宜秋山趙礼譲肥雑劇
秦簡夫撰
第一折
（冲末が趙孝、正末が趙礼に扮し老旦を抬いで登場）
（卜児の詩）漢の季、生民はいかにぞすべき。深山にも兵戈を避くる処なし。朝にはこころみに青銅の鏡を看れば、一夜の憂へに白髪は多し。
老いぼれは姓を李といい、夫は姓を趙といい、汴京の人。生まれた二人の息子らは、上は趙孝、下は趙礼、二人はとても孝行だ。いかんせん家は零落れ、一升一合の粟さえもない。今、漢の世は中道にして衰えて、四方には兵戈が起こり、士民は逃げ竄れしている。このような乱れた世では、ゆく先々で豊かな土地を求めるしかない。二人の息子は老いぼれをどちらへ連れてきたのかを知らせてくれぬ。
（趙孝）母上、こちらは宜秋山麓にございます。
（正末）兄上、かように苦しくては、どうして日々を過ごせましょう。（唱う）
【仙呂点絳唇】嚢篋は今や乏しく、くはふるに米は価を増したれば、いたく憂へり。一日三たび省みて[1]、幾たびか白髪を添ふ。
（趙孝）母上、想うにわれら兄弟二人は、満腹の文章を学んだかいがございませぬ。わたくしはこの山で薪を背負い、弟は野の菜、薬の苗を集めておりまする。このようにして飢えを充たして、いつになったらわれら兄弟は出世するやら。
（正末）兄上。母上は老いられました。われらはまさに、家は貧しく、親は老い、どうしたらよろしいのでしょう。（唱う）
【混江龍】いささかの粗糲をば得んとして[2]、眼を睜りつつ、われら母子はおのおの天の涯にあり。想ひ起こせば、わたしの心は刀に割かるるかの如く、語り起こせば、わたしの涙は懸けたる麻の似きなり。ひどく飢ゑ、米もなく、柴もなく、腹は空き、ひどく悲しく、よき児、よき女は眼の前の花[3]。恢恢たる天網に[4]、漫漫たる黄沙あり。わが一身は餓ゑ死にするも、四海に家はなかるべし。あきらかに青雲の兄[5]は事の成るなく、あはれなる白頭の老いにし母は年を経たまへり。圧さるればわたしの両肩は痛み、歩めばわたしの両腿は麻れたり。
（趙孝）弟よ、われら二人は母上を担ぎながら、この宜秋山麓にやってきた。美しい山の景色だ。
（正末）兄上、この郊外の景色を見れば、まことに悲しゅうございます。（唱う）
【油葫蘆】母子は哀れでひどく悲しく、恨みはいとど加はれり。わたしはこちらで頭を挙げて一望し、まことに嘆けり。老いたる母の身を置くことの難きを傷み、心に賞づる山の色にむなしく向かへば描くに堪へたり。故き園には風の花をば散らしたるあり、荒れにし村には水の沙を消えしむるあり[6]。一帯の林の梢に斜陽の掛かり、二三の茅の家に隠るるさまを見るのみ。
（卜児）息子や、日が山に落ち、だんだん暗くなってきた。
（正末が唱う）
【天下楽】日の平らかな林に落ちて、夕の鴉の噪ぐを見るのみ。天つ涯にていづこにか住まひせん。兄弟の月日を過ぐすはまことに難し。母も老い、力は乏しく、貧しき家活にいたく慌てつ。
（言う）兄上、今、官員や富豪らは、朝な朝なに宴して、夜な夜な娯しんでおります。かれらはわれら貧乏書生の苦しみを知りませぬ。
（趙孝）われらはかように貧しいが、富んでいったいどうするのだ。弟よ、すこし話すのだ。
（正末が唱う）
【那吒令】想ふにかれら富豪らは、羊を殺し馬を屠りて、日にけに笑ひさざめきて、觴を飛ばして斝[7]を走らせり。われら百姓はひどく悲しく、一本の椽、一片の瓦さへなく、五味[8]の全きこともなし。飢ゑを充たさんこともがな。母子は苦しや。ああ、ああ、天よ
（趙孝）弟よ、富豪の家はそのように楽しんでいるというのに、貧乏書生のわれわれや百姓はまことに苦しい。
（正末が唱う）
【鵲踏枝】かれらはまことにひどく誇りて、ひどく華やか。われらには、米はすくなく、柴はなく、生くべうもなきことをいかで知るべき。母子はたちまち飢ゑ死にすべし。ああ天よ、おんみはわれら百姓の家を損ひたるのみぞ。
（卜児）息子たち、このように飢え、どうしたらよいだろう。
（正末）お母さま。
（唱う）
【寄生草】民草の飢ゑたる色は、見れば蝋渣にぞ似たる。かれらはすべて家ごとに、樹に上り、槐の芽を採り、かれらはすべて村ごとに、道に沿ひ、楡の皮を剥ぎ、かれらはすべて人ごとに家を巡りて糧食を乞ふ。
（趙孝）弟よ、われらは今や衣は身を掩うことなく、食は口を充たすことなく、まことに貧しい。
（正末が唱う）今、兄弟は衣の体を掩ふことなし。われら貧しき母と子は身を落ち着くるところなし。
（言う）いささかの食事を調え、母上に食べていただきましょう。
（趙孝）弟よ、そなたはこちらで母上を世話していてくれ。わたしが食事を調えよう。
（正末）兄上が母上に付きそって話しをなさっていてください、わたくしが調えましょう。
（卜児）二人とも、ゆかずともよい。老いぼれが調えましょう。
（正末）母上はお掛けください。わたくしがまいりましょう。この轎の後ろには、まだ一掴みの米があります。この澗の泉の水で、わたしは米を淘ぎましょう。一本の柴を拾って、あちらの家へ、一本の火を貰いにゆくといたしましょう。お屋敷にどなたかいらっしゃいますか。
（丑が都子に扮し門を開ける）入り口で呼んでいるのはどなたでしょうか。
（正末）一本の火を貰いにきたのでございます。
（都子）こちらが火です。ご飯を作りおえられましたら、鍋を洗った水をいささか残しておいてくださりますよう。
（正末）どうなさるおつもりですか。
（都子）わたしは飢えを充たそうと思います。（退場）
（正末）われらは貧乏ではあるが、われらより貧乏な人がいるわい。この火を吹けば、はやくも粥が煮えたわい。兄上。母上に食べていただきましょう。この一碗は兄上がお食べください。
（趙孝が粥を渡す）
（卜児）趙礼は粥があるかえ。
（正末）母上、わたくしはございます。
（趙孝）弟よ、おまえはあるか。
（正末）兄上、わたくしはございます。
（唱う）
【酔扶帰】この食べものを喰らひ尽くさんことこそ難けれ。母上の肌は痩せ、力は衰へたりければ。
（卜児）どうしておまえのお碗にお粥がないのだえ。
（正末）母上、わたくしはいただいたのでございます。
（趙孝）母上、ご覧くださいまし。弟は空のお碗を持っております。
（正末）兄上、わたくしはございます。
（唱う）杓に半ばせし粥は、すべて注がれて何もなし[9]。わたしは空のお碗を回し、この匙で刮りたり。わたしは笑みを浮かべつつ、あれやこれやと喜べり。
（背を向ける）母上は今日はお粥を召されたが、明日は何を召されよう。
（唱う）覚えずわたしは止めどなく涙を下せり。
（都子、子役が登場）この農家では食事している。いささか物乞いするとしよう。
（正末）母上、ご覧になられましたか。思うにわれら三人は、貧しさに耐えていますが、われらより苦しいものもいるのです。（唱う）
【後庭花】わたくしはかのものの綿の納甲[10]を裏返しに着て、一片の破れたる背褡[11]を斜掛けに纏へるを見る。母上はかのものの泥の染みたる腌なき身分と、風に吹かれし黒き鼻凹をぞ見たまへる。
（都子）旦那さま、奥方さま、残りのスープと余ったご飯がございますなら、われらの子供に一口食べさせてくださいますよう。
（正末が唱う）かのものは小娃娃を抱き、髪の毛を振り乱したり。歪みたる[竹曼]笠[12]を頭に戴き、粗き棍棒を手に持てり。破れたる麻鞋を脚下に踏み、腰本に一筋の麻を巻き、口元に半塊の瓜を咽へり。醜きさまと、飢ゑ凍えたるありさまは、見るに得耐へず。
（都子）どうか憐れと思し召されて、いささかお恵みくださいますよう。
（正末）母上、兄上。
（唱う）
【青哥児】かのものは、一声一声、われらに、われらに物乞ひすれど、わたしは羞ぢらひ何をか、何をか援助せん。憐れやわたしも万苦千辛しつつ過ごせり。今や心は油で炸げられたるかの似く、肉は鈎もて掛けられたるが似きなり。七八割方、死すべきなれば、いかでか救ふことを得ん[13]。
（言う）母上、兄上。
（唱う）かやうにわびしく、うらぶれて、今宵は誰が家に宿るべき。おそらくは茅の檐の下にあるべし。
（都子）息子や、わしらは帰るとしよう。
（子役）おとうちゃん、お腹がすいたよ。
（都子）お腹がすいたか。
（子役）お腹がすいたよ。いったい何を食べられるんだい。
（都子）このかたも召しあがるものがないから、よそへ貰いにゆくとしよう。
（都子、子役が退場）
（卜児）息子たち、荷作りをして、豊かな土地を求めてゆこう。
（正末が唱う）
【賺煞尾】口は開くるも閉づるも覚えず、脚は高きと低きを知らず。天は転りて山は揺れ、地は塌れたるを見るのみ[14]。（転ぶ）
（卜児）息子や、おまえは気力がないのだろう。
（正末）母上、わたくしが役立たずのため、母上をびっくりさせてしまいました。
（唱う）わたくしに気力のなかりしにはあらず。身の滑りしは、人のゆくこと少き山路の凹凸とせしためならん。
（言う）母上、
（唱う）わあわあとな叫びたまひそ。わたくしは水、米を口にせしことぞなかりき。明日飢ゑなばわれらは何をか喰らふべき。凍え死なずばおそらくは餓ゑて死ぬべし。とほからず山の間か林の下で、あはれにも野人の家に死にぬべし。
（ともに退場）
第二折
（卜児が登場、詩）花は重ねて開く日あれど、人に再び少き年なし。
老いぼれの二人の息子は趙孝、趙礼。上の子は、日々山で柴刈りをして過ごし、下の子は日々山で野の菜、薬の苗を採り、三人の飢えを充たしている。二人の息子は山へ行ったが、老いぼれは、家でいささかの食事を作り、二人の息子が戻ってきたら、食べるとしよう。（退場）
（正末が登場）わたくしは趙礼、兄上は趙孝といい、豊かな土地を求めるために、この南陽は宜秋山麓にやってきて、一間の草房を建て、住まいしている。兄上は毎日山で柴を刈り、わたくしは籃を提げ、いささかの野の菜と薬の苗を採り、母上と兄上の飢えを充たしてさしあげている。趙礼よ、満腹の詩書を学んだ甲斐もなく、いつになったら出世するやら。（唱う）
【正宮端正好】わが身は病める鶴に似て、心は雲間の鵲のごと。わたしはもともと清らかな風に駕り、万里に飛ばんとしたれども、半生四海に落ち着くところはあらざれば、かひなくも貧しきさまは林に投ずる鳥にぞ似たる。
【滾繍球】文章を子供に教へ、詩書[15]に先覚[16]を訪ねたり。わたしは今や居るに安らかなることはなく、食らふに飽くるを求むることなく、顔回も陋巷の箪瓢なりしことを慕へり[17]。餓ゑたる肚皮を支へつつ、凍えたる躯殻を曲げり。学ぶは宜しきことなりと思ひしも、
（言う）趙礼のように苦しみを受けるのならば、
（唱う）われは思へり、学ばざることも宜しと。かばかりに経営はなければ、月日を渡ることこそ難けれ。「推挙する人なくば、貧乏はいかんともし難し」と言はざるや。「貧にして憂へず、富みて驕らず」などとはとんでもなきこと。げに人々の口は嗷嗷。
（言う）この山にやってきて、野の菜を採って、年老いた母に食べさせよう。
（唱う）
【倘秀才】われはこの浅き水、深き山をば巡りつつ、喰らふによろしく、毒のなき薬の苗をぞ求めたる。われはこの高き嶺、長き堤をゆき過ぎて、葉は嫩かく、枝は新たなる野の蒿をぞ採れるなる。喰らひなば、老いたる尊堂の安楽を得て、月日を過ごし、昏朝を過ごしたまはんことをひとへに願ひたり。われはたちまち山林の隘き角をぞ転り過ぎたる。
【脱布衫】騰騰と鳥の梢に起ちたるを見る、
（内の盗人が太鼓を敲く）
（唱う）冬冬と鼓の山腰を振るはすを聴く。（銅鑼を敲く。唱う）璫璫と一声の鑼は響きて、（口笛を吹く）
（唱う）颼颼と幾声か口笛を吹く。
（盗人たちが出てきて取り囲む）
（正末が唱う）
【小梁州】つはもののずらりと居並びたるを見る。
（言う）これはまずい。いっしょに逃げるといたしましょう。
（馬武が盗人を率いて押し寄せる）おまえはどこへ逃げるのだ。
（正末が唱う）わたしは脅えて、肉は戦き、身は震へたり。黒きこと黯黯として殺気は青霄を震はせり。
（馬武）そのものを捕まえろ。
（正末が唱う）かのものはあちらにて声高に叫びたり。命を得んとも望みはなからん[18]。
（馬武）ここはまさしくわれらの土地であるというのに、どうして勝手にここに来たのだ。
（正末が唱う）
【幺篇】こここそはおみの占めたる水泊と山林の道なるや。
（馬武）この場所は、われらだけしか、狩をするのは許されぬ。
（正末が唱う）ただおみら官人の射猟漁樵を許すのみとや。
（馬武）おまえたちが来るのはまかりならぬのだ。
（正末が唱う）わたしも脚に任せて歩み、あやまちて来たるべきにはあらざりき。
（馬武）これはおまえが悪いのだ。
（正末が唱う）これぞまさしくわたくしの掟に背きたるなりき。太僕さまに申し上ぐべし。ひとまず許したまへかし。
（馬武）兵卒よ、捕らえて山に上ってきてくれ。（寨に連行する）それがしは酒に中った。小盗人よ、泉の水を汲んで刀を鋭く磨き、それがしみずから腹を剖き、心を剜って、酔い醒ましの湯にし、飲むとしようぞ。
（盗人たち）かしこまりました。
（正末が唱う）
【倘秀才】われは見き。かのもののしやくれた口に凹凸の面貌、眼は飛び出、鼻はぺしやんこの顔を掻けるを[19]。かのものの凶暴な心腸はかならず奸悪なるべし。猿揉[20]の臂を伸ばしつつ、虎熊の腰を掛けながら、雄きこと糾糾として粗暴をほしいままにせり。
（馬武）小盗人よ、そのものを宴席に招くから、そのものの巾幘[21]を取り去ってくれ。
（正末）太僕さま、雷霆のお怒りを鎮められませ。（唱う）
【滾繍球】塵を蒙りたる貢禹冠[22]なるのみぞ。
（馬武）そのものの衣服を剥げ。
（正末が唱う）霜の侵しし季子袍[23]なるのみ。
（馬武）金珠、財宝があるならば、持ってきて命を贖え。
（正末が唱う）わたしには鄧通[24]が鋳し銭もなければ、いづくにか金珠財宝をば得べき。
（馬武）それがしがみずから手を下すとしよう。
（正末が唱う）比干の心に七つの孔のあることもなかるべし[25]。
（馬武）こいつはなかなかよく食べるわい。
（正末が唱う）黒ずみし肌体は羸せて、紅らめる皮肉の嬌かしきもなし。わたしは骨張り、ゆかんとしてはまた倒れたり。わたしは餓ゑて損はれたる人なれば、脂膘なし。わたしはこなたでぶるぶると莎草[26]にぞ跪きたる。
（馬武）小盗人よ、刀を鋭く磨いてくれ。
（盗人たち）かしこまりました。
（正末が唱う）かのものは、あちらにて、ごしごしと人の血を帯びし刀を磨けば、わたしは脅えてびくびくとせり。
（馬武）まことにおかしい。この虎頭寨で、捕まえられたものはみな、われらを見れば胆を潰すが、今日はこいつを捕まえたのに、顔色を変えていないぞ。こいつめ、おまえはどんな話があるのだ。
（正末）わたしは一言、太僕さまにお話しをしてよろしいでしょうか。
（馬武が怒鳴る）こいつめ、おまえが話せば、それがしが聴こう。
（正末）わたくしは貧乏秀才、家には老母と兄がおります。母は年老い、兄は懦弱にございます。太僕さま、憐れと思し召されませ。一時の期限を頂き、老母と兄に別れを告げたら、山に上って殺されましょう。
（馬武）黙れ。わたしの前で口舌を弄ぶとは。喩え話をしてやろう。子供が籠に鵲を入れていた。鵲はその籠のあちらこちらにぶつかったが、籠から出てゆかれなかった。物の分からぬ子供が籠の入り口を開いたところ、鵲はついと樹の上に飛んでいった。子供は慌て、鵲に手招きし、おまえは籠に入っておいでと呼びかけた。鵲は入ってこようとするであろうか。わたしはこたびおまえを捕らえ、おまえを殺そうとしている。一時の期限を貰い、山を下り、老母と兄に別れると申しておるが、わたしがおまえをゆかせたら、本当に戻ってくるのか。別れを告げたらどうするつもりだ。別れを告げられなかったらどうするつもりだ。それがしに申してみよ。
（正末が唱う）
【呆骨朶】わたしが別れを告げるのは、年老いた母に消息を知らせるためです。
（言う）太僕さま、
（唱う）「哀哀たる父母の劬労」[27]といふを聞かれしことなきや。
（馬武）母に別れてどうするのだ。
（正末が唱う）いかんせん、わが母は年老いて、兄は懦弱にございます。
（馬武）兄には何を話すのだ。
（正末が唱う）わが兄に孝行をさせ、老母の恩に報いしむべし。
（馬武）それがしはおまえをゆかせぬ。
（正末が唱う）おんみのなさるは、人を損ひみずからを安んずるなり。母上さま、幼きを養ひて老いに備へしとはいへず。
（馬武）わしがおまえをゆかせるときは、おまえにどんな担保があるのだ。
（正末）信を担保としましょう。
（馬武）信など大したものではないわい。
（正末）われら秀才は仁、義、礼、智、信のうち、信の字だけは失おうとはいたしませぬ。天に信がなければ四時は調わず、地に信がなければ五穀は生ずることなく、人々は信がなければ立ちませぬ。大きな車に輗がなく、小さな車に軏がなければ、どうして進むことができましょう[28]。孔子の徒なら、他人との約束を違えようとはいたしませぬ。
（馬武）それならば、おまえを山から下りさせよう。
（正末）太僕さまにお礼を申し上げましょう。（退場）
（馬武）小盗人よ、あいつは行ってしまったぞ。もし来たら、あいつを笑いものにしよう。もし来なければ、それまでのこと。小盗人よ、裏山で酒を飲もうぞ。（退場）
（卜児が登場）老いぼれは、趙孝と趙礼の母。二人の息子は家にはおらぬ。一人の息子は薪を背負いに、一人の息子は野の菜と薬の苗を採るためにいってしまった。二人の息子に何事かあったのだろうか。老いぼれは今、肉は鈎に掛けられているかのよう、髪は人に引かれているかのようで、身も心もぼんやりしている。二人の息子は戻ってこない。
（正末が慌てて登場）走れや走れ。
（唱う）
【倘秀才】走ればわたしの口は渇きて、からからとなり、顔はあたかも火に燎かれたるかのごとし。走ればわたしは総身に汗かき、びしよびしよとなり、あたかも水を浴びたるがごときなり。
（言う）家に着くと、母上は息子や来たねと仰った。
（唱う）「買売をして帰りきたれば汗はいまだに消ゆることなし」[29]とはいへず。
（卜児）母上、開けてくだされ、開けてくだされ。わたくしがまいりましたよ。
（見える。卜児）息子や、そんなに慌ててどうしたのだえ。
（正末が唱う）わたしは門に入りたれば、母上は事情を問ひたり。わたしは事情を説かんとぞせる。
（卜児）わたくしはさきほど山で出くわしました。
（卜児）息子や、何に出くわしたのだえ。
（正末が唱う）一言がわが舌に出で来たれども、わたしはすぐに呑み込めり。
（卜児）息子や、そんなに慌てて、どうしたのだえ。
（正末が唱う）
【滾繍球】[30]さきほどは、山にて食らふものを求めど、はからずも疏らなる林の外にて賊に遭ひたり。かのものは、人をば殺めなんとする心なれども、天に替はりて道を行ひ、山を下りきてわたくしを邀へんとしたるなり。かのもののところには、食べものははなはだ整ひ、宴はいとも豊かなるものなりき。この恩は身を殺すとも報ゆることは難からん。かのものは管夷吾の徳行と才学を持ちたれば、心知つたる友となり、今日は刎頚の交はりとなる。これもまたわたくしの命運の招きたるならん。
（卜児）息子や、誰がおまえをどうしたのだえ。話しておくれ。
（正末）お話しもうしあげますが、母上、どうか悲しまれませぬよう。
（卜児）息子や、話をしておくれ。悲しまないから。
（正末）わたくしはさきほど野の菜、薬の苗を採っていて、はからずも一群の盗賊に遇いました。盗賊たちはわたくしを捕まえて、虎頭寨へと連れてゆき、殺そうとしたのです。わたくしは一時の期限を貰い、山を下って、母上と兄上にお別れし、山に上って殺されにゆくのです。
（卜児）息子や、老いぼれはひどく悲しい。ゆかずともよいだろう。兄さんが来たら、われら三人でそのものに話しをしにゆくことにしよう。
（正末）母上、かれらに話しをしにゆかれても詮ないことにございます。
（唱う）
【二煞】辛抱強くし、三人がみづから話しをせんと仰れど、かの賊人は腹を立て、眼を睜りつつわれらを殺さん。わたしはむしろ身做身当、自業自得とならんとす。死を愁へ、かのものに救ひを求めやうとせず[31]。
（言う）母上、
（唱う）おんみは哭き喚き、怨み哀しみ、憂へて焦りたまふなかれ。わたくしは家は貧しく、親は老い、貧しき暮らしにいかで耐ふべき。
（卜児）母上。兄上はどちらへゆかれたのでしょう。
（卜児）兄さんは柴刈りにゆき、もうすぐ戻ってくるだろう。
（正末）兄上に会うことはできないでしょう。
（哭く、唱う）
【一煞】兄ぢやとの半生の情分は終はれり。
（言う）母上、
（唱う）これぞまさしく、児女を半生養ふも、未来はなきなり[32]。わたくしは功名を得ることはなく、むざむざと母上と兄上を置き去りにして、わたくしの七尺の身と、満腹の文学[33]を捨て去れり。
（卜児）母上、お掛けになって、わたくしの拝礼をお受けください。
（唱う）階の下にてお別れいたすべし。いづれの年にか相見ゆべき、わたくしが今日死なんとは思ひもよらぬことなりき。
（卜児）息子や、兄さんに会ってから行ってもよかろう。
（正末が唱う）今ははや兄上の来たまふを待つを得ず。かのものたちとの口約束をいかで違へん。
【随煞尾】わたしはたちまち両の足をぞ拝したる[34]。
（卜児が哭く）息子や、おまえのせいでひどく悲しい。
（正末が唱う）ああ、たちまちに、後ろへもんどりうちたまふ[35]。
（言う）母上、
（唱う）病に残はれたる身で悲しみたまふことなかれ。鼻は痛みて、心は酸しみ、両の涙は滴りて、腹は熱して、腸は焦がれて、刀に掻き乱さるるがごとし。かのものは凶悪な盗賊なれば、わたくしは本日、死をば逃がれ得じ。母上、不孝な息子のわたくしはおんみの老いを送り得ず。
（哭きながら退場）
（卜児）息子は殺されに行ってしまった。上の息子がやってこないが、どうしたらよいだろう。
（趙孝が登場）わたくしは趙孝、山へ柴刈りにいってきた。家で何かがあったのだろうか。肉は鈎に牽かれるかのよう、髪は人に引かれるかのよう、心の中はぼんやりしている。入り口に着いたから、母上に会いにゆこう。（見える）母上、ただいま。母上、かように慌ててどうされましたか。
（卜児）息子や、おまえは知るまいが、弟が山で盗賊に遇い、盗賊は弟を殺そうとしたのだよ。弟は一時の期限を貰い、老いぼれに別れを告げたが、おまえがやってこなかったので、期限に遅れることを恐れて、山に上って殺されに行ったのだ。
（趙孝）本当ですか。母上、とにかく家にいられてください。かれはわたしと父母を共にする実の弟。弟に禍があれば、わたしも生きてはおれませぬ。「弟は手と足のやう、手と足が断たるれば繋ぐは難し」ともうします。わたしの命を抛って、どこであろうと、弟を救いにゆくといたしましょう。（退場）
（卜児）このようなことになろうとは。二人の息子が行ってしまったら、わたしの老いた命など必要ないわい。門を閉ざして、歩みつつ転びつつ追ってゆき、二人の息子の命を救おう。息子や、ほんとうにひどく悲しいよ。（退場）
第三折
（馬武が盗人を率いて登場、詩）澗の水は湾湾として寨の門を繞りたり。野の花を斜めに插すは滲青巾[36]、糟を帯びたる濁酒は盆を回して飲み喰らひ、葉子の黄金[37]は秤を整へ分かち合ひたり。
それがしは姓は馬、名は武、字は子章、鄧州の人。十八般の武藝を学んだ。そのかみ、武科挙を受けに行ったが、顔が醜いことを嫌われ、採用されることはなかった。それがしは今、宜秋山虎頭寨にて落草し、賊寇になってはいるが、これもまたやむをえずしてこうしているのだ。毎日、人の心肝を喰らおうとしているが、本日は一頭の牛[38]を捕らえて、殺そうとしたところ、そのものはそれがしに哀願し、一時の期限を貰い、山を下り、そのものの老母と兄に別れに行った。そろそろやってくるはずだ。
（正末が登場）走れや走れ。時間に遅れる。（唱う）
【越調闘鵪鶉】げにわれは東に倒れ、西に傾き、魂魄も身に付かず、北へ行き、南へ来たれり。
（言う）ああ苦しい。ああ苦しい。
（唱う）かやうに天は寛くして、地は窄ければ、賢愚を分かつべきなるに、なにゆゑぞ黒白を分かたざる[39]。わが母上は年老いて、力は衰へたまひたり。かのもののひたすらにでたらめをして、あれこれと指図をするにいかで耐ふべき。
【紫花児序】大いなる寨に着けり。わたくしは道を楽しみ、貧に安んずとはいへず。
（言う）ああ天よ。ああ天よ
（唱う）などてこのいはれなき災に遇ふ。おんみの睡れる魂は醒むることなく、怒りの眼[40]の開くは難し。あな哀し。わたくしの七尺の身は、もとは世に冠たる才を持ちたるに[41]、なにゆゑぞわたくしを牛か羊のごとくに見なしたまひたる。わたくしは楽しみの極まりて悲しみの生じたるにもあらずして、苦の尽きて甘の来たるにもあらざらん。
（言う）はやくも山にやってきた、太僕に会いにゆかねばならぬ。（跪き、見える）
（馬武）こいつめ、来たな。
（正末）太僕どの、参りましたぞ。さあ、殺されよ、殺されよ。
（唱う）
【凭闌人】おんみがわが身を七つ裂きするに任せて、おんみがわたしの心肝を一つづつ抉るに任せん。われは思へり。われは思へり。死のほかに大いなる災なしと。
（趙孝が慌てて登場）弟をあちこち捜した。あれこそはわたしの弟。
（趙孝が正末に見え、哭く）弟よ、とても悲しい。
（馬武）結構、結構、また一頭の牛が来たわい。
（正末が唱う）
【調笑令】来るはまことに速ければ、わが心をぞ傷ましめたる。ああ、これこそは、あちらに兄ぢやの来たまひしなり。われら二人のよき心にはまことに勝るものぞなき[42]。われらの肉を拆き、皮を破るにぞ一任すべき。われらの残んの骨殖をば損ふことなく、われら兄弟を一つ処に埋めよかし。
（登場）遠くでは一群の人々が騒いでいるが、わたしの二人の息子だろう。
（卜児が会って哭く）
（馬武）また一頭の牛が来た。
（正末）母じゃが来られた。
（唱う）
【禿厮児】死に至るとも口をな開きたまひそね。なんぴとか人を殺むる処へとおみを出で来たらしめたる。こなたでは善と悪とを問ふことはなし。これもわが年月日時[43]の衰へたれば、かくなりしなり。
【聖薬王】誰かおんみを、頭を抬げず、眼を開けず、大股で捨身崖へと赴かしめたる[44]。おんみら三人[45]は争ふ要なし。いづれが憂き目に遭はんとも、前世にて定められたる血の災ぞ[46]。
（言う）えい、ままよ。
（唱う）今日は不運が一時に来たれり[47]。
（馬武）おまえが来たのに、わしがおまえを殺さないなら、このわしが約を違えたということだ。おまえがもしも来なければ、おまえが約を違えたということだ。（正末を捕らえる）わしはこいつを殺すとしよう。
（趙孝）太僕どの、憐れと思し召されませ。わたしは肥えておりますから、弟を残して、わたしを殺してください。
（馬武）結構、結構、おまえの弟を残して、わしはおまえを殺すとしよう。（趙孝を捕らえる）
（正末）太僕どの、憐れと思し召されませ。わたくしは肥えておりますから、わたくしを殺されて、兄を残され、母を世話させますように。わたくしを殺してください。
（馬武が正末を捕らえる）結構、結構、わしはこいつを殺すとしよう。
（卜児）太僕どの、憐れと思し召されませ。二人の息子が捜して持ってきたものは、みな老いぼれが食べております。老いぼれは肥えておりますから、二人の息子を残されて、婆を殺してくださいまし。
（馬武）結構、結構、わしはこの婆さんを殺すとしよう。
（趙孝が末とともに言う）太僕どの、どうか憐れと思し召し、老母を残してくださりますよう。われら二人は肥えております。われら二人を殺してください。
（馬武が怒る）黙れ。何というやつだ。このものを殺そうとすれば、上の子は、「太僕さま、憐れと思し召されませ。弟を残し、母を世話させ、わたしを殺してください」と申すのだ。上の子を殺そうとすれば、「兄を残して、老母を世話させ、わたしを殺してください」と申すのだ。二人の息子を殺そうとすれば、婆さんは、「婆は肥えておりますから、わたしを殺してくださいまし。わたしはおんみを殺しませぬから、わたしを殺してくださいまし」と申すのだ。馬武よ、おまえは考えろ。ほんとうに兄弟は愛し合い、母たる者は大いに賢く、子たる者は極めて孝行。おまえの家にも、一人の父と二人の母、三人の兄と四人の弟、五人の姉と六人の妹がいるが、かれらが誰かの剣の下に殺されて、野や溝に填められたら、どうするつもりだ。
（詩）つばらに事情を説きたれば、わが頬に両の涙ぞ下りたる。このわれは、人を殺して火を放つ、いと悪しき漢なれども、かのものの孝の心腸は、わが鉄の心腸をぞ動かしめたる。
いいだろう。いいだろう。わしはおまえを殺さずに、おまえを許し、戻ってゆかせることにしようぞ。
（正末が感謝する）太僕さまに感謝いたします。（唱う）
【絡絲娘】おんみの人を殺さんとする刀はいとも恐ろしと思ひしが、人をば活かしめんとする心はなほも存したるなり。われら二人の死すべき游魂は許すべきにはあらずとも、白頭の母親をなにとぞ憐れと思し召せ。
（馬武）おまえたち母子三人をわしはみな殺さないから、はやく戻ってゆくがよい。（趙孝、正末とともに再拝して感謝する）
（正末が唱う）
【東原楽】凶年で、骨骸が痩すれば、剮にすとも一度の食事にも満たざらん。それゆゑに、餓ゑたる虎の喉元で免死牌[48]をぞ乞ひ得たるらん。恩を蒙りたりぬれば、これよりは遥かにおんみの営門を望みてつねに礼拝すべし。（歩く）
（馬武）戻ってこられよ。
（正末）太僕さま、もしや後悔されたのでしょうか。
（馬武）男子が一言申したからには、後悔をすることはござらぬ。お尋ねしますが、賢士どののご姓とお名は。
（正末）わたくしは趙礼、兄は趙孝にございます。
（馬武）どなたが趙孝、趙礼どのか。
（正末）われら二人にございます。
（馬武）漢の朝廷が三たび招いて来られなかった方々ですか[49]。
（正末）左様です、左様です。
（馬武）わたくしは賢士を求めていましたが、そもそもこちらにいられましたか。賢士どの、お掛けになられ、馬武の拝礼をお受けください。
（正末）太僕さまは年上にございますのに、なぜわたくしを拝されるのでございましょう。
（馬武）わたくしは徳を拝して、寿を拝せぬものにございます。わたくしは兄上を山寨に擒にしました。賢士どのにはご無礼をいたしましたが、お咎めになられませぬよう。請うらくは賢士どのにはゆったりと腰を掛けられ、馬武の八拝をお受けくださいますように。
（正末が礼を返す）壮士どの、お立ちください。お尋ねしますが、壮士どののご姓とお名は。
（馬武）それがしは姓は馬、名は武、字は子章ともうします。
（正末）すばらしい。すばらしい。お名前は伺っていましたが、お顔は拝見していませんでした。壮士どのはなぜ山を下り、武科挙を受けにはゆかれぬのでしょう。
（馬武）それがしも受験したことがありますが、醜いことを嫌われて、採用されませんでしたので、やむをえず、かようなことをしているのです。小盗人よ、衣服一套、金銀一秤、白米一斛を、二人の賢士に差し上げて、年老いた母御を世話していただこう。至らぬことをお厭いになりませぬよう。
（正末）壮士どの、おんみがもしも功名を得にゆこうとし、帝都闕下に着かれたら、（唱う）
【収尾】馬歩禁軍都元帥となるは必定、ひらひらと両面に門旗は並ばん。
（言う）そこにはこう書かれていましょう。「風高からば火を放ち、月黑からば人を殺さん。財を狙ひて命を奪ひ、なんぢが死なばわれは活きん。」と。
（唱う）わたしはおんみの九江四海是非の心を[50]、
（言う）腰に金印、身に虎符を掛け、お名は青史に記されて、お姿を麒麟[51]に描かれるように換えましょう。
（唱う）万古千年、姓名をしぞ改めん[52]。（ともに退場）
（馬武）思いがけなく、今日は賢士に遇ったわい。小盗人たち、父母のあるものは父母を訪ねてゆくのだ。父母のないものはいっしょに武科挙を受けにゆこうぞ。（退場）
第四折
（外が鄧禹に扮し、将官たち、従者を連れて登場、詩）生まれつき胆気は雄く、長剣を持ち、崆峒[53]に倚りしことあり。凌煙閣[54]に丹青で画かれて、他のものを第一功となさんとはせず。
それがしは姓は鄧、名は禹、字は仲華ともうし、光武皇帝をお輔けし、天下を平らげ、高密侯の官職を拝命している。只今は建武元年、それがしは丞相府にて、二十八人の開国の功臣を定めることと相成った。鋼刀馬武は戦功がとりわけて多いから、天下兵馬大元帥に任命し、以下のものには順番に官位を加え、恩賞を賜わろう。このことはしばらく措こう。それがしは、ほかにも聖上の御諚を奉っている。各地の賊は滅ぼされたから、賢士を得、太平を輔佐させたいとのお達しだ。すでに功臣馬武らに命じ、およそ知るところがあれば、すぐに推挙し、入朝させて、それがしが選ぶのに任せることとしたのだが、今になってもどうして賢士がやってこぬのか。従者よ、馬武を呼んできてくれ。
（従者）かしこまりました。馬武どのはいずこにいらっしゃいますか。
（馬武が登場、詩）男児は事業を立つるに、よき容顔は要のなきもの。鋼の刀で社稷を安んじ、匹馬もて江山をしぞ定めたる。
それがしは鋼刀馬武だ。宜秋山の虎頭寨を離れてから、京師へとやってきて、ありがたき聖恩により、将軍にしていただいた。赤眉[55]銅馬[56]の大盗を討滅し、いくたびも戦功を立て、今では兵馬大元帥の職にある。鄧丞相どのの御諚を奉り、われらは賢士を推挙して、太平の世を輔佐させることと相成った。当今の賢士には、趙礼と趙孝よりも勝れたものはないだろう。すでにかれらの姓名を、かれらがいるところに命じ[57]、安車蒲輪[58]で、朝廷へ送り込ませた。今日は丞相どのがお呼びだ。何事だろうか、会いにゆかねばならぬわい。はやくも着いた。取り次ぎをすることはない。そのまま入ってゆくとしよう。（見える）丞相どのがわたくしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（鄧禹）今、聖上は寝ても覚めても賢者を求め、とても気に懸けていらっしゃる。さきにおみらに賢士を推挙するように命じたが、どうなったかな。
（馬武）わたくしの知るところでは、趙礼と趙孝の二人は、節義に申し分なく、推薦するに堪えましょう。
（鄧禹）その賢士は今どこにいるのだ。
（馬武）すでに呼びにゆかせました。そろそろやってまいりましょう。
（鄧禹）おんみはひとまずあちらにいられよ。そのものが来たら、おんみを見分けられるかを見るとしよう。従者よ、賢士がやってこられたら、わたしに取り次げ。
（従者）かしこまりました。
（正末が母、兄とともに登場）わたくしは趙礼だ。母上、兄上、今日があるとは思いませんでした。（唱う）
【双調新水令】賢き臣と良き将は鑾輿を保ち、今まさに太平の時に遇ひたり。一人[59]に慶あらば、四の海にはとこしへに虞れなからん。頓首山呼し、百霊はあきらかに聖天子をぞ助けたる。
（趙孝）弟よ、わしとそなたは安車駟馬[60]で、まっすぐ都へ送ってゆかれる。母上を担ぎつつ、宜秋山麓に来たときと大違いだな。（正末が唱う）
【沈酔東風】想へばそのかみ、千辛万苦を忍び尽くせば、今日の駟馬と安車があらんとは思ひもよらぬことなりき。胞と乳とを共にせし兄に従ひ、皓き首と蒼き顔のわれらが母に、かならずや皇家の禄を受けしめん。一片の荒れたる山に野の菜を掘るより、はるかに勝らざらめやは。平生の願ひははじめて満たされぬ。
（言う）丞相さまのお屋敷にはやくも着いた。従者よ、取り次いでくれ。趙孝、趙礼、母子三人が入り口におりますと、
（従者が取り次ぐ）
（鄧禹）お二人の賢士どの、おんみらは趙礼どのと趙孝どのにございましょうか。
（正末）左様にございます。
（鄧禹）おんみらの大恩人が群臣たちの中にいますから、みずから確認なさいませ。
（正末が確認し、唱う）
【喬牌児】この両班の文官と武官に向かひ、一人一人を確かめり。われわれの大恩人とはいかなる親戚故人ならん。
（馬武）賢士どの、脚を踏まれましたな。
（正末が唱う）ついと頭を抬ぐればわれはまことに怖れを添へり。
【掛玉鈎】脅ゆれば、わが手と脚は、わなわな、ぶるぶる。
（馬武）賢士どの、何を恐れていらっしゃる。
（正末が唱う）胆と心とを剜らんとせられしことを思ひたるなり。
（馬武）宜秋山麓ではお持て成しいたしませんで、今もなお慚じております。
（正末が唱う）そのかみはわたしをいたく持て成されたる峨き冠の士大夫どのよ、こちらでふたたび遇はんとは思ひもよらぬことなりき。海に架けたる梁、天を擎ふる柱のおんみに大いに感謝せん。生くるも死ぬるも忘るることは難うして、古今に誰か如くべきや。
（言う）左右のものよ、礼物を持ってまいるのだ。白米一斛、金銀一秤、衣服一套を、とりあえず将軍さまにお送りし、答礼といたそうぞ。
（馬武）これは宜秋山虎頭寨にてわたしがおんみにお送りしたもの、なにゆえに使われず、今日まで残していられたのです。
（正末）老母の厳しい教えがございましたため、決して用いなかったのでございます。（唱う）
【雁児落】がさつなる将軍は儒を重んぜずといふなかれ。貧乏書生のわたしを許し、還りて母に仕へしめたり。かの日おんみの金銀を受けたるに、今のわたしの返礼を何ゆゑぞ拒みたまへる。
（馬武）賢士どの、わたしのものが人から奪ったものなので、使われなかったのでしょう。おんみはすぐにそれらのものを持ってゆき、役所に告発するべきでした。こっそりと盗品を家に置かれて、事情を知りつつ告発なさらなかったのはやはりよくないことでしょう。
（正末が唱う）
【得勝令】われはまことに恩沢に報ゆることを識りたれど、盗泉[61]の余りの水を飲まんとはせず。おんみが慈悲の念をば発せられんとせざりせば、なんぴとかわれらのために餓ゑ凍えたる躯を留めしことあらん。
（馬武）賢士どの、おんみら二人が孝行であることは、言うまでもございませぬが、おんみらは学問は人より勝り、教養は世を蓋うばかりであるとひさしく承っております。今日になり、推挙して入朝していただいたのは、遅かったというものですね。
（正末が唱う）ああ、わたくしに学問と千金の賦がありとは言ひ得ず。つらつらと思ひみたれば、賢良を薦むる書をおんみはあだにぞせられたる。
（卜児）われら母子は丞相どのの保奏がなければ、今日はございませんでした。わらわと二人の息子らの拝礼をお受けください。（正末が唱う）
【沽美酒】家郷を離るる万里の途、嚢篋[62]に一文もなし。もともとは桑間の一餓夫[63]なりしも、今日は朝廷の宰輔となりて、栄華を享けて門戸をしぞ改むる。
（鄧禹）賢士どの、これは馬武元帥がおんみを推挙されたのじゃ。老いぼれは何の功もござらぬ。
（正末が唱う）
【太平令】保奏をせしは朝廷におはします鄧禹どのかと思ひしかども、そもこれは馬武どののつとめて吹聴せられたるなり。ただ、常日頃、わたくしはかのひとと知遇なかりき。おそらくは天がわたくしに按排をせられたるらん。これはいかなる福なりやとひとりごちたり[64]。帝主のお蔭を蒙れば、万万歳に、民は安らかに国は富まれんことを望めり。
（鄧禹）賢士どの、おんみら一家は宮居を望んで跪き、聖上の御諚を聴かれよ。大漢は建武中興し、群盗は滅ぼされ、四海は安らか。雲台[65]の上では二十八将が、みな丹青に描かれている。元帥の鋼刀馬武は、賢士を推挙し、来京させて、そのものが、宜秋山にて、肥えているとて譲りあい、争って死のうとしたと申したが、かような節義は称賛するに値するもの。趙孝を翰林学士、弟の趙礼を御史中丞に封じよう。かれらの老母は今もなお賢徳を保っているから、有司に命じて家庭を表彰させるとしよう。さらに黄金千両を賜わって、薪水を援助して、とこしえに清名を耀かせよう。群臣よ、おのおの策励を加えて、聖代の恩典に負くでないぞ。
最終更新日：2010年11月10日
