第六巻

 

猪道人が鄭であること
 明末、華山寺で一頭の豚を養っていたが、たいへん年を経ていて、毛はすべて脱け落ち、精進物を食べ、汚物を食べず、お経を誦える声を聞くと、叩頭、頂礼するので、寺じゅうの僧は「道人」と呼んでいた。
 ある晩、老衰と病気のために、死にそうになった。寺の住持湛一和尚は、もともと徳が高かったが、よそへ往って説法しようとし、その弟子たちを召して言った。「猪道人が死ぬときは、かならず切り刻み、その肉を近所に分けて食べさせるのだ」。僧たちは承諾したが、心の中ではよくないことだと思った。そして豚が死ぬと、ひそかに埋めた。湛一は帰ってくると、豚が死ぬときどこに分けたかと尋ねた。僧たちは本当のことを告げ、さらに言った。「仏法では殺生を戒めておりますから、すでに埋葬いたしました」。湛一は大いに驚き、すぐに豚を埋めた処へ往くと、杖で地を撃ち、哭きながら言った。「わたしはおんみに負いてしまった。わたしはおんみに負いてしまった」。僧たちが事情を尋ねると、「三十年後、××村の清廉高貴な役人で、罪がないのに極刑を受ける者があるが、それがこの豚なのだ。豚は前生で役人だったが、意に添わぬ事があり、災禍を逃れがたいことを知り、転生して畜生となり、済度を求めてきていたのだ。わたしは刀解法で厭勝[1]しようとしたが、おまえたち俗物に事を誤られてしまった。だがこれも運命だから、挽回することはできぬわい」と言った。
 崇禎年間、某村の翰林鄭[2]は素行が正しく、東林党に加わっていたが、その舅の呉某によって、母を杖で打ったと誣告されたため、凌遅となり、天下はそれを不当だとした。その時湛一はすでに圓寂していたが、人々ははじめてかれが因果に通じていたことに敬服したのであった。

徐先生
 宿松[3]の石賛臣の家は金持ちで、数人の兄弟たちは、それぞれ数万[4]の資産を持っていた。宿松の風俗では、金持ちの家は、毎日かならず日常の食事をおもての庁堂に置き、来客はみなそれを食べ[5]、「燕坐」と称するのであった。痩せて鬚が疎らな、徐という者も食事しにきたが、門の外の青い山を指さすと「山が跳ぶのを見たことはございますか」と言った。「ない」と言うと、徐は手の指で三たび撮んだが、山ははたして三たび躍った。人々は大いに驚き、先生と呼んだ。
 先生は賛臣に言った。「財産をたくさんお持ちですから、丹薬を(きた)えて、十倍を加えることができましょう」。兄弟たちはその言葉に惑わされ、炉を置き、竈を設け、それぞれ銀母[6]数千を出して子金[7]を求めた。二房[8]の弟の妻某氏は、普段から賢かったので、ひそかに銅を銀母の中に置き、先生に見せなかった。まもなく炭が燃えさかると、風雷が家の上に起こり、数枚の瓦を撃ち砕いた。先生は罵った。「これはきっと偽の銀が混じっていたため、鬼神の怒りを招いたのです」。詢ねると、その通りだったので、一家は驚嘆、敬服した。先生が銅盤を空中に置き、「丹よ来い」と叫ぶと、盤の中には鏗然と、一粒が墜ち、連呼すると、鏗然たる声はやむことはなく、大きい粒、小さい粒がことごとく盤に落ちた。先生は「大丹を深山の人が来ない所で(きた)えれば、千万[9]をもたらすことができましょう、わたしについて、江西廬山に往かれてはいかがでしょう」と言った。石家の兄弟はますます喜び、すぐに銀数万を載せて先生についていった。途半ばに達せぬうちに、先生は岸に上ってゆき、夜、大盗数十人を率い、松明を点け、武器を執りながら銀を奪い取りにきて、「怖れるな。わたしは盗賊の(かしら)だが、良心はある。おまえたちがわたしをとても誠実に世話したことを考慮して、千両を残し、おまえたちを帰郷させよう」と言った。そこで、石家の兄弟は全額を与え[10]、がっかりして帰った。
 十年後、安慶の按察使衙門の下役が賛臣を召しにきて、「獄に大盗徐某が居て、会いたいと申しておるぞ」と言った。賛臣はやむをえず往き、先生に会うと、先生は言った。「わたしは運がすでに尽きたから、死をも辞さない。どうか数年の交誼を考慮し、遺骸を葬ってくれ」。手に着けた金の(くしろ)四つを外して、賛臣に棺代として与えると、言った。「わたしの最期は七月一日未の刻だから、送りにきてくれ」。期日になると、賛臣は刑場に往ったが、先生は後ろ手に縛られて斬られるのを待っていた。たちまち股ぐらから一人の子供が出てくると、先生の声で言った。「わたしが殺されるのを見ろ。わたしが殺されるのを見ろ」。すぐに首が落ち、子供も消えた。その時の臬使[11]は祖廷圭で、満洲正藍旗の人であった。

秦毛人
 湖広鄖陽[12]の房県に房山があり、険峻にして幽遠、四方には部屋のような石洞(いわむろ)があった。毛人が多く、身長は一丈余り、全身に毛が生えており、しばしば山を出ては、人、鶏、犬を食らい、拒む者はかならず掴みかかられるのであった。鉄砲で撃つと、鉛玉はみな地に落ち、傷つけることはできなかった。言い伝えでは、防ぐ方法は、手を叩き、「長城を築け。長城を築け」と叫ぶだけで、毛人はあたふたと逃れ去るというものであった。わたしの世好[13]の張君、名は敔という者が、かつてその地で役人をしていたが、試したところその通りであった。土民は言った。「秦の時代に長城が築かれたとき、人々は山中に逃げ込みましたが、歳を経ても死ぬことはなく、この(もののけ)に成ったのでございます。人に会うとかならず『長城は築きおわったか』と尋ねますので、かれらが怯えていることを知らせて嚇すのでございます」。数千年後もなお秦の法を畏れるとは、始皇の威力を思い見ることができよう。


 房山に貘獣がおり、銅鉄を食べるのを好むが、人を傷つけることはない。民間の犁、鋤、刀、斧の類を見れば涎を流し、豆腐のように食べてしまう。城門を覆っている鉄板は、すべて食われてしまっている。

人同
 喀爾喀[14]に獣がいた、猴に似て猴ではなく、中国人は「人同」と呼び、蛮人は「里」と呼んでいた。しばしば穹廬[15]を窺い、人に飲食物や、小刀、煙具の類をねだったりするが、人に怒鳴られると、すぐに棄てて逃げるのであった。某将軍がそれを飼い、秣作り[16]、柴刈り、水汲みなどの仕事をさせると、なかなかうまく仕事をこなした。一年後、将軍は任期満了し、帰ることになった。人同は馬前に立ち、雨のように涙を落とし、従うこと十余里、追い払っても去らなかった。将軍は言った。「おまえがわたしに従って中国に行くことができぬのは、わたしがおまえに従ってこの地に居られないのと同じだ。わたしを送ればそれでおしまいだ」。人同は悲し気に鳴いて去り、なおもしばしば振り向いて仰ぎ見ていたということである。

人蝦
 国初、前明の遺老某は殉難しようとしたが、刀、縄、水、火で死のうとはせず、楽しく死ぬなら信陵君のように、美酒や婦人でみずからを損なうにしくはないと考え、真似をして、大勢の姫妾を娶り、終日荒淫に耽っていた。このようにすること数年、結局死ぬことはできなかったが、督脈[17]は断たれていたので、頭と背が曲がり、傴僂(せむし)熟蝦(ゆでえび)のよう、匍匐して歩いていた。人々は戯れて「人蝦」と呼んだ。このようにすること二十余年、八十四歳で死んだ。王子堅先生は幼い時にはまだこの翁が見られたと言っている。

鴨嬖
 江西高安県の少年楊貴は、年は十九、ちょっとした男前であった。性格は柔和で、親しむ者がいると、拒むことはなかった。夏のある日、池で水浴びしていると、たちまち一羽の雄鴨が飛んできてその臀をつつき、尾で撲ち、叩いたり、重なったりし[18]、撃っても去らなかった。すぐに死んだが、尾の後ろには肉茎が垂れ、(なまぐさ)い水がたらたらと流れていた。役所の人々は大いに笑い、楊を「鴨嬖」と呼んだ。

贔屭[19]の精
 無錫の華生は、姿が美しく、小川のほとりに住んでおり[20]、聖廟に近かった。廟の前にはとても広い橋があり、たくさんの遊人が憩っていた。夏、生は橋に上って涼んでいた。日が暮れようとする頃、学校に入ると、小径の側にささやかな門があり、女が戸のほとりを徘徊していた。生は心が動き、進み出て火を貰おうとした。女は笑って火を与えると、やはり視線を注いだ。生はさらに言葉を掛けようとしたが、女はすでに扉を閉ざしていたので、門前の小径を記憶して外に出た。翌日ふたたび往くと、女はすでに入り口で待っていた。生が姓氏を尋ねると、学校の門番の娘であることが分かったが、語るには「家が狭いので、耳目を避けることができません。あなたのお家はすぐそこですから、静かな部屋がありさえすれば、真夜中にお側近くにまいりましょう。明晩わたしを入り口でお待ちください」。生は喜び、急いで帰ると、妻を騙して、暑いのが嫌だから、ひとり寝るのがよいと言い、おもての間を掃除し、こっそり入り口で待っていた。女ははたして夜に来たので、手を携えて部屋に入ったが、生は望外の喜びであった。それからは毎晩かならずやってきた。
 数か月すると、生はだんだん衰弱してきた。父母がこっそり寝所を窺うと、生が女と並んで坐して笑いさざめいていた。すぐに扉を開いて入ると、寂然として人はいなかったので、厳しく生を詰したところ、生はくわしく顛末を話した。父母は大いに驚き、生とともに学校に行き、捜したが、以前の小径はまったくなかった。門番をあまねく訪ねたが、娘がいる者はいなかった。(あやかし)であることが知れたので、ひろく僧道を招き、符籙を請うたが、まったく効き目がなかった。その父は朱砂を研ぎ、生に与えると「来た時に、こっそりと女の体に印をつければ、後をつけることができるだろう」と言った。生は女が眠るのを待ち、朱砂を髪に散じたが、女は気が付かなかった。翌日、父母は人とともに聖廟に入ってくまなく捜したが、まったく姿はなかった。すると突然、隣家の女が子供を罵るのが聞こえた。「新しい袴に換えたばかりなのに、また猩紅(あか)く染めてきて、どこで染めてきたんだえ」。その父はそれを聞いて訝り、見にゆくと、子供の袴は朱砂だらけであったので、どこから来たのかを問い質すと、「さっき学校の前の碑を背負っている亀の首に乗ったら、知らない間に染まってしまったんだ」と言った。贔屭の首を見にゆくと、朱砂があった。学校に話して、碑を砕き、亀の首を落とすと、砕けた石からは血が絲のように滴った。腹の中には卵のような小石があり、堅くて光があり鏡のよう、錘で打っても砕けないので、遠く太湖に投じた。それからは女はふたたび来なかった。
 半月後、女が突然寝所に入ってきて生を罵った。「あなたを裏切ったことはございませんでしたのに、わたしの体を砕かれるとは。それでもわたしは怒りません。ご両親が心配なのは、あなたの病気のことだけでしょう。仙宮の霊薬を貰ってまいりましたから、服すれば恙ないことでしょう」。薬草数本を出し、生に食べさせたがその味は香わしく甘かった。女はさらに言った。「以前居た処は近かったので、朝晩往き返りすることができましたが、今ではすこし遠くなりましたので、長くこちらに住まわねばなりません」。それからは白昼姿を現したが、飲食だけはしなかった。家人は老いも若きもみなかれを見ることができた。生の妻が大声で罵ると、女は笑って答えなかった。毎晩、生の妻は生を擁して(とこ)に坐し、女を上らせなかったが、女も無理を言わなかった。ただ枕に就くと、妻はすぐに惛惛としてぐっすり眠り、意識を失い、女はひとり生と寝るのであった。生は霊薬を服した後、にわかに元気が良くなり、以前のように孱弱ではなくなった。父母はしかなたく、とりあえず放っておいた。このようなことが一年あまり続いた。
 ある日、生がたまたま街に行くと、一人の疥癬の道人がじっと生を見て言った。「おんみはひどい妖気です。本当のことを仰らなければ、まもなく亡くなることでしょう」。生は本当のことを告げた。疥癬の道人は茶屋に迎え入れると、背中の瓢箪を取り、酒を傾けて飲ませ、黄色い紙の二枚の護符を出して生に授けると言った。「持って帰り、一つは寝室の入り口に貼り、一つは(とこ)の上に貼り、女に知らせないようになさい。それでも縁が絶たれないなら、八月の十五夜に、お会いしにまいりましょう」。時に六月中旬であった。生は帰ると、約束通りに護符を貼った。女は入り口にやってくると驚いて退き、大声で罵った。「なぜまたこんなに薄情になさるのでしょう。わたしは懼れはしませんよ」。言葉はとても獅オかったが、結局入ろうとしなかった。しばらくすると、大声で笑い「お告げする大事なことがございます。選択はあなたにお任せしますから。ひとまず護符を遠ざけてください」と言った。言われた通りにすると、入ってきて、生に告げた。「あなたは(かお)が美しいので、わたしはあなたを愛しましたが、道人もあなたを愛しているのです。わたしがあなたを愛すれば、あなたは夫となりますが、道人があなたを愛すれば、あなたは龍陽(かげま)になるだけでしょう。二つのうちのどちらかを、お択びください」。生は大いに悟り、昔の通りに愛した。
 中秋の十五夜になり、生が女と並んで月見していると、たちまち名を呼ぶ声が聞こえた。見れば一人の男が半身を低い塀の外から現していた。迫って見ると、疥癬の道人であった。かれは生を引いて告げた。「妖縁が尽きようとしていますから、祓ってあげにきたのです」。生はそれを望まなかった。道人は言った。「(あやかし)が穢らわしい言葉でわたしを謗ったことは、知っています。だからいよいよあのものを許さないのです」。二つの護符を書くと言った。「すぐに行き、捕らえてきなさい」。生がためらっていると、たまたま家人が出てきて、すぐに護符を妻の所に運んでいった。妻は大いに喜び、護符を持って女に向けると、女は戦慄して黙ってしまったので、女の手を縛り、擁していった。女は泣きながら生に言った。「(えにし)が尽きて去るべきなのはとっくに分かっていましたが、一点の痴情のために、ぐずぐずとして禍を受けてしまいました。ただ数年の恩愛を、おんみは深くご存じです。これからは永遠のお別れとなりましょう。どうかわたしを塀の陰に置き、月光にわたしを照らさせないでください。そうすればしばらく死刑を免れるかもしれません。憐れと思ってくださいますか」。生はもとより縁を絶つに忍びなかったので、女を擁して塀の陰に行くと、手ずからその縛めを解いた。女は身を奮って躍り上がると、一片の黒雲と化し、突然飛昇した。道人も一声長嘯し、東南の空に登って追ってゆき、行方知れずになってしまった。

冥界では中秋に役人が仕事をせぬこと
 羅之芳[21]は、湖北荊州府監利県の挙人であった。辛未の会試のとき、福建浦城県の李姓の者が挨拶しにきて、「足下は今回の試験でかならず合格するが、恐らくは官職に選ばれることはできないだろう」と言った。羅がそのわけを詢ねると、李は話そうとせず、「試験の後に話すとしよう」と言った。合格が発表されると、進士に合格していた。すると、官職の選任が行われる前に、尋ねてきて[22]、言うことには「先ほど夢を見たのだが、足下は浦城県の知事になるから、訪ねてきたのだ」。羅は家に還ったが、選任の期日にはまだ間があったので、某家の家庭教師となり、将来官職に選ばれ、かならず浦城を得るものとひとりで思っていた。ところが家庭教師をして三年で、病歿してしまい、家族も李が話した夢の中の事を知らなかった。
 さらに一年後の八月十五日、家で乩仙[23]を招いたところ、乩盤[24]に「わたしは羅之芳だが、今戻ってきた」と大書した。一家が信じないでいると、乩盤に「おまえたちが信じないなら、螺螄湾の田地の証文のことを話そう。わたしは昔、家庭教師先で死んだため、家族に渡すことができなかった。まだ憶えているのだが『礼記』××篇に夾んであるぞ。おまえたちは今、田地の隣人たちと訴訟しているが、捜し出して提出すれば、四方の境界がはっきりし、訴訟を収めることができよう」と書いた。家人はすぐに調べ、この証文を得たので、一家で痛哭した。乩盤にも数十の「哭」の字が書かれた。「今はどちらに居られるのですか」と尋ねると、乩盤には「浦城県の城隍となっている」と書かれ、「冥界は人の世よりも公務が忙しく、一刻も暇がないが、中秋の一日だけは、慣例として仕事をしない。月が明るく、風が清ければ、英魂ははじめて遠くへ行くことができるのだ。今回はたまたまそのような晩だったので、暇を得て家に戻ってきたのだ。普段の日なら、戻ってくる暇はなかった」と言った。さらに家人に命じた。「庭の外の草木は搖り動かしてはいけない。わたしは鬼吏鬼卒十余人を連れて戻ってきたが、みな草木に附いて休んでいる。鬼は性来風を畏れる。身を寄せるものがなく、風に一吹きされれば、漂ってどこまでゆくか分からない。城隍であるわたしがかれらに迷惑を掛けることになってしまう」。乩盤に書きおえると、さらに長賦一篇を作って去った。

山魈を縛ること
 湖州の孫葉飛先生は、雲南で教職に就いていたが[25]、昔から酒豪であった。中秋の晩、学生たちを招いて楽志堂で飲んだが、月影はとても明るかった。たちまち(つくえ)の上で音がし、大きな石が崩れたかのようであった。愕いて見ていると、外に(もののけ)が現れたが、頭に紅い緯帽[26]を戴き、黒く痩せて(さる)のよう、頚の下にはもじゃもじゃの緑の毛、一本足で跳び上がりながらやってきた。客たちが飲んでいるのを見ると、大声で笑って去ったが、声は竹を裂くかのようであった。人々はみな指さして山魈であるといい、近づこうとしなかった。その行方を伺っていると、右手の厨房に闖入した。料理人は酔って(とこ)の上に臥していたが、山魈は帳を掲げてそれを見ると、またも笑って止めなかった。人々が大声で叫ぶと、料理人は目覚めて(もののけ)を見、すぐに棍棒を持って殴ったが、山魈も臂を伸ばして掴みかかった。料理人はもともと勇敢だったので、手で(もののけ)の腰を抱き、ともに地面を転がった。人々はてんでに刀や棍棒を持ってきて助けたが、斬っても刃は入らなかった。棍棒でしばらく撃つと、だんだん縮み、顔はぼんやりとして、一片の肉塊に変わったので、縄で柱に縛り、夜が明けると(かわ)に投じることにした。
 鶏が鳴く頃になると、(つくえ)の上でとても大きな音がふたたび響いたので、急いで見にゆくと、(もののけ)はすでに見えなくなっていた。地面には緯帽が一つ遺されていたが、書院の生徒朱某の物であった。そこではじめて学校の秀才たちがしばしば帽子をなくしていたが、すべてこの(もののけ)が盗んでいたことが分かった。この(もののけ)が緯帽を被ることを好むのも、不可解なことであった。

門鬼が脚を夾むこと
 尹月恒は杭州艮山門[27]外に住んでいたが、沙河灘から帰るとき、半斤の菱を懐に入れていた。鉢盂潭を通り掛かると、人は稀で地は(ひろ)く、幾つかの義塚[28]があったが、懐の中が軽いと感じ、買った菱を探ったところ、すでに失われていた。そこで身を翻して義塚へ捜しにゆくと、菱の実が剖き砕かれて、塚の頂に聚められていた。尹は拾って懐に入れると、よろよろと家に帰った。
 食べ尽くさないうちに激しい病になって、「わたしたちは菱の実をながいこと食べていなかったので、ひとまず飢えを癒そうとしたのだ。おまえはすべてを持ち帰ったが、なぜそのように吝嗇(けち)なのだ。今わたしたちはおまえの家に来ているが、満腹せねば去らないぞ」と叫んだ。その家では懼れ、すぐにご飯を供え、主人のために罪を贖うことにした。杭州の風俗では、鬼を送るときは、前の人が門から送り出すと、後ろの人が門を閉ざすのであった。その家は慣例に従い、ひどく急いで門を閉じたが、尹はまた大声で言った。「客にご馳走したのなら恭しくするべきだ。わたしたちが去らないうちに、門をにわかに閉ざすとは。(あし)を夾まれ、痛くてたまらぬ。ふたたび料理をたくさん作ってわたしにご馳走しないなら、永久におまえの家から出てゆかないぞ」。そこでふたたびお祓いすると、尹は病がすこし治ったが、良くなったり悪くなったり、体がすっきりすることはなく、結局そのために亡くなった。

雷を祭る文
 黄湘舟が語った。かれの隣人[29]の某には息子があったが、十五歳で、雷に撃ち殺されたので、その父は文を作り、雷を祭った。「雷神(いかづち)を、(なんぴと)か侮らん。(いかづち)に撃たるるを、(なんぴと)か阻むべき。さりながら、われは一言雷神(いかづち)に尋ぬることあり。子に今生の(つみ)ありと言ふならば、わが子は今年わづかに十五[30]。子に前生の(つみ)ありと言ふならば、なにゆゑぞ今生土より出でしめし。雷神(いかづち)よ、雷神(いかづち)よ、何をや語る」。祭りおわると、その文を黄色い紙に書いて焚いた。するとたちまち霹靂がふたたび轟き、その子は活きかえった。

王介眉侍読は習鑿歯[31]の後身であること
 わが郷里の孝廉王介眉[32]は、名を延年といい、ともに博学鴻詞に推薦された[33]。若いとき夢を見て、とある部屋に行ったところ、秘書古器が、たくさん並んでいた。榻には一人の(おきな)が坐しており、短躯で白鬚(しらひげ)、客を見ても起たず、語りもしなかった。もう一人は頭が大きくて色黒、介眉に揖すると「わたしは、漢の陳寿だが、『三国志』を作り、劉を貶め、魏を帝としたのは、ほんとうに下心なくしたことだ。ところが、後の人々は心にもないことを述べたと言っている」と言い、榻の上の人を指して言った。「この彦威先生が『漢晋春秋』で正してくださった。おんみは先生の後身で、聞けば『歴代編年紀事』を撰しているとか。夙根[34]があるのだから、励んで書き上げるべきだ」。そう言うと、手ずから一巻の書を授け、六つの絶句を題させて目覚めさせた。目覚めた後は「慚づらくは『漢晋春秋』の筆なきを、などかは言はめ前生は彦威なりしと」という二句を憶えているだけだった。後に介眉は齢八十余にして、撰した『編年紀事』を進呈し、翰林侍読を賜わった。

周若虚
 慈溪の周若虚は、長らく科挙に合格せず、城外の謝家店で勉強を教えること四十余年、村内の長幼は、みな授業を受けたことがあった。ある日、夕飯の後、居候先でひとり坐していると、学生の馮某が進み出て揖し、大事な頼みごとがあるから、家に来てくれと言った。言いおわると別れを告げたが、言葉や顔色は、とても悲しげであった。若虚は馮某がすでに死んでいるのだから、見た者は鬼だと思い、思わず大いに驚き、すぐにその家に行った。
 馮某の父夢蘭は門の外に佇んでいたが、若虚を見るとすぐに挽き留めて、ささやかな酒宴となった。若虚も事情を語らず、世間話をした。気が付けば三鼓を過ぎ、家に戻ることができなくなっていたので、夢蘭は若虚を引き止め、楼の上に泊まらせた。真ん中の()に榻を設けたが、隣は馮某の妻王氏の部屋で、かすかに哭き声が聞こえるようであった。若虚は燭を秉って寝なかった。見ると楼の階段の上に青い衣の婦人がおり、しばしば頭を伸ばして窺っていた。はじめは半面を現し、ついで全身を現した。若虚が怒鳴って「誰だ」と尋ねると、その女は声を獅オくして「周先生、もうお休みになるべきでしょう」と言った。若虚が「わたしが眠ろうと眠るまいと、おまえとは関わりはない」と言うと、女は「わたしが誰であろうと、先生と関わりはありません」と言い、すぐにざんばら髪となり血を滴らせ、縄を持って飛びかかってきた。若虚は驚いて倒れそうになったが、たちまち背後から人が手で支えて「先生、怖れられますな。学生(わたくし)がこちらでお守りいたします」と言った。じっくり見ると、すでに亡くなった馮生だったが、すぐに見えなくなってしまった。
 若虚が叫ぶと、その父の夢蘭が燭を持って楼に上ってきたので、若虚はくわしく見たことを話した。夢蘭はすぐに嫁の王氏に呼びかけて入り口を開けさせようとしたが、物音はしなかったので、扉をこじ開けて入ると、すでに梁に懸かっていた[35]。若虚がいっしょに救うと、一時あまりで蘇った。午前中、王氏は小姑と争い、翁に罵られ、早まって命を軽んじたために、悪鬼が機に乗じてやってきたのであった。その夫は泉下でそのことを知ると、若虚に助けを求めたのであった。

葛道人が風で手を洗うこと
 葛道人は、杭州仁和の人、家はやや裕福で、性来道術を好んでいた。年が五十を過ぎると、身代を分け、半分を子に与え、半分を持って旅した。銭塘江を過ぎ、天台山に入ろうとすると、路で一人の(おきな)が拱手して言った。「おんみには道骨があるから、道を学ばれてはいかがか」。葛はともに談じ、たいへん悦んだ。(おきな)は「わたしは福建の人で、天文に精通し、欽天監で役人をしていたが、辞職、帰郷して二十年になる。お嫌でなければ、明春おんみを家で待つことにしよう」と言い、住所を書いて与えた。
 葛は翌年、期日通りに訪ねていったが、遇えなかったので、がっかりして戻ろうとした。晩に旅店に入ると、今度は道士に会った。風采は立派で清らかであったが、夜もすがら一言も発しなかった。葛は近づいて語り合い、仙人を訪ねるために来たことを述べた。道士は言った。「お志がおありなら、おんみを推薦して廬山に入れよう。わたしの師兄の雲林先生に会えば、おんみの師となることができよう」。葛は推薦状を貰って往ったが、深山の中を十余日進んでも、人には会えなかったので、ひそかに訝った。
 ある日、山の洞窟の中に一人の老人が坐しており、手で風を招きながら髪を洗う動作をしていた。葛は訝り、道人の手紙を広げて座下で拝礼した。老人は言った。「来るのが早すぎる。人の世に未了の縁[36]が三十年ある。とりあえず経一巻、法宝一件を与えるから、山を出て、経を誦えて、宝を守り、世人を救い、三十年後、ふたたび山に入るなら、道を伝えることができよう」。葛が「手で風を招いているのはなぜですか」と尋ねると、「神仙の術を修めた者は、食べるときは火を用いず、(ゆあみ)するときは水を用いぬ。風を招いているのは手を洗うためなのだ」と言い、葛を導いて山から出してやった。歩いて半日もしないうちに、もう南昌の大路に着いていた。
 家に行くと、葛道人はその術を学んだが、鬼を治め、(あやかし)を従えることができた。いわゆる法宝とは、鵝子石[37]で、隙間があり、すこぶる人の眼に似て、光芒があり、みずから動くことができ、閃閃と瞬きをしているかのよう[38]。葛も軽々しく人に示さなかった。

沈姓の妻
 杭州に沈姓の者がおり、運司署[39]の前に住み、葛道人と仲良くしていた。その長子旭初は、妻が妊娠していたが、道人に男か女かを詢ねた。道人は命じた。「水一碗を取ってこられよ」。沈が水を与えると、(つくえ)の上に置いた。道人は黙って呪文を数回誦え、耳をそばだててしばらく聴くと、額に皺を寄せ「どうしよう。どうしよう」と言った。沈が驚いて事情を尋ねると、「奥さまは間もなく災難に遭い、恐らくは命を失われますので、男か女かを問題にする暇はございません」と言った。沈がふだんから道人が優れていることを知っていたが、その妻はとても健やかだったので、半信半疑であった。
 まもなく、沈の妻は燈を持って楼に上ると、たちまち大声で痛いと叫んだ。舅姑が夫とともに急いで見にゆくと、すでに(とこ)に臥してのたうっていたが、笑顔を作って「今日はわたしの恨みを晴らした」と言った。その声は紹興の人のようであった。沈夫妻が取り囲んで尋ねると、「みずから怨みに報いたのだ。おまえとは関わりはない」と答えた。沈は急いで次子某に命じて道人を呼びにゆかせた。道人はやってくると、米一碗を取り、口で呪文を誦え、手で米を撮み、病人を撃った。病人は畏れて「わたしは符命を奉じて怨みに報いたのです。道人さま、打たないでください」と言った。道人は言った。「どのような怨みがあるのだ」。病人は答えた。「わたしは、山陰の者でございます。この女は前生はわたしの隣家の女でございました。わたしは当時四歳でしたが、たまたまその家で遊んでいたとき、お碗を砕いてしまったのです。かれはわたしの母が間男の某と交際し、この悪い児を生んだのだと罵りました。わたしは母に訴えましたが、母はわたしがその事を漏らすのを恐れ、わたしを鞭打って死なせたのです。わたしを死なせた者は、この女なのです。わたしは長いこと怨み、今回ようやく捜しあてたのです」。道人は沈に告げた。「怨みに報い、命を奪う事は、すべて東岳[40]が掌管していますから、岳帝に訴え、救う許可を得て、はじめて法術で懲らすことができます。そうしなければ救うのは難しいでしょう」。沈は早朝、法華山の岳帝廟に赴き、黙ってその事を訴えたところ、上上の籤を得たので、帰って道人に告げた。その時胎児はすでに生み落とされていたので、道人は穢れを嫌い、部屋に入ろうとしなかった。沈一家が哭いて頼むと、道人は榻の前に行き、彩雲を召し、護符一枚を書き、「美しいか」と尋ねた。病気の女は「はい」と答えた。道人が「出して観てはどうだ」言うと、「はい」と応えた。道人はすぐに捏訣[41]し、空に向かって捕まえる動作をすると、「捕まえた」と言い、楼を駆け下りて去った。病人は昏迷から醒めたようで、「全身がどうしてとても痛いのでしょう。お腹がとても空いています」と言った。左右の人々は食べ物を与えた。
 落ち着いて半刻も経たないうちに、また哭いて言った。「おまえはわたしの孫を連れ去ったのだから、わたしはこちらで、やはりおまえの命を取ることができるぞ」。そう言うと、元通り狂ってしまった。口から発せられる声は様々だったが、すべて杭州訛りであった。その中の一鬼が言った。「わたしたちは張爺さんが迎えにくるが、おまえの家が斎食で追善するなら、すぐに去ろう」。沈が僧を迎えて施餓鬼すると、人々は礼を言ってやまなかった。突然、張老という者の声になり「わたしは正客なのに、どうしてわたしを軽んじるのだ。人々の饅頭はみな菜心[42]なのに、わたしだけ豆沙(あんこ)が多くて菜心が少ないぞ」と言った。沈が置かれている張老の位牌の前を見たところ、言われた通りであったので、換えてやり、去ることを求めたが、結局去ろうとしなかったので、また道人を呼んできた。道人は桃の枝一本を授けると、「騒いだら打ちなさい」と言った。沈はそれを持って入ると、病人を打とうとした。女は哀しげに「打たないでください。去りましょう。去りましょう」と叫んだ。道人は門の外に立ち、あらかじめ一つの甕を置いていたが、空に向かって「すぐにこの中に入れ」と罵った。護符一枚を用いてその口を封じ、持ち去ると、沈の妻は癒えた。
 半年後、ある人が理安寺で道人に遇ったが、僧たちは道人を担いで空き部屋の中に行くと、七昼夜、土や木に触れさせなかった。口からは黒い汁数升を吐き、衣服を汚したが、色は血のようであった。そして人々にこう告げた。「わたしは童貞の身を産婦の穢気に汚された。さいわい長老たちが済度してくださったが、そうでなければ、堕落していたことだろう」。

(もののけ)が爆竹を弄びみずから焼けること
 紹興の民家に楼があり、終年閉ざされていた。ある日、遠来の客が宿を求めにきた。主人は言った。「家の東に楼がございますが、泊まる勇気はございますかな」。客が事情を尋ねると、こう言った。「この楼にはもともと輜重が積まれており、二人のしもべが居りました。夜半に叫び声が聞こえましたので、見にゆきますと、二人のしもべは顔色が土のよう、震えて話すことができませんでしたが、まもなく『わたしたち二人が眠ったばかりで、まだ燭が消えていない時、身の丈一尺ばかりの妖物、人の世の石敢当[43]のようなものが、榻の前に来て、(とばり)を掲げて上ってこようとしたのです。わたしたちはとても驚き、思わず大声で叫ぶと、狂ったように奔って下りてきたのです』と言いました。見たことはこのようなことでございます。それからは楼に住もうとする者はおりませぬ」。客はそれを聞くと笑って「わたしがみずから試してみましょう」と言った。主人は引き止めることができず、塵土を洗い、几席を並べ、榻を置いてやった。客は楼に登り、燭を燃やし、剣を佩びて待っていた。
 三更になると、そろそろという音が部屋の北の隅から聞こえた。瞳を凝らして窺うと、主人が言った通りの姿の(もののけ)が、座席に跳びのり、客の書物を捲っていた。しばらくすると、さらにその篋を啓き、物を(つくえ)の上に並べ、逐一じっくり見ていた。篋の中には徽州の爆竹数個があったが、(もののけ)はそれを持って燈の前に行くと、しばらく弄んだ。火が飛んで導火線に落ちると、轟然たる響きは霹靂のよう、(もののけ)唧唧[44]と地に転がり、没して見えなくなってしまった。大いに訝り、また来るのを恐れ、夜が明けるのを待ったが、姿は見えず声は聞こえなかった。
 朝、主人に告げると、たがいに驚き訝った。夜になると、客は楼の上に宿ったが、何も居なかった。その後、楼の中に(もののけ)はいなくなった。

喀雄
 喀雄は、姓を楊といい、父は守備[45]であったが、早くに亡くなった。表叔[46]の周某は、副将となり、河州[47]を鎮めていたが、孤児を憐れみ、養育した。周には娘がおり、年は同じくらい、雄が若くて賢いのを見ると、すこぶる愛し、しばしばともに飲食した。周は家の決まりがとても厳しかったので、そのほかの事はなかった。
 務子という者がおり、やはり周の親戚で、書斎に寝泊まりしていた。夏、雄が熱さに苦しみ、月下を徘徊していたところ、周の娘が冉冉としてやってきて、ともに歓を成した。翌日、奥に入ると、娘は朝化粧していた。雄がそれを見て笑うと、娘も笑いながら迎えた。それからはやってこない日はなかった。務子は部屋の中から笑いさざめく声がしたので、訝って窺うと、雄が周の娘と親しんでいたので、大いに妬み、ひそかに周公に告げた。周が家に入り、その夫人を責めると、夫人は「娘は毎晩わたしと(とこ)をともにしていますから、さような事はございません」と言った。周はそれでも疑わしいと思い、ほかの事に託けて雄を杖で打ち、追い出した。雄は頼りにする人がなかったので、蘭州の古寺に身を寄せた。
 ある日、女がたちまちやってきたが、持ってきた輜重はとても豊富であった。雄が驚いたり喜んだりして「どこから来たのだ」と尋ねると、「叔父といっしょに来たのです」と言った。周公の弟で名をムという者がおり、やはり武官で、蘭州守備に昇任していた。雄は深く信じて疑わず、女とともに居ること半月、揚揚として金持ちのようであった。叔父は着任した後、途で雄に遇うと、喜んで「こちらにいたのか」と言った。「はい」と言うと、叔父は馬に鞭うってその家に来たが、出てきて拝礼した甥の妻が、周の娘であったので、大いに驚いて事情を尋ねた。雄がくわしく事情を語ると、ムは「来る時には、役所で娘がいなくなったとは聞かなかった。兄さんが隠すはずはないのだが」と言った。数日すると、公務にかこつけて河州に戻り、くわしくその事を述べた。周は大いに驚き、「娘はちゃんと部屋に居り、さきほどいっしょに食事した。そのような事があるはずがない。狐仙に騙されているのではあるまいか」と言った。夫人は「狐に娘の名を騙られ、閨門を汚されるより、ほんとうの娘を娶せた方が良いでしょう。いかがでしょうか」と言った。周兄弟二人はその通りだと思い、すぐさま雄を呼び戻し、結婚させた。
 合巹の晩、西寧の女はさきに部屋に居た。雄は茫然として為す術がなかった。女は笑って「何を慌ててらっしゃいます。わたしは狐ですが、ほんとうに徳に報いるために来たのです。お祖父さまが将軍をされていた時、土門関で狩りをなさいました。わたしは矢に貫かれ、捕らえられましたが、お祖父さまは矢を抜いて逃がしてくださりました。しばしばご恩に報いようといたしましたが、手を下す術がございませんでした。近頃、あなたが周さまの娘さんを愛されたのに結婚できないことを知りましたので、やってきて氷人(なかだち)となり、あなたの願いを叶えたのです。それにあなたと周さまの娘さんとは宿縁がございます。そうでなければ、わたしもお力添えすることができませんでした。媒酌をすでに成しとげましたから、去りましょう」と言うと、たちまち見えなくなった。

常熟の程生
 乾隆甲子(きのえね)の年、江南の郷試でのこと、常熟の程生は、年は四十ばかり、一次試験で号房に入ったところ、夜にたちまち驚いて叫び、精神病に罹った人のようであった。同じ号房の生員たちは憐れんで尋ねたが、うなだれて答えなかった。昼前には、考籃[48]を整理し、白紙答案を投じ、退場を希望した。同じ号房の生員たちはその趣意が分からず、裾を牽いて無理に尋ねると、「疚しい事が発覚してしまったのだ。わたしは三十になる前、さる貴人の家で家庭教師をしていた。弟子四人は、すべて主人の子や甥だった。柳生という者は、年は十九、(かお)が美しかったので、わたしは慕い、交わろうとしたのだが、(すき)がなかった。たまたま清明節のとき、生徒たちは家に帰り、墓参りしていたが、柳生だけはわたしと差し向かいでいた。わたしは詩で挑みかかった。『(ぬひとり)(ふすま)(たれ)臥所(ふしど)なる。逢ふは(えにし)のあればなり。麗しき玉樹に臨む、(おほとり)の棲むを許すや』。柳はそれを見ると顔を紅くし、丸めて嚼んだ[49]。わたしはその気があると思い、酒を強い、かれが酔うと交わった。五更になると、柳は目醒め、すでに汚されたことを知ると、大いに慟いた。わたしは慰めると、ぐっすり眠った。夜が明けると、柳はすでに(とこ)のほとりで縊死していた。家人はそのわけが分からず、わたしも事情を言うわけにゆかず、涙を飲むばかりであった。ところが昨日号房に入ると、柳生がさきに号房に坐していた。傍には一人のp隸がおり、わたしと柳を牽いて冥府に行った。お役人が堂上に坐していたが、柳はしばらく訴えごとをし、わたしも罪を認めた。神は判決を下した。『法律の記載によれば、鶏奸[50]した者は汚物を人の口に入れたときの条例に照らし、杖うち百回とする[51]。おまえは人の師でありながら、心掛けが淫邪であるから、一等の処罰を加えるべきだ。おまえは両榜[52]になり、官位も得る運命だったが、すべて削り去ることにしよう』。柳生は争って言った。『このものは命を償うべきです。杖刑は軽すぎます』。陰官は笑って言った。『おまえは死んだが、程に殺されたのではない。おまえが従わなかったために程がおまえを殺したのなら、いかなる罪でも贖えぬがな。それにおまえは男子で、上には老母が居るのだから、とても大事な体であるのに、婦女のように、怒りのあまりに命を軽んじることはできないぞ。『易』は『窺ひ観るに女の(ただ)しきも、また醜とすべきなり』[53]と称している。古来朝廷は烈女を表彰しても貞童を表彰したことはない、聖上の立法の趣旨を、どうして熟慮しないのだ』。柳はそれを聞くと大いに悔い、両手でみずからを打ち、涙を雨のように落とした。神は笑って言った。『おまえが迂愚であることを考慮して、山西の蒋善人の家に送って節婦とし、かれのためにつつしんで閨門を守らせ、表彰を受けさせることにしよう』。判決すると、わたしを三十回の杖うちにし、蘇らせ、依然として号房の中に居させたのだ。今は尻が痛くて、文を作ることができないし、文を作っても、合格しないだろう。去らないでどうする」と言い、唸りながらよろよろと去っていったのであった。

怪風[54]
 涼州の大靖営の松山は、沙漠の中にあり、古戦場であった。将軍塔思哈(タスハ)は公務のために兵を率いてそこを通ったが、白い草に黄の雲、一望すれば果てしなかった。ふとある山を見たところ高さは千仞、中に万点の火の玉があり、日を蔽いかくしながらやってきたが、音は雷霆のよう、人馬は色を失った。哈は大いに驚き、山が動いたかと思った。にわかに近づいてきたため、避ける暇はなく、ともに馬を下り、目を閉ざし、地に蹲り、抱きあっていた。まもなく、天地は墨のようになり、人々は地に転がり、馬も倒れたが、しばらくするとようやく静かになった。麾下の三十六人は、満面すべて血、石は面皮に食い入り、深さは半寸であった。振り返って高い山を望むと、すでに数十里離れたところにあった。日が暮れると、大靖営に行き、総兵馬成龍に告げた。馬は笑って言った。「これは風の(もののけ)で、山が動いたのではない。山が動いたのであれば、おんみらは死んでいたろう。このような風は、塞外では冬になるとしばしばあるが、命を傷うことはないのだ。ただ、おんみらは沙石に撃たれ、これからはみな痘痕面に成ってしまうから、年貌冊[55]を造りなおさなければならんな」。

孝女
 京師の崇文門外、花児市の住民たちは、通草の花[56]を作るのを生業としていた。老いた父を世話する幼い娘が居り、やはり花を作って生活していた。父はながいこと病んで起きず、娘は寝食を廃し、おもてむきは慰めながらもかげでは憂えていた。たまたま隣家の媼が女たちを集めて丫髻山[57]へお参りにゆくことになると、娘は尋ねた。「お参りすれば父の病を癒すことができますか」。媼は言った。「誠心誠意祈祷すれば、霊験は響くかのようだよ」。娘が「こちらから山まで、道のりはどれほどでしょう」と言うと、「百余里だよ」と言った。「一里とはどれほどでしょう」と言うと、媼は「二百五十歩だよ」と言った。娘はつつしんでそれを記憶し、夜が静まり父が寝るたびに、一本の香を持ち、みずから歩数里数を数え、中庭を繞って叩頭し、自分は娘なのでお山参りすることができないことを黙って告げた。このようにすること半月あまりであった。慣例では、丫髻山は碧霞元君[58]を祀っており、王公や貴人は、四月になるたびに、みなお参りしていたが、鶏が鳴くとすぐに殿舎に上って供える香を頭香といい、頭香はとても富貴な人が供えるものと決まっていて、庶民は出過ぎたことをしようとしないのであった。時に太監張某は頭香を供えにいったが、殿舎を開くと、すでに香が炉の中にあった。張が怒って廟主を責めると、廟主は「殿舎は開けておりませぬ。この香がなぜ供えられているのかは分かりませぬ」と言った。張が「過ぎたことは咎めまい。明日、頭香を供えにくるから、待っておれ。他の者をさきに入らせないようにしろ」と言うと、廟主は諾々としていた。
 翌日、四更になると、張ははやくもやってきたが、炉の香はやはりもう供えられていた。一人の娘が礼拝して地に伏しており、人の声を聞くと、たちまち見えなくなった。張は言った。「神前に堂々と鬼怪が現れるはずはない、これにはきっとわけがあろう」。二山門[59]の外に坐すると、参拝客たちを聚め、目にした容姿や服装をくわしく述べた。一人の媼はそれをしばらく聴くと、言った。「ご覧になったことからしますと、隣の娘の某でございます」。そして娘が家で父を救うために礼拝している事を話した。張は賛嘆した。「それは孝女で、神さまが感動されたのであろう」。お参りがおわると、すぐに馬に鞭うって娘の家に行き、手厚く賜わり物をし、義女にしたところ、父の病はたちまち癒えた。太監が援助したため、家はだんだん豊かになり、娘は大興の張氏に嫁ぎ、富商の妻となった。

老嫗が狼に変わること
 広東崖州の農民孫姓の者は、家に母がおり、年は七十あまりであった。たちまち両腕に毛が生え、だんだんと腹や背に及び、さらに手や掌に及び、長さは一寸あまりであった。体はだんだんと傴僂(せむし)になり、尻の後ろには尾が生えた。ある日、地に倒れると白い狼に化し、門を衝いて去っていった。家人はどうしようもなく、行くに任せたが、一月か半月ごとに、かならず家に還ってその子や孫を見、昔通りに飲み食いするのであった。隣人たちはそれを憎み、刀や箭を取って殺そうとした。その嫁は豚足を買い、ふたたびやってきた時に、頼んだ。「お義母さま、これをお享けください。これからはふたたびいらっしゃることはございません。わたしたち子や孫は、お義母さまが家を思われるのに、悪意がないことはよく分かっておりますが、近所の人々は知ることができません。刀や箭で傷つけられれば、嫁のわたしはどうして耐えることができましょう」。そう言うと、狼はしばらく哀号し、あちこちを見てまわると、出てゆき、それからは、やってこなかった。

義犬の魂が附くこと
 都の常公子某は、若くて(かお)が美しく、一匹の犬を可愛がっていた。名は花児といい、外出するときはお供していた。春の日、豊台で花見したときのこと、帰るのが遅くなり、人々は散じていたが、三人の不良少年が地に坐り、騒ぎながら飲んでおり、公子が美しいのを見ると、邪な言葉でからかい、はじめは衣を牽き、ついで接吻した。公子は恥じらい、怯えながら遮ったが、力では拒むことができなかった。花児は吠え、躍り出て咬みついたが、不良少年が怒り、巨きな石を取って撃つと、花児の頭に中たり、脳漿が迸り、樹の下で死んでしまった。不良少年は憚ることなく、帯を解き、公子の手足を縛り、下着を剥ぎとった。二人の不良少年はその背を踏み、一人の不良少年は袴を下ろし、その臀を押さえ、姦淫しようとした。するとたちまち皮膚病の犬が林の中から飛び出してきて、背後からその陰嚢を咬んだので、二つの睾丸はいずれも落ち、血は流れ、地に満ちた。二人の不良少年は大いに驚き、傷ついた者を抱えて帰ってしまった。その後、通行人がやってきて、公子の縛めを解き、下着を与えたので、はじめて家に帰ることができた。花児の義に感じ[60]、翌日往ってその骸を収め、塚を立ててやった。
 夜、夢みたところ花児が来て、人の言葉で言った。「(わたくし)はご主人さまのご恩を受け、報いようとし、悪人に打ち殺されてしまいましたが、一霊は滅びることなく、魂が豆腐屋の皮膚病の犬の体に附いて、あの悪者を殺したのです。(わたくし)は死にましたが、心は安らかでございます」。そう言うと、哀号して去った。公子が翌日豆腐屋を訪ねてゆくと、皮膚病の犬がいた。店主は「この狗は衰弱し、病んでいますし、老いてもいます。昔から人を咬まなかったのですが、昨日、家に帰ってきたとき、口じゅうが血だらけでした。どうしてなのかは分かりません」と言った。人に訪ねさせたところ、不良少年は家に着くと死んでいた。

白虹の精
 浙江の塘西鎮丁水橋の船頭馬南箴は、小舟に棹さして夜進んでいたところ、女を連れた老婆が渡してくださいと叫んでいた。舟の中の客たちは拒んだが、船頭は言った。「真夜中にご婦人が帰れずにいるのですから、渡すのも陰徳でございましょう」。老婆は娘を連れ、返事すると上ってきたが、船室に坐すると、黙して語らなかった。時に初秋で、斗柄[61]は西を指していたが、老婆はそれを指さして娘を顧みると笑って言った。「猪郎がまた手で西を指しているが、このように風気に従うことを好むとはね」。娘は言った。「違います。七郎君はやむをえぬことがあるのです。時に従って移らなければ、世の人々は春秋を識ることができないでしょう」。船客はその言葉を訝り、目を瞠り、愕いて振り返った。婦人と娘は平然として、まったく意に介さなかった。舟が北関門に近づくと、空はすでに明るくなっていたが、老婆は嚢の中の大豆一升ばかりを出して船頭に謝することにし、麻布一枚を解いて豆を包んで与えると、言った。「わたしは姓を白といい、西天門に住んでいますが、後日わたしに会おうとなさるなら、足で麻布の上を踏みさえすれば、天に昇ってわたしの家に行くことでしょう」。そう言うと見えなくなった。船頭は(あやかし)だと思い、豆を野に撒いた。
 家に帰ってゆき、その袖を捲ると、なお数粒の豆が残っていたが、すべて黄金であったので、悔やんで言った。「あれは仙人ではなかろうか」。急いで豆を棄てた処に奔っていって捜したところ、豆はなかったが麻布はまだ残っていた。足で踏むと、冉冉として雲が生じ、軽やかに挙がるように感じた。見れば人々の村が、ありありと足元を通り過ぎていた。とある場所に着くと、瓊宮[62]絳宇[63]、若い青衣[64]が戸の外に侍しており「若さまがお越しです」と言った。入ると、老婆が介添えされながら出てきて、言った。「わたしはおんみと宿縁があり、娘はおんみにお仕えしようとしております」。船頭が不釣り合いだと謙遜すると、婦人は言った。「連れ合いは滅多に得られるものではございません。縁のあるものが連れ合いにございます。わたしが渡してくださいと叫んだ時、縁はわたしから生じ、おんみが渡そうとされた時、縁はおんみから起こったのです」。話していると、笙歌が流れ、酒肴が並び、婚礼はすでに調った。船頭は居ること一月あまり、恩愛はとても厚かったが、家を思わずにはいられなかった。娘に謀ると、娘は足で布を踏むように言ったので、雲に乗って帰ることができた。船頭は言われた通りにし、丁水橋に帰った。同郷の親戚たちは聚まって観にきたが、かれが天から下ってきたことを信じなかった。
 その後しばしば往き還りしたが、いつも一枚の布を車馬(あし)にした。船頭の父母はそれを憎み、ひそかにその布を焚いたところ、異香は数ヶ月散じなかったが、往来はそれから絶えてしまった。ある人が言った。「姓を白という者は、白虹の精だ」。

冷秋江
 乾隆十年、鎮江の程姓の者は、糸を売るのを生業としており[65]、夜に象山から帰った。山麓を過ぎると、荒れ塚が累累としていたが、子供が草の中から出てきて、その衣を牽いた。程は鬼であることが分かったので、怒鳴ったが、去らなかった。まもなく、もう一人の子供が出てきて、その手を執った。前の子供は西側に牽いていったが、西側はすべて塀で、塀の上には簇簇然[66]として黒い影が群れを成し、泥を擲っていた。後の子供は東に牽いていったが、東側も塀で、塀の上では啾啾然として哭く鬼が群れを成し、(すな)を撒いていた。程はどうすることもできず、牽かれるに任せていた。東の鬼と西の鬼ははじめは嘲けり笑い、ついで騒ぎ争った。程はその苦しみに耐えられず、泥の中に倒れ、きっと殺されると観念した。するとたちまち鬼たちが叫んだ。「冷相公が来た。あの人は書物を読み、迂腐で憎らしいから、避けねばならん」。見れば一人の偉丈夫、肩が大きく背が高いものが、闊歩、睥睨しながら、大きな扇を持ち、手を撃って拍板[67]にし、口では「大江東」[68]を唱え、于于然[69]としてやってきたので、鬼たちはすべて散じた。その人は俯いて程を見ると、笑って言った。「邪鬼に弄ばれたのですか。お救いしましょう。わたしについていらっしゃい」。程は起って従ったが、その人は高らかに唱うのをやめなかった。行くこと数里、空がだんだん明るくなると、程に言った。「お家に近づきましたから、わたしは去るといたしましょう」。程が叩頭して謝し、姓名を尋ねると、「わたしは冷秋江といい、東門十字街に住んでいます」と言った。
 程は家に還ったが、口や鼻の孔には泥が満ちていた。家人が香を焚き、洗ってやると、すぐに東門に往き、冷姓の者に謝することにしたが、杳としてその人はいなかった。十字街に行き、左右の隣に尋ねると、言った。「冷家の祠堂があり、その中に位牌が供えてありますが、名は嵋といい、順治初年の秀才でした。秋江は、その号です」。

鬼を釘うつが逃げられること
 句容[70]の捕り手殷乾は、賊を捕らえることで名声があり、毎晩人を寂しい処で伺っていた。ある村に往こうとしたときのこと、縄を持った者が急いで奔ってきて、その背中に衝きあたった。殷はきっと盜人だと思い、尾行した。ある家に行くと、垣を越えて入ろうとした[71]。殷は捕らえるよりも伺ったほうがよい、捕らえてもお上に差し出すだけのこと、褒美を得るとは限らない、出てくるのを待って奪えば、きっと多くの利益を得ようと考えた。
 突然、かすかに女の哭き声が聞こえたので、殷は訝り、垣を越えて入った。見ると一人の女が鏡に向かって化粧しており、梁には蓬頭の者が縄を掛けていた。殷はこれは縊死した鬼が身代わりを求めているのだと思い、大声で叫ぶと窓を破って入った。隣近所が驚いて集まってくると、殷はくわしく事情を話した。見れば女が梁に懸かっていたので、それを救った。女の舅姑はやってきて礼を言い、酒を調えて持てなした。人々が散じた後、もと来た路を帰ったが、空はまだ明けていなかった。すると、背後ですうすうと音がしたので、振り返ると、縄を持った鬼がおり、「わたしは自分で女を捕まえ、おまえとは関係ないのに、わたしの術を破るとは」と罵り、両手で打った。殷はもともと胆が太かったので、殴り合ったが、拳が当たる処は冷たく腥かった。空がようよう明るくなると、縄を持った者はだんだん疲れ、殷はますます勇を奮い、抱きかかえて放さなかった。路行く人が見たところ、殷は一本の朽木を抱き、大声で罵っていた。進み出てじっくり見ると、殷ははっとして夢から醒めたようになり、朽木も地に墜ちた。殷は怒って「鬼はこの木に附いているから、赦さんぞ」と言い、釘を取ると庭の柱に打ち付けた。毎夜哀しげに泣く声が聞こえ、ひどく痛々しかった。
 幾晩か過ぎると、やってきてともに語る者、お悔やみを言う者、代わりに恩情を乞う者がいた。啾啾然として声は子供のようであったが、殷はまったく取り合わなかった。その中のある鬼が言った。「さいわい主人は釘でおまえを打ち付けた。縄でおまえを縛っていたら、おまえはますます苦しんでいただろう」。鬼たちは騒いだ。「言うな。言うな。秘密を漏らせば、殷が知恵を付けてしまうぞ」。翌日、殷は話の通りに縄を釘に易えた。晩になると、鬼の泣く声は聞こえず、翌日朽木を見ると、逃れ去っていた。

桜桃鬼
 熊太史本[72]は、京師の半截衚衕[73]に仮住まいし、荘編修令輿[74]と隣合わせで、毎夜酒盛りし、たがいに交際していた。
 八月十二日の夜、荘は酒を調えて熊と飲み、賓主はともに坐していた。すると突然桐城相公[75]が人を寄越して荘を招いていってしまった。熊はかれがすぐに帰ってくるのを知っていたので、独酌して待っていた。ひとりで一杯を斟いで(つくえ)の上に置いたが、飲まないうちに、杯はもう空になっていた。はじめは自分が忘れたのかと疑い、さらに一杯を斟いで伺っていた。すると藍色の巨きな手が(つくえ)の下から伸びてきて杯を探った。熊が立ち上がると、藍の手の者も立ち上がった。その人は頭、目、顔、髪、一つとして藍色でないものはなかった。熊が大声で叫ぶと、両家の奴隷はみなやってきたが、燭で照らすと、何もいなかった。荘は帰ってきてそのことを聞くと、戯れて熊に言った。「こちらに泊まる勇気はあるかね」。熊は年若く豪毅だったので、すぐに童僕に(ふすま)を持ってこさせ、枕と榻の上に置くと、童僕を追い出し、ひとり剣を持って坐していた。剣は、大将軍年羹堯[76]の贈ったもので、青海を平定したときに無数の人を殺傷したものであった。時に秋風は怒号し、傾く月は冷たく照り、榻には緑の紗の帳、空は明るく澄みきっていた。街鼓[77]は三更を告げていたが、心は(もののけ)に怯えていたため、寝ることができなかった。するとたちまち(つくえ)に鏗然と一つの酒杯が擲たれ、さらに鏗然と一つの酒杯が擲たれた。熊は笑って言った。「酒を盗む者が来たわい」。にわかに一本の脚が東の窓から入ると、一つの目、一つの耳、一本の手、半分の鼻、半分の口がそれに続いた。一本の脚が西の窓から入ると、一つの目、一つの耳、一本の手、半分の鼻、半分の口がそれに続いた。人の体を真ん中で二つに鋸引きにしたかのようで、ことごとく藍色であった。にわかに合わさって一つになり、睒睒然と帳の中を睨むと、冷気はようやく逼り、帳はたちまちひとりでに開いた。熊が起ち、剣を抜いて斬ると、鬼の臂に中たったが、襤褸綿に触れたかのよう、まったく音はしなかった。奔って窓から逃れ去ったので、熊が追ってゆくと桜桃の樹の下で消えた。
 翌朝、主人は起きると、窓の外に血痕があったので、急いで詢ねにきた。熊が事情を告げると、桜桃の樹を斬って焚いたが、なお酒気を帯びていた。窓の外には門番がいたが、老いており、(つんぼ)(めしい)、臥している窓辺の榻は鬼が出入りし、通り過ぎる場所であったが、聞いたり見たりすることはなく、鼾は雷のようであった。
 熊は後年八十歳になり、長子は浙江巡撫[78]、次子は湖南に監司[79]となったが、つねに笑いながら人に言った。「わたしは胆気、福気が妖怪に勝っていたが、(つんぼ)(めしい)の門番がもっとも妖怪に勝っていた」。

鼠が林西仲を齧ること
 福建の耿藩の変[80]の時のこと、廈門の司馬林西仲[81]は降らず、縛られて獄に入れられた。西仲はもともと小さな肖像に描かれていたが、たちまち鼠に齧られてその首を断たれ、頚の周りには刀で截られたような筋があった。家人は哭き叫び、不吉であると考えた。まもなく、王師は耿を破り、西仲を獄から出し、その官位に復させ、三級を加えた。西仲が家に還ると、家人は酒盛りし再起を慶んだ。その晩、鼠たちはちゅうちゅうととても忙しくし、物を担いできて(つくえ)の上に置くと去った。見れば、銜え去った小像の頭で、持ってきて西仲に還したのであった。

最終更新日:2008418

子不語

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[1] 呪術によって人や物を操ること。

[2] 天啓二年進士。武進の人。

[3] 安徽省の県名。

[4] 数万両ということであろう。

[5] 原文「不拘來客、皆就食焉」。未詳。とりあえずこう訳す。

[6] 煉銀術を行う際、もとになる銀のことであると思われるが未詳。

[7] 利子のこと。ここでは銀母をもとに作られる銀のことであろう。

[8] 二番目の男子の家。

[9] 千万両ということであろう。

[10] 原文「於是、石家兄弟以全數與之」。訳文は正しいのであろうが、文脈には合わない。

[11] 按察使。

[12] 湖北省の府名。

[13]先祖代々の交際がある者。世交。

[14] ハルハ。蒙古。

[15] 蒙古人の住居。ゲル、パオと呼ばれるもの。

[16] 原文「莝豆」。豆を草に混ぜて秣を作ること。

[17] 脈の一つ。会陰部から背中、頭頂を経て口元までつながっている脈。謝観等編著『中国医学大辞典』千四百五十一頁参照。

[18] 原文「而以尾撲之作抽疊状」。「以尾撲之」は鴨が総排泄孔を楊貴の肛門に着けようとする動作であろう。「抽疊」は未詳。とりあえずこう訳す。「抽」はひっぱたくの意に解す。「疊」は覆い被さるの意に解す。いずれにしても鳥が交尾するときの動作であろう。

[19] 大亀。一説に雌亀。

[20] 原文「家住水溝頭」。「水溝頭」は地名かも知れないが未詳。とりあえずこう訳す。

[21]羅芝芳。乾隆十六年進士。

[22] 主語は李。

[23] 乩は占卜の一種。乩。扶鸞。丁字形の木組みを用意し、水平の両端を二人で支え、垂直の部分に付けた筆が、下にある、砂を入れた乩盤という皿に書く字によって神意を得ること。胡孚琛主編『中華道教大辞典』八百三十二頁参照。乩仙は扶乩によって招き寄せられる神。

[24] 前注参照

[25] 原文「掌教雲南」。「掌教」は府学、県学の教官となること。

[26] 清代、礼冠の総称。周汛等編著『中国衣冠服飾大辞典』八十三頁参照。図:『清俗紀聞』

[27]杭州の東北門。

[28] 無縁墓。

[29] 原文「田隣」。おそらく、所有している田地の隣人ということであろう。

[30] 原文「説是吾兒今生孽、我兒今年才十五」。まだ十五歳の息子が罪を犯しているはずはないという語気を含む。

[31] 晋の人。『晋書』巻八十二に伝がある。

[32] 『清史稿』巻四百九十などに伝がある。

[33]博学鴻詞は清代の官吏登用制度の一つ。正規の科挙とは別に、人材を選抜し、詩賦の試験を主とし、合格者には翰林官を授けた。康煕十八年、乾隆元年に行われた。

[34] 宿根。前世からの根基。

[35] 主語は王氏。

[36]未了の因。仏教語。現世においてまだつきはてない前世の因縁。

[37] 鵝の卵のような形の石。鵝卵石。

[38] 原文「能自動閃閃、如交睫然」。「交睫」は眠ることをいうが、それでは文脈に合わない。訳文の意に解す。

[39] 転運司、塩運司の役所。

[40] 泰山。ここでは東岳大帝のこと。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千四百六十二頁参照。

[41] 道士が術を行うときに、指や掌のある部分を撮む動作をすること。「掐訣」とも。胡孚琛主編『中華道教大辞典』六百七十四頁参照。

[42] 野菜を炒め、片栗粉でとろみをつけた具。

[43] 泰山石敢当。家の入り口や路地に置かれる魔除けの石碑。「泰山石敢当」という文字を刻むが、鬼の顔を刻むこともある。写真

[44] 擬音語、ちいちい。

[45] 武官名。

[46] 名字の違う叔父。

[47] 甘粛省の州名。

[48] 科挙の受験生が試験場に持ち込む道具入れ。

[49] 原文「團而嚼之」。未詳。とりあえずこう訳す。

[50] 男子の同性愛行為。獣奸ではない。

[51] 原文「律載、雞奸者照以穢物入人口例、決杖一百」。未詳だが、汚物を人の口に入れた場合の条例を援用して、杖打ち百回にするという趣旨に解す。条例は判例法。

[52] 郷試と会試の合格者。

[53]原文「窺觀女貞、亦可醜也」。『易』觀「象曰闚觀女貞、亦可醜也。」。

[54] これとほぼ同様の話が『夜譚随録』に見える。

[55] 未詳だが、兵士の年齢や容貌について記した帳簿であろう。

[56] 写真

[57]丫吉山とも。北京市郊外平谷県にある山名。唐代に碧霞元君祠が造られ、乾隆期に建物が完備したが、解放前に破壊された。北京市文物事業管理局編『北京名勝古跡辞典』五百七十八頁参照。

[58]泰山府君の娘。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千五百六頁参照。写真画像元ページへ

[59] 未詳だが、殿舎からみて二番目の山門なのであろう。

[60] 主語はもちろん公子。

[61] 北斗七星の、柄杓の柄にあたる部分の星。

[62] 玉をちりばめた宮殿。張衡『思玄賦』「覿天皇于瓊宮」。

[63] 未詳だが、字義からして赤く塗られた殿宇であろう。

[64] 侍女。

[65] 原文「抱布為業」。「抱布」は『詩経』衛風・氓「抱布売絲」に基づく言葉。お金を持って糸に換えること。「布」はお金。

[66] むらがるさま。

[67] 中国風のカスタネット。写真

[68] 蘇軾の作った『念奴嬌』の詞。出だしが「大江東去」。

[69] 悠然自得のさま。

[70] 江蘇省の県名。

[71] 主語は縄を持った者。

[72] 康煕四十五年進士。江西南昌の人。太史は翰林。

[73] 現在の北京市宣武区、菜市口の南側にある胡同の名。

[74]康煕四十五年進士。江南武進の人。編修は翰林院の官名。

[75] 未詳。

[76] 『清史稿』巻三百一などに伝がある。

[77] 都で、夜回りが時報として鳴らした太鼓。

[78] 熊学鵬。『清史列伝』巻十九などに伝がある。乾隆二十七年から三十三年に浙江巡撫。

[79] 按察使、布政使などをいう。熊本の次子が何という名で、官職が何であったかは未詳。

[80] 耿精忠の乱をいう。

[81] 林雲銘。『国朝耆献類徴』巻二百四十九などに伝がある。司馬は通判の雅称。

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