第八巻

鬼が鶏鳴を聞くと縮むこと
 わが門生の司馬驤は、溧水[1]の林姓の家で家庭教師をしていたが、住んでいた土地は横山郷といい、辺鄙な所であった。とても暑かったが、西の(ひろま)は広かったので、弟子たちと掃除し、夕涼みの場所とすることにした。書籍や荷物を運び、(とこ)を移し、燭を点して臥した。三鼓になると、門の外で啾啾と音がし、(とぼそ)が抜けた。燭光はだんだんと小さくなり、陰風が吹いてきた。小鬼が先に入ってきたが、顔は笑っているようで笑っておらず、哭いているようで哭いておらず、地を趨りまわった。後に従うのは紗帽紅袍の人、飄飄たる白鬚で、体を揺らしながら入ってくると、おもむろに数歩進み、椅子に坐し、司馬が作った詩文を観、しばしば頷いたが、理解しているかのようであった。そしてにわかに立つと、手に小鬼を携げて(とこ)の前に来たので、司馬も起坐し、かれと向かいあった。突然、鶏が一声叫ぶと、二鬼は一尺縮み、燈の光は明るくなった。鶏が三声四声叫ぶと、鬼は三四たび縮み、ますます短くなり、紗帽[2]の二つの(はね)がだんだんと地に触れて消えた。
 翌日、土人に尋ねると「この家は前明の林御史父子がともに葬られた所です」と言った。主人が地を掘ると、朱塗りの棺がそっくり残っていたので、文を作って祭り、棺を掘り起こして改葬した。

蜈蚣(むかで)が丹を吐くこと
 わたしの舅氏[3]章昇扶が、温州雁蕩山を通ったときのこと、真昼にひとり(たにがわ)を歩いていると、たちまち東北から鼻を撲つ腥い風が吹いてきた。それは長さ数丈の蟒蛇(うわばみ)で、跳び上がり、走り、()のように進み、避けるものがあるかのよう、後ろでは五六尺の長さの赤銅色の蜈蚣(むかで)が追いかけていた。蛇が(たにがわ)に跳び込むと、蜈蚣(むかで)は水に入ることができず、その脚を踏み、颯颯と音をたて、触角で水を弄んでいたが[4]、しばらくして、口から血のような色の紅い(たま)を吐き、水中に落とした。まもなく、水は煮え湯のようになり、熱気が衝きあがった。蛇は水中でのたうってやめず、まもなく死ぬと、横ざまに水面に浮かんだ。蜈蚣(むかで)は蛇の頭に飛び上がると、その脳を啄み、水から紅い(たま)を吸い取ると、口に納め、空に上っていった。

雷部三爺
 杭州で施姓の者が、忠清里に住んでいた。六月の雷雨の後、樹の下で小便しようとし、(したばき)を脱いだところ、鶏の爪、尖った顔の者が蹲んでいたので、大いに怖れて引き返した。その夜にわかに病み、狂って「雷神さまにはご無礼つかまつりました」と叫んだ。家人が取り囲み、跪き、赦しを乞うと、病人は「酒を買い、わたしに飲ませ、羊を殺し、わたしに食わせれば、命を許してやるとしよう」と言った。言われた通りにすると、三日で癒えた。たまたま天師法官[5]が杭州に過ったが、施と旧交があったので、その事を告げたところ、法官は笑って言った。「それは雷部の奴中奴[6]で、幼名を阿三といい、権勢を笠に着て、人から酒食を脅し取ってばかりいるのです。雷神ならば、その力量はかようなものではございませぬ」。今、長隨[7]の中で「三爺」、「四爺」と称されている者がそれである。

()乖乖(かいかい)
 金陵の葛某は、酒豪で、人に逢うとかならず馴れ馴れしくするのであった。清明の頃、友人四五人と雨花台[8]に遊んだ。台の傍に朽ちた棺があり、紅い(スカート)が見えていたが、同行していた人は戯れて「きみは人に逢えばかならず馴れ馴れしくするが、この棺の中の物に馴れ馴れしくする勇気はあるかね」と言った。葛は笑って「大丈夫だよ」と言うと、棺の前に往き、手招きして「乖乖(かいかい)[9]、お酒を飲もうよ」と言い、同じことを繰り返した。客たちはその胆力に敬服し、大いに笑って散じた。
 葛が夕方家に帰ろうとすると、後ろから黒い影がついてきて、啾啾たる声で「乖乖(かいかい)がお酒を飲みにきましたよ」と言った。葛は鬼であることを悟ったが、避ければ気力がさきに萎えてしまうと思い[10]、後ろに向かって「()乖乖(かいかい)、ついておいで」と呼びかけた。すぐに飲み屋に往くと、楼に上り、酒壺[11]と二つの杯を置き、黒い影に向かって酒を勧めた。傍の人々は影が見えないので、精神病なのかと疑い、放っておいた。いっしょに飲んでしばらくすると、帽子を脱ぎ、(つくえ)の上に置き、黒い影に言った。「楼を下りて小便したら、すぐに来るからね」。黒い影の者は頷いた。葛は急いで趨り出ると家に帰った。
 酒保(ボーイ)は客が帽子を忘れていったのを見ると、それを盗んだ。その晩、鬼に纏いつかれ、ぶつぶつと絶えず喋って、夜明けにみずから縊れてしまった。店の主人は笑って言った。「帽子を覚えていても(かお)を覚えていないとは[12]乖乖(かいかい)(かしこ)くないな」。

鳳凰山が崩れること
 同年の沈永之[13]が雲南の駅道で職務に当たっていた時、制府[14]璋公[15]の命を奉じ、鳳凰山八十里を切り開き、擺夷[16]、苗[17]への路を開通させた。山道は険しく、漢、唐以来、人跡の到らない処であった。樹を切るたびに、白い気がその根から出て、(ねりぎぬ)が天に昇るかのよう。蝦蟆は大きさが車輪のよう、人を見ると目を瞠って睨みつけ、出くわした者はたちまち地に倒れるのであった。土人は焼酎に酔い、雄黄[18]で鼻を塞ぎ、巨きな斧を持って斬り殺すのだが、烹て食えば三日間飢えを癒すことができるのであった。とある日、美女が(あで)やかに装って山の洞窟から奔り出てきたので、役夫数千人は、みな洞窟から出て追いかけて観たが、年輩の者は心を動かさず、相変わらず作業していた。するとにわかに山が崩れ、洞窟を出なかった者たちは圧死してしまった。沈公はわたしにその事を述べ、戯れて言った。「人は色を好まざるべからず[19]というが、このようなことがあるのだなあ」。

董金甌
 董金甌は、湖州の勇士で、重いものを負うことができ、京師に走ってゆくと、十日で到着することができた。かつて人のために千両を腰に提げて都に入ろうとし、山東の開成廟を通ったところ、盗賊が後ろからつけてきて、その金を取ろうとした。董はそれを知ると、金を樹の上に掛け、馬を下りると組み打ちした。盗賊は太刀打ちできず、「足下の拳法は、誰から教えられたものだ」と尋ねたので、「僧耳だ」と言うと、盗賊は「僧耳の拳を破るには、妹に来てもらわなければならぬ。こちらで待たれるか」と言った。董は笑って「女を避けては男ではない」と言うと、坐して待った。まもなく、一人の美女が来たが、年は十八九、(かお)はとても和やかだったが、相見えるとすぐに格闘し、しばらくすると「あなたの拳法は僧耳が授けたものではない。ほかに人がいるはずです」と言った。董は本当のことを告げた。「わたしははじめ僧耳に学んだが、後に僧耳の師王征南[20]に学んだのだ」。娘は「それならば、わたしの家に来るべきです。おたがいに食事をしたら闘って勝負を着けることにしましょう。来ますか」と言った。董はその勇を恃み、すぐに娘についていった。
 家に着くと、その兄はさきに家に居り、提灯を下げ、紅布を掛け[21]、妻を連れて歓迎し、「妹夫(おとうと)が来た」と言い、紅い頭巾をその妹の頭に被せ、拝礼を交わさせた。董がびっくりして事情を尋ねると、言った。「わが父某も人のために用心棒をしていましたが、路で僧耳に逢い、闘って勝てずに死んでしまいました。わたしと妹は復讐の志を立て、ともに拳法を習い、僧耳に勝るようになったら殺そうと思っていました。僧耳の師が王征南であることは調べていましたが、尋ねるつてがないことに苦しんでおりました。あなたがお弟子であるならば、征南さまに目通りし、拳法を学んで仇に報いることができましょう」。董はその家の婿となり、ほかの人に腰の金を持たせ、京師に赴かせた。その後どこで死んだかは分からない。

蒋厨
 常州の蒋用庵御史[22]の料理人李貴は、厨房で水汲みしていたところ、たちまち邪気に中たって地に倒れた。(かんなぎ)を召して見せると、「この人は夜歩いていて城隍の儀仗に突き当たったので、鬼卒に捕らえられていったのです。三牲[23]紙銭[24]を用いて城隍廟の西の回廊の黒い顔のp隸に祷れば、釈放されることでしょう」と言った。言われた通りにすると、李は蘇った。家人が尋ねると、「わたしが水を汲んでいますと、たちまち二人の武進県の黒い顔のp頭(そうとう)[25]が来て捕らえてゆき、わたしがかれらの知事さまの儀仗に突き当たったと言い、役所の外の樹に縛り、沙汰を待たせました。わたしはほんとうに事情を知らなかったのです。今日はかれら二人はこっそりと『李某はすでに孝敬(つけとどけ)の礼を尽くしたから、戻ってゆかせることができる。お上に言上することはない』と言っていました。そしてわたしの縄を解き、推して水の中に入れましたので、わたしはすぐに目が覚めたのです」と言った。御史公はそれを聞くと笑って「それならば、捕らえられた時にも城隍はそれを知らず、放たれた時にも城隍はそれを知らず、黒い顔のp隸がお金を脅し取るために祟りをなしただけだ。冥界の役人は人の世の役人より清廉であるなどとはとんでもないな」と言った。

曹操に見え晩生と称すること
 江南の副榜[26]王芾は、夢で古の衣冠の人に召されて、とある場所に往った。宮闕は巍峨として、衛兵はとても厳かであった。赤い頭巾の者が軍門から出てくると「漢の丞相曹公のお成り」と言った。王が入ると、一人の皮弁[27]を着けたものが上座に着いており、鬚眉は胡麻塩であった。芾は操であることを知ると、すぐに胸がどきどきし、何と名乗ってよいか分からず、長揖すると、「晩生[28]王某が拝謁いたします」と称した。操は傍に坐るように命じると「聞けばおんみは書を学ぶのがお好きだそうだが、楷書が先か、草書が先かをご存じか」と言った。「楷書が先でございます」と言うと、操は首を振って言った。「そうではない。さきに草書があり、後に楷書ができたのだ。おんみをお呼びしたのは、まさにこのことを告げ、世の人々に伝えさせるためなのだ」。そう言うと、赤い頭巾の人に命じて送り出させた。門に着くと、中から叫ぶ声が聞こえた。赤い頭巾の者は言った。「相王[29]がまた五色棒[30]で人を打っています」。芾は驚いて目醒めたのであった。

武后が先生に謝すること
 無錫の侍読受之[31]は、わたしが教えを授けた弟子であった。辛丑の冬、隨園に過ったので、わたしは引き止めて酒を出した。席上歴史を論じたとき、わたしは口を極めて『通鑑』が載せている楊貴妃洗児の故事[32]がでたらめであることを語った。は言った。「門生(わたくし)は史局[33]に居た時、『唐鑑』[34]を編修しましたが、立論は先生のご主旨にすこぶる合っており、『旧唐書』が載せている武后淫穢の故事は大半を刪除していましたが、同僚はそれは正しくないと言っていました。まもなく、夜、書舍[35]に臥していたとき、若い黄門[36]が来て、『則天皇太后が先生をお招きでございます』と称しましたので、ついてゆきました。眺めますと前方の宮殿の外に、天を衝く四本の金の柱があり、高さは数十丈、上に『天枢』の二文字が書かれていました。一人の宮女が雲鬟霞佩[37]で出てきますと、宮殿の西の角に導いてゆき、言いました。『先生はしばらくお掛けになって下さい。わたしが奏聞いたしましょう』。そう言うと去ってゆきました。殿上の敷居はとても高く、跨ぐのはことに骨が折れました。繍簾の中には冕旒の者が坐していましたが、遠く離れていましたので、仰ぎ見てもあまりはっきりしませんでした。異香が殿上から吹いてきましたが、まるで蓮花の香のようでした。傍に虎皮の交椅があり、白鬚の人が坐し、手に牙笏を執り、口で上奏していましたが、瑯瑯たる数千言も、聞き分けることはできませんでした。冕旒の者はしばらく詰っているようでしたが、やがて大いに笑いました。その歯は皓然として露わになり、清らかで白玉のようでしたが、顔は冕旒の珠に遮られ、結局見えませんでした。まもなく、先ほどの宮女が出てきて言いました。『日はすでに暮れ、太后さまはお会いする暇がございません。先生はひとまずお戻りください。ご来臨いただきましたのは、先生が『唐書』を駁して削った功にお礼するためですが、先生はもとよりご存じでございましょう』。そう言いますと、袖の中から玉の秤を出し、言いました。『わたしは長安でこの秤によって天下の人材を量っているのです。先生は長安に往かれるのですから、お贈りいたしましょう』。門生(わたくし)は上官婉児[38]だと分かりましたので、後ずさり、揖して別れを告げますと、目が醒めました。その年にはたして陝西に督学する仕事がございました」。

冒失鬼
 観相法によれば、瞳が青い者は、(あやかし)を見ることができ、白い者は、鬼を見ることができる。杭州三元坊の石牌楼の傍に老嫗沈氏が居たが、ふだんから鬼を見ることができ、つねづね言うには、十年前に蓬頭の鬼を見た、牌楼[39]の上の石の繍球の中に匿れ、手に紙銭を執って投げ槍にしていた[40]、その長さは一丈あまり、累累として貫いた珠のよう、人が牌楼の下を過ぎるのを伺い、ひそかに投げ槍を擲ってその頭に当てると、人は身震いし、毛孔がぞくっとし、家に帰るとすぐに病む、空に向かって祈るか、野祭(やさい)[41]をするとはじめて癒える、蓬頭の鬼はこの技を使って、しばしば酔い、満腹していたというのであった。ある日、大きな男で、気は昂昂然としたものが、銅銭を背負って通ったので、蓬頭の鬼は投げ槍を擲った。すると男の頭上からたちまち火燄が発し、その投げ槍を衝いて焼き、粉々に裂いてしまった。蓬頭の鬼は牌楼の上で倒れ、繍球(まり)を転がすように落ち、くしゃみして止めず、黒い煙に化して散じていった。銭を背負った男はまったく気が付かなかった。それからは、三元坊の石牌楼はふたたび祟りをなさなかった。わが友方子雲[42]はそれを聞くと笑って「鬼と成って人を害するときも、気配を看るべきだ。その蓬頭の鬼などは、世間でいう『冒失鬼(マオシクイ)[43]かな」と言った。

史宮・が運命を改めること
 溧陽の宮・[44]史冑斯は、不遇であった時、省の郷試に赴き、南門外の湯道士に遇ったが、運命をとても詳しく語っていたので、年庚[45]で占うことを求めた。道士は言った。「丑の刻として占えば、おんみは終生一諸生に過ぎませぬが、寿命は八十三歳でしょう。寅の刻として占えば、官位は三品に登ることができ、今回の試験で合格しましょう。おんみは丑の刻でしょうか。寅の刻でしょうか」。「丑の刻です」と言うと、「それならば、今回の試験は合格なさいませぬ」と言った。史は愴然として楽しまなかった。道士は言った。「運命は改めることができますが、冥府では寿命がもっとも重んじられます。ご寿命を三十年減らそうとなさるなら、寅の刻に改めてあげましょう」。史公は欣然として改めることを求めた。道士は言った。「それを願われるのならば、明日早くいらっしゃい」。
 翌晩、史が五鼓に熏沐[46]して寺に行くと、道士はすでに戸を啓いて待っており、言った。「ほんとうに信義に厚い御仁ですね、これからは官位は尊く、寿命は短くなりますが、ご自身をお悔いになりませぬように」。史は諾々とし、香燭を具え、天に向かってひとりで語った。道士はざんばら髪になり、剣を執り、口の中で喃喃と呪文を誦え、しばらくすると、別の庚帖[47]を書き与えた。史公はそれを持ち、帰ると篋の中に置いた。はたしてこの年、郷試、会試に聯捷し、官位は宮・に至った。
 五十二歳のとき、降級されて寿命を永くすることを望んだが、任期中にまったく過失がなかった。吏部に相談したが、笑って信じてもらえなかった。翌年の春になっても、とても健やかであった。五月、たまたま軽い病に罹った。お上は太医[48]に診察しにゆくように命じたが、薬を間違えられたため、起てなくなってしまった。この事は公の孫の抑堂司馬が語った。司馬は、わたしの親家[49]である。

高相国が鬚を植えること
 高文端公[50]がみずから言うには、二十五歳で山東泗水の県令となった時、呂道士がかれの人相を見て、「おんみは貴さは人臣を極めますが、鬚が生えなければ、官位は変わりませぬ」と言った。相国はみずからその(あご)をさすると、「根さえないのに、鬚はなおさらです」と言った。呂は「わたしは植えることができます」と言った。その晩、公が熟睡するのを伺い、筆に墨を浸すと(おとがい)の下に星のように描いたところ、三日で鬚が生えてきた。しかし筆で描いたものなので、細々とした百十本で、終生多くなることはなかった。この年、邠州[51](ぼく)[52]に遷り、擢ばれて総督に遷り、大臣になった[53]

官話を語る鬼
 河東運使の呉雲従が刑部郎中をしていたときのこと、公館の外でたまたま社会[54]があり、下男の妻が若さまを抱き、外に出てそれを看、路傍で小便させた。若さまはたちまち哭き止まなくなったので、家人は抱いて帰ったが、なぜなのか分からなかった。夜になると、若さまは北方の言葉になって「どうして子供がこのように無礼なのだ。わたしの頭上に小便するとは。おまえをただでは済まさぬぞ」と言い、一晩騒いだ。呉公は怒り、翌朝、牒[55]を作り、その地の城隍に向かって焚き、「わたしは南方人にございます。理由もなく、子供が官話を話す鬼に出くわしました。荒れ狂い、憎むべきものであります。捕縛、追究するようにお願いします」と言った。その夜は平穏であった。
 三日目の晩になると、公子はまた病み、北方の言葉になると「おまえは役人に過ぎぬのに、あのようにわれらの老四を踏みつけにした。わたしたち兄弟は今かれに替わって復讐しにきた。焼酎をすこし飲ませろ」と言った。夫人はやむをえず、「飲ませたら、騒がないでください」と言った。一匹の鬼が飲みおわると、もう一匹の鬼が飲もうとし、前門外の楊家の血貫腸[56]を求めて酒の肴にし、呶呶たる声は、朝まで続いた。呉公は進み出てその頬を打つと罵った。「狗め。舌を弄して、官話を語るとは。これ以上話したら打つぞ」。しかし打つ者が打ちつづけても、話す者は話しつづけた。呉はまた城隍に向かって牒を焚くと「官話を話す鬼がまた来ました。神さまが懲らしてくださいますように」と言った。その晩、宅内で鞭うつ音が聞こえた。鬼が「打たないでください。行けばよろしいのでしょう」と言うと、公子の病はすぐに癒えた。

雷錐を盗むこと
 杭州孩児巷[57]に万姓のものが居り、とても金持ち、高楼大廈を構えていた。ある日、雷を落とす(あやかし)[58]、産婦の部屋を通り、汚されて天に上ることができなくなり、園内の高い樹の頂に蹲んでいたが、鶏の爪、尖った嘴で、手に錐を持っていた。人々は見た当初は、何であるかが分からなかったが、永いこと去らなかったので、雷公であることが分かった。万は戯れにしもべに告げて「雷公の手の錐を盗むことができる者は、賞金十両だ」と言った。しもべたちは黙然とすると、滅相もございませんと称したが、一人の瓦職人某が行きましょうと返事した。まず高い梯を取り、塀の側に置き、日が西に落ちると、闇に乗じて上っていった。雷公は眠っていたので、職人はその錐を取って下りてきた。主人が見たところ、鉄でもなければ石でもなく、光は人を照らすことができ、重さは五両、長さは七寸、切っ先はとても鋭く、石を刺すこと泥のようであった[59]。恨むらくは使いようがないので、鍛冶屋を呼んできて、刀に改めさせ、帯びるのに便ならしめようとしたが、火にくべると、一陣の青い煙に化し、杳然として去った。俗に「天火は人火を得て化す」[60]と言うが、まさにその通りであった。

土地が飢えに耐えること
 杭州銭塘の邑生[61]張望齢は、瘧を病んだ。熱が重篤となった時、すでに亡くなった同学の顧某という者がよろよろとしてやってくると、「(けい)は寿命がすでに尽きていますが、さいわいお若い時に一人の娘をお救いになりましたので、一紀の寿命を増しましょう。以前、お救いになった娘は、ご病気が重いのを知り、わざわざ尋ねてきましたが、土地のごろつきの鬼に脅され、ふだん疚しい事があったと誣告しました[62](わたし)は大いに叱りつけ、かれらを去らせましたので、わざわざお屋敷に来てお祝い申し上げるのです」と言った。張は自分のためにやってきた旧友を見たが、衣裳はぼろぼろ、顔には飢色を浮かべていたので、お金でお礼しようとすると、顧は辞して受けず、「わたしは今、この地の土地神となっていますが、官位は卑しく、土地は貧しゅうございます。わたしももとより節操を重んじており、鬼の訴えをみだりに受けたり、威福をほしいままにしようとしないため、終年香火はなく、土地神をしているものの、しばしば飢えを忍んでいます。しかし、分に過ぎた財貨は、旧友から贈られても、決して受けはいたしません」と言った。張は大いに笑った。
 翌日、牲牢を具えて祭ると、また夢に顧が来て礼を言った。「人は一たび満腹を得れば、三日耐えることができますが、鬼は一たび満腹を得れば、一年耐えることができます。おんみのご恩を受けましたから、冥府の大計[63]まで生きながらえて、卓異[64]に薦められることを望めましょう」。張が「このような清官が、どうしてすぐに城隍に昇任せぬのだ」と尋ねると、「人付き合いを解する者は、格別の昇進が望めますが、清官は、大計で卓薦[65]を受けるしかありません」と言った。

僵屍の頬を打つこと
 桐城の銭姓の者は、儀鳳門[66]外に住んでいた。ある晩、家に戻ろうとしたが、時はすでに二鼓であった。同僚は明日の朝に行くことを勧めたが、銭は承知せず、燈を提げて馬に乗り、酔いに任せて行くことにした。掃家湾の地に行くと、荒れ塚はびっしりとして、樹林の中から人が跳ねてくるのが見えたが、ざんばら髪に裸足、顔は白壁のようであった。馬は驚いて進まず、燈の色はだんだんと緑色になった。銭は酔って大胆になっていたので、手でその頬を打った。その頭は打てばそのまま回ったが、すぐにもとに戻り、糸が仕掛けられた木偶のよう、陰風は人を襲ったが、さいわい後ろに人が来ると、その(もののけ)は退き、走り、樹林に行くと消えてしまった。翌日、銭は手が黒い墨のようであった。三四年後、黒い色ははじめて消えた。土人に詢ねると、「それは僵屍になりたてで、出来上がっていないものです」と言った。

簸箕亀
 乾隆辛卯の春、山陰の劉際雲が舟で鎮江を通ったときのこと、風に客船を覆され、流れたり沈んだりする貨物はとても多かった。江辺(かわべ)にはもともと泳ぎの達者な人がおり、俗に「水鬼」と呼ばれ、もっぱら貨物を掬うことを生業としていた。この日、客舟が覆ると、水鬼たちはやってきて、値段を決め、一斉に水に入った。岸に上がると、一人が欠けていた。人々はかれが水中に金銀を蔵し、また水に入ったのかと疑い、くまなく捜したが見つからなかった。いたのは一匹の亀。赤い色で、浴盆[67]より大きく、形は平たくて簸箕(ちりとり)のよう、頭や尾や足がなかった。水鬼はそれに咬みつかれており、引いても離れなかったので、大きな鉄の鉤で亀を曳き、岸に上げた。全身に小さい穴が数百あり、すべて口であった、人の血はすでに吸い尽くされていたが、かたく咬んだまま放さなかった。鋭い刃で刺したが、亀は気が付かないようであった。やむをえず、人と亀を烈火で焚くと、臭いは数里に漂った。ある人が言った。「これがすなわち鍋蓋魚[68]の極めて大きな者だ。厳州の(かわ)にもっとも多いのだ」。

薄い棺となるべき(さだめ)
 台州の富豪張姓の家に老僕某がおり、六十歳で子がなく、みずから棺を用意していたが、材木がとても薄いのを嫌い、貧家で葬儀を営み、にわかには棺を買うことができない者を探しては、貸して使わせ、還す時は一寸だけ厚くさせ、利息とすることを求めていた。このようにすること数年、棺は厚さが九寸にまでなったので、家主の廂房に収めた。ある晩、隣家で火事が起き、家中が慌てふためいた。野次馬たちは張家の建物に一人の黒衣の男が立ち、手に紅い旗を執り、風に向かって揮い、揮った処に火が回ってゆくのを見た。張家の母屋は無事であったが、廂房だけは焼けてしまった。老僕は急いで入ると棺を担ぎ出したが、すでに火が点いていたので、いそいで池に投げ込んだ。残り火を消し止めた後、引き上げて鉋を掛けると、依然として使うことができたが、薄いのも、以前と同じであった。

狐仙に道を学ぶこと
 雲南の監生兪寿寧は、仙家の符籙[69]の学を習い、一振りの古い剣で人のために妖邪を除き、すこぶる霊力があった。ある日、その友張某が郊外に行き、年貢を取り立てたが、激しい風雨に遇い、その家を訪ね、宿を借りようとした。兪は承知しなかったので、張は忿然として去ったが、どうしても拒まれたわけを探ろうとし、入り口に往くと、塀に穴をあけて窺った。見ると兪は二席の酒肴を設け、賓客は歓呼し、男女は雑沓していた。張はますます怒り、斧で門を砕き、扉を開けて入ったところ、酒席は残っていたものの客たちは見えなかった。兪は驚いて出てくると、足踏みして言った。「ひどいことをしてくれたな。ひどいことをしてくれたな。わたしは仙術を学ぶのを好んでいるが、真師に道を授かることは難しいので、やむをえず、ひろく狐仙に教えを請うていたのだよ。ここ半年、遇った男女の狐仙はたいへん多かったので、相約して兄弟となった者、夫婦となった者、兄妹となった者は、一人に止まらなかった。今日は狐仙たちが会議し、長生の要訣を授けることになっていたので、礼節を厚くし、ご馳走を用意して招いたのだ。玄関[70]要旨に話が及ばないうちに、おんみが闖入してきたために、天機は漏れ、狐仙たちは散じてしまった。これが運命か。数日前、紫文真人が今日は破日[71]で、かならず凡人が邪魔するから、日を改めて宴するべきだと言っていたのだが、瑤仙三妹が明日某郎に嫁ぐので、ひとまず今日を択んだのだ。やはり不吉であったか。これも運命だ。わたしは明日去り、ほかに清浄な場所を択び、群仙を集め、人に知らせぬことにしよう」。その後、兪は他郷に雲遊したが、行く先は分からなかった。

五通神[72]が相手を見ること
 江寧の陳瑤芬の子某は、常日頃から不良であった。普済寺に遊んだところ、寺で五通神を関帝の上座に祭っていたので、その無礼を怒り、僧を呼んで責め、五通神を関帝の下座に移すように命じた。観ていた参拝客たちはみなそうだと言ったので、陳は傲然として得意になった。晩に帰ると、五通神が門の前に立っていたので、地に倒れ、狂って「わたしは五通大王で、人の世の血食を長いこと享けていたが、たまたま運気が良くなかったため、江蘇巡撫の湯じいさん[73]、両江総督の尹の若造[74]に出くわして、逐いはらわれてしまった。かれら二人はいずれも貴人で、正人でもあったから、わたしはどうすることもできず、甘んじて受けるだけだった。おまえは市井の小人なのに、威福をほしいままにするのか。おまえを許すことはできぬぞ」と叫んだ。家人は取り囲んで拝礼し、三牲紙銭[75]を具え、僧を招いて祈祷させたが、救うことができずに死んでしまった。

張奇神
 湖南の張奇神は、術で人の魂を摂ることができるので、崇める者がとても多かった。江陵の書生呉某だけはかれを信じず、人々の前で辱めた。その夜かならず祟りがあると思ったので、『易経』を持って燈下に坐していたところ、瓦の上で颯颯と音がし、金の鎧の神が門を開けて入ってくると、槍を持って刺そうとした。生が『易経』を擲つと、金の鎧の神は地に倒れた。見ると、紙人形にすぎなかったので、拾うと書巻の間に夾んだ。まもなく、青面の二匹の鬼が斧を持ってやってきたが、やはり『易経』を擲つと、先ほどのように倒れたので、ふたたび書巻の間に夾んだ。
 夜半、張の妻が号泣しながら門を叩くと「夫の張某[76]は昨日二人の息子に祟らせましたが、どちらも先生に捕まえられてしまいました。どのような神術にございましょう。どうか命をお返し下さい」と言った。呉は「来たのは三つの紙人形で、おまえの息子ではない」と言った。妻は「夫と二人の息子は紙人形に附いたのでございます。今、三体の骸が家にございますが、鶏が鳴いてしまえば生きかえることはできません」と言い、再三哀願した。呉は「人をたくさん殺したのだから、このような報いがあって当然だが、今はおまえを憐れんで、息子を一人還してやろう」と言った。妻は一つの紙人形を持つと泣きながら去った。翌日訪ねると、奇神及び長子はいずれも死んでおり、下の子だけが生きていた。

青陽の江丫
 青陽[77]の人江丫は、郊外で家庭教師をし、村童五人を教えていた。年長の者は十二三歳に過ぎず、幼い者は八九歳であった。ある日、字の勉強がおわると、江はにわかに棍棒を持ち、五人の生徒を順番に打ち殺し、自分も塀にぶつかって血を流すと、昏迷して地に倒れた。各家の父母たちはそれを聞くと、奔ってきて哭き叫び、そのわけを尋ねた。江は「昼間、静かに坐っていると、窓の外に奇妙な鬼六七匹、紺の髪、藍の顔で、五色の衣を着けたものがにわかに現れ、進み出て、生徒たちを掴み、齧ろうとしたのです。わたしは慌て、追い払いましたが去りませんでしたので、棍棒を取り、鬼を打ち払い、生徒たちが難を免れてよかったと思っていました。まもなくじっくり観たところ、打ち殺した者は鬼ではなく、弟子五人であったことがはじめて分かりました。屍が地に横たわっていましたので、悲しみで心肝は砕け、自殺しようとし、塀にぶつかり、脳が裂けてしまったのです」と言った。お上は調査し、供述を取ったが、鬼云々という話では確かな判決を下すことは難しいので、各家の父母に質すと、江丫とは平素からまったく怨恨はなかった、かれは先生として、生徒たちをすこぶる慈しみ、精神病もなかった、この振る舞いがどうしてなのかは分からない、前生の怨みであろう、江は脳が破れて死にそうだから、今は收監し、医者に治療してもらってから取調べを行いましょうと言った。これは乾隆二十一年五月に青陽知県が総督尹公に文書にして送り、わたしがみずから見たことである。半月後、江丫が獄で死んだことが報告された。

梁武帝の第四子
 杭州の汪慎儀の家は、庭園がきわめて優れており、小粉牆北街にあった。主人が池を掘ろうとしていたところ、夜に美少年を夢みたが、(ぎょく)(かぶり)(たま)(くつ)、容貌は立派で、(えり)から下は、すべて(みどり)(きぬ)で覆われており[78]、袍や衫にはたくさんの梅花を(ぬいとり)しており、みずから「わたしは梁武皇帝第四子の南康王蕭績で、江州の都督をしていたときに病んで薨じ、こちらに千余年間葬られている。聞けば主人は池を掘ろうとしているとか、どうかわたしの窀穸(はかあな)を傷つけないでくれ」と称し、言いおわると去っていった。主人は翌日(くわ)(すき)で掘ってみるように命じると、一丈ばかりも掘らないうちに、梁の天監八年に造られた方磚数十塊を得たので、掘るのを止めた。今、磚は厳侍読冬友の家に蔵せられている。

呂城に関廟がないこと
 呂城[79]五十里の中には関廟がない。(まち)は呂蒙によって築かれたので、今でも蒙が土地神となっているそうである。関廟を造ると、毎晩かならず兵戈と格闘の音がするので、関廟を立てないように戒めているのであった。卜卦(うらない)をしながら道を行く者が土地神廟に宿を借りたが、その晩、雷雨が荒れ、屋根瓦はすべて飛んでしまった。朝になったが、そのわけは分からなかった。里人が観にくると、卜者が担いでいた布の旗に帝君の像が描かれていた。そこで逐い払い、ふたたび呂侯廟に宿るのを許さなかった。

姚剣仙
 辺桂岩が山盱[80]の通判をしていたときのこと、家を洪沢堤の畔に構え、賓客を集めてその中で酒を飲み、詩を吟じていた。ある晩、酒宴を開いていたところ、客が闖入してきたが、(かぶり)(くつ)は垢じみてぼろぼろ、辮髪は毿毿然(さんさんぜん)[81]として、耳を覆っていた、手を拱いて揖すると客たちの上座に坐り、飲み食いして恥じなかった。客たちが姓名を尋ねると、「姓は姚、号は穆雲、浙江蕭山の者だ」と言った。どのような取り柄があるかと尋ねると、笑いながら「剣を弄ぶことができる」と言い、口から鉛玉一錠を吐き、掌中で転がして剣にしたが、長さは一寸ばかり、火の光が剣の端から出、熠熠(ゆうゆう)[82]として蛇が舌を吐いているかのようであった。客たちはぞっとして息を潜め、声を出そうとしなかった。主人は客たちを驚かすことを慮り、再三しまうように頼んだ。客は主人に言った。「剣は出なければ何事もないが、出てしまえば、殺気がとても盛んだから、生きている物を斬れば、しまうことができるだろう」。通判は「人以外なら良いだろう」と言った。姚が(きざはし)の下の桃の樹を顧みて、指さすと、白い光が樹の下に飛び、一繞りし、樹は音もなく地に倒れた。姚は口の中からまた前のような玉を吐き、桃の樹のところで白い光と闘わせると、二匹の(みずち)が攫みあいながら、まっすぐ青い空に上ってゆき、満堂の燈燭はすべて消えた。姚が玉を弄びながら客たちを見ると、客たちはますます驚き懼れ、長跪する者もいた。姚はかすかに笑いながら起つと「やめろ」と言い、手で二つの光を招いて掌中を奔らせ、双つの玉にして呑みこむと、まったく何事もなくなったので、杯を満たし、大いに食らった。客たちは術を授かり弟子に成りたいと願ったが、姚は「太平の世では、役には立たぬ。わたしは剣術は知っているが、点金術は知らないからやってきたのだ」と言い、通判が百両を贈ると、三日滞在して去った。

黒煞神
 桐城の農民汪廷佐は、双岡圩[83]で耕作していたとき、古い墓を発掘し、古鼎、銅鏡などの物を得た。携えて家に帰ると、鏡几(かがみづくえ)の上に置いたが、夜通し明るかったので、宝だと思い、その妻とともに大切にしていた。
 まもなく、汪が街に入ったところ、路で凶悪な黒い顔の者と会ったが、身長は一丈あまり、拳で殴ると言った。「わたしは黒煞神だが、おまえは陸小姐(おじょうさま)の墓を盗掘したから、死ぬべきだ。小姐(おじょうさま)は元祐元年の安徽太守陸公の娘だ。陸さまは役人をされ、善政があったが、小姐(おじょうさま)は夭折したので、上帝はそれを憐れみ、わたしにその(つか)を守るように頼み、小姐(おじょうさま)には徽州に往って一路[84]の痘疫の事を司るように命じられた。おまえはわたしと小姐(おじょうさま)が外出しているのに乗じて、その持ち物を盗もうとするのか」。そう言うと、地に倒れて昏迷した。通行人が舁いで家に行くと、疽が背にできていた。小姐(おじょうさま)もその妻の身に附いて大いに罵ったので、家を挙げて哀願し、高僧を招いて斎醮[85]を行おうとした。小姐(おじょうさま)は言った。「それには及ばぬ。おまえは無知な農民で、すでにみずから罪を悟ったのだから、はやく鼎、鏡などの物を元の処に送り返し、あらためて棺を買い、わたしの骨を埋葬すれば、おまえを恕すことができよう。ただ、わたしはすでに冥府の痘神となっているから、香火を供えるべきだし、この事件は、碑を立てて、村民に知らせ、ながく霊応を明らかにするべきだ。城中の貢士[86]姚先生翌佐は、人品が正しく、人に尊敬、信頼されているから、往って記[87]を作ることを求めれば、おまえははじめて死ぬのを免れるであろう」。汪が叩頭して「以前、お墓を発掘した時、鼎、鏡などの物を見ただけで、ほんとうに骸骨を見ておりませぬ。新しい棺を買いましたが、どこから小姐(おじょうさま)の骨を拾ったものでしょうか」と言うと、小姐(おじょうさま)は「わたしは年若い娘で、骨が脆かったし、歳月も長かったため、すでに溶けてしまったのだ。しかしわたしの骨が溶けた土は、堅く潔らかで汚れがなく、金色の光がある。おまえは坑の中に往き、土を取り、日に照らして見れば、識別できるから、改葬することができよう」と言った。汪は言われた通りにし、試すとその通りであったので、すぐに礼儀正しく葬った。姚貢生に告げにゆくと、姚も夜に夢を見ており、記を作り、碑を立てると、汪は疽が癒えた。
 この事は江寧太守章公攀桂が語ったことである。章は、桐城の人である。

呉子雲
 康熙初年、桐城の秀才呉子雲[88]が春の夜に月見していたところ、空中で人の声が聞こえた。「今年の郷試で、呉子雲は四十九名に合格するであろう」。その文[89]を瑯瑯然と誦えたが、問題は「君子の天下に於けるや」[90]の章であった。呉はあまり記憶しなかったが、その文はとても佳いと感じたので、あらかじめこの問題で文を作って試験に備えた。ほどなく受験したところ、この問題であったので、大いに喜び、宿構を書いた。合格が発表されると、案の定合格しており、運命の通りであった。たちまち進士に登り、翰林の官となり、湖南に督学し、財貨を満載して帰った。
 旅店に宿り、夜に溲瓶を取ろうとすると、たちまち人が手で奉ったが、十指は纖纖然としていた。呉が驚いて尋ねると、「わたしは狐仙で、公と前縁がございますので、お仕えしにきたのです」と言った。起きて照らすと、嫣然たる美女であったので、伉儷(めおと)となった。狐仙は頼んだ。「(わたし)は雷の災いがあったとき、あなたの車に匿れて免れましたので、あなたに報いにきたのです。このたびはあなたにも大きな災いがございますから、防がなければなりませぬ」。呉が事情を尋ねると、「この先、あなたはかならず呂姓の宿屋に泊まります。呂には九歳の愛娘がおりますから、呼び寄せて、可愛がり、抱いて、義理の娘にし、手厚く珍宝を賜われば、免れましょう」と言った。呉が呂の家に行くと、その娘が居たので、言われた通りにした。三更になると、主人は呉の手を引き、笑って言った。「わたしは響馬[91]の頭目です。おんみが役所を出られる時に、荷物がすこぶる多かったので、子分たちはもう長いこと狙っていたのです。今おんみがほんとうに立派なお方であることを知りましたので、殺すには忍びませぬ」。壁の鈴鞭[92]を取ると、壁を撞くこと三たび、盗賊たちが一斉に入ってくると、言った。「呉学院は、わたしの乾親家[93]だから、無礼はならぬぞ。すぐにお守りし、お家にお送りしてくれ」。呉は免れることができた。
 後に呉は子がなかったので、族人は争って子を後継ぎにすることを求めた。呉がこっそりと狐に「誰に継がせるべきだろう」と尋ねると、「牛飼いの子が良いでしょう」と言った。翌日、牧童がやってきたが、やはり一族であった。呉が招き入れて自分の後継ぎにすると、族人たちはみな笑った。呉が亡くなった後、子はすこぶる素直で勤勉、その財産をよく守り、家は日に日に富んだが、今でも人々は「呉牛」と呼んでいる。かつて対聯を方処士貞観[94]に求めたとき、方は戯れて「窓に向かひてつねに月を見[95]、ひとり坐しつつ琴を弾きたり[96]」と書いた。呉はとても喜んだが、暗に牛を用いて嘲っていることには気が付かなかった。

禿尾龍
 山東文登県畢家の妻は、三月に衣を池で洗っていたところ[97]、樹の上に(すもも)があるのを見た。大きさは鶏の卵ほど、詫って、暮春の頃に(すもも)があるのはおかしいと思った。採って食らうと、甘美なること異常であった。それから腹の中は拳然[98]として、身籠もった。十四か月で、小さい龍を産んだが、長さは二尺ばかり、地に墜ちるとすぐに飛んでゆき、早朝になると、かならず母の乳を飲みにきた。父が嫌がって刀を持って逐い、その尾を断ったところ、小さい龍はそれからは来なかった。
 数年後、その母は死に、村内で(かりもがり)した。ある晩、雷電と風雨が起こったが、闇の中をぐるぐると物が回っているかのようであった。翌日見ると、棺はすでに葬られており、隆然たる大きな(つか)が築かれていた。さらに数年して、その父が死ぬと、隣人は合葬してやった。その晩、雷電がまたも起こった。翌日、見るとその父の棺は穴の中から引き出されており、合葬されることを許されないかのようであった。その後、村人たちは「禿尾龍母墳」と呼び、晴雨を祈願するとかならず験があった。
 この事は陶悔軒方伯[99]がわたしに語ったのだが、「たまたま『群芳譜』[100]を閲していたら『天乖龍[101]を罰するに、かならずその耳を割き、耳地に墜つれば、(すもも)に化す』とあった。畢の妻が食べた(すもも)は、龍の耳で、気に感じて小さい龍を生んだのだ」とも語っていた。

石灰窯の雷
 湘潭県の西二十里の地は石灰窯という。某翁の家はまずまずの暮らし向き、男子はなく、二人の娘が居たので、婿をとって頼っていた。翁は穀物を粤西で売り、妾を買って帰ったが、妾は身籠もっていた。その次女は夫婦でひそかに相談した。「男の子なら、お父さんの財産を分けることができません」。そこで、表むきは妾と親しくし、裏では計略を設けて殺すことにした。お産になると、男の子であったが、生み落とされると死んでしまった。翁は大いに残念がり、男子を授かる運命ではないのだと思ったが、その次女が産婆に賄し、喉を絞めて殺したことは知らなかった。翁は悲しんでやめず、衣を脱いで死児を包むと裏の畑に埋めた。次女と産婆はそれでも不安であったので、往くと暴いて見た。するとたちまち雷が轟き、女は斃れ、死児は蘇った。産婆も焦げ爛れたが、まだ死んでいなかったので、人々は事情を尋ねることができたのであった。翌日、産婆も死んだが、天がことさらに死ぬのを遅らせ、自供を取り、世を戒めようとしたかのようであった。某は娘を葬り、婿を逐い、金銭、穀物を分け与えて帰らせた。舟が流れの中ほどにさしかかると、怪風が起き、婿も溺死したが、前後すること数日の出来事であった。

徐巨源
 南昌の徐巨源、字は世溥は[102]、崇禎の進士[103]、能書で知られた。わたしの親戚の鄒某が、家庭教師として招き入れようとしたとき、途中怪風に遇い、雲の中に摂り込まれたが、袍を着け、笏を持った官吏が迎えて「冥府で宮殿を造っているので、おんみを招いて扁額、対聯を書いていただくのです」と言った。徐がとある場所についてゆくと、王者の住まいのよう、その扁額や対聯はすべて句が作られており、書かれていないだけであった。扁額は「一切は(これ)心の造るなり」、対聯は「事を作すも未だ経ざれば死案[104]と成り、(もん)()るも(なほ)(せい)(くわん)(のぞ)むべし」であった。徐が書きおえると、冥王はお礼をしようとしたので、世溥は母の寿命を一紀[105]延ばしてあげることを願い、王はそれを約束した。徐は判官が帳簿を執っているのを見ると、自分の寿命を調べることを求めた。判官は言った。「これは正命簿です。おんみは正命で死ぬ者ではございませぬので、この帳簿にはございません」。そこで「火」字簿を調べると、「某月某日、徐巨源は焼かれて死ぬ」と書かれていた。徐は大いに懼れ、冥王に申し上げ、改めることを頼んだ。冥王は「これは天の定めだが、とりあえずおんみの願いに従おう。時日をしっかり記憶して、火に近づかねば良いだろう」と言った。徐は謝して還ると、急いで鄒家に行った。主人は驚いて言った。「先生は一年間どちらへ往かれていましたか。輿丁は先生を行方不明にしたためにお上に訴えられ、長いこと容疑者として県庁の獄に繋がれておりますよ」。世溥はくわしくそのわけを話し、お上に言上したところ、事件は解決した。
 時に同郡の熊文紀、号は雪堂は、少宰[106]だったが家居しており、徐を招いて酒を飲んだ。酒が酣にならないのに、熊はたちまち別れを告げて言った[107]。「痞[108]起こりましたので、お相伴することができません」。徐は戯れて言った。「昔太宰()[109]が居ましたが、今また少宰()が居るとは」。熊は不愉快に思った。徐は去るに臨んで唐人の絶句「千山鳥飛ぶこと絶え」[110]の一首を壁に書いたが、四句を逆に書くと、「雪翁滅絶」の四字だったので、熊は心に恨みを懐いた。徐は冥府の言葉を憶えていたので、火を懼れ、木器を近づけず、石室を西山に作り、食糧を包んで災を避けていた。時に強盗が横行していたが、熊は人に噂を広めさせた。「徐進士の(いわむろ)は、(きん)を積み、西山にあり」。群盗は奪いにいったが、金が手に入らなかったので、焼鏝であまねくその体を焼いて殺したのであった。

九天玄女
 周少司空[111]青原は、不遇だった時、夢で人に召され、とある場所に行った。長い松は道を夾み、朱門は幅が一丈[112]、金字の扁額には「九天玄女府」とあった。周が入って拝謁すると、玄女は霞帔[113]珠冠で、南面して坐していたが、手で扶け起して[114]、「お願いはほかでもございません。娘の小さな肖像がございますが、先生に詩を題していただきたいのです」と言った。侍者に命じて巻物を出させると、漢、魏の名人の筆跡がすべて揃っていた。淮南王劉安の隸書はもっとも巧みで、曹子建[115]より後は、やや鍾[116]、王[117]の風格に近かった。周はもともと敏捷であったので、筆を揮ってすぐに書き、五言律詩四首を得た。玄女は喜び、娘に出てきて拝礼するように命じたが、年頃で、神光が照り耀いていたので、周は仰ぎ見ようとしなかった。娘は「周先生は富貴を得られるお方ですのに、なぜお体に軽い(やまい)を帯びてらっしゃるのでしょうか。お礼の品もございませぬから、このご病気を除いてさしあげ、潤筆料といたしましょう」と言い、裙帯を解くと、薬一錠を授け、呑むように命じた。周は幼い時に誤って鉄針を呑み、胃腸に刺さっていたために、時々かすかな痛みがあったが、それからはさっぱりとした。目醒めた後は、詩を記憶していなかったが、「氷雪(ひようせつ)()えて(かたち)なく、星辰(せいしん)(つな)ぎて(かうべ)()つ」という一聯だけは記憶していた。

項王が霊力を顕わすこと
 無錫の張宏九は、布を蕪湖で売り、烏江を通り掛かったところ、暴風が起き、舟は石に衝突して破損し、水は舟の中に灌ぎこんだ。舟人たちは泣き叫び、項王に救いを求めた。たちまち一匹の布のような銀の光が、斜めに船底を塞いだので、水が湧くのは収まり、人々は岸に上がることができた。翌朝見ると、船底は穿たれていたものの、大きな白い魚が身を横たえて穿たれた処を塞いでいたので、水が入らなかったのであった。舟人たちは船を挙げて櫓を漕ぎ、洋洋然として去った。それから、項王への香火は往時に倍して盛んになった。これは乾隆四十年の事であった。

肺癰を癒すのに白朮を用いること
 蒋秀君は医理に詳しく、粤東の古廟に宿っていた。廟には多くの柩が置かれていたが、蒋は大胆だったので、柩の前で書を読んでいた。夜、燈がたちまち緑色になり、柩の先頭が、橐然[118]として地に落ち、一人の紅い袍の者が出てきて蒋の前に立つと、「おんみは名医だが、肺癰[119]は治すことができるか。治すことができないか」と言った。「治すことができる」と言うと、「治すにはどんな薬を用いるのだ」と言った。「白朮[120]だ」と言うと、紅い袍の人は大声で哭いて言った。「それならわたしははじめの誤診で殺されたのだ」。手を胸の前に伸ばすと、肺を探り出したが、斗ほどの大きさで、膿血は淋漓としていた。蒋は大いに驚き、手にしていた扇を持って撃った。家僮が一斉にやってくると、鬼は見えなくなり、柩も元通りであった。

朱十二
 杭州望仙橋の許家の楼には、縊死鬼が居ると伝えられていた。屠殺人の朱十二という者はその勇を恃み、豚を殺す刀を取って楼に登ると、燭を点して臥していた。三鼓過ぎ、燭光が青い色となると、一人の老嫗がざんばら髪で縄を手にしてやってきた。朱が刀で切ると、嫗は縄を被せた。刀で縄を切ると、縄は断たれてまた繋がった。縄が刀を繞れば、刀も煙のようであった[121]。しばらく格闘すると、老嫗は力がだんだん衰え、罵った。「朱十二よ、おまえが恐いのではないが、おまえには福分があり、まだ十五千文の銅銭を得ていないから、ひとまずおまえを許すとしよう。銅銭を得た後に、わたし金老娘の手並みを試すことにしよう」。そう言うと縄を引いて走っていった。朱は楼を下りると人々に告げ、その刀を見たところ、紫色の血が着いていて臭かった。一年あまりして、朱は家を売り、代金十五千文を得たが、その晩はたして亡くなった。

鬼が日の光を攀じてはじめて転生できること
 乩仙婁子春は、宋末の進士文丞相の友である、煉形[122]の術を修め、九幽使者[123]の家で四百年間家庭教師をしたとみずから語っていた。主人は人の世の生き死にの事を司り、一等の王爵を降された。子春は人の世の禍福のことを語ると、とても験があった。輪廻のことを尋ねる者があると、子春は言った。「輪廻は一言で言い尽くせるものではない。死に方は数種あり、生まれ方も数種ある。徳が大きい者は、神仏に成り、来因[124]があって罪業[125]がない者は、もとの位に帰り、徳や来因がなくて気が散じない者は、人の身に投じるのだ。そのほかの散じ尽くした者は、生まれれば死に、死ねばさらに死ぬのだ。しかし微魂小魄は、風炉[126]の煙のようで、すぐに消えることができず、しばしば纏まって一つの気となり、氤氳としてたゆたっている。時々、風に吹かれて冥土に来ると、異常に寒いが、冬至の日だけは一筋の陽光が冥土を照らす。鬼たちは蠕蠕然として、(たお)れてはまた動き、日の光を攀じてゆき、中国に至り、また人の身に投じることができるのだ。人の身に投じるときは、つねに鬼たちとともに来て、一人の魂だけが来るのではない。その線の外に落ちる者は、冥土に帰り、ふたたび来年の冬至を待つのだ」。
 ある人が「初めの世で人となる者はいるのですか」と尋ねると、「その類はとても多い。譬えば草木は、旧い根がなくて生えるが、それは初めの世で草となる草だ。これは投胎せずに生まれる者と似ているが、これがすなわち初めの世で人となる人だ」と言った。「鬼で動物に化する者はありますか」と尋ねると、「ある。娼優は虫や蝶に化し、悪人は蛇や虎に化する」と言った。「雷に撃たれた鬼は何に化しますか」と尋ねると、「蚯蚓(みみず)に化する」と言った。『譚子化書』[127]に「およそ雷に撃たれて死んだ者は、蚯蚓(みみず)を搗いて汁にし、その臍に注ぐと活きることができる」とあるが、この言葉は基づくところがあったのである。

死んだ夫が活きている妻を売ること
 杭州の陶家は、暮らし向きはまずまずであった。もとの主人の紹元は、かつて某州刺史となったが、死んですでに久しかった。しもべの李福は、夫婦ともにその家で働いていた。福が病死して年を越した、とある日のこと、福の妻陳氏は中風となり、発狂し、その家の人々を召し集めると大声で「わたしは老太爺だ。李福は冥界で妻の陳氏をわたしに売って妾にさせたが、おまえたちはどうしてかれを来させないのだ」と叫んだ。家人は大いに驚き、医者を招いて診察させようとしたが、陳氏は手で医者の頬を打ち、医者は近づこうとしなかったので、まもなく死んでしまった。陳氏はがさつな(はしため)にすぎず、すこしも美しくなかった。

悪鬼が脅迫をして果たさないこと
 仁和の秀才陳鄜渠は、性格はすこぶる謹厳であった。一人の娘を生んだが、幼くして道術を好み、日々精進物を食べ、経を誦えていた。人が縁談を持ちかけてきたと聞くと、泣いて食事をしないので、鄜渠は娘を嫌い、父娘(おやこ)は顔を合わせなかった。
 三十歳を過ぎると、たちまち重い病になってうわごとを言い、「わたしは江西の布商人張四だ。おまえは前世で船頭で、わたしはおまえの船を雇って四川に往ったが、おまえは財産目当てにわたしを殺し、目を抉り、皮を剥ぎ、(かわ)に沈めたから、命を取りにきたのだ」と称した。陳は財産目当ての盗賊は居るかもしれないが、皮を剥ぐ事を、盗賊がすることはないと考え、「それは何年の事だ」と尋ねると、「雍正十一年だ」と言った。陳は大いに笑って「雍正十一年なら、わたしの娘はすでに三歳だったのだから、まだ船頭であったはずがない」と言った。女はたちまちみずからの頬を打って「陳先生はほんとうに手強いですな。間違って娘さんをお尋ねしました。三千文を下されば、わたしはすぐに去りましょう」と言った。陳は怒って「悪鬼がみだりに人を脅すとは。桃の枝を取り、おまえを打つぞ。銭を与えることなどできぬ」と言った。娘はまたみずからの頬を打つと「陳先生はほんとうに手強いですな。わたしを悪鬼と仰るからには、わたしは悪鬼の力をほしいままにして、娘さんのお命を頂いてゆきますが、悔いられますな」と言った。陳は言った。「娘は不孝者で、わたしはとても嫌っているから、おまえがあいつといっしょに去れば、わたしはとても喜ぶだろう。おまえが(かたき)でもないのに、このように脅そうとするのは、わたしの娘の寿命がすでに尽きているからだろう。おまえがすぐにあれの命を取ることができるなら、はじめておまえの力を信じるとしよう。もしも三日後に死んだら、娘の運命がそうさせたので、おまえの力ではないぞ」。そう言うと、娘は蹶然として起ち、鬼の言葉を話さなくなった。二か月あまり後、娘はようやく死んだ。

道士が祟りをなしてみずから斃れること
 杭州の趙清堯は囲碁を好み、碁石を打つ音を聞くと、かならず対局していた。たまたま二聖庵に遊んだところ、(かお)の醜い道人が、客と対局しており、とても下手であったが、みずから「煉師」[128]と称していた。趙は軽蔑し、言葉を交わさず、すぐに出ていった。
 その晩、(とこ)に上って寝ていたところ、二つの鬼火がその帳のほとりを繞ったが、趙は動揺しなかった。するとにわかに青面鋸歯の鬼が刀を持って帳を掲げた。趙が声を獅オくして怒鳴りつけると、たちまち消えた。翌晩、(とこ)全体が啾啾と音を立て、童子が言葉を学んでいるかのよう、はじめはあまりはっきりとしなかったが、じっくり聴いたところ、「わたしが碁が下手で、みずから煉師と称しても、おまえとは関わりないのに、わたしを軽蔑しようとするのか」と言っていた。趙ははじめて道士が祟っていることを知ったので、ますます恐くなくなった。するとたちまち小さな声がふたたび聞こえた。「大胆だな。刀剣を畏れぬのなら、勾魂法でおまえの命を取ってやる」。そして呪文を誦えた。「天霊霊あり、地霊霊あり、当門頂心一針を下さん」。趙はそれを聞くと、全身の肉が趯趯然(てきてきぜん)[129]として顫えそうになるのを覚えたので、(つと)めてその心を抑え、まったく動かさず、手でみずからの耳を塞いだが、寝るときになると呪いの声は枕の中から聞こえてくるのであった。
 趙はじっと耐えること一月あまり、突然道士が泣きながら(とこ)の前に跪くと「わたしは怒り、法術を行い、おんみを怖れさせ、わたしに泣きつかせ、いささかの財帛を得ようとした。ところがおんみはまったく心を動かさなかった。わたしは悔いたが手遅れだった。わたしの法術は人に施さないと、かえってわが身に殃するのだ。わたしは昨日すでに死に、魂は行くあてがない。こちらに来て、働いて、おんみの家の樟柳神[130]となり、以前の罪を贖おう」と言った。趙はまったく答えなかった。翌日、人を二聖庵に観にゆかせると、道士ははたしてみずから(くびき)っていた。その後、趙君は一日前に物事をかならず予知することができたが、ある人が言うには、道士が働いているということであった。

最終更新日:200788

子不語

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[1]江蘇省の県名。

[2]烏紗帽。写真

[3]母の弟。

[4]原文「以鬚鉗掉水」。「鬚鉗」「掉水」が未詳。とりあえずこう訳す。

[5]「天師」は優れた道士。「法官」も道士。おそらく「天師法官」で一人の人物をさしているのであろう。

[6]固有名詞と解す。

[7]役所で使役されている奴僕。『清国行政法汎論』官吏法・当為官吏之資格・備考「長随亦与奴僕同」。

[8]南京南部、中華門外にある丘。雨花石という瑪瑙がとれることで有名。国家文物事業管理局主編『中国名勝詞典』二百九十七頁参照。

[9]お利口さん。いい子ちゃん。ここでは可愛娘ちゃんぐらいの意味。

[10]原文「慮避之則気先餒」。未詳。とりあえずこう訳す。

[11]酒を注ぐ急須。「さかつぼ」ではない。

[12]原文「認帽不認貌」。「帽」と「貌」は同音なので、駄洒落になっている。

[13]沈栄昌。浙江帰安の人。乾隆十年進士。

[14]総督。

[15]未詳。

[16]雲南省西南部の少数民族。パイ=ア、白夷。

[17]少数民族名。ミャオ族。

[18]砒素の硫化鉱物。写真

[19]出典があるかも知れないが未詳。

[20]清初の武術家。内家拳の使い手であった。黄宗羲に『王征南墓志銘』あり。

[21]原文「張燈掛紅」。「掛紅」は赤い絹布で飾り付けをすること。

[22]蒋和寧。江南陽湖の人。乾隆十七年進士。

[23]牛、羊、豕。

[24]原文「須用三牲紙銭祷求城隍廟中西廊之黒面p隸」。「三牲紙銭」は一物のように思われる。おそらくは三牲を描いた紙銭なのであろう。とりあえずそう解す。後ろにも出てくる。ただ、現在「三牲紙銭」というものがないのが気に掛かる。

[25]下役頭。

[26]郷試に合格したが、挙人に定数があるため、挙人になれなかった者。

[27]周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』三十二頁参照。

[28]年少者が年長者に対してみずからを称するときに使う呼称。

[29]未詳。文脈や、後ろの「五色棒」などから察するに、曹操のことをいっているのであろう。相は丞相のことか。

[30]『三国志』魏志武帝紀「年二十、挙孝廉為郎、除洛陽北部尉、遷頓丘令」注「曹瞞伝曰、太祖初入尉廨、繕治四門。造五色棒、県門左右各十余枚、有犯禁、不避豪彊、皆棒殺之」。

[31]承謙。無錫の人。乾隆二十六年進士。侍読は官名。侍読学士。

[32]『資治通鑑』巻二百十六「甲辰、禄山生日、上及貴妃賜衣服、宝器、酒饌甚厚。後三日、召禄山入禁中、貴妃以錦繍為大襁褓、裹禄山、使宮人以彩輿舁之。上聞後宮喧笑、問其故、左右以貴妃三日洗禄児対。上自往観之、喜、賜貴妃洗児金銀銭、復厚賜禄山、尽歓而罷。自是禄山出入宮掖不禁、或与貴妃対食、或通宵不出、頗有丑声聞於外、上亦不疑也」。

[33]修史局。歴史編纂所。

[34]固有名詞と解す。書名。宋范祖禹撰。二十四巻。

[35]ここでは歴史の編纂所のことであろう。

[36]宦官。

[37]霞佩は霞帔。

[38]上官婉女とも。上官儀の孫娘。武后の時、詔制を掌っていた。

[39]写真

[40]原文「手執紙銭為標」。「標」は「標槍」。図:『三才図会』

[41]『乾淳歳時記』「清明前三日為寒食節、人家上冢者、車馬紛紛而野祭尤多」。

[42]方正樹。歙県の人。

[43]うっかり者の意。今でも使う。

[44]官名。太子事。

[45]生まれた年月日時の干支。

[46]薫沐。香を焚きしめ、沐浴すること。

[47]生まれた年月日時の干支を記した帖子。

[48]官名。皇室の侍医。

[49]子供同士が結婚している間柄の者をいう。

[50]高晋。『清史稿』巻三百十六などに伝がある。

[51]陝西省の州名。

[52]知事。

[53]乾隆三十六年に文華殿大学士兼礼部尚書になったことを指しているものと思われる。

[54]社日。土地神の祭。

[55]願文。

[56]血のソーセージ。貫腸は灌腸に同じ。

[57]街巷名。杭州市に現存。

[58]原文「雷擊怪」。未詳。とりあえずこう訳す。

[59]泥を突くように、簡単に石を突き通したということ。

[60]出典があるかも知れないが未詳。

[61]県学の生員。

[62]原文「前兄所救之女知兄病重、特來奉探、為地方鬼棍所詐、誣以平素有黯昧事」。一連のいきさつがよく分からないが、張の見舞いにきた女が、悪い鬼に脅されて、ふだん張と私通していたといって、張を顧に誣告したという状況であると解する。

[63]明清代、地方官に対して、三年に一度行われる勤務評定。『清会典』吏部「凡天下文武官、三載考績、以定黜陟、在内曰京察、在外曰大計」。

[64]『六部成語』訂正吏部・卓異・注解「外官三年大考察一次、謂之大計、其中才能尤為出衆者、即保挙卓異、候旨送部、帯領引見擢用」。

[65]卓異であるとして、推薦を受けることであろう。

[66]南京の北門。現在の興中門。

[67]湯灌に使う盥。図:『清俗紀聞』

[68]『随息居飲食譜』「[魚賁」魚、一名荷魚、俗呼鍋蓋魚…性不益人、亦可作鯗」。

[69]護符。

[70]玄妙の域に達する関門。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千百六十八頁参照。

[71]厄日。

[72]五聖、五郎神とも。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千四百九十八頁参照。

[73]湯斌であろう。ただし、かれの時代は、江蘇巡撫という役職はなく、江寧巡撫。湯斌は康煕二十三年から二十五年まで江寧巡撫。

[74]尹善継のことであろう。雍正九年から十年まで両広総督。

[75]原文「具三牲紙課」。「紙課」は「紙」の誤りであろう。前注参照

[76]奇神は号で、諱は不明なのであろう。

[77]安徽省の県名。

[78]原文「悉翠絲環襭」。未詳。とりあえずこう訳す。「襭」は衣服を帯に押し込むこと。

[79]江蘇省の鎮名。

[80]地名と思われるが未詳。

[81]毛の長いさま。

[82]光が鮮明なさま。

[83]地名と思われるが未詳。

[84]路は宋代の行政区画。

[85]祭壇を設けて祈祷すること。

[86]貢生。

[87]文体の名。叙事文。

[88]順治十二年進士。前の「康熙初年」という記述は袁枚の記憶違いか。

[89]合格答案の文章ということであろう。

[90]『論語』里仁。

[91]馬賊。

[92]未詳だが、鈴のついた(べん)であろう。鞭の図:『三才図会』

[93]結義して擬製的親族関係にある者。

[94]桐城の人。『国朝耆献類徴』巻四百三十四などに伝がある。

[95]原文「対窗常玩月」。呉牛喘月」という画題がある。月を眺める牛の姿を描くもの。「呉牛喘月」自体は、『世説新語』言語に典拠のある言葉。

[96]原文「獨坐自彈琴」。「対弾琴」という諺がある。我が国の「馬の耳に念仏」に同じ。

[97]原文「三月間漚衣池上」。「漚」は水に漬けて腐らせることであるがそれではおかしい。訳文の意味であろう。

[98]未詳だが、文脈からして腹が膨れることであろう。拳ほどの塊ができたということか。

[99]方伯は布政使。

[100]書名。明王象晋撰、三十巻。

[101]宋黄休復『茅亭客話』「世伝、乖龍者、苦於行雨、而多方竄匿、蔵人身中、或在古木楹柱之内、及楼閣鴟甍中、為雷神捕之」。

[102]実際には巨源が字、世溥が諱。『清史列伝』巻七十などに伝がある。

[103]実際には科挙に合格していない。崇禎の進士とは袁枚の記憶違い。

[104]死案:普通は殺人事件のことだが、それでは文脈に合わない。なおざりにされた案件ということであろう。

[105]十二年。

[106]吏部侍郎。

[107]原文「熊忽辞入曰」。「辞入」がすこしおかしい。「入」は「人」の誤字であると解する。

[108]病名。謝観等編著『中国医学大辞典』千三百三十三頁参照。

[109]伯嚭。春秋時代、呉の奸臣。

[110]柳宗元『江雪』「千山鳥飛、万逕人蹤。孤舟蓑笠、独釣寒江」。

[111]工部侍郎。小司空。

[112]原文「朱門逕丈」。未詳。とりあえずこう訳す。幅一丈ではそれほど大きいともいえない。

[113]

[114]原文「以手平扶之」。「平扶」が未詳。とりあえずこう訳す。

[115]曹植。

[116]三国魏の鍾繇。鍾繇の墨跡。図:平凡社『書道全集』

[117]王羲之。

[118]橐橐。硬いものがぶつかるさま。

[119]肺壊疽。

[120]薬名。キク科の多年草。おけら。写真

[121]原文「縄繞刀、刀亦如煙」。未詳。とりあえずこう訳す。

[122]道教の用語。さまざまな定義がある。胡孚琛主編『中華道教大辞典』九百七十八頁参照。

[123]未詳。九幽は九方の地獄。胡孚琛主編『中華道教大辞典』四百八十九頁参照。

[124]来果という言葉はあるが、来因という言葉は未詳。ただ、来果は来世の果報ということであるから、来因はその果報の原因となるもののことであろう。

[125]原文「業謫」。未詳。とりあえずこう訳す。

[126]茶を湧かす銅製の器。古鼎の形をしているという。『茶経』参照。図:『清俗紀聞』

[127]書名。南唐の譚峭撰。六巻。

[128]『唐六典』「道士修行、徳高思精者、称錬師」。

[129]ぴくぴくするさま。

[130]未詳。

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