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第二十四巻

 

長楽の怪事件
 福建長楽県の民間の婦人李氏は、年は二十五、一子を生んだが、六か月後に夫が亡くなったので、誓いを立てて孤児を育てた。家には一人の(はしため)、一人の老僕がいるばかり、このほかは親族といえどもたまに会うだけだったので、村人たちはみなかれを敬った。息子は年が十五になると、師について学んだ。
 ある日、李氏が朝に糸を紡いでいると、たちまち白衣の男が(とこ)の前に立った。驚いて怒鳴ると、男は走って(とこ)の後ろに没した。李氏は懼れ、(はしため)を部屋に呼び入れて伴わせた。昼になると、息子は外から帰り、母とともに昼食を摂ったが、頭を挙げると、白衣の男がまた(とこ)の前にいた。驚いて叫ぶと、男はまた走って(とこ)の下に没した。母は子に語った。「白衣の者は財神であると聞く。この家はご先祖さまが住んでから、今まで百余年、ご先祖さまが遺したお金があるのではないか」。(はしため)とともに(とこ)の下の床板を剥がしたところ、方卓ほどの大きさの青石があり、上に紅い緞子の銀の包みが一つ置かれ、中には白銀が五錠あった。母は喜び、その石を開けようとしたが、力が及ばなかったので、考えた。「埋蔵金を掘るときは、まず財神を祀るべきだ。おまえは市場に入り、(いけにえ)を買って祭り、その後で掘ってはどうだろう」。息子はすぐに銀の包みを持って市場に行くと豚の頭を買った。成約した後、銅銭を持ってこなかったことを思い出し、銀の包みを出して肉屋に与えると言った。「五錠を質にさせてくれ」。さらに布袋(ぬのぶくろ)に豚の頭を入れて帰った。
 県庁の前を通り掛かると、捕り手が尾行してきて、尋ねた。

「お兄さん、袋の中には何が入っているのです」

「豚の頭です」

下役が再三問いただしたので、息子は怒って袋を地に擲つと言った。「豚の頭でないなら、人の頭か」。嚢を傾けて出すと、人の頭で、鮮血が地に満ちた。息子は大いに恐れて泣いた。下役はかれを捉えて役所へ連れていった。息子は某肉屋から買ったことを告げた。肉屋を捕らえてくると、話すことは符合しており、銀の包みを差し出した。胥吏たちが手渡しして差し出すと、紅い緞子の風呂敷だったが、(つくえ)の前に来たときに開いて見ると、緞子の風呂敷は血染めの白布で、中に人の手の指五本が包まれていた。令は大いに驚き、息子をきびしく訊問すると、息子は本当のことを答えた。
 令がその家にみずから行って石室を開くと、中には首のない男、着物、履物はすべて白く、右の五本の指が欠けていた。頭と指を合わせるとぴったりであった。事情をあまねく追究したが、その情報を得ることはできなかった。そこで肉屋と息子を獄に繋いだが、懸案となったまま決着しなかった。これは乾隆二十八年の事であった。

焼包
 粤人[1]は七月の半ばに、紙銭を封じて焼くことが多いが、これを「焼包[2]」といい、それぞれが先祖を祀るのである。張戚は、もともと無頼で、大胆であった。その(しもべ)三児は、病に臥すこと一月あまり、七月十六日になると、たちまち(とこ)から起きあがり、走り出ていった。戚が追いかけると、城を出て、大河の側に行った。三児はぼんやりと立ち、頷きながらうわごとを言ったが、人と争っているかのようであった。戚がかれの頬を打つと、三児は言った。「下役に捕らえられ、人のために、包んだ紙銭を担いで運んでいたのです」。戚が「下役はどこにいる」と尋ねると、手で指して言った。「前方の浅い(みぎわ)に立っている者がそれです」。戚が見ると、高い帽、青い衣で、今の軍牢[3]p隸[4]のような姿をした一人の男が、手に(べん)[5]を執って指揮していた。戚が大声で叫んで捕らえ、一撃ちすると男は消えた。「包みはどこにある」と尋ねると、三児は言った。「家堂[6]の楼閣の上にありますが、わたしはひどく重いので担ごうとしなかったため、捕らえられたのです」。戚が家に帰って堂を開くと、紙銭の灰十包みがあった。

金銀洞
 高峰崖は広西思恩府城の南方百里にあり、二つの峰が壁立し、崖の上には「金七里、銀七里、金銀(ただ)七七里に在り」という十三文字が大書されていた。文字は遒勁で、何年に刻まれたのかは分からなかった。崖の下には土地祠があり、望気[7]する者はみなその地に金銀の気があると称していた。百十年間、土人は百方手を尽くして捜し求めたが、まったく得るものがなかった。星士[8]某は土地祠に行き、徘徊すること数日、神像を攫って去った。土人が追いつき、訊問したところ、像は金を鋳型に入れて作ったものであることが分かったが、「七七里」がどういう意味であるのかは分からなかった。
 崖の傍の峰は数十丈、上に銀洞があった。洞内には白銀が累累として、大きなものは重さが数十斤あった。土人は木組みを作って登り、それを拾ったが、百方手を尽くしても外に出すことができなかった。外に向かって擲っても、地に着くとすぐに消えてしまうのであった。犬を引き入れ、銀を犬の体に縛り、外に向かって牽かせると、犬はすぐに狂って吠え、出る時になると、体の銀もなくなっているのであった。

猫の(あやかし)
 靖江[9]の張氏は、城の南側に住んでいた。家の隅に(どぶ)があったが、ながいこと浚っていなかったので、長雨が止まないと、水が堂に溢れるのであった。張は竹竿で(どぶ)を通そうとしたが、入れること一丈ばかりで、竿を出すことができなくなり、数人で曳いても動かなかったので、泥にとられたのかと疑った。空が晴れてからふたたび持ち上げると、竿はすぽっと出てきたが、黒い気が蛇のように、竿に従って上ってきた。たちまち天地は暗くなり、緑眼の人が闇に乗じてその(はしため)に戯れた。交合するたびに、その陰は(とげ)のよう、痛くて耐えられなかった。張はひろく符術を求め、道士某が祭壇に登って懲らしめたが、黒い気が壇から上り、何かに舐められているかのよう、舌で舐められた処は刀で割かれたかのようになり、皮肉はすべて爛れたので、道士は狂奔して去った。
 道士はもともと天師に術を授かっていたので、やむを得ず、舟を雇って江を渡った。張は人をついてゆかせ、天師に救いを求めようとした。江の真ん中に行き、天上を見たところ、黒い雲が四方から起こったので、道士は喜んで拝賀した。「(あやかし)はすでに雷に誅せられました」。張が家に帰って見ると、家の隅で一匹の猫が撃ち殺されていたが、驢馬ほどの大きさであった。

馬が話すのを夢みること
 乾隆十八年、山東の高蔚辰[10]は河南延津県の知事をしていた。書斎で昼寝して、夢みたところ、一頭の馬が庭に突っ込んできて、立ちながら人の言葉を話したので、高が射ると、まさにその(むね)に中たり、馬は嘶いて逃げた。高が目覚めると、たまたま外で某村の婦人盧羅氏が夜に殺された、杭でその陰を突かれ、二人の子供も殺されたという報せがあった。高が検屍しにゆくと、傷は報せの通りであったが、下手人を追究する術はなかった。そこで夢みたことを思いだし、村々を回って点呼し、馬姓の者がいることを願った。点呼しおえても、いなかったので、尋ねた。

「外荘[11]に姓を馬という者はいるか」

「おりません」
 高は村の戸籍を閲覧し、しばらく沈思すると、姓を許、名を忠という者がいたので、たちまち考えた。「馬は午のことで、馬が立って言うのは、『言午』だ。まさにその(むね)に中たったのだから、『許忠』に違いない」。許を呼ぶと言った。「婦人を殺したのは、おまえだろう」。許は驚愕叩頭して言った。「仰る通りでございます。姦通しようとしましたが従いませんでしたので、殺しましたが、両指を女に咬まれて傷つけられましたので、怒ってその陰を突き、その子を殺したのでございます。ただ知事さまはなぜお分かりになったのですか」。高は笑って答えなかった。その手を見ると、血はまだぽたぽたとしていたので、処刑した。全郡の人々は神と思った。

蒋静存
 麟昌蒋君[12]は、字は静存といい、わたしと同館の翰林、詩は李昌谷[13]を好み、「驚沙[14]定まらず乱蛍[15]飛ぶ、羊燈[16]燄無く三更碧し」の句があった。生まれた時、その祖父が夢みたところ、異僧が『十三経』を担いでその門に擲ち、にわかに初孫が生まれたので、幼名を僧寿といった。長ずるに及んで、寿昌と名づけたが、国諱[17]を避けるため、わざわざ改名したのであった。さらに僧が麒麟一幅を描いて与えるのを夢みてからは、麟昌と名づけた。十七歳で孝廉[18]に挙げられ、十九歳で詞林[19]に入り、二十五歳で亡くなった。性格は傲岸不羈、目を通せばそれを諳んじ、「文章に関しては、わたしは袁子[20]の才を畏れ、裘叔度[21]を愛しているが、他の名儒沈帰愚[22]などは、仲間になるのは容易いことだ」といつも言っていた。亡くなった三日後、その遺児は三歳であったが、帳を開いて叫んだ。「お父さんが僧衣僧冠で帳の中に坐っている」。家人は争ってやってきたが、見えなかった。
 ああ。静存は結局僧を鴻爪の露としたが[23]、戒律のために輪回したかのようである[24]。しかしわたしがかれと語ったとき、仏法をひどく謗って深く和尚を憎んでいたのは、どうしてだろうか。

天妃神[25]
 乾隆丁巳、翰林周鍠[26]は命を奉じて琉球国王を冊立することになった。海を進むと、颶風が起こり、漂って黒い波の中に至ったが[27]、水の色は真っ黒、日月は暗かった。言い伝えでは、黒洋に入ると昔から生還した者はないので、船員と主人がともに悲しみ泣いていると、たちまち水面に万点の紅燈が見えた。船員は狂喜し、船室に俯伏して叫んだ。「助かりました。女神さまが来ました」。はたして高い髻に金の(たまき)の者がいたが、とても美しく、空中で指揮しているのであった。すぐに風は収まったが、人が舟を曳いて進んでいるかのよう、音は隆隆然として、たちまち黒洋を出たのであった。周は帰った後、天妃神廟を建てることを奏請した。天子はその従順なはたらきの霊妙さを嘉し、要請を受理した。この事は乾隆二十二年の邸報[28]に見える。

宿遷[29]の官署の鬼
 淮徐道[30]の姚公廷棟は、宿遷に駐箚していたが、封翁[31]の誕生日、堂上で劇を演じた。堂の傍の塀はとても高かったが、塀の外には数千の人の頭が見え、眼を睽睽然[32]とさせながら、みな観劇しにきた。はじめはp隸たちかと疑ったが、怒鳴っても去らず、近づくといなくなった。翌朝見ると、塀の外はすべて湖で、人が立つ場所はなかった。
 かれの幕友潘禹九は(しもべ)に命じて厨へ酒を取りにゆかせたが、(しもべ)は長いこと来なかった。捜すと、すでに地に倒れており、口と眼は青い泥だらけ、盤の酒肴の類は、蚯蚓や木の葉に変わっていた。潘はもともと鬼神を信じていなかったので、立ち上がると(しもべ)の行った処に行き、鬼神の有無を調べようとした。役所の二人の客は鬼の姿になり、こっそりと脅しにいった。潘が小さな燈に覆いをつけ、半分ほども行かないうちに、二人の客は、一筋の黒い気が提灯を繞って入り、燈の色が緑の蛍火のようになるのを見たが、潘は気が付いていなかった。二人の客はぞっとして、声を発しなかった。潘は厠へ行こうとしたが、大きな黒い手がかれの顔を蔽ったので、よろよろと急いで帰った。二人の客はかれを迎え、おたがいに驚いた。手に持っていた提灯はだんだんと重くなり、火もすっかり消えた。家僕たちがそれぞれ火を持って照らしにくると、提灯の中で野鴨一羽が死んでいた。鴨は大きく提灯は小さいが、どこから入り込んだのかは分からなかった。

広東の官署の鬼
 康熙壬戌の武探花沈崇美は広東守備であった。役所の裏の花園に井戸があり、水汲みはいつも同じように働いていた。
 とある晩、女が水を求めたので、水汲みが言われた通りに汲んであげていると、その頭を掴まれ、桶の中に入れられた。水汲みは役所の(はしため)がふざけているのかと疑い、(はしため)たちを罵った。(はしため)たちは言った。「そんなことはしていませんよ」。水汲みが水汲み場へ(はしため)を引いてゆくと、海棠が一本あり、白い鶏が群れを成していたが、樹の下に入ると見えなくなった。(はしため)たちは笑って言った。「鬼ではなく、蔵神[33]です。掘ればかならず金銀を得られますよ」。水汲みに命じて畚、鍤を用意させ、土を掘らせたが、五六尺足らずで、棺が現れたので、懼れて止めた。するとたちまち一人の(はしため)が発狂し、「主人を呼べ。主人を呼べ」と大声で叫んだ。
 沈公がその妻とともに見にゆくと、(はしため)は叫んだ。「わたしは嘉靖十七年の巡按某公の四番目の妾だが、正妻の苛めに遭い、縊れ死に、こちらに埋められたのだ。おんみの家の(はしため)たちはわたしに無礼なことをしたので、わたしはかれらの命を奪うべきだが、土地が浅く、湿っており、棺の中は水が多いから、ご主人がわたしを改葬するならば、掘った者は功績があることになり、その罰を免れるだろう。大堂[34]の西側に、生前に金の鈴を一つ、宝珠を幾つか埋めてあるから、掘りだして改葬の費用にすれば、ご主人のお金を費やすこともなかろう」。そう言うと、(はしため)は普段通り健康になった。
 主人がその棺を開いてやると、水はぽたぽたと流れんばかりであった。堂の西側を発掘すると、話の通りに鈴が埋められていたので、高い処に改葬してやった。鈴は重さが三両六銭、形は蒜苗(にんにく)のようであった。

息子となって金を請求すること
 葛礼部諱は祖亮[35]という者がわたしに語ったこと。その隣人の程某は、大金を持っていたが、子がなかった。晩年に男子を生んだが、資性聡明、眉目清秀であったので、程は掌中の宝のように愛していた。十二歳になると病むことが多くなり、費やした医薬は数知れなかった。やや長じると、生業に従事せず、闘鶏走狗を好み、財産を空しくしたので、程はたいへん怒った。ある日、先祖の画像を懸け、笞うとうとしたところ、息子はたちまち山東人の言葉になって言った。「わたしは呉某だ。前生でおまえに万両の貸しがあったから、今回やってきて、取りたてをほぼ終えたのだ。おまえはわたしが息子だと思っていたのか。大間違いだ。大間違いだ。昨日帳簿を見たが、まだ八十余両の貸しがあった。今でも譲ることはできんぞ」。衣を奮って進み出て、母の髻の上にある珠を取り、踏んで砕くと、死んでしまった。程は結局大いに貧乏になって血筋は絶えてしまった。

鬼の魂が棺を捜して主人に告げること
 姜静敷は京師の愍忠寺[36]に寄寓していた。寺の傍が書斎で、室内には空の棺があった。これは俗にいう寿器というもので、寺の隣家の某が、その父が老いているために置いているものであった。姜が月夜に読書していたところ、窓が轟然と大きく開き、棺蓋は上下に動いて止まなかった。姜が大いに驚き、燭を持って見たところ、人の指が棺の上に現れたり消えたりしているかのよう、しばらく響くと止んだ。翌朝、隣人が門を叩くと言った。「某翁が亡くなりましたので、棺を取りにまいりました」。そこで、死んだばかりの魂が、夜にさきに棺に入りにきていたことにはじめて気付いた。
 蘇州の唐道原が七十歳で亡くなると、その息子は棺を海紅坊[37]の寿器店で買ってあげることにした。主人は言った。「昨夜白鬚の男がわたくしの棺の上に坐していましたが、照らすと見えなくなりました」。その姿を尋ねると、道原にとても似ていたが、店の主人はもとより面識がないのであった。そこですぐに男が坐していた棺を買って帰った。
 金陵の戴敬咸[38]進士は、梅式庵とともに呉朱明孝廉の家で飲んだが、たちまち発狂し、梅の手を握ると叫んだ。「朱紅[39]のものが欲しい。漆を加えてくれ」。梅は愕然として理解できなかった。やがて息絶えたので、頼んだ物が、死骸を収める物であったことをはじめて悟った。
 程原衡の家の執事である李という者は、夜に酔い、楼から落ちて死んだが、家を挙げて気付かなかった。原衡は眠りから醒めると、左耳が異常に冷たいのを感じた。訝って振り向くと、燈の光が青く輝き、黒い男が息を耳に吹き込んでいたが、訴えることがあるようであった。驚いて起き、家僕を呼んで四方を照らすと、楼の下に屍があったので、李の魂が主人に納棺を求めにきたことがはじめて分かった。

扁額の(あやかし)
 杭州の孫秀才は、夏の夜に書斎で読書していたところ、頭がもぞもぞするのを感じた。払ったところ、万本の白鬚が(はり)の扁額の上から出ているのであった。そこには人の顔があり、七石の(かめ)ほどの大きさ、眉目は人さながらで、下を見ながら笑っていた。秀才はもともと大胆だったので、手でその鬚を扱いたところ、扱くほどに縮み、大きな顔が扁額の上に鎮座しているだけになった。秀才が(つくえ)(こしかけ)を載せて見たところ、まったく何もなかったので、ふたたび読書したところ、鬚は元通り垂れ下がってきた。このようなことが数晩続くと、大きな顔はたちまち几案(つくえ)に下りてきて、長い鬚を広げ、秀才の眼を蔽ったので、秀才は書を読むことができなくなった。そこで硯で撃つと、木魚のような響きをたてて、去っていった。さらに数晩経って、秀才が寝ていたところ、大きな顔は枕元に来て、鬚でその体を掻いた。秀才は眠ることができず、枕を持つと擲った。大きな顔は地を転がり、鬚はさっさっと音をたて、ふたたび扁額に上って没した。一家は大いに怒り、急いで扁額を外し、火に投じてやると、(あやかし)は絶え、秀才も及第した。

徐支手
 咸陽の徐某は、大金持ちであった。はじめて生んだ一子は、すこぶる聡明であったが、六歳で()[40]を病んで死んでしまった。すぐに三子を生んだが、(かお)はいずれも似ており、病むことも同じであった。徐はすでに高齢であったので、第三子が死んだ時、屍を撫でてたいへん嘆き、刀で子供の腹を剖き、その痞を出し、さらにその左腕を断つと、罵った。「二度とわたしを惑わしにくるな[41]」。その痞は形が三角で菱のよう、口があり、呼吸することができた。樹に懸けて、風に吹かせ、日に乾かしたが、油や生肉に触れるたびに、口をまだ動かすことができるのであった。一年足らずで、徐はふたたび男子を授かった。(かお)は前と同じで、痞は起こさなかったが、左手は不自由であった。今なお生存しており、人々は「徐支手[42]」と呼びなしている。

魚の(あやかし)
 会稽の曹山は市場に入り、大きな魚を買って帰ると、剖いて食らったが、半分を残して紗厨[43]の中に置いた。晩になると、厨房がたちまち輝き、部屋中がすっかり明るくなった。近づいて見ると、残した魚は鱗甲がすっかり明るくなっており、火の光は目を射た。曹が大いに驚き、盤に盛って河に運ぶと、その光は散じて水中に入り、波に従って揺れうごき、たちまち魚になって去った。曹が家に帰ると、家で火事が起こっており、東で消えれば西で起こり、衣服、器物、(とこ)(とばり)は焼けてすっかりなくなったが、建物には火が及ばず、およそ三昼夜を経てはじめて収まった。魚を食らった人も恙なかった。

盗賊の鬼の供述書
 先君子が湖広の臬司遅公維台の役所にいらっしゃったとき、同僚で大興の人である朱揚湖は銭穀を司っていたが、とある日に狂って叫んだ。走っていって見たところ、顔は死灰のよう、地に伏して気絶していた。生姜汁を飲ませると、しばらくして言った。「わたしはこちらに坐して文書を正していたが、正午に(ゆか)(レンガ)が響き、何かがゆっくりと(レンガ)を頂いて上がってきたのだ。鼠かと疑い、脚で践むと、(レンガ)も平らになった。しばらく坐していると、(レンガ)がふたたび響いたので、剥がして見たところ、一団の黒い毛、人の頭髪に似たものが、土中から上がってきた、陰気な風が人を襲い、上がるほどに大きくなった。まずは両眼が現れ、目を瞠って睨みつけ、さらに口、顎、腰、腹が露わになった。その黒さは漆のよう、頚の下は血でびしょびしょで、躍るように上がってくると、手を挙げてわたしの足を抱いて、言った。『こちらにいたか。こちらにいたか。わたしは前世では山東の盗賊で、法律では死ぬべきことになっていた。おまえは郯城県[44]の知県だったが、わたしの賄賂七千両を受け、弁護してくれることを約束した。しかし判決の時は、やはり死刑になったから、死んでも瞑目することはできぬのだ。今のおまえは生まれ変わりだが、仇にかならず報いるぞ』。そう言うと、すぐにわたしを牽いて地に入れようとした。わたしは大声で叫んだ。かれは客たちが来たのを見ると、わたしを捨てて逃げたのだ」。人々が(レンガ)の跡を見ると、まだそのままに剥がれていた。
 その後、その鬼が来ない日はなかったが、人がともに坐していると、来ないのであった。臬司の遅公をもっとも畏れており、遅公が来ると聞くと、頭を抱えて遠くへ逃げるのであった。公は(つくえ)の上に大書した。「悪鬼に尋ねる。おまえは盗賊をしていたのだから死んで当然なのに、法吏に仇をなそうとするのか。復讐しようとするのなら、前生で仇をなすべきなのに、今世(こんぜ)で仇をなそうとするのか。はやく供述書を調えろ」。鬼は夜にかれの側で墨書したが、歪んだ字で、「わたしは法吏に仇をなそうとはいたしませぬ。貪官に仇をなそうとしているのです。わたしは盗賊であったため、人を殺すことが多く、冥府の炮烙[45]を受け、数十年で、面目はすでに焦げた炭となっていましたが、刑を受けるたびにかならず叫びました。『わたしは死ぬべきでございますが、わたしを殺さないことを約束した者がおります。郯城県の某知事は賄賂七千両を受けました。罪を加えるべきでございませぬか』。叫ぶこと六十余年、はじめは受理されなかったが、このたび苦境はようやく終わり、わたしが手枷足枷を弛められ、復讐することを許されたのです。調えました供述書は事実でございます」と書いた。遅公はどうしようもなく、朝晩朱に伴うことができなかったので、大勢で守るように命じた。
 一月あまりして、遅公は誕生日に劇を演じた。客たちは酒を飲むことにし、朱に外出して観劇するように強いたが、朱は言った。「わたしは殺されようとしている人間だから、劇を看る気がしない。皆さんがわたしを憐れんでくれるなら、たくさんの家僕をわたしに伴わせてくれ」。言われた通りにし、宴が散じてから見にゆくと、朱はすでに(とこ)で縊れていた。遅公及び友人たちが家僕たちはどうして見張りしなかったのかと責めると、みな言った。「燈の下に一団の黒い気が吹いてきて、奴婢たちはみな眠ってしまったのです」。ある人は言った。「しもべたちは劇を看るのに耽っていたのです。朱に付き添っていたとは限りません」。

時文[46]の鬼
 淮安の程風衣は、道術を好み、四方の術士はみなその門下に集まっていた。蕭道士琬は、号を韶陽といい、年は九十あまり、冥府に魂を遊ばせることができた。
 雍正三年、風衣は晩甘園[47]で客と宴したが、蕭は席上酔って眠った。まもなく目醒めると、「呂晩村[48]は死んで久しいのに、禍があるとは、大いに奇妙だ」と叫んだ。人々が驚いて尋ねると、言った。「さきほど冥府に遊んだが、夜叉が一人の老書生を牽いてきた。鉄の鎖で縛られており、『時文鬼呂留良、聖学明らかならず、仏を謗ること(はなは)だ過ぎたり』と記されていた。おかしなことだ」。時に坐上の客たちはみな時文を諳んじ、『四書』の講義を習っており、もとより呂に敬服している者たちだったので、聞いても信じず、不平の色を浮かべた。まもなく、曾静の事件[49]が起こり、呂は棺を剖かれ、屍を晒された。
 蕭は今なお生存しており、厳冬友秀才[50]とともに転運[51]盧雅雨[52]の役所に寄寓している。わたしがみずから見たことだが、かれが酔った後に手の指を一本伸ばし、力のある者に命じて鋭い刃で切らせても、まったく傷つかないのであった。

鬼が人を弄ぶこと二話
 杭州の沈済之は、子供を教育することを生業にしていた。ある晩、夢みたところ金冠で髯のある者が言った。「おまえの裏庭に埋蔵金一甕があるから、掘りにゆくがよい」。沈は言った。

「どちらでしょうか」

「藁縄が結んであり、康熙通宝銭[53]一文が通してある、それが(しるし)だ」

翌朝庭に見にゆくと、藁縄があり、銭が縛ってあった。沈は大いに喜び、鋤を持って一丈あまり掘ったが、結局なかったので、怒って狂易[54](やまい)となってしまった。
 乾隆甲子、馮香山秀才が夢みたところ神が告げた。「今年の江南郷試の問題は『(がく)(すなは)韶舞(せうぶ)[55]だ」。馮は翌日すぐにこの問題で解答を作り、すっかり諳んじた。試験場に入ったところ、この問題であったので、かならず合格だと思っていたが、合格発表のときに名はなかった。広東で家庭教師をしていたとき、夜にひとりで歩いていたところ、二匹の鬼が咿唔[56]の声が聞こえた。聴くと、かれが試験場で作った文であった。片方の鬼が誦えると、片方の鬼は手を叩いて言った。「素晴らしいなあ。解元[57]の文は」。沈は驚き訝り、この前の試験の解元はきっと答案を切り取ってかれの文を盗んだのだと思い[58]、家庭教師を辞めて入京し、訴状を書いて礼部に訴えた。礼部は奏聞し、江南の解元薛観光を調べにいったところ、文は佳くなかったが馮の草稿ではなかったので、馮は誣告罪を得、黒龍江に流罪となった。

漢江の冤罪事件
 曹震亭[59]は漢江県[60]の知事となった。晩に役所で坐していると、首のない人が手に一つの首級を提げ、ちうちうと音をたてた。言葉はそれほどはっきりしていなかった。曹は大いに驚き、病み、三日で死んでしまった。家人は納棺しようとしたが、胸元はまだ温かかった。夜を過ぎると蘇り、語るには、隷卒によって冥府に引いてゆかれたとのことであった。見れば高い冠で南面している者がおり、本朝の衣服を着けていた。轅門の外で人が呼び出しをした。「漢江県知県曹学詩、入れ」。曹は人の世の属吏の礼を行い、上座に向かって三たび揖した。神は座席を賜うと、尋ねた。

「人がおんみを訴えているが、ご存じか」

「存じませぬ」

神は(つくえ)の上の牒詞を取ると曹に示した。曹が閲すると、自分の県の文書であったので、起立して言った。「この事件はもとより冤罪事件でしたが、前の令によって判決され、すでに部[61]に通知がなされていました。わたしは三度上申し、ふたたび訊問を加えることを求めましたが、都察院に反駁されました[62]。駁牌[63]は今も残っております」。神は言った。「それならおんみは罪がなかったのか」。怨霊某を呼び出して入らせると、陰風は颯然として、面目手足は見えず、一団の血の塊が叫び、跳ね、風に転がりながらやってくるのが見えるばかりであった。神は曹が救うことを申請してやったことを告げ、言った。「おまえの怨みはかならず雪がれよう。ほかに(かたき)を捜すべきだ」。鬼は地に伏して去ろうとしなかった。神は拱手して曹に向かって送る動作をし、手で隷卒に指示して言った。「はやく送れ。はやく送れ」。曹ははっと目覚めたが、知らぬまに汗は衣を潤していた。それからは官を辞し、家に帰り、ながく精進し、仏を信仰し、その一生を終えることを夢みたのであった。

控鶴監秘記二話
 『控鶴監秘記』は唐人張[64]の編纂したもので、京江相公[65]の曾孫である張冠伯の家に抄本数十頁があるが、ことごとく唐の宮廷の淫猥の事蹟を載せており、世に伝えられている『武后外伝』[66]にはまったく似ていない。そのあらましは、
 太后は懐義[67]を寵愛すること数年、懐義は驕恣無法となり、南衙[68]で馬を馳せていたところ、宰相蘇良嗣[69]に頬を打たれた。后はそれを聞いて遺憾に思った。ある日上陽宮[70]で酒盛りしたとき、落ち着き払って千金公主[71]に言った。「おまえは朕の左右に男がいないことが分かっているのか。そのために憂鬱なのだが、どうしたものか」。公主は頓首して言った。「わたくしは天皇(てんこう)さまにながいこと奏上しようとしておりましたが、天皇(てんこう)さまが仰りませんでしたので、わたくしがさきに言おうとはしませんでした。陛下はすでに小宝[72]の罪をご存じですが、臣がひそかに思いみますに、天皇(てんこう)さまはすばらしい聖仏で、人の世に転生なさっているのですから、広く男妃をお選びになり、公卿旧家の子弟で資稟の優れた者をお択びになり、牀笫(しょうし)の間[73]にお置きになれば、聖情を養い[74]、憂えを除くことができましょう。あのような市井無頼の徒を寵愛なさり、嫪[士毋][75]、曇献[76]の故事を演じ、千秋万世にわたり秦、胡両后に擬せられることはございません」。后は言った。「おまえが言わなくても、朕は分かっている。近頃宰相が懐義の顔を打ったのは、まさにかれが市井の小人であるのことを辱めたのだ。公卿の子弟で文墨に通暁した者を得れば、南衙は辱めようとしないだろう」。そう言うと嘆息した。公主は言った。「陛下はお嘆きあそばされませぬよう。陛下は太宗さまの時に鳳閣侍郎[77]張九成[78]がいたことをご存じでしょうか。その甥の昌宗は、年は弱冠(はたち)に近く、玉の(かお)、雪の膚、眉目は描いたかのよう、その風采はとても巣刺王妃[79]に似ております」。后は黙然と俯いて答えなかった。公主はにわかに進み出て跪くと、起きあがり、耳打ちした。「陛下にはあまりご心配なさいませぬよう。わたくしは昌宗の下半身も存じております。わたくしは凝碧池に別荘を設けており、春の花盛りの頃、駙馬はかならず賓客と宴し、宴がおわると(ゆあみ)を賜わります。(ゆあみ)する時、わたくしは琉璃の(ついたて)から窺いましたが、群臣で昌宗よりも優れた者はございません。昌宗は、全身が雪のようで艶があり、わずかな傷もございません。痩せても骨が張ってはいませぬし、肥えていても下腹が垂れてはいませぬ。その陰は頭が肥え、根が削れており、起っていない時は、垂れてもそれほど長くなく、鵝鳥の卵にそっくりです。雁首は盛り上がること五六分で[80]、鮮やかな紅色で、柔らかくつるつるとしています」。語っていると、太后は顔色を和らげ、ゆっくりと言った。「おまえは試したのかえ」。公主は言った。「わたしは試したくないわけではございませんでしたが、太后さまのために試そうとしなかったのです。しかし結局自信がございませんでしたので[81]、侍児を遣わし近づけました」。侍者を見返ると言った。「正直に天皇(てんこう)さまに上奏するのだ。恥ずかしがらずに」。侍者は跪き、起ちあがると、公主のように耳打ちし、上奏した。「わたくしがはじめて昌宗さまにお遇いした時は、南海の新鮮な荔枝のよう、口に入れれば、並外れて、つるつるとして柔らかく、(かりくび)は傘を広げたかのよう、三四回突かれますと、花蕊[82]はすっかり開き、神魂(たましい)は飛びました。昌宗さまは遅くするのも速くするのも、ご自分の意には従わず、やさしくわたくしの意に従いました。事がおわった後、紅玉[83]が萎えましたので、わたくしは触りましたが、体は今でもぞくぞくいたします」。太后は大いに喜び、公主を指すと言った。「おまえはほんとうに玄人だ。朕は、世俗の女は壮健を好むばかりで、温柔を選ばないと聞いていたが、これは田舎の婆さんの淫欲に過ぎぬ。そもそも壮健で長持ちするということは、薬の力でもたらすことができることだ。海外の慎恤膠[84]は、朕の宮中には一石ばかりあるが、使ったことはない。男陰の佳さは、すべて美しく柔らかいところにあるのだ。懐義めは、筋が肉に勝っており、蛮勇を事とするだけで、その時は満足するが、過ぎた後、朕の体は不調を覚える。御医沈南璆[85]は肉がやや勝っているが、上も下も同じようで[86]、皮被りだ。皮は(たる)んで、すこし(かりくび)を包んでおり、勃起しなければ剥けないので、時々不潔に感じられる。おまえの言う通りなら、完璧な人だ」。公主は退出すると、すぐに侍者に命じて昌宗を召させ、軽綃[87]霧縠[88]の衣を着せ、玉清雲仙の巾[89]を被せ、蘭芳[90](ゆあみ)させ、鶏舌[91]を含ませて宮中に入らせた。后ははたして大いに寵愛し、薛、沈たちがふたたび召されることはなかった。
 その当時、后は高齢であったが、養生術を学び、いつも昌宗の陰を含んで眠っていた。昌宗は亀頭が肥えており、后は口が疲れたが、絶対に放すには耐えなかった。后に児歯[92]が生えると、昌宗は苦しいと感じ、易之を薦めた。后は口で易之を含み、下半身で昌宗を受け、情はもっとも濃やかであった。易之は寵が昌宗に次ぎ、二人は交代で休暇を取った。家に帰るたびに、后は人に偵察させ、妻と一言を交わすことも許さず、楼に上ると梯を外すのであった。かれの母は憐れみ、人を壁間に置いてやったので、はじめて国忠を生んだ[93]。太后は昌宗を木の鶴に騎せ、子晋[94]の後身と呼びなした。さらに『三教珠英』[95]を編修するように命じ、控鶴監[96]に据え、学士の崔融[97]、宋之問たちと酬唱させた。之問はもっとも二張に諂い、溲瓶を持ってやったので、人々はかれを笑った。之問は言った。「おんみはこれがどんな小便だか知っているのか。わたしが婦人で、二張に遇ったら、何が名節なのかも分からないことになる。まして天后さまならなおさらだ[98]」。后は龍錦[99]千反を公主に賜い、言った。「朕は、古の公主は正しくないことを行うことが多かったと聞いているが、これは駙馬[100]を選んだ者の罪だ。これからは、画工に命じて昌宗の上下の体を描かせて(モデル)にし、(モデル)に合っている者を、はじめて駙馬に選ぶとしよう。そうすれば公主夫妻は仲睦まじくし、帝王の家に生まれたのも無駄ではなかったことになろう」。公主及び侍児、宮女はみな叩頭して万歳を叫んだ。中宗、睿宗はそれに倣った。当時、安楽公主[101]は驕奢であったが、武延秀[102]と恩愛がすこぶる盛んで、美男の侍従を持たなかったのは、すべて后の力であった。昌宗の妻は(かお)が醜かったが、后は宮中に召し入れ、一品崇譲夫人に封じ[103]、しばしば戯れて「夫人はどんな功徳を積んで、六郎どのに嫁ぐことができたのですか」と言うのであった。当時「一世は(かほ)を修めよ、二世は陰を修めよ[104]」という俗謡があった。
 まもなく、五王[105]が挙兵し、宮中に入って二張を誅した。屍は横たわったまま収容されなかったが、人民は怨み、肢体を切り刻んで粉々にした。宮女婉児は后の意を推しはかり、残骸の中から亀頭のかけらを拾ったが、紅くつやつやして生きているかのよう、手で持って后に献じた。后は泣いて言った。「六郎だ。契苾児[106]はこのようではない」。第一府[107]の白玉の盒子を選んで盛ると、言った。「朕の万年[108]の後は、これを殉葬するように」。
 上官婉児は祖父の儀[109]が罪を得たため、掖廷[110]に入れられたのだが、容貌は瑰麗、詩文に巧みであった。天后はかれを気に入り、側に侍せしめ筆硯を管理させていた。後に昌宗を寵愛しても、婉児を避けなかった。婉児は気が利いたので、昌宗に媚びて遠ざかると、后はたいへん喜んだ。しかし昌宗が小便するたびに、婉児は振り返り、思うことなしではいられないのであった。
 天后は将作大匠[111]于峽石に命じて昌宗のために庭園を造らせたが、屋舍はすべて黄金を(みち)にし[112]、白玉を階にした。后は珍しい香を焚き、真珠の帳に囲まれながら、昌宗を寵愛した。昌宗は酔うて眠ると、陰が軟かくなったが、后はふざけて、茎の皮を引いて亀頭に被せようとしたが、雁首が高かったため、皮はつっかえて被せることができなかった。にわかに屹立すれば、根元は固いが、亀頭の肉は肥えて厚く、綿の球を集めたかのよう、色は芙蓉のよう、捻ると精管がないかのようであった。后は感嘆した。「人の心もとろけさせる」。婉児は心が動き、裙の下をすっかり湿らせ、思わず手を昌宗に近づけた。后は大いに怒り、金の刀子を取ってその髻に挿すと、言った。「禁臠[113]に近づこうとするとは、罪は死に値しようぞ」。六郎が哀願してやると、はじめて免れた。しかし額には傷痕ができたので、宮中ではつねに花鈿[114]を戴いていた。
 吏部侍郎崔G[115]は、才貌があり年少であったが、婉児にひそかに侍していた。婉児は外舍[116]を持っており、亭台[117]の勝を極めていたが、かれを招いて公然と淫事を行った。かれはまず武三思に通じ、後にGに通じたのであった。Gは尋ねた。

「廬陵王[118]さま、三思さまはいかがですか」

「廬陵王は雁首が汚く、韋皇后さまは、哀家の梨[119]を食らっても、皮を削らなければ、味を知ることはできないとお笑いになっている。三思さまはもとより良いが、肉が薄い嫌いがある」

「二人のお后さまが男を選ぶときはどのようなやり方をなさるのですか」

「陰が巨きくても、皮や筋が勝る者は選ばない」

「それはなぜですか」

「人の体で、舌は皮がないので、味を知り、踵は皮が厚いので、地を履むのだ。女陰は繊細な膜で、微妙さは天生のものだ[120]。男の陰も、皮を除き、膜を留め、とても柔らかい処を選んでこれと合わせる、さらに雁首に、これをさすらせる。幼いときは蕊に含まれているが、長ずると茎が剥けてくる[121]。柔らかいものを柔らかいものに当てるので、氤氳化醇[122]の楽しみがあるのだ。さもなければ、皮を付け、汚れを帯び、進んでも退いても索漠として[123]、一重の(よろい)を隔てているかのようだ。天后さまは男を寵しおわっても、亀頭を子宮から離すことをお許しにならない。馮小宝は頑健だったが、亀頭が鋭いために離れやすかった。六郎は(かりくび)が肥えており、新鮮な(きのこ)か霊芝のよう、射精しても、亀頭はなお子宮に満ち、長いこと脱けず、歓情と愛情は、有り余って尽きないのだ。六郎が寝所に侍すると、后は衰えていらっしゃるにもかかわらず、仙液[124]は重ねた衾に染み通っているのだ」

Gは言った。「昭容さまがそう仰るなら、天下で優劣があるのは、男だけではございません[125]。わたしは若くして官位を忝うし、婦人に悦ばれ、交わったものは大勢ございましたが、下半身はほんとうに辛うございました[126]。しばしば交わることはあっても親しむことはなく[127]、ぼんやりとして、瞽人(めしい)が井戸に身投げして、どこへ行くかが分からないかのようでした[128]。その時はいたずらに精力を消耗し、余味は乏しく、天下の婦人はみな同じだと思っていました。昭容さまの恩寵を蒙ってから、西子[129]、毛嬙[130]が六宮[131]で寵を専らにしたのには、きっと特別に人に勝る処があったのだということがはじめて分かりました。昭容さまは花心[132]が美しく、交わったとき、亀頭の柔らかい処に触れますと、醍醐灌頂[133]のように感じられ、毛髪がすべてぞくぞくいたします。手で昭容さまの肛門を押さえたときに、ひくひくと動いていますと、射精しそうになりますので、体を揺らそうとはいたしません。肛門が動くのが収まった後、ご意思を伺い、いつも昭容さまの歓心を得ているのです。わたしも昭容さまの湛露の恩[134]を蒙り、深く含み、細く吐き[135]、山沢の気は交わるのです[136]。翌日朝廷に上がるときは、疲れを感じませんでした。想うに世間の男はさっぱりとしたのを喜び、女は長いのを好みますが、いずれも乞食のようです。豚の脂三斗を食らい、奢りを窮め、欲を極めると言いますが、ほんとうに初世の人でございます[137]」。昭容は笑って言った。「あなたの言うことはとても愉快です。しかし趣を知るのはとても難しいことです。男女の交接は、(かぎ)を錠前に入れるようなもので、それぞれよしとするところがあるのです。聞けば劉妃[138]の陰には横骨[139]があり、鋭く強くない者は子宮に入れることができないとか。あなたは亀頭が柔らかいですから、もし交われば、たいへん苦しいことでしょう。天后さまは『肉が厚ければ進むときが佳く、(かりくび)が高ければ退くときが佳い』と仰いますが、ほんとうに玄人の言葉です」。親しく語っていると、安楽公主が駙馬の武延秀を擁してやってきたが、話をかなり聞いていた。公主は駙馬の袴を剥ぐと、その陰を手にして自慢した。「これは崔どのと比べてどうかえ」。昭容は言った。「まるで六郎さまのようで、崔さんどころではございません。これはひとえに天后さまが婿を選んだおかげですから、お忘れになってはなりません」。その晩は心ゆくまで飲み、抜河戯(つなひき)を見た。翌日は中宗の誕生日だったので、昼になるとはじめて朝賀した。
 その時、Gは昭容に通じ、三思に附いていたが、韋氏はかならず亡びると悟り、ひそかに臨淄王[140]に附いた。王が挙兵して韋后を誅したとき、婉児は提灯を持って迎えにきたが、やはり軍旗の下で斬られた。Gは同平章事[141]であったが、救うことはできなかった。侍郎張説[142]は子の均[143]に昭容の屍を収容させ、手厚く葬り、昭容の号に復し、その文集を編序することを奏請したが、人々はみな説を多としてGを憎んだ。

牛が命乞いすること
 天台県令の鍾公醴泉がわたしに語った。その父君は貴州大定府の太守で、部局を設けて鉛を採掘していた。正午、たちまち牛が鉛廠[144]に突入し、数十人が鞭うっても、去ろうとしなかった。醴泉が見にゆくと、牛は地に伏して叩頭していたので、牛を牽く者に尋ねた。

「これは耕牛か。肉牛か」

「肉牛でございます」

「値は幾らだ」

「七千[145]でございます」

鍾は言った。

「牛をわたしにくれれば、代価をおまえに与えるが、どうだ」

牛を牽く者が礼を言い、銅銭を受け取って去ると、牛は蹶然と起きあがった。

豚が命乞いすること
 奉天錦州府の南に天橋廠[146]があり、海港で交易をする処である。肉屋が一頭の豚を縛り、殺して市場に入ろうとしていた。その豚は隙に乗じて縄を齧って断ち、船乗りの前に奔ってゆき、両足を曲げて地に伏した。肉屋が縄を持って追ってくると、船乗りは豚の市価を尋ね、金額通りに渡し、豚を海会寺の龍神廟に住まわせた。人々が「豚道人どの」と呼びかけると、豚は「どうしてご無礼できましょう[147]」と答え、かならず前の両足を曲げ、人に向かって叩頭するのであった。牙は長さが数寸、脚の爪は丸まっていて(たにし)のよう、その大きさは普通の豚に倍していた。

張世犖[148]
 張世犖は字を遇春といい、杭州府の諸生であったが、試験場に入るたび、人がその答案を手にとっているようであった。朝になると、墨で汚されているために、不合格にされていたので、積憤はとりわけ甚だしかった。
 乾隆甲子科[149]で試験場に入ると、十分に用心していた。試験答案を清書し、晩になると、別の場所にしまい、号房[150]に坐して注意して伺っていた。見ると一人の女が手を伸ばして答案を探ったので、急いで手を執ると、声を荒げて尋ねた。

「わたしに何の怨みがあって、七たびの試験でわたしの答案を汚したのだ」

「今年あなたは解元に合格することになっています。わたしも天帝さまの命令に背くわけにまいりませぬ[151]。ただ、あなたはわたしのために、前言について説明し、土地を択んでわたしを埋め、怨みを解くべきです。わたしはあなたの向かいの両替屋の娘です。むかし隣人が戯れにあなたがわたしと密通したと言ったとき、本当は密通していなかったのに、弁明せず、色男をもってみずから任じ、なかったことをあったとし、嘲りの種にさせました。嫁いでから、夫は流言を信じ、わたしと同居しませんでした。わたしは弁明する術がなく、怒って首を吊ったのです。あなたはわたしの名を汚したので、わたしはあなたの答案を汚したのです。あなたが七回落第したのは当然です」

そう言うと見えなくなった。張は毛や骨までもすっかり震え、試験場を出ると、すぐにかれの家を訪ね、事情を告げ、資金を出して埋葬を援助し、僧を招いて追善してやった。その試験の合格発表があったが、第一名に合格していた。

洗心池
 洗心池は茅山[152]乾元観[153]の西にある。石の壁には「洗心池」の三字が記されており、筆法は遒勁であるが、隠れていて見えない。見ようとすると、池の水に浸かり、大旱魃でも涸れることがないのである。言い伝えでは銭妙真[154]が燕洞宮[155]に独居して修煉していたとき、ある人がかれを謗ったが、ここで腹を刳り、(しん)を洗って示したので、こう名づけたという。

活死人の墓
 道人江文谷は洗心池の傍に小さな(おか)を築き、石を積み、窓を塞ぎ、中で趺坐していたが、その弟子に頼んだ。「毎日窓に向かってわたしを呼べ。返事すればそれでよし。返事しなければ入って遺蛻(ぬけがら)を収めろ」。三年間呼んだところ、かならず返事があったが、とある日「厭になった。わたしは去るぞ」と返事した。その後は返事しなかったので、石を開けて見たところ、屍が硬直していたので、活死人墓と称した。

建物が傾くのには(さだめ)があること
 総憲[156]金公徳瑛[157]は江西で視学し、吉安府の童生を試験した。五鼓に点呼がおわると、燈の下、紅衣の婦人が考棚[158]から走り出て、ゆっくりと空に騰がって去った。僕や隸卒に尋ねると、みなそれを見ていた。公は嫌に思い、すぐに『中庸』の「必ず妖孽有らん」の四字を問題にした。正午、諸生が筆を執っていると、たちまち考棚が傾いて倒れ、三十六人が圧死した。金公が事実を奏聞すると、聖上は憐れみ、全員に生員を欽賜した。
 わたしの親家[159]史少司馬抑堂[160]が福建の臬使[161]に任ぜられていた時、糧道[162]の王介祉たち四人とともに花庁[163]に坐して会議していたところ、梁の上や家の隅がしゃあしゃあと音をたてた。客たちは起って逃げようとしたが、史公は許さなかった。やがて音はだんだん大きくなり、鼠が何度も「出出(ちゅうちゅう)」と叫んだ。史も心が動き、急いで四人の客とともに外に出たところ、花庁は倒れ、几案はすべて砕けた。その日、省城の府県知事がみな安否を問いにくると[164]、史公は笑いながら言った。「もしも四人の大官が一時に命を失えば、司道[165]の印は、皆さんが代理を委ねられることになるのではございませんか[166]」。

沔布十三匹
 杭州の胡某は、程九峰中丞[167]の表姪[168]であった。中丞が湖北を巡撫したとき、胡は住み込みの職を求めにいったので[169]、中丞は荊州刺史某の役所に推薦してやり、書記の仕事を司らせた。半年後、胡の妻は家で瘧を病み、たちまち鬼に附かれ、声は男のようになった。聴けば、その夫で、「湖北に来た後、中丞さまに推薦していただき、荊州に行き、賓主は仲良くしていたが、二か月足らずで病気に罹って死んでしまった。衣裳箱の荷物があり、あらたに買った沔陽の布十三匹が、現在役所にあるから、人を遣わして取りにゆかせるべきだ。わたしは客死したために飢え凍えているから、位牌を供えてわたしを祭り、ひろく名僧を招いてわたしを済度するべきだ」と称した。家人はそれを聞くと取り囲んで泣き、すぐに喪服を作り、位牌を立てたga,死んだ月日は分からないので、訃を報せるわけにゆかなかった。
 まもなく、妻は病が癒えた。家はもとより貧しかったので、人を遣わして楚に行かせ、遺骸を迎えようとしたが、路銀がなかったので、何度も先延ばしになった。まもなく、胡が故郷に帰ったので、家を挙げて愕然とし、鬼かと思った。坐して話すと、以前憑いていたものは、邪鬼が名を借りて食を求めたり済度を求めたりしていたものであることがはじめて分かった。まもなく、衣裳箱が門口に着き、開けると、布十三匹があったが、たしかに胡が沔陽を通った時に買ったものであった。

牛卑山の年越し
 広西柳州の牛卑山は、形は女陰のよう、粤人は陰を卑と呼ぶので、牛卑山と称しているのである。除夜になるたびに、かならず男女十人が山を見守りながら(あさ)を待つが、ある者が慎みを怠ると、人々によって戯れに竹木で撃たれる[170]。その年は県内の婦人がすべて淫奔になるのであった。県令某は山を嫌い、里保[171]に命じて土の塊で塞がせた[172]。その年、その県の婦女は小便が出なくなり、前も後ろも排便することができず、死者さえ出たのであった。
 広東の沙面(シャメン)[173]には妓船[174]が雲のよう、河泊大使[175]が船舶に関する行政を掌管していた。総督某が妓船をきびしく禁ずると、すぐに海水は漲り、城壁は没せざること三板というありさまであった[176]。地方の郷紳、商賈はみな意見し、禁令を撤回させてみたところ、禁令が撤回されると水は退いた。今でも妓船はますます多くなっている。

鬼が風を拝すること
 銭塘の孫学田は、温州城内で塩屋を開いており、友人の銭暁蒼ととても親しく交際していた。銭は三間の楼を持っており、すこぶる厳重に封鎖していたが、言い伝えでは鬼がいるので、人は住もうとしないとのことであった。孫はもともと大胆であったので、仲間と賭けをし、楼の上に(とこ)をしつらえ、大きな蝋燭二本を点し、行って泊まることにした。
 夜の二鼓、門を推す音がし、(あで)やかに装った女がゆっくりとやってきた。蝋燭の光を見ると、畏れているかのように、襟を正して再拝した。俯くたびに、陰風がその袖から生じ、一本の蝋燭は消えてしまった。孫が剣を擲つと、鬼は楼を駆けおりて去った。孫は鬼がまた来たら、恃みになるのは蝋燭だけだということが分かったので、消えた蝋燭をふたたび点し、みずから蝋燭を擁して坐した。鬼ははたしてまた来ると、ふたたび拝礼し、孫が上座に着いているのを見ると、退こうとしたり進もうとしたりした。孫が剣を擲つと、鬼は凶悪な形相に変わり、進み出て格闘し、おたがいに掴みあって止めなかった。しかし突然楼の外で鶏が鳴くと、一団の黒い気に化して楼を転がりおりた。温州の人々は言った。「人は拝して身を曲げる、鬼は拝して風を生む。だが孫老に逢うた日にゃ、鬼よりさらに凶悪だ」。

僵屍(キョンシ)が夜は肥え、昼は痩せていること
 兪蒼石先生[177]が言った。およそ僵屍(キョンシ)の夜に出て人を攫うものは、(かお)が豊満であることが多く、生きている人と異ならない。しかし昼にその棺を開くと、枯れて痩せて屍臘のようになっている。これを焼くと、ちうちうと音を立てることがある。

黒雲劫
 王師が緬甸(ミャンマー)を征したときのこと、昆明県のp隸葉某は、死んで三日後に甦り、鬼卒によって捕らえられ、冥府に赴かされたと言った。そこには大きな御殿と朱塗りの門があり、王者の住まいのよう、門の外にはたいへん多くの官吏が坐していたが、みな一冊の帳簿を手にし、判決したり記録したり、とても忙しくしていた。判決がおわると、一団の黒い気が、帳簿の上を覆ったが、腰を叩いたり、顔を蹙めたりしながら、疲れたとみずから称している者がいた。葉は寿命が尽きておらず、死ぬべき運命ではなかったので、釈放、送還された。
 途中ひそかに鬼卒に尋ねた。

「役人たちが手に執っていたのは何の帳簿ですか」

「人簿が三冊、獣簿が五冊だ」

「どうして帳簿があるのですか」

「昔から人の世の征戦に関しては、天上で災難が前もって定められており、挽回することはできないのだ。一切の死ぬべき者は、みな前もって黒雲劫簿に書き込まれており、一頭の(らば)、一頭の馬さえも、誤りはない。所詮、獣は多く人は少ないので、その帳簿は『人三獣五』だと言われている」

「この災難に遭う者に、省城の某官はおりますか」

「第一名がおまえたちの総督だ」

その時の滇南[178]総督は劉公藻[179]、丙辰鴻詞[180]の翰林であったが、後にみずから(くびは)ねた。

金秀才
 蘇州の金秀才晋生は、才貌ともに清雅であったので、蘇春告i士はかれを気に入り、招いて婿にすることにし、結婚の日取りが決まっていた。
 金が夜に夢みたところ、紅衣の小間使いがかれをとある場所に引いていった。房舍は精雅、もっとも奥に円い洞門[181]があったが、小間使いはそれを指して言った。「こちらは月宮ですが、お嬢さまがながいことお待ちしています」。にわかに一人の麗人が盛装して出てくると「秀才さまはわたしと夙縁がございましたのに、わたしを捨てて他家と結婚なさるのですか」と言った。金は「とんでもありません」と言い、手を携えて寝に就き、とても仲睦まじくした。その後、毎晩かならず夢み、歓楽はつねに倍していたが、容顔は日々に衰えた。家を挙げて大いに懼れ、すぐに結婚させた。蘇の娘も容色が優れていたので、秀才は夢の中の人と同じように愛した。その後、夜、酉の刻、戌の刻の前は蘇氏と交わり、酉の刻、戌の刻の後は夢の中の人と交わった。しばらくすると、何が(まこと)で、何が夢であるか分からなくなってしまった。その父は百方手を尽くしてお祓いしたが、結局(しるし)がなかった。体はもともと弱かったので、痩せこけて一年たつと、労咳となって亡くなった。
 夢の中の女と唱和することはたいへん多かったので、すべてを記録することはできない。『金郎に贈る一絶』のみを記録すれば、「佳偶(あに)(たず)ね易からん、郎を奪ふは彩を奪ふが如し[182]幸虧(さいはひ)手を下すこと強ければ、先を争ひて快を為すを得たり」。

董観察
 董観察は名を榕[183]といい、贛南道[184]で役人をしていた時、所属する上猶県の某村ではむかしから鉄砲水に田地、家屋を押し流されていたが[185]、公は計画を立て、水路を開き、水を江に引き入れてやったので、住民たちは安堵した。さらに仏寺を改めて濂溪書院にし、規模を一新した。
 まもなく、太夫人が亡くなると、哀しんでひどく体を損ない、身をもって殉じようとした。棺を守って故郷に帰るとき、滕王閣[186]の下に着くと、舟を繋いで弔問を受けたが、大官はみずから慰めにきた。観た者で董公は真の孝子、真の良吏だと言わない者はなかった。翌朝、纜を解こうとすると、たちまち家僕たちが驚いて観察を捜したが、見付からなかったので、土地の役人に急報した。江に沿って引き上げようとしたが、まったく姿がなかった。一昼夜を経ると、屍は流れに逆らって豊城県の川岸に着いていた。検視すると、まだ白衣麻帯[187]で、面目は生きているかのようだったので、納棺して舟の中に運んでいった。
 一月あまりして、公の旧僕某がたまたま上猶に行ったところ、土人は公が水路を開いた恩に感じ、廟を建てて公を祀ったことを告げた。僕は欣然と廟の中に走ってゆき、神像を拝したところ、公の面目さながらであった。像を立てた時日を問うと、公が水に落ちた晩であった。

狐仙が帳簿を点けること
 和州[188]の張某は、揚州に旅し、興教寺に寄寓した。寺中の僧舍には、昔から狐仙がおり、住もうとする人はいなかった。張は性格が磊落であったので、行って住んだ。三日足らずで、一人の翁が、呉剛子とみずから称して面会を求めた。揖してともに語ったところ、風采はすこぶる奇異、過去未来の事を知ることができた。そこで尋ねた。

「仙人でしょう」

「恐れ入ります」

張はもとより貧士であったので、交際し、富貴を得ようとし、酒食を設け、いっしょに酒宴したところ、呉も返しの宴を開いた。
 半月足らずで、張は資力が尽きたが、呉は酒肴がたいへん豊富であった。張は貪欲な心を起こし、ひねもすその宴を設けてくれと纏わりついた。呉は主人(ホスト)となり、吝嗇な素振りは見せなかった。このようにすること一月あまり、呉は突然来なくなった。時に梅雨だったので、張が箱を開け、衣を干そうとしたところ、すべての箱が空になっていた。中には帳簿と、質札数枚があった[189]。某日の鶏魚幾ばく、某日の蔬果幾ばくは、すべて張の衣服を質入れすることによって、一つ一つ支弁したもので、一席たりともただで設けたことはなく、一文さえもみだりに費したことはないのであった。

皮蠟燭
 上虞[190]の銭という者は、人のために傭工となっていた。夜に帰宅するとき、女が路で哭いていたので、そのわけを尋ねたところ、言った。「夫が亡くなり、身を寄せるところがございません。実家は夏蓋山[191]にありますが、急に路に迷いましたので、案内してくださいますようにお願いします」。銭はかれに冗談を言い、いっしょにとある家に行き、夫婦の楽しみをなした。このようにすること数か月、主人は銭の(かお)が日々憔悴してゆくのを見、再三銭に尋ねたので、銭はそのわけを語った。主人は言った。「それは鬼です。今度交わる時に、かれの物を取って調べるべきです」。銭は言われた通りにし、いっしょに笑っているときに、女の髪の毛一束をひそかに剪ったが、女は大いに驚いて走り去った。銭は居た場所をじっくり見ると、まったく家はなく、かれが女と淫した処では、精が蟹の洞窟に流れ、すべて血になっていた。髪は蝋燭のようだったが軟らかく黒い牛皮のよう、刀で斬っても火で焼いても壊われなかった。それからは門を出ようとせず、主人の家に隠れていた。
 まもなく、鬼は主人の家に入り、その(はしため)の身に附いて騒いだ。「銭さんを還せ。還さないなら、銭さんをおまえの家に引き渡し、しばらく去るが、来年捉えにくるとしよう」。そして言った。「今秋おまえの寿命が尽きる時、禍を降しにこよう」。期日になったが、(しるし)はなく、銭は今なお生存している。この事は台州[192]の張秀墀がわたしに語った。

乍浦[193]の海の(あやかし)
 乾隆壬辰八月甘三日、夜明けに激しい風雨があったが、平湖[194]、乍浦の海浜に(もののけ)が突如現れ、東南から西北に行った。通り過ぎたところでは、木が抜かれること万をもって計え、民家の屋根瓦は多くが破砕せられた。その真ん中には、円卓ほどの大きさの足跡のようなものがあったが、何なのかは分からなかった。某家の庁房(ひろま)は一尺ばかり移動していたが、倒壊してはいなかった。

天が眼を開くこと
 平湖の張坡は、ある日たまたま庭にいた。空には一片の雲もなかった。突然、ばりばりと音がし、天に裂け目ができたが、中央は闊く、両端は小さく、形は舟のようであった。睛は光がちかちかとして、丸くて車軸のよう、輝きは庭に満ち、しばらくすると閉じた。識者は、これは天が眼を開いているのだと言った。

泥の像がみずから歩くこと
 平湖の張家は、代々蒹葭圍[195]に住んでいた。はじめて移住してきた先祖は名を迪、字を静庵といい、明の洪武年間の人であった。歿した時、その家は泥で静庵夫婦の二像を造ったが、高さは七八寸、家廟の中に祀られ、像が置かれている建物は長男の家に帰属していた。四百余年を経て、長男の家の子孫は貧しくなり、建物は傾き、数間が残るだけであったが、その像はまだあった。
 張家には昔から宗祠があり、静庵の旧宅から三里ばかり離れていた。ある日の夜明け、村人で舟を操る者のところへ、二人の老人が渡し船を雇いにきたので、載せていったが、「どちらへお往きになるのですか」と尋ねると、「張家の祠堂だ」と言い、岸に上がると、飛ぶようにはやく歩いた。船員が眺めると、体はだんだん小さくなった。まもなく、祠の前に着いた。祠を守っていた僧は門を叩く音を聞いたので、起きて見たところ、寂然として誰もおらず、二体の塑像が門樞の下にあるばかりだったので、すぐに驚き、奇妙なことだと思った。その裔孫張舟九は祠を修築し、彩色を加え、あらためて厨子を作り、祠に祀った。

屍を焼くこと二話
 平湖の南門外にある某郷で三つの墓が発掘された。二つの墓はすでに空であったが、真ん中の墓は棺が残っており、(レンガ)には「趙処士の墓」と記されていた。屍は年が四十ばかり、(かお)は生きているかのよう、雲履[196]を穿き、蟹青[197]の紬袍[198]を着けていたが、紬は銅銭ほどの厚さで、腐っていなかった。発掘した馬某は棺をひっくり返し、その屍を出して焼いたが、火は盛んにならなかったので、水に投じた。その夜、鬼は大声で哭いたので、村じゅうがみな驚いた。物好きが残骸を引き上げてやると、血は縷縷として注ぐかのよう、棺の中に納め、土を加えて葬ったところ、その晩は平穏であった。馬は今でも恙なく、典史[199]のp役[200]をしている。
 平湖の小西溪の西に住む蒋という者は、農民であったが、冬至の一日前、日が西に傾く頃、父の屍を焼こうとした。棺を開くと、屍が走り出たので、追いかけた。蒋が鋤で撃つと、屍は地に倒れたので、焼いた。晩に帰ると、その父は罵った。「おまえに焼かれてとても苦しい。どうしてここまで不孝なのだ」。その人は頭が(ひさご)のように腫れ、(ひる)になって死んだ。これは張熙河[201]が目撃したことである。

美しい人魚と人面の豚
 崇明[202]で美しい人魚がすくいあげられたが、(かお)は女で、体は海船と同じ大きさであった。舵取りが「路に迷ったのか」と尋ねると、頷いたので、放ったところ、洋洋として去った。
 雲棲[203]の放生処[204]には人面の豚がいた。平湖の張九丹先生が会おうとすると、豚は人と会うことを羞じ、頭を下げ、引くとはじめて顔を合わせたのであった。

花魄
 婺源[205]の士人謝某は、張公山で読書していた。朝起きると、樹林では鳥の声が啁啾としていたが、鸚哥のようであった。近づいて見たところ、それは一人の美女、身長は五寸ばかり、裸で毛がなく、全身は潔白であること(ぎょく)のよう、眉目には愁えと苦しみを湛えていた。そこで連れ帰ったが、女は懼れるそぶりを見せなかったので、籠の中で養い、ご飯を食べさせた。人に向かってくだくだと語ったが、まったく理解できなかった。養われること数日、太陽に照らされると、枯臘[206]となって死んでしまった。洪孝廉字麟はそれを聞くと言った。「それは花魄といい、樹で三たび人が縊れ死んだものは、その怨み苦しみの気が結ぼれてこの(もののけ)となるのだが、水を注ぐと、また活きることができるのだ」。試すとはたしてその通りであった。里人で見物しに集まってくる者は、雲のようであった。謝は噂が広まることを恐れ、樹の上に運んだが、まもなく、一羽の大きな怪鳥がそれを銜えて飛び去った。

 

最終更新日:2007324

子不語

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[1] 広東人。

[2] 葉大兵等主編『中国風俗辞典』七百五十三頁に「焼包」という風習を載せるが、これは雲南地区の漢族の風習で、七月中元節の前に、金紙銀紙で紙を作り、「慎終追遠」と書かれた白い紙袋に入れて焼くもの。先祖の霊を迎えるために行う儀式という。

[3] 軍警。

[4] 役所の下役。

[5] :『三才図会』。

[6] 先祖の位牌堂。

[7] 雲気を望み見て吉凶を判断すること。

[8]星命術士。

[9] 江蘇省の県名。

[10]高蔚宸。膠州の人。乾隆十年の進士。

[11] 未詳。村の飛び地か。

[12] 陽湖の人。乾隆四年の進士。

[13] 李賀。中唐の詩人。昌谷は号。

[14] 「驚」は「乱」に同じ。乱れる砂。李白『古風』「驚沙乱海日、飛雪迷胡天」。

[15] 乱れ飛ぶ蛍。梁簡文帝『秋型夜思』「初霜隕細葉、秋風駆乱蛍」。

[16] 『漢語大詞典』は羊の形をした紙製の提灯とする。ただ、羊角灯の可能性もあるのではないか。羊角灯は羊の角を煮て柔らかくし、拡げたものを覆いとした灯火で、硝子が普及する前に用いられていた。馮其庸等主編『紅楼夢大辞典』百八十二頁参照。『儒林外史』第十二回、『紅楼夢』第七十五回などに出てくる。写真画像元ページへ

[17]未詳。国諱は皇帝の諱だが、乾隆朝以前の清の皇帝で諱に「寿」「昌」の字がある者はいない。

[18] 挙人。郷試の合格者。

[19] 翰林院。

[20] 袁枚。

[21] 裘曰修。新建の人。乾隆四年の進士。

[22] 沈徳潜。長洲の人。乾隆四年の進士。

[23] 原文「靜存終以僧為鴻爪之露」。「鴻爪之露」は未詳。とりあえずこう訳す。「鴻爪」は雁が雪や泥にしるす足跡。転じて残された痕跡のこと。ここでは蒋静存が僧になったことを指していよう。蘇軾詩『和子由澠池懐旧』「人生到処知何似、応似飛鴻踏雪泥。泥上偶然留指爪、鴻飛那復計東西。老僧已死成新塔、壊壁無由見旧題。往日崎嶇還記否、路長人困蹇驢嘶」に基づく言葉で、「鴻爪留泥」「鴻爪雪泥」ともいうが、「鴻爪之露」という言い方は未詳。

[24] 原文「其為戒律輪回似矣」。未詳。とりあえずこう訳す。

[25] 天妃は海神の名。『元史』祭祀志五・名山大川忠臣義士之祠「凡名山大川、忠臣義士在祀典者、所在有司主之。惟南海女神靈惠夫人、至元中、以護海運有奇應、加封天妃神號、積至十字、廟曰靈慈。直沽、平江、周、泉、福、興化等處、皆有廟。皇慶以來、歳遣使齎香遍祭、金幡一合、銀一鋌、付平江官漕司及本府官、用柔毛酒醴、便服行事。祝文云、維年月日、皇帝特遣某官等、致祭于護國庇民廣濟福惠明著天妃」。写真画像元ページへ

[26] この人名、正史に見えない。乾隆丁巳は乾隆二年だが、この年に琉球国王を冊立したことも、正史に見えない。

[27] 原文「飄至K套中」。」はまったく未詳。とりあえずこう訳す。覆いかぶさってくるような波ではないか。

[28] 官報。

[29] 江蘇省の県名。

[30]淮徐道の長官ということなのであろうが、淮徐道という行政区画、正史に見えない。道は州と府の間に設けられた行政区画。淮徐は揚州と徐州であろう。

[31] 子孫が官位に就いたため、封典を得た父親。ここでは姚廷棟の父。

[32] 注視するさま。

[33] 未詳だが、文脈からして埋蔵金を守る神であろう。

[34] 役所の広間。

[35] 江寧の人。乾隆元年の進士。

[36]法源寺。北京市宣武区にある寺。唐の太宗が東征の際、戦死者を悼んで創建。 写真画像元ページへ

[37] 蘇州の地名と思われるが未詳。

[38]戴祖啓。上元の人。乾隆四十三年の進士。

[39] 朱色。

[40] 脾臓腫大症。

[41] 原文「毋再來誘我」。この言葉に対して発しているのか息子に対して発しているのか未詳。「誘我」も未詳。とりあえず息子に対して言葉を発していると解し、「誘我」は息子が大事に育てられたにもかかわらず死んでしまうことを指しているものと解す。

[42] 支手は文脈からして不自由な手をいうのであろうが未詳。

[43] 蚊帳。

[44] 山東省の県名。

[45] 殷の紂王が行った火あぶりの刑。銅柱に油を塗り、それを炭火の上にかけて罪人を渡らせ、火中におとす。

[46] 八股文。

[47] 未詳。

[48] 呂留良。石門の人。『碑伝集補』巻三十六に伝がある。

[49] 湖南靖州の諸生曾静が、岳飛の子孫である川陝總督岳鍾hに、金の子孫である清を討つべきだと投書した事件。曾静に影響を与えたのが呂留良の文章であったことから、すでに死んでいた呂の墓が暴かれた。その顛末は『清史稿』卷二百九十一・杭奕祿伝に詳しい。『清史稿』卷二百九十一・杭奕祿伝「六年、湖南靖州諸生曾靜遣其徒張熙變姓名投書川陝總督岳鍾h、略言清為金裔、鍾h乃鄂王後、勸令復金、宋之仇、同謀舉事。鍾h大駭、鞫熙、熙不肯言其實;乃置熙密室、陽與誓、將迎其師與謀、始得熙及靜姓名、奏聞。上命杭奕祿及副都統覺羅海蘭如湖南、會巡撫王國棟捕靜嚴鞫。靜言因讀呂留良評選時文論夷、夏語激烈、遣熙求得留良遺書、與留良子毅中、及其弟子嚴鴻逵、鴻逵弟子沈在ェ等往還、沈溺其説、妄生異心。留良、浙江石門諸生、康熙初講學負盛名、時已前死。上命逮靜、熙、毅中、鴻逵、在ェ等至京師。靜至、廷鞫、自承迂妄、為留良所誤、手書供辭、盛稱上恩コ。上命編次為大義覺迷録、令杭奕祿以靜至江寧、杭州、蘇州宣講。事畢、命并熙釋勿誅、戮留良尸、誅毅中並鴻逵、在ェ等、戍留良諸子孫。高宗即位、乃命誅靜、熙」。

[50]厳長明。江寧の人。『清史稿』巻四百九十などに伝がある。

[51] ここでは塩運司のこと。

[52]盧見曾。徳州の人。康煕六十年の進士。『清史列伝』巻七十一などに伝がある。

[53] 写真画像元ページへ

[54] 狂って性格が変わること。

[55] 『論語』衛霊公。韶は舜が作ったとされる楽曲。

[56] 静かに書を読むこと。

[57] 郷試の首席合格者。

[58] 原文「以為是科解元必割截卷而偸其文字」。割截卷」が未詳。とりあえずこう訳す。

[59]曹学詩。歙県の人。乾隆十三年の進士。

[60] 漢江は湖南省の地名だが、清代、漢江という県はない。

[61] ここでは刑部。

[62] 原文「為院所駁」。」は都察院と思われるが未詳。

[63] 上申に反駁する旨書かれた札なのであろうが未詳。

[64] 正史に名が見えない。『唐國史補』に見える翰林のことであろうと思われる。『唐國史補』「、張均兄弟倶在翰林。以尚主、獨賜珍玩、以誇于均。均笑曰、此乃婦翁與女壻、固非天子賜學士也」。 

[65]張玉書。丹徒の人。順治十八年の進士。『清史稿』巻二百七十三などに伝がある。

[66] 未詳。『武則天外史』のことか。江蘇省社会科学院明清小説研究中心編『中国通俗小説総目提要』七百四十一頁参照。

[67] 薛懐義。則天武后の寵愛を受けた妖僧。『旧唐書』巻百に伝がある。

[68] 唐代、宰相府をいう。

[69] 『唐書』巻百三などに伝がある。

[70] 唐代、洛陽にあった宮殿の名。高宗が建て、武后が修築した。

[71] 唐の高祖の娘。温挺の妻。薛懐義は千金公主が武后に薦めた。『舊唐書』温大雅「振弟挺、尚高祖女千金公主、官至延州刺史」。『舊唐書』・外戚・武承嗣・薛懷義「薛懷義者、京兆鄠縣人、本姓馮、名小寶。以鬻臺貨為業、偉形神、有膂力、為市於洛陽、得幸於千金公主侍兒。公主知之、入宮言曰:「小寶有非常材用、可以近侍。」因得召見、恩遇日深」。

[72] 薛懐義の本名は馮小宝。

[73] 枕席の間。

[74] 原文「足以游養聖情」。「游養」は未詳。とりあえずこう訳す。

[75] 秦の始皇帝の実母の愛人。巨根であったことで有名。『史記』呂不韋伝に見える。

[76]北斉の武成帝皇后胡氏に寵愛された僧。武成帝皇后胡氏が僧侶との淫楽に耽ったことは『北斉書』武成胡后伝に見える。『北斉書』武成胡后伝「自武成崩後、數出詣佛寺、又與沙門曇獻通。布金錢於獻席下、又挂寶裝胡床於獻屋壁、武成平生之所御也。乃置百僧於内殿、託以聽講、日夜與曇獻寢處。以獻為昭玄統。僧徒遙指太后以弄曇獻、乃至謂之為太上者。帝聞太后不謹而未之信、後朝太后、見二少尼、ス而召之、乃男子也。於是曇獻事亦發、皆伏法、並殺元、山、王三郡君、皆太后之所昵也」。

[77] 鳳閣は中書省。武后の光宅元年に改められた。『唐書』百官志参照。鳳閣侍郎は中書省の侍郎。

[78] 『新唐書』巻百四に張行成という人物が見え、張易之はかれの族子であるとある。張行成の誤りかと思われるが未詳。

[79] 李元吉のこと。唐の高祖の第四子。

[80] 原文「有窪稜高起五六分」。窪稜」特に「」が未詳。亀頭の溝か。とりあえずこう訳す。

[81]昌宗の陰が良いものであるという確信が持てなかったということ。

[82] 女陰を喩えるこというまでもない。

[83] 男根を喩えるこというまでもない。

[84] 未詳。

[85] 『新唐書』高宗則天武皇后伝薛懷義寵稍衰、而御醫沈南璆進、懷義大望、因火明堂、太后羞之、掩不發」。

[86] 亀頭も付け根も同じ太さということであろう。

[87] 軽い紗。周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』四百九十頁参照。

[88] ヴェールのような絹布。周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』四百八十九頁参照。

[89] 未詳。玉清は玉清大帝のことであろう。これが被っているような頭巾か。

[90] 未詳。蘭湯か。香草で香りをつけた湯。『楚辞』雲中君「浴蘭湯兮沐芳」。

[91]鶏舌香。丁子香。

[92] 老年になり、歯が抜けた後に生えるという細い歯。『詩』宮「黄髮兒齒」陸徳明釈文「歯落更生細者也」。

[93] 原文「其母憐之、為置人壁間、方生國忠也」。この句まったく未詳。とりあえずこう訳す。

[94]王子晋。周の霊王の太子王子喬。笙を吹くのを好み、鶴に乗つて昇天したという話が、『太平広記』巻四引『列仙伝』王子喬に見える。:『三才図会』

[95] 詩歌選集類書。『舊唐書』經籍志下・丙部子録・事類「三教珠英并目、一千三百一十三卷。張昌宗等撰」。

[96]控鶴府の長官。『唐書』高宗則天武皇后伝「自懷義死、張易之、昌宗得幸、乃置控鶴府、有監、有丞及主簿、録事等、監三品、以易之為之」。

[97] 全節の人。『唐書』巻百十四などに伝がある。

[98] 原文「我為婦人、遇二張、亦不知何者為名節、況天后也」。この句、まったく未詳。とりあえずこう訳す。

[99]龍の紋様のある錦であろう。『佩文韻府』引『癸辛雑識』「大臣之家往往賜与帝后之衣、皆織造龍鳳、他如御書必籍以龍錦」。

[100] 天子の婿。

[101] 中宗と韋后の娘。

[102] 武承嗣の子。韋后と私通したことで有名。『唐書』巻二百六などに伝がある。

[103] 崇譲夫人という称号、正史に見えない。

[104] 原文「一世修貌、二世修陰」。未詳。とりあえずこう訳す。「はじめの世では顔をよくし、またの世では陰をよくしろ」という意味であると解す。

[105] 未詳。『旧唐書』では、二張を誅したのは皇太子。『旧唐書』則天武后紀「癸亥、麟臺監張易之與弟司僕卿昌宗謀反、皇太子率左右羽林軍桓彦範、敬暉等、以羽林兵入禁中誅之」。

[106] 張易之の幼名。『舊唐書』五行志垂拱已後、東都有契苾兒歌、皆淫艷之詞。後張易之兄弟有内嬖、易之小字契苾」。

[107] まったく未詳。

[108] 皇帝の死をいう。万歳。

[109] 『唐書』巻百五などに伝がある。

[110] 宮中で宮女のいる場所。

[111]官名。将作監。

[112] 原文「屋舍皆黄金途」。未詳。とりあえずこう訳す。

[113] 最上の切り肉。ここでは張昌宗の喩え。『晋書』謝混伝「初、元帝始鎮建業、公私窘罄、毎得一[犬屯」、以為珍膳、項上一臠尤美、輒以薦帝、群下未嘗敢食、于時呼為禁臠」。

[114] 花子。額に施す飾り。周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』三百八十三頁参照。周汛等著『中国歴代婦女妝飾』百三十七頁には写真を載せる。

[115] 『唐書』巻九十九などに伝がある。

[116] 宮廷の外の住居。

[117] あずまややうてな。また庭園の建築物全般をいう。

[118] 後の中宗。韋后の夫。

[119] 漢の秣陵の哀仲の家の梨。美味であったという。『世説新語』軽詆「桓南郡毎見人不快、輒嗔云、君得哀家梨、當復不烝食不」注「舊語、秣陵有哀仲家梨甚美、大如升、入口消釋。言愚人不別味、得好梨烝食之也」。ここでは韋后がみずからの陰部を喩えているのであろう。

[120] 原文「微蒙天生」。「微蒙」は「微濛」であろう。かすかでほのぐらいこと。

[121] 原文「幼而蕊含、長而茄脱」。男根を喩えていると思われるが未詳。とりあえず、このように訳す。

[122]氤氳は絪縕に同じ。陰と陽が交互に交わる状態。化醇は変化して精醇となること。『易』繋辞下「天地絪縕、萬物化醇、男女構精、萬物化生」。

[123] 原文「進退麻漠」。麻漠」は未詳。とりあえずこう訳す。興味がないといった方向であろう。

[124] 則天武后の淫液をさすこと言うまでもない。

[125] 原文「如昭容言、天下優劣、豈獨男子然耶」。未詳。とりあえず、このように訳す。「如昭容言」は「昭容さまが男に優劣があると仰るなら、わたしも申し上げますが」という語気があるか。

[126] 原文「然下體亦正難言」。未詳。とりあえず、このように訳す。

[127] 原文「往往有交無媾」。有交無媾」が未詳。とりあえずこう訳す。

[128] 原文「木木然如瞽人投井、不知何往」。未詳。とりあえず、このように訳す。女性と交わっても何の趣も感じなかったということの喩えであろう。

[129] 西施。春秋時代越の美女。

[130] 王昭君。

[131] 後宮。

[132] 花蕊。女陰を喩えていること言うまでもない。

[133] 醍醐を頭から灌ぐこと。智恵を入れることの喩え。また、人を快適にさせることの喩え。

[134] 本来君主の恩沢をいうが、ここでは崔Gが昭容と交わるときに昭容からもらう元気のことであろう。

[135] 原文「深含細吐」。女性の気を深く吸い込み、射精するのを極力我慢するということであろう。

[136] 原文「山沢気交」。山はここでは男、沢は女のこと。『易』説「天地定位、山沢通気」。

[137] 原文「想世間男子喜乾、女子好久、皆如乞丐、食猪脂三斗、便道窮奢極欲、真初世人耳」。食猪脂三斗」がどのような含意があるのか未詳。精力をつけるといった方向か。「初世人」がまったく未詳。原始人、野蛮人といった方向か。この句、世間の男女は精力をつけてはげしく交わることを好むが野蛮であるといっていると解す。

[138] 睿宗の妃劉氏のことと思われる。睿宗の即位とともに冊立せられて皇后となる。

[139] 臍下六寸ほどの所にある骨。恥骨丘。謝観等編著『中国医学大詞典』千五百十九頁参照。

[140] 後の玄宗のこと。

[141]同中書門下平章事。唐代、宰相の実権を握った役。

[142] 『唐書』巻百二十五などに伝がある。

[143] 『唐書』巻百二十五などに伝がある。

[144] 未詳だが、鉛を精錬する工廠であろう。

[145] 単位は文。

[146]天橋場とも。『清史稿』地理志二・奉天・錦州府「西南、天橋廠巡檢、雍正元年置。又西南海濱有地伸出海中如三角形、曰葫蘆島、島勢向西環抱成一海灣」。

[147] 原文「何得無礼」。音は「hé dé wú lǐ」。豚の鳴き声に似ているか。

[148] 杭県の人

[149] 乾隆九年の郷試。

[150] 科挙の試験会場で、受験者が答案作成に当たる独房。

[151] 原文「我亦難違帝命」。帝命」が未詳。とりあえずこう訳す。

[152] 江蘇省の山名。句曲山。地肺山。道教の霊地。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千六百五十五頁参照。写真画像元ページへ

[153] 写真画像元ページへ

[154] 南朝晋陵の人。胡孚琛主編『中華道教大辞典』八十九頁参照。

[155] 方隅山の南、燕口洞の傍にある道観。

[156] 都察院左都御史。

[157] 仁和の人。乾隆元年の進士。

[158] 試験を行う建物。「棚」は簡易な建物をいう。

[159] 子供同士が結婚している者同士が相手に対して用いる呼称。

[160]少司馬は小司馬の誤り。兵部侍郎。史抑堂は史奕昂。かれの息子と袁枚の娘鵬姑が結婚していた。

[161] 按察使。

[162] 官名。督糧道。正四品官。

[163] 花園に面して設けられた広間。

[164] 原文「省中府縣倶來請安」。未詳。とりあえずこう訳す。福建省の府県知事がみな集まったということでは絶対にないだろう。

[165]布政司・按察司と道台。

[166] 原文「設使四大員一時並命、則司道之印、諸公委署、不皆有分乎」。未詳。とりあえずこう訳す。

[167] 中丞は巡撫。ただ、清代、湖北巡撫に程姓なし。

[168]姓の異なるいとこの息子。

[169] 原文「胡往求館」。具体的には家庭教師や幕僚の職を求めていったのであろう。

[170] 原文「毎除夕、必男婦十人守之待旦、或懈於防範、被人戲以竹木梢抵之」。或懈於防範」が未詳。とりあえず集まった男女の内の何者かが、異姓に手を出したり異姓を受け入れたりすることであると解す。

[171]地保。郷村にあって官府のために働く民間人。

[172] 原文「命里保將土塊填塞」。何を「填塞」したのかが未詳。とりあえず女陰のような形をした山の溝状の部分を埋めたものと解す。

[173] 広東看城の西南の地名。

[174] 妓女を乗せた舟であろう。

[175]河泊所大使。未入流官。

[176] 『戦国策』秦策「城不沈者三板耳」姚宏注「広二尺曰板」。

[177] 兪葆寅。仁和の人。

[178] 雲南。

[179]劉藻。荷沢の人。乾隆元年の進士。

[180] 乾隆元年博学鴻詞科。

[181] 扉のない門を洞門という。呉山主編『中国工芸美術大辞典』五百九十五頁参照。

[182] この句は義未詳。「奪彩」は普通は光彩を奪うこと。

[183] 『大清畿輔先哲伝』巻十九、同治十年『畿輔通志』巻二百四十一などに伝がある。雍正十三年の抜貢生。金華、九江知府などを歴任。

[184] 江西省の道名。

[185] 原文「所屬上猶縣某村素被山瀑衝沒田廬」。山瀑」が未詳。普通は山にある滝のことだが、文脈に合わないと思われる。とりあえず「鉄砲水」と訳す。

[186] 写真画像元ページへ江西省南昌にある名勝。唐の太宗の弟滕王李元嬰が建てた楼閣。国家文物事業管理局主編『中国名勝詞典』五百三十三頁参照。

[187] 白い衣、麻の帯。服喪する者の出で立ち。

[188] 安徽省の州名。

[189] 原文「並質錢帖數紙」。質錢帖」が未詳。とりあえずこう訳す。

[190] 浙江省の県名。

[191] 浙江省上虞県の山名。

[192] 浙江省の府名。

[193] 浙江省平湖県の東南にある城名。

[194] 浙江省の県名。

[195] 地名と思われるが未詳。

[196] 雲状の飾りが付いた靴。写真周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』二百九十二頁。

[197] 青白色。蝦青。周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』五百六十八頁参照。

[198]紬は綢に同じ。絹の上着。

[199] 県の属官。未入流官。

[200] p隸。下役。

[201] 張諴。平湖の人。

[202] 江蘇省の島名。揚子江の河口にある中州。

[203]浙江省杭県五雲山の西にある窪地。国家文物事業管理局主編『中国名勝詞典』三百五十七頁参照。写真画像元ページへ

[204] 未詳だが屠殺を免れた動物を(はな)ってある所であろう。

[205] 安徽省の県名。

[206] 未詳だが、渇いた屍臘状のものであろう。

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