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第九卷

 

木で頚に(たが)すること
 荘怡園は関東で猟師が木の板で頚に(たが)しているのを見たので、怪しんで尋ねたところ、「わたしが兄弟二人で、馬を馳せ、猟に出て、広い野を進んでいますと、突然、身の丈三尺ばかり、白鬚に幅巾[1]の男が馬前で揖しました。兄が『何者だ』と尋ねますと、首を振って語らず、ひたすら口でその馬を吹きましたので、馬は驚いて進みませんでした。兄は怒り、箭を引いて射ました。その人が奔って逃げますと、兄は逐いかけましたが、長いこと返りませんでした。わたしは兄を探しにゆき、一本の樹の下に着きますと、兄は地に倒れ、頚は長さが数尺になっており、呼んでも目醒めませんでした。わたしが驚いておりますと、幅巾の人が樹の中から出てきて、また口を開けてわたしを吹きました。わたしは頚が癢くて耐えられませんでしたので、掻いたところ、すぐに長くなり、ぐにゃぐにゃとして蛇の頚に変わったかのよう、急いで頚を抱えながら馬を馳せて逃げ帰り、ようやく死ぬのを免れました。しかし頚はすでに萎え、振ることができませんので、木の板で箍して、金具を加えているのです[2]」と言った。ある人は言った。「その三尺ばかりの人は、水木の精游光[3]畢方[4]の類で、その名を呼ぶことができれば、害をなさない。『抱朴子』に見える」。

塚を掘った報い
 杭州の朱某は、塚を暴くことで財を築き、その仲間六七人を聚め、毎深夜、闇の中、鋤を持ってあちこちに出掛けていた。掘り出されるものに白骨が多く、金銀が少ない嫌いがあったので、乩盤[5]を設け、あらかじめその埋蔵物を占っていた。ある日、岳王[6]が祭壇に降りてきて「おまえは塚を暴き、死人の財を取ったから、罪は盜賊より甚だしい。これ以上悔い改めねば、おまえを斬るぞ」と言った。朱は大いに驚き、それからは仕事をやめた。
 一年余りすると、仲間たちは行くあてがなく、かれを誘い、ふたたび乩神に祷って試させた。言われた通りにすると、また神が(くだ)って「わたしは西湖の水仙だ。保俶塔の下に石の井戸があり、井戸の西には富豪の(つか)があるから、掘れば千両を得ることができよう」と言った。朱は大いに喜び、仲間と鋤を持って往くと、くまなく石の井戸を探したが、見付からず、徘徊していると、耳打ちするような声がした。「塔の西の柳の樹の下が井戸ではないか」。見ると、すでに埋められた枯れ井戸があった。掘ること三四尺、大きな石槨があったが、異常に長く闊く、その仲間六七人とともに担ごうとしたものの、持ち上げることができなかった。寺の僧に飛杵呪を行うことができる者がおり、百余たび呪を誦えれば、棺槨がひとりでに開くと伝えられていたので、ともに僧を迎え、財宝を得たら山分けすることを約束した。僧も妖物、悪人であったから、話を聞くと勇躍して往くことにした。百たび呪を誦えると、石槨は豁然として開いた。すると中から一本の青い臂が伸びてきたが、長さは一丈ばかり、僧を攫うと槨に入れ、裂いて食らった。血肉は飛散し、骨は地に墜ちて琤琤と音をたてた。朱と仲間たちは驚いて奔り、四散した。翌日井戸を見にゆくと、井戸はなくなっていた。しかし寺では一人の僧がいなくなっており、みな朱が呼んでいったことを知っていた。衆徒はお上に訴え、朱は訴訟で家産を傾け、獄中でみずから縊れた。
 朱はかつて見た棺の中の僵屍は一様ではない、紫僵、白僵、緑僵、毛僵の類があると言っていた。もっとも奇妙だったのは六和塔[7]の西で掘った(つか)で、(まる)い門[8]、石の戸があり、広さは数丈、中には鉄の鎖が懸けられ、金で飾られた朱塗りの棺があったが、斧で壊すと、犀皮で作られており、木ではなかった。中の屍は冕旒[9]を着けており、王者のよう、白鬚で立派な(かお)であったが、風に当たるとことごとく灰となった。侍衛の甲裳[10]は一枚一枚が繭紙[11]で作られているようで、絹ではなかった。また別の陵の中にはとても大きな朱塗りの棺があったが、紼[12]は懸かっておらず、宦官のような四体の銅人が跪き、頭で棺を承け、両手で捧げていた。土花(さび)は青緑色で、いずれの時代の陵墓なのかは分からなかった。

一目五先生
 浙江に五匹の妖鬼が居た。四鬼はみな(めしい)だが、一鬼だけは一つの眼があり、鬼たちはかれに頼って物を看、「一目五先生」と称していた。瘟疫の年になると、五鬼は袂を連ねて歩き、人が熟睡するのを伺い、鼻で嗅いだ。一鬼が嗅げばその人は病み、五鬼がともに嗅げばその人は死ぬのであった。四鬼は倀倀然とななめに歩き、立ちもとおり、自分で行動しようとはせず、一目先生の号令だけに従うのであった。
 銭某が旅店に泊まったときのこと、客たちはみな寝ていたが、かれだけは眠らなかった。すると燈がたちまち小さくなり、五鬼が並んで跳んできた。四鬼が一人の客を嗅ぐと、先生は言った。「この人は大善人だから、だめだ」。さらに一人の客を嗅ぐと、先生は言った。「これは大いに福のある人だから、だめだ」。さらに一人の客を嗅ぐと、先生は言った。「これは大悪人だから、ますますだめだ」。四鬼は言った。「それならば先生は何を召し上がるのですか」。先生は二人の客を指すと言った。「このものたちは善でもなければ悪でもなく、福もなければ禄もない、啖わないでどうする」。四鬼はすぐに群れて嗅いだが、二人の客は鼻声がだんだんかすかになり、五鬼は腹がだんだん膨れたのであった。

乞食が狗を煮るのを夢みること
 陳秀才清波は、紹興で家庭教師をしていた。夜に夢で土地廟に遊んだところ、廟の後ろに数人の乞食が居たが、容貌は獰悪、土の炉を擁して黄狗(あかいぬ)の皮を剥いで煮ていた。狗は新たに棒を受け、傷ついたもののよう、血はまだ淋漓としていたので、陳は嫌なことだと思った。たちまち門の外に衣冠を着けた人が来て罵った。「うちの狗がおまえたちに盗んで食われたから、お上に訴えるぞ」。話していると、乞食たちは起ちあがって殴ったので、衣冠を着けた者は地に倒れて死に、陳は目醒めた。三日後、夢で青衣の?隸が城隍の令状を持ってきて示すと「狗の飼い主は悪い乞食に打ち殺され、その鬼はすでに城隍に訴えた。牒にはおんみが証人であると書いてあるので、呼びにきたのだ」と言った。陳が令状を見ると、自分の名があり、取り調べの期日が記されていたので、嫌なことだと思ったが、この件は自分とは関わりがない、しばらく冥府に往って証人となる過ぎないと考え、家庭教師を辞めて家に帰ると、二つの夢のことを親戚の徐某に語り、頼んだ。「わたしは死んで生きかえることになっていますが、幽明は路を隔てており、魂がたちまち迷う恐れがあります。白い雄鶏を購ってわたしの姓名を書き、時が来たら城隍廟に行き、呼んでくだされば、路に迷うのを免れましょう」。徐は夢は信じられないと思ったので、笑って承諾したものの、まったく信じていなかった。
 某月某日になると、陳ははたして病むことなく亡くなった。家人が泣いて徐に報せると、徐は急いで白い鶏を買い、陳の姓名を書いて廟に往ったが、たまたま城隍廟では舞台を組み立て、芝居を演じており、人々がごった返していたので、日暮れになってようやく神座の下に着き、大声で叫び、魂を招くことができた。家に帰ると、六月の猛暑で、屍はすでに腐ってしまっていた。

一つの棺に十八人を収めること
 乾隆四年、山西蒲州で城を修築し、河を掘り、土を敷きのべていたところ[13]、棺を得たが、四角く扁平で箱のようであった。啓くと、中に九つの(しきり)があり、一つの(しきり)に二人を収めてあったが、それぞれ身長は一尺ばかり、老若男女で生きているかのようであったが、何の(もののけ)なのかは分からなかった。

真龍図が偽龍図に変わること
 嘉興の宋某は、仙遊[14]の知事であったが、ふだんから峻烈で、みずから「包老」[15]と称していた。某村に王監生という者がおり、佃戸の妻と姦淫し、仲睦まじくしていたが、その夫が家に居るのが嫌だったので、占い師に賄し、その夫に「家に居ると運勢が良くないが、よその土地に遠出すれば、難を免れよう」と告げさせ、夫はそれを信じてしまった。王監生に話をすると、王は元手を貸しあたえ、四川で交易させたが、三年帰らなかったので、村人たちは、某佃戸は王監生に謀殺されたと噂した。宋はふだんからこの事を聞いていたので、怨みを雪いでやろうとした。ある日、某村を通ったところ、つむじ風が轎の前で起こった。跡をつけると、風は井戸の中から出ていた。人に井戸を浚わせると、男の腐った屍があったので、某佃戸であると信じ、王監生と佃戸の妻を捕らえ、厳しく拷問したところ、いずれも夫を謀殺したことを認めたので、処刑してしまった。県民は「宋龍図」と称え、脚本にし、村々で上演させた。
 さらに一年たつと、夫が四川から帰ってきた。城に入ると、舞台で王監生の事件を演じていたので、近づいて観たところ、はじめて自分の妻が冤罪で死んでしまったことを悟った。そこで大いに慟き、省城に訴えた。臬司[16]某は審理してやり、宋知事はことさらに無実の人を取り調べて死なせた廉で処罰された[17]。仙遊の人々は歌を作った。「姦夫が夫を殺せりとでたらめを言ひ、(まこと)の龍図は(いつはり)の龍図に変はれり。言寄せん人の世の民を治むる者たちよ、清廉にして豪胆なるをな恃みそね」。

莆田の冤罪事件
 福建莆田の王監生は、ふだんから横暴であったが、隣の張嫗の田地五畝を見ると、取ろうと考え[18]、偽の証文を造り、県令某に賄し、自分の所有であると判決させた。張嫗はどうしようもなく、田地を与えたが、心中忿然としていて、毎日家の入り口で罵った。王は腹に据えかね、隣人を買収して嫗を殴り殺させ、その子を召して嫗を見せ、すぐに縛り、子がその母を殺したと偽り、捕まえてお上に鳴らした。人々はきっぱりと証言したし、子は厳しい拷問に耐えられなかったので、無実の罪を認めてしまった。そこで王命を請い、すぐに凌遅することとなった。
 総督蘇昌[19]はそれを聞くと疑わしく思い、子が不孝でも、母を殴るときは、その家で殴るはずで、田野の、人が見ている場所で殴るはずはない、それに全身が鱗のように傷ついているが、子が母を殴ったのなら、このようにはなるはずはないと考えた。そこで福州、泉州の二人の知府に檄を飛ばし、役所内の城隍廟でいっしょに訊問させることにした。両知府にはそれぞれ先入観があり、前の通りに判決しようと考えていた。その子は縛られて廟の門を出ると、大声で「城隍さま。城隍さま。わたしの一家の冤罪はたいへん不当なものですが、神さまにはまったく霊験がございません、どうして人の世の血食を享けられましょうか」と叫んだ。すると、廟の西の廂房が突然傾いて倒れた。居合わせた者たちは、それでも廟の柱がもともと朽ちていたのだと考え、さほど意に介さなかった。牽いて廟から出そうとすると、二体の泥塑の?隸がたちまち動いて進み、二つの(つえ)を交叉させたので、人々は通ることができなかった。そこで観ていた者たちは大いに騒ぎ、両知府もぞっとしてふたたび訊問したところ、はじめてその子の冤罪が明らかになったので、王監生を処刑したのであった。それからは、城隍廟の香火もさらに盛んになった。

水鬼が囂の字を畏れること
 趙衣吉が言った。「鬼には臭いがある。水死した鬼には羊の腥い臭い、岸で死んだ鬼には焼いた紙銭の臭いがある。人はこれら二つの臭いを嗅いだら、避けるべきだ」。さらに言った。「河の鬼はもっとも『囂』の字を畏れる。人が舟の中で羊の腥い臭いを嗅いだら、急いで『囂』の字を書けば、害を遠ざけることができる」。

狐仙が科挙を知っていること
 銭方伯?[20]、蔡観察応彪[21]が落第した時、友人の呉某が酒宴に招いた。その家はもともと狐仙を祀っていた。二人は客たちとともにその家に行き、日暮れまで待ち、お腹はすでに空いていたが、酒肴は出てこなかったので、疑わしく思っていた。まもなく、主人は出てくると、決まり悪そうに、「本日は皆さんと飲むために、肴をすべて調えておりましたのに、たちまち狐仙に持ってゆかれてしまいました。どういたしましょう」と言った。客たちは呉が費用を惜しみ、狐でごまかしているのかと疑った。蔡公は言った。「ご主人が接待の準備をなさったのであれば、飲み物の痕跡がきっとあるはず。厨房へ見にいってはいかがでしょう」。往って調べると、残り火は消えておらず、(おおざら)、碗、生姜、豆豉などの物はまだあったので、はじめて呉が嘘をついていなかったことが分かった。客たちは散じようとしたが、蔡公だけは大声で叫んだ。「狐仙さまがこちらにいらっしゃるのならば、一言お尋ねいたしましょう。本年乙卯の秋闈[22]のことでございます。わたしたちはみな落第した者たちですが、合格する者が一人でもいるのでしたら、狐仙さまには酒肴をお還しくださりますよう。一人も合格する者がいないのでしたら、狐仙さまがすべてお召し上がり下さい。わたしたちもこちらでお酒を飲む気にはなれませぬから」。そう言うと、外に出た。まもなく、主人は大いに笑いながらやってくると言った。「皆さん、おめでとうございます。酒肴はすべて(つくえ)に戻っていますから、今年はかならず合格する人がいらっしゃることでしょう」。そこで客たちは楽しく飲んでお開きにした。この年、銭公は及第し、蔡は一科遅れた。

鬼が身代わりを取り合ったため逃れることができたこと
 会稽の王二は、仕立てを生業にしていたが、女の(スカート)(うわぎ)数着を持ち、夜に吼山を通ったところ、水中から、裸身で黒い顔の、二人の男が跳び出してきて、河に牽き込もうとした。王は為す術もなく、数歩ついていったが、たちまち山の頂の松の樹の間から一人の男が飛びおりてきて、眉を垂れ、舌を吐き、手には大きな縄を持ち、腰に掛けると、山へ曳き上げようとして、黒い顔の鬼と奪い合った。黒い顔の鬼が「王二はわたしの身代わりだから、おまえは奪うことはできんぞ」と言うと、縄を持った鬼は「王二は仕立屋だ。おまえたち河の鬼は水中で尻をむき出しにして、着る物は要らぬのだから、役には立つまい。わたしに譲った方がよかろう」と言った。王も昏迷し、かれらがたがいに引くのに任せていたが、心の中はすこしだけはっきりしていて、女の(スカート)(うわぎ)をなくしたら、弁償する資力はないと考え、それを樹に掛けた。たまたまその叔父がほかの路から帰ってきたが、月明かりの下、樹に紅や緑の女の着物があるのを眺め、訝って近づいて見ようとしたため、三匹の鬼たちは散っていった。王二は口や耳の中がすべて青い泥で塞がれていたが、扶けて帰ると、難を逃れた。

城隍神が酒乱であること
 杭州の沈豊玉は、武康[23]で幕僚となっていた。たまたま上司が公文で(かわ)(うみ)の大盗を捕らえるように命じていた。盜賊は沈玉豊といったが、幕中の同僚袁某は、沈に戯れ、朱筆で「沈豊玉」の三字を逆さにし[24]、「今、あちこちできみを捕らえようとしているな」と言った。沈は怒り、奪って焚いた。
 その夜、沈は枕に就いたが、夢のなかで鬼卒が突然入ってくると、鎖を掛けて城隍廟に行かせた。城隍神は高いところに坐しており「おまえは人を殺した大盗だな、憎い奴め」と怒鳴ると、左右の者を呼んで拷問させた。沈は杭州の秀才だ、盜賊ではないと急いで弁明したが、神は大いに怒って言った。「冥府の慣例では、人の世の公文が来たときは、捕らえる者を、われら冥府が共同で捕縛するのだ。今、武康県の文書が現にあり、おまえの姓名を指摘して盜賊としているのに、言い逃れしようとするのか」。沈はくわしく同僚袁某が悪ふざけしたことを話したが、神は聴かず、大きい杖を加えるように命じたので、沈は苦痛と冤罪であることを訴えた。左右の鬼卒はひそかに沈に言った。「城隍神は夫人と酒を飲み、酔っているから、ほかの役所に行って冤罪を訴えるしかないな」。沈が望み見たところ、城隍神は顔が紅く、眼がぼんやりとして、すでに泥酔していることが分かったので、やむをえず、痛みに堪えて杖を受けていた。杖うちがおわると、鬼卒に命じてとある処に護送してゆかせ、獄に入れさせた。
 関聖廟を通りかかると、沈は大声で不平を鳴らした。帝君は呼び入れ、面会し、事情を訊ねた。帝君は黄紙、朱筆を取ると判決した。「おんみの口振りを看ると、ほんとうに秀才だから、城隍神は酒に狂ってみだりに拷問するべきではなかった。弾劾し、罰するべきだ。袁某は久しく幕中に居たが、人の命を軽く扱ったのだから、寿命を奪うべきだろう。某知県は監督不行届で、やはり罰を受けるべきだが、公務によって他出していたことを考慮し、罰俸三か月とする。沈秀才は冥界の杖を受け、五臓はすでに傷われたから、活きかえることはできない。山西の某家に送って息子とし、二十歳で進士に合格させ、今生の怨みを償わせるとしよう」。判決すると、鬼卒は恐懼叩頭して散じた。
 沈は夢から醒めると、腹が痛くて耐えられなかったので、同僚を呼び、事情を告げ、三日後に亡くなった。袁はそれを聞くと、急いで幕僚を辞めて帰郷したが、まもなく血を吐いて亡くなった。城隍廟の塑像は理由なくひとりでに倒れた。知県は駅馬の事務をおろそかにしたことにより[25]、罰俸三か月となった。

地蔵王が接客すること
 裘南湖は、わたしの郷里の滄曉先生[26]の甥で、性格は傲慢、三たび副車[27]になったが合格しなかったため、怒りを発し、黄紙を伍相国祠で焚き[28]、みずから不平を訴えた。三日後に病み、病むこと三日で、死んでしまった。魂が杭州の清波門[29]を出て、水草の上を行くと、さらさらと音がした。天は淡黄色で、日光は見えなかった。前方には低くて紅い塀があり、さながら廬舍[30]のようであった。近づくと、老嫗数人が、大きな鍋を囲んで物を烹ていた。啓くと、すべて子供の頭や足だったが、「これらは人の世の墮落した僧たちで、修行が足りないのに、人の体を盗んだので、煮て、人の世で生長させず、すぐに夭折させただけです」と言った。裘が驚いて「それならおばあさんたちは鬼ですか」と言うと、嫗は笑って「ご自分がまだ人であるとお思いですか。人ならば、こちらに来ることはできません」と言った。裘が大声で哭くと、嫗は笑って「黄紙を焚いて死ぬことをお求めになったのに、哭いてどうなさいます。伍相国は、呉の忠臣で、呉越で血食されていますが、人の世の禄命を管轄してはおりません。今回あなたを呼びにきたのは、伍公があなたの書状を地蔵王に転送したため、王があなたを呼びにきたのです」と言うのであった。裘が「地蔵王に会うことはできますか」と言うと、「ご自分で名刺を書いて西側の仏殿へ届けることはできますが、会えるか会えないかははっきりとは分かりません」と言い、おもての通りを指さすと「こちらが帖子を売っている所です」と言った。裘は帖子を買いにいったが、通りは喧々囂々として、人の世の、舞台で劇を上演し、はねたばかりの有様のようであった。(かぶりもの)(はきもの)を着けた者もあれば、科頭[31]の者もあり、老いた者、幼い者、男の者、女の者、生前面識のあった者もいたが、挨拶しても、まったく振り返らず、ほとんどは死んだ人々だったので、心はますます悲しくなった。進んでゆくと、紙屋があり、白い衫に葛巾の、一人の翁が坐しており、紙を裘に与えた。裘が筆硯を求めると、翁は与えた。裘が「儒士裘某拝す」と書くと、翁は笑って。「儒の字は難がございます。某科副榜と書かれれば、地蔵王に怒鳴られたり責められたりすることはございますまい」と言った。裘はそうは思わなかった。
 見ると壁に詩箋があり、「鄭鴻撰書」と題されていたが、紙銭がとても多く掛けられていた。裘はもともと鄭を軽んじていたので、翁に言った。「鄭君はもともと詩名がないのに、なぜあの人の詩箋を掛けているのでしょう。それに、この地はすでに冥界ですのに、紙銭を求めてどうなさるのでしょう」。翁は言った。「鄭さまは挙人ですが、将来名声、地位はかならず顕れることでしょう。冥府はもっとも権勢利欲に靡きますので、わたしはこれを掛け、光栄に思っています。紙銭はまさに冥界で必要なものですから、たくさん備えられるべきです。地蔵王の侍衛の人に賄すれば、取り次いでくれましょう」。裘はやはりそうは思わなかった。
 すぐに西側の仏殿に行くと、牛頭夜叉たちがいたが、約数百人、胸元に「勇」の字を刺繍した補服[32]を着け、裘に向かって獰猛に怒鳴り罵った。裘が慌てていると、その肩を撫でる者がいた。それは葛巾の翁で、「これでわたしの言葉を信じることができるでしょう。人の世に門包[33]があって、冥界に門包がないはずがございましょうか。持ってきてあげましたよ」と言い、すぐに裘に代わって数千貫を納めると、「勇」の字の軍人ははじめて帖を持って入っていった。すると東の角門が突然開き、裘を呼び入れた。階の下に跪くと、高堂は峨峨としていた。眺めても王は見えなかったが、紗窓の中で人の声がした。「狂生(しれもの)の裘某よ。おまえは牒を伍公廟で焚き、文章がうまいとみずから称したが、陳腐な八股時文を作り、高頭講章[34]を読むに過ぎない。古今の多くの事業学問をまったく知らず、文章がうまいとみずから思っているが、何とひどい恥知らずなのだ。帖ではみずから『儒士』と称しているが、おまえは現に八十余歳の祖母がいるのに、寒さと飢えに耐えさせて、その目を見えなくさせたのだから、不孝はすでに甚だしい。儒[35]がこのようにするべきなのか」。裘は言った。「時文のほかに、学問があることをわたしはほんとうに存じませぬ。祖母が苦しみを受けているのは、ほんとうに妻が賢くないからで、わたしの罪ではございませぬ」。王は言った。「『夫は妻の綱』なのだ[36]。人の世の一切の婦人が罪を犯したときは、冥府で判決する者はまず夫を罪し、その後で婦人を罪するのだ。おまえは儒士なら、どうして妻に責めをなすりつけるのだ。おまえが三たび副車に合格したのは、おまえの祖父の陰徳に守られていたからで、文才に拠るものではないぞ」。
 話していると、突然殿舎の外のとても遠いところで、銅鑼を鳴らし呵殿[37]する声が聞こえ、殿内でも鐘を撞き、鼓を打ってそれに応じた。すると「勇」の字の軍人で、虎皮冠を被った者が「朱大人のおなり」と報せた。王は御殿から下りて出迎えた。裘はよろよろと殿舎を下り、東の廂房に伏してこっそり見ると、それは刑部郎中の朱履忠で、やはり裘の親戚であった。裘はますます不平に思い、「ほんとうに冥界は権勢利欲に靡くものだな。わたしは陳腐な時文を読んでいるとはいえ、いずれにしても副榜[38]だ。朱は入粟[39]して官位を得たもので、郎中に過ぎないのに、どうして地蔵王がみずから出迎えるのだ」と罵った。「勇」の字の軍人が大いに怒り、杖でその口を撃つと、痛みがあって蘇った。見れば妻や娘が前で輪になって哭いており、死んですでに二日になるが、胸中の余気が絶えていなかったので、納棺されなかったことをはじめて悟った。
 その後、南湖はみずからが薄命であることを知り、ふたたび受験せず、さらに三年して亡くなった。

鬼を鎮める二つの妙策
 婁真人は、鬼に遇っても懼れるな、かならず息を吹きかけ、無形をもって無形に当たれ、鬼はもっとも息を畏れる、刀や棍棒を振り回すよりよいと勧めていた。張豈石先生[40]は言っていた。「鬼に会っても懼れるな。とにかく闘え。闘って勝てばもちろん佳いし、闘って敗れても、こちらがかれらと同じとなるに過ぎないのだから」。

狐が時文を読むこと
 四川臨邛県の李生は、年は若く、家は貧しかった。たまたま閑坐していたところ、一人の老叟がやってきて、揖すると「娘はおんみと縁がございます。おんみが娶ってらっしゃらぬことを知りましたので、秦晋[41]を叶えたく思います」と言った。李が「わたしは貧しいので、娶ろうとは思いませぬ」と言うと、叟は「ご婚約していただければ、結婚の費用は、ご心配いりませぬ」と言った。生が訝りかつ驚いていると、にわかに一人の美人を乗せた香車[42]がやってきたが、年は十七八、結納品はとても華やか、几案や衣桁などの物を、すべて携えてきていた。叟は花燭を調え、婿と娘を呼ぶと、拝礼を交わさせ、撒帳の礼を行い、「婚儀は終わりましたから、わたしは失礼いたします」と言った。
 生が女を挽き、衣を解き、(とこ)に就こうとすると、女は承知せず、言った。「わたしの家には白衣[43]の婿はおりません。科挙に合格なされば、結婚いたしましょう」。生が「試験日はまだずっと先だから、きみは待つことはできないだろう」と言うと、「いいえ。お作りになった文章を拝見しますと、受験して、結婚することができます。後の日を待つことはございません」と言った。李は大いに喜び、ふだん作った四書の文をすべて出して娘に与えた。女はしばらくめくって見ると「ふだん袁太史[44]の原稿をお読みでしょうか」と言った。「読んでいる」と言うと、女は「袁太史の文は雄奇で、もともと科挙に有益ですから、お読みになるべきです。しかし、あの人は天分が優れているので、あなたが学ぶことができるものではございません」と言い、筆を取り、数句を改めてやると言った。「わたしが作ったものなどは、太史のようでございましょう」。「そうだな」と言うと、「これから文をお作りになるときは、まずわたしに作意をお尋ねになってから、筆を執られませ。いい加減になされてはなりません」と言った。李はそれから文才は日々向上し、壬午の年に郷試に合格した。
 女は家で、姑に仕えれば孝行、家を切り盛りすれば適切であった。今でも存命しており、人々もかれが狐であることを忘れている。この事は臨邛知州の楊潮観[45]がわたしに語った。

何翁が家を傾けること
 通州の何翁は、三人の男子を生んだが、みな凡庸であった。長子はもっとも醜かったが、娶られた妻の王氏は美しく、心の中で夫を軽んじ、鬱鬱として楽しまないで亡くなった。死後、鬼はつねに次男の妻史氏に憑いて祟ったので、何翁は苦しみ、牒を城隍廟に投じた。
 数日後、突然、別の鬼が次男の妻に憑いて「親翁[46]がお答えください」と言った。何があたふたとして、「どなたですか」と尋ねると、「わたしは史某で、おんみの次男の妻の父親です。死後郡神[47]の文書を扱う下役となり、家の事を気を留めていませんでしたが、昨日おんみの牒を見て、はじめて娘が王氏の鬼に苦しめられていることを知りました。わたしは上司に懇願し、すでに王氏を雲南に流罪にしていただきましたから、今後は患えはございますまい。ただ、娘がお宅に嫁いだ時に、わたしはすでに世を去っており、暮らしが侘びしかったため、結納がなかったことを愧じており、今でも不安にしております。冥府で貯えた白金五百両を、娘の部屋にお送りしましょう。本月十六日の子の刻に香燭果帛[48]をお備えになり、ご次男とともに厨房の西南の隅を祭り、帛を焚き、土を鋤かれればすぐに手に入りましょう」と言い、「その晩は精進物の宴[49]を一席ご用意ください。わたしは二三の同輩を招いて翁にお祝いしにまいりましょう」と言いつけた。
 翁は言われた通りにし、期日になると土を鋤いたが、空のを得たので、父子で怏怏としていた。晩になると、鬼がまた妻に憑いて言った。「おんみは運が良くないというべきです。わたしの長年の蓄えを、一朝にして犬子に奪い去られましたが、どういたしましょう」。これより前、何翁の姉が徐氏に嫁ぎ、一児を生み、犬子と名付けていた。姉の夫と姉が亡くなると、犬子は孤児となり、千両を持参して舅氏(おじ)[50]に頼ったが、舅氏(おじ)は薄情に待遇した。まもなく、犬子も亡くなり、その財産は何の所有となった。犬子は怨み、期日に先立ち、五百両を奪い取りにきたのであった。鬼の事は鬼が知っているものである。
 半年後、次男の妻は里帰りし、晩に家に戻り、門に入ったが、たちまち地に倒れると大声で哭き、口を極めて何翁を罵ってやめなかったので、家を挙げて驚いた。その言葉を聴くと、王氏が配所から逃げ戻ってきたのであった。奥の部屋に舁ぎ込もうとしていると、三男の嫁の家の(はしため)が奔り出てきて、「三娘子(サンニャンツ)[51]は部屋で晩の化粧をなさっていましたが、たちまち鏡台を打ち砕き、卓を拍ち、大声で叫び、勢いはとても激しゅうございます。どうしてなのかは分かりません」と告げた。何翁夫婦が入って見ると、こちらも鬼が憑いていたが、それは王氏を護送する鬼で、「何の老いぼれは、じつに良心がない。自分の息子の嫁を、まったく憐れまず、非情にも訴えて、遠方に護送させるとは。それに文書を扱う下役をする、親翁史某の権勢に頼り、わたしをこの万里を歩く苦役に当たらせ、一分一文も与えないとは。雲南に行くことはできぬわい。このたび、王氏はわたしの旅路での恩情に感じ、わたしと結婚した。わたしはかれと故郷には戻れないし、役所には入れないから、おまえの家を借りて新婚の部屋とするしかないのだ。はやく酒に燗してきて、わたしを温めてくれ」と罵った。何家の次男、三男の嫁はもともと向かい合わせで住んでいたが、それからは王が次男の妻に憑けば、下役は三男の嫁に憑き、王が三男の嫁に憑けば、下役は次男の妻に憑き、終日平穏ではなかった。翁は神廟に奔ってゆき、訴えたが、神も霊験がなかった。翁は大いに資財を費やし、あまねく方士を求めたところ、そのようにすること二年で、江西の道士蘭方九が、招きに応じてやってきた。まずは符十数枚を作り、あまねくその家の前後の門に貼った。ふたたび部屋に入ると、剣を執り、歩罡した。二人の妻は、はじめは部屋で笑い罵り、ついで驚き隠れ、しまいには哀願した。するとたちまち部屋の隅で雷のような音が響き、二人の妻は地に伏した。蘭は小さな瓶を持つと言った。「鬼よ入れ。鬼よ入れ」。すぐにその口を封じると、二人の妻は正気になった。蘭は王氏の墓を掘り、その棺を斧で砕くように命じたが、顔は生きているかのよう、屍は硬直していたが血が出たので、焚いて灰にし、小瓶とともに埋め、石を用いて鎮めると、その祟りはながく絶えたが、何翁はそれから家を傾けたのであった。

江軼林
 江軼林は、通州[52]の士人で、代々通州の呂泗場[53]に住み、妻彭氏を娶り、情愛はとても篤かった。彭が江蘇に嫁いで三年、軼林は弱冠(はたち)になったばかりで、入学していなかった。ある晩、夫婦はともに軼林がその年の某月日に入学するが、彭氏はその日に亡くなってしまう夢を見た。学使[54]が通州に来臨したとき、呂泗場は通州まで百里であったが、軼林は夢のことがあったので、ぐずぐずして往こうとはしなかった。彭が「功名が大事です。夢は信じるに足りません」と促すと、軼林はしぶしぶ行くことにした。試験になると、合格したが、合格発表があったのは、夢の中の月日であった。軼林は大いに喜ばなかった。二日後、彭の訃報を聞いたので、試験がおわると急いで家に戻ったが、彭は死んですでに二七[55]となっていた。
 慣習では、人が死んで二七になると、夜、死者の衣衾を柩の側に置き[56]、魂が屍に赴いてくると言い、家を挙げて退避し、「回煞(かいさつ)[57]と称する。軼林は彭が死んだことを悲しみ、回煞の夜に(とこ)を柩の傍へ舁いでゆき、その中に潜み、一目遇うことを願った。三更になると、部屋の隅がかすかに響き、彭が建物の簷から冉冉として下りてきた。柩の前に歩いてゆき、燈に向かって稽首すると、燈はすぐに消えたが、消えた後も、部屋の中は昼のように明るかった。軼林は彭を驚かすことだけを恐れ、声を出そうとしなかった。彭は霊前から柩を巡って(とこ)に歩いてゆき、帳を掲げると小声で「お帰りですか」と叫んだ。軼林は躍り出て、抱きかかえると大声で哭いた。哭きおわると、それぞれが別離の思いを訴え、衣を解き、寝に就いたが、情愛は生前と異ならなかった。軼林は落ち着いて「聞けば人は死ぬと鬼卒に拘束され、回煞のときは煞神がいっしょに来るとのことだが、おまえはどうしてひとりで返ってくることができたのだ」と尋ねた。彭は言った。「煞神は取り締まりをする鬼卒で、罪があれば綱をつけてついてきます。冥府は(わたし)に罪がなく、あなたと前縁が断たれていないことを考慮し、ひとりで戻ってこさせたのです」。軼林が「おまえは罪がないのに、どうしてはやく死んだのだ」と言うと、「長い短いは運命で、罪があるか罪がないかは問題ではないのです」と言った。軼林が「おまえはわたしと前縁が断たれていないということだが、今こうして来て、今宵限りになるのではあるまいね」と言うと、「まだ早うございます。前縁が尽きた後には、さらに後縁がございます」と答えた。話していると、戸外で風が起こったが、彭は大いに懼れ、手で軼林を掴むと「しっかりとわたしを抱いて、守ってください。鬼はもっとも風が苦手で、風が体に触れれば、すぐに行ったり来たりしてどうすることもできません。ちょっと間違えれば遠い処に吹かれていってしまいます」と言った。鶏が鳴くと別れを告げたが、軼林は依依として別れられなかった。彭は言った。「そのようになさることはございません。夜にふたたび会うことができましょう」。そう言うと去っていった。それからは毎晩かならずやってきた。来ると、生前の結納品を調べ、軼林に衣服を繕ってやるのであった。
 二か月あまりすると、突然泣きながら言った。「前縁は尽きました。これからは十七年間お別れし、はじめてあなたと後縁を繋ぎましょう」。そう言うと去っていった。軼林は美しい若者で、家は金持ちだったので、郷里では再婚を願う者が多かったが、軼林はまったく承諾しなかった。待つこと十七年、彭氏の(かお)の者を物色し、求婚するために、通州、泰州、儀徴、揚州を巡ったが、まったく見付からず、呂泗に帰った。
 呂泗はもともと海辺であった。海舶[58]が山東から戻り、老翁夫婦を載せてきたが、もともとは士人だった、一人娘を生んだだけで、叔父に頼って生活していた、その叔父は娘を豪族に結婚させようとしたが、翁はそれを望まず、避けてきた、娘も江南の人に嫁ごうとしていると言っていた。人が翁に軼林のことを話してやると、翁はたいへん乗り気になった。そのことを軼林に言うと、軼林はどうしてもその娘を一目見ようとした。翁はそれを許したが、見たところさながら彭のようであった。その年を尋ねると、「十七です」と言った。その生前月日は、彭が死んだ二か月後であった。軼林は欣然として婚約し、情愛はつねに倍していた。性情や嗜好は、あたかも彭の生前のようであった。ある人が前生の事を尋ねると、笑って語らなかった。軼林は「蓬萊仙子」と字をつけ、彭仙の再来であることを暗示した[59]。息子は彭児、娘は彭媳といい、楽しくともに暮らすこと十七年、夫婦は病を得て前後して亡くなった。

纏足の悪習を創始した報い
 杭州の陸梯霞先生[60]は、徳行は粹然[61]として、終生妾を置かなかった。人々が戯旦(おやま)妓女(うたいめ)に酒を勧めさせると、先生は喜びもせず怒りもせず、気ままに応酬していた。小罪を犯して口利きを求める者がいると、先生は諾々としていた。当局の者は先生を重んじ、言うことが聴かれないことはなかった。ある人が先生はみずから品格を貶めていると謗ると、先生は笑って言った。「ご飯が地に落ちているのを見たとき、拾って(つくえ)の上に置けば心は安らかだが、自分が食らうとは決まっていない。人がことさらに品格を立派にしようとするのは、私心だ。わたしはかつて湯潜庵中丞[62]さまに教えを受けた。中丞さまは蘇州を巡察された時、蘇州には娼妓が多かったが、中丞さまは戒めるだけで、禁止、捕縛なさることはなかった。属吏に語った。『世間に(あそびめ)(わざおぎ)がいるのは、世間に僧尼がいるようなものだ。僧尼は人を欺くことで食物を求め、娼妓は人に媚びることで食物を求め、いずれも先王の法に背いている。しかし欧公の『本論』[63]一篇が行われないのなら[64]、飢寒怨曠[65]の民草はどのように身を処すればよいのか[66]。今の(あそびめ)(わざおぎ)を虐げる者たちは、北魏が沙門を殺し、仏像を壊したようなもので、いたずらに胥吏たちに金儲けさせるだけだ。根本を考えないで末端を調えようとすることを、わたしはせぬのだ』」。
 ある日、先生が夢みたところ、?隸が帖子を持って呼びにきたが、そこには「年家眷弟楊継盛[67]拝す」と書かれていた。先生は笑って言った。「わたしはちょうど椒山公にお会いしようと想っていたのだ」。そしてとある場所に行ったところ、宮殿は巍然としていた。椒山公は烏紗紅袍で、階を下りて迎えると言った。「継盛(わたくし)は玉帝の勅旨を蒙り、任期が満ちて昇進するので、この座は公を必要としています」。先生は辞して言った。「わたしは人の世で役人となるのを潔しとせず、隠居して仕えませんでした。今、冥界の役人となることはできませぬ」。椒山は笑って言った。「先生はほんとうに高潔なお方です。城隍を軽んじてなさらないとは」。話していると、判官[68]が椒山の耳に向かって語った。椒山は言った。「この案件は判決するのが難しいから、玉帝に上奏して決定していただくべきです」。先生が「いかなる案件にございましょう」と尋ねると、「南唐の李後主[69]の纏足の案件です。後主は前世は嵩山の浄明和尚[70]で、転生して江南の国主となりました。宮中で行楽したとき、帛でその妃窈娘の足を包んで新月の形にしたのは、一時(いっとき)の戯れに過ぎませんでした。ところがそれは受け継がれ風習となり、世上では争って弓鞋[71]の小脚を作り、父母の遺体を矯め損ない、大小を比べあい、姑がその嫁を怒ったり、夫がその妻を憎んだり、男女が騙しあったり、淫猥をほしいままにしたりしています。女の子が無量の苦しみを受けるばかりでなく、婦人にもこの事のために首を吊ったり毒を呑んだりする者がいるのです[72]。上帝は後主が悪習を創始したことを憎み、その生前に宋太宗の牽機薬[73]の毒を受けさせました。足が進もうとすると、頭はのけぞり、女子の纏足よりもさらに苦しみ、苦しみが尽きると薨じました。すでに七百年近くなり、十分に懺悔したので、嵩山に還り、道を修めることになりました。ところがさらに数十万の足のない婦人が天門に奔ってきて怨みを鳴らし、『張献忠は四川を破った時、わたしたちの足を截り、積み上げて山にし、足の一番小さい者を山の頂にしました。わたしたちは災難で死ぬべきとはいえ、どうしてここまで醜態を晒さなければならないのでしょう。これこそは李王が纏足の悪習を創始した罪にございます。上帝さまには厳しく李王を罰せられますように。さすればわれらははじめて瞑目いたしましょう』と言いました。上帝は惻然として、四海の都城隍に命を伝えて罪を論じさせました。文書がわたしの処に来ると、わたしは判決しました。『罪は献忠によるもので、李後主はあらかじめ知ることができませんでした。厳しい法律を適用するのは難しゅうございます。李王には罰として冥界で(ぞうり)百万足を織らせ、足のない婦人たちに償いをさせ、数が満ちたら嵩山に還るのをお許しになりますように』。上奏する草稿は決まりましたが、まだ城隍たちと草稿を付き合わせておりません[74]。先生はいかが思し召されますか」と言った。先生は言った。「習俗は治し難いもの[75]。愚民にはその父母の屍を焚いて孝と思っている者、その娘の足を痛めて慈と思っている者がおりますが、いずれも同じことにございます」。椒山公は大いに笑った。先生は退出したが、目醒めると何事もなかった。
 その後、椒山公がふたたび招きにくることはなく、八十余歳で、亡くなったが[76]、つねに笑いながら夫人に言った。「娘を纏足させてはならぬ。李後主に冥府でさらに一双の(ぞうり)を織らせてしまうだろうから」。

判官が問いに答えること
 謝鵬飛は、仁和の廩生でありながら冥界の判官をしており、昼は普通の人のよう、夜は冥府に赴いて訴訟を処理していた。友人はしばしば寿命を調べることを頼んだが、承知しなかった。人々はかれが天機を漏らすのを懼れているのかと疑ったが、「それは違う。人の世の役所には、罪を犯して訴訟になった者だけは、帳簿があって調べることができるが、そうでなければ民草は多いのだから、保甲冊[77]を造る暇はなく、官府はかれらがおのずから来ておのずから去るのに任せるだけだ。冥界も同じことだ。君たちは訴訟にならず、冥府に拘束されたことはないから、気数が来て生まれ、気数が尽きれば死ぬだけだ。ほんとうに調べるべき帳簿がないのだ」と言った。「瘟疫の死者は調べることができるか」と尋ねると、「陽九百六[78]、陰陽の小劫[79]で死ぬべき者は、府県の試験のように、点名簿[80]があるので、調べることができる。しかし庸庸たる小民たちが、この帳簿に入るのであって、来歴のある人なら、小劫の中を行き来することはない。人の世の官蔭[81]のある者が、童生の試験を受けないようなものだ」と言った。「疫病の外にも大きい災厄がありますか」と尋ねると、「水火刀兵は大きな災厄で、これならば貴顕の者も逃れることは難しい」と言った。「冥府の神では誰が尊いのですか」と尋ねると、「冥府というからには、尊いものはいない。尊い者は、上界の仙官だけだ。城隍、土地の職のごときは、人の世の府県の俗吏のよう、風塵に奔走し、とても苦しく、賢者はなるのを潔しとしない。そのかみ白石仙人[82]は、終日白い石を煮て、天に上ろうとしなかったが、人がわけを尋ねると、『玉宇は清く厳かで、符籙は多く、事務を司る仙官はとても苦しい。山の頂水の畔に逍遥し、とこしえに散仙となりたいからだ』と言ったのも、その趣旨だ」と言った。

蒋太史
 蒋太史士銓[83]は中書で役人をしていた時、京師の賈家衚衕[84]に住んでいた。十一月十五日、息子が病んだときのこと、その妻張夫人と同じ部屋で(とこ)を分けて臥していると、夢で隷卒が帖子を持って招きにきたので、思わずついていった。神廟に行くと、門に入ってすこし休んだ。門内には泥塑の馬があり、手で撫でると、動いて鬣を奮わせた。隷卒は蒋を扶けてそれに騎せると、馬は空に騰がっていったが、下には田畝が見え、棋盤のようであった。にわかに、雨が濛濛然とし、衣が湿るのを心配したが、仰ぎ見ると紅い油傘[85]を、一人の隷卒が?(ささ)げて覆っているのであった。
 まもなく、馬は大きな殿舎の階の下に落ちたが、宏壮で王者の住まいのようであった。殿舎の外には二つの井戸があり、左側は「天堂」といい、右側は「地獄」といった。蒋が眺めると天堂は軒軒と[86]大いに明るく、地獄は暗く深く測りしれないありさま。隨っていた隷卒も見えなくなった。殿舎の傍の小屋では老嫗が鑊[87]を擁して火を焚いていたので、「何を煮ているのですか」と尋ねると、「悪人を煮ているのです」と言った。鍋蓋を開いて見ると、すべて人の頭であった。地獄の井戸のほとりに人がいたが、衣はぼろぼろ、みずから飛び込んでいった。嫗は「これは王さまが囚人を獄に送っているのです」と言った。蒋が「こちらは人の世ではないのですか」と尋ねると、「もちろんです。この光景を見れば、お分かりになりましょう」と言った。蒋が「王さまに一目お会いしたいのですが、可能でしょうか」と尋ねると、「王さまがおんみを招けば、もちろん接見できましょう。お急ぎになることはございませぬ。お望みならばさきに窺うこともできます」と言った。そして高足(たかあし)(つくえ)を取ると蒋を登らせた。蒋は殿舎の隙間から王を窺った。王は年は三十あまり、痩せていて薄鬚、冕旒で盛装し、笏を執って北を向いていた。嫗は言った。「玉帝さまに表を奉っているのです」。
 王が香を焚き、俯伏、叩頭すると、すぐに正門が豁然と開き、蒋は召し入れられた。蒋が趨って入ると、王は服装がすっかり変わっており、本朝の衣冠、白い布の纏頭[88]を着け、二束の布を両耳から垂らし、『三礼図』[89]に描かれている古人の冕服のよう、坐すると「冥府は仕事が忙しいですが、わたしは任期が満了し、去ることになっているので、この坐は公がお代わりください」と言った。言葉は常州武進の人のようであった。蒋が「わたしは母は老い、子は幼く、仕事は終わっておりませぬから、来ることはできませぬ」と言うと、王は怒りの色を浮かべ、言った。「公は才子の名声がございますのに、なにゆえかようにものの道理をわきまえぬのでございましょう。ご母堂にはおのずからご母堂のご寿命があり、公とは関わりはございませぬ。ご令息にはおのずからご令息のご寿命があり、公とは関わりはございませぬ。世上の仕事は終わるならば終わり、終わらなければ終わらないもの。わたしはすでに公の姓名を上帝に上奏いたしましたから、撤回することはできません」。そう言うと、みずからその椅子を取り、蒋を背にして坐し、親しむことを潔しとしない者のようであった。蒋も怒り、(つくえ)の上の木の界尺[90]を取り、(つくえ)を拍つと声を?しくして言った。「人情に外れたことを。なんとひどいことをなさる」。大声で怒鳴って目醒めると、一燈は熒然として、身は(とこ)の上にあり、四肢は氷のよう、汗は涔涔として重なった(ふすま)に染み通っていた。しばらく喘ぐと、はじめて起坐することができるようになったので、夫人を呼んで事情を告げた。夫人が大声で哭くと、蒋は言った。「待ってくれ。お母さまをびっくりさせてしまうだろう」。(つくえ)に寄りかかって坐し、夫人は様子を伺っていた。
 四鼓になり、沈沈と眠ると、知らぬ間にまた冥界に来ていた。殿宇は前の処ではなく、殿下には五つの座席が設けられ、文書が山のように積まれ、四つの座席には人が居り、五番目の席だけが空いていた。下役が指さして告げた。「こちらが公のお席でございます」。蒋はすぐに三番目の席に行って見ると、本房老師[91]の馮静山先生だったので、急いで進み出て揖した。馮は羊皮の袍を羽織り、眼鏡を卸すと欣然として言った。「足下が来て、良かった。良かった。こちらには文書がとても多いので、足下はわたしを助けなくてはならないぞ」。蒋が「先生もそう仰いますか。門生(わたくし)の母が老い、子が幼いことは、他人は知りませんが、先生はよくご存じでしょう。来ることはできませぬ」と言うと、馮は惨然として言った。「足下の言葉を聴いて、生前の事を思い出したぞ。わたしは父母はなかったが、妻は若く、子は幼く、やはり来ることができない者であったのだ。今、人の世で、妻子はどうしているのだろう」。そう言いながら泣き、涕を雨のように落とした。まもなく、手巾を取ると、涙を拭いて言った。「こういうことだから、多くは言うまい。おんみを保奏した者は、常州の老劉で、もとよりおかしなことではあるが[92]、はやく帰って身後の事を処理するのだ。今日はもう十五日で、二十日はおんみの赴任の日だぞ」。拱手して別れを告げると目が醒めたが、窓の外では鶏がすでに鳴いていた。母親も事情を聞いて知っており、抱きあって哭いた。
 蒋はもともと藩司[93]王公興吾[94]と親しかったので、別れにゆき、身後のことを托した。王は一目見ると驚いて「きみは顔中に鍋墨を塗ったようだが、昨日大病したのか。鬼気迫っているぞ」と言った。蒋が夢のことを告げると、王は言った。「怖れることはない。北斗を拝して『大悲呪』を誦えれば祓うことができる。家に帰ってわたしの言った通りにすれば、免れることができるかもしれない」。蒋太夫人はふだん北斗をすこぶる敬虔に祭っていたので、丁重に祭壇を建て、一家で精進物を食べて祈祷し、呪文を誦えた。期日になると、冬至の節日で、親戚や友人がお祝いしにきていたので、囲んで見守った。三更になると、蒋は空中から轎が一台下りてくるのを見た。旗数本、輿夫(かごかき)数人、迎えにきた者のようであったが、『大悲呪』を誦えて逼ると、近づくほどに薄くなり、煙が消えるかのようであった。三年後、はじめて進士に合格し、翰林に入った。

李敏達公が扶乩すること
 李敏達公衛[95]は、不遇であった時、乩仙に遇ったが、乩仙はみずからを零陽子と称し、一生を判断して言った。「気概文饒[96]に似、?名衛国[97]に同じなり。欣然として(また)一笑し、筆を擲つこと秋紅に在り」。傍には小さく注して「秋紅とは、草の名なり」とあった。その時は、解釈する者がいなかった。後に公は保定総督となり、総河[98]朱藻[99]を弾劾して薨じた。後人は朱とは、紅で、藻とは、草であることをはじめて悟った。

呂道人が龍を駆ること
 河南帰徳府の呂道人は、年は百余歳、鼻息は雷のように鳴り、十余日食らわないこともあれば、一日に鶏卵五百を食らうこともあり、息を人の体に吹きかけると、火で炙るかのように痛かった。ある人が戯れに生の餅でその背を覆うと、まもなく焦げて食らうことができるのであった。冬も夏も一枚の木綿の(あわせ)で、一日に三百里を歩いた。
 雍正年間、王朝恩[100]北総河[101]となり、張家口に石の堰を築こうとしたが完成せず、公金数万を費やし、憂えて食事しなかった。そこへ呂がやってきて「この下で毒龍が祟っているのです」と言った。王が「除くことができますか」と尋ねると、「この龍は修煉すること二千年、霊力はとても優れています。梁の武帝が浮山堰[102]を築いたときに堰が崩れ、数万の民草が死んだのは、この龍の罪なのです。公が堰を完成しようとなさるなら、貧道(わたくし)はみずから河に下って闘いましょう。そうすれば龍は逐いはらわれて堰は完成するでしょう。ただ貧道(わたくし)は福が薄く、傷つけられる恐れがございますので、聖天子の威霊、大人の福力によって守られなければなりません」と言った。「どうしたらよいのですか」と言うと、「王命牌を頂き、油紙で包んで貧道(わたくし)の背に縛り、河道総督の印を用いて封じ、大人が手ずから姓名を書き、封を加えれば、宜しいでしょう」と言った。言われた通りにすると、道士は剣を執り、水に入った。
 まもなく黒い風が起こり、雷電が大いに鳴って、波浪は天に巻き上がった。翌日の夜半になると、道士が役所にやってきた。血の着いた剣を提げ、腥い涎は体に満ち、背は曲がっていたが、「貧道(わたくし)は肋骨を龍の尾で断たれましたが、貧道(わたくし)も龍の片腕を斬りました。腕は水に墜ち、一本の爪が残っているだけですが、差し上げましょう。龍は傷を受けて東海に奔り去りましたから、明日堰は完成しましょう」と言った。王が大いに喜び、酒を出させて労い、蒙古の医者を招いて接骨してやろうとすると、「それには及びませぬ。貧道(わたくし)が真気を動かし、養生すれば、半年後、平復することができましょう」と言った。翌日、王公は工事を開始し[103]、石の堰ははたして完成した。所蔵している龍の爪は、大きさは水牛の角のよう、嗅げば龍涎香となり、懸けると、蚊や蝿は遠くに避けるのであった。
 呂は李自成と親しかった、かつて草鞋の帯を結んでやったとみずから語った。また賈士芳とともに王先生某に学問を授かったが、先生はいつも「おんみは願うなら、道を成就することができよう。賈は利を好み、うぬぼれているから、きっと良い死に方をしないだろうが、それでも名声は天子を動かすことだろう」と言っていた。文敏公は総河となって入京し、天子に拝謁したが、家人は手紙を得ていなかった。呂に尋ねると、「お宅のご主人さまですが、すでに大木が眼に突き刺さっていることでしょう」と言ったので、家を挙げて驚き、眼病になったかと恐れた。やがて東閣大学士を授かると、はじめて「目」の傍に「木」とは「相」の字のことだったのだと悟った。乾隆四年、呂が入京すると、王公たちは招いて病を治療させたが、たやすく癒えるのであった。徐文穆公[104]の第六子は陽気を損なわれていたが[105]、呂は一見すると言った。「若さまはお顔の色がよくありませぬから、夢精に過ぎません」。目を閉じ、地に臥し、胸をはだけさせ、一本の鉄針、長さは一尺あまりのものを手にすると、まっすぐにその心臓を刺した。抜くと、血は針とともに出てきて、一本の紅い絲のようであったが、唾を取り、その傷ついたところを拭いた。傍の人々はひどく驚いたが、公子は気付かず、その晩に病は癒えた。王太守孟亭[106]が腰痛を患ったとき、道人に頼むと、道人は言った。「晴れの日に治療しにまいります」。期日になると、手で日光を撮んで揉んだところ、熱が五臓に染みとおって癒えた。導引の術について尋ねると、語ろうとしないので、その童僕を招いてひそかに尋ねると、「とりたてて変わったことはございませぬ。毎朝曠野に行き、紅い日が出ますと、道人は日に向かって虎が跳ぶ動作をし、手で日光を招いて口に納め、吸って飲み込み、幾たびかそのようにするのです」と言った。

盤古以前の天
 陰沈木[107]は開闢以前の樹で、(すな)の中に沈み[108]、天地の転変や災厄を経て、ふたたび世に出たため、ふたたび土中に入っても、万年壊れることがないのだと伝えられている。その色は深緑で、紋様は錦を織ったかのようである。一片を地に置くと、百歩離れたところまで、蝿や蚋が飛ぶことはない。康熙三十年、天台山が崩れたとき、(すな)の中から棺が湧き出たが、形は奇怪で、前が尖り、後ろが闊く、高さは六尺余であった。識者は言った。「これは陰沈木の棺ですから、かならず怪異がございましょう」。その棺の頭の部分を啓くと、中に人がおり、眉、目、口、鼻は木と同じ色、臂、腿は木と同じ紋様で、腐敗していなかった。たちまち眼を開いて空中を仰ぎ見ると、「この青青としたものは何ですか」と尋ねた。人々が「天です」と言うと、驚いて言った。「わたしが昔、世に居た時は、天はこのように高くはありませんでした」。そう言うと、目を瞑じた。人々が争って扶け起こすと、全県の男女が大勢で盤古以前の人を看にきた。するとたちまち風が起こり、石人に変わってしまった[109]。棺は邑宰[110]某の所有となり、さらに制府[111]に献じられた。わたしはこの人は前古の天地が混沌に近づいた時の人かと疑った[112]。緯書に「万年の後、天杵に倚るべし」とある[113]。この人は天が今ほど高くなかったと言ったが、尤もなことである。

最終更新日:2007216

子不語

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[1]

[2] 原文「故以木板箍之而加鐵焉」。「加鐵」が未詳。とりあえずこう訳す。

[3] 『広雅』釈天「火神謂之游光」。

[4] 『山海経』巻一「又西二百八十里、曰章莪之山、無草木、多瑤碧。所為甚怪。有獸焉、其状如赤豹、五尾一角、其音如擊石、其名如猙。有鳥焉、其状如鶴、一足、赤文青質而白喙、名曰畢方、其鳴自叫也、見則其邑有訛火」。:『三才図会』。

[5]乩は占卜の一種。乩。扶鸞。丁字形の木組みを用意し、水平の両端を二人で支え、垂直の部分に付けた筆が、下にある、砂を入れた乩盤という皿に書く字によって神意を得ること。胡孚琛主編『中華道教大辞典』八百三十二頁参照。

[6] 岳飛。

[7] 杭州にある塔名。六合塔。国家文物事業管理局主編『中国名勝詞典』三百五十八頁参照。写真

[8] 原文「圈門」。未詳。とりあえずこう訳す。

[9] :『三才図会』。

[10] 鎧の裾の部分。

[11]蚕の繭から作った紙。王羲之が『蘭亭序』を書くとき、これを用いたという話が、『世説新語』に見える。

[12]紼は喪車の引き綱。

[13]原文「掘河灘土」。「灘土」が未詳。とりあえずこう訳す。

[14] 福建省の県名。

[15] 包拯。宋代の名裁判官。戯曲小説にしばしば登場。

[16] 按察使。

[17] 原文「宋令以故勘平人致死抵罪」。「故勘」は未詳だが、先入見を持って取り調べすることであろう。

[18] 原文「欲取成方」。「成方」が未詳。とりあえずこう訳す。

[19] 『清史稿』巻三百十五などに伝がある。乾隆二十九年から三十三年閩浙総督。

[20] 仁和の人。乾隆二年進士。『国朝耆献類徴』巻百七十八などに伝がある。方伯は布政使。

[21] 仁和の人。乾隆二年進士。観察は按察使。

[22]雍正十三年の郷試。

[23] 浙江省の県名。

[24] 原文「以硃筆倒標沈豐玉三字」。「倒標」が未詳。とりあえずこう訳す。

[25] 原文「知縣因濫應驛馬事」。「濫應驛馬」は宿駅の事務と思われるが未詳。

[26] 未詳。

[27]明、清の制度で、科挙の第一試である郷試に合格しても、挙人の員数に制限があるため、挙人の資格を与えられないもの。その中から国子監に入るものを副榜貢生、略して副貢生、又、副貢、副車という。

[28] 原文「焚黄於伍相國祠」。「伍相國」は伍子胥。「焚黄」は願文を書いた黄色い紙を焚くこと。

[29] 杭州城の東側の門の一つ。暗門。

[30] 墓の脇に立てる、喪に服するための小屋。

[31] 冠を帯びないでいること。

[32] 写真

[33] 門番への心付け。

[34] 経書の正文の上に書かれた注釈。

[35] 『礼』儒行・釈文「儒之言、優也、和也、言能安人、能服人也」。

[36] 『白虎通』三綱六紀引『含文嘉』に「君為臣綱、父為子綱、夫為妻綱」という言葉が見える。

[37] しんがりのものが制止を呼びかけること。

[38] 前注参照。

[39] 買官。

[40] 張燦。湘潭の人。『大清畿輔先哲伝』巻八などに伝がある。

[41] 結婚。春秋時代、晋の人は秦の人と代々結婚したのでこういう。

[42]香車に同じ。さまざまな香木で作つた車という。

[43] 無位無冠。

[44] 袁枚のこと。かれの文集に『袁太史文藁』あり。太史は翰林。

[45] 金匱の人。『国朝正雅集』巻五などに伝がある。

[46]親家翁。子供が結婚している者同士の、相手に対する呼称。

[47] 未詳だが、文脈からして城隍神であろう。郡はここでは州、さらに具体的にいえば通州のこと。

[48] 香、蝋燭、果物、布帛。

[49] 原文「素筵」。未詳。とりあえずこう訳す。

[50] 舅氏は母方の叔父。ここでは何翁のこと。

[51] ここでは三男の嫁に対する呼称。

[52] ここでは南通州。江蘇省の州名。

[53] 江蘇省の鎮名。呂四場とも。

[54] 官名。学政使。

[55] 死んで十四日目。

[56] 原文「夜設死者衣衾於柩側」。どういう状況を述べたものか未詳。とりあえずこう訳す。「衣衾」は死者を包む布かとも思われるが、死後十四日もたった人を包んだ布を棺の傍らに置くというのはおかしい。ここでの「衣衾」は死者が生前使っていた夜着の意であろう。そう解する。

[57] 『西石城風物志』「人死十余日、俗謂其魂還家、謂之回煞。是日咸寄宿隣家以避之」。

[58] 海を航行する船舶。

[59] 「蓬」と「彭」は同音。

[60] 陸堦。また陸[土比土]とも。銭塘の人。乾隆元年『浙江通志』巻百七十八・人物・文苑一にかなり詳しい伝がある。

[61] 純然。

[62] 湯斌。『清史稿』巻二百六十五などに伝がある。康煕二十三年から二十五年まで江寧巡撫。中丞は巡撫の雅称。

[63] 書名。欧陽修撰。

[64] 原文「然而歐公『本論』一篇既不能行」。前後との脈絡が未詳。

[65] 怨曠:独身の男女。

[66] 原文「則饑寒怨曠之民作何安置」。未詳。とりあえずこう訳す。

[67] 明、容城の人。『明史』巻二百九などに伝がある。号は椒山。

[68] 閻魔王の属官。

[69] 李?。南唐の第三代の王。『五代史』巻六十二などに伝がある。

[70] 未詳。

[71] 写真

[72] 原文「且有婦人為此事懸樑服鹵者」。「服鹵」は未詳。とりあえずこう訳す。

[73] 王銍『黙記』「有秦王賜牽機薬之事、牽機薬者、服之前却数十回、頭足相就、如牽機状也」。

[74] 原文「尚未與諸城隍會稿」。「會稿」は未詳。とりあえずこう訳す。

[75] 原文「習俗難醫」。出典があるかも知れないが未詳。

[76] 主語は陸梯霞先生。

[77] 保甲は自治組織。甲は百戸。保は千戸。保甲冊はそれの戸籍簿。

[78]道教では陽九は天厄、百六は地厄。

[79] 小さな災厄。

[80]点名冊。受験者名簿。

[81]先祖が顕官であることによって子孫に与えられる特権。

[82] 白石生。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千四百八十五頁参照。

[83] 江西鉛山の人。『清史稿』巻四百九十などに伝がある。

[84] 街巷名。現在の北京市宣武区にある。

[85] 雨傘。

[86] 文脈からして明るいという意味であろうが、「軒軒」をそのように用いた例をほかに知らない。

[87] 釜。足のない鼎。

[88] 頭に巻く布。

[89] 書名。宋聶崇義『聶氏三礼図』二十巻、明劉績撰『三礼図』四巻が伝わる。

[90] 罫線を引くときに用いる尺。

[91] 郷試、会試の試験官。ここでは蒋を合格させてくれた試験官のことであろう。ただ、馮静山という人物については未詳。

[92] 原文「保奏汝者、常州老劉也、本屬可笑」。未詳。とりあえずこう訳す。老劉という人名は、ここでいきなり出てくる。

[93] 布政使。

[94] 華亭の人。雍正五年進士。

[95] 碭山の人。『清史稿』巻三百などに伝がある。

[96] 文饒は字号と思われるが、この字の有名人は多く、誰と特定することは難しい。ただ、李敏達の運命判断の詩であることから、李徳裕のことか。

[97] 未詳。

[98] 官名。雍正八年に置かれ、直隷の河道を掌った。河道水利総督。

[99] 奉天の人。雍正十三年及び乾隆三年に河道水利総督。李衛がかれを弾劾したという記事は、『清史稿』巻三百李衛伝にも見える。

[100] 奉天の人。雍正十年に河道水利総督。

[101] 直隷の河道水利総督。

[102]鍾離に築かれた堰の名。これが崩れたのは天監十四年のこと。

[103] 原文「王公上工下掃」。「下掃」は建材を置くこと。

[104] 徐本。銭塘の人。康煕五十七年の進士。『清史稿』巻三百八などに伝がある。

[105] 原文「徐文穆公第六子虚陽不閉」。「不閉」が未詳。「虚陽」は陽気をすり減らすこと。謝観等編著『中国医学大辞典』千二百四十六頁参照。

[106] 王箴輿。宝応の人。康煕五十一年の進士。

[107] 長期間土中、水中に埋没していた木材。神代杉などの類。

[108] 原文「沉沙浪中」。「沙浪」は未詳。とりあえずこう訳す。神代杉は、火山灰に埋もれているのが普通。「沙浪」は火山灰状の砂であろう。

[109] 主語は棺の中の人であると解す。

[110] 県令。

[111] 総督。

[112] 原文「予疑此人是前古天地將混沌時人也」。混沌と天地開闢が何度も繰り返されるという世界観が前提としてあるのであろう。「前古天地」は今の天地の前の天地のことであろう。

[113] 原文「萬年之後、天可倚杵」。出典未詳。「千歳之後」とした例は『初学記』巻一引『河図挺佐輔』「百世之後、地高天下、如此千歳之後、而天可倚杵、汹汹莫知始終」。「天可倚杵」は天と地が接近し、杵ほどの隙間しかなくなるということ。

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