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第十巻

 

禹王碑が蛇を呑むこと
 屠赤文が陝西両当の県尉[1]に任ぜられたときのこと、料理人の張某という者がおり、大食で力が強く、体は大きかったが、顔に左耳がなかった。そのわけを詢ねると、みずから語るには「四川の人は、三代猟を生業としますと、家に異書を伝え、風を抓んで嗅ぐと、すぐに来るのが何の獣であるかが分かるのです。わたしも幼いときに猟を生業にしており、邛崍山で猟したことがございます。その地は「陰陽間」と称され、陽間は平らですが、冥界はとても険しく、人が来ることは稀です。ある日、陽間に猟しにゆきましたが、得たものがなかったため、食糧を包んで冥界に入りました。五十里ばかり行きますと、日は暮れてしまいましたが、望み見ればはるか十里以上離れた高い山の上から火の光がやってきて、林や谷を赤い日のように照らしており、怪風が激しく吹いてきました。わたしは何であるのか分かりませんでしたので、風を抓んで嗅いだのですが、書物に載っていないものでしたので、たいへん恐ろしくなり、急いで高い樹のてっぺんに登って窺いました」。
 「にわかに火の光が近づいてきましたが、それは大きな石碑で、碑の頭には猛虎の姿が彫ってあり、光は万の(たいまつ)のように、数里を照らしていました。碑は行きつ戻りつみずから動くことができ、樹の下に来て人がいるのを見ると、たちまち三四丈躍り上がり、呑み齧ろうとするかのよう、わが身に届かんばかりでした。わたしが息を潜めて動こうとしないでいますと、碑もゆるゆると西南に向かって去りました。わたしはさいわい危険を免れましたので、かれが遠くに去るのを待ち、樹を下りようとしました。するとたちまち大蛇千万匹、大きい者は体が車輪のよう、小さい者も太さが(とます)のようなものが、空を蔽ってやってくるのが見えました。わたしはこの身はきっと蛇の腹に葬られるだろうと思い、さらに驚き恐れましたが、蛇たちはみな空に昇り雲を衝いて去り、樹から遠く離れてしまいました。わたしは樹の上に蹲っていたので、傷つけられませんでしたが、一匹の小さい蛇だけは少し低いところを進んだため、わたしの耳元を擦りました。耐えがたい痛みを感じ、触りますと、耳はすでに取れ、血はぽたぽたと流れ落ちていました。見れば碑はまだ前にありましたので、火の光の中に蹲って動きませんでした[2]。碑の傍を通る蛇たちはみな、空中で脱け殼が堕ちましたが、乱れ落ちるさまは一万本の白い(ねりぎぬ)のよう、口を開けて吸い込む騒がしい音がするばかりでした。まもなく、蛇はすべて見えなくなり、碑も遠くへ行ってしまいました」。
 「わたしは翌日になるのを待ち、はじめて樹を下り、急いで帰り道を探しましたが、迷ってしまいました。途中一人の老人に遇いましたが、わたしはこの山の住民ですとみずから称し、『あなたが見たのは禹王碑です。そのむかし禹王は治水し、邛崍山に来ましたが、毒蛇が道を阻んだため、禹王は大いに怒り、庚辰[3]に命じて蛇を殺させ、二つの碑を立てて鎮めると、誓いを立て「おまえは後日神と成るから、代々蛇を殺し、民のために害を除け」と言いました。今では四千年経って、碑は神と成ったのです。碑は一つは大きく一つは小さいのです。おんみはさいわいその小さいほうに遇ったので、死なないですみましたが、大きいほうが出てくると、火は五里を燃やし、林の木々はみな灰となってしまいます。二つの碑はいずれも蛇を食糧としており、行く先々で引き連れているのです。蛇はうなだれて食べられるのを待っていたため、人を傷つける暇がなかったのです。おんみは耳がすでに蛇の毒に中たりましたから、陽間に出て日に当たれば死んでしまいます』。そして衣襟の下から薬を出して治療しますと、帰り道を示して別れたのです」。

黒い柱
 紹興の厳姓のものが、王家の婿となった。厳が家に帰ると、舅は人を走らせその妻が急病だと報せてきたので、厳は奔って見にいった。空はすでに暗かったので、(たいまつ)を秉りながら路を行くと、庭柱[4]のような一すじの黒い気が、しばしば(たいまつ)を遮った。(たいまつ)が東にゆけば黒い柱も東にゆき、(たいまつ)が西にゆけば黒い柱も西にゆき、その路を遮り、進むのを許さなかった。厳は大いに驚き、知り合いの家に行き、一人のしもべを借り、二つの(たいまつ)を添えて進むと、黒い柱はだんだん隠れて見えなくなった。妻の家に到ると、舅が出迎えて「婿どのはとっくにいらっしゃっているのに、なぜまた外から入ってこられたのでしょう」と言った。厳は「ほんとうに来ておりません」と言ったので、家じゅうが大いに驚き、妻の部屋に奔り込むと、一人の男が(とこ)の上に坐し、その妻の手を執り、ともに行こうとしているかのようであった。厳が急いで進み出て妻の手を握ると、その男ははじめて去り、妻も息絶えた。

(さる)(もののけ)
 杭州の周雲衢孝廉には娘があり、塩商呉某の息子に嫁いでいた。呉は家がすこぶる狭かったので、園内の書斎に住まわせていた。結婚して三月(みつき)、突然、周の娘は奇病を患った。はじめは(むね)が痛み、やがて腹や背が痛み、さらに耳、目、口、鼻がすべて痛んだので、泣き叫び、跳び上がり、人々は見るに忍びなかった。あまねく医者を呼んだが、その病名は分からず、白、黒の二すじの気が女の体に纏い、縄帯(なわおび)で縛られたかのようであった。雲衢と呉翁は斎醮したが効き目はなかったので、やむをえず、みずから牒文を作って城隍神と関神[5]のもとに投じた。半月たっても霊験はなかったので、さらに文を投じて促した。ある日、雲衢とその娘及び婿は白昼偃臥し、死んだようになったが、二日で蘇った。家人が尋ねると、雲衢は言った。「城隍神はわたしの牒文を得ると、すぐにこの(あやかし)を捕らえようとしたが、(あやかし)は抗って来なかった。催促の牒文を関神の処に送ると、神は『温元帥を遣わして捕縛、訊問させよ』と指示した。調べたところ祟っていたのは雌猴(めすざる)で、その白、黒の二気は黒、白の二匹の蛇であった」。
 「元の至正七年、(さる)とその雄は達魯花赤(ダルハチ)[6]余氏の庭園で果物を盗んだが、その時雌はわたしの家の若い(はしため)に出くわし、石を投げつけられた。雄は走り出ると、たまたま猟師張信に遇い、箭で斃された。雌猴(めすざる)は驚いて逃げ、括蒼山[7]中で道を修めた。現在、猟師張は呉翁の子に転生し、(はしため)は周氏の娘に転生しているので、仇に報いにきたのだ。元帥が『仇があるなら、どうしてすぐに報いずに、四百年後まで待っていたのだ』と尋ねると、(さる)は『婢は七世転生して文学侍従の官、方伯[8]、中丞[9]になったので、危害を加えることができなかった。かれは前世で役人ぶりが良くなかったので、罰せられて女の体になったが、たまたま嫁いだ人も猟師だったので、わたしは二つの仇に同時に報いようとしたのだ』と言った。『黒、白の二つの気はどうして来たのだ』と尋ねると、『呉の庭園の妖物で、(さる)に連れて来られた者なのだ』と自供した。元帥は怒って言った。『周の娘は前生は(はしため)だったのだから、石を擲ち(さる)を追い払ったのは、その職分として当然のこと、呉某は前生は猟師だったのだから、一匹の(さる)射殺(いころ)したのも、人の世の常である。おまえはさらに呉に仇せずにその妻に仇したが、とても道理に悖っている。庭園の二匹の蛇は関わりがないのに、紂を助けて暴虐を働く[10]のか』。剣を擲って『さきに(あやかし)の仲間を斬れ』と怒鳴ると、すぐに黒衣の男が二匹の蛇の首を取って差し出した」。
 「元帥は(さる)に『おまえも斬られるべきではあるが、おまえは長年修錬して、すこぶる神通力があり、正果を成そうとしているから、斬るのは惜しい。はやく過ちを改め、罪を悔い、周の娘の病を治せば、赦してやろう』と言うと、関帝に報告した。(さる)は獰猛で服さず、両目は電のよう、爪を奮って進み出て、元帥に打ち掛かろうとした。するとにわかに空中で大きな声が聞こえた。『伏魔大帝のご命令だ。妖猴が服さぬのなら、すぐに斬れ』。そう言うと、瓦の上で瑯瑯と刀の鍔の音がした[11](さる)ははじめて懼れ、叩頭して罪に服した」。
 「元帥は周の娘を呼び、案下に来させ、(さる)に病を治させた。(さる)がその眼、耳、口、鼻の中を抉ると、出てきたものは(とげ)[12]、鉄の針、竹の蓆[13]十余本であった。娘は痛みがやや収まったが、(むね)の痛みだけは消えなかった。(さる)は治そうとしなかったので、元帥はまた(さる)を斬ろうとした。(さる)は言った。『娘の(むね)を治すのは簡単ですが、わたしはお頼みすることがございます。呉翁がわたしに約束してくれるなら、治してあげましょう』。『何を望んでいるのだ』と尋ねると、『呉さんの庭園が瀟洒であるのが気に入ったので、西側の雲楼(たかどの)三間を掃除して、わたしを住ませてください』と言った。呉翁はそれを許した。(さる)は女の口に手を伸ばし、胸元から、小さい銅鏡一枚を探り出した。なお縷縷と血を帯びていたが、娘の病はたちまち癒えた。元帥は呉氏父子に命じて娘を家に連れ戻させると、それぞれ蘇った[14]」。
 これは乾隆四十四年七月の事であった。呉翁に拠れば、温元帥は襆巾[15]紗帽[16]、唐人のような服装で、(かお)は温然たる儒者、白面で薄鬚、世間で描かれている青面で目を瞠っている顔ではなかった。(さる)は神前にいて装束はとても華やか、みずから「小仙」と称していたという。

鞭屍
 桐城の張、徐の二人は、江西で交易していた。広信に行くと、徐が店楼(はたご)で亡くなったので、張は市場に入り、棺を買い、納棺してやることにした。棺屋の主人は二千文を求め、売買が成立したが、帳場の傍に一人の老人が坐っていてそれを遮り、四千文を求めたので、張は怒って帰った。
 その夜、張が楼に上ると、屍が起き上がり、打ち掛かってきたので、張は大いに驚き、急いで逃げて楼を下りた。翌日の早朝、また棺を買いにゆき、千文を加えたが、棺屋の主人が一言も発しないうちに、邪魔をした老人が帳場で「わしは主人ではないが、この地ではわしを『坐山虎』と呼んでいる。主人と同じように、わしに二千銭を送らないなら、棺を手に入れることはできないぞ」と罵った。張はもともと貧しく、資力がなかったので、どうすることもできず、野を徬徨していると、今度は、藍色の袍を着けた、白鬚の翁が笑って迎え「おんみは棺を買う方か」と言った。「はい」と言うと、「坐山虎に酷い目に遭わされたのか」と言った。「はい」と言うと、白鬚の翁は一本の鞭を手にして言った。「これは伍子胥が平王の屍を打った鞭だ[17]。今晩、屍が立ち上がり、打ち掛かってきたときに、これを持って打てば、棺は手に入り、大難は除かれよう」。そう言うと見えなくなった。張が帰り、楼に上ると、屍はまた躍り上がったが、言われた通りにしたところ、すぐに倒れた。
 翌日、店に赴き、棺を買おうとすると、店の主人は「昨夜坐山虎は死に、この地の害は除かれました。二千文のもとの値段で棺を持ってゆかれてください」と言った。そのわけを尋ねると、主人は言った。「あの老人は姓を洪といい、妖術で鬼魅を使うことができ、しばしば死骸に人を打たせていたのです。人が死に棺を買うとき、あのものもわたしの店で値をつり上げ、むりやりに半額を分けていました。長いことこのようにしておりましたので、禍を受けた者は多いのです。昨晩急死しましたが、何の病であったかは分かりません」。張は白鬚の翁が鞭を贈った事を告げた。二人で急いで見にゆくと、老人の屍にははたして鞭の痕があった。ある人は言った。白い鬚で藍い袍を着けた者は、この地の土地神であると。

梁朝の古塚
 江蘇省徐州の道署[18]は、宿遷[19]城内にあった。宿遷は、百戦の地、そこ[20]はすべて兵火の残りで、署内には(もののけ)が多かった。康煕年間、某道台が浙江の臬司に昇任したとき、去るに臨んで朱姓の幕友を官署に留め、後任官の引き継ぎを待たせた。役所は広々していたが、毎晩、人語が騒然としていた。別の晩には、月下で語る者が中庭の槐の樹の下に聚まるのが聞こえた。朱が窓の隙間から窺うと、庭の中には人がたいへん多かった。顔付きはあまりはっきりしなかったが、衣冠はおおむね珍しく古めかしかった。一人の少年がいたが烏巾[21]白衣で柱に倚りかかり思いを凝らし、人々と受け答えしていなかった。人々が「陸の若さま、かような清風明月ですのに、どうしてひとりでお嘆きなのです」と叫ぶと、少年は「亡骸を暴かれる事が近づいているので、愁えざるをえないのだ」と答えた。人々が溜息をついていると、長い髯に高い冠の者が出てきて「若さまはご心配なさいませぬよう。この災厄はわたしがさきに防ぎましょう。平生の友人がこちらにおりますから、お守りすることができましょう」と言い、「寂寞たり千余歳、高槐西また東。春風白骨に寒く、高義朱公に望む」と朗吟した。少年は手を挙げて謝した。「そのかみはたいへん深いご恩を蒙りましたが、朽ちはてた後、なおも守ってくださりますとは」。そしてふたたびともに談じたが、すべて北魏、斉、梁の時の事柄のようであった。やがて鶏が遠くで鳴くと[22]、人々は倏然として散じた。朱は大胆だったので、相変わらず安眠していた。
 数日後、新任官の孫某が引き継ぎを受けにきた。朱生は匆匆と官署を出ると、船を探して浙江に赴こうとした。するとたちまち下役があるじの手紙を届けてきて引き止めた。「金陵に行き督院[23]に見えた後、楚中[24]の訃音に接しました。父が死にましたので、浙西の新しい任地には赴かず、故郷に帰ることにします。先生は身の振り方を、みずからお決めになりますように」とのことであった。朱はしばらく停まっていたが、新任の淮徐道孫公の官署で一人の幕僚が急病を得て亡くなったことを聞いたので、宿遷の令某に頼んで推薦してもらったところ、たちまち話がまとまったので、すぐに荷物を携えて官署に入った。時に署内の昔住んでいた部屋は客間に改められ、幕僚たちはほかの場所に置かれた。幕中は公務がとても繁雑であったので、朱も以前の事を忘れてしまった。
 孫公は来たばかりのとき、役所を大修理した。ある日、朱と閑坐していると、家人が走ってきて「たまたまおもてで池を掘っておりましたところ、石碑がございましたが、いつの時代の物であるかは分かりません」と報せた。孫公が朱を引いてともに観にゆくと、碑には「梁散騎侍郎張公の墓」と書かれており、まさに二本の槐の間に位置していた。朱はぼんやりと以前の月下での事を思いだし、つとめて工事を止めるように勧め、見たことを述べ「もう一つの墓があるはずです」と言った。話していると、鍤を担いだ者が「骸骨が一体ありました」と言った。孫ははじめて話がでたらめでなかったのだと信じ、土方に命じて工事を加え[25]元通り埋めて平らにし、池に改めることはしなかった。前の碑は長い髯に高い冠のものの墓で、後に出てきたものは、烏巾の少年の骨であろう。

獅子大王
 貴州の人尹廷洽は、八月の望日の朝、土地神の前で拝礼したが、線香を立て、門を啓こうとしたところ、二人の青衣が扉を開けて入ってきて、尹を地に推し倒し、縄を頚に掛けて行こうとした。尹が驚き慌てていると、祀られている土地神が出てきて事情を尋ねた。青衣は牌[26]を広げて示すと、そこには「尹廷洽」の文字があった。土地神は笑って語らず、尹について一里ばかり進んだ。路傍には飲み屋があったが、土地神は青衣を呼び入れ、酒を飲ませると、隙をみて尹に言った。「今回のことには間違いがあるから、わたしがおんみを守ってゆこう。神仏に遇ったときに、大きな声で不平を叫べば、おんみを禍から逃れさせてあげよう」。尹は頷き、青衣について進んでいった。行くこと半日あまりで、とある場所に着いたが、風波は浩渺として、一望すれば果てしなかった。青衣は「これは銀海だ。深夜は渡ることができるから、しばらく休むべきだ」と言った。すると突然、土地神も杖を曳いてやってきたので、青衣は怪しんだ。土地神は「この人とながいこといっしょにいたので、やむにやまれず送るのです。この先で別れます」と言った。
 話していると、たちまち天際に彩雲、旌旗、大勢の侍従が現れたので、土地神は耳打ちした。「朝天した神々が戻ってきたのだ。遇ったら不平を叫ばれよ」。尹が望み見ると車の中に神がいたが、(かお)は獰獰然として、目には金の光があり、顔の幅は二尺ばかりであった。すぐに大きな声で不平を叫ぶと、神はかれを前に召し、進んでいた者をしばらく停め、「どのような不平があるのだ」と尋ねた。尹は青衣に捕らえられたことを訴えた。神は尋ねた。

「牌はあったのか」

「ございました」

「名はあったのか」

「ございます」

神は言った。「牌があり、名があったのなら、これは捕らえるべき者だ。何が不平なのだ」。声を?しくして叱ったので、尹は言葉に詰まってしまった。
 土地神は趨ってゆくと前に跪き「疑わしいことがございましたので、小神(わたくし)が不平を述べさせたのでございます」と上奏した。神が「どのような疑わしいことがあるのだ」と尋ねると、「わたしはこのものの家の中霤[27]ですが、人が生まれるたびに、東岳の文書を受けて、その人がどのような人になるか、何年月日に死ぬか、人の世に都合何年いるかを、はっきりと間違いなく知らされているのです。尹廷洽が生まれた時は、東岳の牒文に『七十二歳を得べし』と記されていましたが、今は五十に足りませぬし、寿命を短くするための文書を受け取ってもおりませぬのに、どうして急に拘引しにこられたのでしょうか。恐らくは不当なことがございましょう」と言った。神は話を聴いて、しばらくぐずぐずすると、土地神に言った。「この件はわたしの職務ではないが、人命はきわめて重く、しがない神のおんみさえこのように気遣いをしているのだから、わたしが無視することはできない。惜しむらくはこちらから東岳府までは行き来するには遠いから、天府から文書をかれに送るのが速かろう」。そこで一人の下役を呼び、牒を作らせることにし、口ずから「文書では、民魂尹廷洽の拘束に疑わしい点があるから、天符[28]を飛ばし、東岳に下し、銀海に行き調査、処分させるようにと頼むのだ。急いで遅れぬようにせよ」と言った。尹が傍から見たところ、下役が紙を取り、手紙を書いていた。封印は人の世と異ならなかったが、すべて黄紙を用いていた。封をすると、金の鎧の神に渡して天門に届けさせた。さらに銀海の神を召したところ、繍袍の者が趨り込んできて、「尹某の生魂を監視し、岳神[29]の調査、処分を待て。ぬかりなきよう」と命じた。繍袍の者が叩頭し尹を連れて退くと、神はたちまち雲霧の中に入ってしまった。この時尹は大きな柳の樹の下で休んでいたが、二青衣は行方が知れなくなっていた。尹が土地神に「顔の幅が二尺の者は何の神ですか」と尋ねると、「あれは西天獅子大王です」と言った。
 まもなく、繍衣の者が土地神に言った。「尹某を暗い処に連れてゆきしばらく坐らせ、夜風に吹かせないように。わたしは先に往き天神をお迎えするから、呼ぶのを聞いたらすぐに出てきて返事なされよ」。尹は土地神に隨い、岸に沿って歩くこと約半里ばかり、壊れた舟が水辺に横倒しになっていたので、その中に隠れた。人の叫び、馬の嘶きと鼓吹の音は、絡繹として絶えなかったが、しばらくするとようやく静まった。土地神が「出られよ」と言ったので、尹が出ると、繍衣の人が、さきほど牒を持っていった金の鎧の人とともに岸の上の広々とした処に引いてゆき、「こちらに立ってしばらく待たれよ。岳司[30]はすぐに来るでしょう」と言った。
 まもなく、海の上を数十騎が飛ぶようにやってくると、土地神は尹を抱えて地面に伏した。数十騎はみな馬から下りたが、団花[31]の袍を着、紗冠[32]を戴いた者が上座に着いた。残りの四人は下役の服を着け、ほかの十余人は武人の装束、残りはすべて獰猛で廟の中の鬼の面のよう、周りに立って侍していた。上座に着いた役人が海神を呼ぶと、海神は進み出て、幾たびかやりとりし、趨って下座にゆくと、尹を支えて上座に行った。尹が跪かぬうちに、土地神は進み出て叩頭し、逐一以前のように答えた。上座に着いた役人は(かお)がすこぶる温良であったが、土地神の言葉を聞くとすぐに怒り、目を瞋らせ、眉を立て、声を?しくして二人の青衣を捜そうとした。土地神は「久しく行方が知れませぬ」と答えた。上座に着いた者は言った。「(あやかし)の行動圏は、千里に過ぎず、鬼の行動圏は、五百里に過ぎない。四察神はいますぐ捜査、捕縛せよ」。四鬼卒は返事して飛び上がり、懐からそれぞれ一枚の小さな鏡を出し、手分けして四方を照らすと、すぐに東に飛んでいった。
 まもなく、二人の青衣を連れてきて地面に擲つと言った。「三百里離れた枯れた槐の樹の中で捕まえました」。上座に着いた役人は誤って拘引した事情を詰問すると、二青衣は牌を出して差し出して、訴えた。「牌は上から送られてきて、わたくしは牌に照らして仕事したに過ぎませぬ。誤りがございますなら、官吏にお尋ねになるべきで、わたくしと関わりはございませぬ」。上座に着いた役人は詰った。「不正を行っていないなら、なぜ高飛びしたのだ」。青衣は叩頭して言った。「昨日は獅子大王の車駕が来るのを見たのです。一行の方々はみな仏光がございました。土地神は微官ですが、陽気があり、尹某は死んでいましたが、冥界に来ておらず、いまだに生魂[33]でしたので、仏光に近づくことができました。わたくしの陰暗の気は、仏光に近づくことはできませんので、遠くに隠れていたのです。獅王が通り過ぎた後、わたくしははじめて追いかけたのですが、またも朝天した神々が次々通り過ぎたため、走り出ようとしなかったのです。牌にどのような不備があったのかは存じませぬ」。上座に着いた役人は言った。「それならば、みずから森羅[34]に赴いて判決せねばならぬ」。力士に命じ、さきに尹を連れて海を渡らせると、すぐに車騎を呼び排衙[35]して行くことにした。尹はとても怖れ、目を閉じたまま開けて見ようとしなかった。風は吹き、雷は轟き、心は震え驚くばかりであった。
 まもなく、声はだんだん遠くなり、力士の歩みもすこしゆるやかになった。尹が目を開くとすでに地に墜ちていた。見ればそこは役所で、冕服の者が出迎えた。先ほどの役人は中に入ると、二つの(つくえ)に分かれて対坐した。堂上ではまず密語の声が聞こえ、次に呼び出しの声が聞こえた。青衣と土地神は趨って中に入った。土地神は叩頭をおえると、階の下に立った。青衣は訊問がおわると、やはり起って出ていった。鬼卒が回廊から一人の下役を縛って入ってくると、堂上では声を?しくして怒鳴り尋ねた。下役は叩頭して弁論したが、待つ者があるかのようであった。すると今度は数匹の鬼が回廊から一人の下役を捕らえ、文書を抱えて入ってきたが、尹が遠くで見たところ、族叔[36]の尹信のようであった。殿舎に入ると、冕服の者は帳簿を取って調べたが、しばらくすると、すぐに帳簿を擲ち、前の下役に持たせ、後ろの下役に示させたところ、後ろの下役は叩頭哀願するばかりであった。殿内の神が「杖で打て」と怒鳴ると、鬼たちは前の下役を階の下に曳いてゆき、杖で打つこと四十たび、さらに数匹の鬼が朱の書き付けを受け取って下座にゆき、後ろの下役の巾服を剥ぎ取り、鎖で縛って牽き出した。尹の傍を過ぎると、あきらかにその族叔であったが、呼んでも応えなかった。どこへ往くかと尋ねると、鬼卒は「烈火地獄に護送してゆき、罰を受けさせるのだ」と言った。
 尹が訝り懼れていると、すぐに呼ばれて殿舎に入った。さきほどの花袍の役人は「おんみの事件はすでに明らかになった。本役所が拘引しようとしたのは尹廷治で、担当の下役は不正をしていなかった。同じ部署の下役に尹姓の者がおり、廷治の実の叔父だったので、その姪を救おうとし、同族でおんみの名前がたまたま似ていて、ごまかすことができると思い、本役所の下役がいない時、牌の『治』の字を改めて『洽』の字にし、さらに帳簿も換えたため、牌を出すとき間違いが起こったのだ。今はもう法に従い処罰したから、おんみは生還することができる」と言った。土地神を振り返ると「そなたの行いはきわめて良いが、本役所に赴いてくわしく調査させるべきで[37]、獅子大王に向かって訴えるべきでなかった。わたしたちはみな失察[38]の処分を受けてしまった。今、本役所は符を造り上申し、犯人を拘引させることにした。はやく尹廷洽を連れて陽間に還れ」と言った。土地神と尹が叩頭、感謝して退出すると、さきほどの金の鎧の者が門で迎えてお祝いを言った。「おめでとうございます。回答の文書を待って、戻ってゆくことができましょう」。
 尹は土地神に隨い、外に出て走ったが、前に来た路ではなく、城市(まち)はまったく人の世のようであった。飢えれば食らおうとし、渇けば飲もうとしたが、土地神は厳しく禁じて許さなかった。城外に行くこと数里、高い山に上り、俯いて下を見ると、一人の男が倒れ臥しており、数人がその傍を見守って哭いていた。土地神に「ここはどちらでございましょう」と尋ねると、土地神は「まだ気付かないのか」と怒鳴った。杖で撃たれると、転んで目覚めたが、すでに死んでから二昼夜が過ぎていた。棺槨は準備してあったが、胸元だけがかすかに暖かかったため、納棺されていなかったのであった。起き上がって坐ると、すこし茶を飲み、急いでその子を呼び廷治の家に様子を見にゆかせたが、帰ってくると言った。「その人は病が癒えて二日目に、突然亡くなりました」。

緑の毛の(もののけ)
 乾隆六年、湖州の董暢庵は山西芮城県で幕僚をしていた。県には廟があり、関、張、劉の三神像を祀ってあった。廟の門は歴年鉄の鎖で閉ざされており、春秋の祭祀のときに、一回鍵を啓くのであった。言い伝えでは中に怪物がおり、香火を供える僧も住まおうとしないとのことであった。
 ある日のこと、陝西の客商が羊千頭を鬻いでいたが、日が暮れて身を寄せる場所がないため、廟に宿ることを求めた。住民は錠前を啓いて入れてやると、事情を告げた。羊売りは膂力があるのを恃み、「構いません」と言った。門を開いて入ると、羊たちを回廊に放ち、自分は羊の鞭を持ち、蝋燭を点して寝たが、心の中では恐れざるを得なかった。三鼓、眼を閉じないでいたところ、神座の下で豁然と音がし、妖物が躍り出てきた。羊売りが蝋燭の光の中で見たところ、その妖物は身長が七八尺、顔は人の形を具え、両眼は真っ黒で光があり、胡桃ほどの大きさ、頚から下は緑の毛が体を覆い、茸茸として蓑のよう、羊売りに向かって睨んだり嗅いだりした。両手には尖った爪があり、進み出て攫みにきた。羊売りが鞭で撃っても、気が付かぬかのよう、鞭を奪って齧ったが、鞭を断つさまは帛を裂くかのようであった。羊売りが大いに懼れ、廟の外に奔り出ると、(もののけ)は追いかけた。羊売りは古樹に縋って上り、梢のもっとも高いところに伏した。(もののけ)は目を瞠って望んだが、上ることができなかった。
 しばらくすると、東の方が明るくなり、路には歩く人が出てきた。羊売りは樹を下りて(もののけ)を探したが、(もののけ)も見えなくなっていた。そこで人々に告げ、いっしょに神座を尋ねたところ、とりたてて異変はなかったが、石の隙間の一角に、騰騰たる黒い気があった。人々は啓こうとせず、牒を作り、お上に告げた。芮城知事の佟公は神座を移して掘るように命じた。深さ一丈ばかりのところに、朽ちた棺があり、中に屍があったが、衣服はすべて腐り、全身に緑の毛が生え、羊売りが見た妖物のようであった。薪を積んで焚くと、嘖嘖と音がし、血は湧き、骨は鳴った。それからは(もののけ)はいなくなった。

張大帝
 安溪相公[39](つか)が閩の某山にあった。道士の李姓の者はその風水が良いと考え、その娘が労咳を病んで危篤になると、「おまえはわたしが生んだのだが、病はもはや癒えることはない。今おまえの体の一部を取れば、わたしの家に良いことがあるだろう」と言った。娘が愕然として「仰る通りに致しましょう」と言うと、「わたしはながいこと李家の墓地をものにしようとしていたが[40]、実の子の骨を得てそれを埋めれば、はじめて効果があらわれるのだ。ただ、死んだ者はあまり効き目がないし、生きている者は殺すに忍びない。おまえのように死にそうで死なない者だけが、役に立つのだ」と言い、娘が返事しないうちに、すぐに刀でその指の骨を切り取り、羊の角の中に置き、ひそかに李家の(つか)の傍に埋めた。その後、李家の一族で一人の科挙合格者が死ぬと、道士の一族で一人の科挙合格者が増え、李氏の田地が十斛減収すると、道士の田地が十斛増収するのであった。人々は訝ったが、そのわけは分からなかった。
 清明節になると、村人は張大帝像を迎え、賽神会(かみまつり)をしたが、彩旗、供回り[41]はとても豪勢であった。李家の(つか)に行くと、神像はたちまち止まり、数十人で舁いでも動かすことができなくなった。その中の一人の男が大声で「はやく廟に帰れ。はやく廟に帰れ」と叫んだ。人々はそれに従い、廟に舁いでゆくと、男は上座に着き「わたしは大帝神だが、李家の(つか)(あやかし)がいるから、往く捕らえて懲らしめるべきだ」と言い、その仲間の某は鍬を執るように、某は鋤を執るように、某は縄を執るように命じた。受け持ちが決まると、また大声で叫んだ。「はやく李家の(つか)に行け。はやく李家の(つか)に行け」。人々が言われた通りにすると、神像は風のように疾走した。墓所に行くと、鍬、鋤を執る者に(つか)の傍を捜すように命じた。しばらくすると、一本の羊の角を得たが、金色で、中に小さな赤い蛇がおり、くねくねと動いていた。その角の側面に文字が書かれていたが、みな道人の一族の姓名であった。そこで縄を持つ者に道士を縛りにゆくように命じ、お上に訴え、事情を調べ、処刑してもらった。李家はそれから大いに栄え、張大帝をとても恭しく祀ったのであった。

紫姑神[42]
 尤琛は、長沙の人、年若く見目麗しかった。たまたま湘溪の野を通ったところ、廟に紫姑神のとても美しい像があったので、それを気に入り、手でその顔をさすると壁に題した。「藐姑[43]の仙子は煙沙[44]に落ち、玉は闌干と()り氷は車と()る。夜の更けて風露の冷たきことを畏れば、槿籬茅舍は(ぬし)が家なり」。
 その夜の三鼓、門を叩く者があったので、啓いたところ、言った。「紫姑神でございます。(わたし)はもともと上清[45]の仙女でしたが、たまたま人の世に流され、雲雨の事を司っております。おんみが愛してくださりましたので、お近くにまいりました。鬼物であるのを怪しまれないのでしたら、枕席に進みたく思います」。尤は狂喜し、手を携えて部屋に入り、伉儷(めおと)と成った。その後、毎晩かならず来たが、傍らの人々は見ることができなかった。かれは品物を手にして尤に与えると言った。「これは『紫絲嚢』といい、玉帝に謁見した時織女から賜った物、これを佩びれば文才を補うことができましょう」。生はそれを佩びた後すぐに学校に入り、郷試に合格し、進士と成り、四川成都知県に選ばれた。女はともに行き、かれが政治を行うのを助け、悪事を暴き[46]神明(かみ)と称せられた。
 とある日、尤に言った。「本日は酒盛りし、別れを告げて、去ることといたします。(わたし)は流罪になりましたが、期限が満ちれば仙籍に帰ることができました。ただ私奔したために、ふたたび天の役所に上るのは面目なく、冥府でも(わたし)がもともと上界の仙人なので、鬼籙[47]に収めようとしませぬ。この身がさすらっているのは、良いことではないと考え、おんみの家に身を寄せましたが、いまだに体がございませぬので、おんみのために子供を生み育てることができませぬ。昨日このことを泰山神君に懇願いたしましたところ、神君は(わたし)の名を帳簿に収めることを許され、慣例通りに転生することとなりました。十五年後、ふたたび愛縁を結び、ながく夫婦となることができますが、娶らずに、ひたすらお待ちになることができますか」。尤は諾々として、思わず涙を落とした。女も淒然として、大いに慟いて去った。それから、尤は役人ぶりが以前のように賢明ではなくなり、過失によって革職された。求婚する者があったが、毅然と拒み、年は四旬(よそじ)でも、なお独身であった。このようなことが十五年続いた。
 房師の某学士は、その鰥居を憐れみ、結婚を持ちかけた。生はやはりかたく拒み、そのわけを話した。学士は大いに驚き、言った。「それならば、わたしの堂兄[48]の娘のことでございましょう。堂兄の娘は生まれてから十五年、話すことができず、筆を持って字を書くことができるだけです。人が結婚を持ちかけてくるのを聞くたび、かならず『尤郎を待つ』の三字を書いておりますが、おんみではございませぬか」。尤を引いて兄の家に行き、その女を呼び出して会ったところ、女は簾を隔てて「紫絲嚢はございますか」と書いた。尤が嚢を解いて差し出すと、女は三たび頷き、日を択んで結婚した。合巹の晩、娘は天を仰いで笑うと、すぐに話せるようになった。しかしそれからはまったく前生の事を忘れてしまい、尋常の夫婦のようであった。

魏象山
 わたしの同窓魏夢龍[49]は、字を象山といい、わたしに四科後れた進士で[50]、部郎[51]から御史に遷った。己卯の年に雲南で試験官となったが、旅路で歿し、柩は西湖の昭慶寺[52]に預けられた。その年の十月、沈辛田観察[53]もその先人の柩をこの寺に安置したが、前の部屋に安置された柩の傍に「雲南大主考」の金字牌が並べてあったので、魏君であることが分かった。魏はもともと辛田と仲が良かった。するとにわかに弔問客がやってきた。孝子[54]は杖に縋って挨拶しなければならないが、辛田の弟清藻がたちまち見えなくなったので、探したところ、昏昏然と魏の柩の前に臥しており、顔色は悲しげであった。介添えして帰ると、激しい悪寒、発熱が起こり、病状は重篤となった。医者は投薬し、「人参三銭」という処方箋を書いたが、辛田は疑い、人参を服用させようとしなかった。(とこ)の前に行き、弟を見ると、弟は躍り上がって平時のように坐し、拱手すると笑って「沈五哥、お久しぶりです。お元気ですか」と言った。辛田は怪しんで怒鳴った。傍では二人の女の家族が看病していたが、清藻は手を振ると言った。「ねえさんたちは席をお外しください。紙と筆をお貸しください。わたしは言うことがございます」。紙を与えると、じっくり見、笑って言った。「紙が小さいので、書くのには足りませぬ」。墨を磨り長い紙を与えると、(つくえ)に凭れて楷書した。「夢龍(もう)す。夢龍(わたし)は命を奉じて雲南で試験官となるため、豫章から樊城に行くとき、暑さに冒されたのだが[55]、下男の呉昇は、病因を察せず、誤って人参三銭を投じたため、病が癒えることはなかった。ほんとうに、人参は軽々しく服することはできないものだ。樊城の県令某が葬儀を営み、すこぶる心力を尽くしたため、霊柩は家に還ることができたが、おまえたちは益体もないことをうるさく言い、衣箱(つづら)の銀子を使い込んだと誣告して、善悪を弁えておらぬ。家に貯えてあるのは、ぼろぼろの書物数巻だけなのに、おまえたちはなおも訴えようと言うのか[56]。巣がひっくり返っても卵は無事なのだから[57]、おまえたちが家を切り盛りすることを望むぞ[58]」。書きおわると、筆を擲って臥した。まもなくふたたび起きあがると、筆を執り「人参は軽々しく服することはできない」という文字の傍にびっしりと圏点を加えた。辛田は大いに驚き、弟に人参を飲ませようとしなかった。魏家の人を招いてきて、書いたものを示すと、みな驚嘆し、汗と涙を垂らした。
 やがて弟は病が癒えたが、紙を求めて手紙を書いたことについて尋ねると、まったく憶えておらず、「病が重くなった時、短身で鬚が多い葛衣の者が部屋に入ってくるのを見ると、ぼんやりとして人事不省になったのです」と言うばかりであった。沈は年若く、魏君に会ったことはなかったが、語ったのははたして魏君の(かお)であった。沈は後に辛卯の探花に合格したが[59]、長生きせずに亡くなった。

王莽の時の蛇の怨み
 臨平の沈昌穀は、わたしの戊午の同年の挙人で、年少にして英俊、突然路で僧に遇ったが、僧は薬三錠を授けると「おんみには大難があろうが、これを服すれば少しは良くなるかもしれぬ。時が来たらふたたびおんみに会いにこよう」と言い、去っていった。沈はもともと因果を信じていなかったので、薬を書棚の上に擲ち、服さなかった。まもなく、病がたいへん重くなると、たちまち四川人の言葉になって「わたしは峨嵋山の蟒蛇で、二千年間おまえを捜して、ようやくおまえを捕まえたのだ」と言い、手ずからその喉を扼し、息が絶えそうになった。家人は路上の僧の言葉を思い出し、書棚の上の薬をいそいで探したところ、一錠だけが残っていた。水で呑みくだしたところ、ぼんやりと歴代前生の事を思い出した。
 沈は王莽の時、姓は張、名は敬といい、莽の乱を避け、峨嵋山に隠れて仙術を学んだ。同志の厳昌[60]は耦耕の友であった。劉歆[61]が挙兵して漢に内応しようとした陰謀が敗れると、副将の王均[62]も峨嵋に逃げてきて、二人に仕え、弟子となった。山の洞窟には(うわばみ)がおり、大きさは車輪ほど、外に出るたびに、かならず風雷が起こり、穀物は多くが傷われた。張はその害を除こうとし、王に命じて竹を削って地に挿して毒を塗らせた。蛇ははたして出てくると、竹に刺されて死んでしまった。蛇は修錬すること数年、龍になろうとしていたため、穴を出るときは、おのずから風雷が伴っていたのであって、ことさらに人を害していたのではなかった。かれは王に殺された後、主謀者に復讐しようと思ったが、王均は莽が死んだことを聞くと、すぐ山を出て光武の中興を佐け、驍騎将軍を拝し、人を遣わし、張敬を洛陽に迎え入れ、征虜将軍を拝させたので、蛇は復讐することができなかった。再世では北魏の高僧となり、三世では元の将軍某となり、戦功があったため、蛇はまたもや報いることができなかった。今世は孝廉となっただけだったので、蛇が来て、怨みを晴らそうとしたのであった。事柄は歴歴としており、すべて口ずから語った。家人が「路で遇った僧は誰ですか」と尋ねると「厳昌先生だ。先生は光武の招聘を辞し、はやく仙道に登られたが、わたしと香火の縁[63]があるので、救いにきたのだ」と言った。そして、沐浴し、衣冠を整えて亡くなった。
 開弔[64]の日、以前の僧がやってきて、泣きながら拝礼すると、その家人に語った。「苦しまれますな、苦しまれますな。公案[65]を終え、仙道に帰るだけです」。そう言うと、たちまち見えなくなった。

仲買人の幽霊
 杭州の朱亮工の妻張氏は、とても劇しい傷寒を患ったとき、たちまち山西人の言葉になり、怒鳴って命を取ろうとし、(おおざら)や碗を撃ちこわすと、「恩は恩、仇は仇だ。相殺することはできんぞ」と言った。亮工が家にいると、命を取ろうとする者は来なかったが、外出すると、ふたたび乱れるのであった。亮工は牒を作ると郡の城隍神に訴えた。張氏は沈沈と熟睡し、取り調べに赴いているかのようであった。
 しばらくすると、蘇り「冤罪は雪がれました。冤罪は除かれました」と言い、手で臀をさすると言った。「神さまに杖で打たれて、たいへん痛うございます。前生でわたしと亮工さまは山西の布売りでしたが、官牙[66]の劉某は布の代金を着服し、使い込みました。わたしはお上に訴えて取り立てをしていただきましたが、劉はその苦しみに耐えられず、わたしの前で入水する振りをして、わたしが憐れみ、救おうとすることを望んでいました。わたしが怒って『あんたが死んでも、代金を求めて、許しはしないからね』と言いますと、劉は赧じて身を翻し、水に溺れて死んでしまいました。亮工さまは前生では、姓は兪、名は容といい、これを聞くと、わたしを宥めました。『仲買人が死んだのは当然だが、納棺の費用は、わたしたち二人が分担してやるべきだ』。わたしは怒りが収まりませんでしたので、承知しませんでした。兪は嚢中の金三両を投げだし、納棺してやりました。今この仲買人の幽霊は、わたしに復讐しにきましたが、兪がわたしの今生の夫となっているために、会おうとはしなかったのでございます。昨日、城隍神さまに劉牙[67]が他人の銀を使い込み、勝手に死のうとしたこと、もともと無実の罪に陥ったわけではないのに、恩人の朱さまの家で騒ごうとしたことをお調べいただき、劉牙は三十回の板責めとなり、鎖で縛られ、都道へ送られることになりました。わたしは前生で債権を取り立てて、劉牙が死のうとするのを見ても救うことなく、屍を見ても納棺せず、心掛けがたいへん刻薄でしたので、やはり十五回板責めになりましたが、病状はだんだん軽くなってきました」。
 まもなく、護送する鬼卒が病人の身に附くと、「おまえの家の件で八百里の遠出をしたのだから、紙銭酒食でわしらを祀るべきだろう」と騒いだ。家人は懼れ、盛大に斎醮を設けてやると、はじめて静かになった。

妖夢三則
 柘城[68]の李少司空の末子継遷[69]は進士となった。司空及び太夫人が歿した後、継遷は重病を患ったが、夢で太夫人が人参を服するように教えたので、そのことを医者に告げたところ、医者は言った。「人参は病に良くありませんので、服することはできません」。その夜、また太夫人を夢みたところ「医者の言葉を聴いてはならぬ。生きたいのなら人参でなければだめだ。人参幾許かが、どこそこにあるから、服することができよう」と言った。探すと、はたしてあったので、服したところ、夜半に発狂して死んでしまった。
 陸射山徴君[70]は、父親の孝廉公を夢みたところ、「窀穸(はか)が水に浸され、とても苦しんでいる。皐亭山[71]の頂に土地があり、某家のものだが、売ろうとしているから、買いにゆき改葬してはどうか。わが魂は落ち着くことができるだろう[72]」と言った。訪ねるとはたしてその通りであったので、大金で手に入れた。改葬すると、もとの墓穴にはまったく水がなく、暖気が蒸すかのようであったので、悔いたがすでに手遅れであった。改葬した後、徴君は日に日に困窮し、子孫は流離した。
 江寧の報恩寺の僧房は、科挙がある年にはかならず、挙子に賃貸する宿泊所となっていた。六合[73]の張生員は、某僧房に泊まること数年[74]、住持の老僧悟西はすでに死んでいた。張は落第してがっかりしたため、数回受験しにこなかった。とある日、悟西が夢枕に立ちその弟子に「はやく舟を雇って長江を渡り、張さまをお招きしてきて受験させるのだ。張さまは今年合格なさるだろう」と言った。その弟子が張に告げると、張は喜び、江を渡って受験した。合格発表があったが、落第だったので、張はとても怒り、祭壇を設けて怨んだ。夜に夢みたところ悟西が来て言った。「今年の試験場のお粥とご飯を、冥府は老僧(わたくし)を遣わして振る舞わせているのです[75]。一名が来ないと、老僧(わたくし)は出費する場所がございませぬ。相公は(さだめ)ではまだ三場[76]十一碗の冷たいお粥とご飯を召し上がることになっていたため、わが弟子に命じてお招きし、責めを免れたのでございます。これは嘘ではございませぬ」。

凱明府
 全椒の県令凱公音布は、詩に巧みで倜儻、わたしと親しかった。庚寅の年に南闈[77]の試験官となったとき、疽が背にできて亡くなった。公の母が身籠もって、出産日が近づいていたときのこと、その祖父某は内務府総管であったが、晩に庭に巨人がいるのを見た。身長は屋根の頂を越えていたが、怒鳴ると、だんだん小さくなった。一声怒鳴るたびに、数尺短くなり、剣を抜いて追うと、小人に化し、樹の下に奔って消えた。火を取って照らしたところ、それは土偶で、長さは一尺ばかり、顔は平たく広く、右肩を聳やかし、左手は小指が欠けていた。拾って(つくえ)の上に置いたところ、(はしため)が某奥さまの部屋で一人の男児が生まれたことを報せた。三日後抱いて見たところ、左手は小指が欠けており、容貌はとても土偶に似ていた。家を挙げて大いに驚き、土偶を取って祖廟に供え、祭祀はとても恭しかった。
 凱が亡くなった後、位牌を運んで廟に入ったところ、土偶は雨漏りでその背が穿たれて三つの孔が空き、神座の下に倒れていた。凱が死んだ時、背の(きず)三つの孔となっていた。家人は祭祀をおろそかにしたことを悔いたが、すでに手遅れであった。

恥ずかしがる病
 湖州の沈秀才は、若年で学校に入り、才思はすこぶる優れていたが、年が三十余のとき、たちまち恥ずかしがる病になり、食事のたびに、かならず手を挙げてその顔を掻いては「恥ずかしい、恥ずかしい」と言い、厠へ行くときは、かならず手を挙げてその臀を掻き「恥ずかしい、恥ずかしい」と言い、客に会うときもそうするのであった。家人は瘋癲だと思い、あまり気にしなかった[78]。後にだんだん衰弱し、治療しても効果がなかった。ある時、意識がはっきりしたので、事情を尋ねると、言った。「発病した時、黒衣の娘がこのようにわたしの手を捉え、ぐずぐずすると鞭や(しもと)で打ったので、ああせざるを得なかったのです」。家人は(あやかし)だと思い、たまたま張真人が杭州を通ったので、牒を作った。張は批語を加えた。「帰安県の城隍に調査、報告していただこう」。十余日後、天師は法官[79]を遣わすとこう言わせた。「昨日の城隍の報告に拠れば、沈秀才は前世では双林鎮の葉生の妻、黒衣の女子は、その小姑(しょうこ)[80]でした。葉は金持ちでしたが、小姑(しょうこ)は李家と婚約しており、李家は貧乏でした。葉生は妹を愛していましたので、李郎を招いて家で読書させ、李が学校に入ったら、はじめて婚期を相談することにしました。ある日、小姑(しょうこ)は月下を歩んでいたところ、李郎が夜の勉強をしているのを見、(はしため)にこっそり命じて李郎にお茶を送らせました。(はしため)が嫂に告げますと、嫂は翌日、人々の前で、手で小姑(しょうこ)の顔を弄び[81]『恥ずかしい。恥ずかしい』と言いました。小姑(しょうこ)は怒り、みずから縊れ、城隍神に訴え、仇に報い、命を取りたいと願いました。神はその牒に批語を加えました。『閨門の処女が、月下を歩み茶を送るのは、もとより疑われやすいことだし、冗談や軽口が原因で人命を取ることはできない。却下する』。小姑(しょうこ)はやむを得ず、さらに東岳に訴えました。東岳は批語を加えました。『城隍の批語はきわめて明白である。おまえはみずからを省みるべきだ。ただ沈某は前身は長男の嫁であったのだから、大目に見るのが筋というもの、義妹の小さな過ちは、ひそかに戒めることもできたのだから、人前で冗談を言うべきではなかった。今拘引、対質すれば、きっとかれの命を傷うだろうが[82]、罪はそれほどのものではない。みずから復讐しにゆき、あのものを悩ませることをひとまず許そう』。調査しました沈某の罪業は、以上の通りにございます[83]」。天師は言った。「この罪業は小さなものだ。高僧を招いて小姑(しょうこ)を済度してやり、すみやかに人身に投じさせれば、事件を終わらせることができましょう」。言われた通りにしたところ、沈の病は癒えた。

漿を売る者の子
 杭州の汪成瑞の家では、銭塘の貢生方丹成を招いて家庭教師にしたが、数日間勉強部屋に来なかった。尋ねると、「人のために訴状を書いて東岳に告げていたのでございます」と言った。「どういう事ですか」と尋ねると、語るには「隣の張姓の者の妻が病んで神さまに祈ったとき、漿を売る(おきな)がそれを観にゆきました。帰ると、その子は突然高いところに坐り、その名を呼び、水を求めました。(おきな)が怒って責めると、子は『わたしはおんみの子ではない。わたしは城隍司の勾神[84]で、今日仲間数人とともに張家に行き張氏の婦の魂を取るのだが、その家は五聖[85]を堂に招いているため、中に入るわけにゆかんのだ。ながいこと簷下(のきした)に立ち、たいへん喉が渇いたから、おんみの子にのりうつり、水を求めているのだ』と言いました。(おきな)は水を与えました。その子は年がわずか十四五でしたが、飲んだ水は一石余を下りませんでした。まもなく、音楽が聞こえると、『張家が神を送っているから、行くとしよう。火炬(たいまつ)数本をくれ』と言いました。(おきな)が『夜も静まり探すのは難しゅうございます』と言いますと、『わたしの言う火炬(たいまつ)は、紙縒のことで、世上の火炬(たいまつ)ではない』と言いました。焚いてやると、起って礼を言いました。『お恵みを受けたのに、お礼するものがございませぬが、一つお話しすることがございます。ご令息は今日から水に近づかせてはなりませぬ。そうなさらねば水難に遭うことでしょう』。そう言うと、その子はすぐに昏睡し、隣の張家で哭き声が挙がりました。(おきな)は不思議なことだと思いましたが、なお秘して明らかにしませんでした」。
 「翌日の午後、その子はたちまち狂って『とても熱いので、河へ水浴びしにゆきます』と叫びました。(おきな)は許しませんでしたが、その子は行こうとしました。(おきな)が急いで引き止めて家に戻らせると、ますます激しく狂い暴れ、地面の石を指さすと『このように良い水なのに、なぜ浴びさせてくれないのです』と言いました。(おきな)はとても怪しい有様を見ると、守ることができないのを懼れ、あまねく隣人たちに告げ、いっしょに見張らせました」。
 「西隣の唐家の者は、ふだんから鬼神を信じており、里中で東岳帝[86]を祀るときは、唐がそれを主宰し、親戚友人に代わって祈ったり祓ったりすると、しばしば霊験がありました。かれは漿を売る(おきな)の言葉を聞き、その子の狂態を見ると、『お子さんは鬼に憑かれていますから、東岳神に頼んではいかがでしょうか』と告げました。『どのように頼むのですか』と尋ねると、『帝君の誕生日に、執事[87]たちが揃ったときに、あなたは牒を作り炉で香を焚き、わたしは鐘鼓を鳴らしてお助けするのです。力のある者にご令息を抱かせ堂下に居てもらい、ご沙汰を待てば、悪鬼を除くことができるかもしれません』と言いました。漿を売る(おきな)はそれはいいと思いました」。
 「三月二十八日の早朝、(おきな)は斎戒しその子を抱き轅門の外から匍匐して不平を叫びました。唐は殿上で集まっている執事にその訴状を取らせると、大声で『速報司に捜査、捕縛させろ』と叫びました。漿を売る(おきな)が子を抱いて殿に上ると、人々はかれらを取り囲みました。門に着くと、子はすでに昏迷し、口いっぱいに涎を流していたので、人々は恐れました。まもなく蘇ると、(おきな)は連れ帰りましたが、夜になるとようやく話せるようになり、言いました[88]。『わたしが街で戯れていると、ぼろぼろの服の男が、水浴びにゆこうと誘い、毎日ついて離れることなく、東岳廟に着いた時にも、後ろについていました。するとたちまち殿前の速報司[89]の神が奔りおりてきて捕まえようとしました。かれは懼れて逃げようとしましたが、捕まえられてしまいました。神はわたしも連れて殿舎に上がりました。帝君は上申書を持ちじっくりと閲すると、紗帽を被った者に向かって縷縷語ったのですが、それほどはっきり聞き取れず、わたしの父母は罪がないから、息子を捉えて身代わりにすることはできないと言うのが聞こえただけでした。そしてわたしについていた鬼を鎖で縛り、枷で責め、わたしを陽間に還らせたのです』。その後、漿を売る(おきな)の息子は健やかでした」。

謝経歴[90]
 広州の経歴謝坤は、紹興の人、甥の陸某は、広東の巡検[91]に選ばれ、母、妻及び子を連れて粤に行き、甥と(おじ)[92]はいっしょになって喜んだ。赴任した後、手紙を(おじ)に書き送り、その上官に口利きし、良いポストに転任させてくれと頼んだ。謝は大きな府をお願いしてやったため、澳門(マカオ)に転任することができた。その地は実入りは昔より良かったが、海辺に近く、瘴気のない所はなかった。甥はまた手紙を(おじ)に書き与え、ふたたび転任を願った。謝はその貪欲を憎み、返事しなかった。二か月足らずで、ふたたび手紙を受け取ったが「(わたくし)は病みましたので、(おじ)さまははやくお救いくださいまし。遅れれば命は保たれませぬ」とのことであった。謝は甥の図々しさを憎んでいたが、姉はすでに高齢だから、不測の事態があったら、どうしようと思った。しかし長官に憎まれることが憚られたので、口利きすることができなかった。ぐずぐずしていると、昼に仮眠していたときに、甥がたちまち前に来て言った。「(おじ)さまには酷い目に遭わされました。(おじ)さまに何度もお頼みしましたのに、一言もご返事を下さらないとは。(わたくし)は瘴気を受けて死にました。母、妻と子はすでに城外の波止場におりますから、はやくお迎えくださいまし」。そう言うと泣き叫んだ。謝が目覚めると、すぐに人がよろよろと門に入ってきて「陸の甥御さまは数日前にすでに亡くなり、ご家族は柩を守ってお越しになりました」と言った。謝ははじめて夢で見た者が甥の魂であったことを悟り、その家族を迎えて官署に行かせ、甥の柩を寺に安置し、仏事を営んでやった。僧人が祭文を読み、施主に参拝するように請うと、たちまち朝衣朝冠の者が衝立の後ろから走り出て挨拶したが、僧は誰だか分からなかった。その子が仏を拝すると、父が上座にいるのが見えた。奔り寄って呼び掛けると、たちまち杳然として消え去ったので、僧たちはみな驚いた。謝の書斎には素心蘭[93]が咲いていたが、外孫が戯れに一本を折ったので、謝が殴ったところ、たちまち甥が来て怒り「(おじ)さまはどうして一本の花のためにわたしの息子をお咎めになるのでしょうか。わたしがすべて裂いてしまいましょう」と言うと、たちまち、蘭の葉を二つに裂いてしまった。
 一月あまりたつと、謝はその棺を故郷に帰すことにした。船を出す時、同郷の人が柩を船尾に置いていたが、謝家の人々は気付かなかった。粤の地を出た後、水夫が孤児と寡婦を侮ったので、下男[94]と殴りあいになった。するとたちまち陸甥が船室から跳び出してきたが、後ろには一人の少年がついており、陸を助けて水夫五六人を痛打し、水夫が哀願するとはじめて殴るのをやめた。下男は驚き訝って、水夫に尋ねた。「うちの主人は知っているが、少年はなぜ来たのだろう」。水夫は恥じ入って言った。「船内に小さい柩が置いてあるのでございます。お宅の方々がお許しにならないのを恐れ、隠していたのでございます。今殴るのを助けたのは、この鬼でしょう」。それからは、水夫は倍して用心した。舟が家に着くと、下男は弔問を受け付け、位牌を設けてやり、それからは平穏であった。

趙文華[95]が冥府で取りなすこと
 杭州人の趙京は、原籍は慈溪[96]であった。弟の某は、性来方正であった。結婚した後、妻の家の(はしため)はすこぶる賢く、色目を使うことはなかったが、京はひそかにかれと親しんだ。弟の妻はそのことを知らなかった。まもなく、(はしため)が孕んだので、舅は婿を疑い、(はしため)も嘘をつき婿に濡れ衣を被せた[97]。婿は弁明できず、怒って首を吊り、亡くなった。
 二年後、京の父の誕生日、賓客友人が宴していたときのこと、京と(はしため)はたちまち地に倒れてうわごとを言ったが、一晩経つと蘇り、話すには、捕らえられて冥府に行き、(はしため)とともに大門の外で枷に掛けられたとのことであった。にわかに出廷を告げる太鼓が鳴るのが聞こえ、鬼卒がその首を攫んで階の下に擲つと、冕旒の者が上座に着き、弟を引いてきて訊問した。京と(はしため)はいずれも罪に服し、抗弁しようとしなかった。罪を定めようとすると、突然「趙尚書さまがお越しになりました」と報せがあった。紅い紙には「年家眷弟[98]趙文華叩頭して拝す」と書かれていた。冥官は衣冠を整えて出迎え、「犯人を連れてゆきもとの所で枷に掛けよ」と命じた。頭を挙げて柱の一聯を見ると「人鬼はただ一関[99]、関節は一絲漏らさず[100]。陰陽は二理なし[101]、理数[102]の二字は逃がれ難し」とあった。後ろには「会稽陶望齢[103]題す」と書かれていた。じっくり見ていると、「趙尚書さまがお行きになりました」と報せがあった。冥官は京と(はしため)を呼ぶと諭した。「本件は奸淫致死に照らし罪三等を減じて判決するべきだが[104]、趙尚書が取りなしたので、ひとまず陽間に戻らせることにする。それに趙某は男子の身なのだから、(はしため)に通じた事を認めてもよいではないか[105]。それなのに命を粗末にするに至ったことは、とりわけ卑しむべきことだ。とりあえずおまえを許し、人の世に戻らせよう」。家じゅうの人々は趙文華がなぜ京を庇うのか分からなかった。ある日、このことを一族の老人に詢ねると、文華は京の七世祖であり、厳相[106]に諂ったことを、子孫が恥としたため、みな話すことを憚り、知る者がいなかったことをはじめて知った。

陳友諒[107]の廟を壊すこと
 趙公錫礼は、浙江蘭溪の人、はじめ竹山[108]の令に選ばれたが、繁缺の監利に転任となった[109]。着任の日、普通は文廟及び城隍神に参拝するべきところを、下役が言上した。「××廟がございますので、ご参拝なさるべきです」。公が見にゆくと、廟には神像三体があり、並んで坐していたが、いずれも王者の衣冠を着け、容貌はすこぶる厳かであった。「何の神か」と尋ねたが、知っている者はいなかった。公がその廟を壊そうとすると、下役は承知せず、「神さまはふだんから顕赫(いやちこ)であると称せられており、歴代の知事さまはすこぶる恭しく参拝なさっていました。壊せば神の怒りに触れましょうし、禍も測り知れませぬ」と言うのであった。公は帰ると志乗祀典[110]を調べたが、この神を載せていなかったので、日を択び吏民を廟に集め、手ずから鉄鎖を神の頚に繋いで曳いた。神像は大きく、打ち壊さなければ撤去することはできなかったが、公が曳いたところ、たちまち倒れ、三つの像は庭で砕けてしまったので、建物を新らしくし、改めて関帝を祀った。しばらくは、とりたてて異変はなかった。公はどうも釈然としなかったので、天師府[111]に照会したところ、返事の牒には「神は元末の偽漢王陳友諒兄弟三人だ。兵が敗れ、鄱陽湖で死んだとき、部隊は散り散りになったが、荊州に廟を立てたのだ。元の至正某年に建てられ、国朝雍正某年に趙大夫の手で壊され、四百年血食を享けることになっている」とあった。

 

最終更新日:2007324

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[1] 官名。典史。

[2] 主語は猟師。

[3] 『佩文韻府』引『古嶽涜経』「禹治水至桐柏山、獲淮渦水神、命曰無支祁、乃命庚辰制之、鎖于亀山之足」。

[4] 未詳。

[5] 関羽。

[6] 元代の官名。蒙古語で長官の意。総管府、府、州、県に置かれた。

[7] 浙江省の山名。

[8] 布政使。

[9] 巡撫。

[10] 他人の悪事を助けることをいう常套句。現在も用いる。

[11] 原文「瓦上瑯瑯有刀環聲響」。「刀環聲響」が未詳。とりあえずこう訳す。

[12] 原文「横刺」。未詳。とりあえずこう訳す。

[13] 原文「竹[竹聶」十餘條」。未詳。とりあえずこう訳す。「[竹聶]」は蓆。ただ、蓆を「」という量詞で数えているところが難。

[14] 原文「元帥命呉氏父子領女回家、遂各甦醒」。甦醒」の主語は周雲衢の娘と婿であると解する。

[15] 未詳だが、襆頭であろう。:『三才図会』。

[16] 写真

[17] 『史記』伍子胥列傳「及呉兵入郢、伍子胥求昭王。既不得、乃掘楚平王墓、出其尸、鞭之三百、然後已」。

[18] 道台の役所。

[19] 徐州府に属する県名。

[20]道署の建築物と解する。

[21]

[22] 原文「既而鄰雞遠唱」。鄰」と「遠」が矛盾するように思われる鄰」は無視して訳す。

[23] 総督。

[24] 湖南省。おそらく朱を雇っている某道台の故郷なのであろう。

[25] 壊した墓を修復する工事であろう。

[26] 牌文。くだしぶみ。

[27] 家の中心部に祀られる土神。『礼』郊特牲「家主中霤、而国主社」注「中霤亦土神也」。

[28] 未詳だが、天府の命令書であろう。

[29] 東岳大帝。

[30] 未詳だが、東岳府の役人であろう。

[31] 円形の模様。

[32] 未詳だが、紗帽に同じいか。

[33] 冥府に入っていない魂のことであろう。

[34]森羅殿。閻魔の宮殿。

[35] 長官が儀仗を整え、属官が拝謁すること。

[36] 一族で、父の世代で父より年下の者。

[37] 原文「但只須赴本司詳査」。未詳。とりあえずこう訳す。

[38] 監督不行届。

[39] まったく未詳。ただ、李姓の人なのであろう。

[40] 原文「我欲占李氏風水久矣」。未詳。とりあえずこう訳す。

[41] 原文「導従」。「導」がさきども、「従」があとども。

[42] 厠の神。『異苑』五『事物紀原』歳時風俗部・紫姑などに詳しい由来を載せる。

[43]藐姑射山。姑射山。仙人の住む山。『荘子』逍遙遊「藐姑射之山、有神人居焉」。

[44] 雲煙の立ちこめる砂浜。「沙」はいうまでもなく長沙を意識した措辞。

[45] 天界。

[46] 原文「發奸摘伏」。『漢書』趙広漢伝「其發姦擿伏如神」。

[47] 鬼録。冥府の名簿。

[48] 父方の従兄。

[49] 乾隆十三年進士。浙江仁和の人。

[50] 原文「後余四科進士」。袁枚より四つ後の試験で進士になった人ということであろうが、袁枚は乾隆四年の進士なので、実際は三つ後の試験で進士になっている。袁枚は数を数えるとき、自分が進士になったときの試験を勘定に入れているか。だとすれば辻褄は合う。

[51] 六部の郎中、員外郎。

[52]昭慶律寺。乾隆元年『浙江通志』巻二百二十六・寺観一参照。

[53] 観察は按察使。

[54] 死者の息子。

[55] 原文「感冒暑熱」。未詳。とりあえずこう訳す。

[56] 貧乏なのだから、金の掛かる訴訟を起こすなどもってのほかということ。

[57]原文「覆巣完卵」。「覆巣完卵」という言葉はないが「覆巣破卵」という言葉はあり、家の中心人物が死に、周りの者も滅びる喩え。『新語』輔政に典拠のある言葉。「覆巣完卵」は、ここでは魏夢龍は死んだが、弟たちは無事であることをいうか。とりあえず、そう解す。

[58] 原文「覆巣完卵、還望諸弟照應之」。未詳。とりあえずこう訳す。訴訟などやめて、家の経営をきちんとしろという趣旨に解す。

[59]辛卯は乾隆三十六年で、この年恩科があった。ただ、この試験の探花は范衷という人物で、沈辛田ではない。探花は会試の第三位の合格者。

[60] 未詳。

[61] 『漢書』巻三十六などに伝がある。

[62] 未詳。

[63] 香を焚いて誓い合った縁。

[64] 弔問受付。

[65] 禅宗で、参禅者に出す課題。ここでは一生の仕事、人生などといった意味。

[66] 役所の仲買人。

[67] 牙は牙商。仲買人のこと。劉牙は「仲買人の劉」ということ。

[68] 河南省の県名。

[69] 李継遷という名で進士になった人物はいない。

[70] 陸嘉淑。明、海寧の人。『明人小伝』巻五などに伝がある。徴君は学問があり、君主に召されても出仕しなかった者。

[71] 浙江省の山名。

[72] 原文「吾神所依也」。未詳。とりあえずこう訳す。

[73] 江蘇省の県名。

[74] 原文「住某僧房有年」。もちろん、継続して滞在していたわけではなく、試験の時に滞在する状態がずっと続いたということであろう。

[75] 原文「今年科場粥飯、冥司派老僧給散」。この句未詳。貢院の食事は幽霊が出すという俗信でもあったか。

[76] 郷試は三次試験まである。宮崎市貞『科挙史』第二節第二項にこの辺の事情が詳しく述べられている。

[77] 江南の郷試。

[78] 原文「家人以為癲、不甚經意」。この理屈はよく分からないが、たとい頭がおかしくても生命には別状ないから、あまり心配しなかったということか。

[79] 道士。

[80] 義妹。夫の妹。

[81] 原文「嫂次日向人前手戲小姑面」。未詳。とりあえずこう訳す。

[82] 主語は小姑であると解する。

[83] 原文「所査沈某冤業事、須至牒者」。「須至牒者」が未詳。とりあえずこう訳す。

[84] 未詳だが、人の魂を拘引する神であろう。

[85] 儒教の五人の聖人。諸説ある。また、邪神五通神のことをもいう。

[86] 東岳大帝。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千四百六十二頁参照。

[87] 主祭官の補佐役。

[88] 主語は子。

[89] 速報司は東岳大帝配下にあるとされる、因果応報を司る機関。

[90] 経歴は官名。文書の出納を司る官。

[91] 官名。県の属官。

[92] 舅は母方のおじ。

[93] 写真

[94] 陸家の下男。

[95] 明、慈谿の人。嘉靖八年の進士。

[96] 浙江省の県名。

[97] 原文「婢亦駕詞誣婿」。「駕詞」が未詳。とりあえずこう訳す。

[98]年家、眷弟ともに同輩の姻戚に対する互称。

[99] 人の世界も鬼の世界も同じこと。

[100] 「関節」は贈賄、請託のこと。この句、贈賄、請託をした者はすこしも法の網を逃れることはできないという趣旨であろう。

[101]陰の世界も陽の世界も同じこと。

[102] 運命。

[103] 明、会稽の人。万暦十七年の進士。『明史』巻二百十六などに伝がある。

[104] 原文「本案應照因奸致死罪減三等判」。未詳。とりあえずこう訳す。

[105] 原文「通婢事有何承認不起」。兄に代わって姦通の罪を被ってもよいではないかということ。

[106] 厳嵩。

[107] 元、沔陽の人。『明史』巻百二十三などに伝がある。

[108]湖北省の県名。

[109] 湖北省の県名。繁缺は事務が忙しい県知事のポスト。

[110] 志乗は史書、祀典は祭祀について記した典籍。

[111] 後漢末の宗教者張陵の子孫張天師のいる道観と思われるが未詳。

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