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第十六巻

 

杭大宗[1]が寄霊童子であったこと
 万近蓬[2]は北斗をたいへんうやうやしく信仰しており、毎年秋七月、盂蘭盆会を行うときは、施柳南刺史[3]とともに儀式を行った。施は鬼を見ることができ、祭祀を受けにきた者を、すべて誰々だと指摘して、ともに語ることができた。祭壇に立つ時は、まず死者の姓名を書き列ね、壇に向かって焚くのであった。
 万は、杭大宗先生の弟子であったが、先生の名を書くのを忘れた。施はその晩に人々が集まるのを見たが、短い白い鬚の男が、(あわせ)の紗の袍を羽織り、冠を着けずにやってくると、罵った。「近蓬はわたしの弟子で、今日は法事をしているのに、わたしだけを招かないのはどうしてだ」。施はもともと杭を知らなかったので、思わず目を瞠ると、傍の男が「こちらは杭大宗先生です」と言った。施は進み出て揖すると尋ねた。

「先生はどうしていらっしゃったのですか」。

「わたしは前生は法華会(ほっけえ)[4]で香を焚く者で、名を寄霊童子といったが、香を供えていた時に参拝する娘が美しいのを見て、ふと一念を動かしたため、俗世に落とされたのだ。俗世では正直に物を言い、善行をして悪行をしなかったため、本来ならばもとの位に戻ることができたのだ。しかしわたしは人を貶めることを好み、徒党を組んで敵を攻撃し、さらに財貨を貪ったため、観音に軽んじられ、すぐにもとの位に戻ることを許されなかった」

そしてみずからの手と口を指すと言った。

「これら二つのものが災いしたのだ」

「先生は冥界で楽しいですか」

「わたしはこちらにいるがさほど苦しみ楽しみはなく、すこぶる自由、そぞろ歩きして気ままなものだ」

「先生は人の身に投胎してはいかがでしょうか」

杭は手を拍つ動作をすると、笑って言った。

「わたしは七十七年間人の体であったが、たちまちに時は過ぎ去り、思い返せば、面白いことはなかった」

「先生は観音に救いを求められてはいかがでしょうか」

「わたしが下界に落とされたのは小さな過ちによるものだから、済度されるのは容易いことだ。近蓬に知らせてくれ。わたしのために『穢跡金剛呪』を二万遍念じれば、もとの位に戻ることができるとな」

「陳星斎先生[5]はなぜいらっしゃらないのでしょう」

「わたしはかれに及ばない。かれはすでに桂宮[6]に帰ったのだ」

そう言うと、席に着き、大いに啖い、笑いながら言った。「施柳南が一日出仕しなければ、わたしたち田允兄は大いに食事することができるわい[7]」。「田允」兄とは、俗に鬼の字を言うのである。

西江の水怪
 徐漢甫は江西で呪文によって魚や鱉を取る者を見た。毎日水辺に行き、禹歩[8]して呪文を誦えると、波がすぐに沸き立ち、魚や鱉が群を為してやってくるので、自由に択び取って帰るのであった。その方法ではたくさん取ってはならず、一日に幾ら必要なのかを約束しておき、その量だけを得るのであった。
 ある日、たまたま大きな沢に行き、法術を施していると、たちまち水面に(もののけ)が湧きあがったが、大きさは獼猴(さる)のよう、金の眼に玉の爪、牙を口の外にむき出し、攫もうとした。その人はいそいで(はかま)を頭に被って走った。(もののけ)は奔ってくると、肩に躍り上がり、その額を引っ掻いた。人はすぐに地に倒れ、血を流し、気を失った。人々はみな奔ってゆき、救おうとした。(もののけ)は人々が来たのを見ると、鴉が鳴くような声を出し、一丈ばかり躍り上がると逃れ去った。人々は捕らえようとせず、傷ついた者も蘇った。土人は言った。「これは水怪で、魚や鱉が子孫なのです。わたしがその子孫を食らったので、復讐しにきただけです。その爪は鋭く、生き物に遇うたびに脳を裂くのです。頭を覆い、皆さんのお力を得ることがなかったら、爪で斃されていたことでしょう」。

仲能[9]
 唐再適先生が川西の観察[10]となった時のこと。火夫[11]陳某は、粗野で酒好きであった。ある晩酔うて臥していると、(もののけ)がその腹に乗るのを感じた。見れば、それは老翁で、髯、髪はすっかり白く、(かお)も奇怪であったが、ぼんやりとしてそれほどはっきり見えなかった。陳は仲間が自分に戯れているのだと思い、それほど怖れなかった。折しも初秋で、たまたま(ひとえ)(ふすま)を被っていたので、手に取って(もののけ)を包むと、挟んで臥した。暁に衾を曳くと、中に白鼠がいたが、長さは三尺あまり、すでに圧されて死んでいた。腹に乗った老人はこの(あやかし)であったことがはじめて分かった。按ずるに、これこそは『玉策記』に言う「仲能」で、占卜に優れた者が、生け捕ることができれば、あらかじめ吉凶を知ることができるのである。

雀の報恩
 周之庠は放生を好み、もっとも雀を愛し、居宅ではつねに黍を軒下に置いて餌付けしていた。中年で失明したが、雀を飼うのは相変わらずであった。突然病んで息絶えたが、胸元だけが温かかったので、家人が四昼夜見守ったところ、蘇って言うには、門を出た当初は、ひとり曠野を進んだが、日は暗く、寂として人に逢わなかった。恐ろしかったので、数十里疾駆したが、城外は寥寥として煙火がなかった。突然、老人が杖つきながらやってきたが、見れば、亡くなった父であったので、跪いて哀哭した。父は言った。

「誰がおまえを呼んできたのだ」

「路に迷ってこちらに来たのでございます」

父は「大丈夫だ」と言い、城に導き入れた。役所の前に来ると、今度は綸巾[12]道服の老人が中から出てきたが、亡くなった祖父であった。会うと大いに驚き、その父を責めて言った。「おまえも馬鹿だな。どうして息子をこちらに導いてきたのだ」。父を叱って退かせると、手ずから之庠を引いていったが、(かお)が醜悪な二人の隷卒が、大声で「こちらに来たら、去ることはできないぞ」と叫び、その祖父と之庠を奪いあった。するとたちまち億万羽の雀が西からやってきて、二人の隷卒を啄んだので、隸卒は驚いて逃げた。祖父が之庠を扶けて出ると、雀たちはついてきて、争って(つばさ)で之庠を覆った。行くこと数十里ばかり、祖父は杖でその背を撃つと「家に着いたぞ」と言った。すると夢から覚めたかのように、両眼がまた見えるようになったのであった。かれは今でも恙なくしている。

全姑
 蕩山[13]の茶肆の全姑は、生まれながらにして色白で妖艶、年は十九であった。その隣の陳生は美少年で、全姑と密通していたが、悪者に捉えられた。陳は金持ちだったので、百両を悪者に(まいない)した。県の下役はそれを知ると、その(まいない)を分けようと思い、ともに県庁に引いていった。県令某は道学者をもって自負しており、陳に杖四十の判決を下した。女は哀号涕泣し、陳生の(しり)に伏すと身代わりになることを願った。令は恥知らずだと思い、ますます怒り、女にも杖四十の判決を下した。二人の隷卒は女を引きずりおろしたが、心の中では憐れんで、この女は全身が柔々として骨がない者のようだと思ったし、陳生の金を受けていたので、杖で軽く地面を撲つばかりであった。令は怒りが収まらず、その髪を剪り、その弓鞋[14]を脱がし、(つくえ)の上に置いて晒し、全県を戒め、さらに倉庫に収蔵し[15]、女を公売にした[16]
 事件が終わっても、陳は女を思って止まず、他人に(まいない)して女を買わせ、自分が娶った。一月足らずで、県の下役たちが紛々と(まいない)を求めにきたため、道路は騒然とした。令はそれを聞くと大いに怒り、ふたたび二人を捕らえて案下に連れていった。女は許されないことを知ると、ひそかにぼろ綿や藁紙を褲の中に置き、その臀を護った。令はそれを望み見ると言った。「下半身に盛り上がっているものは、何だ」。堂から下りると褲の中の物を引き出し、みずから監督し、裸にして杖で打った。陳生は阻もうとしたが、数百回のびんたの後、満杖[17]の判決を下された。家に帰って一月あまりで死に、女は売られて某公子の妾になった。
 劉孝廉という者は、侠士であったが、ただちに役所に入ると令を責めた。「わたしは昨日県庁に来ましたが、おんみが大きな杖を求めるのを聞き[18]、凶悪な盗賊を懲らしめているのかと思い、階の下に行き、見物しました。ところが一人の美女が紫綾の褲を剥がされて杖を受けていました。両の臀肉は盛り上がり、一団の白雪のよう、日に晒せば消えるかと思われるほどですのに、おんみは満杖を加え、一たび板が下されるたびに、熟れた桃の色になっていました。犯したのは風流(いろこい)の小さな過ちなのですから、あのようにすることはありませんでした」。令は言った。「全姑は美しいから、杖を加えなければ、人々はわたしが色を好んだと言うだろう。陳某は富んでいるから、杖を加えなければ、人々はわたしが金銭を得たと言うだろう」。劉は言った。「父母官[19]でありながら、他人の皮肉で、みずからの声名を博して宜しいのですか。ゆくゆく報いがございましょうぞ」。衣を払って出てゆき、令と絶交した。
 十年足らずで、令は松江に転任したが、公館に坐し、昼食を摂っていた時、その(しもべ)が見たところ、一人の少年が窓の外から入ってきて、手で令の背を三回拍つと、令は背中が痛いと叫んで食事をしなくなった。やがて背が一尺ばかり腫れあがったが、中には溝があり、両の臀肉のようであった。医者を召して診させると、医者は言った。「助かりません。熟れた桃の色になっています」。令はそれを聞くと、嫌だと思い、十日足らずで亡くなった。

奇勇
 国初に二人の巴図魯(バトゥル)[20]がいた。一人は地に(ゆばり)すると、地面が一尺陥没するのであった。みずから髪を掴んで高さ一尺ばかりの空中に持ち上げることができ、両足が地を離れると、一時(いっとき)経っても落ちることがなかった。もう一人は関外にいたとき、敵に陣地を襲われ、暗闇の中で敵にその首を断たれたが、刀が過ぎた時に、いそいで右手で頭を押さえ、左手で刀を揮い、さらに数十人を殺してから死んだのであった。

紅毛国人が(うたいめ)に唾を吐くこと
 紅毛国には(うたいめ)が多い。嫖客は酒盛りして(うたいめ)を召すと、その下着を剥ぎ、周りに集まり、その陰に唾を吐き、交媾しない。吐きおわると褒美を与え、「衆兜銭」[21]と称するのである。

山西商人[22]が父を訪ねること
 銭塘の銓部主事[23]の呉、名は一騏[24]という者は、孝廉に挙げられると、都に入り、会試を受けるため、旅館を賃借りしていた。すると山西商人の王某がやってきて、父が臨終の時に、浙江の某処に転生して呉家の息子になると言っていたと語った。その没年はすなわち銓部の生年であった。さらに、昨晩母が夢に現れ、「父さんはもう都に行かれ、今は某処に泊まっているが、往ってはどうか」と言ったので、こちらに訪ねてきたと言い、顔を一目見ることを願った。銓部は事が怪異に属するので、出ていって会おうとはしなかった。王賈は痛哭遙拝して去った。王賈[25]はとても富んでおり、下心があって来た者ではなかったので、人々は呉公の迂愚を笑った。呉は吏部主事となって数年で死んだが、享年二十八歳であった。

おもむろに蟾宮に歩まん
 揚州の呉竹屏臬使は、丁卯の秋闈の時、金陵で扶乩して尋ねた。「合格しますか」。乩[26]は「おもむろに蟾宮に歩まん」の四字を書いた。呉は大いに喜び、館選[27]の兆しだと考えた。合格発表になると、不合格であったが、その年の解元は、徐歩蟾であった。

歪嘴先生
 湖州の潘淑は、妻と婚約したが、娶らないうちに、労咳で亡くなった。臨終のときに岳翁(しゅうと)の李某を招いてきて、嫁ぐことのなかった娘に操を守らせることを要求し、翁は承諾した。潘が亡くなった後、翁は前言を忘れ、娘は再婚した。結婚の晩、鬼は娘の身に附いて祟りをなした。教師の張先生という者はそれを聞くと、心が穏やかでなく、娘の楼に上ると、古の礼を引いて責め、娘がすでに嫁いだときでも、廟見[28]をしていなければ、実家の村に帰葬する[29]、まして嫁いでいなかった娘は、操を守ることなどないと言った。鬼は答えることができず、張の前に走ってゆくと口を開けて息を掛けたが、一筋の冷気は氷のよう、臭くて耐え難いものであった。それからというもの、女は病が癒えたが、張は口が歪んでしまった。李はかれを徳とし、家に招き、村じゅうがかれを「歪嘴先生」と呼んだ。

鬼の衣に補子の痕があること[30]
 常州の蒋某は、甘肅で県丞をしていた。乾隆四十五年、甘肅の回回が乱を起こすと、蒋は殺害され、三年間音信が断たれていた。その甥某は、城東で人参屋[31]を開いていた。とある日の午後、蒋がまっすぐ入ってきた。布で頭を包んでおり、着ている服には補子を縫いつけた旧い痕があった。甥に告げるには「わたしは某月日に反乱軍に殺害され、屍は居延[32]城下にある。おまえは人をそこに遣わし、棺に納め、車に載せて帰らせるのだ」。その(しもべ)を指すと言った。「この子供も災厄に遭ったのだ。わたしは今冥界で雇われていて、毎年給料銀三両を貰っている」。その甥は大いに驚き、諾々として命に従った。鬼は童僕に火を取ってくるように命じ、喫煙すると、すぐに見えなくなった。甥はすぐに人を遣わし、その棺を車に載せて帰らせ、開けて見たところ、頭骨は斬られて幾つかの塊になっており、身には紅や青の緞子の褂を着けていたが、かすかに補子の四角い痕があった。

孫方伯
 孫涵中方伯[33]は部郎[34]であった時、京師の桜桃斜街[35]に住んでいた、建物はとても清潔であったが、突然臭気が、窓の外から中庭に達した。嗅ぎながら跡を辿ると、裏庭の井戸から出ているのであった。夜の三鼓、人々がみな眠ると、その老僕の姓名を連呼する者があった。聴くと、隠隠然としてやはり井戸から声が出ているのであった。孫公が怒って井戸を埋めると、(あやかし)も絶えた。

冬瓜を売る人
 杭州草橋門外[36]に冬瓜を売る人某がおり、頭頂から魂を出すことができた。目を閉じて(とこ)の上に坐するたびに、魂を外に出して人とやりとりするのであった。ある日、魂を出して干物数枚を買うと、隣人に持って帰って妻に渡すように頼んだ。妻は受け取ると、笑いながら「また狡いことをして」と言い、干物でその頭を打った。まもなく、瓜を売る者の魂が帰ってきたが、頭頂が干物に汚されていたので、(とこ)の側を徬徨し、入ることができず、大声で哭きながら去り、屍もようやく硬直したのであった。

柳如是[37]が祟ること
 蘇州の昭文県庁は、前明の銭尚書[38]の旧宅であった。東の廂房三間は、柳如是がここで縊れ死んでいたので、歴代の知事は封鎖して開けなかった。
 乾隆庚子の年、直隸の王公某が着任したが、家族が多く、奥の間が少なかったので、この部屋を開き、妾某氏を住まわせ、二人の(はしため)を付けた。さらに一人の妾を西の廂房に住まわせ、老嫗を付けた。三鼓前、西の廂房で老嫗が助けを呼ぶ声が聞こえた。王公が奔ってゆくと、妾はすでに(とこ)の上にいなかった。(とこ)の後ろを捜すと、その人は、眼は傷つき、額は砕け、裸で血を流し、恐れ戦きながら立っており、「わたしは寝る時、燈を吹かずに枕に就きましたが、一陣の陰風が吹いてきて帳を開き、全身が震えました。高い髻を梳きあげた、大紅の襖を羽織った者が帳を掲げてわたしを招き、すぐにわたしの髪を挽き、わたしをむりやり起こしたのです。わたしは大いに懼れ、いそいで帳の後ろに逃げてゆき、眼を衣桁にぶつけて傷つけたのでございます。老嫗はわたしの叫び声を聞きますと、すぐに奔ってきましたので、鬼はようやくわたしを放し、窓の外に走り去ったのでございます」と言った。役所じゅうが大いに驚いたが、東の廂房の妾は嫁入りしたばかりなので怖がるだろうと思い、告げにゆかなかった。
 翌日の正午になっても、東の廂房は開かなかった。開けて入ると、一人の妾と二人の(はしため)がいずれも一本の長い帯を用いて、いっしょに縊れ死んでいた。そこで王公はこの部屋を封鎖するように命じたが、その後はとりたてて変事はなかった。
 ある人が言った。柳氏は尚書のために殉節し、正義のために死んだのだから、祟るはずがないと。『金史』蒲察g伝[39]を按ずるに、gは御史であったが、崔立[40]の変で死ぬ時、家に行き、母に別れを告げようとした。母は昼寝していたが、たちまち驚いて目を醒ました。gは尋ねた。「お母さま、どうなさったのですか」。母は言った。「先ほど三人の男が梁に潜んでいるのを夢みたので、目醒めたのだよ」。gは跪いて言った。「梁の上の人は鬼でございます。わたくしは殉節しようとし、首を吊るつもりでしたので、その鬼は上で待っていたのです。お母さまが見たものは、それでございます」。すぐに縊れ死んだ。忠義の鬼も案内したり、身代わりになったりするもので、逃れられないことは明らかである。

首を捧げる司馬
 如皐の高公岩が、陝西高陵の令となったので、その友人某は訪ねていった。城まで十里ばかりのところで、すでに薄暮となり、辿り着けないことを恐れていると、路傍に荒れ寺があった。正面の部屋は封鎖されていた。西の二間の脇部屋には小さな扉があり、正面の部屋に通じていたが、その扉も封鎖されていた。某は部屋[41]がまあまあ清潔だったので、宿を借りた。酒を買い、すこし飲むと、衣を解き、就寝した。かれの(しもべ)は出てゆくと、寺を番する道人ともに東側の耳房[42]に泊まった。
 時はあたかも既望で、月は昼のように明るかったので、某は長いこと眠らなかった。するとたちまち正面の部屋に橐橐と靴音が聞こえ、小さな扉がぱっと開いた。見れば補子[43]に朝珠[44]で首のない者が窓の下に坐し、月見していた。某が驚いていると、その人は身を翻して内側を向き、某を見たかのように、すぐに走って正面の部屋に戻った。某はいそいで起きると、門を開けて遁れようとしたが、門の外の鍵はすでにかれの(しもべ)によって掛けられてしまっていた。某は大声で叫ぼうとしたが、声を出すことができず、(しもべ)は返事しなかった。某は為す術がなく、窓を越えて外に出たが、窓の外には塀が巡らされており、越えることはできなかったので、窓の近くの高い樹によじ上った。俯いて窓の下を見ると、例の人はすでに首を捧げて出てきており、前に坐し、首を膝に置き、おもむろに二本の指を伸ばしてその眉と目を拭き、さらに手で捧げて頭頂に置いたが[45]、双眸は炯炯として、冷たい光は人を射た。その時、某はすっかりたまげて、人事不省となってしまった。
 翌朝(しもべ)が入ってきたが、主人は見えず、くまなく捜すと、樹の上にいた。いそいでその腕を放そうとしたが、樹の枝を抱きかかえており、堅くて解くことができなかった。しばらくするとようやく蘇ったが、なおも鬼が自分を攫いにくると言うのであった。道人に尋ねると、言った。「二十年前、寧夏で戦争があったとき、楚人[46]で同知をしていた者がおり、兵糧を運んだものの期限に遅れ、大帥[47]に誅せられました。柩がこちらに来ると、資金は尽きましたので、寺に預けたのでございます。今回は帰りたいと思い、お客さまに姿を見せたのかもしれません」。某が高に告げると、高は俸給を擲って柩を運ぶ資金とし、手紙を楚に届け、その息子に引き取らせ、帰らせた。

(にじ)[48]を除くこと
 呉興[49]の卞山に白鱟洞があり、毎年春夏の間に現れるのだが、形は(ねりぎぬ)のよう、空中に上がり、浮遊して定まることがない。通り過ぎるところでは、蚕や繭がすっかりなくなってしまうので、養蚕をする頃はもっとも嫌われるが、銅鑼、太鼓の音だけは畏れている。明の太常卿韓紹[50]はかつて有司に命じ、毒矢を持たせて逐わせた。『駆鱟文』が郡志に載せられているが、近年来、害はもっとも激しくなっている。
 乾隆癸卯四月、范姓の者がつぶさに城隍に訴えた。その夜、夢に老人がやってきて言った。「あなたが訴えたことはすでに受理されたから、某夜に玄衣真人に命じて(にじ)を逐わせよう。鱟魚は露を司って功績があり[51]、殺害された者もいる。かれは貪婪なので、罰を示すべきだ[52]。あなたたちは硫黄と煙草を用意して、某山の洞窟で待つがよい」。
 范は期日になると数十人を集めて往った。夜の二鼓、月影はかすかに明るかったが、空中に風が起こった。前方の山からは、一丈ばかりの大きさの蝙蝠が、洞の前に飛んできたが、瞬く間に集まった小さな群れは数十を下らなかった。蝙蝠が来るたびに、かならず一点の燈が、導いているかのようであった。范は気が付いた。「これが玄衣真人なのではなかろうか」。すぐに火を着けて煙草をさんざん焼くと、にわかに洞内に声が起こり、潮が湧き、風が起こったかのよう、(ねりぎぬ)が飛び出すと、蝙蝠は陣を布いているかのように取り囲み、たがいにしばらく撃ちあった。郷民も大勢で銅鑼、太鼓を打ち、爆竹を放って助太刀した。約一時(いっとき)ばかりで、(ねりぎぬ)(わた)のように散ると、一筋の青い気が東北に向かって去り、蝙蝠も散った。
 翌朝見にゆくと、林や草原に綿千余片があったが、あるものは青く、あるものは白く、手に触れると腥く、近づくことはできなかった。それからは(にじ)の害は収まった。

海中の毛人が口を開けて風を起こすこと
 雍正年間、海船が漂流して台湾の彰化に着いた。船員はわずか二十余人[53]、貨物はすこぶる多かったので、そこに住むことにし、一年後、仲間の子の広東人がお上に申し出た[54]。それに拠れば、某たちは海に浮かび、船を操ったが、後に暴風に遇い、海道に迷ったので、海流に任せて東に行った。行くこと数昼夜、舟は岸に泊まることができたが、振り返れば水は山が立っているかのよう、舟が進むことはできなかったので、岸に上がった。地上には壊れた船、砕けた板があり、白骨は数知れなかったので、かならず死ぬものと観念した。一年足らず後、舟の人々は次第に病死してゆき、某たちも食糧が尽きた。残った豆数斛を、植えたところ、生の豆を得ることができたので、それによって腹を充たした。ある日、身長数丈の毛人が、東方からおもむろに歩いてくると、海水を指して笑った。某たちはかれに向かって叫び、叩頭した。巨人は手で海を指し、手を揮ってすみやかに去らせようとしているかのようであった。某たちははじめは理解できなかったが、やがて悟ると、いそいで帆を揚げてみた。巨人が口を開けて息を吹くと、蓬蓬然と東風がはげしく起こり、昼夜止むことがなく、鹿仔[55]の港が望まれたので、停泊したのであった。彰化県の役人は調査して事実を確かめ、咨文[56]を広省に移し、すべての貨物を二十余家に均分させ、事を処理した。
 後にある人が言うには、その場所は海闡といい、東海のきわめて低い場所なので、船が戻ることはないのだが、百二十年に一度だけ東風が屈曲して上ることができる、この二十余人はちょうどそれに出くわしたのだが、珍しいことだとのことであった。ただ、毛が生えていて大きな者は、何の神であるかは分からなかった。

卞山の地が陥ること
 乾隆乙巳、湖州[57]は大旱魃であったが、西門外の下塘[58]では地面が数丈陥没し、民家の屋根と地面が同じ高さになった。屋内の人は瓦を破って外に出たが、什物は一つも壊れなかった。河の中にはたちまち堤が連なって盛り上がり、白い光一筋が立ち昇り、龍溪[59]に向かって去り、怪風が隨っていた。(たにがわ)の漁舟数十隻は、みな白い光で目が眩んだ。突然風が収まると、舟はみな一箇所に集まり、白い光も見えなくなっていた。時に方老人という者がおり、年は九十あまり、みずから言うには、少年の時に漁舟が白鰻一匹を捕らえるのを見たが、重さは五六斤、隠そうとせず、烏程の令某に献じた。たまたま令が前の晩に夢見たところ、白衣の女が来て告げた。「わたしは苕上[60]の水神で、陳皇后のために宮門を守っているが、明日災厄があるから救っておくれ」。翌日鰻を見たのでそれと気が付き、河に放すように命じた。今回の土中の白い光は、これではないかと。考えるに西門外は迎禧門[61]と連なっている。南朝陳の武帝[62]の后[63]はその父母のため卞山で葬儀を営み、人夫を用いて地下道を開いて外に出[64]、葬った後は封鎖した。それならば地が陥没したのも尤もである。

鬼が鬼を逐うこと
 桐城の左秀才某は、その妻張氏と夫婦仲がとても良かった。張が病死すると、左は離れるに忍びず、終日棺に添い寝していた。
 七月十五日、かれの家では盂蘭盆会を行った。家人はみな外で仏を拝し、醮[65]を設けたが、秀才はひとり妻の棺に寄り添って読書していた。するとたちまち一陣の陰風が吹き、縊れ死んだ鬼が、ざんばら髪で血を流し、縄を引きながらやってきて、まっすぐに秀才にぶつかろうとした。秀才は慌て、棺を拍つと叫んだ。「おまえ、わたしを救っておくれ」。その妻は勃然と棺を開けて起きあがると、罵った。「悪鬼め、わたしの夫にぶつかろうとするとは無礼な」。腕を揮って鬼を打つと、鬼はよろよろと逃げていった。妻は秀才に言った。「馬鹿なお方、夫婦の情もここまで厚いものだとは。あなたは福が薄いので、悪鬼がぶつかろうとしたのです。わたしといっしょに帰ってゆき、人の体に投胎し、また共白髪を目指してはどうでしょう」。秀才が承知すると、妻は棺に入って臥した。秀才が(しもべ)を呼んで見させたところ、幾重もの棺の釘はすべて断たれ、妻の裙はまだ半分が棺の隙間に挟まっていた。一年経たないうちに、秀才も亡くなった。

柳樹の精
 杭州の周起昆は龍泉県学の教諭をしていたが、毎晩、明倫堂の太鼓が理由なくひとりでに鳴っていた。人に伺わせたところ、身長一丈あまりの男が、手で太鼓を撃っていた。門番の兪龍はもともと大胆だったので、こっそり弓を絞って射ると、巨人は狂奔して去った。翌晩は寂然としていた。二か月後、校門の外で大風が起き、巨きな柳一株を抜いた。周が鋸引きにして薪にするように命じたところ、中を矢が横ざまに樹の腹を貫いており、太鼓を撃っていたのはこの(あやかし)であったことがはじめて分かった。龍泉には昔から科挙合格者がいなかったが、その年は陳姓の者が合格した。

折り畳み仙人
 滸市関[66]に陳一元という者がおり、家を棄て、道を学んでいた。精舍を購い、ひとりでそこに坐し、内側から鍵を掛けていた。はじめは粥、飯を断ち、ついで果物、蔬菜を断ち、石湖[67]の水を飲むばかり、その息子に命じて毎月水一壺を贈らせていた。翌月見にゆくと、壺は門の外に置かれ、水はすでに乾いているので、ふたたびその壺を満たして贈るのであった。
 孫敬斎秀才はそれを聞いてかれを慕い、一枚の紙切れを書き、壺の蓋の上に貼り、会うことができるかを問い、同時に会える日を尋ねた、心は惴惴として、許されないことを恐れた。翌月訪ねてゆくと、壺に貼られた紙の末尾に「二月初七日、会いにこられよ」と書いてあった。孫は大いに喜び、期日になると、その[68]子とともに行った。見れば一元は年はわずか四十ばかり、その子はすでに老いていた。孫は尋ねた。

「道を修めるにはどこから手を着けるのでしょうか」

「ひとまず静坐し、心に思うことをひとりで数えるのだ」

孫がしばらく坐すると、一元は尋ねた。

「どれほどの考えを起こしたかな」

「七十二の考えを起こしました」

一元は笑って言った。「心に拠り所がなければ、静を求めてかえって動いてしまうのが、理の常だ。あなたは一時に七十二の考えを起こしたが、多いとはいえない。その根気[69]なら道を学ぶことができるだろう」

そして水を飲む方法を教えた。「人はもともと虚空から来たが、食らう物が多過ぎると、体が堅く重くなり、腹の中に穢れた虫が大量に発生し、痰のつかえを生じ易くなる。道を学ぶ者はまずその口を清め、さらにその腸を清め、虫たちを餓死させて洗いすすぐのだ。水は天に先だつ第一の真気で、天地開闢の時、五行よりも先に水があったのだ。水を飲むことは仙人修行の要訣だ。しかし城市(まち)は水が汚れており、霊府(こころ)を煩わすから、山中のいたって清らかな水を取り、ゆっくりと呑むことが必要だ。喉でごろごろと響きを起こせば、その後甘味が出てくる。一勺の水で、一昼夜を過ごすことができる。このようにして百二十年経てば、体はだんだん軽くなり、水も断ち、気を服し、風を御して進むことができるのだ」。孫は一元に尋ねた。

「どなたを師となさいましたか」

「わたしは三十年前に太山へお参りに行ったとき、一人の少年に遇った。(かお)は美しく、天気をあらかじめ知ることができたので、旅をともにした。少年は錦の(はこ)を背負い、旅館に宿泊するたびに、かならず(はこ)に向かってくどくどとしばらく語り、その後に安眠していた。わたしは大いに驚き、訝り、壁を鑿って窺った。見れば少年が(はこ)(つくえ)の上に置き、冠を整えて再拝すると、老人が(はこ)の中から笑いながら起きて坐した。双眸は炯炯、白鬚は飄然としていた。二人はともに密語したが、聴いても理解することはできず、『有竊道者(ヨウチエタオジャ)有道竊者(ヨウタオチエジャ)』の八字が聞こえるばかりであった。夜の三更、少年は尋ねた。『先生はお休みになりますか』。老人が頷くと、老人を紙か絹の人形のように折り畳み、(はこ)の中に入れた。翌日、少年はわたしが窺い見たことを知り、わたしに来歴を告げ、わたしを弟子にし、道を伝えることを約束したのだ」

孫が一元を抱いてみると、坐している椅子と合わせて、わずか三十斤であった。孫は二人の娘が嫁いでいないことを理由に、休暇を乞うて帰り、期限が満ちるとふたたび一元のもとへ往った。
 わたしは震沢の張明府の役所でかれに会ったところ、このようにくわしく語った。時に戊申二月初十日であった。

仙人は頂門に髪がないこと
 癸巳の秋、張明府は陵で楊道人という者に遇ったが、童顔、鶴髪であるものの、頂門の一寸四方にだけは一本の毛も生えていなかった。怪しんで尋ねると、笑って言った。「あなたは街道の両側に草が生え、真ん中は人に踏まれて草が生えないのを見たことがないのですか」。はじめは言っていることが理解できなかったが、その後考えたところ、ひよめきはもともと魂が出入りする処なので、髪が生えないことを悟った。道人は夜は寺の門外に坐しており、僧が中に招いて泊まらせようとしても、断固として承知しなかった。翌朝、太陽が東から昇ると、道人は塀の上に坐して日の光を吸っていた。その頂門には一人の子供がいたが、ふくよかで見目麗しく、やはり日の光に向かって、舞い踊りながら、呑んだり吸ったりしているのであった。

香虹
 呉江の姜某には、一男一女があり、息子は新婦劉氏を娶った。劉は性来柔和で、働くことができなかった。(はしため)の香虹という者は、普段から狡賢く、その娘に日夜劉氏の悪口を言っていたが、劉は恨みを晴らすことができなかった。来た時は持参金はすこぶる豊富だったが、姑にせびり取られて、なくなりそうになっていた。一年足らずで、病に罹り、(とこ)に着くと、姑はかれが労咳だと言い、息子と会うことを許さなかった。劉は鬱々として死んでしまった。
 とある日、娘は(とこ)に登るとみずからの頬を打ち、つぶさにその平生の悪行を数えたて、言った。「姑がわたしを夫と会わせなかったのは、姻縁が尽きていたからだが、おまえたちは何と酷い心掛けなのだ」。このようなことが数日続いた。醮を設けてやっても、反応はなかった。姜とその妻がやんわりとお願いすると、言った。「お義父さまはわたしを手厚く待遇なさいましたし、お義母さまも耄碌なさっているのです。これは香虹だけが悪いのです。わたしはかれを許しません」。香虹は側にいたがたちまち目を瞠ると大声で叫び、両手を宙に浮かせたが、人に提げられているかのよう、下に墜ちたときはすでに死んでいた。娘は依然として恙なかった。これは乾隆五十三年正月の事であった。

閻王が昇殿するとまず鉄の玉を呑むこと
 杭州の閔玉蒼先生[70]は、一生清廉で、刑部郎中に任ぜられた時、毎晩冥界の閻王の職を代行していた。二更になると、護衛と轎が迎えにくるのであった。閻王の宮殿は五つあるが、先生が着任していたのは、第五殿であった。昇殿するたびに、判官はまず鉄の玉一つを出したが、形は雀の卵のよう、重さは一両ばかり、腹の中に呑み込ませ、その後に執務させ、言った。「これは上帝が鋳たものだ。陽官[71]が閻羅王の職務を代行する時に情実を加える恐れがあるので、鉄の玉を呑んでその心を鎮めさせるのが、数千年の慣例なのだ」。先生は慣例通り玉を呑み、案件の審理がおわると、吐き出した。三たび洗って三たび見ると、判官に渡して保管させた。処理したことは朝起きると忘れており、記憶していても、人に向かって話そうとせず、牛肉を食らわず、『大悲呪』をたくさん誦えるように人々に勧めるばかりであった。
 着任して三か月、とある日の朝に起きると、親戚友人たちを召して告げた。「わたしは今回、小さな善行はなすに足りないことを悟った。昨晩わたしの表弟(いとこ)李某が死に、魂が護送されてきた。判官は李某が役人をしていたときに悪行があったため、地獄に呼び寄せ、取り調べ、罪を決め、さらに東岳に護送しようとしていた[72]。わたしは可哀想に思い、獄牌[73](つくえ)の上に置き、再三李に目くばせした。李は平生牛肉を食らわず、役人をしていた時は、民間で屠殺を行うことをもっとも厳しく禁じていたので、この功徳で罪を帳消しにすることができそうだとみずから訴えた。わたしが声を出さないでいると、判官は反駁した。『これは「恩は以て禽獣に及ぶに足り、功は百姓に至らず」というものだ。おまえは牛肉を食らわないが、どうして人肉だけは食らうのだ』。李は言った。『わたしは人肉は食らいませぬ』。判官は言った。『人民の脂膏が人肉なのだ。おまえは貪官となり、千万人の膏血を食らっているのに、一頭の牛の肉を食らわずにいるが、小さな善行が大罪を帳消しにすることができるものかよく考えろ』。李は返事することができなかった。わたしは李が『大悲呪』をふだん誦えていること、『大悲呪』が冥府でもっとも尊ばれていることを知っていたので、手で『大悲呪』の三文字を掌上に書いて示したが、李は茫然として、一字も誦えることができなかった。わたしが代わりに数句を誦えてやると、満堂の判官胥吏は一斉に跪いて聴き、西方には赫然と紅い雲が飛んでくるかのようであった。ところが鉄の玉が胸の中で煮えくり返り、左に衝き、右に撞きしたため、腸は痛んで裂けんばかりであった。わたしはやむを得ずいそいで獄牌を取ると朱を加え、李を獄に入れたところ、腸の中の鉄の玉ははじめて鎮まったので、別の事案を審理して帰ったのだ」。
 そこで、親戚友人たちは尋ねた。「つまるところ、牛肉は食べてよいのですか」。先生は言った。「食べることができるともできないともいえるのだ」。人々がわけを尋ねると、言った。「これは字紙[74]を敬い惜しむのと同じことだ。聖人は禁じていないが、農を重んじ文を重んじる心を推しすすめ、『類(ひろ)げて義(じん)に至る』に過ぎない[75]。食らうのを禁じるのは、慈悲深いことである。しかし『天地は不仁にして、万物を以て芻狗と為す[76]』という言葉は古くから老子に説破されている。考えてみれば春蚕(かいこ)は絲を作り、天子から庶民まで衣を着ている。かれらの功は牛よりもさらに大きく、その命は牛よりもさらに多いのに、かれらを煮て、その腸を抽きだして炙り食らっても、一人としてかれらのために怨みを訴え、禁令を出す者がいないのは、どうしてか。それというのも、天地の生き物の中では、人が貴いからなのだ。人間を貴び畜生を賤しめるのは、理の当然で、牛肉を食らうことは、良いことなのだ」。

万仏崖
 康熙五十年、肅州[77]合黎山の頂で突然人が叫んだ。「開けるか、開けぬか。開けるか、開けぬか」。このようなことが数日続いたが、答えようとする人はいなかった。ある日、牧童が通りかかり、それを聞くと、戯れに「開けようぞ」と返事した。たちまちばりばりと音がして、風雷が怒号し、山石が大きく開き、中から崖が現れたが、天然の菩薩像数千があり、鬚眉はほんもののようであった。今でも人々は「万仏崖」と呼びなしている。章淮樹観察[78]はその地を通ったときにみずからそれを見た。

大力河
 孫某は打箭爐[79]の千総[80]になったが、所轄の地は二か月間陰雨であった。とある日、雨は止み、天を仰ぐと日の光が見えたので、孫は喜び、官舍を出て見た。するとたちまち砂埃が天を蔽い、風が怒号した。孫はしっかり立っていられず、地に倒れてさんざん転がったが、人がその辮髪を提げて擲っているかのよう、足、顔はすべて傷ついた。孫は地が揺れていることが分かったので、我慢して待った。まもなく、揺れが収まったので、起きて見ると、人民と自分の家はすでにすっかり傾いていた。弟は逃げ出して、死んではおらず、おたがいにびっくりしあった。
 孫は辺境に住んで年を経ていたので、弟に言った。「地が揺れればかならず余震[81]があり、一回に止まらない。わたしはおまえと同じ所で死ぬとしよう」。それぞれ縄で体を縛り、二人して抱きあった。話していると、怪風がふたたび起こったので、二人は地に臥したが、初めのように揺れた。さいわい沙が眼に入ることはなかったが、地が数丈の深さに裂け、黒い風が吹き出していたり、紫緑の二色を帯びた火の光が吹き出していたり、腥い黒い水が湧いていたり、車輪のような大きさの人の頭が現れて、目が睒睒と斜めに四方を見ていたり、裂けては合わさったり、ずっと坑になっていたりするのが見えた。兄弟二人は恙なかったので、一家を埋葬し、家財を掘り出し、それぞれ暮らしを営んだ。
 三か月前、狂僧が縁簿[82]一冊を持っていたが、そこには「一万人に勧進せり[83]」と書かれていた。孫がその妖言を憎み、捕らえて県庁に送ろうとすると、僧はすでに楊柳の小枝の上に立っており「わたしを県庁に送っていってはならぬ。わたしを送って大力河の水源を塞がせればよかろう」と言うと見えなくなった。その年の地震の日、四川の大力河は決壊し、一万余人が溺死した。

最終更新日:2007216

子不語

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[1] 杭世駿。仁和の人。乾隆元年の進士。

[2] 万福。鄞県の人。

[3] 施光輅。銭塘の人。

[4] 法華経を講讃する法会。

[5] 陳兆崙。銭塘の人。雍正八年の進士。

[6] 月宮。

[7] 原文「施柳南一日不出仕,我輩田允兄大有吃處」。どういう論理なのか未詳。とりあえずこう訳す。

[8] 道士が呪術を行う際の歩行法。胡孚琛主編『中華道教大辞典』六百八十一頁参照。

[9] 後ろに記載があるように、『玉策記』という書物に見える物の怪の名だが、『玉策記』という書物が未詳なので、未詳。

[10] 按察使。

[11] 夜間提灯を担ぐ護衛の下役。

[12] :周等編著『中国衣冠服飾大辞典』百二頁。

[13]未詳だが、雁蕩山であろう。浙江省の名山。

[14] 写真

[15] 原文「且貯庫焉」。未詳。とりあえずこう訳す。

[16] 原文「將女發官賣」。奴隷として公売にする。

[17] 杖刑百回をいう。

[18] 原文「聞公呼大杖」。「呼大杖」は大きな杖を持ってこいと叫ぶこと。

[19] 州県の知事をいう。

[20] 清代、武功のある者に賜った称号。

[21] 未詳。「衆」は「人々」、「兜」は「囲む」の意であろう。みんなで取り巻いて与えるお金ということか。

[22] 原文「西賈」。未詳。とりあえずこう訳す。

[23] 銓部は吏部。主事は官名。

[24] 仁和の人。乾隆二十三年の進士。

[25] 商人の王さん。

[26]ここでは乩神のこと。乩の託宣をする神。乩は占卜の一種。乩。扶鸞。丁字形の木組みを用意し、水平の両端を二人で支え、垂直の部分に付けた筆が下にある砂を入れた皿に書く字によって神意を得ること。胡孚琛主編『中華道教大辞典』八百三十二頁参照。

[27] 翰林院の官職に選任されること。

[28] 新郎の父母が死んでいる場合、結婚して三ヶ月目に、新婦が家廟で義父母の位牌を拝すること。葉大兵等主編『中国風俗辞典』百五十二頁参照。

[29] 『礼記』曾子問「曾子問曰、女未廟見而死、則如之何、孔子曰、不遷於祖、不祔於皇姑、婿不杖、不菲、不次、歸葬于女氏之黨、示未成婦也」。

[30] 原文「鬼衣有補褂痕」。「補褂」は普通は補子というアップリケの着いたのことをいうが、ここでは「褂に補子をつける」という意味で用いていよう。

[31] 原文「參店」。未詳。とりあえずこう訳す。

[32] 甘粛省西北部。

[33] 方伯は布政使。

[34] 六部の郎中、員外郎をいう。

[35] 宣武区前門の西方にある胡同の名。

[36] 杭州城東部の門。新門、永昌門、望江門。乾隆元年『浙江通志』巻二十三参照。

[37] 銭謙益の妾。銭が死ぬとそれに殉じた。『清画家詩史』癸・上に伝がある。

[38] 銭謙益。明朝で礼部尚書になった。

[39] 巻百二十四。

[40]『金史』巻百十五に伝がある。西面元帥であったとき、完顔奴申、完顔斜捻阿撲卜を殺して実権を握り、梁王承恪を擁立した。

[41] 脇部屋のことであろう。

[42]母家の両端に建てられたやや低い部屋。

[43] 前注参照。

[44] 写真:上海市戯曲学校中国服装史研究組編著『中国歴代服飾』二百八十頁。

[45] 原文「還以手捧之安置頂上」。本当なら「頂上」ではなく「頚上」とでもするべきなのであろうが、とりあえず原文通りに訳す。

[46] 湖北、湖南の人。

[47] 軍隊の総大将。

[48]鱟は虹のこと。なお虹は龍の一種と考えられていた。

[49] 浙江省の県名。

[50] 烏程の人。隆慶五年の進士。

[51] 原文「但鱟魚司露有功」。「司露」が未詳。とりあえずこう訳す。

[52] 原文「彼以貧故,當示之罰」。未詳。とりあえずこう訳す。

[53] 原文「船止二十餘人」。未詳だが、訳文の意味であろう。

[54] 原文「有同伙之子廣東人投詞於官」。未詳だが、訳文の意味であろう。

[55] 台湾西部の港名。

[56] 原文「移咨廣省」。「咨」は咨文。同級官庁間で交わす文書。

[57] 浙江省の州名。

[58] 湖州府徳清県の地名。乾隆元年『浙江通志』巻五十五参照。

[59]福建省の川名。

[60]苕水。浙江省の川名。

[61] 湖州府の西北の城門。乾隆元年『浙江通志』巻二十三参照。

[62] 陳覇先。陳の建国者。

[63] 章氏。章景明の子。諱は要児。呉興烏程の人。

[64] 原文「起民夫開地道而出」。未詳。とりあえずこう訳す。

[65] 道教の神を祭る儀式。

[66]滸墅関の誤りか。呉県の西北の関の名。

[67] 江蘇省の湖名。

[68]陳一元のこと。

[69]根基。資質。

[70] 閔珮。銭塘の人。康煕四十五年の進士。

[71] 生者の世界の役人。

[72]原文「再詳解東嶽」。「詳解」が未詳。とりあえずこう訳す。

[73]獄牒のことであろう。判決文。

[74] 字の書かれた紙。現在でも、粗末に扱っては行けないという風習がある。

[75] 原文「聖所未戒、然不過推重農重文之心、充類至義之盡」。未詳。とりあえずこう訳す。「充類至義之盡」は『孟子』万章下。「類を拡げて究極の義に至る」ということ。

[76]芻狗は葬儀の時に並べる、犬の藁人形。この句、天地は情け深いわけではなく、万物を粗末に扱うということ。

[77] 陝西省の州名。

[78] 按察使。

[79] 四川省の庁名。

[80] 正六品の武官。

[81] 原文「地動必有回潮」。「回潮」は未詳だが、訳文の意味であろう。

[82] 勧進帳。

[83] 原文「募化人口一萬」。未詳。とりあえずこう訳す。

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