石洲はさらに言った。ある書生の家に園亭があり、雨の夜にひとり坐していた。たちまち一人の娘が簾を掲げて入ってき、みずから家は塀の外にあり、宋を窺うことすでに久しく、今、雨を冒して近づいてきたと言った。書生は言った。「雨はこのように激しいのに、衣や履が濡れていないのは、どうしてか。」。女は言葉に詰まり、みずから狐であることを認めた。そこで尋ねた。「こちらには少年が多いのに、どうしてわたしにだけ近づく。」「前縁があるからでございます。」「その縁は誰が記載した。誰が所管していた。さらに誰がおまえに告げたのだ。おまえは前生ではどんな人だったのだ。わたしは前生でどんな人間だったのだ。縁を結んだのはどうしてだ。いつの時代いずれの年だ。その詳細を語ってくれ。」。狐はにわかに答えられず、しばらくもじもじすると、言った。「あなたは千百日こちらに坐しませんでしたが、今ちょうどこちらに坐されました。わたしは千百人を見て喜びませんでしたが、あなただけを見て喜びました。これが前縁であることは明らかですから、どうか拒まないでください。」。書生は言った。「前縁がある者はかならず喜ぶ。わたしはまさにこちらに坐し、おまえがみずから来ているのに、わたしは漠然[i]として心が動かず、縁がないことは明らかだから、どうか留まらないでくれ。」。女がもじもじしていると、窓の外で叫ぶのが聞こえた。「物分りの悪い娘だ。この朴念仁を求めることはない。」。娘は袖を挙げて一揮いすると、燈を消して去った。ある人が言った。「これは湯文正公[ii]が少年のときの事だ。」。わたしは思った。「狐魅はどうして湯公に近づこうとしたのか。きっとかつてこの事があり、公にこじつけたのだ。」。
烏魯木斉には野牛が多く、通常の牛のようだが高く大きく、千百頭が群れをなし、角は鋭く、矛矟[iii]のようである。かれらがゆくときは、強壮のものが前におり、弱小のものは後にいた。前から撃てば、突進し、銃砲でも防げず、百錬の健卒[iv]でも、列をなして囲むことはできなかった。後ろから打てば、まったくかえりみなかった。中で一頭のもっとも大きいものを推しいただき、蜂に王があるかのように、ついて行動していた。かつて一頭のかしらになる者が、足を滑らせて深い澗に落ちると、牛たちはみな従って跳びこみ、重なって死んだ。さらに野騾野馬も、隊をなして行動するが、凶暴な野牛とは違い、人を見るとかならず逃げた。その姿はまったくの騾馬、まったくの馬であったが、鞍や勒を被せれば、伏して起きなかった。しかし時に背に鞍花をおびる者(鞍が磨れて傷われた処は、創が癒えれば毛が白色になり、鞍花という。)がおり、さらに蹄鉄を嵌められた者があり、ある人は山神の乗りものと言っていたが、そのわけは分からなかった。しばらくして家で飼われていた騾馬が山中に逃げ込み、しばらくして野生動物と化し、かれらとともに群れているだけだということを知った。騾馬は肉が肥えて柔らかく美味であるが、馬は食らった者は見たことがない。さらに野羊がおり、『漢書・西域伝』にいう、羱羊であるが、食らうと、通常の羊と異ならなかった。さらに野豚がおり、凶暴さは野牛につぎ、毛や革はいたって硬く、槍や矢も入られず、その牙は利刃よりも鋭く、馬の足に触れるとみな真ん中で断たれた。吉木薩の山中に老いた豚がおり、その大きさは牛のよう、人が近づくとかならず傷つけられた。つねにその族数百頭を率い、夜に出て穀物を荒らした。参領[v]額爾赫図[vi]は七匹の犬を牽き、山に入って猟し、にわかに豚に遇ったが、七匹の犬はたちまち食らわれ、さらに歯を剥いて人に向かってきた。馬に鞭うち、狂奔し、免れた。わたしはうとする木を立てて柵にし、大砲をその中に隠し、かれが出るのを伺って撃とうとした。ある人が言った。「撃って中らなければ、かれの牙は朽木を引くかのように柵を抜き、柵の中の人が危うくなろう。」。わたしはやめた。さらに野駝があり、一つの瘤があるだけで、臠にするときわめて美味、杜甫の『麗人行』[vii]にいう「紫駝の峰は翠釜[viii]に出づ。」とは、これを指しているはずである。今人は双峰の駝を八珍[ix]の一つとしているが、真実を失っている。
景城の北に、横岡坡陀[x]があり、形家[xi]はわが家の先祖の墓の来龍[xii]であるといった。その地は姜家に属していたが、明末、姜家はわが一族が盛んであることを妬み、真武祠[xiii]を上に建て、厭勝[xiv]した。崇禎壬午[xv]に、兵火があったが、わたしの家は糸のように絶えなかった。後に祠はだんだん崩れ、わが一族はだんだん栄え、祠がすっかり崩れるとさらに盛んになった。その地は、今は従侄[xvi]の信夫に売られている。当時、郷中の古老はすでに稀となり、旧事は知れなかったので、誤って土神祠を上に建てたところ、またすこし安らかでなくなった。わたしはそれを知り、いそいで信夫に遷すように頼むと、はじめて安らかになった。相地[xvii]の説は、ある人はあるといい、ある人はないという。思うに劉向が校書[xviii]したとき、すでにこの術を一家に列ねているので、まったくないと思うことがどうしてできよう。ただ、地師[xix]の学問は絶対に精密でないし、あるものはそれによって不当な利を得るので、もっとも拠りどころとするに足りず、ふかく信ずるべきでないのである。そのはっきりとして験があるものは、もとより嘘ではない。
『象経』[xx]ははじめて『庾開府集』に見えるが、言っていることは今の仕方と合っていない。『太平広記』に棋子が怪になる事を載せており[xxi]、言っていることは今の仕方にやや近いが、やはり同じではない。北人にはこの遊びをすることを好み、耽って寝食を忘れている者もいる。景城[xxii]の真武祠[xxiii]が崩れる前、中の一人の道士がひどくこれを好んでいたので、みなはかれを「棋道士」と呼び、そのもともとの姓名はかえって隠れてしまった。ある日、従兄方洲[xxiv]が家に入ったところ、几の上に一局が置かれているのを見たが、三十一の駒があるだけであった。外出しているのかと疑い、坐して待った。するとたちまち窓の外で喘ぎ声が聞こえ、見ると、二人が四本の手で掴みあい、ともに一つの駒を奪い、力が尽きてともに倒れているのであった。愛好はここにまでいたるのである。南方人は囲碁を嗜むことが多いが、すこぶる時間を浪費して事を誤る者がいる。従兄坦居がいうには、丁卯の郷試で、試験場に二人の士人がおり、号板[xxv]に画して棋局にし、砕けた炭を拾って黒の駒にし、砕けた石灰の塊を削って白の駒にし、対局して止めず、いずれも白紙の答案を出して出た。そもそも暇つぶしするならば、もとよりときたますることを妨げないが、これによって得失喜怒を生ずるならば、必要ないとしてよい。東坡の詩にいう。「勝てばもとより欣然として、敗るるもよろこばし[xxvi]。」。荊公の詩にいう。「戦ひ罷めば両奩に白黒を収め、一枰[xxvii]いづこにか虧成[xxviii]ある[xxix]。」。二公はいずれも勝とうとする心があった者であり、かれらの半生を辿ると、みずからはその言葉を践めていないが、その言葉は深く考えることができる。辛卯の冬、「八仙[xxx]対弈図」に題することを求める者がおり、絵では韓湘[xxxi]、何仙姑[xxxii]が対局し、五仙が傍らで見、鉄拐李[xxxiii]が一つの瓢箪に枕して眠っていた。わたしは題した。「十八年来宦途を閲し、この心久しく水中の鳧のごとし。いかんぞわづかに春明[xxxiv]の路を踏み、また仙人の対弈図を見る。」。「局中局外両つながらに沈吟し、なほこれ人間の勝負の心のごとし。なんぞ似ん頑仙[xxxv]の痴にして省みざるに、春風蝴蝶睡郷深し。」。今は老い、みずからの半生を辿ると、やはりこの言葉を践めていないが、そもそも言うは易いのである。
明の天啓年間、西洋人艾儒略[xxxvi]が『西学凡』一巻を作った。話では、その国の建学育才の法は、およそ六科に分かれているという。勒鐸理加は、文科、斐録所費唖は、理科、黙弟済納は、医科、勒斯義は、法科、加諾溺斯は、教科[xxxvii]、陡禄日亜[xxxviii]は、道科[xxxix]である。その教授にはそれぞれ順序があり、おおむね文から理に入り、理が根幹となる。文科は中国の小学[xl]のようなもの、理科は中国の大学[xli]のようなもの、医科、法科、教科はいずれもその事業[xlii]、道科はかれらの法の中でいう、尽性至命[xliii]の極みである。かれらが力を尽くすことも、格物窮理[xliv]を要とし、明体達用[xlv]を功とし、儒学と順序がやや似ているが、究めるものはいずれも器数[xlvi]の末で、窮める理も支離怪誕ではかりしれず、これが異学であるとする所以である。末尾に『唐碑』[xlvii]一篇を附し、その教えが中国に入って久しいことを明らかにしている。碑は、貞観十二年、大秦国の阿羅木遠[xlviii]が経像[xlix]を献じにき、義寧坊に大秦寺一か所を勅造し、僧二十一人を度した云々と称している。『西溪叢語』[l]を調べると、貞観五年、伝道する穆護[li]の何禄が、祆教のことを参内して奏聞した。勅令によって長安崇化坊に祆寺を立て、大秦寺[lii]と号し、さらに波斯寺と名づけた。天宝四年七月に、勅していった。波斯経教は、大秦から出、伝習されてき、久しく中国に行われている。ここにはじめて寺を建て、ちなんで名とし、人に示そうとし、かならずその本源に従い、両京[liii]の波斯寺は、どちらも大秦寺と改めるべきである。天下の諸州県にはこれに従うものがあった。『冊府元亀』[liv]に、「開元七年、吐火羅[lv]の鬼王[lvi]が上表して天文を解する人大慕闍[lvii]を献じましたが、智慧は幽深であり、尋ねれば知らないことはございません。伏して乞うらくは、天恩により呼び寄せて教義をお尋ねになり、その人にかような能力があることを知られますよう。なにとぞ法堂[lviii]を設け、本教[lix]に従って世話されますよう。」と載せている。段成式[lx]の『酉陽雑俎』[lxi]に載せているが、孝億国[lxii]界三千余里は、民を挙げて祆教を信奉し、仏法を知らなかった。祆祠は三千余か所あった。さらに載せているが[lxiii]、徳建国の烏滸河中[lxiv]に火祆祠があり、その神はもともと波斯国から来たと伝えられている。祠の中に像はなく、大きな建物の下に西向きの小屋を作り、人は東に向かって神を拝した。一つの銅馬があり、国の人は天から下ったと言っていた。この幾つかの説に拠れば、「西洋人」とは波斯のことであり、「天主」とは祆神のことである。中国にはつぶさに記載があり、この碑だけでない。さらに杜預は『左伝』「次睢の社[lxv]」に注して「睢汴を受け、東のかた陳留を経、これ譙彭城泗に入る。この水次に祆神あり、みな社もて之を祠る。」という。顧野王[lxvi]の『玉篇』[lxvii]にも「祆」の字があり、音は阿憐の切で、祅神であると注している。徐鉉[lxviii]はこれに拠って増して『説文』に入れている[lxix]。宋敏求[lxx]の『東京記』が載せているが、寧遠坊に祆神廟があり、こう注している。「『四夷朝貢図』にいう。『康国[lxxi]に神があり祆畢といい、国に火祆祠があり、あるいは石勒の時にこれを立てたと伝えられている。』。」これは祆教がきてすでに久しく、唐に始まったのではないということである。岳珂[lxxii]の『桯史』[lxxiii]は番禺の海獠のことを記すが[lxxiv]、そのもっとも勢いのあるものは白番人と号し、もともと占城[lxxv]の貴人で、中国に留まって、行き来する貨物を通じ、邸宅は奢侈で度を超えている。習性として幽鬼を尚び、清潔を好み、平居[lxxvi]すること終日、ともに膜拝[lxxvii]祈福[lxxviii]した。堂があってそれを祀っていたが、中国の仏のようで、本当に像設[lxxix]がなく、聱牙[lxxx]と称していた。知ることができるものもおらず、何の神なのか分からなかった。碑があり、高さは数丈で、上にはすべて奇妙な書[lxxxi]を刻してあり、篆籀[lxxxii]のよう、これが像主[lxxxiii]で、拝する者はみなこれに向かっていた。祆教は宋の末年になっても、なお商船によって広州に達していた。利瑪竇[lxxxiv]がはじめて来たとき、古今未曾有であると驚かれた[lxxxv]。艾儒略は唐碑を引いてみずからを証明したが、それが祆教であることはもはや疑義がない。当時は、古い事を引いて、源流を明らかにするものが一人もいなかった。そもそも明は万暦以後、儒者は若年で八比[lxxxvi]を習い、晩年に心学[lxxxvii]を講じて、一生の才能を尽くし、証実[lxxxviii]の学はまったく廃れていたのである。
田氏の姉が言った。趙荘のある佃戸は、夫婦してたいへん仲が良かった。ある日、妻は夫に愛人がいることを仄聞したが、確かでなかった。妻はもともと柔順であったので、さほど怒らず、ただ戯れてその夫に語った。「あなたがわたしを愛さないでその人を愛すれば、わたしは縊れましょう。」。翌日、畑に食事を運んだとき、幽鬼を見られる巫に遇ったが、巫は見て驚いた。「あなたの背後に縊鬼がいるのは、どうしてですか。」。そこで一言の戯れを、幽鬼がすでに聞いたことを知った。そもそも横死した者はかならず代わりを求めるが、陰律[lxxxix]が何に基づいているのか分からない[xc]。かれが命を軽んじたことを憎み、すぐに転輪[xci]に入られないようにし、さらに世の人にそのことを聞かせ、命を軽んじようとせぬようにさせているのだろうか。しかし、幽鬼はそれを見て慣れているともいうし[xcii]、縊鬼のなかに人を誘って自殺させるものがいると聞く。そのため、天下に弊害のない法はなく、神もどうしようもないのである。
戈荔田[xciii]が言った。妻が姑に苛められ、自縊して死んだ。その部屋は荒れて住むものがいなくなったので、什物を貯えていた。後にその翁は一人の妾を納めたが、姑よりもさらに凶悪で、翁も愛してひそかにかれを助けた。家人はかれが敵に遇うことを喜び、やはりひそかに助けた。姑は追い詰められてなすすべがなくなり、やはり憂えて自縊しようとしたが、家に人気のいない場所がなかったので、ひそかにこの室に到った。鍵を開くと、妻がざんばら髪で舌を吐き、戸のところに立っているのが見えた。姑はもともと強暴であったので、まったく恐れず、ただ語った。「祟るな。今からおまえに命を返そう。」。妻は答えず、すぐに進んでぶつかった。陰風は颯然として、たちまち昏倒した。まもなく家人が探し当て、救って蘇らせると、みずから見たことを語り、人々が慰めたので、死なないですんだ。夜に妻を夢みると、妻は言った。「おかあさまが亡くなれば、わたしは代わりになることができましょうが、嫁が姑に仇する理はございません。特に、姑を代りにする理はございませんので、だからおかあさまを拒んでかえらせたのでございます。幽室に沈み、寂しさ苦しさはさまざまでございます。おかあさまにはどうかこの轍を踏まれませぬよう。」。姑は哭いて目ざめ、恥じ悔いてじっとしていられず、大いに僧徒を集め、法事をしてやること七日であった。戈傅斎は言った。「この妻、この思いならば、おのずと天に昇るに足り、追善することを煩わさない。」。この言葉はほんとうに正しい。しかし傅斎、荔田がいずれもかれの姓氏を言おうとしないのは、残念である。
姚安公が言った。霸州に老儒があり、古樸な君子で、村中が祭酒[xciv]に推していた。家でにわかに狐が祟り、老儒が家にいれば寂然としているが、老儒が出れば窓や扉を揺らし、器物を壊し、汚穢を擲ち、あらゆることをした。老儒はそのため外出しようとせず、戸を閉ざし、自省していた。時に霸州[xcv]の諸生が河工[xcvi]の事を州牧[xcvii]に訴え、学宮[xcviii]で会うことを約し、老儒を訴状の冒頭に列ねようとした。老儒は狐の祟りのために来ず、別に王生を推した。その後、王生は人々を集めて官に抗ったことによって処刑され、老儒は免れることができた。この事件が起こると狐は去ったので、老儒が行くのを阻んでくれていたことを知った。ゆえに小人には幸運はなく、小人で幸運があると、天はその害毒を厚くするのである。君子には妖しいことはなく、君子に妖しいことがあるのは、天が警告を示しているのである。
前母安太夫人の家に小さな書斎があったが、この部屋で寝る者は、真夜中に目を開くと、壁にぼんやりと炎があるのが見え、香を燃やすようなありさまで、じっくり見ればないのであった。しばらくすると光はだんだん大きくなり、人の声が聞こえ、徐徐に隠れた。数年後、じっくり見ても隠れなくなったが、壁に猿の絵を懸けてあり、光は猿の目から出ているのであった。みな言った。「この画は宝だ。」。外祖安公(諱は国維で、その字号は忘れた。今、安氏は零落してほとんど絶え、尋ねられる人がいない。)言った。「これは妖だ。どうして宝であろうか。虺のときに殺さず、蛇となったらどうする[xcix]。後日どんな怪異をなすか分からない。」。火を挙げて焚いたが、とりたてて異常はなかった。
崔媼は家が西山の中にあり、語るには、かれの隣人が深い谷で柴刈りしていると、たちまち虎が来たので、高い樹に上って避けた。虎は来ると、顔を挙げて人の言葉を話した。「こちらにいたか。わたしが分からなくなったか。わたしは今は、落ちぶれてこんな姿になっており、おまえに知られることものぞまない。」。俯いてしばらく嗚咽した。その後、爪で地を掘り、「悔いても手遅れだ。」と言い、長く叫ぶこと数声、奮然として顔を背けて去った。
楊槐亭[c]が言った。即墨[ci]の人が労山[cii]に行き、山家に宿った。住居には裏門があり、門の外には低い塀を巡らして菜園にしていた。時にすでに薄暮であったが、戸を開いて涼んでいると、塀の上に盛装した娘が見え、眉目は美しく、わずかにその顔を現し、かれに向かってかすかに笑っているようであった。じっと見ていると、塀の外で童子たちが叫んだ。「一匹の大蛇が体は樹に蟠り、首は塀の上に置いています。」。そこで蛇妖が姿を変え、誘ってかれの血を吸おうとしていることを知った。あたふたと戸を閉ざしたところ、いつのまにか去っていったが、もし近づいていれば危うかった。
琴工銭生(銭生はかつて裘文達公の家の食客となり、日々親しんでいたが、名前と郷里を尋ねるのを忘れた。)が言った。その郷里のある人は家がひどく貧しく、傭作[ciii]で得たものすべてをその寡婦である嫂に与え、嫂は節を全うして死んだ。ある日、燭下で紵の糸を撚っていたところ、窓の隙間に人の顔が見えたが、小さくて銅銭のようで、目は炯炯として中を見ていた。いそいで手を伸ばして捕らえると、玉でできた子供で、長さは四寸ばかり、作りは巧緻で、土に蝕まれて斑然[civ]としていた。辺鄙な土地で買う者はなく、やっと質屋から四千銭を得た。質屋では戸棚に置いておいたが、翌日なくなったので、請戻しにこられるのをひどく恐れた。この人はそれを聞くと、言った。「これはもともと怪で、わたしはたまたま捕らえたのだ。どうしてさらに人から財貨を脅しとることができよう。」。くわしく顛末を述べ、質札を還した。質屋は感動し、しばしば呼んで傭作させ、その代金を倍にして報い、折々に救済したため、人並みとなった。裘文達公[cv]は言った。「これは天が友愛に報いたのだ。そうでなければ、どうしてかれの家にあったときは消え去らず、質屋にいってはじめて消え去ったのか。気前よく質札を還したことに到っては、もっとも人情の難しとするところであるが、この人にとっては糸屑のようなものにすぎなかった。刻薄狡猾で兄弟と睦まじくする者は世におらず、兄弟と睦まじくして刻薄狡猾な者もいない。」。
王慶垞[cvi]のある媼は、つねに走無常(『灤陽消夏録』[cvii]に記す、妻を送って再婚させた幽鬼を見た者である。)となっていたが、ある富貴の家の妾が尋ねた。「わたしたちが妾になったのは、何の因果なのでしょう。」「冥府の法律では、小さな善悪は相殺しますが、大きな善悪は相殺しません。みなさまは小さな善業を積んでいらっしゃいましたので、今生で富貴の家に入れましたが、さらに悪業がございましたので、一縷の不足があるようになったのでございます。今生で善業を増せば、悪業はすでに償われ、善業が続き、来生はますますよくなりましょう。今生で悪業を増せば、善業が消え、悪業がさらに続き、来生のことも知れなくなるでしょう。しかし、善業を増すのは、香を焚き、仏を拝するということではございません。親に孝にし、正妻を敬い、家庭で睦まじくすることが本当の善業なのでございます。」。一人の妾がさらに尋ねた。「子がいるか子がいないかは、きっと前もって定まっていましょう。一度、調べ、尋ねてください、冥籍[cviii]に注されていないのでしたら、わたしはもう愚かな夢を見はしません。」「調べる必要はございません。つねに子ができる事をすれば、子がないと注せられていても、改めて子があると注せられるのでございます。つねに子がなくなる事をすれば、子ができると注せられていても、改めて子がないと注せられるのでございます。」。亡き外祖雪峰張公[cix]は、王慶垞[cx]の曹氏の婿となり、平生厳正で、もっとも六婆[cxi]を憎んでいたが、この媼だけはしばしば連れてきてともに語り、言った。「この婆さんが言っていることはいずれも本当とは限らないが、かねてから、婦女に布施して仏に媚びることを勧めていなかったから、聴くことができる。」。
翰林院供事茹某(その名を忘れたが、茹鋋であったようである。)が言った。以前、友を訪ねて邯鄲にいったが、ちょうど主人が帰っていなかったので、しばらく城隍祠に寄寓していた。たまたま瓜を売る者があり、荷物を置いて神座の前に横臥していた。糸売りの叟が祠に寓していたが、こう語った。「そのようになさいますな。神は霊威がございます。」。瓜を売る者は言った。「神がどうしてこんな破屋の中にいよう。」。叟は言った。「おわします。わたしはいつも夜起きて涼みますが、殿中で人の声がするのが聞こえましたので、抜き足してひそかに聴けば、狐が神前に訴えていました。そのあらましは、隣家で、狐が一人の少年を惑わし、死にそうな時も、なおその精を取ろうとしました。その家はたいへん憤り、猟師を潜ませ、銃と矢で攻めました。狐は驚き、姿を現して逃げました。人々が騒いでその後についてゆきますと、狐は自分の穴に入らず、一里ばかり離れた隣の穴に入りました。人々が網を穴の外に布き、火で燻しますと、穴じゅうのものはみな死にましたが、その狐は隙を見て逃れ、かれが禍を人に転嫁したことを訴えていたのでした。城隍は言いました。『かれは人を殺しておまえは禍を受けたのだから、訴えるべきだ。しかしおまえの子孫にも人を惑わしている者がいるか。』。しばらくすると、答えた。『やはりおります。』。『人を殺したことがあるか。』。さらにしばらくすると、答えた。『おるかもしれません。』。『幾人を殺したか。』。狐は答えなかった。城隍は怒り、その頬を打つように命じると、答えた。『本当は数十人でございます。』。城隍は言った。『数十人の命を奪ったのなら、数十人の命を償えば、ちょうどぴったりだ。これは怨魄が憑き、この狐に手を借りたのだ。おまえはどうして訴える。』。帳簿を調べるように命じて示すと、狐は泣いて去った。おまえは神がいないと思うか。」。そこで禍がゆえなく生じず、意外の災も、かならず齎されるゆえんがあることがわかる。事に即して事を論ずるだけでは、すべてそのわけを知ることはできない。
汪主事康谷[cxii]が言った。西湖で扶乩する者があり、降壇詩に言った。「天目[cxiii]に遊びて還り、鶴に跨り龍井[cxiv]を見る。夕陽半輪を没し、ななめに孤飛[cxv]の影を照らす。飄然として一片の雲、掠めて過ぐ千峰の頂。」。名を題していなかった。一人の客がひそかに相談した。「夕陽半輪を没し」とは、反照[cxvi]で、司馬相如のいう『倒景を凌ぐ』だ[cxvii]。どうして雲があるのにななめに照らすことができよう[cxviii]。」。乩はたちまち震え、しばらくすると怒っているかのようにし、「小児無礼なり。」と大書し、ふたたび動かなくなった。わたしは客の論はとりわけ筋が通っており、この乩仙はひどく落ち度を弁護していると思う。古に「一字の師[cxix]」がいたことを聞いていないはずはあるまい。
兪君祺[cxx]が言った。以前、姚撫軍[cxxi]の官署にいたとき、一つの小さな部屋にいた。つねに燈前月下で、眠りから醒めようとする時、人影が几の傍にぼんやりと見えたが、目を開けば見えなかった。みずから目が眩んだかと疑ったが、毎晩目が眩むはずはなかった。後に、寝た振りをして伺うと、一人の大柄な下女が、ゆっくりと壁の角から出、しばらく聞き耳をたて、やや歩みを移そうとしたが、人がすこし振り向くと、すでに縮んで入るのであった。そこで、幽魂がここにとどまって去れないこと、さらに人を恐れて近づこうとせず、心もたいへん苦しいことを悟った。そこで、かれは祟らないのだから、近づいて不安にさせる必要はなく、移って出た方がよいとひそかに考えた。そう考えただけで、ぼんやりとかれがはるかに拝するのが見えた。人の心が一たび動けば、鬼神はすべて知ることが分かる。「十目十手[cxxii]」というが、もしやそれではあるまいか。翌日、理由をつけて引っ越して出た。後にわたしの幕中に居り、事実を語り、言った。「主人[cxxiii]を驚き恐れさせようとしなかったのでございます。」。わたしは言った。「君は半生周到だったが、この幽鬼の事だけは解決していない。その後、かならず住んだ者がおり、かれの一拝は無駄になったことだろう。」。
族姪肇先が言った。以前中涵叔が旌徳[cxxiv]で役人をしていた時、地を掘って古い墓に遭遇した者があった。棺と骸はすべて灰土となっていたが、一つの心臓だけは残っており、血の色はまだ赤かったので、恐れて水に投じた。石があり、四方が一尺あまり、なお字跡を弁じられた。中涵叔は聞いて取ってみた。郷民は累をなすのを恐れ、砕いて沈め、言うことを憚ってこの事はなかったものとし、巷では誤ったことが伝えられている。中涵叔は役人を辞めた後、はじめて記録を購った。その文にいう。「白璧に瑕あり、黄泉に恥を蒙る。魂は水辺に断たれ、骨は山趾に埋めらる。我は誓詞を作り、祝りて壙底に霾む。千百年後、人有りてここを発かん。爾不貞なれば、消えて泥滓となり、爾もし怨みを含めば、心は終に死せざらん。」。末尾に「壬申三月、耕石翁第五女のために作る。」と題していた。そもそもその娘は冤罪で殺されたもので、これを墓志に代えていたのであった。心臓がなお朽ちていなかったのを見ると、冤罪を受けたのが本当であったことがわかる。しかし翁には姓名がなく、娘には夫がなく、歳月年号がないので、誰なのか分からず、その顛末を調べるすべがなかった。そこで珍事が明らかにならないのは、惜しいことである。
許文木[cxxv]が言った。康熙末年、古器を売る李鷺汀は、かれの父の友人であった。六壬[cxxvi]をよくしたが、朝起きるとひとりで一回占うだけで、人のために占おうとはしなかった。そして言った。「未来のことをたくさん漏らすのは、神が憎むことです。」。康節[cxxvii]に比する者がいると、言った。「わたしは六七分を知っているだけです。かつて占いましたところ、某日に仙人が竹の杖をついてき、酒を飲み、詩を題して去るということでございました。香を焚いて待っていますと、ある人が雕竹の純陽[cxxviii]の像を持ってきて売りましたが、酒を貯える瓢箪にななめに倚りかかっており[cxxix]、上に「朝に北海に遊ぶ[cxxx]」の一詩を刻んでいました。康節にどうしてこうした失敗がございましょうか。」。年が五十余になっても子がなく、一人の妾を養っているだけであった。ある日、許の父が訪ねていったところ、かれの妾が泣きながら、くどくどと語っているのを聞いた。「どうして人に戯れるのです。わたしを試しているのですか。」。鷺汀がつとめて弁じているのも聞こえた。「これは本当のことで、戯れではない。」。許の父が反目しているわけを尋ねると、鷺汀は言った。「事はきわめて珍しゅうございます。今日占いましたところ、二人の客が古い器を買いにくるが、一人はその前世の夫で、まだ一晩の縁があり、もう一人はその後夫で、結婚が半年以内にあるはずだ、わたしもあわせて三生が一堂に会するということでございました。わたしがこのことをかれに語りますと、かれはにわかに怒りました。運命は定まっていて変えられません。わたしは泣かないでかれは泣き、わたしは憚らないでかれは憚っておりますが、愚かな娘ではございませんか。」。半年後、鷺汀はほんとうに死に、妾はある翰林の家に売られたが、正妻に受けいれられず、一晩過ぎてすぐに追いだされた。ふたたびある中書舎人の家に売られたところ、平穏となった。
龐雪崖[cxxxi]は初婚の日、夢みてとある場所にいったところ、青い衣、高い髻の娘を見たが、傍らの男が指してこう言った。「こちらが奥さんです。」。目ざめて嫌に思った。後に殷氏と再婚したが、夢の中の人さながらであった。そのため『叢碧山房集』の中にある悼亡詩にいう、「漫ろに前因と後因を説く、眼前の業果[cxxxii]誰に定めて真なる[cxxxiii]。君と琴瑟はじめて調ふ日、怪煞す箜篌夢に入る人なるかと。」とは、この事を記している。按ずるに「箜篌夢に入る」には、およそ二つの故事があり、その一つは『仙伝拾遺』[cxxxiv]に載せる薛肇が陸長源の娘を崔宇に会わせたこと[cxxxv]、もう一つは『逸史』に載せる盧二舅が柳氏の娘を李生に会わせたことである[cxxxvi]。いずれも人の未婚の妻をうたいめにしてお酌させているのは、とりわけひどいことである。近時聞けば、呂道士等も、この術(話は『灤陽消夏録』に詳しい[cxxxvii]。)を知っていたそうである。
葉旅亭[cxxxviii]が言った。かれの祖父は劉石渠[cxxxix]に会ったことがあった。ある日、夜に飲んでいたところ、ある親友が仙女を召すように逼った。石渠は一室を掃除し、戸に竹の簾を懸け、双つの炬を几で燃やすように命じた。人々がみな席を移して中庭に坐すると、ひとり禹歩して呪文を誦え、界尺を取り、案を打つと、簾の中にほんとうに一人の娘が亭亭として立っていた。友が見ると、その妾であったので、奮いたって殴ろうとした。石渠はいそいで界尺を打つと、炎は蜿蜒として電のよう、すでに簾を穿って去っていた。石渠は笑って友に語った。「交際すること二十年、どうして本当に君の妾で戯れることがあろう。さきほどは女狐を捕らえ、姿を変えさせ、君を怒らせ、なぐさみにしたのだ。」。友がいそいで帰ってみると、妾は刺繍して止めていなかった。このような戯れは、ほとんど不即不離の間にある[cxl]。わたしはそこで李少君[cxli]が李夫人[cxlii]をいたしたとき、ただ遠くから見させて、近づかせなかったが、これも精魅を召し、幻をなさせたのであろうと思う。
費長房は百鬼を祓ったが、後にその符を失い、幽鬼に殺された。明崇儼[cxliii]が亡くなったとき、胸に刃が刺さっていたが、理由がわからなかった。人も幽鬼をひどく使役したので、幽鬼に刺されたのだと言った。術を恃む者が結局術で敗れるということは、そもそも多くある。劉香畹は言った。ある僧は禁呪をよくしていたが、狐に誘われて曠野にゆくと、千百が群れをなし、叫び、打ち、噬った。僧は金杵[cxliv]を回し、人の姿の一匹の老狐を撃ち倒し、囲みを崩して出た。後に途で遇うと、老狐は地に投じて膜拝[cxlv]した。「以前、殺さないでいただきましたので、深くみずからを懺悔しておりました。今は帰依して五戒を受けることを願います。」。僧がその頭頂を摩ろうとすると、たちまち一物を擲って僧の顔を掩い、姿を隠して去った。その物は帛でもなければ革でもなく、色は琥珀のよう、黏漆のよう、牢として脱せられず、目が眩んで我慢できなかった。人に命じて力を奮って剥がさせれば、顔の皮はすっかり剥がれ、痛くて気絶し、死にそうになった。後に痂が落ちたが、もはや人の姿ではなかった。さらに一人の遊行僧は、門に「駆狐」という看板を出していた。やはり狐が誘いにきたが、僧は魅だと悟り、鈴を揺らして梵呪を誦えた。狐は驚いて逃れた。一ヶ月後に媼が門を叩き、家が墓地に近く、毎日狐に騒がれているので、いって祓ってくれと言った。僧が小さな鏡を出して照らすと、あきらかに人であったので、ついていった。媼は導いて堤の畔にゆくと、たちまちかれの書嚢[cxlvi]を奪って河に擲ち、符籙法物[cxlvii]は、すべて水とともにさった。嫗も逃げて秫畑の中に隠れ、後をつけられなかった。懊悩していると、瓦と礫が飛んでぶつかり、顔面はすべて傷ついた。さいわい梵呪によって、みずからを守ったため、狐は近づけず、すぐに帰った。翌日、恥じて逃れた。しばらくすると嫗は土人を知り、その女は狐と親しみ、その女は金を賄し、その符を盗ませただけであった。これはみな術が狐に勝るに足りながら、結局狐に騙されたものである。狐は策があって僧は備えがなく、狐には仲間がいたが僧には援助がなかった。まして術は勝つに足りなくて軽々しく妖物と闘うものならなおさらである。
舅氏五占安公が言った。留福荘の大工某が、占い師に婚姻について尋ねたところ、占い師は戯れて言った。「ここから西南へ百里にある、某地の某甲は、今死のうとしています。かれの妻はあなたに嫁ぐことになっており、いそいでいって訪ねれば得られましょう。」。大工はそれを信じ、その地にゆき、村店の中に宿った。一人の男に遇うと尋ねた。「某甲はどこにいる。」。その人は尋ねた。「訪ねてどうする。」。大工は事情を告げた。ところがこの人は某甲だったので、聞いて怒り、佩刀を抜いて刺そうとした。大工は店の裏手に逃げ込み、裏の塀から逃れた。その人は主人が室内に匿っていると疑い、入って捜そうとしたが、主人は承諾せず、たがいに格闘し、主人を殺し、裁きを受け、刑に服した。そして大工の名姓住所は、みな尋ねるに及ばなかった。一年余り後、嫗が一男一婦とともに献県を訪ね、義弟および寡の嫂だと言った。嫗がにわかに亡くなったが、納棺するすべがなかったので、義弟はかれの嫂を嫁がせることを相談した。嫂はなすすべがなく、やはりしぶしぶ従った。大工はまだ娶っていなかったので、人々は媒酌してやった。後にそのもとの夫を尋ねると、まさに某甲であった。これは珍しいことであった。占い師が戯れなければ、大工はゆかず、大工がゆかなければ、某甲と闘うすべがなく、某甲と闘うすべがなければ、主人は死なず、主人が死ななければ、某甲は処刑されず、某甲が処刑されなければ、かれの妻はこの大工に嫁ぐすべがなかった。これはゆえなく波を生じ、結局、めぐりめぐって、結局配偶となったもので、どうして運命のしからしめたことでなかろうか。さらに聞いたが、京師の西四牌楼[cxlviii]に占い師がおり、毎日通りで店を設けていた。雍正庚戌閏六月、にわかに、みずからが十八日に横死すると卜した。一二日を隔てているだけであったので、死ぬはずはないとみずから思ったが、爻象[cxlix]はたいへん明らかであった。そこでその日には戸に鍵を掛けて出なかったが、どうして横死しようかと考えていた。ところがたちまち地震が起こり、屋が崩れて潰された。みずから卜さなければ、その日はかならず大通りに店を設けていたはずで、どうして圧死しよう。これも運命が逃れられず、かえって先に知ることによって誤らせたのである。
絵師の張無念は、京師の桜桃斜街[cl]に寓していたが、書斎は広い幅の紙を障子紙にし、一つの櫺もつけずに、光を採った。月が明るい晩になるたび、かならず一人の娘の全身の影が障子の中心にいた。戸を開いて見ると、見えるものはなかったが、影は相変わらずであった。禍や祟りをなさないので、ひとまず放っておいた。ある晩、じっくり見ると、姿が生き生きしているのを覚え、さながら画のようであったので、戯れに筆で輪郭をなぞった。それからまた見えなくなって、塀の上に時にある一人の娘が顔を現して下を窺っていた。たちまち悟った。「この幽鬼は肖像を描かせようとしているのだ。前はわたしに姿を見させ、今はわたしにその顔を見させているのだ。」。言葉を掛けても答えず、注視しても恥じて避けず、しばらくすると隠れた。そこで眉目衣紋を補って描き、一幅の仕女図[cli]を作った。夜に窓の外で語るのが聞こえた。「わたしは名を亭亭ともうします。」。ふたたび尋ねると、すでに寂然としていた。そこでならびに障子の上に題した。後に一人の知府が買っていった(ある人は李中山だという。)。ある人が言った。「狐であって、幽鬼ではない。これが事理に近い。」。ある人が言った。「もともとこの事はなく、無念がその話を神がかったものにしているだけだ。」。そうかもしれない。しかし、香魂[clii]才鬼は、つねに名を後世に留めようとしており、今から古に遡っても、習慣は同じであるので、もとより理の当然である[cliii]。
姚安公の官位が刑部江蘇司の郎中であった時、西城[cliv]から一つの案件が転送されてきたが、少年が幼女を強姦したというものであった。男は年が十六、娘は年が十四、そもそも少年が西頂[clv]に遊んで帰るとき、その娘が菜を畑で摘んでいるのを見、逼って脅したのであった。邏卒は女の叫び声を聞くと、近づいて捕らえた。取り調べていると、両家の父母がどちらも書状を出し、かれの未婚の妻で、顔を見ないであやまって犯そうとしたのだといった。法律では、未婚の妻の和姦の条文があるが、強姦の条文はない。相談していると、娘の供述も変わり、ふざけていただけだと称した。そこで責めて追いはらった。ある人が言った。「これは娘の父母がたくさんの賄賂を受け、娘もこの男の子の姿が美しく、家が富んでいるのを好んだため、こうした嘘を作り、紛争を解いたのだ。」。姚安公は言った。「そうかもしれない。しかし、事件は、ただの婚姻にすぎず、賄によって人命事件を収め、地下の者を不満にさせるのと同じでない。姦淫は成功しなかったので、調べることができない。賄賂は証拠がないので、質すのは難しい。娘は承諾し、父母は従い、媒酌は確かで、隣人は異議がない。双方の言葉も、すこしも矛盾がない。『君子は正しい方法で欺ける』もので[clvi]、ほしいままに拷問を加え、一人の童子を遠戍[clvii]に入れることはできない。」。
某公は夏に退朝し、下女を連れて静かな部屋で昼寝していた。たまたま門番が報告しようとし、尋ねた。「ご主人さまはどちらにいらっしゃる。」。一人の童僕がわざと門番に戯れ、でたらめに答えた。「ご主人はあなたの奥さんを抱いて××でお休みです。」。妻はちょうど前に来、怒って罵った。主人は出てきて尋ねると、笞うってこの童僕を追った。三四年後、門番の妻が死んだが、たまたまこの下女は反抗したために失寵していた。主人は以前の言葉を忘れており、門番に娶わせた。その後に思いだし、浩然[clviii]として嘆いた。「どうして偶然であろうか。」。
文水[clix]の李華廷が言った。その家から百里の所に廃寺があり、魅がいると言われており、住もうとする者はいなかった。羊を売る者十余人がおり、雨を避けてその中に宿ったところ、夜に嗚嗚という声が聞こえ、闇の中に物が見えたが、肥満して丸く、面目を弁じず、びっこを引きながら来、歩くのはたいへん遅かった。人々はいずれも無頼の少年であったので、まったく恐れず、ともに割れた磚を擲った。中たれば音は錚然[clx]として、だんだん縮んで退こうとした。かれは無能であると思い、騒いで追った。寺の門の壊れた塀の側にゆくと、屹然として動かなくなった。逼って見ると、壊れた鐘で、中には砕かれた骨が多く、かれが食らったものだと思った。翌日、土人に告げ、溶かして器を鋳た。それから怪は絶えた。この物はきわめて鈍重であるのに、出てきて人を纏わりついたため、ついにその身を砕かれたのであった。よく変化する怪に、祟るものがいるのを見たので、従って倣ったのであろう。わたしの家のある下女は、滄州山果荘の人であったが、この荘はもと盗賊の巣窟だと言っていた。ある人は盗賊が利を得るのを見、ついていった。捕り手は急いでおり、他の盗賊は格闘して跳んで免れたが、その人は捕縛され、処刑されてしまった。かれもこの鐘の仲間か。
舅氏安公介然が言った。柳某という者がおり、一匹の狐とたいへん親しくしていた。柳はもともと貧しかったので、狐はいつもかれの衣食を援助していた。さらに富豪に金銭を借り、その娘を質入れしようとしていたが、狐が証文を盗んでやったので、事はやんだ。しばしばかれの家に来、妻子はみなかれと問答したが、柳だけはかれの姿を見た。狐がある富豪の娘を惑わしたとき、符籙では祓うことができなかったので、祓える者を募って百金を与えることにした。柳夫婦はもとよりその事を知っていた。妻は大金を利とし、柳に隙を伺って狐を殺すように唆した。柳は裏切るに忍びなかった。妻は罵った。「あのものは某家の娘を惑わすことができて、あなたの娘を惑わせないのですか。昨日は五両であなたの娘のために冬服を作り、恐らく気があるのでしょうから、この禍は除かぬわけにはまいりません。」。柳はひそかに砒霜を買い、酒を買ってもてなした。狐はすでに気づいていた。たまたま柳は隣人数人と坐していたが、狐は簷で柳の名を呼び、まず契りの深いことを述べ、次に援助することが久しいことを述べ、次に逐一その陰謀を発いて言った。「わたしはあなたの禍となることができないわけではありませんが、つきあってすでに久しいですから、仇となるには忍びません。」。さらに布一匹、棉一束を簷から擲ち、言った。「昨日幼いお子さんが寒いと叫んでいましたので、掛け布団を作ることを約束しましたが、幼子との約束を破ることはできません。」。人々は憤慨し、みな柳を責めた。狐は言った。「交際するときに人を選ばなかったのは、やはりわたしの過ちです。世情はこのようなもので、やはり深く咎めるに足りません。わたしはひとまずそのことを知らせただけです。」。太息して去った。柳はそれから郷党に相手にされず、わずかな米を援助する者もなくなった。家族を連れて夜逃げし、最後はどうなったか分からなかった。
舅氏の張公夢徴[clxi]が言った。滄州の佟氏園[clxii]は、廃せられる前、三面を水に囲まれ、林木は翳如[clxiii]として、遊覧する者はつねに借りて宴していた。園を守る人はつねに夜中に幽鬼が唱うのを聞いた。「樹葉児は青青、花朶児は層層。見れば分明ならず、中間に佳人の影あり。ただ望見す盤金[clxiv]の衫子、裙はこれ水紅[clxv]の綾なるを。」。このようにすること数年であった。後に一人の妓女が座客に殴って辱められ、怒って樹で自縊した。その衣の色はすべて歌の通りであったが、そのわけを悟らなかった。ある人が言った。「この縊鬼は代わりを待っており、先に代わりにくる人をしっていたので、喜んで歌ったのだ。」。
青県のある農民は、病んで力仕事ができなかった。飢えて死にそうになったので、妻を売って両方を生かすことを図ろうとした。妻は言った。「わたしが去れば、あなたはどうして自活するのです。それにお金が尽きればまた飢え死にしてしまいましょう。わたしを留めてあなたに侍させた方がよいでしょう。飲食医薬を点検することができましょうし、再起を願うことができるかも知れません。わたしはむしろ娼婦となりましょう。」。十余年後、妻は病んで死にそうになったが、気絶するとまた正気づいていった。「さきほどぼんやり冥府にゆきましたら、吏が娼婦は雀や鴿に落とすべきだと言っていましたが、わたしの一念が夫を忘れませんでしたので、なお人の世に生まれられると言っていました。」。
侍姫郭氏は、その父が大同の人で、天津に流寓していた。生まれた時、その母は端午の彩符[clxvi]を売るものを夢み、一本を買い、名にした。年が十三のとき、わたしに嫁いだ。数人の子を生んだが、いずれも育たず、一人娘だけは、徳州[clxvii]の盧蔭文に嫁いだが、かれは暉吉[clxviii]観察[clxix]の子であった。暉吉は星命をよくし、かつてかれ[clxx]の運命を占ったところ、寿命が四十年ないとしたが、ほんとうに三十七で亡くなった。わたしが西域にいた時、かれはすでに癆咳を病んでいたので、関帝の籤を引き、「また会えましょうか。」と尋ねた。一本の籤を得たところ、こうあった。「喜鵲簷前に好音を報じ、君の千里に帰心あるをしる。繍幃重ねて結ぶ鴛鴦帯、葉落ち霜に雕みて寒色侵す。」。わたしが秋か冬に帰ることを述べていたので、心はたいへん喜んだ。時に門人邱二田[clxxi]は寓所でそのことを聞くと、言った。「かならず会うには会いましょうが、末句はめでたい言葉ではございません。」。後にわたしが辛卯[clxxii]の六月に帰還したところ、かれは病が癒えていた。九月になると、たちまちはげしくなり、日に日に重篤となり、そのままなくなった。歿した後、かれの遺篋を虫干ししていたとき、わたしは悲しんで二首の詩を賦した。「風花[clxxiii]また点ず旧羅衣、惆悵す酴醾[clxxiv]の片片と飛ぶに。あたかも記す香山居士[clxxv]の語、『春樊素[clxxvi]に従ひて一時に帰る[clxxvii]。』を。(姫は三月三十日に亡くなったが、あたかも晩春の頃であった。)。」「百折の湘裙[clxxviii]画欄に颭へ、風に臨みまたおもふ歩みの珊珊たるを。あきらかにしる神讖のかつてさきに定まるを、終に惜しむ芙蓉の寒に耐へざるを。(つねにこのようにしているとは限らない[clxxix]。『芙蓉寒に耐へず。』は、寒山子の詩[clxxx]である。)。」は、籤の趣旨を用いている。
世の言い伝えでは、推命は李虚中[clxxxi]に始まるが、その方法は年月日を用いて時を用いなかったという。これはそもそも昌黎[clxxxii]が作った虚中の墓志に拠っているのである。その書は『宋史・芸文志』に著録され、今はすでに失われて久しい。しかし『永楽大典』には虚中の『命書』三巻を載せており、なお完本である。その記述は、実際には、八字を論じる時、時を用いていないわけではないので、あるいは宋人の偽托かと疑われるが、明らかにできない。しかし虚中の墓志を調べると、「かれはもっとも五行について深く知っており、書くのは、人の生まれた年月日、あたっている日辰[clxxxiii]、支干[clxxxiv]相生[clxxxv]、勝衰[clxxxvi]死生[clxxxvii]、たがいに斟酌し、人の寿夭貴賎、吉か凶かを推測した[clxxxviii]。」云々と称している。按ずるに、天には十二辰[clxxxix]があるので、一日は分かれて十二時となっており、日が「某辰」に到るとは、「某時」のことであるので、時も「日辰」というのである。『国語』[cxc]の「星と日辰の位、みな北維[cxci]に居る。」がそれである。『詩』[cxcii]の「跂[cxciii]たるかの織女、終日七襄す[cxciv]。」の、孔穎達の疏にいう。「旦より莫に至り[cxcv]七辰[cxcvi]一移すれば、よりてこれを七襄といふ。」。それが「日辰」が時であることの証拠である。『楚辞』「吉日にして辰良し[cxcvii]。」の王逸注にいう。「日は甲乙をいひ、辰は寅卯をいふ。」。「辰」を「日」と分けて言っているのは、もっとも明白である。これに拠って推せば、「直るところの日辰。」の四字は、上の「年月日」と繋げて句とするべきであるようだ。後人は誤って下の文に繋げて句としたので、時を用いないという説があるのである。わたしは『四庫全書総目』を撰したとき、やはり虚中の推命は時を用いていないと思っていたので、旧説に従った。今こちらに附記し、わたしのあやまりを記す。五星[cxcviii]の説にいたっては、世上では張果[cxcix]から起こったと伝えている。その説は典籍に見えない。『列子』を調べると、「天命を稟けることは、星辰に属しており、吉に中たれば吉、凶に中たれば凶、命を受けてすでに定まっていれば、鬼神も改変できず、聖智[cc]も挽回できない。」と称している[cci]。王充の『論衡』は、天は気を施して衆星は精を布くと称している[ccii]。天は気を施すが衆星の気はその中にある。気を含んで長く、貴を得れば貴く、賎を得れば賎しく、貴くても秩禄には高下があり、富んでも資産には多少があるが、いずれも星位[cciii]の大小尊卑の授けたものだ。これは星によって運命を語ることが、古にすでにあったということであり、張果に始まったと決めることはない。さらに韓昌黎の『三星行』[cciv]に、「わが生辰、月は南斗に宿り、牛はその角を奮ひ、箕はその口を張る。」という。杜樊川[ccv]はみずから墓志を作って[ccvi]、「余は角星[ccvii]昴畢[ccviii]に生まれ、角に於いて第八宮と為る、疾厄宮[ccix]と曰ひ、また八殺宮[ccx]と曰ひ、土星あり、火星木星土に継ぐ。楊晞[ccxi]曰く、『木は張に在り、角に於いて第十一福徳宮となる。木は福徳大きく、君子虞なし。』と。余曰く、『湖守より周歳ならずして舎人に遷り[ccxii]、木福を角に還すは、足る。火土死を角に還すは、宜なるかな。』。」。五星の説は、もともと唐に起こり、その法も今と異ならない。術者が張果に名を偽托しているのも、故がないことではない。しかし偽托された書は、言葉がまったく卑俗であり、李虚中の命書[ccxiii]よりさらに下にあり、決して唐代の文ではない。(「孔穎達の疏」は「鄭玄の箋」とするべきである。)
霍養仲が言った。ある旧家の壁に仙女騎鹿図が懸けてあり、落款は趙仲穆[ccxiv]と題してあったが、本当であるかは分からなかった(仲穆は名を雍といい、松雪[ccxv]の子である。)。室内に人がいなければ、画中の人は壁に沿って進み、燈戯[ccxvi]のありさまのようであった。ある日、あらかじめ長い縄を軸頭に結び、人を潜ませて伺わせた。かれがやや遠くにゆくのを待ち、いそいで軸を抜き出した。すると壁に姿が附いた。彩色はさながらであったが、淡くなったり、消えたりした。半日するとすっかり隠れたので、消えて散じたかと疑った。わたしはかつて、絵には形質がなく、精気もないから、通霊[ccxvii]幻化[ccxviii]することは、かならずしもないようだ、古書にいう画妖とは、いずれも物が憑いただけであろうと思っていた。後に林登の『博物志』を見ると、北魏の元兆が雲門[ccxix]黄花寺[ccxx]の画妖を捕らえたことを載せていた[ccxxi]。兆は質して言った。「おまえはもともと形がないものであろう。絵というものに、どうしてこうした妖しい形があろう。」。画妖は「形はもともとは絵で、絵は真を象ったものでございます。真が示されているものには、神がございます。まして描かれたものには、精霊が通じられる拠りどころがございます。これがわたくしの感じることがあり、感じて幻化するゆえんです。わたくしは本当に罪がございます。」云々と答えた。その言葉も理に近いようである。
驍騎校の薩音綽克図は一匹の狐と友であった、ある日、狐があたふたと来て言った。「家に妖の祟りがあり、あなたの墓苑をお借りして眷属を住ませたいのですが。」。怪しんで尋ねた。「狐が人に祟ることは聞くが、物がさらに狐に祟ることは聞かない。何の魅か。」「天狐でございます。姿を変えて神に通じ、不可思議で、幽鬼や電のように出入りし、端倪できません。かれが人に祟れば、人は防ぐひまがなく、狐に祟れば、狐も見られません。」「同類がどうして憐れまないのか。」「人と人とは同類で、強きは弱きを凌ぎ、智者は愚者を欺いています。どうして憐れみましょうか。」。魅がさらに魅に遇うとはとりわけ奇である。天下の趨勢は、輾転として次々に勝り、天下の巧みなことは、次々に出て窮まらない。千変万化は、どうして一端で尽くせようか。
最終更新日:2010年11月15日
[v]清の武官名。満語は甲喇章京。満、蒙、漢八旗および護軍営、前鋒営等にみな参領が置かれ、位は都統の下、佐領の上にあった。
[x]未詳
[xii]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE6Zdic9DZdicA519148.htm旧時堪輿家が山を龍といい、その绵々と起伏する姿を龍脉と称した。
[xiii]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic9CZdic9F24633.htm玄武。もともと北方七宿(斗、牛、女、虚、危、室、壁)の総称、北方の神の名。
[xiv]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic8EZdic8C346163.htm古代の巫術、呪詛によって人あるいは物を圧服すること。
[xv]千六百四十二年、崇禎十五年
[xxi]未詳
[xxii]直隷滄州。『元史』巻五十八・河間路「滄州、中。唐改景城郡。」
[xxiv]未詳
[xxv]科挙の試験場で使用する、答案などを書く機として用いる板。
[xxvi]『観棋』
[xxix]王安石『棋』
[xxxvii]未詳。教会法Canon lawのことか。
[xxxviii]Theologia、
[xxxix]神学
[xl]隋唐以後、文字学、訓詁学、音韻学の総称。
[xli]小学以外の経学であろう。
[xliii]『周易』說卦「和順於道コ而理於義△窮理盡性以至於命」疏「和順至性命○正義曰、蓍數既生爻卦又立、易道周備無理不盡、聖人用之、上以和協、順成聖人之道コ、下以治理、斷人倫之正義。△又能窮極萬物深妙之理、究盡生靈所稟之性、物理既窮、生性又盡、至於一期所賦之命、莫不窮其短長、定其吉凶。故曰和順於道コ而理於義、窮理盡性以至於命也。」
[xlv]原文同じ。体用を明らかにすることか。体用は本体と作用。
[xlvii]『西学凡』の附録の『唐大秦寺碑』。
[xlviii]未詳
[xlix]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE7ZdicBBZdic8F206738.htm漢典は「佛像」と説くが、ここでは神像、聖像であろう。
[liii]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicB8ZdicA416755.htm原文「其兩京波斯寺」。「兩京」が未詳。漢典は「長安和洛陽」と説くが、ここではそういう意味ではなく、長安の都にある二つの波斯寺ということであろう。
[lvi]原文同じ。未詳。『冊府元亀』にこの言葉なし。
[lviii]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6ZdicB3Zdic9564352.htm漢典は「説佛法的場所」と説くが、教会であろう。
[lix]ここでは祆教をさすか。
[lxi]http://baike.baidu.com/view/138092.htm
http://zh.wikisource.org/zh/%E9%85%89%E9%99%BD%E9%9B%9C%E4%BF%8E
http://zh.wikisource.org/zh-hans/%E9%85%89%E9%99%BD%E9%9B%9C%E4%BF%8E/%E5%8D%B7%E5%9B%9B
[lxv]僖公十九年
[lxvii]http://www.google.com/url?sa=t&source=web&cd=1&ved=0CAYQFjAA&url=http%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fview%2F564477.htm&ei=ntQZTNPXNdG6cbPs9I4K&usg=AFQjCNF-D0g5CHdrWwdwBzpVkEaNHOYosg
[lxviii]http://www.google.com/url?sa=t&source=web&cd=1&ved=0CAYQFjAA&url=http%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fview%2F118345.htm&ei=r9QZTNXpAo_BcYj61KIK&usg=AFQjCNEMnTt2CDXOQILo_rlo9knHpYJR8A
[lxix]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E9%89%89徐鉉は「『説文解字』を校訂し、記述の錯誤や後世確認された字の追加などを行った。」
[lxx]http://www.google.com/url?sa=t&source=web&cd=1&ved=0CAYQFjAA&url=http%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fview%2F219433.htm&ei=xNQZTIS5G8XMcOvykfUJ&usg=AFQjCNHnMiWUPZt_yXML01KYcsXTb7QeHQ
[lxxvii]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE8Zdic86Zdic9C311853.htm合掌して額に当て、長跪して拜すること。
[lxxviii]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE7ZdicA5Zdic88170176.htm求福
http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE6ZdicB1Zdic8212197.htm神に福を賜うことを求めること
[lxxix]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE5Zdic83Zdic8F104113.htm祀られている人像あるいは神佛の像。
[lxxxi]原文「上皆刻異書如篆籀」。「異書」に関して、漢典は「珍貴或罕見的書籍」と説くが、訳文の意味であろう。
[lxxxii]http://baike.baidu.com/view/1613637.html?fromTaglist篆文と籀文。
http://baike.baidu.com/view/1203417.htm?func=retitlehttp://baike.baidu.com/view/116119.htm
[lxxxiv]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/83745.htm&sa=U&ei=tlIyTOHsMMyIkAWB2rSgDA&ved=0CAkQFjAA&usg=AFQjCNEH5bRBuOsbVpUfJtzpK06EoyuWJw
[lxxxv]原文「而利瑪竇之初來、乃詫為亙古未有。」。未詳。とりあえずこう訳す。
[lxxxvii]陸九淵、王守仁を代表とする宋明理学の流派、いわゆる良知の学。学ぶことは「明本心」、「致良知」を主とする。心が宇宙の本源であるとする。
[lxxxviii]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE8ZdicAFZdic81259992.htm漢典は「証明其確実」と説くが、事実を証明することであろう。
[xc]原文「不知陰律何所取」。未詳。とりあえずこう訳す。
[xcii]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE6ZdicB8Zdic90.htm原文「然而又啟鬼瞰之漸」。未詳。とりあえずこう訳す。
[xciv]旧時、宴の時に酒をそそぎ神を祭る長者。後に年長あるいは位の尊い者をもさす。
[xcv]直隸順天府の州名。
[xcix]原文「為虺弗摧、為蛇奈何」。http://baike.baidu.com/view/249653.htm
[c]http://blog.sina.com.cn/s/blog_64b122d30100i9ya.html
http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E6%9D%A8%E5%A3%AB%E9%89%8A&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=
[ci]山東膠州直隸州の県名。
[cii]山東膠州直隸州即墨県の山名
[cvi]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&source=hp&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E5%B8%82%E6%AD%A6%E6%B8%85%E5%8C%BA%E7%8E%8B%E5%BA%86%E5%9D%A8%E9%95%87&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
[cix]張世鈿。静海の人。
[cx]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&source=hp&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E5%B8%82%E6%AD%A6%E6%B8%85%E5%8C%BA%E7%8E%8B%E5%BA%86%E5%9D%A8%E9%95%87&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
[cxi]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD21008.htm牙婆、媒婆、師婆、虔婆、薬婆、穏婆。
[cxii]未詳
[cxv]原文同じ。ここでは鶴に乗って飛んでいる自分の姿であろう。
[cxvii]原文「司馬相如所謂凌倒景也」。「倒景」は天上の最も高い処。司馬相如の賦にも用例がある。http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5Zdic80Zdic9295248.htmただ、「凌倒景」という言葉は見えない。「凌倒景」は「夕陽より高い所にいる」ということであろう。
[cxviii]原文「何得雲斜照」。未詳。とりあえずこう訳す。雲が出ているのに、その上を飛んでいるあなたを夕陽が照らすはずがないだろうという理屈か。
[cxix]http://www.zdic.net/cd/jd/1/ZdicE4ZdicB8Zdic80302830.htm一字の誤読を訂正できれば、師となれること。
[cxxii]西漢·戴聖『礼記·大学』「曾子曰、十目所视、十手所指、其厳乎。」
[cxxiii]女の幽霊を指しているものと解す。
[cxxiv]安徽寧國府の県名。
[cxxvi]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD312714.htm陰陽五行を用いて吉凶を占う方法の一つ。遁甲、太乙とあわせて三式と称する。
[cxxix]主語は純陽の像
[cxxx]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%9C%9D%E6%B8%B8%E5%8C%97%E6%B5%B7&lr=&aq=f&aqi=g1&aql=&oq=&gs_rfai=
[cxxxii]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9A140411.htm佛教で悪業あるいは善業の造成した苦楽の果報をいう。
[cxxxiii]原文「眼前業果定誰真」。未詳。とりあえずこう訳す。
[cxxxiv]『太平廣記』巻十七「薛肇」。
http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%BB%A3%E8%A8%98/%E5%8D%B7%E7%AC%AC017
[cxxxv]実際は、薛肇が崔宇に会わせたのは柳氏の娘
[cxxxvi]『太平廣記』巻十七「盧李二生」。実際は、盧二舅が李生に会わせたのは陸長源の娘。
[cxxxviii]未詳。巻一にも見える。
[cxlv]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE8Zdic86Zdic9C311853.htm合掌して額に当て、長跪して拜すること。
[cxlviii]http://baike.baidu.com/view/101283.htm
http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E8%A5%BF%E5%9B%9B%E7%89%8C%E6%A8%93&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wihttp://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E8%A5%BF%E5%9B%9B%E7%89%8C%E6%A8%93&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi
[cxlix]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE7Zdic88ZdicBB96431.htm『周易』で六爻が交わって卦をなして示す事物の形象。
[cl]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&lr=&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8C%97%E4%BA%AC%E5%B8%82%E5%AE%A3%E6%AD%A6%E5%8C%BA%E6%A8%B1%E6%A1%83%E6%96%9C%E8%A1%97&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
[cliii]現れたのが幽鬼であるのは当然だということ。
[cliv]北京の西城
[clvi]原文「君子可欺以其方」。『孟子』萬章章句上に見える言葉。君子は結果がよければそれまでの過程がどうであろうと問題にしないということ。
http://www.diyifanwen.com/guoxue/mengzi/170743094201707437060196.htm
[clix]山西太原府の県名。
[clxi]未詳。
[clxii]未詳。
[clxiv]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7Zdic9BZdic98190469.htm金糸を用いて刺繍した図案にさらに加工すること。
[clxvi]まったく未詳。護符の一種か。
[clxvii]山東濟南府の州名。
[clxx]郭氏をさす。
[clxxii]千七百七十一年。乾隆三十六年。
[clxxiv]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE9Zdic85ZdicB4210953.htm
http://baike.baidu.com/view/541666.htmhttp://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E9%85%B4%E9%86%BE&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi
[clxxvi]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1351402.htm&sa=U&ei=qlcITKucBY7Zcf3XtagO&ct=res&ved=0CAUQFjAA&cd=1&usg=AFQjCNHQAQGbyOjABfLsXqhaLvrcJLGlWA白居易の家姬
[clxxvii]『春尽日宴罷、感事独吟(開成五年三月三十日作)』
[clxxviii]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6ZdicB9Zdic9816030.htm湘の地の絹織物で作った女ものの裙。
[clxxix]原文「未必長如此」。前後とのつながりが未詳。とりあえずこう訳す。
[clxxx]http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:NnskHLhZbGMJ:www.teachercn.com/Zxyw/Scjx/2006-11/8/20060108175121810.html+%E8%8A%99%E8%93%89%E4%B8%8D%E8%80%90%E5%AF%92%E3%80%80%E5%AF%92%E5%B1%B1&cd=1&hl=zh-CN&ct=clnk
[clxxxv]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7Zdic9BZdicB8226726.htm五行学説の術語。借木、火、土、金、水のお互いを生ずる関係。木生火、火生土、土生金、金生水、水生木。
[clxxxvi]原文同じ。未詳。盛衰のことか。「盛」「勝」は同音。占いの用語かとも思われるが未詳。占いをするときにこれを書くのであろう。
[clxxxvii]原文同じ。占いの用語かとも思われるが未詳。前後との脈絡も未詳。占いをするときにこれを書くのであろう。
[clxxxviii]原文「然考虛中墓志、稱其最深於五行、書以人始生之年月日、所直日辰、支干相生、勝衰死生、互相斟酌、推人壽夭貴賤、利不利云云。」。後ろでも述べられているが、この文、一般には「書以」は「年月日」まで掛かるとされ、李虚中の占いが年月日を用いて時を用いなかったことの根拠となっているが、紀ホは「書以」は「所直日辰」まで掛かると考え、李虚中の占いが年月日時を用いてするものであったとしている。
[clxxxix]http://www.zdic.net/cd/jd/2/ZdicE5Zdic8DZdic81326605.htm子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥の十二支。
[cxc]周語下
[cxcii]小雅·大東
[cxciv]http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE4ZdicB8Zdic835499.htm織女星が白昼に七度位置を移すこと。
[cxcv]原文「從旦暮」。鄭玄箋の原文は「從旦至莫」。今、これに従う。
[cxcvii]『楚辞·九歌·東皇太一』「吉日兮辰良、穆将愉兮上皇。」
[cxcviii]星命術士が人の誕生日に当たる五星の位によって禄命を占うこと。
[cc]谓聪明睿智、無所不通。亦指具有非凡的道コ智慧者
[cci]原文「考『列子』稱稟天命、屬星辰、值吉則吉、值凶則凶、受命既定、即鬼神不能改易、而聖智不能回。」。『列子』にこうした句なし。『劉子新論』命相に「降生凡庶、亦稟天命、皆屬星辰、其值吉宿則吉、值凶宿則凶。受氣之始、相、命既定、即鬼神不能改移、而聖智不能回也。」とある。
[ccvi]http://zh.wikisource.org/zh-hans/%E8%87%AA%E6%92%B0%E5%A2%93%E9%8A%98なお、以下の引用文はほとんど未詳。書き下し文は仮のもの。
[ccix]未詳
[ccx]未詳
[ccxi]未詳。
[ccxii]『閲微草堂筆記』原文「湖守不週歲遷舍人」。杜牧の原文は「自湖守不周岁遷舍人」。「湖守」は湖州刺史。http://baike.baidu.com/view/9559.htm
[ccxvi]未詳だが、影絵芝居、幻灯、走馬灯のようなものであろう。
[ccxix]未詳
[ccxx]未詳
[ccxxi]『説郛』巻六引宋林登『続博物志』「後魏元兆能行法治病、有軍士女為物所憑、兆曰、此画妖也……以法治之、乃黄花寺壁画鬼祟。」