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第十四巻

 

勾魂卒
 蘇州の于姓の者は、蟋蟀合わせを好み、秋の夕になるたびに、盆を携え、葑門[1]の外に往き、蟋蟀を取り、薄暮にようやく帰るのであった。
 ある日、帰るのが遅くなり、城門はすでに閉ざされていた。于は驚いて為す術がなく、路傍を徘徊していた。見ると二人の青衣が遠くからやってきた。橐橐と靴音をたて、于に向かって笑いながら「今からどちらへお帰りですか。わたしの家はここから遠くはございません。わたしの家でお休みになられてはいかがでしょうか」と言った。于は喜んで従った。到着すると両の扉が大きく開かれており、室内には旧い本数部、磁器の瓶、銅の香炉が一つずつ置かれていた。于は手に蟋蟀十数盆を持ち、とてもお腹が空いていたので、燈に照らされながら坐していた。二人の青衣がそれぞれ酒と(ほじし)を持ってきて、向かいあって食らっていると、隠隠と病人が呻吟し、人々が騒々しくする声が聞こえた。于が事情を尋ねると、二人は「これは隣家で患っている者の病勢がとても差し迫っているからです」と言った。
 まもなく、五更になると、二人はひそひそ話をした。「仕事をしよう」。靴の中から文書一通を出すと、于に言った。「紙に息を吐きかけてください」。于はそのわけが分からなかったが、笑って従い、吐きかけると、二人の青衣は喜び、脚で屋上を跨いで舞った。長さは一丈あまり、すべて鶏の爪であった。于が大いに驚き、尋ねようとすると、二人は見えなくなり、壁の外では大きな哭き声が起こった。于は遇ったのが人ではなく、勾魂鬼であったことをはじめて悟った。
 夜明けになり、戸を啓いて出ようとすると、門は外からとても固く閉ざされており、出ることができなかったので、大声で叫んだ。喪家の人々は驚き、鍵を開けて入ってくると、賊だと思い、争い、殴った。于はくわしく事情を話し、蟋蟀盆を指さして証拠にすると言った。「こそどろをするのに、このような足手まといになる物を持ってくる者がありますか」。喪家の人にも知り合いがいたので、ようやく許された。食べた酒、(ほじし)(さら)(ふたもの)は、すべて喪家の物であったが、どこから持ち込まれたか分からなかったし、みずからもどこから入ったか分からなかった。

趙西席
 山東按察司白映棠[2]は、家に一人の西席[3]を招いた。姓を趙、名を康友といい、康熙丁卯の孝廉[4]、賓主師弟はそれぞれ仲が良かった。元宵に提燈が掛けられたとき、たがいに酒宴し、お開きになると、孝廉は書斎で寝に就いた。翌日昼近くになっても起きなかったので、童僕が戸の外から窺うと、孝廉は頭に紙花二本を挿され、両手を後ろで縛られ、口はかすかに笑み、目はななめに瞠りながら、裸で硬直して立っていた。童僕は大いに驚き、主人を呼び、戸を蹴って入ったところ、すでに死んでいた。胸には丸い穴があり、背に通じ、お碗ほどの大きさ、中の心臓、肝臓はなくなっていたが、何ものに取られたのかは分からなかった。花を挿し、後ろ手に縛り、衣を剥いだのは、牲牢[5]の姿のようにして、戯れたものであった。

楊四佐領[6]
 楊四佐領は、性格は実直で温和、年は四十あまりであったが、突然家人にこう言った。「昨晩夢を見たのだが、金の鎧の人がわたしの姓名を呼び、『第七殿閻羅王の缺を補う人がいない。南岳神はすでにあなたを上帝に奏聞し、まもなく集団で引見されるから、すぐに朝衣朝冠を作ってお召しを待つのだ』と言った。わたしが再三断ると、金の鎧の神は言った。『すでに保奏したから、元に戻すことはできないが、さいわい保奏された者があなたを入れて都合四人いるから、引見の時に上帝が採用せねば、陽寿はまだ絶えないかもしれぬ』。そう言うと去っていった。夢の兆はこのようなもので、決して偶然ではないから、家ですぐに朝衣朝冠を作って待つのだ」。家人はそれを聞いても、半信半疑で、針子を呼んで衣を作ってやらなかった。その晩、金の鎧の神がまた来て叫んだ。「新しい服を作るように命令したのに、怠ったのはどうしてだ。昨日玉旨がすでに降され、あなたを選んで閻羅にする、引見することはないとのことだ」。楊は目覚めると、いそいで家人にそのことを語り、意識を失って亡くなった。
 慣例では接煞[7]というものがある。その日になると、家人は慣習に従って儀式を行った。百戸[8]の胡姓の者は、晩に弔問しにきて[9]、楊の住む巷の入り口を通った。見れば高々とした提燈と旗纛の中に、蟒袍[10]で盛装した者がいたので、(まち)を巡回する察院[11]かと疑い、路傍に侍立していた。じっくり見ていると、楊が車中で大声で叫んだ。「胡某よ、恐れることはない。わたしは冥界に着任したが、一人の判官が欠けているから、あなたに助けてもらうとしよう」。胡は驚き懼れ、親が老いているのですぐに死ぬことはできないとみずから語った。楊は言った。「すでに上帝に奏聞したから、相談することはできない。あなたの親が老いていることは、わたしも知っているから、わたしの妹の夫張某に命じ、あなたに代わってお母さんを養わせよう」。そう言うと見えなくなった。
 胡は家に奔ってゆくと、弔問に行ったことを深く悔い、その母と相対しながら悒悒としていた。すると門を叩く者があり、銀一封を持ちながら、言った。「わたしは楊四佐領の妹の夫張某です。昨日、夢みましたところ、閻羅王に召され、あなたの家に生活費五十両を援助するように命じられました。閻羅が命じたことには、逆らうわけにはまいりませぬので、お贈りしにきました。すぐにお発ち下さい」。胡はみずからが死ぬことを悟り、外に出ると親戚友人に別れを告げ、三日後に亡くなった。

藍頂[12]の妖人
 揚州の商人汪春山は、家で梨園(やくしゃ)を養っていた。蘇州人の朱二官という者がおり、容色、技藝いずれも優れていたので、汪は徐寧門外の花園に住まわせていた。ある日、隣家で失火があり、火が庭園に及んだので、朱は逃げて巷に出た。巷の西では二人の美女が門に倚りかかりながら立っており、手招きしたので、朱はそこへ入っていった。二美人がみずから称するには、やはり姓を汪といい、春山の族妹[13]だとのことであった。話に耽っていると、豹裘で藍頂の者が来て、二美人の父だと言ったが、年は五十ばかり、朱に婿になるように強いた。朱は美しい娘は愛しているが、家が貧しいので、婚約することはできないとみずから訴えた。藍頂の者は言った。「構いません。一切の費用は、わたしがすべて負任しましょう」。朱が蘇州に戻って父母に告げようとすると、藍頂の者は言った。「蘇州にお帰りになることは結構です。うちの娘はあなたのお(かお)が気に入って結婚しようとしておりますが、不釣り合いであることを自覚しております。どうかわたしの甥春山に知らせぬようにお願いします」。朱は舟を雇い、ともに閶門[14]に行くと、その父に語った。父はもと大工であったので、やはり嫁を娶る資力がないことを理由に断った。藍頂の者は結婚の費用二十千文を援助したが、銅銭はすべて康熙通宝で、朱い絲で貫かれていた。
 二官がそれを携えて帰ると、数人の捕り手が尾行してきて、言った。「この朱い縄で貫かれた銅銭は某紳宦の家の圧箱銭[15]だ。おまえが盗賊であることは明らかだ」。捕らえてお上に送ろうとした。二官は事情を告げた。街中の人々は聚まってきてかれを観ると、(あやかし)だと思い、「藍頂の者を見たらおまえを釈放しよう」と言った。二官は言った。「わたしの岳翁(しゅうと)は銅銭をわたしに与え、今日結婚させることを約束しました。まもなく新婦の花轎[16]が来ますから、お待ち下さい」。人々はそうすることにした。はたしてはるかに鼓楽の音が聞こえ、四人の男が紅い半臂[17]で花轎を舁いできた。人々が騒ぎながらそこへ往き、簾を掲げると、青面獠牙[18]の者が坐していた。人々は大いに驚き、下役も奔って逃げた。二官は禍を逃れることができたので、いそいで家に帰ったが、藍頂の者が高々と堂中に坐しており、罵った。「事情を漏らさないように戒めたのに、人々に告げ、聚まってわたしを捕らえさせようとするとは。どうしてこのように良心に背くのだ」。杖を持ってこさせて打ったが[19]、二人の娘は許すように哀願した。結婚して一月たつと、ともに揚州に還った。
 さらに一年あまりたつと、二人の娘は酒盛りして二官に言った。「ご縁は尽きましたから、故郷にお還りください」。二官が承知せずに泣くと、二人の娘も泣いた。このようにすること数日、藍頂の者が突然やってきてその娘を急きたてた。二官は衣に縋って放さなかった。藍頂の者は怒り、手で二官を撮んで空中に擲ったので、意識を失って地に墜ちた。目醒めると、すでに虎丘の裏山にいた[20]

蒙化太守
 無錫の曹五輯は雲南蒙化の太守、その子某は、庚午の挙人、江蘇巡撫荘滋圃[21]の門生であった。乾隆二十一年、無錫では疫病が大流行したが、華剣光の子某はもともと善行を施すことを好んでいたので、古画数幅を出し、孝廉[22]に托して売らせることにし、頼んだ。「八百両を得て、この県の死人を埋葬する費用にしてください」。曹は蘇州に持ってゆくと、画を荘公に示した。荘は曹がしていることはもとより義挙であるし、画も佳いと思い、八百両を与えた。曹は帰ると、八十両を華に渡して言った。「代金はこれだけです」。華は仕方なく、苦労して金を補い、幾つかの棺を手に入れ、野外の死体を埋めたが、棺はなお足りなかった[23]
 まもなく、孝廉は病死した。太守は哀悼して止めず、東岳神で牒を焚き、みずからこう称した。「役人ぶりは清廉で、子に罪はなかったのですから、このような報いを得るべきではございません」。帰って仮眠したところ、青衣の人が東岳神の帖子を持ってきて招いた。大殿の外に行くと、神は階の下で迎えて言った。「お咎めになるのはご尤もですが、お子さんは近頃不肖の行いをされ、恩徳を施すことに吝かで、千百人の骨を野に晒しました。お信じになりませぬなら、お子さんの書斎に戻られ、(はこ)を啓いてご覧なさい」。そう言うと、人に命じて一人の囚人を擁してこさせたが、枷や鎖をがちゃがちゃいわせているのは、息子であったので、太守はかれを抱きかかえて哭いた。目覚めると、いそいで息子の書斎に往き、(はこ)を啓いたが、まだ七百余両が残っていた。しもべに詢ねたところ、画を売った代金を隠していた事が分かったが、息子の嫁も気が付いていなかった。太守はそれから子を悼む心がすこしく衰えた。

店主が借金を返すこと
 甘泉県の下役の鄒という者は、月夜に西門大街を通っていた。夜はすでに三鼓で、路行く人はなかったが、鄒が見たところ、槐の樹の下の小屋が開いており、一人の娘が門に倚りかかって立っていた。鄒が喫煙するために火を借りる者の振りをして近づくと、女は避けようとしなかった。鄒は喜び、女を連れて家に入ると、凳に坐してささめごとをし、翌日また往くことを約束した。翌朝訪ねると、槐の樹の下に住んでいる人はおらず、棺を安置した小屋があるのであった。窓の外から窺うと、条凳[24]はそっくりそのまま、凳の上の灰には二人が並んで坐った跡がついていたので、鬼に迷わされたことを知り、心は忽忽[25]として楽しまなかった。
 ある日の朝起きると、その妻に言った。「わたしに銀七両二銭を借りている人がいるから、取り立てにいってくる」。行ったきり返らなかった。翌日、表通りでがやがやと話すのが聞こえた。「某茶館で、男がお茶を飲んで急死した。茶館の主人がお上に報せた。検分したが変わったことはなかったので、店の主人に命じて棺を買わせ、納棺させ、遺族を呼んで確認させようとしているぞ」。妻がそれを聞いて見にいったところ、夫であった。主人に棺の値段を尋ねると、ちょうど七両二銭の数に合っていた。

許氏の娘が乳母に復讐すること
 杭州の許某は、塩を売るのを生業にしていたが、家では娘が生まれてわずか四十日で、突然全身が紅く腫れて死んでしまった。五日後、若い(はしため)にのりうつると、こう称した。「わたしはあなたの家の娘ですが、死ぬべき定めではございませんでした。実は乳母が良くなく、眠りを貪り、わたしを大庁の(きざはし)(ひさし)の下にほったらかしにし[26]、まったく世話しなかったため、近くの葬式を出している家に煞神がやってきたとき、それに触れて死んだのでございます。わたしは今から乳母の命を取ることにいたします」。許氏父娘はそれを聞くと、悲しんで泣き、告げた。「乳母は海寧の人だったが、おまえが死んだ後、去ってしまっている。どこへ仕返ししにゆくのだ」。女は言った。「身契[27]を取ってきて看せてくだされば、住所が分かりましょう」。言われた通りにすると、しばらく注視して言った。「お父さま、お母さまにはご苦労はお掛けしませぬ。わたしはみずから仕返ししにゆくことができます。紙の船一隻をわたしのためにお焼きください」。許家が焼いてやると、(はしため)は蹶然として起った。その後、乳母の生死を、許は尋ねにゆくこともなかった。

[28]
 雲南人は家々で蠱を養っている。蠱は金銀の糞をするので、利を得ることができるのである。毎晩、蠱を放って出せば、火の光は電のごとく、東西に散じて流れる。人々を聚めて騒ぐと、地に堕とすことができるが、蛇であったり、蝦蟆であったりし、種類も一様ではない。家々は争って小児を隠し、食われることを恐れる。蠱を養う者は特別に密室を造り、婦人に命じて食事を与える。男子を見るとすぐに腐るが、それは純陰の聚まったものだからである。男子を食べた者は金の糞をし[29]、女子を食べた者は銀の糞をする。これは雲南総兵華封がわたしに語ったことである。

人を毒殺して香火を得ること
 杭州の道士廖明は、お金を募って聖帝廟の塑像を立てた。開眼供養の日、城内、郊外の男女は蜂のように集まって香を供えた。するとたちまち一人の無頼漢がやってきて、昂然と聖帝の傍に坐し、像を指しながら侮った。人々が懸命に禁じると、道士は言った。「それには及ばぬ。あのもののしたいようにさせろ。きっと報いがあるだろう」。まもなく、無頼漢は地に倒れ、腹が痛いと叫び、転げ回ってやめず、死んでしまった。七竅からは血が流れていた。人々は大いに驚き、聖帝の霊威だと思った。香火は大いに盛んになり、道士はこれによって富を致した。
 一年後、その仲間は財貨の分け方が不公平だったため、出頭して言った。「昨年、無頼漢が神を侮りましたのは、道士がかれに賄し、あのようにさせたのでございます。かれが死にましたのは、道士がさきに毒酒を飲ませていたからでございます。無頼漢は知らなかったのでございます」。有司が発掘、検分すると、その骨ははたして青黒い色だったので、道士を誅したところ、聖帝廟の香火も衰えた。

科場二則
 江西の周学士力堂[30]が、癸卯の郷試を受けたときのこと、問題は「学びて優れば仕ふ」[31]であったが、文意が深奥で、房考の張某は句読することができなかったため、怒って抹消し、不合格にした。晩に、房考たちが寝るために帰ってゆくと、張はたちまちうわごとを言って止まず、みずからその頬を打って言った。「このように佳い文を、理解できず、厚かましくも房考をするつもりか」。みずから罵り、みずから撃って止めなかった。家人は中風だと思い、いそいで房考たちを呼んできた。検分すると、抹消された周の答案があったので、読んだところ、みなあまり理解できなかったが、「ためしに推薦してはいかがでしょうか」と言った。大主考は礼部侍郎の任公蘭枝[32]であったが、答案を閲すると驚いて言った。「このような素晴らしい文は、試験場を通じてないもので、多くの士人たちに冠たらしめることができよう」。おりしも副主考の徳公が文を閲するのに倦み、(つくえ)の上で仮眠していたが、かれが目醒めるのを待って、話したところ、徳公は尋ねた。

「何の字の号房[33]だ」

「男字第三号でございます」

徳は言った。「文を閲することはない。解元にすればよい」。任が事情を尋ねると、言った。「わたしがぐっすり寝ていると、たちまち金の鎧の神がわたしに向かって『あなたの第三のご子息が解元に合格なさいます』とお祝いを言った。今『男字三号』の答案を得たのは、まさにその(しるし)ではないか」。そう言うと文を閲したが、やはり大いに嘆賞を加え、この科の第一位に定めた。合格発表の後、人々は周の本房[34]某が夢の中でうわごとを言ったことについて尋ねたが、ぼんやりとして覚えていなかった。周は後に福建巡撫となり、南河[35]の総督となった。
 雍正丙午、江南の郷試の時、近くの省の甲科[36]を招き、分校[37]を司らせたが、いずれも若年の俊英であった。張壘[38]という者は、科挙に合格して久しかったので[39]、みずからを先輩であるとしていたが、性格はもっとも迂愚で、毎晩かならず香を焚いては、天に向かって「(わたくし)は年老いて学問が疎かになり、文を閲する任務には相応しくございますまい。試験の答案に佳い文があったり、その先祖が陰徳のある者であった場合は、神さまにはひそかにお知らせくださりますよう」と祈るのであった。房考たちはかれを愚かだと笑い、からかうことにし、細い竿を折ると、かれが燈下で答案を閲し、答案を擲つのを伺い、窓紙の外から竿を差し込み、その冠を持ち上げることを幾たびもした。張は大いに驚き、鬼神のお告げだと思い、すぐに衣冠を整え、空に向かって拝すると、さらに祈った。「この答案はほんとうに佳くないのですが、神さまがお知らせ下さいましたのは、きっと陰徳があるからでございましょう。もしそうならば、神さまには先ほどのように、わたしにご指示くださいますよう」。房考たちはますます笑い、かれがこの答案を棄てるのを待ち、また竿で冠を持ち上げた[40]。張はそれ以上答案を閲しようとはせず、その答案を捧げもつと、堂にまっすぐ上がったが、二人の主司はすでに就寝していたので、門を叩いて面会を乞い、深夜神が知らせたことを告げた。大主考沈公近思[41]はその答案を閲すると言った。「この文はとても佳く、合格させるに十分だ。神さまに教えられるまでもあるまい」。房考たちは口を噤んで話そうとしなかった。合格発表になると、この答案は合格となっていたので、みなは騒然として、笑いながら張に告げた。「わたしたちはあなたをからかったのですが」。張は色を正すと言った。「これはわたしがおんみらに弄ばれたのではなく、おんみらが鬼神に弄ばれただけだ」。人々も心服した。

狸が表兄[42]と称すること
 六合[43]の老梅庵には狸が多く、夜に出てきては人を迷わしていたが、窓の外でかならず人の(あざな)を呼び、表兄と称し、人が警戒して答えないと、そのまま去ってゆくのであった。夏姓の少年が庵中で読書していたときのこと、月夜に呼び声が聞こえたので、人かと疑い、窓を開けて返事した。見れば婦人が手招きしており、(かお)はすこぶる醜悪であったので、拒もうとしたが、抱きかかえられ、部屋に入れられ、下着を脱がされてしまった。婦人はさんざんその勢を吸い、精が尽きると去っていった。話に拠れば、その力はとても強かったので、自由が利かず、毛孔は腥く、通った処には、ことごとく余臭があり、一か月を経てはじめて散じたとのことであった。

陸大司馬の(つか)
 杭州の陸大司馬[44]の家が墓地を占っていた時のこと、その子某は風水師の言葉に従い、千両で清波門[45]外の土地を買った。穴を掘ると、棺があったが、作りはとても大きかった。親戚友人は旧い棺を動かさず、別に穴を掘るように勧めたが、陸は承知せず、言った。「わたしは大金で土地を買ったのだ。わたしの土地を占めようとするとは何者だ」。棺を掘りだして棄ててしまった。
 その晩、陸は病になり、みずからその頬を打ち、口では葛老太太と称し、こう言った。

「おまえはわたしの家を奪ったが、おまえの父が尚書だからか。わたしの息子も前明の侍郎なのだよ」。

「どなたでしょうか」

「葛寅亮[46]だよ。誼からいえば郷親[47]だし、科名[48]からいえば先輩だ。おまえの父を葬るために、わたしの骨を棄てるなら、おまえの父は安らかではいられまい」

陸大司馬の夫人が一家を率いて、泣きながら僧を呼び、斎醮させ、紙銭十万を焼くと、葛老太太は許そうとしたが、たちまち侍郎公の声になって「わたしの母の(つか)を壊したのだから、逃れることはできないぞ」と言うのであった。まもなく、今度は族祖梯霞先生[49]の口吻となり、間に立って取りなしたが、侍郎は結局承知せず、陸大司馬の命を奪って去った。
 鬼が祟った時、陸には親戚の舒十九という者がおり、翰林に選ばれたばかりで帰ってきていたが、傍で勧めた。「陸某は代金を払って(つか)を買ったのだ。奪おうとするとは何奴だ」。鬼は陸の声で罵った。「小わっぱめ、新たに官位を得たものだから、差し出口しようというのか。みずからの身を保つのは難しかろうぞ」。陸が亡くなって一か月あまり後、舒も亡くなった。

鬼が閉じ込められること
 上虞の県令邢某は、もともと妻と仲が悪く、口喧嘩してその頬を打ったので、妻は怒ってみずから縊れた。三日後、姿を現して祟ったが、邢が妾と臥しているのを伺い、冷風を吹いて帳を掲げたり、その燈を消したりするのであった。邢は怒り、道士を招き、呪文を誦え、方術を施し、鬼を東の廂房に捕らえ、護符で封じ、官印を加えさせたところ、鬼は来なくなった。
 まもなく、邢は銭塘に転任し、後任の者がやってくると廂房は開かれたため、鬼は出てきて、若い(はしため)の体に附いて相変わらず祟った。後任官は鬼を呼ぶと言った。

「ご夫人は邢公に怨みがありますが、若い(はしため)と関わりはありませぬのに、どうして悪さをなさるのでしょう」

鬼は言った。

「小間使いを殺そうとは思いませぬ。わたしはかれの体に附いてあなたにお願いするのです」

「何をお望みなのでしょう」

「わたくしを銭塘の邢某の処に送っていってください」

「ご夫人がみずから行かれてはいかがでしょう」

「わたしは横死した鬼で、道々河神に邪魔されますので、あなたが印文を用いて護送させなければなりませんし[50]、二人の下役に護送させることもお願いいたします」

「下役とは誰でしょう」

「陳貴、滕盛でございます」

二人は、いずれもすでに亡くなった下役であった。後任官は言われた通りにし、批文[51]を焚いて護送させた。
 邢公が寝室で晩飯を食べていると、その妾はたちまち地に倒れ、大声で叫んだ。「あなたはひどいお方です。わたしを死へと追いやって、東の廂房に閉じ込めて飢えさせましたね。すでに帰ってまいりましたから、あなたをただでは済ましませんよ」。それから、銭塘の署内は日夜不穏であった。邢はやむを得ず、ふたたび道士を招き、方術を施し、符を加え、印[52]を用い、銭塘の獄に封じさせた。鬼は去るに臨んで叫んだ。「あなたはひどいお方です。以前わたしを東の廂房に閉じ込めましたが、それでも家でございました。今回わたしはいかなる罪で、獄に入れられるのでしょう。あなたに仕返ししてやりましょう」
 一か月足らずで、獄で重罪人がみずから縊れ死んだので、邢は弾劾されて免官となった。かれは大いに懼れ、剃髪して僧になり、天下を雲遊することを誓った。同僚は資金を出して出家を助けたが、出発しないうちに病死してしまったのであった。

狐鬼が腹に入ること
 李鶴峰侍郎[53]の子鷁は、字を医山といい、辛巳の翰林、詩文に巧みで、宋儒の理学を好んでいた。燈下で読書していたところ、突然とても美しい二人の女がやってきて戯れたが、李は心を動かさなかった。まもなく、李が夕飯を終えると、突然腹の中で叫び声がした。「わたしは茄子に附きました。あなたは茄子を食べられましたがわたしを食べられたのです。わたしはすでにあなたのお腹にいますから、あなたはもう逃げられません」。燈下の女の声であった。李はそれから両目を瞠り、惚けたようになり、手でその頬をみずから打ち、大雨のときは、頭に石を頂いて雨の中に跪き、衣裳がびしょびしょになっても、中に入ろうとせず、人に対して膜拝[54]し、引いても起ちあがらなかった。顔色は黄に痩せて、日に日に衰えていった。
 鬼はつねに李の手書きの字を借りて人とやりとりした。李の同年の蒋君士銓は会いにゆくと、尋ねた。「お(かお)がとても美しいのに、どうしてわたしを誘いにこずに李君につこうとなさるのですか」。李は手ずから「縁がないのです(無縁)」という二文字を書いた。蒋はさらに尋ねた。「あなたは絶世の佳人ですのに、どうしてお腹の汚れた所にいるのでしょうか」。李は手ずから二文字を書いて「下司め[55]」と罵った。
 時に江西巡撫の呉公[56]は侍郎と親しくしていたが、李を招き、張天師を呼び寄せ、滕王閣に祭壇を設けてやった。(ものいみ)すること三日、呪を誦えること三日で、法官は牌を懸けると言った。「三月十五日に(あやかし)を捕らえましょう」。期日になると、見物人は垣のよう、天師は上座に着き、法官は傍に坐し、李を跪かせると、その口を開かせ、法師に向かわせた。法師が両指を伸ばしてその口に入れ、撮んで擲つと、猫のような小狐が口の中から出てきて、叫んだ。「姉さんのために様子を探って、捕まってしまいました。姉さんは出てきてはなりません」。腹の中からは「分かった」と返事があったので、腹の中にはまだ(あやかし)がいることがはじめて分かった。
 天師は符を甕に封じると、大江に投じた。李は心がややすっきりしたが、腹の中では大きな溜息の声がし、「わたしはおまえに宿世の怨みがある。おまえを捜し当てられなかったので、仙姑を連れていっしょに来たが、禍を与えてしまった。わたしは心がますます穏やかではないし、ますますおまえを許しはしない」と言い、腹の痛みは止まなかった。天師は法官に尋ねた。「李翰林を救うことはできるか」。法官は鏡を取ってその腹を照らすと言った。「これは翰林の前生の冤鬼で、(あやかし)ではございません。法籙で治すことはできません」。天師はそのことを中丞に告げた。中丞はどうすることもできず、李を家に送り還して養生させたが、亡くなってしまった。

(あやかし)が人の父だと偽ること
 李玉双孝廉の家の(はしため)は、名を春雲といい、すこぶる美しく、年は十五であった。李は妾にしようとし、その妻と話を着けた。春雲が白昼瓦の上を見たところ、一人の男が下りてきて、その髻を抱えて嗅ぐとこう言った。「お(ぐし)がとても香しいですから、たいへん貴くなられましょう。わたしに従われるべきで、主人に従われてはなりません。主人は住み込みの家庭教師をする貧乏儒者で、科挙に合格しても、教官で終わるだけです。主人に話し、わたしに譲らせ、酒肴を供えさせれば、わたしはお宅に婿入りしましょう」。玉双はそれを聞くと大いに怒ったが、どうすることもできなかった。その夜、(あやかし)はやってきて(はしため)と媾った。(はしため)は主人に酒肴を具えるように求めた。言われた通りにすると、日夜平穏であったが、そうしなければ、磚を飛ばしたり、瓦を擲ったり、あらゆる禍が起こるのであった。玉双はやむを得ず、人と謀ってこの家を人に買ってもらうことにした。玉双は望仙橋の施家の家庭教師をしており、いつも家にいるわけではなかった。ある日、商人の孫耕文が家を看にきたが、門を敲くと、ごましお鬚の老翁が灰鼠[57]の袍を着て出迎え、手を振って言った。「この家はわたしの先祖が遺したもので、売りに出してはおりませぬ。倅玉双のでたらめを信じられてはなりませぬ。勝手に売買すれば、将来訴訟に巻き込まれましょう」。孫は大いに驚き、走ってゆくと玉双に告げ、「ご父君がいらっしゃるのですから、ご子息は勝手なことはできませんぞ」と責めた。玉双は言った。「父は亡くなってすでに十余年になり、家にそのような老人はおりませぬ」。(あやかし)にからかわれ、父と誤認したことが分かったので、おたがいに大いに笑った。
 その後、人々は家に(あやかし)がいることを知ったので、しばしば売ろうとしてもうまくゆかなかった。玉双は(はしため)の父母に命じて娘を実家に連れ還らせ、身代金を求めないことにした。(はしため)は顔を傷つけたり、髪を剪ったりし、誓って帰ろうとしなかった。その母は(あやかし)に殺されることを慮り、縄で縛ると、車に載せて家に還り、別の士人に嫁がせたところ、(あやかし)は来なくなった。

p莢(さいかち)の下の二鬼
 丹陽南門外の呂姓の者は、p莢(さいかち)の園を持っており、とても大きな利益を得ていた。実を結ぶ時には、呂氏父子は番をして、盗まれるのを防いだ。ある晩月の(もと)、父が石に坐して樹を看ていると、樹の下の土の中から蓬髪が鬖鬖然と出てきたので、懼れて見ようとせず、その子を呼んで引きにゆかせた。すると紅い衣の女が闖然[58]と起きあがったので、父は驚いて地に倒れ、その子は狂奔して家に入った。女は追いかけ、表門に来ると、たちまち硬直して立ったまま動かなくなった。片足は門の外、片足は門の中にあった。子が大声で叫ぶと、家人は刀や杖を持ってすべて集まったが、その冷気が人を射るのを畏れ、みな近づこうとしなかった。女は悠然と起ちあがると歩き、身を屈めて(とこ)の下に入ると、見えなくなった。子は生姜湯を持ってきて、父を目覚めさせると、介添えして帰らせ、隣人を招いてともに(とこ)の下を掘ったところ、朱塗りの棺の中に紅い衣の女の屍があり、夜に見たもののようであった。その後、父子は園や樹を番しようとしなかった。
 三日後、p莢(さいかち)の樹の下にまた倒れている者があった。呂氏の子が目覚めさせ、事情を尋ねると、言った。「わたしは西隣のものですが、お宅のp莢(さいかち)がとても多く、番する人がいないのを見て、盗みにきたのでございます。ところが樹の下で首のない人がわたしを手招きしていましたので、驚いて地に倒れたのでございます」。その子がまた人を集めて掘ったところ、黒い棺があり、首のない屍が埋められていたが、すっかり硬直しており、腐ってはいなかった。聚めて焼いたところ、その(あやかし)は絶えた。

中山王
 江寧の布政司の役所は、徐中山王[59]の旧邸で、中には寧安殿[60]があり、中山王の像が祀ってあった。(つくえ)や椅子には、数寸の高さの灰が積もっていたが、拭かないのが慣例で、拭けば災があるのであった。帳幕[61]卓幃[62]は、すべて黄の綾で作られていた。乾隆四十年、方伯某が着任した日、すぐに参拝しにいったが、中山王は爵が貴いとはいえ、やはり人臣なのだから、帷幔が黄色なのは、たいへん僭越だろうと思い、紅い綾に易えるように命じた。その晩、火の光が照り輝いていたので、いそいで見にゆくと、帳や帷が、すっかり焼き尽くされていたが、几案はすこしも傷われていなかった。つぶさに調べたが火の気はなかったので、ぞっとして、黄色の綾に易えたのであった。

状元を抜貢にすることはできないこと
 状元の黄軒[63]がみずから語ったこと。秀才であった時、試験があれば高等になっていた[64]。乙酉の年、上江[65]の学使[66]梁瑶峰[67]はその才を愛し、抜貢[68]にすることを約束したが、受験の日、頭はぼんやりとして目は眩み、筆を握ったものの一字も書くことができなかった。梁はやむを得ず、休寧県の生員呉鶴齢を代わりにしたが、合格発表の後、病は突然治ったのであった。それからは功名を諦め、県の属官や州の判官になることができれば満足だと思っていた。三年後、連捷[69]し、廷試[70]の第一位になった。呉鶴齢は遠く溧水[71]で家庭教師をしていたが、傷寒病で亡くなり、貢生のままで終わった。

権量を謹む[72]
 方敏公が直隸の按察使を代行していた時のこと、饒陽[73]県民の妻侯蕭氏が奸通を拒んで殺された。周秋という者が疑わしかったが、狡猾で事実を白状しようとしなかったため、二年間事件は解決しなかった。公は案牘を閲して三鼓を過ぎ、坐して仮眠し、夢みたところ、一人の男が白い紙を持っていたが、下はェく、上は狭く、左の角が欠けており、真ん中には四角い孔、孔の下には「権量を謹む」の三文字があった。目覚めた後に、「周」の字は下がェく、左が欠けている、「権量を謹む」の三文字はすべて「土」の字が下にある、土の字を四角い孔の上に移すと、「周」の字になる、それに月令「権量を謹む」の三文字は秋政[74]だから、犯人が周秋であることは疑いないと考えた。そこで訊問したところ、すぐに罪を認めたのであった。この事は公の行状[75]に載せられている。

物忌み
 侍郎某は、生来物忌みすることが多く、人が「死」「喪」の二文字を口にするたびに、かならずくしゃみして音を散らし、路で(かりもがり)している柩を見ると、いそいで親戚友人の家に往き、衣や帽子を脱ぎ、数回叩き、不吉の気を他人の家で撒いたから、自分とは関わりないと思うのであった。また薛生白常が李侍郎[76]の家へ診察しにいったときのこと、早朝に往ったのだが、正午になるのを待ってはじめて出てきた。侍郎は顔を奥に向け、背を表に向け、二人の公子に介添えされながら、着席して脈を診させ、口で病気の原因を答えたが、絶対に振り返らなかった。薛は大いに驚き、その顔に悪疾があるので、客に顔を向けないのかと疑った。そのしもべに尋ねると、しもべは言った。「主人は(かお)はとても福々しく、悪疾はございません。このようにしておりますのは、今日は吉神がちょうど東におわしますので、背いて出ようとしなかったのでございます。また今日は辰巳に衝[77]がございますので、正午にはじめて出てきただけでございます」。

奇術
 康煕年間、成其範[78]は風角[79]に優れていた。三藩の乱のとき、成は中書[80]であったが、千里以上離れたところの用兵について、毎日上奏することには、不思議と(しるし)があったため、官位は理藩院侍郎に至った。いつも東華門の張参領の家の宴に赴いていたが、着席した後、たちまち冠と帯を脱いで(つくえ)の上に置くと、主人に言った。「お腹が痛みますので、厠へ行ってまいります」。門を出ると輿夫[81]を呼び、飛ぶように奔らせて帰った。輿夫が事情を尋ねると、手を振って言った。「わたしとおまえたちの三人は、今日禍に遭うことになっていた。わたしは行かないわけにはゆかなかったが、わざと衣冠を残して禍を鎮めたのだ[82]」。話していると、東華門の火薬局で火事が起こり、数十軒に延焼し、張参領の家はすっかり灰燼となってしまった。
 また計小堂という者がおり、妖言で人々を惑わし、黒龍江に流罪となった。旅店に着いたところ、食卓が狭く、護送人三人がいっしょに坐することができなかったが、小堂が手で引くと、たちまち卓は長さが三尺になった。下役は言った。「おまえはこのために罪を得たのに、まだ悔い改めず、このような悪さをするのか」。小堂は怒って起ちあがると、かれが乗っている馬を引き、塀の中へと送り込んだが、一本の尾だけが外で揺れているのであった。下役が哀願すると、その尾を抜いて出してやった。配所に着くと、某将軍と親しくしたが、ある日、たちまちやってくると、泣きながら「ご縁は尽きました。いつまたお会いできるかは分かりません」と言い、手を振って別れた。将軍は引き留めようとしたが叶わず、小堂は冉冉と空に昇って去っていった。将軍がすぐにかれの帳の中に訪ねてゆくと、すでに死んでしまっていた。

狐仙がみずから縊れること
 金陵評事街張姓の家の西にある書楼[83]三間には、縊れ死んだ鬼がいると伝えられ、人々は住もうとはせず、とても厳重に封鎖されていた。ある日、若い書生が衣冠を着飾ってやってくると、その家に仮住まいさせてくれと頼んだ。張が家に空室がないことを理由に断ると、書生は怒って言った。「貸さぬなら、勝手に住みにくるぞ。後日無礼があっても後悔するな」。張はその言葉を聞くと、狐仙であることが分かったので、偽って言った。「西側の書斎三間は、お貸しすることができます」。その部屋には鬼がいるので、狐仙が住んで鬼を除いてくれることをひそかに望んでいたのだが、口ではそのわけを言わなかった。書生は喜び、揖して謝すると去っていった。翌日、楼で笑いさざめく声がし、連日断えることがなかった。張は狐仙がすでに来たことを知ると、日々鶏、酒を調えて供えた。半月足らずで、楼上は寂然として音がしなくなったので、張は狐仙がすでに去ったのかと疑い、ふたたびその門を鎖そうとし、楼に上って見たところ、黄色い狐が梁でみずから縊れていた。

高白雲
 四川の高白雲先生は、名を辰といい、辛未の翰林、天文占卜の学に優れ、かつて岳大将軍の家で家庭教師となっていた。婁県の知事となり、星象[84]を観て、山東の雰囲気が険悪であることを悟ったが、その後はたして王倫[85]の事件があった。不遇であった時、乩仙を招き、一生のことを尋ねると、仙は「少時(せうじ)志業(しげふ)(みづち)(たに)(ひそ)み、老去(らうきよ)功名(こうみやう)(おほとり)(をか)(とど)まる」という詩を贈ったが、先生は理解できなかった。後に祠部[86]主事から鳳陽府同知に昇任したが、任地に到らないうちに、亡くなった。その子は棺を守って江寧に来ると、儀鳳門外に安置したが、乩仙の第二句の(しるし)であることがはじめて分かった。

梁観察の夢の(しるし)
 広東の梁兆榜観察[87]の一族某は、もともと仏教を信仰していた、妻が妊娠したとき、観音大士を夢みたところ、こう言った。「子が生まれたら、兆榜と名づければ、将来は三甲第八名の進士となろう」。目覚めると、男子を生んだので、夫婦はとても喜び、兆榜と名づけ、すぐに監生の地位を買ってやり、受験を待ったが、生長すると、異常に愚鈍で、字を覚えることができず、国子監に留まったままずっと合格しなかった。そこで族姪[88]とともに受験させたが、それがすなわち観察であった。はたして庚午、辛未に連捷し、会試では、侍郎双公の門生となった[89]。殿試を受けようとする時、双公が表聯[90]を読巻官[91]に送ってやろうとすると、観察は辞して言った。「門生(わたくし)はすでに夢の兆しがあり、三甲第八名の進士となることが決まっております。殿試の上位を、人の力で得るのは難しいでしょう」。双公は笑って信じなかった。殿試の合格発表があったが、二甲六十八名であったので、双公はますますそのでたらめを笑い、観察も夢はあてにならないのかと疑った。その試験では十巻が進呈[92]され、第一名は某相国の子であったが、皇上は改めて杭州の呉鴻[93]を選んで状元にし、二甲が八十名でたいへん多いのを嫌い、二十巻を分け、三甲に置くように命じたので、梁公は三甲第八名の進士になった[94]。双公は嘆いた。「『易』に『聖人は天に先んじて天は違はず』[95]というが、この言葉は本当だなあ」。

大胞人(おおふぐり)
 壬辰の二月、わたしが江寧県庁の前を通ったところ、路傍で一人の男が這っているのを見た。年は四十あまり、鬚があり、体や顔は縮んでいたが、背に肉の山を負うていた。その高さは頭頂を越え、黄色く膨脹しており、何なのかは分からなかった。じっくり見ると、小さな(あな)があり、陰毛に囲まれていたので、はじめて陰嚢であることが分かった。(ふくろ)は高く大きく、その体の二倍、曳きずりながら進んでも死なず、途で乞食していたのであった。

銭文敏公が辛稼軒[96]を夢みて生まれたこと
 銭文敏公維城[97]は、はじめ辛来と命名されたが、それは両親が辛稼軒を夢みて公を生んだからであった。改名した後は字を稼軒とし、夢の予言を留めていた。乙丑科の四か月前、合格発表を夢みたが、状元は李某、自分は探花で、榜眼は姓名が記されていなかった。後に合格発表があったが、公は状元になり、李某は二甲で、知県として用いられたのも、不可解なことであった。

鬼が人の腹に入ること
 焦孝廉の妻金氏は、占いする瞽者(めしい)が門口を通り過ぎたので、呼び寄せて試した。瞽者(めしい)が往事を語ったところ、よく当たっていたので、お金や米を贈って去らせた。その夜、金氏の腹の中で人の声がした。「師父さまは行ってしまいましたが、わたしは奥さんのお腹を借りて、とりあえず幾日か止まりましょう」。金氏は樟柳神[98]かと疑い、尋ねた。

「霊哥児[99]かえ」

「わたしは霊哥ではなく、霊姐です。師父さまはわたしにあなたのお腹で祟り、財帛を脅し取るように命じたのです」

そう言うと、すぐにその腸や肺を捻ったが、痛くて我慢できなかった。
 焦は百方手を尽くして瞽者(めしい)を捜したところ、数日後に(みち)で遇ったので、かれを擁して部屋に行き、禍を除いた後は百両を御礼にしようと約束すると、瞽者(めしい)は承諾し、「二姑よ、すぐに出るのだ」と叫んだ。このようなことを繰り返すと、中で返事があった。「二姑(わたくし)は出ませぬ。二姑(わたくし)は前生で姓を張といい、ある家の妾となりましたが、正妻某に苛められ、死にました。某は転生して金氏となりました。わたくしが師父に身を寄せて樟柳神となったのは、まさにこの仇に報いるためです。今、かれのお腹に入ったからには、命を取らねば出てゆきませぬ」。瞽者(めしい)は大いに驚くと「宿業であるならば、わたしは救うことはできない」と言い、逃げ去った。
 焦は護符を懸け、北斗を拝したが、まったく役に立たなかった。医者が来るたびに、腹の中の人は言った。「このものは藪医者だから、薬も役に立つまい」。そして喉に入れるに任せるのであった。あるときはこう言った。「このものは良医だから、薬でわたしを鎮めるだろう」。その喉を扼し、薬を吐かせるとおとなしくなるのであった。さらに言った。「おまえたちが下手に出るならまだ良いが、法術を使ってわたしを懲らしめようとするのなら、わたしはさきにこのものの心臓と肺臓を齧るとしよう」。その後、僧侶や道士を招こうとするたびに、金氏は一万の刃で心臓を刺されるかのよう、地に転がって哀号し、「わたしからこのような苦しみを受けながら、自殺しようとしないとは、命を大事にしすぎだな」と言った。
 焦は故彭芸楣侍郎の門生であった。彭は話を聞くと、上奏して瞽者(めしい)を誅しようとした。焦は話を広めようとせず、事件をうやむやにすることを求めた。金氏は奄奄として亡くなった。これは乾隆四十六年夏の事であった。

牛僵屍
 江寧銅井村の人が一頭の牝牛を飼っていたが、十余年でおよそ二十八匹の(こうし)を生んだため、主人はすこぶるその利を得ていた。牛が老い、耕すことができなくなると、牛を屠る者たちはみな買うことを申し入れた。主人は売るに忍びず、童僕に飼育させ、牛が自然に死ぬのを待って、土中に埋めた。その夜、門の外でぶつかる音が聞こえ、そのようなことが毎晩続いた、はじめは、あの牛だとは思わなかった。一月あまり経つと、祟りはさらに激しくなり、吼え声や蹄の響きが聞こえた。そこで村じゅうの人々はこの牛が(あやかし)になったかと疑い、発掘、検分した。牛の屍は腐っておらず、両目は閃閃として生きているかのよう、四つの蹄にはみな稲の芒が着いており[100]、夜間に土を破って出てきたもののようであった。主人は大いに怒り、刀を取ると四つの蹄を断ち、その腹を剖き、汚穢を注いだ[101]。その後は寂然としていたので、また土を掘って見たところ、牛は腐っていた。

袁州府庁の大樹
 江西袁州府庁の裏庭には、高さ十余丈の大樹があり、毎晩二つの紅い燈がその頂に懸かっていた。近づいて見ると、かならず泥と(すな)が抛たれ、春夏には蜈蚣(むかで)、蛇、蠍が落ちてくるので、人々は近づこうとはしなかった。乾隆年間、敏姓の者が来て太守となったが、その妖異を憎み、数人の(たくみ)を召し、刀、斧を持って樹を伐らせることにした。幕僚や妻子は、みな諫めたが、太守は心を動かさず、みずから胡牀に坐し、(たくみ)が樹を伐るように促した。すると樹の上から白い紙が落ちてきたが、数行の文字が書かれており、太守の懐に墜ちた。太守はそれを見ると、顔色を変えて起ちあがり、すぐに(たくみ)を追い払った。今でも大樹は残っているが、結局紙に何の言葉が書かれていたかは分からず、太守も絶対に人々に語らなかった。

燧人[102]が火を起こした樹
 四川の苗洞[103]は人跡未踏の地で、古木は万株、上も下も太さは数十囲、高さは千丈のものがあった。邛州の楊某は、貢木を採るため、みずからその地に行き、樹々の見立てをしたところ、きわめて大きな楠があり、枝葉は絡まって龍鳳の形になっていた。斧や鋸を施そうとすると、たちまち風雷が激しく起こり、雹が一斉に落ちてきたので、(たくみ)は懼れて仕事を止めた。
 その夜、刺史が夢みたところ、古の衣冠の人がやってきて、拱手して語った。「わたしは燧人皇帝が火を起こした樹だ。天地開闢の後、三皇が次々に起こり、一万余年、天下には水があるばかりで、火がなく、五行は不完全であった。わたしは君主や人民が生物(なまもの)を食べていることを憐れみ、身を捨てて世を救うことにし、燧人皇帝に木を穿って火を出させ、豊かな食事を作らせたのだ。まずはわたしの根元から穿ったのだが、今でも焼けた痕を証拠にすることができる。このような大功があるのに、わたしを鋸挽きにするのか」。刺史は言った。「神さまの仰ることはご尤もですが、神さまには(いさお)もあれば過ちもございます」。神は尋ねた。

「どうしてだ」

「生ものを食べる者は、胃腸に煙火[104]の気がないため、疾病は生じず、長寿なのです。水火が得られた後は、小さいものでは瘡[105]や痔、大きいものでは痰壅[106]が、火気に蒸されたり燻されたりして起こったため、神農黄帝は百草を嘗め、医薬を施して救ったのです。明らかに燧人皇帝以前は、民草は治療すべき病がありませんでしたが、火食した後は、寿命が短くなりました。それに下官(わたくし)は勅命を奉り、伐採をするのです。大木を手に入れなければ、復命することができません。どういたしましょう」。神は言った。「おまえの言うことも尤もだが、わたしは天地とともに生じたのだから、天地とともに亡びさせてくれ。わたしには三株の曾孫(ひまご)の樹があり、大きさは十頭の牛を蔽うほどだが、合わせて用いれば復命できるだろう。二株は性格が温順で、祭れば斧を入れることができるが、一株は性格が強情だから、わたしが諭して、はじめて伐採を受けるだろう」。
 翌日、言われた通りに祭壇を設け、鋸を施すと、まったく平穏であったが、川に運んでゆくと、たちまち風浪がはげしく起こり、一本の木が水中に沈んだ。大勢の人夫が曳いても、結局引き上げられなかった。

鬼が冷たさを怕れること
 揚州の羅両峰が語るには、自分は鬼を見ることができる、日が落ちる時は、路じゅうがすべて鬼である、富貴の家にはもっとも多いということである。おおむね人より数尺短く、顔はあまり識別できず、幾つかの黒い気が、傍を進んだり斜めに立ったりし、ぺちゃくちゃと喋るのが見えるばかりである。暖かい気を好み、人が多い処に聚まっているさまは、水草がくっつき合うかのようである[107]。揚子雲[108]は「高明の家、鬼はその室を()[109]」と言ったが、その言葉は尤もである。鬼は障壁、窓板があると、まっすぐに通り過ぎ、妨げがあると思わない。人と関わりがなければ、まったく悪さをしないが、顔を一目見れば[110]、怨みに報いたり、祟りをなしたりするのである。貧苦寥落の家には、鬼が往来することはとても少ないが、気が衰え、地が寒く、鬼も冷たさを喜ぶことができないからである。諺に「鬼も寄りつかぬほど貧乏だ」というのは、本当のことである。

鬼が人を避けるのは人が煙を避けるようなものであること
 両峰が言うには、鬼が人を避けるのは人が煙を避けるようなものだ、その気が厭わしいから避けるのであって、人であることを知って避けるのではない、しばしばいそいで走る人に横切られると、散じて幾つかの塊になり、茶を沸かすほどの時間で集まり、はじめて鬼になることができるが、その様子はすこぶる大儀そうであるということである。

蒜を売る(おきな)
 南陽県に楊二相公という者がおり、拳法に優れ、両肩に糧船[111]を担いで起きあがることができた。旗丁[112]数百人が篙で刺しても、触れれば、こなごなに折れて裂けるので、当時有名であった。弟子を率いて常州に教えにいったが、演武場に行って槍術や棒術を伝授するたび、観る者は垣のようであった。
 とある日、よぼよぼで傴僂(せむし)の、絶えず咳をしている、蒜を売る(おきな)が、傍で見ながらからかったので、人々は大いに驚き、走って楊に告げた。楊は大いに怒り、(おきな)を招いて前に来させると、拳で磚の塀を打ち、一尺ばかり陥入させ、傲然として言った。「このようなことができるか」。(おきな)は言った。「おんみは塀を打つことはできるが、人を打つことはできまい」。楊はますます怒り、罵った。「老いぼれめ、わしが打つのに耐えることができるのか。打ち殺されても怨むなよ」。(おきな)は笑って言った。「老いぼれは先が短いから、死んでおんみの名を成すことができるなら、死んでも怨まぬ」。大勢の人々を呼ぶと、誓詞を書き、楊に三日間気力を養わせた。
 老人はみずからを樹に縛らせると、衣を脱ぎ、腹を露わにした。楊はわざと十歩離れたところから勢いをつけると拳を奮って撃った。老人は寂然として声を出さなかったが、楊は両膝を地につくと叩頭して言った。「晩生(わたくし)が悪うございました」。その拳を抜こうにも、老人の腹に挟み込まれており、堅くて出すことができないのであった。しばらく哀願すると、老人は腹を膨らませて放したが、すでに石橋の外にまろび出ていた[113]。老人はゆっくりと蒜を負うて帰ったが、結局人々に姓氏を告げようとしなかった。

棺を借りて車にすること
 紹興の張元公は、閶門で布屋を開いていた。店員の孫某を招いたが、陝西の人、性来誠実でまめまめしく、経営すればかならず利益が三倍になったため、主従は仲が良かった。四年前後で、張のために財産十万両をもたらし、しばしば故郷に帰ることを願ったが、張はかたく引き留めて許さなかったので、孫は怒って言った。「わたしが死んでも、帰らせてくださいませんか」。張は笑って言った。「死んだら、みずから送り返してやろう。三四千里であろうとも、労は辞さぬよ」。
 さらに一年たつと、孫ははたして病が篤くなり、張が(とこ)の前に行き、身後の事を尋ねたところ、「わたしの家は陝西長安県の鐘楼の傍にあり、二人の息子が家に居ります。わたしとの旧い誼を思われるなら、わたしの柩を帰してください」と言い、すぐに息絶えてしまった。張は大いに哭き、以前しつこく引き留めたのは酷なことであったと深く後悔した。さらに十万の財産はすべてかれの助力によって得たものだから、約束を破って送らないわけにはゆかないと考えた。そこで香奠千両を用意し、棺を長安にみずから運んでいった。
 門を叩くと、長男が出てきた。父親が病死したことを告げ、涙を落としたが、息子は平然として、しもべを呼ぶと「爺さんの柩が帰ってきたから、(ひろま)の傍に安置しろ」と言っただけであった。哀しげな顔はせず、服も易えなかったので、張はひどく驚いて言葉もなかった。まもなく、次男が出てきて、張に向かって礼を言ったが、やはりさばさばとしてふだんのようであった。張は二人の息子はほとんど人間ではない、どうして孫某のような善人が、禽獣のような二人の息子を生んだのかと思った。
 驚嘆していると、その母が奥で叫んだ。「はるばる来られて、お腹がすかれたのではございませんか。酒肴をすでに調えましたが、惜しいことには、お相伴する者がおりませぬ。どういたしましょう」。二人の息子は言った。「張先生は、お父さまのお友達ですから、若い者がお相伴するわけにはまいりませぬ」。その母は言った。「それならば、おまえたちの死んだ父さんでなければだめだ」。二人の息子に命じて筵席を設けさせ、自分は大きな斧を持って出てきて、棺を砕くと罵った。「もう家に着いたのだから、馬鹿な真似をすることはないよ」。死者は大いに笑うと、棺を掲げて起きあがり、張に向かって拝謝して言った。「あなたはほんとうに誠実な人ですね。わたしを送り返してくださり、死んでも約束を破られないとは」。張は尋ねた。

「どうしてこのような狡いことをしたのだ」

「わたしが死ななければ、わたしを帰らせようとなさいましたか。それに車や馬は疲れますから、棺に臥している方が楽で良かったのです」

張は言った。

「病が癒えたなら、またいっしょに蘇州に往かないか」

「あなたは財産が十万両だけの運命ですから、わたしがまた行っても、利益を増やすことはできません」

張を三日泊まらせてから別れたが、結局孫がいかなる人かは分からなかった。

孫伊仲
 常州の孫文介公の玄孫伊仲は、江陰[114]に赴いて受験したとき、舟を野に泊めた。日が暮れようとする頃、路で古の衣冠の者に会い、尋ねられた。

「どこへゆくのだ」

「受験しにゆくのです」

その人は怒って言った。「功名富貴は、受け継ぐことができるのか。水源や木の根は、絶つことができるのか[115]。このことを知らないで[116]、受験してどうする」。そう言うと見えなくなった。伊仲はぼんやりとして夢みたかのよう、舟に帰ってゆくと、受験するのを止めようとしたが、仲間は行くことを勧めたので、やむを得ず、江陰へ行った。するととても劇しい瘧を病んだ。熱を出していると[117]、古の衣冠の者がまた来て言った。「おまえには父がなく、わたしには子がなく、風雨霜露に晒されているのは、哀しいことだ[118]」。伊仲はぞっとして、すぐに舟を雇って南へ帰った。この言葉を本家に告げると、文介公にはもともと子がなく、その同族を嗣子にしたこと、後にその家の子孫はすべて嗣子から出たこと、嗣子の墓は長いこと所在が知れないことをはじめて知った。趙恭毅公[119]の孫である刑部郎中の某が代わりに消息を訪ねたところ、墓は沈氏に占められていたので、資金援助して買い戻しの交渉をしてやった。それは乾隆四十三年の事であった。

最終更新日:2007412

子不語

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[1] 江蘇省呉城県の東門。

[2] 乾隆二年から四年、山東按察使。

[3] 家庭教師。

[4] 挙人。康熙丁卯は二十六年。

[5] 生贄の牛、羊、豚。

[6] 武官名。

[7] 浙江杭州の風俗。人が死んで三日目に、道士を呼び『度人経』を誦え、死者の部屋を掃除し、生卵、鉄屑、小豆を門の外に撒き、厄除けをするという。葉大兵等主編『中国風俗辞典』二百八十二頁参照。

[8] 軍官名。

[9] 原文「晩来臨奠」。「臨奠」は未詳。とりあえずこう訳す。

[10] 写真

[11] 都察院。

[12]未詳。頭の天辺が藍色ということか、藍玉の頂子の帽子を被っているものということか。とりあえず、後者の意に解す。頂子は帽子の天辺の飾り、藍玉の頂子は三品官のもの。頂子の写真

[13] 同族で、同世代で、年下の女子。

[14] 蘇州の中心部、各方面からの運河が交わるところ。また、蘇州の別称。現在の閶門の写真

[15]圧櫃銭か。圧櫃銭は新婦が新郎の家にはいるとき、新郎の家の入り口に置き、新婦に取らせる銅銭という。葉大兵等主編『中国風俗辞典』百二十三頁参照。

[16] 写真

[17] 袖の短い上着。周等編著『中国衣冠服飾大辞典』二百二十七頁参照。

[18] 『漢語大詞典』は獠牙は「長い牙」の意だとする。

[19] 原文「呼杖杖之」。「呼杖」は杖を持ってこいと叫ぶことであろう。

[20] 原文「已在虎丘後山」。「虎丘後山」は未詳。とりあえずこう訳す。

[21] 荘有恭。番禺の人。乾隆四年の進士。乾隆十六年から二十一年まで江蘇巡撫。

[22] 挙人。ここでは曹五輯の息子のこと。

[23] 原文「餘棺猶有待也」。未詳。とりあえずこう訳す。

[24] 背もたれのない長い腰掛け。

[25] ぼんやりしたさま。

[26] 原文「將我放在大廳階簷下」。階簷」が未詳。とりあえずこう訳す。

[27] 人身売買契約書。

[28]『文選』苦熱行「今沙射流影、吹蠱痛行暉」注「顧野王輿地志曰、江南数郡有蓄蠱者、主人行之以殺人、行食飲中、人不覚也。其家絶滅者、則飛遊妄走、中之則斃」。

[29] 原文「食男子者糞金」。訳はこれで間違いないのだろうが、すぐ前の「(蠱が)男子を見るとすぐに腐る」という記述と矛盾する。

[30]周学健。新建の人。雍正元年の進士。乾隆八年から十一年まで福建巡撫。

[31] 『論語』子張。

[32] 陽の人。康煕五十二年の進士。

[33]号房は科挙の受験者が答案を作成する独房。千字文によって番号が振られている。

[34] 試験官。

[35] 清代、漕運総督の治めた地域をいう。

[36] 進士。

[37] 科挙の答案の査読。

[38]の誤りであろう。天津の人。雍正二年の進士。

[39] 原文「科分既久」。科分は科挙に合格してからの年数。

[40] 原文「復挑以竿」。「冠」という言葉を補って訳す。

[41] 仁和の人。康煕三十九年の進士。

[42] 姓の異なる従兄。

[43] 江蘇省の県名。

[44] 大司馬は大学士。

[45]杭州城の東側の門の一つ。暗門。

[46] 銭塘の人。万暦二十九年の進士。

[47] 同郷人。

[48] 科挙合格者としての名。

[49] 陸堦。平湖の人。乾隆元年『浙江通志』巻百七十八に伝がある。

[50] 原文「非公用印文關遞不可」。關遞」は未詳。とりあえずこう訳す。「印文」は公文。

[51] 指令文。

[52] 道教の法器。魔除けに使う。胡孚琛主編『中華道教大辞典』六百五十七頁参照。

[53] 李因培。晋寧の人。乾隆十年の進士。

[54] 額のところで合掌し、跪拝すること。

[55]原文「下足」。許宝華主編『漢語方言大詞典』下足の条に江蘇、浙江、河北などで「下賤」の意なりと。

[56] 呉紹詩。乾隆三十一年から三十四年まで江西巡撫。

[57] チンチラ。写真

[58] 頭を突き出すさま。

[59] 徐達。濠の人。明建国の功臣。

[60] 未詳だが、神像を安置する殿舎であろう。

[61] 幕。

[62] テーブル掛け。

[63] 乾隆三十六年の状元。休寧の人。

[64] 原文「屢試高等」。学校では、生員を対象に、勉強ぶりを見るための学校試が行われ、生員は五段階評価される。宮崎市貞『科挙史』第二章第一節第七項生員参照。

[65] 安徽省のこと。

[66] 学政使。

[67] 梁国治。会稽の人。乾隆十三年の進士。

[68] 学政使によって選抜され、北京の国子監で勉学することを許されるもの。宮崎市貞『科挙史』(平凡社東洋文庫版)百十九頁参照。

[69] 郷試に合格し、そのすぐ後の会試でも合格すること。

[70] 殿試のことであろう。科挙の最終試験。廷試は貢生選抜の最終試験だが、文脈に合わない。

[71] 江蘇省の県名。

[72] 『論語』堯曰。権量ははかりとます。

[73] 河北省の県名。

[74] 秋に行われるまつりごと。『礼記』月令「是月(訳注者注:仲秋)也、日夜分、雷始收聲、蟄蟲坏戸、殺氣浸盛、陽氣日衰、水始涸、日夜分、則同度量、平權衡」。

[75] 人の一生の履歴を記した文。

[76]侍郎某と同一人物であろう。

[77]衝剋のことであろう。陰陽家の用語。陳永正主編『中国方術大辞典』三百三十四頁参照。

[78] 楽安の人。順治十八年の進士。

[79] 占いの一種。四方の風を伺い、吉凶を占う。

[80] 文官名。従七品官。

[81] 輿を担ぐ人。

[82] 原文「我不敢不到、故留衣冠以厭之」。厭」は「厭勝」のことで、禍を鎮める呪いをすることであろう。この文、張参領の家で禍に遭う運命だったが、衣冠を身代わりにして逃れたことを述べているのであろう。

[83] 蔵書楼。

[84] 天文。

[85] 『清史稿』高宗本紀・乾隆三十九年「九月乙卯、山東壽張縣奸民王倫等謀逆、命山東巡撫徐績勦捕之。丁巳、命大學士舒赫コ赴江南、同高晉塞決口。戊午、上回駐避暑山莊。命舒赫コ先赴山東勦捕王倫。庚申、命額駙拉旺多爾濟、左章京及健鋭、火器二營兵、往山東會勦%都御史阿思哈帶侍王倫。辛酉、王倫圍臨清、屯閘口。壬戌、上送皇太后回鑾。癸亥、以天津府七縣旱、命撥通倉米十萬石備賑。丙寅、上自避暑山莊回鑾。丁卯、山東兗州鎮總兵惟一、コ州城守尉格圖肯以臨陣退避、處斬。庚午、以江蘇山陽等四縣水災、命免明年額賦。壬申、上奉皇太后還京師。丙子、山東臨清賊平、王倫自焚死」。

[86] 礼部。

[87] 鶴山の人。乾隆十六年の進士。観察は按察使。

[88]自分より一世代下の一族の男子で子以外のもの。

[89] 試験官双公によって合格させてもらったということ。科挙の合格者は自分が合格した試験の試験官に対して「門生」と称する。

[90] 未詳。上表文の類と解する。

[91] 殿試の試験官。

[92] 読巻官が、優秀な答案を十巻選んで、天使に進呈すること。宮崎市貞『科挙史』(平凡社東洋文庫版)百七十四頁参照。

[93] 仁和の人。乾隆十六年の状元。

[94] 乾隆十六年科では、第一甲三名、第二甲七十名、第三甲百七十名であった。

[95] 原文「聖人先天而天不違」。『易』乾「夫大人者與天地合其コ、與日月合其明、與四時合其序、與鬼神合其吉凶、先天而天弗違」。

[96] 辛棄疾。宋の人。詞人として著名。

[97] 武進の人。乾隆十年の進士。

[98]樟柳神に関しては『履園叢話』雑記下・樟柳神に記述があるが、小さな木偶で、占いをするときに使うらしく、ここの文脈には合わない。『履園叢話』雑記下・樟柳神「今呉越間所謂沿街算命者、毎用幼孩八字呪而斃之、名曰樟柳神、星卜家争相售買、得之者、為人推算、靈應異常、然不過推已往之事、未来者、則不驗也。乾隆甲辰七月、有隣人行荒野中、聞有小兒聲、似言奈何、傾聴之、又言奈何、乃在草間拾得一木小人、即星卜家之所謂樟柳神也」

[99] 後ろに出てくる「霊姐」とともに、固有名詞か普通名詞か未詳。

[100] 原文「四蹄爪皆有稻芒」。未詳。とりあえずこう訳す。

[101] 原文「以糞穢沃瀦之」。」は未詳。とりあえずこう訳す。

[102]最初に火を起こしたとされる人物。『韓非子』五蠹に見える。

[103] 洞は南方少数民族の部落。苗洞は苗族の部落。

[104] 医学用語ではないようである。文字通り煙や火の気ということであろう。

[105] 瘡瘍。腫瘍、潰瘍など。謝観等編著『中国医学大辞典』八百九十八頁参照。

[106]痰壅遺精という病名があり、これのことか。謝観等編著『中国医学大辞典』千四百三十一頁参照。

[107] 原文「如逐水草者然」。未詳だが、訳文の趣旨であろう。

[108] 楊雄。

[109] 楊雄『解嘲』。「高明」は富貴の意。

[110] 「人間が鬼の顔をすこしでも見ると」と言うことであろう。

[111] 穀物運搬に用いる舟のことであろうが、肩に担げるくらいの大きさなのかは未詳。

[112] 漕運を司る兵。緑旗から選ばれた。

[113] 主語は楊。

[114] 江蘇省の県名。

[115] 原文「功名富貴、可襲取乎。水源木本、可終絶乎」。趣旨が未詳だが、功名富貴など代々受け継げるものではないから得ようとするのはよせ。先祖のことは忘れるべきではないぞ」という趣旨であろう。

[116] 原文「此之不知」。未詳。とりあえずこう訳す。

[117] 原文「莽熱時」。未詳。とりあえずこう訳す。

[118] 原文「爾無父、我無子、風雨霜露、哀哉傷心」。趣旨未詳。とりあえずこう訳す。

[119] 趙申喬。武進の人。康煕九年の進士。

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