。

[115]『北東園筆録』の用例

[116]http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%88%99%E5%BE%90

[117]http://www.zdic.net/c/c/38/87718.htmク試、会同時に合格した者。

[118]http://www.zdic.net/c/d/e7/232997.htm衆口の喧しいさま。

[119]http://www.zdic.net/c/0/8d/156489.htm生。

[120]http://www.zdic.net/c/9/2a/65509.htm布政使。

[121]http://www.zdic.net/c/1/14c/328282.htm権力者がみだりに尊大にし、権勢を弄ぶことをいう

[122]漢典に適当な語釈なし。ここでは総督・巡撫のことであろう。

[123]未詳だが、総督のことであろう。

[124]未詳だが、巡撫であろう。

[125]http://www.zdic.net/c/3/8e/158852.htm督の大印。督の位をも指す

[126]http://www.zdic.net/c/e/7e/132041.htm清の制度で、正式な任命を者をとし、その代理に任命された者署缺とする

[127]原文「甄別」。http://www.zdic.net/c/4/14f/331792.htm官吏の行状審査て個別に取捨すること。

[128]http://www.zdic.net/c/7/3f/97776.htm漢典に適当な語釈なし。訳文の意であろう。詳文を整えることであろう。

[129]原文「未幾即來到部檄」。「部檄」が未詳。とりあえずこう訳す。「部」は中央官庁のことであろう。

[130]http://www.zdic.net/c/8/1d/44974.htm部が布する公文

[131]http://www.zdic.net/c/6/f4/253929.htm官吏官署報告し、指示を仰ぐ

[132]http://www.zdic.net/c/8/ef/245196.htm中央各部が頒発する文

[133]出典

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