アクセス解析
レンタル掲示板

第十五卷

 

姚端恪公が剣仙に遇うこと
 国初、桐城の姚端恪公が司寇[1]であった時、山西の某に謀殺事件の廉で罪を言い渡そうとしていた。某は十万両を公の弟文燕[2]に賄して許しを求め、文燕は承諾したが、公が方正なのを憚り、公に言おうとはせず、許しを得たら、こっそり取ってしまおうと思っていた。
 ある晩、公が燈下で文書を調べていたところ、突然梁の上から男が匕首を持って下りてきた。公は尋ねた。

「おまえは刺客か。どうして来たのだ」

「山西の某のために来たのだ」

公は言った。「某は法律上許されるべきではない。某を許そうとするなら、国法は大いに壊われ、わたしは朝廷に立つのは面目ないから、死んだ方がよいわい」。その頚を指すと「取れ」と言った。客は言った。

「許せないなら、どうして公の弟が金を受けとったのだ」

「わたしは知らんぞ」

「わたしも公はご存じないと思っていました」

身を躍らせて出ていったが、屋根瓦の上に風が葉を掃うような音が聞こえるばかりであった。
 時に文燕は都を出て知州の任に赴いていた。公は急いで人を告げにやったが、徳州に着くと、すでに車中で首を失っていた。家僕によれば「主人は宿で朝飯を終え、車に乗って数里進みますと、突然大声で『ほんとうに冷たい風だ』と叫びました。わたしたちが急いで綿衣を持って見にゆきますと、首はなく、ただ血の海があるばかりでした」。端恪は刑部の白雲亭[3]に題した。「つねに覚ゆ胸中に生意[4]の満つるを、知るべし世上に苦人の多きを[5]」。

呉髯
 揚州の呉髯は排行が九、塩商の子で、年は二十、広東の某藩司[6]の役所に往って婿になろうとしていた。舟が滕王閣に着くと、白昼一人の女が下役とともに舟に来て、「あなたを三世にわたって捜し、今日会うことができました」と言った。呉髯は茫然として事情が分からなかった。家僕は冤鬼であることに気が付き、日々帚でかれが見えた処を打ったが、効果はなかった。それからは呉髯は言葉がすっかり普段と変わってしまった。江西から広東まで、二鬼はずっと去らなかった。
 婿入りの日、女の鬼は突然洞房に入ると、その座席を求め、新婦と上下を争った。新婦と呉髯だけにはその声が聞こえたが、「わたしはもともと漢陽の寡婦だったが、呉と親しみ、結婚を約束し、蓄えた万両を与え、蘇州に行かせ、家を買わせ、店名を掲げさせ、翌月日に漢陽へ娶りにくることを約束させた[7]。ところが呉は金を持って去り、五年間消息がなかった。わたしはみずから縊れ死に、黄泉に行き、哭きながら訴えた。漢陽の城隍が蘇州の城隍に調査して貰ったところ、『この人はすでに湖南に生まれている』と返答があった。湖南に尋ねてゆき、城隍に訴えると、今度はすでに揚州に生まれていることが明らかになった。揚州に行くと、呉は今度は広東に来ていた。江西に追ってゆくと、はじめて逢うことができた。今の結婚を、邪魔することはできないが、いっしょに栄華を享けるべきだ」などの言葉を語った。新婦は大いに驚き、藩台[8]に申し上げた。やむを得ず、その座席を空けて持てなしたところ、はじめて平穏を得た。鬼卒は口ずから杯、箸、食物を求めたので、ほかに席を設けて持てなした。
 一月後、呉髯は帰郷を告げ、舟を雇い、揚州に戻ることにしたが、鬼もとてもつよく輿を求め、呉髯の輿に隨い、舟に乗ろうとした。揚州の士人はこの事を知っても信じなかったが、呉髯が揚州に到着する日は、街や巷を埋め尽くし、かれの帰りを待った。見ると四つの輿が城に入ってきた。前ははたして二つの空の輿であったが、輿を担ぐ者は人が坐っているように感じていた。当時の好事家は『再生縁』伝奇を作った。
 半年後、呉髯の妻は女の鬼のために七日の法事を行い、瓊花観で紙銭を焼くことを約束し、去るように勧めたところ、女の鬼は欣然として承諾した。その時鬼卒はすでに去っていたので、法事では女の位牌を殿の西側に設け、毎日呉髯の妻が席を設けてみずから祭った。七日目は、大雨となったので、家僕に供え物をしにゆかせた。家僕は足を滑らせて路で転び、泥で汚れた食べ物を供えた。鬼は大いに喚いて止めなかった。呉髯はその家僕を責め、髯の妻はさらに九日法事をすることを約束した。功徳が満たされると、女の鬼は髯の妻に向かってお礼を言い、呉髯に言った。「十年後に来て、ふたたびあなたの命を取ることといたします。わたしはひとまず去りましょう」。
 髯は懼れ、出家して城隍のために働いたが、期日になると、白日眠りながら亡くなった。今でも揚州の人々はみな呉九鬍子が活勾差[9]であったことを知っている。

麻林
 長隨[10]の麻林は李二と親しかった。李は貧乏のために死んだが、林の家は財産がすこぶる豊かであった。ある晩、夢みたところ、李がその(とこ)に登ってきて責めた。「わたしはあなたと兄弟二人で、ふだんすこぶる親しくしていた。今わたしは死に、子や孫はいないのに、一本の豚足もわたしの(つか)に祭ってはくださらぬとは、何と残酷なのだ」。林は諾々として約束した。李は立ち上がって戸を出たが、林はなおも胸、腹が物に圧されているのを感じ、李の魂が散じていないのかと疑った。急いで起きて見たところ、子豚が(ふすま)の上を圧しており、糞尿でびしょびしょであったので、はじめて李の魂が豚に附いて来たことを知り、心のなかではっと悟ると、すぐに子豚を縛って売り、二千文を得ると、酒や肉を買いととのえてやり、みずからかれの(つか)に行き、祭ったのであった。

鶴静先生
 時榭[11]は及第する前、周穆門[12]たちと乩仙を招くのを好んだ。ある日、仙人が盤に降ると、「わたしは鶴静先生だ。平生詩吟を好んでいるので、吟社の誼を結びにきたのだ。諸君は小さな事をわたしに尋ねよ。わたしが知っていることがあればかならず話そう。大きな事はわたしに尋ねることはない。知っていても告げるわけにはゆかないからな」と書いた。その後、杭城で晴雨を祈願したり、(おこり)を止め(はらくだし)を断つことなどについて尋ねると、かならず期日を書いたり、処方箋を書いたりしたが、ことごとく験があった。その他の吉凶については、筆は臥して動かなかった。毎日祈って招くときは、「鶴静先生」の四字を書き、空に向かって焚きさえすれば、仙はかならず降りてきて、唱和するのであった。詩はもっとも清麗で、「雁」の字に和すること六十首に至った。このようにして一年が経った。
 樊榭、穆門が面会を請うたが、拒んで許さず、人々が再三懇願すると、「明日の午後孤山の放鶴亭[13]で待っていよう」と言った。人々は期日になると舟を出して伺ったが、日暮れになっても現れなかったので、誑かされたのかと疑い、それぞれ出発しようとした。すると突然空中で長く嘯く声がして、陰風が四方に起こり、鬚の長さが数尺、紗帽に紅袍の偉丈夫が、長い帛をみずから石の牌楼に掛け、身を躍らせて亡くなった。前朝の忠臣の殉節した者かと疑われた。それからは乩盤でふたたび招いても来なかった。かれの姓名を尋ねなかったのは惜しいことであった。

門戸が理由もなく自然に開くこと
 孫葉飛先生は雲南の五華書院で教えていたが、正月の十三夜、書院の門が理由もなくひとりでに開き、(くるる)がすっかり脱けたので、大いに奇妙なことだと思った。翌日、城内では家々の門戸が昨晩理由もなくひとりでに開いたと騒がれていたが、何の妖異であるかは分からなかった。一月あまり様子を伺ったが、老若は平穏で、特段のことはまったくなかった。

黄陵の玄鶴
 陝西の黄帝陵[14]には以前二羽の玄鶴がいた。上古の鳥であると伝えられ、朔望に飛びながら鳴くが、住民は眺めることはできても近づくことはできないのであった。乾隆初年、今度は二羽の小さな鶴がいっしょに飛んでいたが、羽の色はやはり黒かった。ある日、突然空中から大きな(わし)が飛び下りてきて、(つばさ)で小さい鶴を撲ち、傷つけようとした。老鶴はそれを知ると、二羽で(わし)を啄みにきた。しばらく格闘したが、雲や雷がこもごもやってくるのであった。(わし)は崖の石の上で死んだが、その大きさは数畝を覆うことができた。土人はその(つばさ)を取って屋根瓦にしたが、数百の家を覆うことができた。

土地が挙人を迎えること
 休寧[15]の呉衡は、浙江の商籍の生員[16]であった。乾隆乙酉の郷試のときのこと、合格発表の一日前に、かれの家の老僕は夜臥していて突然目醒めると、喜んで言った。

「若さまは合格なさいます」

「どうして分かるのだ」

「老いぼれは夜に夢みて土地祠を通りましたが、土地神が車に乗って外出しようとしており、みずからその門を鎖しながら、わたしに告げました。『昔から省内で合格者があるときは、土地神は迎えるのが習いなのだ。わたしは今この仕事に当たっているから、出発しようとしているのだ。おまえの主人を、わたしが迎えるのだ』。」

呉はそれを聞くと、心のなかで喜んだものの、結局信じなかった。やがて合格発表があったが、はたして第十六名に合格していた。

孫烈婦
 歙県紹村張長寿の妻孫氏は[17]、父某が、武藝に優れていたので、幼いときから父に従って学んでいた。年頃になると、長寿に嫁いだが、長寿は家が貧しかったので、妻を娶って一月で浙西に行商しにいった。賊数人は妻が年若いのを窺い、夜に門をこじ開けにゆき、良くないことをしようとしたが、妻は左手に燭を執り、右手に棍棒を持って賊と闘ったので、賊は傷を負い、地に倒れて逃げた。さらに一年後、長寿が病死すると、妻は従容として葬儀を行い、葬ると、戸を閉ざしてみずから縊れた。隣人は婦人が無理に死んだので、かれが祟ることを懼れ、僧を集め、仏事を行い、済度した。夜が半ばになろうとする頃、僧がお経を誦えていると、妻が堂上に坐して叱った。「わたしは正命[18]に死んだのであって、死ぬべきでないのに死んだ者ではない。おまえたち禿がこちらに来て余計なことをすることはない」。僧たちは驚いて逃げ去った。その後、村の婦人某が男と私通し、夫を謀殺しようとしていたが、突然病み、狂って叫んだ。「孫烈婦はこちらでわたしを責めています。殺すわけにはまいりません。殺すわけにはまいりません」。その後、村中が孫を神のように敬った。

小芙
 黟北の王家の妻が夢みたところ、美しい女が妻を男子と見なして交わり、「わたしは番禺の陳家の(はしため)小芙です。あなたは前生は(しもべ)でしたが、わたしと契って事が露見し、わたしは鬱々として死にました。愛縁は尽きませんので、楽しみを続けにきたのでございます」と言った。妻は目醒めるとすぐに癲癇を病み、夫を避けてひとりで住まい、時々ひとりで談笑していたが、すべて男子の猥談で、自分が女の身であることを忘れていた。しばらくすると、小芙が白昼姿を現したので、家僕は百方手を尽くして追い立てたが、追い払うことはできなかった。たまたま隣家で失火があると、小芙は叫んで王氏に告げたので、災難を逃れることができた。王家はこれを徳とし、かれが一年あまり安住するに任せた。かれはある晩妻に言った。「わたしは縁がすでに尽き、転生しなければなりません」。妻を抱いて大声で哭き、「お兄さまとは永のお別れでございます」と称した。妻は癲癇はすぐに癒え、その後は変わったことはなかった。

鬼宝塔
 杭州に邱老という者がおり、布を売って生計を立てていた。ある日借金を取り立てて帰ることにし、宿屋に泊まろうとしたところ、宿には人が満ちていた。行く手は荒涼として、泊まるところもなかったので、主人と相談したところ、主人は言った。「お客さまは度胸がおありでしょうか。裏の塀の外に幾つか賭博部屋[19]がございますが、長いこと泊まる人がなく、邪祟(あやかし)が潜んでいると思われますので、お泊めしようとしないのでございます」。邱老は言った。「今まで歩いた道のりは、数万里を下らないのに、鬼を懼れてどうする」。そこで主人は燭を執り、邱老とともに室内を通り、裏の塀の外に行った。見れば、四五畝ばかりの空地があり、塀に添って小屋数間があったが、すこぶる清潔であった。邱老は中に入り、卓、椅、牀、帳がすべて揃っているのを見ると、たいへん喜んだ。主人は別れを告げて出ていったが、邱老は熱いので、戸外に坐して金勘定をしていた。
 その晩、薄月は朦朧としていたが、ぼんやりとしていると、前方を人影が通り過ぎたかのようであった。邱は賊が来たかと疑い、じっと見たが、突然もう一つの影が通り過ぎた。まもなく、続けて十二の影を見たが、往ったり来たりして止まることなく、蝶が花を穿っているかのようで、姿を捉えることはできなかった。瞳を凝らしてじっと見ると、すべて美しい婦人であった。邱老は言った。「人が鬼を畏れるのは、鬼が醜い顔をしているからだ。このように美しいなら、わたしは鬼を美人として見てもよい」。そして端坐してかれらがどのようなことをするかを看ることにした。
 しばらくすると、二鬼はその足元に蹲り、一鬼はその肩に登り、九鬼は次々に登り、一鬼はひらりとその頂きに立った。劇場で言う「搭宝塔[20]」のようであった。さらにしばらくすると、それぞれが大きな輪を執り、頚に掛けたが、髪の毛はすっかりざんばらになり、舌は長さが一尺あまりになった。邱老が笑って「美しいときはとても美しく、醜いときはとても醜い、様子が変わるのは、今の人情世態にそっくりだ。おまえたちは結局どうなるのだ」と言うと、鬼たちは大いに笑い、それぞれ元の姿に戻って散じた。

棺蓋が飛ぶこと
 銭塘の李甲は、ふだんから勇敢であった。晩に友人の宴に赴いたが、酒が酣になると、座客が言った。「ここから半里の所で、家が売りに出されていて、値段はとても安いのだが、聞けば悪鬼が隠れているので、今でも買い手がないそうだ」。李は言った。「残念ながら僕はお金がないから、話しても無駄だよ」。客は言った。「この中でひとりで一晩酒を飲む度胸があるなら、僕がこの家を買って君にあげよう」。客たちは言った。「わたしたちが証人になりましょう」。すぐに翌晩の約束をした。
 翌日の昼、連れ立って部屋に入り、酒肴を置くと、李は剣を帯びて堂に昇った。人々は戸を閉ざし、外から鍵を掛けて去ると、隣家を借りて、集まって話をし、報せを待った。李が建物を見回すと、その傍にほかに小さい門が開いていたので、身を翻して入ったところ、狭い路があり、雑草が生い茂っていた。奥には丸い門があり、半ば掩われ半ば開いていた。李は考えた。「入ってゆくことはない。とりあえず外で動きがあるのを待とう」。そして燭を点け、酒を飲んだ。
 三更になると、足音が聞こえた。見ると身の丈一尺[21]、顔は白い灰のよう、両眼は漆黒で、ざんばら髪の鬼が、小さい門から出てきて、まっすぐ筵席に奔ってきた。李が怒り、剣を持って起きあがると、その鬼は身を翻して小路に入ったので、李は丸い門の中に追いかけていった。すると狂風がにわかに起こり、空中を棺蓋が風車のように飛んできて、李の頭上を旋回した。李は剣を取って斬りまくったが、いかんせん頭の上はますます重くなり、体はだんだん縮んでゆき、泰山が卵を圧しているかのように危うくなったので、やむを得ず大声で叫んだ。友人たちは隣家でそれを聞き、連れだって中に入ると、李が棺蓋に圧し倒されようとしていたので、力を合わせて救い出し、背負って逃れた。後ろからは棺蓋が追ってきた。李が叫べば叫ぶほど追いかけてきたが、鶏が一声鳴くと、突然見えなくなってしまった。そこで李甲を目醒めさせ、徹夜で担いで帰った。
 翌日、ともに家主に詢ねたところ、裏庭の狭い部屋に棺を置いてあるが、しばしば祟りをなすこと、もっぱら蓋を飛ばして人を圧し、死んだ者がとても多いことをはじめて知った。そこでお上に訴え、烈火で焚くと、その(あやかし)はいなくなった。李は病むこと一月あまりでようやく癒えたが、いつも人々にこう告げた。「人の声は鶏の声には及ばない。どうして鬼は人を怕れず、鶏を怕れるのだろう」。

油瓶で鬼を煮ること
 銭塘の周軼韓孝廉は、性来豪邁であった。某年はとても暑かったので、七、八人とともに晩に湖に舟を浮かべた。丁家山[22]麓に行くと、一人の友人が言った。「浄慈寺[23]長橋[24]の左側には鬼が多いそうだが、尋ねていってはどうだろう。正体を見ることができれば、笑いの種にすることができるだろう」。人々は唆しあいながら上陸し、いっしょに橋のほとりに行くと、夜網(よあみ)を引く者が魚を挈げてやってきた。孝廉がじっと見たところ、かれの家の墓守であったので、「その網を借してくれ。明日の朝、返すから」と言った。墓守は承諾したので、従者にその網を渡し、担いでゆかせた。友人たちがわけを尋ねると、孝廉は「南屏山麓の鬼を一網打尽にするのだ」と言った。人々は大いに笑い、山の人気のない小路を選んで歩いていった。
 その晩、月は明るく昼のよう、前方の林に一人の婦人がいたが、紅い衫に白い裙、頭を挙げて月を看ていた。友人たちは言った。「夜も更けているのだから、女が外にいるはずはない。鬼であることは疑いない。誰を先鋒にしよう」。孝廉は往くことを望み、大股で前進した。隔たること半箭[25]ばかりで、冷たい風が吹いてきた。婦人が身を翻すと、満面に血が流れ、両眼が垂れ下がっていた[26]。孝廉は戦慄し、立ちすくんだまま進まず、幾度も叫んだ。「網だ。網だ」。人々は進み出ると、網を打ったが、姿は見えず、網の中には一尺ほどの枯木があるばかりであった。携えて帰り、墓守の家の門を敲き、鋭い鋸を借りて一寸一寸鋸引きにしたところ、鮮血でびしょびしょになった。そこで主人の燈油(ともしあぶら)一瓶を買い、携えて船尾に上がり、火を燃やして油を煮、鋸で枯木を断ち、瓶の中に送り込むと、たちまち青い煙が揚がり、焦げた炭となってしまった。
 人々は朝になり、城に入ると、親戚友人に告げた。「昨夜油瓶で鬼を煮たのは、たいへん珍しいことだった」。

無門国
 呂恒は、常州の人、洋物を売ることを生業にしていた。乾隆四十年、海風に吹かれ、舟の人々はみな沈んだが、呂だけは木の板を抱き、波に揉まれながら、漂流してある国に入った。人々は楼に居住していたが、楼には三階のもの、五階のものがあり、祖父は三階に住み、父は二階に住み、子は一階に住み、もっとも高い所には曾高祖が住むのであった。出入りするための戸はあったが、遮るための門はなかった。国人はとても富んでおり、窃盗事件はなかった。
 呂は着いた当初は、言葉は通じなかったので、手振りで意思を示していた。しばらくすると、ようやく理解するようになり、中華の人だと聞くと、すこぶる尊敬した。その地の習慣では、一日を分けて二日にし、鶏が鳴くと起き、交易往来し、正午になると国を挙げて安眠し、日が傾くと起き、普段通り仕事し、戌の刻になるとまた眠るのであった。その年齢を尋ねると、十歳と称する者は、中国の五歳、二十と称する者は、中国の十歳であった。呂がいる処は、国王のもとから千里離れていたので、会うすべはなかった。官員はとても少なく、従者は「巴羅」と呼びなされていたが、どのような職司なのかは分からなかった。男女は愛しあって結婚するが、美醜老少、それぞれ似たもの同士が連れあうので、無理なことをして怨嗟を招くことはなかった。刑罰はもっとも奇妙で、人の足を断った者はやはりその足を断ち、人の顔を傷った者はやはりその顔を傷い、寸分の部位に至るまで、すこしも(たが)わないのであった。人の子女を犯した者は、人にその子女を犯させ、犯人に子女がいない時は、木を削り、男子の勢の形にし、その肛門を突くのであった。
 呂はその国に居ること十三か月で、南風を得て、船に乗り、中国に還った。年老いた船乗りに拠れば「この島は『無門国』と号し、古来中国に来た者はいない」とのことである。

宋生
 蘇州の宋観察[27]宗元の族弟某は、幼くして孤児となり、叔父に頼ったが、叔父は厳しく待遇した。七歳の時、塾の先生の処へ勉強に赴く時に、こっそりと劇場に往き、芝居を見たが、人がその叔父に知らせたため、懼れて帰ろうとせず、木瀆郷[28]に逃れて乞食となった。李姓の者が、憐れんでかれを引き取り、両替屋の雇われ人にしたところ、すこぶる勤勉だったので、(はしため)鄭氏を娶わせた。このようにして九年、宋生はすこぶる財産を蓄えた。
 城内へお参りにいったところ、途でその叔父に遇ったが、瞞くわけにもゆかなかったので、事実を告げた。叔父はかれに貯蓄があることを知ると、家に還るように勧め、ほかに連れ合いを択んでやることにした。生は当初はそれを望まず、叔父に告げた。「(はしため)はすでに娘を生んでおります」。叔父は「うちは大族なのだから、(はしため)を妻にすることはできんぞ」と怒り、離婚するように逼った。李家はそれを聞くと、(はしため)を娘にし、さらに結納を調えることを願い出たが、叔父は許さず、三行半を書いて鄭に届けるように命じ、改めて金氏を娶わせてやった。鄭は手紙を得ると大声で哭き、その娘を抱くとみずから河に沈んだ。
 三年後、金氏にも一女が生まれた。その叔父が轎に坐して王府を通ると[29]、突然旋風が簾を掲げた。家僕が見たところ、痰が湧き、息絶えており、頚には爪の痕があった。その夜、金氏が夢みたところ、一人の女がざんばら髪で血を滴らせながら訴えた。「わたしは鄭氏の(はしため)でございます。あなたの夫はろくでなしで、悪い叔父の言葉に従い、わたしを離縁しようとしました。わたしはふたたび嫁がないことが正しいと考え、入水して死にました。今回わたしはまずかれの叔父に報い、すぐにあなたの夫に報いにきます。あなたとは関わりはございませんので、怖れないでください。ただあなたが生んだ娘さんは許すことはできません。娘の仇を娘で討つのも、公平な報い方です」。妻は目醒めると、宋生に告げた。生は大いに驚き、友人に相談した。友人は言った。「玄妙観に施道士がいて、符を作り、鬼を駆ることができる。かれに法術を行わせ都に告訴するとよい」。そこで幣帛を手厚くして施に賄した。施が女の生年月日を黄紙に書き、天師符を加え、都に護送させたところ、その家ははたして平穏であった。
 三年後、生が書斎の窓辺に坐していると、白日(はしため)がやってきて罵った。「わたしが先にあなたの叔父さんを捕らえてあなたを捕らえるのを遅らせたのは、悪い考えがあなたから起こったのではなかったため、以前の夫妻の誼にまだ恋々としていたためです。今回あなたは先に手を下し、わたしを都に告訴しました[30]。どうしてここまで悪いことをなさるのでしょう。今回わたしは期限がすでに満ちましたので[31]、怨みを城隍神に訴えました。神はわたしの貞烈を嘉し、わたしが復讐することを許しましたから、もう逃れることはできませんよ」。宋生はそれからは(ほう)けて、人事不省となった。家の器具は、理由もなくひとりでに砕け、つっかい棒や棍棒は、空中で乱れ飛んだ。家を挙げて大いに懼れ、僧を招いて済度したが、結局効果はなかった。十日足らずで宋生は死に、十日過ぎにその娘は死んだが、金氏は恙なかった。

屍が香ること二話
 杭州の孫秀姑は、年は十六、李氏の養媳[32]であった。李翁はその子を連れて遠出し、家には年老いた姑がいるばかりであった。隣家の悪人厳虎は秀姑が美しいのを窺い、火を貰うと称して、言葉で挑もうとしたが、秀姑は従わなかった。そこで男寵の某を囮にし、しなを作らせ、蠱惑の計を施した。秀姑が姑に告げると、姑は罵って追い払った。厳虎は大いに怒り、罵った。「無礼な女め、おまえをかならず犯してやるぞ」。朝晩磚を投げ、門をこじ開けた。李家はもともと貧しく、板壁は薄く、親戚友人はきわめて少なかった。さらに厳は無頼であったので、隣人たちはその鋒先に掛かろうとしなかった。姑と嫁は抱き合って哭いていた。
 ある日、秀姑が朝起きて髪を梳いていると、厳とその男寵が屋根に登り、それぞれ袴を脱ぎ、その陽物を立てて示した。秀姑は怒りに勝えず、上着下着をしっかり縫いつけ、こっそり塩鹵[33]を服して死んだ。その姑は哀号し、お上に告げようとしたが、訴状を書いてやる者はいなかった。すると突然異香が秀姑の臥している処から起こり、ただちに街巷に達したので、路行く者はみな驚いて目を見合わせた。厳虎はそれを知ると、死んだ猫、死んだ狗などの汚物を取って李の門外に並べ、その香りを紛らわせようとしたが、香りはますます盛んになった。たまたま捕庁を総べる某が通り掛かり[34]、その香を嗅いで怪しみ、近隣に尋ねたところ、かれの怨みを知り、府県に知らせ、厳虎を処刑し、表彰秀姑を朝廷に。今でも西湖のほとりに牌坊が残っている。
 荊州府の范某は郊外に住み、家はたいへん豊かであったが、早くに亡くなった。息子は六歳で、その姉に頼っていた。姉は年は十九、書物を読み、算術を解し、たいへんきちんと家事を処理した。一族の悪人范同はその弟が幼いことを侮り、しばしば借金しにきた。姉ははじめは対応していたが、やがて飽くことなく要求されたため、対応することができなくなった。范同は大いに怒り、その仲間と謀って姉を除き、呑噬の計を施すことにし、城隍の縁日になると、その姉を河に沈めた。さらに両替屋の少年を縛って沈め、二本の帯でその屍を縛ると、お上に報せて検分させ、言った。「ふだんから姦通していて、人に悟られることを懼れて、いっしょに死んだのでございましょう」。県官はそれを信じ、納棺、埋葬するように命じただけであった。范家は財産がすべて一族の悪人に占められてしまった。
 一年後、荊州太守周鍾宣が着任し、范女の(つか)を通ったところ、異香がその(つか)から起こっていた。書吏たちに尋ねると、かれらの怨みを知っている者が、事情を言上してやったので、男女二人の(つか)を掘り、検分した。屍はそれぞれ生きているかのよう、手、足、頚、項にはすべて縛られた傷痕があった。そこで范同を拘束、訊問しようとしたが、数日前にすでに悪鬼に祟られて死んでいた。太守は酒食香紙を具えるとみずから女の(つか)を祭り、石碑に「貞女范氏の墓」と記した。怨みが雪がれた後、二体の屍はいずれも腐敗した。

儲梅夫府丞[35]は雲麾使者であること
 儲梅夫宗丞は養生に長け、七十歳で嬰児の顔色であった。乾隆庚辰正月、命を奉じて山川に祭告[36]し、郵亭に宿った[37]。その晩、旅の宿では燈花が光を放ち[38]、たちまち変現し、蓮花のようになったり、如意のようになったり、芝蘭のようになったりし、高さ二三尺の煙を噴けば、風と霧がともに旋回するのであった。急いで家童を呼んで観せると、みな訝り、触れないように戒めた。その晩、夢で群仙五六人に招かれてとある所に行ったところ、上手(かみて)には「赤雲岡」の三字が書かれており、儲を雲麾使者と呼んだ。仙人たちは松陰に列坐して聯句したが、海上神翁と称する者がはじめに「蓮炬[39]は今宵瑞芝を献ず」と唱った。次に五松丈人が続けた。「群仙佳会して吟髭[40]を飄す」。その次は東方青童が言った。「春風換へんと欲す楊柳の枝」。傍の女仙は笑って言った。「これは雲麾使者の『凌河を過ぎる』[41]の句ですが、どうして盗まれるのでしょう」。ともに一笑した。すると突然、燈花が爆竹の声をたて、目覚めたのであった。

唐配滄
 武昌の司馬[42]唐配滄は、杭州の人、ふだんから孝行であったが、在任中に亡くなった。五年後、その長男の在亭は遠く四川に寓居していたが、長男の嫁郭氏は杭州で劇しく病み、突然司馬公の言葉を語った。「冥府はわたしの役人ぶりが清廉であったことを考慮され、武昌府の城隍になるように命ぜられた。思えばおまえたちはあらたに家庭を築いた。わたしがおまえたちに遺してやった物はないが、この嫁がすこぶる勤倹なので、わざわざ助けにきたのだ。獅子橋に行き、劉老娘を捜してきて、お祓いを頼むべきだ」。
 伊の次男で字は開武という者が探しにゆき、家に迎えてきたが、かれは杭州で俗にいう「活無常[43]」であった。「この病をあなたは救うことができますか」と尋ねると、「冥府の命を奉じて捉えるのです。かってに釈放するわけにはゆきません。しかし今お宅の先代さまが閻羅王に取りなしにゆきましたから、助かるかも知れません」と答えた。そこで「先代さまはどこにいるのだ」と尋ねると、「今は竈神を取りなしていらっしゃいます」と答え、しばらくすると言った。「先代さまは門を出られましたが、冥府に行かれたのでしょう」。病人は静かに臥して語らなかったが、しばらくすると言った。「先代さまがいらっしゃいました」。すると病人はすぐに大声で言った。「おまえはもう助かったから、心配ないぞ」。その時、見舞いの親戚友人が坐っていたが、郭氏は司馬の言葉で、それぞれに親しげに話しかけ、さながら生前のようであった。
 そこで次男は跪いて頼んだ。「お父さまはもう神さまになったのですから、あらかじめ吉凶をご存じでしょう。わたくしたちは将来どのような結末になるのでしょうか」。司馬は声を荒げて言った。「良い人となり、良い事を行えば、おのずから良い日があろう。あらかじめ尋ねることはできないぞ」。さらに言った。「わたしは今日私事(わたくしごと)のために廟の人夫を働かせたから、はやく紙銭を焚き、お酒とご飯を与えて酬いるのだ」。そう言うと、病人はもとの声に戻り、病も自然に癒えた。これは乾隆二十四年五月の事で、今でも郭氏は生存している。

裘文達公[44]が水神となること
 裘文達公は臨終のとき家僕に語った。「わたしは燕子磯[45]の水神で、今から位に復しようとしている。死んだ後、おまえたちが霊柩を江西に送るとき、かならずこの磯を通るが、関帝廟があるから、往ってお神籤を求めるがよい。上上第三の籤なら、わたしは水神になるだろう。さもなければ、譴責を受けて、位に復することはできないかも知れぬ」。そう言うと亡くなった。家僕はそれを聞いても、半信半疑であったが、蒼頭[46]の某だけは堅く信じて、「公は王太夫人がお生みになりました。太夫人は本籍が江寧で、江を渡る時、燕子磯の水神廟で男子を求めたことがございます。夜に夢みたところ、袍、笏を帯びた者が来て言いました。『そなたに男児を与えよう。あなたに良い男児を与えよう』。はたして一年後に公をお生みになったのでございます」と言った。公の妻熊夫人は柩を運んで帰るとき、燕子磯に行き、言われた通りに、関帝廟で占いしたところ、はたして第三の籤であったので、家を挙げて大声で哭き、江を蔽うほどの紙銭を焼き、廟の傍に位牌を立てた。傍には尹文端公の詩碑があった。
 わたしは蘇州に往くとき、この地で風に阻まれたので、その位牌に揖して壁に題した。「燕子磯の(ほとり)に泊し、黄公の壚下に過れり[47]。摩するは旧き碑碣(いしぶみ)、惆悵すこの山の(くま)。短鬢は皤皤たる雪、長江は渺渺たる波。江神のこの我を識ることあらば、()き風を送ることあまたなるべし」。翌日はたして大いに順風であった。

荘生
 葉祥榴孝廉[48]が言った。その友人の陳姓の家は家庭教師荘生を招いていた。八月の夕暮れ、生徒たちが勉強を終えると、陳家の兄弟は書斎で碁をうち、荘は傍で観ていたが、疲れたので、立ち上がると家へ帰ることにした。
 荘家は陳家から一里ばかり離れており、一本の橋を通らなければならなかった。荘生は橋を渡っている時に足を滑らせて転び、急いで起きあがると家に走っていったが、門を叩いても返事がなかったので、陳氏の書斎に返った。陳兄弟は対局が終わっておらず、中庭を間歩していた。見れば書斎の裏手の小さい門の内に園亭があり、巨きな芭蕉が無数にあったので、主人はこんな風雅な部屋を持っているのに書斎にしないのかと嘆いた。さらに数歩進むと、小さい亭の中で妊婦がお産していた。容色はすこぶる美しかったので、心が動くのを覚えたが、やがて「こちらは主人の奥の間だから、ここを見て退かないのは、無礼だ」と言い、趨り出ると、書斎に行き、しばらく坐した。主人の碁を見ると弟にひそかに攻められていたが[49]、主人はほかの所を気に掛けていて、気が付いていないようだったので、代わりに知らせてやった。主人はあたふたとして驚いているかのよう、やはり顧みなかったので、荘はさらに大声で叫んだ。「わたしに従わないのなら、完敗しますよ」。手で局を指さして告げると、陳氏兄弟は驚いて奥に走っていったので、燈は消えてしまった。荘はやむを得ず、家に戻ることにした。橋に着くと、また転び、起きがると、家に赴き、門を叩いたところ、門番は入れてくれた。荘が先ほど門を叩いたのに返事しなかったことで家僕を責めると、家僕は言った。「先ほどは聞こえませんでした」。
 荘が翌日家庭教師先に赴くと、灯明皿は床にあり、棋局はまだ残っていたので、恍然として夢のようであった。まもなく、主人は出てくると言った。「昨夜先生が去られた後、鬼が大きな声を上げ、火が消えてしまいましたが、ほんとうに怪しい事です」。荘が愕然として、碁を教えにきたことを告げると、主人は言った。「わたしたち兄弟は先生がまたいらっしゃったのを見ておりませぬ」。荘は言った。「一つ証拠がございます。わたしは貴宅の花園に行き、お産しているご夫人がいるのを見ました」。陳は笑って言った。「わたしの家に花園はなく、さような女はおりませぬ」。荘は言った。「書斎の裏手でございます」。荘はすぐに陳を引くといっしょに書斎の裏手に行ったが、小さな土の門があり、中には半畝の菜園があるばかり、西の隅には豚小屋があり、子豚六匹が飼われていたが、五匹は生きており一匹は死んでいたので、荘はぞっとして悟った。思うに橋を通って転んだ時、その魂はすでに外に出、後に転んだ時、魂は体に附いたのである。淫を戒めないなら、畜生道に陥るのである。

褐道人[50]
 国初、徳侍郎某は褐道人と親しかった。道人は相術に詳しく、公が某年に昇進する、某年に紅頂を得る、某年に雷撃に遭うと言ったが、徳公は半信半疑であった。後に昇進は言われた通りになったので、大いに懼れ、道人に雷に撃たれることを避ける方法を求めた。道人はことさらに難色を示し、再三頼むと、はじめて言った。「ただ一つ方法がある。おんみはその日に朝廷の一二品官十余人を誘い、前庁の大きな(かん)で車座になるのだ。おんみが真ん中に坐し、午の刻を過ぎれば助かるだろう」。徳公は言われた通りにした。
 その日になると、天気は清朗であったが、昼近くなると、黒い雲が起こり、風と雨がやってきた。雷鳴は轟轟として、落ちようとしては止むのであった。すると突然、家僕があたふたと報せてきた。「ご母堂さまが雷に捕まって中庭へ連れてゆかれてしまいました[51]」。徳公が大いに驚き、役人たちと急いで走って扶けにゆくと、霹靂が轟き、(かん)を撃ち砕いた。その中を見ると、大きな蠍がいたが、長さ二尺ばかり、母堂はもとより恙なかった。褐道人を捜したが、すでにいなくなっていたので、道人が蠍の精であったことがはじめて分かった。術で人を弄び、実はみずからを守るとは、智恵がなかなか優れている。雷がさらに優れていなければ、徳公はかれに利用されたことに気付かなかったであろう。

佟觭角
 京師の傅九という者が、正陽門を出て、とある巷を通ったが、路は狭く、人は多く、肩を触れ合わせながら進んだ。すると一人の男が正面からやってきたが、飛ぶように急いで走り、勢いはとても激しかった。傅は避けたが間に合わず、二人の胸がぶつかると、自分の体と合わさって一つになったが、にわかに体が水で濡れたかのように感じ、震えが止まらなかったので、急いで緞子屋に行って坐した。そして突然大きな声で「わたしの行く手を遮るとは、きわめて憎らしいことだ」と言い、みずからの頬を打ち、みずからの鬚を扱いた。家僕に迎えられて家に帰ると、夜通し騒いだ。ある人が言った。「活無常佟觭角という者なら治すことができるだろう」。招こうとしていると、傅九はすでにそれを知り、罵った。「銅觭角だろうが、鉄觭角だろうが恐くないぞ[52]」。
 まもなく佟はやってくると、目を怒らせて言った。「どこの鬼だ。こちらに来て人を害するとは。はやく白状しろ。本当のことを白状しなければ、おまえを(さすまた)に掛けて油鍋に落とすぞ」。傅は目を瞠って語らず、歯噛みしてがちがちと音をたてるばかりであった。その時、男女の見物人は垣のようであった。佟は鍋に油を注ぎ、柴を焚いて煎ると、手に銅の(さすまた)を持ち、傅の顔の上で回し、刺そうとする動作をした。傅ははたして震えおののき、自供した。「わたしは李四といい、鳳陽の人です。飢えと寒さに迫られ、他人の(つか)を盗掘し、人に捉えられそうになりました。その時は慌てていたので、鉄の鍬で捕縛を拒み、つづけて二人を傷つけました。罪に問われて斬罪となり、今日は縛られ菜市[53]へと赴くことになっていました。わたしは懸命にもがいて逃げてきましたが、この者に遮られたため、ほんとうに腹を立て、争ったのでございます」。佟は言った。「それならばはやく去れ。ぐずぐずするな」。(さすまた)に寄りかかって坐した。傅は大声で哭きながら言った。「わたくしは獄中で両脚が凍傷になり、歩くことができませんので、草鞋一足を賜わりますよう。それからどうか秘密にし、役所に知らせないでください。ふたたび捕らえにまいりますから」。傅家の人がすぐに草鞋を焼いてやると、地に伏して叩頭し、脚を伸ばして穿く動作をした。観ていた者はみな笑った。佟が「どこへ往くのだ」と尋ねると、「禍を逃れるには遠くでなければなりません。雲南に逃げようと思います」と言った。佟は言った。「雲南までは一万里だから、今日明日に着くことはできないぞ。途中できっと下役に捕らえられよう。わたしに従い、働いた方がよい。飯を食う場所を得ることができるだろう」。傅は叩頭してそれを願った。佟が嚢の中から黄紙の小さい符を出して焚くと、傅は地に倒れて動かなくなったが、しばらくすると甦り、尋ねても茫然としていた。その日は刑部の秋審[54]が行われたが、訪ねると、はたして墳墓発掘の犯人がおり、すでに梟首されていた。悪鬼は自分がすでに死んでいることに気が付いていなかったのであった。
 佟は年五十あまり、寡黙で眠ることを好み、眠ると三四日起きないことがしばしばであった。その家に行くと、幾重もの門の中には、一寸の塵もなかった。ふだん働いている者は、すべて鬼だということであった。

淘気
 永州太守恩公の(しもべ)は、年若くて狡賢く、淘気[55]と名付けられていた。書斎に伺候していると、簷の前を一点の蛍が飛んでいたが、光の大きさは鶏の卵ほどであったので、珍しいことだと思った。時に気候は暑かったので、裸で(とこ)に臥していたが、陰部でもぞもぞと物が動くのを感じたため、触って見たところ、蛍であったので、笑って言った。「こんなに小さな虫も、この物が好きなのか」。(ふすま)を引くと、体を覆って眠った。夜半、人が(ふすま)の中に手を伸ばしてきて、かれの陰を撫で、稜角(かりくび)を扱き、馬眼(あな)を抑えた。その時、寝返りを打とうとしたが、動くことはできず、誰かが媾いしにきているかのようであった。そしてしばらくすると、精が漏れてしまったのであった。
 翌日、体はすこぶる疲れていたが、目を閉じて楽しみを想いおこした。かれがふたたび来ることを望み、人には話さなかった。日が暮れると湯浴みして、裸で待った。二更頃、蛍火がまずやってきたが、光はますます大きくなっており、とても美しい女が、冉冉としてやってくるのを照らしていた。(しもべ)は大いに喜び、抱きかかえ、睦みあった。その姓氏を尋ねると、言った。「(わたし)は姓は姚といい、父某は、明末の知府で、この役所にいたことがございます。(わたし)は年が十八の時、思いを遂げられず、労咳になって死にました。生前は梨の花をとても愛しておりましたので、息絶える時、老母に頼み、この庭の梨の樹の下に葬ってもらいました。あなたが年若いのを慕い、近づいてきたのです」。(しもべ)はかれが鬼であることをはじめて悟ると、枕を取って投げ、大声で叫んで外に出、すぐに宅門[56]を叩いた。邸内の女たちは火事が起きたかと疑い、争って起きてくると門を開けたが、かれが裸であるのを見ると、みな進み出ようとしなかった。主人がみずから出てきて、叱りつけ、尋ねると、(しもべ)は事実を告げたので、朱砂を服するように命じ、袴を着けてやった。
 翌日、梨の樹の下を掘ると、はたして朱塗りの棺があり、開けて見ると、女の顔色は生きているかのようであったので、焼いて葬った。奴はそれから従順になり、狡賢くはなくなった。仲間は笑って言った。「人は鬼に遇うべきだ。淘気は鬼に遇い、淘気ではなくなった」。

白蓮教
 京山[57]の富豪許翁は、代々桑湖のほとりに住んでいた。新婦某を娶ったが、結納はすこぶる多かった。こそ泥の楊三という者は、一年あまり狙っていたが、翁はその子を送って入京し、新婦は妊娠し、付き添っているのは二人の(はしため)だけということを聞くと、夜に新婦の部屋に入り、暗い処に伏して伺っていた。
 三更過ぎになると、燈の光の下に一人の男が見えた。深い目にもじゃもじゃの鬚、黄の布袋を背負いながら、窓によじ上り、入ってきた。楊は「俺の仲間にこのような男はいないぞ」と思いながら、息を潜めて窺った。その男は袖から香一本を出すと、燈で焼き、二人の(はしため)の所に置くと、婦人が寝ている処に向かって喃喃と呪文を誦えた。婦人は突然躍り上がると、その人に向かって裸で長跪した。その人は嚢を開くと、小さい刀を出し、腹を剖き、胎児を取り、小さな磁器の罐の中に入れ、背負って出てゆき、婦人の屍は(とこ)の下に倒れた。楊は大いに驚き、外に出て後をつけ、村の入り口のとある旅店に着くと、抱きかかえ、大声で叫んだ。「宿屋さん、はやく来てください。妖しい奴を捕まえました」。隣人たちがやってきて、そのものの布袋を見ると、胎児の血がまだぽたぽたと滴っていた。人々は大いに怒り、鍬、鋤を持って撃った。その男は大いに笑い、まったく傷つかなかったが、糞を浴びせると、はじめて動くことができなくなった。
 朝になり、役所に送って拷問してもらうと、「わたしは白蓮教で、仲間はとても多いのだ」と言った。漢、湘一帯[58]の妊婦の死者は、すべてかれに殺されていたことがはじめて分かった。訴訟して、その人を凌遅にし、こそ泥に銀五十両を与えた。

桂の実を服して長生きすること
 呂hは嶺南司馬の職にある兄に従っていた。役所には古井戸があったが、夏の夜に涼んでいると、井戸の中で琤琤然と音がして、幾つかの紅い玉が上がってきた。弾棋[59]ほどの大きさだったので、宝があるかと疑った。翌朝、人を下ろして探らせると、年を経た桂の実数十粒を得たが、鮮やかな赤色で愛すべきものであった。hが戯れに井戸水で、一日七粒服したところ、七日で尽きた。するとにわかに強健となり、人参を服した者のよう、年は九十あまりまで生きた。

伊五
 披甲[60]の伊五という者は、背は低く、(かお)は醜く、軍官に気に入られなかった。貧しくて自活するすべがなかったので、ひとりで城を出ると、みずから縊れようとした。すると突然老人が飄然とやってきて、尋ねた。「どうして命を軽んじるのだ」。伊が事実を告げると、老人は笑って言った。「おんみは神気が非凡であるから、道を学ぶことができるぞ。書物をおんみに授けるが、一生の衣食は足りることであろうぞ」。伊はついてゆくこと数里、大きな(たにがわ)を渡り、蘆を切り開いて進んだが、路はたいへんくねくねしていた。小屋に入ると、そこに止まり、老人に従って教えを受けた。七日で術を修めると、老人と小屋は見えなくなった。伊はそれからはそこそこの暮らしをした。
 かれの同輩が大勢で食事しようとすると[61]、伊は難色を示さず、ともに酒楼に登った。五六人で心ゆくまで大いに飲み、計七千二百文を費やした。人々ははじめて支払いが難しいことを心配したが、突然黒い顔の男が楼に登ってきて、拱手して立つと言った。「伊五さまがこちらでお客を持てなしていることを知り、主人が酒手を差し上げよとのことでございます」。腰の包みを解くと銅銭を出して去った[62]。数えると、七千二百文あったので、人々は大いに驚いた。
 ともに市中を歩いていると、一人の男が白馬に乗り、急いで通り過ぎた。伊は歩みを早めて追いかけ、叱りつけた。「身に帯びている嚢をすぐに渡せ」。その男は恐れて馬を下りると、懐中から皮袋を出したが、形は半ば膨れた豚の膀胱のよう、伊に授けると去っていった。人々がどんな物なのか分からないでいると、伊は言った。「この中に貯えられているのは子供の魂だ。馬に乗っていた者は、往き来している游魂で、無数の人の魂をこっそりと攫っているのだ。わたしに遇わなかったら、また一人子供が死んでいただろう」。とある衚衕に入ると、西向きの家の中でわあわあと哭き声がしていた。伊が小さい嚢を取り、門の隙間に向かって拡げると、一縷の濃い煙が出て、その家の門の中へと射し込んだ。するとすぐにその家の人が「子供が蘇った」と言うのが聞こえた。涙は笑いへと変わった。人々はそれからかれを神と思った。
 おりしも某貴人の娘が(あやかし)に憑かれており、伊の名声を聞くと、礼を厚くして招いた。娘は部屋の中にいたがすでに伊が来ることを知っており、顔付きは悲しげであった。伊が部屋に入ると、女は部屋の隅に匿れ、熨斗を提げてみずからを守った。伊は上下をくまなく見ると、出てきて言った。「これは器物の(あやかし)ですから、今晩除いてさしあげましょう」。三更になると、伊は嚢中から一振りの小さい剣を出したが、切っ先は雪のよう、被髪跣足で、持って入ってくる、家僕たちは中庭の外で伺った。やがて室内からは叱咤する声、撃つ音、物が擲たれる音、罵り騒ぐ声が聞こえた。しばらくすると寂然として、女が叩頭哀願するのが聞こえるばかりであったが、それほどはっきりしなかった。伊が燈を持ってきてくださいととてもせわしく叫んだので、人々は下女を率い、燭を執って入った。伊は地上の一物を指し示すと言った。「これが祟っていた物です」。見ると、籐の夾膝[63]であった。薪を集めて焚くと、血は流れ、地に満ちた。

諸廷槐
 嘉定の諸廷槐の家には再婚した李姓の下女がいたが、突然鬼がかれの喉を扼して、「おまえの前の夫だ。わたしが病んだ時、茶や薬を求めたのに、おまえはしばしば無視したので、腹を立てて死んだのだ。冥王はわたしの寿命が尽きていなかったのに、虐待を受けて死んだのは、横死した者と同じだといい、受け入れようとしなかった。遊魂はさまよって、飢えと寒さを忍び尽くした。おまえがこちらで暖衣飽食しているのには、納得できない。おまえの喉を扼し、わたしといっしょに飢えを耐え忍ばせるとしよう」と称するのであった。廷槐は鬼に憑かれたことを知り、進み出て手ずから下女の頬を殴ると、鬼は痛いと叫んで逃れ去った。廷槐がその掌を見ると、鍋の煤のように黒かった。
 まもなく、鬼がまた騒いだので、廷槐はふたたび殴ったが、下女は懼れる色がなく、手も黒くならなかった。鬼は罵った。「おまえの家の主人が最初にわたしを殴ったときは、意表を突かれ、痛い思いをした。今回わたしはおまえの背骨の(あな)に隠れているから、手のひらでわたしを雷のように殴っても、恐くはないぞ」。そこで家僕たちが代わりに頼んだ。「奥さんは婦人の道を欠いていたに過ぎません。あなたのお世話は行き届きませんでしたが、あなたを殺す積もりはなかったのですから、報いるべき大きな仇はありません。それにあなたが生んだ子供を、奥さんが後添いと再婚し、あなたに替わって養わせたのも、良心があるといえましょう。すこし手を緩めて、いささかの飲食を摂らせてはいかがでしょうか」。鬼は承知した。妻は咽喉がすっきりし、たちまちご飯三碗を食らった。人々は鬼の心を動かすことができるのを知ると、言った。「主人があなたを済度してさしあげるのはいかがでしょうか」。鬼はまた承知した。そこで醮を設け、僧を招き、『往生呪』を誦えさせた。鬼は去るとふたたびやってきて言った。「和尚が度牒を渡さなければ[64]、わたしは転生できないぞ」。そこでいそいで焼くと[65]、鬼は去り、妻は安らかになった。
 騒いでいた時、主人の末っ子をもっとも畏れ、「この小さい若さまは頭に紅い光があり、将来かならず貴くなるから、会いたくない」と言うのであった。ある人が尋ねた。

「諸家の祖宗の功徳の結果か」

「違う、この人の家の陰宅[66]の風水のおかげだ」

「どうして分かるのだ」

「わたしは鬼の友人数人とともにいつも(つか)で人々の供物の残りを貰っているが、諸家の(つか)にだけは行こうとしない。土盛りの上に一筋の熱気があって、火のように噴き出しているからだ」。

王都司[67]
 山東の王某は、済寧の都司をしていた。とある日、夢みたところ南門外関帝廟の周倉[68]が来て言った。「帝廟を修理するなら、五千両を得ることができるだろう」。王は信じなかった。翌晩、ふたたび夢みたところ、関平将軍が来て言った。「うちの周倉はもっとも誠実で、人を誑かす者ではない。約束した五千両は、今、帝君の香案の下にある。夜中に燭を執ってくれば、五千両を得ることができるだろう」。王は喜ぶやら驚くやら、香案の下の地中に埋蔵金があって、自分が手に入れる運命なのかと疑い、その子を率い、皮袋を持ってゆき、入れるのに便ならしめた。
 廟に着くと、すでに夜明けであったが、香案の下で狐が眠っており、黒くて毛むくじゃら、両目には金の光が閃閃としていた。王は悟った。「関神がわたしに命じてこの(あやかし)を除かせようとしているのではあるまいか」。すぐにその子とともに縄で縛り、袋の中に入れると、背負って家に帰ろうとした。すると袋の中で人の声がした。「わたしは狐仙です。昨日はたまたま酔い、吐いて聖帝廟で眠り、神の怒りに触れたのです。神はあなたの夢枕に立ち、わたしを捕らえにこさせました。わたしにはもとより罪がありますが、わたしが千年修煉し、罪も小さいことを考慮し、わたしを袋から出した方が、おたがいに利益がありましょう」。王が戯れて「どのようにお礼して下さいますか」と尋ねると、「五千両を差し上げましょう」と言った。王は周倉、関平両将軍の言葉に験があったのだと思い、すぐに釈放した。
 するとたちまち、白い鬚の翁に変わったが、唐巾[69]飄帯[70]、言葉は温雅で、藹然として親しげであった。王は酒席を設けると、ともに過去未来の事を談じ、尋ねた。「都司はしがない役人ですから、五千両を得ることはできません」。狐は言った。「済寧は富豪がとても多いのですが、いずれも仁義を行う者ではありません。わたしはもっとも不肖な者を択び、かれの家に往き、磚を抛ち、瓦を打ち、かれに頭痛発熱を起こさせ、心胆を寒からしめるのです。かれはきっと符籙を求め、道士を招くことでしょう。あなたが往って『わたしは邪を除くことができます』と言い、花押を書き、空に向かって焚きさえすれば、わたしはすぐに反応して去り、またほかの家で騒ぎましょう。このようにして一月たてば、あなたは五千両を得ることができましょう。ただあなたは官爵は都司止まり、財産も五千両止まりです。それ以後は、みだりに求める必要はありません。わたしもおんみに報いた後、こちらから去りましょう」。
 まもなく、済寧城の内外で疫病が大流行し、鶏や犬が騒いだ。しかし王都司がやってくると、すぐに平穏になったので、五千両を得た。かれは二百両を喜捨して聖廟を修理し、周、関両将軍を祭った。病と称して故郷に帰り、今でもそこそこの暮らしをしている。

最終更新日:2007313

子不語

中国文学

トップページ



[1] 刑部尚書。

[2] 順治十八年の進士。

[3] 未詳。

[4] ここでは財貨の意。

[5] 原文「常覺胸中生意滿、須知世上苦人多」。未詳。とりあえずこう訓読し、金銭のことばかり考え、世の人を苦しめることを戒めた句であると解釈する。

[6] 布政使。

[7] 原文「我本漢陽孀婦、與呉狎昵、遂訂婚姻、以所畜萬金與至蘇州買屋開張布字號、訂明月日來漢陽迎娶」。「以所畜萬金與至蘇州買屋開張布字號」「明月日」が未詳。とりあえずこう訳す。

[8]布政使。

[9] 後ろの「唐配滄に「活無常」という言葉が出てくるが、生者でありながら、冥府のために働き、人の魂を取るものをこう呼んでいる。「活勾差」もそれと同義であろう。「勾差」は人を拘引する冥府の使者。「無常」も同じ。なお、「活無常」を「勾使」という旨『金壺浪墨』に見える。『金壺浪墨』王九「小説所載活無常、淮揚謂之勾使」。

[10] 従僕。

[11]殊L。銭塘の人。『清史稿』巻四百九十などに伝がある。

[12] 周京。銭塘の人。『清史列伝』巻七十一などに伝がある。

[13] 孤山の北にある亭の名。林逋が建てた。乾隆元年『浙江通志』巻四十・古蹟二参照。写真

[14] 国家文物事業管理局主編『中国名勝詞典』千十九頁参照。写真

[15] 安徽省の県名。

[16] 未詳だが、商人の家出身の生員ということであろう。

[17] 原文「歙縣紹村張長壽妻孫氏」。「紹村」が未詳。張長壽なる人物の字号であると解す。

[18] 正当な寿命。正義のために死ぬ命。非命の対。

[19] 原文「骰子房」。未詳。とりあえずこう訳す。

[20] 未詳だが、文脈からして人間ピラミッドのような曲芸であろう。

[21] 原文「見一鬼高逕尺」。逕尺」が未詳。とりあえずこう訳すが、「身の丈一尺」とは小さい。

[22] 銭塘県の山名。乾隆元年『浙江通志』巻九・山川一参照。

[23]銭塘県の寺名。乾隆元年『浙江通志』巻二百二十六・寺観一参照。

[24]浄慈寺の東にある橋名。乾隆元年『浙江通志』巻三十三・関梁一参照。

[25] 矢の射程半分ほどの距離。

[26] 原文「兩眼倒掛」。倒掛」は未詳だが、目が飛び出て下に垂れ下がっているのであろう。

[27] 観察は按察使。

[28] 江蘇省の鎮名。

[29] 原文「其叔坐轎過王府基」。王府基」が未詳。とりあえずこう訳す。

[30] 原文「牒我都」。「牒」は神への申し文。それを書いて告訴すること。

[31] 原文「今我牒限已滿」。「牒限」が未詳。宋生の申し文の有効期限ということか。とりあえず、そのように解す。

[32] 将来の嫁として、幼時から婚家に嫁入りする女子をいう。

[33] にがり。腹にはいると、口渇、腹痛などを引き起こして死ぬという。謝観等編著『中国医学大辞典』千九十二頁参照。

[34] 原文「適有總捕廳某路過」。「總捕廳」が未詳。とりあえずこう訳す。「捕廳」は州県の官衙で捕縛を担当する役人、吏目、典史などの総称。

[35] 儲麟趾。宜興の人。乾隆四年の進士。

[36] 君主が帝室、国家の大事を神明に告げること。

[37] 原文「宿搜敦郵亭」。搜敦」がまったく未詳。

[38] 原文「旅店燈花散彩」。未詳。とりあえずこう訳す。「燈花」は灯心の余燼が固まってできる花状のもの。

[39] 『漢語大詞典』は杜光庭『中秋衆修金籙齋』などの例を引き「蓮花形的蝋燭」とする。ただ、この詩は、文脈からして「その晩、旅の宿では燈花が光を放ち、たちまち変現し、蓮花のようになったり、如意のようになったり、芝蘭のようになったりし(是夕、旅店燈花散彩、倏忽變現、如蓮花、如如意、如芝蘭)」という状態を謳ったものに相違なく、だとすれば、蓮花は蓮形の燈花を指しているのではないかと思われる。

[40] 吟髭:詩を吟じる物の髭。

[41]儲麟趾にこの題名の詩があるのであろうが未確認。

[42] 兵部尚書。

[43] 前注参照

[44] 裘曰修。新建の人。乾隆四年の進士。

[45] 南京北部の景勝地。国家文物事業管理局主編『中国名勝詞典』三百五頁参照。写真

[46] 蒼い頭巾を被っている下僕。

[47] 『世説新語』傷逝「王濬沖為尚書令、著公服、乘軺車、經黄公酒壚下過」。

[48] 孝廉は挙人のこと。

[49] 原文「見主人棋為乃弟暗攻」。「暗攻」は未詳だが、碁の対局で、相手の気付いていないところを攻めることであろう。

[50] 未詳だが、褐衣の道人ということであろう。

[51] 原文「老太太被雷攝至院中」。未詳。とりあえずこう訳す。

[52] 原文「我不怕銅觭角、鐵觭角也」。「銅」と「佟」は同音。

[53]菜市口。現在の北京市宣武区の地名。刑場があったことで有名。

[54] 清代、地方の死刑囚を三法司で審議し、皇帝の裁断を仰ぐこと。

[55] 「腕白」という意味の言葉。現在でも用いる。

[56] 屋敷の入り口。

[57] 湖北省の県名。

[58] 漢水、湘水流域ということであろう。

[59] 遊戯名。『後漢書』梁冀伝「能挽満、弾棋、格五、六博、蹴鞠、意銭之戯」注「蓺経曰、弾棋、両人対局、白黒棋各六枚、先列棋相当、更先弾也、棋局以石為之」。

[60] 八旗の兵士。

[61] 原文「其同輩群思咀嚼之」。未詳。とりあえずこう訳す。

[62] 原文「解腰纏出錢而去」。「腰纏」は褡褳のような物入れであろう。褡褳は腰に巻き付ける袋状の物入れ。

[63] 器具名。竹や金属を編んだ籠状の物で、暑いときに、それに手足を乗せると涼しいという。

[64] 原文「和尚不付度牒」。とりあえずこう訳す。ただ、どうして鬼が和尚の度牒を求めるのかは未詳。

[65] 原文「乃速焚之」。未詳だが、和尚が度牒を焼いて与えるという趣旨に解す。

[66] 墓地。

[67]都司は官名。正四品官。

[68]実在の人物ではないが、『三国志演義』に登場する武将。関帝廟で関羽の脇士となっている。奇怪な容貌をしている。写真

[69] :『三才図会』。

[70] 襟、裾などに縫いつけられた細帯。周等編著『中国衣冠服飾大辞典』百七十三頁参照。

inserted by FC2 system