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第十一巻

 

通判の妾
 徽州府庁の東側は、前半分は司馬の役所、後ろ半分は通判の役所、真ん中に土地祠があり、通判の役所の衙神となっていた。乾隆四十年春、司馬の役所の裏の塀が倒れ、祠と繋がった。
 その晩、署内の老婆がたちまち地に倒れたが、中風になったかのようであった。助けると蘇り、腹が減ったと叫んだ。ご飯を与えたが、食べる量はふだんの倍であった。左足はすこし(びっこ)に、言葉は北方の言葉になっており、「わたしは哈什氏で、前の通判某の妾になり、すこぶる寵愛されていましたが、正妻に苦しめられ、桃の樹の下でみずから縊れたのです。縊れた時は悪霊となり復讐することを望んでいましたが、死んだ後、縊れ死ぬべき運命であったこと、生前苦しみを受けたのも、すべて運命で、報いることができないことをはじめて知りました。冥府の慣例では、官署で死んだ者は、衙神に捕らえられ、塀が崩れなければ、魂が外に出ることはできません。わたしはずっと奥の楼に棲んでいましたが、昨日袁通判さまが着任してきて、わたしを追い立てて祠に入れ、その後ははいへんお腹が空いております。今回さらに塀が崩れて、わたしの左腿は傷つき、苦しくて耐えられません。あなたの体に憑いて食べ物を求めているだけで、あなたを害しているのではございません」と言った。それからは嫗は昼は眠り、夜は食らい、苦しむこともなく、しばしば人の過去の事を語ったが、よく当たっていた。
 これより前、司馬は愛娘を家で亡くしていた、赴任の時に娘の位牌を某寺に置き、折々祭らせていたが、すべて嫗の知らないことであった。司馬は嫗が冥界のことを語ることができるのを見ると、「わたしの娘がどこにいるか知っているか」と尋ねたが、「娘さんはこちらにはいらっしゃいません。きちんとお調べしましたらお話ししましょう」と答え、翌日、司馬に言った。「娘さんは某寺でとても楽しくしていらっしゃり、得られたお金は、大いに余裕がございますので、人の世に生まれ変わることをお望みではございませんが、今春手に入れられた衣裳はたいへん小さく、着ることができません」。司馬は大いに驚き、衣が小さいわけを尋ねたところ、しもべを祭りにゆかせた時、作った衣裳が途中雨で汚れたため、しもべが市場でこっそりと紙衣に買い代えていたためであった。
 まもなく、新しい通判が着任し、役所を修理し、版築を行うと、嫗は言った。「塀が完成したら、わたしはまたもとの場所に帰らなければなりません。一たび入れば、今度はいつ出られるか分かりません。皆さまにはたくさんの冥銭[1]をお求めします。夜に塀の角で焚かれれば、わたしはそれを得て衙神に賂し、天下を逍遥することができましょう」。司馬が言われた通りに焚いたところ、翌日、嫗は喜びの色を浮かべて言った。「ご主人さまはとても賢いお方です。お別れに差し上げるものはございませんが、わたしは琵琶が上手で、歌うことも、お酒を飲むこともできますので、一曲歌ってご主人さまにお礼しましょう」。司馬が美酒を並べ、琵琶を置いてやると、嫗は弾きながら歌った。「三更の風雨五更の鴉、落ち尽くす夭桃一樹の花。月下望郷台上に立ち、断魂するは(いづ)れの処か天涯ならざる」。音調は淒然として、歌いおわると、琵琶を擲ち、瞑目して坐した。人々がさらに尋ねると、蹶然と起ち、言葉や笑顔は、もとの愚かな老婆となり、足も(びっこ)でなくなった。
 幕客の崔先生はしばしばかれと問答していた。かれが腹が減ったと言うと、崔は「ここは府の厨房に近いから、行って食べ物を求めてはどうだ」と言ったが、「府庁の神さまはもっとも厳しいので、入るわけにはまいりませぬ」と答えるのであった。かれが袁通判に追い払われた時のことを語ると、崔は「袁通判は着任して大病になったから、おんみが避けることはあるまい」と言ったが、「あのかたはご病気になられましたが、死ぬには至らず、将来はさらにご出世なさいますから、避けないわけにはまいりませぬ」と答えるのであった。袁通判とは、わたしの弟香亭[2]である。

劉貴孫鳳
 阜陽[3]の王尹は、しもべの劉貴を下役の孫鳳とともに江寧に行かせ公務をさせた。鳳はもともと勇敢で、世の中の弱い者を助けることを好んでいた。正月二日、貴が鳳を迎えて淮清橋で朝酒を飲んでいたとき、鳳は人混みの中で指さすと罵った[4]。「新年は借金を取り立てる時ではなく、飲屋は殴打をほしいままにする所ではない。この人を苛めることはできても、わたしを苛めることはできぬぞ」。引いたり守ったりする動作をした。仲間はそのわけが分からなかったので、尋ねようとしたところ、鳳はたちまち瞑目して言った。「こいつはわたしに借りがあるのだ。わたしは遅れること数十年[5]、七千余里後をつけ、今回ようやく捕まえたのだ。おまえとは関わりない。放してやれだと。こいつを放せというのなら、おまえが代わりに償いをするべきだ」。そう言うと、みずからその頬を打った。人々が引き止めると、にわかに涎を垂らし、目を瞠り、頽然と地に倒れたので、人々は舁いで宿に帰った。
 まもなく蘇ると言った。「わたしは店に入ったとき、街で一人の男を見たのだ。額には血痕があり、姿は乞食のよう、一人の儒生を掴み、借金を取り立て、棒で打ったり唾を吐いたりしていた。儒生は痛みに耐えられず、街の人々に向かって救いを求めていたが、一人も対応する者はいなかった。わたしは不満に思ったので、忿然と大声で罵った。男が驚いて手を放すと、儒生は趨ってわたしの右側に隠れた。男が捕まえにくると、わたしは拳を揮った。格闘していると、儒生は逃げて、行方が知れなくなった。借金を取り立てていた男はわたしに邪魔されたが、あの時は備えがなかったので、酷い目に遭わされたのだ。また来たら、こっぴどく殴るだろう」。そして馬の鞭でみずからを守ることにした。人々はかれが恙ないのを見ると、すこしずつ散ってゆき、貴だけはいっしょにいた。
 晩になると、鳳は貴に「あいつが門の外に来た」と言い、鞭を執って起とうとしたが、手足はすべて縛られたかのよう、前のように頬を打つと罵った。貴は困って鳳に揖すると言った。「どなたでしょうか。このひとがあなたに何か債務を負っているのなら、わたしが代わりに償いましょう」。鳳は言った。「わたしは名を王保定といい、儒生は名を朱祥といい、前世ではわたしから身売りの金を貰っており、借金があるのではない[6]。もともと鳳と関わりはなく、鳳は無理に他人の事に関わるべきでないから、わたしは怒って苛めているのだ。おんみが代わりに償いし、それが手厚く、わたしを満足させるなら[7]、わたしはすぐに去るとしよう。そうでなければ、おんみにも害を及ぼそう」。貴が大いに恐れ、大勢の仲間を集め、紙銭数万を買い、焼きおえると、貴に向かって拱手し、お礼した。「十年後また儒生を捕まえたら、また鳳を連れてきて証言させなければならん[8]」。鳳は蘇り、起きあがったが、顔色は疲れ、以前のように健やかではなかった。

狐の詩
 汝寧府[9]の察院には狐が多く、毎年修築があるたびに、狐は四方に出て害をなし、工事が終わればおとなしくなるのであった。学使[10]が来ると、狐に煩わされることが多かったが、盧公明楷が着任し、祭るとおとなしくなったので、それからは祭ることが慣例となった。学使が来ると、役所の後ろにある小さな(たかどの)で祭るのだが、そこは狐の住処と伝えられていた。後任の学使が来たとき、二人のしもべはそのことを知らず、その(たかどの)(しじ)を置いた。朝起きると、人が叫ぶ声が聞こえたので、見にゆくと、二人のしもべが裸で(たかどの)の下に縛られており、腕にはそれぞれ二句の詩が書かれていた。その片方の腕には「主人はわれを祭りしにおんみは(とこ)を置きたりき、こころみに考へよかし妨げのありやなしやと」とあり、片方の腕には「前日はおんみの酒果[11]を享けざれば、今朝はおんみを借りて猪羊[12]の代はりとぞなさん」とあった。

大小の緑人
 乾隆辛卯、香亭は同年の邵一聯[13]とともに入京した。四月二十一日、欒城の東関に着いたところ、宿には車馬が満ちていたが、新しく開いた宿だけは客がいなかったので、投宿した。邵は(おもて)の間に泊まり、香亭は奥の間に泊まった。
 初更になり、それぞれ(しじ)に就き、燈を燃やし、壁を隔てて語っていると、たちまち身長一丈ばかりの人、緑の顔に緑の鬚、(うわぎ)や靴もすべて緑のものが、門から入ってきた。その冠は天井紙[14]に擦れ、ざわざわと音をたてていた。後ろにはさらに一人の小人がいたが、身の丈は三尺に満たないものの、頭はとても大きく、やはり緑の顔、緑の衣冠、ともに(しじ)の前に行くと、袖を挙げ、上下に舞う動作をした。香亭は叫ぼうとしたが口が開かず、耳には邵の言葉が聞こえたが、まったく返事することができなかった。まさに惶惑していると、(しじ)の傍の(つくえ)の上にさらに一人の男が倚りかかっていた。痘痕面で長い髯、頭には紗帽を戴き、腰には大帯[15]を締め、巨人を指さすと「これは鬼ではない」と言い、大きな頭の者を指さすと、「これは鬼だ」と言った。さらに二人に向かって手を振って語ると、二人は頷き、それぞれ香亭に向かって拱手した。拱手するたびに、一歩退き、三たび拱手すると三たび退いて出てゆき、紗帽の者も拱手して消えた。香亭がにわかに起ち、はじめて外に出ようとすると、邵も狂って叫びながら、にわかに起ち上がり、駆け込んできて、「怪しい事だ」と叫んでやめなかった。香亭が邵に「君も大小の緑人を見たのか」と言うと、邵は手を振って「そうではない。そうではない。ようやく枕に就いた時、(とこ)の側の小部屋で陰風がひゅうひゅうと吹き、冷たさが髪に沁み込み、寝ることができなかったので、君に話しかけていたのだ。やがて君に呼びかけたが返事はなかった。部屋の中には大小の人の顔、盂[16]や盎[17]のようなものが数十、行ったり来たりして定まらなかった。はじめは眼が霞んだかと疑い、怪しまなかったが、たちまち大小の人の顔が敷居の中に積み重なって、上下に満ち、さらに一つの大きな顔、石臼[18]ほどの大きさのものが、多くの顔の上に加わり、みなわたしを見て笑ったので、枕を投げて起ったのだ。緑人とやらは知らないよ」と言った。香亭も見たことを告げ、馬に秣も食わせずに出発した。
 まもなく、二人のしもべがこそこそとひそかに話しているのが聞こえた。「昨晩宿った幽霊旅館は、投宿する人が死ぬことが多く、そうでなくても発狂、佯狂するのだ。県官は調査に疲れ、閉鎖されてすでに十余年になる。昨日一泊して恙なかったのは、(あやかし)がいなくなったからなのか、二人の客が貴くなるからなのだろうか」。

紅衣娘
 劉介石太守は、若い時、乩仙に仕えており、みずから言うには、泰州の分司[19]に任ぜられていた時、毎日祈り、招いていた、来る者は仙女と称したり、司花女と称したり、海外瑤姫と称したり、瑤台侍者と称したりしていたが、詩を吟じれば鄙俚であり、章句を成さず、吉凶を説けば、一つも験がなかったということであった。
 役所の後ろの藕花洲[20]に楼があり、秦少游[21]の旧跡だと伝えられていた。ある晩、楼に登り符を書くと、乩はたちまち「紅衣娘」の三文字を記した。物事を尋ねても答えず、「(まみ)は魚目のごとくして夜もすがら懸け[22]、心は酒旗のごとくして日もすがら掛かるなり[23]。月光は照らしたり十三楼[24]、ただひとり上りきてただひとり下るなり」とだけ書いた。太守は詩を見ると、おかしいと感じ、退くように頼んだ。翌晩ふたたび招いたところ、またも「紅衣娘が参りました」と書いた。太守が「おんみはいかなる籍に属してらっしゃるのでしょう[25]。詩には怨みがあるかのようです。それに十三楼はこの地にはございませんのに、どうしてお詠みになったのでしょう」と尋ねると、さらに書いた。「十三楼は十三時をぞ愛すなる[26](たかどの)のありやなしやをなどてかは知る。言寄せん藕花洲なる(まらうど)よ、今宵燈下に佳期ぞあるべき」。書きおわると、乩は動いて止まらなかった。太守は懼れ、盤を棄てて奔ると寝台に就いた。見ると二人の(はしため)が緑の紗燈を持ち、紅衣の娘を引きながら冉冉とやってきたので、剣を抜いて揮ったところ、たちまち消えた。それから毎晩かならず来たので、安眠することができなかった。数か月後、引っ越すとはじめて消えた。

秀民冊
 丹陽の荊某は、童子試に応じた。夢でとある廟に行ったところ、上座には王者が坐しており、階の前の下役たちは冊子を捧げて立ち、風采はとても立派であった。荊が冊子を指さして下役に「これは何でしょうか」と詢ねると、「科甲冊です」と答えた。荊が欣然として「お調べください」と言うと、下役は「よろしい」と言った。荊は平生鼎元[27]になると自負していたので、まっさきに『鼎甲冊』を求め、くまなく調べたが名はなかった。さらに『進士孝廉冊』を調べたが、まったく名がなかったので、おもわず顔色を変えた。下役は「『明経秀才冊』にあるかもしれません」と言い、くまなく調べたがやはりなかった。荊は大いに笑って言った。「これはでたらめです。わたしほどの教養があれば、天下の魁となることができるのですから、秀才になれないはずがありません」。その冊子を破ろうとすると、吏は言った。「お怒りになられますな。さらに『秀民冊』があり、調べることができます。秀民とは、文才があって官禄がない者です。人の世では鼎甲[28]が第一ですが、天上では秀民が第一なのです。この冊子は宣明王[29]の所管ですから、王にお願いなさいまし」。
 言われた通りにすると、王は(つくえ)の上に一つの冊子を出したが、黄金の絲で白玉の牒が綴じられており、第一頁を啓くと、第一名が「丹陽の荊某」であった。荊が大声で哭くと、王は笑って言った。「おんみは何と愚かなのだ。昔から幾人の名状元、名主試[30]がいたか数えてみよ。韓文公[31]の孫の袞は状元に合格したが、人々は韓文公を知るばかりで、袞がいたことを知らぬ。羅隠は終生及第しなかったが、今でも人々は羅隠を知っている。おんみは帰って実学を研究なさればよかろう[32]」。荊が「科挙合格者にはまったく実学がないのですか」と尋ねると、王は「文才があり、さらに文福があるのは、一つの時代で数人に過ぎぬ。韓、白、欧、蘇[33]などがそれだ。かれらの姓名は、別に紫瓊宮にあり、おんみとはもっとも縁がないものだ」と言った。荊が答えないでいると、王は衣を払って起ち、高吟した。「及第は区区として羨むに足らざるものぞ、貴人の伝へらるる者は古より多きことなし」。荊は目覚めると怏怏として、結局及第せずに亡くなった。

妓仙
 蘇州西磧山の後ろに雲隘峰があり、言い伝えではその上に仙跡が多く、身投げすれば上ることができる、死ななければ仙人になることができるとのことであった。王生という者がおり、しばしば受験したが合格しなかったため、志を立てて家人と別れ、食糧を包んで登っていった。さらに上ってゆくと、平原があり、広さは百畝ばかり、雲樹蓊鬱[34]たる中、懸崖の上に一人の娘がいるのがぼんやりと見えたが、衣装は世の人々のよう、樹の下を徘徊していた。不思議に思い、趨って進むと、女も林を出て眺めた。近づいて見ると、六七年前に親しんだ蘇州の名妓謝瓊娘であった。たがいに知り合いだったので、女もとても喜び、生を連れて草庵に行った。
 庵には門がなく、地には松葉が布かれていたが、厚さは数尺、履めば軟かく愛すべきものであった。女は言った。「お別れした後、太守[35]汪公に捕らえられ、衣を剥がれ、杖を受け、お臀の肉がすっかり落ちてしまいました。花か(ぎょく)の姿が、一朝にしてこのような有様となり、これ以上人の世に生きるのは面目ないと思われましたので、身投げすることに決め、鴇母(やりて)に別れ、お参りを口実に、懸崖に行き、身を躍らせて飛び下りますと、(さるおがせ)や蔓に絡まり、死なないですみました。白髪の老婆がわたしに松花[36]を食べさせ、わたしに服気[37]を教えましたので、飢えや寒さを感じませんでした。はじめは風や日に苦しめられましたが、一年後、霜、露、風、雨、すべてが怖くなくなりました。老母は向かいの山に居り、しばしば訪ねてまいります。昨日老母がやってきて『今日、おまえは古馴染みと会うだろう』と申しましたので、林を出て散歩していたのですが、はからずもお会いすることができました」。そして「汪太守は死んだのでしょうか」と尋ねた。生は言った。「分かりません。あなたは仙人なのに、やはり怨みに報いるのですか」。女は言った。「汪公に苛められなければ、こちらに来ることはできませんでしたから、感謝するべきであり、報復するべきではございません。しかし老母はわたしに『たまたま天庭[38]に遊んだが、お前を杖打ちにした汪太守が神さまに背を笞打たれ、その罪を責められているのを見たよ』と申しましたので、亡くなったかと疑ったのでございます」。生が「(うたいめ)を杖打ちにしてはいけないのですか」と言うと、女は言った。「(うたいめ)を愛して心を動かさない者は、(ひじり)です。(うたいめ)を愛して心を動かす者は、人です。(うたいめ)を愛することを知らない者は、獣です。それに天はもっとも人の心を責めるものです。汪公は以前撫軍[39]の徐士林[40]が理学者として有名であったため、ことさらに殺伐としたことをしてご機嫌を取り、その心が天に憎まれたのです。それにかれにはたくさんの罪があり、(わたし)を杖打ちにした事だけに止まりませぬ」。生が「仙人は汚れないものだと聞いていましたが、あなたは平康[41]に落ちて久しいのに、成道することができるのですか」と言うと、女は言った。「淫媟[42]は礼儀に適っていませんが、男女が愛しあうことは、天地生物[43]の心に過ぎませぬ。屠刀を棄てれば、たちまち仏と成ります[44]。人の世の懺悔するのが難しいほかの罪とは違います」。
 生は仙界を訪ねてきた真意をくわしく話し、庵に宿ることを求めた。女は言った。「お泊まりになることは構いませぬが、仙人に成ることはできないでしょう」。そして生のために衣を解き、枕を置き、情愛は昔のようであったが、会話は淫らなことには及ばなかった。生がその臀を触って見たところ、白く滑らかなのは昔のままで、女も拒むことがなかった。しかし心がすこし動くと、女の顔は厳めしくなり、門の外では猿が啼き、虎が嘯き、首を戸に突っ込んだり、爪を門に入れたりし、窺っているかのようであった。生はおもわず邪心を鎮め、女を抱いてきちんと臥すばかりであった。夜半、門の外で叫ぶ声が聞こえ、車馬従者、貴人顕官は往来して引きもきらなかった。生が怪しむと、女は言った。「これは山々の神が往来しているのでございます。毎晩多うございますので、どうか無礼をなさりませぬように」。
 夜明けになると、女は生に言った。「ご親戚、お友達が麓に訪ねてきていますから、はやくお返りになるべきです」。生が行こうとしないでいると、女は言った。「仙縁はございますから、また来られても遅くはございません」。崖に送ってゆくと、突き堕とした。生が振り返ると、女が雲霧の中に立っていたが、情はとりわけ依依としており、一時(いっとき)後、姿はようやく消えた。生がよろよろと奔って帰ると、その兄としもべが紙銭を持って麓で哭礼しており、生はすでに死んで二十七日になるので、供養しにきたと言うのであった。汪太守を訪ねると、中風で亡くなっていた。

李百年
 無錫張塘橋の華協権という者が、物好き数人とともに家に乩盤を設けた。降りてきた者は仲山王問[45]だと言った。仲山は、明の進士で、無錫の名士であった。そこで人々がかれとやりとりしたところ、言葉を吐けばぎこちなく、詩もそれほど味わいがなかったが、招くたびにかならずやってくるのであった。時に華は方一楼を構えたので、乩仙を招いてその扁額に題してもらうことにした。乩仙は言った。「無錫の秦園に『聊か逍遥して容与たり[46]』という扁額がございますが、これを用いることができますか」。人々はこの言葉は屈子に出典があるのに、わざわざ秦園と言うとは、仲山の言葉らしくないと訝った。
 ある日、人々と会話して楽しんでいると、突然「わたしは去ろうと思います」と書いた。「どちらにお行きになるのです」と尋ねると、「銭汝霖の家に呼ばれて宴会に赴くのです」と言い、乩は静かになった。銭汝霖とは、やはり郷里の人で、住んでいる処は張塘橋から二三里足らずだったので、人々が怪しんで探ったところ、この日は病気のために神に祷っていたのであった。
 翌日、乩仙がまた来たので、華は尋ねた。

「昨晩は銭家でお酒を召されましたか」

「はい」

「たくさんのご馳走でございましたか」

「すこぶる宜しゅうございました」

人々は嘲った。

「銭さんは神に祷っていたのであって、乩仙を招いていたのではない。招かれていたのは城隍土地の類で、高士王仲山は宴に赴いてはいなかった」

仙は言葉に詰まると、言った。

「わたしは王仲山ではなく、山東の李百年なのです」

「百年とは誰だ」

「わたしは康熙年間にこちらで棉花を売り、死んで帰ることができなくなり、魂は張塘橋の庵に附いているのです。庵には無縁仏がおり、わたしを入れて十三人、みな罪業がなく、束縛がございません。里中[47]の祷る者たちは、みなわたしたちを祀っているのでございます」。

華が「かれらが祷っている城隍廟の神々は、みな位牌に名があるが[48]、おまえは名がないのに、どうして仲間になれるのだ」と言うと、「城隍廟の神々は軽々しく人家に飲食しにゆくことはできません。祷っている者たちはみな無駄なお供えをしているのです[49]。ですからわたしたちはそれを享受することができるのです」と言った。華が「名がないのに食べ物を横取りするとは。天帝がそれを知ったら、罪を加えるだろうが、どうするつもりだ」と言うと、「天の上では祷りがあることは知りません。これらはすべて愚民が習俗としてすることです。化け物が食を求めることは、時折ございますが、所詮生死に関わりはございません。それにわたしが求めたのではなく、かれらがみずから設けたものを、わたしが享けているのですから、天帝に逆らうことにはなりません。おんみの家のお茶やお酒も、わたしが求めたものではございません」と言った。

「それならば、王仲山の名を騙る必要はないだろう」

「おんみの家の簷頭神[50]が符を執って招きにきましたが、かれは真仙を招こうとはせず、招いたのはすべてわたしたちでした。十三人の中で、わたしだけがすこし字を識っていたので、ひとまず命に応じたのです。『李百年』という姓名を書いただけなら、みなさんはわたしを祀ろうとはしないでしょう。わたしはこの地の人家の扁額に仲山王問の書が多いのを見て、名士であることを知り、その名を騙っただけなのでございます」

「『聊か逍遥して容与たり』の六字はどこから引いたのだ」

「わたしは秦家の庭園で見ただけで、出所を知りません。聞きかじりをして、識者に笑われてしまいました」

華は言った。

「束縛がないのなら、山東に帰ってはどうだ」

「関や津や橋に神がおり、お金がなければ通ることができません」

華は言った。

「わたしが今から一陌の紙銭でおまえを送り返すのは、どうだ」

「はい、ありがとうございます。お恵みくださるのであれば、さらに一陌を橋の神に与えるべきでございます。そうでなければ、賜り物を得られませぬので」
 その時、華の甥の某が傍から言った。

「わたしは朝晩橋を通っているのだが、おまえはわたしに祟っているのではあるまいね」

「先ほど申し上げました。鬼は祟ることはできません」

そこで紙銭を焚いて送り、乩を壊した。

嫉妬を治すこと
 軒轅孝廉は、常州の人、年は三十だが子がなかった、妻の張氏は異常に嫉妬深く、孝廉は虎のように畏れ、妾を置こうとしなかった。その座主[51]馬学士某はそれを憐れみ、一人の妾を贈った。張氏は怒り、わたしの家の事に関わるのなら、わたしも計略を設けてかれらの家を乱そうと考えた。たまたま学士は連れ合いを亡くしたが、張は某村の娘が凶暴なことで有名であるのを知ると、媒婆に賄して馬に説かせ、娶って夫人にさせようとした。馬はその趣意を知ると、欣然と婚約しにいった。
 結婚の日、結納の中に五色棒[52]一本があり、「三世伝家搗藁砧(とうこうちん)」と書かれていた。合巹がおわると、妾たちが拝礼した。夫人が「おまえたちは何者だ」と尋ねると、「妾にございます」と言った。夫人は叱りつけた。「堂堂たる学士の家でありながら、妾を置くべき道理があるかえ」。すぐに妾たちを棒打ちにした。馬は妾たちに命じてその棒を奪わせ、一斉に殴らせた。夫人は力では勝てないので、部屋に逃げ込み、罵ったり哭いたりした。妾たちはそれぞれ銅鑼、太鼓を撃ち、その声を乱し、聞こえないようにした。夫人がやむをえず、自尽すると触れまわったところ、侍者は刀と縄を用意し、「旦那さまはかねてから奥さまがこうなさることをご存じでございます。この不吉な物を用意してお贈りしましょう」と言った。そして妾たちはそれぞれ木魚を敲き、往生呪を誦え、夫人がはやく仙界に昇ることを願い、その声は嘈嘈然たるものであった。夫人が自殺を図ると言っても、やはり聞いていないようであった。夫人はもともと女傑であったので、こけおどしをしたが、計略はすでにすべて施してしまった、益体もないことをしたと思い、怒るのを止めて喜び、学士を招き入れ、色を正すと言った。「あなたはほんとうの夫です。わたしは敬服いたしました。わたしが施したさまざまな策は、祖母の伝えたものですが、世間のぼんくらな男たちを嚇すもので、あなたに対して施すものではございません。これからは、改めてあなたにお仕えしますので、あなたも礼節をもってわたしを待遇なさるべきです」。学士は言った。「そのようにできるなら、何も言うことはない」。すぐにあらためて交拝の礼を行い、妾たちに命じて謝罪、叩頭させ、不動産の帳簿、一切の金幣珠翠[53]を取ると、すべて夫人に渡して管理させた。一月(ひとつき)で、馬家の家政は正しく穏やかになり、内外につまらぬ噂は立たなくなった。
 張氏は学士の結婚の日に、すぐに人を遣わして探りにゆかせ、召して尋ねたところ、妾たちのことを聞いたり見たりしたというので、こう言った[54]

「どうして棒で打たなかったのだえ」

「闘いに敗れたのです」

「どうして罵ったり哭いたりしなかったのだえ」

「銅鑼、太鼓の声がうるさくて聞こえなかったのです」

「どうして自殺を図らなかったのだえ」

「すでに刀と縄が用意してあり、往生呪を誦えて送ろうとしたのです」

「それなら夫人はどうしているかえ」

「すでに詫びを入れて投降しました」

張は大いに怒り、罵った。

「この世にこんなに役に立たない女がいるとは。大失敗だ[55]
 当初、学士が妾を贈った時、門生たちは羊と酒を用意して軒轅生にお祝いをしにいったが、平素酒乱である者が同行していた。酒が酣になると、張氏は(ついたて)の後ろから客を罵った。客たちは我慢していたが、酒乱の者は進み出ると張氏の髪を握り、その頬を打ち、「軒轅兄を敬うのなら、わたしの(ねえ)さんだが、軒轅兄を敬わぬなら、わたしの仇だ。門生に子がなく、先生が妾を贈ったのは、あなたの家の祖宗三代のことを考えただけのことだ。わたしは今からあなたの家の祖宗三代のためにあなたを懲らそう。一言余計なことを言ったら、わたしの拳で死ぬだろう」と言った。客たちが争って進み出て、引き止め、宥めたので、はじめて逃れることができたが、裙は裂け、衣は破れ、その陰部をほとんど露わになっていた。張はもともと牝夜叉と称せられていたが、一朝にして威力は大いに損なわれたので、ますます馬学士を恨み、かれに贈られた妾をひどく苦しめることによって怒りを晴らすばかりであった。しかし妾はかげで学士の教えを受けていたので、ひたすら従い、家に入ったものの、軒轅生とは一言も交わさなかった。張はしばしば笞うったり罵ったりしたものの、殺すには忍びなかった。
 まもなく、学士は百両を手にして軒轅生に贈ると言った。「明春会試があるから、この路銀を持ってはやく入京するべきだ」。生はその通りだと思い、帰ると張氏に別れを告げた。張氏はかれが家で妾に親しむことを慮っていたので、喜んで許した。生が舟に乗ると、馬は人をやって家に迎え、奥の庭園に閉じ込めて読書させ、ひそかに媒婆を遣わして張氏に説かせた。「軒轅生さまが外出しているうちに、妾をお売りになってはいかがでしょうか」。張は言った。「そう考えているのだが、遠方に売るならば、後の患えがないだろう」。嫗は言った。「お易いことにございます。お易いことにございます」。まもなく、陝西の布商人で醜い鬍面のものが、三百両を担いでやってきたが、妾を呼び出して見たところ、喝采して止めず、すぐに取引が成立した。張氏は余憤が収まらなかったので、その(うわぎ)(はきもの)を剥ぎ、一本の簪さえも身に着けさせなかった。妾は竹轎に乗り北橋を過ぎると、大声で「わたしは遠くへ参りませぬ」と叫び、河に身を投げたが、学士はすでに小舟を用意しており、迎えて庭園に行かせ、軒轅生と部屋を同じくさせた。張氏は妾が河に身を投げて死んだことを聞くと、はじめは驚き疑っていたが、陝西の商人が門を蹴って入ってくると言った。「わたしは人を買ったのであって、鬼を買ったのではないぞ。おまえの家は妾を売るということを、説明しなかったな[56]。良家の人に逼って卑賎なものにして[57]、他国者のわたしを欺くことはできないぞ。はやく銀を還せ」。怒りながら罵った。張氏は返す言葉もなく、もとの銀[58]三百両を与えて去らせた。
 一日後、白髪で藍縷(ぼろ)を着た男女二人の老人が号哭しながらやってくると「馬学士さまはうちの娘を貴宅に贈り、妾にしたが、娘は今どこにいるのだ。生きているならわたしに人を還せ。死んでいるならわたしに屍を還せ」と言った。張氏が答えないでいると、必死になって碗を打ち、盤を擲ち、部屋の中にまともな物はなくなった。張は懸命に隣家に頼み、財帛を贈り、宥めて去らせた。さらに一日たつと、武進県の捕り手四五人が、荒々しく朱字牌を持ってやってきて、言った。「人命に関わる事件だから、犯人張氏を呼び、はやく法廷に出すのだ」。(つくえ)の上に鉄の鎖を投げると、鏗然と音がした。張が事情を尋ねると、はじめは話さなかったが、銀を賄すると、はじめて言った。「妾の父母が県庁に死にかたがおかしい事を告げたのだ」。張はますます恐れ、わたしの夫が家に居れば、一切の事にはかれが対応するから、女のわたしが醜態を晒し、法廷で訊問を受けることにはならないとひそかに思った。そして今までの夫との接しかたが刻薄であったこと、妾の御しかたが乱暴であったこと、行いが誤っていたこと、女の身のふがいないことを深く悔いた。みずからを怨んでいると、たちまち白帽を戴いた者が叫びながらよろよろと奔ってきて「軒轅相公は蘆溝橋に到着なさると、急病で亡くなりました。わたくしは騾馬引きで、お報せにまいったのです」と言った。張氏は大いに慟き、話すことができなかった。捕り手たちは言った。「こいつの家で葬式があるから、おれたちはひとまず去ろう」。張氏は喪服を着、葬儀を行ったが、数日足らずで、捕り手はふたたびやってきた。張氏は代言人を招いてその裁判を遅らせるように画策し、結納を質入れし、家を売り、書吏に賄してこの案件を放置してもらった。訴訟はしばらく休止したが、家はすでにすっからかんになり、日々の食事にも事欠くありさまであった。
 以前の媒婆はまた来て言った。「奥さまはこのようにお苦しみになり、さらに守ってくださる若さまもいらっしゃいませんが、どうなさいますか」。張は心が動き、生年月日を瞽女に占わせたところ、瞽女は言った。「(めい)重夫(ちょうふ)を犯しており、金や珠を身に着けることでしょう[59]」。張氏は媒婆に言った。「再婚は、運命であり、運命に逆らうわけにはゆきません。ただしわたしが自分で結婚するのですから、わたしがさきに嫁ぐお方を見てからにしなければなりません」。嫗は盛装した美少年を連れてきて観せると、言った。「この某公子は、員外郎に選ばれるのを待っています」。張は大いに喜び、衣服、装身具を調え、七七[60]も過ぎないうちに、少年に嫁いだ。
 合巹をしていると、たちまち部屋の中から一人の醜女が大きな棒を持って出てきて、罵った。「わたしは正妻、奥さまだが、おまえはどこの賎婢(はしため)だ。わたしの家に来て妾になろうとするとは。わたしは断じて許さないよ」。進み出ると痛打した。張は媒婆に紿かれたことを悔いたが、さらにひそかに考えた。「これはわたしが以前、妾に接していた時のありさまだが、一朝にしてこのような苦しみを身に受けるのはなぜだろう。報復の巧みであること、ほとんど天意というものか」。涙を飲み、声を出すことができなかった。賓客たちは進み出て、醜女を宥めて去らせ、「とりあえずご主人を本日結婚させましょう。お話があれば明日になさいまし」と言った。そして若者たちは花燭を秉り、張氏を引いて寝室に入れた。
 簾を掲げると、軒轅生が高々と(とこ)の上に坐していたので、大いに驚き、前夫の魂が現れたのだと思い、地に昏倒し、哭きながら訴えた。「裏切ったのではございません。ほんとうにやむをえなかったのでございます」。軒轅生は笑いながら手を振ると言った。「恐れるな。恐れるな。二度嫁ぐのがよいか一度嫁ぐのがよいか[61]」。(とこ)に抱き上げると、始めから終わりまで馬老師の計に嵌っていたことを告げた。張ははじめは信じなかったが、やがて悟ると、恨んだり慚じたりした。そして徳を修め、行いを改め、某村の婦人と同じように賢妻となったのであった。

風水師
 袁文栄公[62]の父清崖先生は、貧士であった。家では高祖父、曾祖父が葬られていなかったが、叔伯兄弟でその事に当たる者はいなかった。先生が館穀金[63]を蓄え、土地を買い、葬儀を営もうとすると、叔伯兄弟は今度は土地が佳くない、時日が合わない[64]、某房[65]に不吉だと言い、みんなで引き止めた[66]。先生は発憤し、一族百余人を集めて家廟を祭り、それが終わると、香を持ち、天に祷った。「高祖父、曾祖父を葬って子や孫に不吉なことがございますなら、わたし一人が引き承けますので、諸房には害を与えませぬように」。人々は文句を言おうとはせず、かれが葬るに任せた。葬って三年で、文栄公が生まれた。公は顔が真っ黒だったが、頚から下は白雪のよう、黒龍の生まれ変わりと噂され、官位は大学士に至った。
 文栄公が薨ずると、子の陛昇は公を葬ろうとしたが、風水の説に惑わされた。常州に黄某という者があり、陰陽[67]の名家、当時の公卿大夫は神のように崇めていた。黄は性格が偏屈であったが、さらにことさら傲慢にすることで、みずからの価値を高め、千両でなければ大臣の屋敷に行こうとしなかった。やってくると、碗を擲ち、盤を砕き、食らうのを潔しとしないことにし、(へや)を壊し、帳を裂き、居るのを潔しとしないことにした。陛昇はその術が霊妙であると思っていたので、やむをえず、意を尽くしてかれに仕えた。
 慈溪の某侍郎は、(つか)が西山の南にあったが、子孫は衰微していた。黄が袁に説くには、その明堂[68]を買い、墓地にするようにとのことであった。証文を作り、土地を調べるのがおわり、西山から帰ると、すでに二鼓であった。大臣の屋敷に入ると、堂上の燭の光はたいへん明るく、上座には文栄公が坐していたが、(くろ)(かぶり)(あか)(うわぎ)、傍に二人の童僕が侍し、平生のありさまのようだったので、陛昇たちは大いに驚き、みな俯伏した。文栄公は罵った。「某侍郎は、わたしの翰林の先輩だ。黄めの指示に従って、その土地を奪おうとするとはな。昔おまえの祖父が高祖父、曾祖父を葬ったのは、どのような了見であったのか。おまえがこたびわたしを葬るのは、どのような了見なのか」。某は答えようとしなかった。公はさらに怒って黄を睨むと、叱った。「盗人め。富貴利達の説により、人の財貨を騙しとり、人の心術を壊うとは、(あそびめ)(わざおぎ)が人に媚び、財貨を取るよりさらに下品だ」。左右のものに命じてその顔に唾を吐かせた。二人はともに息が苦しく声を出すことができなかった。文栄公が立ちあがると、満堂の燈燭はすべて消え、まったく見えなくなった。
 翌日、陛昇は顔色が土のよう、作った証文を焚き、某侍郎の家に土地を還した。黄が唾を受けた処には、白蟻が満ち、襟元を齧り、払っても去らず、しばらくするとすべて蝨に変わった。黄が死ぬまで、坐臥する処は蝨でいっぱいであった。

呂兆鬣
 呂公兆鬣は、紹興の人、進士から陝西韓城の令となった[69]。厳冬友侍読[70]はかれと親しく、閑談したときに尋ねた。「公はお名前を兆鬣とおっしゃいますが、ほんとうに何から取られたのですか」。呂は言った。「わたしは前生は北通州陳氏の家の馬でした。花白色(あしげ)で、鬣は長さが三尺余、陳家は愛情をもってわたしを養っていました。ある日、わたしが厩で聞いたところ、陳家の妻がお産で、三日胎児が出てこないとのことでした。その親戚の某は言いました。『この難産の胎児は、某産婆がいれば取り上げることができるのだが、惜しいことに某村に住んでおり、ここから三十里隔たっているから、すぐに連れてくるのは難しい。どうしよう』。ほかの親戚が言いました。『しもべを長い鬣の馬に騎ってゆかせれば、すぐに招いてくることができるだろう』。そう言うと、一人の老僕がやってきてわたしに騎りました。わたしは、ふだん主人の芻豆[71]を食らっているが、今、女主人が危ういから、恩に報いる時だと思い、すぐに鬣を奮って進みました。たいへん険しい(たにがわ)があり、二つの崖は隔たること一丈ばかり、途を迂回すれば、ゆっくりと着くことができたのですが、その時は主を救う心が切実であったため、身を躍らせて飛び上がり、深い崖の中に転げ込み、骨が折れて死んでしまいました。老僕はわたしの背を抱いていたので、峰の崖に触れず、死なないですみました。わたしが死ぬと、たちまち白鬚の翁がわたしを引いて役所に行きました、見れば烏紗[72]の神が上座に着いており、言いました。『この馬は良心を持っている。人間でも得難いことなのに、畜生ならばなおさらだ』。下役は牒を書きましたが、古の篆文のよう、わたしの蹄に縛りつけると、言いました。『この馬を良いところへと送るのだ』。昇ってゆくと、知らぬ間に輪廻に入り、紹興呂氏の家の息子になっていました。一年後、頭の毛はまだ二つに分かれており、馬の鬣のように鬖鬖然としていたために、兆鬣と名づけられたのです」。

張又華
 安慶[73]の生員陳庶寧は、淮寧[74]で家庭教師をしていた。重九に登高し、南門を出て、墓を通ると、青い煙が起っているようであった。じっくり見ると、冷たい風が吹いてくるのを感じ、毛や骨までぞっとしたので、家庭教師先に帰った。
 夜、夢で僧の家に行ったが、明窓浄几、竹木は蕭然としていた。東の壁には松江箋[75]の小幅、詩が書かれており、題は『牡丹』、初めの句は「東風吹き(いだ)す一枝の紅」であったが、佳いとは思われなかったので、末尾を見ると、「張又華」の三文字が書かれていた。弄んでいると、門を推して入ってきた者があった。眼を瞠り、紅い鼻、体はとても小さく、年は四十あまりであったが、「わたしは張又華だ。こちらでわたしの詩を読んで、どうしてわたしを軽んじたのだ」と言った。陳は「滅相もございません」と言った。しばらく解説すると、紅い鼻の者はみずからの顔を指して言った。「わたしが人だと思うか、鬼だと思うか」。陳が「来るときに冷気がございましたから、鬼でしょう」と言うと、「善鬼だと思うか、悪鬼だと思うか」と言った。陳は言った。「詩を詠むことができますから、善鬼でしょう」。紅い鼻の者は「そうではない。わたしは悪鬼だ」と言うと、すぐに進み出て掴んだが、冷気はますます激しく、一塊の氷が鳩尾(みぞおち)に沁み入るかのようであった。陳が竹の(しじ)の傍に逃れると、鬼は抱きかかえ、手でその睾丸を掐った。耐え難い痛みで、大いに驚いて目醒めたところ、陰嚢はすでに(とます)ほどの大きさに腫れていた。それからは悪寒発熱を繰り返し、医者も治すことができず、家庭教師先で亡くなった。
 淮寧の令が葬式をしてやり、情義はとても篤かったが、心の中ではいったい何の怨恨なのかと疑っていた。たまたま県庁の老吏に「こちらに張又華という者がいたことを存じておるか」と尋ねると、「それは安慶府の承発科[76]の書吏で、死んですでに二年になります。平素から悪行は数多く、下手な詩を作るのを好んでいたのを存じております。紅い鼻、小さな体で、死んで南門外に葬られております」と言った。そこはまさに陳が冷風に吹かれた処であった。

官癖
 南陽府庁では明末に太守某が署内で歿したが、その後その霊は散ぜず、明け方の点呼の時になると、かならず烏紗束帯で堂に上り、南面して坐し、下役が叩頭すると、頷いて拝礼を受け、日の光がたいへん明るくなると、ふたたび見えなくなるということであった。雍正年間、太守喬公が着任し、その事を聞くと、笑って言った。「それは官癖がある者で、身は亡んだが、みずからが死んだことには気が付いていないのだ。わたしが思い知らせてやろう」。夜明け前に朝衣朝冠を着け、さきに堂に上り、南面して坐していた。点呼の時になると、烏紗の者が遠くからやってきたが、堂上ですでに人が坐を占めているのを見ると、もじもじして進まず、一声長嘆して去った。それからは怪しいことはなくなった。

鋳文局
 句容の楊瓊芳は、康熙某科の解元であった。試験場での問題は「(たと)ふれば(やま)()るが(ごと)し」[77]で、試験場を出た後、全篇よく書けたが、中の二股(にこ)[78]の数語が気に入らないと感じた。夜に夢で文昌殿に行ったところ、帝君が上座に着いていた。傍には竈がたくさん列ねられ、火の光は赫然としていた。楊が「何をなさっているのですか」と尋ねると、判官の傍にいる長い鬚の者が笑いながら「慣例では、試験場の文章は、かならずこちらで丹炉を用いて鍛えることになっているのだ。さほど佳くないものは、かならず炭火を加えて鍛え、完璧なものにして、上帝に進呈するのだ」と言うのであった。楊がいそいで炉の中から取り出して観たところ、それは自分が試験場で作った文で、気に入らない処はすでにきちんと改鋳され、一字一字に金の光が生じていたので、しっかりと記憶した。はっとして目醒めたが、心はますます楽しまず、これは心が切実だっただけのこと[79]、試験場で書いた文を夢の中の文のようにすることがどうしてできようと思った。
 まもなく、貢院で火事が起こり、試験の答案二十七冊が焼けたので、監臨官は字号[80]に従って挙子を入場させ、原文を再録するように命じた。楊は入場すると、夢の中の火炉で改鋳された文の通りに記し、第一位に合格したのであった。

染物屋の(つち)
 華亭の民陳某には、一人の妻と一人の妾があったが、妻は子がなく妾は子を生んだので、妻は妬み、妾が外出したのを伺い、ひそかにその子を河に棄てた。隣で染物屋を開いている女が川岸で衣を打っていたが、子供がぷかぷかと流れに乗ってきたのを見ると、哀れんで救った。子供を抱いて部屋に入ると、乳や粥を与えたが、衣を敲く(つち)が河に置いたままであることを忘れてしまった。陳の妻は子供を沈めたが、子供が死んでいないことを恐れ、また川岸に往き、様子を見たが、子供は見えず、(つち)が水に浮かんでいるばかりであったので、笑って言った。「衣を洗う時、これが足りなかったのだ」。取って帰ると、(とこ)の側に懸けた。
 まもなく、こそ泥が夜、部屋に入り、その(ふすま)を攫んだので、陳の妻は驚いて叫んだ。こそ泥がいそいで(とこ)の脇の(つち)を取り、殴ったところ、額に当たり、脳漿が迸り、死んでしまった。陳家は朝お上に報せ、凶器を取って調べたが、天生号[81]染物屋の(つち)であった。染物屋の人を捕らえて訊ねると、その妻は子を抱いて(つち)を忘れた事情をくわしく述べた。お上はその子を陳家に還し、ほかに真犯人を捕らえた。

血見愁
 呉文学耀延[82]は、若いとき京師に遊び、徽州会館に泊まっていた。会館は前庁の三間がもっとも広かった。傍には東西の廂房があり、やはりすこぶる清潔で、もっとも奥の軒先には、たくさん樹木を栽えていた[83]。李守備という者が、さきに前庁を占めており、呉は連れている人が少なかったため、東の廂房に泊まっていた。守備は柱に刀を懸けていたが、刀が突然鞘から抜けたので、呉は驚いて起ちあがり、刀を見た。守備は言った。「わたしはかつてこの刀を掛けて西蔵に出征し、多くの人を斬ったので、すこぶる霊力があるのだ。鞘を抜けるたび、かならず事件が起こるから、今から祭るべきだろう」。そのしもべを呼び、鶏を殺して血を取り、焼酎を買い、刀に灑いで祭った。
 正午、呉が望み見たところ、奥の建物に藍色の衣の者が塀を越えて入ってきたので、空き巣であろうと疑い、捜しにいったが、人はいなかった。呉は眼が霞んだことを慚じ、笑って言った。「四十にならないのに、目がぼんやりするとはな」。まもなく、郷試の受験生范某が荷物とそのしもべとともに大門から入ってくると、言った。「わたしも徽州の者ですが、こちらに来て泊まる所を探しています」。呉は奥の部屋に引いてゆくと、言った。「こちらはとても佳いのですが、塀が低く、おもては市街で、賊の心配がございますから、夜は用心なさるべきです」。范は守備の刀を見ると笑って言った。「公の刀をお借りして賊を防ぎましょう」。守備は刀を解いて与えた。燭を点けて寝ると、二鼓前、范は塀の外から藍色の衣の人が窓を開けて入ってくるのを見た。范はしもべを呼び起こしたが、しもべも同じものを見たので、刀を抜いて斬ったところ、格闘しているようであった。しもべは力を尽くして刀を揮ったが、しばらくすると、背後からその腰を抱き、手を振る者があり、「わたしだ。斬るな。斬るな」と言った。声は主人のようであった。しもべがいそいで刀を置いて振り返ると、燭の光の中、范はすでに全身から血を流し、奄然と地に倒れていた。
 呉と守備は叫び声を聞き、見にいったが、事情を知ると、大いに驚き、「しもべが主人を殺すのは、法律では凌遅になる。范のしもべは主人を救おうとしたために、鬼に弄ばれてしまったが、どうしよう。主人が死なないうちに、直筆を取って証拠にし、しもべの罪を軽くしてはどうだろう」と言い、いそいで紙と筆を取ると范に与えた。范は痛みを堪えて「しもべは誤って傷つけた」と書いたが、三字を書き終わらぬうちに[84]、血が流れて止まらなくなった。呉の老僕某が叫んだ。「塀の下に『鬼見愁』という草がございますから、採って塗られてはいかがでしょうか」。言われた通りにすると、范の血はようやく止まり、結局死なないですんだ。呉と守備は同郷の誼を思い、ともに費用を援助して故郷に還らせた。
 半月もたたない頃、呉の老僕が塀の下で小便していると、大きな掌がその頬を打って言った。「わたしが怨みに報いることは、おまえとは関わりないのに、『血見愁』を宣伝するのか」。見れば、それは藍色の衣の人であった。

龍陣風
 乾隆辛酉の秋、海風が木を引き抜いたが、海辺の人々が見たところ、龍が空中で闘っていた。広陵[85]城内外の風が通った処では、民家の(れんじ)、簾及び干していた衣服が中空に吹き上げられた。客と宴していた者がいたが、八つの(おおざら)、十六の(こざら)は風に乗って去り、まもなく、数十里離れた李姓の家に落ちた。酒肴や果物や調度品は、すこしも動いていなかった。もっとも奇妙だったのは、南街の清白流芳牌楼[86]の左でのこと、婦人が沐浴した後、花簪を挿し、白粉を塗り、子供を抱いて竹の(しじ)に移し、門の外に坐していたところ、風に吹き上げられ、冉冉と昇っていった。人々が眺めたところ、虎丘泥偶の一座のよう[87]、まもなく、雲の中に潜り込んでいった。翌日、婦人は邵伯鎮からやってきた。鎮は城を去ること四十余里であったが、平然として恙なく、「上った時は、耳に風の響きが聴こえてたいへん恐ろしく、上るほど涼しくなりました。俯いて城市(まち)を見ましたが、雲、霧が見えるばかりで、高さは分かりませんでした。地に落ちた時も、ゆっくりと墜ち、輿に乗っているかのように穏やかでした。ただ心の中がぼんやりとしていただけです」と言った。

彭楊の怪事
 彭兆麟は、掖県[88]の人、同県の増広生楊継庵は、その姑丈(おじ)[89]であった。兆麟は儒学を学んでいたが、年が二十あまりの時、病んで亡くなった。数年後、楊も亡くなった。
 後に高密[90]の人で胡邦翰という、彭、楊とはもともと面識のない者が、その仲兄がながいこと遼に客寓していたため、海を渡って訪ねてゆき、遊学して兆麟の館に行った。逗留し、いっしょに住んだが、およそ二か月あまりで、旅支度して帰ろうとし、兆麟に言った。「今から帰り、府に赴き、受験いたします。郵便をお届けしましょう」。兆麟は言った。「昨日すでに家への手紙を人に渡したから、掖県に行ったら、口頭で便りを伝えてくれさえすればそれでよい」。行こうとすると、さらに言った。「ここから百余里のところで、姑丈(おじ)の楊継庵が塾を開いて生徒を教えているから、道すがら代わりにご機嫌伺いしてくれ」。胡は往くと、さらに継庵にも会った。
 郡試[91]に赴き彭家に行くと、兆麟と継庵に会ったいきさつを語ったが、そのしもべは二人が死んですでに二十年経っていたので、胡が嘘をついていると思った。胡は言った。「あのかたはかつてわたしに語っていたが、路地口の関帝廟の壁に手書きの遺書があるそうだから、廟に往ってみよう」。壁を開けて閲したところ、遼の館で書いていた筆跡と異ならなかった。さらに、別れた時に告げられたその妻及び二人の娘の幼名を記憶していた。兆麟の妻賈氏は年はすでに四十あまり、二人の娘はすでに嫁ぎ、近親者でなければ知っている者はいないのに、胡の言葉と逐一符合していたので、その家はようやく信じ、胡も遇ったのがすべて鬼であったことをはじめて悟った。胡はその年に学校に入ったが、まもなく亡くなった。
 数年後、さらに遼東から来た者があったが、兆麟から一頭の馬と死んだ時に着ていた服を届けてきたので、その家はますます驚き、拒絶して受けなかった。これより前、兆麟は病が革まったとき、その家族に言っていた。「わたしが死んだら納棺するな。生き返ることができるから」。死ぬと、しもべは乱命[92]であると思い、問題にせず、結局納棺してしまった。葬って三日、しもべが見たところ、その墓には孔が穿たれており、物が中から出たかのようであった。その年、高密の某姓のものは、兆麟がすでに死んだことを知らず、兆麟を家に招いて、その幼い子を教えさせたが、八九年経っても、帰るとは言わなかった。後に某の子が府に赴いて受験しようとすると、むりに同行した。府城のある馬邑[93]地方に着くと、某の子に言った。「こちらに遠い親戚がいるので、ついでに会いにゆく。おまえはさきに行き、城外に着いたら、わたしを待つのだ」。某の子は約束した処に行き、長いこと待ったが来ず、日が暮れてきたので、ほかの場所に投宿した。朝に師の家に行くと、弟子某と称した。その家では兆麟が生きていた時に門弟となった者かと思ったが、詢ねると、死んだ後の事であることがはじめて分かったので、ともに驚き怪しんだが、事情は分からなかった。その弟子は涕を落として別れた。兆麟が遼東に旅するときは、ここから去っていったのだ[94]
 これは乾隆二十八年の事で、貴池[95]の令林君夢鯉が語ったことである。林は、掖の人であった。

冤鬼が舞台で告訴すること
 乾隆年間、広東の三水県庁の前で、舞台を組み立て、劇を演じた。ある日、『包孝肅烏盆を断ず』[96]を演じたが、浄が孝肅に扮し、舞台に上り、坐していると、ざんばら髪で傷を帯びた人が舞台に跪いて訴えた。浄は驚いて起つと避けた。舞台の下の人々は騒然とし、その声は県庁に達した。県令某が下役に調査させると、浄は見たことを答えた。県令は浄を呼ぶと、浄に頼んだ。「先ほどの扮装で舞台に上り、また現れるものがあったら、県堂に引いてくるがよい」。
 浄が命を受けてそうしたところ、その鬼ははたしてふたたび現れた。浄は言った。「わたしは偽者の龍図だ。おまえを連れて県堂に赴いて、お上に訴えた方がよかろう」。鬼は承諾した。浄が起つと、鬼は堂についてきた。令が浄に「鬼はどこにいる」と詢ねると、浄は「鬼はすでに(きざはし)の下に跪いております」と答えた。大声で呼ばせたが、すこしも物音がしなかった。令は怒り、浄を責めようとした。浄は鬼が起立して外に走ってゆくのを見ると、手で招く動作をした。浄は令に言上し、令はすぐに浄と?役二名に尾行させ、どこへ往って消えるかを見させ、その場所に印をつけさせることにした。浄は鬼をつけて野を行くこと数里、塚の中に入るのを見たが、塚は県内の富豪王監生が母を葬った処であった。浄と?役は竹の枝を地に挿して目印にし、県庁に帰り、復命した。
 令は輿に乗って見にゆき、王監生を呼んで厳しく訊問した。監生は罪を認めず、墓を掘ってみずからの冤罪を明らかにすることを願った。令はそれに従った。墓に行くと、掘ること二三尺足らずで、すぐに屍が現れ、顔色は生きているかのようであった。令は大いに喜び、監生に尋ねた。監生は冤罪だと叫び、言った。「野辺送りした時は数百の人がおり、ともに埋葬を観ていましたが、この屍はございませんでした。この屍があったとしても、すべての人の口を掩うことは絶対にできません。なぜ数年来、黙々として訴えず、この浄にはじめて訴えたのでしょう」。令はその言葉は正しいと思い、さらに尋ねた。「おまえは土盛りがおわるのを見てから家に帰ったのか」。監生は言った。「母の棺が埋葬されたのを見た後、すぐ家に帰りましたが、その後の事はすべて土方がいたしました」。令は笑って言った。「分かったぞ。はやく土方たちを呼んでくるのだ」。かれらの容貌が凶悪なのを見ると、怒鳴った。「おまえたちの殺人事件が発覚したぞ。これ以上隠してはならぬ」。土方たちは大いに驚き、叩頭して言った。「王監生が家に帰った後、わたしたちが苫屋の下で休んでいると[97]、一人の商人が嚢を担いで火を貰いにきたのですが、一人の仲間がかれの嚢に銀があることに気付き、みんなといっしょに謀殺して山分けすることにし、すぐに鉄の鋤を振りあげて商人の頭を砕き、王さんの母親の棺の上に埋め、土を被せて埋め、一晩で塚が完成したのです。王監生は塚がはやく完成したことを喜び、さらに手厚く褒美を取らせ、気が付くことはなかったのです」。令はかれらをすべて処罰した。
 土方たちは屍を埋めた時、得意になって言ったという。「この事が明るみに出るのは難しいだろう。怨みを晴らすことができるとしたら、龍図の生まれ変わりだけだろう」。鬼はその言葉を聞くと、浄が龍図に扮した時に乗じて、訴えにきたのであった。

奇鬼の眼が背中に生じること
 費密は、字を此度といい、四川の布衣であったが、「大江漢水[98]を流し、孤艇残春に接す」の句があり、阮亭尚書に称賛され、楊将軍名は展という者に推薦された。四川に従軍し、成都を通り、察院[99]の楼に泊まった。人々はこの楼に(あやかし)がいると噂していたが、楊と李副将は耳を貸さず、費を連れてともに泊まった。費は疑わないわけにはゆかず、提灯を掛け、剣を按じて、帳の中に端坐していた。
 三鼓過ぎ、楼の下で橐橐と音がし、(あやかし)(はしご)を踏んで上ってきた。燈の下で見たところ、頭、顔はあるものの、眉、目はなく、枯れた柴のよう、帳の前に直立した。費が剣を抜いて斬ると、(あやかし)は数歩退き、身を翻して走ったが、眼が縦に背中に生じ、長さは一尺ばかり、金の光が人を射た。ようやく楊将軍の寝所に行き、その帳を掲げると、背を向けて光を放射するのであった。するとたちまち将軍の二つの鼻の孔の中からも、白い気が二筋出てきて、(あやかし)が吐いた光とぶつかりあった。白い気が大きくなればなるほど、金の光は小さくなり、旋回して楼の下に行くと消えた。楊将軍は結局気が付かなかった。まもなく、ふたたび(はしご)の響きが聞こえ、(あやかし)が楼に上ってくると、李副将の所に行った。副将は熟睡しており、鼾は雷のようであった。費は、副将の方が勇猛だから、心配ないと思ったが、たちまち大声で一声叫ぶのが聞こえ、見ると、七竅から血を流して死んでいた。

最終更新日:2007319

子不語

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[1] 死者のために焚く紙銭。

[2] 袁樹。

[3] 安徽省の県名。

[4] 原文「鳳於稠人中戟手罵曰」。戟手は食指と中指で人を指さすこと。

[5] 原文「我遲至數十年」。未詳。とりあえずこう訳す。

[6] 原文「前世負我身價、非錢債也」。未詳。とりあえずこう訳する。朱祥が前世で王保定に身売りし、金を貰った後、逃げてしまったことを述べているものと解する。

[7] 原文「承汝代償、果豐、足我勾當」。未詳。とりあえずこう訳す。

[8] 原文「十年後再獲儒生、還須拉鳳作證」。未詳。とりあえずこう訳す。

[9] 河南省の府名。

[10] 学政使。

[11] 酒と果物。

[12] 豚と羊。

[13] 大興の人。乾隆二十八年の進士。

[14] 原文「頂槅紙」。格子天井に張る紙。

[15] 礼服用の帯。周等編著『中国衣冠服飾大辞典』四百三十五頁参照。

[16] :『三才図会』。

[17] 腹が大きく口の小さい容器。

[18] 原文「磨盤」。石臼の下の部分。

[19] 塩運司の下部機関。

[20] 固有名詞と解する。庭園内に、このように名付けられた場所があるのだろう。字義からして、蓮池の中に浮かんだ中島であろう。

[21] 秦観。『宋史』巻四百四十四などに伝がある。少游は字。詞人として名高い。

[22] 原文「眼如魚目徹宵懸」。魚目」は魚の目は閉じないことから、閉じることのない目のたとえ。「」はここでは瞼が上に上がった状態、目を開いたままの状態をいっているのであろう。

[23] 原文「心似酒旗終日掛」。掛」はここでは酒旗が掛かっているということと、掛心:心に掛かる、気掛かりだということの両方の意味を持っている。

[24] 宋代、杭州にあった名勝。十三間楼。『乾道臨安志』楼「十三間楼去銭塘門二里許、蘇軾治杭日、多治事於此」。

[25]乩仙の紅衣娘が正体不明であるためこのような質問をしている。

[26] 原文「十三樓愛十三時」。十三時」は未詳。

[27] 科挙の上位三人の合格者。状元、榜眼、探花。

[28]鼎元に同じ。科挙の上位三人の合格者。状元、榜眼、探花。

[29] 火神をいう。

[30] 主試は試験官。

[31] 韓愈。

[32] 原文「汝當歸而求之實學可耳」。未詳。とりあえずこう訳す。「實學」は、ここでは考証学など、科挙の受験勉強とは関係のない学問。

[33]韓愈、白居易、欧陽修、蘇軾。

[34]雲樹は雲を籠めた木、蓊鬱は盛んに茂るさま。

[35] 知府。

[36] 柏樹の種子。強壮剤。

[37] 道家の修行法の一つ。胡孚琛主編『中華道教大辞典』九百七十六頁参照。

[38] 天帝の宮廷。

[39] 巡撫。

[40] 文登の人。『清史稿』巻三百四十などに伝がある。

[41] 唐代、長安の歓楽街。転じて花柳界のこと。

[42] 放蕩猥褻。

[43] 生物:物を生長せしめること。『春秋繁露』陽尊陰卑「愛気以生物、厳気以成功、楽気以養生、愛気以喪終、天之志也」。

[44] 原文「放下屠刀、立地成佛」。『朱子語類』巻三十に見える言葉。

[45] 王問。明、無錫の人。嘉靖十七年進士。『明史』巻二百八十二などに伝がある。仲山は号。

[46]「容与」は遊び戯れるさま。『楚辞』離騒「遵赤水而容与」注「容与、遊戯之貌也」。「聊逍遙兮容與」の句は『楚辞』九歌・雲中君に見える。

[47] 里は二十五戸。

[48] 原文「所禱城隍諸神、倶有主名」。主名」が未詳。とりあえずこう訳す。

[49] 原文「所禱者都是虚設」。未詳。とりあえずこう訳す。

[50] 未詳だが、文脈からして屋敷神の類であろう。

[51] 科挙の合格者が、自分を合格させた試験官のことをいう。

[52] 『三国志』魏志武帝紀「年二十、舉孝廉為郎、除洛陽北部尉、遷頓丘令」注「曹瞞傳曰、太祖初入尉廨、繕治四門。造五色棒、縣門左右各十餘枚、有犯禁、不避豪彊、皆棒殺之」。

[53]金、幣帛、珠玉、翡翠。

[54] 原文「張氏於學士成親日、即使人往探、召而問之、聞見群妾矣」。未詳。とりあえずこう訳す。

[55] 原文「殊誤乃娘事」。」は口語の「媽的」を文語でこう記したもの。

[56] 原文「汝家賣妾、未曾説明」。未詳。とりあえずこう訳する。

[57] 原文「何得逼良為賎」。未詳。とりあえずこう訳す。「良」は妾、「賎」は布商人の妻という境遇を指しているものととりあえず解する。

[58] 原文「原銀」。布商人が張氏に引き渡していた銀とまったく同じ銀ということ。

[59] 原文「命犯重夫、穿金戴珠」。「重夫」は占いの用語とも思われるがまったく未詳。ただ、文脈からして、「命犯重夫」は、あなたは再婚する運命にあるということを述べているものと解して間違いあるまい。「穿金戴珠」も未詳だが、金や珠玉を身に着ける裕福な境涯の謂であろう。「命犯重夫、穿金戴珠」はあなたは再婚し、裕福な暮らしをする運命だという方向であろう。

[60] 四十九日。

[61] 原文「兩嫁還是一嫁」。未詳。とりあえずこう訳す。

[62] 袁煒。明、慈谿の人。『明史』巻百九十三などに伝がある。

[63] 塾講師や幕僚の報酬。

[64] 原文「時日不合」。日柄が良くないということであろう。

[65] 「房」はここでは一族の中のある一つの家庭のこと。後ろに「諸房」という言葉が出てくるがその「房」も同じ。

[66]原文「咸捉搦之」。「捉搦」に関して『漢語大詞典』はこの例と『閲微草堂筆記』の例を引き「捉弄」「戯弄」の意とするが採らない。

[67] 方術。

[68] 墓穴の前の地をいう。陳永正主編『中国方術大辞典』四百二十頁参照。

[69]呂兆鬣という進士はいない。

[70] 厳長明。江寧の人。『清史稿』巻四百九十などに伝がある。

[71] 馬の飼料。

[72] 烏紗帽。写真

[73] 安徽省の府名。

[74] 河南省の県名。

[75]  崇禎年間に松江の談仲和が作った紙。談箋。譚箋。明文震亨『長物志・器具』「近呉中灑金紙、松江譚箋倶不耐久、゚県連四最佳。」。明屠隆『考槃餘事•紙箋•国朝紙』「松江譚箋、不用粉造、以荆川連紙褙褙厚、砑光用蝋、打各色花鳥、堅滑可類宋紙。」。

[76]文書の発送などを司る部署。

[77] 『論語』子罕。

[78] 八股文の一部分の名称。八股文の構造については啓功『説八股』九頁「八股文形式的解剖」などを参照。

[79] 合格したいという気持ちが切実だったということ。

[80] 科挙の受験生が答案を作成する部屋は『千字文』に従って順番が定められている。「字号」はここでは『千字文』の文字のこと。

[81] ここで突然出てくるが、染物屋の屋号なのであろう。

[82]呉耀延は未詳。文学は儒生のこと。

[83] 原文「最後數椽、多栽樹木」。最後數椽」が未詳。とりあえずこう訳す。

[84] 原文「范忍痛書奴誤傷、三字未畢」。「奴誤傷」とまで書いて、肝腎の「傷」の目的語を書くことができなかったのである。

[85] 江蘇省の県名。

[86]清白流芳牌楼:広陵城内の牌楼の名と思われるが未詳。

[87]原文「如虎丘泥偶一座」。「虎丘泥偶」は未詳だが、文脈からして泥で作った操り人形を使った芸能であろう。

[88] 山東省の県名。

[89] 父方の義理の伯父。

[90]山東省の県名。

[91] 府試。生員選抜試験の第二段階。

[92] 精神錯乱の時の遺命。治命の対語。『左伝』宣公十五年に典故のある言葉。

[93] 山西省の県名。ここがまったく未詳。某は山東省高密県の人で、高密県は莱州府の属県であり、なぜここで山西省の県名が出てくるのかが分からない。

[94] 原文「豈兆麟之客遼東、即從此而去耶」。未詳。とりあえずこう訳す。

[95] 安徽省の県名。

[96] 包孝肅は包拯のこと。『包孝肅斷烏盆』は包公劇の一つ。元雑劇『盆児鬼』と同内容のことを演じるもの。

[97] 原文「某等皆歇茅蓬下」。「茅蓬」は未詳。とりあえずこう訳す。

[98]大江は長江。漢水は長江の支流。

[99] 院試の試験場。院試は生員になるものを選ぶ童試の第三段階。

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