朱砂担滴水浮漚記
楔子
(冲末が孛老に扮して正末の王文用、旦児とともに登場)(孛老の詩)せはしなき光陰は流るる水のごとくして、やすやすと少年の頭を白くす。月は十五を過ぎぬれば光明少なく、人は中年に到りなば万事休せん。
老いぼれはこの河南府の人。姓は王、名は従道。三人家族で、倅は王文用という。こちらにいるのは倅の嫁だ。わたしたち三人は本分を守り、商いし、月日を過ごしているものだ。倅よ、朝に大通りに行き、何をした。
(正末)父上。わたしは大通りに行き、占いをしましたところ、わたしは百日の血の災がありますが、千里離れれば避けられるとのことでした。ささやかな元手を持って、江西は南昌の地へ行って、いささかの商いをいたします。一つには災を逃れるため、二つには元手によって利益を求めるためでございます。父上のお考えはいかがでしょうか。
(孛老)倅よ、古人はこう申しておるぞ。「家から一里離れるよりは、部屋にいた方がよい」とな。こうも申すぞ。「占いは、口が達者なだけ」だとな。おまえはどうしてお喋りの話を信じる。家でじっとし、災を消し、福を増す方がよかろう。
(正末)父上、陰陽は信じなくてはなりませぬ。考えはもう決まっております。旅装はすっかり整えました。わたしが行くに任せた方がようございます。一日中家で不安にしていれば、災難がなくてもきっと病気になってしまいましょう。
(孛老児)どうしても行こうとするなら、わたしもおまえを引き留めないが、とにかく用心するのだぞ。
(正末)今日は吉日、父上にお別れし、長旅に出るとしましょう。
(旦児)亭主どの、旅に出てゆかれますが、とにかく体をお大事になさいまし。お父さまは高齢でございますから、どうかはやめに家に戻ってきてください。便りを届ける人に遇ったら、無事を知らせる手紙を届けさせてください。
(正末)妻よ、しっかり家を番して、父上をお世話するのだ。商いをしてすぐに戻ってくるからな。
(孛老)倅よ、心配するな。はやく利を得て戻ってくるのだ。
(正末が唱う)
【仙呂】【端正好】非災を避け、故郷を離れ、別るれば旅路を践めり。
(旦児)王文用さま、今日別れるのは、とても寂しゅうございます。
(正末が唱う)はじめて信ぜり、人生にあるは別離の愁へのみ。目の当たりにす、海角と天涯へ赴くを。(退場)
(孛老)倅は行ってしまったわい。嫁よ、仕事がなければ門を閉ざして静かに坐り、夫が戻ってくるのを待つのだ。
(旦児)お父さま、ご安心くださいまし。わたしは存じておりまする。(ともに退場)
第一折
(丑が店員に扮して登場)わたしは店員。こちらで宿を開いている。南北に行き来して、売り買いをするものは、みなわが宿に泊まりにくる。もう日が暮れた。来る人はいないだろうから、ひとまず門を閉ざすとしよう。
(正末が登場)わたしは王文用。家を離れて、まっすぐ江西南昌へ行き、商いし、利益は百倍まで増えた。ほんとうは家に戻ってゆきたいが、いかんせん百日を満たしておらぬ。聴けば泗州は商売をするによいとか。泗州へ行こう。思えばわれら商人は、ほんとうに苦しいものだ。(唱う)
【仙呂】【点絳唇】月を帯び、星を披て[1]、寒さを忍び、冷たきに耐へ、郷里を離る。いささかの芳草の長亭[2]を過ぎ、しばしも脚を停めしことなし。
【混江龍】見よや世の人々は、紅塵の中にて商ひせんとせり。おたがひに船を進めて、馬を走らせ、おのおのが利を奪ひ、名を競はんとしたるなり。船尾は漲る水の緑をかき分けて、馬蹄は乱るる山の青きを踏めるなり。鞭を振り、棹を挙げ、争ふなかれ。数匙の羹粥[3]のため一生むなしく忙しくして、この道に甘んぜんとぞしたるらん。
(言う)日が暮れたから、この店に宿泊を求めよう。店員さん、開けてください。開けてください。
(店員)人が門で叫んでいるから、この門を開けるとしよう。(会う)誰かと思えば、お客さんだったのですか。二ヶ月お会いしませんでしたが、ますます太られましたね[4]。お客さん、このたびは何をしにこられましたか。
(正末)わたしはあなたの店に来て、一夜の宿を求めるのです。二百文の宿賃をあげましょう。
(店員)十分でございます。十分でございます。お客さん、なにとぞ中にお入りください。どのようなお食事を召されましょうか。
(正末)食事はまったくいらないよ。一盞の灯を点してきてくれ。
(店員)かしこまりました。灯はこちらにございます。
(正末)店員さん、宿賃を収めたら行ってくれ。わたしは明日の五更前後に、早起きし、すぐに行くから。あなたに別れも告げないから。
(店員)ああ、明日わたしに別れを告げず、夜が明けたらすぐお発ちなのですね。それならば、お休みください。わたしは眠りにゆきましょう。(退場)
(正末)この門を閉ざすとしよう。歩いて体が疲れたから、休むとしよう。(眠り、夢を見る)(言う)王文用よ[5]、どうして眠ることができよう。この門を開けるとしよう。こちらには二度泊まりにきたが、じっくりと見ていなかった。どうしてこちらに小さな角門があるのだろう。この門を開けるとしよう。花園だったか。綺麗な花だ。(唱う)
【酔中天】わたしは見たり、牡丹の花の人が賞で、敬ふに堪へ、人の心を楽しませ、人の情を動かすを。さらに見る、青き芍薬、白き薔薇、紅き錦桜[6]を。さらに見る、紫紋桃の黄花杏を隔つるを[7]。
(言う)綺麗な花だ。一輪を折るとしよう。
(唱う)おぼえずわたしは心が戦き、いかにせんとも抑へ得ず。
(言う)こちらには誰もいない。一輪を折っても恐れることはない。(驚く)
(唱う)ああ、などてはらはらと枝葉の落つる。
(浄が邦老に扮して突然登場、見得を切る[8])
(正末が唱う)
【後庭花】ただ聴くは、かさかさと鞋底が鳴り、ずんずんと大股で行く。がたがたとわたしは歯の根を震はせて、
(邦老が正末に近寄る)
(正末が唱う)ぶるぶると身の冷たきを覚えたり。
(邦老が正末を引き掴む)
(正末が唱う)ふと見るは黒き妖怪、人と争ふことを求むるかのごとし。こなたには動静なく、物凄き月は半ば明るし。もしやわたしを殺さんとしたるにや。ぎよろぎよろとうたてき眼を見開けば、わたしは脅えてはやくも体はこはばれり。
【青歌児】天よ。わたしはそのものの、そのものの姓名を問はんとはせず、はやくも総身は痴れたるごとくぼんやりしたり。
(正末を殺し、推して退場)
(正末が目覚める)人殺し、ああ。
(唱う)わたしはたちまち目覚めたり。
(言う)ほんとうに悪い夢だった。この門を開けるとしよう。
(唱う)敷居を出て、花園をそぞろ歩きす。風は残んの灯を弄び、まさに月白き三更。みづから見たり、妖怪のわたしを虐げんとして、一拳にてわたしのしがなき命を葬り去らんとせしを。天よ、まことに憂はしければわたしは病となりぬべし。
(言う)ああ、このように不吉な夢を見るとはな。一番鶏が鳴いているではないか。店員さん、起きてください。荷物をまとめて、わたしは行きます。(退場)
(浄が店員に扮して登場、詩)商売の道路は千条あれども、算段せずば徒に労せん。なにゆゑぞ青年にして頭の白き、一晩に起くること七八たびなればなり。
わたしは酒売り、この十字路で、小さな店を開きつつ、幾文かのお金を求めて暮らしている。今朝起きてこの燗鍋を熱くして、望子[9]を掛けて、誰がお酒を飲みにくるかを見るとしよう。
(正末が荷物を担いで登場)王文用よ、もっと急げ。(唱う)
【酔扶帰】ただ見るは野の水の花の径を穿ちたる、村の犬の柴の戸に叫びたる。ごろごろと轆轤は響き、ごとごとと碓を搗く声と和したり。くはふるに緑の柳は蔽ひたり。(店員を見る)これは小さな飲み屋だな。店員さん、酒はあるかい。
(店員)ございます。ございます。
(正末)店員さん、二百文長銭[10]の酒を漉してくれ。
(店員)酒はこちらにございます。いける口なら心ゆくまでお飲みなさい。ただ、酔って暴れてはいけませんよ。
(正末が唱う)あなたの醇き糯酒はまるで靛青。とりあへず一盞を飲み愁へを消さん[11]。
(言う)この酒はとても旨いから、ゆっくりと飲むとしよう。
(浄が邦老に扮して登場)行きては名をば変ふることなく、坐しては姓を改むることぞなき[12]。
わたしは鉄幡竿白正だ。昨日はよけいに幾碗かの酒を飲み、柳の木陰で、一眠りして夜明けになった。ふと眼を開けば、一人の小柄で、青白い若者が、ずっしり重い二つの籠を担いでいた。わたしを見ると逃げたので、わたしはすぐにごろりと体を翻し、跳び起きて、かれの後ろにくっついて、いそいで追ったが、なぜか知らぬがどうしても追いつけなかった。幾碗も黄湯を飲んだため、追いつけないのだ。仕方ない。行く手には飲み屋があるから、もう幾碗か迎え酒することにしよう。はやくも飲み屋に到着したぞ。店員よ、酒はあるか。
(店員)ございます。どうぞ中にお掛けください。
(邦老)大きな碗に酒を漉してこい。すこし塩を持ってこい[13]。二碗飲んで、昨日の酒の迎え酒だ。
(店員が酒を置く)塩はございません。二かけらの蒜がございます。
(邦老)蒜も良かろう。
(正末)王文用よ、そそっかしいな。澆奠[14]をしていないわい。澆奠しよう。(唱う)
【金盞児】とりいそぎ澆奠し、神に謝す。商売し苦心すれども、貧窮富貴の大半はあらかじめ定められたり。
(邦老)あちらで人が話しているぞ。何を言うかを聴いてみよう。
(正末が澆奠する)一滴の酒が地に入れば、万民の安楽を願ひまつらん。二滴の酒が地に入れば、五穀の豊饒なることを願ひまつらん。三滴の酒が地に入れば、善人に逢ひ、悪人が遠ざかることを願ひまつらん。
(邦老が卓を叩く)おい馬鹿野郎、悪人の何が気に食わぬのだ。
(店員)おじさん、わたしの卓を打ち破らないでください。
(正末が唱う)わたしはこなたで脖頸を捻れば、かれはあなたで両の眼を煌めかせたり。
(邦老)こいつはまことに無礼だな。
(正末が唱う)かれはたちまち眉を竪にし、にはかに眼を円く瞠れり。わたしは脅えて抬盞[15]をがちやんと落とし、怒鳴られて魂霊は消え失せり。
(正末が跪く)
(邦老が引き起こす)若造め、口のききかたを知らない奴だ。善人に逢い、悪人に幸いがあるようにと言え。悪人はおまえがそのように言うのを聴いても、おまえを咎めないだろう。
(店員)おじさん、この若者は口のききかたを知らないのです。
(邦老が打つ)おまえとは関わりはない。
(正末)兄じゃ、わたしをご指導ください[16]。
(邦老)ひとまずおまえに尋ねよう。どんな商いをしている。
(正末)小間物の行商人をしています。
(邦老)小間物の行商人か。おれも行商人だから、仲間になって、いっしょに商いしにゆこう。
(邦老が籠を蹴る)
(正末)兄じゃ、臙脂と白粉だけですよ。
(邦老)おまえはどこの人間だ。
(正末)河南府の者でございます。
(邦老)わたしはおまえと同郷だ。わたしも河南府の人だ。
(店員)わたしは陝西の人です。
(邦老)河南府のどこに住んでいる。
(正末)東関里紅橋西の大菜園[17]です。
(邦老)わたしは西関里に住んでいる。
(店員)わたしは南関に住んでいます。
(邦老が店員を打つ)誰がおまえに尋ねた。尋ねるが姓は何だ。
(正末)わたしは姓は王といい、王文用ともうします。
(邦老)わたしもおまえと同姓だ。わたしは姓は白というのだ。
(正末)兄じゃ、あなたは姓は白といい、わたしは姓は王なのに、どうして同姓なのでしょう。
(邦老)知らないだろうが、外祖父母は姓が王なのだ。
(店員)わたしは姓は鄭といい、鄭共鄭ともうします。
(邦老)何人家族だ。
(正末)三人家族でございます。
(店員)わたしを入れて四人です。
(邦老)三人とは。
(正末)父がおり、妻がおり、わたしを入れて三人でございましょう。
(邦老)年は幾つだ。
(正末)わたしは二十五歳です。
(邦老)優位に立とうとしているわけではないのだが、わたしは三十歳だ。
(店員)わたしの倅と同い年です。
(邦老)この馬鹿野郎を殴るとしよう。弟よ、わたしはおまえの兄になるから、おまえはわたしの弟となれ。酒を買い、おまえに飲ませてやるとしよう。
(正末)兄じゃがお嫌でないのでしたら、わたしは兄じゃの弟となりましょう。
(邦老)店員よ、酒を持て。
(正末)兄じゃが買ってはなりませぬ。わたしが買うといたしましょう。店員さん、さらに二百文長銭の酒を漉してきてください。わたしは兄じゃに一杯の酒をお渡ししましょう。
(店員が酒を漉す)お酒はこちらにございます。
(正末が酌をする)兄じゃお酒をお飲みください。
(邦老が酒を飲む)わたしはおまえの護衛になって、いっしょに商いしにゆこう。おまえに損はさせないぞ。
(正末)兄じゃ、今、路は進むのがとても難しゅうございますから、わたしはついてゆけないでしょう。
(邦老)こら、どうして従えない。
(正末が唱う)
【四季花】兄ぢや、あなたは若きとき、外地に出しことありや。
(邦老)一年三百六十日、ひたすらおもてで商いしている。
(正末が唱う)兄ぢや、旅路では悪人が窺ひたるべし。
(邦老)悪人がいたら、そいつらに近づけるか。
(正末が唱う)悪人がわたしを阻めば、
(邦老)阻んだら、おまえはどうする。
(正末が唱う)わたしは怒り、憎しみは胆に生ぜん。
(邦老)どのようにかれに近づく。
(正末が唱う)わたしもかつては拳もて碑亭を倒し、天秤棒もて脳天を打ち砕きたり。
(邦老が刀を持つ)おれの透心凉に比べたら、どうだろう。
(正末が唱う)にいさん、人を殺さば命を償ふべしといふことを聞かずや。
(邦老)今どんな商いをしている。
(正末)兄じゃ、わたしは元手は小さく、
(唱う)貧しき行商、下賤な商ひ、
(邦老)一日にどれほどの路を歩ける。
(正末が唱う)脚を動かすこと二百里になほ余りあり。
(邦老)おれは夜通し三百里歩けるぞ。
(正末が唱う)今くるぶしを捻挫したれば、旅の遅れんことをひたすら恐れたり。
(邦老)わたしも脚の趼に煩わされているのだ。店員さん、針を持ってきてくれ。弟よ、この趼を破ってくれ。
(正末が唱う)にいさん、あなたはわたしの七代祖の霊にさへ纏ひつきたり。
(背を向ける)どのように手を打とう。こうするしかない……(振り返る)兄じゃ、一碗お飲みください。
(邦老)持ってきて飲ませてくれ。弟よ、おまえも一碗飲め。
(正末)酒量が少のうございますので、すこししかお付き合いできません。
(邦老)弟よ、おまえは坐れ。(立つ)わたしは今から、冷酒と熱燗で、あいつを酔わせ、籠を担いですぐに逃げよう。(門に入る)弟よ、おれたちは行商だ。おまえが唱えば、わたしは一碗酒を飲もう。
(正末)唱えませぬ。
(店員)唱えないなら、替わりに唱ってあげましょう。
(唱う)才郎のためお香を、お香を焚きしことあり。
(邦老が打つ)誰が唱えと言った。弟よ、唱えないなら、わたしが唱おう。笑うなよ。
(唱う)ああ、六児[18]よ。
(言う)野太い声は、聴くに堪えまい。
(店員)さながら牛の雄叫びでございます。
(邦老が打つ)この馬鹿野郎を殴るとしよう。弟よ、おまえはいずれにしても唱え。
(正末)唱えませぬ。
(邦老)ああ、一曲唱ってはどうだ。
(正末)ほんとうに唱えないのです。
(邦老が怒る)唱わないのか。
(正末が慌てる)兄じゃ、わたしはでたらめに唱い、兄じゃにお酒をさしあげましょう。
(邦老)唱え。
(正末が酒を斟ぐ)兄じゃ、一碗お飲みください。今日は兄じゃにはじめてお会いしましたから、『喜秋風』を唱いましょう。
(邦老)唱え。唱え。わたしはすぐに飲むとしよう。
(正末が唱う)
【喜秋風】眠られず、悩みは増せり。芭蕉に淅零零降る雨はいやましに騒がしく、画檐[19]には鉄馬[20]が玎玎璫璫と鳴り、南楼を過ぎ呀呀と雁は鳴く。
(邦老が寝た振りをする)
(正末)まずいから、逃げるとしよう。
(邦老)こら、どこへ行く。
(正末が唱う)かれに呼ばれて眠られず。
(邦老が背を向ける)白正はほんとうに馬鹿だなあ。冷酒と熱燗であいつを酔わせ、荷物を担いで逃げようと思っていたのに、あいつがわたしを酔わせるとはな。今からすこし休みたいのだが、こうするしかない……(正末を引く)
(正末)兄じゃ、もう二碗お飲みください。
(邦老)弟よ、わたしは酔った。わたしは今から眠るとしよう。
(正末)店員さん、枕を持ってきてください。
(邦老)おまえの足に枕して眠るとしよう。目醒めたら、いっしょに商いしにゆこう。
(正末)わたしの足に枕して眠ろうとなさるなら、にいさんに従いましょう。
(邦老が眠る)(邦老が立ち、刀を挿す)
(店員)おじさん[21]、この人を怒らせるのはまずいでしょう。
(正末)この悪者はわたしの足に枕して眠っているが、どうしたらよいだろう。こうするしかない……店員さん、二人して酒代を勘定しましょう。
(店員)お客さん、あなたは良いお方ですから、公正にお支払いくださりますよう。都合二回酒を漉しました。
(正末)あなたも商人、わたしも商人、酒代を払わなかったら、お咎めになるでしょう。
(店員)お客さん、あなたがいらっしゃったので、特別に良い酒を漉し、飲ませてさしあげたのですよ。
(正末)酒代は大したことはないのだが、あなたの酒は薄かった。
(店員)わたしの酒は薄いのですが、良い処がございます。すこしでもお腹に入れば、ごろごろと鳴りだすのです。
(正末)道理でわたしが飲んだときもこんなに響いているわけだ。
(店員)酒が良いからでございます[22]。
(正末)店員さん、相談がある。
(店員)逃げようとしているのでしょう。
(正末)そうではない。すこし腹が下っているから、ちょっと替わってくれ。替わってくれないのであれば、こちらを汚すことにしよう。
(店員)お客さん、こちらを汚さないでください。あなたに替わってあげましょう。(替わる)
(正末)酒代を払いましょう。(荷物を担ぐ)門を出た。ありがたい。
(唱う)
【賺煞尾】かれは思へり、わたしは炉にて冬凌を弄ぶかのごとしと。かれは思へり、わたしは碗の蒸餅[23]を持つかのごとしと[24]。酒を飲ませていたく酩酊せしむることのなかりせば、いかでかはかれの怒りを抑ふべき。わたしは今や虎口を脱したりつれば、あたふたとして、停まることなし。はるかなる空中の雁を指し羹にせんとするかのごときなり[25]。あの賊徒が目覚むる頃には、わたしはすでに胸をなで下ろしたるべし[26]。よしかれが追ひかけんとも、わたしはおまへ[27]の二三程[28]先を行くべし。(退場)
(邦老が目覚める)弟よ、いっしょに商いするとしよう。ああ、あいつは金蝉脱殻の計略で逃げてしまった。馬鹿野郎のおまえ[29]を殴ろう。どうしてあいつを行かせたのだ。
(店員)あのひとは腹が下って、糞をしようとしたのです。
(邦老)今、どこにいる。
(店員)あなたはこちらにいらっしゃり、わたしもこちらにおりました。あの人はわたしといっしょに商いをしているわけでもございませんから、あの人が南へ行くか北へ行くかをわたしがどうして知りましょう。
(邦老が殴る)こら。わしの子よ[30]、良い獲物が手のうちにあったのに、あいつを逃がしてしまうとは、ただでは済まさぬ。わたしは今から追いかけてゆく。追いつけたなら、万事何事もないが、追いつけなかったら、戻ってきて松明でおまえの藁の団瓢を焼いて、おまえの一家をすべて殺すぞ。王文用も遠くにいってはいまいから、どこであろうと、追いかけてゆくことにしよう。(退場)
(店員)ほんとうに運が悪い。思いがけなくこのような恐ろしい目に遭うとはな。もう酒を売るのはやめて、裏町へ酢を売りにゆくことにしよう。(退場)
第二折
(丑が店員に扮して登場、詩)ほかの家では水と米とを半々に混ぜたれど、わたしの家では水が多くて米は少なし。わが家に酒を買ひにきたらば、酔はずとも腹は一杯。
わたしは宿を開いているもの。わたしの村は三家店といい、黒石頭店ともいわれている。両脇の二つの宿には、小さな元手の客商たちが宿泊するが、大きな元手に大きな利益の客商たちはわたしの宿に泊まるのだ。今日は日が暮れようとしている。とりあえずこの門を閉ざすとしよう。
(正末が荷物を担いで慌てて登場)逃げろや逃げろ。(唱う)
【南呂】【一枝花】あいつは門に入ってくるや、わが小商人の装ひを見たれども、わたしはいささか新酒を買ひて、五六碗つづけて注げり。あいつは興に乗りながら、飲むこと二三甌にして、いたく酔ひ、はじめて休めり。酒好きも生来のことなれば、すぐにあいつの瓠頭に注ぎこみたり。あいつは服を着たままで安眠すれば、わたしがひそかに席より逃がれたることをいかで知るべき。
【梁州第七】機略を用ゐ、一杯ごとに跪くことなかりせば、ああ天よ、しがなき命はすでに絶体絶命となりにけん。朝から申の刻まで歩き、隠隠とした青き山、悠悠とした緑の水を過ぎたりき。荒祠と古廟、沙岸と汀洲。七林林[31]たる低き隴、高き丘。急旋旋たる浅き澗、深き溝。另巍巍[32]とした重なる巒を過ぐればすぐに、碧遥遥たる幾重かの遥けき岫に隔てられ、さらに白茫茫とした一面の平らかな畴が続けり。緑の楊の渡しに着けば、はやくも雲は迷りて霧は閉ざせる黄昏の後、わたしは野末の宿に行き、一夜の泊まりを求むべし。これこそは釣り針を逃れたる東海の鰲魚なれ。わたしは二度と戻ることなし。
(言う)はやくも黒石頭店に到着だ。こちらには三軒の宿がある。両脇の宿には行かず、真ん中に泊まりにゆこう。あいつが追ってきたとしてもわたしを捜し出せないだろう。たといわたしを捜し出しても、わたしが叫べば、両脇の宿の人たちが救いにこようとするだろう。(店員に会う)店員さん、きれいな部屋があったら掃除してくれ。休むから。
(店員)こちらがきれいでございますから、こちらでお休みくださいまし。
(正末)灯を点してきてくれ。
(店員)灯はこちらにございます。
(正末)いっしょに奥へ行きましょう。門を閉ざして、奥に来た。こちらの塀はどうして倒れているのでしょう。
(店員)大雨で倒れましたが、修理していないのでございます。
(正末)おにいさん、この路はどこへ行くのだ。
(店員)この路は河南府へ行くのです。
(正末)この路はどこへ行くのだ。
(店員)この路は泗州へ行きます。
(正末)この路は。
(店員)幹線でございますから、あらゆるところに通じています。
(正末)はばかりに行こう。あなたに言うが、後ろから大きな男が、わたしをいそいで追ってくる。かれが来て門で呼んだら、あなたに頼むことがある。お上のお触れがあるから、一人の客は泊めないと言ってくれ。明日は二人分の宿賃と酒代を払うとしよう。
(店員)分かりました。来た時は、一人の客は泊めないと言い、帰らせましょう。ご安心してお休みください。
(正末)この門を閉ざすとしよう。一日歩いて、体はすこし疲れているから、休むとしよう。
(邦老が登場)あいつがこんなに逃げるのがはやいとは。あいつは二つのずっしり重い籠を担ぎ、わたしは脚で頭を踏むほど走っているのに[33]、どうしても追いつけぬわい。ああ、日が暮れた。わたしはどこへ泊まりにゆこう。遠くには一列に三軒の宿が並んでいるぞ。こちらは三家店といい、真ん中の宿は、黒石頭店という。あいつは元手が少なければ、この両脇に泊まっていよう。元手が多ければ、黒石頭店に泊まっていよう。どうなっているだろう。店員を呼べば、知っているだろう。(門で叫ぶ)店員よ、門を開けろ。
(店員)誰かが門で叫んでいるぞ。
(邦老)わたしは客だ。日が暮れたから、一夜の宿を求めているのだ。
(店員)お上のお触れで、お一人さまはお泊めしませぬ。
(邦老が見得を切る)弟たちよ、おれは両脇に泊まろうと言ったのに、おまえは黒石頭店が良いと言ったが、このありさまだ。はやく驢馬を追いたてて、また両脇に泊まりにゆこう。
(店員)お待ちください。お開けしましょう。この門を開けるとしよう。
(邦老が門に入る)
(店員)お入りください。お部屋がございます。
(邦老が店員を掴んで殴る)一人の客を泊めないだと。
(店員)あなたは聞き間違えたのでございます。わたしのところは一人の客を泊めるのでございます。
(邦老)馬鹿野郎。尋ねるが、日が落ちようとする頃に、小柄な体、青白い顔をした若者が、二つの籠を担いで、こちらに宿を捜しにきたか。
(店員)朝から晩まで、一人も来てはいませんが。
(邦老)弟よ、おまえの負けだ。
(店員)お客さん、「負けだ」とはどういうことで。
(邦老)知らぬだろうが、弟といっしょにいたとき、賭けをしたのだ。かれは自分が路を歩くのがはやいと言い、わたしは自分が路を歩くのがはやいと言い、黒石頭店に着いたら待つことにした。先に着いたら勝ち、後に着いたら負けということにして、羊の頭、一箸[34]の餅、一甕の酒を賭けたのだ。わたしがさきに着いたから、あいつの負けだ。
(店員)それならば、あなたの負けです。弟さんはとっくに到着なさっています。わたしが呼びにゆきましょう。
(邦老)呼ぶな。どこで眠っているかを言え。
(店員)こちらで眠っていらっしゃいます。
(邦老)店員よ、おまえに頼むが、明日はやく起き、証人になってくれ。わたしがどちらがさきに来たかと尋ねたら、この大男がさきに来ましたと言ってくれ。羊の頭、一箸の餅、一甕の酒を、すべておまえに食べさせよう。
(店員)おじさん、わたしが好きなのは羊の舌でございます。
(邦老)いっしょに奥を見にゆこう。この塀はどうして倒れた。
(店員)この塀は大雨で濡れ、倒れたのです。
(邦老)なぜ積み上げない。
(店員)お金がないので、積み上げることができないのです。
(邦老)この路はどこへ行くのだ。
(店員)この路は河南府へ行くのです。
(邦老)この路は。
(店員)この路は泗州へ行きます。
(邦老)この路はどこへ行くのだ。
(店員)この真ん中のは幹線でございます。
(邦老)一枚の蓆を貰ってきてわたしにくれ。錠前と鍵を持ってきてくれ。
(店員)蓆、錠前と鍵は、すべてこちらにございます。
(邦老)おまえは眠りにゆけ。この門を閉ざし、錠前を掛けるとしよう。声を出したら、すぐに殺すぞ。
(店員)おじさん、怒らないでください。わたしは眠りにゆきましょう。(退場)
(邦老)ちょっと待てよ[35]。わたしはあいつが何を言うかを聴くとしよう。
(正末)あいつにずっと追いかけられて、ながいことわたしのものを見ていなかった。この灯を掻きたてて、見てみよう。
(邦老が見得を切りながら聴く)
(正末が朱砂を持っている)一粒、二粒、三粒、四粒、五粒。こちらは全部あったわい。こちらを見よう。
(正末が五粒を数える)有り難い。十粒の朱砂はみなあった。服を脱ぎ、休むとしよう。(眠る)
(邦老)ここで手を下さずに、どこで手を下すのだ。この門を踏み開けよう。ちょっと待てよ。白正よ、考えろ。両脇の宿の客たちは眠っていない。あいつが叫び声を挙げたら、かえってわたしの命が危うくなるだろう。真夜中頃まで寝て待って、ゆっくりと手を下そう。(邦老が眠る)
(正末)雷のような鼾が聞こえて、目が醒めた。誰だろう。(唱う)
【賀新郎】このやうにぐうぐうとぐつすり眠りたるは誰そ、賊徒を夢に見たるにや、禽獣に出くはしたるにや。聴きたれば、声は粗く、息は喘ぎて雷鳴のやう、わたしは脅えて戦戦兢兢、心臓は口まで上がれり。枕を高くし憂へなしとははや言ひ難く、つねに恐るる心を懐けり。この声は聴きおぼえあるかのごとし。
(言う)櫺窓からいささかの紙を裂き、灯心を縒り、油に浸し、灯を点し、見ることにしよう。
(唱う)わたしはこなたで部屋の戸を開け、じつくりと前後を見たり、
(言う)誰かと思えば、店員が眠っていたのか。
(唱う)あいつは部屋の戸の前に骸を停め、精磚にそ首を枕せり。
(言う)あちらで鼾をかいているのか。さらに見にゆくことにしよう。(驚く)ああ。どうしてあの悪者なのだ。ほんとうに恐ろしいわい。まずはこの灯を吹き消して、見られぬようにするとしよう。(唱う)
【牧羊関】この灯を持ちて吹き消し、身を退けば、わたしは脅えて全身に冷たき汗はこもごも流れり。命を奪ふ閻王か、人を殺むる領袖か。わたしは脅えてぼんやりし、むなしく口を開けながら、あたふたとして頭を抬ぐることを恐れり。あたかも両の眼を瞠らんとしたれども、はやくも両の手は萎えり。
(言う)あいつは眠ってしまっているから、荷物をまとめて裏門へ行きたいのだが、あいつに目を醒まされるのが恐ろしい。ああ。あたふたとして灯をすべて吹き消してしまったわい。わたしの荷物と衣服はどちらへいったかな。(唱う)
【隔尾】一着の布の衫をおまへのそばでゆつくりと着て、八答麻鞋[36]をゆつくりと穿く。声を高くし大きな咳をしやうとはせず、わたしはこやつを左見右見せり。ああ。天よ。いかでかこやつの昏迷し、わたしを逃がさんこともがな。
(言う)荷物、衣服は探りあてたぞ。さいわいあいつは眠っているわい。今逃げないで、いつ逃げるのだ。(唱う)
【牧羊関】かれが身をふと翻せりと思へども、眠りたるなり。さいはひ眼は朦朧としてさらに鼾をかけるなり。かれはじゆるじゆる喉からは涎を垂らし、われもどきどき胸を刀で突かるるかのやう。秋の夜の雨のごとくに、一粒ごとに一声の愁へあり[37]。今まさに脚を伸ばして、いそいで歩みを移さんとしたれども、あはてて足の筋肉を捻りたるこそうれたけれ。
(言う)壊れた塀のところへ行こう。この塀を跳び越えた。泗州への路には行かず、わが河南府へ行くとしよう。(退場)
(邦老が目醒め、見る)ああ、あいつは逃げてしまったわい。思うにあの獲物は、おれのものではなかったのだ。仕方ない。真っ暗闇でどこにあいつを捜しにゆけよう。家に戻ってゆく方がよい。(退場)
(正末が太尉に扮し、鬼卒を連れて登場)
(太尉の詩)紙銭を焼きて灰にせずとも、人心がわづかに動けばわたしはさきにそれを知るなり。言ふことが正直でありさへすればそれが神さま、人の世はいづこかは正直ならん。
わたしは東岳殿前太尉だ。生きていた時、資性忠直であったが、不幸にも悪人に殺された。皇天はわが徳に負くことなく、東岳殿前太尉となされた。今は玉帝さまにお会いし、戻ったばかり。ひとまず廟で静座しよう。
(正末が登場)ひどい大雨だ。さらに進もうとしていたが、思いがけなくこの大雨に遇ってしまった。進まなければ、あの悪者が追ってきて、わたしの命を傷うだろう。どうしたらよいだろう。ああ、こちらは廟だ。とりあえず廟に入って、雨を避けよう。(荷物を置く)この碑には太尉爺爺廟と書いてある。神さま、憐れと思し召されまし。あの賊を避けられるなら、爺爺廟を改修し、さらに祠堂をお立てしましょう。
(邦老が登場)ひどい大雨だ。どちらへ雨を避けにゆこう。古廟があるから、中に入ってひとまず雨を避けるとしよう。あいつではないか。ぺっ。こいつは死ぬべき運命なのだ。(正末を掴む)弟よ、よくも逃げたな。
(正末)よくもわたしを捜しましたね。
(邦老)すこし待て。慌ててどうする[38]。(背を向ける)こいつの力をみるとしよう。弟よ、わたしの布衫が雨で濡れたから、捻ってみてくれ。布衫を干したら、いっしょに商いしにゆこう。
(正末)兄じゃ、捻ることはできません。
(邦老)一着の布衫を捻れないのか。わたしがこちらに捻ったら、おまえはあちらに捻るのだ。同じ方向に捻るなよ[39]。
(正末)兄じゃ、かしこまりました。
(邦老)捻るな。ただ持っていろ。わたしがひとりで捻るから。(邦老が捻る)(正末が倒れる)飯を食っていないのだろう。これっぽっちの力しかないとはな。おい、おい、おい、巧言は直言に如かずだ。あの紅いのを持ってこい。
(正末)臙脂しかございませぬが、お持ちください。
(邦老)このおれのきれいな顔に、臙脂など塗ることはない。
(正末)ございました。ございました。黄丹[40]のことでございましょう。
(邦老)脚も臭くはないのだが。
(正末)兄じゃ、このほかに紅いものなどございません。
(邦老)朱砂のことだよ。
(正末)兄じゃ、わたしはささやかな商いをしておりますから、朱砂はございません。
(邦老)おまえは黒石頭店で、一粒二粒と数えていたのを憶えているか。
(正末)ございました。ございました。一粒の朱砂を差し上げましょう。
(邦老)悪く思うな。知りあいだから、おれだって強要しないが、ただ一つ、二三程追いかけたのに、一粒くれるだけでは少ない。すまないがもう一粒くれ。
(正末)兄じゃ、これはわたしのものでございます。
(邦老)くれぬなら、おまえを殺すぞ。
(正末)もう一粒差し上げましょう。
(邦老が荷物を担ぐ)弟よ、一担ぎ分すべてほしいのだ。
(正末)兄じゃ、どうしてすべてご所望なのです。
(邦老)くれぬなら、おまえを殺すぞ。(刀を抜く)
(正末)兄じゃ、一担ぎ分の朱砂はみな差し上げますから、持ってゆきなされ。
(邦老が頭を下げ、籠を持つ)
(正末が天秤棒で邦老を打つ)
(邦老が振り向く)どうかしたのか。
(正末)この天秤棒も、お送りします。
(邦老)ほんとうに馬鹿野郎だな。この廟を出てきたが、ひとまず隠れ、あいつが何を言うかを聴こう。
(正末)あの悪者はわたしの朱砂を持っていった。この先に行き、この土地の役所に訴え、あの悪者を捕らえさせれば、はじめてわたしの怒りを雪げることだろう。
(邦老)あんなことを言っているわい。あいつは言った通りにするだろう。さきに手を下した方がよいだろう。弟よ、朱砂を返そう。
(正末)兄じゃ、ほんとうにありがとうございます。
(邦老)おまえに一つのものを求めることにしよう。
(正末)兄じゃ、何をお求めでしょう。
(邦老)おまえの首級が欲しいのだ。
(正末)兄じゃ、ほんとうに人が来ました。
(邦老が振り向く)
(正末が逃げる)
(邦老が正末を追い、髪の毛を引き掴んで殺そうとする)
(正末)鉄幡竿白正よ、今日はわたしの財を取り、命を奪うが、冥府でおまえを訴えるときは、おのずから証人がいるであろうぞ。
(邦老)誰が証人だ。
(正末)太尉さまが証人だ。
(邦老)檐の下でおまえを殺せば証人はいない。
(正末)この浮漚が証人だ。
(邦老)この浮漚がどうしておまえの証人になれようか。どこであろうと訴えにゆけ。わたしはおまえを恐れぬぞ。
(正末が唱う)
【黄鍾尾】やんぬるかな、わたしの命は、三更過ぎの半輪の残月のごと、一旦無常となりぬれば万事休せり。いたく奔波し、むなしく苦労せしかども、誰かはあへて救ふべき。数粒の朱砂のため、わたしの首は斬られたり。命を懸けて閻羅に告げん。鉄幡竿よ、今に見よ。なが板の門のごとき手も、不平を鳴らすわが口を覆ひ得じ。
(邦老が正末を殺し、退場)一人の小さな若造だったが、全身に汗をかいたわ。この塀の下に引いてきて、佩刀で塀をほじくり、寄りかかり、がらがらと塀を倒して、亡骸を蔽うとしよう。これでもおまえには良い葬式になるだろう。今や二籠の朱砂は、どちらもわたしの物になったぞ。毒を食らわば皿までだ。こいつの家には花のようにきれいな嫁がいるそうだから、まっすぐこいつの家へ行き、父親を始末すれば、女が従わないはずがない。神さま、鉄幡竿はあなたを恐れませんから、ご随意に証人となってください。(退場)
(太尉)鉄幡竿白正は無礼なやつだ。わたしの廟で王文用の財を奪い、さらにかれの命を奪い、わたしに証人になるように指示するとは。「善には善報、悪には悪報あり」とはよくぞ言ったもの。天が霜を降さなければ、松柏よりも蒿草[41]の方がまし。神さまが報いをせぬなら、善を積むより悪を積む方がよい。今日は鬼兵を率い、鉄幡竿白正を捕らえにゆこう。
(詩)奸詐もて神さまを欺くなかれ、禍福は燭に影の従ふかのごとし。善悪は最後にかならず報いあり、あるは遅速の違ひのみ。(退場)
第三折
(孛老が旦児とともに登場)(孛老)老いぼれは王文用の父。倅は商いしにいって、今になっても戻らない。天よ、河南人には外地で客商となっているものがたくさんいるのに、ことのついでに手紙を届けてくる人がどうして一人もいないのでしょうか。
(旦児)お義父さま、ひとまずお気を楽になさいまし。そろそろ家に戻ってくるかもしれません。
(邦老が登場)それがしは鉄幡竿白正だ。王文用を殺してから、夜に日をついで河南府は東関里紅橋の西に来た。人に問うたが、こちらが王文用の家とか。この門だな。かれを一声呼ぶとしよう。どなたかいらっしゃいますか。
(孛老)嫁よ、入り口で人が呼んでいるから、見にゆこう。
(旦児)見にゆきましょう。(会う)男の方、誰をお尋ねなのでしょう。
(邦老)奥さま、こちらは王文用どののお宅でしょうか。
(旦児)どうしてお尋ねなのですか。
(邦老)わたしは仲間なのですが、王文用どのに替わって一通の手紙をこちらにお届けするのでございます。
(旦児)それはそれは。義父に話しにゆきましょう。
(旦児が孛老に会う)お義父さま、王文用どのの仲間が手紙を届けてこられました。
(孛老)ほんとうか。会いにゆこう。おにいさん、どうぞ中にお掛けください。
(邦老)ご老人は王文用どののご父君でしょうか。
(孛老)父です。おんみはどなたでございましょう。
(邦老が拝する)結義した弟で、いっしょに商いしております。あのひとは利を百倍に増やしましたが、たまたま転んで脚を怪我して、後ろでゆっくり歩いているため、わたしにさきに手紙を届けてこさせたのです。こちらは兄じゃの奥さまでございましょう。わたしの実の嫂と同じです。おとうさん、わたしは歩いて腹が空き、喉が渇いていますから、井戸で水を汲み、飲ませてください。
(孛老)井戸へ水を汲みにゆきましょう。
(邦老)おとうさんについてゆきましょう。
(孛老が井戸に行き、水を汲む)この水を汲むとしよう。
(邦老が孛老を推して井戸に落とす)行け。
(孛老が退場)
(旦児が哭く)お義父さま。ほんとうにひどく悲しゅうございます。
(邦老)おい女、哭くな。おまえの夫はわたしが殺し、おまえの舅もわたしが井戸に落として殺した。わたしが来たのはひとえにおまえのためなのだ。女房になれ。
(旦児)死んでも従いませぬ。
(邦老)従わぬなら、一太刀で殺してやるぞ。よく考えろ。
(旦児)ちょっと待て[42]。こいつがわたしを殺したら、わたしの舅と夫の仇には、誰が報いるのだろうか。いいでしょう。一つわたしの言う通りにしてくだされば、あなたに従うことにしましょう。
(邦老)ひとまず話せ。従うことができるなら従おう。
(旦児)夫が亡くなったばかりですのに、わたしがあなたに片づけば、あなたも不吉でございましょう。夫の百日[43]の後、夫婦となり、ながく団円したとしても、遅くはございませんでしょう。
(邦老)それもよかろう。縁起がよいのは大事だからな。百日の後、わたしはおまえと夫婦になろう。わたしは今日は金も手に入れ、嫁も手に入れ、おまえの家の財産はことごとくわたしのものだ。わが一片の良心により、天もわたしに半碗の飯を食わせてくださるだろう[44]。(ともに退場)
(浄が地曹[45]に扮し、鬼卒を連れて登場)わたしは地曹。今日は森羅殿で裁判するが、天曹はまだ来ていない。鬼卒よ、入り口で見張りして、神さまが来たら報せよ。
(鬼卒)かしこまりました。
(孛老が登場)老いぼれは王文用の父。白正めは無礼だぞ。倅の王文用を殺し、さらにわたしを井戸に突き落とし、さらにわが家の嫁を奪って妻にするとは。老いぼれは非業の死を遂げ、今日は地曹に訴えにゆく。
(浄を見て跪く)神さま、老いぼれはわざわざ訴えにまいりました。
(浄が跪く)ご老人、立たれよ。立たれよ。
(孛老)神さまは地曹判官、老いぼれは亡魂冤鬼でございますから、神さまが立たれませ。訴えごとをいたすのでございます。
(浄)訴えごとをするものだったか。わたしはわたしの姑夫だと勘違いした。あなたは誰を訴える。
(孛老)老いぼれは河南府の人、姓は王、王従道にございます。三人家族で、倅は王文用といい、さらに嫁がございます。わたしの倅は商いしにゆき、利は百倍に増したのですが、鉄幡竿白正は、かれの財を奪い、命を奪い、老いぼれを井戸に落として死なせ、さらにわが家の嫁を手に入れようとしました。地曹さまには老いぼれにお味方してくださいますように。
(浄)あなたは今、誰が井戸に落としたと言った。
(孛老)鉄幡竿白正がわたしを井戸に突き落としたのでございます。
(浄)井戸に突き落とされたのなら、どうして衣裳が湿っていない。
(孛老)湿るには湿りましたが、熱い体で乾いたのです。
(浄)あなたはほんとうに死んだのか。
(孛老)わたしは死んでおりまする。
(浄)死んだならそれでよいのに、訴えるのはどうしてだ。
(孛老)神さま、いささかの神通力をお使いになり、かれを捕らえてきてお取り調べください。
(浄)わたしでも駄目だ。とりあえずこちらで待ち、天曹が来たら、訴えるのだ。わたしがかれを捕らえにゆけば、かれはわたしも殺すだろう。
(孛老)あなたのような神さまは見たことがございません。(退場)
(正末が太尉に扮し、判官、小鬼を連れて登場)
(正末)わたしは東岳太尉で、善悪生死の帳簿を掌管している。森羅殿へ裁判をしにゆこう。(唱う)
【正宮】【端正好】革帯を締め、唐巾[46]を着け、舞ふこと蹁躚、両袖は風に揺らげり。われはただ見る、霜林は颯颯として秋天は暮れ、一陣の冷気の霄漢を侵すを覚ゆ。
【滾繍球】なんぢは言へり、なにゆゑぞ森森と骨に寒さの透れると。これはそも茫茫と雲霧の濃く、限りなき紅塵を蔽ひたるなり。わづかに見るは衰草の斑斑たる。こは冥府、黒水湾[47]なり。はやくも奈河[48]に着きたれど、両岸は剣樹刀山。両眼でしかと怨霊を見て、片手でかるく鬼卒を掴み、蹣跚とすることもなし。
【倘秀才】玉帯を摩れば精光は輝きて、羅襴[49]を払へば衣紋は直し。わたしはあなたと渋道[50]を登りゆるゆると曲欄を過ぐ。わたしも坐して十万里を見、一日に九千壇に赴きて、幾たびか考へしことありき[51]。
【呆骨朶】唾をもて窓を破りて覗きたり。
(小鬼が報せる)神さまにお知らせします。東岳太尉が到着しました。
(浄)神さまを迎えにゆこう。
(正末が唱う)手を伸ばし、小鬼をば引き倒し、三吊脚[52]もて腰を捉へて、二本の指で眼を抓み、ただ一拳でただちにかれの脳天を打ち砕き、全身に汗をかきたり。
(浄が宥める)神さま、怒りをお鎮めください、
(正末)手を放せ。
(唱う)わたしはまさに髪の毛を引かんとしたり。おまへが腕にしがみつけばむりやりに引き剥がすべし。
(浄)鬼卒よ、酒を持て。
(鬼卒)お酒にございます。
(浄が酒を斟ぐ)(言う)神さま、一杯干されませ。
(正末が唱う)
【倘秀才】地曹が手もて捧ぐるは温良玉盞[53]、わたしがこなたであたふたと捧ぐるは花紋象簡[54]、
(浄)神さま、お久しぶりでございます。
(正末が唱う)わたしはあなたと別れてすでに数年になる。音信は絶え、不安なりしも、本日、顔を見るを得り。
(浄)神さま、お掛けください。(浄が文書を持って渡す)
(正末)これは何の文書だ。
(浄)仕立屋のものでございます。良い緞子を大きな尺で量って仕入れ、小さな尺で量って売り出したのです。今、拘引してきましたが、左の肋を三千回銅の錘で打ち、右の肋を五千回鉄の棒で打ち、かれを転生してゆかせましょう。
(鬼卒)かれは何に変えましょう。
(浄)螞蝗に変えよう。
(鬼卒)どうして螞蝗に変えるのでしょう。
(浄)長くなるのもかれ次第、短くなるのもかれ次第だからだ[55]。
(正末)これは何の文書だ。
(浄)洗濯屋のものでございます。人の良い衣服を−洗白[56]だったり、高麗復生縑絲[57]だったりしますが−かれは鉄の熨斗ですべて破いてしまいました。わたしはかれを拘引してきて、左の肋を三百回銅の錘で打ち、右の肋を五百回鉄の棒で打ち、やはり転生してゆかせます。
(鬼卒)転生して何に変えましょう。
(浄)鉄匠に変えよう。
(鬼卒)なぜ鉄匠に変えるのでしょう。
(浄)硬くするのもかれ次第、軟らかくするのもかれ次第だからだ[58]。
(正末)これは何の文書だ。
(浄)園丁のものにございます。生きていた時、四季ごとに樹木を植えていましたが、枝を傷い、葉を損ねたため、冥土に拘引され、左の肋を三十回銅の錘で打ち、右の肋を五十回鉄の棒で打ち、やはり転生してゆかせます。
(鬼卒)かれは何に変えましょう。
(鬼卒)いったいどうして筋陡房に転生してゆかせるのでしょう。
(浄)こちらに栽えるのもかれ次第、あちらに栽えるもかれ次第だからだ[61]。
(正末)これは何の文書だ。
(浄)鉄幡竿白正が財産と生命を奪ったのでございます。王文用を殺し、かれの父親を井戸に落とし、かれの妻を奪い、かれの家財を要求したのでございます。
(正末)この文書を見るとしよう。(唱う)
【伴読書】生死輪廻の文書を検べり、天条[62]にあへて抵触するは誰そ。わたしは玉帝さまの天符[63]を奉ずれば徒疎かにするにはあらず、是非曲直をしかと見るなり。目の当たりにする応報はまことに奇し、これこそは運命の巡り巡るなれ。
(浄)神さま、この文書だけは恐ろしゅうございます。
(正末が唱う)
【笑和尚】なれ、なれ、なれは、文書をばじつくりと捲りたり。われ、われ、われは、卓をそつと按へたり[64]。ち、ち、ち、小さき字は千万に重なれり。い、い、い、一行一行みずから眼を通さんとせり。い、い、い、一字一字をなほざりにせず[65]。いざ、いざ、いざ、われは一件一件を公平に処理せんとせり。
(浄)神さま、この鉄幡竿白正は世にあって、あらゆる悪いことをして、まもなく年貢の納め時、天のみが罰することができまする。
(正末が唱う)
【酔太平】おんみは言へり、あのものは生まれつき鷹鸇[66]の羽翰、狼虎の悪しき心肝を持ち、この幾年か人の世で悪事をなして、いささかの忌憚さへなかりきと。あきらかに王文用は明晃晃たる刀の下で危難に遭へり。王従道は黒洞洞たる井戸の底にていづれの時にか日の目を見るべき。かててくはへてかのもの[67]の花のやうなる嫁を強姦せんとせり。これら多くの罪があるなり。
(言う)鉄幡竿白正にこのような罪があるなら、どうして鬼卒に拘引させて訊問しない。
(浄)神さまはご存じございますまいが、わたしとて幾たびか鬼卒を遣わし、あのものを惑わしにゆかせたのでございます。いかんせんあいつはたいへん凶悪ですので、近づけなかったのでございます。
(正末)わたしはおまえと捕らえにゆこう。(唱う)
【煞尾】硬邦邦[68]たる指の爪もてかのものの髪の毛を挽き、粗滾滾[69]たる麻の縄もてかのものの項を縛らん。脳天を打ち、手と腕を切り、凌遅の責めを受けしめん。かのものが溌頑皮にて、綽名は鉄幡竿なることをなどかは恐れん。わが一対の攔関[70]をもて、あいつを死にし狗のごとくに引ききたるべし。わたしはまっすぐあなたの眼を見る[71]。(退場)
(浄)神さまは行ってしまった。わたしも従い、いっしょになって、白正を捉えにゆこう。(唱う)
【幺篇】厮琅琅[72]たる鉄の鎖であいつの肩を縛りあげ、沈点点[73]たる鉄の棍にてあいつの腕を打つとせん。脳天と眼窩を砕き、蛮腰[74]を蹴りて折り脳漿にまみれしむべし。(おかしな表情をする)
(鬼卒)なぜそのようにおかしな表情をなさるのでしょう。
(浄が唱う)あいつをまつすぐ酆都へと連れてゆき、ゆつくりと考へさせん。(ともに退場)
第四折
(邦老が旦児とともに登場)
(邦老)わたしは白正。王文用を殺してから、こちらに来、かれの父親を井戸に落とし、かれの女房を得ようとした。この幾日かわたしはすこし心が不快で、夢の中で寝返りを打っている。どうしてだろう。妻よ、粥を作って、食べさせてくれ。
(旦児)こちらにいらっしゃってください。わたしはお粥を煮にゆきましょう。(退場)
(正末が魂子に扮して登場)わたしはほかでもない。王文用だ。鉄幡竿白正に財を奪われ、命を取られた。しかし寿命は尽きてはいない。今晩はかれの命を取りにゆくことにしよう。(唱う)
【双調】【新水令】まさに黄昏、庭院の景色はうら寂し。ああ天よ。わたしは歩いてげんなりとして息も絶え絶え。淅零零[75]と山路は寒く、昏惨惨[76]と晩風は吹く。歩みをわづかに移しつつ、一歩一歩、横死の地へと赴けり。
(行く)こちらに着いたが、十字路に飲み屋があるぞ。まさにわたしがそのむかし悪者に遇った処だ。かれはわたしがどのような様子かを見て、凶悪な心を起こし、わたしをとてもむごく殺した。(唱う)
【沈酔東風】わたしが落ち目なることのなからましかば、いかでかは災禍を招くことのあらまし。わたしはかれとこなたにてはじめて出会ひ、ふだんは面識さへもなかりき。悪人よ遠ざかれかしと言ひしのみにて、かれは激して凶悪に諍ひたりき。財を見て邪心を起こしたるにはあらず。
(行く)こちらは黒石頭店だ。悪者め、おまえを避けて逃げたのに、しつこくわたしを追いかけたのはどうしてだ。
(唱う)
【喬牌児】わたしは身を引き、こつそりと逃れたりしに、まつすぐにこちらまで追ひきたるべきにはあらず。わたしはかれに、父母殺し、追い剥ぎなどの深き怨みもなかりしに、なにゆゑぞ徹底的に命を奪ひし。
(言う)思えばわたしは、あの晩は賊から逃れたのだから、しずかに眠ればそれでよかった。灯を点し、朱砂の粒を数えることはなかったのだ。昔から言う。外に出て客商となるときは、白いものを見せるなと[77]。あの賊に見破られたのは当然だ。(唱う)
【甜水令】わたしはかたく部屋の戸を閉ぢ、灯火を吹き消して、休らふべかりき。一粒一粒あのものを数ふべきにはあらざりき。かれにわが行蔵を知られ、声音を聴かれ、踪迹を見られしは、まことに自業自得なり。
(行く)こちらは東岳太尉廟だ。あの悪者はほんとうに凶悪だった。一担ぎの朱砂をみなおまえに送り、命を留めてくれるようにと頼んだが、どうしてわたしを殺そうとした。思えば死ぬ時、滴水[78]の浮漚を指さして証人にした。わたしは今でも、魂が散じてはいないから、きっとおまえの命を奪うぞ。太尉さま、あなたは生死を掌る活神さま。横死した王文用にお味方してください。(拝する)(唱う)
【折桂令】わたしはいそいで合掌し、神さまに頂礼したり。神さまは死生の帳簿を掌り、善悪を毫厘も過ちたまふことなし。
(再拝する)太尉さま、
(唱う)あなたはどうして横死した怨霊を憐れまず、悪事を行ふ賊党をほつたらかしにし、夫を亡くしたか弱き妻を強奪せしめし。わたしはみづから軒先の浮漚を指し証人とせり。殿上に坐せる神聖なればご存じのなきはずはあるまじ。(再拝する)
(唱う)願はくは、輪廻を検べ、すみやかに霊威を顕はしたまはんことを。あいつをまつすぐ十八層の阿鼻地獄へと護送したまはば、百千年おんみの天性忠直なるを示すべし。
(行く)家に着いた。わが父上に会いにゆこう。怨霊はとどまって、まだ井戸の底にいるのだ。父上。ほんとうにひどく悲しゅうございます。(悲しむ)(唱う)
【落梅風】霊性は天上に帰りしものと思ひしが、幽魂は井戸の底にぞ沈みたるなる。鉄石の人が見たとて心は砕けん。わたしがかれと結びし仇はいづれの時に尽きぬべき、おのおの別の天地に住むよりほかはなからん[79]。
(言う)それにわたしの女房は、今どこにいるのであろう。あの悪者に従って、まさにお粥を煮てやっている。(唱う)
【沽美酒】紙銭を焼きてわたしを祭らず、粥を煮てかれに送りて食らはせり。そもそもおまへは水性の婆娘にて、変心し易かりしなり。わたしは半世むなしく苦労し、眼を瞠りつつ悪人の妻となりたるおまへを見たり。
【太平令】わたしは痴れたる心もて貞潔を望みたれども、おまへがなしたる事はいと悪しかりしなり。鉄幡竿は思ひは満ち足り、王文用は指を地に着けり[80]。悪党め、こつそりと酷きことをし、やすやすとわが財産を奪ひたり。
(正末が邦老を引く)鉄幡竿よ、わたしの命を償え。
(邦老)誰だ。おまえの命を償えだと。
(正末)王文用だ。おまえはむかし太尉廟で、わたしの財産、生命を奪い、さらにわたしの父親を溺れ死なせて、女房さえも強奪した。おまえはどうしてわたしの命を償わないのだ。
(邦老)わたしがおまえの命を損なったと言うが、いったいどんな証人がいる。
(正末)いるぞ。いるぞ。滴水の浮漚が、証人だ。
(邦老)わたしはふだんは精進物を食べていて、指を伸ばしても人を咬まない人間だ。そのようなことはしていない。太尉廟の滴水の浮漚が証人だと言っているが、その太尉を呼んでこい。わたしはかれと裁きを受けよう。
(太尉が鬼卒とともに登場)人の世の私語をば、天は聞くこと雷のやう。暗室の疚しきことを、神は見ること電のよう。
おい鉄幡竿白正よ、まだわしに気付かないのか。むかしわたしの神廟で、滴水の浮漚のもと、王文用の財産と生命を奪い、さらに父親を溺死させ、妻を強奪しただろう。今日は年貢の納めどきだぞ。弁明をすることがあるのか。
(邦老が跪く)わ、わ、わ、わたしが王文用を殺したのでございます。神さまは憐れと思し召されまし。かれのため、看経懺悔し、高僧を呼び、天へと済度させますから、どうかお許しくださいまし。
(正末)おまえのような悪党にもこのような日が来るのだな。昔から怨みの報いを、どうして許すことができよう。(唱う)
【収尾】死すとも生くともわが胸の怒りこそ遏へ難けれ、怨みは軒端の水のごと[81]。ああ、財を取り、命を奪ひし凶悪な心の賊よ、かならずや坑へと落つる首なき鬼となりぬべし。
(太尉)鉄幡竿白正よ、今はっきりと供述したな。おい鬼卒、こいつを酆都に護送して、諸の苦しみを受けさせて、ながく餓鬼とし、王文用の仇に報いよ。聴くがよい。
(詞)鉄幡竿は悪事を行ひ、王文用を廟に追ひこみ、財を取り、命を傷ひたりしかば、結びし仇は海のごとくに窮みなし。浮漚を指し証人にしたりしかば、今日になり運は尽きなん。鬼卒に命じてかのものを引つ立てて、ただちに地獄に護送せん。横死せし一双の怨鬼らは、来世で幸運たらしめて埋め合はせせん。はじめて見たり、怨みには怨みをもつて報ゆることを。はじめて信ぜり、天理に許されざることを。
最終更新日:2007年3月17日
[1]原文「帶月披星」。月や星が出ているうちから出発することをいう常套句。
[2]十里ごとに設けられた休憩所。
[3]野菜の羮と粥。
[4]原文「一發吃的好了」。「吃的好」が未詳。とりあえずこう訳す。
[5]自分で自分に呼びかけている。
[6]「錦桜」という言葉は未詳だが、錦のように美しい桜桃であろう。
[7]原文「又則見紫紋桃間著那黄花杏」。未詳。とりあえず、このように訳す。「紫紋桃」「黄花杏」ともに未詳。
[8]原文「做意科」。「做意」は未詳だが、何らかの感情を表す象徴的な動作をすることであろう。
[10]一定の数にまとまった銅銭。『金史』食貨志三には銅銭百枚を長銭というとある。
[11]原文「我且飲一盞消闍サ」。「闍サ」は閑居の楽しみをいうが、文脈にまったく合わない。「闖D」の意に解す。「興」は韻字。
[12]原文「行不更名、坐不改姓」。元曲で強い人物が出てくるときの常套句。
[13]原文「將些乾鹽來我吃兩碗」。「乾鹽」が未詳。とりあえずこう訳す。
[14]神に酒を捧げる儀式。
[15]台盞。酒器を置く台。
[16]原文「哥哥教道的小人是」。未詳。とりあえずこう訳す。
[17]東関里、紅橋西、大菜園すべて未詳。
[18]六児は雑劇で下男の名。下女を梅香というようなもの。
[19]彩色した檐。
[20]風鈴。
[21]原文「老子也」。王文用に呼びかけているものと思われるが、若者の王文用に対する呼びかけとしてふさわしくない。
[22]原文「則是個酒高」。「酒高」が未詳。とりあえずこう解釈する。
[23]マントウのこと。
[24]原文「他覷我似爐畔弄冬淩、他覷我似碗裏拿蒸餅」。「爐畔弄冬淩」「碗裏拿蒸餅」いずれも与し易いことの喩え。
[25]原文「抵多少遙指空中雁做羹」。含意未詳。鉄幡竿白正が王文用を逃してしまったことを喩えた句か。
[26]原文「我已自家膽正」。「膽正」が未詳。とりあえずこう訳す。
[27]鉄幡竿白正を指す。
[28]程は旅の行程を数える量詞。
[29]店員を指す。
[30]原文「我兒也」。相手を自分より一世代したのものとして侮辱したもの。
[31]七林林はゆっくり、こっそりしたさま。ここでの意味は未詳。ゆるゆるとした感じか。
[32]険しいさま。
[33]原文「我脚踏著腦杓子走」。「脚踏著腦杓子走」ははやく走ることをいう常套句。
[34]箸は餅を数える量詞であろうが未詳。
[35]自分で自分に呼びかけている。
[36]八搭麻鞋、八踏鞋とも。麻で作ったわらじの一種。周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』三百三頁参照。
[37]原文「有如秋夜雨、一點一聲愁」。秋の雨が一粒ごとに悲しげな音をたてることを述べた句であろう。
[38]鉄幡竿白正が自分に向かって話しかけたもの。
[39]原文「一領布衫不會扭、我便這般扭、你便那般扭、休一順了」。「休一順了」が未詳。とりあえずこう訳す。
[40]鉛丹、丹粉、朱粉、鉛華とも。『本草綱目』巻八参照。脚の臭いを消すなどの消臭効果があるかどうかは未詳。
[41]よもぎ。
[42]自分に対して言っている。
[43]死後百日のこと。百日祭。葉大兵等主編『中国風俗辞典』二百五十六頁参照。
[45]地下の役人。
[47]文脈からして冥土のことと思われるが未詳。
[48]地獄に流れているとされる河。地獄を流れる血の川。唐張読『宣室志』巻四「(董観)行十余里、至一水、広不数尺、流自西南。観問習、周曰、此俗所謂奈河、其源出於地府。観即視、其水皆血、而腥穢不可近」。
[49]羅で作った襴袍。襴袍は官服の一種。周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』百九十五、六頁参照。
[50]渋道は、滑り止めの溝や模様をつけた石段。
[51]原文「我也曾坐觀十萬里、日赴九千壇、我沉吟了幾番」。まったく未詳。
[52]まったく未詳。
[53]原文同じ。未詳。なめらかな玉か。
[54]模様のついた象牙の笏であろう。
[55]原文「要長也隨的他、要短也隨的他」。未詳。とりあえずこう訳す。蛭が血を吸うことによって大きさを変えることを述べているか。
[56]布の一種。『明史』西域伝四・米昔兒に「洗白布二十匹」を米昔兒に賜ったとあり、外國伝七・榜葛剌には「洗白苾布」を榜葛剌に賜ったとある。
[58]原文「要硬也隨的他、要軟也隨的他」。前とのつながりが未詳。
[59]明代の官署名。演劇、音楽を管理した。『明史』職官志三「鐘鼓司、掌印太監一員、僉書、司房、學藝官無定員、掌管出朝鐘鼓、及内樂、傳奇、過錦、打稻諸雜戲」。
[60]未詳だが、「筋陡」は「筋斗」で、とんぼがえりのこと。「筋陡房」は曲芸を教える部署のことか。
[61]原文「這邊栽也由他、那邊栽也由他」。前とのつながりが未詳。
[62]天の法。
[63]天の符命。
[64]原文「將卓面輕輕按」。未詳。とりあえずこう訳す。
[65]原文「一字字莫摧殘」。「摧殘」が未詳。とりあえず、このように訳す。
[66]タカとハヤブサ。
[67]王文用をさす。
[68]ぱんぱんに硬いさま。
[69]太くてごろごろしたさま。
[70]攔関臂。強力な腕のこと。「攔関」自体は関所を守ること。
[71]原文「我直著見了您眼」。未詳。とりあえずこう訳す。
[72]すうらんらん。sīlángláng。擬音語。鎖のちゃらちゃらした音であろう。
[73]ずっしり重たいさま。
[74]蛮腰は小蛮の腰のこと。小蛮は白居易の家の舞妓の名。楊柳のような細腰であった。『本事詩』事感「白尚書姫人樊素、善歌、妓人小蛮、善舞。嘗為詩曰、桜桃樊素口、楊柳小蛮腰」。ただ、悪漢の白正が細腰というのはおかしく、ここでは「蛮」の字は文字通り「野蛮な」という意味で使っているか。
[75]寒いさま。
[76]暗く、寂しげなさま。
[77]原文「不要露白」。「白」は銀のこと。転じて高価なもの。
[78]軒先の雨水受け。
[79]原文「只除非各一家天地」。未詳。とりあえずこう訳す。
[80]原文「王文用手稍兒著地」。未詳。とりあえずこう訳す。王学奇主編『元曲選校注』は「手稍兒著地」は殺されたことを指すとするが根拠は未詳。
[81]原文「冤仇有似簷間水」。含意未詳。とりあえずこう訳す。