第四巻

 

呂蒙が顔を塗ること
 湖北の秀才鍾某は、唐太史赤子[1]の表戚[2]であった。秋試[3]に赴き、夢みたところ、文昌神[4]に召され、殿下に跪いた。神は一言も発さず、近くに呼び、筆を取ると、硯できわめて濃い墨に浸し、その顔をほとんど塗りつぶした。大いに驚いて目醒めたが、答案を汚す事を心配し、心はぼんやりとして楽しまなかった。まもなく試験場に入り、疲れると、号房[5]の中で仮眠した。すると偉丈夫がその号房の(れん)を掲げたが、長い髯に緑の袍の、関帝であった。関帝は罵った。「呂蒙めが、おまえは顔を塗っておるが、わしがおまえに気付かぬとでも思うてか」。そう言うと見えなくなったので、鍾ははじめて前生は呂蒙であったことを悟り、とてもぞっとしたのであった。この年、合格し、十年後、山西解梁知県に選ばれた。赴任して三日、武廟[6]にお参りにいったが、拝礼したきり起きないので、しもべが見たところ、すでに死んでいた。

鄭細九
 揚州では奴隷に名を付けるとき、(さい)と呼ぶことが多い。細九(さいきゅう)は、商人鄭氏の奴隷であった。鄭家の女主人は病勢が改まったが、たちまち蘇り、矍然として起きあがると、こう言った。「おかしいねえ。わたしは死ぬのは構わないが、細九の家に転生して息子となるのはよくないよ。わたしの魂はすでに戸を出ていたのだが、途中でこの消息(たより)を聞いたので、わたしを護送する者を振り切って返ってきたのだ」。そう言うと、「のどが渇いた」と言い、青菜の(スープ)を求めた。しもべが煮ると、少しばかりを飲み、(とこ)に倒れ、瞑目して亡くなった。まもなく、鄭細九が報せにきた。家で一児が産まれたが、口に菜葉を含んでおり、啼く声はとても獅オいとのことであった。その後、鄭家はすこぶる養育を加え、奴隷が産んだ子として待遇しようとはしなかった。

鬼に替わって仲立ちすること
 江浦[7]の南郊に張氏という娘がおり、陳某に嫁いだが、七年で寡婦となり、日々の食事にも事欠いたので、張家に再嫁した。張も妻を喪って七年であったので、仲立ちする者は天の授けた良縁と考えた。結婚してわずか半月、張の前の夫の魂が妻の身に附いて「おまえはとても良くないぞ。わたしのために節を守らず、庸奴(ばかもの)と再婚するとは」と言い、手でみずからその頬を打った。張のしもべが紙銭を焼いて、再三慰めても、やはり祟った。まもなく、張の前妻の魂もその夫の身に附き、罵った。「あなたはとても薄情です。新しい人がいるのを知るだけで、旧い人がいたのをお忘れです」。やはり手でみずからを撃ったので、家を挙げて驚いた。
 たまたまその時、仲立ちをした秦某が傍に居り、戯れて言った。「わたしは以前から活きている人のために仲立ちをしてきましたが、今日は死んだ鬼のために仲立ちをするのはいかがでしょう。陳某はこちらで妻を求めていますし、あなたもこちらで夫を求めているのですから、おたがいに結婚し、退かれてはいかがでしょうか。そうすれば、冥界で寂しくはございませんし、両家の活きている夫妻も平安にございましょう。こちらで騒がれることはございますまい」。張は恥じらいの表情を浮かべると、言った。「わたしにもその考えがありますが、(かお)が醜いものですから、陳某がわたしを求めるかは分かりません。自分から話すわけにはまいりません。先生にこのような良い考えがございますなら、先生に口利きをして頂きますのは、いかがでしょうか」。秦が双方に口利きすると、ともに承諾したので、たちまち笑いながら言った。「それはたいへん良うございます。ただわたしたちは鬼ですから、野合して、鬼たちに軽んぜられるべきでございません。媒酌人がわたしのために紙人形を剪って従者にし、銅鑼、太鼓、音楽を調えて、酒席を設け、合歓杯[8]を送り、男女二人に婚礼を行わせて退かせるなら、わたしたちははじめて去るといたしましょう」。張家が言われた通りにすると、それからは、二人の身は安然として恙なかった。郷隣は某村は鬼のために仲立ちし、鬼のために結婚式を挙げてやったと喧伝した。

鬼には三つの技があるが使ってしまえば手詰まりになること
 蔡魏公孝廉はつねに言っていた。「鬼には三つの技がある。一つは迷わすこと、二つは遮ること、三つは嚇かすことだ」。ある人が「三つの技はどのようなものですか」と尋ねると、こう言った。「わたしの表弟(いとこ)の呂某は、松江の廩生で、性格は豪放、みずから豁達先生と号していた。かつて泖湖[9]の西の農村を通ったところ、空がだんだん暗くなった。見ると婦人が顔に粉黛を施し、ぼんやりと縄を持って奔っていた。呂を望み見ると、走って大樹の下に隠れ、持っていた縄を地面に落とした。呂が取って見ると、一本の藁縄だった。嗅ぐと、埃臭いにおいがしたので、縊死した鬼であることが分かった。拾って懐に蔵し、まっすぐに進んでゆくと、女は樹の中から出てきて、進み出て遮った。左に行くと左を遮り、右に行くと右を遮った。呂は俗に称する『鬼の通せんぼ』であると知り、まっすぐに突き進んだ。鬼はどうすることもできず、一声長嘯すると、ざんばら髪で血を流した姿に変わり、舌を一尺ばかり伸ばし、跳び掛かってきた。呂は言った。「『おまえがさきほど眉を掃き(おしろい)を塗っていたのは、わたしを迷わしていたのだ。進み出て阻んだのは、わたしを遮ったのだ。今この凶悪な顔をしているのは、わたしを嚇かしているのだ。三つの技は尽きたから、わたしはまったく恐くない。他の技を施すことはできないだろう。おまえもわたしがふだん豁達先生といわれていることは知っているだろう』。鬼はもとの姿に戻ると地に跪いて言った。『わたしは城内の施家の女で、夫と口喧嘩し、一時(いっとき)の早まった考えで、みずから縊れてしまったのです。今泖東の某家の婦人もその夫と仲が悪いと聞きましたので、わたしは身代わりを得にゆくのです。ところが途中で先生に遮られ、わたしの縄も奪い去られてしまいました。ほんとうに為す術もなくなって、先生が済度してくださることを求めるばかりでございます』。呂が『どのように済度するのだ』と尋ねると、『わたしに替わって城内の施家にお告げください。法事を行い、高僧を呼び、たくさん『往生呪』を念じると、わたしは転生することができますと』と言った。呂は笑いながら『わたしは高僧で、『往生呪』を知っているから、おまえのために誦えてやろう』と言うと、すぐに高らかに『いとも大なる世界には、妨げぞなき。死に去りて生まれ来れば、など身代はりのありつべき。去るべきときに去ることが、げに潔きことぞかし』と唱えた。鬼はそれを聴くと、恍然として大悟し、地に伏して再拝し、奔り去ったのだ」。後に土地の人々は言った。「こちらはむかしから平穏ではありませんでしたが、豁達先生が通られた後は、祟りをなす者がいなくなりました」。

鬼は多くは蝿に変じること
 徽州の状元戴有祺は、友とともに夜酔い、月見して城を出て、回龍橋[10]の上を歩いていた。藍の衣の男が傘を持って西の郊外からやってきたが、戴公を見ると、進もうとして進まなかった。泥棒かと疑い、進み出て捕まえて尋ねると、「わたしは下役で、上司の命を奉り、人を捕らえるのです[11]」と言った。戴は「おまえは大嘘つきだ。世の中では、城内の下役が城外に行って人を捕らえることはあるが、城外の下役が城内に行って人を捕らえることは断じてないぞ」と言った。藍の衣の者はやむを得ず、跪いて言った。「わたしは人ではなく、鬼で、陰官の命を奉り、城内で人を捕らえるのが本当のことでございます」。「令状はあるか」と尋ねると、「ございます」と言った。取って見たところ、その三人目は戴の表兄(いとこ)の某であった。戴は表兄(いとこ)を救おうとしたが、言っていることが嘘かと疑われたので、行かせると、じっと橋の上に坐して待っていた。四鼓になると、藍の衣の者ははたしてやってきた。戴が「人は全員捕らえたか」と尋ねると、「はい」と言った。「どこにいる」と尋ねると、「わたしが持っている傘の上に居ります」と言った。戴が見ると、糸で五匹の蝿が縛られており、嘶嘶(すうすう)と音をたてていた。戴は大声で笑い、取って放った。その人は慌てて、よろよろと走り去った。空がようやく明けると、戴は城に入り、表兄(いとこ)の処へ尋ねていった。そのしもべは言った。「主人は久しく病んでいて、三更に亡くなりましたが、四更に生き返り、夜明けにふたたび亡くなりました」。
 江寧の劉某は、年は七歳、陰嚢が紅く腫れたが、薬は効かなかった。隣の饒氏という妻は、冥府の下役の仕事をしており、時期が来ると、夫と(とこ)を別にして眠り、飲まず食わずで、昏迷した者のようになるのであった。劉の母は冥府に往って調べるように頼んだ。去って三日目、報せにきて言った。「大丈夫です。二郎ちゃんは前世で蛙を食べるのが好きで、殺すことがとても多かったため、現世で蛙たちが齧りにきて、復讐しているのです。しかし天が蛙を生んだのは、もとより人に食べてもらうためであり、虫魚はすべて八蠟神[12]が管理していますから、劉猛将軍[13]の処で香を焚いて祈れば、恙ないことでしょう」。言われた通りにすると、子の病は癒えた。
 ある日、饒氏は二昼夜眠ってはじめて目醒めた。目醒めた後は、全身に汗を流し、口を開け、喘ぐのをやめなかった。その嫂が事情を尋ねると、「隣の奥さんの某氏は凶悪で、捕まえるのが難しいため、冥王はわたしに捕まえさせたのですが、あのひとは臨終の時も強くて、力があり、わたしとながいこと闘いました。さいわいわたしは纏足布を解いてその手を縛ったので、はじめて牽いてくることができたのです」と言った。嫂が「今、どこにいるのですか」と言うと、「窓の外の梧桐の樹の上におります」と言った。嫂が往って見ると、特別な物はなく、髪の毛で一匹の蝿を縛ってあった。嫂は戯れに蝿を取ると裁縫箱の中に入れた。まもなく、饒氏が(とこ)の上で叫び声をあげ、しばらくして蘇ると、こう言った。「ねえさんはふざけすぎです。冥府はわたしが某婦を捕らえてこなかったので、厳重に三十回の板責めにし、期限を設けてふたたび捕まえさせることにさせました。ねえさんはすぐにわたしに蝿を還して、ふたたびわたしが責められぬようにしてください」。嫂がその(しり)を見ると、杖の痕があったので、大いに悔い、蝿を取って渡した。饒氏がそれを取り、口に含んで眠ると、また平静になった。それからというもの、饒氏は人の世のために冥府の事を調べようとはしなかった。

厳秉玠
 厳秉玠は、雲南禄勧県知事となった。県庁の東に三間の偏屋(はなれ)があり、とても厳重に封鎖されていた。狐仙の住処と伝えられていたので、役人が来るとかならず祭っていた。厳は慣例に従って祭った。その妻某はどうしても見ようとし、しばしば門の側で伺ったが、見ることはできなかった。ある日、美しい女が窓に倚りかかりながら、髪を梳いているのが見えた。妻はもともと凶暴で嫉妬深かったので、女が夫を惑わすことを心配し、しもべを率いて棒を持ち、押し入って、さんざん殴った。美しい女は白い鵝鳥になり、地を繞って哀しげに鳴いた。秉玠が印を取り、その背に捺すと、もとの姿を現して地に(くずお)れ、胎児を生みおとして死んだ。胎児は二匹の子狐であった。厳が硃筆を取ってその額に点じると、二匹の子狐も死んだ。大小の狐を取って火に投じると、それからは役所に狐はいなくなり、厳氏も恙なかった。さらに一年経つと、その妻は懐妊し、双子を生んだが、頭上にはそれぞれ一つの紅い点があり、硃筆で点じたもののようであった。妻は大いに驚いて亡くなった。厳は妻を悼んだため、まもなく、やはり病死した。子供は結局育たなかった。

奉新の奇事
 江西奉新の村民である李氏という女は、お産が三日目になっても、胎児がおりなかったので、その姑は三人の娘とともに見守っていた。疲れたため、さらに隣家の婦人三人に頼んで順繰りに見守らせた。一人は姓を孫といったが、子供がまだ襁褓(むつき)を着けており、いっしょに往くことができなかったので、子供を外祖母[14]の家に預けて、長男で名は鍾という者を連れていっしょに往った。鍾はすでに弱冠(はたち)で学校に入っていたが、夜間無聊であることを慮り、一巻の書を持っていった。翌日の昼近く、その家の中からまったく人の声がしなかったので、親戚、隣人は訝って、門を壊して入ったところ、産婦は(とこ)で死に、七人は(ゆか)で死んでいた。七人のうち、六人は、衣服や顔にとりたてて異常がなく、息絶えていただけであったが、孫秀才だけは、体はなおも端坐しており、右手は書物を執ったままであった。その左臂の肩以外は、全身が焼け、足の裏に至るまで、石炭のように黒かった。村じゅうが大いに騒ぎ、お上に訴えた。急いで調査し、ひとまず埋葬するように命じたが、上申するすべはなかった。これは彭芸楣少司馬がわたしに語ったことである。

智恒僧
 蘇州の陳国鴻、彭芸楣先生は丁酉の郷試で採用された孝廉で、性来骨董を好んでいた。家の庭には荷の花を植えた(こう)[15]があり、永いこと持ち上げたことがなかったので、陳は担ぎ上げるように命じ、その款識(かんし)を閲した。(こう)の下にはさらに(かめ)[16]があったが、黄緑色で、模様はとても古く、中に淤泥と朽ちた骨数片があった。陳は骨を水に投じ、(かめ)携えて部屋に入った。夜、夢みたところ一人の僧が来て言った。「わたしは唐の僧智恒だ。おまえが取った磁器の(かめ)は、わたしの骨壺だから、すぐにわたしの骨を還して土に埋めろ」。陳はもともと豪毅であったので、友人に告げ、気に留めなかった。さらに三日が経ち、その母が夢みたところ、長い眉の僧が凶悪な顔の僧を連れてやってきて、「おまえの息子は無礼だぞ。わしの磁器の(かめ)貪り、骨を撒き、訴えても相手にせず、老いているのを侮った。わしの師兄の大千は不平を聞くと、いっしょにおまえの息子の命を取りにきたのだ」と言った。母は目覚めると、しもべに命じて棄てた骨をくまなく捜させたが、一片が残っていただけであった。孝廉を尋ねると、すでに昏迷し、人事不省になっており、十日足らずで病死した。

三斗漢
 三斗漢は、粤[17]の田舎者で、食事のときは三斗の粟だと満腹するので、人々は「三斗漢」と呼んでいた。身長は一丈で、抱きかかえきることはできなかった。鬚は縮れて顔は黒く、市場で乞食していたが、得たものでは満腹することができなかった。ある日、恵州に行ったときのこと、戯れに提督の役所の外で、両手に二つの石獅子を挈げて去った。提督が召すと、二つの石獅子を挈げてきた。提督は、五頭の牛に前で横たえた木を曳かせ、三斗漢に後でそれを挽かせ、牛を鞭で打たせたが、牛が奮いたって奔ろうとしても、結局尺寸も移すことができなかった。提督はその力を珍しがり、軍資金を褒美に取らせ、部隊に入って武術を学ばせようとした。すると、跪いて頼んだ。「わたくしは三斗の粟を食べなければなりませんので、食糧を倍にしてください」。提督はそれを許した。武術を習って一年、馬を馳せればかならず墜ち、矢を放てば中たらないので、歩兵に改められた。鬱鬱として志を得ずに帰ることになり、潮州に遊んだところ、たまたま潮州の東門の湘子橋[18]が修築されていた。橋梁の石は長さ三丈あまり、ェさ厚さはともに五尺であった。土方たちは足場を組み立て、数十人で挽いていたが、上げることができなかった。三斗漢は傍で笑いながら言った。「こんなにたくさんの人々が、顔を赤らめ、背に汗しても、石を上げることができないのか」。人々はかれが勝手なことを言っているのを怒り、試させたところ、足場に登り、ひとりで挽き上げたので、人々は恐れおののいた。橋の(あな)はもともと百数箇所あったが、辛卯の年にその三つが崩れたので、郡丞[19]の范公は俸給を擲って修理を呼びかけていた。かれはこの男がひとりで巨石を挽くことができるのを見ると、費用は省けるし工事は速くなるので、残りの巨石をすべて挽くように命じた。賞金は数十千銭であった。一月足らずで、食べものが尽きたので去り[20]、行方が知れなくなった。ある人は澄江で餓死したと言っていた。

蘇南村
 桐邑[21]に蘇南村という者がおり、病が篤く意識が混濁していたとき、そのしもべに「李耕野、魏兆芳は来たか」と尋ねた。しもべは知らなかったので、いいかげんに返事をした。しばらくするとまた尋ねたので、「来ておりません」と答えると、「人を遣りかれらをすぐに呼んでこさせろ」と言った。しもべは世迷言だと思い、返事しなかった。すると長嘆息して死にそうになったので、しもべはあたふたと健脚のものを市場に奔らせ、紙轎[22]一台を購わせた。買ってきたところ、輿夫(かごかき)[23]の背に「李耕野」、「魏兆芳」の文字があったので、恍然として悟り、急いで焚くと、はじめて息絶えた。輿夫(かごかき)の姓名は、物好きが戯れに書いたものであったが、本当のことになったのも、珍しいことであった。

葉生の妻
 桐城県の西、牛欄鋪の葉生は、筆耕して口を糊し、父兄は農業を兼ねていた。乾隆癸卯の春、その族人の小作人となり牌門荘に耕すことになり、一家はそこに居を移した。その妻は年は十八、もともと温厚、寡黙であったが、たちまち発狂、謾罵するようになった。その声は一つではなかったが、李某だけを「良心を喪いつくし、わたしたち十人の塚を壊して、家を造って、とても良い思いをし、わたしたちの骸骨を踏み、汚している」と罵るのであった。葉生はわけが分からず、隣家の老人に詢ねたところ、家主の李某が康熙の頃墓を潰して家を建てたことが実際にあったのをはじめて知った。そこでその妻を詰った。「墓を潰して家を建てたのは、実は李某がしたことで、わたしとは関わりないぞ」。妻は答えた。「当時、李某は気燄がとても盛んだったので、わたしたちは怒りを忍んで話をせず、しばしば出遊して避けていたのだ。今見たところおまえは家運が低いから、こちらで怒りを晴らすのだ」。罵る声の中では、この獅オい声だけがもっとも凶悪で、九つの声がたまに混じったが、やや穏やかであった。生が家を壊して塚を築くことを約束すると、「家に主人がいるのだから、おまえがみだりに壊すことはできまい。なぜ相談しにゆかぬのだ」と答えた。生が奔って李を呼んでくると、その妻は堂の西の二つの正屋に引いてゆき、指し示して言った。「これは二つの(はかあな)、これは四つの(つか)、その窓の傍は二人の娘の(つか)で、わたしの墓は(とこ)の後ろの壁の下にある」。李が「あなたはどなたなのですか」と尋ねると、答えた。「わたしは阮という姓で孚という名だ。年は二十二、前明正徳年間の儒生であった。白鶴観で勉強し、戯れに道教を学び、羽士[24]と成ったが、たまたま色を貪り、塀を越えたため、辱められ、みずから縊れた。ここに葬られた十人の中で、わたしだけは踏まれ、汚され、とりわけ苦しんでいるので、かれらを集めていっしょに来たのだ」。李が「あなたのお骨はどちらにあるのでございましょう」と言うと、「真ん中の塚を三尺掘り下げろ。黒い色の棺がわたしだ」と答えた。李が躊躇して掘ろうとしないでいると、鬼は罵るのをやめなかった。遠方や近在から宥める者がぞろぞろとやってきたが、尋ねるとかならず答えるのであった。ある人は紙銭を焼いてお願いし、九人の鬼も傍から宥めたが、声はみなその妻の口から出た。縊鬼は罵った。「おまえたち九人の博打うちどもは、葉家の紙銭を受け、おたがいに趕老羊[25]して楽しんでいるくせに、わたしを宥めにきたのか」。それからは九人の鬼は声を立てず、縊鬼だけが騒いだ。生は羽士を招いてお祓いすると、塾師陳某に頼んで薦送文[26]を作らせた。鬼は大声で笑いながら言った。「まずすぎるな。ある故事は使い間違えているし、ある箇所の文辞は鄙俗だ。それにわたしを送る文であるとはな。わたしにお願いするべきで、威力でわたしを脅かすべきではないな」。塾師は慚じ、諾々とするばかりであった。道士が経を誦えるのを少しでも間違えると、かならずきつく責めるのであった。
 生の親戚に程という者がおり、家はもともと豊かであった。かれが門に来ると、鬼は言った。「お金持ちが来た。良いお茶をお出ししろ」。章孝廉甫は生と姻戚であったが、かれがやってくるときは、鬼は「文星が来た。わたしのために墓志を書くように頼んでくれ」と言った。章は一首の律詩を口ずさんで贈った。「そのかみはなど首を吊りたる。遺体(なきがら)は飄りたりぬればここに埋めり。茅屋(くさのや)をみだりに造れば壊し去り、高封(おくつき)をあやまちて壊ひたれば(つちもり)しすでに還せり。これよりはひとり楽しみ黄壤(よみぢ)に安んじたまへかし、また望むらくは憐れみを垂れ翠鬟[27]を放たんことを。法力を借りやがて昇仙したまはば、閶闔[28]をただちに開き仙班にこそ列ならめ」。鬼は謝して言った。「過分のお褒めを蒙りました。(わたくし)風流(いろごと)の罪がございますので、閶闔を開いて仙班に列なることはできません。ただ五、六の二句はまことに仰る通りですから、わたしはご命に従って去りましょう」。去るに臨んで、葉生の字を呼ぶと、告げた。「わたしが道士の懺悔を受けずに、文人の懺悔を受けたのは、長い間の習慣を忘れていないからなのだ[29]。おまえは詩を墓石に刻んで泉壤(よみじ)を輝かしてはどうか」。生の妻は瞑目して語らなかった。一日後、目醒めた。

七人の盗賊が命を求めること
 杭州の湯秀才世坤は、年は三十あまり、范家で家庭教師をしていた。ある日の晩、坐していたが、生徒は四方に散っていた。おりしも冬であったので、風を畏れて、書斎の窓はすべて閉じてあった。夜の三鼓、一燈熒然[30]たるなか、湯が本を読んでいると、窓の外から頭のない男が跳び込んできた。その後ろに隨う者は六人、みな頭がなく、その頭はすべて帯で腰に掛けられていた。かれらは湯を囲むと、それぞれが頭の血を滴らせ、涔涔と冷たく湿った。湯は驚いて声を出すことができなかったが、たまたま童僕が溲瓶を持ってくると、たちまち散じた[31]。湯は地に倒れて目醒めなかったので、童僕は主人に告げた。急いで扶け起こしに来、生姜湯数甌を灌ぐと、目醒めて、くわしくわけを話し、家に帰ることを願った。主人は肩輿[32]を呼んで送らせたが、空はすでにすっかり明るくなっていた。家は城隍山麓にあったが、山に近づくと、湯は輿かきに、家に帰りたくないと告げ、ふたたび館に行くことを願った。かれが言うには、山麓に至る前、夜中に見た七人の頭のない鬼が昂然として高いところに坐しているのが望み見られた、待ちかまえているかのようであったとのことであった。主人はどうすることもできず、館に招いたが、湯はそのまま大いに病み、体は熱く焚かれているかのようであった。
 主人はもともと気が利いたので、その[33]妻を迎えてきて湯薬の世話をさせた。三日足らずで亡くなったが、やがて蘇ると、妻に言った。「わたしは助からない。生き返ったわけは、冥府の恩情により、別れにくるのを許されたからだ。昨日、病が重かった時、青い衣の四人の男がわたしを引いて同行させ、『人が命を償えと告発しております』と言った。到着すると、黄沙が茫茫としていて、冥界であることが分かったので、『わたしは何の罪なのでしょう』と尋ねた。青い衣の者は『みずからお顔をご覧になれば分かりましょう』と言った。わたしは『人は自分の顔を見ることはできません。どのように見るのでしょうか』と言った。四人の青い衣の者は、それぞれ()のある小鏡を贈ると、『映してごらんなさい』と言った。言われた通りにすると、龐然[34]として魁梧、鬚は長さが七八寸、現世での痩せた貌ではなくなっていた。前生は姓は呉、名は鏘といい、明末の婁県の知県であった。七人は、盗賊で、四万両をある所に埋め、捕らえられた後、その金を官に賄して死刑を免れようと謀り、婁県の典史許某に頼んでわたしに請願させた。許はこっそり二万を取ると、二万でわたしに話をした。わたしはその時はっきりと盜みの罪を逃れることが難しいのを知っていたから、拒絶した。許典史は『左氏』の『(なんぢ)(ころ)さば、(へき)(まさ)(いづく)()かん』[35]の言葉を引き、その金を掘って殺すことを求めた。わたしはたちまち貪欲な心を起こし、許の計略に従ったのだが、今では悔いても手遅れだ。四人に隨い、とある処へ行ったのだが、宮闕は壮麗で、中に袞袍[36]の陰官が坐しており、顔色はすこぶる和やかであった。わたしは階の下に拝伏したが、七人の鬼は頭を肩に捧げ、訴えているようであった。訴えおわると、頭を腰に掛けた。わたしが陰官に哀願すると、官は『わしには決まった考えはない。おまえはみずから七人の鬼に恩情を求めるがよい』と言った。そこでわたしは七人の鬼に向かって叩頭すると『高僧を招いて済度し、たくさん紙銭を焼きましょう』と言った。鬼たちはみな承知せず、その頭を腰で揺らして、とても獰悪であった。口を開いて歯を露わにし、近づいてくるとわたしの頚に咬みついた。陰官は怒鳴った。『盜賊よ、無礼はならぬぞ。おまえたちは死ぬべき罪であったのだ。某は法を枉げたのではない。某が良くないのは、おまえたちの金を取ったことだけだ。しかし発案したのは典史で、呉令ではないから、かれの命を取ることを遅らせることもできそうだな』。七人の鬼はそれぞれ頭を頚に載せると、哭きながら言った。『わたしたちはこのものに金を求めているのであって、命を求めているのではございません。このものは朝廷の俸禄を食みながら盜賊の財貨を貪りましたから、やはり盗賊にございます。許典史はもう永いことわたしたちに咀嚼されました。呉令ははじめ転世して美女となり、宋尚書牧仲[37]に嫁いで妾となりました。宋貴人は文名がございましたので、わたくしどもは近づこうとはしませんでした。今ではさらに湯家に転生しているのですが、湯の祖宗はもともと徳を積んでおり、家からは科挙合格者が出るはずでございます。今年の除夜に、文昌君[38]はこのものの姓名を天榜[39]に送りました。一たび天榜に入りますと、邪魔は近づくわけにはゆかず、わたしたちはまた為す術がなくなってしまいます。千載一遇、捉えることは難しゅうございますので、願わくは婦人の仁[40]を施すことのございませぬよう』。陰官は聴きおわると額に皺を寄せて言った。『盜賊にも一理ある。わしはどうすることもできない。おまえはひとまず人の世に戻り、家族に一別するがよい』。そのために、わたしはしばらく蘇ることができたのだ」。そう言うと、ふたたび口を開かなくなった。妻は金銀の紙銭千百万を焼いたが、話をせずに亡くなった。
 湯氏の別房[41]で諱は世昌[42]という者が、翌年郷試に及第し、進士に合格し、詞林[43]に入ったが、人々はみな天榜に名を記された者が換わったのだと思った。

陳清恪公が気を吹いて鬼を退けること
 陳公鵬年[44]が不遇であった時、同郷人の李孚と親しくしていた。秋の晩、月の光を頼りに李を訪ねて閑談した。李はもともと寒士であったが、陳に「女房に酒を求めることはできないから、きみはしばらく坐っていてくれ。わたしは外出して酒を買い、きみと月見しよう」と言った。陳はその詩集を持ち、坐って読みながら待っていた。すると門の外から藍の衣でぼさぼさ髪の婦人が戸を開けて入ってきて、陳を見ると、退いた。陳は李家の親戚が、客を避け、入らなかったのかと疑い、脇に坐って婦人を避けた。婦人は袖に物を入れてやってくると、敷居の下に蔵し、奥に入っていった。陳は何かと疑い、敷居に近づいて見ると、一本の縄で、臭く、血痕があった。陳は縊鬼だと悟り、その縄を取って靴の中に入れると、元通り坐していた。
 まもなく、ぼさぼさ髪の女が出てきて、蔵した場所を探したが、縄がなくなっていたので、怒り、まっすぐ陳の前に奔ってくると、「わたしの物を還せ」と叫んだ。陳が「どんな物だ」と言うと、女は答えず、身を聳やかし、口を開け、陳を吹いた。冷たい風は一陣の氷のよう、毛髪は逆立ち[45]、燈は熒熒として青色となり、消えんばかりであった。陳はひそかに考えた。「鬼でさえ息があるのに、わたしに息がないはずはない」。そこで気持ちを奮い立たせて女を吹いた。女は公に吹かれると、空洞と成った。はじめは腹が穿たれ、ついで胸が穿たれ、結局、頭は消えてしまった。まもなく、薄い煙が散じ尽くすように、見えなくなった。
 ほどなく、李は酒を持って入ってくると、大声で「妻が(とこ)で縊れている」と叫んだ。陳は笑いながら「大丈夫です。鬼の縄はまだわたしの靴にあります」と言い、事情を告げると、ともに入って縄を(ほど)いた。生姜湯を灌ぎ、蘇らせ、「なぜ自殺しようとしたのだ」と尋ねると、妻は言った。「家がとても貧しいのに、あなたはお客を持てなすことをやめられず、頭には一本の釵があるばかりでしたのに、抜き取って酒を買うことにされました。とても悲しく思いましたが、お客さまがおもてにいられることもあり、声を揚げるわけにはゆきませんでした。するとたちまち傍にぼさぼさ髪の婦人が現れ、みずから左隣と称し、夫はお客さまのために釵を抜いたのではなく、賭場に赴いただけなのだと告げました。わたしはますます憂鬱になりました。思えば夜は更け、夫は帰らず、お客は去らず、お客に帰っていただくのは面目のないことでした。ぼさぼさ髪の女は手で輪を作りますと『ここから入れば仏の国で、歓喜は無量にございます』と言いました。わたしはその輪に入ろうとしましたが、手の輪はしっかりしておらず、何度も緩みました。女は『わたしの仏さまの帯を取ってくれば、すぐに成仏できましょう』と言い、帯を取りに出、しばらくやってきませんでした。わたしがぼんやりと夢みるようにしておりますと、あなたがわたしを救いにこられたのでございます」。隣家を訪ねると、数か月前に一人の女が縊死していたのであった。

陳聖涛が狐に遇うこと
 紹興の陳聖涛は、貧士で、連れ合いを喪っていた。揚州に遊んだとき、天寧寺の側の小さな廟に寄寓したが、廟僧はとても粗略に待遇した。陳は廟に閉ざされた小さな楼があったので、僧になぜかと尋ねた。僧は言った。「楼に(もののけ)がいるのです」。陳はどうしても登ろうとし、戸を開けて入った。見れば(つくえ)の上にはすこしも塵がなく、鏡台や(くし)(すきぐし)などがあったので、大いに訝り、僧が女を蔵しているのかと思ったが、言葉には出さなかった。数日経つと、美しい女が楼に倚りかかって窺っているのが見えたので、陳も目で挑んだところ、女は身を躍らせて下り、すでに陳の所に来ていた。陳ははじめて驚いて人ではないと思った。その女は「わたしは仙女ですから、恐がらないでください。宿縁があるのですから」と言うと、とても慇懃に持てなし、夫婦と成った。
 毎月朔日になると、女は七日の暇をとり、「泰山娘娘(ニャンニャン)[46]の処へ往って仕事をします」と言った。陳は女が去ったのに乗じて、その箱を啓くと、金玉(きんぎょく)が燦然としていた。陳はすこしも取らず、元通りに閉ざした。女が帰ってくると、陳はひそかに言った。「わたしはとても貧しいが、おまえにはすこぶる余裕の資金があるから、わたしに貸して、品物を買い商売させてはくれまいか」。女は言った。「あなたは骨相が貧しく、富むことはできませんから、商人になっても無駄です。ひとまず喜ばしいことは、あなたの行いがたいへん正しかったことです。わたしの箱を開いたときに、一分一文も取らなかったのは、尊敬するに足りることです。衣食を援助させてください」。その後、陳は起きては炊事することはなく、台所の仕事は、女が取り仕切った。
 一年あまり経つと、女は陳に言った。「(わたし)が蓄えたお金であなたのために通判を買いましたから[47]、都に赴き投供[48]すれば、すぐに選任されましょう。(わたし)はさきに京師に入り、家を買い、あなたを待つといたしましょう」。陳が「おまえが去ったら、わたしはどこへ訪ねてゆくのだ」と言うと、「とにかく都に入られて、彰義門[49]に行きさえすれば、(わたし)がみずから人を遣わし、お迎えをさせましょう」と言った。陳は言われた通り、女より二月遅れて都に入り、彰義門に行くと、下男が跪いて「ご主人さまはいらっしゃるのが遅うございます。奥さまはながいことお待ちです」と言った。米市衚衕[50]に引いてゆくと、高い外壁、大きな建物、しもべ数十人がいっせいに跪いて迎えたが、叩頭するさまはむかしから仕えているかのようであった。陳もそのわけが分からなかった。堂に登ると、婦人は盛装して出迎え、手を携えて部屋に入った。陳が「しもべたちはどうしてわたしを識っているのだ」と尋ねると、「お静かに。(わたし)はあなたの姿形を借りて吏部に赴き捐納し、あなたの姿形を借りて屋敷を買い契約を立て、しもべたちが身を寄せてきた時も、あなたの姿形を借りて臨んだのです。そのためみんなあなたを知っているのです」と言った。そしてひそかに陳に教えた。「なになにという姓で、なになにという名です、呼んで使う時はわたしが頼むときのようにし、あのものたちに疑われてはなりません」。陳はとても喜ぶと、手紙を家に送った。
 翌年、陳の長男が来て、父がすでに継母と再婚したのを知ると、部屋に入って面会した。母は倍して慈悲深くし、実の子のようにした。子も孝行して逆らわなかった。婦人は言った。「あなたにはお嫁さんがいるそうですが、いっしょに来てはどうですか。来年いっしょに別駕[51]の任地に行くことができますよ」。長男は承諾した。女は舟車の費用を贈り、その妻を都に迎え入れるといっしょに暮らした。ある日突然、門の外に少年が現れて面会を求めた。陳が「どちらさまでしょうか」と尋ねると、少年は言った。「わたしの母がこちらに居ります」。陳が婦人に尋ねると、婦人は「わたしの息子です。(わたし)の前の夫の子です」と言った。呼び入れると、陳を拝し、陳の長男を拝して、兄さんと呼んだ。
 まもなく、女は暇を取り、家に居らず、長男も外出していた。妻の王氏が化粧していると、少年は嫂が美しいのを窺い、窓を開けて入り、抱いて(たの)しみを求めた。王が拒むと、少年は無理強いし、下着を弛め、陰部を嫂に示した。雁首には肉がなく毛があり、尖ってそそり立つさまは錐を立てたようであった。王はますます畏れ憎み、大声で叫び助けを求めた。少年は懼れ、奔り出たが、王の(スカート)はすでに裂けていた。長男は夜帰ったが酒気を帯びており、妻の顔色がふだんと違っていたので、尋ねたところ、くわしくわけを話した。長男はとても怒り、(つくえ)の上の刀を抜くと少年を捜した。少年はすでに寝ていたので、帳の中で斬った。燭台で照らしたところ、一匹の狐が首を断たれて斃れていた。陳はその事を知ると驚き、婦人が休みを終えて帰れば、かならず息子の命を取ろうとするであろうと心配し、その夜のうちに父子(おやこ)して紹興に逃げ帰った。官職の選任には赴かず、一銭も身に着かず、貧しいのは相変わらずであった。

長鬼が縛られること
 竹墩沈翰林厚餘[52]は、若いとき、友人の張姓の者とともに勉強していた。数日張が来なかったため、尋ねたところ、張はたいへん劇しい傷寒を患っていたので、見舞いに行った。門に入ると悄然としていた。堂に昇ろうとしたところ、堂の上にはさきに長人が端坐しており、顔を上げ、堂上の額を見ていた。沈は人ではないと疑い、戯れに腰帯を解くと、そっとその両腿を縛った。長人は驚き、振り返った。沈が「どこから来たのだ」と尋ねると、長人は「張某は死ぬことになっているのだ。わたしは捕り手だが、家堂神に説明してから、手を下して捉えるのだ」と言った。沈は張が「寡婦(やもめ)の母が家にいるし、結婚をしておらず、子供がないから、死ぬことはできない」ので、期限を遅らせるように取りはからってくれと頼んだ。長人も憐れみの顔色を浮かべたが、どうすることもできないと断った。沈が再三頼むと、長人は言った。「一つだけ方法がある。張は明日の午の刻に死ぬことになっているが、それに先立ち、冥土の使い五人がわたしといっしょに門の外の柳の樹の下から入ることになっている。冥界の鬼は永いこと饑え渇いているから、飲食を得るとすぐに物事を忘れてしまう。あらかじめ二つの席を設け、六人の座席を置き、門の外の柳の樹のそばで待つのだ。旋風が下りてきたら、すぐに拱手して門に入れ、座席に招き入れ、丁重に酒を勧めろ。(ひる)を過ぎたら、起ちあがり、散会にすれば、張は免れることができるだろう」。沈は承諾し、すぐに中に入ると張のしもべに語った。期日になると、逐一教えられた通りにした。張は巳の刻になると、意識を失い、正午になると、わずかに息するだけであったが、おもてで宴が散会になると、元気がだんだん回復した。沈は大いに喜んだ。
 帰ってきて一月あまり、夜に夢みたところ以前の長人が痛そうに眉を蹙めて告げた。「以前おまえのために画策したので、張さんは一紀[53]を延ばすことができ、学校に入り、某科の副車[54]に合格し、二子を授かることになった。しかし、わたしは冥界の事を漏らしたために、同輩に告発されて、四十回の板責めになり免職になった。わたしはもともと鬼ではなく、峽石鎮[55]の人足の劉先なのだ。今回、冥府の責めに遭い、再起不能になってしまった。まだ三年の寿命があるから、張さんに話をし、生活費を出させ、わたしの晩年を養わせてくれ」。沈が張に語ると、張はすぐに数十両を持ち、沈とともに舟を雇って訪ねた。その人を捜し当てたところ、まさに癱疾[56](とこ)に臥していた。そこで(とこ)の下で拝謝し、携えてきた金を贈って返った。張はその後まったく夢の中で語られたことの通りとなった。

西園の女怪
 杭郡[57]の周姓の者は、友人陳某とともに邗上[58]に遊び、某郷紳の家に泊まった。時は初秋で、なおも暑さが残っていたが、泊まった部屋はすこぶる狭かった。主人の西の庭園にある数間の書斎は、すこぶる幽静で、山に面し、池に臨んでいた。二人は(ねだい)をその中に移したが、幾晩かは平穏であった。
 ある晩、月見して二鼓になったので、部屋に入って寝ようとすると、庭の外に(きぐつ)で歩む音がし、ゆっくりと吟じるのが聞こえた。「春の花 往事と成りて、秋の月 今宵またあり。振り向けば巫山は遠く、ただ両鬢を凋ましむ」。二人ははじめ主人が出遊しているのかと疑ったが、声が似ていなかったので、衣を羽織ってこっそり見ると、一人の美女が欄杆を背にして立っていた。二人はひそかに語った。「主人の家にこのような人がいることは聞いていないし、装束はとりわけ近時のものとは違う。世にいうところの鬼魅とはこれではあるまいか」。陳は若かったので心を動かし、「このような美人なら、(まもの)でも構いません」と言うと、「美しいかた、部屋に入って話をされてはいかがでしょう」と叫んだ。庭の外では返事があった。「(わたし)は入ることができますが、あなたはどうして出ることができないのですか」。陳が周を引き、戸を啓いて出ると、人はいなかった。呼ぶと、すぐに応えたが、人はいないのであった。声を尋ねてゆくと、樹々の間にいるようであった。じっくり見ると、柳の枝の下に女の首が逆さまに懸かっていた。二人がとても驚いて大声で叫ぶと、首は地に墜ち、跳びはねてきた。二人は急いで部屋に逃げ込んだが、首はついてきていた。二人が門を閉ざして、力一杯押さえると、首は敷居を齧って、がりがりと音をたてた。にわかに鶏が鳴くのが聞こえると、首は跳びはねて去り、池に行き、飛び込んだ。二人は夜が明けると、急いでもとの場所に移ったが、それぞれ瘧を数十日病んだのであった。

雷が営卒を誅すること
 乾隆三年二月、雷が一人の兵卒を撃ち殺した。卒には平素悪い行いはなかったので、人々はみな怪しんだ。同じ営の老卒が人々に告げた。「某は最近は行いを改めて善行をしていたが、二十年前、披甲[59]であった時に一つの事件があった。わたしはいっしょに兵卒をしていたので、よく知っているのだ。某将軍が皐亭山麓[60]で狩りをしたとき、某は幕舎を路傍に立てた。薄暮、若い尼が幕舎の外を通ったとき、辺りに人がいなかったので、引き入れて姦淫しようとした。尼は何度も抵抗し、その(したばき)を遺して逃げた。某が半里ばかり追うと、尼は田舎家に逃げ込んだので、某はがっかりして返った。尼が避けた家には一人の若い女、一人の子供がいるだけで、夫は雇われ仕事のために外出していた。女は尼が入ってきたのを目にすると、拒んだが、尼は事情を語り、哀願し、宿を借りようとした。女は憐れんで許し、自分の(したばき)を貸した。尼は『三日後、帰ってきてお還しします』と約束すると、夜明け前に去った。夫は帰ると、垢のついた衣を脱いで換えようとした。女は(はこ)を啓いたが、見つからなかった。自分の(したばき)はあったので、前日、慌ただしい中、誤って夫の(したばき)を貸してしまったことを悟った。みずからを咎めて話をしないでいると、子供が傍で言った。『昨日の晩、和尚がきて着ていっただけだよ』。夫は疑い、くわしく行動を尋ねた。子供は、和尚が夜にやってきて母親に哀願したこと、どのように泊まったか、どのように(したばき)を借りたか、どのように暗いうちに門を出たかをくわしく告げた。女は必死に尼であって僧ではないと弁明したが、夫は信じず、はじめは罵り、ついで鞭打ちを加えた。女はあまねく隣近所に告げたが、隣近所は真夜中の事だったので、知らないと言った。女は濡れ衣に堪えきれず、ついに縊死したのだ。翌朝、夫が門を啓くと、尼が(したばき)を持って還しに来、籃に入れた菓子をお礼にした。子供は指さして父親に告げた。『この人が、おとといの夜、宿を借りた和尚さんだよ』。夫は悔い、その子をきびしく杖で打つと、妻の柩の前に斃れ、みずからも縊れたのだ。隣近所は、役所に報せればかならず厄介ごとが増えるので、いっしょに納棺、埋葬し、その事件をうやむやにしたのだ。
 翌冬、将軍はまたその地で狩りをした。土地の人には例の事件を語る者がいた。わたしは某卒のことであるのを知っていたが、事はもううやむやになっていたので、それ以上話さなかった。かつてひそかに某に語ると、某も心を動かされ、それからは行いを改めて、善行をし、罪滅ぼしを願っていたが、天誅は絶対に逃れることができないものとは思っていなかったというわけだ」。

青龍党
 杭州で、以前、不良少年が血を啜って結盟し、背中に小さな青龍の入れ墨をして、「青龍党」と号し、郷里に横行していた。雍正末年、臬司[61]の范国瑄は、かれらを捕らえて罰したが、死ぬ者は十のうち八九で、首魁の董超は、逃げてしまった。乾隆某年冬、夢みたところ、その仲間数十人が走ってきて告げた。「あなたは党首で、さいわいに逃れたが、来年、天誅に服するだろう」。董が恐れて計略を求めると、人々は言った。「保叔塔[62]の草庵の僧に身を寄せ、弟子となり、つとめて戒律を守れば、免れることができるかもしれない」。董が夢から覚め、塔を訪ねると、老僧が草庵を結び、趺坐してお経を誦えていた。董は長跪、泣涕し、みずから罪業を述べ、得度して弟子になりたいと願った。老僧は当初、謙遜、謝絶していたが、董が誠実であるのを見ると、髪を剃り和尚にしてやり、昼はお経を誦えさせ、夜は山にいて木魚を敲き仏号を念じさせた[63]。冬から春まで、すこぶる修行に勤めた。
 四月某日、市場から托鉢して帰ると、しばらく土地祠[64]で休んだ。朦朧として眠ると、その仲間がきて促した。「すぐに帰れ。すぐに帰れ。今晩、雷が来るぞ」。董は目覚めると、よろよろと庵に帰った。空はすでに暗くなり、雷の音がしていた。董は夢を僧に告げた。僧は董を自分の膝下に跪かせると、両袖でその頭を覆って相変わらず経を誦えていた。数刻もしないうちに、電光は庵を繞り、霹靂は続けざまに轟いた。あるときは庵の左の石に中たり、あるときは庵の右の樹に中たり、このようなことが七八回続いたが、いずれも中たることはなかった。まもなく、風と雷は収まり、雲は裂け、月が見えた。老僧は禍はすでに去ったと思い、扶け起こすと言った。「これからは何事もないはずだ」。董は驚いた心が少し落ち着くと、老僧に拝謝し、庵の外に出た。するとたちまち電光が爍然として、雷鳴が轟いて、すでに石の上に斃れていた。

陳州の考院
 河南陳州にある学院[65]の庁舎の裏に、封鎖された三間の楼があり、鬼物がいると伝えられていた。康熙年間、湯西崖先生[66]が給諌[67]としてその地を視学[68]したときも、年老いた下役がそう言っていたので、その楼は相変わらず閉ざされていた。おりしも盛夏で、役所には人は多く部屋は少なかった。杭州の王秀才煚、中州の景秀才考祥は、つねに胆力をみずから誇っていたので、居場所を高い楼に移そうとし、湯が聞いたことを告げても、信じなかった。鎖を断って楼に登ると、明窓は四方に開き、梁には一点の塵もなかったので、ますます以前からの話は嘘であろうと疑った。景は楼の表の間に(ねだい)を置き、王は楼の奥の間に(ねだい)を置き、中の一間を起坐する場所とした。
 二鼓になると、景はさきに眠ることにしたので、王は中の間から燭台を持って寝にゆこうとし、景に言った。「人は楼に祟りがあると言っていたが、今まで数晩何事もない、以前の人々は勇気がないので、書吏に騙されたのだろう」。景が答えないでいると、楼の階段の下からゆっくりと登ってくる靴音が聞こえた。景は王を呼んだ。「楼の下で何が響いているんだ」。王は笑いながら言った。「楼の下の人がわざと脅かしにきただけだろう」。まもなく、その人はそのまま上ってきた、景は大いに恐がって、叫んだので、王も起き、燭台を持って出ていった。中の間に行くと、燈の光は縮んで螢火のようになった。二人は驚き、急いで数本の蝋燭を添えて燃やすと、蝋燭の光はやや大きくなったが、色はやはり青緑であった。楼の入り口が開くと、外に一人の青い衣の男が立っていた。身長は二尺、顔の長さは二尺、目、口、鼻はなく髪があった。髪はまっすぐ立っていたが、やはり長さが二尺ばかりであった。二人が大声で楼の下の人を呼ぶと、その(もののけ)は体を倒して下りていった。窓の外の四方からは啾啾然と百種の鬼の声がし、部屋の中の什物はすべて動いた。二人は驚いて死なんばかりであったが、鶏が鳴くとようやく事は収まった。
 翌日、年老いた下役が言った。以前、溧陽の潘公が督学した時のこと、歳試[69]がおわり、翌日は発案[70]で、潘はすでに就寝していた。二更近くになると、たちまち堂上に太鼓を撃つ音が聞こえた。潘が童僕を遣わして尋ねさせると、宿直の下役は今しがたざんばら髪の女が西の考棚[71]の中から出てきて、階を上って大人(たいじん)に面会を求めたと言った。下役が深夜だったので、取り次ごうとしないでいると「わたしは怨みがございますので、大人(たいじん)にお会いして訴えようとしているのです。わたしは人ではなく、鬼でございます」と言った。下役が驚いて倒れると、鬼はみずから太鼓を撃った。役所の中ではみな慌て、為す術もなかった。しもべの張という者は、すこし勇気があったので、出ていって尋ねた。鬼は言った。「大人(たいじん)はわたしに会っても構わないでしょう。今、出てこられないのなら、言伝てをお願いします。わたしは、某県某生の家の下女でした。主人はわたしの容色を貪って姦淫しようとし、従わないと、鞭で打ちました。わたしが夫に話をしますと、夫は酔った後、不遜なことを言いました。すると主人は夜、しもべを率いて、わたしの夫を殺して、馬に食べさせました。翌朝、部屋に入りますと、数人に命じて、わたしを抱き、姦淫させました。わたしが口を極めて罵りますと、大いに怒り、たちまち打ち殺し、裏庭の西にある石の飼葉桶の下に埋めたのです。怨みを抱くこと数年、このたびわざわざお願いをしにきたのです」。そう言うと大声で哭いた。張は言った。「あなたが訴えた某生は、今回、受験しにきているのか」。鬼は言った。「来ております。すでに第二等第十三位に採られました」。張は寝所に入って潘公に告げた。公は十三位の答案を開いて見ると[72]、某生の姓名であったので、張を出して慰めさせた。「府県に檄を飛ばして調査してやろう」。鬼は天を仰ぐと長嘯して去った。潘は翌日すぐさま調査するように県に檄を飛ばしたところ、石の飼葉桶の下に女の屍があったので、生を処刑した。これは役所の一異聞であったが、楼の上の(もののけ)は、結局何の(もののけ)なのかは分からなかった。王は後に孝廉に挙げられ、景は後に侍御となった。

符離の湖南の客商のこと
 康熙十二年冬、湖南の客商が山東で交易し、徐州から符離に行った。二鼓の頃、北風がとても強かったが、路傍の酒肆には燈火がまさに煌々と点っていたので、入って飲み、すぐに宿を借りようとした。店の人は嫌そうにしていたが、老人はかれが困っていることを憐れんで、「食事を設けて、はるばる帰ってきた兵を持てなすことになっておりますので、お飲みいただく余分な酒はございませんが、右に耳房[73]がございますから、しばらく泊まることができます」と言うと、客商を引き入れた。
 客商はたいへん饑え渇いていたので、眠ることができなかったが、おもてで人馬の喧しい声が聞こえたので、訝しく思い、起きて、入り口の隙間から窺うと、店の中は床全体がすべて兵士であった。地に蹲って飲食し、戦場の事を語っていたが、みなそれほどはっきりとは見えなかった。まもなく、人々は叫んだ。「大将が来られた」。はるかに先払いの声がすると、みな走り出て迎えた。見ると紙燈(ちょうちん)数十が、入り乱れながらやってきて、一人の立派な長い髯の者が馬を下り、店に入り、上座に着いた。人々は門の外に立っていた。店の主人が酒食を出すと、飲み食いする音がした。それがおわると、兵士たちを呼び入れて。「おまえたちは久しく遠出していたから、それぞれひとまず部隊に帰れ。わしも少し休んで、文書が来てから、行っても遅くはないだろう」と言い、人々が承知して退くと、すぐに「阿七、来い」と叫んだ。少年の兵士が店の左の入り口から出てくると、店の中の人は入り口を閉じて隠れていった。阿七は長い髯の者を引いて左の入り口に入ったが、門の隙間からは燈が漏れていた。客商は右の耳房からひそかに左の入り口の隙間に行って覗いた。見ると中には竹の(とこ)があったが、寝具はなく、燈は(ゆか)に置かれていた。長い髯の者は手を伸ばしてその頭を揺らすと、頭はすぐに墜ちたので、(とこ)の上に置いた[74]。阿七がその左右の臂を取ると、やはりみな墜ちたので、(とこ)の内と外に分けて置いた[75]。そのあと身を(とこ)に倒して臥すと、阿七はその身を揺らしたが、腰から下が二つに裂けて、地に倒れた。燈もたちまち消えた。客はひどく胸騒ぎがし、耳房に飛んでゆくと、袖で顔を掩って臥し、輾転として眠ることができなかった。
 やがて遠くで鶏が一声二声鳴くのが聞こえ、だんだんと体が冷たく感じられた。袖を除けると、空はかすかに明るくなり、身は樹の茂みの中に臥していた[76]。曠野に家はなく、墳墓もなかった。寒さを冒して三里ばかり行くと、はじめて宿があった。宿の主人は門を開いたばかりで、迎えると尋ねた。「お客さまはどうして早くに来られましたか」。客は遇った者たちのことを告げ、宿った所はどんな所かと尋ねると、「こちらはすべて古戦場です」と言った。

徐氏が疫病で亡くなること
 雍正壬子の冬、杭城の徐家は娘を某家に嫁がせた。杭州の風俗では、一ヶ月で双回門の礼[77]を行うのであった。この日、婿は徐家で酒を飲み、徐は(ねだい)を庁楼の一階に設けた。婿は床に就いたが寝ないでいると、楼の階段を歩く音がし、四人の男が楼を下りてきて燈の前に立った。一人は紗帽[78]朱衣、一人は方巾[79]道服[80]、ほかの二人はいずれも暖帽[81]皮袍で、ともに嘆息していた。まもなく、女の装いの者五人もやってきて、燈の前で顔を掩って泣いた。高齢の婦人が帳の中を指して「この人に托することができますか」と言うと、紗帽の者は手を振って「駄目です」と言い、泣きながら「張先生にわが一門の血脈を残すことをお願いするしかありません」と言った。たがいに慰め、ある人は坐し、ある人は歩いていた。婿はひどく胸騒ぎがして、声を出せなかった。五鼓になると、人々は扶けあいながら楼に上っていった。すると、卓の下からたちまち一人の黒い顔の男が出てきて、急いで階を上ると、紅い衣の者を挽き「なぜわしのために血脈を残すことができぬのだ」と言った。紅い衣の者は諾々としていた。時しも、鶏が鳴いたので、黒い顔の男は卓の下に奔り去った。婿は窓がかすかに明るくなるのを待ち、衣を羽織って中に入り、楼の上には誰が住んでいるのかと尋ねると、「新年に祖先の神像を祭りますが、住んでいる人はおりません」と言った。婿は楼に上って像を見たが、衣装、容貌は見たものと違っていたので、事情が分からず、秘して語らなかった。
 これより前、徐家の三子はみな張有虔先生に教えを受けていた。この年、張は松江で家庭教師をしていたが、五月に、母が病んだので帰ることになり、その弟子に代理しにゆくように頼んだ。徐はもともと金持ちだったので、みな外出しようとしなかった。張が強いると、主人は第三子を往かせることにした。阿寿という者は、奴隷の産んだ子であったが、張にまめまめしく仕えていたので、ともに往かせた。主僕が出ていって、二十日足らずで、杭州では蝦蟆瘟[82]が大流行した。徐の一家の老若十二人のうち、死んだ者は十人であったが、第三子と阿寿だけは外出していたので免れ、訃報を聞いて、帰ったのであった。婿が見たことを語ると、徐は愕然として言った。「阿寿の父は名を阿黒といいました。顔が黒かったからです。あなたが見た卓の下から出てきた者がそれです」。

蒋文恪公が二事を説くこと
 わたしの座主[83]蒋文恪公[84]は、李広橋[85]に邸宅を賜わった。みずから言われるには、若いとき(うてな)で勉強していたが[86]、その場所は他の棟と遠く隔たっており、毎晩坐して人を呼ぶと、いつも返事はあるものの人は来ないということであった。ある晩、小便しようとしたが、窓の外の月はさほど明るくなく、伴う者もいないので、付き従っている童僕の名を呼ぶと、返事があった。入ってくるように命じたが、入ってこなかった。戸を啓いて出ると、一人の男がおもての塀の敷居に枕し、頭を中に向けて応えているのであった。公ははじめ童僕が酔ったのかと疑い、罵ったが、相変わらず臥していた。公は怒り、敷居の(ほとり)に行き、撲とうとしたが、臥している人は身長が三尺、方巾、p衣、白鬚で、世で造られている土地[87]のようであった。公が怒鳴ると、その人は冉冉として消えた。
 公の父文粛公は子孫を戒めて役者に近づかせなかった。そのため文粛が在世中は、劇を演じて客を持てなす事はなかった。文粛が歿して十年の後、文恪はわずかに劇を演じたが、俳優を養おうとはしなかった。老僕の顧升は文恪が閑坐している時に乗じて、梨園のことに言及し、唆した。「そとの役者はしょせんお抱え役者の良さには及びませんし、呼び出すのにも便利です。家では奴隷の産んだ子がたいへん多うございますから、師匠を招き、数人のしもべを択び、演じさせてはいかがでしょうか」。文恪は心が動いたが、答えなかった。するとたちまち顧升は驚き怖れ、顔色がにわかに変わり、両手に枷を嵌められたかのように、身は地に倒れ、頭を椅子の脚の中に潜り込ませ、第一の椅子の脚から第二の椅子の脚、第二の椅子の脚から第三の椅子の脚に潜り込み、首から足まで、匣に納まったようになり、呼んでも応えなかった。公は急いで巫医を召し、あれこれお祓いしたところ、夜半にようやく蘇り、こう言った。「ああ恐かった。恐かった。さきほど話を終えた時、一人の長人が(わたくし)を掴んで外に出たのです。亡くなった老旦那さまが堂上にいらっしゃり、声、顔を荒げて、こう仰いました。『おまえはわが家の世僕[88]なのだから、わしの遺訓を、おまえが知らぬはずはあるまい。五郎を導き役者を養わせることはできないぞ。縛って四十回殴り、活きながら(ひつぎ)の中に入れてやる』。(わたくし)は悶絶し、為す術がありませんでした。最後に遠くで呼ぶ声が聞こえましたが、(わたくし)は棺の中におりましたので、応えようにも応えることができませんでした。後にややすっきりといたしましたが、どうして出られたのかは分かりません」。その(しり)を調べると、青黒い痕があった。

猟師が狐を除くこと
 海昌の元化鎮に、金持ちの家があり、楼の上には三間の寝室があった。昼、人々はみな楼を下りて家事をしていた。ある日、その家の婦人が楼に上って衣服を取ろうとしたところ、楼の入り口は内側から閉じられ、閂が嵌められていた。そこで、家の人々はみな下に居るのに、誰がこんなことをしたのだろうと考え、板の隙間から覗いたところ、男が(とこ)に坐していたので、泥棒かと疑い、しもべを呼んで一斉に上ってこさせた。その男は大声で「わしは家をこの楼に移すことになっているのだ。わしはさきに来たが、家族たちはもうすぐやってくる。おまえの(とこ)と卓を借りるが、ほかの物はおまえに還そう」と言うと、窓から箱などのこまごまとした物を地に擲った。まもなく、楼の上に聚まって語る声が聞こえ、三間の部屋に、老いたもの幼いものが雑沓し、盤を敲いて唱った。「(あるじ)どの。(あるじ)どの。千里の客が参ったに、酒一杯もござらぬぞ」。その家では畏れ、酒四卓を調えて庭に置くと、その卓はすぐに宙に浮き、上ってゆき、食べおわると、また空から投げおろされてきた。その後は、さほど悪事をすることはなかった。
 金持ちの家では道士を招いて厄払いすることにした。外で相談を決めて帰ると、楼の上の人がまた唱った。「狗道士、狗道士、来られるものならやってきな」。翌日、道士がやってきて、祭壇を設けたが、物に打たれたかのように、よろよろと奔り出てきた。一切の神像法具は、すべて門の外に撒かれた。それからというもの、昼も夜も安らかではなかった。そこで、江西に行き、張天師に頼んだところ、天師は道士某を来させた。(もののけ)はやはり唱った。「天師よ、天師、なす術もあるまいぞ。道士よ、道士、来ても無駄だぞ」。すぐに道士がやってきたが、人がその首を掴んで擲ったかのように、顔は破れ、衣は裂けた。道士は大いに慚じて、言った。「この(もののけ)は力が強いので、謝道士を招いてくれば宜しいでしょう。謝は長安に住んでおり、某観[89]の中に居ります」。主人が謝を迎え、祭壇を設けて法術を施させると、(もののけ)は唱わなくなった。金持ちの家はとても喜んだ。するとたちまち一すじの紅い光とともに、白鬚の者が空中から楼に来て、叫んだ。「謝道士を畏れるな。謝が行う法術を、わたしは破ることができるぞ」。謝は(ひろま)の前に坐して呪文を誦え、鉢を地に擲ったところ、飛ぶように動き、(ひろま)の周りを旋回し、何度も楼に飛び上ろうとしたが、結局、上ることができなかった。まもなく、楼の上で銅の鈴が振られ、瑯瑯と音が響くと、鉢は地に落ち、ふたたび動かなくなった。謝は驚いて「わたしは力が尽きました。この(もののけ)を除くことはできません」と言うと、すぐに鉢を取って逃げてしまった。楼の上の歓呼の声は塀の外まで届いた。それからは、ありとあらゆる祟りをなし、このようなことがさらに半年続いたのであった。
 晩冬、大雪が降ると、猟師十余人が宿を借りにきた。その家は「宿を貸すのは簡単ですが、厄介ごとがあるでしょう」と告げたが、猟師は言った。「それは狐です。わたしたちは狐を狩る者ですから、焼酎を飲んで酔わせてくだされば、ご恩返しをいたしましょう」。その家はすぐに酒を買い、肴を調え、内にも外にも巨きな蝋燭を燃やした。猟師は騒いで飲み、大いに酔い、それぞれ火縄銃を出し、火薬を詰めると、空に向かって放った。煙は天を覆い、夜もすがら震動し、夜明けになって雪が止むとようやく去った。その家は狐が驚いてさらに祟りをなすことを心配したが、一晩中悄然としていた。さらに数日経ったが、何も聞こえなかった。楼に上って見たところ、たくさんの毛が(ゆか)に落ち、窓格子はすべて開いて、(もののけ)は遷っていた。

最終更新日:2008624

子不語

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[1] 唐建中。『国朝耆献類徴』巻百二十四に伝がある。太史は翰林。

[2] 血縁があるもので、自分とは別姓のもの。

[3] 郷試。

[4]文昌帝君。文昌星君。写真

[5] 科挙の試験場で、答案を書く独房。

[6] 関帝廟。

[7] 江蘇省の県名。

[8] 夫婦がための杯。

[9] 江蘇省の湖名。

[10] 未詳。

[11] 原文「奉本官拘人」。脱字があると思われるが未詳。とりあえずこう訳す。

[12] 蝗の害を防ぐ神。光緒十年『畿輔通志』巻百十三参照。同書は八蠟廟多数を載せる。

[13] 神の名。蝗を防ぐ。『大漢和辞典』引『畿輔通志』「元末有指揮官劉承忠、駐守江淮、有猛将之号、会蝗旱、承忠督兵捕逐、蝗死殆尽、後元亡、自溺死、土人祀之、称之曰劉猛将軍」。

[14] 子供から見ての外祖母のことであろう。

[15] 睡蓮鉢状の、上が広く下が狭い甕。

[16] 口が小さく腹の大きな容器。

[17] 広東省。

[18] 広済橋。潮州の東にある名橋。国家文物事業管理局主編『中国名勝詞典』八百四十一頁参照。

[19] 知府の副官。

[20] 原文「食盡去」。未詳。とりあえずこう訳す。

[21] 未詳。桐城のことか。

[22] 葬具の一種。紙で作った轎。

[23] これも紙で作られた葬具。

[24] 道士。

[25] さいころ賭博の一種。さいころ六つをち、同じもの三つを除き、残りのさいころの点数の多少で勝負を決める『紅楼夢』第七十五回にも出てくる。

[26] 未詳だが、亡魂を追善し、追い払う文であろう。

[27] 本来女子のまげ。ただ、ここでは女性、葉生の妻のことであろう。「黄壤」と対にするための措辞。

[28] 天の門。『楚辞』離騒「倚閶闔而望予」王逸注「閶闔天門也」。

[29] 原文「吾不受道士懺悔、受文人懺悔、亦未忘結習故也」。「結習」は長い間の習慣。ここでは儒学を勉強していたこと。

[30] 光が微弱なさま。

[31] 原文「適館僮持溺器來、一衝而散」。「衝」の主語は童僕であろう。童僕の気に圧倒されて幽霊が散じた。

[32] 図:『三才図会』

[33] 湯の。

[34] 大きいさま。

[35] 「おまえを殺せば璧はどこへも行かないだろう」。衛の荘公が己氏に殺されそうになったとき、璧を差し出して逃れようとしたが、己氏がこの台詞を吐いて荘公を殺した。『左伝』哀公十七年。

[36] 袞衣。帝王や高官の礼服。黒地に龍が刺繍してある。

[37] 宋犖。吏部尚書。『清史稿』巻二百八十などに伝がある。

[38]文昌帝君。文昌星君。写真

[39] 未詳だが、天上の合格掲示板であろう。

[40] つまらない情け。『史記』淮陰侯伝。

[41] 未詳だが、支族のことであろう。

[42] 『国朝耆献類徴』巻百三十七などに伝がある。乾隆十六年進士。

[43] 翰林院。

[44] 湘潭の人。『清史稿』巻二百八十三などに伝がある。

[45] 原文「毛髮噤齘」。未詳。とりあえずこう訳す。「噤齘」は本来歯噛みすること。『漢語大詞典』はこの例を引き「毛髪森森竪立貌」とする。

[46] 泰山府君の娘碧霞元君のこと。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千五百六頁参照。

[47] 原文「妾所蓄金已為君捐納飛班通判」。「捐納」は金を払って官位を買うこと。買官。「飛班」は未詳。『漢語大詞典』はこの例を引き「不按次序、提前就職」とする。

[48] 官吏に選任されるのを待つものが吏部に履歴書を投じること。

[49]現在の広寧門。『明宮史』巻二「広寧門即俗称彰義門也」。

[50] 現在の北京市宣武区の街巷名。刑場として有名な菜市口の南側。

[51] 通判。

[52] 沈樹本。『国朝耆献類徴』巻百二十四などに伝がある。官は編修。竹墩は未詳。

[53] 十二年。

[54] 副榜貢生。

[55] 浙江省海寧県の鎮名。

[56] 癱瘓。四肢の麻痺。謝観等編著『中国医学大辞典』千五百十二頁参照。

[57] 未詳だが、杭州府のことであろう。

[58] 江蘇省揚州府の東北部。

[59] 八旗の兵。

[60] 浙江省の山名。

[61] 布政司。

[62] 杭州府にある塔名。国家文物事業管理局主編『中国名勝詞典』三百七十頁参照。

[63] 原文「夜沿山敲木魚念佛號」。「沿山」が未詳。とりあえずこう訳す。

[64] 土地神を祭った祠。土地神の写真

[65] 官名。学政。学台。

[66] 湯右曾。『清史列伝』巻九などに伝がある。

[67] 六科給事中。

[68] 学校で歳試を挙行すること。

[69] 学校が生員に対して行う試験。官吏登用試験とは別。

[70] 試験の成績を発表すること。

[71] 試験場。

[72] 試験答案は、情実が絡むのを防ぐために、答案を書いた者の名が封じられている。

[73] 母屋の両脇にある小部屋。

[74] 主語は長い髯の者と解す。

[75] こちらの主語は阿七であろう。

[76] 原文「身乃臥亂樹中」。「亂樹」が未詳。とりあえずこう訳す。

[77] 回門礼に同じ。嫁の里帰り。葉大兵等主編『中国風俗辞典』百二十五頁参照。

[78] 烏紗帽。写真

[79] 図:『三才図会』

[80] 道衣。図:『三才図会』

[81] 冬春期の礼冠。『清稗類鈔』服飾「暖帽者、冬春之礼冠也」。写真

[82] 病名。謝観等編著『中国医学大辞典』千三百九十三頁参照。

[83] 進士が、自分が合格したときの試験官をいう。

[84] 蒋溥。常熟の人。『清史稿』巻二百九十五などに伝がある。

[85] 未詳。

[86] 原文「少時讀書平台」。「平台」が未詳。『漢語大詞典』は杜甫の詩などの例を引き「供休憩、眺望等用的露天台榭」とする。ただ、この箇所に出てくる「平台」は、後ろの記述によれば、窓があるようなので、露天のものではあるまい。高いところに築かれた、平屋の簡易な建物ではないか。そう解す。

[87] 土地神。写真

[88] 代々仕えたしもべ。

[89] 観は道観のこと。

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