第二卷

 

張元の妻
 河南偃師県の農民張元の妻薛氏が里帰りで実家に戻るとき、義弟が迎えた。古い墓を通り掛かったところ、暗い茂みがあったので、薛氏は小便しようとした。乗っていた驢馬を牽いて義弟に渡し、見張りさせ、着けていた紅い木綿の裙を樹に掛けた。小便しおえて戻ると、裙は所在を失っていた。家に帰り、夫と寝たが、早朝になっても起きなかった。家人が門を突き破って入ると、窓は変わりなかったが、夫婦は胴体はあるものの首はなかった。お上に告げたが、審理することはできなかった。義弟を捕らえて訊ねると、昨日裙を失った事をつぶさに語った。墓場に行くと、墓の傍に穴があり、滑らかでつねに動物が出入りしているかのようであった。窺うと、紅い木綿の裙の帯が外にあり、その嫂の物であった。掘ると、二つの首があったが、棺槨はなかった。穴はとても小さく、片手が入るだけであった。お上は結局判決することができなかった。

蝴蝶の(もののけ)
 京師の葉某は、易州の王四と親しかった。王は七月七日が六十歳の誕生日であったので、葉は驢馬に騎って祝いにいった。房山を過ぎる頃には、日が暮れようとしていた。すると一人の偉丈夫が馬を躍らせてやってきて、尋ねた。「どこへ往くのだ」。葉が事情を告げると、男は喜んだ。「王四は、わたしの中表[1]だ。わたしは祝いにゆくのだが、いっしょに行かないか」。葉はとても喜び、いっしょに行くことにした。男はしばしば葉の背後を歩こうとしたので、葉は固く譲って前を行かせたが、承諾した振りをして、やはり後ろを歩くのであった。葉は盗賊かと疑い、しばしば振り向いた。その時、空はすでに暗かったので、その顔はよく分からなかったが、電光に照らされたのを見たところ、男は首を馬の下に懸け、両脚で(くう)を踏んで歩いていた。一路雷がついてきたが、男は口から黒い気を吐き、雷に触れ、舌の長さは一丈あまり、色は硃砂のようであった。葉はとても驚いたが、どうすることもできず、ひとまず我慢し、疾駆して王四の家に着いた。王は出ると相見え、歓然として酒盛りした。葉はひそかに尋ねた。「路の上の男とはどのようなご親戚なのですか」。王は言った。「あれはわたしの中表の張某で、今、京師の縄匠衚衕[2]に住み、熔銀[3]を生業としています」。葉はすこし安心し、とりあえず、路で見たことは目が霞んだだけだったのかと疑った。酒がおわると、葉は就寝したが、胸がどきどきし、いっしょに寝ようとしなかった。男がつよく要望したので、やむを得ず、一人の下男に付き添ってもらった。葉は夜通し眠らなかったが、下男は熟睡していた。三鼓に燈が消えると、男は起坐し、またその舌を吐いたところ、部屋中が明るくなった。鼻で葉の帳を嗅ぎ、涎は流れて止まなかった。両手を伸ばし、下男を掴んで啖うと、骨はばらばらと地に墜ちた。葉はふだん関神を信仰していたので、急いで叫んだ。「伏魔大帝さまはいずこにおわしましょうや」。たちまち訇然(こうぜん)[4]と鐘鼓の音がすると、関帝が巨きな刃を持ちながら、梁を押しのけて下りてきて、ただちにこの(もののけ)を撃った。(もののけ)は蝴蝶に化したが、大きさは車輪のよう、翅を広げて刃を拒んだ。しばらく旋回すると、さらに雷が轟き、蝴蝶と関神はともに見えなくなった。葉は意識を失って地に倒れ、昼になっても起きなかった。王四が門を啓いてそれを見ると、葉はつぶさに事情を語った。地面には数斗の鮮血、(とこ)の上では張某と下男がいなくなっていた。騎っていた馬は変わりなく厩にいた。急いで人を縄匠衚衕に行かせ、張某を訪ねさせたが、張はちょうど炉に蹲んで銀を溶かしており、易州へ誕生祝いしにいった事実はなかった。

白二官
 常州の王姓の者は、幕客を生業としていた。年末、故郷に帰ると、張氏の青山荘の園林が美しいのを慕い、(ふすま)を包んで遊びにいった[5]。白二官に園内で遇ったが、もともと親しんでいた女形だったので、とても喜んだ。遊びおえると、いっしょに園に宿った。王は精神がぼんやりし、眠ることができなかったが、見ると白二官が頭を伸ばし燈を吹いていた。燈は白の臥している処から二丈あまり離れていたが、白は頭を二丈あまりも伸ばし、燈を吹き消していたのであった。王はとても驚き、(ふすま)を頭から被って寝た。白はその(とこ)の前に行き、(ふすま)を掲げ、手であちこちを触ったが、押さえられた場所は鉄のように冷たかった。王は驚いて叫んだが、答える人はいなかった。たちまち窓の西に一つの黒い物が現れ、豚の顔に鋭い爪[6]、外から跳び込み、白二官ととても激しく組み打ちし、勝負は着かなかった。まもなく夜が明けると、地面は一面の鮮血で、(うわばみ)一匹が死んでいた。急いで白二官の家に往って詢ねると、二官は蠱疾[7]を得ること半年であったのが、一旦にして癒えていた。その(やまい)が癒えた時は、すなわち王姓が白二官に遇った時であった。

関東の毛人が人を餌にすること
 関東の人許善根は、人参を掘ることを生業としていた。しきたりでは、人参を掘る者は闇夜に掘りにゆかねばならない。許は夜歩いて疲れ、(すな)の上に宿った。目醒めると、その身は一人の長人に抱かれていた、長人は身長が二丈ばかり、全身が紅い毛であった。左手で許の身を撫で、さらに許の体でその毛を摩擦し、珠玉を弄んでいるかのようであったが、一回撫でるたびに、狂ったように笑いつづけるのであった。許は自分がその腹に果ててしまうだろうと観念した。まもなく抱かれて洞窟に行くと、虎の筋、鹿の尾、象の牙の類が、森森と山積していた。許を石榻の上に置き、虎鹿を取って差し出した。許は望外の幸せを喜んだが、食べることができなかった。長人は俯いて考えているようであったが、やがて気が付いたように頷き、石を敲いて火を起こし、水を汲み、鍋を焚き、じっくり烹てから進めたので、許は大いに啖った。明け方、長人はまた許を抱いて外に出、身に五本の矢を挟み、絶壁の上に行き、許を高い樹に縛った。許はまたとても驚き、自分を射ようとしているのかと疑った。まもなく、虎たちが生きている人の匂いを嗅ぎ、ことごとく穴を出ると、争って許に掴みかかりにきた。長人は矢を抜いて虎を斃すと、また縛めを解いて許を抱き、死んだ虎を曳いて返ると、烹ていつも通りに捧げた。許は長人が自分を養って虎の囮にしていたのだとはじめて悟った。このようにすること一月あまり、許は恙なく、長人は大いに肥えた。
 許は、ある日、家を懐かしみ、長人の前に跪いて涕泣再拝し、手で東の方角を指して止まなかった。長人も潸然として、また許を抱いて人参を採る処に行き、帰りの路を示し、人参を産する場所を次々に指し、報いる気持ちを示した。許はそれから富んだ。

平陽の令
 平陽の令朱鑠は、性格が残酷で、知事をした県では、特別に厚い枷、大きな棍棒を造った。事案が婦女に関わるときは、かならず姦通罪に関連づけて訊問するのであった[8](うたいめ)を杖で打つときは、下着を剥ぎ、杖でその陰部を打ち、数か月、腫れ、潰れさせ、「これでは接客できまい」と言い、(しり)の血を嫖客の顔に塗るのであった。(うたいめ)の美しい者に対してはさらに残酷で、その髪を切り、刀でその二つの鼻孔を裂いて、言うのであった。「美しい者を美しくなくすれば、女遊びの習慣は絶えるであろう」。同寅の官に逢うと、かならず自慢した。「女色を見ても心を動かさない。わたしのような鉄面氷心でなければ、このようにすることはできまい」。俸満[9]で山東の別駕[10]に遷った。
 家族を連れて平の旅店に着くと、宿の楼はとても固く閉ざされていた、朱が事情を尋ねると、宿の主人は言った。「楼の中に(もののけ)がおり、数年来、啓いていないのでございます」。朱はもともと剛愎であったので、言った。「構わぬ。(もののけ)はわしの威名を聞けば、すぐにみずから退くだろう」。妻子は懸命に宥めたが聴かなかった。妻子を別室に置き、自分ひとりは剣を携げ、燭を秉り、坐して三鼓に至ると、門を叩いて入ってくる者があった、白い鬚に絳い冠で、朱を見ると長揖した。朱は怒鳴った。「何の(もののけ)だ」。老人は言った。「わたしは(もののけ)ではなく、こちらの土地神です。貴人がこちらに来られたのを聞き、まさに(もののけ)たちが滅ぼされる時ですので、喜んでお迎えしたのでございます」。そして頼んだ。「公よ、まもなく(もののけ)が来ますから、どうか宝剣を揮われてください。わたしがさらにお助けすれば、みな斬罪に服しましょう」。朱はとても喜び、感謝して立ち去らせた。
 まもなく、青面の者、白面の者が次々にやってきた。朱が剣で斬ると、すんなり倒れた。もっとも後に長い牙、黒い嘴の者が来たが、朱が剣で撃つと、やはり痛いと叫んで死んだ。朱は喜んで得意になり、急いで宿の主人を呼んで告げた。その時、鶏はすでに鳴いていたが、家人が燭を秉ってやってきて照らしたところ、屍は横たわって地に満ちており、すべてその妻妾子女であった。朱は大声で叫んだ。「妖鬼に弄ばれたか」。(なげ)いて死んだ。

不倒翁(おきあがりこぼし)
 蒋生某は河南に往き、鞏県を通り、宿に泊まった。宿屋には西の楼があり、とてもきれいに掃除されていたので、蒋は気に入り、荷物を持っていった。宿の主人は笑って言った。「お客さまは胆が太いのでしょうか。この楼はあまり安全ではございませんのに」。蒋は言った。「椒山にはおのずと胆がある」[11]。燭を秉り、坐して深夜に至ると、(つくえ)の下で竹の桶が水に浮かぶような音がし、躍り出る者があった。青い衣に?(くろ)い冠、長さは三寸ばかりで、世間の下役の姿に似ていた。蒋をしばらく睨むと、しっしっと言って退いた。
 まもなく、数人の短人が一人の役人を舁いできた。旗幟馬車の類は、歴歴として豆のようであった。役人は烏紗冠で端坐し、蒋を指さして大いに罵ったが、声は細く、蜂か(さそり)のようであった。蒋が怖れる色を見せないでいると、役人はますます怒り、小さい手で地を拍ち、短人たちを指揮して蒋を捕らえさせようとした。短人たちは(くつ)を牽き、(しとうず)を引いたが、結局動かすことはできなかった。役人はかれらに勇気がないのを憎み、腕捲りしてみずから起った。蒋は手でそれを撮むと、(つくえ)の上に置き、じっくり見たが、世間で売られている不倒翁(おきあがりこぼし)であった。塊然として倒れ、ただの土偶にすぎなかった。その従者たちは俯せになって羅拝し、主君を還すことを願った。蒋は戯れて言った。「物で贖わなければならんぞ」。従者たちは「はい」と返事し、壁の穴の中でぶんぶんと音をたてると、四人で一本の釵を運んだり、二人で一本の簪を担いだりし、まもなく、装身具や金帛の類が地に布かれた。蒋が不倒翁(おきあがりこぼし)を取って投げ与えると、元通り動くことができるようになったが、隊伍がふたたび整うことはなく、逃げ回りながら散っていった。
 空がようやく明るくなると、宿の主人が大声で「賊に入られた」と叫んだ。尋ねると、楼の上の役人を贖った品物は、すべて三寸の短人が偸んだ宿の主人の物であった。

占いの先生の鬼
 平望の周姓は、舟に棹さすことを生業としていた。舟が湖州橋の下を過ぎたところ、(さお)が骨壺に触れて水に落ちたが、家に着くと妹が病み、叫んだ。「わたしは湖州の占いの先生徐某だ。生前、督撫司道[12]の貴人たちは、みんなわたしを敬っていた。おまえは何者だ。わたしの骨を水に投じるとは」。女はもともと字を識らなかったが、病んだ後は読書することができるようになり、人のために占いすることを好んだ。八字を書き与えると、その占いはことごとく世上の五行説に合っていたが、あまり当たらなかった。周は牒文[13]を整えて城隍に訴えた。女は一日臥すと目醒めて言った。「二人の青衣が一人の鬼を捕らえて、わたしとともに神前で訊問しますと、鬼は跪いて骨を毀たれた事を訴えました。神は言いました。『このものの兄がそなたに触れたのに、妹を責めるとは、強きを畏れ弱きを挫くことではないか。そなたはみずから占いが得意だと称しておるが、自分の骨を護れぬのだから、占いが優れていないのは明らかだ。生前、人の財物をどれほど騙し取ったか知れない。笞うち二十回にして、湖州へと護送せよ』」。女はそれからというものまた字を読めなくなり、占うこともできなくなった。

鬼が力を借りて悪人を制すること
 俗に、悪人が死ぬときは、かならず悪鬼がいて、その力で制することができると伝えられている。揚州の唐氏の妻某は、平素から気が荒く、焼餅焼で、妾や(はしため)でその手に掛かって死ぬ者は数えきれなかった。まもなく、にわかに病んだが、口ではぶつぶつ罵り、普段だだをこねている時のようであった。隣家の徐元は、膂力が人に抜きんでていたが、一日前に意識を失い、鼾をかいたり、叫んだり、罵ったりし、人と格闘しているかのよう、一日たってようやく蘇った。ある人が事情を尋ねると、こう言った。「鬼たちに力を貸していただけだ。鬼は閻魔の命を奉じて唐の女房を捕らえたのだが、唐の女房は力が強く、鬼たちは押さえることができなかったから、わたしの力を借りて縛ったのだ。わたしは三日闘ったが、昨日その足を引き倒し、縛って鬼たちに引き渡し、ようやく帰ってきただけだ」。唐の妻を見にゆくと、息絶えており、左足に青痣があった。

馬盼盼
 寿州の刺史劉介石は、扶乩[14]を好んでいた。泰州の知事であった時、乩仙を西の(ひろま)に招いた。ある日、乩盤が大いに動き、「盼盼」の二字を書き、さらに「両世縁」の三字を書いた。劉はとても驚き、関盼盼[15]だと思い、「両世のどのような縁でしょう」と尋ねたところ、「事は『西湖佳話』に載せられています」と言った。劉が紙に「会うことができますか」と書いて焚くと、「今晩に」と言った。はたして薄暮になると病み、(まじろぎ)をせず心はぼんやりとした。妻妾たちはとても驚き、周囲に坐して見守った。燈が点されてしばらくすると、陰風が颯然として、絶世の容色の女が、全身にとても華やかな衣と(くつ)を着け、手に紅い紗燈を執り、戸の外から入り、劉に向かって飛びかかってきた。劉は冷たい汗を雨のように垂らし、心の中で後悔した。女は言った。「わたくしが怖いのですか。まだご縁がないからですね」。ふたたび戸から外に出ると、劉は病がすこし癒えた。その後、心が動くと、女はかならず来るのであった。
 劉はある日揚州の天寧寺[16]に寄寓し、秋雨の中、悶々として坐していたが、ふたたび女が思われたので、乩紙[17]を取って焚いた。すると乩盤に大きな文字が書かれた。「わたしは韋馱仏だが、おまえが妖物に纏われているのを思い、わざわざ救いにやってきたのだ。おまえは天条[18]を知っているか。上帝がもっとも憎まれるのは、生きている人間が鬼神と交接するのを好むことなのだ。その罪は(いん)(しん)の上にある。これからははやく悔い改めるべきだ。仙人や鬼神に媚びて、みずからの生命を損なうことがないように」。劉はぞっとして叩頭し、乩盤を焚き、符紙を焼いたが、それからは妖物は来なくなった。
 数年後、『西湖佳話』を閲したところ「泰州に宋時の營妓[19]馬盼盼の墓有り、州署の左偏に在り」、『青箱雑誌』には「盼盼は機巧あり、能く東坡の書法を学ぶ」と載せていたので、姿を現した妖物は、関盼盼ではなかったことをはじめて悟ったのであった。

滇綿谷秀才が半世女装すること
 蜀[20]人の滇謙六は、富んでいたが男子がなく、しばしば得てはしばしば失っていた。星命家が厭勝[21]の法を教え、こう言った。「足下の両世の運命の中に照臨しているのは、多くは雌宿[22]で、男子を得ても、無駄なのです。しかし、男子を得たときに、女子として育てれば、救うことができるでしょう」。やがて綿谷が生まれたので、謙六は穿耳(せんじ)[23]梳頭(そとう)[24]、纏足を教え、「小七娘」と呼びなし、梳頭、纏足、穿耳していない女を娶って妻としたところ、はたして成長し、学校に入った。二人の孫が生まれたときに、たまたま郎の字で孫に命名したところ、すぐに死んだ。そこで孫が生まれるたびに、やはり女として育てた。綿谷は秀麗で鬚がなく、みずからを女であるとし、その『繍針詞』は世に知られている。わが友の楊刺史潮観はかれと親しかったので、その顛末を述べたのである。

煉丹道士
 楚中[25]の大宗伯[26]張履昊は道術を好んだ。わたしは告帰[27]するとき、江寧[28]に寄居した。城に入る時、朱提[29]百六十万を持っていた。郎総兵という者がおり、役所の下士であったが、黄白の術[30]をよくする朱道士を推薦した。道士は年齢は九百余歳、(あんず)(さね)を焼いて銀にし、しばしば試したところ神技のようであった。道士は公に丹を(きた)えるように説いたが、白銀百万で、煉丹一つを作れば、長生きすることができるとのことであった。公は惑わされ、斎戒すること三日、坎離の位を定め[31]、一つの炉ごとに、かならず銀五万両、炭百担[32]を入れた。昼は公がみずから監視し、夜は人に見守らせた。銀はすぐに水と化した。(きた)えること三月(みつき)、銀八十万を費やしたが、丹ができたという消息はなかった。問い詰めると、道士は言った。「百万に満ちれば丹は出来上がります。出来上がった後にこれを含めば、餓えることも凍えることもなく、南であろうが北であろうが、思いのままで、行くことができないところはございません」。公はどうすることもできず、さらに十余万を与えたが、すでに偽りであると感じていたので、道士が小便するときは、かならず人に尾行させた。
 早朝、道士は園で小便したが、尾行する者が振り向くと、たちまち道士は居なくなった。炉を見にゆくと、百万の銀はすっかりなくなっていた。道士の荷物を啓いたところ、手紙一通があり、こう書いてあった。「公のこの種の財物は、正しい物ではございません。わたしは公と宿縁がございますので、わざわざ取りにきたのです。公のために、冥界の贖罪の費用を用意しましたから、後日、おのずと効き目がございますでしょう。どうか怪しまれませぬように」。家人で道士を覘っていた者はみな言った。「五万の銀を炉に下すたびに、建物の上では隠隠として雷の音がしました。道士は恐れて地に伏し、朱い護符でその頭を覆っていました」。銀を運んだ痕跡はほんとうになかった。

葉老脱
 葉老脱という者がいたが、その来歴は分からない。無帽で裸足、冬も夏も一着の木綿の袍、手に竹の蓆を挈げて歩いていた。維揚の旅店に投宿したとき、部屋の客たちが騒がしいのを嫌い、静かな場所を択ぼうとした。宿の主人は一室を指して言った。「こちらがいちばん静かですが、鬼がおりますので、泊まることはできません」。葉は言った。「構いません」。すぐに自分で掃除し、竹の蓆を(ゆか)に敷いた。
 夜、臥して三鼓に至ると、入り口がたちまち開き、婦人が帛を(うなじ)に繋ぎ、両の眸を抉り出し、両顎の下に懸け、長さ数尺の舌を伸ばし、そぞろ歩きしてやってきた。傍には頭のない鬼がおり、手に二つの頭を提げてやってきた。その後に尾いてきた者は、一鬼は全身が黒く、耳、目、口、鼻は定かではなく、一鬼は四肢が黄色に腫れ、腹は五石の匏よりも大きかった。かれらは訝った。「こちらには生きている人間の匂いがするから、いっしょに捕まえるべきだ」。大勢で捜したが、結局、葉に近づくことができなかった。一鬼が言った。「明らかにこちらにいるのに、捜しだせないが、どうしよう」。黄色の太った者は言った。「われらが人を捕らえることができるのは、かれらの心が怖れていて、魂がさきに出ているからなのだ。この人は有道の士なので、心は怖れず、魂は体を離れていないから、すぐには捕まらないのだろう」。鬼たちがまさに徬徨四顧していると、葉は起ち、蓆の上に坐し、手でみずからを示して言った。「ここにいるぞ」。鬼たちは驚き、みな地に跪いた。葉が逐一訊ねると、婦人は三鬼を指さして言った。「こちらは水で死んだ者、こちらは火で死んだ者、こちらは強盗殺人で処刑された者、わたくしはこの部屋で縊死した者にございます」。葉は言った。「おまえたちはわたしに従うか」。鬼たちは言った。「はい」。葉は言った。「それならそれぞれ転生し、こちらで祟りをなしてはならぬ」。それぞれは羅拝して去った。
 朝になると、主人にその事を語ったが、その後、この部屋は平穏であった。

蘇耽老が疫病神と酒を飲むこと
 杭州の蘇耽老は、性格は滑稽で、人を嘲るのが得意であった。人々はかれを憎み、元旦に、疫病神一枚を描いてその門を鎮めた。耽老は朝に出て門を開けると、それを見て大いに笑い、疫病神を迎えて帰り、上座に据えると、ともに酒を飲んで焼いた。この年、疫病が大流行したので、四隣の病人たちは疫病神を祀った。病人たちはかならず神の言葉を語った。「わたしは元旦に蘇耽老の持てなしを受けたが、報いることができないことを愧じている。わたしを祓おうとする者は、かならず蘇君を招いてわたしに相伴させれば、わたしははじめて去るであろう」。そこで、疫病神を祀る者たちは、先を争って蘇を招いたので、蘇は毎日奔走し、酒食に苦しめられたのであった。かれの家の老若十余人には、一人も病んだ人がなかった。

劉刺史の奇夢
 陝西の劉刺史介石は江南の役人に任ぜられ、蘇州虎丘に寓していた。夜の二鼓、夢で軽風に乗って陝西に帰ったが、郷里に着く前、路で一鬼に遇って尾行された。身長は三尺ばかり、ぼさぼさ頭で仏頂面[33]、醜悪で憎らしく、劉と組み打ちした。しばらくすると、鬼は敗れたので、劉は鬼を脇の下に挟んで趨り、河に投げ込もうとした。路で古くからの隣人である、于姓の者に遇ったところ、こう言った。「城の西に観音廟があるから、この鬼を連れてゆき、観音に訴えて、患を防いではいかがでしょう」。劉はその通りだと思い、鬼を連れて廟に入った。
 廟の外では、韋馱や金剛神たちが目を怒らせて鬼を見、それぞれが持っている武器を挙げると鬼を撃とうとしたために、鬼も懼れた。観音はそれを望み見ると、叫んだ。「これは冥府の鬼なので、冥府に送り返さなければなりませぬ」。劉は拝謝した。観音は金剛に目配せし、護送させようとしたが、金剛は跪いて断った。言葉はよく分からなかったが、護送するのを潔しとしていないようであった。観音は笑いながら劉を見ると言った。「今すぐあなたに冥府へ護送してもらいましょう」。劉は跪いて言った。「わたくしは凡身ですから、冥府に行くことはできません」。観音は言った。「容易いことです」。劉の顔を捧げもち、息を吐きかけること三たび、すぐに外に出した。鬼は俯いて語らず、ついていった。
 劉がみずから考えたが、観音の命令があったとはいえ、冥府がどこかは分からなかった。徘徊していると、ふたたび于姓の者に遇った。于は言った。「あなたは冥府に往こうとしてらっしゃいますが、前方の竹の笠が地を覆っているところがそれです」。劉が路の北を望むと笠があり、俗に用いられている醤缸(みそがめ)の篷のようであったが、手で起こすと、窪然(わぜん)[34]たる井戸であった。鬼はそれを見るととても喜び、跳び込んだ。劉はついていったが、冷たくて耐えることができなかった。一丈ほど墜ちるたびに、かならず井戸に夾まったが、温気が上から下りてきて、さらに墜ちるのであった。
 三たび墜ちると、豁然と音がし、瓦の上に落ちた。目を見張って見ると、別に天地があり、明るい日、麗しい空、墜ちた瓦は、王者の宮殿の片隅であった。殿中の神々は激怒して、大声で叫んだ。「どこかで生きている人間の匂いがするぞ」。金の鎧の者が劉を捕らえて王の前に行った。王は袞龍衣[35]、冕旒[36]を着け、鬚は白銀のよう、上座に着いて、尋ねた。「生きている人間なのに、なぜここに来た」。劉は観音が護送を命じたことをつぶさに語った。王が金の鎧の神に目配せすると、神は劉の顔を掴んで天を仰ぎ、じっくり見、こう言った。「顔に紅い光がございますから、仏が遣わしてきたものにございます」。王は尋ねた。「鬼はどこにいる」。神は言った。「塀の下におります」。王は声を?しくして言った。「悪鬼を留めておいてはならぬ。護送してもとの処へ帰らせるのだ」。神々は(さすまた)や戟を持って集まり、鬼を叉や戟で池に投じると[37]、池の中では、毒のある蛇、怪しげな(すっぽん)が、争って粉々にして食らうのであった。
 劉はひとりで考えた。「冥府に来たのだから、前生の事を尋ねてはどうだろう」。金の鎧の神に揖して言った。「わたくしは前生の事を知りたいと思います」。金の鎧の神は頷くと、廊下に引いてゆき、帳簿を引き出し示して言った。「あなたは前生で九歳の時、他人が子供を売った銀八両を盗んだことがあり、子供を売った両親は後悔して亡くなりました、あなたはこの罪によって若死にしたのです。今は二度目の世にありますが、(めしい)になって、前世の罪を償うことになるでしょう」。劉は大いに驚いた。「善行をすれば厄払いすることができますか」。神は言った。「善行のいかんによります」。話していると、殿中で叫び声がした。「天符[38]が来た、はやく劉某を人の世に戻し、冥府の案件を漏らすことがないようにせよ」。金の鎧の神は腕を執って王の前に行かせた。劉はふたたび跪くと頼んだ。「わたくしは凡身ですので、この冥界を出ることはできませぬ」。王は劉の背を持って気を吸うこと三たび、井戸で体を跳び上がらせた。三たび跳び上がり三たび夾まったのは前と同じであったが、温気が下から上ってきたので、体は井戸から出たのであった。
 長安への道すがら、観音廟に復命し、跪いて冥府での顛末を述べた。傍の一人の童子は嚅嚅[39]として止めず、述べている言葉は劉と同じであった。劉が驚いて見たところ、耳、目、口、鼻はまるで自分そのものだが、嬰児のように縮んでいた。劉は大いに驚き、童子を指して叫んだ。「このものは妖物にございます」。童子も劉を指して叫んだ。「このものは妖物にございます」。観音は劉に言った。「恐れることはありません、これはあなたの魂です。あなたの魂は悪ですが魄は善なので、ひどいことをしてもあまり徹底しないのです、今、易えてあげましょう」。劉は拝謝したが、童子は謝さずに、こう言った。「わたしはそのものの上に居ますが、今、わたしを易えようとなさるなら、かならずさきにわたしを去らねばなりません。わたしが去れば、そのものも傷われましょう」。観音は笑って言った。「傷われぬ」。長さ一尺ばかりの金の簪を手にすると、劉の左脇から挿入し、腸を剔り出し、腕に巻き付けた。一尺ばかり巻き付けるたびに、童子は体がだんだん縮んだ。巻き付けおえて、梁の上に擲つと、童子は二度と見えなくなった。観音が掌で(つくえ)を撲つと、劉は胸騒ぎして目醒めたが、蘇州の枕席の間にあり、脇の下には紅い傷痕が、まだかすかにあった。一月あまりすると、陝西から便りが来て、その隣人の于姓の者が亡くなったとのことであった。この事は介石がみずからわたしに語ったことである。

趙李二生
 広東の趙、李二生は、番禺山[40]中で読書していた。端午の節句、趙氏の父母は酒肴を送り二生のに節句を祝わせた、二生はともに飲み、大いに楽しんだ。二鼓になると、門を叩く音がしたので、啓いたところ、やはり書生で、その衣冠は楚楚としていた。みずから言うには、十里ばかり離れているが、二生の高義を慕い、やってきて交際を結ぼうとしたのだということであった。迎え入れて坐すると、談論風発した。まずは挙業を論じ、次に古文詞賦に及んだが、始めから終わりまで、二生は自分たちがかれには及ばないと思った。最後に神仏に話が及んだ。趙はもともと聞くことを楽しまなかったが、李はすこぶる信じていた。書生は神仏がいることを力説すると、こう言った。「仏を見たいですか。すぐに見られますよ」。李は欣然として試そうとした。書生は几案を取ると五尺ばかりに積み上げ、その上にあぐらをかいた。するとたちまち旃檀の香りが氤氳として四方から漂ってきた。すぐに身に着けた絹の帯を取って輪を作ると、二生に言った。「輪から入れば、そこが仏地(ぶつじ)で、仏を見ることができます」。李は深く信じていたし、輪の中に観音、韋馱がおり、香煙が飄渺としているさまが見えたので、すぐに頭を輪に入れようとした。しかし、趙が眺めると歯をむき出して青面で、一丈あまりの舌を吐く者が輪の中にいた。大声で呼んだところ、家人たちが入ってきた、李は夢から醒めた者のように、もがいて逃れたが、頚にはすでに傷が付いていた、書生は杳然として二度と現れなかった。二生の家では、山に邪があり、勉強することができないので、それぞれを家に還らせた。翌年、李は孝廉に挙げられ、会試に連捷[41]し、都を出て廬江の知県を授かったが、最後は弾劾され、みずから縊れて亡くなったのであった。

山東の林秀才
 山東の林秀才長康は、四十で落第した。ある日、学業をやめようと考えていたところ、傍で人が叫んだ。「がっかりなさってはなりません」。林が驚いて「何者だ」と尋ねると、「わたしは鬼です。公をお守りして歩き、公のため、数年間、車駕をお護りしてきたのです[42]」と言った。林はその姿を見ようとしたが、鬼は承知しなかった。再三話すと、鬼は言った。「どうしてもわたしを見ようとなさいますが、怖れないなら宜しいでしょう」。林が約束すると、前に跪いたが、不潔なありさまで血を流しており[43]、「わたくしは藍城県の布を売り買いする者で、掖県の張某に謀殺されて、屍は東の城門の石磨(いしうす)の下で圧されています。公は、後日、掖県知事となられますので、いつも公に侍しております。どうか怨みを雪いでください」と言うのであった。そして、公は某年に郷試に挙げられ、某年に進士と成ると言い、言いおわるとまた見えなくなった。期日になると、孝廉に挙げられたが、進士になる期日は間違っていた。林は嘆いて言った。「世の功名にかかわる事は、鬼さえ知らないことがあるのか」。そう言っていると、空中でふたたび叫び声がした。「公の行いに悪いところがあっただけです、わたしが誤って報せたのではございません。公は某月日に寡婦の某と私通されました、さいわいに妊娠せず、気付く人はいませんでしたが、冥府はその悪を記録してその罰を軽くし[44]、罰として二科[45]遅らせたのです」。林はぞっとして、身を謹み、善を修め、二科遅れて進士となり、掖県に官職を授かった。着任し、入城すると、石磨(いしうす)があり、除いたところ、屍があったので、すぐさま張某を捕らえた。訊ねたところ、ことごとく殺人の実情を白状したので、処刑したのであった。

秦中[46]の墓道
 秦中は土地がきわめて厚く、三五丈掘っても泉に達しないことがある。鳳翔以西の習俗では、人が死んでもすぐには葬らず、多くは暴露し、血肉が融けつくすのを待ってから、埋葬する。そうしなければ(きょう)となると言われている。屍が融けないうちに葬られた者が、一たび地の気を得ると、三か月の後、全身に毛を生じる。白い者は白凶といい、黒い者は黒凶といい、人家に入って悪さをするのである。
 劉刺史の隣人である孫姓の者が溝を掘ったところ、石の門があった。開いたところ、そっくり隧道となっていた。並べられていたのは、鶏犬、罍尊[47]で、すべて素焼きであった。中に二つの棺が懸けられ[48]、傍に男女数人が列なり、身を壁に釘うたれていた。古の殉死した人々は、その倒れることを懼れ、釘うたれたのであろう。衣冠や顔は、かすかに見ることができたが、すこし近づいて見ると、穴に風が起こり、ことごとく灰と化し、骨は白い塵のようになった。しかし、釘はなお左右の塀の上にあった。何王の墓であるかは分からなかった。さらに掘ると臥した姿の土偶を得たが、頭角と四肢があるのに耳目がなかった。疑うらくはすべて古い屍の変化したものなのであろう。

夏侯惇の墓
 本朝の松江提督張勇が生まれた時、その父は金の鎧の神が、みずから漢の将軍夏侯氏と称し、門に入るのを夢み、すぐに勇を生んだ。後に侯に封じられて帰葬し、地を掘ったところ古碑があった。隸書で「魏の将軍夏侯惇の墓」とあり、字はお碗ほどの大きさであった。二千年を経て骨肉がまたもとの処に帰ったというのも、奇すしきことであった。

塞外二事
 雍正の頃、定西大将軍[49]紀成斌は敗戦したため誅せられたが[50]、塞外ですこぶる祟った。後に後任の将軍である査公[51]配下の兵某は、白日地に倒れ、みずから紀大将軍と称し、飲食を求めた。人々はみな羅拝し、代わって命乞いした[52]。幕客の陳対軒は、豪士であったが、進み出るとその頬を打ち、罵った。「紀成斌よ、おまえは阿拉蒲坦(アラプタン)[53]を征伐したとき、陣に臨んで萎縮したため、王法により誅に伏した。鬼に(たましい)があるならば、今もなお自分を愧じるべきなのに、なにゆえに悪霊となり、屠殺人や乞食のようなことをするのだ」。罵ると、兵は蹶然として起ち、それ以上おかしなことを言わなかった。その後、疫病があってみずからを紀大将軍と称する者があるときは、「陳相公が来た」と称して驚かすと、たちどころに癒えるのであった。
 紀が誅せられた時、家僕はすべて離散したが、一人の料理人がその屍を収容した。まもなく病死すると、つねに病人の体に附き、みずからを「厨神」と称し、こう言った。「上帝はわたしが忠心を持って(あるじ)を葬ったのを憐れみ、鬼たちの長になされたのだ」。「紀将軍はどこにいる」と尋ねると、こう言った。「上帝はあのかたが敗戦し、兵民数万に傷を受けさせたことを怒り、罰して疫鬼とし、わたしの指示を受けさせている。わたしはあのかたが主人であったので、いつも申し訳なく思っているが[54]、わたしの言うことはすべて聴いてくださるのだ」。その後、塞外で将軍の祟に遇うと、まず陳相公を呼び、陳が来なければ、厨神を呼ぶと、紀はやはり去るのであった。

関神の断獄
 溧陽[55]の馬孝廉豊[56]は、及第する前、県の西の村の李家で家庭教師をしていた。隣には王某がおり、性格は凶悪で、ふだんからその妻を殴っていた。妻は饑え、生きてゆくことができなかったので、李家の鶏を盗み、烹て食べた。李はそれを知ると、その夫に告げた。夫は酒を帯びていたので、大いに怒り、刀を持って妻を牽いてきた。そして、くわしく尋ねて事実を知ると、殺そうとした。妻は大いに懼れ、鶏は孝廉に盗まれたのだと偽った。孝廉は争ったが、みずからの潔白を証すことができなかったので、言った。「村に関神廟があるから、往って杯珓[57]を擲って占おう。卦が陰ならば婦人が盗んだことにし、卦が陽ならば男子が盗んだことにしよう」。言った通りにし、三たび擲ったところすべて陽であった。王は刀を投げて妻を帰らせ、孝廉は鶏を盗んだということで、村人に疎んじられ、数年間、家庭教師の口がなかった。
 後日、扶乩する者が壇に登ると、関神であるとみずから称した。孝廉は以前の事を思いだし、神に霊験のないことを大いに罵った。乩仙は灰盤にこう書いた。「馬孝廉よ、おまえは将来、民に臨む職に就くが、物事に緩急軽重があることを知っているのか。おまえが鶏を盗んだことになったとしても、家庭教師の口を失うだけのことだが、某の妻が鶏を盗んだことになったら、たちまち刀下に死ぬことになる。わたしは霊験がないという評判を受けてもよいから、生きている人の命を救ったのだ。上帝はわたしが政治の要領をよくわきまえていることを考慮され、三級昇格させたのだ。おまえはわたしを怨むのか」。孝廉は言った。「関神は帝に封ぜられているのですから、昇級などはございますまい」。乩神は言った。「今、四海九州にはことごとく関神廟があるのだから、たくさんの関神が血食を享けることがどうしてできよう。およそ農村に建てられた関廟は、上帝の命を奉じて、村内の鬼のふだんから正直な者を択んで仕事を代理させているのだ、真の関神は帝の左右におり、俗世に降りてくることはできぬのだ」。孝廉は納得した。

紫清煙語
 蘇州の楊大瓢、諱は賓という者は、書法に工みで、年が六十の時、病死して蘇り、こう言った。「天上の書府[58]がわたしを呼んで試験に赴かせただけだ。近頃、玉帝は『紫清煙語』一部を作られたが、繕書する者が少ないために、能書の人を召して試験をされたのだ。わたしは合格しただろうか。合格していれば、生き返ることはできない」。三日後、空中に鸞鶴の声がすると、楊は愀然として言った。「わたしは王僧虔[59]に学ぶことができず、禿筆がみずからに災いし、命を損なってしまった」。瞑目して亡くなった。ある人が天府の書家の姓名を尋ねると、言った。「索靖[60]は一等の第一人で、右軍は一等の第十人だ」。

顧堯年
 乾隆十五年、わたしは蘇州の江雨峰の家に寄寓した。その子宝臣は金陵の郷試に赴き、家に帰ると劇しく病んだ。雨峰はあまねく名医を召したが、みな難色を示した。わたしが薛徴君一瓢と親しいことを知ると、わたしに手紙を書いて迎えることを求めた。やってくる前、わたしと雨峰は入り口で待っていた。すると病人が部屋で「顧堯年さんが来た」と叫び、つづけざまに「顧さん、お掛け下さい」と言っていた。顧堯年は、蘇州の布衣で、以前、米価を安定させることを求め、人々に呼びかけて役人を殴ったため、江蘇巡撫の安公[61]に誅殺された者であった。腰掛けると、江に言った。「江の若さま、あなたはすでに郷試の三十八名に合格され、病気も悪くございませんから、お楽になさいますように。わたしに酒肉を賜われば、わたしはすぐに去りましょう」。雨峰はそれを聞くと、急いで部屋に入って慰めた。「顧さま、はやく去られてください。すぐにお祭りいたしますから」。病人は言った。「外に銭塘の袁某官がいて、門で騒いでいるために、わたしは怖くて、去ることができないのです」。さらに叫んだ。「薛先生が門に来ました。あの人は良医ですから、わたしは避けるべきでしょう」。雨峰が急いで外に出て、わたしを引いて路を譲らせたところ、一瓢が外から入った。すぐに事情を告げると、一瓢は大いに笑った。「鬼がわたしたち二人を避けているのなら、おんみといっしょに入って追い払いましょう」。部屋に入り、薛が脈をとり、わたしが(とこ)の前を掃除すると、一つの薬で癒えた。その年、宝臣は及第したが、報された順位の通りであった。

妖道が魚を乞うこと
 わたしの姉の夫である王貢南は、杭州の横河橋[62]に居た。朝、外出すると、道士に門で遇ったが、道士は拱手して「一尾の魚を下され」と言った。貢南は怒った。「出家した人は精進物を食らうのに、魚や肉を求めるのか」。道士は「木魚です」と言った。貢南は拒んだ。道士は「吝かなことをなされば、かならず後悔なさいましょう」と言うと去った。その夜、瓦が落ちる音がした。朝に見ると、瓦が庭に集まっていた。翌晩は、衣服がすべて便所の中に入っていた。
 貢南は張有虔秀才の家に護符を求めた。張は言った。「わたしには二つの護符があり、その値段は、一つは安く、一つは高い。安いものを貼れば、朝晩防ぐことができ、高いものを貼れば、神を現し、(もののけ)を捕らえるであろう」。貢南は安いものを取って帰ると、中堂に懸けた。その晩は、平穏であった。三日後、奇妙な顔をした、老いた道士がやってきて門を叩いた。たまたま貢南はよそへ行っており、次子の後文が出て会った。道士は言った。「あなたの家は、この間、某道士に苦しめられたが、あの者はわたしの弟子だ。護符に救いを求めているが、わたしに救いを求めた方がよいだろう。父上に頼まれよ、明日、西湖の冷泉亭[63]に行き、大声で『鉄冠さま』と三たび叫べば、わたしはすぐに行くであろう。そうでなければ、護符は鬼に盗み去られよう」。貢南が帰ると、後文はそのことを告げた。貢南は、早朝、冷泉亭に行き、大声で「鉄冠さま」と数百回叫んだが、杳として応える者はなかった。たまたま銭塘の知事王嘉会が通り掛かると、貢南は輿を阻んで、口ずから事情を訴えた。王はかれが気違いであると疑い、大いに罵り辱めた[64]。その夜、家丁の雄健な者数人を集めてこの護符を守らせた。五更、砉然として音がすると、護符はすでに見えなくなっていた。朝に見ると、(つくえ)に巨人の足跡があり、長さは一尺ばかりであった。それから、毎夜鬼たちは集まり、門を撞き、碗を擲った。貢南はとても驚き、五十両でふたたび護符を張氏に求め、懸けたところ、鬼は鎮まった。
 ある日、王はその長男の後曾に腹を立て、杖で打とうとした。後曾は逃げ、三日帰らなかった。わたしの姉は泣きやまなかった。貢南がみずから捜索したところ、後曾が河を徬徨い、溺れかけていたので、急いで肩輿[65]に引き上げたが、その重さは他の日に倍していた。家に着くと、両眼を見開き、喃喃と語ったが、聞き取ることはできなかった。蓆の下に臥し、突然驚いて「わ、わたしを取り調べられるならすぐ参ります」と叫ぶのであった。貢南が「どこに行くのだ。いっしょに行くぞ」と言うと、後曾は起ち、衣冠を整え、護符の下に跪いたので、貢南も同様にした[66]。貢南には見えなかったが、後曾が見たところ神が上座に着いており、眉間には三つめの目があり、金の顔、紅い鬚、傍に跪いている者たちはすべて小さな男であった。神は言った。「王某は寿命が尽きていないのだから、畏れる心を持っているからといって、死をもって惑わすことはできないぞ」。さらに言った。「おまえたちは五方[67]の小吏であるのに、上清[68]の敕令を受けず、妖道の奴僕となるのか」。それぞれは謝罪したが、神は三十回杖で打たせたので、鬼は啾啾として哀れみを乞うた。その臀を見ると、青泥色になっていた。事がおわると、靴で後曾を蹴ったが、夢がはじめて醒めたかのよう、汗は背中を(うるお)していた。その後、家はまた平穏になった。

屍が怨みを訴えにゆくこと
 常州の西郷に顧姓の者がおり、日が暮れて郊外を歩き、古廟に宿を借りたところ、廟僧は「今晩、某家のために野辺送りをし、弟子たちはみな行きますので、廟には人がいなくなります、廟を番してください」と言った。顧は承諾し、廟の入り口を閉ざし、燈を吹いて横になった。
 三鼓になると、人が門を撞いた。音はとても?しかった。顧が怒鳴って「何者だ」と尋ねると、外では「沈定蘭だ」と応えた。沈定蘭とは、顧の旧友で、すでに死んで十年になる人であった。顧は大いに怖れ、開けようとしなかった。すると外では大声で「怖れるな、君に頼む事がある。ぐずぐずして開けないなら、わたしは鬼なのだから、門を突き破って入るぞ。君を呼んで門を開けさせようとしたのは、普段通りに振る舞って、友の誼を留めたまでだ」と叫んだ。顧がやむを得ずその鍵を啓くと、砉然と音がし、人が地に墜ちたかのようであった。顧は、手は顫え、眼は慌ただしく、燭台を挙げようとした。するとたちまち地面からまたも大きな叫び声がした。「わたしは沈定蘭ではない。わたしは東隣の家であらたに死んだ李某だが、奸婦に毒殺されたので、沈定蘭の名を騙り、あなたに怨みを雪ぐように頼むのだ」。顧は言った。「お上ではないから、怨みを雪ぐことはできない」。鬼は言った。「屍の傷は調べることができるだろう」。顧は尋ねた。「屍はどこにあるのだ」。鬼は言った。「燈が来ればすぐに見える。ただ、燈を見ると、わたしは話すことができなくなるのだ」。
 慌ただしくしていると、外で門を叩く大勢の人々の声がした。顧が迎えに出たところ、僧たちが廟に帰ってきたのであった。それぞれが驚きの面持ちで、こう言った。「お経を誦えて野辺送りしていたまさにそのとき、屍が隠れて見えなくなったので、それぞれが野辺送りをやめて帰ってきたのです」。顧は事情を告げ、いっしょに火を挙げて屍を照らしたところ、七竅から血を流した者が奄然として地に倒れていた。翌日、いっしょにお上に報せ、李某のために怨みを雪いだ。

陽洪氏の獄
 乾隆甲子年、わたしは陽の知事となった。淮安の呉秀才という者が、洪家で家庭教師をしていた。洪は古くからの村民で、金持ちであった。呉は一妻一子を連れて、そのおもての棟に居た。洪家の主人はたまたま先生とその子を食事に招き、妻はひとりで部屋に居た。夜の二更に返ると、妻は殺されていた。刃物が塀の外に擲たれていたが、それは先生の家の包丁であった。わたしは検屍しにいったが、婦人の頚には三つの(きず)があり、粥は喉の外に流れ、惨たらしいありさまであった。下手人を追究したが、跡を辿ることができなかった。洪家には奴隷の洪安という者がおり、もともと左利きであったが、刀の痕は左が深く右は浅かったので、拷問したところ、すぐに罪を認め、「主人の洪生某が、先生の奥さまと姦淫するように唆しましたが、果たせなかったので、殺したのでございます。生は呉さまの生徒です」と訴えた。洪生を訊問すると、奴隷は笞うたれたことがあるので、仕返しに誣告しているだけだと言った[69]。訴訟の具申がなされる前に、わたしは江寧に転任した。後任の魏公廷会は、結局洪安を罪に問い、上申書を提出した。臬司の翁公藻は供述が確かでないことを嫌い、全員を釈放し、別に真犯人を捜索したが、十二年来、捕らえることはできなかった。
 丙子六月、わたしの従弟鳳儀は陽から来て、言った。「洪某という者は、武生員で、去年病死しましたが、出棺の前、その妻の夢に現れて言いました。『某年某月呉先生の奥さんと奸淫して殺したのはわたしだ。法の網を逃れること十余年、今、怨霊によって天に訴えられている。明日の昼、雷が棺を撃ちにくるから、はやく棺を遷して避けさせてくれ』。奥さんは目覚めると、霊柩車を出す事を相談していましたが、棺の前から失火し、骨もろとも灰燼となってしまいました。そのほかの草の(いえ)、木の器はまったく傷なわれませんでした」。わたしははじめて身は県令でありながら、婦人の怨みを雪ぐことができず、刑を無罪の人に加え、役人として大きな過失を犯したことを愧じた。しかし、天の報いが十年遅れ、その身ではなくその知覚のない骸骨にやってきたのは、どうしてなのか。これら凶徒は、その身はすでに亡び、その鬼は霊がないのに、魂魄を夢に現し、さらにみずからその躯殼(ぬけがら)を惜しんだのは、どうしてなのか。

雷公が紿かれること
 南豊の徴士[70]趙黎村が言った。その先祖某は、ある村の豪傑であった。明末の混乱期、悪人の某は、郷曲で幅を利かせ、しばしば金を集めては結社を作り、貧民たちは苦しんでいた。趙は役人に訴え、その徒党を逐い散らした。悪人どもは得るものがなくなって、怨みを募らせる者が多かったが、趙には膂力があったので、悪人どもは個人では報復しようとせず、天が曇り、雷が起こるたびに、その妻子を集め、豚足を供えて「悪人趙某を撃たれてはいかがでしょうか」と祈るのであった。ある日、趙が庭で花を採っていると、尖った口の毛深い男が空から下りてきた、音響は轟然として、硫黄の臭いがした。趙は雷公が悪人に紿かれたのを知ると、溲瓶を手に取り、擲って言った。「雷公よ。雷公よ。わしは五十年生きてきたが、昔からおまえが虎を撃つのを見たことはなく、しばしばおまえが牛を撃つのを見ている。なにゆえかくまで善を欺き、悪を怕れるのだ。おまえがわしに答えることができるなら、不当に死んでも恨みはせぬぞ」。雷は黙って声を発さず、閃閃と目を怒らせ、慚じるような顔つきをした。そのうえ小便に汚されていたので、田の中に墜ち、三日間、苦しみ、吼えた。悪人どもは叫んだ。「雷公さまにご迷惑をかけてしまった。雷公さまにご迷惑をかけてしまった」。醮を設けて済度すると、はじめて去った。

鬼が名を騙って祭祀を求めること
 某侍衛は騎射を好み、東直門で兔を逐っていた。翁が蹲んで水を汲んでいたが、馬は走るのを止めず、翁を井戸に突き落とした。某はとても懼れ、急いで奔って家に帰った。その夜、翁が扉を開けて入ってきて、罵った。「おまえはうっかりこのわしを殺したが、わしが井戸に落ちるのを見たときに、人を呼んでわしを救わせれば、まだ活きられたことだろう。なぜ非情にもこっそりと逃げ、家に帰ってしまったのだ」。某は答えることができなかった。翁はすぐに器を毀ち、戸を壊し、祟りつづけた。一家は跪いて祈り、斎醮を設けた。鬼は言った。「無駄だ。わしを鎮めたいのなら、木を刻み、位牌を作り、わしの姓名を書き、毎日豚足を供え、先祖として待遇しろ。そうすれば、はじめて許してやるとしよう」。言われた通りにしたところ、祟りは止んだ。それからというもの、東直門を過ぎるときには、かならず回り道して井戸を避けることにした。
 後に聖駕に伴い、東直門を通ることとなったので、回り道しようとすると、総管[71]は叱責した。「お上がおまえはどこにいるかと尋ねたら、返す言葉がないではないか。それに真昼で、千乗の騎馬なのだから[72]、鬼を畏れることがあろうか」。某がやむを得ず、井戸の所を通ると、老翁が井戸端に立っており、奔ってくると衣を牽いて罵った。「今日こそおまえを捜し当てたぞ。おまえは一昨年、馬でわたしにぶつかって救わなかったが、何と不人情なのだ」。罵りながら殴った。某は驚いてすぐに哀願した。「わたしは罪を拒みません、しかしおんみはわたしの家ですでに数年祭祀を受けていらっしゃり、面と向かってわたしを許されましたのに、なにゆえにまた前言を改めるのでございましょう」。翁はさらに怒った。「わしは死んでおらんのだから、おまえが祭る必要はない。わしは馬にぶつかられ、脚を滑らせ、井戸に落ちたが、そのあとで、通行人がわしが救いを求めるのを聞き、すぐに曳き出してくれたのだ。おまえはどうしてわしが鬼だと疑うのだ」。某はとても驚き、すぐに翁を引いていっしょにその家に行き、ともに位牌に書かれた文字を観たところ、翁の姓名ではなかった。翁は腕捲りして罵り、位牌を取って擲ち、供えた物を地に撒いた。一家は恐れ愕き、事情が理解できなかったが、空中では大きな笑い声がして去っていった。

鬼は人が命を懸けるのを畏れること
 介侍郎の族兄[73]某は、勇敢で、人が鬼神の事を語るのを憎んでいた。住むたびに、ふだんから不吉だという評判のある場所を択んで住むのを好んでいた。山東の旅店を通り掛かったところ、人々は西の廂房に(もののけ)がいると言ったので、介はとても喜び、戸を開いてただちに入った。坐して二鼓に至ると、瓦が梁に墜ちた。介は罵った。「おまえは鬼か、屋根の上にない物を択んで擲てば、おまえを畏れることにしよう」。はたして石磨(いしうす)が墜ちてきた。介はさらに罵った。「おまえは悪霊か、わたしの(つくえ)を砕けるのなら、おまえを畏れることにしよう」。すると巨石が墜ちてきて、(つくえ)の半分を砕いた。介は大いに怒り、罵った。「狗畜生め。わたしの頭を砕くなら、おまえに服することにしよう」。立ち上がると、冠を地に擲ち、頭を抬げて待った。それからは、寂然として音がなく、(もののけ)もたえて現れなかった。

天殼
 渾天説[74]によれば、天地は鶏卵のよう、卵の中の黄身と白身が分かれていないのが、混沌で、卵の中の黄身と白身が分かれたのが、開闢で、人は卵殼の外に遊ぶことができないといわれている。道家の三十三天の説[75]は、しょせん茫漠たるものである。秦中は地が厚いが、しばしば崩壊し、全村が陥没する。黒い水が噴き上がることもあれば、煙や火が噴き出すこともあり、裂けてふたたび合わさることもあるが、陥没した民の家族に、土からふたたび出た者はなく、どこへ往ったのかも分からないのである。
 順治三年、武威の地が陥没した。董遇という者は、煉形の術[76]を学び、呼吸を止めることができ、海中に沈んでも死ななかった。一家してこの災に遭ったが、九日後、一人だけ地下から現れ、こう言った。「陥没した当初は、ずっしりと重たかった。一日一夜で、泉まで墜ちていった。その墜ちる勢いは、飛んでいるようで飛んでいるのではなく、失神しているかのようで失神しているのではなく、すこぶる心地よく、家人とやりとりすることもできた。泉に着くと、家族はみんな溺れ死んだ。董は[77]呼吸を止めて千余丈の水の底に入ったところ、ふたたび乾燥しており、四方は真黄色であった。やがてだんだん明るくなったが、下を見ると蒼蒼然として、天があった。耳を澄ますと、人民や鶏犬の声がしたので、風に乗ってそこへ行った。わたしは[78]思った。『これは天殼の外の天だ、第二層の天宮に落ちることができたのは佳いことだ、今すぐに人家の瓦の上に落ちれば、わたしのことを天上の人として敬うに違いない』。そして力一杯もがいて体を墜とそうとしたが、罡風に引っ張られ、空中に巻き上げられて、結局落ちることができなかった。すると突然、身長が二丈あまりの、古の衣冠を着けた男が怒鳴った。『ここは二つの天の境目で、古来神仙、聖人もこの関門を破ったことはない。おまえは何者だ。このような妄想を起こすとは。地が合わさらないうちに、はやくおまえの世界に帰れ、そうしなければ百万丈の大地が合わさり、おまえは水を抜けることはできても、土を抜けることはできぬから、死んでしまうぞ』。話していると、たちまち万条の金の光が、遠くから来て、熱くて耐えることができなくなった。古の衣冠を着けた男は董の[79]背を撫でて言った。『はやく行け。はやく行け。日輪が来た。わしはひとまず避けるが、おまえの血肉の身は、逃げなければ、焼けて灰になってしまうぞ』。董はそれを聞くとぞっとし、すぐに運気[80]し、身を躍らせて上った。顔は水土に蝕まれ、焦炭[81]のように黒く、衣服、肌膚は、粘ってくっつき合っていた。一月後、はじめて人の姿に戻り、みずから「劫外叟」と称した。按ずるに『淮南子』に言う[82]。「温帯の下に、血気の(ともがら)なし。日輪の近づく所、即ち温帯なり」と。

董賢が神となること
 康熙年間、従叔祖[83]弓韜公は西安の同知となり、終南山で雨乞いした。山の側に古廟があり、中に美少年の塑像があったが、金貂[84]龍袞[85]、服飾は漢の公侯のようであった。道士に何の神かと尋ねると、道士は指さしながら孫策であるとした。弓韜公は、孫策は江東に横行したが、長安に来たことはない、それに策は武人なのだから、英敏の気があるはずなのに、神は顔が妖艶で女のようだと思い、邪神かと疑った。たまたま太白山の龍王祠を修築していたので、廟を毀ち、その材木、瓦を取り、移して用いようとした。
 その晩、神に召見される夢を見たところ、神は言った。「わたしは孫郎ではなく、漢の大司馬董聖卿です。わたしは王莽に殺され、たいへん悲惨な死に方をしました。上帝はわたしに罪がないこと、高い位に居り、盛んな寵を蒙っていながら、朝廷で士大夫を一人も殺さなかったことを憐れまれ、わたしを大郎神[86]に封じ、この地方の晴雨を掌らせたのです」。弓韜公は董賢であることを知ると、『董賢伝』の中にある「美麗みづから喜ぶ」という言葉を思いだし、じっくり見て止まなかった。神は不愉快そうな顔付きで、言った。「班固に欺かれてはなりません。固は『哀皇帝本紀』を作り、帝は陰痿を病んでおり、子を生むことができないと言ったのですから、わたしを寵愛することもできないでしょう。これは自己矛盾した言葉です。わたしは当時、君臣仲睦まじく、帝といっしょに起臥したことは、事実あります。しかし武帝の時の衛、霍両将軍もこうした寵を受けており[87]、安陵[88]や龍陽[89]と比べることはできません。寵臣は、もともと天象に対応しておりますから、わたしも拒みはいたしませぬ[90]。ただ二千年の冤罪は、卿がわたしのために雪がれなければなりません」。話していると、獠牙藍面の二鬼が一人の囚人を牽いてやってきた、すでに年老い、頭は禿げて声はかすれ、手に一卷の書を捧げていた。神は指さして言った。「これは莽賊です、上帝はこのものの罪が大きいために、陰山[91]に落とし、永いこと毒蛇に咀嚼させました。このたび赦されて出てきて、護送され、わたしの所にやってきて、圂圊(かわや)を司っており、わずかな過ちがあれば、鉄の(べん)[92]で打たれるのです」。弓韜公は尋ねた。「囚人は手に何の書物を持っているのですか」。神は笑って言った。「この賊は一生『周礼』を信じ、死んでも、抱きかかえて放さないのです。鉄の(べん)を受ける時も、『周礼』でその背を護っているのです」。弓韜公が近づいて見たところ、『周礼』であった。上に「臣劉歆[93]恭んで校す」などの字があったので、おもわず大いに笑い、目を醒ましたのであった。
 翌日、俸給百両を寄付し、その廟を葺き、少牢[94]を祀ったところ、今度は神が感謝しにくる夢を見た。神は言った。「廟を修理していただいて、たいへん高義に感じています。ただ、合祀されている人がいないので、血食がひどくさびしい嫌いがあります。わたしの掾史(えんし)[95]朱栩は、義士でしたが、わたしの屍を葬ったため、莽に殺されました。わたしはその恩に感じ、上帝に奏し、その子浮に蔭補させ、光武皇帝の大司空にしたのです。どうかご留意ください」。弓韜公はすぐに朱公の塑像を董公の側に造り、王莽の姿をした囚人の塑像を造り、階の下に跪かせた。その後、晴雨を祈ったところ、いつもただちに験があった。

三つの頭の人
 康熙の頃、呉逆[96]が乱をなしたため、道は断たれた。湖州の客商の張氏三兄弟は、雲南に居たが逃げ帰ることにし、蒙楽山の東から歩くこと十昼夜、道に迷い、木の葉、草の根を採って食べた。朝に曠野を歩いていると、たちまち強い風が西から来たが、海潮江涛の音のようであった。三人は懼れ、高い丘に登って眺めたところ、一頭の黒い牛、体は象より大きいものが、よろよろと通り過ぎており、草木はそのために乱れ靡いているのであった。
 日が暮れても、投宿する場所はなかったが、前方の大樹の下に建物があるようだった。趨ってゆくと、建物はとても広く、中から一人の男が出てきた。身長は一丈あまり、頚の上には三つの頭があった。語るたびに、三つの口がすべて響き、声がはっきりしていて聞き分けることができたが、中州[97]の人の言葉に似ていた。三人にどこから来たのかと尋ねたので、ともに事実を告げたところ、三つの頭の男は言った。「歩いて道に迷われて、お腹が空かれたことでしょう」。三人は拝謝した。男はすぐにその妹を呼び、客のためにご飯を炊かせたが、態度はすこぶる慇懃であった。妹は返事してやってきたが、やはり三つの頭の女で、張兄弟を見ると笑いながらその兄に言った。「お三方のうち、年長の方は長生きすることができますが、二人の弟さんは難を免れないでしょう」。張兄弟が食事しおわると、三つの頭の男は樹の枝を折って与え、言った。「これを日に翳して行けば、指南車にすることができます。ただ、これから通り過ぎる廟宇は、宿ることはできますが、鐘鼓を撞くことはできませんから、しっかり憶えておかれなければなりません」。三人は旅路についた。
 翌日、ごつごつとした山に入ったところ、古廟があって憩うことができた。三人が(ひさし)の下に坐すると、烏が群れ飛び、その頭を啄んだ。張が怒り、石を取って投げつけたところ、誤って廟の鐘に触れ、鏗然として音をたてた。すると二匹の夜叉が跳び出し、二人の弟を取り、裂いて食べた。夜叉は張にも迫ったが、たちまち風涛の音が聞こえ、大きな黒い牛がたちまちにやってきて、二匹の夜叉と格闘した。しばらくすると、夜叉は敗れて逃げたので、張は逃がれた。歩くこと数十日、はじめて故郷に帰ることができた。

水鬼の(ほうき)
 表弟の張鴻業は、秦淮の潘家の河房[98]に寄寓していた。夏の夜、厠へ行ったが、三鼓過ぎで、人の声はすでに絶え、月はたいへん明るかった。張が月を愛でつつ(おばしま)に凭れていると、水中に砉然として音がし、男の頭が水の中から出てきた。張はこの時間に泳ぐ者がいるはずがないと訝り、じっくり見ると、眉目がなく、黒い体で直立し、頚は動かすことができず、木偶のようであった。石を擲つと、水に入った。翌日の午後、一人の男が溺れ死んだので、姿を現したのは水鬼だったことをはじめて悟り、いっしょに寄寓している人々に告げたのであった。
 すると米商人が水鬼が命を奪った奇事について語った。商人は、若いとき、米を嘉興で売り、黄泥溝を通ったところ、淤泥がとても深かったので、水牛に騎って渡った。半ばまで行くと、黒い手が泥の中から出てきて、その脚を引いた。その人が脚を上に退()くと、黒い手はすぐに牛の脚を引いたので、牛は動くことができなくなった。商人はとても驚き、通行人を呼んでいっしょに牛を牽いてもらったが、牛は動かなかったので、火で牛の尾を炙ったところ、牛は痛みに勝えきれず、力を尽くして泥から拔けた。しかし、腹の下にはぼろぼろの(ほうき)がかたく結びついていて離れず、腥く、穢らわしく、近づき難いものであった。杖で撃つと、音は啾啾然として、滴り下ちる水はすべて黒い血であった。人々は刀を用いて(ほうき)を切りおとし、柴を取って焚いたところ、臭さは一月経ってようやく消えた。それからというもの、黄泥溝でふたたび溺れる人はなかった。米商人は詩にその事を記した。「人を牽かんとしたれども誤りて牛を引きたり、後悔し哭くこと啾啾たるを須ゐず。君に一把(いつぱ)[99]の桑の薪を与へなば、暗き処の陰謀は明るき処に休すべし」。

羅刹鳥
 雍正年間、内城の某は子のために嫁を娶った、女の家も豪族で、沙河門[100]外に住んでいた。新婦は轎に乗り、後ろには従騎が群がっていた。古墓を通ったところ、飆風が塚の間から出て、幾たびか花轎[101]を繞った。飛沙は目に入り、行く人はみな辟易したが、しばらくするとようやく収まった。まもなく婿の家に着くと、轎は大広間に停まり、侍女が簾を掲げ、新婦を介添えして出した。ところが、轎の中からは、もう一人の新婦が幃を掲げてみずから出てきて、さきに出た者と肩を並べて立った。人々が驚いて見たところ、衣装の色まで、一つとして異なるところがなく、真偽は分からなかった。介添えして奥の部屋に入れると、舅姑は顔を見合わせて驚いたが、どうすることもできず、ひとまず夫婦の礼を行った。およそ天を拝し、先祖を祭り、親戚たちに会うときは、新郎を間に立たせ、二人の新婦は左右についた。新郎は、両手に花で、望外の幸せだとひそかに思い、夜が更けると、二美人を連れて(とこ)をともにした。下女侍女たちはそれぞれ寝室に帰り、舅姑も枕に就いた。するとたちまち新婦の部屋で悲惨な叫び声がした。衣を羽織って起きあがり、童僕や女たちが扉を開けて入ったところ、血は淋漓として地に満ち、新郎は転がって(とこ)の外に倒れていた。(とこ)の上では一人の新婦が仰向けに血だまりの中に臥しており、一人はどこへ往ったのか分からなかった。提灯を掲げて四方を照らしたところ、梁の上に一羽の大きな鳥が止まっており、色は灰色がかった黒で、鉤のような喙、大きな爪は雪のようであった。人々は騒ぎ立て、力を奮って攻撃したが、短い武器では届かなかった。弓矢や長い矛を使おうと相談していると、鳥はばたばたと(つばさ)を奮い、目の光は青い燐火のよう、あわてて入り口から飛び去った。新郎は(ゆか)で意識を失っていたが、言った。「並んで腰掛け、しばらくしてから、衣を解いて枕に就こうとしたまさにそのとき、たちまち左側の女が、袖を挙げ、一揮いしたために、両眼を抉りとられ、劇しい痛みで気絶したのです。どのように鳥に化けたのかは分かりません」。さらに新婦に詢ねると、こう言った。「主人が叫んで気絶した時、わたしは驚き、理由を尋ねたのですが、あのものはすでに怪鳥となり、わたしの目を啄みましたので、わたしもたちまち気絶したのです」。後に数か月治療すると、ともに元気になり、夫婦はとても睦まじかったが、(めしい)の比目となったのは、哀れであった。
 正黄旗の張君広基がわたしにこのような話をした。墟墓のある所ははなはだ(いん)であり、積もった屍の気は、時を経ると羅刹鳥に化する、灰鶴[102]のように大きく、変幻し、祟ることができる、人の眼を食べることを好み、これも薬叉[103]、修羅[104]、薜荔[105]の類だという。

 

最終更新日:2008312

子不語

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[1]女系の血族。

[2]朱一新等撰『京師坊巷志』巻十「外城北城、騾馬市大街、縄匠胡同」「或作丞相、井一。北有伏魔寺、有中州休寧潮州諸会館、小胡同井曰小井胡同、井一、東曰口袋胡同」。現在の北京市宣武区菜市口付近。

[3] 未詳だが、銀細工のことであろう。

[4]轟然。

[5] 原文「袱被往遊」。未詳。とりあえずこう訳す。布団持参で、すなわち宿泊するつもりで遊びに出かけたということなのであろう。

[6] 「豬臉毛爪」。「毛爪」がまったく未詳。とりあえずこう訳す。

[7] 『左伝』宣公八年「晋胥克有蠱疾」注「惑以喪志」。

[8] 原文「必引入姦情訊之」。未詳。とりあえず、このように訳す。

[9] 任期満了。『清会典』吏部七・文選清吏司四「外官以歴俸三年為俸満」。

[10] 官名。通判のこと。

[11]「椒山」は楊継盛、号は椒山のこと。楊継盛は明の嘉靖丁未科(1546年)進士。『請誅賊臣疏』で厳嵩を弾劾したため下獄し、嘉靖三十四年(1555年)厳嵩により処刑されたが、刑に先立ち、人が蛇の胆を献じたところ、服用を拒絶し、「椒山自ら胆有り」と言ったという。『子不語』のこの箇所では、「椒山」には実際上の意味はなく、言いたいことは「自ら胆有り」ということなのであろう。

[12]総督、巡撫、三司、糧道。三司は布政司、按察司、塩運司。

[13]文書。ここでは神への申し文。

[14]占卜の一種。扶鸞とも。丁字形の木組みを用意し、水平の両端を二人で支え、垂直の部分に付けた筆が下にある砂を入れた皿に書く字によって神意を得ること。胡孚琛主編『中華道教大辞典』八百三十二頁参照。

[15]唐の名妓。『全唐詩話』参照。

[16]揚州の北にある寺。国家文物事業管理局主編『中国名勝詞典』三百三十一頁参照。

[17]未詳。扶乩の際に、神を降ろすために焚く紙か。

[18]天界の法律。

[19]軍中に奉仕する妓女。

[20]四川省。

[21]人や妖物を制する巫術。

[22] 算命家の用語と思われるが未詳。「宿」は星宿のことであろう。

[23]耳に、耳輪を通す穴を開けること。

[24]未詳だが、穿耳、纏足と並列されていることから考えて、女子の風俗であり、具体的には女の髷を結うことであろう。

[25]湖南省。

[26]礼部尚書。

[27] 官吏が、吉事のために暇を告げて帰郷すること。

[28] 江蘇省の府名。

[29] 朱提銀。雲南省朱提山に産する銀。転じて銀の代称。

[30] 錬金術。

[31] 原文「定坎離之位」。未詳。とりあえず、このように訳す。坎離は鉛と汞のこと。

[32] 担は天秤棒で担ぐことができるほどの分量。

[33]原文「囚首喪面」。喪面」は、囚人のようにを梳かず、服喪中のように洗わないこと。 『辨奸』「囚首面而談詩書、此情也哉。」。 「囚首垢面」とも。

[34]くぼんださま。

[35]巻きついている龍を刺繍した服。周等編著『中国衣冠服飾大辞典』百三十二頁参照。

[36]図:『三才図会』。

[37] 原文「群神叉戟交集、將鬼叉戟上投池」。未詳。とりあえずこう訳す。

[38]天の符命。

[39]ひそひそ話すさま。

[40]広東省の山名。番山と禺山。

[41]郷試に合格し、その直後の会試でまた合格すること。

[42] 原文「守公而行、並為公護駕者數年矣」。未詳。とりあえずこう訳す。「護駕」は天子の車駕を点検すること。林長康は秀才なのだから、「護駕」という言葉を使うのは分不相応だが、鬼が林を持ち上げているのであろう。

[43] 原文「喪面流血」。「喪面」に関しては、前注参照。

[44] 原文「陰司記其惡而?其罪」。未詳。とりあえずこう訳す。

[45] 二度の科挙の試験。科挙の試験は三年に一度。

[46]陝西省。

[47]図:『三才図会』。

[48]原文「中懸二棺」。「懸」が未詳。すこし高いところに龕が掘られて棺が安置されている状態をいうか。あるいはすこし高くなった台の上に棺が置かれている状態をいうか。

[49]正史では寧遠大将軍。

[50]雍正十一年五月のこと。『清史稿』巻九参照。

[51]査郎阿のこと。満洲旗人。『清史稿』巻三百二などに伝がある。

[52]原文「代為乞命」。兵某のために命乞いしたということであろう。

[53]ジュンガル部の酋長、策妄阿喇布坦のこと。爾丹のおい。

[54]原文「我以主人故、終不敢」。未詳。とりあえずこう訳す。「不敢」は「不敢当」であると解す。

[55]江蘇省の県名。

[56]孝廉の馬豊。孝廉は挙人。

[57]道観で用いる、占いの道具。写真−窪徳忠『道教史』十一頁。

[58]書庫。

[59]南齊の書家。王僧虔の墨跡。平凡社『書道全集』第五巻。

[60]晋の人。索靖の墨跡:平凡社『書道全集』第三巻。

[61]安寧のこと。乾隆十二年から十三年まで江蘇巡撫。

[62]杭州府の橋名。第一橋と第二橋がある。乾隆元年『浙江通志』巻三十三・関梁一参照。

[63]杭州府の名勝。乾隆元年『浙江通志』巻四十・古蹟二参照。

[64]原文「王疑其癡、大被詬辱」。未詳だが、訳文の趣旨であろう。前後で主語が変わっている。

[65] 肩で担ぐ二人がきの轎。図:『三才図会』

[66]原文「貢南與倶」。未詳。とりあえずこう訳す。

[67]未詳。五方君のことか。胡孚主編『中華道教大辞典』千四百六十一頁参照。147

[68]天をいう。

[69]原文「及訊洪生、則又以奴曾被笞、故仇誣耳」。「仇誣」が未詳。とりあえずこう訳す。

[70]学問徳行があるのに仕えない士人。

[71]明清時代、宦官の首領をいう。

[72]原文「千乗馬騎」。前に「聖駕に伴い」とあるのだから、「千乗」ではなく「万乗」ではないかと思われるのだが。なぜ「千乗」となっているのかは未詳。単に「多くの騎馬」ということか。とりあえず、そう解す。

[73]同族、同世代で、自分より年長のもの。

[74]中国古代の天体説。『書経』堯典「在璿璣玉衡以齊七政」疏に見える。

[75]三十三天は仏教語。欲界の第二天、忉利天をいう。『佛地経論』五「三十三天、謂此山頂四面、各有八大天王、帝釈居中、故有此数」。

[76]道教の修行法。胡孚琛主編『中華道教大辞典』九百七十八頁参照。

[77]文章の不備。今まで董の直接話法だったのが間接話法になっている。

[78] 文章の不備。今まで間接話法だったのが直接話法になっている。

[79]文章の不備。今まで董の直接話法だったのが間接話法になっている。

[80]気を体のある部分に導き集中すること。

[81]コークス。

[82]『淮南子』に以下のような文はない。以下の文の出典は未詳。

[83]父方の大叔父。

[84]金璫と貂尾。周等編著『中国衣冠服飾大辞典』四十七頁参照。金璫は冠の上の黄金の飾り。

[85]袞衣。帝王や高官の礼服。黒地に龍が刺繍してある。

[86]未詳。

[87]「衛、霍両将軍」は衛青と霍去病。『漢書』佞幸伝「衛青、霍去病皆愛幸、然亦以功能自進」。

[88] 戦国楚の共王の寵臣。『説苑』権謀に見える。

[89]戦国魏の男寵龍陽君のこと。『戦国策』魏策四に見える。転じて、陰間のこと。

[90] 原文「倖臣一星、原應天象、我亦何辭」。未詳。とりあえず、このように訳す。

[91]冥土。

[92]武具名。「むち」ではない。図:『三才図会』。

[93]漢の人。もと王莽の同僚であったため、王莽の下で国師となった。後、王莽暗殺を企て、事が露見して自殺。

[94]供物の羊、豚をいう。牛、羊、豚を指す大牢に対していう。

[95]補佐官。

[96]逆賊の呉三桂。

[97]河南省。

[98]河辺に設けられた部屋。

[99]一掴み。

[100] 北京の城門の一つ。広渠門の別称。

[101]花嫁を乗せる、紅い布で飾られた轎。写真

[102]クロヅル。写真

[103]梵語yaksaの音訳。夜叉に同じ。悪鬼のこと。

[104]梵語asuraの音訳。阿修羅に同じ。

[105]梵語pretaの音訳。餓鬼のこと。

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