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第十七巻

 

白骨の精
 処州[1]の地は山が多く、麗水県[2]は仙都峰の南にあるが、土人は耕作して、山の中腹まで開墾する者が多かった。山中には(あやかし)が多いので、人々ははやく耕作し、はやく休息し、夜に外出しようとしなかった。晩秋の頃、地主李某が郊外に行き、稲を刈り、ひとりで荘房[3]に泊まっていた。土人はかれが怯えることを恐れ、事実を告げようとせず、闇夜に外出せぬように戒めただけであった。ある晩、月影がとても美しかったので、地主が前の山を間歩していると、突然白い(もののけ)が躄踴[4]しながらやってきたが、がさごそと音をたて、顔はとても怪しかった。そこでいそいで寓居に戻ると、その(もののけ)はすでに追ってきていた。さいわい荘房の入り口には腰ほどの高さの柵があり[5]、推して入ることができたが、(あやかし)は越えることができなかった。主人は柵に入ると大胆になり、月影がとても明るかったので、柵の隙間からじっくり看たところ、髑髏が柵の門を咬んだり撞いたりしており、耐え難い腥ささであった。
 まもなく鶏が鳴くと、その(もののけ)は地に倒れ、一堆(ひとやま)の白骨となったが、夜が明けると、見えなくなっていた。土人に尋ねると、言った。「さいわいあなたは白骨の精に遇いましたから、無事だったのでございます。白髪の老婆に遇われていたら、偽の店を開き、かならずあなたに喫煙するように頼んだでしょう。かれの煙草を吸った者は、昔から生きた(ためし)がございません。月が明るく風が清い夜は、いつも出てきて祟るのですが、箒を使って撃ち倒すことができるだけです。しかし結局何の(あやかし)なのかは分かりません」。

黿殼亭(げんかくてい)
 乾隆二十年、川東道[6]の白公は、千両で妾を買い、帆を揚げて任地に戻る時[7]、なのめならず寵愛した。舟が鎮江を通り、月夜に舟を泊めた時、妾は窓を開けて水を汲もうとしたが、巨きな黿(かめ)に呑まれてしまった。主人は悲しみ、恨み、かならず黿(かめ)を捕まえることを誓い、各漁船は協力して捜査、捕獲せよ、巨黿(おおがめ)を捕らえた者には百両を与えると通達した。船頭は争って豚の胃や羊の肝を五鬚鉤[8]に掛けて餌にし、上に空の酒甕を繋ぎ、水面に浮かべ、昼夜眠ることがなかった。
 二日後、大きな黿(かめ)が掛かったが、数十人で曳いても釣り上げることができなかったので、船の纜を大きな石磨盤(いしうす)に繋ぎ、四頭の水牛を使って引いたところ、躍然と岸に上がったが、頭は車輪のようであった。人々が鋭い斧で斬ると、地に転がって坑を作り、ざわざわと音をたて、しばらくすると死んでしまった。その腹を裂くと、妾の金の(うでわ)がまだあった。そこでその身を砕き、火で焼いたところ、臭いは数里に漂った。甲羅は大きさが数丈、鉄よりも堅かったが、使いようがなかったので、(ちん)を構え、黿(かめ)の甲羅を屋根にしたところ、明瓦[9]の窓のようであった。今でも鎮江朝陽門外の大路の傍にある。

(あやかし)が理を説くことを怕れること
 蘇州の富豪黄老人は、年は八十過ぎであったが、ひとりで楼に住んでいた。すると突然女が門に倚りかかって眺めているのが見えた。老人は壮年の時、愛娘をこの楼で亡くしていたので、娘の魂かと思い、気にしなかった。翌晩また現れたが、一人の男がついていた。三日目になると、男と女は、梁に跨り、両目を下に注いでいた。老人は見ていない振りをし、俯いて書を読んでいた。すると男が下りてきて、老人の傍にすっくと立った。老人は笑って尋ねた。「おんみが鬼ならば、いらっしゃったのは大間違いだ。わたしは年はすでに八十あまり、死ぬのは今日明日の事で、もうすぐお仲間になるのだから、さきにお訪ねいただくことはない。仙人ならば、お掛けになってお話ししてはくださらぬか」。(あやかし)が答えずに、長嘯すると、四方の楼の窓はすべて開き、陰風が人を襲った。老人が家僕を呼んで楼に上ってこさせると、(あやかし)も見えなくなった。
 数か月後、二人の嫁と一人の孫はすべて死に、一人の若い(はしため)だけが残った。老人はこの女が死後寄る辺なくなることを恐れ、家庭教師の華君に贈って妾にしたところ、三子を生んだ。今は浙江臨海県華公の役所にいる。この事は華秋槎明府[10]がわたしに語ったことである。

婁真人が誤って(あやかし)を捉えること
 松江の御史張忠震[11]は、甲辰の進士であった。書斎の臥炕[12]の中では、毎晩鼠が闘い、騒ぐのを止めなかった。主人はその煩わしさを厭い、爆竹を焚いて追い払おうとしたが、去ることはなく、火縄銃を撃っても、気が付かないかのようであった。張は炕の中に(もののけ)がいるかと疑い、壊したが、何も見あたらなかった。書室の後ろは下女の寝室であったが、夜に方巾[13]黒袍の者が来て歓を求めた。女は拒んだが、すぐに昏迷し、人事不省となった。主人はそれを知ると、張真人の玉印符[14]を被套[15]に入れてその胸を覆わせた。その晩鬼は来なかったが、翌日また来て騒ぎ、女の下着を剥ぎ、その符を汚した。
 張公は怒り、婁真人を招くと、祭壇を設けさせ、法術を施させた。三日後、狸のような(もののけ)を捕らえ、甕の中に封じ込めたので、家じゅうの人々はみな平穏になると思った。その晩、(あやかし)が大声で笑いながらやってくると言った。「わたしの弟たちが進退を弁えず、道士に騙されて行ってしまったのは、恨めしいことだが、わたしを捕らえにこようとはしないだろう」。淫行はますます激しくなった。主人がふたたび婁に謀ると、婁は言った。「わたしの法術は一度施すことができるだけで、二度目は効き目はございません」。張はどうしようもなく、毎晩この女を城隍廟に送り込んだところ、(あやかし)は去った。しかし家に戻ると、また来るのであった。
 半年後、主人は深夜に客と碁を打っていた。天気は大雪、たまたま窓を開け、口を漱ごうとしたところ、外に(もののけ)がいた。驢馬ほどの大きさで、顔は黒、眼は黄、階の下に蹲んでいた。張は水を吐いたがちょうどその背中に掛かった。いそいで窓の外に跳び出して追いかけると、(あやかし)はたちまち見えなくなった。翌朝、女は主人に告げた。「昨夜(あやかし)が来て、みずから言うには、ご主人さまに見付かって、秘密はすでに露見してしまいましたから、今日からは去らせてくれとのことでした」。それから(あやかし)はいなくなった。

陳姓の婦人が石を食らうこと
 天台県[16]の西郷で賽会[17]して神を迎えた時のこと、神の袍にかすかに皺がよっていたので、姓を陳という婦人が熨斗を当ててやった。晩に帰宅したところ、金の鎧の神がみずから将軍であると称し、人々を擁してやってきた。儀衛はとても華やかであった。神は言った。「おまえがわたしのために衣を整えてくれたのは、わたしに気があったからだ。このたびはおまえを娶って妻にしよう」。点心を持ってきて食らわせたが、すべて河原石であった。婦人は食べた時は、とても軟らかく旨いと感じた。小さいものは大便として出たが、大きいものは口から吐き出され、吐き出すと堅い通常の石のようになるのであった。父兄は神が来る時を待ち、勇敢な者と格闘させた。しばらくすると、婦人は言った。「かれの錘の柄が壊れました」。翌日野中の廟に行くと、五通神が持っている金の錘に傷があったので、その廟を壊したところ、神もおとなしくなった。

天台県庁の(かめ)
 天台の県庁では、着任する役人は三堂[18]を空けて住まわなかった。そこには一つの(かめ)が置かれており、前朝の古物である、(かめ)には神がおわしまし、人の禍福を知ることができる、県尹が着任すると、かならず三跪九叩の礼を行って祭るが、そうしなければ祟りをなす、役人が昇任するときは、(かめ)はそれに先だって宙に上るが、繋がれているかのようである、降格、免職となるときは、(かめ)はそれに先だって降りてくるが、だんだんと土中に入ってゆく、ふだん(かめ)は地面から一寸ばかり離れており、ずっと土に着くことはない、と伝えられていた。しかし、わたしは怪しいと思っていた。
 壬寅の春、天台山に遊んだ時のこと、知事の鍾公醴泉がわたしを迎えて署内で飲んだが、酒の後に「署内の二つの古物を、見にゆかれてはいかがでしょうか」と言った。書室の西では桂の老樹が天を衝き、その傍には匾額が懸かっており、明の天啓四年邑宰陳命衆の題額であった[19]。三堂に回ると、そこは(かめ)の神のおわします所であったが、太鼓ほどの大きさの、黄沙の粗末な(かめ)に過ぎず、中には小さな穴があった。吏は言った。「これは神さまの口でございます。(いけにえ)の血が滴っておりますが、すべて歴年来お供えしてきた鶏、豚のものでございます」。わたしが扇で撃つと、鏗然たる音がした。竹の切れ端でその底を探ろうとしたが、すこしも入れることができず、地から離れていないのであった。鍾公が愕然としていると、わたしは笑って言った。「わたしが撃ち、わたしが試したのですから、(かめ)はわたしに禍し、あなたに禍しないでしょう」。その後は寂然としていた。この(かめ)のことは『天台県誌』に載せられている。

木お嬢さまの(つか)
 京師の宝和班は、劇を演じてたいへん有名であった。ある日、人が馬に乗ってやってくると頼んだ。「海岱門[20]外の木さまのお屋敷で劇を上演しようとしているから、すぐに行くのだ」。その日劇団は仕事がなかったので、ついていった。城外に行くと、日はすでに暮れていた。数里の荒野を過ぎると、前方に大きな家があった。賓客はとても多く、燈火は熒熒然としてかすかに緑色を帯びていた。すると中から(はしため)が取り次ぎをした。「お嬢さまのご命令です。生旦の劇[21]だけを演じてください。大花臉(タァホァリエン)[22]が堂に上り、大きな銅鑼、大鼓を用い、厭わしく騒ぐのは許しません」。劇団を取り仕切る者は言われた通りにした。二更から演じはじめ、漏刻の水が尽きても休息することを許さず、お酒やご飯で労うこともなかった。簾の中の婦女、堂上の賓客は、ひそひそと語り、聞き取ることはできなかったので、劇団の人々は驚き訝った。大花臉(タァホァリエン)の顧という者は耐えられなくなり、みずから顔に隈取りして『関公借荊州』の一齣を演じ[23]、単刀を持って舞台に上り、銅鑼、太鼓をはげしく鳴らした。まもなく、堂上の燈燭は消え尽くし、賓客はまったくいなくなった。火を取って照らしたところ、荒れ塚であったので、いそいで箱を纏めて帰った。
 翌朝土人に詢ねると、「某府の木お嬢さまの(つか)でございます」と言った。

雷が王三を誅すること
 常州の王三は、積悪の法匪であった。太守董怡曾は着任すると[24]、真っ先にかれを名指しし、捜索、捕縛しようとしたので、王三は逃れた。かれの弟で名を仔という者は、武進の生員、ちょうど結婚式をしており、新婦が門に入ってきていた。下役は王三を捕らえようとしたが、いなかったので、その弟を捕らえてゆき、班房[25]に拘禁した。王三は家族がすでに連れてゆかれ、追及がやや緩んだことを知ると[26]、夜に弟の部屋に入り、新郎に成りすまし、弟の妻と媾った。
 翌日、下役はその弟を連れて法廷に上った。太守は柔弱な書生を見ると、その無辜を憐れみ、かれが新婚であることを知ると、すみやかに還らせた。期限を一月延ばして王三を捜索、捕縛させることにした。その弟が部屋に入って妻を慰めると、妻はかれが新郎であること、昨晩いっしょに寝た者は別人であったことをはじめて悟り、羞じ、怒り、縊れ死んだ。その実家は騒ぎたてにこようとしたが、大っぴらにするのは恥ずかしかったし、新郎の罪でないことはよく分かっていたので、言った。「わたしの家が持参させた衣服、装身具を、すべて棺の中に入れれば、おとなしくしましょう」。新郎舅姑は哀しんで止めず、逐一命に従った。王三はそれを聞くと、また欲念を動かし、(かりもがり)している場所を伺い、発掘しにいった。棺を開くと、女は顔色が生きているかのようだったので、下着を剥ぐと、また淫行した。汚しおわり、女の真珠、翡翠、髪飾りを取り、包んで懐に満たし、路を逃げようとしたところ、たちまち空に霹靂が轟き、王三は撃ち殺され、女は活きかえった。
 翌朝、墓守がその弟の家に報せを送ると、家に迎えて結婚した。太守はそれを聞くと、王三の骨を削り、その灰を飛ばすように命じた。

鉄の匣の壁虎(やもり)
 雲南昆明池[27]の傍の農民が地を掘ったところ、鉄の匣を得た。匣の上の符篆[28]は読むことができなかったが、傍には楷書で「至正元年楊真人封ず」とあった。農民は何なのか分からず、その匣を椎で砕いたところ、中には一寸ばかりの壁虎(やもり)がいた。もぞもぞとして半死半生のありさまであったが、童子が水を掛けると、まもなく、一寸ばかりのものがだんだんと長くなり、鱗甲を生じ、空に上って去っていった。暴風、豪雨で、天地は暗くなったが、見れば一角の黒い蛟が二匹の黄龍と空中で攫みあい、闘っているのであった。氷や雹がいっせいに降り、損われた穀物、民家は数知れなかった。

図公が神になること
 乾隆己丑の年、両淮[29]の塩院[30]図公思阿が着任したが、清廉潔白、日々の費えは三百文であった。商人に遇えば和気藹藹、慈愛諄諄、人々は百余年来このような良い塩政はいなかったと思った。七十三歳で歿した。その三日前、あまねく幕客、親戚、友人を召すと言った。「わたしは帰ってゆきますから、みなさんはわたしを助けて塩院の事務を処理し、後任に交代するのに便ならしめてください」。人々はみな訝り、世迷い言だと思った。公は笑って「わたしはそのような人間ではありません」と言い、期日になると、みずから遺言状を書き、沐浴し、冠帯を着け、趺坐して亡くなった。
 三七[31]の時、商人たちが哭しにゆくと、その妾の某夫人が人に尋ねさせた。

「皆さまは天下に思州府があることをご存じでしょうか」

「はい、その州は広西省にございます。ご夫人はなぜお尋ねになるのでしょう」

(わたし)が昨晩夢みたところ、旦那さまが夢枕に立ち、『わたしは思州府に往って城隍となるが、これは上帝が命じたことなのだ』と仰ったのです」

そこで商人たちは騒然となり、図公がはたして神になったことを知ったが、どうしてこんなに遠い所の役人になったのかは分からなかった。

隨園瑣記
 わたしの姨母(おば)[32]王氏は病を得て死にそうになった時、突然身を翻し、奥に向かって臥すと、くすくすと笑って止めなかった。その娘が尋ねると、言った。「袁家の甥が廩生[33]に補せられることを聞いたので、喜んでいるのだよ」。当時わたしはまだ附生[34]であった。(おば)が亡くなった翌年、歳試で第三位になったため廩生に補せられた[35]
 先君子が亡くなった時、侍妾の朱氏も病み、叫んだ。「わたしは行きます。わたしは行きます。旦那さまが屋根の上でわたしをお呼びになっています」。時に先君は亡くなり、朱氏は危篤になっていたので、家僕はかれが哀しむことを慮り、知らせなかったが、やはりにわかに死んでしまった。そこではじめて屋根に昇ると魂が戻ってくるという古人の話が、いわれのないものではないことを信じたのであった。
 門番の朱明は死んだが、また甦り、目を瞠り、手を伸ばし、紙銭を求めて言った。「接待の費用が必要です」。焼いてやると、はじめて瞑目した。
 甲戌の秋、わたしが危篤になった時のこと、白面の小僮が纓帽[36]を戴いて(とこ)の下に跪いた。単幅[37]を持っており、「家政は条条、人口は寥寥[38]」の八字が書かれていた。わたしはこの鬼がわたしに戯れていると思い、わたしも戯れることにした。その日の昼に胡椒湯[39]を飲むと、胸元がすこし楽になったので、続けて「憐れむべし小鬼、(ただ)胡椒を怕る」と誦えた。童子は一笑して去った。熱がひどい時は、(とこ)の中で六七人が縦横に雑魚寝しているように感じた。わたしが呻こうとしないとかれはわたしを呻かせ、わたしが静かに臥せようとするとかれは揺らすのであった。熱が引くと、人は少なくなり、熱がすっかりなくなると、わたしだけになった。そこではじめて三魂六魄の説も、本当のことだと信じたのであった。
 夢の兆しに至っては、不可解なものがある。わたしの祖父旦釜公[40]は道術を好んでいたが、夢みて山の頂に行ったところ、八人の男が酒を飲んでおり、俗に描かれている八仙の容貌のようであった。わたしの祖父が来ても、仙人たちは起たなかった。わたしの祖父は戯れて言った。「八人の仙人に、十五本の脚」。すると李跛[41]は大いに怒り、杖を持って祖父を撃ち、仙人たちは「すぐに謝罪するのだ」と叫びながら、わたしの祖父を引き、跪かせ、謝らせたが、杖はすでに腰に当たってしまっていた。「おまえに三年を与えよう」と言われ、目覚めた後は、腰が鶏卵のように盛り上がっていた。医者たちも役に立たず、潰れ、裂け、三年で亡くなってしまった。わたしは戯れて言った。「(びっこ)(やつ)とわたしの家は不倶戴天だ」。(びっこ)の像を見るたびに、かならず痛罵しているが、ふたたび祟られたことはない。
 姉の夫王貢南は于少保の(つか)で祈夢[42]し、一人の僧を夢みたが、顔は獰悪、棍棒を持ち、追いかけてきて撃とうとした。貢南が狂奔すると、前方に僧侶数十人が、草の上で車座になっているのが見えた。貢南が救いを求めると、僧たちは貢南を引いて草の中に入れ、周りを囲み、外に向かって膜拝した[43]。追いかけてきた僧は、貢南を捜したが見付からなかったので、怒鳴った。「馬鹿者どもめ、あいつを生かしてどうするのだ。みんな道をあけろ。わたしの棍棒を受けようぞ」。貢南は目覚めたが、今でも験がない。
 わたしが幼い時、数百万の筆を束ねて大きな(いかだ)にし、身はその上に坐して江に浮かんだ夢を見たが、今でも験がない。また立春の日に、夢みたところ、関帝が緑の袍、長い鬚で空中に立ち、左手でわたしを捕まえ、右手で雷を持ち、臍から撃ちこんだが、烈火で貫かれ、焼かれるかのよう、痛くて目醒めたが、腹はまだ熱かった。関帝は戊午の生まれなので、わたしも戊午に及第したのかと思ったが[44]、所詮は無理な解釈である。
 壬子の郷試で、科試[45]に赴こうとしていた時のこと、その日の五更に、夢みたところ、路で門番の李念先に遇ったが、手を振って「行かれてはなりません。行かれてはなりません。坊ちゃまは科試に合格なさいません。遺才[46]にも採られず、順天郷試[47]の時にはじめて合格なさいます」と言うのであった。その時の試験では、遺才はもっとも多かったから、わたしは採られないはずがないと思っていたが、後にすべて言われた通りになった。そこで、廩生に補せられた時や録科[48]の時は、事はとても小さくても兆しがあったのに、後に進士に登り、詞林[49]に入り、県令に改まるときに、杳として予兆がなかったのは、どうしてだろうかと思うのである。

広西の鬼師
 広西では鬼師が信奉されていた。陳、ョの二家が、生者を捉えて死者の身代わりにすることができるので、病人の家はしばしばかれらを招いた。やってくるとまず一杯の水を取り、紙で覆い、病人の(とこ)の上に逆さに懸け、翌日見にきたときに、その水が染みわたっていても滴っていなければ[50]、救うことができると言うのであった。また雄鶏一羽を取り、白刃を七八寸鶏の喉に入れ、病人の体に向かって掲げ、気を動かし、呪を誦えたが、呪がおわったとき、鶏の口から血が滴らなければ、やはり救うことができると言うのであった。刃を抜き、地に擲つと、鶏は元通り飛ぶのであった。水の雫や鶏の血が滴っていれば、辞去して救わなかった。救うことができる時は、祭壇を設け、神鬼の像数十幅を掛けた。鬼師は婦人の装いをし、歩罡[51]して呪を誦え、銅鑼、太鼓をいっせいに鳴らすのであった。夜になると、油を染みこませた紙を燈にし、野外に行き、魂呼ばいするが、その声は幽渺であった。隣人で熟睡している者があれば、魂はすぐに返事してやってきた。鬼師が魂に火を渡し、魂が受け取って去った後、鬼師は病人の家に向かってお祝いを言うのだが、病人は癒え、火を受け取りにきた人は死ぬのであった。それを解く術だが、夜に銅鑼、太鼓の音をたて、両脚で土を踏みさえすれば、害はないのであった。陳、ョ二家はこれによって富を致し、その堂宇は層層として暗く、祀られている鬼神の像はたいへん多かった。
 わたしの嬸母(おば)[52]は病を患ったとき、ョ鬼師を呼んで診てもらった。ョは剣を持ち、鬼を捕らえた。部屋の中にいた(もののけ)は、蝙蝠ほどの大きさであった。(とこ)の下に投げ入れ、ョが手のひらを用いて雷で撃つと[53]、逆に火が噴き出してョの鬚を焼いた。ョは大いに怒り、鍋いっぱいの桐油を焼かせ、符を書いて焚くことにした。手で鍋の中の油をかき混ぜていると、(とこ)の下の鬼が啾啾と許しを求めるのが聞こえたが、しばらくすると絶え、(おば)の病ははたして癒えた。
 ある日、陳鬼師が某家のために魂呼ばいすると、藍衣の女が冉冉とやってきた。近づいて見ると、かれの実の娘が火を受け取りにきたのであった。陳は大いに驚き、火を地に擲つと、掌で娘の背を撃った。いそいで帰って娘を見ると、娘はちょうど眠りから醒め、「夢の中でお父さまがお呼びになるを聞いたので、来たのです」と言った。着ている藍の木綿の衫には、掌の油の跡がそっくり残っていた。
 桂林の魏太守の娘が危篤となった時、夫人は陳鬼師を招いて診させようとした。陳は百両を謝礼にすることを要求した。太守はもとより厳正であったので、捕らえて杖で打ち、獄に入れようとした。鬼師は笑って「わたしを杖で打って後悔するなよ」と言った。鬼師を杖で打っていると、娘はたちまち(とこ)の上で叫んだ。「陳鬼師は二人の鬼卒にわたしの臀を杖で打たせ、わたしを獄に引き入れようとしています」。夫人は大いに恐れ、釈放するようにつよく勧め、厚くお礼することを約束しようとしたが、陳は言った。「すでに悪鬼に驚かされてしまったから、わたしは力が及ばない」。娘は死んでしまった。

馬家の(つか)
 伊都拉は、年は二十一、羽林[54]に宿直していた。休暇の日、蘆溝橋の西で狩りしたが、雀の群れが林に飛び込むのを見たので、馬を馳せ、鷹を放ち、捕まえようとしたところ、雀は驚いて散った。少年が鷹を捕まえにいったところ、深い林の中で男が鷹を腕に乗せて立ち、右手でその羽毛を整えていた。よく見ると、手から足まで、すべて骸骨であった。驚いて逃げ、従者たちに告げ、火縄銃で打つと、骸骨は見えなくなった。
 鷹を捕まえ、行くこと一里ばかりで、高楼大廈が望まれたので、貴人の荘院[55]かと思い、それぞれ馬を下りた。すると老婦人が冉冉とやってきたが、大きい髻を戴き、杏黄の袍を着、錦の靴、(しろ)(しとうず)(はしため)数人を引き連れながら、かれに向かって叫んだ。「某家の坊ちゃまではございませんか。わたしはあなたの中表姑[56]です。こちらにいらっしゃったのなら、うちを訪ねてはいかがですか」。かれは進み出るとご機嫌伺いをした。「わたしは内府で職務に当たっておりましたので、大人[57]のご住所を存じあげませんでした。ご機嫌伺いしにゆかせてください」。老婆は先を歩きながら、従者たちを呼ぶと言った。「おまえたちはすこし休みなさい」。屋敷に入ると、堂宇は奥深かった。老婆は(しじ)に趺坐すると、ともに最近のことを語ったが、たいへん詳密であった。その娘を呼び出して見ると、言った。「あなたの妹[58]で、年は十八です」。かれはその(かお)が美しいのを見ると、心を動かした。老婆は言った。「あなたは遠く狩りをされ、喉が渇いたのではございませんか」。瓜を食べさせたが、大きさは普通のものに倍しており、これを従者に与えると、みな叩頭して礼を言い、退出した。侍者は左側の部屋に引いてゆき、娘とともに坐してしばらく語っていた。
 するとにわかに、一人の華やかな服の男が珊瑚頂[59]、孔雀翎[60]の冠を着け、昂然と外から入ってきた。少年は起つと、手を執って挨拶した。腰掛けると、男は言った。「先ほど樹林の中で手に入れた鷹はたいへん佳く、とても気に入っていましたが、突然誰かが火縄銃を放ち、中てられるところでした。鷹が逃れ去ってしまったのは、惜しいことです」。かれはそれを聞くと、はじめて鬼だと悟り、黙して語ろうとしなかった。そこで厠へ行かせてくれと嘘を言い、門を出て馬を馳せたが、従者六七人は、みな顔色が死灰のようであった。行くこと数十歩で、振り返ると、松、(ひさぎ)、宿草が生えているばかりであった。土人に詢ねると、言った。「こちらは馬家の(つか)でございます。昔、馬将軍という方がいて、陣没し、そのご夫人や一人の娘さんとともにこちらに葬られているのです」。

天厨星
 曹能始[61]先生は料理にきわめて(くわ)しく、料理人董桃媚はもっとも調理が上手であった。曹が客と宴するとき、董が侍していなければ満座の人々は楽しまなかった。曹の同年[62]某は蜀中[63]に督学することとなったが、料理人がいなかったので、董にいっしょに行くように頼んだ。曹はそれを許し、董を遣わすことにしたが、董は往こうとしなかった。曹が怒って追い払うと、董は跪いて言った。「桃媚(わたくし)は、天厨星[64]で、あなたがもともと仙官であったため、お仕えしにきていたのです。督学は凡人ですから、天厨の福を享けることはできませぬ。これからは公は禄が尽きますから、わたくしも行くといたしましょう」。そう言うと、空に昇り、西に向かって去り、しばらくすると影が消えた。一年足らずで、曹は亡くなった。

夢の中で聯句すること
 曹は若いとき太平書坊[65]を訪れ、『椒山集』[66]を手に入れて帰った。夜に閲していたところ、疲れたので、本を閉じて横になった。すると門を叩く音が聞こえたので、開けて見たところ、同学の遅友山であったので、手を携えて(うてな)に登り、明月を仰ぎ見ていると、友山が詩を賦した。「冉冉と風に乗り一望迷ふ」。曹は言った。「中天煙雨夕陽低く、来る時の衣服雪と成ること多し」。遅は言った。「去りし後皮毛(ことごと)く泥に属し、(ただ)見る白雲の冷月を侵すを」。曹は言った。「何ぞ(かつ)て黄鳥の花を隔てて啼く」。遅は言った。「行き行くも(これ)人の世の(しやう)ならず」。曹は言った。「手づから蛟龍を挽き杖藜(ぢやうれい)[67]()さん」。吟じおわると、友山は別れて去った。学士は帰宅してその妻に語りかけたが、妻は返事しなかった。(しもべ)を呼んだが、(しもべ)も返事しなかった。ふたたび北の窓辺に坐し、『椒山集』を取って数頁捲り、わが身を見れば、竹の(とこ)に臥していたので、大いに驚き、はじめて夢であったことを悟った。目覚めると、起きあがって『椒山集』を見ると、まさに捲っていた頁であった。そして翌日、友山の訃音が届いたのであった。

碧眼で鬼を見ること
 河南巡撫胡公宝[68]は、眼が碧色で、幼いときから鬼物を見ることができた。九歳になっても、話さず、前生の事を記憶していたが、話すことができるようになった後は、忘れてしまった。みずから言うには、人の世は街衢堂屋、到るところに鬼がいるが、朝廷の午門の中だけは人がいない、菜市口[69]は人を処刑する所なので、鬼がもっとも集まる。気が盛んな人に遇えば、避けて進み、衰弱していれば、肩を掠って通る。からかえば、その人はかならず病む。午前はそれほど出ないが、午後は道路に紛紛としている。しかしその動作は、すべて卑しく汚らわしく、立派で正大な者はいないという。
 公はずっと廟に入ろうとしないが、神仏は会えばしばしば起立するという。かつて経験したことを述べたが、尊さでは東岳大帝より尊いものはない、鹵簿が立派だ、珍しさでは金将軍より珍しいものはない、全身が金色で、毛孔は閃閃として、万条の金の光を生じている、醜さでは狭面神より醜いものはない、体の長さは三尺、顔の長さは四尺、幅はわずか五六寸、向かい合えば嘔き気をもよおす、如来、仙子、関公、蒋侯[70]などは、見たことがないということであった。
 幼い時に土地祠を訪ねたところ、傍[71]に牛頭鬼の塑像があったが、公はその角を践んでしまった。鬼はいっしょに家に帰ると、角で公の寝床にぶつかり、揺らしつづけた。その後瘧を患うと、牛はその胸を圧したが、太夫人[72]が祭るとはじめて去った。人は尋ねた。「胡公は官位が貴く、神仏さえも会えば起立するのに、牛頭のような下賤な鬼がからかおうとするのはどうしてでしょうか」。わたしは答えた。「神や仏は、正直聡明だから、貴人、正人であることが分かれば敬うが、牛は無知なので、敬うことがないのだ」。
 公が河南の巡撫をしていた時、朔日にお参りしたが、廟に着く前、たちまち頭を垂れ、扇を持ち、顔を掩った。司道[73]が迎えてお辞儀したが、傲然として答礼しなかった。公はもともと謙虚だったが、一朝にしてふだんと変わってしまったので、司道は大いに訝った。一日後、暇をみて尋ねた。「公は某日お参りしたとき、わざとわたしたちをお避けになったようですが、ご無礼がございましたか」。公は言った。「いいえ。前日、廟の前で天蓬神二人が河神に繋がれており、わたしに取りなしを求めたのです。承知しても、かれらはもともと罪がありますし、承知しなければ、天蓬神に纏いつかれますので、見えない振りをして通り過ぎただけです」。

龍母
 常熟の李家の妻は、孕むこと十四か月で、肉の塊を産んだが、九つに折れ曲がり、透き通って水晶のようであった。恐ろしくなって、河に棄てると、小さな龍に化し、空を(つんざ)いて去っていった。一年後、李の妻が亡くなったので、納棺すると、雷雨の暗闇の中、龍が来て哀号したが、声は牛が吼えているかのようであった。村人は珍しがり、虞山に廟を立ててやり、「龍母廟」と号した。乾隆壬午の夏は、大旱魃で、牲玉[74]を尽くしても、結局効き目はなかったので、桂林中丞[75]が大いに悲しんでいたところ、その門下の士薛一瓢[76]が「堂に登ってお母さまを拝してはいかがでしょうか」と言った。中丞が役人を遣わし、牲牢を供えて龍母廟で祷らせると、翌日雨が降ったのであった。

清涼老人
 五台山の僧で、清涼老人と号するものがおり、禅理によって鄂相国の知遇を得ていた[77]。雍正四年、老人が亡くなった時、西蔵に一人の男児が産まれた。八歳になっても話さなかったが、ある日剃髪すると、叫んだ。「わたしは清涼老人だから、すぐに鄂相国に知らせてくれ」。子供を召し入れると、受け答えするのは、すべて老人の前世のことで、間違いがなかった。侍者や僕御(しもべ)を指させば、その名を呼ぶことができ、旧知のようであった。鄂公はことさらに試そうとし、老人の念珠を賜うと、子供は手に珠を握りながら叩頭して言った。「頂くわけにはまいりません。これは拙僧が前世で相国さまに差し上げた物でございます」。鄂公は驚き、五台山に往き、方丈で坐禅するように命じた。
 河間[78]に着こうとする時、一通の手紙を河間の人袁某に書き与え、とてもねんごろに別れていた時の思いを述べた。袁は、老人と仲が良かったので、大いに驚き、すぐに老人が贈った黒い馬に騎って迎えにきた。子供は途中でそれを望み見ると、車から下り、進み出て、袁の腰を抱きながら言った。「お別れして八年になりますが、まだご記憶でしょうか」。さらに馬の鬣をさすりながら笑って言った。「おまえも恙なかったか」。馬は悲しげに嘶くのを止めなかった。その時、路傍で観ていた者は大勢いたが、みな生き仏だと叫び、囲んで拝んだ。
 子供はだんだん生長したが、纖妍として美しい女のようであった。琉璃廠を通ったとき、絵を売る店で男女の媾いのさまが売られているのを見ると、大いに喜び、じっくりと弄んで止めなかった。帰るとき柏郷[79]を通ったが、(うたいめ)を召してともに親しんだ。五台山に着くと、あまねく山麓の淫らな嫗を召し、(かお)が美しく陰が巨きな少年と終日淫行させ、みずから見物したが、なお飽きたらず、さらに賽銭を取って蘇州に往き、役者を招いて歌舞させ、人々に劾奏された。上申書が提出される前、老人はそれを知ると、嘆いた。「曲躬樹がないのに色界天[80]に生まれたのは、誤りであった[81]」。すぐに結跏趺坐して亡くなったが、年は二十四であった。
 わたしの友人李竹溪はかれと前世で馴染みだったので、訪ねていった。老人はちょうど女子の装いをし、紅い腹掛、靴下で[82]、下半身を露わにし、一人の男に自分を犯させ、自分も一人の女を犯し、その傍には魚貫連環して淫行する者が無数にいた。李は大いに怒り、罵った。「活仏がこんなことをしてよいのか」。老人は平然としてすぐに偈を作った。「男は歓び女は愛す、(さえぎ)()かれ(さまた)ぐる()かれ。一点の生機、この世界を成す。俗士は知らず、小怪に大いに驚く」。

徐崖客
 湖州の徐崖客は、庶子であった。その父は継母の言葉に惑わされ、かれを殺してしまおうとした。崖客は逃げ、四方を雲遊し、およそ名山大川、深岩絶澗[83]は、かならず縁り縋って上り、もともと死ぬはずだったのだから、畏れることはないと考えていた。
 雁蕩山[84]に登った時のこと、上ることができなくなったが、晩に投宿する場所がなかった。すると傍で一人の僧が目くばせして言った。「おんみは旅がお好きか」。崖客は言った。「はい」。僧は言った。「わたしも若い時にその(へき)があった。仙人に遇って皮の嚢を授かったが、夜にその中で寝ると、風、雨、虎、豹、蛇、(まむし)は危害を加えることができなかった。さらに纏足布一匹を与えられたが、長さは五丈、山がひどく高いときは、布を投げ、縁り縋って上った。転んでも、手から布を放さず、かたく握っていさえすれば、墜ちても傷つかなかった。そのためあまねく海内を旅したのだ。今は老い、疲れた鳥は還ろうとしているところだ。どうか二つの物をおんみに贈らせてくだされ」。徐は拝謝して別れた。その後は、高みに登るのも、深みに臨むのも、思いのままであった。
 滇南[85]に入り、青蛉河から千余里離れたところで、道に迷ったが、砂礫が渺茫としていたので、嚢に入って野宿した。月の下、人が皮の嚢の上に(ゆばり)するのが聞こえたが、音は潮が湧くかのようであった。こっそり見ると、大きな毛むくじゃらの男で、方目鉤鼻[86]、二本の牙が頤の外に数尺出ており、身長は人に数倍していた。さらに沙の上に獣の蹄が雑沓するのが聞こえたが、(のろ)や兔の群が逐われて狂奔しているかのようであった。するとにわかに、激しい風が西南から起こり、耐えられない腥ささの中、蟒蛇が空からやってきて、獣たちを駆りながら進んだが、長さは数十丈、頭は車輪のようであった。徐は息を潜め、声を呑んで伏し、夜が明けると嚢を出たが、蛇が通った処は両脇の草木がすべて焦げており、自分ひとりが無事だったのであった。腹が減っているのに食べものを貰う場所はなかったが、前方の村で煙が起っているようだったので、奔ってゆくと、二人の毛むくじゃらの男が並んで坐し、傍に(かま)を置き、とても香ばしい芋を焼いていた。徐はこれが月下で(ゆばり)した者かと疑い、跪いて再拝したが、毛むくじゃらの男は理解してくれなかった。空腹を救ってくれと哀願しても、理解してくれなかったが、顔付きはとても和やかで、徐を見て笑うのであった。徐が手で口を指し、さらに腹を指すと、毛むくじゃらの男はますます激しく笑い、啞啞(ヤアヤア)と声を出し、響きは谷の林を震わせた。そして理解したかのように、二つの芋を与えた。徐は腹を満たすと、半分の芋を残し、帰って人々に見せたところ、白い石であった。
 徐は四海をあまねく旅して、湖州に帰った。かつて人に告げた。「天地の生き物の中では人が貴い。荒蕪幽邃の地で、人が行かない所には、鬼神怪物も行かない。鬼神怪物がいる所には、人がいるものだ」。

虎が文昌[87]の首を銜えること
 陝西興安州の民某は六月に妻を娶ったが、気候は大いに暑く、路は遠かった。新婦は紅い巾で頭を包んでいたが、蒸し暑さに耐えられず、車の中で急死してしまった。かれの父母はとても悲しみ、棺を買って納めたが、家に担いでゆくわけにゆかなかったので、城外の古廟の裏手に安置した。棺はそれほど堅くも厚くもなく、たまたま大雨が降ると、涼気が棺の中にしみ込み、女は生き返り、うんうんと声を出した。廟僧の師徒二人がそれを聞き、見にきて、棺を開けたところ、嫣然たる美しい娘であったので、扶け起こし、湯薬を飲ませ、蘇らせると、娘を抱きかかえて寺に入れた。弟子はこの娘を独り占めしようと思い、師に酒を買うように頼み、飲んで半ば酔ったところで、斧を持って斬り殺すと、すぐに娘の棺に師の屍を入れ、廟の裏手に置き、女を背負って逃げ、別の村の文昌祠に住み、蓄髪して妻帯の道士となった。
 翌年、夜、突然虎が祠の中に跳び込み、文昌帝君の塑像の首を銜えて去り、子虎三匹を遺した。近隣の村では喧しく噂し、争って虎を看にきたが、娘の両親もやってきた。そして突然娘を見ると、鬼かと思い、抱きかかえてしばらく哭いた。娘は隠すことができず、顛末をくわしく述べ、妻を独り占めするために僧を殺したことを告げた。その父母はお上に訴え、お上は訊問して事実をつかむと、僧の屍を発掘、検分し、その弟子を処刑し、娘を父母に引き渡して連れ帰らせた。この事は厳侍読冬友[88]が陝西から帰り、みずからわたしに語ったことである。

採戦[89]の報い
 京師の人楊某は、採戦の術を習い、鉛の棒を陰竅[90]に入れ、吐いたり、吸ったり、出したり、入れたりすることができ、「運剣」と称していた。気を漲らせ、鉛の棒を壁に当て、鏗然と音をたてたり、焼酎を半斤吸ったりし、(うたいめ)にはその害毒を受ける者が多かった。
 突然、これは長生の道ではないとみずからを悔い、広く丹竈[91]の良師を求めた。噂では阜城門外の白雲観[92]は、元の時代に邱真人[93]によって建てられ、毎年正月十九日に、かならず真仙が降りてくるので、香を焚く者がことごとく集まるということであった。楊が様子を見にゆくと、美しい尼が人々とともに香を焚いていたが、(うわぎ)を着て風に逆らって進むとき、風に吹かれても動かなかった[94]ので、きっと仙女だと思い、進み出ると跪いて頼んだ[95]。尼は言った。

「道を学んでいる楊某さまではございませんか」

「はい」

「わたしの道は人を択んで伝えるべきで、俗物のあなたにお伝えすることはできません」

楊はますます驚き、再拝して止めなかった。尼は人がいない所にかれを引いてゆき、丹薬二粒を与えると、言った。「二月の望日に、わたしを某所で待っていなさい。この二粒の丹薬をあなたに与えますから、まずは一粒を呑み、期日になったらさらに一粒を呑めば、道を伝えることができましょう」。楊は言われた通りに、帰宅すると一粒を呑んだが、毛孔の中が熱くなるのを覚え、寒さを感じず、淫欲はふだんに百倍し、ますます媾いを求めた。私娼たちはかれを避け、交わろうとする者はいなかった。
 期日になり、丹を呑んで往ったところ、尼ははたしてさきに人気のない部屋におり、下着を弛めながら言った。「『道を盗むに(わたくし)無ければ、(つばさ)有るも飛ばず』[96]。あなたも古人の言葉をご存じでしょうか。道を伝えてもらいたければ、さきにわたしと交わりなさい」。楊は大いに喜び、採取[97]の術を恃み、身を聳やかして覆いかぶさったが、まもなく、精が漏れて止まず[98]、地にへたばった。尼は怒鳴った。「道を伝えました。道を伝えました。悪報です。悪報です」。大いに笑って去った。五更に甦ったが、身はあばら屋に臥しており、外に漿を売る者がいたので、這っていって事情を告げた。家に担いでゆくと、三日で死んだ。

木p隸
 京師の宝泉局[99]に土地祠があり、傍に塑像、木像のp隸が四体あり[100]、炉頭[101]の銅匠は、みな祀りにいっていた。毎晩、職人たちは局内に泊まっていたが、年少の者が夢の中で、かならず男に鶏奸[102]されるのであった。魘されて、嫌だと思っても、手足は縛られているかのように、動かすことができず、叫ぶこともできないのであった。そして朝起き、肛門の中を触ると、かならず青い泥があるのであった。このようなことが一月あまり続いたので、人々はからかったが、結局何の(あやかし)なのかは分からなかった。後に土地神を祀ったところ、一体のp隸の(かお)が夜に人を犯しにくる者に似ていたので、お上に訴え、鉄釘を取り、その足を釘うったところ、その後(あやかし)はいなくなった。

王清本
 湖北巡撫陳公[103]はその父文肅公[104]を先祖の墓に葬ろうとし、日を占っていた[105]。その弟縄祖が夢みたところ、帖子を持って挨拶しにきた者があり、「王清本」の三字が書かれていた。門に入ると、十三人の男がいたが、坐したまま一言も発しなかった。にわかに、十二人が辞去すると、ひとり残った男が公に「あの十二人はみな河神なのです」と告げた。公は目覚めると、翌日、(つか)に行き、路を遮っている樹を伐ったところ、樹に「王清本」の三字の文様があり[106]、数えると、十二本あったので、大いに驚き、斧を停めるように命じた。その木は今なお家にある。この事は厳侍読がわたしに語ったことであるが、同時に「たまたま『五色線』[107]説部を閲したところ、河神は名を王清本ということが記されていた」と言っていた。

女が男に変わること
 耒陽[108]の薛家の娘は名を雪妹といい、黄家の息子と婚約していたが、嫁いで一日で、たちまち危篤となった。昏迷していると、白鬚の老人が娘の体を叩いた。それが下半身に及ぶと、娘は羞じて拒んだが、白鬚の翁は物を納めるように迫って去った。娘が大声で啼いたので、父母が驚いて見たところ、すでに男の体に変わっており、病も霍然と癒えていた。鄒県知事張錫組は耒陽知事の職務を代行していたが、陶悔軒方伯[109]を立ち会わせ、娘を呼んで調べたところ、面貌や声音は、まだ女のようであったが、陰嚢は小さく、まるで陰溝のようであった。薛にはもともと二人の息子があったが、これで三人目となり、雪妹を改めて雪徠と名づけた。

井泉童子
 蘇州の繆孝廉渙[110]は、わたしの年家子[111]である。その息子喜官は、年は十二、性来腕白であったが、子供たちとともに戯れて井戸に小便した。その夜に病になり、井泉童子に訴えられた、府の城隍に二十回打たれたと叫んだ。朝に起きて見たところ、両の臀肉は青くなり、病はすこし癒えていた。三日後、また劇しくなり、叫んだ。「井泉童子は城隍神が同郷の誼に従い、罪が大きいのに罰を小さくしたことを憎み、今度は司路神[112]に訴えました。神さまは『この子供は人が飲む井戸を汚し、罪は蠱毒[113]と同じだから、その命を取るべきだ』と言いました」。そしてその晩に死んでしまった。「城隍は誰か」と尋ねると、「周公範蓮[114]にございます。庚戌の翰林で、蘇州の人、河南某郡の太守となり、正直で慈悲深く、人を杖で打つたびに、看るに忍びず、かならず扇でその顔を掩っていました」。

天箭を射る
 蘇州の陶夔典の弟某は、年は十六、空を仰ぎ、矢を射ることを好み、「天箭」と称していた。とある日、射おわると、弓を投げ、大声で叫んだ。「わたしは太湖の水神だが、朝天[115]する時、こちらを通り、おまえに射られ、臀を傷つけられてしまった。罪は万死に値しようぞ」。家を挙げて跪いて頼んだが、結局救うことができず、一日病むと死んでしまった。夔典はわたしに言った。「弟はたしかに腕白だったが、鬼神の霊力をもってしても子供の箭を避けることができなかったのは、理解できない」。

神の秤
 張玉奇は、武進県戸房の書吏であった。銭糧[116]を運んで蘇州に行くとき、横林[117]の地を通ったところ、白昼地に倒れた。一日後蘇り、みずから語るには、金の鎧の男に捕らえられたとのことであった。その男は大きな屋敷に着くと「大師父さま、悪人がまいりました」と叫んだ。上座には青面獠牙の者が坐しており、「悪人ならば、すぐに拘禁させよ」と言った。金の鎧の男は跪き、「玉奇は朝廷の公務を帯びておりますので、拘留するわけにはまいりません。陽界に還らせ、その仕事がおわるのを待ち、ふたたび取り調べをしても遅くはございません」と頼んだ。青面の者は承諾したので、張は生き返った。
 食糧を運んで蘇州に行き、批を得て帰ろうとし[118]、横林を通り、旅店に宿り、夢みたところ、金の鎧の男がふたたびやってきて、玉奇を引いて大師父に会わせたが、それは青面の者であった。大師父は判断した。「玉奇の平生の功過簿[119]を取ってきて、その軽重を量り、処罰することにしよう」。左右の者は秤を取ってきたが、金の目盛りが輝いており、重りは紫金石[120]で作られていた。善事の帳簿には紅い題簽が貼られ、悪事の帳簿には黒い題簽が貼られており、それらを分けて天秤皿に投じた。まもなく、紅い方は軽く、黒い方は重くなったので、張は戦慄して止まなかった。にわかに、男が紅い題簽の文書一巻を取って投じると、天秤皿の黒い方はすっかり圧されて、紅い題簽が重くなり、量ることができなくなった。青面の者は言った。「こんなに大きな功徳があるなら、陽界に還らせて、寿命一紀[121]を増すべきだ」。
 玉奇は目覚めると、そのことを人々に語った。人々は尋ねた。

「何の文書なのかは分かりましたか」

「わたしが担当、処理したことですから、もちろん分かりました。常州の劉藩司[122]名は某という者の家財没収に関する文書でした」

劉が家財没収された時、没収された田畑や、佃戸たちの積年の債務はとても多かったが、県令某は金額通り取り立てようとした。玉奇は表向きはその言葉に従ったが、夜中にわざと火の注意を怠り、すべてを焼いたため、杖で打たれ、取り立てはおしまいになった。想うに秤を圧したのは、この事であろう。玉奇は今でも生存している。

荘明府
 荘明府炘[123]は、役人になる前、広西横州刺史の署中に仮住まいしていた。書室で昼寝し、夢みたところ、青い衣の人が帖子を持ってきて「城隍神がお呼びです」と言った。荘がついてゆき、とある役所に着くと、城隍神は階を降りて迎え、時候の挨拶を述べ、「某の事件のことで、あなたが証人になっていますので、来ていただいて対質いたします。悪いようにはいたしません[124]」と言った。荘は承知し、すぐに以前証人となった事実について話した。城隍は笑って頷くと、童を呼び、酒盛りをした。神は南に向かい、荘は西に向かうと、神は言った。「敝署には幕友四人がおりますが、お相伴するのをお許しいただけましょうか」。荘が承知すると、左右の者はすぐに四人の先生を呼んできたが、いずれもふだん知っている者ではなかったので、おたがいに揖したものの、一言も交わさなかった。四先生は城隍の側に坐し、荘からとても遠く離れていた。階の下には紅い燈が四盞、光は熒熒然としていた。
 宴がおわると、荘は冥府だと悟り、尋ねた。「一生の事を、あらかじめ知ることができますか」。城隍神は難色を示すこともなく、左右の者に命じて四つの帳簿を取ってこさせたが、上には紅い題簽が貼られており、「横死、夭折、死、老寿」の四つの項目があった。荘自身は老寿簿に記入されており、妻某、子某、妾某云々とあった。荘はその時はまだ子も妾もいなかった。荘が別れを告げると、城隍神は青い衣の者にもとの路を通って送り返すように命じた。
 役所を出ると、街では舞台を組んで劇を演じており、観る者は垣のようであった。荘が「どちらの劇団ですか」と尋ねると、青い衣の者は言った。「郭三班です」。中に白鬚の老人馮某がいたが、荘の昔の隣人、死んで久しかったが、一目見るなり、やってきて手を握り、頼んだ。「わたしは某地に葬られましたが、棺は地風[125]に吹かれ、今は傾いています。帰ってわたしの子や孫に告げてください。改修してくれれば安らかであると」。
 荘は粤から帰ると、言われた通り、馮家に知らせた。(つか)を開いて見たところ、棺ははたして朽ちて傾いていた。十余年来、荘が経験したことは、いずれも夢の通りであった。ただ、かれが話した、某のために証人となった事実だけは、人に語ろうとしなかった。

浄香童子
 桂林相国陳文恭公[126]が幼い時に扶乩[127]したところ、仙は(ふだ)[128]に「人としてはもとより道気[129]が多く、吏としてはもとより仙才[130]である」と書いた。後に文恭は封疆の官[131]を歴任し、位は宰相に至ったが、乩仙の言葉はかれの器量を十分に述べていなかったようである。
 公が亡くなった数年後、蘇州の薛生白[132]の息子の妻が病んだが、治療しても効果はなかったので、扶乩して処方を求めたところ、乩[133]は「薛中立よ、承気湯[134]があるのに用いることを知らぬとは、名医の子とはいえないな」と書いた。服するとはたして癒えた。「乩仙さまはどなたでしょうか」と尋ねると、「わたしは葉天士[135]だ」と言った。そもそも天士と生白は生前医者としての名声を競いあっていた。中立は、生白の子であったので、戯れたのであった。それからは、処方を求める蘇州の人々がみな集まってきたが、乩が記した薬を使えば、たちまち癒えるのであった。
 ある晩別れを告げると、大書した。「わたしは大公祖[136]浄香童子に召されたから、往かざるを得ないのだ」。人々が愕然として「浄香童子をどうして公祖と呼ぶのでしょうか」と尋ねると、「陳文恭公はすでに浄香童子の位に復したのだ」と言った。陳は、亡くなった蘇州巡撫であった。

棺の屍が祭祀を求めること
 常州の御史呉龍見[137]は、文端公[138]の曾孫であった。その弟某は、李家に仮住まいしていたが、建物はとても寛かった。傍には古い棺があり、(とばり)に塵が満ちていたが、呉も見慣れていたので、怪しいと思わなかった。ある晩、月が明るい時、棺の中で橐然と音がして、前和[139]が開き、中から首が伸びて出てきた。それは紗帽[140]に白髯のもので、手でその腹を指しながら、みずから飢え渇いていると称して祭祀を求めた。呉が承知すると、白鬚の者は棺の中から淡黄色の袍服を取って与え、「これは明朝の万暦皇帝が賜ったものですが、このたびお礼といたしましょう」と言った。呉は受けようとしなかった。夜がようやく闌けると、棺は元通り合わさった。呉は翌日主人に告げ、斎醮を行ってやった。話に拠れば、この棺は李家の高祖、名は傑というもので、前明の侍郎であった。子孫がとても多く、風水に惑わされているため、葬っていないのであった。

沈椒園[141]が東岳部司になること
 嘉興の盛百二[142]は、丙子の孝廉で、沈椒園先生に教えを受けた。沈が歿して数年の後、盛が夢でとある場所に遊んだところ、椒園が八人がきの轎に乗っており、従者はとても多かった。盛が進み出て、拱手しながら揖すると、沈は手を振って制止し、すぐにとある役所に入った。盛がそこへ往って帖子を投じ、面会を求めると、門番が取り次いだ。「こちらは東岳府[143]でございます。主人はこちらで部曹[144]をしておりますので、謁見することはできません」。
 盛は公が神になったことを知り、よろよろと外に出た。見れば柳の下陰で男が立ちもとおり、ひとり立っていた。じっくり見たところ、椒園の表弟(いとこ)[145]査某であったので、尋ねた。

「どうしてこちらにいらっしゃるのでしょう」

表兄(いとこ)の椒園がわたしを招いて幕僚にしようというので、来たのですが、こちらに来ると、今度は会ってくれません。どうしてなのかは分かりません。わたしには長女明姑がおり、冬に嫁ぐことになっておりますので、その時期を過ぎたら来ようと思います。その趣意を伝える術がございませんが、どういたしましょう」。盛は言った。「それならば、わたしがふたたび先生の門を叩いて、会うことができましたら、お気持ちを伝えられてはいかがでしょうか」。査は「幸甚にございます」と言った。盛が轅門に行き、門番に向かってまた面会を求めにきた理由を述べると、門番は取り次いでやった。まもなく、門番は出てくると言った。「主人は公務が忙しく、どうしてもお会いすることはできません。代わりに査さまにお伝えください。はやく来い、はやく来い、冬まで待つことはできない、査お嬢さまも、後から来られる、結婚を待つことはないと」。盛はその言葉を査に報告し、ともに歔欷して目醒めた。
 その時は春の二月、いそいで査に会いにゆき、おたがいに夢のことを述べたところ、すべて符合したので、査は憮然として楽しまなかった。その時、査はたいへん健やかで、恙なかった。しかし八月になると、査は瘧で亡くなり、九月には、査の娘も瘧で亡くなった。椒園は、わたしの社友[146]で、ともに鴻詞科[147]に挙げられた。

 

最終更新日:2007327

子不語

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[1] 浙江省の府名。

[2] 処州府に属する県名。

[3] 穀物倉。

[4]躄踊、擗踊。泣き悲しむこと。「擗」は胸を打つこと、「踊」は足踏みすること。

[5] 原文「幸莊房門有半截柵欄可推而進」。「半截柵欄」が未詳。とりあえずこう訳す。

[6] 四川省東部の道名。

[7] 原文「掛帆回任」。未詳。とりあえずこう訳す。

[8] 釣り針の一種と思われるが未詳。

[9] 牡蠣殻などを薄くしたもの。窓につけて明かり取りとして用いた。

[10] 明府は県令。

[11] 宛平の人。雍正二年の進士。

[12] 未詳だが、寝そべることができる、大型の床下暖炉であろう。

[13] :『三才図会』

[14] 未詳だが、張真人の印を捺した護符であろう。

[15] 布団カバー。

[16] 浙江省の県名。

[17] 儀仗、楽隊などによって廟から出る神像を迎える儀式。

[18] 未詳だが、正門から数えて三つ目の堂屋であろう。

[19] 原文「乃明天啓四年邑宰陳命眾題額」。未詳。「陳命眾」を人名と解す。

[20] 崇文門。

[21]生は男役、旦は女役。「生旦の劇」は才子佳人劇のことであろう。

[22] 原文「大花面」。隈取りの一種。荒々しい役柄のものに施される。

[23] 原文「竟自塗臉扮關公借荊州一齣」。未詳。とりあえず『關公借荊州』という劇があったものと解す。「借荊州」は、劉備が西川を攻めるために荊州が必要なので貸して欲しいと称して孫権から借り、そのまま返さなかったという故事。沈伯俊等著『三国演義辞典』四百八十七頁参照。

[24] 原文「太守董怡曾到任」。未詳。「董怡曾」が人名であると解す。

[25] 監獄。

[26] 原文「王三知家屬已去、則官事稍鬆」。未詳。とりあえずこう訳す。

[27] 昆明池:湖名。雲南府城の南にある。

[28] 篆書で記した呪文。胡孚琛主編『中華道教大辞典』六百三十三頁参照。

[29] 淮南、北。今の江蘇省の淮河流域。

[30]塩政大臣。長蘆、両淮に置かれ、両淮塩政は両江総督の兼任。

[31] 死者が出て二十一日目の法事。

[32] 母の姉妹。

[33] 給費生。宮崎市貞『科挙史』(平凡社東洋文庫版)百十八頁参照。

[34] 生員になり、歳試を受けていない者。また歳試を受けて三、四等になった者。宮崎市貞『科挙史』(平凡社東洋文庫版)百十七頁参照。

[35] 原文「竟以歳試第三補廩」。「歳試第三」が未詳。とりあえずこう訳す。歳試については宮崎市貞『科挙史』(平凡社東洋文庫版)百十四頁参照。

[36] 紅い房飾りのついた帽子。写真

[37] 対になっていない掛け物。

[38] 未詳。とりあえず「家はきちんとしているが、人は少ない」という意味で、袁家の衰微を述べた句と解釈する。

[39] 薬名。謝観等編著『中国医学大辞典』九百五十二頁参照。

[40] 袁リ。

[41] 八仙の一人鉄拐李のこと。びっこで杖をついている。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千四百八十二頁参照。

[42]廟で祈り、その後に見る夢によつて、吉凶などを判断すること。

[43] 原文「而四圍膜手向外」。まったく未詳。とりあえずこう訳す。膜拝は手のひらを額に当てて、長跪する拝礼。

[44] 袁枚は乾隆戊午年に順天府試を受け、挙人となり、翌年会試に合格している。乾隆戊午年は乾隆三年。

[45] 郷試の予備試験。宮崎市定『科挙史』(平凡社)百二十六頁参照。

[46] 科試に合格しなかったが、成績優秀などの理由から、特別に郷試受験を認められる者をいう。遺才を択ぶことを録科という。宮崎市定『科挙史』(平凡社)百二十七頁参照。

[47] 原文「大収」。前野直彬氏訳『子不語』で順天郷試とし、とりあえずそれに従うが、「大収」を「順天郷試」とする根拠は未詳。

[48] 郷試の予備試験。宮崎市貞『科挙史』(平凡社東洋文庫版)七十一頁参照。

[49] 翰林の別称。

[50] 原文「其水周時不滴者」。「水周」が未詳。とりあえずこう訳す。

[51]歩罡踏斗。北斗星の形に歩くこと。

[52] 叔父の妻。

[53] 原文「ョ用掌心雷擊之」。未詳。とりあえずこう訳す。

[54] 禁衛。

[55] 地主や貴族が郊外の荘園に設けた邸宅。

[56]中表は○祖父の姉妹の子供、○父の姉妹の子供、○祖母の兄弟姉妹の子供、○母の兄弟姉妹の子供、○以上の人たちの子供、などの親族関係を指す。姑は父方のおばだから、中表姑は、ここでは祖父の姉妹の子供で、伊都拉の一つ上の世代の女性(伊都拉の父の従姉妹)を指すのであろう。

[57] 老夫人の配偶者を指す。

[58] ここでは、一族の同世代で、年下の女子を指す。

[59] 珊瑚の頂子。二品官が紅珊瑚の頂子を用いた。

[60] 官帽の後ろに着ける孔雀の羽根飾り。

[61] 曹学。侯官の人。万暦二十三年の進士。

[62] 科挙に同年に合格した者。

[63] 四川省。

[64] 未詳だが、天界で厨房を司る星なのであろう。

[65] 未詳。

[66] 未詳だが、『楊椒山集』であろう。楊継盛の文集。楊継盛は容城の人。嘉靖二十六年の進士。忠臣として著名。

[67] あかざの杖。

[68] 青浦の人。『清史稿』巻三百十四などに伝がある。乾隆二十二年から二十五年まで河南巡撫。

[69] 現北京市宣武区の地名。

[70] 漢末の人蒋子文。秣陵の尉であったが、盗賊に殺され、死後蒋侯として鍾山に祀られた。『捜神記』巻五参照。

[71] 土地神の傍らということ。

[72] ここでは胡宝の母親のこと。

[73]総督、巡撫、三司、糧道。三司は布政司、按察司、塩運司。

[74] 神に供える犠牲と宝玉。

[75] 中丞は巡撫。桂林中丞は陳弘謀のことと思われる。「浄香童子」に「桂林相国」として出てくる。乾隆二十三年から二十七年まで江蘇巡撫。

[76]薛雪。蘇州の人。号は一瓢。『清史稿』巻五百七などに伝がある。

[77] 原文「以禪理受知鄂相國」。「禅理を悟っていることによって」という趣旨であろう。

[78] 河北省の県名。

[79] 河北省の県名。

[80] 仏教の三界の一つ。欲界の上、無色界の下にある。

[81] 原文「無曲躬樹而生色界天」。曲躬樹は鬱単曰(ウッタラクル)にあるとされる樹で、情交する男女を覆い隠すとされる樹。男女が情交すべきでないときは覆わないという。

[82] 原文「紅肚襪」。「肚襪」が未詳。とりあえずこう訳す。「肚」は「肚兜」であると解す。

[83] 深い谷川と切り立った岩壁。「深澗絶岩」ではなく「深岩絶澗」という語順になっているのは、前二文字を平声、後二文字を仄声で揃えるため。

[84] 浙江省の山名。国家文物事業管理局主編『中国名勝詞典』四百三頁参照。

[85] 雲南省。

[86] 四角い目に鉤鼻。

[87] 文昌帝君。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千五百五頁参照。写真

[88] 厳長明。江寧の人。『清史稿』巻四百九十などに伝がある。

[89]房中術の一種。採補。他人の元気を吸い、みずからの元気を養うこと。

[90] 未詳だが、尿道口または尿道であろう。

[91] 丹薬を煉る竈。「〜の良師」は煉丹術の良き師のこと。

[92] 道観名。現北京市西城区にある。北京市文物事業管理局編『北京名勝古跡辞典』百三十頁参照。

[93] 邱処機。元代の道士。胡孚琛主編『中華道教大辞典』百四十六頁参照。

[94] 主語は「褶」であろう。

[95] 弟子にしてくれと頼んだのであろう。

[96] 「盜道無師、有翅不飛」のパロディ。「盜道無師、有翅不飛」は『太平広記』巻五十九「女几」に出てくる言葉で、道術を学ぶときに、師匠がなければ、旨くゆかないという趣旨。『太平広記』巻五十九「女几」「女几者、陳市上酒婦也、作酒常美。仙人過其家飲酒、即以素書五卷質酒錢。几開視之、乃仙方養性長生之術也。几私寫其要訣、依而修之。三年、顏色更少、如二十許人。數歳、質酒仙人復來、笑謂之曰、盜道無師、有翅不飛。女几隨仙人去、居山歴年、人常見之。其后不知所適、今所居即女几山也」。『子不語』に出てくる「盜道無私、有翅不飛」は、文脈からして、道術を学ぶときに、私通しなければ、旨くゆかないという趣旨であろう。

[97] 採戦に同じ。

[98] 原文「精潰不止」。「潰」が未詳。とりあえずこう訳す。「遺」の誤字か。

[99] 造幣局。

[100] 原文「旁塑木p隸四人」。未詳。とりあえずこう訳す。「p隸」は役所の下役。

[101]鑪頭とも。宝泉局で貨幣鋳造の実務に当たる者。

[102] 肛門性交。獣奸ではない。

[103] 陳輝祖。乾隆三十六年から四十四年まで湖北巡撫。

[104] 陳大受。湖南祁陽の人。雍正十一年の進士。

[105] 原文「卜有日矣」。未詳。とりあえずこう訳す。

[106] 原文「樹文有王清本三字」。未詳。とりあえずこう訳す。

[107] 宋代の書名。撰者未詳。

[108] 湖南省の県名。

[109] 方伯は布政使。

[110] 孝廉は挙人。

[111] 同年に科挙に合格した者の子。

[112] 未詳。路の神か。

[113] 人にひそかに毒を飲ませること。『左伝』昭公元年「近女室疾如蠱」疏「以毒薬薬人、令人不自知者、謂之蠱毒」。

[114] 長洲の人。雍正八年の進士。

[115] 天帝に拝謁すること。

[116] 租税と食糧。

[117] 江蘇省の鎮名。武進の東南の運河沿い。

[118] 原文「掣批歸」。「批」は、文脈からして任務を遂行したことの証明書のようなものと思われるがまったく未詳。

[119] 功績と過失について記した帳簿。

[120] 寿春県紫金山に産する石名。硯の材料にする。『雲林石譜』紫金石参照。

[121] 一紀は十二年。

[122] 藩司は布政使。

[123] 明府は県令。

[124] 原文「無干礙也」。未詳。とりあえずこう訳す。

[125] 地中を吹く風と思われるが未詳。

[126] 陳弘謀。臨桂の人。雍正元年の進士。

[127]丁字形の木組みを用意し、水平の両端を二人で支え、垂直の部分に付けた筆が下にある砂を入れた、乩盤という皿に書く字によって神意を得ること。胡孚琛主編『中華道教大辞典』八百三十二頁参照。

[128] これがよく分からない。乩盤の代わりに牒を置いているのか。前注参照。

[129] 道家の雰囲気。

[130] 優れた人材。

[131] 国境を守る将帥。

[132] 薛雪。蘇州の人。号は一瓢。『清史稿』巻五百七などに伝がある。

[133]乩神。扶乩によって招き寄せられた神。

[134] 薬名。謝観等編著『中国医学大辞典』八百七十八頁参照。

[135] 葉桂。字は天士。号は香岩。呉県の人。謝観等編著『中国医学大辞典』三百五十三頁参照。

[136] 清代、府以上の官員に対する尊称。

[137] 武進の人。乾隆元年の進士。

[138] 。沁州の人。順治十六年の進士。

[139] 棺の頭の部分。

[140] 写真

[141] 沈廷芳。仁和の人。乾隆元年の進士。

[142] 秀水の人。『清史列伝』巻六十八などに伝がある。

[143]東岳大帝の役所。東岳大帝は泰山の神で、人の生死を司るとされる。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千四百六十二頁参照。

[144] 六部の官僚。

[145] 姓の異なる従弟。

[146] 同じ文学結社に属する者。

[147] 博学鴻詞科。官吏登用制度の一つで、正規の科挙と異なり、詩賦の試験を主とした。

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