第五巻

 

城隍が人のために妻を諭すこと
 杭州望仙橋[1]の周生は、儒学を学んでいたが、妻は凶暴で、しばしばその姑に逆らっていた。毎年節句になるたびに、麻衣[2]を着て姑を堂上で拝し、死ぬことを願うのであった。周は孝行であったが懦弱で、妻を制することができず、毎日疏[3]を書いて城隍神に祈り、妻を殺して母を安んじることを願うばかりであった。文章をおよそ九たび焚いたが、験はなかったため、さらに怒りの言葉を書いて、神に霊験がないことを責めた。
 その晩、夢みたところ一人の卒がやってきて、「城隍さまがお呼びだぞ」と言った。周はついてゆき、廟に入って跪いた。城隍は言った。「おまえの妻の不孝はもちろん知っているが、おまえの運命を調べたところ、一人の妻がいるだけで、後妻はおらず、子供二人を授かることになっている。おまえは孝子なのだから、跡取りがなくてはならぬ。そのためひとまずおまえの妻を許しているのだ。おまえは何を騒いでおるのだ」。周は言った。「妻がかように凶悪ですのに、母親をどうしたらよいのでしょう。それにわたしと妻は愛情がすでに絶えていますから、跡取りができようはずもございません」。城隍が「おまえは昔、誰を媒酌にしたのだ[4]」と言ったので、周が「范、陳の二家にございます」と言うと、城隍は二人を捕らえてこさせ、「某女は善良でないのに、おまえたちは仲立ちし、孝子に嫁がせた。悪いことはすべておまえたちのせいだ」と責め、杖で打たせた。二人は承服せず、言った。「わたくしは罪はございません。娘は閨房に居るのですから、賢いか否かをわたくしたちが知る術はございません」。周も代わりに許しを乞い、言った。「二人のものはよかれと思って仲立ちをしただけでございます。媒酌料を目当てにし、嘘をついたのではございません。かれらに何の罪を与えるのでございましょう。愚見では、妻は凶悪ではありますが、鬼神を畏れ、お経を誦え、仏を拝さないことはございません。城隍神さまが妻を呼びよせ、懲戒なされば、不孝を改め、孝行とすることができるかも知れません」。城隍は言った。「それはたいへん良いことだ。ただ、おまえたちは善人だから、良い顔で接しているが、その女は凶暴だから、顔を変えねば、脅すには十分でないだろう。おまえたちは恐れぬように」。藍面の鬼に大きな鎖を持ってその妻を捕らえにゆくように命じると、袍の袖で顔を払い、たちまちに、藍色の顔、朱髪(あかげ)(どんぐりまなこ)に変わった。両脇に、刀、鋸を執る兵卒たちを召したが、みな獰猛凶悪で、油鐺肉磨[5]を、庭に列ねた。まもなく、鬼が妻を牽いてやってきた、妻は恐懼して階の前に跪いた。城隍は声を獅オくしてその罪状を数えたて、帳簿を取って示すと、夜叉に「引きずり出して皮を剥ぎ、油鍋に放り込め」と命じた。妻は哀号して罪を認め、これからは不孝なことをしませんと言った[6]。周と二人の媒酌人が代わりにお願いすると、城隍は言った。「おまえの夫が孝行であることを考慮して、ひとまず許すが、ふたたび罪を犯したときはこのような刑罰があるだろう」。そしてそれぞれを帰らせた。
 翌日、夫婦で夢を照らし合わせたところ、いずれも同じであった。妻はそれからはよく姑を世話し、後にはたして二子を生んだのであった。

文信王
 湖州[7]の同徴[8]の友沈炳震[9]は、かつて書斎で昼寝し、夢みたところ、青い衣の者によってとある中庭に引いてゆかれた。深い竹の茂みの中には、木の(とこ)と素几[10]が設けてあり、(つくえ)の上には高さが一丈ばかりの鏡があった。青い衣の者は言った。「前生を映してください」。沈がみずからを映したところ、方巾[11]朱履で、本朝の衣冠ではなかった。驚いていると、青い衣の者は言った。「三生を映してください」。沈がまたみずからを映すと、烏紗紅袍[12]、玉帯p靴で、儒者の衣冠ではなかった。
 すると下男が突然入ってきて跪き、叩頭して言った。「今でも老いぼれをご記憶でしょうか。わたしはかつておんみが大同兵備道に赴任するのに従った者、今では二百余年になります」。そう言うと、泣き、文書一冊を手にして沈に献じた。沈が事情を尋ねると、下男は言った。「おんみは前生では明嘉靖年間の、姓は王、名は秀という人で、大同兵備道となられました。今日、青い衣の者がおんみを召したのは、地府文信王の処で五百の鬼が怨みを訴えたため、呼んで質問するためでございます。老いぼれはこの五百人を殺したのは、おんみの本意でなかったと記憶しております。発意したのは総兵の某でした。五百人は、もともと劉七事件[13]の敗兵で、投降した後、反逆したため、総兵はかれらを殺し、後患を防いだのです。おんみはかつて直筆の手紙で勧阻しましたが、総兵は従いませんでした。老いぼれはおんみがこの文書を忘れ、弁明できないことを恐れて、この稿(したがき)を袖に入れ、差し上げたのでございます」。沈もはっと前世の事を思いだし、ふたたび慰労してやった。
 青い衣の者は招いて言った。「歩かれますか。轎に乗られますか」。老僕は怒鳴った。「監司[14]の大官で歩く者はおらん」。輿を呼んだが、二人の担ぎ手はとても華やかで、沈を担いで数里ばかり進んだ。前方には巍峨たる宮闕があり、中には王が坐しており、冕旒に白鬚、傍の下役は絳衣烏紗、文書を持って「兵備道王某よ、参れ」と叫んだ。王は言った。「ひとまずお待ちください。これは総兵がした事ですから、まず総兵をお呼びください」。すると軍装で金の鎧の者が東の廂房から入ってきた。沈が見ると、はたして某総兵、元同僚であった。かれは王としばらく問答していたが、言葉は聞き取ることができなかった。すぐに沈を呼んだので、沈は行き、王に揖して立った。王は言った。「劉七一党五百人を殺したことを、総兵はすでに認めた。おんみは手紙で勧止したから、関わりはない。しかし明朝の法では、総兵も兵備道の指揮を受ける。おんみは命令したのに従われなかったのだから、ふだん懦弱であったのは明らかだ」。沈は諾々として謝罪した。
 総兵は争って言った。「五百人は、殺さなければならない者であったのです。いつわって投降し、ふたたび反逆したのですから、殺さなければ、また反逆していたことでしょう。総兵(わたくし)は国家のために殺したのです、私心のために殺したのではございません」。話していると、階の下に墨のように黒い気が、啾啾として遠くからやってきて、その血腥さは耐え難いものであった。五百の頭は入り乱れ、転がる鞠のよう、みな口を開き、歯を露わにし、やってきて総兵を齧り、沈を睨んだ。沈は大いに懼れ、王に向かってとめどなく拝礼すると、袖の中の文書を差し出した。王は(つくえ)を拍ち声を獅オくして言った。「首を斬られた者どもよ。いつわって投降し、また反逆したことがあるのか」。鬼たちは言った。「ございます」。王は言った。「それならば、総兵がおまえたちを殺したのはまことに妥当だ。何を騒いでおるのだ」。鬼たちは言った。「当時いつわって投降したのは、かれら頭領数人でございます。ふたたび反逆いたしましたのも、かれら頭領数人で、ほかはみな脅されて従った者たちですから、皆殺しにするべきではございませんでした。それに総兵は嘉靖皇帝の残酷な心に迎合しようとしたのであり、ほんとうに国のため民のためにしたのではございません」。王は笑いながら言った。「総兵が民のためにしたのではないと言うことはできるが、総兵が国のためにしたのではないと言うことはできぬな」。そして五百鬼を諭した。「この案件は二百余年放置されているが、事はすべて(おおやけ)に属することなので、冥府の役人は裁判することができない。今、総兵は心が正しくないので、神に成って去ることができない。おまえたちは怨気が散じていないから、転生して人になることができない。わたしはこの事を玉皇に上奏するから、沙汰を待て。ただ、兵備道某の罪はとても小さいし、勧阻した直筆の手紙も証拠になるから、人の世に還すべきだ。来世では罰として金持ちの家の娘にし、その柔懦の過ちを懲らすとしよう」。五百の鬼は手に頭を持ちながら階を叩き、だっだっと音をたてると、言った。「大王さまのご命に従うことにいたします」。王は青い衣の者に命じて沈を引き出させた。
 行くこと数里、竹の茂みの中にある書斎に着いた。老僕は出迎えると、驚き喜んで言った。「ご主人さまは事件が結審したのですね」。跪いて送り、再拝した。青い衣の男は鏡のある所に呼ぶと、「前生を見てください」と言った。はたして(きん)(くつ)を着けた前朝の老諸生であった。青い衣の男はさらに「今生を見てください」と叫んだ。目が覚めると、汗を雨のように流して、書斎に居た。家人は周りで哭きながら「気絶して一昼夜、胸元だけがかすかに温かかったのです」と言った。
 文信王の宮闕は扁額や対聯がたいへん多く、記憶することはできなかったが、宮門の外に金文字で「冥界に律例はたえてなし、法を重んじ情を軽んずる案件はなし」「天上の算盤はもつとも大なり、水の落ち石の出づるを待つのみぞ[15]」と刻まれていた対聯だけは憶えていた。

呉三復
 蘇州に呉三復という者がおり、その父某は金持ちであった、晩年没落し、貯えは万両だけで、人への負債は多かった。ある日、三復に「わしが死ねば取り立ては絶え[16]、おまえたちは遺産を暮らしの足しにすることができよう」と言うと、縊死してしまった。三復はほんとうに防いだり救ったりしなかった。友人の顧心怡という者は、その事を察知すると、偽って乩仙の位牌を設け[17]、三復を呼び、神下ろしさせた。三復が往き、香を焚いて叩頭すると、乩盤に「わしは、おまえの父だ。おまえは父が縊死することをはっきりと知りながら、事前に防がず、事後に救いもしなかった。おまえは罪が重いから、日ならずして冥誅に服するだろう」と大書した。三復が大いに懼れ、跪いて泣きながら懺悔を願うと[18]、乩盤にはさらに「わしは子供を愛する心が深いから、おまえのために一つだけ手だてを考えた。三千両を顧心怡に渡して斗姥閣を立てさせろ。わしの亡魂を済度し、おまえの罪を懺悔すれば、死を免れることができよう」と書いた。三復は深く信じ、三千両を顧に与え、領収書を書かせて証拠にした。顧は断る振りをし、やむを得ずに受けるかのようにした。まもなく、三復に酒を飲ませ、その酔っているのに乗じて、奴隷にその証文を盗ませて焼かせた。三復が家に帰ると、証文はすでになくなっていた。人を遣わして顧に閣を建てるように促すと、顧は言った。「お金を貰っていないから、閣を建てることはできないな」。三復はその奸悪さを悟ったが、その時は家にまだ余裕があったので、争わなかった。
 さらに数年すると、三復はとても貧しくなり、顧に借金を申し込んだ。顧は三千両を運用しており、すこぶる余裕があったので、三百両を援助しようとしたが、その叔父某は引き止めた。「三百両をやれば、三千両の話は本当だったということになる。これは『小事に忍びず大謀を乱す』[19]ということだ」。心怡はその通りだと思い、与えなかった。三復はお上に訴えたが、証文がないので受理されなかった。三復はたいへん怨み、牒詞を作って城隍に訴え、牒を焚くこと三日で、亡くなった。さらに三日すると、顧心怡及びその叔父某が亡くなった。その夜、顧の隣人たちは蘇州城隍司の提灯が巷に満ちているのを見た。乾隆二十九年四月の事であった。

影光書楼の事
 蘇州史家巷の蒋申吉は、わたしの年家子[20]である。その息子は徐氏を娶ったが、年は十九、琴瑟すこぶる相和していた。お産して一月たつと、突然酒盛りし、夫を呼んでともに飲み、「これは別れのお酒です。わたしはあなたと縁が満ちたので去ることになりました。昨日宿怨のある者がやってきており、形勢を挽回することはできません。諺に『夫妻(めおと)はもとより同じ林の鳥なれば、大難の来らん時はおのおの飛ぶ』と申します。わたしが死んだら、これ以上、わたしを思われないでください」と言い、大いに慟いた。蒋は愕然としたが、色好い言葉で慰めた。徐氏はたちまち杯を擲って立ち上がり、眉を竪にし目を瞋らせ、ふだんの顔とは違ってしまい、(とこ)の上に臥し、西に向かって大声で叫んだ。「おまえは万暦十二年の影光書楼での事を憶えているか。二人して策を設けてわたしを殺し、わたしは惨い死に方をした」。そう叫ぶと、手で頬を打ち、血を出した。しばらくすると、さらに鋏でみずからを刺した。その声から察するに、山東人の言葉であった。蒋家の人々は周りに跪いて哀願したが、結局事情が分からなかった。このようなことが三日続いた。
 某和尚は、もともと修行を積んでいたので、申吉は人を遣わして召そうとしたが、徐氏は声を獅オくして言った。「わたしはおまえの家の先祖であるというのに、僧を呼びわたしを追い払うつもりか」。すぐに蒋家の祖父となって語ったが、口吻はそっくりで、奴婢の名を呼ぶと、逐一(たが)うことがなかった。子孫がかくかくしかじか不肖であると責めたが、正しいようで違っていることもあり、中たっていることもあれば中たっていないこともあった。和尚が入り口にやってくると、徐氏は嘆いて言った。「禿めは怖ろしいから、ひとまず去ろう。ひとまず去ろう」。和尚が出ると、また罵った。「おまえの家の嫁の部屋に、朝晩和尚を居させることができるのか」。和尚は申吉に言った。「これは前世の仇敵で、二百余年で、ようやく尋ねあてることができたのです。積もる怨みが長いほど報いは深いものなのです。拙僧はどうすることもできません」。走り出て、ふたたび来ようとしなかったので、徐氏は死んでしまった。死んだ時、顔は裂かれた絹のようであったが、結局何の怨みなのかは分からなかった。これは乾隆二十九年二月の事であった。

波児象
 江蘇布政司の書吏王文賓が、昼寝していたところ、書斎に木綿の衣がさらさらという音が聞こえた。見ると、一人の隷卒がおり、すぐにぼうっとし、ついていった。ある場所に行くと、殿宇は清く厳かで、中に二人の役人が坐していた。一人は白鬚の老人で上座に着き、一人は壮年、痘痕面、黒鬚の者で傍に坐していた。階の下には金絲の熏籠[21]を被された獣がおり、大きな豚のよう、尖った口、緑の毛で、王が来たのを見ると、口を開け、跳び上がり、進み出て、齧ろうとした。王は懼れ、左側に跪いた。左側の男はぼろを着て痩せこけており、姿は乞食のようであったが、目を怒らせて王を睨んだ。白鬚の役人は王に手招きして近くに跪かせると、尋ねた。「五十三両のことは、憶えているか」。王は愕然として理解することができなかった。壮年の者は笑いながら言った。「長船売却の事件は[22]、おまえの前生でのことだ」。王は前明の海運事件であることをはっと悟った。前明で海運が停止されると、海船数百隻は、売却されて公費に充てられていたのであった[23]。王は前世も江蘇の書吏で、もっぱらこの案件を司っていたのであった。運丁は督促されたが出すことをせず[24]、銀を集めて王に賄し、帳消しにするのを許されることを図ったが、間に居た者が上前を撥ねたため、事件は結着しなかった。このぼろを着た者は、督促されて縊死した運丁であった。王は前世のことを悟り、侃侃として本当のことを答えた。二人の役人は頷いて言った。「怨恨の原因が分かったぞ。上前を撥ねた者を捕らえて処罰するべきだ。おまえは人の世に帰ってよいぞ」。隷卒に命じて引き出させた。黄色い埃が天を蔽っていたので、王は泉下であることを悟り、獄卒に尋ねた。「わたしを睨んだ乞食が、怨霊であることは分かりましたが、豚のようで豚ではなく、わたしを齧ろうとしたのは、何の動物なのですか」。隸卒は言った。「あれは『波児象』といって、豚ではない。冥界では、あの獣を養って、案件があるときはかならず訊ね、罪が重いものは、食べさせてしまうのだ。人の世の『豺虎に(とうひ)[25]する故事のようなものだ」。王はぞっとした。大河の側に行くと、隷卒に推されて水に入ったが、目覚めると、妻子が(ねだい)の周りで泣いていた。意識を失ってすでに三日がたっていた。

斧で狐の尾を断つこと
 河間府の丁姓の者は、生業に勤めず、女遊びに耽っていた。某処で狐仙が人を迷わしていることを聞くと、丁はひとりで往き、名帖[26]を投じ、兄弟となることを願った。その晩、狐が姿を現し、みずから愚兄呉清と称したが、年は五十ばかり、昔から仲が良いもののようにし、頼み事をすれば、愚兄はかならず処理してくれるのであった。丁はいつも人に自慢し、人と交わるよりも狐と交わる方がよいと思った。
 ある日、丁は呉に言った。「揚州に観灯しにゆきたいのですが、できますか」。狐は言った。「できるぞ。河間から揚州までは、二千里離れているが、わたしの服を着、目を閉じていっしょに行けばすぐ着くだろう」。ついてゆくと、空に上がり、両耳に風の音が聞こえ、たちまち揚州に着いた。商家ではおりしも劇を演じていたので、丁と狐は空中でそれを観たが、たちまち舞台に銅鑼と太鼓の音が喧しく聞こえ、関聖が刀を持って歩み出たので、狐は大いに驚くと、丁を措いて逃げてしまい、丁は思わず宴席の上に墜ちた。商人は妖物であると思い、枷に掛けて江都県庁に送ったので、再三訊問された後、原籍に送還された。
 狐に会って咎めると、狐は言った。「(わし)はもともと胆が小さく、関帝が出てくると聞いたので、逃げたのだ。それにたまたまおまえの(あによめ)のことが思い出されたものだから、急いで帰ってしまったのだよ」。丁が「(ねえ)さんはどこにいるのです」と尋ねると、「わたしは狐で、結婚することはできないから、夢で良家の婦人を迷わしているだけだ。隣家の李家の娘がおまえの(ねえ)さんだ」と言った。丁は心が動き、(あによめ)に会うことを求めた。狐は言った。「もちろん良いが、おまえは人間なのだから、他人の密室に入る術はなかろう。わたしは小さい(あわせ)を持っているのだが、おまえが着れば、窓から出入りすることができ、無人の境を履むようなものだろう」。丁は言われた通りにし、李家に入った。李の娘はながいこと狐に惑わされており、白痴のようであった。丁がその(とこ)に登ると、娘はすぐに交わった。娘は狐に取りつかれ、気息奄奄としていたが、たちまち人の身に近づくと、たいへん心地よくなって、病もようやく癒えたのだった。丁が事情を告げると、娘は秘して語らなかったが[27]、だんだんと丁を喜び狐を厭う心を持った。
 狐はそれを知ると、丁を召して言った。「『門を開いて(ぬすびと)に揖』[28]したのは、(わし)の罪だ。近頃、(ねえ)さんは(おまえ)を愛してわしを憎んでいる。(おまえ)はもとより両世にわたって人の身だから、娘がおまえを愛することは当然だ。しかし(わし)の醜さがなければ、(おまえ)の美しさを示す手だてもなかったぞ」。丁が事情を尋ねると、狐は言った。「男子の陰というものは、雁首の肉が肥えて重たいものが貴いのだ。十五六歳になって、先端が抜け出て、皮が雁首を包まず、嗅いで臭気がないものは、人間だ。皮がその先端を包んでいて清潔でなく、雁首の下に汚垢が多く、筋が勝っている者は、獣類だ。羊、馬、豚、狗の陰を見ろ。みな皮が先端を包んでいて筋、皮が勝っているではないか」。その陰を出して示したが、はたして細く痩せており、毛は錐のように堅かった。丁はそれを嗅ぐと、ますます得意になった。
 狐は丁が女の寵を奪ったことを妬み、こっそり女の(とこ)に近づき、小さい(あわせ)を取って帰った。丁が明け方に窓を通り抜けようとすると、窓は開かず、がしゃんと地に墜ちた[29]。娘の家の両親は大いに驚き、(もののけ)を捕らえようと思い、まず狗の血を噴き、ついで大小便を注ぎ、じっくりと倍の針灸を加えられるような、無量の苦しみを受けた[30]。丁が本当のことを告げても、その家は信じなかったが、さいわい娘が丁を気に入っており、かれをひそかに解放して、言った。「あの人も狐に惑わされただけですから、家に送りかえした方がよいでしょう」。丁は抜け出して帰ると、狐を尋ねて咎めようとしたが、狐は避けて会わなかった。その晩、一紙に大書して、丁の家の入り口に貼った。「陳平は(あによめ)と密通すれば[31]、報いがあるは宜なるかな。これよりは絶交し、兄弟は竈を分かたん[32]」。
 その後、丁と娘が別れると、狐は娘のところへいった。その家は醮[33]を行い歩罡[34]したが、結局防ぐことはことができなかった。娘は四つ子を生んだが、顔はみな人間で、尻に尾がついており、生まれ落ちるとすぐに歩くことができた。すこぶる孝行を尽くし、しばしば父に隨って外出しては、野菜、果物を採ってきて母に捧げた。ある日、狐が来て女に向かって泣きながら言った。「わしとおまえは縁が尽きた。昨日、泰山娘娘(ニャンニャン)[35]はわたしが婦人を惑わしたことを知り、罰として参道を築かせて、永久に外に出ることを許さないこととなされた。わたしは四人の子供を連れていっしょに行くのだ」。袖の中から一本の小さい斧を取り出すと女に渡して言った。「四人の子供は尾が断たれていない。修行して人の身になることはできなかった。おまえは人だから、わたしのために断ってくれ」。女が言われた通りにすると、それぞれ拝謝して去った。

紫河車を洗うこと
 四川都県のp隸丁トは、文書を夔州へ届けにいった。鬼門関を過ぎると、前方に石碑があり、「陰陽界」の三文字が書かれていた。丁は碑の下に行き、しばらくさすって観ると、知らぬ間にすでに境界の外[36]に出ていた。返ろうとすると、路に迷った。やむをえず、足に任せて進んだところ、古廟に着いたが、神像は剥落し、その傍には牛頭鬼が灰くず[37]や蜘蛛の巣を被って立っていた。丁は廟に僧がいないことを憐れみ、袖でその塵や蜘蛛の巣を払った。
 さらに二里ばかり行くと、潺潺たる水音が聞こえ、長い河を隔てて、一人の女が水に臨んで菜を洗っていた。菜の色は濃い紫で、枝や葉が周りを囲み芙蓉(はす)のようであった。じっくり見、だんだんと近づくと、亡くなった妻であった。妻は丁を見ると大いに驚いて言った。「どうしてこちらに来られましたか。こちらは人の世ではございませんのに」。丁は事情を告げ、妻に尋ねた。「ここはどこだ。洗っているのは何という菜だ」。妻は言った。「(わたし)は死んだ後、閻羅王の隸卒の牛頭鬼に娶られ、河の西の(えんじゅ)の樹の下に住んでおります。洗っているのは、人の世の胞胎(えな)で、俗に『紫河車』といわれるものです。十回洗えば、子供は生まれながらに清秀で貴く、二三回洗えば、如法の人となり、洗わなければ、昏愚穢濁の人となります。閻王はこの仕事を牛頭たちに分担させていますので、夫に代わって洗っているのです」。丁は妻に尋ねた。「わたしを人の世に還すことができるか」。妻は言った。「わたしの夫が帰ったら相談しましょう。ただ、(わたし)はあなたの妻になり、さらには鬼の妻になり、新しい夫と旧い夫とに、話をするのはとても恥ずかしく感じます」。そう言うと、丁を迎えて家に行き、世間話し、縁故者の近況を訊ねた。
 まもなく、外で門が敲かれたので、丁は懼れ、(とこ)の下に伏した。妻が入り口を開けると、牛頭鬼が入ってきて、牛頭を取ると(つくえ)の上に擲ったが、仮面であった。面具を取ると、顔形や談笑するさまは、まるで普通の人のよう、その妻に「とても疲れた。今日は閻王さまに侍し、大きな事案数十を調べたが、ながいこと立っていて踵が疲れて痛いから、酒を斟いで飲ませてくれ」と言ったが、やがて驚いて「生きている人間の匂いがするぞ」と言い、嗅ぎながら尋ねた。妻は隠すことができないと思い、丁を引き出し、叩頭して事情を告げ、代わりに哀願した。牛頭は言った。「この人は妻のためだけに救うのではない。実はわたしにも良いことをしてくれたのだ。わたしは廟で顔中に埃を被っていたのだが、この人は拭き清めてくれたから、立派な人だ。ただ、寿命がどうかは分からない。わたしが明日判官の処へ往ってこっそり帳簿を調べれば、はっきりしよう」。丁に坐するように命じ、三人でいっしょに飲んだ。肴が出てきたので、丁が箸を挙げようとすると、牛頭と妻は急いで奪い、言った。「鬼酒は構いませんが、鬼肉は食べることができません、食べればずっとこちらに留まることになります」。
 翌日、牛頭は外出し、暮になると、帰ってきて、欣欣然として賀した。「昨日、冥府の帳簿を調べたのですが、あなたは寿命が終わっていません。それに喜ばしいことに、わたしには関を出る仕事があるので、あなたを送って境界を出ることができます」。紅く腐った一塊の肉を手に持つと、言った。「お贈りします。大金持ちになることができましょう」。丁が事情を尋ねると、言った。「これは河南の金持ち張某の背中の肉です。張は悪行があったので、閻王はかれを捕らえて、その背を鉄錐山に鉤で引っかけていましたが、夜中に肉が崩れて、逃れ去ったのです。今は人の世で背に(かさ)を患っており、千人の医者でも治療することはできません。あなたが往って、この肉を砕いて塗ればすぐに癒えます。かれはかならず手厚くあなたに報いましょう」。丁は拝謝し、紙に包んで、ともに関を出たところ、牛頭はすぐに見えなくなった。
 丁が河南に行くと、はたして張姓のものが背瘡を患っていた。治療すると癒えたので、五百両を得た。

石門の屍怪
 浙江石門県の里書[38]李念先は、租税を取り立てるために郊外に行った。夜、荒れはてた村に入ったが、旅店はなかった。はるかに望めば遠い処に茅舍(わらや)の灯が見えていたので、光に向かって進んでいった。やや近づくと、壊れた籬が入り口を塞いでおり、中で呻吟する声がしていた。李は大声で叫んだ。「里書某が、税金の取り立てをして、宿を求める。はやく開けろ」。まったく返事はなかった。李が籬の外から眺めると、一面の藁、その中には人がいたが、痩せこけており、灰か紙をその顔に貼ってあるかのようであった[39]。顔は長さが五寸ばかり、幅は三寸ばかり、奄奄然として臥し、輾転していた。李は病が重い人であると悟り、再三呼ぶと、はじめて小声で「ご自分で門を推してください」と応えた。李が言われた通りにして入ると、病人は「疫病に罹って危ないのです。一家は死に尽くしました」と告げ、言葉はとても悲惨であった。外出して酒を買うように促すと、できませんと断った。謝礼二百文を約束すると、無理に起きあがり、銭を持って行ってしまった。
 と、壁の灯が消えた。李はとても疲れていたので、藁の中に倒れ臥すと、藁の中で颯然と音がし、人が立ち上がったようであった。李が訝り、火打ち石を取って火を起こすと、照らされたのは蓬髪の男、さらにひどく痩せこけていて、顔はやはり幅が三寸ばかり、眼を閉じて血を流し、姿は僵屍(キョンシ)のよう、草を支えに直立していた。尋ねても、応えなかった。李は驚き、ますます火打ち石を撃った。火花が光るたびに、僵屍(キョンシ)の顔が現れた。李は遁れ出ようと思い、坐したまま後退った。一歩退くと、僵屍(キョンシ)は一歩進んだ。李はますます驚き、籬を引き抜いて奔った。屍は追ってきたが、草を践むと、すうすうと音がした。狂奔すること一里ばかり、飲み屋に飛び込み、大声で叫んで倒れると、屍も倒れた。飲み屋が生姜湯を灌ぐと、蘇り、くわしく事情を話した。村じゅうが瘟疫に罹り、人を追う屍は、病んでいた者の妻で、死んで納棺されなかったため、陽気に感じて魄が動いたことがはじめて分かった。村人がともに酒を買いにいった者を捜しにゆくと、やはり銭を持ちながら橋の側に倒れていた。飲み屋まであと五十余歩の所であった。

空心鬼
 杭州の周豹先は、東青巷[40]に住んでいた。家の大広間には、毎晩一人の男が立ったが、紅袍に烏紗、長い髯に(しかく)い顔であった。傍には二人が侍していたが、小さく卑しく、青い衣を着て、その指示に従っていた。その胸から腹までは、すべて透明で水晶のよう、人が見ると、腹を隔てても、広間に掛けてある絵が眺められるのであった。
 周家の息子は年は十四、病に臥していたところ、烏紗帽の者が従者を呼んで相談していた。「どのように殺そうか」。従者は言った。「明日このものは盧浩亭の薬を服用しますから、わたくしたち二人は薬の渣になって碗の中に伏し、呑み込まれれば、肺と腸とを抽きぬくことができましょう」。翌日、盧浩亭がやってきて脈を診たが、周家の息子は薬を服用しようとはせず、家人に鬼の言葉を告げた。家人が鍾馗を買って堂上に掛けると、鬼は笑いながら言った。「この近視眼の鍾先生は、目が悪く、人と鬼の見分けがつかないから、懼れるに足りぬわい」。画家は戯れに小さい鬼が鍾馗のために耳をほじっているところを描いており、鍾馗は癢さをこらえて、かすかにその目を合わせていたからであった[41]
 一月あまりすると、鬼はまた言った。「この家は運気が衰えておらず、騒いでも無駄だから、よそへ去った方がよい」。烏紗帽の者は言った。「それならば、一つの家に何もしなかったことになる。将来それが慣例となれば、どうして血食されようか」。その指を折り曲げて言った。「今はもう満一年になるから、亥年の者を一人求めて去るとしよう」。まもなく、亥年の奴隷が一人死に、主人は癒えた。周氏の家人は今でも「空心鬼」と呼びなしている。

画工が僵屍(キョンシ)を描くこと
 杭州の劉以賢は、肖像画を描くのが上手であった。隣人に一子一父で家に居る者がいた。その父が死ぬと、子は外出して棺を買うことにし、隣人に以賢を呼んで父の肖像画を描かせるように頼んだ。以賢が往き、その家に入ると、がらんとして人がいなかった。死者はきっと楼上に置かれているのだろうと思い、梯を踏んで楼に登り、死人の(とこ)に近づくと、坐して筆を取った。すると、屍はたちまちがばっと起った。以賢は走屍[42]であることを知り、坐して動かなかった。屍も動かず、ただ目を閉じて口を開き、翕翕然として眉を動かし、肉に皺をよせるだけであった[43]。以賢は自分が走れば屍はかならず追ってくるだろうから、絵を仕上げた方がよかろうと思い、筆を取り、紙を延べ、屍の顔の通りに描いた。臂を動かし、指を運ぶたびに、屍もそのようにした。以賢は大声で呼んだが、答える人はいなかった。にわかにその子が楼に上ってきたが、父の屍が立っているのを見ると、驚いて倒れた。さらに一人の隣人が楼に上ってきたが、屍が立っているのを見ると、やはり驚いて楼の下に転げ落ちた。以賢はとても困ったが、無理にこらえて待っていた。するとにわかに、棺を担ぐ者が来た。以賢は徐々に屍が動いたときは箒を畏れることを思いだして、「箒を持ってきてくれ」と叫んだ。棺を担ぐ者は走屍がいる事を知ると、帚を持って楼に上り、払ったところ、倒れた[44]。そこで生姜湯を取って灌ぎ、倒れた者[45]を目醒めさせ、屍を棺に納めたのであった。

鶯嬌
 揚州の(うたいめ)鶯嬌は、年は二十四、落籍されることを誓っていた。柴姓の者が娶って妾にすることとなり、婚期はすでに定まっていた。太学生[46]朱某は鶯嬌を慕い、十両で歓を求めた。(うたいめ)は金を受けとると、紿いて言った。「いついつの晩にいらっしゃい。ごいっしょしましょう」。朱が期日になって往ったところ、花燭が門に盈ち、鶯嬌はすでに車に乗っていた。朱は欺かれたことを知り、悵然として帰った。一年後、鶯嬌は病んで亡くなった。朱がたちまち夢みたところ、鶯嬌は黒い衫を羽織り、まっすぐに朱の家へ入ってくると、「借りを還しにきましたよ」と言ったので、驚いて目が醒めた。翌日、家で一頭の黒い牛が産まれたが、朱に向かって依依として、相識っている者のようであった。売ると、十両を得た。女遊びの費用でさえ、このように仮初めにすることはできないのである。

因果を傍観すること
 常州の馬秀才士麟は、みずから言うには、幼い時、父に従って北の(たかどの)で勉強していたが、窓を開けると、菊売りの(おきな)王某の露台と近かった。ある日の朝、窓に倚りかかって眺めていた。空はかすかに明るかった。見ると王叟は(うてな)に登って菊に水をやっており、それがおわると、下りようとしていたが、肥担ぎが二つの桶を担いで昇ってきて、水をやるのを手伝おうとした。叟は不愉快な顔をし、断ったが、肥担ぎはどうしても上ってこようとしたので、(うてな)(さか)でもみ合った。雨で(うてな)は滑らか、(さか)は傾斜が急だったので、(おきな)が手で肥担ぎを推すと、上下の勢いは拮抗せず、足を滑らせて(うてな)の下に落ちた[47]。叟は急いで扶けにいったが、起たず[48]、二つの桶でその胸を圧され、両足はたちまち硬直してしまった。(おきな)は大いに驚き、声を出さず、肥担ぎの足を曳き、裏門を開くと、川岸に置いた。さらにその桶を挙げると屍の傍に置き、帰ると門を閉じてまた横になった。馬はその時幼かったが、人命に関わる事を、みだりに話すことはできないと考え、窓を閉めただけであった。日がようやく高くなると、おもてで川岸に死体があると騒ぐのが聞こえた。里[49]はお上に報せた。正午、武進知県が銅鑼を鳴らしてやってきた。検屍人は跪いて申し上げた。「死骸に傷はございませんから、足を滑らせて転んで死んだのでございましょう」。役人が隣人に詢ねると、隣人はみな知らないと言った。そこで納棺して封をするように命じ、掲示を出し、遺族を招いて去らせた。
 事件から九年、馬は二十一歳となり、学校に入って生員となっていた。父は亡くなり、家は貧しかったので、幼い時に勉強していた場所で生徒を招いて授業していた。督学使者劉呉龍が歳考[50]に臨むこととなったので、馬は朝、経書を復習していたが、窓を開けると、遠くの巷を男が二つの桶を担ぎながら冉冉としてやってくるのが見えた。じっくり見ると、肥担ぎであった。大いに驚き、叟に復讐しにきたのだと思ったが、(おきな)の家の入り口を通り越して入らず、行くこと数十歩、李姓の家に入った。李はすこぶる金持ちで、近隣の、見えるところに住んでいる者であった。馬はますます訝り、起って尾行し、李家の入り口に行った。その家の下男はよろよろと出てくると、「うちの奥さまはお産がとても急だから、産婆を呼びにゆこう」と言った。「桶を担いでいる人が入ってきましたか」と尋ねると、「そんなことはない」と言った。話していると、門の中から一人の下女が出てきて言った。「産婆を呼ぶことはありません。奥さまはもう坊ちゃまを産まれました」。馬ははじめて肥担ぎが来て転生したこと、復讐するのではなかったことを悟ったが、李家はすこぶる金持ちなのに、肥担ぎがどのような功徳を積んでこのようになれたのかとひそかに怪しんだ。それからは、注意して李家の子供がどんな行動をとるかを探っていた。
 さらに七年がたち、李家の子供はだんだんと生長したが、勉強することを好まず、鳥を飼うことを好んでいた。王叟は相変わらず健康で、年は八十あまり、菊を愛でる心は、老いてますます盛んであった。ある日、馬が朝、ふたたび窓辺に倚っていると、(おきな)(うてな)に上って菊に水をやっており、李氏の子供も楼に登って鴿(はと)を放っていた。たちまち十余羽の鴿(はと)が飛び、(おきな)の花の(うてな)の欄杆の上に集まった。子供は飛び去るのを懼れ、再三鴿(はと)を呼んだが動かなかった。子供はやむをえず、石を探して手にすると擲ったが、誤って王叟に中たってしまった。(おきな)は驚き、足を滑らせて(うてな)の下に落ち、しばらくしても起きあがらず、両足はたちまち硬直してしまった。子供は大いに驚き、声を発さず、黙黙として窓を閉めて立ちさった。日がようやく高くなると、(おきな)の子や孫たちが捜しにきたが、足を滑らせて転んで死んだのだと思い、哭いて納棺しただけであった。
 この事は劉縄庵相公に聞いた。相公は言った。「一人の肥担ぎと、一人の(おきな)。報復はかくも巧みで、かくも公平であったが、渦中にある者はおたがいにそれを知らず、馬姓の人が冷静にはっきりと観ていたのである。こういうことなら、天下の吉凶禍福には、それぞれ原因があり、すこしも間違いはないはずである。しかし惜しいのは、それを傍から冷静に観る者がいないことである」。

徐四が女を葬ること
 擺牙喇(パイヤラ)[51]の徐四は、京城の金魚衚衕[52]に住んでおり、家は貧しく、奥と(おもて)で五部屋[53]、兄と(あによめ)の二人が同居していた。兄は外出して宿直することになった。(あによめ)はもともと賢かったので、徐四に言った。「北風がとても強いのに、部屋には一つの(カン)があるだけです。わたしとあなたはどちらも寒いのは嫌ですが、同じ(カン)で眠るわけにもゆきません。わたしは今夜実家に帰って眠りますから、(カン)をあなたに譲りましょう」。義弟は諾々とし、(あによめ)は里帰りした。
 夜の二鼓、月影はかすかに明るかったが、門を叩く者があった。入ってきたのは、美少年で、貂帽狐裘、手に嚢を挈げており、(カン)の上に坐すると、泣きながら言った。「お助けください。わたくしは男ではございません。わたくしがどこから来たかもお尋ねにならないでください。一晩泊めてくだされば、貂の(かわごろも)をお贈りしましょう」。その嚢を解いて徐に示したが、金に真珠に装身具、値は万両ほどであった。徐は若かったし、美貌で宝を持っているのを見ると、心を動かさないわけにはゆかなかった。結局どこの家の女なのかは分からなかったので、留めれば禍があるだろうとは思ったが、拒むにも忍びないので、「ひとまずお掛けください。隣人と相談したらすぐに戻ってまいります」と言った。女は「はい」と言った。徐は外から門を閉め、奔って善覚寺に往くと、方丈の僧円智に告げた。円智は、高齢で徳があるので、徐は平素から敬っていた。円智はそれを聞くと、やはり大いに驚いて言った。「これはきっと大家の側室で、わけあって出奔してきたのであろう。留めれば禍があるし、拒むには忍びないから、うちの庵に坐して朝を待ち、夜明けに家に帰っても遅くはあるまい」。徐はその通りだと思った。
 円智の弟子某は、もともと無頼であったが、それを聞くと、徐に成りすまして家に還り、入り口を開けると灯を消して入りこみ、にわかに(カン)に上ると女を抱いて臥した。この夜、徐の兄は宿直していて寒さに苦しみ、皮衣を取るために、四更に家に還った。灯を持って(カン)の下を照らすと、男の(くつ)があったので、大いに怒り、妻と義弟が姦通しているのだと思い、腰の刀を抜き、二人の首を断ち、奔って妻の実家に告げた。門に入って大声で呼ぶと、妻が中から出てきたので、その兄は驚いて地に倒れ、鬼だと思った。騒いでいると、徐四と円智もやってきたので、はじめて誤って人を殺したことを悟った。そこでいっしょにお上に報せたが、刑部は奸通したものを殺したのだと考え、法律で咎めることはしなかった。女の首級を懸けて遺族を招いたが、結局認知する者はなかった。徐四は女が死んでしまったことを憐れみ、その金や真珠を鬻ぎ、葬ってやった。

羊が前縁を叶えること
 康熙五十九年、山東巡撫李公樹徳[54]の誕生日、司道[55]はそれぞれ羊と酒を具えて誕生祝いした。連日劇が演じられ、幕客たちはたがいに楽しく宴して、夜もすがら寝ることはなかった。幕僚の張先生は酒が酣になると、宴を逃れて部屋に入り、寝ようとしたが、紗帳の中からごそごそと音がして、男女がまぐわっているかのようであった。かれは怒り、幕客が少年の俳優に親しみ、その(とこ)を借りて淫らな場所にしているのだと思い、大声で叫んで帳を掲げたところ、二頭の白い羊が跪きながら人のようにまぐわっていた[56]。それは役人たちが贈り物にした羊で、人を見ると驚いて離れた。張は笑って珍しいことだと思い、あまねく同僚たちに告げた。
 まもなく、張は昏迷して地に倒れ、手でみずからの頬を打ち、罵った。「憎らしい老いぼれめ。わたしは謝郎と生死を越えた因縁があり、四百七十年を隔ててはじめて出会うことができたが、容易なことではなかったのだぞ。それなのに、またもおまえに驚かされて離れてしまった。人の結婚を台無しにするとは、罪を許すことはできないぞ」。そう言うと、またみずから頬を打った。撫軍[57]はそのことを聞いて見にくると、笑いながら慰めた。「謝家の奥さま、さようになさることはございません。わたしは誕生日に放生して善行をする積もりでした。あなたたち数百頭をことごとく放生し、結婚なさるのに任せ、宿縁を遂げさせるのは、いかがでしょうか」。張はそれを聴くと叩頭して「大人に御礼申し上げます」と言い、躍然として起った。この事は梁瑶峰[58]相公が語ったことである。

鬼神が人を欺いて災が起こること
 本朝定鼎の後、顧姓の者が常熟、無錫の両県民をみだりに集めて乱をなそうとした。利口者の某は、その無益を悟っていたが、止めることは難しかったので、人々に呼びかけた。「某村の関帝廟は霊験あらたかだから、帝に祈り、重さが百二十斤の、周将軍[59]の鉄の刀を取って、河に投じて占ってはどうだろう。沈めば敗れるから、兵を起こすことはできず、浮かべば勝つから、兵を起こすことができるだろう」。その趣旨は、鉄の刀はかならず沈む物だから、試みさせて人々を阻もうとしたのであった。まず神に祈り、人々を聚めて刀を投じたところ、刀は一片の芭蕉の葉のように水面に浮かんだ。人々は驚き喜び、その日のうちに旗を掲げて起つ者は数万人であったが、たちまち王師がやってきて、遺らず殲滅されてしまった。

楚陶
 乾隆丙寅夏、江陰県民徐甲の家は(こくせい)[60]の害に遭い、煙突で火を焚くと、糞が甑に盈ち、嘯き吼えて穏やかな晩はなく、里人はみな苦しんだ。時の県令劉君翰長は、粤西[61]の名士であったが、神に祈っても、験はなかった。羽士を招いて祈らせたが、験はなかったので、劉少司空星煒に頼んで文を作らせ、城隍に祈らせた。斎戒沐浴して香を焚き[62]、神廟の回廊[63]に宿って命令を受けさせた。翌日は、験はなかったが、炉の灰が盛り上がり、「楚陶」の二字を成した。令は言った。「おんみはどうして楚人の陶姓のものに怨みがあるのだ」。甲は大いに驚き、事実を明かした。「(わたくし)は幼い時にその族人の某を訪ねて、武昌に往きましたが、途中悪疾を患い、いっしょに行った者たちはわたしを道に残しますと、それぞれ溝壑に転がり込んで死にました。すると、大きな体に窪んだ目の、一人の乞食が、(ほしいい)[64]を分けて食べさせ、連れてゆき、いっしょに物乞いしたのです。一月あまりで、病は癒えました。乞食は力がその仲間を凌いでおり、得たものはひとり占めにし、節約し、(わたくし)が帰れるように取りはからってくれましたので、結局帰ることができました。(わたくし)はもともと気が利きましたので、人に雇われ、結婚することができ、小金持ちにもなりました。まもなく、乞食が突然やってきましたが、巨きな(ふくろ)を脇に抱えて、顔色はとても苦しげでした。尋ねると、『以前別れた後、緑林に隠れ、湖湘[65]の地に二十年浮き沈みしていた。今、事が敗れて捕り手が迫っているから、おまえのもとで庇ってくれ』と言いました。(わたくし)は諾々として、息子に語りますと、息子は『法令では、盗賊を匿った者は盗賊と同罪ですから[66]、逃れさせた方がよいでしょう』と言いました。(わたくし)がぐずぐずとして態度を決しないでいますと、たちまち下役数人が入ってきて、その人を縛って去ってゆきましたので、(わたくし)は大いに驚きました。すると、手を拍って部屋で笑う者がいました。それは息子の妻で、『新婦(わたし)はあなたがた父子(おやこ)が、大恩に報いないことになるのに、忍びないことを知りましたので、すでに捕快[67]に通知して、呼び入れたのです。大金も得ましたし、褒美も得ました。懼れることなどございません』と言いました。(わたくし)はどうすることもできず、そのことを思い返してはたいへん残念がっていました[68]。ここまで祟りがあろうとは思っておりませんでした」。
 劉令は言った。「盗賊が強盗をして息子が盗賊を殺したのだな。盗賊は罪を得て当然だから、どうして祟ることができよう。顧みるに、おまえがかれから利を享けたのなら、おまえも盗賊だ。神仙も盗賊を庇うことはできぬぞ」。まもなく、祟りはますます激しくなり、その家をほとんど壊し尽くしてしまった。子とその妻が前後して亡くなると[69]、祟りは絶えた。

藏魂
 雲貴[70]では妖符邪術がもっとも盛んである。貴州の臬使[71]費元龍が滇[72]に赴くとき、家奴の張というものは馬に騎っていたが、たちまち大声で叫んで馬から墜ち、左脚を失った。費は妖人の仕業であると悟り、掲示を出した。「張某の脚を治すことができる者には、賞金若干を与える」。すると、すぐに老人がやってきて、「それがしの仕業でございます。張どのは役所に居た時、ご主人の権勢を恃み、威福をほしいままにしたので、悪戯したのでございます」と言った。張も哀願すると、老人は荷包[73]を解き、一本の脚を出したが、小さい蛤蟆のようであった。息を吐きかけ、呪文を誦え、張に向かって擲つと、両足は元通りになったので、賞金を受けて立ち去った。ある人が費公に「なぜ刑罰で脅さないのでございましょう」と尋ねると、「無益なことだ。黔[74]に居た時、ごろつきの某は、罪を山のように重ねていた。官府はかれを杖殺し、死骸を河に投じたが、三日して蘇り、五日して悪事をし、このようことなことが数回続いた。撫軍に訴えると、撫軍は怒り、王命を受けて斬った。身首は処を異にしたが、三日後に活きかえったのだ。身首は合わさり、頚にはかすかに紅い筋一本があり、相変わらず悪事をした。後にその母を殴ると、母は役所に訴えにきて、(かめ)を手にしてこう言った。『これは不孝者の魂を収めてある(かめ)でございます。不孝者は罪悪の大きさをみずから悟っておりまして、家に居るとき魂を取り出して、(きた)えて(かめ)に隠しているのでございます。お役所で殺されたのは、その血肉の体であって、その魂ではございません。久しく(きた)えた魂で、新しく傷われた体を癒せば、三日で平復することができるのでございます。今では罪業が極まって、老いぼれを殴ることさえしたのですから、老いぼれは許すことができませぬ。お役所でその(かめ)を壊し、風輪扇[75]を取ってその魂を扇いで散らし、刑具を体に加えられれば、悪い息子はほんとうに死にましょう』。役所では言われた通りにし、杖殺した。その屍を調べると、十日足らずで腐ってしまった」と言った。

老嫗が妖となること
 乾隆二十年のこと、京師の家では子供が生まれてもかならず驚風[76]を患い、一年足らずで亡くなってしまうのであった。子供が病むと、黒い物が鵂鶹(ふくろう)のように灯の下を旋回し、飛ぶのが疾くなるほどに、子供の喘ぎ声はせわしくなり、子供が息絶えると、黒い物は飛び去るのであった。
 まもなく、某家の子供も驚風となった。侍衛の鄂某という者は、もともと勇敢だったので、それを聞くと、腹を立て、弓矢を手挟んで待ち、黒い物が来るのを見るとそれを射たが、矢に中たると、飛んだまま痛いと叫び、血は涔涔と地に灑いだ。追うと、二重の塀を越え、李大司馬の家の竈のところに行って消えた。鄂が矢を手挟んで竈のところに来ると、李家では驚き、争って尋ねにきた。鄂と李はもともと親戚であったので、わけを話すと、大司馬は竈のところに往って探すように命じた。見ると傍の部屋で、緑眼の嫗が矢を腰に刺されていた。血はなおも淋漓とし、姿は(さる)のよう、大司馬が雲南で役人をしていた時に連れ帰った苗族の女で、もっとも高齢、みずから年を憶えていないと言っていた者であった。(あやかし)であることを疑い、拷問すると、「呪文を念じれば異鳥に化することができます。二更過ぎになると外に出て子供の脳を食べていました。殺した者は数百を下りませぬ」と言った。李公は大いに怒り、縛って薪の火に置いて焼いた。その後、長安の子供が驚風を病むことはなくなった。

雷公を代理すること
 婺源の董某は、弱冠の時、暑月[77]に昼寝していたが、たちまち夢みたところ奇怪な鬼たちがじっくりとその顔を見て、「雷公さまはご病気だが、この人は口が尖っているから、代わりになることができるだろう」と言い、斧を授け、その袖の中に納めさせた。ある場所に引いていったが、その壮麗さは王者の住まいのようであった。しばらく立っていると、召し入れられたが、冕旒をかぶった者が殿上に坐しており「楽平の某村の婦人朱氏は、姑に対して不孝であるので、天誅に遭うことになっている。たまたま雷部の両将軍は雨を降らせて過労となって、現在病に罹っているため、人がいないのだ。功曹[78]たちはおんみを薦めてこの任に充てさせることにしたから、符を受けて往け」と言った。董は拝命して退出したが、足元に雲が生じ、稲妻に取り巻かれ、堂々たる雷公となっていた。たちまち楽平に行くと、社公[79]が案内した。董が空中に立つと、女がその姑を罵っているのが見えたが、観る者は垣のようであった。董は袖の中の斧を取ると一撃で倒したが、轟然たる音に、人々は驚いて跪いた。
 帰って復命すると、王は引き留めて職務に当たらせようとした。母が老いているからと断ると、王も強制しなかった。董に何の仕事をしているのかと尋ねたので、「童子試[80]を受けるのでございます」と言うと、王は左右を顧み、郡県の文書を取って閲して、「おんみは某歳で入学することができよう」と言った。目醒めると、急いで親しい者に語った。楽平県に行って調べると、はたして一人の婦人が雷で死んでおり、時日はすべて符合していた。文書を閲していた時、董が盗み見たところ、邑試[81]の一位は程雋仙、二位は王佩葵であったが、翌年すべてその通りになった。

鬼を捉えること
 婺源[82]の汪啓明は、上河[83]の進士の邸宅に引っ越した。その一族の汪進士波[84]の旧宅であった。乾隆甲午四月のある日、夜、しばらく夢に魘され、目覚めると、鬼が帷に逼って立っており、高さは部屋と同じであった。汪はもともと勇敢であったので、にわかに起つと組み打ちした。鬼は急いで入り口に駆け寄ると逃げようとしたが、誤って壁にぶつかり、とても狼狽していた。汪は追いつくと、その腰を抱きかかえた。するとたちまち陰風が起こり、残灯は消え、鬼の顔が見えなくなり、手がとても冷たく、腰は太い甕のように感じられた。家人を呼び集めようとしたが、声を出すことはできなかった。しばらくしてから、力を尽くして大声で叫び、家人がいっせいに返事をすると、鬼の姿は嬰児のように小さくなった。みなが炬火を持ちながらやってきて照らしたところ、握っていたのはぼろぼろの(きぬいと)綿(めん)の塊であった。窓の外では瓦礫が雨のように擲たれたので、家人はみな怖れ、許してやるように勧めたが、汪は笑いながら「鬼どもは人を嚇すだけで、何もできはしない。許したら、祟るのを助けてしまうことになるから、一鬼を殺して百鬼を懲らした方がよかろう」と言い、左手で鬼を握り、右手で家人の炬火を取ると焼いてしまった。ぱちぱちと音がして、鮮血が迸り出たが、臭気は嗅ぐに堪えないものであった。夜が明けると、隣人たちは驚いて集まってきたが、その臭いを嗅ぐと、鼻を掩わぬものはなかった。地面の血は厚さが一寸ばかり、腥く汚れた膠のようであったが、結局何の鬼であるかは分からなかった。そのため王[85]舍人は『捉鬼行』を作り、その事を記録したのであった。

某侍郎の異夢
 乾隆二十年、某侍郎が黄河を監視するために、陶荘に駐箚した。除夜、侍郎は平素から精勤であったので、馬に騎り、従者四人を従え松明を持って河を巡察していた。氷と(ぬかるみ)の中を進み、一望すれば黄の茅と白い葦で、淒然たる趣であった。見れば草の中に布帳(テント)を張って燭の光を漏らしている者が居たので、召して尋ねたところ、主簿の某であった。侍郎はその精勤を愛で、大いに賞賛を加えた。主簿は招いて言った。「大人は、除夜、ここに来られましたが、夜はもう三鼓ですし、空は寒く、風は強く、公館に帰られるにはまだ遠うございます。年越しの酒と肴を差し上げますので、酔われてはいかがでしょうか」。侍郎は笑ってそれを受けた。数觴を飲み、公館に帰ると、疲れていたので、衣を解いて臥した。
 夢の中ではふたたび馬に騎り、河を看ていたが、進んでいる場所は前の場所ではないと感じられ、最後には茫茫たる黄沙となった。行くこと二里ばかり、火の光が小屋から出ていたので、近づくと、老嫗が入り口で迎えたが、じっくり見ると、それは亡くなった母の太夫人[86]で、侍郎を見ると驚いて「どうしてこちらに来たのだえ」と言った。侍郎が命を奉じて河を監視していることを告げると、太夫人は「こちらは人の世ではないが、来たからには、帰ることはできないだろう」と言った。侍郎ははじめて、太夫人はもう亡くなっているのだから、自分はもう死んでしまったのだと悟り、大声で哭いた。太夫人は言った。「河の西に老和尚が居り、法力はとても優れているから、おまえを連れて頼みにゆこう」。侍郎はついていった。
 廟に行くと、荘厳で王者の住まいのよう、南面して老僧が坐していたが、目を閉じて語らなかった。侍郎は階の下に跪き、再拝したが、僧は挨拶しなかった。侍郎は尋ねた。「わたくしは天子の命を奉り黄河を監視しておりましたが、どうしてこちらに来たのでしょうか」。僧はやはり語らなかった。侍郎は怒った。「わたしは天子の大臣だから、死すべき罪があろうとも、わたしに教え、心服させるべきなのに、なぜ黙黙と唖羊[87]のようにしているのだ」。老僧は笑いながら言った。「おまえは人をたくさん殺して、禄[88]を損ない尽くしておるのに、尋ねてどうする」。侍郎は言った。「人はたくさん殺したが、みな国法で誅するべき者たちだから、わたしの罪ではないのだぞ」。僧は言った。「おまえはむかし案件を裁いていた時、国法のことだけを考えていたのか、それとも、迎合し、寵愛されて、昇進するのを狙っていたのか」。(つくえ)の上の如意を取ると、まっすぐにその(むね)を指した。侍郎は一条の冷気がまっすぐに五臓に逼ってくるのを覚え、(むね)はどきどきして止まず、汗は雨のように垂れ、恐れて話すことができなかった。しばらくすると、言った。「わたしは罪を悟りました。これからは過ちを改めますが、いかがでしょうか」。僧は「おまえは過ちを改める人間ではないが、今日はおまえの寿命が尽きる日ではない」と言うと、左右の沙弥を顧みて「連れ出して、帰らせろ」と言った。沙弥はいっしょに行き、暗闇の中、その拳を開き、一つの小さい珠を出すと、光は黄河の工事現場すべてを照らし、陶荘の公館まで、歴歴として白昼のようであった。太夫人は迎えにくると、泣きながら「おまえは帰るが、すぐに来るから、長く別れていることはないだろう」と言った。もとの道を通って帰り、門に着き、馬を下り、目醒めたが、もう(ひる)になっていた。
 河員[89]たちは年賀のために門に盈ちていたが、侍郎はもっともまめなのに、なぜ元旦に起きないのかと訝っていた。侍郎もそのわけをはっきりと言おうとはしなかった。この年の四月に病んで血を吐き、結局起きあがれなかった。これは裘文達公[90]がわたしに語ったことである。

初代盤古[91]が成案を施行すること
 『北史』では「騫国王は頭の長さは三尺、今でも死んでいない」と称しているが、わたしはかつてそれがでたらめであると疑っていた。康煕年間、浙江の人方文木が海に浮かび、風に吹かれて、ある場所に至ったところ、宮殿は巍峨として、上に「騫殿」の三字が書かれていた。方が大いに驚き、俯いて宮殿の外に伏していたところ、二人の霞帔[92]の者に引き入れられたが、長い頭の王が上座に着いており、冕[93]は巨きな桶のよう、真珠は四方に垂れ、鬚はふさふさとして触れあって音をたてていた。文木に「おんみは浙江の人か」と尋ねたので、「はい」と言うと、王は「ここから五十万里離れているな」と言った。文木に飲み物を賜わったが[94]、米は大きさが棗ほどであった。
 文木は王が神であることを知ると、跪拝して帰ることを願った。王は顧みて侍臣に言った。「第一次盤古皇帝の成案を取ってきて調べてやれ」。文木は大いに驚き、叩頭して言った。「盤古皇帝は幾人居るのでございましょうか」。王は言った。「天地は始まりもなければ終わりもなく、十二万年で、一人の盤古が現れる。今、朝天してきた者だが、すでに盤古は万万余人いるのだから、数をはっきり思い出すことはできない。ただ元会運世の説[95]は、すでに宋朝の人邵堯夫に説破されている。惜しいことに歴代の開闢[96]はかならず第一次開闢の成案を施行しており、今なお説破する人がいない、そのため風がおんみを吹いてきて、このことを説破し、世人に知らせようとしているのだ」。文木は話されていることが分からなかった。王は言った。「ひとまずおんみに尋ねよう。世間では善には福が、淫には禍があるというが、どうして報いられるものもあれば報いられないものもあるのか。天地鬼神は、どうして霊験があることとないことがあるのか。仙仏に学んでも、どうして成就することと成就しないことがあるのか。紅顔は薄命であるというが、どうして薄命でない者もあるのか。才子は窮するというが、どうして窮しない者も多いのか。一飲一啄[97]は、なぜ前もって定まっているのか。日食や山崩れなど、どうして災害があるのか。占いをよくする者は、どうして事が分かっているのに免れることができないのか。天を怨んだり咎めたりする者に、天はどうして罰を降さないのか」。文木は答えることができなかった。
 王は言った。「ああ。今、世上で行われているのは、すべて成案なのだ。第一次世界が開闢されて十二万年の間、あらゆる人や物は、造物者が故意に造ったものではなく、たまたま気化[98]の変遷に従い、明るくなったり暗くなったり、是となったり非となったり、水が注いで地に落ちて、たまたま(しかく)(まる)になるよう、子供が碁を打つとき、手に任せて碁石を打つようなものなのだ。すでに定まった後は、一冊のしっかりとした帳簿にし、鉄で鋳るのだ。乾坤を毀つ時、天帝はこの文書を第二次開闢の天帝に渡し、その通りに施行することを命じ、すこしも変動することを許さない。そのため人意と天心は往々にして噛み合わないのだ。世の人々は終日あたふたとして、まさに木偶(でく)傀儡(くぐつ)、ひそかに絲で牽かれているもののようだ。成敗巧拙は、すでに前もって定まっており、人々は自分では知らないだけだ」。文木ははっとして、言った。「それならば、今のいわゆる三皇五帝とは、その前の三皇五帝ですか。今の二十一史の中の事とは、その前の二十一史の中の事ですか」。王は「その通りだ」と言った。
 話していると、侍臣が一つの文書を捧げてやってきたが、上には「康熙三年、浙江の方文木海に浮かび騫国に至らん。あらかじめ定められたる天機を漏らし、世人に知らしめ、浙江に送り返すべし」云々と書かれていた。文木は拝謝し、別れに臨んで涙を落とした。王は手を振って言った。「そのようにすることはない。十二万年後、わたしとおんみはまたここで会うのだから、泣くことはない」。そして笑いながら言った。「間違っていた。間違っていた。こうして泣くのも、十二万年の中にもともと二筋の涙があったから、その通りに謄録されているのだ。わたしが止めることはない」。文木が王の年を尋ねると、左右のものは言った。「王は第一次盤古といっしょに生まれましたが、第千万次盤古といっしょには死にません」。文木は言った。「王さまが亡くならないなら、乾坤が壊れる時に、王さまはどちらに身を寄せられるのでしょう」。王は言った。「わたしは(すな)の体なので、災害を経ても壊れないのだ。万物は壊れると、泥沙に変わっておしまいだ。わたしはさきに壊れつくした処に居るから、劫火は焼くことができないし、洪水は浸すことができない。ただ、悪風に吹かれて翻り、上は九天に行き、下は九淵[99]に至るとき、とりわけ疲れを感じる。つねに黙坐すること数万年、盤古が世に出るのを待っているが、日数がとても多いので、とりわけ厭わしく感じるだけだ」。そう言って、口から息を吐き、文木を吹くと、文木は空に舞い上がり、海船の上に着いた。
 一月あまりで浙江に帰ると、このことを毛西河先生[100]に語った。先生は言った。「人は万事が前もって定まっていることを知るだけで、前もって定まっている理由を知らないが、今この説を聴いて、はじめて豁然とした」。

最終更新日:2016413

子不語

中国文学

トップページ



[1] 橋梁名。乾隆元年『浙江通志』巻三十三・関梁一参照。

[2] 喪服。

[3] 神への願文。

[4] 原文「爾昔何媒」。未詳だが、訳文の意味であろう。

[5] 鬼を煎るフライパンと、鬼をミンチにする臼。鐺はフライパン。

[6] 原文「婦哀號伏罪,請後不敢」。「請後不敢」が未詳だが、訳文の意味であろう。

[7] 浙江省の府名。帰安県は湖州府の属県。

[8] 未詳だが、「ともに召されたもの」ということで、乾隆元年に北京で行われた博学鴻詞科をともに受験した者という意味であろう。この試験では沈炳震も袁枚も不合格であった。

[9] 帰安の人。『碑伝集』巻百三十三などに伝がある。

[10] 葬儀で用いる、白土を塗った几。

[11] :『三才図会』。

[12] :上海市戯曲学校中国服装史研究組編著『中国歴代服飾』二百三十八頁。

[13] 劉六劉七の乱。中国明代中期の正徳年間の民衆反乱。河北、山東で活動したが正徳八年七月には揚子江下流域の狼山で壊滅。

[14] 地方官の監察の任務に当たる、按察使などの総称。ここでは大同兵備道。兵備道は按察使の下部機関である分守道の下部機関。

[15] 原文「只等水落石出的時辰」。「水落石出」は物事の真相が明らかになることのたとえ。

[16] 原文「我死則人望絶」。未詳。とりあえずこう訳す。

[17] 原文「偽設乩仙位而召三復請仙」。未詳。とりあえずこう訳す。

[18] 原文「跪泣求懺悔」。「求懺悔」が未詳。懺悔させてくださいと願うことと解す。

[19] 原文「是小不忍而亂大謀也」。出典未詳。意味は、詰まらぬ情けを掛ければ大きな災いを得るということであろう。

[20] 科挙の同時に合格した者同士をいう。

[21] 香炉の上の金網。

[22] 原文「長船變價案也」。「長船變價案」は未詳。「變價」は公物を売却すること。「長船」という言葉、『明史』に見えない。後ろを見るとどうやら海船のことをいっているようなので、長距離用の船ということか。

[23] 原文「追價充公」。未詳。とりあえず、このように訳す。

[24] 原文「運丁追比無出」。「追比」は漕糧を運ぶ人。「追比」は期限を設けて督促し、期限を過ぎると刑罰を加えること。「無出」は何を「出」しないのかが未詳。公物である海船を、運丁が私物化し、政府に出さなかったということか。とりあえず、そう解す。

[25] 『詩』小雅巷伯。「投畀」は投げ与えること。

[26] 名刺。帖子。:『清俗紀聞』

[27] 丁に事情を告げられたことを狐に話さなかったということ。

[28]戸を開けて賊を招き入れる。自ら進んで悪者を引き入れて害を被ること。『三国志』呉志・呉主伝に出典のある言葉。

[29] 原文「塊然墜地」。「塊然」が未詳だが、訳文の意味であろう。

[30] 原文「針炙倍至,受無量苦」。「針炙倍至」がまったく未詳。「炙」は「灸」の誤字と解す。

[31] 『史記』陳丞相世家「絳侯、灌嬰等咸讒陳平曰、平雖美丈夫、如冠玉耳、其中未必有也。臣聞平居家時、盜其嫂」。

[32] 原文「弟兄分灶」。未詳だが、別々になるという趣旨であろう。

[33] 斎醮。壇醮。道教の、神を祀る儀式。胡孚琛主編『中華道教大辞典』五百六頁参照。

[34]歩罡踏斗。道士が儀式の時、北斗星の形にステップを踏むこと。

[35] 泰山府君の娘である碧霞元君のこと。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千五百六頁参照。写真画像元ページへ

[36] 人の世から見ての境界の外、すなわち陰界のことであろう。

[37] 原文「灰絲」。未詳。とりあえずこう解釈する。

[38] 里長、里胥に同じいと思われるが未詳。

[39]原文「如用灰紙糊其面者」。「灰紙」は「灰」「紙」の二物であろう。「灰」はおそらく石灰であろう。

[40] 未詳。

[41] 原文「蓋畫者戲為小鬼替鍾馗取耳,鍾馗忍癢,微合其目故也」。「取耳」が未詳。とりあえずこう解釈する。ただ、鬼が鍾馗の耳掻きをしている画題があるかどうかは未詳。

[42] 動く死骸。

[43] 原文「翕翕然眉撐肉皺而已」。未詳。とりあえずこう訳す。「翕翕然」はひくひくという感じではないかと思われるが未詳。

[44] 主語は走屍。

[45] こちらは走屍ではなく、走屍の息子や隣人。

[46] 国子監の学生。貢生。

[47]主語はもちろん肥担ぎ。

[48] 主語はもちろん肥担ぎ。

[49] 地保。郊外にあって官府のために仕事をする者。

[50] 歳試。官吏登用とは関係なく、生員に対して学政が三年に一度実施する試験。学校できちんと勉強しているかどうかを判定する。宮崎市貞『科挙史』(平凡社東洋文庫版)百十四頁参照。

[51] 未詳。「擺牙喇兵」という言葉があり、『清史稿』に用例多数あるが、その機構上での位置付けなどは記載がない。

[52] 街巷名。現在の北京市東城区、東華門の東側にある。

[53] 原文「屋内外五間」。未詳。とりあえずこう訳す。

[54] 李樹徳:康煕五十八年から六十一年まで山東巡撫。

[55]布政司、按察司と道台。

[56] 原文「則兩白羊跪而人淫」。未詳。とりあえずこう訳す。

[57] 巡撫。

[58] 梁国治。『清史稿』巻三百二十六などに伝がある。

[59] 周倉。『三国志演義』の登場人物。実在の人物ではないが、関帝廟で関羽の脇士となつている。奇怪な容貌をしている。写真

[60]宋代の『鉄囲山叢談』巻三に見え、人のような形をしていて黒く、夜に現れては人の子供を攫って食べるという。『清史稿』災異志一にも乾隆三十九年二月に高邑で人を惑わしたとある。

[61] 広西省。

[62] 原文「令齋沐投爐」。「投爐」が未詳。とりあえずこう訳す。

[63] 原文「神廡」。未詳。とりあえずこう訳す。

[64] 原文「糗[米冓]」。「[米冓]」は未詳だが、「糒」の誤字であると解する。

[65] 湖北、湖南省。

[66] こうした法律はない。『大清律令』三百九十三・知情蔵匿罪人「凡知人犯罪事発、官司差人追喚而蔵匿在家不行捕告、及指引道路、資給衣糧、送令隠匿者、各減罪人罪一等」。

[67] 捕縛に当たる下役。捕り手。

[68] 原文「顧常大恨」。未詳。とりあえずこう訳す。

[69] 原文「子若婦先後卒」。「若」が未詳。衍字か。

[70] 雲南省、貴州省。

[71] 布政使。

[72] 雲南省。

[73] 巾着。写真

[74] 貴州省。

[75] 未詳。

[76] 小児病の一種。謝観等編著『中国医学大辞典』千二百五十頁参照。

[77] 旧暦六月頃。

[78] 漢代、郡守の属官。

[79] 土地神。写真

[80]童試。生員の資格を得るための、県試、府試、院試の総称。

[81] 県試。

[82] 安徽省の県名。

[83] 地名と思われるが未詳。

[84] 雍正五年進士。江寧の人。

[85] 王友亮。『清史列伝』巻七十二などに伝がある。

[86] 官員の母親に対する称号。

[87] 仏教語。唖羊僧。悟りを得ていない人のたとえ。

[88] 陽禄。寿命。

[89] 治水に当たる官員。

[90] 裘曰修。『清史稿』巻三百二十七などに伝がある。

[91] 天地を開闢したとされる伝説上の人物。:『三才図会』

[92] 写真:上海市戯曲学校中国服装史研究組編著『中国歴代服飾』。

[93] :『三才図会』。

[94] 原文「賜文木飲」。「飲」は間違いなく「飯」の誤字であろう。

[95] 邵雍の先天易学の用語。十二会が一元、三十運が一会、十二世が一運、三十年が一世。張其成主編『易学大辞典』五百九十六頁参照。

[96] ここでは天地を開闢する者、すなわち盤古。

[97] わずかな飲み物、食べ物。「一飲一啄、莫非前定」という諺がある。

[98] 陰陽の変化。

[99] 九重の淵。深い淵。

[100] 毛奇齢。『清史稿』巻四百八十七などに伝がある。

inserted by FC2 system