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第二十一巻

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婁羅二道人
 婁真人は、松江楓郷の人。幼くして孤児となり、中表[1]の某に頼って生長したが、その(はしため)と密通したので、中表は怒って追い出した。婁はその嚢中の金五百両を盗み、江西の龍虎山[2]に逃げ込んだ。橋を渡っていると、白髪の道人が、杖を曳いて立っており、笑って言った。「来たか。天師[3]の法官[4]になりたいか。だが法官は心付けを払うのが慣例で、千両がなければだめだ。五百両では役に立たない」。婁は大いに驚いて言った。「ほんとうにこの金額しか持っておりません。お金が少ないのはどうしようもございません」。道人は「もう準備してやったぞ」と言い、侍者に命じて嚢を担がせ、示させたところ、五百両であった。婁が跪いて礼を言い、仙人さまと呼ぶと、道人は言った。「わたしは仙人ではない。わたしは天師府の法官で、姓は陳、名は章というが、縁が尽きたので去らねばならぬ。おんみを待っていたため去らなかったのだ。三つの錦の嚢があるから、携帯し、後日急難大事があったら、開けて見るがよい」。そう言うと、橋の下に趺坐して亡くなった。婁が天師府に入り、天師に見えると、天師は「陳法官はおまえをながく待っていたが、おまえが来たから死んだのだ。これが運命だ」と言った。
 先例では、天師が入京朝賀するとき、法官はついてゆくのであった。雍正十年、天師が入朝したとき、他の法官はいっしょに行ったが、婁は同行できなかった。夜に夢みたところ、陳法官がよろよろとやってきて、泣きながら頼んだ。「道教は滅びようとしており、婁どのでなければ救うことはできません。いっしょに京師にお入りになるべきでございます。ぐずぐずとなさってはなりませぬ」。天師はますます婁を重んじ、同行させた。時に京師は長いこと旱魃で、道士たちが祈願しても効果がなかった。世宗は天師を召すと諭した。「十日雨が降らなければ、おまえたちの道教を廃してしまおう」。天師は恐懼して地に伏し、ひそかに陳法師の夢の中の言葉を思いだし、すぐに婁某を祭壇に昇らせることを奏請した。婁は錦の嚢を開くと、作法通りに呪文を誦えたが、祭壇に上らないうちに黒雲が起こり[5]、まもなく雨でたっぷりと潤った。世宗は悦び、京師に留まるように命じた。
 十一年、妖人賈士芳を誅した。賈は民間で祟りをなしていたので、婁を召して懲らしめさせたのであった。婁は五雷正法[6]で懲らしめることにしたが、北斗を拝すること四十九日で、(あやかし)は滅んだ。その年は地震があったが、婁はそれに先立って上奏した。いずれも錦の嚢に載せてあった三つの事であった[7]。今でも婁は生存しているが、錦の嚢は(から)で術も尽きている。婁が服する丸薬は、「一二三」といい、当帰[8]一両、熟地[9]二両、枸杞[10]三両である。
 さらに羅真人という者は、冬も夏も同じ衲衣で、市場で狂った振りをしていた。子供はついてゆき、生の米や麦を取るとかれに吹くように求めたが、吹くとすぐに炊けるのであった。晩に宿屋で燭を点けるときに火がないと、やはり羅に吹くように求めたが、吹くとすぐに燃えさかるのであった。京師の九門[11]に、一日九たびその姿を現していたが、突然逃げ去って行方が知れなくなったので、死んだかと疑われていた。
 京師の富豪の家ではしばしば暖?を焚く。?(カン)は深さ一丈ばかり、三年を過ぎるとかならず煤、灰を掃っていた。年という者が坑を掃っていたところ、?(カン)の中で鼾がしたので、大いに驚き、人々を召して見たところ、羅真人であった。かれはがばっと起きあがると言った。「あなたたちの家の?(カン)を借りて三年熟睡していたが、あなたたちのために掃き出されてしまった」。人々は廟に送り込ませてくれと頼んだが、「わたしは廟には入らない」と言った。供物を捧げさせてくれと頼んだが、「供物は受けない」と言った。

「それならばどちらにお行きになるのでしょうか」

「前門外の蜜蜂の巣にわたしを送っていってくれ[12]

すぐに蜂の巣に担いでいった。巣のある洞窟はとても狭く、土の山の窪みにあり、蜂数百万が、ぶんぶんと飛んでいた。羅が上下の衣を脱ぎ、裸で入ると、蜂たちはかれを囲み、眼や口に入り、七竅[13]の中に出入りしたが、羅は怡然として動かなかった。
 人が食物を送ると、食べたり食べなかったりしたが、食べるときはいつも、送られたものを食べつくすのであった。ある人が米飯一斗、鶏卵三百を与えると、一気に食い尽くし、満腹した様子も見せなかった。言葉は呶呶として(もず)か梟のよう、よく理解できなかった。某貴人が生薑四十斤を送ると、たちまち食らい尽くしてしまった。巣に居ること数年、ある日逃げ去り、行方が知れなくなった。

蛇が草を含んで木を溶かし金に化すること
 張文敏公[14]族姪(ぞくてつ)[15]が洞庭の西磧山荘[16]に寄寓したときのこと、二つの鶏卵を厨にしまっていたが、毎晩蛇に盗まれていた。伺うと、一匹の白蛇が卵を呑んで去っていった。その頚は膨らんでおり、すぐに消化することはできなかったが、樹の上に行き、頚でこすると、まもなく、鶏卵は溶けるのであった。張はその貪欲さを憎み、戯れに木の柿を削り、鶏卵の殼の中に入れ[17]、いつもの場所に置いた。蛇ははたして呑みにきたが、頚は以前のように脹れた。そしてふたたび以前の樹のところに行ってこすったが、消すことができなかった。蛇は苦しんでいる様子で、園内の樹々を経巡ったが、見ても顧みず、たちまち亭の西の深い草の中に行った。そして葉が緑色で三叉(みつまた)のものを択び、以前のようにこすったところ、木の卵は消えた。
 張は翌日この草を確認し、取ってこすって消化不良を停めようとし、一払いして試したところ、たちまち癒えた。その隣家には背に病を発している者があったが、張は食物でさえ消えるのだから、毒も消すことができると思い、この草一両で薬湯を煮て飲ませた。まもなく、背の瘡は癒えたが、身はだんだんと縮んでゆき、しばらくすると、骨まで水に化してしまった。病人の家では大いに怒り、張を縛ってお上に訴えた。張は哀願し、実情をみずから告げたが、病人の家は許そうとしなかった。厨房に行って食事しようと[18]、中に入ったところ、鍋の上で(くす)しき光が輝いていた。近づいて見ると、鉄鍋はすでに黄金に化していたので、不問にし、礼を言った。結局、何の草なのかは分からなかった。

蔡京[19]の後身
 崇禎の頃、某宰相はつねにみずから語るには、蔡京の後身で、仙官だったが地獄に堕ちた、しかし世間で『仁王経』を誦えるたびに、耳目が澄んだ、さらに罰せられて揚州の寡婦になったが、空閨を守ること四十年であったとのことであった。そのため、嗜好はいとも奇妙で、美しい女の(しり)、美しい男の(へのこ)を見ることを好み、男子の美しさは前にあり、女子の美しさは後ろにある、世人は転倒しているが、色を好む者ではないと考えていた。つねに女に袍、褶[20]を着せ、男は(スカート)(かんざし)で飾りたて、その(しり)(へのこ)をさすり、味外の味が得られると言うのであった。さらに戯れに姫妾優童数十人を選び、(ふすま)でその頭を覆い、その下半身を露わにし、たがいに某郎某姫であると当てさせて、慰みにした。内閣の供事[21]石俊という者は、なかなか姿が美しく、陰部はたいへん素晴らしかったので、公は甘んじて啜ったり弄んだりするのであった[22]。書を求める者は、石郎が墨をすらなければ書を得ることができないのであった。公は(しり)を「白玉綿団」、(へのこ)を「紅霞仙杵」と称していた。

天鎮県の碑
 天鎮県は雲中[23]に属し、その地には玄帝廟[24]があった。廟には古碑があり、その表面には(おおづつ)や銃の鉛や鉄の大小の弾丸がたいへん多く、すべて石の中に陥入していた。県民が言うには、前明の時、闖兵[25]が来たとき、県民は抗戦したが敗れた、するとにわかにこの碑が廟から飛び出し、軍陣を旋回した、敵が放つ火器は、すべてそこに中たった、わが軍は挫けることなく、敵は怯んで退いたとのことであった。今では「天成碑」といわれ、廟に現存している。

轎を担ぐ坊ちゃん
 杭州の世家の子汪生は、幼くして聡明、『漢書』を読むことができた。年が十八九の時、突然遠出して帰らず、家僕が捜しても見付からなかった。一月あまり後、その父が薦橋大街で遇ったとき、人のために轎を担いでいた。父は大いに驚き、かれを引いて家に還ると、きびしく鞭?(むち)を加えた。そのわけを尋ねると、答えなかったので、書斎に閉じ込めたが、まもなく逃げ出し、またも人のために轎を担いだ。このようなことが再三であったので、祖父、父はどうすることもできず、不問に付したが、親戚友人の中でかれと結婚しようとするものはいなかった。しかし『漢書』は暗誦しており、終生忘れなかった。通りで閑静な処があると、坊ちゃんは『高祖本紀』を誦えたが、瑯瑯然として一字も間違えることがなかった。杭州の士大夫もかれを召して使うことを楽しみ、みずから書物を開くのに勝るとした。みずから語るには、両肩に重いものを負えば筋骨は敏捷になり、寝食ともに心地よい、そうしなければ悶悶として楽しまないとのことであった。これ以外には特別な好みはなかった。

楊笠湖[26]が難を救うこと
 楊笠湖は河南の令となったが、上司は商水県に行き災害救済することを委任した。秋暑がとても厳しかったので、午の刻に仕事がおわると、城隍廟で涼んだ。腰掛けないうちに、一人の男が駆けつけてきて、称するには

「小民張相[27]が救いを求めておりまする」

「何事だ」

「存じませぬ」

左右のものは狂疾であると疑い、大勢で立ち上がり追い払った。その人はながく泣き叫んで出ず、言った。「昨晩、夢を見ましたが、こちらの城隍神がすでに亡くなった県令の王さまとともに坐していました。城隍はわたしに言いました。『急の災難があるから、おまえの父母官[28]に救いを求めるがよい』。わたしはすぐに王さまに向かって叩頭しました。王さまは仰いました。『わたしはすでにこちらに来たから、力を出すことはできない。隣県の知事の楊さまに救いを求めにゆくべきだ。明日の昼を過ぎれば災いはなくなるだろう』。そこで今日の夜明けにすぐに起き、知事さまが楊さまとおっしゃり、こちらの廟にいらっしゃることを聞き、救いを求めにきたのでございます」。そう言うと、叩頭して去ろうとしなかった。楊はどうしようもなく、笑って言った。「直々に許可するから、災難があったらすぐに来るがよい」。その姓名を尋ねると、家僕に命じて記録させた。
 数日後、賑恤してその地を通ったとき、その隣人に訊ねると、言った。「張某があの日夢を見て(まち)に入った後、かれの寝室二間が理由なく崩れ、損傷した什物はたいへん多かったのですが、本人だけは(まち)に入っていたために免れました」。

馮侍御が身軽であること
 馮侍御養梧先生がみずから言うには、生まれた当初は、体は小さくて猫のよう、測ると、重さは二斤に満たなかったので、家僕は生長するのは難しいと思ったということであった。後に十歳を過ぎると、体はだんだん立派になり、進士に及第し、詞林[29]に入り、御史に転じた。二子を生んだが、一人は布政使になり、一人は翰林になった。先生は子供の時、空を踏んで十余歩進むことができたので、李?侯が幼い時に飛ぶことができたことをはじめて理解できた。母はかれが去ることを恐れ、葱や蒜で圧さえた。意外にもそうした事があったのである。

江都[30]の某令
 江都の某令は、公務のために蘇州へ行った。行くに臨んで、甘泉[31]の李公のもとへ行き、別れを告げ、直接頼んだ。「この県で死体の傷を調べる事がございましたら、どうか代わりに処理させてください」。李は承知した。その後、かれは三鼓以降に荷物を運んで役所に戻ってきた[32]とのことであった。李は何事か分からず、探ったところ、検屍を求めている者があった。商家の汪家の二人のしもべが口論し、一人のしもべがみずから縊れたのであった。汪は富んでいることで有名であったので、某は奇貨であると思い、大広間に屍を安置するように命じ、ことさらに調べにゆかず、腐爛するのを待ち、三千両で話を着けると、はじめて検分しにいった。検分する時は、主人を侮辱し、怒鳴り、殴り、さらに銀四千両を脅し取り、はじめて事件を収めようとした。
 李公はそれを見て咎め、酷過ぎると言った。某は言った。「仕方ありません。わたしは倅のために知県を買おうとしているだけなのです[33]。今、汪の銀七千両は、すでに人を遣わして京師に送り込ませましたので、家に置いてはございませぬ」。まもなく、その子ははたして甘肅の某県に選ばれ、河州知州に昇進した。乾隆四十七年、冒賑[34]が発覚したため、たちまち斬られ、孫二人はすべて充発[35]となり、家産はお上に没収された。某は驚いてどきどきし、疽が背にできて死んだ。

虎の耳を掴むこと
 雲南大理県南郷の民李士桂は、代々農業をしていた。家で水牛二頭を飼っていたが、夜になると、片方の牛が帰らなかったので、士桂は捜しにゆくことにした。暗闇の中、月影が上ると、田の中に獣が臥しており、大きな声で雷のように鳴いていたので、自分の牛だと思い、罵った。「畜生め、どうして今になっても家に戻らないんだ」。すぐに騎ると、その角を引こうとしたが、角はなく、毛の生えた両耳が聳えているばかり、全身は(やまねこ)のような色をしており、斑があったので、はじめて虎だと気付き、焦って下りようとしなかった。
 虎は人に騎られ、目覚めると、躍り上がり、咆哮し、叫び、跳ねた。士桂は背から下りればかならず食われると思ったので、持てる力を尽くして、しっかりとその耳を握った。を突き破ったが、ますます固く握りしめ、死んでも放さなかった。虎は性格が猛々しく、山に上がったり、水に飛び込んだりしたが、(いばら)に傷つき、翌日の朝、力尽きて斃れた。士桂も虎の背に倒れ、気息奄然としていた。家僕がかれを尋ねあて、抱きかかえて家に帰ったので、命拾いした。両脚は虎の爪に攫まれ、肉は尽き、骨が露わになっていた。治療すること一年以上で、ようやく平復した。

十八灘頭[36]
 湖南の巡撫某は、平素関帝を信仰していた。元旦になるたびに、まず関廟に赴いて参拝し、籤を求め、その年の吉凶を尋ねたが、ことごとく(しるし)があった。乾隆三十二年正月一日、廟に詣でて拝礼し、籤を得たところ「十八灘頭説きて君に与えん」の句があったので、用心していた。その年は、浅く穏やかな水路があっても、かならず舟に乗らず轎に乗った。秋、候七の一件のため[37]、天使[38]が按臨した。某湖から某地に行くとき、舟で行けば近くて速く、陸に上れば遠くて遅かった。使者は舟で行こうとしたが、公は承知せず、関神の籤の言葉を誦えて告げた。使者はやむなく従ったが不愉快に思っていた。
 まもなく、貴州の鉛廠の事件[39]が起こり、公が賄賂を受けた事があった。公は罪を認めなかったが、門番の李奴はどうしても公を連座させようとして、言った。「この銀はほんとうに主人に送りました。(わたくし)が騙しているのではございません」。時に李はすでに刑を受け、両足は萎えていたが、主僕は争論してやめなかった。使者は声を荒げて公に言った。「十八灘頭のお神籤の(しるし)がございましたな。李の字は、『十八』で、地に萎えているのは、『?(たん)[40]』です。この銀を主人に送ったと言っているから、おんみに送ったのでしょう。関聖帝君はとっくにこの災難があることを知っていたのです。弁明をすることはできませぬぞ」。公はぞっとし、賄賂を受けたことを認めたため事件は決着した。

三姑娘
 銭侍御g[41]が南城を巡視していたときのこと[42]、梁守備は年老いていたが、飛び上がり、空に昇ることができ、捕らえた大盗は百をもって計えていた。公は驚き、平素賊を捕らえて功を立てている事について尋ねた。梁は跪いて言った。「盗賊を捕らえることは奇とするに足りませぬ。今でも胸がどきどきし、溜息が出ますのは、妓女の三姑娘を捕えたときのことだけでございます。お話し申し上げましょう。
 「雍正三年某月日、九門提督[43]某はわたしを召し入れ、直々に命令しました。

『おまえは金魚??[44]の妓女三姑娘の権勢が絶大なのを存じているか』

『はい』

『捕らえてくることができるか』

『はい』

『下役はどれくらい必要だ』

『三十でございます』

提督はその通りの人数を与えると、言いました。

『捕らえてこなければ、棺を抬いでわたしに面会するのだぞ』

三姑娘は、深くて広い建物におり、捕まえることは難しかった。梁[45]は三十人に命じて門の外にぐるりと潜伏させ、自分は塀を上った。その時、日はすでに暮れており、秋暑はすこし収まっていたが、高い篷葺きの蔭屋[46]があったので、梁は篷の上に伏して伺った。
 夜が更けると、二人の小間使いが、建物の西から、朱の提灯を持ち、一人の少年を引き入れ、東の窓に跪き、小声で語った。

「坊ちゃんがお越しでございます」

少年が中堂[47]に坐してしばらくすると、三人が茶を出し、四人の小間使いが朱の提灯を持ち、麗人を擁して出てきた。麗人は拝礼を交わすと親しく語った。膚の色、目の光は、明珠のように人を射て、近づいて見ることはできなかった。まもなく、二つの席が並べられ、六人の小間使いが酒を注いだが、きらびやかな服装で、紛々として左右に走り寄った。三回酒が出された後、妙なる歌声と笙簫の音がともに起こった[48]。女は少年を見ると言った。

「坊ちゃまはお疲れになりましたか」

体を引いて起たせ、その裾を牽いて東の窓から入ると、満堂の燈燭はすべて消え、楼の西の竿に紗燈がふたつ紅く点っているばかりであった[49]
 梁はこれは虎穴を探る時だと思い、篷から下りると、足で寝室の戸を踏んで入った。女は驚いて起きあがり、裸で(とこ)から跳び下りると、進み出て梁の腰を抱き、小声で耳打ちした。

「どちらのお役所から来られましたか」

「九門提督だ」

女は言った。

「これは運が悪い[50]。提督さまが人を捕らえようとするのを逃れることはできません。ただ、裸の女が貴人に見えるのは、無礼ですから、衣を着けさせてください。明珠四対をお礼にしましょう」

梁はそれを許し、(したばき)(スカート)(うわぎ)、領襖[51]を擲った。女は箱を開くと明珠四対を取り、某の手中に擲った。
 女は着おわると、落ち着いて尋ねた。

「どれほどの人を連れてこられたのですか」

「三十人だ」

「どちらにいらっしゃいますか」

「門の周りに潜んでいる」

「はやく呼び入れてください。夜が更けましたのに、(わたし)のせいで、飢え渇いているのでしたら、(わたし)は心が落ち着きません」

左右を顧みて接待の準備をさせた。(はしため)たちは羊を煮、兔を炙り、たちまち準備を調えた。三十人は地に蓆を布き、大いに嚼み、歓声は雷のようであった。梁は(とこ)の中の客を捕らえていないことを思い出し、帳を掲げにゆこうとした。女は手を振ると言った。

「さようなことをなさってはいけません。あのかたは某大臣の公子で、国体に関わりがございます。それに罪もございませんから、(わたし)はすでに地下道から出させました。提督さまがお訊ねになった時は、きっとあなたを怒らないことでしょう。あなたを怒れば、(わたし)が一身をもってお守りしましょう」
 夜明けになると、女は紅い(とばり)の車に坐して梁とともに行ったが、公署を離れること半里足らずで、提督が馬を飛ばし、朱書[52]で梁を諭した。

「本衙門が捕らえた三姑娘は、捜査が確実ではないから、すみやかに釈放せよ。良民を煩わし、重罪に問われないようにせよ」

梁は恐れて車を下りると、珠を持って女に返そうとしたが、女は笑って受けなかった。先ほどの(はしため)十二人は馬に騎って迎えにくると、かれを擁して馳せ去った。翌日探ると、家はすでに空になっていた。

搜河都尉
 わたしの親家[53]張開士は、宿州[54]の知事となり、勅を奉じて運河を開鑿したが、地を掘ったところ?(おおがめ)がいた。車輪ほどの大きさで、項には金牌が結んであり、「正徳二年皇帝敕封搜河都尉」の十二字が刻まれていた。?(おおがめ)は両眼が深い碧色で、甲羅には緑の毛が一寸ばかり生えていた。民草が集まってそれを見て、お上に告げると、お上は前代の老物と思い、放つように命じた。その夜、風雨が颯然として至ったが、運河は掘らないのに完成すること三十余丈であった。

科場のこと五話
 乾隆元年正月元日、大学士張文和公[55]が夢みたところ、その父の桐城公、諱は英という者がひとり室内に坐し、手に書巻を持っていた。文和公は尋ねた。

「父上はいかなる書物をご覧になっているのでしょう」

「『新科状元録』だ」

「状元は何という名でございましょう」

公は左手を挙げて文和公に示すと言った。「こちらに来れば、告げてやろう」。文和公がこちらに来ると[56]、言った。「おまえはすでに分かっているから、多くを語ることはない」。公は目覚めたが、結局分からなかった。その後、丙辰の状元は、金徳瑛[57]であった。「玉」の字を「英」の字の左に移すと、それが(しるし)になっていたのであった[58]。公は子を授かるのが遅かったので、京師の前門の関帝廟[59]で夢占いした。夢みたところ帝が竹竿をくれたが、枝や葉がなかったので、すこぶる喜ばなかった[60]。しかし謎解きをした者は賀して言った。

「公は二人のご子息を授かりましょう」

「なぜだ」

「孤竹君の二子[61]といいますが、これは伝記[62]による解釈でございます。『竹』の字を割ると二つの『个[63]』の字になりますが、これは字形による解釈でございます」

その後はたしてその通りになった。
 王士俊[64]は少司寇[65]となり、殿試の答案を読んでいたが、夢みたところ、文昌神が短い鬚の道士を抱いてかれに与えた。後に臚唱[66]の時、金状元徳瑛は道士のような(かお)をしていたが、かれのもとで合格していた[67]
 劉大?[68]は丙午に落第し、?を招いたところ、?仙は「壬子両榜」と書いた。劉は解せず、壬子は会試の年ではないが、あるいは恩科があるのかと思った。後に丙午の副榜に合格し、壬子になるとまたも副榜に合格した。
 繆煥[69]は、蘇州の人、十六歳で入学し、?仙に遇ったので、科名[70]について尋ねると、「六十にして登科せん」と書いた。繆は大いに怒り、その遅いことを嫌った。その後、三十歳にならないうちに合格したが、問題は『六十にして耳(したが)[71]』であった。
 三人の男が于肅愍[72]廟で夢占いしたところ、二人の男は夢みなかったが、一人の男は肅愍を夢み「廟の外へ見にゆけ。塀を照らせば分かる」と言われた。その人は目醒めると、二人の男に告げた。二人の男はかれが夢みたことを妬み、小便すると偽り、夜に筆を取ると塀に「不中(ふごうかく)」の二字を書いた。空はまだ明けていなかったので、「不」の字を書いたがそれほど繋がっていなかった。翌朝、三人がいっしょに見にゆくと、「一个中(ひとりごうかく)」の三字になっており、夢みた者が合格したのであった。

百四十村
 閣学[73]周公煌[74]は、四川の人、みずから言うには、その祖父は(きこり)で、単身峨嵋山に住み、年が九十九になっても結婚しなかったとのことであった。毎日山に入っては柴刈りし、山麓の呉という豆腐売りの翁に売っていた。呉は夫婦二人と一人娘で、毎日周の薪を買って炊ぎをし、とても親しく交易していた。
 呉は年は六旬(むそじ)であったが、周に告げた。「明日はわたしの誕生日ですから、朝にお酒を飲みにいらっしゃい」。周は承諾したが、その後来なかったので、呉の妻は言った。「周さんはとてもお酒が好きでしたのに、今日は薪を売りにこず、お祝いしにもきませんが、病気なのではございませんか。見にゆかれてはいかがでしょうか」。呉が翌日訪ねてゆくと、周は顔色がとても和やかだったので、尋ねた。「昨日はどうして来なかったのです」。(おきな)は笑って言った。「わたしは昨日山に入り、薪を伐ってお誕生日の礼物にしようとしました。ところが深い(たに)を過ぎると、黄や白の物が累累としておりました。これは世にいう金銀というものではございませんか。わたしは懸命に運び、今、(とこ)の下に積んであります。山を下りたら、誰が守ってくれましょう」。呉が見たところ、金銀であったので、代わりに画策してやった。「こちらにいらっしゃってはなりません。お一人で人気のない山に住みながらこのような物をお持ちであれば、盗賊の心配がございましょう」。周は言った。「仰らずとも、気が付いておりました。(まち)に入って人が多い処に家を捜してはくださいませぬか」。呉は言われた通りに、引っ越しを助けた。
 まもなく、周はまた来たが、赧然として恥ずかしそうな顔色で、手ずから百両を呉に贈ると、揖して言った。「お願いがございます。わたしは来年百歳になりますが、結婚をしておりませぬ。もうすぐ死ぬと思っていたため、他のことを考える暇がございませんでした。思いがけなくこのような大金を得ましたが、老いぼれが持っていても、何の役に立ちましょう。どうかあなたが仲立ちとなり、婦人を娶せてください」。呉はその妻を見ると、ともにくすくす笑ってやめず、かれが老いを知らないことを嫌だと思った。周は言った。「そればかりではありません。わたしが娶る妻は、処女でなければいけません。再婚なら、老人(わたし)が結髪[75]を重んじる趣旨に叶いません。わたしが老いていることを嫌うなら、万両を結納にし、三千両で媒酌にお礼しましょう」。呉は難しいことは分かっていたが、手厚い礼金が欲しかったので、むりに「承知いたしました」と応えた。老人は再拝して去った。一月あまり、老人と結婚しようとする人はいなかった。老人はふたたび催促しにきたが、呉にはごまかすすべがなかった。
 時に呉の娘は十九歳になったばかりであったが、たちまち跪いて頼んだ。「周さんと結婚しようと思います」。呉夫婦は愕然とした。娘は言った。「お父さま、お母さまは、周さまが老いていることを嫌い、わたしが若いことを憐れんでいるだけです。人にはそれぞれ(さだめ)があると聞いております。わたしが薄命なら、同じ年頃の者に嫁いでも、寡婦になるかも知れません。わたしの(さだめ)が良いものならば、この叟にまだ余命があり、さいわいに子孫が生まれ、家を支えるかも知れません。それにお父さま、お母さまには男子がなく、一人娘を生んだだけ、わたしは男の子となって孝行し、ご恩に報いたくてたまりませんでした。あのかたが万両をこちらにもたらし、さらに三千両でお礼すれば、女を生むのが男を生むよりましだったことになり、わたしの心も慰められます。想いみますにあのおじいさんはあの年で、あのあぶく銭を得たのですから、天がこれで終わりにしようとすることはないでしょう」。呉夫婦が娘の言葉を(おきな)に告げると、(おきな)は地に跪き、続けざまに叩頭してお義父さま、お義母さまと叫んだ。嫁ぐと、一子が生まれ、勉強して廩生に補せられたが、孫がすなわち閣学公である。
 老人が百四十歳のとき、呉の娘が先に亡くなったが、年はすでに五十九であった。老人は埋葬、服喪し、哭泣し、とても哀しげであった。さらに四年後、老人はようやく亡くなった。住んでいる村を、人々は「百四十村」と称した。

人畜が習性を改めること
 『搜神記』に「鶏は三年ならず、犬は六載ならず」という言葉がある[76]。言うこころは禽獣は長く飼うことができないということである。わたしの家僕孫会中は、一匹の黄狗(あかいぬ)を飼っていたが、たいへん馴れていた。ご飯を食べさせるたびに、狗は尾を振って憐れみを乞い、出入りするときは、かならず送り迎えしていたので、孫はたいへん気に入っていた。ある日、手に肉を持って食べさせてやったところ、狗はその手を噛んだ。手のひらはすっかり穿たれ、痛さで地に倒れたので、棒で狗を殺した。
 揚州の趙九善は虎を飼い、虎を檻に入れて歩いていた。通行人でそれを見た者がまず十銭を与えると、檻を開いて虎を出し、わざと頭で虎の口を擦ると、虎は涎が顔に満ちるが、まったく人を傷つけることはないので、慰みものとなっていた。このようにすること二年あまり、ある日、平山堂でお金を求め、ふたたび頭で虎の口を擦ったところ、虎が口を開け、一齧りして頚を断った。人々がお上に報せると、お上は猟師を召し、銃で虎を撃ち殺した。
 人々は「鳥獣とともに群れることはできない[77]」と言うが、わたしは、そうでない、人間も同じだと思っている。乾隆丙寅、わたしは江寧の知事をしていたが、一家三人が殺されたという報せがあった。わたしが調べにゆくと、下手人は被害者である妻の弟劉某であった。主人と義弟、姉と弟はふだんたいへん睦まじく、諍いはなかった。その姉は男子を生んでいたが、年はわずか五歳であった。弟が来るたびに、代わりに食事を与えたり、抱いたりしてやるのが、習慣になっていた。その年の五月十三日、劉がふたたび甥を抱きにきたので、姉が渡すと、劉は甥を水缸(みずがめ)の中に擲ち、石で圧し殺した。姉が驚いて走って見にゆくと、麦を切る刀を持って姉を斬り、その首を断った。姉の夫が救いにくると、さらに刀を持ってその腹を刺した。腸が一尺余り出ていたが、まだ息絶えていなかった。わたしはどんな怨みがあるかと尋ねたが、傷ついた者は平素怨みはないと力説し、言いおわると息絶えた。劉に尋ねると、劉は語らず、両目をやぶにらみにして、天に向かって大声で笑った。わたしはこの事件を審理するのは難しいので、即刻杖で打ち殺したが、今でもなぜなのか分からない。
 また、寡婦某は節を守ること二十余年、家の内外につまらない噂はなかった。ところが五十歳を過ぎると、一人のしもべと密通し、難産となって亡くなった。習性を改めることの奇怪さは、いずれも虎、狗と同じである。

葫蘆(ひょうたん)を夢みること
 尹秀才廷一[78]は、合格する前、落第するたびに、かならず神から葫蘆(ひょうたん)を授かる夢を見たが、合格発表があると不合格なのであった。その後、受験するたびに吐き気を催し、毎回かならず葫蘆(ひょうたん)を夢みたが、夢みるたびに葫蘆(ひょうたん)はますます大きくなるのであった。雍正甲辰科の時のこと、受験の前の晩、尹はふたたび夢みることを恐れ、坐して朝を待ち、夢みることを避けようとした。するとかれの若いしもべが眠りながら大声で叫んだ。「葫蘆(ひょうたん)を夢みました。旦那さまと同じくらいの大きさでございます」。尹は不吉であることを悲しんだが、どうすることもできなかった。その後合格発表があったが、尹はなんと三十二名に合格していた。三十名は姓を胡といい、三十一名は姓を盧といい、いずれもたいへん若かった。はじめ小さい葫蘆(ひょうたん)を夢みたのは、二公が生長してないかったからだということがはじめて分かった。

?仙が問題を示すこと
 康熙戊辰の会試で、受験生が?仙に問題を示すことを求めたところ、?仙は「知らず」の二字を書いた。受験生は再拝して頼んだ。「神仙におわしますのに、ご存じでないはずがございましょうか」。?仙は「知らず。知らず。又知らず」と大書した。人々は大いに笑い、?仙は知らないのだと思った。その試験では、問題が「命を知らざれば、以て君子と為す無きなり」の三節[79]であった。さらに甲午の郷試の前、秀才が?仙に問題を示すことを求めると、?仙は「語るべからず」の三字を書いた。秀才たちがしきりに懇願すると、「正に『語るべからず』の上に在り」と書いた[80]。人々はますます分からなくなり、ふたたび?仙に明示することを求めると、?仙は一つの「署」の字を書き[81]、さらに尋ねると、返事しなかった。その後、問題は「之を知る者は、之を好む者に如かず」の一章[82]であった。

お神籤の預兆
 秦状元大士[83]は散館[84]になろうとする頃、関廟で籤を抽いたが、「(せい)(きた)れば(よろ)しく(この)心を()りて()づべし[85]」の句を得たため、鬱鬱として楽しまず、神がかれに疚しい事があるのを笑ったのだと思っていた。その後、『松柏有心賦』の試験があったとき[86]、「(しん)」の字を韻にしたが、全篇「心」の字に圏点を打つのを忘れていたのに、採点者は高等として呈上した。聖上は御覧になると、尋ねた。「『心』の字の韻はどうして明示していないのだ[87]」。秦は俯いて謝罪し、採点者もともに拝謝した。聖上は笑って仰った。「『状元に無心の賦有り、主司に有眼の人無し[88]』だな」。

巧みな詐術
 詐術の巧みな者は、騙せば騙すほど巧みになる。金陵で老翁が数両を持ち、北門橋の両替屋へ両替しにいったが、銀の品質を言い争うのをやめなかった。すると一人の少年が外から入ってきたが、たいへん礼儀正しく、翁を老伯[89]と呼び、言った。「ご令息は常州で交易をしていましたが、わたくしと同僚で、現金封筒一通をわたくしに托して老伯に届けさせました。お宅に伺おうとしておりましたが、途中でお遇いするとは思いませんでした」。現金封筒を渡すと、一揖して去った。
 老翁は手紙を裂くと両替屋の主人に言った。「わたしは眼が霞んで、手紙を見ることができませんので、読み上げてください」。店の主人が言われた通りにしたところ、すべて日常のこまごまとしたことだったが、末尾には「それから、紋銀[90]十両は、父上の煮炊きの費用になさってください」とあった。翁は喜びの顔色を浮かべ、言った。

「先ほどの銀をお返しください。銀の品質を言い争うことはございません。息子が寄せた紋銀は、紙に十両とはっきり書いてございますから、これを両替なさってはいかがでしょうか」

主人がかれの銀を受け取って量ったところ、十一両三銭であったので、かれの子が手紙を送る時、慌てて調べなかったため、手紙には十両とだけ書いてあるのかと訝った。そして老人も自分では量ることはできず、間違いをそのままにしておけば、利益を得ることができるので、すぐに九千銭を与えた。当時の相場では紋銀十両は、銅銭九千に両替するのが慣例であった。翁は銅銭を背負って去った。
 まもなく、一人の客が傍で笑った。

「ご主人は騙されたのではございませんか。あの爺さんは、積年のペテン師で、偽の銀を用いている者なのです。わたしはあいつが銅銭に換えにきたのを見て、ご主人のことを心配していましたが、あの爺さんがお店にいたので、はっきり言おうとしなかったのです」

主人は驚き、その銀を剪ると、中身は鉛であったので、後悔してやめなかった。再三客にお礼を言い、翁の住所を尋ねたところ、言った。

「爺さんは××に住んでいて、ここから十里余のところですから、追われればまだ間に合いましょう。ただわたしは爺さんの隣人です。爺さんはわたしが種明かしをしたのを知れば、わたしを(かたき)にしましょう。あのひとの家の入り口をお告げしますから、ご自分で追いかけてゆかれませ」

主人が同行することを望むと、言った。

「いっしょにあいつのところへ行き、あいつの家の入り口を告げ、すぐに逃げれば、爺さんはあなたが言ったことは分からないから、(かたき)にされることはあるまい」

客はまだ承知しなかったが、三両を謝礼にすると、客はやむを得ずしぶしぶ行くかのようであった。
 ともに漢西門外に行くと、老人が銅銭を(たんす)の上に並べ、数人と酒を飲んでいるのがはるかに見えた。客は指さすと言った。

「あれです。はやく捕まえにゆきなさい。わたしは行きます」

主人は喜び、ただちに酒肆に入り、老翁を掴んで殴ると言った。

「おまえは積年の詐欺師だな。中身が鉛の十両の銀をわたしの九千銭と換えたな」

人々が立ち上がって事情を尋ねると、老翁は平然と言った。

「わたしは息子の銀十両を銭に換えましたが、中身は鉛ではございません。わたしが偽の銀を用いたと仰るのなら、わたしの元の銀をお見せいただけますか」

主人は元の銀を剪って人々に示した。翁は笑って言った。

「これはわたしの銀ではございません。十両だけでしたから、銭九千を得たのです。今この偽の銀は十両以上あるようですから、わたしの元の銀ではございません。ご主人がわたしを騙しにきただけです」

酒肆の人々が秤で量ってやると、十一両三銭であった。人々は大いに怒り、主人を責めたが、主人は答えることができなかった。人々は立ち上がるとかれを殴った。
 主人は貪欲な一念を生じたために、老翁の計に嵌まり、後悔して帰った。

詐術が巧みな報いを受けること
 詐術には巧みな報いを受けるものがある。常州の華という客商は、三百両を携え、淮海[91]の地で品物を買おうとしていた。舟が丹陽[92]を過ぎると、岸辺で客が旅嚢を背負い、たいへん焦りながら、船に乗せてくれと叫んでいた。華は憐れみ、船を停めて待つように命じた。船頭は手を振り、悪人が災いをなすことを心配した。華がつよく命じると、船頭はやむを得ず、客を迎え入れ、後ろの船室に泊まらせた。丹徒に着こうとする頃、客は旅嚢を負って出てくると言った。

「わたしは親戚を訪ねるために来たのです。今はもう親戚の処に着きましたから、去ってゆくことができます」

華に礼を言うと、岸に上がっていった。まもなく、華が箱を開き、衣を取ろうとしたところ、箱の中の三百両がすっかり瓦や石に変わっていたので、客にこっそり換えられたと悟り、後悔することしきりであった。
 するとにわかに雨となり、寒風も逆巻き、舟は進むことができなくなった。華は、お金はすでに盗まれてしまい、品物を買う資金はないから、故郷に帰って金を工面し、ふたたび淮海に赴くにしくはないと考えた。そこで船頭を呼び、舟を引いて返らせることにし、その金額は淮[93]に来るときの金額と同じにすることにした。船頭はそれに従い、順風に帆を張って帰った。
 奔牛鎮[94]を通ったとき、またも人が雨を冒し、荷を負いながらびしょびしょになって立っており、船に乗せてくれと呼びかけていた。舵取りが見たところ、それは銀を盗んだ客だったので、急いで船室に潜み、水夫に命じて迎えさせた。日は暮れて雨は激しかった。その人は船が戻ってきたとはつゆ知らず、焦って待っていられず、荷物を持つとまず水夫に渡し、自分は船室に飛び込んだ。そして華がいるのを見ると、大いに驚き、狂奔して逃げた。かれの旅嚢を開くと、元の銀三百両がそっくり残っており、ほかにも真珠数十粒があり、価値は千両ばかりであった。華はそれから大いに富んだ。

香亭[95]が夢を記憶したこと
 香亭は乾隆壬辰[96]の冬に都に赴いて謁選[97]するとき、東昌[98]に回り道した。十二月五日、冠城県[99]の東関の旅籠に泊まった。夜に夢みたところ、とある庭園に至ったが、竹、石は疎らで清げで、人境とははるかに異なっていた。(つくえ)の上には一巻の書が横たえてあり、字は蝿頭の小楷[100]であった。閲すると、ある物語が載せられていた。
 「新野[101](ほり)[102]には巨魚がおり、麗人に化していたが、名づけて『喬如』といった。李家の子は惑わされていたが、三百六十日たつと、溺れて死んだ。宋家の子も惑わされ、三十六日を経ると、やはり死んだ。楊家の子はかれが(あやかし)であることを知っていたが、ことさら受け入れ、とりわけ寵愛したが、かれが水を飲まないようにしたので、喬如は術を施さなかった。三年で、三子を生んだが、すべて魚に化した。六年たつと、楊家の子は全身に鱗を生じ、喬如はますます艶冶になった。ある晩、暴風雨があったが、喬如が楊家の子を抱きかかえると、二人の体が合わさって一つの体になったが、頭は別々になっており、?(せびれ)を奮ってともに飛び、洞庭湖へと飛び込んだ。日の出の時は、楊が水を飲み、日の入りの時は、喬如が水を飲んだ。楊家の子はまだ喬如と交歓していると思っており、魚となって水におり、不死となったことは知らなかった。これが『その物を物とし、その化を化とする』ということである[103]」。
 それから後は、字は模糊として識別できなかった。鐘が鳴り、夢から醒めると、枕辺で黙誦し、一字も忘れなかった。

敦倫(とんりん)
 李剛主講[104]は正心誠意これ学び、日記には、行った事を、かならず事実に従って書いていた。その妻と媾うたびに、かならず楷書で「某月某日、老妻と敦倫(とんりん)すること一回なり」と記すのであった。

一字千両、一咳万両
 商邱[105]の宰[106]某が、とある事件について上申したとき、「卑職(わたくし)が審理いたしましたところ、すこしも疑義はございません」の八字があった。?使[107]某はその専横を怒り、反駁、戒告してやめず、経承の部署に告げ[108]、枷で責めさせようとした。楊は急いで「もし疑義がなければ」の四字に改め、ふたたび上申したところ、批准されて戻ってきた[109]。しかし往復の旅費、司房[110]への付け届けはすでに千両に達していた。
 ?上[111]の令某は、巡撫某に会ったとき、たまたま寒疾(かぜ)を患っていたため、大きな声で咳をした。某はその不敬を怒り、かならず弾劾しようとした。仲介者に頼み、ひそかに万両を献じてようやく免れた。人々は「一字千両、一咳万両」と噂した。

菩薩が答拝すること
 わたしの祖母柴太夫人がいつもわたしに語っていたこと。その外祖母の楊氏は老いて男子がなかったので、その娘洪夫人に頼り、年は九十七で亡くなった。楼に住み、仏を敬い、経を誦え、三十年間、足は地を履まなかった。性格は慈悲深く、楼の下で奴婢を笞うつ音を聞くと、うろうろして食事することができなかった。奴婢で楼に上ってくる者があると、かならず自分が食べているものを分けていっしょに食べさせた。九十以降は仏を拝すると、仏像が起立、答拝したので、太夫人は大いに怖れた。時にわたしの祖母はまだ幼かったので、かならず招いて付き添わせ、「おまえがこちらにいれば、仏さまはわたしに答拝しないからね」と言うのであった。亡くなる三日前、盆を求めて足を洗おうとした。(はしため)がふだん用いていた木の盆を進めると、言った。「いけないよ。わたしはこれから蓮花を踏むのだから、洗顔の銅盆を持ってきておくれ」。するとにわかに、旃檀の香りが空から漂ってきて、結跏趺坐して亡くなった。亡くなった後、香りは三昼夜たってはじめて散じた。

暹羅(シャム)では(ろば)を妻とすること
 暹羅(シャム)の風俗はもっとも淫靡である。男子が十四五歳の時、その父母は牝の(ろば)を娶ってやり、交接させる。夜眠るときは(ろば)を縛り、その(へのこ)(ろば)の陰の中に入れて養うと、異常に強く逞しくなる。このようにすること三年、はじめて正妻を娶るが、その(ろば)を迎えて終生養い、側室と見なすのである。(ろば)を娶らない者には、娘も嫁ごうとしないのであった。

倭人が肛門で薬を服すること
 倭人は病むと薬を飲まない。治療することができる、年老いた倭人は、一桶の薬を煮、病人は腹這いにさせ、竹筒を肛門に挿入し、薬水を熱いうちに灌ぎ込み、力いっぱい吹くのである。まもなく、腹でごろごろと音がしたとき、竹筒を抜き出すと、一気に下して病は癒えるのである。

獅子が蛇を撃つこと
 戈侍御涛[112]が言った。「わたしの太翁[113]は名を錦[114]といい、某県の令となった。たまたま西洋人が獅子を献上するためにその県を通ったが、獅子は途中で病んだので、護送官とともに宿場にしばらく駐まった。獅子は大樹の下に伏していたが、まもなく、頭を上げて辺りを見回し、金の光は人を射た。爪を伸ばして樹を撃つと、樹の根は断たれ、鮮血が迸った。中では大蛇が裂かれて斃れていた。それより前、駅では馬が病を患うことが多く、しばしば死んでいたが、それからは災いが除かれたので、手厚く貢使を持てなした。都に着くと、宮廷に献じたが、象は獅子を見ても跪かなかった。獅子が震怒し、一声長く吼えると、象はみな俯伏した。勅を奉じて本国に帰らせることにしたところ、数日後、陝西巡撫の上奏が届いたが、『京師で獅子を放たれましたが、本日午の刻にはすでに潼関を過ぎました』とあった」

賈士芳
 賈士芳は、河南の人、若いときは痴愚のようであった。兄某は勉強し、士芳には耕作を命じたが、天上に遊びにゆこうといつも考えていた[115]。ある日、道人が尋ねた。

「おまえは天に上ろうとしているのか」

「はい」

道士は「目を閉じてわたしに従え」と言い、空に飛び上がったが、耳元では風涛の声が聞こえるばかりであった。まもなく、目を開くように命じると、壮麗な宮室が見えた。道士は士芳に言った。「すこし待っていろ。入ったらすぐに来るから」。しばらくすると出てきて「お腹が空いたか」と言い、酒一杯を授けた。賈は半分飲んで止めたが、道人は強いずに、「こちらはおまえが長居する処ではない」と言った。そして目を閉じさせ、進んだが、前と同じような風涛の音がした。
 まもなく目を開くと、もとの場所にいた。かれの兄の書斎に歩いてゆくと、兄は驚いて言った。

「おまえは人か。鬼か」

「わたしは人でございますのに、なぜ鬼とお思いになるのでしょう」

「数年戻らなかったが、今までどこにいたのだ」

「わたしは人といっしょに天上に行きました。往復半日に過ぎませんのに、なぜ数年と仰るのでしょう」

その兄は弟が惚けていると思い、相手にせず、弟子に『周易』を講義した。士芳は傍に坐してそれを聞いていたが、起ちあがると、手を振って言った[116]。「兄さんは間違っています。この卦の九五[117]の陽剛[118]は六二[119]と相応じており、陰陽は徳を合わせて[120]、位を得、時に乗じ、水火は相(すく)い、変じて正月の卦となるのです。これを過ぎれば、剛[121]はだんだんと昇り、柔[122]はだんだんと(くだ)るのです。上九[123]に至ると、数は極めることはできず、極めれば悔いがあり[124]、悔いがあれば潜み、剥復[125]の機を待つのです」。その兄は大いに驚き、言った。「おまえは勉強していないのに、『易』の理をなぜこのように精密に分析できるのだ」。そしてかれが異人に遇ったことを信じた。遠くのものも近くのものもかれを慕ってやってきて、禍福を尋ねると、ことごとく(しるし)があった。田中丞[126]が奏聞すると、召見を蒙ったが、結局不法行為によって誅に伏した。
 ある人が言った。賈が遇った道人は、姓は王、名は紫珍といい、もっとも神通力があるのだと。かつて茶を煮たとき、かれは賈を招き、それを見せ、指さして言った。「煮た当初は、茶の葉は乱雑に浮き、清濁は分かれていないが、これが混沌の象だ。まもなく、水は上に、葉は下になるが、これが開闢の象だ。十二万年は、このような一瞬のことに過ぎない」。
 ?文敏公[127]が河道総督[128]であった時、賈はつねに役所におり、人々は多くはかれを崇拝していた。敬わない者がいると、賈はかならず人がいない処に引いてゆき、その平生の隠事で妻子が知らないことを逐一語るので、その人は愧じて従うのであった。さらにいつも人に「鬼を畏れるか」と尋ねた。鬼を畏れると言えばそれでよいが、畏れないと言えば、その夜かならず奇怪で凶悪な姿形をした者が部屋に入って騒ぐのであった。

石男(うまずお)
 「石婦(うまずめ)」の二字は、『太玄経』に見え[129]、その来歴は久しい。半男半女の体に至っては、仏書もしばしば説いているが、近ごろはさらに「石男(うまずお)」というものがある。揚州の厳二官は、(かお)はたいへん美しかったが、親しむ人がいなかった。その肛門は緑豆のように小さく、糞便は線香のようであった。昼に粥一碗、酒数杯、野菜少々を食べるだけ、多ければ腹はにわかに膨れ、大便する時は異常に苦しむのであった。

鬚の長さが一丈あること
 黄龍眉[130]は、震沢県[131]の人、熱河四旗庁[132]の巡検[133]の位にあり、鬚は長さが一丈あまり、腰を二巡りし、残りは地に垂れていた。

禁魘婆(きんえんば)[134]
 粤東崖州の住民は、半ばは黎族[135]だが、生黎、熟黎の区別がある。生黎は五指山[136]中に住み、王化に服していないが、熟黎は官長を尊び、会いにくるときは膝行して入ってくる。
 黎族の女には禁魘婆(きんえんば)がおり、禁呪して人を死なせることができる。その術は呪うべき人の鬚や髪か、吐きだした檳榔を取り、竹筒の中に納め、夜は裸で山頂に仰臥し、星、月に向かって符を施し、呪を誦えるものである[137]。七日目になると、某人はかならず死ぬが、全身に傷はなく、軟らかいこと綿のようである。黎族を呪うことができるだけで、漢人を害することはできない。かれの害を受けた者がかれを捕らえてお上に訴えるときは、かならず長い竹筒に縄を通し、かれの頚を縛り、曳いてゆくが、そうせずにかれの身に近づけばかならず呪われてしまうのである。禁魘婆(きんえんば)に拠れば、人を呪わない場合、期日を過ぎれば自分がかならず死ぬそうである。
 禁魘婆(きんえんば)の中には年若い者がおり、年頃にならないのに法術を行うことができるが、それは先祖伝来のものだからである。その呪文は秘密のもので、杖殺されても、人に告げようとしない。禁魘婆(きんえんば)はいても、禁魘公[138]はいないが、その術は女に伝えて男には伝えないからである。

竹籤(ちくせん)を割ること
 黎族は田地を売買するとき、証文がなく、一片の竹籤(ちくせん)を用いるだけである。売価が幾ばくであるとき、刀を用いて金額を籤に刻み、向かいあって二つに裂き、買い手、売り手双方がその半分を執って証拠にする。日を経て転売するときは、元の持ち主の片方の籤を取り、合わせて調べる。かれらの税籤[139]は税契[140]のよう、お上に請うて紙に印を捺させ、その竹籤(ちくせん)の末尾を封じる[141]。春と秋に年貢を納めるが、内地より豊かである。

黎族の進舍
 黎族は嫁ぐとき、輿馬を用いない。吉日に、新郎は紅い布一匹を持って舅の家に行き、新婦を包み、背負って帰るのである。その風俗では、結婚する前、婿はひそかに舅の家に行き、その妻と野合するが、これを「進舍」と言う。子を生んでから女を背負うことができれば、人々は誉れと見なす。近所はつぎつぎにお祝いし、それぞれ白い紙に番銭[142]数元を封じ、その入り口に着くと、竹筐の中に抛つ。その主人は大甕に酒を貯え、門前に並べ、甕の中に細い竹筒数本を挿す。お祝いの客が来ると、それぞれ筒の挿された甕に伏して酒を飲む。飲みおわると、送迎、拝跪の礼はない。これはわたしが肇慶府の役所にいたとき、刻B刺史[143]陳桂軒がわたしに語ったことである。

海の怪異
 海水は上が鹹水、下は淡水で、魚は鹹水で生まれたものは、淡水に入るとすぐに死に、淡水で生まれたものは、鹹水に入るとすぐに死ぬ。鹹水で飯を煮ると、水は乾いて米は熟さず、淡水を用いて煮るとはじめて熟する。水が清ければ、二十余丈下を望み見ることができるが、青、紅、黒、黄、その色は一つではない。人が小便すれば、水の光は火の光に変わり[144]、乱れた星が噴き上がる。魚はつねに高く飛び、鳥か雀のよう、虎に変わるものもあれば、鹿に変わるものもある。

喝呼草(かっこそう)?子竹(かいしちく)[145]
 恵州[146]の山中に草があり、怒鳴れば葉が捲れるので、「喝呼草(かっこそう)」と称せられている。羅浮山[147]に「?子竹(かいしちく)」があり、小さいが強いので、截って箸にすることができるが、人が声を出すことは許されない。声を出して呼ぶと、土中に逃げ込み、捜しても見付からない。

?蛇(うわばみ)と藤
 瓊、雷両州では、?蛇(うわばみ)は車輪ほどの大きさで、通る処は、異常に腥く、毒があり、遇った者はかならず死ぬのであった。性質は淫であり藤を畏れるので、土人はしばしば婦人の?(したばき)と藤蔓を腰に入れ、腥い臭いがして蛇が来たことを知ると、まずは婦人の?(したばき)を擲つのである。蛇は頭を挙げて?(したばき)に入れ、吸ったり嗅いだりするのをやめない。その後に藤で撃つと、蛇はすぐに萎縮して、人が縛るのに任せる。縛って帰ると、樹に釘うち、刀を用いて腹を剖くのだが、蛇は気付いていないかのよう、胆に手が及ぼうとすると、はじめて護る動作をする。胆は人に取られるのを畏れ、上に逃げたり下に逃げたりし、捉えることは難しい。蛇が死に、腹が裂けると、胆は地面に落ちても、一丈あまり躍り上がるが、だんだんと力が尽き、勢いが弱くなる。取って(ひさし)に掛けても、その胆の中の汁は終日上下に奔騰し、一瞬も停まることがない。晒して乾かした後、ようやく薬にすることができるのである。

虎を網すること
 江西の?陽湖の漁師が網を収めたが、とても重いのを訝り、解いて見たところ、斑のある虎であったが[148]、惜しいことにすでに死んでいた。

福建の解元
 裘文達公[149]が福建で典試[150]となったときのこと、解元[151]の文を素晴らしいと感じ、合格発表の後、すぐに会おうとした。昼に役所に坐していると、門の外で騒ぐ声が聞こえたので、尋ねると、解元と公の家僕が門包[152]のことで口論していた。公は浅ましいことだと思い、かれが貧しいのかと訝り、家僕が金をせびるのを禁じ、すぐに面会した。その人は顔付きや物言いが、いずれも粗鄙で取り柄がなかった。そこで悶悶として、方伯[153]の某に、士人を選ぶのに失敗したことを悔いていると告げた。
 方伯は言った。「仰らなければ、申しあげようとしませんでした。合格発表の一日前、わたしが夢みましたところ、文昌[154]、関帝が孔夫子とともに坐していました。朱衣の者が『福建題名録[155]』を持ってきますと、関帝は顔を蹙めて言いました。『この第一位の男は平生悪事をし、横暴なのに、なぜ解元になったのだ』。文昌は言いました。『かれは官位がとても高かったのですが、善行がなかったために、すでに削り尽くされています。しかしかれは闘いを好んでいますが、母親が怒鳴るのを聞くとすぐに止めます。思うにこれは孝心に属することでございますから、とりあえず解元にしてやって、すぐに死なせるべきでしょう』。関帝はなおも怒っていましたが、孔子が黙っていたことも、奇妙なことでした」。まもなく某は亡くなった。

顧四が妻を嫁がせたが再会したこと
 永城[156]の呂明の家の佃戸顧四は、乾隆丙子の年が凶作だったので、その妻某氏を売り、江南虹県の孫某に嫁がせたところ、妻は一女を生んだ。翌年は豊作だったので、顧はさらに後妻を娶り、息子の成を生んだ。成は若くして遠出し、人のため傭工となり、流転して虹県の地に行き、孫姓の家に入婿した。二年後、妻の父が歿すると、成は頼る人がいなかったので、その妻と妻の母を連れて永城に戻った。顧四が出ていって会うと、息子の岳母(しゅうとめ)は、自分のもとの妻であった。顧の後妻は一月前に歿していたので、元通り夫婦となった。

千里の客
 万暦年間、紹興の商冢宰[157]は邸宅を新築することにし、占ったところ「千里の客が来てこの邸宅に住む」ということであった。当時は訝しく思っていたが、国初になると、王侍御蘭膏先生は塩政[158]に任ぜられ、紹興に来て[159]、この家を買って住んだ。王は別号を「千里」といい、江寧の王検校[160]大徳の父であった。

趙子昂[161]が?に(くだ)ること
 ケ宗洛秀才が言った。伯祖[162]の開禹公が若かったとき、海寧の陳大司空の家に入婿したところ、人々が?仙を招いたので、公も一生のことを尋ねた。?は「わたしは趙子昂だ」の五字を書いたが、さながら趙の書のようであった。公は傍らですこし笑うと「両朝の人物か」と言った。?はすぐに詩一首を書いた。「(わら)()かれ(わが)()の両朝に(つか)ふるを、姓名(ひさ)しく(すで)丹霄(たんせう)[163]()く。書生は(もち)ゐず饒舌(おほ)きを、(なんぢ)寒氈(かんせん)[164]寂寥(せきれう)(なげ)くに(まさ)れり[165]」。後に公は年は八十、歳貢を経て来安[166]の訓導に任ぜられ、十年で亡くなった。

神仙が考証を解さないこと
 乾隆丙午、厳道甫[167]は中州[168]を旅した。?仙が鞏県の劉氏の?に降ったが、みずから雁門[169]の田穎[170]と称した。詩文字画はいずれも見るべきものであったし、古の名士、韓、柳、欧、蘇を招き、降ってこさせることができた。劉氏が言うには、祭壇をその家に設けてすでに数年になるとのことであった。中州で役職に就いている者は、みなかれを信仰していた。穎はもともと唐の開元、天宝年間の人で、張希古の墓志[171]を撰したことがあった。石碑は西安の碑林[172]にあったが、畢中丞[173]は近ごろ移して呉中の霊巖山館[174]に置いた。
 ある日、?仙が役所に(くだ)ったが、来るとすぐにそのことを語り、保護してくれた功績に感謝した。この事を知っている者はいなかったので、みな不思議なことだと称した。時に厳道甫が座にあったが、言った。「墓志に『左衛馬邑郡尚徳府折衝都尉張君』とあります。調べたところ唐の府兵[175]はすべて諸衛に属しており、左右衛は六十の府を領していました[176]。墓志に尚徳府は左衛の所領であるとあるのは、確かですが、『唐書』地理志では馬邑郡に属する「尚」徳府はなく、墓志が何に拠っているのか分かりませぬ」。?仙は?をしばらく停めると、言った。「そのかみ筆を下した時、行状[177]だけに従って開く載せる、唐書『地理志』は、欧九[178]が編修したものだから、会った時に尋ねて、ふたたびご報告しよう」。しかしそれからは節署が招くと、?はふたたび降ってこなかった。他の所で招いても、道甫がいると、?仙はやはり降ってこないのであった。

産公
 広西太平府の幕僚の妻が子を生んだが、三日を経ると、溪河(たにがわ)で水浴びした。その夫は衾を擁し、子を抱きながら寝台に坐し、起き臥し飲み食い、すべてその妻の介添えが必要で、すこしでも守ってやらないと、まるで妊婦のように(やまい)を生じるのであった。名づけて「産公[179]」といったが、妻は苦しまないのであった。これは査中丞倹堂[180]が話したことである。

烏魯木斉(ウルムチ)の城隍
 烏魯木斉(ウルムチ)で乾隆四十一年に城を築いたときのこと、至徳年間の残碑があり、中に「金蒲」の字があった。その地は唐の時代は金蒲城で、今『唐書』が「金満城」に作っているのは、誤りであることが分かった。同じ頃、城隍廟が建設されていたが、工事を始めて三日目に、都統の明公亮[181]が夢みたところ、儒冠の男が来て、姓は紀、名は永寧といい、陝西の人である、昨日天山の神の命を奉じてこの地の城隍になったため[182]、謁見しにきたと言ったので、公は驚いた。
 時に畢公秋帆[183]が陝西の巡撫であったので、手紙で問い合わせた。畢公は州県に命じて調べさせたが、今生きている紀姓の者の中で、名を永寧という者はいなかった。たまたま厳道甫が『華州志』を編修していたが、紀姓のものが家譜を持ってその遠祖を登載することを求めにきた。調べたところ、なんと名を永寧という者がいた。かれは明の中葉の生員であった。平生とりたてて善行はなかったが、嘉靖三十一年の地震の時だけ、資金を投じて、傷ついて死んだ者のうち四十余人を埋葬したのであった[184]。そこで明公に報告した。手紙が届いたのは、ちょうど廟が落成した日であった。

黒霜
 四海はもとより一つの海で、南方に見えるのが南海、北方に見えるのが北海で、経伝を検証してもすべてそうである。厳道甫はかつて秦中[185]を旅し、誠毅伯伍公[186]に会ったところ、語るには、
 雍正年間、鄂勒[187]に使者として行ったとき、平素から北方に海があると聞いていたので、見にゆこうとすると、国人は難色を示した。つよく頼むと、西洋人二十名を割り当て、羅盤[188]、火器を持たせ、幾重もの毛氈で車を包ませた。従者はすべて駱駝に乗ってついていった。
 北へ行くこと六七日、城郭のような氷山があったが、その高さは天に入るほど、光っているため近づいて見ることはできなかった。下には洞穴があったので、従者は火で羅盤を照らし、くねくねと入っていった。行くこと三日で外に出たが、出れば空は黯淡として玳瑁のよう、時折黒煙が吹いてきたが、人にぶつかると砂礫のようであった。洋人は言った。「これは黒霜でございます」。数里進むたびに、巖穴があれば逃げ込み、硫黄で火を起こしたが、その地は草木を生じないので、石炭がないからであった。一時(いっとき)後、ふたたび進んだ。
 このようにしてさらに五六日、二体の銅人が対峙していたが、高さは数十丈、一体は亀に乗り、一体は蛇を握っていた。前には銅柱があったが、虫篆[189]は判読することはできなかった。洋人は言った。「これは唐堯皇帝[190]が立てたもので、柱の上に書かれているのは『寒門』の二字だと伝えられています」。そして車に戻るように頼んだ。「進んでゆくと海に着きますが、約三百里のあいだ星や日が見えず、寒気は肌を切り、中たればすぐに死んでしまいます。海水は黒い漆のよう、しばしば裂けることもあり、そのときは夜叉、怪獣が現れて人を攫います。そこに行きますと水も流れず、火も熱くありませぬ」。そこで公が火を貂裘に着けて試したところ、燃えなかったので、嘆息して戻った。
 城に入り、従者を点検したところ、五十人のうち凍死者は二十一人であった。公は顔が黒漆のよう、半年後、はじめて元に戻ったが、従者には終生ふたたび白くならない者があった。

中印度[191]
 後蔵[192]の西南四千余里に、務魯木(ウルム)という所があるが[193]、それが仏経にいう中印度で、世尊がそこにおわすのである。金銀の宮闕は、仏書が説いているものと異ならない。宮門の外には池があり、方形で広さは百里、白蓮は(とます)のよう、香気が衣に着くと、一月経っても散じないが、それが阿暫池[194]だという。気候はおしなべて三四月のよう、粳の稻は二度熟する。金銀はなく、みな品物で交易する。達賚喇嘛(ダライラマ)は五年に一度目通りしにゆく。
 聞けば雍正初年、鄂羅索[195]は一万余の兵を発し、猛象数百を駆って闘いにきて、その地を奪おうとした。世尊は禁呪を行い、毒蟒数千を遣わして防ぎにゆかせた。鄂羅索は懼れ、拘束を受けることを請うと、蟒蛇はたちまち見えなくなった。世尊は言った。「これは(いか)りの心がもたらしたものだから、(いか)らなければ消えるのだ」。そしてこの地は人が少ないから、十年ごとに童子童女五百を献じてくるべきだと諭した。そしてかれらを結婚させ今でもなおそうしている。これは誠毅伯伍公が語ったことである。

来文端公[196]の前身は伯楽であったこと
 来文端公は伯楽の生まれ変わりだとみずから言っていた。眸には炯炯として光があり、馬を見るときはひとりすぐれた理解力を備えていた。兵部及び上駟院[197]で仕事をしていた時のこと、馬を選ぶ時はいつも、百十頭を一群れにし、一瞥するだけで、その欠点が細かくても、逐一指摘したので、馬を売る者は驚いて神かと思っていた。年が七十になった後は、つねに目を閉じて静かに精神を集中し、馬が通るたびに、じっと蹄の音を聴いたが、その良否を知るばかりでなく、毛色や疾病も、すべて知ることができるのであった。聖上が乗る馬は、まず公に命じて選ばせた。
 内侍衛数人が、三頭の馬を精選し、百回試しても間違いがなかったので[198]、献上しようとした。公は当時すでに老い、まぶたは垂れ下がっていたが、両指で眼を広げて見ると、言った。「一頭は用いることができますが、二頭は用いることができません」。ふたたび試したところ、暴れ馬であった[199]
 ある日、内閣に坐していると、史文靖公[200]が馬に乗り、閣門の外に来て下りたが、乗っていた棗?馬(あかうま)はとても佳いとたまたま言ったところ、公は言った。「佳いことは佳いのですが、公が乗っているのは黄?馬[201]です。騙すことはできません」。文靖は言った。「さきほど言ったことはほんとうに間違いだったが、おんみはどうして分かったのだ」。公は笑って語らなかった。
 別の日、梁文荘公[202]は内閣に入るのがすこし遅れ、みずから言うには、乗っていた馬が水に中たったので、歩むのが困難だったとのことであった。公は言った。「水に中たったのではなく、あやまって水蛭を呑んだだけです」。文荘が獣医を招いて針治療すると、水蛭数升を下して癒えた。
 公はいつも侍読厳道甫[203]に言った。「二十歳の時、長安門外で首枷を負うこと三十余日、『易』象の乾坤二卦を玩味し、馬を見る方法を会得したのだ。すぐれた理解力の境地は、口で人に授けることはできない」。

福建試院[204]の樹神
 紀太史暁嵐[205]が?省[206]で視学したときのこと、試院の西の書斎に柏一株があり、天を衝き、日を蔽っていた。幕中の友人は、深夜になると男がその下を行き来するのをいつも見ていたが、章服[207]はすべて本朝の制度のようであるのに、袍だけは大紅[208]であった。紀は樹の神が祟りをなしていると思い、部屋を掃除し、位牌を立てて祀り、対句を作り、(はしら)の間に懸けて言った。「参天(さんてん)黛色(たいしよく)(つね)(かく)(ごと)[209]点首(てんしゆ)せよ朱衣(しゆい)(ある)いは(これ)(こう)なりや[210]」。それからは(あやかし)は絶えた。

于雲石[211]
 金壇[212]の于雲石は、翰林で役人をしていた時、その父を都に迎えて孝養を尽くすことにした。ある日、旅路を進んでいたときのこと[213]、日はすでに暮れ、四方に人煙はなかったので、旅店を捜し、投宿しにいった。宿の主人は人がいっぱいなので断ったが、于は行く手に宿がないので、泊めることをつよく求めた。宿の主人はしばらく躊躇すると、言った。「裏手に数間の空き家があるだけでございます。倅は若いときそこで勉強しておりましたが、不幸にして夭折しました。わたしは見にゆくに忍びませんので、封鎖してございます。お嫌でなければ、とりあえず一晩お泊まりになってはいかがでしょうか」。
 于はそれに従い、すぐに門を開けて入ると、四壁は塵に覆われ、?蛸(アシダカグモ)[214]は戸に満ち、(つくえ)には読み残した書物数巻があった。たまたま時文[215]の草稿一冊があったので、開いて見たところ、その子雲石が作った文と同じであった。後の数篇になると[216]、これまた郷、会試合格の答案と同じであったので、とても訝しく思った。するとたちまち宿の外から光が射し込み、向かいの石の壁に「于雲石」の文字があるのがぼんやり見えたので、すぐに燭を執ったところ、「干霄石[217]」の三字が現れた。身を翻して中に入ると、?然(バン)と音がし、石壁は倒れ、字もすぐに消えた。そこで一晩驚き、訝り、寝なかった。
 朝に出発して都に着くと、息子にくわしくその事を述べた。雲石は言葉を聞くと、思わず色を失い、まもなく地に倒れた。急いで家僕を呼び、治療させたが、意識が戻らずに亡くなった。

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最終更新日:2007319

子不語

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[1]中表は○祖父の姉妹の子供、○父の姉妹の子供、○祖母の兄弟姉妹の子供、○母の兄弟姉妹の子供、○以上の人たちの子供、などの親族関係を指す。

[2] 江西省貴渓県西南にある山名。

[3] 正一嗣漢天師。張道陵の子孫が世襲しており、龍虎山の天師府に住んでいる。

[4] ここでは張天師配下の道士のこと。

[5] 原文「身未上而K雲起」。「上」は祭壇に上がることであると解す。

[6] 雷法。道術の一つ。胡孚?主編『中華道教大辞典』五百八十四頁参照。

[7] 原文「皆錦嚢所載三事也」。未詳。とりあえずこう訳す。

[8] 薬名。セリ科の多年草。謝観等編著『中国医学大辞典』四百九十五頁参照。写真

[9] 薬名。熟地黄。地黄はゴマノハグサ科の多年草。熟地黄はその根。謝観等編著『中国医学大辞典』千五百十頁参照。写真

[10]薬名。ナス科の落葉小低木。謝観等編著『中国医学大辞典』九百六十四頁参照。写真

[11] 『旧京遺事』「京師大城一重、周四十九里、九門城、周正如印、南正陽、崇文、宣武、東朝陽、東直、西阜城、西直、北徳勝、安定」。

[12] 原文「可送我至前門外蜜蜂窩」。実際に前門外にミツバチの営巣地があったかどうかは未詳。とりあえずこう訳す。

[13] 目、耳、鼻、口。

[14] 張照。婁県の人。康煕四十八年の進士。

[15] 一族で、息子の世代にあたる者。

[16] 固有名詞かどうかは未詳。

[17] 原文「戯削木柿装入鶏卵殼中」。「木柿」という言葉は『晋書』王濬伝に見える。

[18] 主語は病人の家の者であると解する。

[19] 宋の人。王安石の新法党に属し、旧法党を弾圧した。

[20] 男子が着用する長衣。周?等編著『中国衣冠服飾大辞典』二百五頁参照。

[21] 官名。清代、書記、通訳などの事務を司った官。

[22] 原文「公甘為?弄」。「甘」の字には身分の高いものが身分の低いものの陰部を舐めるのは身分不相応であるという意識があろう。

[23] 古郡名。山西省大同の周辺。

[24] 玄帝は天帝。

[25] 李自成の軍。李自成が闖王と称していたことに拠る。

[26] 楊潮観。金匱の人。『国朝正雅集』五巻などに伝がある。

[27] みずからをこう称している。

[28] 県知事。

[29] 翰林院。

[30] 江蘇省の県名。

[31] 江蘇省の県名。

[32] 主語は江都の某令。

[33] 原文「我欲為小兒捐一知縣故耳」。「捐」は捐納。買官すること。

[34] 援助物資を横領すること。

[35] 追放し、懲役に服せしめること。

[36] 『佩文韻府』引『名勝志』「?水在万安者有十八灘、皇恐灘其一也」。

[37] 原文「為候七一案」。未詳。とりあえずこう訳す。

[38] 天子の使者。

[39]原文「貴州鉛廠事發」。鉛廠は鉛鉱山。「貴州鉛廠事」は具体的にどのような事件なのか未詳。

[40] 中風。しびれ。「灘」と同音。

[41] 仁和の人。乾隆二年の進士。『国朝耆献類徴』巻百七十八などに伝がある。

[42] 原文「錢侍御g巡視南城」。「巡視南城」とは都城の南部を巡視する監察御史であったということ。

[43] 提督九門巡捕五営歩軍統領。正二品官。

[44] 現北京市東城区王府井付近にある胡同名。

[45]梁のことを今まで一人称で叙述していたのが、三人称になっている。以下、梁は三人称で叙述される。以下、訳文も梁を三人称で叙述する。

[46] 蔭室。日光を避ける屋舎。

[47] 母屋。

[48] 原文「繞?之音與笙簫間作」。「繞?之音」は妙なる歌声。『列子』湯問「昔韓娥東之齊、匱糧、過雍門、鬻歌假食。既去而餘音繞梁?、三日不絶」。

[49] 原文「惟樓西風竿上紗燈雙紅」。「樓西・風竿上」と区切れるのであろうが「風竿」は未詳。

[50] 原文「?矣」。「?」は「冤?」。前世の業の報い。

[51] 襟のついたあわせか。

[52] 朱墨で書いた文書。

[53] 息子と娘が結婚している親同士で呼び合うときの呼称。

[54] 安徽省の州名。

[55] 張照。婁県の人。康煕四十八年の進士。

[56] 原文「文和公至此」。叙述者の意識が桐城公の方に移っているので、「此」という指示詞を使っている。

[57] 仁和の人。乾隆元年の進士。

[58] 原文「移玉字至英字之左、此其驗也」。訳文はこれで間違いないと思われるが、夢の中で張英を見たことが金徳瑛が状元になる験であったというのは、話としてはあまり面白くないと思われるのだが。何か含意があるようにも思われるが未詳。とりあえずこう訳す。

[59] 『帝京景物略』巻三・関帝廟参照。

[60]枝や葉は子孫の象徴。

[61] 孤竹は殷代の国家名。孤竹君の二子とは伯夷と叔斉。孤竹はここでは一本の竹という意味もかねて用いてある。『史記』伯夷列伝「伯夷、叔齊、孤竹君之二子也」。

[62] 賢人の書を伝、事実の記録を記という。

[63] 人を数える量詞。

[64] 銭塘の人。乾隆元年の進士。

[65] 刑部侍郎。

[66] 殿上で、進士合格者の名を唱えて呼び入れること。

[67] 原文「出其門」。科挙の合格者は、自分を合格させてくれた試験官に対して「門生」と称する。

[68] 桐城の人。桐城派の文人として著名。

[69] 雍正五年進士。

[70] 科挙合格によって得られる肩書き。

[71] 『論語』為政。

[72] 于謙。明代の忠臣。

[73] 内閣学士。

[74] ?州の人。乾隆二年の進士。

[75] 中国では女は十五歳で髪を結う。結髪はその年頃の女性。

[76] 『搜神記』にこの句なし。

[77] 原文「鳥獸不可與同群」。『論語』微子。

[78] 後ろにあるように、雍正甲辰科の進士なのだが、雍正甲辰科の合格者に尹廷一という人物はいない。

[79] 『論語』堯曰「子曰、不知命、無以為君子也。不知禮、無以立也。不知言、無以知人也」。

[80] 『論語』雍也「子曰、中人以上、可以語上也、中人以下、不可以語上也」。これは、後ろで、試験の出題箇所として出てくる「知之者不如好之者」のすぐ後ろの句にあたる。

[81] 原文「仙書一署字」。?仙が「署」の字を書くのにどのような意味があるのか未詳。

[82] 『論語』雍也「子曰、知之者不如好之者、好之者不如樂之者」。

[83] 江寧の人。乾隆十七年の進士。

[84] 会試に合格し、第一等の進士になったものが、庶常館で三年勉学し、試験を受け、その成績に従って官職を授けられること。宮崎市貞『科挙史』(平凡社東洋文庫版)百八十一頁参照。

[85] 原文「靜來好把此心捫」。「人気のないところで胸に手を当ててみろ」という意味に解釈できる。実際の趣旨は、後の記述からも分かるように「心の字にはよく注意しろ」という方向なのであろうが、その場合、「靜來」がどういう意味なのかは未詳。

[86]散館試験では、詩と賦が試験される。宮崎市貞『科挙史』(平凡社東洋文庫版)百八十一頁参照。

[87] 原文「心字韻何以不明押」。「明押」が未詳。とりあえずこう訳す。賦の試験の答案で、韻字に圏点を打つのが慣例なのかと思われるがこれも未詳。

[88] 原文「状元有無心之賦、主司無有眼之人」。「無心」はここでは不注意ということであろう。また、心の字の韻字に圏点をふっていないという含意もあろう。「有眼」は具眼の意。

[89] 父の世代にあたる人に対する敬称。

[90] 最上級の銀。

[91] 江蘇省の長江北部。

[92] 江蘇省の県名。

[93] 江蘇省の長江北部、淮河流域。

[94] 江蘇省武進県西の鎮名。

[95] 袁枚の従弟袁樹の号。仁和の人。乾隆二十八年の進士。

[96] 乾隆三十七年。

[97] 役人に選任されること。

[98] 山東省の府名。

[99]冠城県という県はない。冠県の誤りであろう。冠県は東昌府の属県。

[100] 細字の楷字。?のものが有名。?の小楷:平凡社『書道全集』。

[101] 河南省の県名。

[102] 県城の堀であろう。

[103] 原文「此之謂物其物、化其化」。「物其物、化其化」は典故がありそうだがまったく未詳。とりあえずこう訳す。「本来の形質を保ちながら、変化すべきものに変化する」という趣旨に解す。

[104] 主講は教師。

[105] 河南省の県名。

[106] 知事。

[107] 按察使。

[108] 原文「並提經承宅門」。「經承」は清代、中央各部の下役。「宅門」は未詳。

[109] 原文「乃批允核轉」。「核轉」が未詳。とりあえずこう訳す。

[110] 州、県の役所で事件の調査をする部署。刑房。

[111] 山東省の県名。

[112] 献県の人。乾隆十六年の進士。

[113] 祖父。

[114]雍正八年の進士。

[115] 主語は賈士芳。

[116] 以下の賈士芳の発言。おおむね未詳。「是卦?詞」「至上九、數不可極、極則有悔、悔則潛藏」はまったく未詳。訳は仮のもの。原文「兄誤矣。是卦?詞九五陽剛與六二相應、陰陽合コ、得位乘時、水火相濟、變為正月之卦。過此以往、剛者漸升、柔者漸降。至上九、數不可極、極則有悔、悔則潛藏、以待剥復之機矣」。

[117] 易の卦で下から五つめの陽爻。

[118]陽に同じ。

[119] 易の卦で下から五つめの陰爻。

[120] 「陰陽合コ」は『易』繋辞下にある言葉。

[121] 陽。

[122] 陰。

[123] 易の最上の陽爻。

[124] 原文「極則有悔」。『易』乾に「亢龍有悔」という言葉があり、「高く上った龍が後悔する(高みに上ればあとは下る)」という意味に解釈されている。「極則有悔」もそれと同じ意味。

[125]剥、復はともに易の卦。剥は陰が盛んで陽が衰えるさまを表す。復は陰が極まり陽が回復するさまを表す。

[126] 田文鏡。正黄旗の人。『清史稿』巻三百などに伝がある。中丞は巡撫。田文鏡は雍正二年から十年まで河南巡撫。

[127] ??。無錫の人。康煕四十五年の進士。

[128] 官名。正二品官。

[129] 『太玄経』は書名。楊雄撰。『太元経』。

[130] 康煕三十三年の進士。

[131] 江蘇省の県名。

[132] 豊寧県。現在の豊寧満族自治区。『清史稿』地理志・直隸・承コ府「豐寧。乾隆元年置。繁、難。府西北二百六十里。明、諾音衛、乾隆元年置四旗廳。四十三年改」。

[133] 官名。従九品官。

[134] 後ろの記述からも分かるように、呪術を行う老女のこと。

[135] 広東省海南島に居住する少数民族。写真

[136] 広東省定安県の西南にある山名。黎山。黎母山。

[137] 原文「對星月施符誦咒」。「施符」は未詳。

[138] 「公」はここでは「爺さん」の意。

[139] 未詳だが、黎族の不動産売買の契約書であろう。次注参照。

[140] 不動産売買の契約書。売買が成立した際、これを官府にもってゆき売買代金に比例した税を納め、印を捺してもらう。李鵬年等編著『清代六部成語詞典』百六頁参照。

[141] 原文「封其竹籤之尾」。「封」がどういう状況なのか未詳。とりあえずこう訳す。

[142] 「番」は「蕃」「蛮」に同じ。「番銭」は外国のコイン。『清史稿』志一百二十九・邦交二・英吉利「英吉利在歐羅巴西北。清康熙三十七年置定海關、英人始來互市、然不能毎歳至。雍正三年來粤東、所載皆K鉛、番錢、羽緞、??、??諸物、未幾去」。

[143] 知府。

[144] 原文「人小便、則水光變作火光」。未詳。とりあえずこう訳す。

[145] 「?子」は箸のこと。

[146] 河南省の州名。

[147] 広東省の羅浮山と思われるが未詳。

[148] 斑のある虎などいるはずがなく、これは豹なのだが、豹は虎の雌であると信じられていた。

[149] 裘曰修。新建の人。乾隆四年の進士。

[150] 試験官。

[151] 郷試の首席合格者。

[152] 門番に与えるチップ。

[153] 布政使。

[154] 文昌帝君。学問の神。胡孚?主編『中華道教大辞典』千五百五頁参照。写真

[155] 題名録は科挙合格者名簿。年齢、郷貫なども載せてある。

[156] 河南省の県名。

[157] 冢宰は吏部尚書だが、万暦年間、商姓の吏部尚書なし。

[158]塩政大臣。

[159] 原文「王侍御蘭膏先生任鹽政歸」。「歸」が未詳。とりあえず紹興に来たという意味に解する。

[160] 府の属官。未入流官。

[161] 元代の書家。宋の皇族で、宋に仕えたが、後に元にも仕えた。墨跡:平凡社『書道全集』。

[162] 祖父の兄。

[163] 天。

[164] 冷たい毛氈。寒士の生活の喩え。杜甫『戯簡鄭広文虔、兼呈蘇司業源明』「広文到官舍、繋馬堂階下。醉則騎馬帰、頗遭官長罵。才名四十年、坐客寒無氈。頼有蘇司業、時時与酒銭」。

[165] 二朝に仕えたわたしを笑うな、わたしの名はすでにひさしく天にまで届いている。書生の分際で余計なことを言うな、貧しさや寂しさを嘆いているお前よりましだ。

[166] 安徽省の県名。

[167] 厳長明。江寧の人。『清史稿』巻四百九十などに伝がある。

[168] 河南省。

[169]雁門軍。軍は唐代の行政区画。山西省。

[170] 後注に示した張希古墓志の拓本の二行目に名が見える。

[171] 拓本の写真

[172] 西安にある、歴代の石碑を集めた場所。国家文物事業管理局主編『中国名勝詞典』千三頁参照。写真

[173] 畢?。鎮陽の人。乾隆二十五年の進士。乾隆三十八年から四十四年まで陝西巡撫。

[174]畢?の書室。畢?の号を霊巖山人という。

[175] 唐代、折衝府が徴集した兵をいう。

[176] 『新唐書』志第四十・兵・府兵「左、右衛皆領六十府、諸衛領五十至四十、其餘以隸東宮六率」。

[177] ある人の一生の経歴、世系などを記したもの

[178] 欧陽修。排行が九であった。王安石が欧陽修を欧九と呼び、かれを無学であるとした話が『堅瓠集』に見える。『堅瓠集』「世傳王介甫詠菊、有黄昏風雨過園林、殘菊飄零滿地金之句。蘇子瞻續云、秋花不比春花落、為報詩人仔細吟。因得罪介甫、謫子瞻黄州。菊惟黄落瓣。子瞻見之、始愧服。後二句、又傳為歐公作。介甫聞之、曰、歐九不學之過也。不見楚辭夕餐秋菊之落英乎」。

[179] 「公」はここでは「男」という意味。

[180] 査礼。宛平の人。『清史稿』巻三百三十八などに伝がある。

[181] ?黄旗人。『清史稿』巻三百三十六などに伝がある。

[182] 原文「昨奉天山之神奏為此地城隍」。「奉天山之神奏」が未詳。とりあえずこう訳す。

[183]前注参照。

[184] 原文「曾捐資掩埋?傷死者中四十餘人而已」。「掩埋?」「傷死者」が未詳。とりあえずこう訳す。

[185] 陝西省。

[186]誠毅伯は阿喇納の子孫に与えられた称号。阿喇納の子孫は伍姓を称し、ここでいう「伍公」は伍彌泰のこと。蒙古正黄旗の人。『清史稿』巻三百二十九などに伝がある。綏遠将軍として西安にいたことが正史に見える。

[187] ロシアと思われるが未詳。

[188] 羅針盤。

[189] 虫書。鳥虫篆。書体の一つ。写真

[190] 堯のこと。

[191] 中天竺。印度を五つに分けたうちの真ん中に位置する地域。丁福保編『仏学大辞典』六百七十四「中天竺」、六百七十五頁「中印度諸国」参照。

[192] チベットで、パンチェンラマが統治している地域。『清史稿』地理志・西藏・序言其地有僧號達ョ喇嘛、居拉薩之布達拉廟、號為前藏、有班禪喇嘛、居日喀則城之札什倫布廟、號為後藏」。

[193] 原文「有務魯木者」。未詳。とりあえずこう訳す。

[194] まったく未詳。

[195] ロシアと思われるが未詳。

[196] 来保。正八旗人。『清史稿』巻三百八などに伝がある。馬の見立てがうまく、皇帝から『相馬歌』を賜ったことは正史にも見える。

[197] 官署名。蒙古地方の牧政を司る。

[198] 原文「百試無差」。「試」は試乗のことであろう。

[199] 原文「果?矣」。「?」は未詳。とりあえずこう訳す。「?」は「蹶」と同じで、後ろ足で人を蹴ること、また、速く走ること。

[200] 史貽直。?陽の人。康煕三十九年の進士。

[201] 未詳だが、栗毛で肥えた馬のことであろう。

[202] 梁詩正。銭塘の人。雍正八年の進士。

[203] 前注参照。

[204] 試験場。

[205] 紀ホ。献県の人。乾隆十九年の進士。太史は翰林。

[206] 福建省

[207]模様のある礼服。

[208] 深紅。大紅の官服は明代の制度。

[209] 天にも届く黛色の葉の色はいつも変わらない。黛は緑色。(はく)は常緑樹。

[210] 原文「點首朱衣或是公」。「點首」は未詳。「頷いてください、朱の衣の人はおんみでしょうか」。とりあえずこう訳す。

[211] 金壇の人。順治四年の進士。

[212] 江蘇省の県名。

[213] 主語は于雲石の父。

[214] 写真

[215] 八股文。

[216] 原文「入後數篇」。「入」が未詳。とりあえずこう訳す。

[217] 「天を衝く石」ということなのだろうが、「干霄石」という言葉は特に出典のある言葉とは思われないので、なぜ石の壁に「干霄石」という文字が書かれているのかがよく分からない。あるいは宿の主人の死んだ息子の名なのか。

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