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第十二巻

 

周倉[1]の刀に掛けられること
 紹興の銭二相公は、神仙の煉気の術を学び、頂門から元神(たましい)を出して十洲三島を遍歴することができた。遭遇した魔物たちは、一つに止まらなかった。あるものは凶悪獰猛、あるものは妖嬈艶冶であったが、銭はまったく動揺せず、このような状態が十年続いた。ある日、魔物たちは聚まって相談した。「あと一月経って甲子の日になれば、銭某は大道を成就してしまうから、はやく手を下すとしよう」。みなはその通りだと思い、銭が打坐している時に乗じて、手足を牽いて抱きかかえると、大きな甕の中に入れ、雲門山の麓に押し込めた。その晩、銭家は二相公が失踪し、くまなく捜したが姿がなかったので、ほんとうに仙人になって去ったのだと思った。
 半年後、月明かりの中、二相公が花園の高い樹の上に坐し、大声で叫びながら救いを求めていたので、梯を取って扶け下ろした。事情を尋ねると、みずから語った。

「魔物に閉じ込められたが、ふだんから服気の術を行っていたために[2]、飢え凍えて死ぬことはなかった」

「なぜ帰ることができたのですか」

「某月日、わたしが甕の中にいたところ、一筋の紅い雲と、伏魔大帝が西南からやってきた。わたしは大声で不平を鳴らし、魔物たちの悪行を訴えた。帝君は言った。『祟りをなす魔物たちは、まことに憎むべきだが、そなたが天地陰陽の自生自滅の理に従わず、妄想し不自然なことをして、死なないことを望んでいるのは、天に逆らう行いで、やはり良くないことなのだ』。一人の将軍を顧みると言った。『周倉よ、このものを送って家に還らせよ』。周将軍は諾々としていた。周は身長が一丈あまり、持っている刀も長さ一丈あまり、紅い縄を取るとわたしを刀に縛り、この樹の頂に掛けて去った。わたしも自分の家の庭園の樹だとは思わなかった」
 二相公はそれからは大勢の人に従い、酒を飲み、妻と交わり、二度と神仙の術を学ぼうとしなかった。

駆雲使者
 宣化の把総[3]張仁は、密売塩を捜査せよとの命を受けていたが、古廟を通り掛かったとき、投宿しようとした。僧は承知せず、「この中には(あやかし)がおります」と言った。張はその勇を恃み、廟に行き帳を掛けると[4]、燭を吹き消して臥した。二鼓になると、部屋中がすっかり明るくなった。張が起って怒鳴ると、燈の光は外へ移っていったので、追いかけたところ、万盞の神燈が、松の下に行って消えた。翌朝、松の下に捜しにゆくと、大きな石の洞窟があった。張が村人に命じて鋤を持って掘らせたところ、大きな錦の(ふすま)があり、中に屍が包まれていた。口からは白煙を吐き、三つの目に四本の臂、僵屍(キョンシ)のようで僵屍(キョンシ)ではなかった。張は(あやかし)であることを知ると、薪を聚めて焚いた。
 三日後、白昼坐していたところ、美少年が盛装してやってきて、言った。「わたしは天上の駆雲使者ですが、とても多く雨を降らせ、上帝の命令に背いたため、俗世に落とされ、姿を石の洞窟に蔵し、期限が満ちた後、ふたたび天に上るのです。たまたま某夜に出遊し、いささか神異を現しました。わたしが韜晦することを弁えていなかったのは、もとより良くないことでした。しかしあなたがわたしの体を焼いたのも、たいへん悪いことです。わたしは今、魂を宿す場所がないので、やむを得ず、王子晋[5]侍者の体を借りてあなたにお願いしにきたのです。あなたがはやく道士を召して『霊飛経』を四十九日誦えさせれば、わたしの体は火の中から聚まることができましょう。あなたはほんとうは提督一品官になる運命でしたが、良くない事をしたために、上帝により籍から削られ[6]、把総で終わることができるだけです」。張が諾々として命に従うと、少年は空に昇って去った。後に張ははたして把総で終わった。

わたしの首はむざむざ斬られるものではないぞ
 蒋心余太史[7]は『南昌府志』を修めていたが、夜に夢みたところ段将軍が拝礼しにきた。見れば偉丈夫で、兜鍪(かぶと)に軍服、拱手して揖[8]せず、その頚を打つと罵った。「わたしの首はむざむざ斬られるものではないぞ」。蒋は目覚めると、怨みがあることを悟り、新しい府志を調べたところ、その人は載っておらず、旧い府志を調べたところ、段将軍が載っており、史閣部[9]麾下の副将で、揚州で死んだ者であった。そこでいそいで『忠義伝』に入れてやったのであった。

石言
 呂蓍は、建寧[10]の人で、武夷山北麓の古寺で勉強していた。真昼に暗くなったので、見たところ、階の石がすべて人のように立っていた。寒風が通り過ぎると、窓の紙や木の葉は飛んで石に着き、へばりついて落ちず、簷の瓦も飛んで石の上に着いた。石はたちまち人に化し、窓の紙や木の葉は衣服に化し、瓦は冠幘に化し、頎然[11]たる丈夫(ますらお)十余人となって、仏殿に坐したが、清談雅論は、娓娓として聴くに堪えるものであった。呂は怖れ驚き、窓を閉ざして眠った。
 翌日、起きて見たところ、すこしも痕跡がなかったが、午後になると、石はまた昨日のように立った。数日たつと、それが当たり前のこととなったが、まったく害をなさないので、呂は出ていって会話した。その姓氏を尋ねると、複姓が多く、みずから語るには、みな漢、魏の人だが、二人の老人は秦の時の人だとのことであった。談じる事は、漢、魏の史書の記載とはすこぶる異同があった。呂はとても楽しいと思い、昼食の後、静かにかれらが来るのを待った。物に姿を変えているわけを詢ねたが、答えず、つねに寺に住んでいるわけではないのはどうしてかと尋ねても、答えず、「呂さまは風雅の士でいらっしゃいますが、今晩は月が明るいですから、わたしたちはやってきて舞を競って、おんみの見聞を広げることといたしましょう」と答えるばかりであった。その夜、それぞれが刀剣を携えてきたが、古い兵器で、戈や戟には似ておらず、むりに名を付けることはできなかった。月光の下で舞いはじめると、一人になったり二人になったり、ひらひらとして美しかったので、呂は再拝して礼を言った。
 またある日、呂に告げた。「わたしたちはおんみと久しくお付き合いしましたから、お別れするに忍びません。今晩、わたしたちは海外に転生し、前生で成し遂げなかった事を完成させるため、おんみとお別れしなければなりません」。呂はかれらを送り出したが、それからは寂然としてしまった。呂は淒然として良友を喪ったかのようであった。かれらが語った古の事柄を書物に記し、『石言』と称し、刊刻して世に伝えようとしたが、貧しいために刊刻することができず、今もなおその息子大延のもとに所蔵されている。

鬼が官銜[12]を借りて娘を嫁がせること
 新建[13]の張雅成秀才は、子供の時、戯れに金紙(きんがみ)で甲冑、鸞笄[14]などの物を作り、小楼の上に蔵していた。ひとりで作り、ひとりで遊び、人々に示さなかった。突然、年が三十あまりの女が、楼に登ってきて、(かんざし)(くしろ)、歩揺[15]数十件を作ることを求め、手厚くお礼することを約束した。秀才が承諾し、「どちらで使われるのですか」と尋ねると、「娘を嫁がせるときに結納品として必要なのです」と言った。張はかれが戯れているのだと思い、怪しいとは思わなかった。翌日、女はやってくると張に告げた。「わたしは姓を唐といい、東隣の唐某は××の役人をしています。わたしは郎君にお願いし、かれの門の上の官銜の封印一枚をお求めいただき、同姓の者[16]に貸し、箔を付けさせていただきたいのです」。張は戯れに一枚を書き与えた。翌晩、釵、釧の数を満たすと、女は餅餌[17]数十、銅銭数百文を携えてお礼しにきた。朝になって見たところ、(ピン)はすべて土の塊、銭はすべて紙銭だったので、はじめて娘が鬼であったことを悟った。
 数日後の真夜中、山中に燭光が輝き、鼓楽が天にとよもした。村人たちは戸を開けてはるかに眺め、よその人が埋葬地を選びにきたのかと思った。近づいて見たところ、人々は紅い飾りをつけており、婚礼であった。山には多くの塚があり、ふだん住民はいなかったので、物好きは追いかけて見ようとしたが、だんだんと遠ざかり、提灯には唐姓某の官銜が書かれているのが見えるばかりであった。鬼も人の世のように体面を愛して勢利を崇ぶことがはじめて分かったが、おかしなことではないか。

雷祖
 昔、陳姓の猟師がおり、一匹の犬を飼っていたが、九つの耳があった。その犬の一つの耳が動けば一匹の獣を得、二つの耳が動けば二匹の獣を得、動かなければ得るものはなく、毎日験があるのであった。ある日、犬の九つの耳がすべて動いたので、陳はきっと大きな獲物があると喜び、いそいで山に入ったが、朝から昼まで、一匹の獣も得られなかった。がっかりしていると、犬は山の凹地に行き、大声で鳴き、足で地を掻き、その首を振り、招いているかのようにした。陳が訝って掘ったところ、一つの卵を得たが、大きさは(とます)のよう、取って帰ると(つくえ)の上に置いた。
 翌朝、激しい雷雨が起こり、電光が家を繞った。陳はこの卵は怪しいと疑い、庭に置いた。霹靂が轟くと、卵は豁然として割れたが、中には一人の子供がおり、顔形は絵のようであった。陳は大いに喜び、抱いて家に帰ると、子として育てた。長じて進士に及第し、すぐに故郷の州の太守になったところ、才幹があり、明敏で、善政を行ったが、五十七歳になると、たちまち肘の下に翅を生じ、空に昇り、仙人となって去った。今でも雷州では「雷祖」といって祀っている。

鎮江の某仲
 某仲は、鎮江の人で、兄弟は三人あった。長男には子がなく、次男には子があったが、七歳で上元燈[18]を看ていたところ、失踪し、行方知れずになってしまった。次男はとても悲しみ、資金を携え、山西で交易し、子の消息を訪ねようとした。去って数年帰らなかったため、次男はすでに死んだと噂された。次男の妻は信じず、三男に頼んで捜しにゆかせた。
 長男は次男の妻が年若く、売り物になるのを利とし、次男の凶報は本当だ、棺が帰ってくると偽り、次男の妻に再婚を勧めたが、次男の妻は承知せず、麻素[19]を髻に蒙り、夫のために喪に服した。長男はかれの心を変えるのが難いことを知ると、ひそかに江西の商人と謀り、代金百余両を得、次男の妻を買って去らせることにし、言い含めた。「あの女をむりやり娶りたいのなら、闇夜に輿を来させ、素髻[20]の者を見たら挽いてゆき、船を飛ばして行くことだ」。帰るとその妻に話をし、とても得意になっていた。長男はわざと家を空けたが、次男の妻は長男の様子を見て、変事が起こることを知り、暗くなると梁でみずから縊れてしまった。梁に懸かる音がすると、長男の妻はそれを聞き、奔ってきて救おうとしたが、これは代金を不意にするのを恐れていたのであった。抱きかかえると、次男の妻の素髻が地に墜ち、長男の妻の髻も墜ちた。そこへ商人の轎が来た。長男の妻はいそいで走って出迎えようとし、床を手探りし、髻を取ったが、誤って(しろ)い方をかぶってしまった。商人は素髻の婦人を見ると、有無を言わさず、すぐにさらっていった。長男は帰ってくると、悔やんだが後の祭りで、声を出すことができなかった。
 次男は晋[21]から帰る途中、厠へ行ったところ、木綿の風呂敷に五百両が包まれて地に置かれていたので、これはきっとさきに厠に来た者が遺したものだ、遠くへ行ってはいないはずだから、待ってはどうかと考えた。まもなく、お金を落とした者がやってきたので、それを渡した。その人は恩に感じ、金を分けようとしたが、受けとってもらえなかったので、次男を誘ってともに行くことにした。数日して、その家に着くと、鶏黍を具え、一男一女を出てこさせ拝礼させた。次男がその息子を見たところ、さながら自分の息子のよう、尋ねると、まさにその通りであった。そもそも次男の息子は失踪した時、人に売られたが、お金を落とした者は息子がなかったので、買って自分の息子にし、十余年が経っていたのであった。次男が取りすがって涙を落とすと、お金を落とした者は言った。「お子さんを連れてゆかれるのであれば、わたしの娘をお子さんの嫁にしましょう」。
 次男は帰ることにし、(かわ)を渡ろうとすると、一人の男が水に落ち、助けを求めたが、反応する者はなく、人々はその荷物を奪っていた。次男は悲しくなって、すぐに叫んだ。「誰か救おうとする者はいるか、金を出すぞ」。救いあげて見たところ、末弟であった。末弟は嫂の命を受けて次男を捜していたが、長男はかれも死ねば良いと考えたのであった。水に落ちたとき、かれを推したのは、長男が差し向けた者であった。次男はそのことを知ると、弟と子を連れて帰った。門に入ると、長男はそれを見て、逃げ去った。

銀が世を隔ててもとの持ち主に帰ること
 夏鎮は滕県に属している。蒋翁という者がおり、勤倹で家を成し、一子を生んだが、教育に失敗したため、成長すると遊蕩し、家はようやく没落した。蒋翁は心配していた。関帝廟の陳道士は、河南固始の人、もともと蒋翁と親しかった。蒋翁はひそかに五百両を持ってゆくと、道士に頼んだ。「息子は不肖で、財産を守れず、後日かならず餓死しましょう。今このお金をあなたにお渡ししますから、わたしが死んだら、かれが悔い改めるのを待ち、これで済ってやってください。まったく悔いることがなければ、このお金で廟を修理なさってください」。道士は承諾し、金を瓦罐に蔵し、上に壊れた磬を被せ、殿舎の後ろに埋めたが、それを知る者はなかった。
 数か月後、翁が死ぬと、息子はますます気兼ねがなくなり、家業をすっかり止めたため、妻は実家に帰ってしまった。息子は身を落ち着ける所がなくなり、交遊は絶えたので、はじめて後悔の念を萌した。道士はしばしば援助し、蒋もようやく労働に親しんだ。道士はかれが過ちを改めたのを見ると、その父の遺産のことを告げ、掘り出して与えることにした。(すき)を携え、金を蔵した処に行き、くまなく探したが、すでに所在を失っていたので、ともに大いに驚いた。蒋が帰って悪い仲間に話したところ、みな騒然として、お上に訴えるように唆した。お上が訊問すると、道士は隠し事をしなかったので、お上は賠償するように判決した。道士はその貯蓄をすべて出したが、十分の二にも満たなかった。村人たちは多くは道士が正しくないとしたので、道士は廟を棄てて去った。
 雲遊すること数年、直隸の蓮池禅寺に過ぎり、宿泊し、行こうとしたが、たまたま寺僧は某観察公[22]のために『寿生経』を誦え、仏事を行っていた。老僕は坊ちゃんを抱いて山門で戯れていたが、坊ちゃんはすぐに道士の衣を牽き、懐に飛び込んで放さなかった。家人は事情が分からず、道士に坊ちゃんを抱いて送り帰すように命じた。観察が手厚く道士に贈り物して去らせると、坊ちゃんは啼きながら追い掛けたので、やむを得ず、道士を奥の庭園の小さな庵に留め、飲食させた。ある日、道士が経を誦えて観察の坊ちゃんのために幸福を祈ろうとし、木魚、鐘、磬を求めたところ、家人が壊れた磬を渡したので、道士は驚いた。「これはわたしの磬です」。家人はその主人に知らせた。問い詰すと、道士は言った。「磬で瓦罐を覆い、中に五百両を貯えておりました」。「どこでお金を手に入れたのだ」と尋ねると、蒋翁の遺産の事をくわしく述べた。観察ははっとして、その子が蒋翁の生まれ変わりであること、この金は翁が所蔵していたものがもとの持ち主に戻ったということを悟った。そしてこの子を生んで三日目に、地を掘って胞衣を埋めようとしたところ、この金を手に入れたこと、使うこともないので、布屋に渡し、利息を取ってすでに五年になることを告げた。道士が罪なくして賠償を命ぜられたことは憐れであったし、その子と宿縁もあったので、この金の元本利息を道士に贈り、夏鎮に送り返させ、滕邑の令には手紙を送り、この事を石に刻んで記録させたのであった。

人熊
 浙江の商人某は、海外との交易を生業にしており、仲間は二十余人、風に吹かれてとある海上の島に着くと、連れだって島に上り、ぶらぶら歩いた。歩くこと一里ばかりで、一頭の熊に遇ったが、体長は一丈あまり、両手でその仲間を抱いて、だんだんと締めつけた[23]。大きな樹の下に行くと、熊は長い藤を取り、人々の耳を一つ一つ貫き通し、樹上に縛り、飛び跳ねながら去っていった。人々は熊が遠くへ去ると、それぞれ佩びていた小刀を解き、藤を切り、奔って船に戻った。するとにわかに四頭の熊が大きな石板を担いできたが、板の上にも一頭の熊が坐しており、前の熊よりさらに大きかった。前の熊は跳び上がりながらやってきて、とても楽しそうであったが、樹の側に行き、藤が地にむなしく捨てられているのを見ると、悵然として所在なげにしていた。石板の上の熊は大いに怒り、四頭の熊を叱りつけて起たせると殴り、たちどころに殺して去っていった。人々は舟の中でそれを眺め、驚いたり喜んだりし、命拾いをしたと思った。山陰の呉某は耳孔に一つの穴があり[24]、沈君萍如[25]の親戚であったが、そのわけを尋ねると、歴歴とこのように語ったのであった。

縄で雲を引くこと
 山東済寧州に下役王廷貞がおり、雨乞いすることができた。かつて酒に酔い、上司の案卓(つくえ)に高々と坐し、みずからを天師と称したことがあった。刺史は怒り、二十たび笞うったが、まもなく、州は大旱魃となり、雨乞いしても雨はなかった。全州の紳士たちはかれが霊験あらたかであると言ったので、刺史はやむを得ずかれを召して詫びた。しばらくして承諾すると、城南の門を閉じさせ、城北の門を開けさせ、辰歳の童子八名を選んで待機させ、五十二丈の縄を綯って準備させた。そしてみずからは童子とともに斎戒すること三日、祭壇に登り、呪文を誦えた。辰の刻から午の刻に掛けて、雲が東から起こり、重疊として綿を布いたかのようであった。王が縄を空中に擲つと、上で持っている者がいるかのように、落ちなかった。縄がすべて擲たれると[26]、八人の童子を呼び、「はやく引け。はやく引け」と言った。八人の童子は力一杯引いたが、千鈞の重みがあるかのようであった。雲が西にあれば東に引き、雲が南にあれば北に引き、縄を使うさまは風を使うかのようであった。やがて滂沱たる大雨で、水は深さが一尺となったので、縄を牽いて下ろした。雷がその首を撃つたびに、羽扇で遮ったところ、雷も遠くへ去った。
 その後、隣県は旱魃に苦しむと、かれをかならず呼びにきた。王は酒を求めるだけで、幣帛を受けず、言った。「一絲でもお受けすれば、法術は霊験がなくなってしまいます」。雨乞いをするたびに、家中の身内がかならず傷つけられるので、進んでしようとしなかった。刺史は藍芷林の親家[27]であった。これは芷林がわたしに語ったことである。

狼の筋を焼くこと
 藍の屋敷には狼の筋一本があったが、家で物がなくなったときに焼くと、盗んだ者は手足がすべて顫えるのであった。お嬢さまが金釵一本をなくしたが、誰が盗んだのかは分からなかったので、奴婢や乳母数十人を集め、筋を取って焼いたところ、数十人は顔付きが穏やかで、まったく異常がなかったが、入り口の暖簾だけは顫えて止まなかった。掲げて見たところ、釵がそこに掛かっていた。お嬢さまが通り過ぎた時に、釵が暖簾に引っかかっていたのであった。

王老三
 江西の陶悔庵行五は、妻を某氏といったが、姑と口喧嘩したとき、たちまち身を躍らせて屋根瓦の上に坐し、大笑いして止めなかった。再三呼ぶと、ようやく下りてきたが、北京の男の声音で言った。「わたしは天津衛の王老三で、誰しもが知っています。年は百三十歳。北から南に遷り、こちらに住んですでに七十年になります。この家は翰林蒋士銓[28]の旧宅で、わたしはかれが生まれた時を見たこともございます」。家人はそれを聞くと大いに驚き、尋ねた。

「あなたは鬼ですか、狐ですか」。

「鬼でも狐でもございません。半仙でございます。わたしが住んでいた処は、あなたの家の五爺に壊され、わたしは身を落ち着かせる場所がございません。わたしはひとまず瓦の(のき)に七日立ちましたが、餓え凍えましたので、やむなくお宅の奥さまの体に仮住まいしているのです。はやく麺を買ってきて飢えを満たさせてください」

麺を与えると、一度に五斤を啖った。五爺とは、悔庵のことであったが、「五爺は家を壊していないのに、なぜそのように仰るのでしょう」と尋ねると、「壊されたのは東の廂房の柱の下のことでございます」と言うのであった。

これより前、悔庵は古銭千文を得ると、緑青を生じさせようと思い[29]、柱の下を掘って埋めたが、そこがこの(あやかし)の居場所だったのであった。そこで「五爺をお咎めなら、どうして五爺の体に附かれないのでしょうか」と尋ねると、「あのかたは手に印がございますから、わたしは畏れ、附こうとはしないのでございます」と言うのであった。悔庵がみずからの手を見たところ、真四角の紋があったが、ふだん自分でも気が付いていなかった。
 陶太夫人は責めた。「みずから半仙と称するなら、男女の違いがあることを弁えるべきだよ。どうしてうちの嫁に纏わりつくのだえ」。某氏はすぐに男子が揖する動作をすると言った。「もとより無礼であることは存じていますが、お宅の奥さまの体に附かねば、願いは遂げられないでしょう。男女の違いがあることを弁えておりますから、わたしは夜にあのかたが眠るのを許すことなく、眼を瞠らせ、嫌疑を避けているのです。わたしは高齢で道を修めたのですから、邪念などあるはずがございましょうか」。「何を求めているのだえ」と尋ねると、「わたしを送って引っ越しさせてください」と言った。「どのような送り方をするのだえ」と尋ねると、「五爺が印のある手を用い、紅い紙を用いて『王三先生の神位』と書き、東湖の水辺の松の樹に貼れば、去りましょう」と言ったが、言った通りにすると、今度は「わたしは衣冠を求めてから去りましょう」と言った。葬具屋[30]で紙の衣冠を買って焚くと、今度は大笑いして言った。「わたしは布衣で、入学しませんでしたし、捐官もしていませんから、この金頂の帽を用いることはございません。はやく換えてください。はやく換えてください」。見れば店内の紙冠には、金頂が付いていたので、取り去った。悔庵がみずから紙の位牌を持ち、東湖の松の樹に送って貼ると、空中で幾たびも礼を言う声が聞こえ、それからは家は平穏であった。
 その妻に尋ねると、「わたしが姑と口喧嘩していた時、空中に短躯で髯のある者がにわかに現れ、手でわたしを瓦の上に引っさげてゆきましたが、その後のことは憶えておりません」と言った。(あやかし)が家で騒いだ時、人々が吉凶を尋ねると、中たることもあれば中たらないこともあった。多くのことを尋ねると答えず、「お答えするのは簡単ですが、みなさんも奥さまを憐れまれ、わたしに乗り移られないようになさるべきです」と言った。閑があれば数句の詩を作ることもあったが、文理は粗雑で、末尾には「王三先生高興[31]」という六文字の落款があるばかりであった。

風水を択び禍を招くこと
 湖南孝感県の張息村明府[32]は、亡父を九嵕山[33]に葬った。事がおわると、別に空地五畝ばかりを買い、宗祠を造った。人足が土を動かし、柱を立てると、朱塗りの棺があったが、蓋はすでに朽ち、中には一体の屍が見えていた。髑髏はとても大きく、体の骨は長さが通常人に勝っていたが、胸には鉄釘が三本突き通されており、その長さは五六寸、腰には鉄鎖が数周巻き付けられていた。人足は動かそうとせず、明府に告げた。賓客たちは埋葬し、ほかに柱を立てる場所を択ぶように勧めたが、張は承知せず、「代金を払って土地を買ったのだ。もともと強奪したのではない。風水が関わることなのだから、尺寸も移すことはできない。これは古い墓だから、改葬すればよい」と言い、みずから祭文を作り、牲牢を具えて祭り、祭りおわると、棺を遷させた。
 人足は鍬を下すと、すぐに地に倒れて血を噴き、罵った。「わたしは唐朝の節度使崔洪だ。とても厳しく法を執行したために、軍人が乱を起こしてわたしを縛り、釘うって殺したのだ。国家は衰え乱れていたので、わたしのために怒りを雪ぎ、悪を誅することはできず、こちらに八百余年間葬られていた。張某は何奴だ。みだりにわたしの墓を遷そうとするとは。けっして許すことはできぬぞ」。そう言うと、人足は起きあがり、張明府は病んだ。賓客たちは大勢で明府のために祈ったが、病は良くならず、舁いで帰ると数日で亡くなった。

飛僵
 穎州の蒋太守は直隸安州で老翁に遇ったが、両手が始終顫えて鈴を揺らしているかのようであったので、そのわけを尋ねたところ、語るには、「わたしは某村に住んでいますが、村に居るのはわずか数十戸にすぎません。山中には僵屍(キョンシ)が出ますが、空中を飛行することができ、人の子供を食らいます。日が沈まないうちから、人々は用心し、戸を閉じ、子供を隠していますが、それでもしばしば攫われるのです。村人はその穴を探りましたが、深さは測り知れませんでしたので、入ろうとする者はいませんでした。城中の某道士が法術を知っていると聞きましたので、金帛を集め、(あやかし)を捉えることを頼みにゆきました。道士は承諾し、日を択び、村に行き、祭壇を設けると、人々に『わたしの法術は、天羅地網を布き、飛び去れぬようにすることができるが、おんみらも武器を持って助けなければならないし、もっとも必要なのは大胆な人がその穴に入ることなのだ』と言いました。人々は返事しようとしませんでしたが、わたしは返事して出てゆきますと、『どのような仕事でしょうか』と尋ねました。法師は『僵屍(キョンシ)はもっとも鈴の音を怕れるから、夜になったらかれが飛び出てくるのを伺い、すぐに穴の中に入り、二つの大きな鈴を持って揺らすのだ。手を止めてはならぬ。すこしでも休めば、屍は穴に入り、おんみは傷つけられるであろう』と言いました。夜になろうとする頃、法師は祭壇に登り、法術を行いました。わたしは二つの鈴を握り、屍が飛び出るのを待ち、力一杯揺らしました。手は雨垂れのように、すこしも休もうとしませんでした。屍は穴の入り口に来ますと、恐ろしげに睨みつけましたが、りんりんという鈴の音を聞きますと、ためらって入ろうとしませんでした。行く手は人に囲まれて、逃げる場所もなかったため、手を奮って村人たちと格闘しました。夜明け近くになりますと、地に倒れましたので、人々は火を起こして焼きました。わたしはその時、穴の中にいましたが、それに気付かず、相変わらず鈴を揺らして停めようとしませんでした。昼になり、人々が大声で叫びますと、わたしははじめて出てゆきましたが、両手は揺れ動いて止まず、今でも病になっているのでございます」。

二体の僵屍(キョンシ)が野合すること
 壮士某は、湖広を旅し、ひとりで古寺(ふるでら)に宿っていた。ある晩、月影がとても美しかったので、門の外を散歩していたところ、樹林の中に唐巾[34]を戴いて飄然とやってくる者がぼんやりと見えたので、鬼であるかと疑った。かれはたちまち松林のもっとも深いところに行くと、古い墓に入ったので、僵屍(キョンシ)であることが分かった。某は僵屍(キョンシ)は棺の上蓋を失うと祟りをなすことができないと普段から聞いていたので、翌晩、さきに樹林に隠れ、屍が出るのを伺い、ひそかにその蓋を取ることにした。
 二更過ぎ、はたして屍が出てきたが、往く所があるかのようであった。尾行すると、大きな邸宅の門の外に行った。その上の楼の窓の中には、すでに紅い衣の女が居り、白い(ねりぎぬ)一本を擲つとそれを牽いた。屍は縋って上ると、ぺちゃくちゃと喋ったが、それほどはっきりとは聞こえなかった。壮士はさきに戻ると、ひそかにその棺蓋を隠し、松の茂みに伏した。夜が更けようとする頃、屍はあたふたと還ってきたが、棺が蓋を失っているのを見ると、とても困惑し、ながいこと探しまわると、もとの路をよろよろと奔り去った。さらに尾行すると、楼の下に行き、躍りながら鳴き、唶唶(ちいちい)と声を立てた、楼の上の婦人も唶唶(ちいちい)と答え、手を振って拒み、かれがふたたび来たことを訝っているようであった。鶏が突然鳴くと、屍は路傍に倒れた。
 翌朝、通行人がやってくると、みな大いに驚いた。ともに楼の下に訪ねてゆくと、そこは周家の祠堂であった。楼には柩が停められており、女の僵屍(キョンシ)も、棺の外に臥していた。人々は僵屍(キョンシ)の野合であることを知ると、屍を一箇所に集めて焼いた。

鬼の幕賓
 陵の王生は、年は四十あまり、関中を幕僚として旅していた。時に虚庵荘公[35]厔県の知事をしていたが、かれを幕中に招いた。この年の秋、署内の友人及び荘逵吉らとともに城隍廟に行き、観菊したが、佳いものがないのが残念であった。王生はたまたま一枝を拾うと、しもべに命じて妻に送らせようとした。逵吉はそれを阻み、神前の物を、軽々しく動かしてはならないと言った。王は戯れて言った。「わたしは一生剛直であったから、神さまはきっとお咎めにならないだろう。責めを加えようというのなら、わたしが代わりに裁判を一二件処理してはどうだろう」。
 翌年の三月三日、王生は病むことなく亡くなったので、人々は驚いたが、宵の口になるとたちまち目醒めて言った。「わたしがひとり坐していると、一人の使者が名刺を持ってわたしを迎えにきたので、いっしょに門の外に出て輿に乗った。行くこと一里ばかりで、城隍廟に着いた。神は階を降りて迎えると、賓主の礼を行い、『先生はわたしの菊の花を折り、案件を処理することを約束なさいました。こちらに某県の文書の山がありますが、ながいことぐずぐずとして、いまだに結審していませんので、先生をお迎えし、ご相談いたします』と言った。まもなく、下役が積年の文書を捧げもってくると、主人は退出した。わたしが諸事案を閲したところ、すべて処理し易いものであったが、誤って罪人某を拘引した一件だけは、『骨肉が冷たくなければ、まだ人の世に還ることができる。そうしなければ東岳の調査を命じる檄が来て[36]、城隍は処分を受けるだろう』と批語を加えた。神は出てきてそれを見ると大いに喜び、『先生のお考えは、とてもわたしの心に叶っています』と言った。茶がおわると、丹墀に送ってゆき、『もう一つお願いします。包少府に会われましたら、あのひとが請け負った工事の木材は、近々到着するであろうとお伝え下さい[37]』と言った。わたしは諾々として別れ、外に出ると、輿に乗って帰った。そして枕頭の銅銭三百文を取り、その従者を労うと目が醒めたのだ」。
 三日後、仙游[38]は大水害となり、木材がすべて黒口鎮に出てきた[39]。包少府とは、醴泉[40]の同知包某であった。今でも人々は王生を「鬼幕賓」と呼びなしている。

雷が蝦蟆の(あやかし)を撃つこと
 厳陵の宋淡山は乾隆丁亥夏に遂安県の民家が雷に撃たれるのを見た。まもなく空が晴れると、一つも損われた箇所はなかったが、室内にはつねに臭気があった。十日後、親戚友人が樗蒲の遊びのために庭に聚まっていたところ、天花板の中から突然血が滴りおちてきた。板を啓いて見ると、一匹の死んだ蝦蟆、長さは三尺ばかりのものが、頭に鬃纓帽[41]を戴き、脚に烏緞[42]の靴を穿き、身に玄紗[43]の褙[44]を着けており、さながら人の姿のようであった。雷が撃ったのは、この蝦蟆であったことがはじめて分かった。

夢の中で事件を解決すること
 曹州[45]の劉姓のものは、質屋を生業としていた。虞城[46]の張某は、その仕事を取り仕切ってすでに二年、いささかの貯蓄があった。歳末に帰郷しようとしたので、主人は元旦まで引き留めたが、黒い騾馬に乗って去り、上元[47]の日に曹州に返ると約束した。しかし期日になっても来なかったので、劉は人を遣わして来るように促そうとしたが、その家に行くと、「帰っておりません」と言った。両家は言い争い、撫按[48]まで訴えたところ、期限を決めて県庁に捕縛を命じたが、もたもたとして六月になったので、下役は慌てて為す術もなかった。
 ある晩、城の南を訪ねたところ、老人が一人の若者と語っていた。「月影がとても美しいから、涼亭(あずまや)に行かないか」。曹州の城の南十数里には、以前涼亭(あずまや)があったのである。下役はひそかに考えた。「二人でこんな時刻に往って、城門が閉ざされてしまったら、どのようにして入るのだろう」。訝しく思い、さきに涼亭(あずまや)に行き待機していた。まもなく、二人がやってきた。話していることを聴いたが、すべて隣近所の瑣事であった。しばらくすると、少年が突然言った。「城内の劉家の事件は今でも明らかになっていませんが、わたしが思うに、西門の外で(ピン)を売っていた孫さんがあのひとの財産を利として、殺したのでしょう」。翁がわけを尋ねると、少年は「(ピン)の店は数年こちらにあったのに、この春にわかに閉店したので、疑ったのです」と言った。翁は「大事件なのだから、滅多なことを言ってはならん」と叱りつけ、たいへん怫然としていたが、すぐに「夜が更けたから、帰るとしよう」と言った。
 下役はかれらの後を尾行したが、歩くのはとても速かった。城の南に着くと、門はすでに閉ざされていたが、二人は門の隙間から入っていった。下役はすぐに門番を呼び、鍵を開けさせ、城に入った。二人はまだ前を歩いていた。路地に行くと、少年は翁と別れ、門に入ったが、門はやはり啓いていなかった。翁についてゆくこと二十余軒目で、やはり扉を啓かないで入った。下役は大いに驚き、その戸を叩いた。しばらくすると翁が出てきたが、紙捻を持ち、衣を羽織り、とても疲れた様子であった。下役が「さきほど少年と涼亭(あずまや)で月見していたのに、どうしてすぐに眠ったのだ」と言うと、翁は困惑した顔付きで言った。「月見はいたしましたが、夢の中での事でございます」。下役はさらにかれを連れて少年のところへ往かせると、少年は出てきたが、やはり翁のような状態であったので、捕らえて県庁に入れると、夢の中での言葉を述べた。翌朝、二人を某村に行かせ、孫の居る場所を訪ねさせたところ、黒い騾馬はそっくりそのまま入り口に繋がれていたので、鎖で縛って県庁に行かせ、訊問すると罪を認めた。そこで盗品を探し出し、償いをさせた。
 これは乙巳の夏の事であった。曹州の知事呉忠誥は以前綏徳州牧となり、厳道甫と親しかったので、道甫に告げたのである。

馬は魚に変じ田地は鵝鳥に変じること
 雍正初年、伍相国は盛京将軍[49]のために馬五百匹を黒龍江に送っていった。数里足らずで到着という時、突然一匹の馬が鬣を奮って長く嘶くと、馬たちはそれに隨い、河辺に行き、すべて水に跳び込み、魚となってしまった。
 厳道甫が徳州の盧家で教師をしていた時のこと、盧には親戚の羅氏がいたが、たまたま二百銭で一羽の鵝鳥を買い、済南に持ってゆき、受験した。到着した時、鵝鳥の値段はとても貴く、五百文で売る者がいた。羅はたちまち金儲けをしようとする心を動かし、家に田地十五畝があるから、抵当に入れて鵝鳥を買えば、三倍の利を得ることができると考えた。試験がおわると家に戻り、土地を売り、代金を得ると、方々に出かけて鵝鳥を買い、三百余羽を得ると、また駆っていった。
 行くこと二日、斉河に着き、城外の長い橋を過ぎたときのこと、鈴を帯びた先頭の鵝鳥が頚を伸ばして長く鳴き、翼を奮って飛ぶと、鵝鳥たちは連れだって飛び上がった。観る者は数十人、大勢で拍手した。まもなく、一片の白雲のように、風に隨って消えてしまった。
 羅は慚じたり悔やんだりしたが、どうすることもできなかった。嚢中を探ると、前に鵝鳥を買ったときの銅銭数百文が残っていたので、旅費にして帰った。そして先祖の遺した田地が、鵝鳥になって去ってしまったとみずから嘆いたのであった。

聾鬼
 乾隆四十九年、杭州半山陸家牌楼の河に水死体が流れてきたが、村民霍茂祥は、平素から善行を施していたので、金銭を集め、棺を買い、市場で葬儀をしてやった。夜に夢みたところ藍衣の人が来て言った。「わたしは臨平の人張某で、教師を生業としていたが、不幸にして足を滑らせ、水に落ちてしまった。おんみにわたしを葬ってもらったが、報いるすべがない。わたしはあらかじめ吉凶を知り、人のためにお祓いすることができる。霊験があれば、牲牢でわたしに謝するはずだから、おんみは賽銭を得ることができるだろう」。霍は目醒めると、そのことを村人に告げたが、はたして祈ればかならず験があった。数日足らずで、香火は雲のようであった。
 霍が夜にふたたび夢みたところ、張が来て言った。「わたしは左耳が聞こえないから、お祈りしにくる者は、右耳に向かって話すがよい」。そこで、翌日お祈りしにきた人は、霍の言葉に従って、多くは棺の右に向かって祭りをしたが、呼ぶと返事があるかのようであった。村民は狂ったように信奉し、「霊棺材(れいかんざい)[50]」と呼びなした。霍家は賽銭を得て、富を致した。
 まもなく、仁和の県令楊公が通り掛かり、焼香する者たちががやがやと蟻聚しているのを見た。楊はかれが人々を惑わしているのを怒り、その棺を焚くように命じたので、鬼はいなくなった。

棺牀
 陸秀才遐齢は、閩中[51]の幕館[52]に赴いた。江山県を通ったところ、大雨となったため、宿屋には辿りつけず、日はすでに暮れてしまった。眺めれば前方の村には樹木が茂り、瓦葺きの家数間があったので、奔ってゆき、門を叩き、一夜の宿を借りることを求めた。主人が出迎えたが、すこぶる清雅で、みずから言うには沈姓で、やはり[53]江山の秀才だが、家には客を招く余分な部屋はないとのことであった。陸が再三頼むと、沈はやむを得ず、東の廂房の一間を指して言った。「むさ苦しいところですがお休み下さい」。燭を持って送り込んだ。陸は近くに棺が置かれているのを見ると、すこぶる嫌に思ったが、ふだんから大胆であったし、ここ以外には宿る場所がないと思ったので、諾々として礼を言った。その部屋にはもともと木の(しじ)があったので、すぐに荷物を上に置いたが、主人が出ていってしまうと、胸がどきどきしないではいられなかった。そして持っていた『易経』を取ると燈下で読み、二鼓になっても、燭を消そうとせず、服を着たままで寝た。
 まもなく、棺の中でかさこそと音がするのが聞こえたので、よく見たところ、棺の前蓋がすでに掲げられており、白い鬚、朱い(くつ)の翁が、両脚を伸ばして出てきた。陸は大いに驚き、かたくその帳を結び、帳の隙間から窺った。翁は陸の坐していた処に来ると、その『易経』を捲ったが、まったく懼れる色がなく[54]、袖から煙管を出すと、燭のもとで喫煙した。陸はさらに驚き、鬼なのに『易経』を恐れず、喫煙することもできるとは、ほんとうに悪鬼だわいと思った。そしてかれが(しじ)の前に来るのを恐れ、ますますじっくり見たが、全身が冷たくなって顫え、(しじ)は動いた。白鬚の翁は(しじ)を見るとかすかに笑い、前に来ず、煙管を袖に入れると棺に入り、みずからその蓋をかぶせた。陸は夜通し眠らなかった。
 朝になると、主人が出てきて尋ねた。「昨夜はお休みになりましたか」。陸がむりに「休みましたが、部屋の近くに置いてある棺はどなたのものでしょう」と答えたところ、「父でございます」と言った。陸は言った。「ご尊父なら、なぜながいこと葬らないのでございましょう」。主人は言った。「父は今でも生きており、壮健で恙なく、死んではおりませぬ。父はふだんから一切を達観しており、昔から人はみな死ぬのであるから、さきに準備をしてはどうかと考えて、七十歳を祝った後、寿棺を作り、厚くその内側を表装し、(ふすま)(しとね)を置き、毎晩かならずその中に臥し、寝台、蚊帳にしているのです」。そう言うと、棺の前に引いてゆき、老翁を起たせ、賓主の礼を行わせたが、はたして燈下で見た翁であった。翁は笑って言った。「お客さまは驚かれましたか」。三人はとてもはげしく手を拍った[55]。その棺を見たところ、四方は沙木[56]、中は空、その蓋は黒漆と綿、紗を用いて作られており、空気を通すことができ、たいへん軽いものであった。

大砲で蝗を撃つこと
 崇禎甲申の年、河南では蝗が民間の子供を食らった。来るたびに、猛雨毒箭のよう、人を囲んで蚕食すると、あっという間に皮肉は尽きてしまうのであった。『北史』は、霊太后の時、蚕蛾が数えきれない人々を食らったことを載せているが、ほんとうにそうした事があることがはじめて分かった。開封府の城門は蝗に塞がれ、人々は出入りできなかった。祥符の県令はやむを得ず、大砲を放って撃ち、空洞を作ったところ、人々は通ることができたが、まもなく、また塞がれてしまうのであった。

僵屍(キョンシ)が手に元宝を執ること
 雍正九年冬、西北で地震があり、山西介休県某村の地は陥没すること一里ばかりであったが、穴埋めにならなかった者がいた。住民が掘って見たところ、仇姓の者は一家がすべて揃っており、屍は硬直し、腐敗しておらず、一切の什物器皿はもとのまま、主人は天秤を持って銀を量っていたが、右手にはまだ一つの元宝[57]を執っており、たいへんかたく握っていた。

張飛の棺
 蕭松浦が四川から帰ってきて語った。保寧府巴州刺史の旧庁舎の東には張飛の墓の岩穴があり、今でも閉ざされていなかった。朱塗りの棺が懸けられており、長さは九尺、叩くと、こんこんと声がしていた。
 乾隆三十年、陳秀才某が夢みたところ、金の鎧の神が、「わたしは漢朝の将軍張翼徳だが、現在世俗の駅遞[58]の公文が、家兄雲長の諱を避けながら、わたしの諱を犯しているのは、たいへん不公平ではないか」と称し、おたがいに大笑いして目が醒めた。というのも近頃、公文は「羽遞」を改め「飛遞」になっていたからであった。

誤って糞を飲むこと
 常州の蒋用庵御史[59]は、四人の友人とともに徐兆潢の家で酒を飲んだ。徐は酒肴を作るのに巧みで、河豚を烹るのがもっとも上手く、酒盛りし、六人の客を招き、いっしょに河豚を食らった。六人の客は河豚の美味を貪り、それぞれ箸を挙げて大いに啖ったが、心の中では疑わないわけにはゆかなかった。するとたちまち張という一人の客が地に倒れ、口から白い沫を吐き、声を出すことができなくなった。主人と客たちはみな河豚の毒に中たったと思い、すぐに糞清[60]を購って飲ませたが、張はそれでも目醒めなかった。五人は大いに懼れ、「毒が作用する前に薬を服用した方が良いだろう」と言い、それぞれ糞清一杯を飲んだ。
 しばらくすると、張は目醒め、客たちはかれを救った事を告げた。張は言った。「わたしはかねてから羊児瘋[61]の病があり、しばしば発作が起こるのです。河豚の毒に中たったのではありません」。そこで五人はゆえなく糞を飲んだことを深く悔やみ、(うがい)したり嘔いたりし、馬鹿笑いして止めなかった。

屍を借りて血筋を延ばすこと
 蕭公文登は、陽湖の知事となった。隣家の施嫗は、その夫がはやく亡くなり、その遺腹子某を養った。某は成長すると妻李氏を娶り、嫁と姑はとても睦まじかったが、一年あまり後、嫁はたちまち病死してしまった。嫗は家が貧しかったので、嫁が亡くなった後、某が再婚できず夫の祭祀を続けることができなくなることを悲しみ、天地に叫んだ。翌日納棺しようとすると、嫁はたちまち炕から躍り上がり、姑を呼んだ。「わたしはあなたの家の嫁になりますから、これ以上哭かれることはございません」。嫗は嫁の再生を慶び、喜びにたえなかったが、その子はひそかに母に語った。「声音が妻に似ていません。眼光もまっすぐですから、ほんとうの李氏の再生ではないでしょう。野鬼が憑いて祟っているのではないでしょうか」。隣近所はみな驚いて、見守った。
 三四日間は、目を閉ざして仰臥し、湯や粥を与えると、普段通り飲んだり啜ったりし、姑が呼ぶと返事したが、夫が語ると避けて返事しなかった。七日後になるとはじめて起ちあがり、髪梳き洗顔をおえると、襟を正して姑に告げた。「わたしは海寧州某村の方氏の娘で、排行は二番目、年は十九歳、婚約をしておりませぬ。病死して、冥府に行きますと、たまたまお宅のお嫁さんの李氏がいました。無数の小鬼、一匹の大鬼がついており、閻君を囲んで跪き、願い事をし、李氏を人の世に還すようにと頼んでいました。閻君は怒って叱りつけますと、小鬼たちを追い出し、大鬼を二十回板責めにしました。大鬼は責めを受けた後も、何度も哀願しました。『わたくしは父祖以来、みな本分を守り、悪事をなそうとしませんでした。罪は跡取りが絶えるほどのものではございませぬ。妻はさんざん苦労して、ようやく一人の嫁を娶ることができましたが、今また病死してしまい、再婚する資力はございませぬ。一家の血筋は絶えてしまいます。どうか嫁を人の世にお還しになり、子を生んで血脈を延ばされますよう』。閻君は怒りがすこし晴れますと、判官に命じて帳簿を調べさせ、じっくり閲し、大鬼に尋ねました。『おまえの嫁の李氏は寿命がすでに絶たれているから、還すことはできないが、とりあえずおまえは世で悪行がなかったことを考慮し、おまえの妻も貞節を守り、孤児を育てたのだから、血筋を絶やせば、善を勧めることができなくなってしまおう。方氏の娘は寿命が尽きるべきではあるが、かれもまた生前すこぶる善行を好んでいたから、李氏の屍を借りて生き返らせれば、おまえは嫁を失って嫁を得ることになろう』。大鬼は拝謝しました。閻君は大鬼を指すと告げました。『これはおまえの舅だ。かれにおまえを連れてゆかせ、屍を借りて蘇らせ、子を生ませ、祭祀を続けさせるとしよう』。わたしが舅に隨ってこちらに来ますと、舅はわたしに指し示して『これはおまえの姑だ』と言い、わたしを推して地に転ばせました。眼を開きますと舅は見えず、お義母さまがわたしの傍に立っていました。わたしはもともとお義母さま一人を存じ上げていただけで、ほかの方々は存じ上げないのでございます。わたしの家の父母はみな生きており、一人の弟は、年は十六、人を遣わして知らせれば、父母は啼かずにすみましょう」。
 姑が子を遣わして訪問させたところ、はたして言った通りであった。事情を告げると、その父は弟とともに嫗の家にやってきた。方氏はかれらを見るとすぐに抱きついて哭いたが、父は後ずさりして、進み出ようとせず、「声音と動作はうちの娘と似ているが、面貌(かお)が違うのは、なぜなのだ」と言った。女は父に向かって泣きながら言った。「わたしは李氏の体を借りて生まれましたので、わたしの本来の顔形ではないのです。さいわい実のお父さまと同腹の弟に会うことができましたが、お母さまは情けないことにわたしに会いにこられず、お父さまと弟も疑ってわたしを認めようとしません。死んだ方がようございます」。
 悲しんでいると、その母が隣家の嫗を遣わして様子を見にこさせたが、娘はすぐに某媽媽を呼んだ。「どちらから来られましたか。母もわたしに会いにきましたか」。父ははじめて撫でて慰め、昔のことを尋ねると、すこしも間違えなかったので、はじめてかれの再生であることを信じた。姑はその父と弟をねんごろに家に引き留めた。晩になると、子に嫁と同じ部屋にいるように命じた。嫁は断った。「わたしは処女で、宿縁はもう定まっておりますが、わたしの母が来るのを待って、吉日を択び、夫婦の礼を行いたいと思います。野合することはできません」。親戚隣人はみな良いことだと言った。父もとても喜び、その子を帰らせ、母を迎えてこさせると、はじめて合巹させた。
 三年後、一子を生んだ。子が生まれて百日目、親戚友人が祝いにくると、たちまち姑に向かって言った。「あなたの家のために跡取りをお作りしました。わたしは寿命がとっくに尽きていますから、去ることにいたします」。瞑目して亡くなった。人々は冥官が慣例を破って事を処理したのは、陽官が公務のために銭糧を転用するようなものだと噂した[62]

最終更新日:2007216

子不語

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[1]実在の人物ではないが、『三国志演義』に登場する武将。関帝廟で関羽の脇士となっている。奇怪な容貌をしている。写真

[2] 道家の呼吸法。食気とも。胡孚琛主編『中華道教大辞典』九百七十六頁参照。

[3] 武官名。正七品。

[4] 原文「竟往設帳」。帳」は蚊帳のことであろう。

[5]周の霊王の太子王子喬。笙を吹くのを好み、鶴に乗つて昇天したという話が、『太平広記』巻四引『列仙伝』王子喬に見える。

[6] 原文「上帝削籍」。籍は提督になる運命にあるものを記した冊籍であろう。

[7] 蒋士銓。『清史稿』巻四百九十などに伝がある。太史は官名。翰林のこと。

[8] 左右の手を胸の前で組み合わせて、これを上下前後に動かしてする礼。

[9] 史可法。明末の忠臣。明滅亡の際、南京兵部尚書だったが殉難した。『明史』巻二百七十四などに伝がある。閣部は内閣のこと。

[10] 福建省の県名。

[11] 頭の巨大なさま。

[12] 官吏の肩書き。

[13] 江西省の県名。

[14] 未詳だが、鸞鳥の飾りの付いた笄であろう。

[15] 写真:周汛等著『中国歴代婦女妝飾』六十八頁。

[16] すなわち話者自身。

[17] 小麦を使った菓子、主食の総称。もちではない。

[18] 上元節に街巷に飾り付けられる提灯。

[19] 未詳だが、漂白した麻の繊維であろう。

[20] 服喪中の婦女が戴く白いまげ。

[21] 山西省。

[22] 観察は按察使。

[23] 原文「以兩手圍其伴、愈圍愈逼」。未詳。とりあえずこう訳す。

[24] 原文「山陰呉某耳孔有一洞」。耳孔有一洞」という状況が未詳。にとりあえずこう訳す。

[25]沈萍如という人物なのであろうが未詳。

[26] 原文「待繩擲盡」。複数の縄をすべて投げたということではなく、五十二丈の縄全体を空中に浮いた状態にしたということ。

[27]親家翁。子供が結婚している者同士の、相手に対する呼称。

[28] 前注参照

[29] 原文「先是悔庵得古錢千文、欲其生青?」。どうして緑青を生じさせようとしたのかが未詳。とりあえずこう訳す。

[30] 原文「紙店」。紙銭や紙馬などの葬具を売る店であろう。

[31] 「高興」はここでは「興に任せて記す」ぐらいの意味であろう。

[32]明府:県令。

[33] 山名。孝感県の東北にある。九宗山とも。

[34] :『三才図会』

[35] 荘炘。武進の人。『清史列伝』巻七十二などに伝がある。

[36] 原文「骨肉未寒、猶可還陽。否則東嶽行査檄至、城隍將受處分矣」。否則東嶽行査檄至」が未詳。とりあえずこう訳す。

[37] 原文「尚有一事奉托、如晤包少府、渠承辦工程木料、日内可到矣」には訳文の「お伝え下さい」にあたる部分がないが補って訳す。

[38] 福建省の県名。

[39] 原文「木料皆出?口鎮矣」。?口鎮の位置は未詳。したがって「黒口鎮に出てきた」のか「黒口鎮から出てきた」のかは未詳。とりあえずこう訳す。

[40] 陝西省の県名。

[41] 未詳だが、馬の鬣で編んだ騣帽のことであろう。周等編著『中国衣冠服飾大辞典』六十六頁参照。

[42] 黒緞子。

[43] 未詳だが、黒い紗であろう。

[44] チョッキ。背褡、背搭、背単。

[45] 山東省の州名。

[46] 河南省の県名。

[47] 元宵節。陰暦一月十五日。

[48] 巡撫と巡按。

[49]盛京は遼寧省瀋陽。盛京将軍は官名。盛京に配置された将軍。

[50] 「くすしきひつぎ」というくらいの意味。

[51] 福建省。

[52] 幕僚の居所。「〜に赴いた」とは幕僚になったということ。

[53] 「秀才だ」に掛かる。

[54] 『易経』が魔除けになるという話が『子不語』巻八「張奇神」にも見える。

[55] 原文「三人拍手大劇」。拍手大劇」がどういう感情表現なのかが今ひとつ未詳。おおむね面白がっているのであろうが。

[56] 杉の一種。宋范成大『桂海虞衡志・草木』「沙木与杉同類、尤高大、葉尖成叢、穂少与杉異。」。一説に杉の别称。明李時珍『本草綱目・木一・杉』参照。

[57] 馬蹄銀。

[58] 馬匹が運ぶ速達郵便。

[59] 蒋和寧。乾隆十七年の進士。

[60] 薬名。糞の中に、蓋をした空の素焼きの壷を入れて数年おくと、壷の中にたまる液体。黒くて苦いという。明李時珍『本草綱目・人一・人屎・糞清・釈名』「弘景曰、近城市人以空罌塞口、納糞中、積年得汁、甚而苦、名爲黄龍湯、療瘟病垂死者皆瘥。」。

[61] 羊癇瘋、羊癲瘋、羊角瘋すなわち癲癇。

[62] 原文「人相傳冥官破例辦事、猶陽官之因公挪移云」。挪移」は役所の用語。公の金銭、食糧を本来とは別の目的で使用すること。

 

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