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第二十巻

 

観音像を移すこと
 山西沢州の北門外に廟があり、観音を祀っていた。しばしば黄蜂(すずめばち)がその座下の石の隙間から出てきたが、紛紛として数万匹、昼間でも暗くなるのであった。土人が観音像を移し、蜂の穴を掘り、火で燻したところ、朱塗りの棺があったが、底はあっても蓋はなかった[1]、中からは女がにわかに起きあがり、紅い袖を揮うと、頚から二本の帯を垂らしながら走った。人々は目を瞠り、かれが往くに任せた。その裙には蝴蝶がびっしり刺繍されていたが、飄飄然と市中の李という家に入ると消えた。李は妻を娶ったばかりであったので、人々は事情を告げた。李は嘘だと思い、大いに人々のでたらめを罵った。三日足らずで、その家の新婦は縊れ死んだ。

山陰[2]の風災
 己丑の年、蒋太史心余[3]は山陰で教師をしていた。徐という者が扶乩[4]したところ、盤上に「関神が降臨せり」と大書された。蒋が拝礼して母堂の寿命を尋ねると、神は書いた。「おまえの母は再来の人[5]で、来るのにも去るのにもおのずと定めがあるが、さきに秘密を漏らすわけにはゆかない」。さらに書いた。「家童を遠ざけろ。大事な話をするから」。言った通りにすると、言った。「おまえはすぐれた才能を持っているので、告げるとしよう。今年の七月二十四日、山陰で大災害があるから、おまえは母を担いで避けるべきだ」。蒋は言った。「弟子(わたくし)は今、寓居におり、親戚がとても少なく、避けるべき処がございません。災害に遭う運命にございますなら、避けても詮ないことでしょう」。乩盤に「達したる(かな)」の二字が書かれると、陰風は肅然として、神も去った。
 七月の期日になっても、蒋は神が言ったことを忘れていた。二十四日の朝に起きると、天気は晴朗で、まったく変わった様子はなかった。午の二刻を過ぎると、たちまち大風が西から吹いてきたが、黒雲は墨のよう、人々は向かいあっていても見ることができなかった。空中では二匹の龍が闘っており、沙は飛び、石は走った。石はお碗ほどの大きさで、窓の中に飛び込んでくるものは千百をもって計えた。十余丈の古樹が、一寸の草のように折れ、かれがいた蕺山書院[6]では石柱がすべて揺れ、申の刻になってはじめて鎮まった。塀が倒れた処では二人のしもべが圧死し、七歳の子供だけは米桶の中に入れられ、唸っており、死んではいなかった。尋ねると、言った。「塀が倒れた時、身長一丈あまりの黒い男が、わたしを捕らえて桶の中に納めたのです」。その母はすでに桶の外で死んでいた。その年、海辺の住民で死んだ者は数万人であった。

謝檀霞
 連ムは、昭州[7]の人、きれい好きで詩吟に耽っていた。友人某はかれを招いてともに楚中[8]で商売をすることにした。友人は店に入って会計をし、ムはひとりで舟を番していた。湘源[9]に泊まること数日、江水が浄く碧いのが気に入ったので、衣裳はすべてしもべを促して再三洗濯させ、ひとり吟じることを止めなかった。夜に夢みたところ、体は水の上に立っていた。美しい娘が波を踏みながらいっしょに語り、みずから称するには「わたしは謝檀霞といい、元の時代の人で、十八歳で夭折しました。父母はわたしがこちらの山水を偏愛していることを憐れみ、こちらに葬りました。今、塚は水に没して削られ、遺骨は長いこと泥沙とともにあります。生前はきれい好きで詩吟に耽り、あなたと同じ好みでした。長生きするべきでしたのに若死にしたため、神気を全うすることができ、輪廻して、仙鬼の間で生きたり死んだりすることもございません[10]。あなたは明日風涛の中で死ぬことになっていますが、(わたし)は好みが同じであることを憐れみ、あらかじめお告げしたのです。はやくほかの舟に乗ってお家にお戻りください」とのことであった。ムは目覚めると、すぐに旅装を調え、河船を雇って家に行った。帰った後、足が門を出ることはなかったが、たちまち湘源が風涛に陥り、数千人が死んだと聞いたので、惴惴[11]としてやまなかった。
 一年余りして、夢みたところ、(したやく)数人がにわかにその家に来て、死を免れた罪を責め、言った。「冥王さまは激怒して、ふたたび罪に問おうとしていらっしゃるぞ」。ムはとても慌て、紙銭若干を焼くことを約束すると、はじめて期日を延ばすことを承諾した。数日後、鬼卒はまた来て、倍の銅銭を求めたが、ムはやはり承諾した。
 紙銭を焼いたまさにその日に、昼寝していたところ、たちまち檀霞が外から入ってきて、笑いながら言った。「あなたが難を逃れたことをお祝いしにまいりました。あなたの住所を尋ねましたが分からずに、あちこちをお尋ねしました。野の川の災害で、人がたいへん多かったため、ごまかすことは簡単でした[12]。さらに喜ばしいことには各役所の判官が新旧交代していましたので、わたしはすでに人に命じてあなたの姓名を抹消させました。これからは、死ぬことはございません。わたしは数百年の英魂で[13]、漂泊して連れ合いがございませんでしたが、朝夕をともにすることを願いましょう。あなたに服気の法をお授けすれば、人の世の夫婦のように媾う必要はございません[14]」。そして言った。「鬼卒が強請をしても、かれらを相手になさることはございません。わたしはこちらにおりますから」。後に白日その家に(くだ)り、妻妾のように振る舞い、飲み食いしなかった。
 しばらくすると、ムも辟穀することができるようになり、禍福を語ればかならず中たったので、郷里の人々はかれを敬った。檀霞は人の世の味気ないことを嫌い、ムとともにふたたび湘中に遊んだが、最後にどうなったかは分かっていない。

鬼を案内して怨みに報いさせること
 浙江塩運司[15]の快役[16]馬継先は、千両を積み、その子煥章のために(したやく)の位を買ってやった。煥章の(したやく)としての才能は父よりも勝っており、にわかに巨万の家産を築いた。継先はその晩年、妾の馬氏を娶り、すこぶる睦まじかった。継先はひそかに千両を蓄えていたが、妾に指示した。「おまえが細心に仕え、わたしの天寿を全うさせてくれたら、わたしはこれをおまえに贈り、去ることも留まることもおまえに任せることにしよう」。五六年後、継先は病むと、その息子にも語った。「あの女はわたしに仕えてとてもまめまめしかったから、わたしが死んだ後、蓄えはみな与えよう」。
 継先が死ぬと、煥章はにわかに良くない考えを起こし、すぐにその姑丈(おじ)[17]の呉某、かつて泉州太守であった者と相談した。「うちの親父がへそくりをさらに持っていようとは思いませんでした。あの女にやるように命じましたが、とても惜しいことです」。呉は言った。「簡単なことだ。親父さんが死んだ後、おまえがあいつを追い払うのを助けにこよう」。後日、煥章はこの妾を部屋から誘い出して通夜をさせ、こっそりとその妻とともに箱篋(はこ)を取り、奥の間に運び込み、父親の寝室を封鎖したが、妾は外にいたので、気付かなかった。
 継先の回煞[18]の後、妾が奥の間に帰ろうとすると、呉はにわかに外から入ってきて、声を荒げて言った。「往ってはならん。おまえは若いから、決して節を守ることはできまい。今日すぐに荷物を纏めて実家に戻り、ほかに良い連れ合いを択んだ方がよいだろう。若主人にはおまえに銀子を贈らせよう」。すぐに煥章を呼んだ。「銀五十両を量りとってくるのだ」。煥章は走り出てくると言った。「もう用意してございます」。妾が奥に入ろうとすると、煥章は止め、言った。「姑爺(おじさま)がお命じになったのですから、間違いはないでしょう。あなたの箱篋(はこ)や荷物は、きちんと纏めてあげましたから、また入ることはありません」。妾は本当は入りたかったが、呉の威力を懼れ、涙を浮かべながら輿に乗って去った。煥章は深く呉の労に謝した。
 さらに数か月して、中元[19]となった。妾は持っていった金銭及び衣服、装身具を父母兄弟によって蕩尽されてしまったので、この節句に乗じて主人を哭奠[20]し、馬家に身を寄せ、節を守ろうとした。七月十二日、香帛[21]祭器を調えて馬家に哭奠しにくると、煥章の妻は罵った。「恥知らずめ、去ったのにまた戻ってくるとは。中に入れずに、外庁の脇の軒下に坐らせてとりあえず一夜を過ごさせ、祭礼がおわったらすぐに去らせよう。それ以上逗留したら、わたしは決して許さないよ」。妾は夜通し哭いたが、五鼓になるとようやく声がしなくなった。翌朝見にゆくと、すでに梁にぶら下がっていた。煥章は棺を買って納めたが、実家も呉の名声、権勢を懼れ、異議を唱えなかった。
 煥章は家で人が縊れ死んだため、家を章家に転売し、別に豪華な家を構えてみずからが住んだ。章翁は小さいときから仏を拝み、経を誦えていたが、夜にこの女が梁にぶら下がり、哭泣するのを見た。翁はこの事に気が付いてから長いこと、心は穏やかでなかった。そして煥章が禍を押しつけたことを憎み、祈った。「馬姨娘[22]、わたしは家を買うのにたくさんのお金を使い、強奪したわけではありません。あなたは馬煥章、呉某と仇があり、わたしの家と関わりはありません。明晩の二更、わたしがみずからあなたを煥章の家に送ってゆくのはいかがでしょうか」。鬼は嫣然と一笑して消えた。
 翌晩、この女のために位牌を設け、香を供え、煥章の家の入り口に送ってゆくと、小声で言った。「傍に立っていてください。わたしが門を叩きましょう」。すぐに門を叩くと門番に尋ねた。

「ご主人はお帰りか」

「まだでございます」

そこでまたひそかに祈った。「どうかひとりでお入りください。仇に報いることができます」。門番は章が喃喃として何を喋っているのか分からず、かれが惚けていると笑った。章は家に帰ると、一晩寝なかった。
 空が明けないうちに、すぐに馬家に赴いて消息を探った。見れば門番がすでに門の外に立っていたので、章は言った。「起きるのがずいぶん早いな」。門番は言った。「昨夜主人が帰ってきましたが、門に着くと、すぐに病気になり、今はとても危険です」。章は驚いて返った。午後にふたたび訪ねると、馬はすでに死んでいた。数日が過ぎると、呉太守も亡くなった。煥章は子がなかったので、その財産はすべて他人の所有となり、呉が没した後、家も振るわなかった。

霊鬼が二人の兄弟を救うこと
 武昌太守汪献琛の弟で名は延生という者が、夏ににわかに亡くなった。その後、乾隆二十八年の秋、その堂兄[23]希官も重病になり、数夜眠らなかった。医者は処方箋を書き、補剤[24]で治療した。その母が薬を煎じていると、病人がたちまち声を発した。「大嬸娘(おばさん)、また間違えないでください。わたしは昔、藪医者に治療を間違えられたのですが、今度は希官兄さんがこの災いに遭っています。わたしは坐して兄さんが死ぬのを見るに忍びません」。そう言うと、すぐに薬の碗を地に擲った。希官の母は尋ねた。

「わたしの息子に憑いているおまえは誰だえ」

「わたしは延生です。死んで一年足らずですのに、嬸娘(おばさま)はわたしの声がお分かりにならないのですか」

希官の母は言った。

「死んだ後、何をしている」

「冥府の神は、わたしが実直な性格なのに、非業の死を遂げたことを考慮し、わたしに常州の城隍の文書を扱う(したやく)をするように命じました。上司が浙江省の城隍に文書を送り、総督の赴任や重要な事務について会議するため[25]、わたしに命じてこちらに文書を届けさせましたので、わたしは希官兄さんを訪ねてくることができたのです。ところが希官兄さんはすでに病に臥しており、藪医者に殺されそうになっています。今わたしは城隍の役所に往き、公務を終えてからまた参りましょう」。そう言うと、すぐに目を閉じて横たわり、夜は安眠していた。
 翌朝目醒めたので、尋ねたが、記憶していなかった。晩になると、たちまち延生の声になって言った。「疲れました。はやく水漿(のみもの)を用意してきて渇きを癒してください」。希官の母が与えると、また言った。「八兄を呼んできてください。お話しすることがございます」。八兄とは、その実兄であった。やってくると、生前のように慰問し、こう言った。「八兄、なぜそのように遊びがお好きなのでしょう。以前先祖の祠堂の池で小さい舟を浮かべたときは、石柱にぶつかって死にそうになりました。その時はさいわいわたしが傍におりましたので、柱を傍に倒れさせたのですよ。そうしなければこの災いを逃れることは難しかったことでしょう。柱の下には古い塚があるのですが、父上が池を浚うときに気が付かず、かれの骸骨を毎日水に浸らせたため、怨みに報いにこようとしたのです。わたしが再三お願いしますと、かれははじめて承諾しました[26]。八兄は改葬してやるべきでしょう」。またその妹三人を前に呼んでくると言った。「大妹(タアメイ)二妹(アルメイ)[27]は、福があるので差し障りないが、小妹(シアオメイ)[28]は禄がたいへん薄いから、わたしについてゆき、お母さまにお世話していただいた方がよい。こちらでいつも庶母に苛められることはない」。大いに笑い、拱手して別れを告げると、言った。「また会いましょう。また会いましょう」。そう言うと、希官はたちまち元通り仰臥した。数日後、病は癒えたが、半年足らずで、その幼い妹が亡くなった。
 二十九年冬、希官が夢みたところ、延生が来て言った。「兄さんはもう良くなりました。(わたくし)はこの仕事を処理しおえ、ささやかな功績を立てましたので、職を授かることでしょう。これでお別れでございます。再会するのは難しいことでしょう」。そう言うと去っていった。希官は悲しみ叫んで目が醒めた。

木画
 永城[29]の尉[30]陸敬軒は、浙江は蕭山の人、役所を修理するので木を伐ることにした。役所には旧い柳の樹一株があったので、鋸引きにしたところ、板の中から天然の絵一幅が現れたが、淡墨で描かれているかのよう、左は危峰、石の懸崖、崖の上には松が一株、山の樹[31]が一株、枝や葉は垂れさがり、松の上には藤が累累と絡まっていた。中では一人の叟が杖に縋って立っていたが、高い冠、長い袖、鬚眉は活きているかのよう、左手は袖の中に納め、胸の前に着け、右足は前に出して(くつ)を露わにし、左の(くつ)は衣の下に隠し、振り返って泉を聴いているかのようであった。尉はそれを宝とし、携えて家に帰った。時に乾隆辛酉十月十三日であった。

経台を転がること
 貴州平越府庁に石の台があり、高さは七尺、仏経十六幅が収められていたが、すべて梵字で書かれており、読んでも理解することができなかった。言い伝えでは、太守が訊問するとき、重大事件で犯人が罪を認めなければ、経を取り、地に布き、犯人を経の上で転がすということであった。正しい者はまったく差し障りないが、正しくない者はたちまち目を瞠り、倒れるのであった。数百年来、お上はこれによって裁きをしており、獄囚にも軽々しく経台を転がろうとする者はいなかった。張文和公[32]の第五子景宗[33]は、性来剛愎であったが、着任後、(あやかし)だと思い、台を壊し、経を焼いた。その年に二人の男子が死に、翌年公が亡くなった。

菜花三娘子(さいかさんじょうし)
 陽湖[34]の某秀才は、姿が美しかった。春の夜、ひとり書斎で坐していると、門を叩く音が聞こえた。開けて見ると、女がみずから「菜花三娘子(さいかさんじょうし)です。わざわざご一緒しにまいりました」と称した。後ろには四人の姉妹がついていたが、侍女のようであった。生はその美しさに驚き、引き留めて泊まらせた。
 しばらくして病んだので、追い払おうとしたところ、去らせることができなかったため、その父は牒[35]を書いて県城の張王廟[36]に訴えた。その晩に、夢みたところ、張王が犯人を捕らえて尋問し、三娘子が良民を惑わしたことを責め、それぞれ十五回の杖打ちにし、護送して役所から追い出した。五人の女が進むこと数歩足らずで、p隷は杖を持って追ってゆき、三娘子に向かって銅銭を求め、言った。「わたしが手心を加えて軽く打たなければ、おまえたちの柔らかい臀は傷ついて、路を歩くことはできなかったぞ」。女たちはみな裙帯[37]の中から銭を出してお礼にした。
 三日後、三娘子はまた来て言った。「わたしはあなたとご縁が尽きませんので、あなたをお捨てすることができません。あなたがふたたび張王にお告げになっても、王はわたしをどうすることもできません。あなたの同学に王先生某という人がいますが、迂腐で憎らしい人ですから、告げにゆかれてはなりませんし、かれを家に入れてもいけません」。生の父母は嫌だと思い、ふたたび牒を書き、張王廟に訴えたところ、神ははたして霊験がなかったので、すぐに王生を招いた。生は遠方で家庭教師をしており、数日後ようやく到着したが、到着した時、生はすでに死んでいた。王先生は、県の廩生で、年は三十足らずであった。

神和病[38]
 趙雲菘探花[39]が十六歳の時、親戚の張某が神和病を患った。女の鬼が纏わりついており、体は痩せこけ[40]、奄奄として死なんばかりであった。その母があまねく諸神に祷ったところ、まったく(しるし)はなかったが、趙がその(しじ)に坐していると、鬼は来ようとしなかった。趙が去ると、鬼は笑いながら言った。「趙探花をいつもこちらに坐らせることはできまい」。母親が趙公に懇願したので、趙はやむを得ず往き、燭を点して付き添っていた。三日目の晩になると、疲れに堪えられず、すこし目を閉じると、病人は精をすっかり漏らし、数日後に亡くなってしまった。

鼠が牛を食うこと
 句容[41]の村民が一頭の雄牛を飼っていたところ、たちまち七匹の鼠が牛の肛門から入り、その心肺を食ったため、牛は死んでしまった。村民は鼠を追いかけ、その一匹を捕らえたが、全身に白い毛が生え、重さは十斤であった。煮て食うと、脂は鶏や豚に勝っていた。

神に代わって判決すること
 蕭十洲参戎[42]が、致仕して帰養することになった時のこと、舟は巫峽に停泊した。その夜、夢みたところ、使者のような姿の者が令箭を持ち、馬に騎り、江に沿いながら尋ねた。「どちらが蕭大老爺(さま)のお船でございましょう」。舳先に跳び込んできたが、喘ぎはなお収まっていなかった。懐から公文書を取り出したが、表には「金龍四大王封」の六字が書かれていた。かれは七人の犯人を護送してきて傍に跪かせると、「斬」の字を書くように求めた。蕭は驚いて言った。「それは地方官の仕事ですが、わたしは武官で、林下に退隠する役人ですから、越権行為をするわけにはまいりません」。使者は答えた。「公文に公の銜名[43]がございますから、どうか慣例に従ってご処置ください」。まもなく、燈燭が輝く中を、先払いしながら堂に昇った。門が開くと、階の下には儀仗、吏卒が並んで立っており、さながら公堂に坐しているかのよう、舟の中とは違っていた。使者はさきに「絞罪になるもの六名」と唱え、それがおわると、「斬罪になるもの一名」と唱えたが、それは六七歳の童子であった。蕭は尋ねた。「かれはまだ大人になっていないのに、いかなる罪でいそいで斬るのだ」。(したやく)は手を振って言った。「罪名はすでに決まっているのですから、議論するべきではございません。どうかはやくお書きください」。すぐに標条を運んできた[44]。書きおわると、罪人たちを護送して去った。公は夢から覚めたが、嫌な気分であった。
 翌朝、濃霧が江に漲っていたので、公は纜を解かないように注意した。巳の刻、その母太夫人と閑談し、前日の夢の話をしていると、たちまち一隻の遡上中の荷船が石に触れて沈み、助けを求めるさまはたいへん悲惨であったので、急いで船頭に救助を命じた。わずか三人の乗客が救いあげられたが、気絶していたので、通常のやり方で薬を飲ませて救うと、しばらくして活きかえった。舵取り七名はみなすでに溺死していた。その後、首のない童子の屍をすくいあげたが、その衣服を確認したところ、舵取りの息子であった。
 按ずるに、この話は無錫の華師道の夢と同じである。華が夢みたところ、冥府の下役が華を役所に招いて「斬」の字を書かせようとした。華は罪名が分からなかったので、筆を下ろそうとしなかった。すると蓬髪の婦人が再三哀願した。「判断を下そうとなさらなければ、この案件はさらに三年結審しないことでしょう[45]」。華はどうしても承知せず、言った。「わたしは斬罪にするべき理由を知らないのだから、どうして心を鬼にして筆を下すことができよう」。怒鳴って拒むと目が醒めた。三年後、師道は亡くなった。師道は字を半江といい、篆隸の学に精しく、淮上[46]の程蒓江の家で家庭教師をしており、わたしと親しかった。

鬼門関
 朱梁江は、名を衣といい、太倉州の諸生であった。戊子科の江寧郷試に赴いたときのこと、寓居で熱病を患い、たいへん危険だったので、親戚友人は舟を雇って送り返すことにした。丹徒に到着すると、朱は船室に横たわったまま、たちまち気を失った。
 すると三人の青衣の男がかれを導いて岸に登らせた。その路は真っ直ぐで狭く、暗闇で光はなかったが、両足はとても軽やかであった。行くこと約十数里、たちまち(もののけ)が来て、左にぴたりと寄り添った。走ること十数里、また(もののけ)が来て、右にぴたりと寄り添った。さらに走ること十数里、とある城に着いたが、巍巍然として両の扉はきちんと閉じられており、城の額には「鬼門関」の三字が横書きされていた。二人の青衣は門を叩いたが返事がないので、また叩くと、傍ににわかに鬼が現れた。(かお)はたいへん凶悪で、二人の青衣とたがいに闘った。すると遠くに一対の紅い提灯が見えた。四人がきの轎の中には一人の役人が坐しており、先払いしながらやってきた。近づいて見ると、太倉州の城隍神のようであった。神は尋ねた。

「名を何という」

「受験する太倉州学の生員でございます」

神は言った。「来るのはまだ早い。こちらに長居してはならぬ」。先導していた提灯を取りのけ、送り返すように命じた。見れば城門は開いていたが、轎が入ると門は閉じた。
 提灯を持っていた者は言った。「はやくわたしに隨って東に向かって走るのだ」。それは前に来た路ではないように思われた。行くこと二三里で、大江のほとりに着くと、白浪は滾滾としていた。燈を持っていた者はかれを推して江の真ん中に入れたので、大声で助けてくれと叫んだところ蘇った。時に舟は太倉城外に着いていたが、死んでからすでに三日たっていた。胸元がまだ温かかったため、従者は船頭を促して日夜急いで進ませ、家に着くと病は癒えたのであった。これは蕭松浦が語ったことである。
 蕭が珠崖[47]に旅した時、儋耳[48]を通ったが、四面には重なる山が高く聳えていた。中には一本の道が通じており、壁には「鬼門関」の三字が刻まれていた。傍に唐の李徳裕の詩が刻まれていたが、崖州の司戸[49]に左遷され、ここを通ったときに題したものであった。詩は「一たび去ること一万里、十(きた)れば九は還らず。家郷(かきやう)何処(いづこ)にか在る、生きながら鬼門関を渡る[50]」というものであった。字は五尺の大きさで、筆力は遒勁であった。こちらを過ぎると、毒霧、悪草、異鳥、怪蛇、冷ややかな日、愁わしげな雲、鬼域に入るかのようで、ほんとうに人の住む地ではないのであった。

怨霊が命を取ろうとすること
 乾隆戊寅、蕭松浦と沈毅庵はともに番禺で幕客となり、手分けして裁判事務を処理していた。時に茭塘[51]で、被害者が刃で傷つけられた盗難事件があり、犯人七名が捕らえられたが、罪証は確かなものであった。蕭は法に照らして斬罪にしようと思い、府庁に護送して審問してもらうことにした。しかし臬司[52]某は七人の犯人をすべて死刑に問うのは、酷に過ぎるのではないかと思い、差し戻しして減刑させようとした。蕭もこの重大事件を処理することを願わず、これを口実に断ったため[53]、事案は毅庵が処理することになった。
 毅庵の居所は、蕭と一枚の板壁を隔てるだけであった。夜に案牘を閲していると、毅庵の書斎で嘶嘶(すうすう)ととても微かな音がしているようであった。起きて見ると、毅庵は(つくえ)の上で俯きながら、筆を休めずに書いていた。その傍には三四匹の鬼が立っており、手にその頭を捧げていた。さらに無数の小鬼が取り巻いて床に跪いていた。蕭が急いで毅庵を呼んでそれを見せようとしたところ、たちまち血腥い臭いが鼻を突き、燈燭はすべて消え、みずからも窓の外で気絶して倒れたので、童僕は急いで介添えして戻り、横たえた。
 翌日、毅庵及び同僚が事情を尋ねると、蕭は見たことを告げた。毅庵は言った。「分かりました。昨晩処理したのは、茭塘の盗難事件です。原案は真っ当なもので、七人の犯人をすべて死刑にしようとしておりました。しかし差し戻しを受けたため、中から二名を減刑せざるを得なかったのです。かれらのうち、謝阿挺、沈阿癡の二人は、もともとは外にいて贓物を受け取っており、中に入っていませんでしたが、贓物を護るため格闘し[54]、被害者を刃で傷つけましたし、ほかにも事件を起こしていましたので、あなたはいずれも斬罪にしようとしました。わたしはその罪を軽くして、臬司に迎合しようとしました。ご覧になった、地に跪いていた無数の小鬼は、二人の犯人の先祖、取り囲んで侍していた首のない鬼たちは、二人以外のすでに誅に服した仲間、殺されたものの怨霊がやってきて命を取ろうとしていたのです。わたしは法を枉げて人を活かし、死鬼たちに地下で怨みを抱かせようとはいたしません。どうか原案通りにご上申ください[55]」。こうして事件は落着した。

螺螄(まきがい)[56]を掃うこと
 徐公浩[57]が山西を観察[58]したときのこと、古狐が道士に化け、しばしばその役所に入ってきてはともに語った。某県令は太倉の王姓の者であったが、中傷を受け、観察はそれを信じ、かれの官職を剥奪しようとしていた。古狐は取りなして、その人は先祖の功徳が計り知れないと言った。その後、観察が調査したところ、誣告であることが分かったので、事は沙汰やみになった。観察に謁見しにこさせ、「おんみの先祖はどんな善いことをしたのだ」と尋ねると、五世祖は海浜を耕していたが、潮が来ると、青螺[59]が潮に隨って岸に入ってきていた、潮が退くと、(まきがい)はもとの場所に帰ることができず、人に捉えられ、売られていた、祖父母はそれぞれ帚を持ち、青螺を掃って海に入れ、三更から明け方までを限度に、このようなことを六十年続けたと答えた。狐が言った功徳とは、あるいはこれを指しているのであろうか。
 観察は彩雲という若い(はしため)を持っていた。狐はかれを見ると言った。「(はしため)をさせてはなりません。この娘には根基[60]がございますから、将来、観音大士が仲立ちとなり、洞庭君に嫁ぎましょう」。数日後、彩雲はその父が書いた扇を持ち、柱に凭れて看ていた。観察は彩雲が文章をすこし理解できるのを見て、尋ねたところ、その父が諸生、祖父が翰林であったことが分かったので、古狐の言葉に感じ、三番目の孫娘にするように命じ、遠くのものも近くのものも三姑娘のことを知った。半年後、ある豪族が手紙を観察に寄せ、画軸を贈り、「聞けばおんみの三姑娘どのは婚約なさっていないとか。申太守大年どの[61]のご子息と婚約させるべきでしょう。お贈りした大士像はとても霊力がございますから、書斎に懸けてお祈りすれば、(しるし)がございましょう」と言った。申は湖北の人だったので、洞庭君なのだということが分かった。大士像も媒酌の手紙とともに届いたので、結婚させてやった。狐の予知はこのようなものであった。

周太史が(あやかし)を除くこと
 周用修は、江西瑞昌県楼下村の人で、年は五十余、早くに妻を喪ったが、息子も嫁もあり、自給して生活していた。ある日、年が五十ばかりの嫗が、その家に入ってきて、楼に登り、その長男の妻を呼んでくると言った。「わたしはおまえの姑だよ。恐がらないでおくれ」。妻は嫁いだ時に姑には会わなかったがとひどく訝った。用修はそれを聞くと、会おうとしたが、許されず、その息子が会おうとしても、許されなかった。しかし飲んだり食べたり寝たり起きたりするさまは、常人に異ならなかったので、家を挙げてそのままにしておいた。まもなく、罵る言葉がかれの耳に飛び込んだため、怒って去り、用修の家は貧しくなった。貯えていた布や(まめ)は、(たんす)に収められ、とても固く閉ざされていたが、開いて見るとすっかり空になっていた。しかし村人たちは老嫗が用修の家の入り口で毎日布や(まめ)を売るのをしばしば見ていた。このようなことが三年続き、家がとても貧しくなったので、官に頼んで、巫を召して懲らしめさせたが、まったく(しるし)がなかった。
 族人の厚轅は庶吉士でありながら休暇を取り、その家に行ったが、一晩前に(あやかし)は去ったので、期日になるとふたたび去ることにした[62]。用修は驚き、厚轅に(あやかし)を駆除してくれと頼んだ。厚轅は黄紙に朱書してそこの土地神及び社神に呼びかけた。「陰も陽も理は同じだ。冥府がなければそれまでだが、あるならば、区区たる楼下村に二神がいながら、(あやかし)が祟るのに任せ、咎めないのか[63]。三日以内に追い払え。できないのなら、五日以内だ。七日以内でもできないのなら、神ではないから、血食しても仕方がない。おまえたちの廟を焼き、おまえたちの像を壊させることにしよう」。檄を焼いた後、厚轅はすぐに江を渡り、友人を訪ねた。
 半月後、楼下村を通ったとき、肩輿[64]でしばし眠ったところ、老若男女が山や谷を埋め尽くし、人の上に人が立ち、幾千万の人々が、路上で押しあいながら見にくるのを見たような気がした。二人の老人、鬚の長さは二尺のものが、輿の傍に立ち、黙して語らなかった。厚轅は目覚めると、肩輿を促して城に入らせた。一族の人々はお祝いを言った。「あなたが檄を焼いて三日後に、(あやかし)は去り、二度と来ませぬ」。話していると、用修が来て、地に叩頭し、善後文[65]を起草してくれと頼んだ。さらに二神の祠を焼くと、(あやかし)はいなくなった。

良豚
 江南宿州睢溪口の住民が殺され、井戸に屍が投じられていた。お上が調べたが下手人は上がらなかった。するとたちまち一匹の豚が馬前に来て、とても悲しげに啼き、供回りが追い払っても去らなかった。お上は言った。「畜生(おまえ)は訴えることがあるのか」。豚は前足で跪き、叩頭するかのようにしたので、お上はついてゆくように命じた。豚は起きあがって先導し、一軒の家に着くと、戸を開けて入った。豚が臥榻の前に走ってゆき、口で地を齧ると、刀が出てきたが、血痕はまだ新しかった。その家の人を捕らえて訊ねると、はたして殺人者であった。村人たちは豚を義とし、それぞれ費用を出し、仏堂で豚を養い、「良豚」と称した。十余年たって死ぬと、寺僧は龕[66]に埋めてやった。

雷が扒手(すり)を打つこと
 烏程の彭某は、妻は病み、子は幼く、絲を売って暮らしていた。ある日、一束の絲を背負ってゆき、売ろうとしたが、値段が着かなかったため、(たんす)の上に置いていた。時に出入りして絲を売る人々はたいへん多かったが、商人は彭某の品物が少ないので、ほかの商売に気を取られていた。彭がちらと見たところ、絲がなくなっていたので、店主を牽いてゆき、お上に訴えた。店主は言った。「わたしは数万両で店を開いているのだから、数千文の絲を騙し取ろうとするものか」。お上は尤もだと思い、かれを追究しなかった。
 絲売りは悶悶として家に戻った。たまたまその子が門の外で遊んでいたが、父が絲を売って帰ってきたのを見ると、きっとお菓子を持ってきたのだと思い、駆け寄ってねだった。彭はちょうど絲を失って腹を立てており、脚に任せて蹴ったので、子供はたちまち死んでしまった。彭は悔い、すぐに河に身投げして死んだが、その妻は気が付かなかった。隣人はその子が門口に横たわっているのを見ると、扶けおこしたが、すでに息絶えていることに気が付くと、病気の妻を続けざまに呼び、子供が亡くなったことを告げた。妻は子のことを悲しんで心が激し、たちまち楼から墜ちて死んだ。お上は検分した後、隣人に頼んで埋葬してやった。
 三日後、激しい雷雨が起こり、絲売りの家の入り口で三人の男が撃ち殺された。まもなく、頭を剃った者が甦ったが、その話に拠れば「以前、扒手(すり)の孫某が某店で一束の絲を盗み出しました。向かいの謝家ではそれを見ますと、利益を山分けするのなら、告発しないことにしました。絲はわたしの店で売り出し、山分けで、わたしは銅銭三百文、かれら二人はそれぞれ二千文を手に入れました。するとたちまち絲売りが河に身投げをしたことを聞きました。お上が調査した後は何事もなかったのですが、今日ともに雷に遭おうとは思いませんでした。かれらはすでに撃ち殺され、わたしは片足を怪我しました」。調べるとはたしてその通りであった。

北門の(もの)
 紹興の王某と徐姓の者は、明末河南に張、李の乱[67]を避けたが、通った処では屍が野にあまねく横たわっていた。ある晩、李の軍に遇ったので、二人はきっと殺されるものと観念し、城内の屍の中に隠れていた。夜半、燈燭がきらきらとして、城頭から下りてきたので、賊兵が城を巡回しているのかと疑った。だんだんと近づいてきたが、城隍の提灯であったので、ますます驚き懼れ、声を出そうとしなかった。まもなく、従者が言った。「生きた人間の匂いがするぞ」。さらに一人の(したやく)が呼んだ。「一人は北門の(もの)、一人は運命が決まっていない」。神はようやく遠くへ去った。翌朝、賊兵は城を出たので、二人は起きあがって逃げたが、夜に聞いたことをしっかりと憶えていたので、南への路を確認しながら進んだ。夕方、別の(まち)に着いたが、そこはまさに北門であった。にわかに賊兵に遇い、徐は殺され、王は家に逃げ帰った。後に子孫は大いに増えた。

泥塑の劉海仙[68]が歩くこと
 如皐の北門内にある湖南常徳太守徐文度の家では、泥塑の劉海仙を買ったが、身長は六寸ばかり、堂前の神龕[69]に置かれて一年が経っていた。ある日、文度が眠ろうとすると、たちまち堂前でとんとんと音がしたので、(はしため)に命じて提灯を持って照らさせたところ、(はしため)は驚いて駆け込んできて告げた。「龕内の泥塑の劉海が突然地面に下りて歩いております」。公ははじめは信じなかったが、(はしため)が驚き怖れていたので、堂を出てじっくりと見たところ、泥塑の劉海がはたしてぴょんぴょんと歩いていた。人々は(あやかし)だと思い、壊して棄てようとした。公は人々に言った。「懼れるな。この像は歩くことができるのだから、霊験があるかも知れぬ。壊して棄てることはできぬぞ」。そこで龕内で祀らせた。今まで二十余年、まったく変わったことはなかった。その子湘浦[70]は、現任の両浙副使である。

(ろば)が怨みを雪ぐこと
 乾隆四十三年春、保定府清苑県の住民李家の娘は西郊外の張家荘の張家の子に嫁いで妻となったが、百余里を距てていた。李の娘が里帰りして一月余り、新郎は(ろば)に跨って迎えにきたが、妻を(ろば)に騎せ、自分は後ろを歩いた。某村を通り掛かったが、家からわずか二十里、この村の住民はもともと新郎と馴染みであったので、きっとさんざんからかうだろうし、(ろば)も帰り道をよく知っていたので、張は妻をさきに行かせた。
 六七里ばかり行くと、三叉路があり、西へ行けば張家荘への大路であったが、東へ行けば任丘県境であった。すると一人の若者が車を御して西の道からごろごろとやってきた。かれは任丘の富豪劉某で、張の妻の(ろば)を任丘への道に押しやり、追い立てて進んだ。空がだんだん暮れてきたので、張の妻は慌てて、若者に尋ねた。「こちらは張家荘までいかほどでしょうか」。少年は答えた。「奥さんは間違っています。張家荘でしたら西へお行きになるべきです。これは任丘への大路です。数十里離れてしまい、日が暮れて進むのは難しいですから、奥さんのために村を択んで宿を借り[71]、夜が明けたらすぐに人に送ってゆかせるのは、いかがでしょうか」。張の妻はどうしようもなく、しぶしぶ従った。
 前方の村に行くと、そこは劉の佃戸孔某の家だったので、部屋を準備して休ませることにした。その時たまたま孔の娘も新婚で里帰りしていた。孔は娘に言った。「今晩旦那さまが宿をお借りになる。ご命令に負くことはできないから、おまえはしばらく亭主の家に戻るがよい。旦那さまが去られた後、おまえを迎えにゆくとしよう」。女は言われた通りに帰った。その部屋には劉、張がいっしょに泊まり、劉の車夫は部屋の外に泊まり、張の騎る(ろば)(ひさし)の下に繋がれた。
 翌日の昼近く、戸が開かないので、孔が窓の隙間から窺うと、二体の屍が(カン)にあり、首はいずれも床にあり、(ひさし)の下に繋がれた(ろば)もいなくなっていた。孔と車夫は戦慄を禁じ得なかった。佃戸はこっそり車夫に言った。「あんたは家が河南にあって、ここからとても遠いから、かれらの衣服、持ち物を載せてはやく逃げ帰ってはどうだ。裁判沙汰になれば、おたがい命を保つのは難しいよ」。車夫はそれに従った。その晩、すぐに野に二体の屍を埋め、車を御し、物を載せて去った。
 劉の母は息子が長いこと外出して帰らず、杳として音信がないので、すぐに任丘県庁に車夫を訴えて追跡してもらった[72]。張郎は妻を追ったがいなくなったので、特別のわけがあると疑い、ふたたび清苑に急行し、その岳父母に告げた。県知事は事件だろうと疑い、捕り手に命じてひそかに捜査させた。時しも賭博好きで無頼の郭三が(ろば)を市場で売っており、ちょうど張の供述した毛色と合っていた。郭を問いただすと、郭三がかねてから孔の娘と密通していたが、孔の娘が里帰りしたとき、郭が裏の窓から忍び込み、二人の人間がいっしょに寝ているのを見ると、たちまち怒り、二人を殺し、(ろば)を盗んだことがはじめて分かった。県令はさらに孔を呼び、死骸の所在を問いただし、みずから屍を掘り起こしにいった。土を掘ること三尺、一体の屍が現れたが、禿頭の老和尚であった。さらに深く掘ると、殺された二体の屍があった。張の怨みは雪がれ、劉の死は確認されたが、今度は和尚の屍のことが事件となった。訝っていると、天候はたちまち陰雨となったので、古廟に雨を避けたが、寂として人の痕跡がなかった。隣保たちに尋ねると、言った。「この庵には昔は師徒二人の僧がおりましたが、後に師が雲遊するため出ていったので、弟子もよそへ往ってしまいました」。すぐに隣保とともに僧の屍を見にゆくと、みな言った。「これが雲遊の僧でございます」。そこでその弟子を捕縛することにした。河南帰徳の地に訪ねてゆくと、すでに蓄髮して妻を娶り、豆腐店を開いていた。その師が死んだ理由を追究したところ、弟子が娶った女は、昔はその師と姦通していたのであった。後に弟子がだんだんと生長すると、やはりこの女と密通した。弟子はつねづね不満に思っていたので、共謀してその師を殺し、廟を棄てて高飛びし、夫婦となったのであった。そこでかれを処刑したのであった。

張大令
 嘉興の張大令は、辛巳[73]の進士、海陵[74]の査太守虞昌の業師[75]で、素行は正しかった。とある日、夜明けに起きると、とてもせわしく冠帯を求め、当路の貴人が会いにくると言い、蟒衣[76]補褂[77]を着け、大門の外まで迎えにいった。母屋に昇ると、揖をして席を譲り、喃喃と対話していた。傍の人はそれを聴いたが、言葉は理解することができなかった。はじめは喜んでいるようであったが、やがて悲しみ、さらに遠慮した。二杯の茶を取り、一つはみずからが飲み、一つは空中に置いたが、杯は落ちなかった。しばらく身振りしていたが、大門の外に送ってゆき、ふたたび揖するとはじめて戻ってきた。家人は尋ねた。

「どちらのお客さまでしょう」

「嘉興府の城隍だ。かれは昇任して去るのだが、わたしを推挙し、職務を交代させるため、さきに訪ねてこられたのだ。この地では一二年以内に、二人の貴人が横死し、災いに遭う者は少なくないと告げた。わたしは秘密を漏らすわけにはゆかないのだ」

そう言うと端坐し、飲み食いせず、三日で亡くなった。するとまもなく、巡撫王、陳両公の事件が起こった[78]

鏡水
 湘潭[79]に鏡水があり、人の三生を照らすのであった。駱秀才が照らしにゆくと、人の姿ではなく、一頭の猛虎であった。老いた船頭が照らしにゆくと、雲鬟[80]、霞珮[81]の美女が現れ、池には蓮花が開き、花弁はすべて青くなった。

蔡掌官
 虎丘の蔡掌官は、骨董で生計を立てており、年は若く(かお)は美しかった。倪康民の家で飲んだとき、倪は若い(しもべ)に燈を持たせ、送り返させた。すると人がいない処で、掌官が誰かに揖し、喃喃と小声で喋っていた。(しもべ)は尋ねた。

「どなたとお話しなのでしょう」

「親友の李三哥がわたしを呼んでいるのだ。わたしはかれといっしょに行くが、おまえはわたしについてくることはない」

語りおわらないうちに、河に跳び込んだ。(しもべ)は急いで救いあげると、家に連れ帰り、蔡の父母に知らせた。親戚友人はみな大いに驚き、みな蔡を訪ねてきた。蔡は酔ったか惚けたかのよう、口では何も言わず、刀を見れば喉をさすり、縄を見ればその頚に試み、天下至楽の境地は、横死に勝るものはないと考えているかのようであった。家人はかれを閉じ込め、小衣(したぎ)(うわぎ)、袴といえども、帯を着けさせず[82]、穴を穿って飲食を通じるばかりであった。
 清明の日、一家が墓参りしたとき、蔡は窓の外へ逃げ出し、二日帰らなかった。家人はかれがきっと死んだと思い、四方を捜し、白蓮橋の野原に行くと、掌官が桑の樹に倚りかかりながら大声で叫んでいた。「わたしはここにいるぞ。もう捜すことはない」。家人は喜び、走っていって見たところ、すでに樹の上で縊れ死んでいた。呼んでいたのは、かれの魂であった。縊れた帯は染物屋に晒してあった布を盗んで作ったものであった。

沈文ッ[83]
 高郵の沈公文ッが山左[84]で知事をして人民を教化していた時[85]、親しい同僚某は、親は老い、子はないのに、西蔵(チベット)への出張を命ぜられた。公は気前よく代わりに行くことにしたが、それを聞いた者はみなその高義に驚いた。跋渉すること三年余り、はじめて内地に戻った。途中では氷雪で寒さに苦しみ、一月余り人煙がないこともしばしばであった。(しもべ)は二人いたが、名を夏祥という者は、公に侍することもっとも忠実であった。テントに泊まる時になるといつもいなくなるが、まもなく、かならず手に粟を捧げてやってきて、炊いで公に差し上げるのであった。しかしその粟がどこから来るかは分からなかった。
 ある日、暗い霧のなか、険しい坂を進んだが、下は万丈の深い(たにがわ)、二人の(しもべ)はいずれも(たにがわ)に堕ちてしまった。公の馬も落ちたが、たちまち雲霧の中に大士の像が現れ、手に青い蓮を持ちながら、公を導いた。ほどなく、身は(たにがわ)を過ぎて平地に着いたが、二人の(しもべ)を失ったことを悲しみ、逡巡して進まなかった。しばらくすると夕暮れになり、人が語る声が聞こえたので、急いで叫ぶと、夏祥が来た。「どこから来たのだ」と尋ねると、「(たにがわ)に堕ちた後、身長一丈あまりの緑の毛の生えた男が、(たにがわ)の中から背負って出してくれたのでございます」と称した。主僕は抱き合って大声で哭いた。
 公が帰った後、この事を高文良公[86]に語ると、高は感動し、大士図を描き、年月を書いて記念した。三十年あまり後、沈の孫で名を均安という者が、江西の贛県を治め、高の孫で名は士鐄という者が、贛県の司馬[87]となった。はじめは気が付かなかったが、その後家系を尋ねると、おたがいに茫然とした。そして大士図がまだ高の処にあり、伝えられて至宝となっていることがはじめて分かったが、この時になって沈のものとなったのであった。

藍姑娘
 王中丞[88]が丁憂[89]の後、杭州羊市の公館にいた時のこと、飯炊き女がたちまち地に倒れたが、しばらくすると甦り、目を瞠り、旗人の言葉で言った。「わたしは鑲紅旗の某都統家の藍姑娘ですが、口は渇き、お腹は空いていますから、大人にお伝えください。はやくわたしを供養してくださいと」。王はみずから来ると尋ねた。「旗人なら、なぜわたしたち漢人の家に来たのだ」。鬼は言った。「わたしが姉妹たちと、清明の日に門を出て、お参りをする人々を看ておりますと[90]、思いがけなく布政使の国大老爺(さま)が通り掛かりました。儀仗はとても立派で、わたしたち姉妹を一衝きして散らしました。わたしは避けるのが間に合いませんでしたので、やむなく大人の家に逃げてきたのでございます」。中丞は言った。「おまえは国大人を避けてわたしを避けないが、国大人がわたしの属官であることを知らないのか。かれがおまえを衝いたなら、おまえはかれの家に行き、祟りをなしてはどうだ」。鬼は言った。「わたしは畏れているのです」。中丞は言った。「それならばおまえたち鬼も勢いのあるものに靡いて、現任の役人ばかりを恐れ、退任した役人を恐れないのか」

「いいえ。退任した者でも良いお役人でしたら、やはり恐れます」

中丞は大いに不愉快であったが、やむを得ず、飯を供え、紙銭を焚いてやったところ、(はしため)の病はたちまち癒えた。一年足らずで、中丞は災難に遭った。

鼠の胆に二つの突端があること
 山東の桂未谷広文[91]は、篆隸の学に精しく、所蔵している碑文[92]はたいへん多かったが、毎晩鼠に咬み破られたので、憎らしく思い、手だてを講じて鼠を捕らえた。鼠の胆汁は聾を治すことができると思い[93]、生きながら剥いだところ、はたして一つの胆を得たが、蚕ほどの大きさで、二箇所に突端があり、もぞもぞと動いていた。鼠が死んで半日たっても、胆はまだ活きていた。結局そのわけは分からず、懼れて溝に棄てても、特に変わったことはなかった。ある人が言った。「首鼠両端とは、このことだな」。しかしほかの鼠を捕らえて調べると、そのような胆はなかった[94]

西海祠の神
 嘉興の銭汝器は、太傅文端公[95]の第七子で、陝西武功の令に選ばれたが、着任後、数か月足らずで、疾で亡くなった。亡くなる一日前、朝に起きて湯沐の準備をするように家人に告げ、朝服を着て北に向かって九拝し、さらに東に向かって九拝した。家人がわけを尋ねると、言った。「北に向かったのは君恩に謝するため。東に向かったのは、わたしが都を出た時、蒲州を通り、西門外の禹廟に宿ったが、夢みたところ、禹王はわたしを召して水神にし、西海祠に住まわせようとした。わたしは固辞したが許されず[96]、明日去ることに決まっている」。翌朝、はたして端坐して亡くなったが、時に壬寅九月十七日であった。
 それより前、郭生という者がいた。[97]の人、聡明で歌の上手で、銭に愛され、孫君淵如[98]も親しくしていたが、たちまちほかの事情で逃げ去った[99]。後に孫は朝邑[100]の令荘虚庵[101]の所で、郭生の手紙を受け取った。「九月に解州[102]を通りましたとき、夢みましたところ、銭七公子[103]が来ましたが、儀衛はとても立派でした。公子はわたしに告げました。『西海祠に赴任するのだ。申旦(よる)の契りが、幽明を隔てないものならば、蒲州の南の城外にわたしを訪ねてくれ[104]』。そう言うと目が覚めました。夢の中の言葉が本当でしたら、公子は人の世にいらっしゃいますまい」
 時に孫は郭生の消息を訪ねても得られなかったが、この知らせを受けると、その日のうちに車を急がせて黄河を渡り[105]、蒲州へ訪ねていった。はたして西海祠があり、至元十二年に建てられたもので、現在は改修が終わっていた。徘徊していると、たちまち郭生が廊廡(ひさし)から出てきたので、ともに来し方の事を述べ、悲しんだり喜んだりした。そして芳醇な酒、清潔な珍味を供え、文を作って祭った[106]。「昔者(むかし)巨卿[107]の死友ありて、(その)素車[108]の馳すること有り。子は文酒の徒なれば、成神[109]の骨を損ふ無かれ。(つつし)んで故実を聞け。(おも)はず君に逢はんとは[110]」。陽湖[111]の洪孝廉亮吉も詩で弔った。「少年(ねがひ)()らば(すべから)(さき)(つぐな)ふべし、既に神籍に()れば何ぞ能く狂はん[112]」。

猢猻酒
 曹学士洛禋がわたしに語った。康熙甲申の春、友人の潘錫疇と黄山に遊んだ。文殊院[113]に行き、僧の雪荘と対食したところ、たちまち席上の人が見えなくなり、それぞれの頭頂だけが露わになっていた。僧は「雲が通っているのです」と言った。
 翌日、雲峰洞[114]に入ると、一人の老人、身長は九尺で、鬚髯は美しいものが、衲衣草履で石の(とこ)に坐していた。曹がかれに向かって茶を求めると、老人は笑いながら言った。「こちらには茶はござらぬ」。曹は炒り米を持っていたので、老人に献じた。老人は言った。「六十余年間、これを口にしたことはございませなんだ」。曹がその姓氏を尋ねると、言った。「わたしは姓は周、名は執といい、官は総兵であったが、明末にこちらに隠れ、百三十年になる。こちらは猿の洞窟だが、虎に占領されたため、猿たちは患え、わたしを招いて虎を殺させ、その仲間を倒させたため、こちらにいることができるのだ」。(とこ)に二振りの剣を置けば、光は白い雪のよう[115]、台の上には河洛二図[116]、六十四卦が供えられ、地に虎の皮数十枚が積まれていた。かれは笑いながら曹に言った。「明日、猿どもがわたしを祝いにきますが、なかなかの見物(みもの)ですぞ」。話していると、数匹の小猿が洞の前に来たが、人がいるのを見ると、驚いて跳び去った。老人は言った。「虎の害が除かれてから、猿はわたしの恩に感じ、毎日交代で命令を受けにくるのです」。そして叫んだ。「お客さまをおもてなしするから、薪を拾い、芋を焼け」。猿は飛びはねながら去り、しばらくすると、薪を捧げてやってきて、芋を煮ると曹とともに食らった。曹は酒があればさらに良いとひそかに思ったが、老人はすでにそのことに気付いていた。とある崖に案内してゆくと、石が小さい窪みを覆っており、澄んで青くて香わしいものがあったが、「これは猢猻酒です」と言い、酌んでいっしょに飲んだ。老人が酔い、二振りの剣を取って舞ったところ、電が走り、沙が飛び、天の風がことごとく起こった。舞いおわると洞に還り、虎の皮に枕して横たわり、曹に言った。「お腹が空いていらっしゃるなら、ご自由に松の実や橡栗(どんぐり)[117]を取ってお食べください」。食べた後、体は軽く健やかになった。それより前、曹はつねに寒気で病んでいたが[118]、ここに来て病は八九割軽くなった。
 最後にとある崖に引いてゆくと、長い髯の白猿が松の枝に家を構えて坐しており、手で一巻の書物を捲りながら[119]、瑯瑯と誦えていたが、何の言葉なのかは分からなかった。その下では千匹の猿が拝舞していた。曹は大いに喜び、急いで走って帰ると雪荘に告げた。引いていっしょに往くと、洞内には石の(とこ)があるばかりで、老人はいなかった。

張秀才
 杭州の張秀才某は、京師の某都統の家で家庭教師をしていた。書斎は花園の中にあり、母屋から百歩離れていた。張はもともと胆が小さかったので、館僮[120]を呼んで伴わせ、灯点し頃になるとすぐに眠るようにし、すでに一年余りを経ていた。
 八月の中秋、月影はとても明るかった。館僮は外で酒を飲んでおり、庭園の門は閉じられていなかった。張が築山の石の上に立って月見していると、一人の婦人、蓬髪で裸身のものが、遠くからやってきた。じっくり見ると、膚はとても白かったが、顔から体まで、すっかり泥や垢で汚れていた。張は大いに驚き、これはきっと僵屍(キョンシ)が土を破って出てきたのだと思った。両眼は炯然として、月光とともに照り輝き、いとも恐ろしく思われた。そこで急いで木杭を取ると部屋の戸につっかい棒をし、(とこ)に登ってこっそり見ていた。
 まもなく、砉然と音がし、つっかい棒が推されて折れ、女が昂然と入ってきた。かれは張が坐していた椅子に坐し、案頭の書状をすべて引き裂き、颯颯と音をたてた。張はひどく驚いた。かれはさらに界尺を取ると大きな(つくえ)の上を敲き、天を仰いで長嘆した。張は魂が吹っ飛んでしまい、それから人事不省になった。気を失っていると、その下半身をさする者があり、「南蛮子[121]め、役に立たない。役に立たない」と罵っていた。そしてよたよたと歩きながら去っていった。
 翌朝、張は横たわったまま起きず、呼んでも返事しなかった。館僮と生徒は急いで都統を呼んで見にこさせた。生姜汁を飲ませるとはじめて蘇り、くわしく昨晩の情況を話した。都統は笑いながら言った。「先生、驚かないでください。それは鬼ではございません。わたしの家では(しもべ)の妻が連れ合いを喪い、思いが募って(きちがい)になったのでございます。監禁されてすでに二年になるのです。昨日はたまたま鎖が切れ、逃げ出して騒いだために、先生を驚かしたのでございます」。張は信じなかった。都統がみずから鎖に繋がれた女の処に引いてゆき覗き見させると、はたして昨日見た女であった。病は霍然として癒えた。
 張は「役に立たない」という言葉でかなり傷ついたが、館僮はそれを聞くと笑いながら言った。「旦那さまは例のものが役に立たないのはさいわいでした。家中の男で瘋婦(きちがいおんな)の気に入った者たちは、みなかれにひっきりなしにせっつかれ、その陰を咬まれたり抓られたりしてほとんど切れそうになった者がいるのですよ」

周将軍の墓二話
 山西寧武には周将軍遇吉[122]の墓があるが、百余年来、河の水がその傍を浸食し、(つか)はだんだん傾いていた。土人張某は哀れみ、牲牢を具えて祭り、黙祷した。「将軍さまには霊威がございますから、お墓を護る方策をお考えになるべきでございます」。翌晩、大雷雨となり、百里以内では兵馬が駆ける音が聞こえた。翌日、将軍の(つか)の傍にたちまち一つの山が盛り上がったが、高さは十丈あまり、水がぶつかっている処を遮ったので、水は墓前に至ると、曲がって流れるのであった。人々はみな驚いた。
 乾隆四十五年、その地の山の水がにわかに押し寄せてきた。周某という者は、将軍の族孫[123]で、母親を背負って逃げたが、闇夜によろよろ歩いたものの、まったく路が分からなかった。その母はかれの背中で罵った。「おまえには妻もあり子もある。妻は子を生んで、世代を伝えることができる。おまえがかれらをすべて棄て、よぼよぼの(わたし)だけを背負っているのは、とても愚かなことだよ」。その子は相手にせず、しっかりと母を背負って狂奔するばかりであった。翌日の夜明けになると、自分と母が将軍の墓の上に立っていたこと、土は高さが一丈ばかりなので、水は浸すことができなかったことがはじめて分かった。一晩歩いたが、三里と離れていなかった。家に帰って妻子を見ると、いずれも恙なく、「水が来た時、人がわたしを扶けて屋根に上げたようでした。そのために助かったのです」と言った。その隣人たちは、すでに一人も残っていなかった。

最終更新日:2007214

子不語

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[1] 原文「有底無面」。「面」が未詳。とりあえずこう訳す。

[2] 浙江省の県名。

[3] 蒋士銓。太史は翰林。鉛山の人。乾隆二十二年の進士。

[4]丁字形の木組みを用意し、水平の両端を二人で支え、垂直の部分に付けた筆が下にある砂を入れた、乩盤という皿に書く字によって神意を得ること。胡孚琛主編『中華道教大辞典』八百三十二頁参照。

[5] 『漢語大詞典』は、再度転生して仏門に帰依する人という。

[6] 書院名。明の劉宗周が講学した場所。乾隆元年『浙江通志』巻二十七・学校三参照。

[7] 広西省の州名。

[8] 湖広。現在の湖南、湖北省。

[9]隋代、零陵郡の属県。『隋書』地理志下参照。清代の永州府。

[10] 原文「宜壽而夭、故得全其神氣、不復輪回、生死介在仙鬼之間」。論理的な繋がりが未詳。とりあえずこう訳す。

[11] 憂えて落ち着かないさま。

[12] 原文「不圖野水之劫、人數太多、容易蒙混」。未詳。とりあえずこう訳す。水害で死ぬ人間が多かったため、あなた一人を救うのは簡単でしたということか。

[13] 原文「我是數百年英魂」。未詳。数百年を経ている英霊ということか。とりあえずこう解する。

[14] 原文「授子服氣之法、不必交媾、如人世之夫婦也」。未詳。とりあえずこう訳す。「服氣」は天地の精気を吸うこと。胡孚琛主編『中華道教大辞典』九百七十六頁参照。

[15] 塩務を担当する官署。

[16] 未詳だが、捕快であろう。捕快は捕り手。

[17]姑丈は父の姉妹の夫。

[18]『西石城風俗志』「人死十余日、俗謂其魂還家、謂之回煞。是日咸寄宿鄰家以避之」。

[19] 盂蘭盆会。陰暦七月十五日。

[20] 供物をそなえて哭礼すること。

[21] 未詳だが、香と幣帛であろう。

[22] 姨娘は妾に対する呼びかけ。

[23] 父方の従兄。

[24] 強壮剤。人参、熟地などの類。謝観等編著『中国医学大辞典』六百十八頁参照。

[25] 原文「因本官移文浙省城隍、會議總督到任差務要事」。「會議總督到任差務要事」は未詳。とりあえずこう訳す。

[26] 原文「我再三求之、彼方允諾」。「彼方允諾」はやや舌足らずだが、兄を許すのを承諾したということであろう。

[27] 一番上の妹と二番目の妹。

[28] 末の妹。

[29] 河南省の県名。

[30] 典史。未入流官。

[31] 原文「山樹」。未詳。とりあえずこう訳す。

[32] 張允随。漢軍鑲黄旗人。『清史稿』巻三百十三、『碑伝集』巻二十六などに伝がある。

[33] 『碑伝集』巻二十六の「大学士広寧張文和公神道碑」に、他の子供たちとともに名が見える。

[34] 江蘇省の県名。

[35] 願文。

[36] 張志誠を祀った廟。

[37] 原文同じ。未詳。裙の帯が物入れになっているのか。

[38] 『漢語大詞典』はこの例を引き「鬼神が体に憑いた状態」とする。

[39] 趙翼。南湖の人。乾隆二十六年の進士。

[40] 原文「形神鵠立」。「鵠立」は未詳。普通は首を長くすることだがそれでは意味が通らない。とりあえずこう訳す。

[41] 江蘇省の県名。

[42] 武官名。参将。正三品官。

[43] 官銜と姓名。官銜は肩書き。

[44] 原文「隨送標條」。「標條」は、罪状を書くための細長い紙または木であると思われるが未詳。

[45] 原文「則此案又拖累三年矣」。「拖累」は普通は連座することだがそれでは意味が通じない。とりあえずこう訳す。

[46] 揚州。

[47] 古郡名。広東省瓊山県。

[48]古郡名。広東省儋州。

[49]司戸参軍。州の属官。

[50] 『全唐詩』卷四百七十五・李徳裕にこの詩なし。

[51] 広東省城の東南の地名。

[52] 按察使。

[53] 原文「蕭亦不願辦此重案、借此推辭」。「借此」の「此」が何を指しているか未詳。擬律案が差し戻されたことを指すか。

[54] 原文「因護贓格鬥」。未詳。とりあえずこう訳す。贓物を取り返そうとする被害者と戦ったということか。

[55] 原文「請仍照原擬頂詳可也」。「頂詳」は未詳。とりあえずこう訳す。

[56] 螺螄は普通はタニシのことだが、この話に出てくる螺螄は淡水性ではなく海水性のようなので、とりあえず、こう訳しておく。

[57]徐浩という人物については未詳。大興の人で乾隆七年の進士の徐浩か。

[58] 按察使として視察すること。按察使は正三品官。

[59] 『佩文韻府』引『桂海虞衡志』「青螺状如田螺、其大両拳、揩摩去麤皮如翡翠色、雕琢為酒杯」。

[60] 根気。資質。

[61]申大年は未詳。太守は知府。

[62] 原文「至期又去」。主語は厚轅。「期」は休暇の期限であろう。

[63] 原文「而聽此妖祟人、竟莫之問乎」。「問」は罪に問うことであろう。

[64] :『三才図会』。

[65] 未詳だが、字義からして、後から祟りがないようにするための文であろう。

[66] ここでは墓塔のこと。

[67] 張献忠、李自成の乱。

[68]劉海は全真教の五祖の一人、劉操のことだが、おかっぱ頭の人物として、よく画題にされる。は年画で「劉海戯金蟾」といわれる図柄。

[69] 祭壇。

[70] 徐観政。如皐の人。浙江塩運副使。『清画家詩史』己・下に伝がある。

[71] 原文「當為娘子擇莊借宿」。「擇莊」が未詳。とりあえずこう訳す。

[72] 原文「即在任丘縣控追車夫」。「控追」は未詳。とりあえずこう訳す。

[73] 乾隆二十六年。ただ、この年に張大令という合格者はいない。

[74] 江蘇省の県名。

[75] 学業の師。

[76] 写真

[77] 補子というアップリケの着いたのこと。

[78] 原文「俄而,巡撫王、陳兩公事發」。未詳。とりあえず、このように訳す。

[79] 湖南省の県名。

[80] 女性の髷の一種。周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』三百四十七頁参照。

[81] 霞帔のこと。写真

[82] 原文「雖小衣衫褲、皆不縫帶」。「縫帶」が未詳。とりあえずこう訳す。

[83] 民国四年『山東通志』巻五十八・陽信県の知事として「沈文ッ、江蘇高郵挙人」とある。

[84] 山東省。

[85] 原文「宰山左沾化時」。未詳。とりあえず、このように訳す。

[86] 高其倬。漢軍八旗の人。康煕三十三年の進士。

[87] 同知。

[88] 中丞は巡撫。

[89] 父母の喪に遭うこと。

[90] 原文「我與群姊妹清明日出門看會」。「看會」は未詳だが、墓参する人の群れであろう。

[91] 桂馥。曲阜の人。乾隆五十五年の進士。

[92] 原文「藏碑板文字甚多」。「碑板文字」は未詳だが、後ろに「毎晩鼠に咬み破られた」とあるので、石碑の拓本なのであろう。

[93] 『本草綱目』巻五十一・鼠・胆に、聾を治す効果が記されている。

[94] 原文「然擒他鼠驗之、並膽倶無」。「並膽」は未詳。両端のある胆ということか。

[95] 銭陳群。嘉興の人。康煕六十年の進士。

[96] 原文「余固辭不獲」。「獲」は未詳。とりあえず「獲免」と解す。

[97] 陝西省の県名。

[98] 孫星衍。陽湖の人。乾隆五十二年の進士。

[99] 原文「旋以他事逸去」。「他事」は未詳。とりあえずこう訳す。三角関係以外の事情ということか。

[100] 陝西省の県名。

[101] 。武進の人。『清史列伝』巻七十二などに伝がある。

[102] 山西省の州名。

[103]銭汝器のこと。銭家の七番目の坊ちゃまの意。

[104] 原文「如申旦之約、無間幽明、當訪我於蒲州南郭外」。「申旦之約」は未詳。ただ、「申旦」は申の刻から朝まで、すなわち夜のこと。「如申旦之約、無間幽明」は「夜の契りを、幽明を隔てていても結べるものなら」ということか。とりあえずそう解す。

[105] 原文「即日脂車渡河」。「脂車」は車に油を差すこと。

[106] 原文「因釃酒潔羞、為文祭云」。「釃酒潔羞」はやや言葉足らずだが訳文の意味であろう。

[107] 范式。後漢の人。張元伯と二年後の再会を約し、違わなかったことで有名。『范張鶏黍』などの戯曲の題材にもなった。

[108] 棺を乗せた車。范式が張元伯を訪ねたとき、張元伯はすでに死んでいた。その棺を乗せた車は人が引いても動かなかったが范式が来ると動くようになったという話が『范張鶏黍』に見える。

[109]施肩吾『西山靜中吟』「重重道氣結成神、玉闕金堂逐日新」。

[110]そのかみ巨卿の亡友張元伯の棺を乗せた車は、巨卿の訪問を受けると動き出し(張元伯は冥土に赴き)ました。おんみは文や酒を愛する風雅なお方なのですから、(わたしと夜の契りをして)神となる身を汚してはなりません。どうか(張元伯の)故事に倣ってください。あなたと契ろうとは思いません。

[111] 江蘇省の県名。

[112] 若者は願いがあれば生前に果たしておくべきだ、鬼籍に入ったからには狂おしいことはできない。

[113] 玉屏楼のこと。万暦四十二年に普門和尚が創建。国家文物事業管理局主編『中国名勝詞典』四百六十八頁参照。

[114] 未詳。

[115] 原文「光如沃雪」。「沃雪」は未詳。普通は雪に湯を注ぐことだが、ここではそれでは意味が通じない。とりあえずこう訳す。

[116]河図洛書。河図は伏羲の時に黄河から出現した龍馬の背に書いてあったという図、洛書は禹が洪水を収めたとき、洛水から出た神亀の背にあったという図。:『三才図会』。

[117] :『三才図会』。

[118] 原文「曹常病寒」。「病寒」はまったく未詳。「中寒」のことか。「中寒」は寒気に中たること。謝観等編著『中国医学大辞典』二百二十三頁参照。

[119] 原文「手索書一卷」。「索書」は未詳。とりあえずこう訳す。

[120] 書斎付きの童僕。

[121] 南方人に対する蔑称。

[122] 明代の武将。李自成と戦って殺される。『明史』巻二百六十八などに伝がある。

[123] 一族で孫の世代にあるもの。

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