第十四巻

槐西雑志四

従弟東白[1]の家は、村の西の井戸端にあった。以前、家を建てる前、周囲に垣を巡らし、ぐるりと土屋[2]を築いていた。その中に数間の家があり、夜中にかならず門を叩く音がし、ほかに事件はなかったが、住んでいる者はつねに憂えて不安であった。ある日、門の傍の塀が崩れ、一体の木偶が出、手を伸ばして門を叩く動作をし、上には符籙があった。そこで匠が主人に恨みを抱き、この呪いをなしたことを知った。だから、小人とは軽々しく関わりを持つことはできないし、軽々しく悶着を起こすこともできないのである。

 
 何子山先生[3]が言った。雍正初年、一人の道士が符籙をよくしていた。かつて西山のきわめて深い処にゆき、その林泉[4]を愛し、庵を結び、閑居しようとした。土地の人は、鬼魅の巣窟です、木を伐り、薪を採るものは、隊伍を組まなければ入ろうとせず、狼虎さえも住むことができません、先生はよくお考えになるべきでございますといったが、道士は聴かなかった。するとにわかに鬼魅がともにおこり、人は材木を盗み、大工の悪夢となり、その器物を毀ち、その飲食を汚した。荊棘の中をゆくかのように、一歩一歩に妨げがあり、野火が四方に起こるかのように、風に葉は乱れ飛び、千手千目も応接に暇がなかった。道士は怒り、祭壇を設けて雷を召そうとした。神が降れば妖はすでに先に逃れており、人気のない山をひろく捜索したが、見つからなかった。神は去れば、数日でまた集まり、このようにすること数回、神は煩わされるのを嫌がり、それ以上反応しなかった。片手で印を結び、片手で剣を持ち、ひとりで戦い、(あやかし)に躓かされ、鬚を抜かれ、顔を破られ、裸で逆さづりにされた。樵に遇って救われ、狼狽して逃げ去った。道士はそもそもその術を恃んでいただけであった。そもそも勢いのあるところには、聖人も逆らえず、党が形成されていれば、帝王も破れない。久しければ変えがたく、多ければ誅するにたえない。だから唐が牛、李の党争[5]を除くのは、河北の藩鎮[6]よりも難しかった[7]。道士は衆寡の形勢、主客の局面を知らず、力を測らないでその鋒先に触れたのであり、敗れたのは当然であった。

 
 小人の計略は千変万化し、つねに機に乗じてその巧妙さをほしいままにしている。幼い時、聞いたのだが、村民が夜中に靴音を聞き、盗人かと思い、炬火を取り、捜して捕らえようとしたが、まったく形跡がなかったので、(あやかし)だと悟り、それ以上捜さなかった。その後、盗人はそのことを知り、夜に乗じていった。家人はまた(あやかし)だと思い、休息して顧みなかったので、その欲を満たして去った[8]。これは情況を利用するということである[9]。県には知事がおり、すこぶる講学し、僧を憎むこと仇のごとくであった。ある日、僧がとうなんにあったことを告訴したところ、法廷で叱責された。「おまえたちの仏は霊験がないのに、どうして寺廟で祭られている。おまえたちの仏は霊があるのだから、盗賊に報いを示すことができようものを、役所を煩わすのか。」。指図して去らせた。そして人に言った。「天下の知事たちにこの方法を用いさせれば、僧は選ぶことなくしておのずから消滅しよう。」。僧はもとよりたいへん狡く、おもてむきはその弟子とともに懺悔して仏に祈り、かげでは乞食に賄し、衣物を捧げ、門外に跪かせ、様子は痴者(こけ)のようにさせるのであった。するとみな仏には霊力があると言い、檀施[10]はますます盛んになるのであった。これは逆手にとって用いるということで、自分のわざわいになる者に自分を助けさせているのである。人情とはこのようなものであり、区区[11]として一理に固執し、かれらとあらそえば[12]、どうして幸いがあろうか。

 
 張某、瞿某は、幼年の同学で、つねに親しくしていた。瞿が人と訴訟すると、張は金を受け、かれの秘計を探り、かれの敵に漏らした。瞿はおおいに窮地に陥り、恨み骨髄に徹した。しかし事は内密で証拠がなかったので、表面上は絶交しなかった。にわかに張が死ぬと、瞿は手を尽くしてその妻を娶った。逐一儀式を行ったが、家庭でともに語るときは、なおも張×嫂[13]と呼んでいた[14]。妻はもともと純朴であったので、憐れみ戯れているのだと思い、咎めもしなかった。ある日、妻と向かいあって食事していた時、たちまち躍りあがると、みずからの名を呼んで言った。「瞿某よ、おまえは何とひどいのだ。わたしは本当に不実だったが、わたしの妻をおまえに嫁がせれば、償うに足りよう。おまえがなおも嫂と呼ぶのは、どうしてだ。女が再婚するのは普通のこと、再嫁する女を娶るのも普通のこと、わたしはすでに死んだから妻が嫁ぐことを禁じられず、おまえが娶ることを禁じられない。わたしはすでに朋友の義を失っていたから、おまえが友人の妻を娶ることを責められない。今、おまえは妻と思わず、なおもわたしの姓に嫂をつけて呼んでいるが、これはおまえがわたしの妻を娶らず、わたしの妻を淫しているということだ。わたしの妻に淫する者を、わたしは誅することができる。」。顛狂すること数日で死んだ。そもそも「直を以て怨みに報」[15]いることを、聖人は禁じていない。張はもとより小人の常態で、不倶戴天の仇ではなかった。かれの妻を娶ることを計ったのは、ひどい報いであった。さらに、門に倚る女のように見[16]、その家名を汚したのは、すでにひどいことの中でもさらにひどいことであった。憤激して祟ったのをどうして怪しめよう。

 
 不良少年がおり、寒疾に感じ、意識がぼんやりする中で、魂が家を出たが、悵悵としてどうしてよいか分からなかった。見ると人が往来していたので、従ってともにゆき、しらぬまに冥府に到った。一人の下役に遇ったが、かれの友人であった。長いこと帳簿を調べてやると、顔を顰めて言った。「君は父母に逆らうことが多かったから、法によって鑊湯獄[17]に渡すことになっている。今、寿命は終わっていないから、ひとまず帰り、寿命が終わればふたたび来て報いを受ければよい。」。不良少年は慌てて恐れ、叩頭して救いを求めたが、吏は首を振って言った。「この罪はいたって重く、わたしがいなければ救うのは難しく、釈迦牟尼も力になれない。」。不良少年は泣いてお願いして止まなかった。吏は沈思して言った。「一つの物語があるが、君は知っているか。一人の禅師が座に登り、尋ねた。『虎の頷の下の鈴は、誰が外せる。』。人々が答えないでいると、一人の沙弥が言った。『鈴を繋いだ人に外させてはいかがでしょうか。』。父母に無礼しても、父母に向かって懺悔し、免れる望があろう。」。少年は罪業が深く重いので、一時に懺悔できるものでないことを心配した。吏は笑った。「もう一つの故事がある。おまえは豚を殺す王屠が、屠る刀を棄て、たちまち成仏したこと[18]を聞いていないか。」。一人の幽鬼に送り帰らせた。すると突然癒えた。それからは心を清らかにし、父母に愛された。後に七十余歳で亡くなった。かれが本当に地獄を免れたか知らないが、その寿命を得ることがこのようであったのを見ると、すでに懺悔を容れられたようである。

 
 許文木[19]が言った。老僧の澄止には、道行[20]があった。臨終の時、弟子に言った。「わたしは戒律を守って精進し、みずから四禅天人といっている。世尊はわたしが平生の議論で、仏を尊んで儒を退けることを好んでいたのをお怒りになった。わたしの相は化さず[21]、また輪迴に入るのを免れない。」。その弟子は言った。「世尊を崇拝したのに、世尊はかえって怒っているのですか。」「これが世尊の世尊たるゆえんだ。党同伐異し、自分を揚げて他人を抑えるなら、どうして世尊であろうか。わたしは今は悟っているが、おまえの見方はまだ間違っている。」。そして思いだしたが、楊槐庭[22]が言っていた。乙丑[23]に公車[24]に上った時、同年[25]数人とともにいった。たまたま一人の僧がともに逆旅に泊まっており、たまたまともに閑談した。一人の同年が目で合図して止めて言った[26]。「どうして異端と語っている。」。僧は不満で言った。「釈家はたしかに儒家と異なっているが、どちらもそれぞれ品地[27]がある。孔子なら、仏を駁することができるが、顔、曽[28]以下は、できない。顔、曽なら、菩薩を駁することができるが、鄭、賈[29]以下は、できない。鄭、賈なら、阿羅漢を駁することができるが、程朱以下は、できない。程、朱なら、諸方の祖師を駁することができるが、かれらを拠りどころとしみずからを托して講学しているものは、できない。どうしてか。その力量が及ばないからである。先生が仏を駁せられるのは、もしやご自身を高く位置づけていらっしゃるのでしょうか。」。同年は怒ったり笑ったりした。「それぞれ品地があるからこそ、わたしたち儒はおまえたち僧を駁することができるのだ[30]。」。騒いで散じようとした。思うにそれぞれが自分の教えで論ずるのは、譬えれば家にいるようなものであろう。三王[31]以来、儒道[32]は世を維持して久しく、さらに聖人が現れても変えられず、主人のようである。仏は西域から来、その空虚清浄の義は、競争する者に追求をやめさせることができ、憂える者は排せられ、その因果報応の説も、下愚を戒めるに足り、回心して善に向かわせ、世に補うことがないといえない。そのため、その説は中国で行われることができるが、それは技芸を持っている食客のようである。食客が本業を修めていないのに、主人の家政を変えようとし、主人が退いて教えを受けるようにさせているのは、仏者の過ちだ。それぞれの下等のものについて論じるが、田を耕すことで喩えれば、儒は耕耘する者のようである。仏家はその初旨を失い、善悪を罪福とせず、施捨するか施捨しないかを罪福としている。それによって人々を惑わし、財を損なうことが、往々にしてあるのは、田の境界を侵し、穀物を盗む者のようである。儒者はその農具を捨て、その阡陌を荒れさせ、皇皇[33]として棍棒を持ち、戈を担い、侵入して盗む者を探して日々ともに格闘し、格闘して完勝するが、自分の農作業がどうであるかを知らない。これもまた儒者の乱れではないか。そもそも仏は漢の明帝[34]から後、すでに二千年も蔓延しているから、尭、舜、周、孔が生きかえったとしても、駆って去ることはできない。儒者の父子君臣[35]兵刑礼楽は、これを棄てれば天下を治めるすべがなく、釈迦が世に出ても、かれの法を中土[36]で行えない。もともと争わないことができるが、緇徒はその利心[37]を抑えられず、儒が排除され仏が伸長し、仏に帰依する者が布施してますます富むことをみだりに願っている。学問するものはその名誉心に勝たず、著作の中に仏を駁する数条がなければ、衛道[38]の功を示すに足りない。そのため両家の語録は、水中の泡影のようで、たちまち生じ、たちまち滅し、たちまち滅し、たちまち生じ、たがいにはげしく罵って止まないのである。しかし両家が争っても、千百年後、相変わらず存在していようし、両家が争わなくても、千百年後、相変わらず並存していよう。それぞれその本業を修めればよいのである。

 
 陳瑞庵[39]が言った。献県城外の諸々の丘阜(おか)は、すべて漢の塚であると伝えられている。耕す者が誤って一つの塚を犁いたところ、帰って寒熱[40]となりうわごとをいい、無礼を責めた。その時、瑞庵がたまたま来ていたので、尋ねた。「おまえは誰か。」「漢朝のものだ。」。さらに尋ねた。「漢朝のどこのものか。」「わたしは漢朝の献県の人で、塚がこちらにある。尋ねることはない。」。さらに尋ねた。「この地は漢の時から献県といったのか。」「そうだ。」「この地は、漢の時は河間国で、県は楽成といった。金初に献州に改めたのだ。明は献県と改めた。漢朝にこの名があるはずがない。」。幽霊は語らなくなった。ふたたび尋ねると、耕していた者は意識が戻った。そもそも漢の塚であると伝えられているのを、幽霊もよく聞いており、偽って食を求めたのだが、まさにみずからのせいで露顕したのであった。

 
 毛其仁[41]が言った。耿某という者がおり、勇ましくて凶暴であった。山を歩いていて虎に遇い、棍棒を奮ってともに闘ったところ、虎は避けて去ったので、みずから中黄[42]、佽飛[43]の仲間だと思った。たまたま某寺の裏手に幽霊が多く、しばしば酔漢を弄んでいることを聞いたので、憤って追いはらいにいったが、物好き数人がついていった。着けば薄暮であったが、ほしいままに飲み、夜になり、坐したあと、垣の上で幽霊が来るのを待った。二鼓過ぎ、隠隠と嘯く声を聞き、大声で叫んだ。「耿某がこちらにいるぞ。」。たちまち無数の人影が湧いて来、みな吃吃と笑った。「おまえか。大したことはないな。」。耿が怒って跳びおりれば、鳥獣は散じて去り、はるかにその名を呼んで罵った。東に追えば西におり、西に追えば東におり、こちらで没すればあちらで出、たちまちさまざまに変化した。耿は回転すること風輪[44]のよう、結局一人の幽鬼も見ず、ひどく疲れて返ろうとすれば、嘲笑で怒らし、だんだん引きだんだん遠ざかった。にわかに一人の奇鬼が路に立ち、鋸の牙、電の目で、爪を張って捕らえようとした。いそいで拳を揮って一撃すると、たちまち噭然[45]とみずから倒れ、指はすでに折れ、掌はすでに裂けていた。誤って墓碑を撃っていたのであった。幽鬼たちは声を合わせた。「勇ましいなあ。」。瞥然としてみな消えた。壁の上で見ていた者は、耿が痛いと叫ぶのを聞き、ともに炬火を持ち、舁いで帰ったところ、数日臥して起きられた。右手は使えなくなっていた。それから勇猛の気はすっかり尽き、顔に唾はいてもおのずから乾かした。そもそも虓虎[46]と敵することができても、幽霊に困しめられざるをえない、虎は力を闘わし、幽霊は智を闘わすのである。有限の力で、無窮の変化に勝とうとするとは、天下の愚人ではないか。しかし一回懲らされるとすぐに戒め、毅然としてみずからを反省したのは、やはり大智慧の人と言ってもよかろう。

 
 張桂岩[47]が揚州から還り、一つの琴硯[48]を持ってきて贈ってくれた。斑駁[49]剥落し、古色は黝然[50]としていた。右側の下近くには、「西涯[51]」の二つの篆字が刻まれており、そもそも懐麓堂[52]の遺物であった。中に行書で一首の詩が刻んであった。「文章で論じれば、公はもともと謝劉[53]に勝る。玉堂(ふで)を揮う手、これに対し風流を憶ふ。」。落款に「稚縄」といい、高楊孫相国[54]の字であった。左側に小楷[55]で一首の詩を刻んであった。「草緑湘江に子規叫び、茶陵[56]青史に微詞あり。この硯を流伝して人なほ惜しみ、まさにつくるべし高陽五字の詩。」。落款にいう「不凋」とは、太倉[57]の崔華の字であった。華は、漁洋山の門人[58]であった。漁洋の論詩絶句[59]にいう。「溪水前渡の日より碧なり、桃花紅きこと去年の時に似る。江南腸断つこと誰か会せん、ただ崔郎[60]の七字詩あるのみ[61]。」。まさにその人であった。二首の詩が、本集にはいずれも載せられていないのは、先人を批判し、やや訐直[62]に関わっているので、編集した時にみずから削ったのではあるまいか。後に慶大司馬丹年[63]に贈った。劉石庵[64]参知[65]はすこぶるそれが偽作であることを疑ったが、古人には集外詩があることが多いので、結局明らかにできない。また楊丈汶川(諱は可鏡といい、楊忠烈公[66]の曽孫であった。抜貢で官位は戸部郎中、亡き姚安公と同僚であった。)は姚公に小さな硯を贈ったが、背面に銘があった。「遼に渡ってから、あなたを伴った。軍書[67]を草するのは、つねに夜半であった。わたしの心は、あなただけが見ている。」。落款は「芝岡銘」と題していた。そもそも熊公廷弼[68]の軍中の硯で、その親戚の家で得たと言っていた。また家に一つの小さな硯を蔵しており、左側に「白谷手づから(きざ)む」の四字があったので、孫公伝庭[69]がみずから作ったはずである。二つの硯は大きさが近かった。姚安公は、いずれも前代の名臣であったので、あわせて一つの匣に入れていた。その後、長子汝佶の処にあった。汝佶が夭折すると、二つの硯はばあやによってひそかに売られ、今は探せない。

 
 わたしは十七歳の時、京師から帰り、童子試を受けた、文案[70]の孫家(土語で巡詩のように呼ぶのは、音の転である。)に泊まった。家はすべてあらたに建てられたものであったが、土坑[71]の下に一本の桃杙[72]が釘うたれており、上り下りするときにすこぶる邪魔であったので、主人を呼んで除かせようとした。主人はすこぶる篤実であったが、手を振って言った。「除けません。除けば(あやかし)が起こりましょう。」。そのわけを詰すと、言った。「わたしが空き地を買い、この宿を構えましたところ、泊まる人はつねに夜に竈の前に一人の娘が立っているのを見ましたが、語らず、動かず、特段、害はございませんでした。胆力がある者が手で引きますと、虚しくて触れるものがございませんでした。道士が桃杙に祈り、釘うちますと、また見えなくなりました。」。わたしは言った。「その下はきっと古い塚で、人が上に居るので、幽霊が不安であっただけです。その骨を掘り出し、棺を用意し、改葬してはどうでしょうか。」。主人が言った。「そういたしましょう。」。しかしかれがほんとうに移したかは分からなかった。また、癸巳[73]の春、わたしは暇を乞い、北倉で療養していた。姻戚の趙氏がわたしに位牌に字を書くことを請うたので、亡き姚安公はゆくように命じた。帰って楊村[74]に宿り、夜はすでに更け、わたしはさきに枕につき、奴僕は馬に秣をやり、まだ眠っていなかった。たちまち綵衣[75]の娘が簾を掲げて入ってき、はじめて顔を現してすぐに退出したので、お座敷に出る妓女かと疑い、奴僕を呼んで去らせ、みな外の戸はすでに閉ざされており、一人もいなかったと言った。主人は言った。「四日前、役人の家の子の妻がこちらに宿って亡くなり、昨日、柩を移して去りましたが、もしや回煞ではございますまいか。」。帰って姚安公に告げると、公は言った。「わたしは童子であった時、陳氏の舅の家で読書していた。おりしもしもべの妻が夜に回煞することになっており、月は明るく昼のようであったので、わたしはひとりかれの部屋の外に坐し、回煞がどんな姿かを見ようとしたが、結局見えなかった。どうしておまえが見たのだ。見たならばおまえはわたしに及ばないところが多い[76]。」。今でも深くこの教えに恥じている。

 
 河豚は天津だけにたいへん多く、土地の人は食らうこと畑の野菜のようであったが、やはりしばしば死ぬ者がおり、家家はみなが調理が上手であるとは限らなかった。姨丈[77]のタ園牛公[78]が言った。ある人が河豚を嗜み、にわかに中毒して死んだ。死んだ後、夢に現れて妻子に言った。「わたしを祀るのになぜ河豚ない。」。これぞまさしく「死んでも悔いない。」ということである。また姚安公が言った。郷里に人がおり、やや衣食が足りていたが、後に賭博で家が破産した。臨終の時、その子に言った。「かならず賭具を棺中に置け。魂がないならば、白骨とともに土になるだけで、障りないが、魂があるなら、荒れた榛、蔓る草の間で、これなしでどうして気晴らししようか。」。納棺の時、みな言った。「死んだら礼によって葬り、乱命[79]には従えない。」。その子は言った。「『死者に事えるときは生者に事えるかのようにしろ[80]』といわないか。生きている時はやんわり諌めることができず、歿したらそれに逆らうのか。わたしは学問を講じない。諸君は他人の家の事に干渉するな。」。結局その命に従った。姚安公は言った。「礼ではないが、やはり孝心による止むにやまれない心だ。わたしは事ごとに古の礼に従いながら、親を思う心が漠然[81]としている者を憎む。」。

 
 一人の奴隷の子が、針仕事を(なりわい)としていた。かれの父母は、身売りした時にこの子を売らなかったので、ひとりで外に別居していた。かれの妻は年が二十余で、狐に惑わされ、一年余り癆咳を病んで死んだ。はじめみずから言おうとせず、病がひどくなると、言った。「狐ははじめきた時に女の姿になり、あらたに隣家に来たと言いました。留めてともに語りますと、だんだんふざけるようになり、その後だんだん逼り、にわかにすすんで抱きますと、昏昏として魘されているかのようになりました。それから毎晩来ましたが、かならず姿を変えており、男になったり女になったり、老いたり若くなったり、醜くなったり美しくなったり、僧侶になったり道士になったり、幽霊になったり神になったり、今の衣冠になったり古の衣冠になったりしました。一年余りのあいだ、一度も重複することがなかった。来れば四肢は力なく、口を噤んで話せず、心の中だけがはっきりしていました。狐も一言も交しませんでしたが、これは一匹の狐が化けているのか、多くの狐たちが交代できているのかわかりませんでした。」。もっとも怪しかったのは、妻と小姑[82]がたまたまその部屋に入ると、にわかに狐が出てき、一躍してすぐにいなくなったが、小姑が見たものは方巾[83]道袍[84]の人で、白鬚が鬖鬖[85]としていたが、婦が見たものは黒く垢じみた、炭売りであったことである。同じ時に異なるありさまであったのは、さらに不可思議なことであった。

 
 及孺愛先生[86]が言った(先生はわたしにとっては疏従[87]表姪[88]だが、幼い時にわたしのために勉強を教えていたので、つねに師の礼で待遇している。)、交河[89]に男がおり、畑が塚の傍にあり、家から遠かったので、家を築いて住んでいた。夜にはつねに幽鬼の言葉が聞こえたが、慣れていたので怪しまなかった。ある晩、塚の間で叫ぶのが聞こえた。「どうしてこんなに狼狽している。」。一人が答えた。「たまたま路で一人の女に遇ったが、一人の子供を連れていった。見るとかれの顔には衰気があり、死期がすでに近かったので、避けなかった。ところが女が突然くしゃみし、その息があたると、大きな杵で搗かれたかのよう、傷ついて地に倒れた。長いこと休み、帰ることができた。今でも胸が痛む。」。この人は黙ってその言葉を記憶しておいた。翌日、草を刈る者が集まると、つぶさにその異常を述べ、尋ねた。「昨日どこの家の娘さんが夕方歩いていて、途中で幽霊に遇われましたか。」。すると宋姓の者が言った。「うちの娘は、昨晩息子とともに母方の親戚の家から帰りましたが、幽霊に遇ったことはございません。」。人々は嘘だと思った。数日後、宋の娘は悪者に捕らえられ、刃に屈せず、操を守って死んだ。貞烈の気は、衰えて絶えるに及んでも、なお剛勁[90]であることこのようであることが分かる。鬼魅が正人を恐れるのは、ほとんどこのためか。

 
 張完質舎人[91]が言った。狐と友である者があり、外で商売しようとし、家事を狐に托した。およそ火の元や盗賊には、すべて警戒し、童僕婢女が姦通すれば、すべて摘発して余すことがなかった。家政は井井として、商人が出る前に勝っていた。その妻が隣人と親しんだ時だけは、狐は知らないようにしていた。二年後、商人は帰り、たいへん狐を徳とした。しばらくするとかすかに隣人のことを聞き、今度はたいへん狐を咎めた。狐は謝して言った。「これは神さまの判断でございますから、逆らおうとしなかったのでございます。」。商は承服せずに言った。「幽鬼は淫に禍するのに、かえって淫を導くのか。」。狐は言った。「これには理由がございます。隣人は、前世は富豪で、あなたは出納を司り、かれに信任されていたので、かれの多くのお金を横領しました。冥府は、奥さまで負債を償うように判決し、一晩で、女郎買いする代金を基準にし、金五星[92]を償ったことにし、今は七十余両を借りています。償い尽くせばおのずと関わりは絶えますが、あなたはなんと(せっかち)なのでございましょう。お信じになりませぬなら、負債を償ってみて、どうなるかをごらんなさい。」。商人は隣人の家にいって言った。「たいへん貧しくされているそうですが、わたしは今回さいわい大儲けしましたから、謹んで八十両をご援助しましょう。」。隣人は感激したり恥じたりし、それから妻と関わりを絶った。年末、肴品を贈って謝意を示したが、たいへん美味で、その値を計算すると、まさに七十余両から超過した金額に合っていた。前生の負債を、受ける者はすこしも増せず、与える者はすこしも減らせないことが分かった。恐ろしいことである。

 
 族姪の竹汀[93]が言った。ある農家の妻が若くして寡婦となり、誓って嫁がず、姑を養い、子を育てること一年であった。ある日、美しい服の少年が塀の隙間から窺っていたので、旅人が誤って入ったかと思い、罵って去らせた。翌日、また来た。近くの村にこの少年はいない、土地の人だとしてもこんな美しい服は持っていまいと思い、(あやかし)だと悟り、棍棒を持って追いはらった。さらに(れんが)や石を擲ち、器物を壊した。それから毎日来、塀に登り、みずから慕情を述べた。妻はなすすべがなく、哭いて社公[94]の祠に訴えたが、験がなかった。七八日後、白昼でも暗くなり、雷が村の南の古い墓を撃って壊したところ、(あやかし)は絶えた。狐だったのか幽霊だったのかは分からなかった。怪しいことによって人を惑わすことは、すでに天律を犯しており、まして惑わすことが柏舟[95]の妻に及べば、殺されるのは当然であった。しかしかならず時間がたってから験があったのは、天と人が理を同じうしており、事が死刑に関わっていれば、奏請を待って後に刑し、社公が何度も上奏したため、やや時日が遅れたものか。しかし匹婦の哭くのが、にわかに天聴に達することから、孝弟が神明に通ずることを見るに足りる。

 
 滄州一帯の海浜は、塩を煮る地であり、竈泡といった。数百里に広がり、塩のために耕作できなかった。荒草は天に連なり、ほとんど塞外のよう、狼は多くはそのなかに穴居していた。捕らえる者は地を掘って落とし穴としたが、深さは数尺、広さは三四尺、板でその上を覆い、中には盂ほどの大きさの円い孔を鑿ち[96]、ほぼ枷の形のようであった。人は落とし穴の中に蹲り、犬の子あるいは豚の子を持ち、撃って叫ばせた。狼は声を聞いて来ると、かならず足で穴の中を探って引っかくのであったが、人はすぐにかれの足を握って立ちあがり、肩でかついで帰るのであった。狼は一枚の板を隔てているので、爪や牙もその鋭さを逞しくできなかった。しかしかれらは群れていれば、やはり攻撃し、噬ることができた。そのため、人を見ると吻を地につけて
叫ぶのであったが狼たちはすべて集まり、号令を掛けているかのようにし、やはりすこぶる旅人の道途の憂えとなった。富豪がおり、たまたま二匹の子供の狼を得、家の犬といっしょに飼ったが、犬と平和にしていた。やや生長しても、すこぶる馴れ、かれが狼であることを忘れていた。ある日、主人が広間で昼寝していると、犬たちが嗚嗚(ウウウウ)と怒る声を出していたので、驚いて起き、周りを見ると誰もいなかった。ふたたび枕に就いて寝ようとすると、犬はまた前と同じであった。眠った振りをして待ったところ、二匹の狼はかれの不意を伺い、その喉を齧ろうとしていたので、犬が阻んで進ませなかったのであった。そこで殺して皮を取った。このことは従姪[97]の虞惇が語った。狼子の野心[98]とは、本当に嘘ではなかった。そして野心は隠れていたに過ぎず、おもてむきは親しくし、ひそかに不測[99]をいだいたのだから、これは野心[100]にとどまらなかった。獣は言うに足りず、この人がみずから禍を留めたのには感心しない。

 
 田村[101]のある農家の妻は、たいへん貞淑であった。ある日、食事を畑に運んでいると、野で書生に遇った。書生はついてきて瓶の中の水を乞うたが、妻は答えなかった。書生が銀一錠を出してかれの袖に投じると、妻は擲ち、罵った。書生は慌て恐れて逃れた。妻は晩に夫にそのことを告げた。夫は探したが、その人はいなかったので、(あやかし)かと疑った。数日後、夫は外出したが、雨に阻まれて帰れなかったので、(あやかし)はかれの夫の姿にかわり、雨を冒して帰り、入って妻とともに寝、草草として灯りを消すと、にわかに戯れた。するとたちまち電光が窓を射、照らされたのは以前の書生であった。妻がたいへん怒り、爪でその顔を傷つけると、(あやかし)ははじめて窓から躍り出、[102]たる一声を発し、行方が知れなくなった。翌朝、夫が帰れば、門外で一匹の(さる)が、脳を裂かれて死んでおり、刃に中たったかのようであった。そもそも(あやかし)が人を惑わすのは、すべて人が春心をいだいて媾合しようとしていることによる。もともとそうした心がないのに、かれの不意に乗じ、変化(へんげ)してかれの節を汚すならば、罪は強姦と等しいはずだ。神理[103]をおしはかれば、もちろん絶対に許されないことであるが、前に記した竹汀が言ったことと比べると、その報いはさらに速かった。社公[104]は権力が弱くすぐに断じられないので、天神によってすぐに断じたのかもしれなかった。それともあちら[105]はまだ思いを遂げず、こちらはすでに汚されたので、請わないで誅することができたのか。

 
 同年の鄒道峰[106]が言った。韓生という者がおり、丁卯[107]の夏に山中で読書していた。窓の外は懸崖、崖の下は(たにがわ)、澗はきわめて険しく、両岸も近かったが、眺められるのにゆけなかった。月の明るい晩には、つねに対岸に人影が見えた。幽霊だと悟ったが、かれらが越えることはできまいと思い、さほど恐れなかった。しばらくすると見慣れたので、呼んでみてともに語ると、返事があったが、澗に落ちた幽霊で、こちらで替わりを待っているのだとみずから言った。余った酒で戯れ、窓に倚り、(たにがわ)に注ぐと、幽霊は下にきて飲み、たいへん感謝した。それから談じて友となり、勉学の余暇に、すこぶる寂寞を散じた。ある日、尋ねてみた。「人は、幽霊が予知するといいます。わたしは今年受験しますが、合否が分かりますか。」。幽霊は言った。「神は帳簿を調べず、予知もできませんが、幽霊ならばなおさらです。幽霊は陽気の盛衰によって、人が年運を知ることができ、神光[108]の明暗で、人の正邪を知るのです。禄命[109]ならば、冥官執役の幽霊が、傍で窺ってひそかに聴いて知っているかもしれませんし、都市の幽霊ならば、噂を伝え聞いているかもしれませんが、山野の幽霊ならば、知ることはできません。都市の中でも、すばしこい幽霊は聞いていますが、のろまな幽霊は知ることはできません。たとえれば、あなたがこの山に静坐していて、役所のことを知ることができず、まして朝廷の機密ならばなおさらであるようなものです。」。ある晩、(たにがわ)を隔てて叫ぶのが聞こえた。「吉報をお届けしましょう。さきほど城隍が山を巡回し、社公と語っていましたが、今回の試験の解元はあなただと言っていたようです。」。生もひそかにみずからを祝った。合格発表になると、解元は韓作霖[110]であったので、幽霊はその姓が同じであることを聞いていただけであった。生は太息した。「田舎者が役所の事を伝えるとは、このようなものか。」。

 
 王史亭[111]編修[112]が言った。崔生という者がおり、罪により、広東に流されることになったが、妻女を連れると不測の事態があることを恐れ、その妻妾を残して単身でいった。流刑地についた後は、愁苦煩悶し、たいへん無聊で、「少婦楼に登る[113]。」に思いをめぐらし、ますます憂えを増していた。たまたま一人の叟に遇ったところ、みずから姓は董、字は無念だと言った。話はすこぶる合い、かれが流落していることを憐れみ、招いて子の師にし、たいへん仲良くした。ある晩、主客で晩酌していたが、楼閣は高く、月光は満ちていたので、たちまち別離の思いを動かし、酒を執り、(おばしま)に倚り、いずれも酒を酌み交わすのを忘れた。叟は笑った。「あなたはもしや『雲鬟玉臂[114]』の感をお持ちなのですか。契末(わたくし)[115]がすでに手配してさしあげました。いらっしゃるかは分かりませんので、あらかじめお告げしませんでしたが、旬月[116]の後に報せがございましょう。」。さらに半年すると、叟はたちまち童僕下女に命じて別の部屋を掃除させ、様子はたいへん慌しかった。まもなく、三台の小さな肩輿[117]が来、妻妾および一人の下女が簾を掲げて出てきた。驚喜し、怪しんで尋ねると、みな言った。「お迎えのお手紙を頂戴しましたので、某官の眷属に頼んでついてまいりました。いそいでいてながくは待てませんでしたので[118]、あわただしくまいりました[119]。家産は×房の×兄[120]に頼んで代わって管理してもらいましたので、年貢米を得ますと、毎年売ってお金にし、届けてきましょう。」「下女はどこから来た。」「某官の妾で、正室に容れられず、安い値で舟の中で売られていたのでございます。」。生は感激して叟を拝し、涕を零すに到った、それからは一家でいっしょに住み、再び故郷を夢みなかった。数か月後、叟は生に言った。「この下女は途中で会い、患難でも従い、やはりご縁があり、ともに巾櫛[121]に侍するべきようでございますから、ひとり隅に向かわせてはなりません[122]。」。さらに数年して、赦免に遇って帰ることができた。生は喜び躍って寝ることができなかったが、妻妾および下女はみな惨惨[123]として離別の色があった。生は慰めた。「主どののご恩を思っているのか。死なないなら[124]、かならず報いる日があろう。」。みな答えず、すぐに生のために旅装を調えるばかりであった。ゆく時、翁は酒を調えて餞別し、三人の娘を呼び出し、言った。「今日ははっきりと申しあげるべきだ。」。そして拱手して生に答えて言った。「老いぼれは、地仙[125]でございます。過去生の中で、あなたと同僚でございました。歿した後、あなたは手を尽くし[126]、わたしの妻子を(かえ)しましたので[127]、つねに耿耿[128]として忘れませんでした。今回、あなたは別鶴離鸞[129]となられましたので、もとより手を打ってさしあげるべきでございましたが、山川は緜邈[130]としていましたので、二人のか弱いご婦人が、どうして来られましょう。そこで花妖を招いてさきにあなたのお家にゆかせ、半年間、奥さまがたのお顔とお話を窺い、つぶさに
まね、お家の昔の出来事を探らせたのでございます。あなたは証拠があるのでお疑いになりませんでした。かれらはもともと三姉妹でしたので、余計に一人の下女を増したのでございます。かれはみな幻相でございましたので、もうお思いにならず、お家にゆかれてもとの奥様がたに会われれば、こちらと違いはございません。」。生が三人の娘とともに帰ることを請うと、叟は言った。「幽鬼はそれぞれ地界[131]におり、しばらく出ることはできますが、ながくは出られないのでございます。」。三人の娘は手を握って別れ、涙を注ぎ、衣を潤した。たちまちすでにみな見えなくなり、舟に乗った時にはるかに岸に立つのが見えたが、招いても来なかった。帰った後、妻子がつぶさに語るには、家は日々没落したが、あなたが毎年お金を寄せて来たので、今でも生きられるということであった。そもそももこれは叟のしたことであった。世間の離別した人々が、すべてこの叟に逢えれば、もはや牛衣[132]銀河[133]の恨みはなかろう。吏亭は言った。「本当にそうだ。しかし粤東に地仙がいるなら、ほかのところにもかならず地仙がおり、董仙にこの術があれば、他の仙にもかならずこの術があるのに、ふたたび逢う人がいないのは、過去生の中で、もともと恩を受けていないので、心力を尽くし、縮地補天[134]しようとしないことによっている。」。

 
 旅人がおり、泊鎮[135]で女郎買いし、金を与えた。妓女はくりかえしじっくり見、燈火に近づけて焼くと、かすかに笑った。「紙銭ではございませんか。」。怪しんで事情を尋ねると、言った。「数日前、糧艘[136]が劇を演じ、神を祭り、見にゆき、夜更けになると帰った。少年に遇って金を与え、河原の藁家で野合した。家に着くと、懐を探り、ひどく軽いと思い、取り出すと一枚の紙銭であったが、そもそも幽霊に遇っていたのであった。そして言うには、近頃、ある妓女の家で、ある客がたいへん手厚く衣服、装身具を贈った。去った後、すべて自分の篋の中の物であったが、鍵は開いていなかったので、狐に欺かれたのかと疑った。旅人は戯れて言った。「『天道は還すを好む[137]。』だ。」。また盲人の劉君瑞が言ったが、青県[138]のある人は狐と友人で、しばしばともに飲み、たいへん親しんでいたが、突然、しばらく現れなくなった。たまたま草むらを通ったところ、呻吟する声が聞こえたので、見ると、その狐であった。尋ねた。「なぜそのように衰弱している。」。狐は長いこと恥じると、言った。「最近、若い妓女を見ましたが、なかなか元気でしたので、姿を変えて泊まりにゆき、その精を採ることを願いました。ところが妓女にはすでに悪瘡があり、採った後、毒は命門[139]に沁み、平生採ったものと混じって一つになり、油が顔に入るかのように、再び分けられませんでした。潰爛蔓延し、顔面に達しましたので、友人に会うことを恥じ、久しく往来を疏遠にしていたのです。」。これも狐の妓女に敗れた者である。謀略は相次ぎ、得失は相因り、膠膠擾擾[140]として、どんなことになるのやら。

 
 李千之[141]侍御[142]が言った。某公子は風姿が美しく、衛玠[143]璧人[144]と目せられていた。雍正末年、秋試[145]の時、豊宜門内[146]で僧舎を借りて夏を過ごした。一つの部屋に榻を設け、一つの部屋で読書していたが、朝起きるたび、書斎の几榻筆墨の類は、すべて拭かれ、纖塵もなく、瓶に花を挿し、硯に水を注ぐことまでも、すべてきちんと整頓されており、がさつなもののできることではなかった。ふと、北方には女狐が多いから、これによって心を通じているのかも知れないと悟った。心の中でも気に入っていた[147]。その後、盤の中にすこし菓子[148]が置かれるようになった。すべて精品であり、食らおうとしなかったが、ますます美人の贈りものと思い[149]、目を拭いて、よい出会いを待っていた[150]。ある晩、月が明るかった。そこでひそかに北窓の外にゆき、紙に穴を開けてこっそり窺い、美人を見ることを願った。夜半に器具の音がし、一人が部屋で手を打ったので、じっくり見れば、長い髯の偉丈夫であった。そこで、恐れて退き、翌日、寓所を移した。その後、承塵[151]の上で嘆く声がしたかのようであった。

 
 康師は、杜林鎮[152]の僧であった(北方の風俗では僧を姓で呼ぶことが多いので、名号は伝えられていない。)、瘍医[153]にたくみであり、わたしは幼いときに会うことができた。語るには、かれの同郷人の家で、ある下女が春心を懐いて死に、魂は散ぜず、しばしば出て人に祟っていた。しかし姿を現さず、声を出さず、人に憑いて語ることもなく、人を病にさせず、しばしば少年と夢の中で接し、やや痩せ衰えれば、別に他の少年を惑わし、人を殺すには到らなかった。そのため、祟られているのに祟られているとは思われなかった。かつて祟られた者も、夢境はぼんやりとして、しかと知ることはできなかった。このようにすること数十年、人に恐れられず、人に祓われもしなかった。まことに狡い幽霊であった。よくその(はたらき)(かく)[154]、よく虚に逃れ[155]、よくその余力を留め[156]たのは、よく老氏[157]の趣旨を会得していたといえる。しかし結局人は知り、人が伝えているのだから、黠巧(わるぢえ)は結局すべて露顕するのである。

 
 言い伝えでは、康煕年間、瓜子店[158]で火事があり(正陽門[159]の南にあって東よりである。)、少年が癆咳を病んで出ることができず、家が焼けた。火が収まってから掘ると、屍はすでに焦げていたが、一匹の狐がいっしょに死んでいた。その病は狐に惑わされていたものであることが分かったが、どうして狐も死んだのかが分からなかった。ある人は言った。「狐は情が重く、救い出せず、守って去らなかったのだ。」。ある人は言った。「狐が人を惑わして死に到らせたので、神が殺したのだ。」。いずれも違う。狐鬼は変化でき、幽霊は屋を穿ち、壁を通って出られる(羅両峰[160]がそう言っている[161]。)。幽霊は(すがた)はあるが(なかみ)はなく、純然たる気で、気は達しないところはなく、妨げることはできるところはない。狐は大きくもなれ、小さくもなれ、龍に等しい。しかし(すがた)もあり、(なかみ)もあり、(なかみ)は化することができ、小さくなるが、無に化せられず、隙があればすぐに逃れ、隙がなければ妨げられて出られない。もっともすぐれた狐も、往来するときはかならず戸や窓を通るのである。この少年が死ぬ前もなお、狐は惑わしに来ていたが、にわかに火が起こるのに遇い、戸や窓はすっかり燃え、ともに灰となったのである。

 
 門人徐通判[162]敬儒[163]が言った。かれの郷里で富豪が下女に親しみ、寵愛はたいへんこまやかであった。下女も心を傾けてその主人に向かい、再婚しないことを誓った。正室は心のなかで妬んでいたがどうしようもなかった。たまたま富豪が仕事で他へ出たとき、正室はひそかに女儈[164]を召して人に売らせ、富豪が帰れば、下女がひそかに逃げたと報せることにした。家人は主人が帰れば、事態はかならず変化しようと思い、いつわって女儈から買い、尼寺に隠した。下女はみずから女儈の家にいったが、直視して語らず、引いて立てれば立ち、扶けて歩かせれば歩き、抑えて臥させれば臥し、そうでなければ木偶のようにして、終日動かなかった。食べ物を与えれば食べ、飲み物を与えれば飲み、与えなくても求めず、尼寺にいってもそうであった。医者は怒って痰迷[165]となったのだと思った。しかし薬は効かず、尼寺にいっても正気にならず、このように半死半生の状態になること一月あまりであった。富豪は帰ると、正室と刀を執って闘った。一頭の羊を屠り、血を滴らせ、神に告げ、ともに生きないことを誓った。家人が隠せないと思い、事実を告げると、いそいで尼寺にゆき、迎えて帰ったところ、愚かであることは相変わらずであったが、富豪が耳元でかれの名を呼ぶと、突然夢から醒めたかのようになり、みずから言うには、女儈の家にいったとき、これは女主人の意思で、主人はかならずお棄てになっていないはずだと思い、みずから走って帰り、女主人に見られるのを心配し、つねに人気のない処に隠れ、主人の来るのを待った。今、主人が呼ぶのを聞くと、喜んで出てきた。そして言うには、家中で某日に某人を見、某人は某日に某事をし、はっきりとして違わなかった。その体は去ったが魂は帰っていたことを知った。これによって推測すれば、いわゆる離魂の倩女[166]とは、このようなものに過ぎないことがわかる。ただ小説家は点綴して文を作り、佳話を作ったのである。魂が還ったあとに衣もみな重なったというにいたっては[167]、もっとも誕謾(でたらめ)である。衣を着ける者はその本体で、わずかな間も、襟帯を解いていなかったのだから、どうして重なって入りこめよう、衣は委蛻(ぬけがら)のようになったと言ったほうが、まだすこし事理に近かったか。

 
 客作[168]不満(はじめはそれが「みづから満仮せず[169]」の趣旨に因んでいるので、その命名に古意があると称していた。その後、饕餮(おおぐらい)によってその名を得、「田」と「填」が同音であることに因んでいたことを知った[170]。)、夜に歩いていて道に迷い、誤って墓地の間を通り、足で
髑髏蹴った。髑髏は声を出して言った。「わたしの顔を傷つけるな。おまえに禍いするぞ。」。不満は愚かで凶暴であったので、怒鳴った。「誰がおまえに路を塞がせた。」。髑髏は言った。「人がおれをこちらに移したのであって、おれが路を塞いでいるのではない。」。不満はさらに怒鳴った。「おまえを移した者に禍してはどうだ。」。髑髏は言った。「そのものは運がまさに盛んだから、どうしようもない。」。不満は笑ったり怒ったりした。「どうしておれが衰えているものか。盛んなものを恐れて衰えているものを虐げるとは、とんでもないな。」。髑髏は泣いていった。「あなたも気が盛んでございますから、わたしは祟ろうとせず、嘘で恫喝しただけなのでございます。盛んなものを恐れて衰えているものを虐げるのは、人情の常でございますのに、幽霊を責められるのですか。哀れんで、動かして土窟(つちむろ)に入れてくだされば、それがあなたの恩恵でございます。」。不満は衝きぬけて過ぎたが、背後から嗚嗚(ウウウウ)という声が聞こえただけで、結局ほかの異変はなかった。わたしは不満には仁心がないと言った。しかし乱暴な人に遇い、大言によってその人の怒りを刺激したのだから、幽霊にも過ちがある。

 
 蒋苕生[171]編修[172]が言った。ある士人が北上し、舟を北倉[173]、楊柳青[174]の間に泊めた(北倉は天津から二十里、楊柳青は天津から四十里である。)。時にすでに黄昏で、四顧すればE漫[175]としていた。人家からやや遠いところで、ひとりの子供が樹に寄って立っていたが、たいへん美しく、衣裳は華麗清潔であったが、雰囲気は大家の子供らしくなかった。士人はもともと軽薄であったので、ひとり上陸してともに語った。口で南方の言葉を操り、みずから語った。「流落してこちらにおり、すでに人が連れ帰ることを約束していますが、まだ来ていません。」。だんだんうちとけ、かすかに言葉で挑み、扇の上の漢の玉佩を解いて贈りものとした。すると顔を赤らめ、断って言った。「あなたは通人で、みずからを隠すこともなさいませんが、旧友との情が篤いので、本当に別に琵琶を抱くに忍びません[176]。」。帯を置いて去った。士人は心が収まらず、かれの宿を窺おうとし、こっそりついていった。数十歩離れるとたちまち姿を消してしまい、草叢の中の一つの小さな墳があるだけであったので、はじめて幽霊であったことを悟った。女が夫に仕えるのは、大義[177]であり、一人に従えば貞淑となり、野合すれば淫蕩となる。男子でありながら衾裯[178]で抱かれ、すでに操を失っているのに、一人に従うと言うとは、「本を(はか)らずして末を(ととの)[179]」ではないか。しかし、態度を変えて裏切るのと比べれば、やはりやや勝っている。

 
 先師陳白崖先生[180]が言った。業師[181]の某先生(その姓名を忘れたが、周のようであった。)は洛、閩[182]をあつく信じ、講学による名声を求めず、貧窮老衰して終わり、声誉は絶えてしまっている[183]。しかし知識は至醇で、粋然たる古樸な君子であった。かつて空き部屋数間に仮住まいしていた。ある晩、窓の外で語るのが聞こえた。「申しあげることがございますが、あなたが恐れるのが心配でございます。どういたしましょう。」。先生は言った。「とにかく入って構わない。」。入れば一人が首を項に戴き、両手で支えており、頭には巾がなく、身は襴衫[184]で、血がその半分を浸していた。先生は拱手して坐し、謙遜することも礼法通りであった。先生は尋ねた。「どうした。」「わたしは不幸にも、明末に盗賊に殺され、魂はこの屋内に滞っております。以前、住む者がいても、祟ろうといたしませんでしたが、陰気と陽光が、たがいに接触し[185]、人は驚くことが多く、わたしも不安でした。今、一策がございます。隣家にあなたの眷属を入れられます。わたしがあちらにいってたくさん怪しいことをすれば、かれはかならず避けて去りましょう。来て住む者がいても、前と同じように騒げば、かならず棄てられて廃屋となりましょう。あなたは安価で売り、あちらに移住し、わたしもまたこちらに安住すれば、両得ではございませんか。」。先生は言った。「わたしは平生謀略をなさず、幽霊を使って人を苦しめるのはなおさらだ。義としてするに忍びない。わたしはこの部屋で読書し、いささかの静けさを求めているだけだ。おまえがこちらにいるのなら、雑貨を貯え、日々閉ざすように改めるのがよいか。」。幽霊は恥じ、謝して言った。「お机の上に性理[186]がございましたので、この策を進めようといたしました[187]。あなたが真の道学[188]であることに気づかず、失言いたしました。すでにお許しを受けましたので、おうちに身を寄せることができます。」。後にここに住むこと四年であったが、寂としてほかに異変はなかった。そもそも正気はかれらを脅かすに足りるのである。

 
 人の姿にひどく似ている物は、年を経ると多くは変化(へんげ)することができる。族兄の中涵が言った。旌徳[189]で役人をしていた時、一人の同僚が芝居を好んでいた。匠に命じて一人の娘を造らせたが、身長は人のよう、全身の形および隠微の処も、すべて人のようで、手と足と目と舌には、すべて関節を施し、屈伸運動でき、衣裙簪珥は、時に応じて変えることができた。百金を費やし、ほとんど偃師[190]の技巧を奪っていた。書斎の(つくえ)の側に直立させたり、に坐したりさせ、慰みにした。ある晩、童僕は書斎が格格(ガタガタ)いう声を聞いた。時にすでに鍵が閉ざされていたので、紙に穴を開けて窺いみると、月光が窓にあったが、この人形が往来しみずから歩いていた。いそいで主人に告げ、主人がみずから窺うと、本当にそうであった。焚くと、嚶嚶[191]として悲痛な声を出した。また、亡き祖母が言った。舅祖蝶荘張公[192]の家に、空き部屋数間があり、雑多なものを貯えていた。ばあやが夜に見ると、中庭に娘がいたが、容色は美しいものの、頷の下には長い髯が戟のよう、両頬にも(はりねずみ)の毛のように広がっており、四五人の小児を連れて戯れていた。小児は跛であったり盲であったり、頭と顔が破損していたり、耳鼻がなかったりした。人が来ればたちまち隠れ、どんな(あやかし)か分からなかった。人に害をなさず、外にも出なかった。ある人は目が眩んだのだと言い、ある人は嘘だと言い、みなあまり気に留めなかった。後にこの部屋を調べると、壊れた虎邱泥孩一牀[193]を見たが、姿は見たもののようであった。その娘の鬚は、児童が戯れ、筆墨で描いたものであった。

 
 景州[194]の方夔典[195]が言った。若い時、心気[196]の不安を患い、やや労働すれば(スウスウ)と動いているかのようであった。棗仁[197]、遠志[198]の類を服したが、起こったり、止んだりし、あまり効果がなかった。たまたま友人の家で遇って扶乩したところ、純陽真人[199]だといった。そこで拝して処方を求めた。乩仙はお告げした。「この症状は(しん)に現れているが、その原因は脾から出ており、脾が虚弱なのは子が母の気を食らっているからだ。白朮[200]を炒めてつねに服するべきだ。」。試すとほんとうに効果があった。夔典はさらに言った。かつて乩仙に向かって科挙の試験について尋ねると、乩仙はお告げした。「試験の詩文は、筆酣墨飽[201]、書味[202]盎然[203]としているだけで合格する。あらかじめ尋ねることはない。」。後に乾隆丙辰[204]の進士に合格するに到った。本房[205]の同考官[206]が閲巻簿[207]を出してこれを見たところ、注してある批語はこの八字[208]であった。それならば科名[209]は前もって定まっており、批語も前もって定まっているのか。

 
 高梅村[210]が言った。二人の村民がともに歩き、一人がたまたま小便し、瓦を蹴り上げると、下に一つの(もたい)があり、瓦の上に一字が刻んであったが、ともにゆく者の姓であった。見られるのを恐れ、理由をつけてひとりで返り、こっそりと草叢に潜み、かれが遠くへ去るのを眺めると、いってひそかに取った。すると、(もたい)のなかはすべて清水であった。ひどく怒り、持ちあげてすべて飲んだ。時に日はすでに暮れており、泊まれなかったので、ともに歩いていた者の家がまだ近くにあったと思い、すぐに宿を借りにいった。夜中、たちまち霍乱を患い、吐いたり下したりし、寝床を幾たびか汚したので、恥ずかしくてたまらず、夜逃げした。夜明けに、その家のものが見れば、すべて純銀で、溶かした銀が地にそそいで板となったかのようであった。わたしは、この話は笑いに供するのものにすぎず、本当にあったとは限るまいと言ったが、梅村は嘘ではないと言いはった。それならば、物にはそれぞれ持ち主があり、人力がむりに求められるものでないのは、たしかに本当のことである。

 
 梅村はさらに言った。姜挺という者がおり、布を売ることを生業とし、つねに一匹の花犬(ぶちいぬ)を連れて従わせていた。ある日、ひとりで歩いていると、途中、一人の翁に呼びとめられたので、尋ねた。「面識がございませんのに、なぜお招きになるのでしょう。」。叟はにわかに叩頭して音をたて、言った。「わたしは狐でございます。前生でご命に負きました。三日後、あなたは花犬(ぶちいぬ)をけしかけて、わたしの喉を断つでしょう。運命は定まっておりますので、死を逃れようとはいたしません。しかし、ひそかに思いみますに、事は百余年を隔てており、あなたは人に転生し、わたしは落ちぶれて狐となっております。一匹の狐を追って殺されても、あなたにとって何の利益がございましょう。それにあなたはすでに殺されたことがご記憶になく、たまたま一匹の狐を殺しても楽しくはないでしょうから、娘をお納めしてみずからを贖って宜しいでしょうか。」。姜は言った。「わたしは狐を部屋に引き入れようとしないし、危険に乗じて人の娘を奪おうともしない。ゆるすにはゆるすが、どのように犬を防いでけっして噬らぬようにするのだ。」「手ずから帖子[211]に、『某人の宿債を、銷除[212]することを願う。』とお書きください。わたしが持っていって神に告げれば、犬は噬りません。冤家債主であることを、本人が解除すれば、神はそれに(たが)いません[213]。」。たまたま帳簿にする紙と筆を持っていたので、帖子を書きあたえた。叟は雀躍して去った。七八年後、姜は布を売り、大江を渡ったが、にわかに暴風に遇い、帆は下ろせず、舟は覆りそうになった。見ると一人がまっすぐ檣竿(ほばしら)の先に登り、引いてその(なわ)を断ち、帆に騎ってともに落ちた。眺めれば、あの叟のようであったが、瞬く間にすでに所在を失っていた。みな言った。「これは狐がよく恩に報いたのだ。」。わたしは言った。「この狐はみずからを救う術がなかったのに、数千里はなれたところで人を救うことができようか。これは神が生きものを慈しんでその寿命を延ばそうとし、この狐を遣わしただけだ。」。

 
 周泰宇[214]が言った。劉哲という者がおり、一匹の女狐と親しみ、後に妻にした。することは常人のよう、舅姑に孝にし、娣姒[215]と親しみ、前妻の子女を実の子のように育てるのは、もっとも人のなし難いことであった。老いて死んだが、その屍も狐の姿に変わらなかった。人は言った。「本当は私奔した女で、そのことを隠し、狐と嘘をついていたのだ。」。人が言った。「本当に狐だ。修行して人となったが、仙にはなれていなかったので、老いがあり、死があったが、すでに解形していたから[216]、死んでも屍は人のようだったのだ。」。わたしは言った。「どちらも違う。その心が姿を保つに足りていたのだ。およそ人の姿は、心に従って化することができるのだ。郗皇后[217](うわばみ)となり、封使君[218]が虎となったのは、その心がもともと蟒、もともと虎であったため、その姿が蟒にもなり虎にもなったのだ。旧説では狐はもともと淫婦阿紫[219]が化したものであり、人でありながら狐の心ならば、人も狐になれ、狐でありながら人の心ならば、狐も人になれるのだ。緇衣黄冠[220]に、坐蛻[221]して倒れないものがおり、忠臣烈女に、骸が残って腐らないものがいるのは、いずれも(こころ)がその(からだ)を保つに足りているからだ。この狐が死んで姿を変えなかったのは、これに似ている。」。泰宇は言った。「本当にそうだ。言い伝えでは、劉がはじめて狐を娶ったとき、疑い恐れないことはできなかったが、狐は言った。『わたしは家をよくしようとしているだけでございます。家をよくするのでしたら、狐は人と異なりません。それに人は狐を恐れることを知っているだけで、しばしば狐と(つれあい)となることを知りません。女が容止に節度なく、病を生じて寿命を損なえば、狐に採補されるのに異なりません。女が塀を越え、穴を穿ち、密会するのは、どうして狐が放蕩するのに異ならないでしょうか。女が長い舌で離間し、家庭に諍いを生じさせるのは、どうして狐の媚惑に異ならないでしょうか。女が資産を隠し盗み、ひそかに親しいものに与えるのは、どうして狐の盗みに異ならないでしょうか。女が騒ぎ罵り、六親[222]が安らかでなくなるのは、狐が祟りをなして騒ぐのに異なりません。あなたはどうしてかれを恐れないでわたしを恐れるのでしょうか。』。この狐の志は、人の上にある。かれが人からはじまって、人で終わったのは当然である。話にあったさまざまな狐は、六道輪迴[223]が、心によって造られるので、死ねばそこに陥るのを免れないだろう。」。

 
 古は世禄[224]世官[225]であったので、宗子[226]はかならず後継者を立てた。「支子[227]祭らず」とあるのは、礼[228]に「かならず後継者を立てる」という文がないからである。孟皮[229]に子孫がいたことは聞かないが、孔子が後継者として立ったことを聞かないのは、嫡子でなかったからである。支子が後継者を立てるのは、かれの煢嫠[230]が操を守り、節婦の祭祀が絶えるのに忍びないからか。似ていることをあげれば、士にはもともと誄がなく、県賁父から誄が始まったのは、職に殉じたからである[231]。童子はもともと殤する[232]べきなのに、汪リ[233]は殤しなかったのは、社稷を守ったからである。礼は義によって起こり、廃することはできない。支子の跡取りがない者も、慣例として廃することができないが、家庭の災難は、往々にしてそのために起こる[234]。董曲江[235]が言った。東昌[236]に兄弟三人がおり、仲は先に死んで後継ぎがなく、兄はその子で継ごうとし、弟もその子で継ごうとし、兄は言った。「弟は兄に譲るべきだ。」。弟は言った。「兄の子が年少でかれの子が年長でも、弟は兄に譲るべきだ。」。訴えて年を経、結局兄に奪われた。弟はたいへん怒り、鬱結して病となった。病がひどくなった時、その子に言った。「わたしはかならず地下で正義を求めよう。」。その後、意識を失い、半日を経てまた甦ると、言った。「陽官がでたらめであるだけでない。陰官のでたらめはさらにひどい。さきほど魂は冥府に遊び、このことを訴えた。一人の陰官がわたしを詰り、『おまえの兄に跡取りがないと思っているのか。おまえの兄にはすでに跡取りがいるのだから、おまえは資産のために争っているだけだ。獣を野で見、二人が並んで追えば、足が速い者が先に得るのに、なぜ訴える。』といい、相手にしなかった。そもそも相続を争うのはもともと資産のためなのに、目を怒らしてわたしに宗祀[237]のことを講じるとは、どうしてここまで物分りがよくないのだ。紙と筆をわたしの棺の中にたくさん置け。上帝に訴えるから。」。これはまことに死ぬまで悟らぬ者である。曲江は言った。「わたしはまだかれがみずからを隠さなかったことを評価する。」。

 
 己卯[238]に山西で典試した時、陶序東は楽平[239]の県令で同考官[240]に当たっていた。答案が持ち込まれない時[241]、ともに仙人鬼神の事を閑談した。序東は言った。ある友人がかつて南岳[242]に遊び、林壑[243]の深い処にいったが、見ると娘が石に倚り、花の下に坐していた。よく智瓊、蘭香[244]のことを聞いていたので、にわかにいってついた。娘は紈扇[245]で顔を掩って言った。「あなたとはご縁がございませんから、近づかれるべきではございません。」「縁は因から生じるのだから、これから因を種えることはできないか。」。娘は言った。「因ははやくから造られねばならず、縁は双方が合わねばなりませんから、種えようとしてすぐに種えられるものではございません。」。翳然[246]と姿を消したので、仙人かと疑った。わたしは情欲の因縁は、この女の言うことが正しいと思う。恩讐の因縁ならば、種えようとすればすぐに種えられるので、また別に論じるべきだ。

 
 大同[247]の宋中書瑞[248]が言った。昔、家にいて戯れに扶乩[249]したところ、乩が動いたので、仙号を尋ねた。すると、すぐに書いた。「わたしはもともと深山に住み、白雲の中を往来していた。天風がたちまち颯然として、雲は動いて流れる水のようであった。わたしはたまたま従って遊び、飄飄としてこちらにきた。荒村茅舎は静かで、しばらく坐するのも楽しかった。わたしの姓名を尋ねないでくれ、わたしは忘れてすでに久しい。お尋ねしますがこの門前は、山からおよそ幾里なのです。」。書きおわると、乩は動かなくなった。これは真仙かもしれない。

 
 和和呼通諾爾(ホホフトンノル)[250]の戦いで、兵士に没蕃(モファン)という者があった。乙亥[251]伊犁(イリ)[252]を平定したとき、大兵[253]の旗幟を望み、出頭して死を許され、烏魯木斉(ウルムチ)に配置され、人々は「小李陵」と呼んでいた。この人は李陵[254]が誰かを知らなかったが、いいかげんに返事していた[255]。しばらくするとその本名は忘れられた。己丑、庚寅の間[256]、わたしは烏魯木斉(ウルムチ)で、まだその人に会ったが、すでに老いていた。かれが言うには、(ジュンガル)にいた時、数人の持ち主に転売されたが、いつも牧羊を司っていた。大兵[257]が来る一年前の八月中旬、夜に山の谷に泊まり、望みみると、沙漠に火の光があった。西域の諸部は、つねにたがいに掠奪していたので、強盗かと疑った。岡に登って眺めると、一人の巨人がいたが、身長は一丈ばかり、衣冠は華やかで整い、侍従は炬火を取って先導し、約七八十人いた。にわかに隊列をなして分立すると、巨人はきちんと拱手し、東に向かって拝し、態度はたいへん厳粛であった。山霊(やまのかみ)であることが分かった。おりしも(ジュンガル)が乱れていたが、阿睦爾撒納[258]が誼を通じ、兵を請うている事をすでに仄聞していたので、この地は内地に属することになるから鬼神があらかじめ東に向かっていたのかもしれないとひそかに思った。その後、ほんとうにその通りになった。時になお八月中旬が聖節であることを知らなかったが、帰属した後、天声[259]に恐懼し、はるかに万寿を祝っていたことを悟った。

 
 甘肅の李参将[260]は、名を璇[261]といい、康節観梅(もじうらない)[262]の術に精しく、事を占うと験が多かった。西域を平定した時、大学士温公に従って軍営にいた。ある兵士が火種を落とし、役所の前で枯れた草を焚いたが、幅は一丈ばかりであった。公が何の兆しかを占わせると、言った。「ほかでもございません。公は数日以内に密奏なさることでしょう。火は枯草を得ますと、進むのがもっと速いのですが、これは急逓[263]の象で、煙気が上昇していますが、これは上達の象でございます。密奏であることが分かります。密奏は、()稿を()くべきものでございます[264]。」。公は言った。「わたしには密奏するべき事はない。」「火種を落としたのも無心で、あらかじめ定まっていたことではございません。」。その後、ほんとうにその通りになった。かれが人の一生を占うときは、自由に一つの物を取らせ、同じ物を取っても、判断は同じでなかった。京師についた時、一人の翰林が煙筒(きせる)を取ったところ、言った。「火を貯えてその煙は吐いたり吸ったりして内に通じますので、公は閑職ではございませんが、位はさほど顕達しません。さらに人の吹嘘[265]を待つからです。」「官職を歴任するのは幾年か。」「はっきり申しあげるのをお咎めにならないでくださいまし。火はもともと多くなく、一たび収まれば灰燼となりますので、熱いことは久しくはございません。」「寿命はどれほどか。」。首を振って言った。「銅器はもともと長い時間を経られますが、百年の煙筒(きせる)を見ません。」。その人は怒って去った。一年余り後、言った通りになった。またある郎官[266]が同席していたが、やはりこの煙筒(きせる)を取り、かれがまたどのように言うかを観察したところ、言った。「煙筒(きせる)の火はすでに収まっていますので、公はかならず閑職でございます。牀に置かれていたのは、かつて低迷していたということですが、ふたたび手に取られたのは、提携(ひきたて)に遇って再起するということでございます。将来また(さかん)になる時がございますが、(さかん)といっても前と同じでございます[267]。」。後にやはり言った通りになった。

 
 呉恵叔[268]が小さな幅の掛軸を持っていたが、紙の色は百年以上の物のよう、長椿寺[269]の市で手に入れたと言っていた。筆墨は粗略で、半分は薄墨で雲煙を掃き、半分は水紋[270]を描き、真ん中には一隻の小さな舟があり、一人の娘が篷の下に坐し、一人の娘が櫓を漕いでいるだけであった。右の角には濃い墨で、一首の詩が書かれていた。「沙鴎ともに住む水雲郷、記さず荷花の幾度香るを。すこぶる怪しむ麻姑[271]のはなはだ多事[272]なるを、なほ知る人の世に滄桑[273]あるを。」。落款に言った。「画中の人みづから画き並びに題す。」。年月はなく、印章はなかった。人々は仙筆かと思ったが、女仙の手跡を、人がどこから得られよう。人は遊女かと思ったが、この世外の言葉をなすはずもないので、明末の女冠[274]が、漁荘[275]蟹舎[276]に兵を避け、みずからこの絵を描いたかと疑った。古人の跋語がないので、確信するのは難しかった。恵叔は題を求めたが、わたしは書きようがなかった。放置すること数日で返した。恵叔は蜀中で歿し、この絵が今あるかは分からない。

 
 舅氏実斎安公が言った。程老は、村夫子であった。娘はすこぶる秀麗で、たまたま門前で脂粉を買ったところ、里中の少年にからかわれていた。泣いて父母に告げ、かれが乱暴であることを憚り、咎めようとしなかったが、怒りは解けず、つねに鬱鬱としていた。そのため一匹の狐と友となり、くるたびかならずさしで飲んだ。ある日、狐がかれの悲しげであることを怪しむと、事実を告げた。狐は黙黙として去った。後にこの少年がまたその門を過ぎると、娘が門に倚って笑っており、だんだんやんわりと語り、小さな畑の空き部屋の中で野合した。別れに臨み、女は泣いて放さず、駆け落ちすることを約した。少年は夜、門の外にゆき、引いて帰った。程老が追ってきたのを拒み、刃を女に擬して言った。「漏らそうとしたら殺すぞ。」。数日後、音沙汰がなかったので、程老がその事を隠したことを知った。たいへん得意になり、ますます親しんで節度がなかった。後にこの女はだんだん妖しい行跡を現したので、(まもの)であることを悟ったが、たいへん気に入っていたので、追いはらえなかった。一年余りすると癆咳を病み、一息を存するばかりとなった。この女が去ると、手を尽くして治療したので、さいわい死なないですんだが、資産はすでに蕩然[277]としていた。夫婦して野宿したが、衰弱していたので力作(りょくさく)に堪えず、妻の夜合[278]の稼ぎで食らったが、もはや従前の凶暴の気はなくなった。程老はそのわけを知らず、狐に向かって述べた。狐は言った。「わたしが賢い下女に戯れさせただけで、娘さんのお姿をおかりしたのは、そうしなければ囮とするに足りないからです。わたしたちであることをお知らせしたのは、娘さんの名を汚すのを防いだのです。危うくなると許したのは、かれの罪が死ぬほどのものでなかったからです。報いはすでに十分ですので、さらに怏怏とすることはございません。」。これは狐の中の朱家、郭解[279]か。ひどいことをしなかったのは、朱家、郭解もできることではない。

 
 従孫[280]の樹宝が言った。辛亥の冬、従兄の道原と、戈孝廉[281]仲坊[282]を訪ねた。(つくえ)に新詩数十紙があり、中に二首の絶句があった。「手に到る良縁事また違ひ、春風空しくみづから双扉を閉ざす。人間(じんかん)まことにあり乗龍[283]の婿、夜半居然[284]として壁を破りて飛ぶ。」。「あに蛾眉の尹邢[285]を闘はしむるのみならんや、仙家もみづから娉婷[286]を妬む。請ふ見よ背を搔く麻姑[287]の爪、変相すればあきらかに巨霊[288]なり。」。いずれも趣旨が分からなかった。その本事を尋ねると、仲坊は言った。「昨日、滄州の張君輔[289]に会ったが、かれが言うには、南皮[290]の某甲は、年が二十あまりで娶っていなかった。するとたちまち二人の美女が夜に近づいてきたので、出自を質すと、みずから言った。『狐です。宿命によって夫婦となるはずです。あなたの福となれませんが、あなたに禍することもありません。』。某甲はかれの色に親しみ、なる結婚しなかった。戒める者がいると、某甲は謝して言った。『狐はわたしを厚く遇してくれるし、いっしょにいる日がながいのに、病がないから、惑わす者ではない。それにわたしのために子を生むと言い、子孫も害がないから、本当に裏切るに忍びないのだ。』。後に一族の人々がむりにかれのために妻を娶ってやろうとしたところ、甲はその娘[291]がたいへん美しいことを聞き、にわかに昔の誓いに負いた。洞房華燭の時になると、にわかに風か(いかずち)のような音がし、家を震わし、一本の手が窓を破って入ってきたが、その大きさは箕のようで、某甲を攫って去った。翌日、四方に出て捜したが、杳然として姿がなかった。七八日後、数人の小児が、とある神祠の中で牛が喘ぐような声がすると言った。北方の風俗では、およそ神祠で廟守がいないところは、流浪する乞食が住むことを心配し、多くは煉瓦でその戸を塞ぎ、一つの穴を残して香炉を置くのであった。穴から窺うと、一人の男が裸体で臥しているようであったが、誰だかは分からなかった。戸を開いて見れば、某甲であった。すでに昏昏として人事不省であった。あれこれ治療したところ、かろうじて死なずにすんだ。それから女狐は来なかったが、妻の実家は女狐の報いを恐れ、離婚した。この二首の詩はこのことを記しているのだ。」。そもそも狐は神通力を持っており、事は人と異なっている。某甲が娶っても、すみやかに往来することを妨げない。その凶鋒[292]を逞しうし、ほとんどその命を損なうとは、狐は嫉妬深く凶暴であったといえる。しかし、もともと約束がなかったのなら、非は狐にあるが、始めを慎まないでともに約し、さらに終わりをよくしないで背けば、激して祟ったのにも、おのずと言い分があろう。もとより狐を罪することはできない。

 
 北方の橋は、欄干を施して足を滑らすのを防ぐだけである。閩中は雨が多いので、みな橋を屋根で覆い、行く人を守っている。邱二田[293]が言った。人が夜中に雨に遇い、橋屋[294]に赴いて坐していた。一人の下役が案牘を持ち、軍役[295]とともに数人を護送して屋根の下に避けた。枷と鎖は瑯然[296]として、役所が録囚[297]していると知り、恐れて近づこうとせず、一隅の中で恐縮するばかりであった。一人の囚人が叫び哭いて止まないでいると、吏は怒鳴った。「今、恐ろしいことを悟るくらいなら、昔悪事をせぬほうがよかったな。」。囚人は泣いた。「わが師に誤られました。わが師は毎日講学し、およそ鬼神の応報の説は、すべて退けて仏氏の嘘であるとしました。わたしはその言葉を信じ、謀略を深くでき、弥縫を巧みにできれば、あらゆることは思い通りになり、一生露顕しないことができるとひそかに考えました。死んだ後、気は太虚に返り、冥冥漠漠として、毀誉を聞かないのであれば、憚ってわたしの意をほしいままにしないことがございましょうか。ところが、地獄は嘘ではなく、冥王は本当にいましたので、はじめて騙されたことを知り、悔いてみずから悲しんでいるのです。」。一人の囚人は言った。「あなたの堕落は儒を信じたことによっているが、わたしは仏を信じたことで誤った。仏家の説では、悪業を造っても、功徳ですぐに消滅でき、地獄に落ちても、経懺[298]すればすぐに済度できるという。わたしは、生前香を焚いて布施し、歿した後、僧を招き、読経することは[299]、すべてわたしの力でできないことではないし、仏法の護持があれば、あらゆる悪さをしても、冥府が懲らせるものではないと思っていた。ところがいわゆる罪福[300]は、することの善悪を問題にし、財を施すことの多少を問題にしない。金銭をむなしく費やし、搗かれたり煮られたりすることは逃れ難い。仏を頼りにしているのでなければ、勝手なことをしてこんなことになりはしなかった。」。語りおわると長く叫んだ。囚人たちもみな痛哭した。かれらが人でなかったことを知った。そもそも六経[301]は揃っているが、鬼神がいないと言っておらず、三蔵[302]の談は、財貨を集めるためのものではない。儒者が名誉を求め、仏者が利を漁ってから、その流弊はこの極みにいたっている。仏教はもともと異教で、緇徒[303]がこれを借りて生計を立てるのは、責めるに足りない。儒者もこのようにすることはない。

 
 倪媼は、武清[304]の人で、年が三十足らずで寡婦となった。舅姑が嫁がせようとすると、死をもってみずから誓った。舅姑は怒り、門外に追い、みずから生計を立てさせた。流離辛苦し、二男一人の女を育て、いずれも結婚していたが[305]、いずれも才がなかった。煢煢として頼るものがなく、一人の孫娘だけは尼になろうと思い、仏寺に寄食し、かろうじて自活し、今、七十八歳であった。いわゆる若年でありながら老年まで貞を全うするのを誓う者か。わたしはかれの節を憐れみ、しばしば援助しもした。馬夫人[306]はかつて悠然[307]として言った。「あなたは宗伯[308]で、天下の節烈の旌典[309]を司っていらっしゃいますのに、この媼を目睫の間に忘れているのは、どうしてですか。」。わたしは言った。「国家の典章制度には、条規がある。節婦烈女は、学校がともに州郡に挙げ、州郡が書類を台司[310]に挙げ、上奏して勅旨を請い、礼曹[311]に下して相談させ、公平に論じさせる。礼曹はそれを審査し、進めたり退けたりすることはできるが、みずから捜しもとめることはできない。これは私情を防いでいるのだ。喩えれば、文柄[312]を司る者が、棘闈[313]の墨牘[314]に関しては、権力を握れるが、受験していない遺材[315]を採り、合格させることができないようなものである。この媼は、久しく郷里を去っていたので、推挙する者がおらず、京師は人の海なので、誰が流寓[316]の中に、こうした孤児寡婦がいることを知ろう。滄海の遺珠[317]となったのは、そもそもこれによっている。どうしてわたしがなせるのになさなかったことがあろうか[318]。思うに古来の陰徳は、往々にして稗官小説を借り、微かな光[319]を放っている。そこでその大要をとり、瑣録[320]に附した。この書はもともと怪異を記しているので、不純な例であるのを免れないが、風教を表章する趣旨にかんしては、一貫していないわけではない。

 

最終更新日:2010930

閲微草堂筆記

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[1] 未詳。巻六・七・十にもでてくる。

[2] http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE5Zdic9CZdic9F319886.htm 

[3] 未詳。巻二にもでてくる。

[4] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic9EZdic97321821.htm @・A

[5] http://baike.baidu.com/view/706878.htm 

[6] http://www.zdic.net/cd/jd/18/ZdicE8Zdic97ZdicA965141.htm B。ここでは安禄山をさす。

[7] 原文「故唐去牛、李之傾軋、難於河北之藩鎮。」。牛李の闘争のほうが安史の乱の鎮定よりも収拾するのが難しかったということ。

[8] 主語は盗人

[9] 原文「此猶因而用之也。」。「因而用之」は出典がありそうだが未詳。

[10] http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE6ZdicAAZdic80327529.htm @

[11] http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic8CZdicBA17622.htm C

[12] 原文「而區區執一理與之角」。「角」が未詳。とりあえずこう訳すが、前後の文脈と合わない。「かかわりあう」ぐらいの意味か。「一理」が何を指すかも未詳。

[13] 原文「張幾嫂」。「幾」には張某の排行を表す数字が入る。

[14] 張の妻扱いしていたということ。

[15] http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicBBZdicA510712.htm 

[16] 原文「而又視若倚門婦」。http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5Zdic80Zdic9A20266.htm B

[17] http://xh.5156edu.com/html5/260919.html @

[18] 出典未詳

[19] 未詳。巻十にもでてくる。

[20] http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic93314740.htm 修行によって得られる徳、教養、能力

[21] 原文「我相未化」。未詳。

[22] 未詳

[23]乾隆十年(千七百四十五年)

[24] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic85ZdicAC43492.htm C

[25] http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic8C87718.htm C

[26] 原文「一同年目止之曰」。「目止」が未詳。とりあえずこう訳す。

[27] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5Zdic93Zdic81108667.htm  

[28] 顔回http://baike.baidu.com/view/6198.htm 曽参http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%9B%BE%E5%8F%82 

[29] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9Zdic83Zdic9142565.htm @・A

[30] 原文「惟各有品地、故我輩儒可辟汝輩僧也。」。未詳。

[31] http://baike.baidu.com/view/39171.htm#2  @

[32] http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE5Zdic84Zdic92106865.htm @

[33] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7Zdic9AZdic87307701.htm C

[34] http://baike.baidu.com/view/19257.htm 

[35] 原文同じ。未詳。父子君臣間の道徳か。

[36] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332741.htm C

[37] http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE5Zdic88ZdicA928211.htm @

[38] http://cd.kdd.cc/I/1J4/ 

[39] 未詳

[40] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5ZdicAFZdic92294107.htm A

[41] 未詳

[42] http://baike.baidu.com/view/2316300.htm#1 @ 

[43] http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBDZdicBD19799.htm @

[44] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE9ZdicA3Zdic8E69301.htm D

[45] http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE5Zdic99ZdicAD.htm音のよく響くさま

[46] http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE8Zdic99Zdic9342821.htm 

[47]巻九にもでてくる。

[48] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7Zdic90ZdicB4133791.htm A

[49] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE6Zdic96Zdic91292058.htm @

[50] http://www.zdic.net/cd/jd/17/ZdicE9ZdicBBZdic9D54456.htm @

[51] http://baike.baidu.com/view/80500.htm 

[52] http://baike.baidu.com/view/80500.htm 

[53] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE8ZdicB0ZdicA2259119.htm 

[54] http://baike.baidu.com/view/140751.htm 

[55] http://baike.baidu.com/view/470233.htm  http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E5%B0%8F%E6%A5%B7&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi 

[56]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%8C%B6%E9%99%B5&lr=&aq=f&aqi=g10&aql=&oq=&gs_rfai= 

[57]江蘇太倉直隸州

[58]王士の門人であったということ。http://baike.baidu.com/view/109981.htm 

[59] 仿元論詩絶句三十五首』

[60] http://baike.baidu.com/view/16750.html?goodTagLemma 

[61] http://zh-classical.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%94%E8%AD%B7 「去年今日此門中,人面桃花相映紅。人面祇今何處去,桃花依舊笑春風。」

[62] http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE8ZdicAEZdicA6252037.htm 

[63] http://baike.baidu.com/view/162610.html 

[64] http://baike.baidu.com/view/6082.htm 

[65] http://baike.baidu.com/view/28276.htm 

[66] http://baike.baidu.com/view/81008.htm 

[67] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic86Zdic9B237522.htm @

[68] http://baike.baidu.com/view/100464.htm 

[69] http://baike.baidu.com/view/213384.htm 

[70] 官名のようである。『清史稿』卷一百十七・火器健神機虎槍諸營「總理全營事務翼長三人、掌董帥隊伍。文案、營務、糧饟、覈對、稿案五處總理翼長七人。」注「文案、營務各二人、餘一人。」。ただ、これは文安の間違いではないだろうか。文安は直隸順天府の県名。

[71] http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE5Zdic9CZdic9F101262.htm 

[72] http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6ZdicA1Zdic83130145.htm  http://www.zdic.net/search/?q=%E6%A1%83%E6%A9%9B 桃の木杭。魔除け。

[73]乾隆三十八年。千七百七十三年。

[74]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E6%A5%8A%E6%9D%91%E3%80%80%E5%A4%A9%E6%B4%A5&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl 

[75] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE5ZdicBDZdicA931113.htm 五彩の衣服

[76] 原文「何爾乃有見也。然則爾不如我多矣。」。未詳。とりあえずこう訳す。幽霊を見るのは立派な人間ではないという大前提があるのか。

[77] http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicA7ZdicA8316759.htm 

[78] 未詳

[79] http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicB9ZdicB184674.htm @精神がぼんやりしたときにせられた遺言

[80]http://baike.baidu.com/view/2738653.htm  

[81] http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE6ZdicBCZdicA0311971.htm@

[82] http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE5ZdicB0Zdic8F320119.htm @

[83] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE6Zdic96ZdicB965605.htm @

[84]http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E9%81%93%E8%A2%8D&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi  http://baike.baidu.com/view/575150.htm 

[85] http://www.zdic.net/cd/ci/21/ZdicE9ZdicACZdic9676422.htm B

[86]巻一・十八にもでてくる。

[87] http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7Zdic96Zdic8F193578.htm  http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicA0Zdic82327582.htm A同姓で嫡流でないもの。

[88] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8ZdicA1ZdicA86929.htm 姓の違ういとこの子。ここの部分、原文「先生於余為疏從表姪」だが、「疏從表姪」が未詳。とりあえずこう訳す。

[89]直隸河間府の県名。

[90] http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic88Zdic9A73679.htm 

[91] 巻九にも出。

[92] http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE6Zdic98Zdic9F.htm  名K

[93] 巻十七にも出。

[94] http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicA4ZdicBE225822.htm @

[95] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE6Zdic9FZdic8F310557.htm B

[96] http://baike.baidu.com/view/429224.htm 原文「中鑿圓孔如盂大」。「如盂大」とはどのくらいの大きさなのかが未詳。

[97] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicBBZdic8E117410.htm 

[98] http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic8BZdicBC321460.htm 

[99] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB8Zdic8D6610.htm A

[100] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9Zdic87Zdic8E307564.htm @

[101] 未詳。巻四にもでてくる。

[102] http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE5Zdic91ZdicA6.htm @

[103] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E181616.htm @

[104] http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicA4ZdicBE225822.htm @

[105]竹汀のいったこと。

[106] 未詳

[107]乾隆十二年(千七百四十七年)

[108] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E175237.htm @

[109] http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicA6Zdic84184589.htm @

[110] 未詳

[111] 巻十二にも出。

[112] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7ZdicBCZdic96205082.htm 

[113]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E5%B0%91%E5%A9%A6+%E7%99%BB%E6%A8%93+%E7%8E%8B%E6%98%8C%E9%BD%A1+%E9%96%A8%E6%80%A8&btnG=Google+%E6%90%9C%E7%B4%A2&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai= 閨中の怨女、ここではみずからの妻女のことであろう

[114] http://www.eduwx.com/wangkanxuancui/shige/sc/200510/20051006110340.html 

[115] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5ZdicA5Zdic91100619.htm 

[116] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE6Zdic97ZdicAC79976.htm A

[117] http://baike.baidu.com/view/757963.htm 

[118] 主語は「某官の眷属」と解す。

[119] こちらの主語は自分たち。

[120] 原文「家事托幾房幾兄代治」。「幾房」の「幾」には大家族の中での世帯の番号、「幾兄」の「幾」にはその世帯の中でのうまれた順番が入るのであろう。

[121] http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic89ZdicA7105869.htm 

[122] http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic9188528.htm @。ここで言いたいことは、「あなたの妾にしてやりなさい」ということ。

[123] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6Zdic83ZdicA831274.htm @

[124] 主語は自分や妻たちか董無念か未詳。ただ、いずれの解釈も成り立つ。

[125] http://baike.baidu.com/view/363295.htm @

[126] http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE8Zdic90ZdicA5224837.htm 

[127] 原文「歸吾妻子」。「故郷に送り返した」ということであろう。

[128] http://cd.kdd.cc/A/72P/ @

[129] http://cy.5156edu.com/html4/14633.html 

[130] http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicBBZdicB5334829.htm @

[131] http://baike.baidu.com/view/546575.htm C

[132] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE7Zdic89Zdic9B221418.htm A 

[133] 原文「則無復牛衣銀河之恨矣。」。「牛衣銀河」が未詳。「牛衣夜哭」に同じいか。   http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE7Zdic89Zdic9B11357.htm 

[134] http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE7ZdicBCZdicA994945.htm 

[135]直隸天津府南皮の鎮名。光緒九年『畿輔通志』巻六十八参照。

[136]未詳だが、运粮船であろう。

[137] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA996952.htm 

[138] 直隷天津府の県名。

[139] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5Zdic91ZdicBD112956.htm @A

[140] http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8Zdic83ZdicB6156100.htm 

[141] 未詳

[142] http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBEZdic8D19224.htm E

[143] http://baike.baidu.com/view/199208.htm 

[144] http://www.zdic.net/cd/jd/18/ZdicE7Zdic92ZdicA7143583.htm @

[145] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA7Zdic8B180899.htm 

[146] 本来、金代北京の正南にあった城門名だが、清代はその付近に相当する右安門を指した。http://baike.baidu.com/view/1729392.html 

http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&source=hp&q=%E5%8F%B3%E5%AE%89%E9%96%80&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl 

[147] 原文「於意亦良得」。未詳。とりあえずこう訳す。

[148] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic9EZdic9C294058.htm 

[149]原文「然益以美人之貽」。未詳。とりあえずこう訳す。

[150] 原文「拭目以待佳遇」。http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic8BZdicAD150090.htm 

[151] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic89ZdicBF34103.htm  @Ahttp://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E6%89%BF%E5%A1%B5&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi 

[152]直隷天津府の鎮名。

[153] http://baike.baidu.com/view/328328.htm 

[154] 原文「善藏其用」。出典がありそうだが未詳。  

[155] 原文「善遁於」。未詳。「何もしていないようにみずからを韜晦し」といった方向か。

[156] 原文「善留其不盡」。未詳。とりあえずこう訳す。

[157] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE8Zdic80Zdic81184411.htm @

[158]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&lr=&ei=sY-gTKTVEsit4Qa1_oWkDQ&q=%E6%AD%A3%E9%99%BD%E9%96%80%E3%80%80%E7%93%9C%E5%AD%90%E5%BA%97&start=10&sa=N 

[159] http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%AD%A3%E9%98%B3%E9%97%A8  http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E6%AD%A3%E9%99%BD%E9%96%80&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi 

[160] 羅聃絵http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E7%BD%97%E8%81%83%E7%BB%98&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai= 

[161] 巻二参照http://yuzhi68.web.fc2.com/yw02.htm 

[162] http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE9Zdic80Zdic9A46791.htm A

[163] 未詳

[164] http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA5ZdicB3286316.htm 

[165]http://www.hudong.com/wiki/%E7%97%B0%E8%BF%B7%E5%BF%83%E7%AA%8D#5  

[166] http://baike.baidu.com/view/137983.htm#2 

[167] 原文「至云魂歸後衣皆重著、尤為誕謾」。http://baike.baidu.com/view/137983.htm#2 『離魂記』「室中女、喜而起、饰妆更衣、笑而不、出与相迎、翕然而合一体、其衣裳皆重。

[168] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5ZdicAEZdicA237600.htm 

[169] http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE4ZdicB8Zdic8D2472.htm 

[170] 「田」と「填」はtiánで同音。

[171] http://baike.baidu.com/view/80026.htm 

[172] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7ZdicBCZdic96205082.htm 

[173]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&q=%E5%8C%97%E5%80%89+%E6%B2%B3%E5%8C%97&fb=1&hq=%E5%8C%97%E5%80%89&hnear=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81&cid=0,0,15682986863025970480&ei=oRmhTObmAoa04Qb3vNDXCg&sa=X&oi=local_result&ct=image&resnum=1&ved=0CAcQnwIwAA 

[174] http://baike.baidu.com/view/1024073.htm  http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E6%9D%A8%E6%9F%B3%E9%9D%92%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl 

[175] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE6ZdicB7ZdicBC13651.htm 

[176] 原文「實不忍別抱琵琶」。http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE5Zdic88ZdicAB2915.htm 

[177] http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE5ZdicA4ZdicA728745.htm @

[178] http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE8ZdicA1ZdicBE233372.htm @

[179]『孟子』告子下http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E4%B8%8D%E6%8F%A3%E5%85%B6%E6%9C%AC%E8%80%8C%E9%BD%8A%E5%85%B6%E6%9C%AB 

[180] http://www.wcai.net/couplet/qinglian300/006.htm 陳鍔。乾隆四年進士http://zh.wikipedia.org/zh-cn/Template:%E4%B9%BE%E9%9A%86%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E5%B7%B1%E6%9C%AA%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C 

[181] http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9A286628.htm 

[182] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE6ZdicB4Zdic9B1315.htm 

[183] http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic98Zdic92278896.htm 

[184] http://www.zdic.net/cd/jd/17/ZdicE8ZdicA5Zdic95228091.htm  http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E8%A5%B4%E8%A1%AB&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi 

[185] http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE6ZdicBFZdic80218864.htm 

[186] 未詳だが、『性理大全』など、程朱理学の書物であろう。

[187] 原文「徒見君案上有性理、故敢以此策進。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[188]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE9Zdic81Zdic9331684.htm D

[189]安徽寧國府の県名。

[190] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE5Zdic81Zdic83305016.htm @

[191] http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE5Zdic98ZdicA4116306.htm D

[192] 巻五にも出。

[193] 原文同じ。未詳。「虎邱」は蘇州の虎邱か。「泥孩」は泥人形であろう。「牀」は数量詞か。

[194]直隸河間府。

[195] 未詳

[196] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicBFZdic83302233.htm @A

[197] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic9EZdicA3136754.htm @A http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E6%A3%97%E4%BB%81&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi 

[198] http://baike.baidu.com/view/43761.htm  http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E9%81%A0%E5%BF%97&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi 

[199] http://baike.baidu.com/view/212883.htm 

[200] http://baike.baidu.com/view/72030.htm  http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E7%99%BD%E6%9C%AE&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi 

[201] http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicACZdic94232842.htm 

[202] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB9ZdicA6283849.htm 

[203] http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic9BZdic8E5389.htm 

[204]乾隆元年。千七百三十六年

[205] http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE6Zdic9CZdicAC18759.htm A

[206] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic90Zdic8C327807.htm 

[207] 原文同じ。未詳。答案査読の際のメモ書きか。

[208] 「筆酣墨飽、書味盎然」

[209] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA7Zdic91227549.htm A

[210] 未詳。巻十三にも出てくる。

[211] http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE6Zdic89ZdicB984569.htm 

[212] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE9Zdic94Zdic80275823.htm @

[213] 原文「冤家債主、解釋須在本人、神不違也。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[214] 未詳

[215] http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5ZdicA8ZdicA3131666.htm A

[216] http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE8ZdicA7ZdicA3248588.htm B

[217] http://www.millionbook.net/gd/l/lifang/tpgj/421.htm 梁武后。ただし、化したのは毒龍。

[218] http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicB0Zdic81315709.htm 

[219] http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE9Zdic98ZdicBF268832.htm 

[220] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9ZdicBBZdic84316512.htm A

[221] 原文同じ。未詳。坐化に同じか。

[222] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD291768.htm @

[223] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD21083.htm 

[224] http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9616562.htm 

[225] http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9616400.htm 

[226] http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicAEZdic97116025.htm @

[227] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE6Zdic94ZdicAF78409.htm @

[228] 『礼記』

[229] http://baike.baidu.com/view/1289296.htm 

[230] http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8Zdic8CZdic95165892.htm 

[231]http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E7%B8%A3%E8%B3%81%E7%88%B6 

[232] http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE6ZdicAEZdic87.htm 名B

[233]http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=3925&if=gb&searchu=%E6%B1%AA%E9%8C%A1 

[234] 原文「禮以義起,遂不可廢。凡支子之無後者,亦遂沿為例不可廢,而家庭之難,即往往由是作焉。」。未詳。

[235] http://baike.baidu.com/view/143641.htm 

[236]山東東昌府

[237] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicAEZdic97120138.htm @

[238] 千七百五十九年、乾隆二十四年。

[239] 江西饒州府の県名。

[240] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic90Zdic8C327807.htm 

[241] 原文「卷未入時」。未詳。とりあえずこう訳す。

[242] http://baike.baidu.com/view/22780.htm 

[243] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic9EZdic9785183.htm @

[244]成公知瓊、杜蘭香http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%90%9C%E7%A5%9E%E8%A8%98/%E7%AC%AC01%E5%8D%B7   

[245] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE7ZdicBAZdicA8205980.htm 

[246] http://www.zdic.net/cd/jd/17/ZdicE7ZdicBFZdicB3205776.htm @

[247]山西大同府の県名。

[248] 中書は官名。http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD304364.htm 宋瑞http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E5%AE%8B%E7%91%9E%E3%80%80%E6%B8%85%E4%BB%A3%E3%80%80%E5%A4%A7%E5%90%8C&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai= 

[249] http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE6Zdic89ZdicB6315773.htm 

[250] 未詳

[251] 千七百五十五年。乾隆二十年。

[252] http://baike.baidu.com/view/37642.htm 

[253] http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE5ZdicA4ZdicA795599.htm B

[254] http://baike.baidu.com/view/14715.htm 

[255] 原文「亦漫應之」。「小李陵」といわれて返事していたということ。

[256]乾隆三十四年 (千七百六十九)とその翌年。

[257] http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE5ZdicA4ZdicA795599.htm B

[258] http://baike.baidu.com/view/64498.htm 

[259] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA9107237.htm B

[260] http://baike.baidu.com/view/59512.htm 

[261] 未詳

[262]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE8ZdicA7Zdic82242709.htm 

http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6ZdicA2Zdic85132494.htm http://baike.baidu.com/view/145158.htm 

[263] http://baike.baidu.com/view/742777.htm 

[264] 原文「凡密奏、當焚草也。」。「焚草」は奏稿を焼き捨てること。http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7Zdic84Zdic9A164624.htm A

[265] http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic90ZdicB9309831.htm F

[266] http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic83Zdic8E51024.htm @

[267] 原文「將來尚有熱時、但熱又占與前同耳。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[268]巻六・十一・十三・二十一・二十四に見える。

[269] http://www.hudong.com/wiki/%E9%95%BF%E6%A4%BF%E5%AF%BA 

[270] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE6ZdicB0ZdicB4298637.htm 

[271] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9ZdicBAZdicBB73173.htm 

[272] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5ZdicA4Zdic9A62696.htm A

[273] http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE6ZdicB2ZdicA7287629.htm @http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE6ZdicB2ZdicA759394.htm 

[274] http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE5ZdicA5ZdicB3307377.htm 

[275] http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicB8Zdic94220096.htm 

[276] http://www.zdic.net/cd/jd/19/ZdicE8Zdic9FZdicB9231778.htm 

[277] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE8Zdic8DZdicA1204392.htm A

[278] 未詳だが、売春であろう。

[279] http://baike.baidu.com/view/26550.htm 朱家、郭解いずれも漢代の侠客。

[280] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicBBZdic8E32735.htm 

[281] http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE5ZdicADZdic9D320217.htm A

[282] 未詳。巻十六にも出てくる。

[283] http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE4ZdicB9Zdic988727.htm E

[284] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicB1Zdic85315383.htm C

[285] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicB0ZdicB9126605.htm 

[286] http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5ZdicA8Zdic89334000.htm 美人

[287] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9ZdicBAZdicBB73173.htm 

[288] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicB7ZdicA810263.htm @

[289] 未詳

[290]直隸河間府の県名。

[291] 一族が薦めた女

[292] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic87ZdicB6100359.htm 

[293] 未詳。巻一・九・十一にもでてくる。

[294] 未詳だが、覆いのついた橋であろう。

[295] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic86Zdic9B209289.htm 

[296] http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7Zdic90Zdic85133761.htm 

[297] http://baike.baidu.com/view/162472.htm#4 

[298] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE7ZdicBBZdic8F229701.htm @

[299]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE6Zdic8CZdic81150517.htm http://www.google.co.jp/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8ZdicAFZdicB5256158.htm&sa=U&ei=O9BGTOPwApC-cZTskI8B&ved=0CBAQFjAC&usg=AFQjCNEMaVOTbxgeuykJJF3CtvDoRu_E9Q 

[300] 未詳だが、因によってもたらされる禍福のことであろう。

[301] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD291758.htm 

[302] http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic891557.htm 

[303] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7ZdicBCZdic8138159.htm 

[304] 直隸順天府の県名。

[305] http://baike.baidu.com/view/459912.htm 

[306] 紀ホの正妻

[307] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6Zdic82ZdicA0316709.htm D

[308] http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicAEZdic97311453.htm @

[309] http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6Zdic97Zdic8C172790.htm 

[310] http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic8FZdicB0214349.htm 三公らの宰大臣

[311] 未詳だが、礼部であろう。

[312] http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE6Zdic96Zdic87218908.htm @

[313] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE6ZdicA3Zdic98144492.htm A

http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE6ZdicA3Zdic98288673.htm @

[314] 未詳だが、答案のことであろう。

[315] http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic97240073.htm A

[316] http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6ZdicB5Zdic81312630.htm A

[317] http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE9Zdic81Zdic97275949.htm B

[318]原文「豈余能為而不為歟」。「能為而不為」は典故がありそうだが未詳。とりあえずこう訳す。http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%83%BD%E7%82%BA%E8%80%8C%E4%B8%8D%E7%82%BA&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai= 

[319] http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5ZdicB9ZdicBD118446.htm 

[320] 未詳だが、細かい記録ということであろう。

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