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第七巻

 

尹文端公[1]が二事を語ること
 乾隆十五年、尹文端公が陝西の総督をしていたときのこと、蘇州の顧某という者は、綏徳州知州となったが、風采はもともとは立派であった。この年の九月、顧は西安に赴き、謁見を求めたが、すっかり痩せ衰えてしまっていた。尹公はかれが病んでいることを訝り、尋ねると、顧は跪いて頼んだ。「わたしは平生書を読んでおり、かねてから鬼神を信じておりませぬ。ましてや御前(おんまえ)ででたらめを言おうとはいたしませぬ。今では明日をも知れませぬので、身後のことをお告げしないわけにはまいりませぬ。今年の五月七日、早朝に起き、書斎に坐していましたところ、一人の青衣p帽の者が帖子を持って入ってきますと『某官が公を招いていっしょに訊問なさいます。入り口に乗馬を用意してございます』と言いました。その帖子を見ますと、同僚の湯栻でした。わたしはすぐに馬に騎り、城を出ました。北に行くこと三十里、役所に到着しますと、古の衣冠の者が迎え、揖して言いました。『公に来ていただいたのは、姓名冊を造り、上帝に送るため、公といっしょに訊問せねばならないからです』。わたしが答えないでいますと、傍の下役が跪いて言上しました。『冊子は下書きが出来上がっておりません。八月二十四日にはじめて清書することができます』。古の衣冠の者は黒衣の人に目で合図し、わたしを送りかえさせ、期日に違わぬことを約束させました。わたしはふたたび馬に騎り、行くこと三十里、役所に入りますと、わが身は寝台の上に倒れ、妻子が傍で号泣していました。黒衣の者はわたしの体を推し、その口から入らせましたが、格格然[2]としてふたたび合わさることができないかのよう、四肢、筋骨、五臓の痛みは名状できないものでした。蘇った後、重湯を飲み、公私の仕事を処理しました。八月二十四日になりますと、朝起きてすぐに衣冠を整え、幕友妻子に訣別し、泣きながら頼みました。『屍が冷たくなければ、しばらく納棺を遅らせてくれ』。(ひる)になると意識を失い、中風の者のようでした。はたして黒衣の人が来て、以前の場所に引いてゆきました。古の衣冠の者は堂上に坐し、二つの(つくえ)を前に列ね、人の世の会審[3]のありさまのよう、下役が一人一人点呼しますと、知りあいはいませんでしたが、三人目は、この州庁のp隸某、八十五人目は、この州庁の柬房[4]の下役某でした。そのほかの人は、とてもよく目にするのですが、姓名は知りませんでした。二人を呼んで(つくえ)の前に来させて尋ねますと、かれらも『なぜここに来たのかが分かりません』と言いました。古の衣冠の者は笑って『何をお尋ねになるのです。公は永遠にこちらでいっしょに仕事することになっています。おのずとすべてがお分かりになりましょう』と言いました。『来るのはいつのことですか』と尋ねますと、『今年の十月七日です。今のうちに、はやく帰られ、お家の仕事を処理なさるがよい』と言いました。また拱手して別れますと、元通り蘇りましたが、体はぼろぼろ、前よりひどいありさまでした。ほどなく、この県では疫病が大流行し、下役たちはみな疫病に罹って亡くなりました。今はもう九月で、死期は遠くはございませぬので、大人にお別れしにきたのです」。尹公が再三慰めると、泣きながら拝礼して去っていった。
 翌年の正月、尹公が辺境を巡察し、綏徳州を通ったが、幕客の許孝章という者は、もともと事情を知っていたので、気に掛けて顧を訪ねたが、顧は恙なく、役所に会いにきた[5]。体は相変わらず健康であった。公は戯れて「鬼の言葉はなぜ下役に験があって、そなたには験がないのだ」と言った。顧は叩頭して礼を言ったが、そのわけは分からなかった。
 公が陝西の総督をしていた時のこと、華陰県庁の某が言上した。「妖神の怒りに触れて死ぬことをご報告いたします。卑職(わたくし)の三庁[6]の前に古い槐一株がございますが、建物を覆ってとても暗かったため、伐ろうとしました。すると県庁の下役たちが『この樹には神さまがおわしますから、伐ることはできません』と言いました。わたしは信じず、それを伐り、根を掘りました。根が尽きますと、一塊の生肉が現れ、肉の下には一幅の絵があり、横たわる裸の女が描かれておりました。卑職(わたくし)は嫌な気がして、その絵を焚き、肉を犬に食わせました。その夜、心は安らかでなく、病んでいないのに憔悴は日ごとに激しく、悪声は洶洶として、目には見えずに耳に聞こえ、人の世に永くはいられないことをみずから悟りましたので、大人には別に職務を代行する者を委任されるようにお願いします」。尹公は上申書を受けると、袖に入れて幕客に回し読みさせて言った。「このような上申書には、どのように対処したものだろう」。話していると、華陰県庁から病死を報せる文書が届いた。

霹靂の(ほじし)
 海州[7]の朱先生は、康熙年間の人だが、(かお)は三四十歳、あるときは出遊し、あるときは隠遁し、寒暑を感じず、しばしば「海州は気候が良いが、惜しむらくは読書する者が少ないことだけだ」と言っていた。出遊すること数年、帰ってきて人々に語った。「わたしの家の竹垞子[8]はたいへん博雅で、ともに談じることができる。山陽[9]の閻百詩[10]も後来の俊秀だが、惜しむらくはいずれも道教の話を聞かないことだけだ」。まもなく、さらに人々に「わたしは天にどのような罪があって今日雷に撃たれるのだろう。抵抗しないわけにはゆかぬ。諸君は驚くだろうから、避けるべきだ」と語った。時間になると、暗い雲と雨のなか、大蜘蛛の脚が空から下りてきた。雷はたちまち響くと静かになってしまった。曠野には血のついた肉があり、大きさは車輪ほどであった。朱は人々に指し示すと、「これは闘って敗れた霹靂の(ほじし)だ」と言い、酒で烹ると、ひとり坐して啖った。またある日、雷雨がふたたび集まってくると、朱は空中にむかって口を開け、数百丈の白い絲を吐いたが、ぐるぐるとして密で、網のようであった。火龍が空に昇ってきて、(たてがみ)を奮い、爪を網の外で伸ばしたが、結局入ることができず、まもなく、雲に入って去った。朱は嘆いた。「海浜には怪物が多く、長居はできないから、わたしは去ることにしよう」。去ってゆき、どこで死んだかは分からなかった。人々は蜘蛛の精かと疑った。

 

疫病神
 乾隆丙子の年、湖州の徐翼伸の叔岳[11]劉民牧は長洲の主簿となり、前の宗伯[12]孫公岳頒[13]が下賜された邸宅に居た。翼伸は湖州に帰るついでに訪ねた。気候が暑かったので、書斎で湯浴みしていたが、月影はかすかに明るく、窓の外から気が噴き込んでくるのを感じ、明け方に臭い霧の中を進むかのよう[14](つくえ)の上の鶏の羽帚(はねぼうき)はくるくる回ってやまなかった。徐が(とこ)を拍って怒鳴ると、(とこ)の上に掛けてある浴布[15]と茶碗が櫺子窓の外に飛び出た。窓の外には黄楊の樹があり、杯が触れると樹は砕け、鏗然たる声がした。徐が大いに驚き、家僕を呼び出すと、黒い影が、瓦を繞って音を立てていたが、しばらくするとようやく収まった。
 徐が(とこ)の上に坐すると、まもなく、(ほうき)がふたたび動いた。徐は起きると、手で(ほうき)を握ったが、ふだん使い慣れた物ではなく、湿って軟らかく、女の乱れ髪のよう、近づきがたい悪臭がして、冷気は手から(うで)に染みとおり、肩に達した。徐はつとめて耐えていた。塀の角で音がしたが、甕の中から出ているかのようであった、はじめは鸚鵡が言葉を真似ているかのよう、ついで子供が啼く声のようになり、「わたしは姓は呉、名は中といい、洪沢湖[16]から来ましたが、雷に驚かされ、こちらに匿れているのです。放して帰してくださるようにお願いします」と称した。徐が「今、呉門では疫病が大流行しているが、おまえは疫病神ではあるまいな」と尋ねると、「疫病神です」と言った。徐が「疫病神なら、ますますおまえを放さんぞ。おまえが去って人を害さぬようにしよう」と言うと、鬼は言った。「疫病を避けるには方法がございます。処方を差し上げますから、お情けをお願いします」。徐は薬の名を挙げさせて、手ずから記録した。記録しおわると、ひどい臭さだったし、(うで)が耐えられぬほど冷えていたので、放そうとしたが、祟られることが恐くもあった。家僕が傍に居たが、それぞれ[17]や罐[18]を持ち、(ほうき)を納めて封じることを願った。徐はそれに従い、封をして太湖に投じた。
 載せられていた処方は、雷丸[19]四両、金箔三十枚、朱砂三銭、明礬一両、大黄四両、水法[20]により丸薬にし、つねに三銭を服するというものであった。蘇州太守の趙文山がその処方を求めて人を救ったところ、助からない者はなかった。

千年を経た仙鶴
 湖州菱湖鎮の王静岩は、家が金持ちで、建物は高く広かった。九思堂は、広さが五六畝ばかり、客と宴して日が暮れると、かならず(ひろま)の柱の下で音がするのが聞こえたが、竹片を敲くかのようであった。静岩はそれを嫌がり、柱に向かって「おまえが鬼なら、三たび響け」と祈ったところ、四回応えがあった。「仙人ならば、四たび響け」と言ったところ、五回応えがあった。「(あやかし)ならば、五たび響け」と言ったところ、乱雑に無数の応えがあった。道士某はやってくると祭壇を設け、雷簽[21]を柱の下に挿し込んだ。たちまち(はしため)の頭が盛り上がり、痛くて耐えることができなくなった。道士が簽を取りのけると、(はしため)は痛みが止んだ。一日後、(はしため)は突然狂って叫び、傷寒で発狂した者のようであった。(くすし)を呼んで診察させたが、脈をとりおわらないうちに、足を挙げて(くすし)を蹴ったので、顔は傷つき、血が流れた。男子で力のある者四五人が抱きかかえても押さえることはできなかった。王の娘は笄を挿したばかりであったが[22](はしため)が病んだことを聞くと、見にきた。門に入ると、大いに驚いて地に倒れ、言った。「(はしため)ではありません。その顔は塀のように四角く、白い色をしており、眼、鼻、口、耳はなく、舌を吐きだし[23]、丹砂のように赤く、身長は三四尺、人を吸おうとしております[24]」。娘は驚いてやまず、亡くなった。娘が死ぬと(はしため)は癒えた。
 王が百方手を尽くして(あやかし)を除こうとすると、乩仙を招く者が来て、「仙人の草衣翁はとても霊力あらたかで、邪を鎮めることができます」と言った。王は言われた通りに、香案を設け、盤を置くと、乩筆は砉然として音をたて、窓を貫いて出てゆき、窓紙に大書した。「それには及ばぬ。それには及ばぬ。土地[25]は罪を受けたぞ」。主人が乩に尋ねると、乩は「草衣翁は、地邪[26]が去らないため、すぐに仙駕[27]を招き、この地の土地神を、城隍のもとに送らせ、二十回笞うたせた」と言った。その後、(あやかし)は静まった。
 草衣翁は人とたいへん和やかに酒を酌み交わし、言うことは多くは験があった。ある人が姓名を尋ねると、「わたしは千年を経た仙鶴で、たまたま白雲に乗って鄱陽湖を通ったとき、大きな黒い魚が人を呑むのを見たのだ。わたしが怒って啄むと、魚は脳を傷つけられて死んでしまった。呑まれた人は姓名をわたしに貸し、相貌をわたしに授けた。わたしは今では姓を陳、名を芝田というのだ。草衣とは、わたしの別号だ」と言った。ある人が面会を請うと、「よろしい」と言った。期日を尋ねると、「某日の晩の月が明るい時だ」と言った。期日になると、一人の道士が空中に立っていた。顔は白く、鬚は疎ら、角巾[28]を被り、晋唐の衣服を着けていたが、まもなく、煙のように散じた。

夏太史の三事
 高郵の夏醴谷先生[29]は湖南に督学し、舟で洞庭を渡ったところ、激しい風浪に遭った。数千の船は、岸に泊まって発しなかった。夏は焦り、着任の期日に間に合おうとし、舵取りに風に逆らって行くように命じたので、諸船はすぐに帆を揚げた。湖の中心に至ると、風はますます激しく、天地は昏く、白浪は山のよう、水面に二人の小人がおり、身長は一尺ばかり、顔はやや黒く、船を掠め、櫓を指さし、巡邏する者のようであった[30]。諸船の人々はみなそれを見た。風が収まり、日が出ると、ようやく隠れ去った。
 公が督学衙門に居たとき、家丁や子弟は白日(もののけ)を見たが、見た者はかならず病むのであった。公の夫人は子弟を閉じ込め、(ひる)に裏庭に行くことを許さず、公が祭祀するように頼んだが、公は信じなかった。その夜、書巻を燈下で閲していると、哭き声が西から聞こえてきたが、殷殷田田[31]、群れ、響き、雑沓し、飛ぶ沙は窓を打ち、雨のように降るのであった。公は声を獅オくして言った。「おんみらの考えはもう分かった。明日おんみらを祭ればよかろう」。音はだんだん遠ざかって消えた。公は朝になってからその声の出処を尋ねたところ、一間の廃屋に、数十の位牌があったが、すべて前任の学臣[32]や答案を閲する幕友[33]の、役所で亡くなった者たちであった。文を作り、牲牢を供えて祭ってやると、その後は、(もののけ)はいなくなった。
 公の門生朱士eは福建から入京するとき、山東荏平の道にさしかかり、日が暮れたので投宿しようとしたが、風雨がこもごもやってきたので、家人にさきに旅店を探しにゆかせ、車を三叉路に停めて待っていた。夜の二更、天地は暗かったが、遠くの樹々の中に火花が上がったり下がったりするのが見えたので、家人が火を持ってやってきたのかと疑った。まもなく、火花はだんだんと近づいてきたが、車輪ほどの大きさで、数十が入り交じり、高いものは天に達し、低いものは馬の足ほどの高さであった。大いに驚き、きっと人燈[34]ではないと思った。近づいて見ると、火花の中に三人の男がいた。車を掠めて通り過ぎたが、その真ん中を行く者は額に閃閃たる眼があり、朱衣博帯[35]、鬚眉は堂々としていた。傍の侍児は錦の衣、玉の(かんばせ)、介添えをして進んでいた。もっとも前は白鬚の老翁、傴僂(せむし)で先駆けしていた。背にお碗大の孔があり、火花はその孔から出ていたが、竈の煙突が煙を漏らしているかのよう、人を見てもまったく驚かず、ゆっくり歩いて遠い村に入ると消えた。まもなく、家人が宿屋とともにやってきたので、話をし、いっしょに見たが[36]、ともに訝り、驚くばかりであった。

石崇の老いぼれ
 康熙年間、任雨林進士は詩名があり、河南鞏県の知事となった。昼間、書斎に臥していると、花簪(はなかんざし)の娘が名刺を持ってきて石大夫が酒宴に招いていると称した。輿夫(かごかき)が門に盈ち、迎えにきていたので、任は思わずついていった。まもなく、とある屋敷に着いたが、門は巍然としていた。主人は晋巾[37]を戴き、錦の襜褕(せんゆ)[38]を着け、拱手して出迎え、談論風発した。座席が決まると、席には山海の珍味を設けたが、見たことがないものばかりで、二人の舞妓は、惨惨然として舞っていた。
 酒が酣になると、主人は起ちあがり、任の手を握って裏庭に行き、亭台花木の勝れた場所を極めた。庭園の後ろには井戸があり、水は緑色、主人は黄金の柄杓を手にすると左右のものを呼んだ。「水を酌み、任公の酔いを醒ましてさしあげろ」。任ははじめ唇を潤したが、辛くて悪い味がし、唇がひりひりするのを感じたので、謝絶してその柄杓を手に取らなかった。主人は()い、美人たちは地に伏して勧めたので、任はやむをえず飲み尽くした。するとにわかに、腹が痛んで裂けそうになったので、叫んで帰してくれと頼んだ。主人は拱手して言った。「酔われましたな。とりあえずお別れし、またお会いしましょう」。任はあわただしく車に乗ったが、痛みはますます激しくなり、来た路を帰った。城隍廟を過ぎると、城隍神が趨って出迎え、嘆じて言った。「石季倫の老いぼれがまた毒を盛ったのか。昨日主人となっておんみに酒を飲ませた者は、晋の石崇です。崇は生前良いものをたくさん手に入れ、多くのものを用いましたが、誅殺された時は孫秀に屠られ、血肉は散乱しました。悪霊は散ぜず[39]、羅刹尊神となり、名士三千人を殺すことを誓い、平生の名誉を好む心を晴らしているのです[40]。わたしは十九人目で、おんみは二十九人目です。わたしはふだんから剛直でしたので、怨みを上帝に訴えました。帝は救うことができませんでしたが、わたしを城隍神に封じ、薬二粒を賜わると、『真の名士で害される者がいたら、これで救うのだ』と言いました。おんみには文徳がございますから、こちらでお救いするのです」。そう言いながら、薬を取り、任の口に詰め込むと、任は痛みがすぐに止み、まもなく、汗を出して目覚めた。もともと臥していた処では、家人が取り囲んで泣いていたが、意識を失ってすでに二日が経っていた。
 後に鞏県の旧城を修理したとき、地を掘り、碑を得たが、「金谷」の二つの大文字が刻まれており、索幼安[41]の筆法のようであった。石氏の金谷は今の洛陽になかったことがはじめて分かった。

鬼卒が酒を貪ること
 杭州の袁観瀾は、年は四十、結婚していなかった。隣家の娘は美しかったので、袁は慕い、二人は心を通わせたが、女の父は袁が貧しいことを嫌い、拒んだ。女は慕い、病になって亡くなった。袁はますます悲しみ、月夜にみずからを慰めるすべもなく、酒尊(さかだる)[42]を持って独酌した。見ると塀の角で蓬頭の人が手に縄を持ち、何かを牽いており、横目で見るとかすかに笑った。袁は隣のしもべかと疑い、招いて「飲みたいのですか」と言った。その人が頷いたので、一杯斟いでやったが、嗅ぐと飲まなかった。「冷たいのがお嫌ですか」と言うと、その人はふたたび頷いたので、熱燗を一杯捧げると、やはり嗅いで飲まなかったが、何度も嗅いでいるうちに顔がだんだん赤くなり、口を大きく開いてふたたび閉じることができなかった。袁が酒をその口に注ぎ込むと、酒が滴るたびに、顔は縮み、一壺が尽きようとする頃には、体と顔は小さくなり、嬰児のよう、ぼんやりとして動かなかくなってしまった。その縄で縛られている者を牽いたところ、隣の娘であった。袁は大いに喜び、酒罌(さけがめ)を用意し、蓬頭の人を捕らえると投じて封じ、八卦を描いて鎮め、女の縛めを解き、ともに部屋に入って夫婦となった。夜は姿があったので交接したが、昼は声が聞こえるだけであった。
 一年後、女は喜んで告げた。「わたしは生きかえることができます。そしてあなたの美しい妻になります。明日某村の娘は運気が尽きますから、わたしはその屍を借りて活きかえることができます。あなたは手柄を立てられますし、資金を得て結納にすることができます」。袁が翌日某村を訪ねてゆくと、娘が死んで納棺が行われており、父母は号哭していた。袁は叫んだ。「わたしの妻にすることをお約束してくださるのなら、薬で蘇らせることができます」。その家は大いに喜び、約束した。袁が女の耳に小声で語るとまもなく、女は躍りあがったので、村人たちは驚いて神かと思い、合巹[43]させた。女が記憶していることは、ことごとく前世の家の事ではなかったが[44]、一年経つと、だんだんと事情が分かるようになり、(かお)は前の女よりも美しかった。

李倬
 李倬は福建の人、乾隆庚午の貢生で、都に赴いて郷試を受けるため[45]、儀徴を通り掛かった。舟を並べて行く者があり、みずから称するには、姓は王、名は経、河南洛陽県の人、受験で京師に赴くが、資金が足りないといい、李に同行させてくれと頼んだ。李は承諾し、舟をともにし、とても楽しく談笑した。作った制藝[46]を出したが、やはりすこぶる清雅で、やや短いだけであった。ともに食事すると、かならず飯を地に撒き、お碗を挙げるたびに、その匂いを嗅ぐだけで、一粒も喉に納めないのであった。李は訝り、嫌だと思った。王は気持ちを察したようで、謝って言った。「わたしは膈症[47]に罹っているので、この(わずら)いがあるのです。どうか嫌がらないでください」。京師に至り、寄寓する場所を借りようとすると、王が長跪して頼んだ。「恐がらないでください。わたしは人ではありません。河南洛陽の生員で、才学があり、抜貢となるはずでしたが、督学某が(まいない)を受けたため落第させられ、憤激して死にましたので、このたび京師で復讐しようとしているのです。公でなければわたしを連れてゆくことはできません。京城に入る時[48]、城門神がわたしを阻むでしょうが、公が低い声で三たびわたしの名を呼ばれれば、はじめて入ることができます」。かれが言うところの督学某とは、李の座師であった。李が大いに驚き、断ると、鬼は言った。「公が師匠に味方してわたしを拒まれるのなら、わたしは公に祟りましょう」。李はどうしようもなく、言われた通りにした。
 宿舍が定まると、すぐに座主に会いにいった。その家では人を囲んで泣いており、声は戸外に達していた。座主は出てくると言った。「老夫(わたし)には愛児がおり、十九歳、聡明、美貌で、わが一族の俊秀であった。昨晩、急に気がふれたのだが、病はとても奇妙なもので、刀を持って、他人ではなく、老夫(わたし)ばかりを殺そうとするのだ。医者はその病名が分からぬが、どうしたものか」。李はそのわけを知っていたので、頼んだ。「門生(わたくし)が中に入ってご子息を拝見しましょう」。話していると、その子は中で笑って言った。「恩人が来られた。わたしはお礼するべきですが、おんみにもわたしの事は分かりますまい」。李は部屋に入ると、子の手を握り、しばらく語った。傍らの人々は理解できず、さらに驚き、みな李に尋ねにきたので、李は事情を告げた。そこで家を挙げて李の前に跪き、取りなしてくれと頼んだ。李はその子に言った。「おんみは間違っている。おんみは落第させられたので、忿って死んだが、しょせんわが師がおんみを殺したのではない。今そのご子息を殺し、血食[49]を絶つのは、直を以て怨みに報いるやり方ではない[50]。それにわたしとおんみは香火の情[51]がある。わたしを立ててくれないか」。その子は言葉に詰まったが、目を瞋らせて言った。「仰ることはまったくその通りですが、あなたの師匠はあの日(まいない)三千両を得たのです。のうのうと享受してよいはずはございません。わたしはそれを損なって去れば十分でございます」。指さすと言った。「××部屋に玉の瓶があり、価値は××ですから、取ってきてください」。取ってくると擲つて砕き、さらに指さして言った。「××箱の中に貂裘数着があり、価値は××ですから、取ってきてください」。取ってくると火を起こして焚いた。事がおわると、大声で笑って「恨むのはやめ、老いぼれを赦すことにしましょう」と言った。拱手して去ると、その子は霍然として病が癒えた。
 李はこの年に及第し、徳州に行ったところ、王君がまたやってきた。先駆けは堂々として、冠帯は厳かで、こう言った。「上帝はわたしの復讐がたいへん正しかったので、わたしに徳州の城隍となるように命じられました。お願いがございます。徳州の城隍に(あやかし)が憑き、位を奪い、血食されて二十年になろうとしています。わたしが着任する時、かれはかならず抵抗しますから、わたしはすでに神兵三千を選び、(あやかし)と決戦することにしました。今夜、刀剣の音が聞こえますが、どうかじっくり見ないでください。傷つけられてしまいましょうから。邪は正に勝ちませぬので、かれはおのずと敗れ去りましょうが、公が碑文を作って住民に知らしめなければ、四方がかならずしもわたしを崇めない恐れがあります。公は将来なみなみならぬ爵禄を得られましょう。公とはお別れでございます」。そう言うと拝謝し、涙を落として去った。
 その夜、城の内外で兵馬が騒然としていたが、五鼓になるとはじめて静まった。李は朝になると城隍廟に往き、香を焚き、碑文を作ることにしたが、道士はすでに墨を磨って待っており、「昨夜、大王が着任され、貧道の夢に現れ、お迎えさせたのでございます」と言った。李は石を刻み、碑を立ててやったが、今なお徳州の大東門外にある。

王将軍の妾
 蘇州の慕崇士は、河南汲県の知事となった。不遇であった時、京師の任姓の家で家庭教師をし、半截衚衕[52]に寓していた。晩にひとりで居たところ、燈の下に黒くて毛のある物が見え、その書簏[53]を掴んだ。慕は剣を手にして逐ったが、何も捕まらなかった。翌晩、月明かりのもと厠に行くと、女が冉冉としてやってきた。慕は主人の下女かと疑い、蹲んで起とうとしなかった。女は去らず、冷たい風は淒然としていた。慕ははじめて驚き懼れ、瓦を投げると、まったく見えなくなってしまった。慕がよろよろと書斎に帰ると、女は(とこ)にいた。軍装して刀を持ち、容貌はとても麗しかったが、呼んでも応えず、追い払っても去らなかった。他人を呼んで観せたが、みな見ることができなかった。慕はそのまま病み、うわごとを言った。「わたしは明朝の王将軍の妾で、ながいこと祭られていないので、若い者たちに食べものを取らせていたが、おまえに剣で傷つけられた。わたしがみずから謝りにくると、おまえは厠に蹲んでわたしを辱めたので[54]、命を取りにきたのだ」。ともに寄寓している賓客たちが哀願すると、女は「服を着せ、車馬でわたしを故郷に送り帰すことができれば、とりあえずおまえを許そう」と言った。人々が言われた通りにすると、慕は蘇った。粥を食べてまもなく、女がまた来て「おまえたちに騙された。衣服の(えり)や袖は裁縫されていないから、着ることができないぞ。はやく裁縫師を選んで直させろ」と言った。客たちはますます驚き、並べてある衣を見ると、仕立てあがっていなかった[55]。直して再拝すると、慕は病が癒えた。
 三年後、慕は進士に及第し、河南汲県の知県に選ばれ、開封を通り掛かり、宿屋に泊まった。宿の西の隅では、部屋がとても固く閉ざされていたので、慕は訝り、窓の隙間から窺ったところ、朱塗りの棺が、中堂に横たえられ、塵が数寸積もっており、棺の前には「王将軍亡妾張氏」と題されていた。慕は大いに驚きかつ悔やみ、心は鬱鬱として楽しまなかった。薄暮、女ははたしてやってきたが、装束は以前のよう、「昔、(わたし)があなたに逼ったのは、(わたし)の罪ですが、今、あなたが(わたし)を窺ったのは、(わたし)の縁です。(わたし)はこちらに数十年居り、代わりの人を得なければ、幽冥を抜け出ることはできませんので、今夜あなたのお相手をしにきたのです」と言った。慕は大いに懼れ、夜通し叫び、走りながら城に入ると、開封の同僚に告げ、道士に頼んで追い払ってもらおうとした。開封の守令[56]は朝まで酒宴に留め、翌朝ともに宿に行くと、一人の書童が(とこ)で自縊していた。守令が怒り、棺を壊したところ、屍は艶やかに装っており、硬直していたものの腐ってはいなかった。焚いたところ、ほかに怪しい出来事はなくなった。

仙鶴が車を担ぐこと
 方綺亭明府[57]は江西で知事をしていたが、その同僚の郭姓の者は、四川の人で、語ることには、若いとき峨嵋山に上り、世を棄てて道術を学ぼうとしたところ、長い髯に秀でた(かお)の老翁が、羽巾[58]を戴き、飄飄然として先導した。とある場所に行ったところ、宮殿は巍峨として、王者の住まいのようであったが、翁は「あなたは道を学ぼうとされていますが、王命がなければいけません。王は外出して帰っていませんから、すこしお待ちください」と指示した。するとにわかに仙楽が嘹喨として、異香が鼻を撲った。二羽の仙鶴が水晶の車を担ぎ、車の中には王者が坐していたが、顔は世上で描かれている香孩児[59]のよう、紅い衣に(ぬいとり)(うぶぎ)で、清らかなさまは白玉のよう、口はにこにことかすかに笑い、身長は一尺ばかりにも満たなかった。神々は宮殿に平伏して迎え入れた。老翁は上奏した。「誠実に道術を学ぼうとしている郭どのが謁見を求めております」。王は呼び入れるように命じ、しばらく注視していたが、「仙人の器ではないから、はやく人の世に送り返せ」と言った。老翁は郭を支えて退出した。郭は尋ねた。「王はどうして若いのですか」。老翁は笑って言った。「仙になるにも聖になるにも仏になるにも、功徳を成就するときは、すべて嬰児となるのです。孔子も儒童菩薩[60]ですし、孟子は『大人は、その赤子の心を失はず』[61]と言っているのを聞かれたことがございませんか。わが王はすでに五万歳です」。郭はどうしようもなく、山麓から家に帰った。その殿門の外に朱書された対聯をまだ記憶していたが、「胎生卵生湿生化生、生生已まず、天道地道人道鬼道、道道窮まることなし」というものであった。

紅花洞
 溧水知県曹江初が蜀で役人をしていた時のこと、夏に昼寝したところ、二人の隷卒が馬を牽いて迎えにきた。ともに行くこと約二十余里、さらに一人の男が駿馬に乗っており、装束は軍官のようであったが[62]、令箭を持って叫んだ。「上帝さまの命を奉じて、洞窟の罪人たちを点呼、追放していただきます。なにとぞ労を辞されませぬよう」。曹は愕然として、そのわけが分からなかった。ふたたび行くこと二三里、深山に行くと、洞穴があり、「紅花洞」という扁額があった。一双の石の扉は、とても固く閉ざされていた。洞窟の入り口では胥吏七八人が、公文書を用意しており、跪いて道の左側で迎えた。軍官は令箭を曹に渡すと、頼んだ。「文書に従って点呼、追放してください」。そう言うと、馬に乗って去っていった。
 曹が席に着くと、一人の下役が洞窟を啓くように言上し、洞窟に向かって大声で「開門」と叫ぶこと三たび、叫ぶとともに陰気が出てきて、冷たさは毛髪に逼った。まもなく、蓬頭垢面の女鬼数千が、紛然としてやってきたが、哀号し、苦しむ声は、名状し難いものであった。下役は文書に従って点呼し、鎖を解き、南へ向かって駆りたてた。鬼たちは逡巡し、しぶしぶ往くかのようであった。もっとも後の三女鬼は曹に向かって哀しげに赦免を求めたが、曹は「帝命を奉じているので、力になることはできない」と断った、三鬼は憤り、恨み、罵った。「二十年後、かならず仕返ししてやろう」。追放がおわると、軍官はまた来て隸卒に頼んだ。「曹公はお疲れだから、きちんと家に送り返すべきだ」。隷卒は馬で送った。道半ばにさしかかり、大河を通ったが、馬は水を渡っているときに、たちまち前足を滑らせて(くずお)れた。目覚めると、家人が周りで哭いており、すでに死んでから一日経っていたことが分かったが、事情を秘密にし、人に言おうとしなかった。
 二十年後、長男の妻がお産で亡くなり、一年足らずで、次男の嫁もお産で病み、たちまちうわごとを言い、姑を前に呼んで言った。「紅花洞の事件が発覚しました[63]。わたしは家がすでに決まりました。李氏と隣になるはずです」。その義弟を指して言った。「わたしを継ぐのはこの人になるはずです。恨めしいことに、お義父(とう)さんは、当時令箭を手にされていたのですから、情実を加えることができたのに、なぜ承知しなかったのでしょう」。そう言いながら、目を瞠り、大声で叫ぶと、血が流れ、顔が破れ、腹が潰れ、腸が出て、死んでしまった。姑が義弟とともに奔って曹に告げると、曹は大いに驚き、夢のことを人に語っていないのに、嫁はどこから知ったのかしらとひそかに思った。納棺した後、柩を古寺に預けたが、寺には古くから朱塗りの棺があり、詢ねたところ、某家の妻李氏の棺であった。曹は後に第三子の妻も、お産で亡くなった。三人の妻たちは寿命がそれぞれ違っていたが、生まれたときを計算すると、すべて夢みた頃であった。後に側室が子を生んだが、みな恙なかった。

大きな毛人が女を攫うこと
 西北の婦女は小便するとき、多くは小便器を用いない。陝西咸寧県郊外の趙家の妻は、年は二十余、色白で美しかったが、盛夏の月夜、裸で野へ小便しにゆき、ながいこと返らなかった。その夫は塀の瓦ががさがさいう音を聞いたので、訝って出て見たところ、妻が裸で塀にしがみついていた。両脚は塀の外にあり、両手を塀の内側に懸け、焦って頑張っていた。妻は声を出すことができなかったが、その口を啓き、数塊の泥を出すと、はじめて話すことができるようになり、「家を出て小便しようとし、(したばき)を脱ぐと、塀の外に大きな毛人がおり、目をぎらぎらとさせながら、手でわたしを招きました。わたしが急いで逃げると、毛人は塀の外から巨きな手を伸ばし、わたしの髻を(ひっさ)げて塀の上に行き、泥でわたしの口を塞ぎ、塀から引き出そうとしました。わたしは両手で塀にしがみつき、もがきましたが、もう力が尽きましたから、どうかはやく助けてください」と言った。趙が頭を伸ばして外を見ると、大きな毛人がいたが、猴に似て猴ではなく、塀の下に蹲み、両手で妻の脚を持ったまま放さなかった。趙は妻の体を抱えて奪いあったが、力では勝てなかったので、大声で隣家に向かって叫んだが、隣家は遠く、返事する者はいなかった。急いで部屋に入り、刀を取ると、毛人の手を断って妻を救おうとした。刀を持ってきたときは、妻はすでに毛人によって塀から引き出されていた。趙が戸を開けて追いかけると、隣人たちはみなやってきた。毛人は妻を脇に抱えて去ったが、風のように走り、妻が助けを求める声はとても悲惨であった。追うこと二十余里、結局追いつくことはできなかった。
 翌朝、巨きな足跡をつけてゆくと、妻は大樹の間で死んでいた。四肢はことごとく巨きな藤で縛られており、唇には巨きな歯で齧った痕があり、陰部は潰れて裂け、骨がことごとく現れていた。血は白い精に包まれており、地を浸すこと一斗あまりであった。村じゅうが大いに悲しみ、お上に鳴らした。お上も涙を流し、手厚く葬儀を営んでやり、猟師を召して毛人を捕らえさせようとしたが、結局捕らえられなかった。

呉生が帰らなかったこと
 会稽県の東四十里の地は長漊といった。呉生という者がおり、年は十八、風采が美しく、家で勉強していたが、たちまち所在を失った。三日後に帰ってくると、みずから言った。「某日に書斎に坐していたところ、美しい女が上から降りてきて、招かれ、いっしょに行きました。大きな邸宅の中についてゆくと、調度は美しく、往来する人々には一人の男子もいませんでした。室内にはさらに一人の美人がおり、窓に倚り、流し目し、酒食を調えてともに飲みました。飲みおわると、二美人は続けざまに近づいてきて歓を成しました。姓名を尋ねると、どちらも笑って答えず、『こちらで楽しまれるならば、われら二人はぬしさまだけに従います。とにかくごゆるりとなされば宜しいのです』と言うばかりでした。数日経って、わたしがたまたま故郷を懐かしむと、片方の女が『ぬしさまがお家を思ってらっしゃいますから、送り返すべきでしょう。ぬしさまの心を苦しめてはいけません』と言い、村の入り口に送ってきましたので、ようやく帰ってくることができたのです」。それから心は恍惚としていた。(ひる)に、家人が膳を出してやると、「この味は良くありません。あちらの食べものほどおいしくありません」と言うのであった。その晩、床帳を拭いてやると[64]、「この物は良くありません。あちらの物ほど美しくありません」と言うのであった。まもなく、また失踪し、数日で帰ってきた。言うことは以前と同じであったが、顔色はだんだん黒ずみ、全身に腥い臭いがした。家人は僧道を招いて祈らせたが、いずれも救うことはできなかった。
 数か月返らないことがあった。生には弟某がいたが、白塔[65]を通り掛かった。見ると山の洞窟の入り口に帯が落ちており、兄の物だと知れたので、持ち帰り、人々を率い、松明を秉り、洞窟に入ると、兄が裸で淤泥の間に臥し、房事を行う動作をしていた。扶けて家に行き、薬を飲ませると、蘇り、目を瞠り、怒って言った。「雲雨の最中で、錦の衾に臥していたのに、どうしてわたしを捕まえてこちらに来させたのだ」。そこで親族がみなやってきて見守り、鉄の鎖で監禁し、符籙で厄払いした。生はすこし懼れ、眠ろうとしなかった。夜、人々が周りに坐っていると、たちまち琅然と響く音が聞こえ、電のような光が、部屋を繞ること数周、生は所在を失った。鉄の鎖はばっさりと真ん中で断たれていたが、門や窓は閉じられており、どこから出たかは分からなかった。
 翌朝、ふたたび白塔山の洞窟を尋ねたが、得るものはなかった。そこで、洞窟の中に(あやかし)がいることがあちこちに広まり、見物しに集まってくる者は日に千人を数えた。県令の李公は事件が起こるのを懼れ、みずから捜索しにきたが、何も見付からなかった。石で洞窟の入り口を封じると、見物人は居なくなったが、生は結局帰らなかった。

狐仙が三年観音に成りすますこと
 杭州の周生が、張天師に従って保定の旅店を通ったときのこと、美しい女が階の下に跪き、願い事をしているようであった。生が天師に尋ねると、天師は「これは狐で、わたしに向かって人の世の香火[66]を求めているだけだ」と言った。生が「許してはいかがでしょうか」と言うと、天師は「かれは長年修煉し、すこぶる霊気を得ているから、香火を与えれば、威福を恣にして、人の世に祟るであろう」と言った。生はその美しさを愛し、代わりにお願いしてやった。天師は「おんみの情を退けるのは難しいから、香火を三年だけ受けさせよう。期限を過ぎることがなければ良いだろう」と言った。法官に、黄色い紙に批語を書き、渡して去らせるように命じた。
 三年後、生は落第して都を出、蘇州を通ったが、上方山[67]某庵の観音はきわめて霊験あらたかだと聞いたので、祈りにゆこうとした。山麓に着くと、いっしょにお参りする者が、歩いてゆきなさいと言い、「この山の観音はとても霊験あらたかで、肩輿[68]で山に上る者は、途中でかならず倒れるのです」と言った。生は信じず、肩輿で山に上った。数十歩行かないうちに、棒ははたして折れ、生は地に墜ちたが、さいわい傷つくことはなかったので、輿から下りて歩いていった。廟に入ると、香燭がきわめて盛んに供えられていた。いうところの観音は錦の幔の中に坐していたが、人が見るのは許されなかった。生が僧に尋ねると、僧は「塑像はとても美しいので、見る者が邪念を生じる恐れがあるからです」と言った。生はどうしても啓いて見ようとした。はたしてきわめて妖冶で、他の処の観音とは違っていた。じっくり見ると、かつての知りあいにすこぶる似ていた。しばらくしてはっと気付いたが、旅店の女であった。生は大いに怒り、指さして責めた。「おまえは昔わたしに取りなしを求め、この香火を得た。おまえはわたしの恩に感じず、わたしの輿を壊したが、何と心が邪なのだ。それに天師はおまえが三年香火を受けるのを許しただけで、今はもう期限を過ぎているのに、恋々として去らぬとは、なぜ前約を忘れたのだ」。そう言っていると、像はたちまち地に伏して砕けてしまった。僧は大いに驚いたが、どうすることもできなかった。生が去ると、お金を集めてふたたび像を造ったが、霊験はそれからはなくなってしまった。

陳家の父は幼年で子は壮年であること
 揚州の陳山農は、代々騾馬店を生業としていたが、年が五十あまりのとき、病に臥した。すると少年が馬に騎って外から入ってきて、その頚を平手打ちにしたため、意識を失ってしまった。少年は陳を(ひっさ)げて馬に乗ると、疾駆して門を出た。陳は叫んだが、救ってくれる人はなかった。郊外に行くと、少年は陳を地に擲ち、「はやく来い。さきに行っておまえを待っていよう」と言い、ふたたび平手でその股を撃つと、馳せ去った。陳は気が進まなかったが、両足はひとりでに前進した。飛ぶように歩いたが、さほど疲れなかった。穿いている(わらじ)はすぐに破れたが、破れれば路傍に(わらじ)を織る者がいて易えてくれ、易えおわるとすぐに進んだ。まったく言葉を交わさず、尋ねても答えなかった。とても腹が減ると、市中に酒肴が現れた、取って食べてみても、禁じられることはなかった。進むことほぼ三昼夜、路傍の去思碑[69]の題名を見ると、すでに陝西咸陽城に入ったことが分かった。城門に着くと、少年がおり、「来るのが遅すぎる。三日苦しんでいるぞ」と叱りつけた。すぐに城に導き入れ、とある家の門の外で止まった。少年は入るとまた出てきて、その裾を曳き、中に入れた。見ると女が(とこ)の上で輾転しており、とても痛そうであった。少年は項を挈げ[70]、女の体に投げ込んだ。陳は昏昏として深い岩の中に入ったかのよう、腥さは鼻に満ち、目は天の光を見ず、(むね)はとても苦しかった。一時(いっとき)後、かすかに明るい小さな隙間が見えたので、懸命に動いたところ、豁然として堕ちたが、耳元では多くのお祝いの声が聞こえ、「良い児だ」と言っていた。陳はさらに驚き、すぐに話そうとしたが、口がきけなくなってしまっていたので、大声で叫んだ。男女は前に満ちていたが、みな聞いていなかった。声がとても小さいようだと徐々に気が付き、耳目四肢を触って見てみると、すべて小さくなっていたので、「胎内に入り、また生まれたのか」と悟った。目を瞠り、四方を顧みると、老嫗が「この子は目がぎらぎらとしていますが、(あやかし)ではないでしょうか。ふたたび見たら殺すべきです」と言った。陳は懼れ、すぐにその目を瞑じた。それからは沈沈として愚であるかのようにした。胸中は哀しみと憤りばかり、叫んだり哭いたりすると、傍らの人は抱いて乳を与えたが、まったくその気持ちを理解していなかった。だんだんと慣れてくると、陳も前世のことを考えなくなった。
 六歳になると、すこし話すことができるようになった。その父は江南へ商売しにゆき、帰ってくると、絹でその母を紿いて「これは容易く手に入る物ではないぞ。江南では値段は数十両だった」と言った。母は珍しがり、枕元に置いた。陳がたまたま手に取って、弄び、見ていると、母は父の言葉で禁じた。陳は笑って言った。「父さんは嘘をついているだけです。これは濮院綢[71]で、数両足らずで手に入れることができますよ」。父は大いに驚き、しつこく尋ねた。陳は(なみだ)を落とし、くわしく事情を話し、「わたしが来た時、息子はやっと十数歳でしたが、今では成人したはずです。名は某といい、某里に住んでいます。お父さまは江南に行かれたら訪ねてください」と言った。父は頷いた。翌年揚州に行くと、その子が見付かったので、事情を語った。子も交易に事寄せて、欣然としていっしょに来た。相見えても、すぐに親子とは気が付かなかった[72]。子は鬑鬑[73]として鬚を生やしていたが、父はまだ子供であった。家の事を普通に語り、だれそれへの借金は還していない、どこそこに貯金三百両がある、おまえの結婚のために貯めたのだから、帰ったら取るべきだと言い、話しおわると泣いた。子は悲しみに勝えなかったが、帰って捜したところ、その言葉の通りであった。
 十余年後、陳は壮年となり、父の仕事を継ぎ、江南に来てその旧宅を訪れた。前生の子はすでに死に、家は落ちぶれ、皤然[74]たる老妻は、ひとり残った孫を育てていた。陳は感慨に勝えず、三百両を前生の妻に残して葬式の費用とさせ、杯酒を調え、前世の墓に注いで去った。

呉生の手が萎えること
 乾隆二十四年五月、豊県[75]の知事盧世昌は県志を編修し、蘇州の呉生を招いて謄録[76]にし、同僚とともに一つの楼に住まわせたが、たちまち衣冠を整え、同僚に揖して言った。「わたしは死んで、後事でおんみを煩わすことになる」。友が事情を尋ねると、呉は愀然として言った。「わたしは当初、豊県に赴く時に、沛県に来たところ、道で一人の女に遇い、いっしょに載せるようにと頼まれたが、車が小さいので許さなかった。女は車について二十里歩き、わたしはひそかに怪しんだ。輿夫(かごかき)たちに尋ねると、いずれも見えていなかったので、はじめて鬼であることが分かった。晩に旅店に泊まったが、人が静まった後、女は榻のほとりに来て坐するとわたしに言った。『あなたとわたしはどちらも二十九歳ですから、いっしょに夫婦となりましょう』。わたしが大いに驚き、枕を投げると、すぐに響きを立てて消えた。それからはふたたび姿を見なかったが、しばしば耳元でぶつぶつと語り、夫婦となることを求め、わたしを『写字人』と呼び、騒いでやめなかった。『何をおまえに贈ったら、おまえは去るのだ』と尋ねると、『わたしに二百銭をください。床板の上に置けば、すぐに去りましょう』と言った。言われた通りにしたところ、わたしのお金はそのままで、女は相変わらず纏わりついてくるのだが、どうしたらいいだろう」。友人たちは慰め、二人の童僕に守らせた。
 数日後、楼上で大声で叫んだので、人々が駆け上ると、呉が地に倒れていた。腹の右側は刀で突かれて穴があき、腸は半ばがはみ出しており、喉の食道はすでに断たれていた。扶け起こすと、まったく痛がらなかった。盧公が見にゆくと、呉は手招きして近づけ、「冤」の字を書いた。盧が「『冤』とはどういうことだ」と言うと、「歓喜冤家[77]だよ。今朝、女が来て、わたしに、死ぬように、そうすれば夫妻となることができるからと逼ったのだ。わたしが『どんな死に方をするのだ』と尋ねると、女は(つくえ)の上の刀を指さして『この物が良いでしょう』と言った。わたしはそれを取り、右の腹を刺したが、痛くて耐えることができなかった。女はすぐに手でさすると、『これはいけません』と言った。さすった処は痛みを感じなかった。わたしが『それならどうする』と尋ねると、女はみずからその頚をさすり、首を斬る動作をしながら『このようにすれば良いでしょう』と言った。わたしがまた刀で喉の左を断つと、女は足踏みして『これもいけません。いたずらに苦痛を多くするだけです』と嘆いた。また手でさすると、やはり痛みを感じなくなった。女は喉の右下を指して『こちらが宜しいでしょう』と言った。わたしは『手が萎えて、刺すことができないから、おまえが刺してくれ』と言った。女は髪を乱し、首を振り、刀を持って進み出たが、楼の下から皆さんが上ってきた。かれは人が来るのを聞くと、刀を擲って奔り去ったのだ」と言った。盧公は訝り、(くすし)を招いてその腸を納めてやった。呉ははじめは飲み食いできなかったが、薬を塗って治療すると、平復した。女もふたたび来ることはなかった。呉生は今でも生存している。

狐祖師
 塩城村の戴家に(あやかし)に憑かれた女がおり、符呪で鎮めても、抑えることができなかったので、村の北の聖帝祠に訴えたところ、怪しいことは絶えた。その後、金の鎧を着けた神がその家で夢枕に立って言った。「わたしは聖帝某配下の鄒将軍だ。先日のおんみの家の(あやかし)は狐の精で、わたしはすでにかれを斬ったが、その一味は示し合わせて明日復讐しにくるから、おんみらは廟で金鼓(なりもの)を撃ち、わたしに加勢するように」。翌日、戴家が隣人たちを集めて往くと、空中で戦う音が聞こえた。金鉦、鐃鼓を激しく撃つと、黒い気が庭に墜ち、村のあちこちに狐の頭がとてもたくさん落ちていた。数日後、その家でまた夢みたところ、鄒将軍が来て言った。「わたしは殺した狐がたいへん多かったので、狐祖師に咎められ、狐祖師は大帝に訴えた。某日、大帝は廟に来てその事を調べるが、皆はわたしのために祈ってくれ」。人々は期日通りに往くと、回廊に平伏した。
 夜半になると、仙楽が嘹喨として、冕服を着け、輦に乗った者が冉冉としてやってきた。侍衛はとても多く、後ろには一人の道士がついており、太い眉、白い歯、二つの金字牌には「狐祖師」と書かれていた。聖帝は迎えて会うととても恭しくした。狐祖師は言った。「小狐は世を乱したのですから、殺されて当然ですが、部下の方はわたしの一族をとても酷たらしく殲滅しましたから、罪を逃れることはできません」。聖帝は諾々としていた。村人は回廊から出ると、跪いて命乞いした。周秀才という者が罵った。「古狐め。そのような白い鬚をして、子孫が人間の女に淫行するのをほったらかしにしていたのに、聖帝さまに取りなしをしにくるとは、何が『狐祖師』だ。一万回斬られるべきだ」。祖師は笑って怒らず、落ち着き払って「人の世の和姦は何の罪になる」と尋ねた。周が「杖うちだ」と言うと、祖師は言った。「姦淫は死罪にならないことが分かる。わたしの子孫は異類であるのに人々と姦淫したから、罪を重くされるべきだが、せいぜい充軍[78]配流に過ぎず、斬られることはないだろう。それに鄒将軍がわたしの一子を斬り、さらにわたしの子孫数十を斬ったのは、どうしてなのだ」。周が答えないでいると、廟の中から叫ぶ声が聞こえた。「大帝さまのご命令だ。鄒将軍は悪事をとても厳しく憎み、殺戮はとても酷たらしかったが、それは公務に属することで、民のため害を除いたことを考慮し、罰俸一年とし、海州地方に転任させる」。村人は歓呼合掌し、空に向かって念仏して散じた。

紂の値殿将軍
 天台[79]の僧智果は旅を好んでいたが、山を歩いて路に迷い、大きな石洞(いわむろ)に着いた。一人の道士が坐していたが、蘿衣薜裳[80]であった。僧は跪くとお願いした。「仙人にさいわいお遇いしましたから、お教えを受けたいものです」。道士は「わたしは人で、仙人ではございませんが、なにゆえに来られましたか」と言った。僧は言った。「わたしは山に入ってすでに数日、お腹がとても空いていますから、雲漿[81]を賜わりますよう」。道士は言った。「しばらく待たれよ。裏山へ探しにいってまいりましょう」。去ってまもなく、一物を携えてきたが、形は曲がりくねっていて色は白かった。道士はそれを割ると、ひとりでその漿を吸い、その残りを僧に授けると、「それは千年を経た茯苓です」と言った。そして僧を坐らせると、「岳飛将軍はご無事でしょうか。秦檜は死にましたか」と尋ねた。僧は「それは宋朝の事で、今は代が変わり、数百年経ち、大清となっております」と言い、『宋史』に載せられている岳飛の事跡を告げた。道士は惨然として「岳将軍は結局許されなかったのですか」と言うと、大声で哭き、「わたしは姓は周、名は通といい、岳将軍麾下の小将でした。秦檜が金牌で岳さまを召した時、わたしは災厄があることを知り、こちらに逃れ、霊草を食べ、不死となることができました。わが師は洞窟を出るな、洞窟を出ればすぐに死ぬと言いました。はやく出られるべきです。ぐずぐずなされば間に合わなくなるでしょう」と言った。僧は懼れ、拝辞して去った。
 路はとてもくねくねしており、険しい所ばかりを通った。ふと眺めると崖の上に一人の巨人が坐していたが、身長は一丈あまり、全身の緑の毛は翠錦[82]のよう、驚いて駆け戻り、道士に告げると、道士は「それは師匠の商高[83]で、紂王の値殿将軍[84]でしたが、飛廉[85]、悪来[86]に謗られたため、この山に逃れて住んでいるのです。性来野獣を食べるのを好み、その顔は人と異なっています。往って拝礼なされば、商代の事を尋ねることができましょう」と言った。僧はもともと愚かで、知識がなかったので、巨人に会って拝礼すると、紂の寵姫妲己の事を尋ねた。巨人は言った。「誤解してらっしゃいますな。妲とは、南宮の女官の呼称で[87]、己や戊とは、女官の序列にございます。女官は一人に止まりませぬが、お尋ねなのはどのお妃のことでしょう」。僧は答えることができなかった。さらに文王が受命した事を尋ねると、「文王がどのような人であるかは存じませぬ。西方の諸侯姫昌のことでしょうか。あの人は紂にとても恭しく仕えており、王と称したことはございません」と言った。そして「お尋ねのことは、誰がおんみに告げたのですか」と尋ねたので、「書物に書いてあるのです」と言うと、巨人は「書物とは何ですか」と尋ねた。僧が手で書物の形を作って示すと、巨人は笑って言った。「わたしの時代はまだそのような物はございませんでした」。そう言うと、片腕で僧を抱き、飛ぶように進み、平地に置いた。拱手して別れると、すでに天台の郊外にいた。

 

瘧鬼
 上元[88]の令陳斉東は、若いとき張某とともに太平府[89]の関帝廟に寄寓していた。張は瘧を病み、陳は相部屋であったが、(ひる)で疲れていたため、向かいの寝台に臥していた。見ると戸の外で一人の童子、顔は白晢、衣服、帽子、(くつ)(しとうず)はすべて深い青色をしたものが、首を伸ばして張を見ていた。陳は当初廟の人かと思い、声を掛けなかったが、張はにわかに瘧の発作を起こし、童子が去ると、張の瘧も止んだ。またある日、寝ていると、たちまち張が狂って叫びだし、痰は泉が湧くかのようであった。陳が驚いて目覚めると、童子が張の榻の前に立ち、手を舞わせ足を蹈み、笑いながら振り返り、とても嬉しそうにしていた。陳は瘧鬼であることを知り、進み出て撲ったが、手で触れると冷たくて耐えることができなかった。童子は走り出たが、颯颯と音がし、追ってゆくと中庭で消えた。張は病が癒えたが、陳の手には黒い気があり、煙で燻した色のよう、数日たつとはじめて消えた。

誤って武松を真似ること
 杭州の馬観瀾の家では、四時かならずその門を祭っていた。わたしは尋ねた。「古の礼では、門は五祀[90]の一つですが、今この礼は久しく行われていません。おんみの家だけが行っているのは、なぜですか」。馬は言った。「わたしの家僕陳公祚は酒好きで、毎晩かならず酔っては門を敲いて帰ってきていました。ある日、戸外で騒ぐ声が聞こえましたので、見にゆきますと、しもべが地に倒れており『(わたし)が帰ってまいりますと、門の外に一人の男と一人の女がおりましたが、どちらも頭がなく、頭を手に持っていました。女は叫びました。「わたしはおまえの嫂だ。わたしが姦淫したのは事実だから、わたしの夫がわたしを殺すことはできるが、おまえは義弟なのだから、わたしを殺すべきではなかった。夫はわたしを殺そうとした時、気が萎え、手が震え、斬ろうとはしなかったのだが[91]、おまえは刀を奪って代わりに殺したのだ。この件はおまえが関わることではなかった。わたしは尋ねてくるたびに、おまえの主人の家の門神に怒鳴りつけられたので、今回はおまえを門の外で待っていたのだ」。そして大いに罵りますと(わたし)の顔に唾しました。男の鬼は頭を(わたし)に擲ちましたので、(わたし)は地に倒れましたが、人の声を聞くと、二鬼はようやく散じたのでございます』と言いました。馬氏のしもべたちが介添えし、(とこ)に連れてゆきますと、みずから言うには、若いとき、このような事があった、当時、小説を読み、武松の人となりを慕っていたため、はからずもこの報いに遭ったのだということでした。ある人が告げました。『小説はみな本当のことではないから、みだりに真似することはできません。それに武松が嫂を殺したのは、嫂が兄を殺したからです。普通の犯姦[92]なら、王法では杖刑になるだけですから[93]、お兄さんに代わって嫂を殺すことはできません』。話していると、しもべは目を瞠り、女の声になりますと『正義はもとより人の心にあるものだ。それみたことか』と言い、話をした者に向かって三たび叩頭して死にました」。馬家では鬼の言葉のために、門神をとても恭しく祭り、代々続けているのである。

孛星[94]は女であること
 山東の施道士という者は、晴雨を祈願することができた。乾隆十二年、東省[95]は大旱魃となったが、撫軍準泰[96]は雨乞いしても効果がなかったので、道士を縛って責め立てた。道士は「雨は降らせることができないものではございませぬが、某日に孛星が降りてくることが必要で、公が錦の(ふすま)一枚、白金百両を捨てられ、わたくしが十年の寿命を捨てれば、はじめて雨を降らせることができましょう」と言った。撫軍は言われた通りにすることにした。
 期日になると、道士は壇に登り、一人の童子を呼びよせ、その手を伸ばさせ、三つの符を掌中に描くと、頼んだ。「某処の田圃の中に行き、白衣の女を見たらこの符を擲て。かれはかならずおまえを追うから、おまえは第二の符を擲て。かれはさらに追うから、おまえは第三の符を擲ち、すぐに戻って祭壇に上り、匿れればよい」。童子が往くと、白衣の女が居たので、言われた通りに第一の符を擲った。女は怒り、(スカート)を棄てて童子を追った。童子が第二の符を擲つと、女はますます怒り、上着を脱ぎ、両乳を露わにして奔りよってきた。童子が第三の符を擲つと、たちまち霹靂が轟き、女は下着をすべて脱ぎ、裸で狂って追いかけた。童子が急いで祭壇に走ってゆくと、女もやってきた。道人は牌を敲くと「雨降れ。雨降れ。雨降れ」と怒鳴った。女が祭壇の下に仰臥すると、雲気がその陰から出、拡がって天を蔽い、雨は五日止まなかった。道士が錦の(ふすま)で覆うと、女はようやく蘇り、大いに怒り、恥ずかしがり、「わたしは某家の妻ですが、どうして裸でこちらに臥しているのでしょう」と言った。撫軍は衣服を用意して着せてやり、老嫗に送り返させ、百両でその家に酬いた。
 その後、道士を尋ねると、道士は言った。「孛星は女体で、性質は淫乱、雲や雨になることができますが、天上に居るときも裸で、北斗に朝する時だけ衣裳を着るのです。あの日は田圃の中に(くだ)りましたので、わたしは符で捕まえて、某婦の体に入れ、身代わりにして来させたのです。さらに激怒させれば、雷雨になっていたことでしょう。しかし用いた方法はとても良くないものでしたので、かならず冥府の責めに遭うことでしょう」。数年たらずで、道士はにわかに亡くなった。

九夫墳
 句容の南門外に九夫墳があった。言い伝えでは、昔とても美しい女がおり、夫が死んだが、一人の幼い子がいるだけで、家産はとても豊かだったので、夫を招いた。一子を生むと、夫はまた死んだので、すぐに前夫の側に葬り、さらに夫を婿にとったが、また以前のように死んだ。都合九人の夫に嫁ぎ、九人の子を生んだが、ぐるりと九つの(つか)が列なっていた。女は死ぬと、九つの(つか)の真ん中に葬られたが、日が落ちる頃になると、その地はすぐに陰風が起き、夜には叫び争う声がし、妬みあってその妻を奪っているかのようであった。路行く人々は通ろうとせず、近隣の村々はそのために落ち着かず、連れだって県令の趙天爵に訴えた。すぐにその地に行き、排衙[97]してp隸を呼び、それぞれの(つか)のほとりで大きな杖を持たせ、厳しく三十回責めさせたところ、それからは静かになった。

土地奶奶が強請(ゆすり)すること
 虎踞関[98]の名医涂徹儒とは、親しい付き合いがあるが、その子の妻呉氏は、孝廉で諱は鎮という者の妹であった。乾隆丙申六月、呉氏が夜に夢みたところ、近所の総甲[99]李某が帳簿を持って布施を請うており、「虎踞関で火災があるから、お金を集め、劇を演じてお祓いしよう」と称していた。帳簿の姓名は、すべて村内の知りあいであった。ぐずぐずとしていると、黄の(うわぎ)(あか)(もすそ)の老女が門の外から入ってきて、呉に言った。「今年こちらで火災があるのは九月三日のことですが、あなたの家はまっさきにその禍を被りますから、運命を逃れることはできません。紙銭を焼き、牲牢を買い、願を掛ければ[100]、人が焼け死ぬには至らないことでしょう」。呉氏は夢から醒めると、総甲の李某がとうの昔に物故していたことに気付き、各隣家に往って事情を告げ、「こちらに黄の(うわぎ)を着た女の方はいらっしゃいますか」と尋ねたが、みな「いません」と言った。呉は用心深かったので、土地廟に往って祈ったところ、塑像の土地奶奶[101]は、夢の中で見た女さながらであったので、非常に驚き懼れた。隣人たちはそれを聞くと、やはり大いに驚き、あちこちで劇を演じて祭ったり祈ったりし、数百両を費やした。
 九月が近づくと、涂氏一門は、衣箱や什器を、すべて母方の親類の家に移し、初一日からは、炊ぐこともなかったが、期日になっても、四隣は寂然として、焚如の患え[102]はなかった。涂家は今でも平穏である。

 

最終更新日:2007319

子不語

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[1] 尹継善。『清史稿』三百十三巻などに伝がある。乾隆五年から十六年まで陝川総督。

[2] 擬態語。ごろごろ。ものがつかえて不愉快な感じ。

[3] 複数の裁判官が審理すること。

[4] 手紙係。

[5] 原文「來謁於轅」。轅は轅門。総督、巡撫の滞在場所。

[6] 原文同じ。庁舎なのであろうが未詳。

[7] 江蘇省の州名。

[8] 朱彝村。竹垞は号。『清史稿』巻四百八十九などに伝がある。

[9] 江蘇省の県名。

[10] 閻若璩。『清史稿』巻四百八十七などに伝がある。

[11] 未詳。叔父の岳父か。

[12] 官名。礼部侍郎のこと。

[13] 呉県の人。康煕二十一年進士。李岳頒。

[14] 原文「如曉行臭霧中」。臭霧」が未詳。とりあえずこう訳す。

[15] 未詳。バスタオルのような物か。あるいは浴衣か。図:『清俗紀聞』

[16] 江蘇、安徽両省に跨る湖名。

[17]口が小さく腹の大きな容器。

[18]写真

[19] 薬名。竹類の根に寄生する担子菌の一種の菌体。塊状で径一〜二センチ。条虫駆除薬。写真

[20] 溶解しない物を特殊な加工を施し、溶解するようにすること。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千三百五十一頁参照。

[21] 護符のようなものと思われるが未詳。

[22] 原文「王之女初笄」。年頃になったばかりであったがということ。

[23] 前の部分の「無眼、鼻、口、耳はなく」という記述とは矛盾する。

[24] 原文「向人噏張」。噏張」はまったく未詳。とりあえずこう訳す。

[25] 土地神

[26] 未詳だが、その土地の邪神であろう。ここでは、土地神のこと。

[27] 仙人の乗り物。ここではそれに乗っている仙人。

[28] 頭巾の一種。周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』百頁参照。

[29] 夏之蓉。『清史稿』巻四百九十などに伝がある。

[30] 原文「掠舟指櫓似巡邏者」。未詳。とりあえずこう訳す。

[31] 物を打つ音。『礼記』問喪に見える言葉。

[32] 未詳だが、学政使のことであろう。各地の学校を巡行し、学校試を挙行する官。

[33] 原文「閲巻幕友」。学生間の幕僚だと思われるが、学校試の答案を幕僚が見るようなことがあるのかどうかは未詳。

[34] 鬼燈の対義語。人間の持っている燈火。

[35] 朱の衣に幅広の帯。

[36] 原文「云共見之」。未詳。とりあえずこう訳す。

[37] 『客座贅語』巻一「近年以来殊形詭制、日異月新、于是士大夫所戴其名甚夥、有漢巾、晋巾、唐巾」。

[38]周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』百四十頁参照。

[39] 原文「強魂不散」。強魂」が未詳。とりあえずこう訳す。

[40] 原文「誓殺名士三千,以泄生平好名之忿」。未詳。とりあえずこう訳す。

[41]晋の人。索靖の墨跡:平凡社『書道全集』第三巻。

[42] 尊は酒器。樽といってもビヤ樽のようなものではない。図:『三才図会』。

[43] 夫婦がための杯を交わすこと。葉大兵等主編『中国風俗辞典』百二十九頁参照。

[44] 原文「女所記憶,皆非本家之事」。本家」は袁の隣家を指しているものと解す。

[45] 原文「赴京郷試」。都にある国子監の貢生なので、都で受験することになる。

[46] 八股文。

[47] 病名。嚥下不能や嘔吐など。謝観等編著『中国医学大辞典』千五百五頁参照。

[48] 原文「入京城時」。前に、「京師に至り、寄寓する場所を借りようとすると」とあるのと矛盾する。あるいは、「京城」は北京の内城をさすか。

[49] 祖先の祭祀。

[50] 原文「殊非以直報怨之道」。以直報怨」は『論語』憲問。

[51]香火の情:香を焚き、結義しあった情誼。

[52]現在の北京市宣武区、菜市口の南側にある胡同の名。

[53] 書物を入れるつづら。

[54] 原文「汝又蹲廁辱我」。蹲廁」することがなぜ王将軍の妾を辱めることになるのか未詳。

[55] 原文「果未開摺也」。まったく未詳。とりあえず、このように訳す。

[56] 郡守と県令。清代では知府と知県。

[57] 明府は県令。

[58] 頭巾の一種と思われるが未詳。

[59]香孩児は宋の太祖の幼名。ただ、幼児期の宋の太祖を描くことがひろく行われていたかどうかは未詳。

[60] 孔子を儒童菩薩と称した例は、『辯正論』に見える。

[61] 離婁下。

[62] 原文「約束如軍官」。約束」が未詳。とりあえずこう訳す。

[63] 原文「紅花洞事發矣」。未詳。とりあえずこう訳す。

[64] 原文「為拭床帳」。未詳。とりあえずこう訳す。「床帳」は寝台にめぐらす帳。

[65]白塔山。会稽県の山名。乾隆元年『浙江通志』巻十五・山川七引『万暦会稽県志』「在府城東五十里」。

[66] 神仏に手向ける香。

[67] 蘇州西南の景勝地。石湖に臨み、寺院が多い。別名楞伽山。国家文物事業管理局主編『中国名勝詞典』三百十三頁参照。

[68] 図:『三才図会』。

[69] 地方の士民が離職する官吏への思いを述べた詩を刻んだ碑。

[70] 原文「少年挈其項足」。「項足」が未詳。とりあえずこう訳す。

[71] 浙江省濮院鎮に産する絹。

[72] 原文「相見之下,略不相識」。未詳だが、訳文の趣旨であろう。

[73] 鬚が疎らなさま、また、ふさふさとしたさまとも。

[74] 髪が白いさま。

[75] 江蘇省の県名。

[76] 抄写をつかさどる書記。

[77] 切っても切れない関係の男女、夫婦や恋人などをいう。

[78]犯罪者を辺塞に送って服役させること。

[79] 浙江省の山名。

[80] いわゆる苔の衣。『楚辞』山鬼「被薜荔兮帶女羅」。

[81] 仙界の飲み物、いわゆる瓊漿玉液などをいうのであろうが未詳。

[82] みどりの錦。

[83] 未詳。

[84] 未詳。

[85] 紂の奸臣。蜚廉とも。『史記』殷本紀「蜚廉生惡來。惡來有力,蜚廉善走,父子倶以材力事殷紂」。

[86]飛廉の子。前注参照

[87]「妲」にそのような意味があるとする典拠は未詳。また、南宮も未詳。

[88] 江蘇省の県名。

[89] 広西省、安徽省の府名。どちらであるかは未詳。

[90] 『礼記』曲礼下「天子祭五祀」注「五祀、戸、竈、中霤、門、行也」。『礼記』祭法「諸侯為国立五祀、曰司命、曰中霤、曰国門、曰国行、曰公氏v。

[91] 原文「手噤齘不下」。齘不下」が未詳。とりあえずこう訳す。

[92] 法律用語。姦通。

[93] 『大清律令』巻三十三・三百六十六犯姦「凡和姦、杖八十。有夫者、杖九十」

[94] 彗星。

[95] 山東省。

[96] 乾隆十年から十二年まで山東巡撫。

[97] 知事を中心に、属官や下役が両脇に居並ぶこと。

[98] 関の名。雲南と貴州にあり、いずれであるかは未詳。

[99] 百家の長。

[100] 原文「買牲牢還願」。「還願」はお礼参りのことで、文脈に合わない。訳文の意味に解す。

[101] 土地神の妻。写真は年画に描かれた土地公公と土地奶奶(左)。

[102] 火災のこと。「焚如」は『易』離に見える言葉。

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