第十三巻

 

関神が乩[1]に下ること
 明末、関神が乩壇に下り、某士人の一生に批語を加えて、「官位は都堂[2]に至るが、寿命はわずか六十であろう」と言った。後に士人は及第し、官位ははたして中丞[3]に至った。国朝定鼎[4]の後、その人は降伏を乞うた。昇任や転任はなく、齢はすでに八十になっていた。祭壇に行くと、関帝がまた降りてきた。その人は自分はきっと陰徳があったため、寿命を延ばすことができたと考えたので、跪いて神を招くと、「官爵は(しるし)がございましたが、今や寿命は過ぎております。長寿であることを、神さまもご存知なかったのでしょうか」と言った。関帝は大書した。「それがしは平生忠孝の人を相手にしておる[5]。甲申の変の時、おまえは自殺しなかったから、それがしとは関わりがない」。指折り数えると、崇禎殉難の時は、まさに公が六十歳の時であった。

太歳[6]、煞神[7]に遇い、禍福がそれぞれ異なること
 徐壇長[8]侍講[9]が不遇であった時のこと、都に赴き、会試を受験したが、厠へ行くと、大きな肉塊があった。全身に眼があったので、太歳であることが分かった[10]。侍講は某書に「太歳を鞭うつ者は禍を逃れる」[11]とあったのを思いだし、大きな棍棒を取ると家丁とともに順番に撃った。一箇所を撃つたびに、全身の眼はますます瞬いたが、その年に進士となった。蒋文粛公[12]の家で井戸を開いたところ、肉一塊を得たが、四角くて卓のよう、刀で刺しても入ってゆかず、火で焼いても焦げず、蜿蜒として動き、ゆっくりと水になった。その年、文粛公は亡くなった。任香谷[13]宗伯[14]が不遇であった時、畦道を歩いていたところ、口に一本の刀を含み、両手で二本の刀を持ち、ざんばら髪で赤ら顔の男が、身を屈めてやってくるのに出遇った。宗伯は行くこと半里足らずで、赤ら顔の男が喪家に入るのを見たので、煞神であることが分かった。宗伯は後に及第した。蘇州の唐姓の者は、孝子坊[15]を立てたところ、たちまち(ころも)(かぶりもの)の中から、胡桃ほどの大きさでの「」の字が書かれた白い紙の帖子を得た。その年、その家では死んだ者が七人あった。

帰安の魚怪
 俗伝では、張天師は帰安県を通らないといわれている。前朝の帰安知県某は、着任して半年、妻とともに寝ていたところ、夜半に門を撞く音が聞こえた。知県は起きて見にゆくと、まもなく、(とこ)に上がってきて妻に言った。「風が門を掃っただけだ。ほかに変わったことはなかった」。その妻は自分の夫だと思い、ともに臥した。その時、夫の体に腥い臭いがしたので訝ったが口には出さなかった。しかしそれから帰安は大いに治まり、訴訟があれば、判決は神のようであった。
 数年後、張天師が帰安を通ったところ、知県は迎謁しようとしなかった。天師は「この県庁には妖気がある」と言い、人を遣わして知県の妻を召させると、尋ねた。

「某年月日の夜に門を撞かれた事を憶えていますか」

「はい」

「現在のご亭主は、おんみのご亭主ではなく、黒魚の精なのです。おんみの前のご亭主はすでに門が撞かれた時に食べられてしまったのです」

妻は大いに驚き、すぐに天師に復讐することを求めた。
 天師は祭壇に登り、方術を行い、大きな黒い魚を得たが、その長さは数丈、祭壇の下に俯伏した。天師は言った。「おまえは斬られるべき罪だが、知事をしていた時に善政を行ったことをとりあえず考慮し、死ぬことだけは免れさせよう」。大きな甕を取ると魚を閉じ込め、符でその口を封じ、大堂[16]に埋め、土で公案[17]を築いて鎮めた。魚が哀れみを乞うと、天師は言った。「ふたたびこちらを通ったときにお前を許そう」。しかし天師はそれから二度と帰安を通らないということである。

張憶娘
 蘇州の名妓張憶娘は、容色と技藝が冠絶しており、蒋姓の者とふだんから親しくしていた。蒋はもともと大家(たいけ)で、花の(あした)に月の(ゆうべ)、憶娘とともに観音[18]、霊岩[19]などの山に遊ぶと、かならず轡を並べて進んだ。憶娘はもともと聡明で、蒋に身を托そうとしていたが、蒋は姫妾がきわめて多く、それほど心を向けなかったので、徽州の陳通判という者に終生を托した。陳が憶娘を家に娶ると、蒋はふたたび交わることができないために、大いに怒り、百方手を尽くして離間し、偽って奸拐[20]であると訴えた。憶娘はやむを得ず、得度して比丘[21]となり、衣食はなお陳に頼っていた。蒋はさらに人を遣わして脅迫させ、仲を絶ったため[22]、憶娘は貧窮し、みずから縊れて亡くなった。
 まもなく、蒋は朝に粥を食べていたところ、たちまち頭がくらくらして息絶えた。とある役所に行くと、二人の弓丁[23]が介添えして進んだが、傍で人が叫んだ。「蒋某さま、あなたのことは六年後にはじめて訊問されますのに、どうして急にこちらにいらっしゃったのでしょう」。叫んだ者の顔を見ると、ふだん蒋の家で奔走していた男、かつて憶娘を離間するのに使われていた者で、死んでから三年がたっていた。蒋は目覚めたが、それからは精神は恍惚として、飲食を摂ることはなかった。
 玄妙観の道士張某は、法術に精通していたので、祭壇を築き、呪文を誦え、お祓いをしてやった。三日後、道士は言った。「冤魄[24]がすでに来たが、わたしはその姓氏を知らない。試みに大きな鏡を取り、澄んだ水を掛ければ、一人の娘が姿を現すはずだ」。家人を召して見たところ、さながら憶娘のようであった。道士は言った。「わたしが力で制することができるのは、妖怪狐狸の類だ。今回は男女の怨みによる禍だから、わたしが祓えるものではない」。衣を払うと去っていった。蒋は憶娘のために七昼夜の法事を行い、済度しようとしたが、結局祓うことはできなかった。蘇州の名医葉天士を招くと、千両を贈った。薬が口に届かないうちに、纖纖たる白い手がそれを覆ったり、理由なくみずから地に撒いたりするのであった。蒋は病がますます悪くなり、六年で歿した。
 蒋氏の従孫[25]漪園は、今なお憶娘の小さな肖像を所蔵している。烏紗髻を戴き、天青[26]の羅裙を着け、眉目秀媚、左手で花を(かざ)しながら笑っているもので、当時の楊子鶴[27]の筆であった。

流星が南斗に入ること
 蘇松道[28]の韓青岩は、天文に通じていたが、かつてわたしに語った。「宝山[29]の県令をしていた時、六月に蝗を捕らえるため、野中の田圃に行きました。四鼓に起き、胡牀[30]に坐り、書吏を指揮していたとき、客星[31]が南斗に飛び込むのを見ましたが、占験[32]の書に『この災を見た者は、一月以内に急死する。髪を一寸ばかり剪り、東西に三周禹歩すれば、禍を他人に移すことができる』とあったのを思い出しました。その時、わたしはすぐさま書吏を遠ざけて、法式通りにしました。まもなく、署内で書記をしていた李某が理由なく小刀で割腹して死にましたが、わたしは無事でした。李はわたしが答案を推薦した門下生で[33]、若くして文が上手でしたが、わたしのために身替わりになったので、残念に思っています」。わたしは戯れて韓に言った。

「占験の術は効き目があると仰いますが、わたしたちなどは天文をまったく知らず、しばしば夜に腰掛けながら、流星がたいへん多く行き来するのを見ています。南斗に入るものがあったときは、厭勝[34]の方法を知りませんが、どういたしましょう」

「あなたたち天文を知らない人は、流星が南斗に入るのを見ても、害はありません」

わたしは言った。「それならおんみも天文を知ることはございますまい。余計な事を知っているため、みずからに禍したり人に禍したりするのでございましょうか」。韓は大いに笑い、答えることができなかった。

楊妃が夢に現れること
 康煕年間、蘇州の汪山樵先生諱は俊は陝西興平県知事に選ばれ、馬嵬駅に宿った。一人の女を夢みたが、容貌は絶世で、明璫[35]翠羽[36]の出で立ちで、牒を投じると言った。「(わたくし)の墓地が人に侵されておりますので、明府さまには哀れんでお察しくださいますように」。汪が目覚めて、土人に詢ねると、「こちらには楊娘娘(ニャンニャン)[37]の墓道があるだけでございます。唐の時代に改葬した後、墓の跡はもともと数十畝の広さがございましたが、宋、明以来、(きこり)(うしかい)に侵されて、だんだん余地がなくなったのでございます」とのことであった。汪が掃除してやったところ、旧い碑文が墓の側の土中にあり、「大唐貴妃楊氏の墓」と題されていた。そこでほかに界石を置き、百株の樹木を買ってその上に植え、春秋に二回祭礼を行ってやったのであった。

曹能始[38]が前生を記憶していたこと
 明末の曹能始先生は、進士に合格した後、仙霞嶺[39]を通ったが、山光水色は、あたかも前世に遊んだ場所のようであった。晩に旅店に宿ると、隣家で婦人がとても哀しげに哭くのが聞こえたので、尋ねたところ、その亡夫の三十回忌なのだと言った。その死んだ年月日を詢ねたところ、先生の生まれた年月日であった。その家に入ると、建物や小径のことをくわしく話したが、すこしも間違えることがなかった。その家族は取り囲んで驚き、みなやってきてじっくりと見た。曹も淒然と涙を落とし、言った。「わたしの書屋の南側には竹が数十株あった[40]。まだ書き上げていない原稿があったが、今でもあるだろうか」。その家族は言った。「主人が亡くなった後、奥さまが書斎を御覧になって悲しまれるのを恐れ、今でも閉ざされております」。曹が開くように命じると、塵が積もること数寸、遺稿や断簡は、そっくり残っていたが、前妻はすでに白髪が頭に盈ち、ふたたび夫婦と認めあうことはできなかった。曹は財産を半分与え、余生を終わらせた。
 按ずるに『文苑英華』で、白敏中[41]が滑州太守崔彦武の物語を記している。崔は前生で杜明福の妻であったことを記憶しており、馬に騎ってまっすぐ杜家に行ったところ、明福は老いていた。旧事を語り、所蔵していた金釵を壁の中から取りだし、邸宅を施して寺にし、明福寺と号したが、これと似ている。

江南客寓
 滌斎先生[42]が諸生であった時、京師の賈家衚衕[43]にいた。「江南客寓」と号する宿屋があり、建物は三間、真ん中の一間はとても清潔だったが、泊まる者はとても少なかった。先生は泊まったが、とりたてて変わったことはなかった。ある日、外出したとき、友人某にその衣服を見張るように頼んだ。夜に眠って三鼓になると、たちまち室内がすっかり明るくなったが、燈燭(ともしび)はなかった。友人が驚いて、帳を掲げて見たところ、黒い顔の巨人が、手にその首を(ひっさ)げていたが、血は淋漓としていた。対面すると直立したまま動かずに、「こちらに居てはならぬ」と叫んだ。友人は狂奔し、宿を出ると主人に告げた。主人は言った。「この部屋はもともと不穏だったのですが、あなたはどうしても泊まろうとなさったのです。どういたしましょう」。
 翌日、先生が帰ってくると、事情を告げた。先生は言った。「これはきっと鬼が怨みを述べようとしているだけだ。わたしはこちらにいるから、姿を現してはどうか」。書状を大書し、空に向かって焚き、怨みがあるなら、今晩訴えにくるべきだとした。その晩、先生はまた眠ったが、一更にならないうちに、はたして語られていた通りのものが現れた。しかし一つの血の滴る首を持っているだけで、跪いたまま立たなかった。先生が「何者だ。何の怨みがあるのだ」と尋ねると、首を持った者は手で口を指し、一言も発せず、翌日は、もう現れなかった。
 先生はまた、月光のもと、園内で、一塊の黒い物をしばしば見たが、大きさは浴盆[44]のよう、樹の下に追い掛けてゆき、脚で踏むと、すぐに消えた。翌日、その靴や(しとうず)を見ると、煙煤のように黒く、足はすっかり黒くなっていた。

荊波(けいは)(さなが)ら在り[45]
 本朝の佟国相が甘粛の巡撫となったとき、宿駅を辿って伏羌県に行ったところ[46]、神が「はやく行け。はやく行け」と叫ぶ夢を見た。佟は意に介さなかった。翌晩、同じ夢を見たところ、「わたしの恩に報いたいなら、『荊波(けいは)(さなが)ら在り』を憶えておけばよい」と言った。が目覚めて、急いで三日進んだところ、伏羌県は沈んで湖になったが[47]、結局、救ってくれたのが何の神かは分からなかった。後に出巡して建昌の野渡に行ったところ、関公廟に「荊波(けいは)(さなが)ら在り」の四文字が書かれていた。は入って拝謁し、大いに修繕したため、今でも煥然として残っている。

 

馮侍御
 馮侍御[48]静山は、京師永光寺西街[49]に住んでいた。書斎を改造した時のこと、地を掘ると黒い漆塗りの棺があったので、改葬してやった。夜に夢みたところ、男が牒を投じて怨みを鳴らした。馮はその時、西城を巡回していたが、夢の中で牒を取って閲したところ、顕官が棺を掘った事を告発しており、それは自分の姓名であった。目覚めると病になった。疾が革った時、夫人は部屋の中で笑いさざめく声が聞こえたので、病が恢復するかと思い、見にゆくと、ふだん知らない黒衣の男が(とこ)に坐しており、身をかわして消えた。侍御は夫人に言った。「あの人はわたしの隣人で、かつて運糧守備[50]をしていた。糧餉[51]を運んで京師に来たときに亡くなり、棺は永光寺前街の寺に安置されている。わたしの家に近いのにわたしは知らなかった。今、聞いたところ、わたしにも出発の期日があるので、誘いにきただけだとのことだ。紙銭を焼いてあのひとの冥土の資金を援助してやるがよい」。夫人が人を前街に行かせて探らせたところ、棺の名札が話の通りであったので[52]、先生が絶対に恢復しないことが分かった。

薬師父(ヤオシィフ)
 崑山の徐大司寇[53]の子は、字を冠卿といい、幼い時「薬師父(ヤオシィフ)[54]と称せられていたが、それは恩師を毒殺したことがあるからであった。恩師は周姓の人で、雲核と号していたが、司寇の招聘を受ける一日前に、大蛇が口から紅い丸薬を吐き、呑むように迫るのを夢み、腸が痛んで目醒めた。徐家に招かれると、冠卿を厳しく教育したが、冠卿がふだんから軽薄であったので、とてもはげしく笞で責めた。冠卿はしもべと謀り、鴆毒をご飯に入れたため、恩師はそれを食べて亡くなった。
 後に冠卿は翰林になったが、志を得ず、詩文には恨み辛みが多かったため、人に陥れられ、刑部で訊問された。左司[55]楊景震に会うと、大いに驚いて言った。「わたしは殺される。はじめて会ったが、まるで周先生だ」。翌日ふたたび訊問が行われたとき、役人たちは徐が司寇の子だったので、いささか手心を加えたが、楊だけは怒って訊問し、その頬を打つこと数十回、歯を左右とも墜とし、斬罪に決定した。獄で処刑することにし、楊は監斬官[56]となった。その[57]家族が調べたところ、楊景震の生年月日は、周先生の死んだ年月日であった。ある人が楊に告げると、楊は大いに笑って言った。「とんでもないことだな。わたしがこのことを知っていたら、法を枉げて救ってしまっていただろう」。これは『太平広記』に載っている王武俊の物語[58]と同じである。

荘秀才
 通州の荘孝廉成は、戊午の挙人、若年で美貌であった。その佃戸の娘はかれを好きになり、病気になったが、臨終のとき、その父に言った。「わたしは荘秀才さまのために死ぬのです。荘秀才さまに嫁ごうと思いましたが、家が貧しかったため、かならずうまくゆかないと考えて、鬱鬱として病気になってしまったのです。これからわたしは死にますが、この気持ちを秀才さまにお伝え下されば、瞑目いたしましょう」。その父がいそいで荘に告げると、荘は見にいったが、息はすでに絶えていた。荘は秋闈[59]に赴いたとき、淮新橋[60]で娘に遇ったが、まるで生きているかのようであった。試験場に入ると、ご飯を炊いたりお茶を湧かしたりする一切の仕事は、娘がみずから行った。その年に及第した。遠くへ行くたびに、娘はかならずやってきた。荘が怖れ、位牌を買って家に祭り、「亡妾某氏」と書いてやると、娘はやってきて拝謝し、それからは来なくなった。

藹藹幽人
 通州の李臬司[61]は、諱を玉メといい、丙戌の進士であった。若いとき文筆を鍛練することを好んでいたが[62]、とある日、筆が空中に「わたしを敬えば、おんみの功名を助けよう」と書いた。李は再拝し、牲牢を供えて祀った。その後、文社[63]があるときは、題が示されると、筆に任せて書き上げた。(はくか)[64]の大きな文字を書くのがもっとも巧みで、求める者にはかならず与えた。李はあつく信奉し、家の内外の事を、相談して行えば、すべて意に叶った。社中の能文の士は李の作品を読むたびに、その筆意がたいへん銭吉士に似ていると賛嘆した。銭吉士とは、前朝の翰林銭熹である。李がひそかに筆神に尋ねると、笑って「その通りだ」と言った。それからは郷里の人は扶乩しにくると、多くは「銭先生」と呼んだ。筆神は題跋落款には、姓名を書かず、「藹藹幽人」の四字を書くだけであった。李が孝廉に挙げられ、進士となったのには、筆神の力によるところが多かった。後に臬司で役人になると、神は裁判を助け、州ではかれを神と思った。李公が帰郷を乞うと、神も同行した。李が外出したとき、その子弟は神を敬わなかったので、神は怒り、手紙を送り、別れを告げて去った。
 わたしは李の公子方膺と同僚で親しかったが、わたしに一言もこのことを語らなかった。方膺が亡くなった後、臬司の同年熊滌斎太史[65]がわたしにこのことを語ったが、方膺はその事を隠していたと言っていた。思うに神を怒らせたのは、方膺であろう。

僵屍が食を求めること
 武林の銭塘門内に更楼[66]があり、更夫[67]を雇って拍子木を撃たせ、内外を巡邏させていた。人々が資金を集めてそうすることが、長いこと習慣になっていた。康熙五十六年の夏、更夫の任三という者が巷を巡邏していたところ[68]、小さな廟を通っていたが、二更になって、拍子木の音が聞こえるたびに、一人の男が廟から出てきて、よろよろと早歩きし、五更になると、拍子木の声がする前に廟に入るのであった。このようなことがしばしばあった。任三は廟の僧が邪な約束をしているのかと疑い[69]、偵察し、酒や肉を脅し取ろうとした。
 翌晩、月は昼のように明るかったが、その男は顔が黒く干からびて臘のよう、目の縁は深く窪んでおり、両肩に銀錠を掛けて歩き、かさこそと音をたて、以前のように出入りしていた。任三は僵屍であることに気が付いた。山門の中には旧い棺が安置されており、塵が積もること一寸ばかりであった。このことを僧に詢ねると、「それは師祖[70]の時にどなたかが預けたものでございます」と言った。仲間にそのことを話すと、その中の賢い者が言った。「鬼は赤豆(あずき)、鉄屑と米粒[71]を畏れると聞いているから、三つの物を一升ばかり用意して、かれが棺を破って出たときを伺って、こっそりと棺の四方に繞らせれば、かれは入ることができないだろう」。任は言われた通りに、三つの物を買った。
 夜の二更になると、屍はまた出てきた。かれが遠くへ去るのを伺い、燈を携えて中に入って見たところ、棺の後ろの四角い板、俗にいう「和頭」が、すでに開けられて地に置かれており、中は(から)で何もなかったので、三つの物を取ると棺の周りにびっしり撒いた。事がおわると、すぐに更楼に帰って臥した。五更になると、声を獅オくして「任三爺」と呼ぶ者があった。任が誰かと尋ねると、言った。「わたしは山門の中で永眠している者だが、子孫がなく、久しく血食されていないため、外に出て苦心して空腹を癒しているのだ。今おまえに呪いを掛けられ、棺に入ることができなくなった。わたしは死んでしまう。いそいで起きて赤豆(あずき)、鉄屑を払いのけてくれ」。任が懼れて答えようとしないでいると、さらに叫んだ。「わたしに何の怨みがあるのだ。このように酷いことをすることはないだろう」。任はかれの囲みを解いてやった後、かれはわたしを殺してから棺に入るだろうが、防ぐすべはあるまいと考え、結局返事しなかった。鶏が鳴くと、鬼は哀願し、ついで罵ったが、しばらくすると寂然とした。
 翌日、楼の下を通った者は、僵屍(キョンシ)が臥しているのを見たので、人々に告げ、お上に鳴らし、屍を棺に還して火で焼いたところ、その地は平穏になった。

僵屍が財を貪り禍を受けたこと
 紹興の王生某は、長年食い扶持を与えられ[72]、村内の富豪はかれを招いて師にしていた。建物は狭かったが、たまたま一里ばかり離れた所に新しい家が売りに出されたので、それを買って住まわせることにし、言った。「家の片付けが終わっていません、学徒及び館童たちは明朝お教えを受けにあがりますが[73]、先生は一晩ひとりでお休みになるのは、恐くはございませんか」。王は大胆であると自負していたし、新しい家で、何も畏れることはなかったので、童僕に茶具を携えさせ、書斎に連れていってもらった。
 王は室内を見まわすと、また門前に行き、寄りかかっていた。すでに夜で、月影はたいへん明るく、山麓では(たいまつ)の火が熒熒としていた。趨って見にゆくと、光は白木の棺の中から出ていた。王は思った。「これは鬼火か。色は碧いはずだが、が赤みを帯びているから、金銀の気ではないか。『智嚢』[74]に『胡人数人が喪服で棺を担ぎ、城外に仮埋葬していたので、捕り手が追跡したところ、棺の中はすべて金銀であった』という話[75]が載せられているが、この棺はそれと同じではないか、さいわい人がいないから、奪い取ることができるわいと考えた。石を取り、その釘を撃って除き、棺の後ろからその蓋を推して卸すと、赫然たる屍があったが、顔は青紫、腹は膨張しており、麻の冠に(わら)(くつ)であった。越の風俗では、父母が生きているのに子が先に亡くなった時、このように納棺するのが慣例なのであった。王は愕然として後ずさりしたが、後ずさりするたびに屍はぴくりと動き、さらに後ずさりすると屍は蹶然と起った。王が懸命に狂奔すると、屍は後から追ってきた。王は家に入り、楼に登ると、門を閉ざし、鍵を掛けた。息が収まると、屍がすでに去ったかと疑い、窓を開けて見た。窓が啓くと屍は頭を抬げて大いに喜び、外から躍り込もうとした。つづけざまに門を叩いたが、入ることはできなかった。たちまち大声で悲しげに叫んだが、三たび叫ぶと門はすべて開き、開けた者がいるかのよう、そのまま楼に登ってきた。王はどうしようもなく、棍棒を持って待ちかまえた。屍が上ってくると、すぐに棍棒で撃ったところ、その肩に中たり、掛けていた銀錠が地に散乱した。屍は俯いて拾い取った。王はかれが背を屈めた時に乗じて、力一杯推したところ、屍は楼の下に転げ落ちた。するとたちまち鶏が啼くのが聞こえ、それからは寂として物音がしなくなった。
 翌日見ると、屍は転んで腿の骨を傷い、地に横臥していたので、人々を呼び、担いでゆくと焼いた。王は嘆いた。「わたしは貪ったために、屍を楼に上らせてしまったが、屍は貪ったために、火で焼かれてしまった。鬼でさえ貪ることができないのだから、ましてや人においてをやだ」。

宋荔裳が悪い土地神の禍を受けること
 宋荔裳[76]が山東の臬使[77]となった時のこと、族子[78]の某は、もともと不肖で、総兵の于七とともに飲酒、賭博、姦淫していた。于七は、前明末年の山東の土寇であったが本朝に降った者で、総戎[79]になったが、悪いことをし続けて改めなかった。人々が族子の事を公に告げると、公は怒って言った。「このようなことでは、かならず家門の禍となろう。あれが帰ってきたら、縛って祠堂に連れてゆき、杖殺するべきだ」。某はそれを聞くと、徳州に逃げていった。夜に土地廟に宿り、夢みたところ、土地神が言った。「怖れるな。大きな富貴が訪れようぞ。今、于七が謀反しているから、はやく京師に往き、提督のもとに出頭するのだ」。さらに言った。「某地に百両が埋められているから、取って路銀にするがよい」。族子が地を掘ると、金があったので、大いに喜び、その(おじ)を怨んでいたため、提督の処に赴くと、その(おじ)が于七と通謀していると偽った。そのため裳は捕らえられ、入獄したのであった。十日足らずで、はたして于七が反したので、族子は最初に通報したことにより褒美を受けた。裳は累が及んで入獄したが、すぐに冤罪が雪がれた。

陸夫人
 某方伯の夫人陸氏は、尚書裘文達公[80]の乾女[81]であった。文達公が薨じた後、夫人は病んだが、夢みたところ大きな轎が屋根瓦の上を進んできた。前には青衣の者が立ち「裘大人がお招きでございます」と叫んでいた。夫人は轎に乗り、冉冉として雲の中を進んだ。
 とある大きな廟に着くと、正殿は巍峨としており、傍の小屋はとても清潔であった。文達公は科頭[82]で、繭紬[83]の袍を着け、二人の童僕を侍らせ、(つくえ)の上の文書はたいへん多かったが、夫人に言った。「病んだ理由を存じておるか。これは前生の(つみ)なのだ」。夫人は跪いて招くと「乾爺(おとうさま)はわたくしのために厄払いすることができますか」と言った。文達公は言った。「こちらの西の廂房に婦人がおり、今、(とこ)に臥しているから、扶けにゆくのだ。扶け起こすことができれば、病は治すことができるが、そうでなければ、わたしもおまえを救うことはできないぞ」。小童に命じて夫人を引かせ、西の廂房に往かせたところ、描金[84](とこ)に大紅[85]の綾帳が施してあり、(ふすま)(しとね)はとても華やかであった。中には裸の女の屍が臥していたが、両目を瞠ったまま、一言も発しなかった。夫人は扶け起こしたが、手の力は尽きており、結局起たなかった。
 帰って文達公に告げると、公は言った。「おまえの(つみ)を消すことは難しいから、家に還って張天師に頼み、[86]をして厄払いするがよい。ただ天師は近頃粗忽になり、禄も尽きようとしている。某月日に蘇州の顧懋徳の家のために斎文[87]を作ったが、誤字がとても多かったため、上帝はすこぶるご立腹だ。どうしたものだろう」。夫人は目覚めると、たまたま天師が都にいたので、その言葉を告げた。天師が顧家の斎表[88]を調べたところ、原稿にはたして誤字があり、法官が書いたものだったので、胸は驚いてどきどきした。
 まもなく、夫人は亡くなり、天師も亡くなった。天師は名を存義といった。顧懋徳は、辛未の進士で、官は礼部郎中であった。

牛頭大王
 溧陽[89]の村民荘光裕は、(あやかし)を夢みたが、頭上に角が生えており、門を敲いて入ってくると、「わたしは牛頭大王だ。上帝はこの地で祭祀を受けるように命ぜられた。わたしの塑像を作って祀れば、きっと善い報いがあろう」と言った。荘は目醒めると、村民に知らせた。村民は疫病に罹っていたので、みな言った。「本当のことだと信じた方がよかろう」。数十千文を集め、三間の草屋を建て、牛頭で人身の者の塑像を作って鎮座させた。その後、疫病はすっかり収まった。子宝を求める者にはすこぶる(しるし)があり、香火は大いに盛んであった。このようなことが数年続いた。
 村民の周蛮子は息子が痘瘡になったので、廟に行き、牲牢を具えて神を祀り、また占いをしたところ[90]、大吉であった。周は喜び、劇を演じてお礼することを約束した。ところが数日足らずで、息子は死んでしまった。周は怒って言った。「わしは息子が田を耕し、わしを養うのに頼っていたのだ。息子が死ぬならわしが死んだ方がよい」。その妻を連れ、鋤や(まぐわ)を持って牛頭を撞き、その身を砕き、その廟を壊した。村じゅうが大いに驚き、かならず奇禍があると思った。それからは寂然として、牛頭神もどこに行ったか分からなかった。

水定庵の牡丹
 江寧の二尹[91]汪公易堂[92]は、古北口[93]に友人を訪ねたが、路すがら水定庵に憩った。庵内では牡丹が盛んに開き、花は大きさが(とます)のようであった。汪が近づいて観賞すると、庵の僧は戒めた。「花を折られませぬように。花には(あやかし)がおり、禍をなしましょう」。汪はもともと剛毅だったので、笑って言った。「わたしはもともと花を折らない積もりでしたが、(あやかし)がいると仰るのなら、折って試すといたしましょう」。手で摘もうとすると、花は左右に旋転し、堅さは牛の筋のよう、断つことができなかった。佩びていた刀を取って截ったところ、花は断たれずに親指が傷われ、血がぽたぽたと垂れた。汪は慚じたり怒ったり、袍の袖で血を包むと、痛みを堪えて声を出さず、左手は花の先を掴み、右手は刀でその根を截り、一本を断った。帰ると瓶の中に入れ、人々に自慢した。「今日は花の(あやかし)を捕らえたぞ」。薬を買って手の傷を癒そうと思い、じっくりと見たところ、刀の痕はなくなっており、袍の袖にも血の跡はなくなっていた。

烏台
 粤東の肇慶府は、古の端州で、包孝粛[94]の旧任地であった。大堂[95]暖閣[96]の後ろには黒井があり、鉄板で覆われており、出入りするときはかならず通る場所で、包公が(あやかし)を井戸に納めたと伝えられていた。「包は収め、盧は放ち、馬は湖と成る」という俗謡があり、太守が盧姓であれば(あやかし)が出、馬姓であれば井戸が溢れるといわれていた。しかし千百年来、この二姓のものが知事となったことはなかった。役所の東には高楼があり、「烏台」と称せられ、俗に包公が妖鬼を審理するときはみなこの台に坐ったと言われていた。四面は磚や石で固く封じられており、啓けば祟ると言われていた。太守が着任するときは、かならず少牢[97]を供えて祀り、啓いて見ようとする者はいなかった。
 前任の安知事の料理人某が、酒に酔い、楼の頂に登り、瓦を剥がして窺ったところ、台の中には三つの土の(こやま)があり、品の字に並び、小さな(つか)のよう、真ん中には小さな樹が一株あったが、枝も葉も緑で、この外には一つも物がなかった。目を瞠って見ていると、黒い気が衝き上がり、料理人は楼の頂から地に転げ落ちたが、顫えながら汗を流し、見たことを話すことができるだけ、晩になると、狂い叫んで死んだ。一日後、安公はにわかに狂疾に罹り、その妻を鞭うって、殺してしまい、さらに手ずからその愛妾を刃に掛けたため、免職処罰された。
 二人の知事を経て、わが弟の香亭がその郡の知事となったが、家に手紙を寄せてこのようなことを語った。わたしはそれを聞くと大いに怒り、手紙を寄せた。「それはとんでもないことと言うべきだ。ほんとうにそのような事があるなら、楼の神は無法であること甚だしく、断じて包公の旧跡ではない。壊して焼いてはどうだろう」。

見娘堡
 順治乙酉、王師が建昌[98]を破ると、明の益王[99]は遁れ去った。長史[100]劉某は、呉下[101]の人であったが、山中に逃げ、行方知れずになった。その子蓼蕭は、呉門[102]に試験に赴いて帰ると、親を捜そうと考えた。時に藩府は荒廃し、跡を辿ることはできなかった。盱江[103]の張令公祠[104]に祷ると、神が「石漈」の二字を書き与えるのを夢みたが、目が醒めてから徬徨したもののどこであるかは分からなかった。一人の尼に遇うと告げた。「石漈は閩、広の境界にありますが、兵に阻まれていて行くことは難しゅうございます。さいわい抜け道がございますから、七日で着くことができましょう」。
 言われた通りに、危険を経尽くし、その地に行った。父母は農民姚氏の家に頼っており、母子は抱き合って泣いた。父はすでに死んでいたので、喪に服し、母を世話しながら帰った。母がいた村は「見娘堡」[105]といい、名からしてすでに奇妙であったが、もっとも奇妙だったのは、長史が難を避けた時のこと、家譜一冊を携えてついていったが、戊子の年、その母は篋の中からがさごそと音がするのを聞いたので、鼠かと思い、啓いて見たが鼠はおらず、閉ざせばふたたび音がするのであった。ある日、緋衣の人数人が冉冉と篋の中から走り出てくるのを見たので、ますます驚いたが、一時(いっとき)後に孝子が来たのであった。
 物語は姜西滇[106]の文集に載せられている。韓尚書菼[107]はかれのために墓前に石碑を作ってやった[108]

鬼が惚けていること
 乾隆三十九年、京師で無頼漢韓六がその父を殴って傷つけたので、刑部は取り調べ、獄に下して斬ろうとした。侍郎某は殴られた者が死ななかったので、減刑して処置しようとした。大司寇[109]秦公は上奏した。「名分が関わることでございますから、処刑するのが筋でございます」。上奏のように取りはからえとの勅旨を奉じて、刑部司獄司李懐中に監斬[110]させた。三日後、鬼は李の身に附くと、「諸大人はわたしを許していたのに、おまえが来てわたしを斬った。わたしは死ぬのに甘んぜず、命を取りにきたのだ」と称した。聞いた者は驚き、これは鬼が惚けているのだと思った。しかし李は結局癒えなかった。

鬼が勢いに流されること
 張八郎には気に入っていた(はしため)がいたが、結婚した後に棄ててしまった。(はしため)は怨みを秘めて病気になり、臨終のときに「わたしは八郎さまを許しません」と言うと息絶えたが、たちまち目を瞠ると「八郎さまは運気がとても旺んですから、仇に報いることができません。奶奶(おくさま)を捉えても同じでしょう[111]」と言った。二年足らずで、八郎の夫人はお産のために亡くなった。

鬼の片恋
 岳州の張某は、「鬼三爺」と号したが、それは排行が三で、鬼が生んだからであった。父は某府学の廩生、妻陳氏は美しかったが、たちまち(あやかし)に憑かれてしまった。(あやかし)はみずから陽小神と称し、白昼姿を現して、交接した。張は(とこ)をともにしていたが、理由なく自分から離れてしまい、手足に(かせ)を嵌められているかのようであった。その家はあまねく符を勧請したが、すこしも効き目がなかった。三月後、陳氏が受胎して子を生むと、空中の鬼たちは啾啾と争ってやってきてお祝いし、紙銭を無数に擲った。張はとても怒り、龍虎山に行き、天師に救いを求めようとした。
 とある日、小神はよろよろとやってくると、汗を雨のように垂らしながら、その妻に言った。「わたしは禍を引き起こすところだった。昨夜あなたの隣の毛家に入り、金の盆を盗んだのだが、かれの家に掛けられていた鍾馗が剣を抜いて逐ってきたのだ。わたしは傷つけられるのを懼れ、やむを得ずいそいで逃げ、金の盆を巷の西の池に擲ち、こちらに逃げてきたのだ。はやく酒を用意して、わたしの驚きを鎮めてくれ」。翌日、妻が張にそのことを告げたので、張が毛府に探りにゆくと、金の盆がなくなって、家中が騒ぎ、お上に訴えて賊を捉えようとしていた。張はそれを(とど)めて言った。「取ってくる手だてがございますが、何をお礼にしてくださいますか」。毛氏は大いに喜び、言った。「金の盆が見付かれば、お好きなものを差し上げましょう」。張は呪文を誦える振りをし、しばらくすると、毛氏の下男を呼び、すぐに池に往かせ、泳ぎの上手な者を水に入らせて取らせたところ、金の盆があった。
 毛は張を上座に招くと、尋ねた。「何をお礼にいたしましょう」。張は笑って言った。「わたしは読書人ですから、財帛は受けません。貴宅が収蔵している書画を一二幅下されば十分でございます」。その家がすべての所蔵品を出すと、張は文徴明の芙蓉の幅を選び取った。その家は謝礼がとても少ないと思い、不安に思った。そこで張は壁に掛けてある鍾馗像を指さすと言った。「この絵を下さり、二幅にさせていただけませんか」。毛氏は承諾した。張が取って帰り、空中に懸けると、小神はそれからふたたび来ず、園内の樹の上で鬼が三日哀哭するのが聞こえるばかりであった。人々はこれを「鬼の片恋」と称したという。

関神が世の習慣に従うこと
 康熙癸卯の挙人江闓は、某県令に選ばれたが、丁憂[112]のため帰郷した。起復[113]する時、夢みたところ、鎧を着けた武者が来て、みずから周倉と称した。服飾は昨今の廟にある塑像のようであったが、若年で鬚がなかった。手には名帖[114]を持っており、「治年家弟[115]関某頓首して拝す」と書かれていた。目覚めると大いに笑い、関帝がこの世の習慣に従っているわいと思った。まもなく、山西の解梁知県に選ばれたが、武廟[116]に参拝しにいったところ、傍に周倉[117]の塑像があった。若年で鬚がなく、顔はあたかも夢の中のようであったので、俸給を擲って神廟を修築した。後に任地で亡くなった。江公は于九太守[118](おじ)で、太守がわたしに話してくれた。

郷試の弥封[119]
 皖江の程叔才は、名を思恭[120]といい、学問があり博雅、『陳検討四六』[121]に注釈して名声を得た。平素から古文を好み、時文を喜ばなかったため、その師唐赤子太史[122]はかれを責めた。「科挙に合格して立身するには、これなしでは済まされない。今年は受験の年なのだから、おまえは留意するべきだ」。そこでむりに金、陳諸大家の文を読誦させることにした。程は承諾したが、結局『四書体注』などの書を好まず、試験場でも閲することはなかった。
 康熙戊戌科[123]では、江南の首題[124]は『賢才を挙ぐるに焉んぞ賢才なるを知りて之を挙ぐる』[125]、次題[126]は『大いなるかな聖人の道』[127]であった。程は三つの試験がおわると、首篇[128]はすこぶるうまく書けたとみずから言った。唐太史はそれを読むと喜んで言った。「首席合格が期待できるな」。程はいそいで案頭の『中庸』を取って一見すると、愕然として嘆いた。「駄目です。わたしは『大いなるかな聖人の道』は『礼儀三百、威儀三千』の下にあると思い[129]、領題[130]、出題[131]はみなこの二句を承けてしまいました[132]。今はじめて始めの第一句は、すべて後ろの句を使ったことを知りました[133]。間違いなく不合格です」。唐もかれのために嘆き悲しんだ。
 やがて合格発表があったが、第五名に合格していた。唐は合格したわけが分からず、主試[134]に会いにゆくと、尋ねようとした。主試某は、唐公の同年であったが、会うと笑って言った。「今年、試験場で笑い話がございましたが、ご存じですか」。唐が事情を尋ねると、言った。「皇上の密旨があり、受験生たちの関節[135]は、すべて破承[136]、領題、出題の三箇所で行われるから、今年はこの三箇所をすべて弥封せよとのことでした。ですから程某の文章は領題、出題がすべて後ろの句を使っていたのに、五魁[137]に合格したのです。将来磨勘[138]されたときには、きっと処罰されましょうが、どうすることもできません」。唐は笑って語らなかった。後に叔才先生ははたして吏部に磨勘され、罰として一回受験することを停止させられた。

二人の汪士メ
 順治年間、徽州の汪日衡先生は元旦に合格発表が行われる夢を見た。会元[139]は汪士メであった。先生は改名して受験したが、終生及第しなかった。康熙某科になると、汪退谷先生[140]が会元に合格したが、榜名[141]は士メであった。相隔たること四十余年、日衡先生は亡くなって久しかったが、孫の某が祖父の言葉を記憶していた。ともに造化が人を弄んだことを嘆き、意味のないことだとも思った。

雷が土地神を撃つこと
 康煕年間、石埭[142]の令汪以炘はもともとその友林某と親しかった。後に林は死ぬと、石埭の土地神となり、毎晩、陰陽を隔てながらも、両人は行き来して平生のように楽しんだ。土地神はひそかに汪に言った。「君の家には災難があるから、わたしは告げないわけにはゆかぬ。ただ、君に告げた後、おそらくわたしは天罰を逃れることは難しいだろう」。汪が再三尋ねると、言った。「ご母堂の太夫人が雷に撃たれることになっているのだ」。汪は大いに驚き、号泣して救いを求めた。土地神は言った。「これは前生の悪業によるものだが、わたしは官職が卑しいので、救うことはできないのだ」。汪は泣きながら頼みつづけた。神は言った。「一つだけ救う方法がある。はやく孝養の道を尽くすのだ。太夫人はふだん一飲一饌、一帳一衣、その数を十倍にし、浪費させれば、禄が尽きて亡くなり、善い死に方をすることができ、雷が来ても無駄だろう」。汪が言われた通りにすると、その母ははたして数年足らずで亡くなった。
 さらに三年後、雨が降ると、はたして雷がやってきて、棺を繞って照り耀き、部屋中に硫黄の臭いがしたが、結局落ちず、家を壊して出てゆくと、飛んで土地廟を撃ち、塑像を泥にしたのであった。

張光熊
 直隸の張光熊は、幼くして聡明、年は十八、西楼で読書していた。家は富豪で、召使いが多かった。父母はとても厳しく躾けていた。七月七日、牛郎織女の物語に感じ、星を望んで坐し、その晩(はしため)が勉強しているところを窺いにくるだろうかと妄想していた。心がにわかに動いたところ、簾の外に一人の美女が身を傾けて立っていたが、呼んでも応えなかった。まもなく、冉冉と前に来たが、見れば、家の(はしため)ではなかったので、尋ねた。

「何という姓なのだ」

「王でございます」

「どちらに住んでいるのだ」

「西隣でございます。朝晩、若さまが出入りしていらっしゃるのを拝見し、若さまのお姿、お(かお)をお慕いし、近づいてまいったのです」

張は喜び、すぐに榻をともにした。その後は毎晩かならず来た。
 家僮が宿直(とのい)していると、女は張に言った。「童僕がこちらに居るべきではございません。追い払い、遠くで眠らせ、呼ぶのを聴いたらまた来るようにさせましょう」。張はしもべを追い払おうとしたが、しもべは承知せず、「毎晩若さまがご寝所で親しげに優しい言葉を語られるのが聞こえますので、特別なわけがあるかとお疑いしているのです。老旦那さまはわたくしに若さまを守らせていらっしゃいます。遠くへ離れるわけにはまいりませぬ」と言った。張はどうしようもなく、その言葉を女に告げた。女は言った。「ご心配には及びません[143]。自分が困ることでしょう」。その晩、しもべは熟睡する前に、(もののけ)に攫ってゆかれ、縄で縛られ、西の庭園の樹の上に掛けられた。しもべは哀号しながら若さまに命を救うことを求めた。女は笑って言った。「罪を認めて、遠くへ逃げれば赦しましょう。秘密を漏らして、老旦那さまに知られたら、倍の苦しみを受けさせましょう」。しもべは承知した。すぐに縄を解くと、しもべはすでに地上にいた。
 一年余りすると、張はようやく痩せてきた。その父がしもべに尋ねると、しもべは郎の処には別段何事もないと称したが、様子はおずおずとしていた。父はますます訝り、みずから張の書斎の前に行くと伺ったところ、帳の中で女の声が聞こえた。窓を踏んでまっすぐに入り、帳を掲げたが人はおらず、枕元には金の簪が一本、山査(さんざし)の花一朶があるばかりであった。父はこの地は昔から山査花はない、これはきっと妖魅が持ってきたものだと思い、怒って張を笞うとうとした。張はやむを得ず、事実を告げた。父は名僧、法官[144]を迎え、祭壇を設け、禁呪してやった。女は夜に来ると哭きながら張に言った。「秘密はすでに漏れました。これでお別れでございます」。張も悲しみ嘆き、別れに臨んで「また会う時があるだろうか」と尋ねると、「二十年後に華州でお会いしましょう」と言った。それからは来なかった。
 張はすぐに陳氏を娶り、進士に及第し、呉江知県を授かった。推薦されて華州知州に昇任したとき、陳氏は亡くなった。その父は家にいたが、王某の女を後妻にとってやり、華州の役所に送っていった。結婚の晩のこと、新婦の容貌は、さながら書斎で夜伽していた人のようであったので、年を尋ねたところ、ちょうど二十歳であった。ある人が「これは狐仙が情欲に感じて転生したものだ」と言ったので、以前の事を語ったが、まったく記憶していなかった。

趙氏が再婚して怨偶[145]となること
 雍正年間、布政司鄭禅宝の妻趙氏は容色、徳行に優れ、鄭との恩愛はとても篤かったが、労咳のために亡くなった。別れに臨んで誓った。「いつの世でも夫婦となりたいと思います」。亡くなった日、旗下[146]の劉某の家で一人の娘が生まれたが、生まれながらにして話すことができ、「鄭家の妻でございます」と言った。劉の父母は大いに驚き、(あやかし)と思ったが、その後はふたたび語らなかった。
 八歳で親戚の家に行ったときのこと、路で鄭家のしもべが馬に騎り、その車に出くわすと、怒って言った。「おまえは鄭四だね。幼いときからわたしの家に身を売っていたのに、どうしてわたしに会っても馬から下りないのだえ」。鄭のしもべは愕然として、劉家を訪ねてゆき、娘の父母に会うと、かれらは生まれた時の異常をくわしく語った。女は帰って鄭四に会うと、尋ねた。「ご主人はご無事ですか」。すべての相嫁、上下、奴婢、田宅の事を詢ねたが、歴歴として絵のよう、しもべは知らないのに女がよく知っていることがあった。しもべは帰ると、鄭に告げた。鄭も劉家に行ったが、女はじっくりと見て泣き、ぺちゃくちゃとしばらく喋った。時に鄂西林相公[147]は両世の婚姻も、太平の瑞事だと思い、鄭に劉の娘と再婚することを勧めたので、十四歳で合巹の礼を行った。時に鄭は年は六旬(むそじ)、白髪はひらひらとしており、後妻もいた。女は嫁いで一年あまり、鬱鬱として楽しまず、縊れ死んだ。
 袁子曰く。情が極まれば縁が生じ、縁が満ちれば情も絶えるとは、珍しいことである。

童其瀾
 紹興の童其瀾は、乾隆元年の進士で[148]、官は戸部員外であった。ある日、役所に宿直し、同僚数人と夜に飲んでいたところ、たちまち天を仰いで悲しんで「天使が来た」と言い、朝衣を羽織り、再拝俯伏した。同僚が「何が天使だ」と尋ねると、童は笑って言った。「二つの天はないのだから、尋ねることはあるまい。天の勅書一巻は、中書閣の誥封[149]のようなものだ。雲の中を金の鎧の人が勅書を頭上に捧げながらやってきて、わたしに東便門外花児閘の河神となるように命じたのだ。諸君とはお別れだ」。そう言うと涙を落とした。同僚は狂易[150](やまい)を得たと思い、それほど意に介さなかった[151]
 翌朝、大司農海望[152]が戸部に来ると、童は冠帯を整え、長揖して官職を辞し、くわしく事情を告げた。海は言った。「君は読書する君子で、明敏に事を処理していたが、病があるなら、暇を乞うのは構わない。神怪を理由に人を惑わすことはあるまい」。童は弁明もせず、車に駕して家に帰ると、飲まず食わずで、家事を処理し、三日たつと、端坐して亡くなった。
 東便門[153]外の住民は、夜通し供回りが叫ぶ声を聞いたので[154]、顕官が通っているかと思い、近づいて見たが見えなかった。花児閘河神廟の道士葉某は新河の神が着任するのを夢みたが、白皙で薄鬚、身長は通常の人を越えず、童公の(かお)をしていた。

鏡山寺の僧
 銭塘の王孝廉鼎実は、わたしの戊午の同年である。若くして聡明、十六歳で郷試に合格した。三たび礼部の試験を受けたが及第しなかった[155]。近い親戚が都下で役人をしていたので、邸内にかれを留めたが、たまたま軽い病に罹ると、すぐに飲食を絶ち、日々冷水数杯を啜り、その親戚に言った。「わたしは前世で鏡山寺の僧某でした。修行すること数十年、ほとんど大道を成就しようとしていましたが、ふだんから若年で合格する者を見るたびに、羨んでおり、富貴を慕う心をすべて絶つことはできませんでした。そのためさらに両世墮落することになっております。今はその一世で、数日足らずで富貴の家に転生いたします。順治門[156]外の姚家です。あなたがわたしを引き留めて都を出さなかったのも、運命でしょうか」。その親戚が慰めると、王は言った。「去ったり来たりするのには定めがあり、ながいこと留まることは難しゅうございます。ただ父母がわたしを生んだ恩だけは、にわかに絶つことはできません」。紙を求めると父に別れを告げる手紙を書いたが、その大略は「わたくしは不幸にして数千里離れたところで客死いたします。寿命は短く、若い妻と幼い子を遺し、堂上[157]の煩いとなることでしょう。しかしわたくしはお父さま、お母さまのほんとうの子ではございませぬ。弟の某がお父さま、お母さまのほんとうの子でございます。お父さまはかつて某年に茶屋で鏡山寺の某僧とお茶をお飲みになった事をご記憶でしょうか。わたくしがその僧なのです。あの時はお父さまととても親しくお話しし、お父さまは忠誠謹厚であるのに、造物者は子孫をどうして与えないのかと思いました。一念が動いたために、やってきて子になったのです。わたくしの妻も幼い時にいささかの善縁がありました。鏡の花に水の月、あらゆるものは幻で、久しく止まることはできません。お父さまは実の子としてわたくしを見ないでください。はやく愛着(あいじゃく)を断ち、わたくしの罪をお許し下さい」。その親戚は尋ねた。「姚家に生まれるのは何日なのだ」。王は言った「わたしは今生で罪過がなかったため、こちらで死ねばあちらで生まれ、輪回することはございませぬ」。
 三日後の巳の刻、水盥を求めてうがいすると、胡牀に趺坐し、その親戚を召し、平時のように明るく笑い、尋ねた。

「昼になりましたか」

「正午だ」

「時間になりました」

拱手して別れを告げると亡くなった。その親戚が姚家を訪ねたところ、その日に一子が生まれていた。家業は騾馬店で、数万両を持っていた。

江秀才が伝言すること
 婺源[158]の江秀才は慎修と号し、名は永といい、奇器を作ることができた。豚の膀胱を取り、黄豆を入れ、息を吹いて満たし、その口を縛ると、豆は真ん中に浮かぶので、ますます「地は卵の黄身のよう」という言葉を信じた[159]。弟子入りを願う者があると、さきにこの膀胱を七日間坐って見させ、倦むことがなければ、はじめて教えることを許すのであった。家で田を耕すときは、ことごとく木牛[160]を用いた。城外に行くときは、木驢[161]に騎ったが、食らったり鳴いたりすることはなかった。人が(あやかし)だと言うと、笑って言った。「これは武侯[162]の定めたやり方で、有用な機械に過ぎない。(あやかし)ではない」。竹筒を置き、中に玻璃で蓋をし、鍵で開き、開いたときに筒に向かって数千言を語り、それが終わるとすぐに閉ざした。伝えるのが千里以内であれば、人が筒を開いたときに耳を傾けると、その声はさながらそこにあって、面談しているかのよう、千里を越えると、声はようやく散じて不完全になるのであった。
 とある日、水に身を投げたので、村人は驚いて助け、半ば溺れていたのを引き上げたところ、大いに恨んで言った。「わたしは今、運命の免れ難いことを悟った。わたしの二人の息子は楚[163]に外遊しているが、今日の未の三刻に、いずれも洞庭で溺れることになっている。わたしは老いの身で代わりになろうとしていたのだが、今、諸君がわたしを救ったので、きっと二人の息子を救う人はいないだろう」。半月足らずで、はたして凶報が届いた。これはその弟子戴震がわたしに語ったことである。

 

最終更新日:201697

子不語

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[1]乩のこと。丁字形の木組みを用意し、水平の両端を二人で支え、垂直の部分に付けた筆が下にある砂を入れた、乩盤という皿に書く字によって神意を得る。胡孚琛主編『中華道教大辞典』八百三十二頁参照。

[2] 総督。

[3] 巡撫。

[4] 定鼎:都を定めること。国家を樹立すること。

[5] 原文「某平生以忠孝待人」。未詳。とりあえずこう訳す。

[6] 凶神の名。

[7]凶神の名。

[8] 徐用錫。宿遷の人。康煕四十八年の進士。

[9] 侍講は侍講学士。

[10]太歳に眼があるということの典拠は未詳。

[11] 出典未詳。

[12] 蒋廷錫。常熟の人。康煕四十二年の進士。『清史稿』巻二百九十五などに伝がある。

[13] 任蘭枝。溧陽の人。康煕五十二年の進士。『清史稿』巻三百九十六などに伝がある。

[14] 礼部侍郎。

[15] 未詳だが、孝子を表彰する牌坊であろう。

[16] 役所の広間。

[17] 執務机。ただ、ここでは土で公案状のものを作ったのであろう。

[18] 南京北部にある山。

[19] 中国各地に同名の山があるので未詳だが、江蘇省呉県のそれか。呉県の霊岩山については国家文物事業管理局主編『中国名勝詞典』三百五十頁参照。

[20] 姦淫して拐かすこと。

[21] 女道士をいう。

[22] 原文「蔣更使人要而絶之」。」が未詳。とりあえずこう訳す。

[23] 未詳だが、弓を持った男であろう。

[24] 未詳だが、怨霊であろう。

[25] 兄弟の孫。

[26] 紺。

[27] 楊晋。常熟の人。『清史稿』巻五百九などに伝がある。

[28] 江蘇省の道名と思われるが、正史に蘇松道なる道名なし。蘇松は蘇州、松江であろう。

[29] 江蘇省の県名。

[30] 床几。

[31] 普段は現れず、臨時に出る星。流星の類。

[32] 占いの験。

[33] 原文「李乃我薦卷門生」。「薦卷」は科挙の受験者の答案を、試験官が合格答案として推薦すること。門生は、ここでは科挙の試験官が合格させてやった科挙受験者のこと。

[34] 呪術により邪を鎮めること。

[35] 明珠で作った耳飾り。

[36] カワセミの羽。それを用いた装飾品。具体的にはかんざしなどであろう。カワセミの羽を用いたかんざしの写真

[37] 娘娘は皇后、貴妃への呼称。

[38] 曹学佺。侯官の人。万暦二十三年の進士。『明史』巻二百八十八などに伝がある。

[39] 浙江省の山名。

[40] 原文「某書屋内有南向竹樹數十株」。未詳。とりあえずこう訳す。

[41] 唐の人。白居易の従弟。『唐書』巻百九などに伝がある。

[42] 後ろに出てくる熊滌斎のことと思われる。

[43] 宣武門外にある、南北に伸びた街巷名。菜市口の東南。

[44] 湯灌盥。:『清俗紀聞』。

[45] 後ろにもあるように、関帝廟に書かれていた文字なのだが、意味未詳。ただ、荊は荊州なのであろう。「さながら荊州のごとし」という方向か。

[46] 原文「按站行至伏羌縣」。按站」が未詳。とりあえずこう訳す。

[47]伏羌県が水没したという記録、正史になし。

[48] 侍御は御史。

[49] 宣武門外にある街巷名。宣武門の東南にある、南北に伸びる道。

[50]運糧守備という官職なし。領運守備のことか。領運守備は正五品官。

[51] 兵糧。

[52] 原文「棺識宛然」。棺識」は未詳だが、棺に付けられている名札であろう。

[53] 大司寇は刑部尚書。

[54]「薬師・父」ではなく「薬・師父」。「師匠を薬殺したもの」の意。

[55] 未詳。刑部左侍郎か。

[56] 斬刑の立会人。

[57]徐冠卿のこと。

[58] 『太平広記』百二十五巻。

[59] 郷試。

[60] 未詳。

[61] 按察司。

[62] 原文「少時好煉筆録」。煉筆録」が未詳。とりあえずこう訳す。

[63] 文人の結社。

[64] 大きな文字を書く書法の一種。

[65] 太史は翰林。

[66] 夜に太鼓を鳴らして時刻を報せた楼。

[67] 夜回りし、時刻を知らせる人。

[68] 原文「更夫任三者巡巷外」。「巷外」が未詳。とりあえずこう訳す。

[69] 原文「任三疑廟中僧有邪約」。邪約」は具体的には婦人との密会などのことであろう。

[70] 師匠の師匠。

[71] 『漢語方言大詞典』「米子」には、@果実のさね、A米粒、B砕いた米、C子供などの語釈を載せる。Cは論外、@は「石榴〜」「花生〜」などのように植物の名を冠して用いるようである。とりあえず、Aの語釈に従う。西南官話という。

[72] 原文「食餼有年」。食餼」は生員が、成績優秀のため、学校から扶持を支給されること。

[73] 原文「学徒曁館童輩明晨進館」。学徒」と「館童」は区別があるのであろうが未詳。

[74] 書名。明の馮夢龍撰。二十八巻。

[75] の「蘇無名」と思われる。

[76] 。莱陽の人。『清史稿』巻四百八十九などに伝がある。

[77]按察使。

[78] 一族で、子の世代に当たるもの。

[79] 提督。

[80] 裘曰修。新建の人。『清史稿』巻三百二十七などに伝がある。

[81] 義女。

[82] 冠を着けていないこと。

[83] 未詳。

[84] 金粉を用いて図案を描き込むこと。

[85] 緋色。

[86] 道士が祭壇を設けて呪術を行うこと。

[87] 祭文。

[88] 未詳だが、斎文に同じであろう。

[89] 江蘇省の県名。

[90] 原文「再擲卦」。擲卦は道観で用いる、占いの道具である碑珓を投げること。碑珓の写真−窪徳忠『道教史』十一頁。

[91]二尹:未詳。

[92]汪易堂という人物と思われるが未詳。易堂は字号であろう。

[93] 河北省の地名。蒙古へ通じる要衝。

[94] 包拯。宋代の名裁判官。

[95] 役所の広間。

[96] 暖房設備のある部屋。

[97] 生贄の羊、豚。

[98] 江西省の県名。

[99]益王は明の憲宗の庶六子祐檳を始祖とする王家。建昌に王府があった。『明史』巻百四参照。最後の益王は名を思[厶火]といったようで、『清史稿』世祖本紀順治四年二月乙未の条にかれを斬ったことを載せる。

[100] 官名。従五品。

[101] 蘇州郊外。

[102] 蘇州城内。

[103] 江西省の川の名。建昌江。旴江。

[104]令公は中書令。張令公は張九齢。唐の人。『唐書』巻百二十六などに伝がある。

[105]「見娘」は「母に会う」という意味。

[106]姜宸英。慈谿の人。康煕三十六年の進士。

[107] 長洲の人。康煕十二年の進士。

[108] 原文「韓尚書菼為之表墓」。表墓」は墓前に顕彰碑を建てること。

[109] 刑部尚書。ただし、乾隆三十九年当時の刑部尚書は秦姓ではない。

[110] 斬刑に立ち会うこと。

[111] 八郎の夫人を捉えて殺しても、八郎を殺したことと同じになるという趣旨。

[112] 在任中に父母の死に遇い、官職を辞し、喪に服すること。

[113]丁憂のため辞任していた役人が再起用されること。

[114] 名刺。:『清俗紀聞』

[115] 年家は科挙に同じ年に合格した者同士の呼称。

[116] 関帝廟。

[117]『三国志演義』の登場人物。実在の人物ではないが、関帝廟で関羽の脇士となつている。奇怪な容貌をしている。写真

[118] 江恂。儀徴の人。詩と書に巧みであった。『墨香居画識』巻六などに伝がある。

[119] 科挙の際、試験官が挙子に情実を加えないように、答案の一部に封をすること。普通は名前に封をするが、この物語でも述べられているように、試験の解答の一部を封じることもあったようである。

[120] 程師恭の誤りと思われる。陳維ッ『陳検討四六』に注したと後ろで述べられているが、程師恭注の『陳検討四六』が東京大学南葵文庫に収蔵されている。

[121] 書名。陳維ッ撰。二十巻。

[122] 唐建中。天門の人。康煕五十二年の進士。『国朝耆献類徴』巻百二十四などに伝がある。

[123] 康煕五十七年の郷試。

[124] 科挙の試験は三回にわたって行われる。首題は最初の試験で、経書から出題される。

[125] 『論語』子路。

[126] 二番目の問題。

[127] 『中庸』

[128] 首題の答案。

[129] 実際は、逆で『大いなるかな聖人の道』は『礼儀三百、威儀三千』の上にある。『中庸』第二十七章「大哉聖人之道。洋洋乎。發育萬物、峻極于天。優優大哉。禮儀三百、威儀三千」。

[130]破題、承題、起講に続く、八股文の本論の部分。

[131]八股文で、破題、承題、起講、領題、一股、二股に続く部分。

[132] 原文「出題倶承接此二句」。承接」は文章法の名。上文を承けて下文を起こしたり、上文を承けて意を明らかにすること

[133] 原文「今方知是開首第一句、則通身犯下矣」。犯下」は未詳だが、文脈からして、具体的には、破題、承題、起講の部分で「大いなるかな聖人の道」よりも後に出てくる句である「礼儀三百、威儀三千」に言及し、本論である領題や出題の部分で「大いなるかな聖人の道」を論じたことを指していよう。

[134] 主考官。科挙の試験官。

[135] 試験官と受験者が気脈を通じること。受験者の答案は名前が封じられているため、通常は、試験官は自分が査閲している答案が誰のものかは分からないが、試験官が受験者に、決められた場所で決められた文句を使用するように言い含めていたような場合は、試験官と受験者が気脈を通じ、不正を行うことができる。

[136]破題、承題。破題は題字・題意を説破する部分。承題はそれを承ける部分。

[137] こうした言葉を知らないが、字義からして五位の合格ということであろう。

[138] 郷試で、合格答案を再審査すること。

[139] 会試で第一等の成績を得たもの。

[140]汪士メ。長洲の人。『清史列伝』巻七十一などに伝がある。康煕三十六年の進士。第二甲の第一名。

[141] 未詳だが、受験したときの名であろう。

[142] 安徽省の県名。

[143] 原文「無庸」。未詳。とりあえずこう訳す。

[144] 道士。

[145] 怨みを託つ配偶者。

[146] 八旗に属するもの。旗人。

[147] 鄂爾泰。『清史稿』巻二百九十四などに伝がある。

[148] 実際は雍正十一年進士。また、出身地は広西の永寧州。

[149] 清代、五品以上の官が、朝廷の慶典に賜わる封。

[150] 発狂して心が変わること。

[151] 原文「不甚介意」。どういう論理なのか未詳。狂っても命に別状ないからそれほど心配しなかったということか。

[152] 『清史稿』巻二百九十七などに伝がある。大司農は戸部尚書。

[153] 北京外城東北の城門。現在、角楼が残る。写真

[154] 原文「東便門外居民聞連夜呼騶聲」。「呼騶」が未詳。とりあえずこう訳す。

[155] 原文「三試春官不第」。「春官」は礼部のこと。「試春官」は礼部の挙行する会試を受験すること。

[156] 北京の城門。宣武門のこと。

[157] 父母。

[158] 安徽省の県名。

[159] 原文「益信地如雞子黄之説」。出典未詳。

[160] 木製の機械仕掛けの耕具。『南越筆記』巻三十一参照。

[161] 未詳だが、木製で機械仕掛けの驢馬であろう。

[162] 諸葛亮。ただし、かれが木牛を作ったことは『三国志』蜀志・後主劉禅伝に見えるが、木驢を作ったという話は未詳。

[163] 湖広。

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