蘇州の豪族は、潘家を最大とし、富潘、貴潘の両派があった。しかし、富むものは貴いとは限らないが、貴いものは富むものも兼ねていた。今、芝軒[1]先生の家は、その亡き祖父封翁某が城外に住んで盛徳があり、およそ危うきを助け、苦しみを救い、孤児寡婦を哀れむ事は、かならず至誠惻怛に基づいておこなった。以前、除夜に、広間の前で、暗闇の中、匍匐しているものがいるのを見たが、照らすと、隣家の子であった。かれは忸怩として言った。「わたしは不肖で、賭博を好み、負債が累累としております。今は除夜で、借金取りがたいへん厳しくしていますので、やむを得ず、夜に乗じて盗もうとしたのです。捕らえられたからには、命を許されることを願うばかりでございます。」翁は憐れみ、言った。「いかほどで諸々の負債を完済できるのだ。」「十両でございます。」翁は言った。「なぜはやく告げなかった。」坐するように命じ、二十両を出して与えると言った。「半分で負債を償い、半分でささやかな商売をしろ。ただ願うのはおまえが賭博を慎むことだ。分に安んじて良民になることに務めれば、わたしは誓って今夜の事を人に告げまい。」その男は泣いて謝して去った。十余年後、翁は山に入り、墓地を物色したが、どこの家の土地か分からなかった。村の酒場で酒を飲むと、店主が前で拝したが、それは、以前、除夜に見た隣家の息子であった。そもそもその人は金を得た後、翁の徳に感じ、こちらに来て旗亭の業をし、おおいに利を得、妻を娶り、子を産んでいたのであった。翁を見るとたいへん喜び、殷勤に引きとめて泊まらせた。翁も喜び、先ほど占った土地のことを尋ねると、言った。「これはわたしが買い、亡父を葬ろうとしていたものですが、恩人がよいと思われますなら、差しあげましょう。」翁は承諾しなかったが、再三承諾を求めたので、たくさん代金を払って証文を書いた。堪輿家が見ると、みな状元宰輔の吉穴だと言った。葬った後、数代たらずで、榕皋[2]、鉄華[3]両先生は前後して進士になった。癸丑[4]になると、芝軒先生が状元となった。乙卯には、榕皋の子(世璜)[5]が探花及第した。今芝軒先生の子はさらに合格した。彭詠莪は言った。「芝軒先生は人がらが寛容で、そのしもべに罪があって追いはらうべきものがいても、直接叱責を加えず、ただ一枚の紙を人気のないところに貼り、かれひとりに知らせて去らせた。」わたしはこれだけでもかれのうやうやしさを証明することができると思う。
◎尹文端公[6]
趙甌北(翼)[7]が言った。「尹文端公は、両江を統治することおよそ四度、徳政はもとより多かったが、もっとも民心を得たのは、漕運の弊害[8]を厳しく禁じた一件であった。それより前、有司が漕糧を収める際は、運送費を名目にし、一律に一斗[9]を六七升とすることを許していた[10]。公は江南を巡撫すると、上奏し、一石[11]ごとに、業戸[12]別に計測料[13]五十二文を別納させ、斗・斛は民自らに任せた[14]。残った穀物で斛[15]の縁にあるものも[16]、「花辺」といい、民にみずから払って去らせた。後に桂林の陳文恭公[17]が呉を巡撫し、胡文伯[18]が布政司となったが、いずれも規則を守り、すこしも不正をさせなかった。某県の知事に戈姓のものがおり、一石ごとに一升五合を加えて収めていたが、すぐに弾劾せられて絞罪に処せられた。漕運の事務が粛清されることおよそ四十年であったのは、すべて文端の遺恩で、呉人が公を思うことが今でも衰えないのは当然だ。」家大人は言った。「文端公の漕運事務の粛清は、その恩沢を蒙るものが江南にいる。そして文端公の事件の審理では、その恩沢を蒙るものが天下後世にあろう。」強盗の律は、主犯・従犯に関わらず、すべて斬罪であったが、「法として許せず」、「情として許せる」の二条を分けてから[19]、死を免れるものは数えきれなかった。わたしは江蘇で程梓廷先生[20]と盗難事件を精査したが、先生はこの条文を不正常であるとし、分別して処理するようになってから、事件を犯すものはますます多く、元を正し、源を清める[21]道ではないと言った。わたしは、この規定は本当に尹文端公が、高廟[22]に施行することを許していただいたことから起こっていると思う。今までそれに従って処理すること数十年、各直省[23]の死を免れた人々は都合千万を下らないが、これは天地の生命を愛惜する徳、国家の寛大な恩であり、わが大清億万年の景運[24]の延洪[25]は、かならずこれに由来していることであろう。そして尹文端公一家は、韋平[26]が次々に起こり、珪組[27]が相次ぎ、これだけでもすでにそのあらましが見られ、子孫が軽々に論ずるべきものでは断じてない。
◎紀文達公
紀文達公は当代の名臣名儒で、天下はかれを望むこと泰山北斗のごとくであった。方便を施すことを好んだが、士大夫はかげでかれの恩徳を受けながらそれを知らなかった。家大人はかれの二つの事を述べたことがあった。一つは嘉慶年間、実録館[28]が議叙[29]を奏請した時、優待し過ぎだと言うものがいた。上がそのことを公に語ると、公は可否を明らかにせず、ただ言った。「わたくしは役人をいたしますこと数十年、賄賂を進呈しようとするものはおりませんでしたが、親戚友人がわたくしに、かれらの先代の位牌を揮毫したり墓志銘を作ったりしてやることを求めました時は、厚い礼物であっても受けないことはございませんでした。」上は輾然[30]として言った。「それならば朕が先帝のために恩を施しても、何のよくないことがあろう。」そして捨ておいて問題にしなかった。さらに××科の試験のすこし後、外で上位十人の詩句と姓名を言いふらしているものがおり、御史某がひそかにそのことを上奏した。上が公を召し、その事を問題にすると、公は奏した。「わたくしが漏らしたものでございます。」上がそのわけを尋ねると、答えた。「書生の習性で、佳作を見ますとかならずながく吟詠いたします。答案を閲しました時、その句を暗誦し、出てそれが誰の手によるものか尋ねようとすれば[31]、漏れることは免れません。」上は笑みを浮かべ、その事も沙汰止みとなり、士人たちはそれを讃えた。張南山(維屏)[32]が言った。「ある人が文達公は博覧淹貫[33]しているのに、どうして書物を読まないのかと訝った。わたしは言った。『公の一生の精力は『四庫全書提要』にくわしく見えるから、さらに著書することはないのだ。』ある人がさらに言った。『著書がないなら、どうしてさらに小説を撰したのだ。』わたしは言った。『これが公の深い考えなのだ。そもそも考証・弁論の書は、今になって完備し、心を学問に留めないものはその書に寓目せぬことが多いが、稗官小説は、神怪を記し、狐を談じ、幽鬼を語る書であり、人々はみな喜んで見るから、公はここに勧戒の意を寓し、小説に託すればその書は流通しやすく、面白い話を出せばその言葉は受け入れ易いのだ。』。」それならば『如是我聞』『槐西雑志』の諸書は、醒夢の清鐘、迷津[34]の宝筏[35]か。思うに最近の小説家の勧戒に関わりがある諸書で、『閲微草堂筆記』に勝るものはなく、人口に膾炙しており、家にその書があるので、ふたたび録することはできないし、時代もやや遠く、わたしの書がもっぱら最近のことを採る体例と合わないので、すべて舎旃[36]に従う。
無錫の孫春台中丞(永清)は、平叔宮保(爾準)[39]の父である。諸生であった時、広東布政使胡公文伯[40]の幕中に入っていた。おりしも土司が蔭襲[41]を争い、非難し合っていることを告げ、調べると、すべて明代の印璽であったので、総督は符信[42]を私造した罪を適用し、叛逆の律と同じで、斬罪になるべきだとしたが、連座するものはたいへん多かった。公はまず草稿を調え、袖に入れ、胡に会うと言った。「土酋の意は継承にあり、他意はございませんので、みだりに叛逆と決めつけるべきではございません。」胡は言った。「これは総督・巡撫の意思だし、期限も迫っているから、にわかに草稿を変えることがどうしてできよう。」公はそこで用意したものを出して示した。胡は読むとたいへん喜び、総督・巡撫に述べ、総督・巡撫はそれに従い、生きられたものは二百余人であった。公が広西を巡撫した時、安南の諸大校[43]莫・黎・鄭・阮の各家は、抗争しあって[44]久しかった。それより前、黎氏は莫氏を残してその国を占拠し、その臣鄭検[45]がその後簒奪したが、さらに阮恵[46]が鄭氏を誅殺し、黎氏を放逐した。乾隆年間、黎維祁[47]が入国し[48]、帰順を求めた時、朝廷はすでに福文襄王[49]に両広を総督させていた。討伐について相談しようとすると、公はひそかに述べた。「黎・阮がたがいに呑噬するのは、外夷の常でございます。聞けば安南はふかく天威を恐れていますので、簡単に勝利させることができましょう。」文襄は同意した。まもなく、阮恵は本当に罪を悔い、職貢[50]を尽くすことを請うとみずから述べた。純廟[51]は阮恵の恭順を嘉し、かれが入覲するのを許し、光平と名を賜い、同時に国号を賜い、「越南」と改めさせたが、すべて公がその美を成したのであった。公は挙人の中書[52]から朝廷に入り、地方に出て封圻[53]を司り、つねに甲科[54]に合格せぬことを遺憾としていた。平叔宮保は詞林[55]から制府[56]に登り、諡を文靖といった。宮保[57]の子はさらに進士から官になったので、公の貽穀[58]は大きかった。
◎畢秋帆[59]宮保
国朝の状元で地方官になったものは少ないが、畢秋帆先生(沅)および史漁村先生(致光)[60]の二人は、知府・道台から総督に進み[61]、宮保を加えられ、花翎[62]を賜わり、功名の盛んなさまでは、畢公ははるかに史に勝っていた。公は合格する前、まず中書から軍機処[63]に入直した[64]。庚辰[65]の会試に応じ、合格発表の一日前、公と諸桐嶼(重光)[66]、童梧岡(鳳三)[67]はいずれも西苑[68]にいた。当直の桐嶼が、夜の宿直をせねばならなくなったが、突然公に言った。「今晩は湘衡(畢公の字)がわたしに代わって夜の宿直をするべきだ。」公がわけを尋ねると、言った。「わたしたちは能書で、合格すれば、鼎甲[69]を望めるから、はやく寓居に戻って待つべきだ。君の字では、たとえ合格しても、分外の思いは起こせまい。」そう言うと、二人はすぐに去って振り返らなかった。公は怡然として宿直を代わってやった。日が暮れると、ちょうど陝甘総督黄廷桂[70]の奏折[71]が送られてきたが[72]、新疆の屯田の事を述べており、公は夜坐して何事もなかったので、それを熟読した。まもなく、三人はいずれも合格した。当時、新疆は開拓されたばかりで、聖上は屯田を行おうとしており、廷試になると、策問[73]がすぐにこのことに及んだ。公は屯田策だけは詳細で、他を圧倒し、第四位として進呈したが、聖上は第一に改め、桐嶼が二位、梧岡の名は第十一位にあった。同値[74]でそのことを知るものはみな嘆き、趙甌北[75]は言った。「合格発表の晩に湘衡が宿直を代わらなければ、屯田の事を知るよしがなかった。書法で判断すれば、かれの答案は絶対に十位に入ることはできず、龍頭[76]は結局桐嶼に属していただろう。」昔の賢人は常に人に損することを学ぶように教えたが、ここに至ってますます明らかになった。やはり湘衡の性格がそうさせて、福命[77]がすぐそれに従ったのだろうか。
佘秋室学士(集)は、文才と洒脱さが両浙[79]に冠絶していた。当初、合格発表があっても館選[80]を得ず、四庫の書を纂修し、功績を積み、選ばれて学士となった。わたしは若い時、かれの名を聞き、古の人だと思っていたが、後に家大人が公車[81]で上京した際、学士に会ったことがあることを知ったので、機会に乗じてひそかに会い、言った。「先生は書法がかくも精妙でございますのに、なぜ鼎元[82]になれなかったのでございましょう。」学士は笑って言った。「これはわたしの半生の一物語ですから、お尋ねにならなくても、お話ししようとしておりました。思えば丙戌科[83]の合格発表があり、帰班[84]しておりました時、広東の呉某が訪ねてきましたので、招き入れますと、呉は言いました。『君は糞をしながら書を読むか。』わたしが訝りますと、呉は言いました。『わたしもこの罪を犯していたが、昨年大病したところ、夢みて冥府に入った。母は若くして寡婦となり、わたしは遺腹として育てられ、成人したが、今、母に先だって死ねば、母は頼りにするものがいなくなってしまうと思い、痛哭して閻王にお願いして帰らせてもらい、母が天寿を全うするのを待つことにした。王は生死簿を取って閲すると、判官を顧みて言った。『このものは寿命がまだ終わっていないのに、なぜ捕らえてきた。』判官は言った。『このものは、糞をしながら書を読みましたので、寿命を奪いましたのでございます。』王が帳簿を取ってくるように命じれば、一冊で、厚さは一寸ばかり、題簽に『糞をしながら書を読んだ』という四つの大きな字が書いてあった。王が広げて閲し、わたしの名に至ると、わたしは跪き、机の前に迎え、叩頭・哀泣したので、こっそり帳簿を見ることができたが、本当に寿命を二紀[85]減らされていた。わたしの上の名は君で、君の名の下には、浙江銭塘の人、壬午[86]の挙人、丙戌の状元と注してあった。以下禄位の注はたいへん長かったが、『状元』の字を筆で抹消し、『進士』の二字に改めていた。王は判官に言った。『かれは死んでもひたすら母を思っているから、孝といえよう。それに世間はこの罪がもっとも重いことを知らず、犯すものはたいへん多く、諭すすべがないから、許して帰してはどうか。人の世に広め、あればそれを改めさせれば、みずからを贖うことができよう。願わくは、罪冊の中の人がたいへん多くならねば、一紀の寿命を貸すこともできよう。しかしこの十二年の間にも、軽い罰を示し、かれを安楽にさせぬべきだ。』そこで判官は筆でわたしの頭を突いたが、たいへん痛く、大声で叫んで蘇れば、すでに死んで一昼夜が経っていた。今、頭頂の疽は、治療しても効果がないが、おおかた判官が突いた処だろう。』その時、わたしは呉の言葉を聞き、はじめて愕然とし、ひどく悔い、前の罪を改めることを誓った。誓いを立てたのは、四庫[87]で書籍を編纂していたため、詔が下って召集された日であった。
◎呉修撰
亡き叔祖[88]太常公[89]は、乾隆乙未の廷試に応じ、答案は首席になろうとしていたが、にわかに呉純甫(錫齢)[90]に改められた。その試験の三鼎甲[91]はいずれも不運であった。呉はわずか二十四歳であったが、翌年すぐに亡くなった。探花は沈魯田(清藻)であったが、やはり散館にならないうちに歿した。榜眼の汪東序()は、夜に酔って来るのが遅れ、臚唱をすっぽかしたので、職を授けられないうちに罰俸となった。言い伝えでは、その日、午門[92]の中門[93]に煞がいたので避けねばならなかったが、状元と探花はそれに出くわし、榜眼は来なかったために免れたということであった。後に官位は四品となり、天寿を全うした。さらに言い伝えでは、呉は前身は僧で、募金して橋を修理し、それにくわえて、かれの封翁は喜捨を呼びかけるのに大いに励み、工事が終わると、僧が部屋に入るのを見て純甫を生んだということであった。優曇[94]は現れるとすぐに空花[95]となるが、これを因果に帰さないことはできない。
◎戴呉二公
乾隆末年、戴文端公(衢亨)[96]および呉槐江公(熊光)[97]はまだ軍機章京[98]であった。二人はたまたま夜の宿直をともにしたが、夜半、突然某省の速達の摺[99]が来た。聖上は衣を着、閲し終わると、たいへん急いで軍機大臣を召した。内監が軍機大臣はまだ来ておりません、夜の当直の軍機章京二人がいるだけで、すでに直房[100]に伺候しておりますと奏した。聖上は二人の姓名を尋ね、すぐに人を招き、摺を示し、口ずから機密を授け、すぐに聖旨を起草させ、進呈するように命じた。二人は退出すると、運筆は飛ぶかのようで、すぐに起草・進呈したが、明快周到で、すべて聖上の思い通りであった。おりしも軍機大臣が来ていたのでともに入対[101]した。聖上が二人の草案を示し、妥当かを尋ねると、みな[102]言った。「たいへん妥当でございます。」そこで聖上は盛んに二人の能力を褒め、毎日すぐに軍機大臣に従って入対するように命じた。当時、和珅が政務を執りはじめていたが[103]、自分の権力を割かれることを恐れ、上奏した。「二人はもともと軍機処の助っ人の官員であり、わたくしどもの撰擬[104]も、すべてかれらの手から出ております。今後も直房で事務処理するように指示することができますれば、直接諭旨を受けるのと異なりません。すぐにいっしょに入対[105]させれば、官職はいささか卑しゅうございますから、枢廷[106]の規格には合わぬことがあるようでございます。」聖上はかすかに笑って言った。「おまえたちは官職の高低を問題にしているに過ぎない。朕が処分することは難しくない。ひとまず退出せよ。すぐに諭旨があろう。」和珅は二度と上奏しようとしなかった。まもなく朱諭[107]が下ると、戴衢亨、呉熊光は褒美として三品の頂戴[108]、軍機大臣上学習行走[109]を加えられた。和珅はそのために嗒然としていた。「小人の謀りごとは、君子の福とならないことはない[110]」とはこのことか。
◎李方伯[111]の冤罪状
李許斎方伯(賡芸)の事件を扱ったものは、汪稼門制府[112](志伊)[113]、激しくしたものは涂瀹荘太守(以舫)[114]、輔佐したものは王畹馨撫軍[115](紹蘭)[116]であった。取り調べが猛烈であった時、李はもとよりみずからを弁明することができていたが、涂は汪の意図を受け、かならずその事件を決着させようとし[117]、法廷で机を打って叱責し、声色をともに激しくしたので、李は耐えられず、自裁してしまった。上奏が行われると、上は激怒し、二人の星使[118]を派遣してその件を調べさせた。李の名望は顕れてひさしく、わが福建の人々はかれの徳政に感じてもいたので、副貢生林(光天)は義行を呼びかけ、数百人を集めてかれの冤罪を訴えた。星使はそれに従って報告し、事件は解決した。涂は流罪となり、汪と王はいずれも罷免されて庶民となったので、福建の人々は喜んだ。王は半生宦迹が福建省を離れることがなく、知県から巡撫に至るまですべて汪が熱心に援助しており、王は汪に感謝することが至って深かったため、迎合することが過ぎ、この誤りが起こったのであった。汪はみずからをたいへん優れていると思っており、両廡の特豚[119]を食べる思いがおおいにあって、嘘をつくことに専心していたので、人々は偽道学と称していた。この事件で破れてから、名声はにわかに衰え、任を去ろうとした時は、役所で白昼にも幽鬼が見られたということである。
最終更新日:2018年2月22日
[1]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=teCCMQFjAB&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E6%25BD%2598%25E4%25B8%2596%25E6%2581%25A9&ei=ijDLVNPKONS78gWTtYHIDA&usg=AFQjCNHnSrrmOXr6HpzcXBLPEtPdMtev5gA&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[2]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E6%25BD%2598%25E5%25A5%2595%25E9%259A%25BD&ei=rDHLVOa2L9S78gWTtYHIDA&usg=AFQjCNHb-lS85CD3ba__EebksAbibtLecQ&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[3]未詳
[5]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E6%25BD%2598%25E4%25B8%2596%25E7%2592%259C&ei=8TLLVN6nH8Hl8AW8u4KQDg&usg=AFQjCNFjWliz6hKXTocwNUaquxsPNTtc4g&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[6]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E5%25Bte%25B9%25E7%25B9%25BC%25E5%2596%2584&ei=OzPLVM-DDYuD8QXH14GYBw&usg=AFQjCNGGslm_OOXnmRUTtepl7gNfCvM1Z4g&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[7]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E8%25B6%2599%25E7%25BF%25BC&ei=TTPLVLqbNYOk8QWEpYLgBQ&usg=AFQjCNEWKaCfzxIKeVc-VZfaSIZYoC9nxg&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[8]原文「在嚴禁漕弊一事」。「漕弊」が未詳。とりあえずこう訳す。
[9]十升が一斗。
[10]原文「ある司收漕以腳費為名、率一斗准作六七升。」。未詳。とりあえずこう訳す。「收漕」は「漕糧を収める」ということであろう。漕糧は東南地区から京師に漕運せられる税糧。http://www.zdic.net/c/5/85/142489.htm役人が一斗の米を六七升分と見なして徴収するということであろう。
[11]十斗が一石。
[12]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9A14te4te3.htm&sa=U&ei=TQlLT7SPNuLLmAWZv7GcDg&ved=teCBUQFjAB&usg=AFQjCNFEQHnORQteeF1Qte8MPviWh_JG4CPQ不動産の所有者。
[13]原文「兌費錢」。未詳。とりあえずこう訳す。
[14]原文「而斗斛聽民自」。未詳だが、斗・斛の単位の計量は人民に任せたということであろう。
[15]https://www.google.com/search?q=%E6%96%9B&hl=zh-CN&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=flqnU4yZDcvkkgXqqIEo&ved=teCAYQ_AUoAQ&biw=1te24&bih=541容量の単位、十斗が一斛。
[16]原文「概有遺粒在斛之鐵邊者」。「鐵邊」が未詳。とりあえずこう訳す。
[17]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E9%2599%2588%25E5%25AE%258F%25E8%25Bte%258B&ei=OzXLVIWFFM_58QXMqoHIAQ&usg=AFQjCNFH5aNWvLhreFbqiCQgSSteHhmbSSA&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[18]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCB8QFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E8%2583%25A1%25E6%2596%2587%25E4%25BC%25AF&ei=UzXLVOWKE8mD8gWtxYDIDQ&usg=AFQjCNGlOI_kvXJMvg-jrFa19AtenQr7CKg&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[20]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E7%25A8%258B%25E7%25A5%2596%25E6%25B4%259B&ei=2oDLVP3WAs378QW5xoCIBA&usg=AFQjCNER-bIwteO8Z0RlgaekE-gJ0qNnOQ&bvm=bv.84607526,d.dGc
[21]原文「非正本清源之道」。http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE6ZdicADZdicA33319te9.htm
根本から整理整頓を進めること。
[23]http://www.zdic.net/c/4/15e/35467te.htm各省は中央に直属するため、直省ともいわれる
[24]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCCcQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2Ff%2F35%2F8te597.htm&ei=-DJoU8qTDIfakAWN7YGgBw&usg=AFQjCNHYTdDZGs5xjkjCO2lbs-uzJvb2dQ&bvm=bv.65788261,d.dGI幸運。
[25]https://www.google.com/?hl=zh-CN&gws_rd=ssl#hl=zh-CN&q=%E5%BB%B6%E6%B4%AA「延洪寿」のこと。永く続くこと。長寿をさらに延ばすこと。『尚書』周書・大誥「猷大誥爾多邦越爾御事,弗弔天降割于我家,不少延。洪惟我幼沖人」の「延」と「洪」が一つながりであるという誤解から生まれた言葉で、裴度の詩に用例がある。
[26]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE9Zdic9FZdicA664256.htm西漢の韋賢、韋玄成と平当、平晏父子の併称。韋平父子が相次いで宰相となり、世に尊敬せられた。
[28]実録の編纂機関であろう。『清史稿』にも見える
[29]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE8ZdicAEZdicAE26te2te2.htm考績が優異の官員に対し、部に調査・議論させ、加級、記録等の奨励を与えることを奏請すること。
[31]原文「出而欲訪其為何人手筆」。このようなことをするのが許されるのか未詳。とりあえずこう訳す。
[32]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E5%25BC%25Ate%25E7%25BB%25B4%25E5%25B1%258F&ei=6TfLVPmzB4jo8gXX-4HgDA&usg=AFQjCNH2MnteI4RdC_vd-ixKK51HtkgKh3A&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[35]http://www.zdic.net/c/d/7e/133216.htm仏教語。衆生を引導して苦海を渡り彼岸に到達させる仏法の比喻。
[36]捨てること。『詩·唐風』「舍旃舍旃。」箋「旃之言焉也。」
[37]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E5%25AD%25AB%25E6%25Bte%25B8%25E6%25B8%2585&ei=bzjLVIyAEpDd8AWblYCYBQ&usg=AFQjCNEKPR9qFCt1PTPFYuD8dUjITNaTSA&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[39]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCCoQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25AD%25AB%25E7%2588%25BE%25E6%25BA%2596&ei=yw5rU_7kIoy-kgXT5oHoDQ&usg=AFQjCNGvg1Xy9__3YHsJte-VwVrqZ8wOOg&bvm=bv.6633te1tete,d.dGc
[40]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCB8QFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E8%2583%25A1%25E6%2596%2587%25E4%25BC%25AF&ei=UzXLVOWKE8mD8gWtxYDIDQ&usg=AFQjCNGlOI_kvXJMvg-jrFa19AtenQr7CKg&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[41]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic8DZdicAB119573.htm先祖に功があるため、子孫が庇護を受けて官爵を承襲すること。
[42]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicACZdicA619524te.htm&sa=U&ei=awRJT9DyDeP1mAWN49ihDg&ved=teCBoQFjAB&usg=AFQjCNHGx2AvunZfgkz48C2vGQEXwLbUgA符節印章等の証拠品の総称。
[43]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA4ZdicA71123te8.htm&sa=U&ei=QYxIT9ixJc2WmQXbzu2TDg&ved=teCBMQFjAA&usg=AFQjCNHteDUHQteuzUnQ3MgOuj4bVwiKpU5g軍銜の一級、校官の最高級。
[47]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCCcQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E9%25BB%258E%25E6%2598%25AD%25E7%25B5%25B1%25E5%25B8%259D&ei=ccNoU-n8JImRkQWNu4HABA&usg=AFQjCNEMNOBoWxHJcE8WO5bZGEK_f8nU5Q&bvm=bv.66111te22,d.dGI
[49]http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBsQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E7%25A6%258F%25E5%25BA%25B7%25E5%25AE%2589&ei=oAmZU8W4NsLZkAXNxoGoAw&usg=AFQjCNH3UtPmZLMORZeqwcU2QRmGEK11cQ&bvm=bv.68911936,d.dGI
[50]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE8Zdic81Zdic8C23te494.htm藩属あるいは外国が朝廷に対して定時に貢納すること。
[51]乾隆帝。
[53]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicBteZdic817te756.htm封疆大吏。http://www.zdic.net/c/1/2f/70714.htm“封疆大臣”とも。“封疆大員”とも。総督、巡撫。
[55]http://www.zdic.net/c/d/f3/25te489.htm翰林あるいは翰林院の別称。
[59]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E6%25AF%2595%25E6%25B2%2585&ei=5mfLVPmDHYTv8gXssIDoCA&usg=AFQjCNHJxH24P1-2sphgOy9zCJ_1EqSK8Q&bvm=bv.84607526,d.dGc
[60]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/986669.htm&sa=U&ei=yo9IT4XbOIf4mAWomdiFDg&ved=teCBQQFjAB&usg=AFQjCNHteSCO8t5io5RWLZLeLwNkRZnTeww
[61]畢秋帆は甘肅鞏秦階道、安肅道を歴任した後、湖廣總督。史致光は雲南知府などを歴任した後、雲貴総督。
[62]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8Zdic8AZdicB1317916.htm孔雀の羽製の、官品を表示する帽飾。画像検索結果
[66]http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCCgQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E8%25AF%25B8%25E9%2587%258D%25E5%2585%2589&ei=4SVqU-eWDo6ukgXnhYBo&usg=AFQjCNHK-O_OFKwMcazLywCLTqX9TJxBFA&bvm=bv.66111te22,d.dGc
[67]http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCCgQFjAA&url=http%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fview%2F8235328.htm&ei=-CVqU4mLCMjd8AW_o4DYDQ&usg=AFQjCNHWHeKLhDmRFjbsnKDfwteLz-_bnxQ&bvm=bv.66111te22,d.dGc
[70]http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBsQFjAA&url=http%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fview%2F77377te.htm&ei=iJnhU6u-OIri8AWy-IKQAw&usg=AFQjCNFGle_6IK7vxLIJZpqIhug8JB-5hg&bvm=bv.72197243,d.dGc
[71]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicA5Zdic8F88639.htm官吏が皇帝に上奏する文書、折本で繕写するので、「奏摺」という。「摺子」とも称する。奏折の頁数、行数、毎行字数は、すべて固定の様式がある。
[72]原文「適陝甘總督黃廷桂奏折發下」。「發下」が未詳。とりあえずこう訳す。
[75]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBteQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E8%25B6%2599%25E7%25BF%25BC&ei=TTPLVLqbNYOk8QWEpYLgBQ&usg=AFQjCNEWKaCfzxIKeVc-VZfaSIZYoC9nxg&bvm=bv.846te7526,d.dGc
[80]http://www.zdic.net/c/6/1te7/281132.htm館職に選任されること。館職はここでは庶常館の職のことであろう。こちらによれば「乾隆三十一年(1766年)進士,候選知縣。」とあり、科挙合格後も知県の選任を待つ状態であったことがわかる。
[81]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAC43492.htm&sa=U&ei=uoJIT_upB4zGmQWLmoWdDg&ved=teCBMQFjAA&usg=AFQjCNEUZXIHW71WziIRukQ-y7Slh43VkA挙人が会試を受験すること。
[83]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E4%B9%BE%E9%9A%86%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%80%E5%B9%B4%E4%B8%99%E6%88%8C%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C
[84]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicBDZdic92284665.htm進士が官職を授からず、知県の選任を待つこと。
[87]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCB8QFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.zdic.net%2Fc%2Fb%2F111%2F298723.htm&ei=47inU8flF8qCkQW_qIC4Cg&usg=AFQjCNH4kn4-W3djdNsWg_VaIDuQhZNxWg&bvm=bv.69411363,d.dGc宮廷の書籍を蔵する場所。
[91]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE9ZdicBCZdic8E54925.htm状元、榜眼、探花の総称。乾隆四十年(1775年)乙未科の状元は呉錫齢、榜眼は汪、探花は沈清藻。
[92]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=6&cad=rja&uact=8&ved=0CDAQFjAF&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh-tw%2F%25E5%258D%2588%25E9%2596%2580&ei=aLXNVImtL9Lx8gXh84GgCg&usg=AFQjCNERTIxOR0eSzotZBPwBYDKdDy-gZg&bvm=bv.85076809,d.dGc
[94]http://www.zdic.net/c/8/16/35359.htm優曇鉢花。http://www.zdic.net/c/8/3e/96973.htm梵語の音訳。さらに優曇、優曇華、優曇鉢羅、優鉢曇華、烏曇跋羅と訳される。無花果樹。印度に産し、雲南等の地にも生長する。その花は花托の中に隠れ、開くとすぐに閉じ、見るのが容易でない。
[96]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBwQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%2588%25B4%25E8%25A1%25A2%25E4%25BA%25A8&ei=tRqteU5ueHpL88QXepoKQAw&usg=AFQjCNFOGgGcS9zeISG9UiEn-r7IOry55g&bvm=bv.7te138588,d.dGc
[97]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=teCBwQFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%259te%25B3%25E7%2586%258A%25E5%2585%2589&ei=_xqteU8nnB9Xi8AWllIL4DA&usg=AFQjCNEeE4H2c_AJgzCV1kJFhKZ-bMU5tQ&bvm=bv.7te138588,d.dGc
[98]http://www.zdic.net/c/te/1/2647.htm漢語「将軍」の音訳。清代軍機処及び総理衙門で文書を弁理する官員。
[99]摺子。たとえば:経折、奏折、折片(清代に奏文を折片と称した)、折奏(皇帝に直達する奏章)http://www.zdic.net/z/1a/xs/6298.htm
[101]http://www.zdic.net/c/5/4/9314.htm臣下が皇宮に入り、皇帝が出した問題あるいは質問に回答すること。
[104]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE6Zdic92ZdicBte154913.htm&sa=U&ei=tetVIT9i9FOnMmAXvteZH2DQ&ved=teCBQQFjAB&usg=AFQjCNGPCgCsK8Rp3T2FXVzvt8MaSijeNw撰写擬定。
[105]http://www.zdic.net/c/5/4/9314.htm臣下が皇宮に入り、皇帝が提出した問題あるいは質問に回答すること。
[106]ここでは軍機処のことであろう。こちらには戴衢亨に関して「乾隆四十一年在天津向乾隆帝獻詩,授内閣中書。」、こちらには吳熊光に関して「乾隆舉人,授內閣中書,充軍機章京。」とある。かれらはいずれも内閣中書で、軍機処で軍機章京をしていた。内閣中書はこちらによれば從七品官。
[107]http://www.zdic.net/c/1/8c/154581.htm硃批諭旨。こちらは書名としての硃批諭旨だが、普通名詞としては、皇帝が朱で批語を施した臣下の奏章。
[108]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9ZdicA1ZdicB628te231.htm官員の等級を区別する帽飾。「頂子」、「頂帯」とも称する。
[110]原文「小人之謀、無往不福」。
[111]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E6%259D%258E%25E8%25B3%25A1%25E8%258A%25B8&ei=NZrPVKP9MITRmAXlk4CQCQ&usg=AFQjCNE1fR7o6GR5EKwRzySKl9OZl2jb8g&bvm=bv.85076809,d.dGY
[116]http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB0QFjAA&url=http%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fzh%2F%25E7%258E%258B%25E7%25B4%25B9%25E8%2598%25AD&ei=1zrOVMGkCJbY8gXDpoGACg&usg=AFQjCNGgddvovWEC6RR-1g1rrCx9NF7JFA&bvm=bv.85076809,d.dGc
[117]原文「必欲周內其事」。「周內」が未詳。とりあえずこう訳す。