第十四巻

槐西雑志四

 

 林教諭清標[1]が言った。以前、崇安[2]で家庭教師をしていたが、言い伝えでは、士人が武夷山麓におり、茶を採る者が、某岩で月夜に歌吹[3]の音がしたので、はるかに望むとすべて天女であったということを聞いたそうである。士人はもともと軽薄であったので、山家に宿を借り、月が出るとかならず行ったが、数晩を経ても遇わなかった。山家も、そうしたことがある、つねに満月のときにだけ居り、一年に一二度聞こえることがある、つねに出るわけではないと言った。士人は閑居に言寄せ、留まって十日あまり待った。ある晩、隠隠[4]と音がするかのようであったので、こっそりといそいでゆき、草叢の中に伏して隠れていた。見ると数人の女がいたが、いずれも大変美しく、一人の女が笛を取って吹こうとしていたが、人影を瞥見すると、笛で指した。にわかに硬直して束縛されたかのようになったが、目と耳はまだ見たり聴いたりすることができた。にわかに清らかな響きが雲に徹し、声は伸びやかで魄を動かしたので、思わず自賛した。「金縛りに遭ったが、妙なる音と艶やかな姿はすでにじっくり賞でたぞ。」。語っていると、にわかに一枚の帕が飛んできてかれの頭を掩い、夢みて魘されているかのよう、なにも聞こえず、なにも見えず、眠っているかのよう、目ざめているかのようになった。心が乱れること約数刻で、だんだん蘇ったかのようになった。女たちは下女たちに命じて曳き出させ、罵った。「馬鹿者め。無礼な。天上の花を窺うのか。」。すぐに修篁(おさだけ)を折り、いって鞭うとうとした。士人は懸命にみずからを弁明し、言った。「性来音律に耽り、ひそかに幔亭[5]の法曲[6]を聴くことを願いましたのは、李[7]が宮牆に倚ったようなもので、本当にほかに悪意をもち、彩鸞[8]甲帳[9]を望もうとしたわけではございません。」。一人の女はかすかに笑った。「おまえの至誠を憐れもう。若い下女も横吹[10]を解するから、ひとまずおまえに賜おう。」。士人は匐匍叩頭して謝し、頭を挙げるとすでに消えていた。その下女を振り返ると、広い額、巨きな目、短い髪は乱れ、腰と腹は膨れ、気は咻咻[11]として喘いでいるかのようであった。驚いて懊悩し、避けて退き、逃げようとした。下女はかたく引いてともに親しみ、捉えて放さなかった。憤って撃つと地に倒れ、一匹の豚に化し、叫んで去った。岩下の楽の音はそれから絶えた。この下女を見ると、ほとんど(あやかし)であり、仙人ではない。人が言った。「仙人が豚を借り、下女に化させて戯れたのだ。」。そうかもしれない。

 
 劉燮甫[12]が言った。一人の学生がおり、年は十六七、聡明韶秀で、高官の一族のようであったので、大成することを望んでいた。ある日、突然発狂してうわごとを言い、鬼神を見ているかのようになった。目ざめた時に尋ねると、みずから言った。「景城[13]の社会[14]で劇を見ましたが、しらぬまに夜が更けていました。帰途、ある家を訪ねて飲み物を求めますと、たった一人の若い女が、水を取り、わたしに飲ませ、わたしを留め、しばらく坐し、その夫が徭役で外出し、明日はじめて帰ってくると言いました。流し目し、近づこうとしているかのようでしたので、かれが優美であるのを愛し、親しみましたが、去るに臨んで泣き、ふたたび来ないように頼み、二つの(くしろ)をわたしに贈りました。翌日見ますと、銅青は斑斑[15]として、かすかに銀の色があり、長年土中にあったもののようでした。幽霊だと気づきましたが、思って忘れませんでした。昨日、ふたたびその地にゆき、徘徊し、尋ねてみますと、にわかに黒い顔、長い髯の人が現れ、手でわたしの頬を打ちましたので、よろよろと走って帰ったところ、かれもついてきました。それからしばしば見ましたが、わたしに向かってはげしく罵りました。わたしはすぐに眠ったり、目ざめたりし、その他のことを憶えていません。」。父母は墓にゆき、供物を設け、その(くしろ)を埋めてやった。にわかにその子は目を怒らして叫んだ。「わたしの妻が(くしろ)を失っていたので、ほかの事情があることを疑ったが、犯人が分からなかったので、逆さづりにして五百回鞭うち、遠い処に転売した。今おまえがこっそり来たのを見、おまえが誘惑したことを知った。何たる事だ、酒食や金銭で謝罪できようか。」。顛癇となること一月あまりで、死んでしまった。それならば穴を穿ち、塀を越えれば[16]、地下でもなお禍があるのである。

 
 李雲挙[17]が言った。東光[18]に狐を薰す者がおり、つねに(ひうち)(あみ)を持ち、墓地に往来していた。ある晩、潜んで伺っていると、方巾[19]襴衫[20]の人が、墓の頂から出、
(こうこう)(苦侯の反、説文に「幽霊の声。」という。)と長嘯すると、狐たちが四方から集まり、草叢を囲み、獰猛叫び、みな呼んだ。「この悪人を捕らえ、料理して(ほじし)にしろ。」。狐を燻す者は、逃げるべき路がなかったので、高い樹に攀じ登った。方巾の者は狐たちを指揮し、気を引いて倒れさせようとした。すぐに[21]と鋸の音が聞こえた。狐を燻す者は慌て、俯いて叫んだ。「お許しいただけますならば、ふたたびこの地を踏みません。」。狐たちは答えず、鋸の音はさらに激しくなった。このように叫ぶこと再三、方巾の者は言った。「それならば、誓いを立てろ。」。誓うと、幽霊と狐はすべて見えなくなっていた。この幽霊とこの狐は、いずれも物分りがよかったといえる。そもそも騒いで止まなければ、勢いは「鋌して険に走[22]」ら、「城を背にして一を借[23]」りざるをえない。狐たちの力なら、もとより一人を殺すのは難しくなかったが、一人を殺すのは容易くても、一人を殺して人々の怒りを激しくすれば、巣を焚かれ、穴を犁かれるに止まらなかったろう。恐怖を味わわせただけで許し、ひとまず和を得れば、後患はおさまるのである。力がある者がその力を尽くさなければ、その威を養え、人を屈する者が人を従いやすくさせれば、帰服させることができる。召陵[24]の役では、王を僭称したことで責めず、苞茅[25]のことで責め、従いやすいようにさせた。屈完[26]がきて盟約をむすぶと、すぐに軍を返した[27]のは、力を尽くさず、威を養ったのである。講学家で『春秋』を説く者は、ともすれば斉の桓公の小成を問題にする[28]。方城漢水[29]は堅固であったから、一戦して勝てるかは分からなかった。一戦して勝たなければ、天下の事業をなせようか。淮西、符離のこと[30]を、わたしは史冊に徴する。

 
 族弟[31]の継先[32]は、かつて広寧門[33]内の友人の家に泊まった。夜に大風雨があり、雷火が屋山から(家の棟に近い塀を屋山といい、形が山のようだからそういう。范石湖[34]の詩でしばしば用いられている[35]。)穿って過ぎたが、電光が伸びているかのよう、塀と棟はすべて揺れた。翌日、その場を見ると、東西の壁にそれぞれ一つの小さな穴があったが、銅銭ほどの大きさであった。そもそも雷神が精魅(あやかし)を追い、貫いて通ったのであった。およそ人を撃つ雷は、天から下り、(あやかし)を撃つ雷は、多くは横ざまに飛ぶが、これは逃げるものを追っているからである。尋常の雷ならば、地気が鬱積し、奮って上に出てくるのである。わたしは福寧[36]で嶺を越えたとき、山頂で雲中の雷を見、曠野で地から出る雷を見たが、いずれも煙気が昇って衝くかのよう、まっすぐ天の半ばに到り、その端で火の光が一たび爆け、訇然[37]と音をたて、銃砲の発するのと異ならなかったが、いずれも住人がいない場所であった。人がいる場所には、かねてからこうしたことはない。あるひとは天心は仁愛なので、これに触れる者が死ぬことを恐れているのだと言うが、その話はまったくちがう。人は三才[38]の中、人の集まる処は天地の気が通じ、通じれば鬱結しないので、どうして雷があることができよう。塞外の苦寒の地で、耕作牧養し、村落ができるにしたがい、地気が温かくなるのも、この趣旨である。

 
 王岳芳[39]が言った。その家に一振りの刀があり、廷尉公[40]の遺品であった。夜に盗難があれば、格格(ガタガタ)と爆ける音を出し、ぴんと立って鞘の外に出ること一二寸であった。後に、雷が妖魅を追い、屋を穿って過ぎたとき、刀は地に落ち、それからは二度と音を出さなくなった。世の言い伝えでは、刀剣はかつて人の血に浸ったものなので、警戒すべきことがあるとみなおのずから響くことができるが、すべてがそうではなく、多く人を殺したものだけがこのようであるということであった。一人を殺すたび、刀にはかならず二筋の跡ができ、磨いても消えなかった。幼いときに河間の揚威将軍哈公元生[41]の家にあり、かつてその佩刀を売りに出そうとしたが、やはり夜に音がすると言っていた。調べると本当にその通りであった。音が出るのは、幽霊が憑いているからだというが、そうではない。戦陣で用いれば、往々にして千百人を殺すのに、どうして千百の幽霊がずっと一本の刀を守っていることがあろうか。血を飲むことがすでに多く、精を取ることが少なくなく、厲気[42]が集まっているのであろう。盗賊凶鷙[43]はやはり厲気の集まったものである。厲気に感じ、躍っておのずから鳴るのは、(きん)を撫する者が(きゅう)[44]を鼓すれば(きゅう)が応え、商[45]を鼓すれば商が応えるようなものである。蕤賓[46]の鉄が池の中で躍り、黄鐘[47]の鐸が土の中で動いたのは、物が憑いていたのではなかろうか。雷火が猛烈であれば、一切の厲気はこれに遇うとすべて消えるので、一たび炎に触れれば、凡鉄となるのである。また、豊隆[48]、列缺[49]が、もっぱらこの物のために落ちるのでもないのである。

 
 わたしはかつて西域の漢画が煙炭で毀たれているのを惜しんだが、一二千年の筆跡が、どうして存在することができようかと、やや疑っていた。従姪の虞惇は言った。「朱墨が石に着き、風雨が及ばず、苔蘚が生じなければ、ながく凝ることができる。易州[50]と満城[51]の接する処に村があり、神星といい、大河は北から来、また折れて東南にゆき、両峰が河の南北で対峙し、言い伝えでは落ちた星が結ぼれたので、村を名づけたというのである。その峰は上が広く[52]、下が窄み、雲が地から出るかのよう、険峻で路がなかった。物好きな者は攀じてその孔穴を踏み、山腹に到れ、古人が名を題するものが多く、もっとも古いものは北魏の人、五代の人がおり、すべて手跡は宛然と見わけることができた。それならば洞中の漢画が今に残っているのは、怪しくない。」。惜しいことにその姓名は、虞惇は逐一記す暇がなかった。易州と満城はいずれも近い地なので、その土地の人を訪ねてに問うべきである。

 
 虞惇はさらに言った。落星石[53]の北に漁梁[54]があり、土地の人は世々その利をほしいままにし、歳時に(いけにえ)梁の神を祀っていた。たまたまある人が毒魚法[55]を教えたが、芫花[56]を上流で砕いて浸すと、下流の魚や蝦はすべて自然に死んで浮きあがり、網に十倍した。試すと本当に験があった。そこで団焦[57]を上流に作り、日々この術を施した。ある日、午の刻となるとすぐに、黒い雲が龍潭からにわかに湧き出、狂風驟雨、雷火は赫然として、その建物を焼いて灰にした。人々は恐れ、やめた。そもそも佃漁[58]の法は、庖羲[59]から始まるが、「数罟入らず[60]」であれば、仁政は保たれる。流れを断って漁ることさえ、聖人は憎んだのだから[61]、残忍に殺害し、族を集めて(あなうめ)にする[62]ものはなおさらである。神の怒りに触れるのは当然である。


 周書昌[63]が言った。「昔、鵲華[64]に遊び、民家に宿を借りた。窓の外には老樹が茂り、まっすぐ岡の頂に接していた。主人が言うには、しばしば幽鬼の言葉が聞こえるが、言っていることは何事か分からないということであった。その夜は月が暗かったので、隠隠と聞こえ、あまりはっきりしなかった。かれらを驚かして逃げ去らせることを恐れ、窓を開いてひそかに出、草叢を匍匐し、だんだん近づいてこっそり聴いたところ、韓、柳、欧、蘇[65]の文を講論し、それぞれその良い処を讃えていた。一人は言った。『このようなもの[66]は中声[67]なのに、どうして前後七子[68]は、かならず排斥してものの数とせず[69]、つとめて秦漢を語り、門戸の争い[70]を開いているのか。』。一人は言った。『質と文と[71]はつぎつぎに入れ変わり、もともと同じものでない。宋末の文格は猥瑣[72]、元末の文格は纖穠[73]であったが、宋景濂諸公[74]はつとめて韓、欧[75]を追い、舂容[76]大雅によって救った。三楊[77]以後、台閣の体[78]に流れ、日々浅薄に近づき、李崆峒[79]の諸公も、つとめて秦漢を追い、奇偉[80]博麗[81]によって救った。隆、万[82]以後は、偽体に流れ、長沙[83]一派もまた対立した。おおむね挺然としてみずから流派をなすことができる者は、その初めのものにはかならずそれぞれ基礎があり、そのため伝えられるのだが、その後のものにはかならずそれぞれ流弊があり、そのためたがいに謗るのである。しかし董江都[84]、司馬文園[85]は文格が同じでないのに、時を同じうしていていても攻めなかった。李、杜、王、孟は詩格が同じでないのに、時を同じうしていても攻めなかった。かれらの得ているものが深かったからである。後の学者は、甘いものを論じれば辛いものを忌み、(あか)であれば(しろ)を非としているが、得ているものは浅いのである。』。語っている途中で、わたしが突然咳払いすると、寂然としたが、その説をすべて聞かなかったのは惜しい。」。わたしは言った。「これと李詞[86]が記した飴山[87]の事とは、いずれも平心[88]の論を鬼魅に托したもので、言葉はすでに尽きているから、続きがあったかのようにする必要はない。」。書昌はかすかに怒って言った。「永年は、百に一つの長所もないが、嘘をつくことはなかった。先生が信じないなら、こちらもむりに争おうとはしません。」。

 
 董曲江[89]が言った。ある儒生がすこぶる講学し、平素も謹厳で過失はなかった。しかしひどく厳格で、ともすれば不情の論[90]で人を責めていた。友人が五月に喪があけ、七月に妾を娶ろうとしたところ、この儒生は手紙を送った。「喪が明けて三か月たらずで妾を娶ったので、その願いを抱いて久しかったことが分かります。『春秋』は心を誅し[91]、魯の文公[92]も喪娶[93]しませんでいたが、これ[94]は喪娶のようなものです。朋友規過の義[95]によって、申さぬわけにまいりません。どうしてわたしに教えることができましょう[96]。」。かれの持論はおおむねこのようなものであった。ある日、かれの妻が里帰りすることとなり、某日に帰ることを約した。期日に先だつこと一日で戻ってきたので、怪しんで質すと、「誤って小の月と思っておりました。」と言った。そこで、さほど訝らなかった。翌日、さらに妻が帰ってきたので、たいへん驚き、昨日の妻を捜したが、すでに所在を失っていた。しかし、それから日に日に痩せ、癆咳となった。そもそも女狐は姿を借り、かれの精を採り、一晩で消耗したものがすでに多かったのであった。前に妾を娶った者はそれを聞くと、やはり手紙を送った。「夫婦が部屋にいるのは、不正といえません。狐魅が姿を借りるのも、推測の及ぶところではありません。一晩でおおいに真元[97]を損われましたが、情をほしいままにし、欲をほしいままにしなければ、こうまではならないものです。もしや燕昵[98]の私情を、礼によって節制しないことがおありだったのでしょうか[99]。それに『妖は徳に勝らず[100]』とは、古の教えです。周、張、程、朱は、かつて(あやかし)に遇ったことがあるのを聞きませんが、この(あやかし)が公然と
[101]犯しましたのは、先生の徳がまだ足りないからではございませぬか。先生は賢者ですが、賢者を責めるのは、『春秋』の法です[102]。朋友規過の義によって、申さぬわけにまいりません。先生はどうしてわたしに教えることができましょう。」。この儒生は手紙を得ると、本当にそうしたことはない、村人が嘘をついているだけだとつとめて弁ずるばかりであった。宋清遠[103]先生はそれを聞くと言った。「これは『子の矛で、子の盾を陥る』ということだ[104]。」。

 
 袁愚谷制府(諱は守侗といい、長山[105]の人で、官位は直隸総督に到り、諡は清
である[106])は、若いときにわたしと硯席を同じうし、姻戚でもあった。みずから語るには、三四歳の時、なおはっきりと前生を記憶していたそうである。五六歳の時になると、ぼんやりとしてあまり記憶しなくなった。今は、ある歳貢生の家で、長山から遠くなかったことを記憶しているばかりで、姓名、籍貫、家世、事跡はすべて忘れている。わたしは四五歳の時、夜中でも物を見られ、昼と異ならなかった。七八歳後にだんだん暗くなり、十歳以後はまったく見えなくなった。人は夜半に眠って目ざめ、たまたま見られ、しばらくすると元通りになった。十六七歳以後から今にいたるまでは、一二年に一度見、電光石火のよう、弾指の間に過ぎた。そもそも嗜欲が日々増せば、神明が日々減退するのである。

 
 景州の李西崖[107]が言った。その家のある佃戸は、もっとも胆力があり、瓜を植えること一畝あまり、土地は墓地の側にあった。熟した時につねにみずから番し、ひとり藁家に泊まり、時折姿や声があっても、恬として恐れなかった。ある晩、幽鬼の言葉が騒がしいのを聞いたが、騒いで罵っているかのようであった。出てみると、二人の幽霊が塚の上で格闘しており、一人の女の幽鬼がぼんやりと傍で立っていた。呼んでそのわけを尋ねたところ、一人が言った。「あなたが来たのはたいへん良かった。一つあなたに曲直を断じることを願います。天下に、もとの夫でかれの婚約した妻にちょっかいをだす者がございましょうか。」。もう一人の語ることも同じであった。佃戸は女の幽鬼を呼んで言った。「結局、おまえは誰と結婚したのだ。」。女の幽鬼は長いこと恥じらって言った。「わたしはもともと妓女でございました。妓女の家の習いで、およそ金持ちは、みなひそかに結婚を訂します。今は冥途で、昔の術を使っておりますが、本当に逐一姓名を思い出せませんので、誰と約束があるかも申しようがなく、誰と約束がないかも申しようがございません。」。佃戸は笑い、唾はいて言った。「どこでこうした二人の愚か者を得られよう。」。頭を挙げれば、三人の幽霊はみないなくなっていた。また幼い時に聞いたが、舅祖陳公(諱は穎孫といったが、年を経てその字号を失念した。徳音公[108]の弟で、庚子[109]の進士で、仙居[110]知県秋亭[111]の祖父であった。)はみずから見た一事を語った。「親戚の中に、歿した後、妾が再婚した者がいたが、魂は病気の下女に憑いて言った。『昔、おまえに尋ねたとき、おまえはみずから嫁がないと言っていたが、今回、どうして裏切ったのだ。』。妾はさほど恐れず、悠然として答えた。『天下に、夫が死んでいないうちに、かならず再婚するとみずから語る者がございましょうか。あなたのこの質問ははじめから愚かしく、どうしてわたしがこのように答えることを怪しむのですか。』。」二事はたがいに人を利口にすることができる。

 
 講学するものが幽霊はいないと論じたところ、人々はそれを難じた。「今はまさに酷暑だから、墓地の中にゆき、ひとり一晩宿って納涼できるか。」。その翁は毅然としていったが、何も見なかった。帰るとますます得意になり、言った。「朱文公[112]がどうしてわたしを欺こうか。」。わたしは言った。「たくさんの贈り物を千里運び、途中で盗賊に逢わなくても、路に盗賊がいないとは言えず、ほしいままに終日狩猟し、野獣に遇わなくても、野に獣がいないとは言えない。一つの土地で幽霊がいなかったからといって、天下にまったく幽霊がいないと断じ、一晩幽霊がいなかったからといって、万古にまったく幽霊がいないと断じるのは、一を挙げて百を廃することだ[113]。それに幽霊がいないという論は、阮瞻[114]、朱子から始まったのではない。朱子は、魂が上り、魄が下るのはよくあることだが、一切の霊怪はよくあることでないと言っただけで、ないとは言っていない。だから金去偽は録している[115]。『二程[116]は鬼神がいないとはまったく説いていない、今、世俗のいう鬼神がいないだけである。』。楊道夫[117]は録している。『雨風露雷、日月昼夜、これらは鬼神の行跡で、これは白日公平正直の鬼神である。いわゆる梁で嘯き、胸に触れるものは、いわゆる不正邪暗[118]であり、あるときはおり、あるときはおらず、あるときは来、あるときは去り、あるときは集まり、あるときは散じるものだ。さらに祈れば反応があり、祈れば利得があるというものがあるが、これも「鬼神はともに一理」ということだ。』。包揚は録している。『鬼神死生[119]の理は、けっして釈家の語ることらしくなく、世俗の見解である。しかしことが昭昭としているものの、理によって推測できないものもあるから、とりあえず留意する必要はない。』。さらにいう。『南軒[120]もひたすらかたく信じないが、禹鼎[121]、魑魅、魍魎の仲間には、こうした(もののけ)がいる。深山大沢は、かれらの住処である。人がいってそこを占めれば、どうして祟らぬことがあろうか。豫章[122]の劉道人は、ある山の頂に庵を結んだ。ある日、蜥蜴たちが入ってき、庵の中の水をすべて飲んだ。まもなく、庵の外はみな雹が積もった。翌日、山麓はほんとうに雹となった。妻の伯父の一人劉文は[123]、人柄はたいへん素朴で、嘘をつけなかった。かれが語るには、ある嶺を過ぎたところ、(たにがわ)(ほとり)の林の中から響きが聞こえ、無数の蜥蜴が、それぞれ水晶のような一物を抱いて去り、数里ゆかないうちに雹が降った。これもどういう理なのか分からなかった。むかしある県で、泥で一体の大仏を造り、全県が信奉していた。後に一人の無礼な宗子[124]にその首を断たれた。民が集まって哭いていると、仏の頚の泥と木から舎利が出てきた。泥と木にどうしてこうした物があろう。人の心が齎したものにすぎない。』。呉必大[125]は録している。『そこで薛士龍の家で幽霊を見たことを論じ、言った。『世の鬼神を信ずる者たちは、本当にいる、天地の間にいると言う。信じない者は、断然幽霊はいないと思っているが、本当に見る者もいる。鄭景望[126]は薛氏の考えを真実とするが、これが虹霓の類に過ぎないことを知らない。』尋ねた。『虹霓はただの気ですのに、形質がございますか。』『水を啜れるなら、かならず腸や肚があろう。ただ、散じるとすぐになくなり、雷部の神などもこの類だ。』。』。林賜[127]は録している。『『世に幽霊を見る者はたいへん多いですが、いるのかいないのか分かりません[128]。』言った[129]。『世間の人で見る者がきわめて多いのに、どうしていないというのか。正理ではないだけのことだ。伯有[130]が祟ったことなどは、伊川は別の理であると言っている。そもそもその人は気が尽きるべきでないのにむりに殺され、魂魄が帰するところがなかったので、このようなことになるのは当然である。昔、人が淮上[131]で夜に歩いていたところ、無数の影を見たが、人のようで人でなく、両水の間に出没していた[132]。この人は明らかにかれらが幽霊であると悟ったが、やむをえず衝いて過ぎた。この地を尋ねると、昔人の戦場であった。かれらはみな非業の死を遂げ、怨みを抱いていたから、もとより散ぜぬべきだったのである。座上の人が言った。『城外に李三という者がおり、死んで祟ったので、郷曲(むらざと)で祭祀仏事がある時は、かならずこの人の分を設けていた。後に人が爆竹を放ち、かれのよりどころとしている樹を焚いたので、それからは絶えた。』言った[133]。『かれは非業の死を遂げ、気は散ぜず、爆竹に驚かされて散じたのだ。』。』。沈僴は録している。『人には死ぬのを承服しない者がいる。だからすでに死んでも、その気は散ぜず、妖怪となる。たとえば人の非業の死を遂げたものと、僧道の死んだものは多くは散じない(神霊は精神を養うことに務めているので、凝集して散じないのである。)。』。』万人傑[134]が録した。『死ねば気が散じ、泯然[135]として姿がなくなる。これはつねのことであり、道理はこのようなものである。転生する者がいるのは、たまたま気が集まって散じないものである。またどうして生気が集まって再生することがあろうか。』。葉賀孫[136]は録した。『潭州[137]で事件があり、妻が夫を殺し、ひそかに埋めた。後に祟り、事が発覚すると、すぐ祟らなくなった。そこで刑事事件では、このような事で罪を裁かないならば、死者の怨みがけっして解けないことが分かった。』。李壮祖[138]は録している。『人が尋ねた。『世に廟食[139]している神がおり、綿々と数百年を経ているのは、どういうことでしょうか。』『やはり次第に散じるのだ。昔、南康[140]の知事をしていた時、久しく旱魃であったので、あまねく神に祈らねばならなかった。ふとある廟にゆくと、三間のぼろやがあるだけで、たいへん散らかっていた。そこの人が言うには、三五十年前、その霊験は響くかのようで、人がくると帷中の神はかれと語っていたということであった。昔の霊験がこのようで、今の霊験はこのようであることからも、そのことが分かる[141]。』。』。葉賀孫は録している。『鬼神のことを論じれば、蜀中の灌口二郎廟[142]は李氷[143]で、離堆[144]を開いたので廟を建てたという。今は多くの霊怪が現れ、かれの第二の息子が出てき、はじめは封ぜられて王となっていたが、その後、徽宗が道教を好んだので、改封せられて真君[145]となった。張魏公[146]は兵を用い、廟で祈った。その夜、神を夢みたところ、語って言った。『わたしは以前王に封ぜられ、血食を奉ることがあったので、威福[147]は行われていた。今は真君と称し、尊くなっているが、人は精進物でわたしを祭り、血食を奉ることがないので、威福の霊験がないのだ。今またわたしを封じて王にすれば、霊威があるはずだ。』。魏公はそこでかれの封号を復することを乞うた。魏公はこの夢があり、これはその時兵を用いていたので、この話をでっちあげたのかも知れない。さらに梓潼神[148]がおり、きわめて霊威がある。この二神は両川[149]に割拠しているようだ。おおむね鬼神は生き物を用いて祭ると、みなその生気を借りて霊妙となる。古人の釁鐘[150]、釁亀[151]はいずれもこの趣旨である。漢卿[152]は言った。『李通[153]が説いているが、人が虎を射るとき、虎の後ろに数人が従っているのが見えるが、それは虎に傷つけられて死んだ人で、生気は散ぜず、結ぼれてこの姿になっているのだ。』。』。黄義剛[154]は録している。『紫姑神[155]を招いて詩を吟じさせた事に論及し、言った。『正身[156]を招いて出現させたこともあり、その家の娘が見た。これはどんなものか分からない。さらに衢州[157]である人がある神に仕えていたが、記録した概況を紙に書き、祠の前で封をし、しばらくしてから開封すると、紙の中にはかならず批語が書かれていた。これはどういうことか分からない。』。これらの諸説は、黎靖徳[158]が編んだ語類[159]に、班班[160]としてつぶさに載せてございますのに、先生はなぜ朱子に関して嘘をおっしゃるのでしょうか。』。この翁は書を求めて長いこと見ると、憮然として言った。『朱子にさえこうした書があるのか。』。憫然として散じた。しかし、わたしにはまだ疑いがある。朱子の大旨は、人は天地の気を採って生まれた、死ねば散じて天地に還るというもので、葉賀孫は録している。『魚が水に居れば、おもての水は腹の水で、鱖魚の腹の水と鯉魚の腹の水は、同じである。』、その理はすぐれている。祭祀の理で、聖人によって作られ、経典に載せられたものが、子孫は同じ気が感通するので、また集まって祭りを受け、祭りを受けることが終わると、散じて虚無に入るとむりに言っているのとは違っている。この気は散じた後、元気と融合して一つになるか、元気の中に混在するか分からない。融合して一つになるならば、衆水が海に帰し、ともに一つの水となり、江、淮、河、漢が別々の所に集ることができず、五味和羹[161]が、同じ味になり、(はじかみ)、塩、()(みそ)が別々の所に集まることができないようなものである。どうしてその中から某某の気を鋤き出して、子孫たちと通じさせることができようか。元気の内に混じるのなら、飛塵が四散するかのようなもので、分かれて何万億か処になるか知らない、遊絲が乱れ飛ぶかのよう、去ること幾万億里であるかを知らない。子孫の祭祀に遇い、星星点点、条条縷縷[162]が、また合して一つになるのは、事理に近くないのではあるまいか。集まれると論じるにしても、この気は知覚がなければ、感格[163]できない。祭りを享けることができない。この気に知覚があるなら、知覚は何から起こるか。かならず心があるはずである。心は何に附くか。かならず身があるはずだ。身があれば、やはり一つの幽鬼である。そして集まる前に、この億万微塵、億万縷縷、塵塵縷縷に、それぞれ知覚があれば、一つの幽鬼に止まらない。釈氏の幽霊は、地下に潜伏し、儒者の幽霊は、空中で回転し、釈氏の幽霊は、平素つねに存し、儒家の幽霊は、時に臨んで合わさるだけである。またどうして勝ろうか[164]。これはまことに末学の知ることではない。

 
 烏魯木斉(ウルムチ)の千総[165]某は、寒疾[166]を患っていた。道士がやってきて診察を求め、宿縁がございますから、特別にお救いしましょうと言った。たまたま流人高某の妻がおり、なかなか医術に優れていたが、その処方を見ると、驚いて、「桂枝を呑めば、陽が盛んであるので死にます。薬と病気が相反しており、軽々しく試せません。」といい、つよく阻んだ。道士は嘆息して「これが運命か。」と言い、衣を整えて去った。しかし、高の妻が承気湯[167]を用いると、癒えた。そこで道士が嘘つきであったと思った。わたしが帰還した後、たまたま邸抄[168]を閲したところ、すぐに、某が屯糧を横領したために処刑されたことを見、道士は常人でなく、薬で殺し、かれの首を繋げようとしていたことを悟った。これは以前記した兵部の書吏の話と似ている[169]。罪はみずからによって造られるものであり、智力で挽回できるものではないのではあるまいか。

 
 姚安公が言った。人家の奇器[170]妙跡[171]は、結局良いものではない。そして言うには、癸巳の同年牟丈
[172]家(牟丈なのか、牟丈の伯叔[173]なのか、幼いときに聴いたのではっきりしない[174]。)は、一つの硯を持っていたが、天然の鵝鳥の卵の形で、色は真紫で、一羽の鸜[175]眼が豆のように大きく、にわかに墨池[176]の中心に出たが、螺旋の紋様がはっきりし、瞳は炯炯として神気があった。打つと、滑らかで手にとどまらず、叩くと、堅いこと金鉄のよう、息を吐きかけると、水が出ること露のようであった。墨を下しても音がせず、数回磨るとすぐに濃い墨汁となるのであった。款識[177]銘語はなく、その天然であること[178]を愛し、椎や鑿を入れようとしなかったかのようであった。匣も紫檀の根を彫ったもので、出し入れは滞りなく、入れればわずかな隙もなく、揺らしても音がしなかった。背に「紫桃軒」の三字があり、小さくて豆のよう、李太僕日華[179]の遺物であることを知った(太僕は説部[180]に『紫桃軒雑綴』というものがある。)。平生見た宋硯では、これが第一であった。しかし、後にこの硯を愛惜して上官に逆らい、危険に遭いそうになったので、怒って撞き砕いた。禍が起ころうとする時、夜、硯が呻吟するかのようにするのを聞いた。

 
 わたしが烏魯木斉(ウルムチ)にいた時、城守営都司[181]朱君が新しい茸を贈り、守備徐君(朱とともにいずれもたまたまその名を忘れた。そもそも日々接見しているときは、官名で称するだけなので、かえってその名を尋ねなかったのである。)そして言った。「昔、栄達する前、たまたま新しい茸を売る者に会い、買おうとした。一人の老翁が傍におり、売る者を叱っていた。『かれはまだ数回任官するのに、なぜそうしようとする。』。売る者は逡巡して去った。この老翁は面識がなかったし、たちまちどこにいったか分からなくなった。翌日、里に茸を食らって死んだ者がいることを聞き、老翁は社公[182]だったかと疑った。売る者は後にふたたび現れなかったから、幽霊が代わりを求めたのだろう。」。『呂氏春秋』は、味のうまいものは、越駱の菌と称しているが[183]、もともと毒がなく、その毒はすべて蛇虺[184]によっており、中たると人は笑って止まない。陳玉仁の『菌譜』[185]は水に苦茗[186]白礬[187]を混ぜて解毒する方法を載せ、張華の『博物志』[188]、陶宏景[189]の『名医別録』[190]は、ともに地漿[191]で解毒する方法を載せている。そもそもこちらに(黄泥を水に混ぜ、澄んでから飲むのを、地漿という。)。

 
 親戚の家の広間の側に別院があり、建物は三間であった。一人の門客がおり、その中に宿れば男女が裸で追っているのを夢み、粉黛は雑沓し、四囲を巡り、諸々の親しむありさまをそなえていた。はじめはたいへん楽しみ、しばらくすると毎晩このようであったので、みずからが精神病であるかと疑った。しかし他の部屋に移れば夢みなかったので、やはり(あやかし)かと疑った。しかし眠っていない時には、寂として影や声がなく、燭をとって朝になっても、見ることも聞くこともなかった。その人[192]も親しみ戯れ、傍に人がいるのを見ていないかのよう、また(あやかし)がいないかのよう、結局明らかにできなかった。ある日、ふと書厨(ほんだな)に牙や石に彫刻した横陳像[193]およそ十体、秘戯冊巻[194]大小十余件を貯えてあるから、きっとこの物が祟ったのだと悟った。そこでひそかに主人に申してすべて焚かせた。そのことを知った者が言った。「この物がどうして祟れようか。これは主人が歌妓を召していた場所で、気機[195]が感じ、陰気が応えたのだ。その人も青楼の遊客で、精神が集中していたので、妖夢が通じたのだ。水が腐って後に蠛蠓[196]が生まれ、酒が酸えて後に醯鶏[197]が集まるのは、理の当然である。市で雑貨を売る者、この物は少なくないのに、どうして逐一祟らないのか。この部屋に宿る者は一人ではないのに、どうして逐一夢に入ってこないのか。これはそのわけを考えるべきである。この物を焚くだけでは、益がない。」。某家は衰えていたのではなるまいか。」十年足らずで、家は主を易えた。

 
 明公恕斎[198]は、かつて献県の令となったが、良吏であった。太平府[199]の役人になった時、疑獄があったので、変装してみずから偵察した。たまたま小さな庵に休んだが、僧は年が八十余、公を見ると合掌して肅然と立ち、その弟子を呼んで茶を出させようとした。弟子ははるかに答えた。「太守さまがいらっしゃいますから、お客さまをご案内して、ひとまず別の部屋に腰掛けていただきましょう。」。僧は答えた。「太守さまはすでにいらっしゃっているから、はやくお出ししにこい[200]。」。公はたいへん驚いた。「どうしてわたしが来たことを知っていたのだ。」「公は、一郡の主で、一挙一動を、国じゅうがみな知っております。どうして拙僧だけでございましょう。」。さらに尋ねた。「どうしてわたしを知っているのだ。」「太守さまは一郡の人を知ることができませんが、一郡の人は、誰が太守さまを知らないでしょう。」「わたしがどうして出ているか知っているか。」「某事件では、双方いずれもその仲間を遣わし、道に放って久しゅうございます。かれらはみな公を知らない振りをしているだけでございます。」。公は憮然として自失し、尋ねた。「なぜおまえだけ知らない振りをしないのだ。」。僧は地に投じ、膜拝[201]して言った。「もうしわけございません。もうしわけございません。そのご質問をしていただきたかったのでございます。公の知事ぶりは、龔、黄[202]に劣りませんが、やや人々の心を満足させないのは、偵察を好まれることでございます。神奸巨蠹[203]だけが、あらかじめ蠱惑の計をなすことができるのではありません。村里の小民でも、誰に親族郎党、誰に恩讐がないでしょうか。甲の仲間に尋ねれば、甲は直で乙は曲、乙の仲間に尋ねれば、甲は曲で乙は直です。その仇がある者を訪ねれば、仇がある者はかならず曲、その恩がある者に尋ねれば、恩がある者はかならず直です。婦人孺子にいたっては、聞くこと見ることがまことでなく、病んだ媼、衰えた翁は、言葉が不明瞭ですから、また確かな供述として拠りどころとすることができましょうか。公がみずから訪ねられてもこのようでございますのに、さらに耳目を他人に託すれば、何の幸いがございましょうか。それに偵察に害があるのは、訴訟を審理するときだけそうであるのではございません。民間の利害を偵察しても害がありますが、河渠堤堰[204]に関することはもっともひどいものでございます。小民はそれぞれ身内をひいきし[205]、水の利があればとどめてみずからを肥やし、水の害があれば隣国を(どぶ)とするのが[206]、かれらの妙計なのでございます。誰が地形の大局を考え、永遠安瀾[207]の計をなそうとしましょうか。拙僧は方外の人で、もともと世間の事に関わるべきでなく、官家[208]の事ならなおさらでございます。ただ仏法は慈悲であり、身を捨てて人々を救い、物に利となるのであれば、もとより死を冒して申すべきでございます。どうか公がお察しくださいますように。」。公はその言葉を沈思し、訪ねないで帰った。翌日、下役に命じて銭や米を送らせた。帰ると報せた。「公が帰られた後、僧はその弟子に『心配はもうなくなった。』と言い、泊然[209]として亡くなりました。」。このことは楊丈汶川[210]がかつて言った。姚安公は言った。「およそ事件は虚心に調べれば、偽りが明らかになるもので、人を信じるのも自分を信じるのも間違っている。人を信じる弊は、僧の言ったことがそうであるが、自分を信じる弊も、言うに堪えないものがある。できればもう一人の老僧に、説法してもらいたいものだ。」。

 
 舅氏の健亭張公[211]が言った。野雲亭[212]で読書していた時、同学たちが佟氏の園[213]で修禊[214]した。たまたま扶乩して仙を召したところ、ともに姓名を尋ねた。乩は題して言った。「たまたま女伴を携げてたまたま閑行すれば、詞客は何ぞ姓名を問ふを労せん。記すや否や瑶台明月の夜、人ありて嗔りて許飛瓊[215]を喚ぶを。」。ふたたび下壇詩を請うと、乩はさらに題して言った。「三面の紗窓水にむかひて開き、佟園還た是れ旧楼台。東風緑を吹く池塘の草、我人間(ひとのよ)に到ることまた一回。」。人々は、詩情は淒婉[216]としているから、才女の香魂[217]だろう、近くにこうした閨秀はいないから、煉形[218]して月を拝している仙姫ではないかとひそかに議した。人々は心が顛倒し、あるものは凝思佇立し、あるものはややふざけて言葉を伝えた。乩はたちまち奮い立って大書した。「衰翁憔悴して雪顛に満ち、傅粉[219]熏香[220]少年を見る。たまたま諸郎をして痴夢を作さしめ、憐れむべしまことに小嬋娟[221]を拝するを。」。また「笑」の字を大書して去った。いつの時代の詩魂が、この狡獪(いたずら)をなしたか知らないが、要は軽薄な心が、招いたのである。

 
 胡厚庵[222]先生が言った。ある書生が女狐に親しんでいたが、はじめて遇った時、二寸ばかりの瓢箪を生に授け、衣帯で帯びさせ、みずからその中に入った。会おうとするときは、その楔を抜くと、美女が出てき
去るときはまた入るので楔を嵌めるのであった。ある日、市中にゆくと、瓢箪は盗人に切りとられた。それからは来なくなったので、心はつねに悵悵[223]としていた。たまたま郊外を散歩し、鬱憤を晴らしていると、草叢の中で呼ぶ者がいたが、その声は女狐であった。すぐにゆき、ともに語ろうとしたが、隠れて出ようとせず、言った。「わたしはすでに姿が変わっておりますので、再びお会いすることはできません。」。怪しんでそのわけを詰すと、泣いて訴えた。「採補[224]煉形は、狐にはよくあることでございます。近頃、どこぞやの道士が、わたしたちを捜し求め、かれの採補に供しているのでございます。捕らえられ、神呪で禁じられますと、木偶のように硬直し、かれのなすがままになるのでございます。道力がやや堅く、吸って吐かない者がいれば、蒸して(ほじし)にし、血肉が食らわれますと、精気も収められてしまうのでございます。わたしが瓢箪に入りますのは、そもそもこの難を避けるためでございます、ところがまた捜されましたので、押しのけて帰ってきたのでございます。わたしは湯[225]にかかることを恐れ、すでにその丹を献じ、さいわい残喘[226]を留めました。しかし丹を失ってからは、また獣の姿となりましたので、これから煉形し、さらに二三百年しましたら、はじめて変化することができるはずです。天は荒れ、地は老い、再会は期さず、旧恩を思い、あなたを呼んで一別するのでございます。努力自愛し、もう思われないでくださいまし。」。生は怒った。「神に訴えてはどうか。」「訴える者は多うございますが、神は不当に得れば不当に奪われるの[227]は、みずから造った罪であり、人を殺せば人に殺されるのは、たがいに報いる道だと思い、相手にしませんでした。手を尽くしてたくみに取ることは、まさにみずからを傷つけることであることを知りました。これからは吐納[228]に専心し、再びこの術を操らぬべきでございます。」。このことは乾隆丁巳戊午[229]の間にあり、厚庵先生はかつてみずからこの生を見た。数年後、山東で雷が一人の道士を撃ったことを聞いたが、この道士は殺すことが度を過ぎたので、やはり天誅に伏したものか。螳螂が蝉を捕らえようとしている時、黄雀が後ろにおり、(はじきゆみ)を手挟んだ者がさらにその後ろにいるとは、このことである[230]

 

最終更新日:2010930

閲微草堂筆記

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[1] 巻六にも出

[2]福建建寧府の県名。

[3] http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE6ZdicADZdic8C315226.htm 

[4] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9Zdic9AZdic90341936.htm ①③

[5] http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE5ZdicB9Zdic94117967.htm ①ここでは仙人武夷君が武夷山に設けた亭のこと。

http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicADZdicA667356.htm 

[6] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6ZdicB3Zdic9515487.htm 

[7]『太平広記』巻二百四・http://www.shuku.net/novels/classic/taipinggj/tpgj204.html 

[8] http://baike.baidu.com/view/735224.htm#2 ②

[9] http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE7Zdic94ZdicB2178767.htm 

http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE7Zdic94ZdicB2189560.htm ①

[10] 横笛

[11] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5Zdic92ZdicBB87759.htm ①

[12] 未詳

[13]直隷滄州。『元史』巻五十八・河間路「滄州、中。唐改景城郡。」 

[14] http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE7ZdicA4ZdicBE290962.htm ①

[15] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE6Zdic96Zdic918723.htm ①

[16] 原文「鑽穴逾牆」。密通すること。http://tw.18dao.net/%E6%88%90%E8%AA%9E%E8%A9%9E%E5%85%B8/%E9%91%BD%E7%A9%B4%E9%80%BE%E7%89%86 

[17] 未詳。巻六・二十三にもでてくる。

[18]直隸河間府の県名。

[19] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE6Zdic96ZdicB965605.htm ①

[20] http://www.zdic.net/cd/jd/17/ZdicE8ZdicA5Zdic95228091.htm  http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E8%A5%B4%E8%A1%AB&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi 

[21] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE8ZdicA8Zdic87252016.htm 

[22] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9Zdic93ZdicA4275063.htm 「鋌而走險」は「窮鼠猫を咬む」ということ

[23] http://www.zdic.net/cy/jd/ZdicE8Zdic83Zdic8C3111.htm 「背城借一」は「必死に戦う」の意

[24] http://baike.baidu.com/view/111794.htm 

[25] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8Zdic8BZdic9E198580.htm 『論語』憲問「齊桓公正而不譎」注「馬曰、伐楚以公義責苞茅之貢不入。」。

[26] http://baike.baidu.com/view/133940.htm 

[27] 主語は斉の桓公

[28] 原文「講學家《春秋》者、動議齊桓之小就。」。未詳。とりあえずこう訳す。具体例も未詳。

[29]http://ctext.org/text.pl?node=3925&if=gb&searchu=%E6%96%B9%E5%9F%8E%E4%BB%A5%E7%82%BA%E5%9F%8E  

[30] http://baike.baidu.com/view/2692200.htm 

[31] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6Zdic97Zdic8F161543.htm 

[32] 未詳

[33] http://www.hudong.com/wiki/%E5%B9%BF%E5%AE%81%E9%97%A8 http://baike.baidu.com/view/101255.htm http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E5%B9%BF%E5%AE%89%E9%97%A8&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E5%B9%BF%E5%AE%89%E9%97%A8&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=il 

[34] http://baike.baidu.com/view/6855.htm 

[35]http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:u9o-S4prS7UJ:sc.zdic.net/shiren/124200589312890.html+%E8%8C%83%E6%88%90%E5%A4%A7%E3%80%80%E8%A9%A9%E3%80%80%E5%B1%8B%E5%B1%B1&cd=2&hl=zh-CN&ct=clnk  

[36]福建福寧府

[37] http://www.zdic.net/zd/jd/zi/ZdicE8ZdicA8Zdic87.htm 音きなさまであろう

[38] http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic895602.htm ①

[39]未詳。巻三・八・十に出てくる。

[40] http://baike.baidu.com/view/201854.htm 

[41] http://baike.baidu.com/view/1165977.htm 

[42] http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8EZdic897396.htm ②

[43] 未詳だが、凶悪な猛禽で、ここでは悪人の喩えであろう。http://www.zdic.net/zd/jd/zi/ZdicE9ZdicB8ZdicB7.htm 

[44] http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE5ZdicAEZdicAB.htm 名⑦

[45] http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE5Zdic95Zdic86.htm 名➄

[46] http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE8Zdic95ZdicA4202941.htm ①

[47] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9ZdicBBZdic8490856.htm ①

[48] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB8ZdicB0210165.htm ①

[49] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic88Zdic97309573.htm 

[50]直隸易州直隸州

[51]直隸保定府の県名。

[52] 原文「其峰上哆下斂」。「哆」が未詳。とりあえずこう訳す。

[53]http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E8%90%BD%E6%98%9F%E5%A2%A9&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi  http://www.hudong.com/wiki/%E8%90%BD%E6%98%9F%E7%9F%B3 

[54] http://baike.baidu.com/view/93946.htm  

[55] 毒を使って魚を捕る方法http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%AF%92%E9%AD%9A%E6%B3%95&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai= 

[56] http://www.zdic.net/zd/jd/zi/ZdicE8Zdic8AZdicAB.htm 

http://www.tcm100.com/userreg/jiaocai/zhongyaoxue/zzzhongyao113.htm 

http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E8%8A%AB%E8%8A%B1&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi 

[57] http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic9BZdicA2215011.htm 

[58] http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE4ZdicBDZdic8399383.htm ①

[59] http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicBAZdic96122890.htm 

[60]http://baike.baidu.com/view/2681170.htm

《孟子·梁惠王上》「数罟不入洿池、鱼鳖不可食也。」。

[61]http://ctext.org/text.pl?node=90471&if=gb&searchu=%E7%B5%95%E6%B5%81%E8%80%8C%E6%BC%81 

[62] 原文「聚族而坑」。典故がありそうだが未詳。http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%81%9A%E6%97%8F%E8%80%8C%E5%9D%91&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai= 

[63]http://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E5%91%A8%E6%B0%B8%E5%B9%B4_(%E6%B8%85%E6%9C%9D) 

[64]山と不注山。http://baike.baidu.com/view/365146.htm  http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%8D%8E%E4%B8%8D%E6%B3%A8%E5%B1%B1 

[65]韓愈、柳宗元、欧陽修、蘇軾

[66]「韓、柳、欧、蘇の文」。

[67] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD304508.htm ①、穏当な言説ということか。

[68] http://www.chinabaike.com/article/316/wenxue/2007/20071113632630.html 

[69] 原文「必排斥不數」。「不數」が未詳。とりあえずこう訳す。 

[70] http://chengyu.xpcha.com/0cagc98n1pq.html 

[71] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8ZdicB4ZdicA8241159.htm ③

[72] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7Zdic8CZdicA5298789.htm ④

[73] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE7ZdicBAZdicA438500.htm ④

[74] http://baike.baidu.com/view/36673.htm 

[75] 韓愈・欧陽脩

[76] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE8Zdic88Zdic82197148.htm ⑥

[77] http://baike.baidu.com/view/41773.htm 

[78] http://baike.baidu.com/view/27220.htm 

[79] http://baike.baidu.com/view/80497.htm 

[80] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicA5Zdic87105214.htm ①

[81] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5Zdic8DZdic9A17357.htm 

[82] 隆慶・万暦

[83] http://baike.baidu.com/view/80500.htm 

[84] http://baike.baidu.com/view/19308.htm 

[85] http://baike.baidu.com/view/61362.htm 

[86] 未詳。巻三にも出てくる。

[87] http://baike.baidu.com/view/45224.htm  

[88] http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5ZdicB9ZdicB329206.htm ①

[89] http://baike.baidu.com/view/143641.htm 

[90] http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8Zdic8D289361.htm 

[91] 原文「《春秋》誅心」。http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8ZdicAFZdic9B277881.htm 「誅心」は人の心を暴き、責めること。

[92] http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E9%AD%AF%E6%96%87%E5%85%AC 

[93] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE4ZdicB8ZdicA7104938.htm 服喪期間に結婚すること

[94] http://ctext.org/text.pl?node=3925&if=gb&searchu=%E5%96%AA%E5%A8%B6 

[95] 原文「朋友規過之義」。未詳。「規過」は過ちを正すこと。「朋友規過之義」は友人として友人の過ちを正すということか。http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8ZdicA7Zdic84242439.htm 

[96] 原文「其何以教我」。未詳。とりあえずこう訳す。

[97] http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic9CZdic9F24602.htm ②

[98] http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE7Zdic87Zdic95167047.htm ①②

[99] 原文「尚有不節以禮者乎」。未詳。とりあえずこう訳す。

[100] http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE5ZdicA6Zdic9621674.htm 

[101] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5Zdic87ZdicBD317040.htm ②

[102] 原文「責備賢者、《春秋》法也」。http://cy.kdd.cc/T/8C/ 

[103]宋来会、字は清源、清遠、号は秋圃、徳州の人。雍正癸卯の拔貢。『近思斎集』がある。

[104]http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E4%BB%A5%E5%AD%90%E4%B9%8B%E7%9F%9B 

[105]山東濟南府の県名。

[106] http://baike.baidu.com/view/496899.htm 

[107] 未詳。巻九にもでてくる。

[108] 未詳。第一巻・八巻・十巻・十三巻にも見える。

[109]乾隆四十五年、千七百八十年。

[110] 浙江台州府の県名。

[111] 未詳

[112] http://baike.baidu.com/view/1262.htm 

[113] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE4ZdicB8ZdicBE197165.htm 

[114] http://baike.baidu.com/view/213236.htm 

[115] 以下は『朱子語類』に載せる、弟子たちが記録した朱子の発言。

[116] http://baike.baidu.com/view/390826.htm 

[117] 『宋元学案』巻六十九に伝がある。

[118] 邪暗」は未詳だが、邪だということであろう。

[119] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE6ZdicADZdicBB313704.htm ①

[120] http://baike.baidu.com/view/1791064.htm 

[121] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA6ZdicB98653.htm ③

[122] http://baike.baidu.com/view/170115.htm 

[123] 原文「有一妻伯劉文」。未詳だが、訳文の意味であろう。朱熹の妻は劉氏。http://www.hudong.com/wiki/%E6%9C%B1%E7%86%B9%E5%A2%93 

[124] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicAEZdic97116025.htm ④

[125] 『宋元学案』巻六十九に伝がある。

[126]http://www.google.com/search?q=%E9%84%AD%E6%99%AF%E6%9C%9B&hl=zh-CN&lr=&sa=2 

[127] 未詳

[128] これは林賜のせりふ。

[129] 主語は朱子。

[130] http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic9BZdicB8179450.htm 

[131] 未詳だが、淮河のほとりであろう。

[132] 原文「出沒於兩水之間」。「兩水」が未詳。とりあえずこう訳す。

[133] 主語は朱子。

[134] 『宋元学案』巻六十九に伝がある。

[135] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6ZdicB3ZdicAF2484.htm ③

[136] http://bkso.baidu.com/view/1411419.htm 

[137] http://baike.baidu.com/view/802756.htm 

[138] 『宋元学案』巻六十九に伝がある。

[139] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicBAZdic9990280.htm 

[140]江西南安府の県名。

[141] 原文「亦自可見」。「(気が)やはり次第に散じる」ことが分かるということ。

[142] http://www.greatchinese.net/gods/erlangshen.htm  http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E7%81%8C%E5%8F%A3%E4%BA%8C%E9%83%8E&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi 

[143] http://baike.baidu.com/view/20600.htm 

[144] http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7ZdicA6ZdicBB268044.htm ①

[145] http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9CZdic9F99521.htm ②

[146] http://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%BC%B5%E6%B5%9A 

[147] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5ZdicA8Zdic81328282.htm  http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE4ZdicBDZdic9C333486.htm ①

[148] http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicA2Zdic93132371.htm 

[149] http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicB8ZdicA416739.htm 

[150] http://baike.baidu.com/view/2465916.htm 

[151] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE8ZdicA1Zdic85336578.htm 

[152] http://zh.wikipedia.org/zh-sg/%E8%BC%94%E5%BB%A3 

[153] 未詳

[154]『宋元学案』巻六十九に伝がある。

[155] http://baike.baidu.com/view/43433.htm 

[156] http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE6ZdicADZdicA3331950.htm ④

[157]浙江衢州府

[158] http://baike.baidu.com/view/2013860.htm 

[159] http://baike.baidu.com/view/116034.htm  http://www.guoxue.com/gxzi/zhuziyulei/zzyl_ml.htm 

[160] http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic8FZdicAD8005.htm ①・②

[161]http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:bgHRp95jmtQJ:baike.baidu.com/view/256771.htm+%E4%BA%94%E5%91%B3%E5%92%8C%E7%BE%B9&cd=1&hl=zh-CN&ct=clnk 

[162] 星星点点、条条縷縷」はここでは分散した微細な気のこと

[163] http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE6Zdic84Zdic9F180504.htm 

[164] 原文「又何以相勝耶」。未詳。

[165] http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE5Zdic8DZdic839244.htm 

[166] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5ZdicAFZdic92117857.htm 

[167]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%89%BF%E6%B0%A3%E6%B9%AF&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai= 

[168] http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE9Zdic82ZdicB844228.htm 

[169] 巻三参照。http://yuzhi68.web.fc2.com/yw03.htm 

[170] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicA5Zdic87108075.htm ①

[171] http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicA6Zdic9990259.htm ②

[172] 未詳

[173] http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE4ZdicBCZdicAF94798.htm 伯父叔父。

[174] 原文「不知即牟丈,不知或牟丈之伯叔,幼年聽之未審也。」。この句、未詳。

[175]http://www.hudong.com/wiki/%E9%B8%9C%E9%B9%86  http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E9%B8%9C%E9%B5%92&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi 

[176] http://www.zdic.net/cd/jd/15/ZdicE5ZdicA2ZdicA850741.htm ①・②

[177] http://baike.baidu.com/view/478643.htm 

[178] http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6ZdicB5Zdic91142005.htm ①

[179] http://baike.baidu.com/view/80493.htm#2  

[180] http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8ZdicAFZdicB4255657.htm 

[181] http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE9Zdic83ZdicBD352941.htm 

[182] http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicA4ZdicBE225822.htm ①

[183]http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E8%B6%8A%E9%AA%86%E4%B9%8B%E8%8F%8C 

[184] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE8Zdic9BZdic87312105.htm 

[185] http://zh.wikisource.org/zh-hans/%E8%8F%8C%E8%AD%9C 

[186] http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8Zdic8BZdicA647789.htm  

[187] http://www.tcm100.com/userreg/jiaocai/zhongyaoxue/zzZhongYao461.htm 

[188] http://www.jingningedu.com/book/bjqj/mydoc001.htm 

[189] http://www.hudong.com/wiki/%E9%99%B6%E5%AE%8F%E6%99%AF 

[190] http://baike.baidu.com/view/1476958.htm 

[191] http://baike.baidu.com/view/919692.html?goodTagLemma 

[192] 夢に現れる人と解す。

[193] 未詳だが、男女の交合している像であろう。

[194] 未詳だが、春画であろう。

[195] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE6ZdicB0Zdic94222899.htm ②

[196] http://www.zdic.net/cd/jd/20/ZdicE8ZdicA0Zdic9B196809.htm ①http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E8%A0%9B%E8%A0%93&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi 

[197] http://baike.baidu.com/view/1528910.htm?func=retitle 

[198]明晟。

[199]安徽太平府

[200] 原文「太守已至、可速來獻」。茶を出すのであろう。

[201] http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE8Zdic86Zdic9C311853.htm 

[202] http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicBEZdic9A74362.htm 

[203] http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE7ZdicA5Zdic9E31143.htm 

[204] http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5ZdicA0ZdicA4306463.htm 

[205] 原文「小民各私其身家」。未詳。とりあえずこう訳す。

[206] 原文「水有患則鄰國為壑」。http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E9%82%BB%E5%9B%BD%E4%B8%BA%E5%A3%91 

[207] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5ZdicAEZdic89288496.htm ①・②

[208] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicAEZdic98312356.htm ②・③

[209] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6ZdicB3Zdic8A2941.htm 

[210] 後ろの原注参照。

[211] 八巻、二十巻にも出てくる。

[212] 未詳

[213] 未詳。巻八にもでてくる。

[214] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE4ZdicBFZdicAE95902.htm 

[215] http://baike.baidu.com/view/1242024.html?fromTaglist#1  

[216] http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic87Zdic84281671.htm 

[217] http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9ZdicA6Zdic9958354.htm 

[218] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7Zdic82ZdicBC275214.htm  

[219] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5Zdic82Zdic8572519.htm ①白粉をぬること

[220] http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE7Zdic86Zdic8F165956.htm ①香を焚き染めること

[221] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE5ZdicA9ZdicB5282333.htm ②

[222] 未詳。巻七にもでてくる。

[223] http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE6Zdic80Zdic85171654.htm 

[224] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9Zdic87Zdic87222326.htm 他人の元気、精血を吸い取って己の身を補うこと。

[225] http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6ZdicB1ZdicA4288364.htm ①

[226] http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6ZdicAEZdic8B78301.htm ②

[227] 原文「神以為悖入悖出」。http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6Zdic82Zdic9617138.htm 

[228] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic90Zdic9089444.htm ①

[229] 乾隆二年(千七百三十七年)、乾隆三年(千七百三十八年)

[230] 原文「螳螂捕雀在後」。http://baike.baidu.com/view/338889.htm#3  

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