第三巻

 

烈傑太子
 湖州烏程県庁の前に廟があり、神は「烈傑太子」と称されていた。言い伝えでは、元末の頃、勇ましい少年が郷里の兵を集めて起義し、張士誠の部将とともに戦死したので、土人は哀れみ、廟を立ててやった、「烈傑」と称するのは、かれが勇烈で豪傑とみなすことができるからだということであった。
 乾隆四十二年、県民の陳某が廟にお参りしたところ、邪気に触れて自縊した。その兄の正中という者は、剛直の士であったが、廟は神霊の棲む所で、悪鬼がいるはずはないと思い、往って詢ねた。廟祝は言った。「今年参拝しにきた方は、すでに二人が縊死しています」。正中は大いに怒り、童僕たちにそれぞれ鋤や武器を持たせて廟に入らせ、その神像を壊した。村人たちは大いに驚き、騒然とし、神明を怒らせれば、近隣の禍となるだろうと考え、上申書を県庁に投じ、正中の乱行を訴えた。正中はつぶさに事情を訴え、こう言った。「『烈傑太子』の四字は、史伝に見えず、志書にも見えず、あきらかに五通神鬼[1]と同じで、正神[2]ではございませぬ。今、わたくしは神像を破壊したため、同郷の怒りを招きましたので、資金を出して廟を修理し、ほかに関聖の神像を立て、同郷のために幸福を祈ろうと思います」。県令の某はその言葉が正しいのを嘉し、願いに同意し、審理を打ちきった。このようにして二月(ふたつき)、廟はすこぶる平安であった。
 すると突然、孫という姓の家の一人娘、年はすでに二十歳近くのものが、邪病[3]に罹り、やぶにらみになり、眉を逆立て、みずから烈傑太子と称し、「悪人に神像を壊されて、身を置く所がないから、わたしに酒と食事を出せ」などと言った。その家の供え物がすこし遅れると、この女はみずからその頬を打ち、哀号し、苦しんだ。女の父は正中の家に往くと咎めた。正中は大いに怒り、桃の枝を持ち、すぐに女の家に往き、大声で叫んで入ると、「『怨恨には理由があり、借金には貸主がいる』[4]、おまえの像を壊したのはわたしだ。わたしがこちらにいるのに、おまえは復讐せず、人さまの若い娘を苛め、酒食を脅し取ろうとするとは、何が烈で何が傑だ。恥知らずの小人に過ぎぬ。今すぐに去れ」と言った。女は驚き懼れた声で言った。「紅い顔の悪人がまた来た。去りましょう。去りましょう」。女はたちまち正気になった。その父が正中を留めてその家に泊まらせると、女は無事であった。しかし正中がたまたま外出すると、鬼は元通り祟った。そこで正中はその父と謀り、村の年少の者を択んで嫁がせた。それからは(もののけ)はいなくなり、病も癒えた。

秀才
  南昌の裘秀才某は、夏、夕涼みし、裸で社公廟[5]に臥したが、家に帰ると大いに病んだ。その妻は社公を怒らせたのだと思い、酒食を具え、香紙[6]を焼き、秀才のために謝罪すると、病はたして癒えた。妻が秀才に命じて社公に謝りにゆかせようとすると、秀才は怒り、牒呈[7]を作って城隍廟で焼き、社公がかれから酒食を脅し取ろうとし、勢いを恃んで(あやかし)となっていると訴えた。焼いて十日間は寂然としていたので、秀才はさらに怒り、催呈[8]を焼き、城隍神が属官が賄賂を貪ることを放置していれば、血食を供えるのは難しいと責めたてた。その夜、夢を見たところ、城隍廟の塀に批条[9]が貼られており、こう書いてあった。「社公は人から酒食を脅し取り、官箴を汚したので、免職させる。裘某は鬼神を敬わず、余計なことをし、訴訟を好んだので、新建県に送って三十回の板責めにする」。秀才は目醒めると、心に疑いを懐き、自分は南昌県人なのだから、たとい処罰があるとしても、新建地方ということはありえない、夢はかならずしも中たらないだろうと思った。
 まもなく、雨が降り、雷が社公廟を撃つと、秀才はようやく心配になり、門を出ようとしなかった。一月あまりすると、江西巡撫の阿公[10]が廟に入ってお参りしようとしたところを、仇敵に斧で額を切られたので、役人たちはみな集まり、下手人を捜査、捕縛した。秀才は珍しいことだと思い、急いで野次馬しにいった。新建の県令はその顔付きを見ると訝り、怒鳴って「何者だ」と尋ねた。秀才はしどろもどろで一言も話すことができず、身に長衫を着けていたものの、頂帯[11]もなかった。県令は怒り、町中(まちなか)で三十回板責めにした。それがおわると、はじめて「わたしは秀才で、裘司農の同族です」と称したので、県令も大いに悔い、豊城県の掌教[12]に薦めてやったのであった。

摸龍阿太
  杭州の少宰[13]姚公三辰は、外科の医術をその家に伝えていた。言い伝えでは、少宰の先祖は真夜中に薬草を採って帰ろうとし、西溪[14]を過ぎたところ、酔って澗に墜ちたとのことであった。手で石に縋ると、滑らかで、軟らかく、ぬるぬるとして、ゆっくりと動いていたので、驚いて蛇だと思った。まもなく、姚を負うて岸に上ると、両目は燈のよう、照らされた頭には鬚と角があった。地面に(くずお)れると、空に騰がっていったので、はじめて龍であったと悟った。両手の涎に触れた処は、香りが数か月散ぜず、これで薬を撮むと、たちまちに癒えるのであった。子孫は言い伝えて、「摸龍阿太」と呼びなした。「姚籃児」とも号したが、それは薬草を採るときに籃を持っていたからであった。人の病を癒やすときはいつも、謝礼を受けなかった。そのため(まご)は官位が二品に至り、人々は陰徳の報いであると思ったのであった。

水仙殿
  杭州の学院[15]が試験を行うことになった[16]。廩生たちは明倫堂[17]に集まり、たがいに受験する童生を保証するが、これを「保結」と称した。廩生の程某は、家で朝早く起きると、衣冠を正して門を出た。行くこと二三里、家に還り、戸を閉ざして坐すると、嚅嚅として人と語っているようであった。家人は怪しんだが、尋ねようとしなかった。まもなくまた出てゆき、しばらく帰らなかった。明倫堂で保証を待つ童生がその家に行き、消息を尋ねると、家人は愕然とした。驚き、訝り、尋ねていると、程某は桶職人に扶けられながら帰ってきたが、衣服は湿り、顔は黒い泥で汚れ、目を見張ったまま語らなかった。生姜汁を灌ぎ、硃砂を塗ると、はじめて声を出し、こう言った。「わたしが門を出ると、街で黒い衣の男がわたしに向かって拱手した。わたしはすぐにぼうっとし、ついていった。男は言った。『家に行き、荷物を整理し、わたしといっしょに水仙殿に遊ばれるのは、いかがでしょうか』。そこで、わたしはかれを引いて家に行き、携帯している鍵を腰に縛り、いっしょに湧金門を出て、西湖の辺に行ったのだ。見れば水面の宮殿は金碧に光り輝き、中では数人の美女たちが、艶やかな装いで、歌い、舞っていた。黒い衣の男はわたしに向かって指さすと言った。『こちらは水仙殿です。この宮殿で美女を看るのと、明倫堂に行き童生を保証するのと、どちらが楽しいでしょうか』。わたしは言った。『こちらのほうが楽しいです』。そして体を伸ばして泳ごうとすると、たちまち白髪頭の翁が後ろで怒鳴った。『悪鬼が人を迷わしておるのだ。往くな。往くな』。じっくり見ると、死んだ父だった。黒い衣の男は死んだ父と殴り合った。死んだ父が負けそうになると、たまたま桶職人が来たのだが、熱風が水の中に吹き込んだかのようだった。黒い衣の男は逃げ、水仙殿と死んだ父も見えなくなったので、家に戻ってくることができたのだ」。
 家人は厚く桶職人に謝し、救ったときの事情を尋ねた。職人は言った。「今日は、湧金門内の楊家でわたしを呼んで桶に箍を嵌めさせようとしたのです。西湖を過ぎると、天気は熱かったのですが、眺めると地面に傘が一本落ちておりましたので、取りにゆき日を遮ろうとしたのです。傘のそばに行きますと、水中でぼちゃんと声が聞こえましたので、はじめて人が水に落ちたのに気付き、扶け上げたのです。お宅の旦那さまは、頭を埋め、沈もうとしていましたが、長いこと持ちこたえられ、やっと脱け出し、帰ることができたのでございます」。その妻は言った。「人はいまだに死なない鬼、鬼はすでに死んだ人です。人は鬼を人にしようとしないのに、鬼がむりやり人を鬼にすることを好むのは、なぜでしょう」。するとたちまち空中から返事があった。「わしも生員で書を読む者だ。書に『(それ)仁は、己立たんと欲すれば人を立て、己達せんと欲すれば人を達せしむ』[18]と言う。われら鬼は、自分が溺れようとしたから人を溺れさせ、自分が縊れようとしたから人を縊るのだ、何のよくないことがあろうか」。そう言うと、大いに笑って去った。

塩船火災の一件のこと
  乾隆丁亥、鎮江で城隍廟を修理した。その仕事を監督したのは、厳、高、呂の三家で、帳簿を作って布施を求めた。ある日、朝、雨が降っていたが、婦人が肩輿[19]でやってくると、袖の中から銀一封を出し、厳に渡して言った。「これは廟を修理する銀五十両です。帳簿にお載せください」。厳は姓氏と住所を尋ね、登録しようとした。婦人は言った。「ささやかな善行ですから、名を留めることはございません。金額をしっかり記録していただければよいのです」。そう言うと、去っていった。高、呂の二人が来ると、厳は事情を述べ、どのように登録するかを相談した。呂は笑いながら言った。「帳簿に載せてどうする。知る人がいないうちに、三人で分けあっても、障りなかろう」。高は言った。「それはよい」。厳はとんでもないと思い、急いで止めた。二人は聴かなかったので、厳はどうすることもできず、去っていった。高、呂は銀を山分けした。竣工に及んでも、この事は厳一人が知るだけであった。八年後、乙未の年、高は死に、丙申の年、呂も亡くなった。厳はまだ人々に話さなかった。
 戊戌の春、病を患うと、二人の使者が令状を持ってきて厳に言った。「一人の婦人が城隍の下でおまえを訴えたから、わたしたちは命を奉じて拘引、訊問する」。「どんな事を告げたのですか」と尋ねたが、使者も知らなかった。厳とともに歩き、廟の門の外に行くと、気候は厳しく冷たく、ふだん占いしている者たちもいなかった。門内の両脇は、もともと人が住んでいたが、この時見たのは、すべて下役、班房[20]であった。仙橋を過ぎ、二門に行くと、一人の枷を帯びた囚人が叫んだ。「厳くんが来たか」。見ると、高生であった。かれは厳に向かって泣きながら言った。「乙未の年に世を去ってから、今まで四年、苦しみを受けているが、すべて人の世の罪の罰なのだ。目下、枷の刑期が満ちて、転生することができるようになったが、廟を修理する銀を横領した一件が発覚したため、こちらに捕らわれ訊問されているのだ」。厳は言った。「その件は、もう十数年を隔てているのに、何で突然発覚したのだ。あの婦人が告発したのか」。高は言った。「違う。あの婦人は今年二月に寿命が尽きた。鬼は、善いものも悪いものも、みな城隍府に護送される。あの婦人は善人で、幾人かの善行をした鬼とともに護送されてきて審理された。城隍神は戯れて尋ねた。『おんみはずっと善行をする場所があればすぐに趨いていたのに、去年、本役所が庁舎を修理したときに、おんみひとりが費用を惜しんだのは、なぜなのだ』。婦人は言った。『鬼婦(わたくし)はその年の六月二十日に、銀五十両を公の所にお送りしました。厳という姓の生員が受け取りました。ささやかな善行と思い、帳簿に名前を留めようとはしませんでしたので、神さまはご存じないのでございます』。神はすぐに癉悪司に命じてくわしく事情を調べさせたので、おもわず洗いざらいぶちまけてしまったのだ。きみには忠告の発言があったから、きみを捕らえてきて対質するのだ」。厳は尋ねた。「呂くんは今どこにいる」。高は嘆いた。「あのひとは生前罪が重かったので、すでに無間獄の中にいる。銀を分けた一件のためだけではないのだ」。話していると、たちまち二人の使者が来て、「城隍さまのおなり」と言った。厳と高らは下役に隨って階の下に立った。二人の童子が彩幢[21]を持ち一人の婦人を引いて殿に上らせ、さらに一人の枷に掛けられた囚人を牽いてきたが、それが呂であった。城隍は厳に言った。「善女の銀はおまえの手に渡されたのか」。厳は逐一正直に申し上げた。城隍は判官に言った。「庁舎の修理に関わることで、わたしの専管事項ではない、東嶽大帝に申告して決定を下すべきだ。すみやかに文書を整え上申するのだ」。そして二人の童子に婦人を送り帰させた。
 二人の使者は厳と高、呂二生を護送して廟から出した。西門を過ぎると、道中、男でありながら女の衣を着けた者、女でありながら男の服を着けた者、頭に塩の叺を被せている者、羊、狗の皮を羽織った者が、紛紛として目に満ちた。耳には人々の言葉が聞こえた。「乾隆三十六年、儀徴の塩船火災の一件で、焼死、溺死した者は、今日、業が満ちたから、転生することができるぞ」。二人の使者は厳に言った。「大帝さまがお役所に(いま)すのは得難いことだ。今すぐ文書を投じよう」。やがて疾走してきて叫んだ。「文書はすでに提出したから、おのおの進み出て点呼を受けろ」。厳たちは急いで趨った。立つ場所が定まらないうちに、殿上から判結が聞こえた。「護送されてきた高某は、ひそかに善女の銀を分けたが、その罪はまだ小さい。城隍が提案した枷責めで処置するべきだ。呂某は生前訴訟を引き受け、良民を破滅させ、その罪はとても大きい。枷責め以外に、火神に命じてその屍を焼かせるべきだ。厳某は君子で、陽禄[22]は尽きていないから、すみやかに人の世に送り返すべきだ」。
 厳はそれを聴くと目覚めたが、身は(とこ)に臥していた。家人はすでに喪服を着ており、「旦那さまは死なれてすでに三日になります。胸元が冷たくないため、見守っていたのです」と言った。厳は夢の中の事を逐一話したが、家人は信じなかった。一年後の八月の夜、呂家は失火し、柩は焼けてしまった。

年子
 塩城[23]の東北郊の草堰口小関營[24]の村民孫自成の妻謝氏は、除夜に子を生んだので、年子と名付けた。年が十八のとき、鶏を担いで城に入ったが、途中、一陣の旋風が、籠の中の鶏をすべて吹き出し、鶏は空に騰がって飛び去った。年子は大いに驚き、家に戻ると病に臥した。危篤のさなか、たまたまその母が出産しようとしており、家を挙げて出産を見守っていたので、看護する人がいなかった。年子は意識を失い、身は風に隨ってさまよっていた。するとたちまち朱門の中から、万丈の深潭に墜ちた。痛くなかったが、体が小さく、ふだんと違うと感じた。両目はしょぼしょぼして開くのが難しかったが、耳に聞こえるのは、父母の声のようだったので、夢幻(ゆめまぼろし)の世界なのだと思い、安心して待っていた。その時、孫は謝氏が児を無事に出産したのを見、暇を盗んで趨っていって年子を見ると、すでに死んでいたので、おもわず大声で哭いた。年子は目覚めたが、そのわけが分からなかった。しかし母は泣きながら「この血の泡を生んだために[25]、成人した年子を殺してしまいました」と責め立て[26]、哀号してやめなかった。年子ははじめて自身が転生したことを悟ったが、母が苛立って体を悪くするのを恐れ、大声で言った。「わたしは年子です。年子は死んでおりませぬ」。謝は小児の言葉を聞くと、たちまち痙攣し、数日で死んだ。孫は小児が乳を飲めないのを憂え、粥を食べさせた。三か月で歯が生え、五か月で歩くことができるようになり、「再生」と名付けられて、今年十六になっている。この事は塩城の県令閻公が語ったことである。

狐が鐘を撞くこと
 陳公樹蓍が汀漳道[27]に任ぜられた時のこと、海上に、突然、鐘が浮かんできた。その大きさは百石を容れることができた。人々は瑞祥であると思い、官に告げ、城の西に高楼を建て、この鐘を懸けた。撞くと、音は十里以上に聞こえた。県内の老人李某を選んでこの楼を守らせたが、まもなく、しばしば津波があった。陳公は金と水が相応じているのだ[28]、津波は、鐘の音が招くものだと考えた。知県に命じて、印を用いてこの楼を封鎖させ、きびしく李叟に言いつけ、人がふたたび撞くことを許さなかった。
 やがて美少年がしばしば楼の中に来て、李と閑談し、時折食物の類を求めた。往々にして理由がないのにやってきた。李は狐仙であることを知ると、たちまち欲張りな心を起こし、跪いて言った。「おんみは仙人なのですから、金品を下さってはいかがでしょう。酒と食事のためだけに来られているのですか」。少年は諭した。「財産は運命で定まっており、あなたは貧しい運命なので、得ることができないのです。得れば災があり、後悔なさることでしょう」。李が強く求めると、少年は笑って応えた。「いいでしょう」。しばらくすると、(つくえ)の上に大きな元宝[29]一錠が置かれていた。その後、少年は来なかった。李は大いに喜び、衣装箱の中に收めた。ある日、県令が通り掛かると、鐘を撞く声が聞こえたので、李が番を怠ったことを怒り、召して責め、十五回笞うった。李は弁明するすべがなかった。帰って封印を見ると、完全に元通りであったが、すでに笞うたれてしまったので、悶悶としてやまなかった。まもなく、県令がふたたび通ると、楼の上で鐘がしきりに鳴っていた。下役に見させたが、誰もいなかった。県令は悟って言った。「楼の上には妖物がいるのではあるまいか」。李はどうすることもできず、くわしく事実を告げた。元宝を取って見させると、その庫の物であった[30]。持ち帰ってもとの場所に戻すと、鐘がふたたび鳴ることはなかった。

土地神が告訴すること
  洞庭山[31]棠里の徐氏は、家が富裕で、庭園を造ったが、土地が足りなかった。東側に土地廟があり、香火は久しく絶えていたので、ひそかに寺僧から買い、(ちん)(うてな)を建て、すでに一年あまりになっていた。ある日、その妻韓氏が髪を梳いていたところ、たちまち地に倒れたので、若い(はしため)が扶けたところ、やはりともに倒れてしまった。まもなく(はしため)は起き、大きな椅子を取って堂上に置くと、韓氏を扶けて南向きに坐らせ、大声で言った。「わたしは蘇州の城隍神だが、都城隍の御諚を奉じて、そなたの家がひそかに土地神廟を買ったことを調べにきたのだ」。そう言うと、(はしため)は跪いて言上した。「太湖の水神が拝謁いたします」。さらに言上した。「棠里の巡攔神が拝謁いたします」。韓氏は逐一頷き、最後に言った。「原告の土地神よ、参れ」。韓氏は徐家の子弟や奴婢に命じた。「点呼に従い、東西の班に分かれて侍立せよ。命に従わない者があれば、杖を持って撃つ」。土地を買った人の姓名を呼んだが、その夫であった。「価格は幾らだ。証人は誰か」と尋ねたが、話す言葉は平素の呉語ではなく、燕趙[32]の地の男子の声であった。その夫は驚いて地に伏し、敷地を返し、もとの廟を建てて還すことを願った。
 韓氏はもともと字を識らなかったが、たちまち紙と筆を求めて判決を下した。「人が神の地を奪うのは、もとよりしてはならないことだ。それに土地神は老いて貧しいのに、野宿すること一年あまりであるのは、ことさら憐れである。しばしば城隍に訴えたが、受理されなかったため、やむをえず、都城隍に越訴したのだ。今おまえに悔いる心があり、廟宇を還すことを約束するなら、牲牢(いけにえ)と香火を捧げよ。証人某某は、もとより処罰するべきだが、とりあえず得たものが多くないことを考慮し、罰として劇を演じて罪を贖わせるとしよう。寺僧某は、事が露見する前に死んだから、審議するには及ばぬ」。判決すると、筆を擲って臥した。しばらくすると起立して、女の声になり、元通り髪を梳いた。事情を尋ねると、ぼんやりとして記憶していなかった。その夫は逐一判決通りにした。それから、棠里の土地神の香火はますます盛んになった。

鄱陽湖の黒魚の精
 鄱陽湖で黒魚の精が祟りをなしていた。許という客商[33]が舟で通ると、たちまち一陣の黒い風が吹き、水は数丈に盛り上がった。上には魚の口、臼のように大きく、天に向かって浪を吐いており、許は殺されてしまった。その子某は魚を殺して父の仇に報いることを誓った。商いすること数年、資金がすこぶる豊かになると、龍虎山[34]に詣で、手厚い礼物を調えて天師に頼んだ。その時、天師は老いており、許に言った。「およそ(もののけ)を除き(あやかし)を斬るときは、すべて純気真煞[35]に頼るのだ。わたしは老いて病み、死にそうだから、役に立つことはできぬが、おんみの孝心に感じ、わたしが死んだら、わたしの子に代わりに退治することを頼むがよい」。やがて、天師は死んだ。
 小天師に位を伝えて一年、許はふたたび頼みにいった。小天師は言った。「ほんとうにその通りだ。父の遺命を、忘れはせぬ。しかしこの妖物は、黒魚で、鄱陽湖に拠ること五百年、神通力はとても強い。わたしには符咒法術があるが、根気[36]ある仙官[37]がわたしを助けて、はじめて事を成すことができるだろう」。篋の中から小さい銅鏡を出すと、許に渡して言った。「これを持って人を映し、一人で三つの影がある者がいたら、はやくわたしに告げにくるのだ」。許は言われた通りに、江西の人をあまねく映したが、みな一人に一つの影であった。ひそかに捜すこと一月あまり、農村の楊家の童子をふと照らしたところ三つの影があったので、天師に告げた。天師は人を村に行かせ、厚くその父母に贈り物をし、神童の名を慕っている、屋敷に招いてその学問を試すのだと偽った[38]。童子はもともと貧しい家のものだったので、欣然としてやってきた。
 天師は童子を養うこと数日、すぐに許と童子を連れてともに鄱陽湖へ往くと、祭壇を設け、呪文を誦えた。ある日、童子に袞袍[39]を着せ、剣を背中に縛ると、その不意を突き、ただちに湖に投げ込んだので、人々は大いに驚いた。その父母は号泣し、天師に命を償わせようとした。天師は笑いながら「大丈夫だ」と言った。にわかに雷が轟くと、童子は手に大きな黒い魚の頭を提げ、高い浪の上に立っていた。天師は人に命じて舟の中へ抱いてゆかせたが、衣は湿っていなかった。湖の水は、十里以内はすべて血の色になっていた。
 童子が帰ると、人々は争って見たことを尋ねた。童子は言った。「わたしはしばらく熟睡していて、苦しむことはありませんでした。金の鎧の将軍が魚の頭を(ひっさ)げてわたしの手に置き、わたしを抱いて水の上に立たせただけです。そのほかのことは覚えていません」。それから、鄱陽湖に黒魚の災いはなくなった。ある人は言う。童子はすなわち、総漕[40]の楊清恪公であると。

鄱陽の小神
 江西新建県の張某は、二人の娘を生み、同じ日に嫁がせた。激しい風で、付添人と轎を舁ぐ者たちはたちまち迷い、妹をその姉の家に嫁がせ、姉をその妹の家に嫁がせた。結婚後一日たって、はじめて間違いに気が付いたが、両家の父母は天縁であると思い、それぞれもめる事はなく、異議を唱えなかった。
 妹が嫁いだ夫の金某は、商品を買って鄱陽湖を通ったとき、舟の中で突然その仲間に言った。「わたしは役人となり、即日着任するだろう」。仲間はみな笑い、戯れ言だと思った。さらに数里進むと、金は欣然として言った。「下役、轎、馬がみなわたしを迎えにきたから、長居はできない」。そう言うと、水中に跳び込んで、死んでしまった。その晩、湖に近い村の人々は一人の男が昂然としてやってくると、村の前に立ち、こう言うのを見た。「わたしは鄱陽の小神だ、おまえたちの土地で血食されることになったから、像を造ってわたしを祀れ」。そう言うと見えなくなった。村人はぐずぐずして、廟を立てなかった。すると頭が痛み、熱が出て、小神が祟りをなしていると称した[41]。人々は大いに驚き、銭を集め廟を立てて祀った。祈れば、神の反応は響くかのようであった。まもなく、また小神がやってきて言った。「神でありながら妃がいないのはよくない。さらに女神の像を造ってわたしに配せよ、ぐずぐずするな」。村人は言われた通りにし、像を造った。
 金家では水死の報せを聞くと、屍を掬い葬儀を行い、家を挙げて喪に服した。ある日突然、その妻は喪服を脱ぐと、盛装に換え、臙脂や白粉を塗り、意気揚々としていた。舅姑(しゅうとしゅうとめ)が怒り、「これは寡婦(やもめ)にあるまじき行いだ」と責めると、「わたしの夫は死んではおらず、今は鄱陽外湖[42]で役人となっており、下役、人足は轎でわたしを迎えて赴任するのです。みなすでに外で伺候していますから、わたしは吉服しないわけにはまいりませぬ」と言った。そう言うと、轎に乗る動作をし、瞑目した。その後、鄱陽小神の名はすこぶる知られるようになり、遠近からお参りする者が争ってやってきたのであった。

嚢嚢
 桐城南門外の章雲士は、性来神仏を好んでいた。たまたま古廟を過ぎると、木彫りの神像があり、すこぶる厳めしかったので、お迎えして帰ると家堂神[43]にし、とてもうやうやしく祀った。夜、祀っている像のような神を夢みたところ、神は言った。「わたしは霊鈞法師[44]だ。長年修煉し、おんみに敬われ、香火を供えてもらったが、望むことがあるなら、牒[45]を焚いてわたしを招けば、すぐに夢の中で相見えよう」。章はそれから倍して信仰を加えた。
 隣に女がいたが(もののけ)に纏われていた。(もののけ)(かお)が獰悪で、全身はもじゃもじゃしており、毛に似ているが毛ではなかった。媾うたびに、下半身は痛くて耐え難く、女はお許し下さいと哀願した。(もののけ)は言った。「わたしはおまえに害を与えているのではない。おまえの姿を愛しているだけだ」。女は言った。「某家の娘はわたしより綺麗ですから、往って纏われてはいかがでしょう。わたしひとりを苦しめるのですか」。(もののけ)は言った。「某家の娘は心が正しいから、わたしは犯そうとしないのだ」。女は怒って罵った。「あのひとは心が正しく、わたしは心が正しくないのですか」。(もののけ)は言った。「おまえが某月日に城隍廟にお参りしたとき、路に男が走っていたが、おまえは轎の簾の中からこっそり窺い、その(かお)が美しいのを見、心のなかでひそかに慕った。これで心が正しいといえるのか」。女は顔を赤くし、答えることができなかった。
 女の母が章に告げると、章は家堂神に祈った。その夜、神を夢みたところ、神は「この(もののけ)は何物なのか分からない。三日の期限をくれれば、調査、処罰することにしよう」と言った。期日を過ぎると、神はやってきて、言った。「(もののけ)は嚢嚢といい、神通力はとても強いから、わたしがみずから除きにゆかなければならぬ。しかし鬼神の力量は、しょせん人が頼りなのだ。おんみは晦日を択び、轎一台を準備し、夫四名[46]、快手[47]四名、縄、刀、斧、八物[48]を、紙を剪って作り、すべて(ひろま)に並べるのだ。おんみは傍で『轎に乗れ』と怒鳴り、『女の家に抬いでゆけ』と言い、さらに『斬れ』と怒鳴るのだ。こうすれば、(もののけ)は除かれよう」。
 両家は言われた通りにした。期日になると、紙の轎を支える者はふだんより重いと感じた。女の家に行き、大声で「斬れ」と怒鳴ると、紙の刀は風のように旋回し、颯颯として音をたてた。何かが塀を跳び越えてゆくと、女の体はたちまち重い荷物を卸したかのようになった。家人が追いかけて見たところ、一匹の蓑虫、長さは三尺ばかり、細い脚は千本、耀(かがや)く絲のように閃閃として、腰から三つに斬られていた。焼くと、臭気は数里に漂った。桐城の人々は嚢嚢の名を知らなかったが、後に『庶物異名疏』[49]を見たところ、蓑虫が一名嚢嚢ということをはじめて知った。

二神が殴りあうこと
 孝廉の鍾悟は、常州の人、一生善行をしたが、晩年子がなく、衣食に事欠き、心は鬱鬱として楽しまなかった。病んで危うくなると、その妻に言った。「わたしが死んだら、どうかわたしを棺の中に置かないでくれ。わたしは不平があるから、冥王に訴えるのだ。もしかしたら霊応があるかも知れない」。すぐに息絶えたが、胸はまだ温かかったので、妻は言われた通りにし、屍を横たえて待っていた。
 死んで三日後、蘇り、こう言った。わたしは死んだ後、冥途に行ったが、見たところ、人民は往来し、人の世と同じであった。聞けば李大王という者がおり、善を賞め、悪を罰する事を司っているということだった。わたしは人に頼んでかれの役所に案内してもらい、訴えようと思った。そこに行くと、殿舎は巍峨として、中に尊い役人が坐していた。わたしは入って見えると、みずから姓名を述べ、平生善行を修めながら報いられなかった事を逐一訴え、神に霊験がないことを責めた。神は笑いながら言った。「おまえの善行悪行を、わたしは把握しているが、おまえが貧しく子がないことは、わたしが知っていることではないし、わたしが司っていることでもない」。「どの神さまが司っていることなのでしょう」と尋ねると、神は「素大王だ」と言った。わたしは心のなかで「李」とは、「理」であり、「素」とは、「数」であることを悟った。そして神に素王の処へ送っていって尋ねさせてくれるように求めた。神は言った。「素王は尊く、門を番する人がいないわたしの処とは違うが、ちょうど素王と相談したい事があるから、ついてくればよかろう」。まもなく、随従を呼ぶ声を聞いたが、従っている下役たちは、整然として厳肅であった。
 行く途中、見たところ、血を滴らせている者がついてきて、こう言った。「冤罪を受けて報いておりませぬ」、歯咬みしている者がおり、こう言った。「逆党は除かれておりませぬ」、美しい婦人で醜男を引いている者はこう言った。「夫婦が間違って結婚してしまいました」。最後に袞冕[50]玉帯で、姿は帝王のよう、容貌魁偉で、着物、履物はすっかり湿ったものが、こう言った。「わたしは、周の昭王だ。わが家の祖宗は、后稷、公劉以来、仁徳を積み、わたしの先祖は文、武、成、康と、聖賢が相継いだが、わたしの代になり、慣例に従って南征したとき、理由なく楚人に溺死させられたのはどうしてだ。さいわい勇士辛游靡は、臂が長く、力が強く、わたしの屍を曳きあげ、成周[51]に帰葬した、さもなければむざむざと江魚に呑まれていただろう。後に斉侯の小白[52]が言いがかりをつけて尋ねたが[53]、お茶を濁したに過ぎず、いいかげんにけりをつけてしまった。このようなひどい目に遭ったのに、二千年来、まったく応報がないが、神さまが替わりに査べていただきたい」。李王は承諾した。ほかの鬼たちはそれを聞くと、紛紛然としてともに怒りの色を浮かべた。鍾は世の不平な者には、かくも大きな無念がある、自分が貧しいことなどは、もとより小さい事だとはじめて悟り、怒りを収めた。
 行くとまもなく、道で「素王さまのおなり」と先払いしながらやってくる声が聞こえた。李王は迎えると、それぞれが輿の中で話し合った。はじめはくどくどと話し、ついで忿り、争ったが、がやがやとして聞き取れなかった。やがて二神は車を下り、拳を揮って殴りあった。李はだんだん劣勢になったので、鬼たちは付き従って助け、わたしも体を張って救おうとしたが、結局、勝つことができなかった。李神は怒った。「おまえたちはわたしに従い、玉皇に上奏し、沙汰を待て」。すぐに雲に騰がってゆき、二神はともに見えなくなった。
 まもなくともに下りてきたが、雲の中から霞帔を着け、宮中風の装いをした二人の仙女がついてきて、手に金尊と玉杯を持ち、詔を伝えて言った。「玉帝は三十六天[54]の事を掌っており、些些たる訴えを聴く暇がない。今、二神に天酒一尊を贈る、都合十杯分である。多く飲むことができた者が、事を正すがよい」。李神は大いに喜び、みずから「わたしはいける口なのだ」と称すると、跳びあがって飲んだが、三杯目になると、腹を抱えて吐こうとした。素神は七杯を飲みおえても、なお酔う気配がなかった。仙女は言った。「おまえたちは行かないで、わたしが復命した後に行くがよい」。
 まもなく、また下りてくると、玉帝の詔を公布して言った[55]。「理が(すう)に勝たないのは、昔からのことである。この酒量を観て、おまえたちは悟るべきだ。世の一切の神鬼聖賢、英雄才子、時花[56]美女、珠玉錦繍、名書法画は、愛される時もあれば、災に遭うこともあるが、素王が七分を掌管し、李王が三分を掌管していることを知らねばならぬ。素王は酒量が多いため、しばしば酔い、狂おしく、乱行がある。わたしは三十六天で毎日隕石を食べているのに[57]、素王に権力を独占され、意のままにすることができない。まして李王はなおさらだ。しかし李王は三杯を飲むことができた。人心天理、美悪是非には、結局、三分の公正さがあり、万古千秋、綿綿として断たれることはないのだ。鍾某は寿命が絶えているが、この消息を人の世に行って言い聞かせなければ、以後、告訴する者がますます多くなるであろう。とりあえず恩恵を与えて寿命を一紀増やし、かれを人の世に還らせるが、今後は永久に慣例にしてはならぬ」。鍾はそれを聴くと甦り、さらに十二年して死んだが、しばしば人にこう語った。「李王は(かお)が清雅で、世で造られている文昌神[58]のよう、素王は(かお)が醜く、丸く、大きく、眺めたところ耳、目、口、鼻はあまりくっきりしていなかった。従者たちは、大抵似ていた。千百人の中には、なかなか美しく愛すべき者もあったが、その仲間からはあまり推戴、尊重されていなかった」。鍾は本名は護であったが、それからは名を悟と改めた。

賭博の神は迷龍といわれること
 李某は、縉雲の県令となり、賭博のために弾劾されたが、性来好きだったので、一日も離れることができなかった。病が危うくなっても、(とこ)の上で肘を拍ち、丁半と叫んでいた。その妻は泣いて諫めた。「喘いで疲れていらっしゃるのに、そのようになさることはございません」。李は言った。「賭博は一人でできることではない。わしには友人が数人いて、(とこ)の前でいっしょにさいころ賭博をしているが、おまえたちに見えないだけだ」。やがて息絶えたが、たちまち蘇ると、手を伸ばして家人に言った。「すぐに紙銭を焼いて、賭け金を還してくれ」。妻が「誰と勝負しているのですか」と尋ねると、こう言った。「冥府の賭けの神は迷龍といい、その門下には賭けをする鬼数千がおり、すべてこき使われていた。人が転生しようとする時を伺い、迷龍に花押を書かせ、頭蓋骨の中に納めるのだ[59]。この人は一たび母胎から落ちると、性として賭博を好み、厳しい父、賢い妻でも、けっして救うことはできないのだ。『漢書・公卿表』には、賭博で侯の位を失った者が十余人おり、この神が昔からいることが分かる。ある人は一心に賭博に耽り、美食があっても他人に譲って食べさせ、美しい妻があっても他人に譲って寝させるが、すべて迷龍が祟りをなしているのだ。ただ、冥途の賭け方は人の世と違う。そのやり方は、十あまりの鬼を聚め、ともに十三の骰子(さいころ)を擲つのだ。骰子(さいころ)が盆に落ちるたびに、五彩金色の光がある者が、すべてを勝ちとり、鬼たちは蓄えてある紙銭をすべて献上するのだ。迷龍は高いところに坐して寺銭を取り、たいへんな富を得ている。鬼たちは賭博に敗れればきわめて貧しく、人の世に行き、瘟疫となり、人から酒食を脅し取るのだ。おまえたちは今から紙銭一万を焼き、わたしを生還させてくれ」。家人はそれを信じ、言われた通りに、焼いてやると、李は瞑目長逝した。ある人は言った。「かれは賭けの元手を騙し取り、安心して大いに擲つことができるようになったので、返らなかったのだ」。

羊の骨の(もののけ)
 杭州の人李元珪は、沛県の韓公の署中で食客となり、文書を司っていた。たまたま郷里の親戚が杭州に戻ることになったので、李は家への手紙を持ってゆくように頼み、童僕に麺糊[60]を作って手紙を封じるように命じた。童僕は糊を作るとお碗の中に盛り、李は使いおわると、その余りを(つくえ)の上に置いた。夜、がさがさという音を聞いたが、鼠がきてこっそり食べているのだと思った。帳を掲げて伺うと、燈の下に一匹の小さな羊がおり、高さは二寸ばかり、全身が白い毛で、糊を食べつくすと去っていった。李は眼が霞んだのかと疑い、翌日、わざわざ糊を作って待っていた。夜、小さい羊はまた来たので、注意してじっくりとその行く先を観たところ、窓の外の樹の下に行って消えた。翌日、主人に知らせ、樹の下を発掘すると、朽ちた羊の骨一本があったが、骨の(あな)の内には糊がまだあった。取って焼くと、その後、(もののけ)はいなくなった。

夜叉が酒を盗むこと
 直隸永平府灤州の河に、毎年龍王が宮殿を造るが、黄、白の二龍が古北口から木を抜いて運んでくる。木百本ごとに、一匹の夜叉が守っていた。その木はすべて水中を直立して進むが、上に紅い提燈を掛けて目印にしていた。関外の木を売る商人は、毎年龍が出発するのを待ち、その後に付き従って運んでゆく。たまに一本がなくなると、龍は怒り、夜叉に捜させたが、風雨が激しく起こり、山の石はすべて飛ぶのであった。村の民は八缸の酒を造っていたが、一夜にして夜叉に盗み飲みされ、たちまちに尽きてしまった。禍をなすのを懼れ、一本の木を伐って水中に置くと、夜はようやく平穏になった。これは石埭[61]の県令鄭公首瀛がわたしに語ったことである。鄭は、灤州の人であった。

披麻煞
  新安の曹媼の孫が官職に就き[62]、某氏と婚約した、結婚の日取りが決まると、期日に先立ち楼房を掃除し、新婦を待っていたが、部屋は媼の臥す(たかどの)と隔たること十歩ばかりであった。夕方、媼がひとり楼の下に坐していると、楼の上でことことという履声(くつおと)が聞こえた。小間使いだと思い、咎めなかったが、しばらくすると音がだんだん獅オくなったので、すこしおかしいと感じ、泥棒かと疑い、いそいで趨ってゆき捕まえることにした。立ち上がって楼の扉を推すと、扉は開いた。頭を挙げると一人の男が、麻の冠、麻の鞋で、手で桐の杖に縋りながら、階段の上に立っていたが、媼が来たのを見ると、身を翻して退いた。媼はもとより大胆であったので、それが人であるか鬼であるかは考えず、進み出ると捉えた。その男は狂ったように新郎新婦の寝室に奔ってゆくと、がさがさと音を立て、一縷の煙のように消えたので、はじめて鬼であったことを悟った。急いで楼を下りると、人に語ろうとしたが、思えば明日は結婚の日であったし、これ以外に、ほかの部屋を捜すすべもなかったので、じっとこらえて話さなかった。
 翌晩、新婦が門に入ると、提灯を掛け、音楽を奏でた。人々が散じた後、媼は以前のことが気掛かりで、眠ることができなかった。朝に新婦を覘うと、すでに美しく化粧して(とこ)に坐し、琴瑟の誼はとても篤かった。媼は大いに安心し、家を易える考えはだんだんと薄らいだ。しかしやはり以前のことがあったので、新婦がひとりで楼に登ることは望まなかった。
 ある日、女は楼に登ろうとした。そのわけを尋ねると、「厠へ行くのです」と答えた。燭を秉るように勧めると、「慣れていますから」と言って断った。しばらくしても下りてこなかったので、媼は呼んだが、反応がなかった。小間使いに命じ提灯を持って楼に上らせたが、やはり女は見えなかったので、媼は大いに驚いた。(はしため)は言った。「台所に往かれたのかも知れません」。媼は言った。「わたしは階段に坐っていたが、あれが下りてくるのは見なかったよ」。どうしようもなく、婿を呼び、女がいなくなった状況を告げた。家じゅうは大いに驚いた。すると(はしため)が突然楼で叫んだ。「奥さまがこちらにいらっしゃいます」。人々がすぐに見ると、新婦は小さな漆塗りの椅子の下に、丸くなって伏せており、四肢が縛られているかのようであった。扶け出すと、泡が口に満ちており、気息奄奄としていた。水漿[63]を飲ませると、しばらくしてようやく目醒めた。尋ねると、こう言った。「一人の喪服を着た男に遇って祟られたのです」。媼は哭きながら「わたしが悪かった」と言うと、くわしく以前のことを述べ、言わなかったわけを告げた。時に夜も更け、家を移すことはできなかったので、女を囲み(とこ)で仰向けに休ませ、婿は燭を秉って坐し、小間使いは左右に立っていた。五更になると、侍していた者たちは眠り、婿も疲れた。すこし瞼を閉じると、燈の前に喪服を着た男が戸を破って入ってきて、まっすぐ(とこ)の前に奔ってゆき、指で女の頚を三五回押さえつけた。婿が進み出て護ると、喪服を着た男は跳び上がって窓格子から去ったが、飛ぶ鳥よりも疾かった。女を呼んでも反応はなく、火を持って見ると、すでに息絶えていた。
 ある人が言った。「これは日を選ぶものが術に長けておらず、結婚の日が披麻煞を犯していたからだ」と。

瓜棚の下の二鬼
 海陽城内の劉氏の娘は、夏、瓜棚の下で刺繍していた。薄暮、家人が蒲の蓆を布いて涼んでいると、娘は突然座中で自分の影を見ながらくどくどと話した。人々はそのでたらめを咎め、叱りつけた。娘は大声で言った。「ああ。わたしはあなたの娘ではありません。わたしは某村の某婦で、腹を立てて縊死してから永いこと、替わりの人を得ようとし、こちらにいるのです」。そう言うと大いに笑い、帯を持ち上げるとみずからその頚を締めた。部屋中の人々はみな驚き、米、豆を取って鎮めようとしたが、退かないので、哀願した。「わたしの娘は毎年他人のために金糸を作り[64]、お金を稼いでお米に易え、家は貧しく憐れです。あなたとはもともと怨みはないのですから、どうかお引き取りください。さもなければ、天師がやってきますから、わたしは訴えにゆきますよ」。鬼は懼れた。「恐ろしや。恐ろしや。そうはいっても、わたしは手ぶらで返ることはできませんから、わたしに送るものを考えてください」。人々は言った。「香と紙銭をお供えするのはいかがでしょう」。返事はなかった。人々は言った。「一斗の酒と一羽の鶏を加えるのはいかがでしょう」。鬼は喜びの色を浮かべ、頷いた。言われた通りにすると、女ははたして目醒めた。
 それから三日も経たない頃、家人が喜んでいると、娘が衣の袖を突然ひらひらと舞わせ、ぼんやりとして語った。「おまえたちはあのようにわたしを粗略に扱った。思い返せばこのまま済ますわけにはゆかぬ。やはり身替わりを求めねばならん」。さらに悪事をしようとし、帯を頚に掛けた。人々はその声をじっくり聴いたが、前の鬼には似ていなかった。驚き訝っていると、突然、瓜棚の下にそろそろと履の響きが聞こえ、娘の口を借りて叱った。「鬼婢(はしため)め。わたしの姓名を騙って、紙銭を脅し取りにくるとは、人を馬鹿にしている。すぐに去れ。すぐに去れ。さもなければ、わたしはおまえを城隍神に訴えるぞ」。さらに娘の家を慰めた。「恐がらないでください。これは無頼の鬼です。わたしがこちらにいれば、このものは祟りをなそうとはしません」。そう言うと、娘は頬を紅らめ、羞じらう者のようにした。まもなく、二鬼は寂然として退いた。翌日、娘は今まで通り鏡に臨んだ。例の事を詢ねると、杳然として夢みていたかのようであった。
 老人李某は、海陽の人であった。薄暮、城内から家に還ると、腰に重たい物が纏いついているのを覚えた。解いて見たが何もなかったので、しかたなく担いで帰った。その時はすでに月が上っていた、家人は扉を叩く音を聞くと、走っていって安否を尋ねた。老人は目を見張って語らず、酒や(ほじし)を並べても、食べなかったので、ますます怪しんだ。やがて、一幅ばかりの布を取り、梁に懸け、縊れようとし、こう言った。「わたしは縊死した鬼ですが、今、お宅のおじいさんと交代するのです」。人々は驚き、前世の(いん)について尋ねると、こう言った。「わたしは李氏で、城内に棲んでいました。かつて某家に行き、瓜棚の下で、そこの娘に祟りました。その家のものが哀願したため、わたしも娘がか弱いことを考慮して、立ち去って、ほかに身代わりを捜していたのです。城門に奔ってゆくと、二人のお役人がとても厳しく番していたので、通り過ぎようとしませんでした。そのため、毎日、一言では尽くし難い苦しみを受けていたのです」。家人は言った。「城門の番人が阻んでいたなら、今日はどうしてまたくることができたのですか」。すると、にやにや笑いながら言った。「実はとても巧い事をしたのです。今朝、村人が肥桶を門の側に置いたとき、役人はその臭いを嫌がったのですが、二人の部下が言いました[65]。『昨晩雨が止んだので、城のほとりの山の景色は佳いはずですから、登って眺められてはいかがでしょうか』。そして、連れ立って山に登りにいったので、わたしは隙に乗じて城を出ることができたのです。そして、お宅のおじいさんの帰るのに遇い、その腰帯の間に附くと、担いでもらったのです。命を得るのに急だったため、力になってもらおうとしたまでです」。
 人々はその穏やかな話し方を聞くと、情で動かすことができそうだったので、哀願した。「おじいさんは年老いており、『墓木すでに拱す』[66]というありさま、若い女を憐れまれるのですから、禿げたおじいさんだけをすすんで殺そうとなさるはずはございますまい。憐れんでいただけますなら、名僧を招き、法事を行い、あなたを天人の世界に生まれさせますが、いかがでしょうか」。鬼は手を拍つと喜んで言った。「わたしは、以前、瓜棚の下で、この功徳を施させようとしたのですが、家が貧しいのを見たので、言わなかったのです。今、居士たちが大願力[67]を発することができるなら、これ以上、何を求めましょう。ただ、世の人はしばしば鬼を騙しますから、居士どのがそのお言葉を忘れないことを願うのみです」。人々が承諾すると、鬼はすぐに頂礼した。まもなく、老人は起きあがると、水漿を求めて飲んだ。
 翌日、大勢の僧を招き、七日間、法事をすると、瓜棚の下は以後平穏であった。

介溪の墳
  厳介溪はその妻欧陽氏のために埋葬の地を定めようとし、食客の風水先生数十人を召し、頼んだ。「わたしは富貴をすでに極めて、ほかに望むことはない。諸君が土地を択んで、わたしのようになることができる子孫が生まれさえすれば満足だ」。食客たちは承諾した。一月足らずで、食客が来て言った。「某山に(けつ)[68]がありますが、こちらに葬れば、ご子孫のご寿命は、公と同じになりましょう」。介溪は食客たちに見るように命じた。すると、ひとりの食客が言った。「こちらに葬れば、ご子孫は貴くなりますが、気脈[69]は大いに遅いので、恐らくは六七代後のことでしょう」。みなその通りだと言った。介溪は売買を成立させ、穴を掘ると、中に古い墓と墓志があり、さすって見ると、厳氏の七代祖であった。介溪は大いに驚き、急いで封印を加えた。しかし、それから厳氏は大いに衰え、財産を没収された。これは厳の後裔で名は秉lという者が語ったことである。

李半仙
 甘肅の参将李璇は、「李半仙」と自称し、人の持ち物を見るとすぐに吉凶を知ることができた。彭芸楣少・[70]と沈雲椒翰林[71]はともに八卦を見てもらいにいった。彭が一つの硯を指して尋ねると、「石質は厚く重く、形は八角ですが、これは八座[72](しょう)にございます。惜しいことには文房の必需品であり、封疆[73]の器ではございませぬ」と言った。沈が掛けていた手巾で尋ねると、「絹はもとより清白ですから、玉堂[74]の高品[75]となられましょう。惜しいことには辺幅が小さいだけでございます[76]」と言った。談笑していると、雲南同知の某も占いをしてもらいにきて、煙管を取ると「煙管は三つの部品が、組み合わさってできていますから、官職に就くと、三たび起き、三たび倒れることがあるのではございませんか」と尋ねたところ、「その通りです」と言い「今後は過ちを改めなければなりません、これ以上、煙管のようになさってはなりません」と言ったので、「どういうことですか」と尋ねると、「煙管はもっとも勢利の物で、用いれば、全身が火のように熱くなり、用いなければ、たちまち氷のように冷たくなります」と言ったので、その人は大いに笑うと、慚愧、沮喪して去った。三年後、彭学差[77]が任期満了で帰京すると、李も入京したので引見した。彭がわざと煙管を取って尋ねると、李は「また学差になりましょう」と言ったので、「なぜですか」と尋ねると、「煙は、食べても満腹するものではございません。学院試差[78]は、富を得られる官職ではございません。それに煙管は、終日、人に替わって吸ったり吐いたりし、督学は、終年、寒士のために吹嘘します。かならず復任されましょう」と言った。やがてその通りになった。

李香君[79]が答案を薦めること
 わたしの友人楊潮観は、字を宏度といい、無錫の人、孝廉[80]であったので河南固始県知県を授かった。乾隆壬申の郷試で、楊は同考官[81]となった。答案を閲しおわると、合格発表しようとしたが、落第答案を集めて批評を加えているうちに[82]、疲れて仮眠した。すると女の夢を見た。年は三十ばかり、薄化粧で、顔形はきわめて美しく、短身で、青紺[83]の裙、烏巾[84]を額に締め、江南人のような姿態、帳を掲げて小声で語った。「使君[85]にお願いいたします、『桂花香』の答案に、留意され、お助けくださいますように」。楊が目覚めて、同考官に告げたところ、みな笑いながら言った。「それは悪い夢だ。合格発表しようとするときに答案を薦められるはずはない」。楊もその通りだと思った。
 たまたま一つの落第答案を閲すると、(ひょう)に「杏花の時節桂花香る」の対句があった[86]、壬申二月の(ひょう)[87]、題は『開科[88]の事を謝す』であった。楊は大いに驚き、入念に目を通した。(ひょう)はすこぶる華麗、五策[89]はもっとも詳明で、ほんとうに博学な者であったが、時藝[90]があまり佳くなかったので、合格しなかったのであった。楊は夢の兆を感じていたが、直接主司[91]に告げるのも難しいことであった。推薦したくても推薦せず、逡巡していると、たまたま正主試[92]の銭少司農東麓先生[93]が進呈された策にまったく佳いものがないのを嫌い、各房[94]に捜し求めることを命じた。楊は喜び、「桂花香」の答案を薦めた。銭公は至宝を得たかのよう、八十三名に合格させた。封を開き、合格掲示板に書き込みをしたところ[95]、商丘の老貢生侯元標で、その先祖は侯朝宗[96]であったので、頼みにきた娘は、李香君だろうかと疑った。楊は香君に会うことができたと思い、人前で自慢し、珍しいことであったと思っていた。

道士が瓢箪を取ること
  秀水の祝宣臣は、名を維誥[97]といい、わたしの戊午の同年[98]である。その父親某は、金持ちであった。ある日、長い髯の道士が門を叩いて面会を求めた。主人が「どうして来られたのですか」と尋ねると、「友人が、現在、お宅に住んでいるので、訪ねてきたのです」と言った。祝は言った。「こちらには道士のかたはいませんが、どなたがお友達でしょう」。道士は言った。「今、観稼書房[99]の第三の間にいます。信じられないなら、いっしょに尋ねてゆきましょう」。
 祝とともに往くと、書斎には呂純陽の像が掛けてあった。道士は指して笑いながら言った。「これがわたしの師兄です。わたしの瓢箪を盗み、久しく還してくれませんので、わたしは催促しにきたのです」。そう言うと、手を伸ばし、絵に向かって取る動作をした。呂仙も笑い、瓢箪を擲って還した。主人が絵を見ると、瓢箪はなくなっていたので、大いに驚き、尋ねた。「瓢箪を取ってどうなさるのです」。道士は言った。「こちらの一府四県では、夏に疫病が大流行し、鶏や犬も残らないでしょう。わたしは瓢箪を取って仙丹を()り、この地方の人々を救うのです。善行を施すことができる人は、千両で薬を買って必要に備えれば、自分が活きるのみならず、世を救い、大きな功徳を立てることができましょう」。そして、嚢の中から薬数丸を出して主人に示すと、その香しさは鼻を撲った。道士は言った。「今年八月中秋の、月がとても明るい時に、あなたの家に参りますから、果物を調えてわたしを待っていてください。こちらの人々は、半分がいなくなりましょう」。祝は心が動き、「弟子(わたくし)のような者でも功徳を施すことができますか」と言うと、「できます」と言ったので、童僕に命じて千両を与えさせた。道士はそれを束ねると腰に負うたが、一匹の布のよう、その重さを感じていなかった。そして薬十丸を残すと、拱手してよそへ去った。祝は家を挙げて神のように敬い、朝晩礼拝した。
 その年、夏には疫病がなく、中秋には月がなく、風雨が加わり、道士も杳として来なかった。

焼死する人は水死せぬこと
 県[100]の葉某は、人といっしょに安慶[101]で商売した。長江を進んでいたところ風に遇い、同船していた十余人の半ばは溺死したが、葉だけは水に墜ちたところを、紅い袍の人に抱き上げられ、免れることができた。そして、神人の助けを得たのだから、後にかならず大いに貴くなるであろうと考えた。まもなく、家にいたとき火に注意しなかったため、焼死してしまった。

城隍が鬼を殺すも[102]になるのを許さないこと
 台州の朱始の娘は、嫁いだが、夫はよその土地に出て商いをした。ある日突然、燈の下に裸足の男が現れた。紅い木綿の袍を着ており、(かお)は醜悪、やってくると馴れ馴れしくして、「おまえを娶って妻にしよう」と言った。女は力で拒むことができず、惑わされ、日に日に黄色く痩せた。(もののけ)が来ない時は、普段通りに談笑したが、来るときは、肅然たる風があり、他人には見えないものの、女にだけは見えるのであった。
 女の姉の夫袁承棟は、もとより腕っ節が強かったので、女の父母は女を袁家に隠した。数日間、(もののけ)は来なかったが、一月あまりすると、跡を追ってきて、言った。「ここに蔵れていたのか。あちこち尋ねさせおって。おまえがこちらにいるのを知って、来ようとしたが、橋に隔てられていたのだ。橋の神は棒を持ってわしを打ったので、通ることができなかった。昨日は、肥担ぎの周四の桶の中に坐って、はじめてやってくることができたのだ。これからはおまえが石櫃の中に蔵れようと、捕まえることができるぞ」。
 袁と女は相談し、刀を持って切ることにした、女が(もののけ)は西にいると指させば西を斬り、(もののけ)が東にいると指させば東を斬った。ある日、女は喜んで手を拍つと言った。「(もののけ)のこめかみに中たりました」。はたして数日来なかった。やがて布をその額に纏って、祟りをなしにきた。袁は火縄銃を撃ったが、(もののけ)は身をかわすのがうまく、何度やっても中たらなかった。ある日、女はまた喜んで言った。「(もののけ)の臂に中たりました」。はたして数日来なかった。やがて布をその臂に纏ってまたやってきて、門に入ると罵った。「おまえはかくも無情なのか、おまえの命を取ってやる」。女を殴り撞いたので、女は全身が青く腫れ、哀号し死にそうになった。
 女の父と袁は連名で書状を作ると城隍廟で焚いた。その夜、女が夢みたところ、青い衣の二人の男が牌を持ち、女を呼び、裁判を受けさせようとし、手間賃を求めて言った。「この訴訟に、かならず勝たせてやるから、錫
[103]二千を焼いてわたしに謝するべきだ。多いのを厭うてはならぬ。冥途では九七銀[104]二十両にしかならん。この金はわたしがひとりで取るのではなく、おまえのために鼻薬の費用にするのだ、おまえのおじの紹先とともに配るが、後日はっきり分かるだろう」。紹先とは、朱家のすでに亡くなった族叔であった。言われた通りに、焼き与えると、五更、女は目醒めて、こう言った。「すでにはっきり調べたぞ。この(もののけ)は東埠頭の轎かきで、名は馬大というのだ。城隍はかれが生前悪事をし、死んでもなおこのようにしたのを怒り、大きな杖で四十回打ち、長枷に掛けて廟の前で晒したぞ」。それから、女は健康になったので、一家は喜んだ。
 三日足らずで、また以前のように惑わされ、「わたしは轎かきの妻の張氏だ。おまえの父、おまえの姉の夫は、わたしの夫を城隍に告げ、枷で責めさせた。わたしは饑えを忍んで独り寝している。今日は夫のために復讐するぞ」と称した。手の爪で(つま)の眼を押さえつけると、眼はほとんど見えなくなった。女の父と承棟はどうすることもできず、ふたたび牒を城隍に焚いた。その晩、女がふたたび夢を見、鬼卒に召されて往ったところ、(もののけ)がまたいた。城隍は焚いた牒を(つくえ)の前に置き、目を瞋らせ、声を獅オくして言った。「夫妻がともに凶悪であるとは、『一牀両様の人を出さず』[105]と言うべきだな。腰斬にせずばなるまい」。二人の隷卒に命じて鬼を縛らせ、刀を持って斬り、二つに分けると、黒い気が流れ出したが、胃腸は見えず、血も見えなかった。傍の二人の隷卒は頼んだ。「鴉鳴国に護送してゆき、
にすることをお許しいただけましょうか」。城隍は許さず、言った。「こ奴らは鬼となれば人を害し、となればかならず鬼を害するだろう。悪気を消し[106]、その根を断つべきだ」。二人の隷卒は長い鬚の者二人を呼び、それぞれが大きな扇を持ってその屍を扇ぐと、たちまち黒い煙と化し、散じ尽くして見えなくなった。その妻を囚え、手足に(かせ)を掛け、黒雲山羅刹神の処へ配流して苦役に当てた。原差[107]には(つま)を人の世に送りかえすように命じた。女は驚いて目が醒めた。
 それから、朱の(つま)は安全に、夫の家に戻り、二子一女を生み、今でも存命である。鬼が言っていた「肥担ぎの周四」とは、その隣人であったが、尋ねると、こう言った。「それは怪しい。わたしは某日、空の桶を担いで帰りましたが、肩にとても重かったです」。

最終更新日:2008313

子不語

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[1] 郭彖『車志』巻五「郡人素伝有五通神、依后土祠為祟」。

[2] 邪神の対義語。正しい神。

[3] 妖邪によって引き起こされる疾病。

[4] 原文「冤有頭,債有主」。諺。物事には責任があるものが必ずいるということ。

[5] 社公は土地神。(写真

[6] 香と紙銭。

[7] 願文。

[8] 催促の願文。

[9] 下級のものからの申請に対する返答を書き付けた紙。

[10] 阿思哈のこと。乾隆十四年から十五年、江西巡撫。『清史稿』巻三百四十三などに伝がある。

[11] 清代、官員の等級を区別するための冠の飾り。頂戴、頂子とも。(写真

[12] ここでは県学の教官。

[13] 吏部侍郎。

[14] 武林山西北の地名。乾隆元年『浙江通志』巻九山川一参照。

[15]官名。提督学政、学政、学差。

[16] 学政が主宰する歳試、科試のこと。府県の学校の生員がまじめに勉強をしているかをみる試験で、官吏登用のための試験ではない。

[17] 孔子廟の大殿。

[18] 『論語』雍也。

[19] 図:『三才図会』

[20] 役所の雑用係。

[21] 鮮やかな旗。

[22] 陽寿。寿命。

[23] 江蘇省の県名。

[24]未詳だが、「草堰口、小関營」と区切れるのであろう。

[25] 原文「生此血泡」。「血泡」は赤ん坊を指すのであろう。

[26] 自分を責め立てたのであろう。

[27] 福建漳州の分巡道。

[28] 五行相生説では、金は水を生むとされている。

[29] 馬蹄銀。

[30]原文「命取元寶視之,即其庫物也」。「其」が何を指しているのか未詳。県庁の庫と解す。

[31] 江蘇省の山名。

[32] 河北と山西。

[33] 原文「許客」。客」は客商と解す。

[34] 江西省の山名。

[35] 未詳。

[36] 根基、根性、道根。

[37] 上級の神仙。

[38] 原文「請到府中試其所學」。府中」が未詳。とりあえずこう訳す。

[39]袞衣。帝王や高官の礼服。黒地に龍が刺繍してある。

[40] 漕運を総管する官。

[41] 原文「口稱小神為祟」。主語が未詳。村人と解す。

[42] 未詳。

[43] 家堂は位牌堂。位牌堂に祀る神。

[44] 法師は道士のこと。

[45] 願文。

[46] 原文同じ。「夫」の前に脱字があるものと思われる。

[47] 捕縛を掌る下役。

[48] 八つの珍味。『周礼』天官・膳夫「珍用八物」の鄭玄注参照。

[49] 明の陳懋仁撰。三十巻。

[50]袞衣と冕旒。冕旒の図:『三才図会』

[51]洛邑。周の都。

[52] 斉の桓公。

[53] 『史記』呉太伯世家「三十年春、齊桓公率諸侯伐蔡、蔡潰。遂伐楚。楚成王興師問曰、何故渉吾地。管仲對曰、昔召康公命我先君太公曰、五侯九伯、若實征之、以夾輔周室。賜我先君履、東至海、西至河、南至穆陵、北至無棣。楚貢包茅不入、王祭不具、是以來責。昭王南征不復、是以來問」。

[54] 道教が想定する彼岸世界の一つ。胡孚琛主編『中華道教大辞典』四百八十九頁参照。

[55] 原文「玉帶詔」。」は「帝」の誤字であろう。

[56] 季節の花。

[57] 原文「我三十六天日食星隕」。未詳。とりあえずこう訳す。

[58]文昌帝君。文昌星君。写真

[59] 原文「探人將托生時、便請迷龍作一花押、納入天靈蓋中」。主語が未詳。とりあえず賭鬼と解す。

[60] 小麦の澱粉で作った糊。

[61] 安徽省の県名。

[62] 原文「新安曹媼有孫登官」。未詳。とりあえずこう訳す。

[63] 液状の食べ物一般をいう。

[64] 原文「我女年年為他人壓金線」。金糸は、糸に金箔をよりつけて作るが、「」は金箔を糸によりつける動作なのであろう。

[65] 原文「兩相謂曰」。未詳。とりあえずこう訳す。

[66] 墓木已拱」は『左伝』僖公三十二年に出典のある言葉。墓の上の木が大きくなって、枝と枝が重なりあっているさまをいう。人が死んで長い時間が経っているさまをいうが、この文脈でなぜこの言葉が出てくるのかはまったく未詳。

[67] 仏教語。本来、仏、菩薩が衆生を救おうとする力。

[68] 風水の用語。龍穴。墓や家を建てるのによい場所とされる。『葬経翼』察形篇「穴者、山水相交、陰陽融凝、情之所鍾処也」。

[69] 『漢語大詞典』はこの例と、『五雑俎』人部二「有龍穴而穴未真者、気脈未住也、故好奇者有斬龍法」の例を引き「旧時堪輿家称山水走向中的霊気」とする。その土地に注ぎ込む気の流れということか。

[70] 彭元瑞。『清史稿』巻三百二十六などに伝がある。少・は・事府少・事。東宮職。乾隆二十二年進士。

[71] 沈初。『清史稿』巻三百五十七に伝がある。乾隆二十八年進士。翰林院編修となる。

[72] 中央官庁の八つの高官。諸説ある。ここでは漠然と高官のこと。

[73]封疆大吏。総督、巡撫など、一省または数省の軍権を掌握している官をいう。

[74] 翰林院の美称。

[75] 品格の高い人。

[76] 原文「惜邊幅小耳」。「邊幅」は本来、布の巾のこと。転じて外貌をいう。「邊幅小」とはどういうことか未詳だが、貧相であるという意味に解す。

[77] 官名。提督学政、学政、学院。

[78] 試差:郷試の試験官。朝廷から派遣される。

[79] 明代の名妓。『板橋雑記』に見える。侯方域との恋愛で名高く、孔尚仁の戯曲『桃花扇』に脚色された。

[80] 郷試の合格者、挙人。

[81] 郷試の試験官の一つ。総督、巡撫によって任命される。進士または挙人で、県知事の中から選ばれる。

[82] 落第答案にも、落第の理由を説明する批語をつける必要があった。謝青主編『中国考試制度史』二百三十七頁参照。

[83] 紺青のことか。紺青は群青のさらに濃いもの。

[84] 烏紗巾。周等編著『中国衣冠服飾大辞典』百四頁参照。

[85] 知府のこと。知県である楊潮観に対して用いているのはおかしい。

[86] 原文「表聯有『杏花時節桂花香』之句」。「表聯」が未詳。とりあえずこう訳す。

[87] 原文「蓋壬申二月表」。未詳。郷試が行われるのは八月九日から十五日。

[88] 科挙の試験を執り行うこと。

[89] 策五道。五題の策論。謝青主編『中国考試制度史』二百三十四頁参照。

[90] 時文。八股文。

[91]郷試の試験官で、正考官、副考官のことであろう。各一名。勅任官。進士から選ばれる。

[92]正考官。

[93] 銭汝誠と思われる。乾隆十三年進士。浙江嘉興の人。

[94] 房官。同考官。

[95] 原文「拆卷填榜」。「拆卷」は答案を書いたものの名が記されている部分の封を開くこと。受験者の名は、試験官が情実を加えることを防ぐため、封じられている。「填榜」は合格掲示板に、合格者の名を書き入れること。

[96] 侯方域。朝宗は字。

[97] 『清史稿』巻四百九十などに伝がある。

[98] 同年に科挙に合格したものをいう。

[99]祝維誥の父親の書室の名と思われるが未詳。

[100] 安徽省の県名。

[101] 安徽省の府名。

[102] 『酉陽雑俎続集』貶誤「俗好於門上画虎頭、書字、謂陰頭鬼名、可息疫事轣v。

[103] まったく未詳だが、錫箔を貼った紙銭ではないか。

[104] 純度九十七パーセントの銀。

[105] 諺。夫婦は似たもの同士ということ。

[106]原文「可揚滅惡氣」。「揚滅」がまったく未詳。偏義詞か。あるいは、後ろで扇子を使って鬼を扇いでいるが、そのことをいうか。

[107] 最初に遣わされた下役。

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