第十一巻

槐西雑志一

 

わたしはふたたび烏台[1]を掌管し、法司[2]の会讞[3]の事があるたび、西苑[4]に宿直する日が多かった。袁氏の婿の数間を借りられたが、額に「槐西老屋」とあった。公務の余暇に退食[5]し、その間に休息した。城を隔てること数十里、幕僚や白事[6]の外、賓客はことにまれで、昼は長く、暇が多く、閑坐しているばかりであった。もともと『灤陽消夏録』、『如是我聞』の二書があり、書肆に刊刻せられていたが、そのために友人が集まり、たくさん異聞を告げたので、一つの冊子をこの地に置き、宿直のたびに思いだして雑然と書きしるした。宿直がない日はそれまで、すべて思いだすことができなければやはりそれまでとした。歳月はだんだんと過ぎ、しらぬまにさらに四巻ができた。孫樹馨[7]は録して一帙とし、『槐西雑志』と題したが、その体例は前の二書のようであった。今からは、ものぐさになって筆を止めることもあるだろうか。そのときは『揮塵』[8]の三録と思えばよい。あるいは老いて閑にしていることができず、また綴ることもあるだろうか。そのときは『夷堅』[9]の丙志と思ってもよい。壬子六月、観奕道人記す。

 
  『隋書』に載せている、蘭陵公主が後夫に殉死したことは、『列女伝』[10]のはじめに載せてあるが、すこぶる史法[11]と異なっている。(祖君彦[12]の『檄隋文』[13]は、蘭陵公主が逼幸[14]によって死んだと称している。これはそもそも煬帝の罪悪を誇大にしようとしたものなので、史書の文を正しいとするべきである。)滄州の医者張作霖が言った。その郷里に若い女がおり、夫が死んで一年足らずでかならず嫁ぎ、二年後、後夫も死んだが、ふたたび嫁がないことを誓い、終生操を守った。かつて隣家の女が病んでいるのを訪ねたところ、隣家の女はたちまち目を怒らし、前の夫の言葉を語った。「おまえは甘んじて某のために操を守ったが、わたしのために操を守らなかったのは、どうしてだ。」。若い女は毅然として答えた。「あなたは結髪[15]としてわたしを見ず、三年間、かつて一つも肝鬲[16]の言葉がございませんでしたので、あなたのために操を守ることはできませんでした。あのかたは再婚だからといってわたしを軽んぜず、二年間、恩は深く、義は重うございましたので、わたしはあのかたのために操を守らざるを得なかったのです。あなたは自分を反省せず、人を咎めようとなさるのですか。」。幽霊は言葉に詰まって退いた。これは蘭陵公主の事と似ている。そもそもも豫譲の「衆人として我を遇せば、衆人として報い、国士として我を遇せば、国士として報いん[17]」の趣旨であった。しかし五倫[18]の中で、朋友だけは義によって合い[19]、報酬を問題にしなければ、厚道[20]であり、たとい報酬を問題にしても、なお直道[21]である。兄弟は天属[22]であり、報酬を語ってはならないし、まして君臣、父子、夫婦は、義が三綱[23]に属している。漁洋山人[24]は豫譲橋[25]の詩[26]を作り、言った。「国士橋辺の水、千年恨み窮まらず。柱誌f[27]の、死して莒傲公に報ゆるを聞くが如し。」。みずから厚くしたり薄くしたりできる[28]という、この言葉は真実である。しかし柱誌fは理解されないで放逐せられたのに、挺身して難に死に、人君でありながらその臣を知らない者を恥じさせたが(事は劉向の『説苑』に見える[29])、これは怨恨の心のようなもの、人君と是非を争っていただけで、人君のために社稷を守っていたのではない。かれのしたことは模範とすることができるが、かれの言ったことは義に叶っていない。記載した者の誤りかもしれない。

 
  江寧の王金英は、字を菊荘といい、わたしが壬午[30]に分校[31]して採用した士人であった。作詩を好み、才力はやや劣っていたが、秀削[32]で俗ではなく、すこぶる宋末の四霊[33]に近かった。かつて菊の切花の画像を描いたので、わたしは戯れにかれの風格に倣って詩を題し、「菊を以て名字となし、花に随ひて画図に入る。」の句があった。菊荘はたいへん喜んだので、好尚を知ることができる。詩話数巻を撰したが、書となっていなかった。星霜を経て、その草稿はどこに流落しているか分からない。今でも憶えているが、その中の一条に言った。「江寧に一軒の廃宅があり、壁上にかすかに字跡があり、塵を払ってじっくり見れば、絶句五首で、その一首にこうあった。『新緑やうやく長じて残紅稀なり、美人の清涙羅衣を潤し、蝴蝶春の帰るや否やを管せず、ただ菜花の黄なる処を趁ひて飛ぶ。』。その二にいう。『六朝の燕子年年来り、朱雀橋崩れ花開かず、惆悵して王謝を問ふを須ゐず、劉郎一たび去りて何ぞかつて(かへ)らん。』。その三に言った。『荒池廃館芳草多く、踏青の年少時に行歌す。[34]鼓動す人去りし後、回風裊裊として女蘿[35]を吹く。』。その四に言った。『土花漠漠として頽垣を囲み、中にあり桃葉桃根の魂、夜深く踏むことあまねし階下の月、憐れなり羅襪の終に痕なきを。』。その五に言った。『清明処処黄鸝啼き、春風上らず枯柳の枝、ただ応に夾溪の双石獣の、汝のかつて黄金の絲を掛くるを記すべし[36]。』。字も卓越していたが、姓名を示さず、人間の言葉か幽鬼の言葉か分からなかった。」。わたしは思うにこれは福王が破滅した後の、前明の故老の言葉であろう。

 
  董秋原は言った。「昔、鉅野[37]の学官であった時、門番が節孝祠を管理することとなり、すぐに家族を連れて祠の側に住んだ。ある日、秋の祭で、門番が夜に起きて掃除していたが、その妻はまだ寝ていた。夢の中で婦女数十人を見たが、袂を連ねて祠に入ったので、神が降りたのだと悟り、恐れもしなかった。ふと見ると、知っている二人の貧しい媼もその中にいた。再三じっくり見たが、本当に間違いなかった。怪しんで、かれらは旌表[38]を受けていないのに、どうしていっしょに来たのかと尋ねると、一人の媼は答えた。『人の世の旌表は、あまねく僻村陋屋に及ぶことはできず、埋没して顕れない者は、あちこちにおります。鬼神はかれらの苦しみを憐れみ、祠に位牌が設けられていなくても、招いてきて祀ります。欠点を隠し、美点を冒し、位牌を祠の中に設けられていても、入るのを許しません。ですからわたしたち二人はこちらに来られたのでございます。』。」。この事はすこぶる珍しいことである。しかし神理[39]によって測れば、このようにするのが当然であるようである。また献県の礼房の吏の魏某は、臨終の時に喃喃とひとりごちた。「わたしは閑職におり、みずから思うに、かつて悪業を行わず、貧婦が表彰を請うたときに、その袖の下を求めたが、その冥罰はこのように重いとは思わなかった。」。二つの事はたがいに証明するに足りる。まことに忠孝節義は、天地を感じさせ、鬼神を動かすのである。

 
  族叔行止[40]がいった。ある農家の妻と小姑はともに端麗であった。月夜に涼み、ともに簷の下に眠っていたところ、にわかに赤髪青面の幽霊が、牛小屋の後ろから出、旋舞跳躍し、打ち、齧ろうとするかのようであった。時に男子はみな外に出て場圃[41]を守っており、姑や嫂は胸騒ぎして語ろうとしなかった。幽霊はすべて捕まえ、むりに汚した。低い塀に跳びあがると、たちまち嗷然[42]と大声を出し、さかさまに地に落ちた。かれが久しく動かないのを見ると、人を呼ぼうとした。隣人たちが走っていって見れば、塀の中の幽霊は、村の不良少年某で、すでに昏倒して人事不省となっており、塀の外に幽霊が屹然として立っているのは、社公祠の土偶であった。父老は社公に霊威があると思い、相談して朝になったら報賽[43]することにした。少年は唖然[44]として言った。「某甲はいつも五鼓に出て糞を担いでいますので、戯れに祠の鬼卒を抱えて道端に置きましたところ、驚いて逃げましたので、一笑を博しました。ところがこの偽の幽霊が誤って真の幽霊となったのに遇いましたので、驚いて倒れたのです。社公はなんと霊力があるのでしょう。」。中の一人の叟は言った。「某甲は毎日糞を担いでいるが、おまえはどうしてほかの日に戯れず、この日に戯れた。戯れる術も多いのに、おまえはどうしてたちまちこの土偶を抱いた。土偶はどこにでも置けるのに、おまえはどうしてこの家の塀の外に置いた。これは、その時、神が本当に憑いていたのに、おまえが知らなかっただけだ。」。そしてともに醵金して祀った。その不良少年は父母が舁いでいったが、困臥すること数日、ふたたび恢復しなかった。

  
  山西太谷県の西南十五里の白城村に、糊塗神祠[45]がある。土人はたいへん厳かにまつっており、言葉がやや不敬であればかならず風や雹を齎したが、神はいつの時代の人か分からず、かれがどうしてこの号を得たのかも分からなかった。後に通志[46]を調べたところ、狐突祠があることを知った[47]。元の中統三年の勅建で、もともとは利応狐突神廟といった。「狐」と「糊」は同音で、北人は入声をみな平声のように読むので、「突」は転じて「塗」となったのである。これはもう一つの杜十姨である[48]

  
  石の中に物があることが、しばしばある。姜紹書[49]の『韻石軒筆記』にいうには、一つの石を見たが、太極図[50]となっており、紋理は渦巻いているかのようで、たまたま黒白に分かれていたという。顔介子[51]はかつて英徳[52]の硯山[53]を見たが、表面に白い脈があり、「山高く月小さし[54]。」の四字となっており、炳然としてはっきりしており、その脈はまっすぐ石の背に透けていたが、なおぼんやりとして字が反転したもののようであった。ただ、模糊として散漫で、点画波磔[55]を備えていないだけであった。じっくり見ると、象嵌でも彫刻でもなく、染色でもなく、本当に天然のものであった。これはさらに珍しいものではないか。そもそも山は地とともにあり、石は山とともにあり、開闢のときに、あらかじめ程邈[56]の隸書があることを知っていることがあろうか。あらかじめ東坡の『赤壁の賦』があることを知っていようか。山がこの石を孕んだのが、宋以後であったとしても、また誰がこの字を習わせ、誰がこの言葉を題させたのか。だとすれば天工は巧みであって、ないものはなく、精華が集まり、おのずから文様をなすことは、常理で測りしれるものではない。世に伝える『河図洛書』[57]は、北宋に出たもので、唐以前には見えない。「河図」[58]は黒白の点五十五を作り、「洛書」[59]は黒白の点四十五を作っているが、孔安国の『論語注』を調べると、河図は八卦(孔安国[60]の『論語注』は、今はすでに伝わらず、この条は何晏[61]の『論語集解』が引いているものである。)と称している。これは孔氏の家に、もともとこの五十五の点の図はなかったということである。陳摶[62]はどこで得たのだろうか。洛書に到っては、「書」というのだから、文字があるはずだが、やはり四十五の点で、河図と同じなのだから、洛図と称するべきであり、「書」と称せられない。『繋辞』もどうして分けて書ということができようか[63]劉向、劉歆、班固はともに洛書には文があると称しており、孔穎達の『尚書正義』はともにその字数(『洪範』[64]の「初一五行をいふ」一章の疏に「『五行志』[65]はすべてこの一章を載せており、この六十五字はすべて洛書の本文であるというが、思うに天の言葉は簡要なので、順番の数はなかったはずだ。」、「『初一曰く』等の二十七字は、禹が加えたものである。その『敬用』『農用』等の十八字について、大劉[66]及び顧氏は、亀の背にさきに都合三十八字があったといい、小劉[67]は『敬用』等はいずれも禹が配置したと考え、その亀の文は二十字があるだけだといっている。」とある。語っている字数は同じでないが、漢から唐に到るまで、洛書に黒白の点の偽図がなかったことを見るに足りる。)をくわしく載せている。この硯山を見ると、石の紋様が字を成すことは、確かにでたらめでなく、遅く出てきた盧辨[68]の説は拠りどころにできないことがわかる(明堂[69]の「九室[70]は亀文[71](のつと)る」という言葉は、はじめて北斉の盧辨の『大戴礼注』に見える[72]。朱子は鄭康成[73]の言葉と思っており[74]、たまたま誤って記したのである[75]。)。だから太乙九宮[76]は本当に神禹が受けたものであると思うのである(今、術家が用いている洛書は、太乙行九宮法で、『易緯・乾鑿度[77]』から出ており[78]、『漢書・藝文志』のいう「太乙家」であり[79]、当時はもともと洛書と称していなかったのである。)。

  
  表兄の劉香畹[80]が言った。昔、閩中で役人をしていた時、聞けば若い女がおり、もともと幽静であったが、歿して山麓に葬られた。月の明るい晩、はるかにかれの魂が見えたが、樹上で後ろ手に縛られており、近づけば見えなくなったが、そのわけは分からなかった。わたしは言った。「これは何かを示しているのだ。人はかれが責めを受けているわけが分からないが、かならず人にかれが責めを受けているのを見させ、人が知らないことを、鬼神が知っていることを示しているのだ。」。

  
  陳太常[81]楓崖[82]が言った。童子はおり、年は十四五であったが、眠るたびにかならず呻吟の声を出していたので、かれが病かと疑った。尋ねると、そうではないと言った。その後、しばしば寝言をいい、呼んでも目ざめなかったが、言葉はすこぶるはっきりしていた。じっくり聴くとすべて淫らな言葉で、その呻吟も淫行を受けている声であった。しかし尋ねてもけっして話さなかった。(あやかし)だと悟り、社公に願文を捧げた。夜に社公を夢みたところ、言った。「(あやかし)はたしかにいるが、わたしの力で制せられるものではない。」。そこで城隍に願文を捧げた。一晩後、城隍祠の泥塑の馬丁の首がひとりでに落ちた。はじめて社公が力で制せられないと言っていたことの意味を悟った。しかしひとりの従者にすぎず、城隍の愛しているものとはかぎらず、たとい城隍の愛しているものでも、神は正直で聡明であり、愛しているもののために、法を曲げてひとりの従者を庇うこともけっしてあるまい。願文が一たび捧げられれば馬丁は冥誅に服したのだから、城隍の心は公明である。社公は、揣摩畏縮し、隠忍して言おうとしなかったが、かれは城隍をどう見ていたのだろうか。城隍もこの社公をどう見ていたのだろうか。

  
  趙太守書三が言った。夜、狐女に遇った者がおり、進みでて挑むと、たちまち見えなくなり、にわかに瓦が飛んできてかれの帽子を撃ちおとした。翌日、起きると、窓紙に細く一首の詩が書かれていた。「深院満枝の花、ただ蝴蝶の採るべきのみ。喓喓[83]たり草下の虫、なんぢには蓬蒿[84]あり。」。言葉はたいへん軽薄だが、風趣は楚楚として、紈袴子[85]を愛さなかったのもむべなるかなであった。

  
  田白岩[86]が言った。かつて友人たちと扶乩したが、乩仙は真山民[87]、宋末の隠君子(そもそも山民詩集があり、今『四庫全書』に著録されている。)だとみずから称した。倡和してまさにうちとけていたが、外で某客と某客が来たことを報せると、乩はたちまち動かなくなった。他日また降ったので、人々が過日すぐに去ったわけを尋ねると、乩は判じた。「あの二人は、一人は世故にたいへん長け、応対にたいへん慣れ、会えばかならず諂う言葉数百句がある。雲水散人[88]は応答に拙いので、避けるのが良かったのだ。もう一人は思考がたいへん周密で、礼節にたいへん明るく、人と語ると、つねに一字一字を推敲し、責めてやまなかった。閑雲野鶴[89]は、かれの過分の要求に耐えられなかった。だから、逃れるのが速くないことをもっとも恐れていたのだ。」。後に亡き姚安公はそれを聞き、言った。「この仙は所詮狷介の士で、器量は大きくない。」。

  
  従兄の懋園が言った。乾隆丙辰の郷試で、秋字号[90]に坐し、ついで一人が号舎に入ってきたが、号軍[91]は姓名籍貫を尋ねると、拱手して祝った。「昨日、娘が杏花一本を持ち、号舎に挿すのを夢みましたが、わたしに告げて言いました。『明日、某県の某人が来ますから、杏花がこちらにおりますとお話しください。』。あなたの姓名籍貫はぴったり合っていますから、どうして吉兆でないことがございましょう。」。その人は愕然として色を失い、試験道具を解かず、病と称して出ていった。郷里の人でその事を知っている者は言った。「この書生には若い下女がおり、名を杏花といったが、逼られて淫行したものの、結局棄てられ、流落して最期を知らなかった。恨みを抱いて歿したのだろう。」。

  
  従孫の樹森が言った。晋人に資産をその弟に托して外で行商していた者があり、旅の途中で妻を娶り、一子を生み、十余年後、妻が病死すると、子を連れて帰った。弟は兄から資産を返すことを求められるのを恐れ、その子は他家のものを養っているのであって、父の財産を継げないと偽り、糾紛して決着せず、お上に訴えた。お上はもともと愚かであり、商人の所に令状を送って真贗を尋ねず[92]、古の法に従い、血を滴らせて試したところ、さいわい血が合ったので、その弟を笞うって追いはらった。弟はまったく血を滴らせる事を信ぜず、みずからに一子がおり、血を流して調べるとはたして合わなかったので、それをよりどころにして上訴し、県令の判断はよるに足りないと言った。郷里の人々はかれの貪欲を憎んでいたので、構う人はおらず、みな言った。「かれの妻はむかしから愛人といっしょにおり、子はかれの子ではないから、血が合わなくて当然なのだ。」。人々の言うことははっきりとしており、証拠があったので、結局姦通は証明され、妻の愛人を捕らえて取り調べると、やはりうなだれて罪を認めた。弟は恥ずかしくてたまらず、妻子を追い出し、身を隠して逃れ去り、資産はすべてその兄に()したので、聞く者は喜んだ。そもそも陳業が血を滴らせたことは、『汝南先賢伝』に見えるので[93]、漢からすでにこうした話があるのである。しかしわたしは老吏がこう言うのを聞いた。「骨肉が血を滴らせればかならず合うというのは、通常の状態を論じたのである、冬に器を氷雪の上に置き、凍らせきわめて冷たくさせたり、夏に塩や酢で器を拭き、酸い匂い、塩からい匂いがあったりすれば、滴った血は、器に入るとすぐに凝り、近い親戚でも合わないから、血を滴らせても確かな判決をなすには十分ではない。」。しかしこの県令が刺して血を出さなければ、商人の弟は上訴せず、商人の弟が上訴しなければ、その妻が野合して子を産んだことも、露顕するすべがなかった。このほとんどなにものかがそうさせていたかのようであり、この県令が古に拘ったことを全面的に咎めることはできない。

  
  都察院の蟒のことは、わたしの『灤陽消夏録』に載せてあるが[94]、かつて二度その蟠った跡を見たので、烏有子虚(でたらめ)ではない。下役は恐れ、庫の深い処にゆこうとするものはなかった。壬子二月、勅旨を奉じて院署を修理した時、わたしは庫を開いて調べてみたが、何も見えず、帝命が臨めば、百霊[95]が懾伏することを知った。院長の舒穆嚕公がそこで言うには、内閣学士札公[96]の先祖の墓にも巨蟒(うわばみ)がおり、いつも遠くにかれが出入りし、鱗を曝しているのを見たということである。墓前の二本の槐の樹は、数丈隔たっていたが、首と尾はそれぞれの樹に掛かっており、その身は彩虹が横ざまに渡っているかのようであった。後に母を葬る(はか)を卜し、たまたまその地に当たっていたので、祭って祈ると、はたしてその族類千百を率い、蜿として去った。葬りおわると帰ってきた。去る時、進むさまは風のようであったが、進むほどに縮み、長さがわずか数尺となるに到った。そもそも大きくもなれ小さくもなれ、すでに神龍の技を具えているのであった。都察院の蟒は、その胴回りは柱のよう、窓櫺の中に出入りすることができ、隙はわずかに一寸ばかりであったが、このこともそれによっていたことを悟った。その月、汪蕉雪[97]副憲[98]とともに山西の馬観察の家におり、内務府のある役人に遇ったところ、語るには、西十庫[99]の硫黄を貯えている処にも二匹の蟒がおり、いずれも首に一角が聳えており、鱗甲は金色、鍵を開こうとする時は、かならずさきに鉦を鳴らすのだということであった。もっとも異常なのは、鍵を開くたび、かならず硫黄が戸の内側に積もっており、磊磊として築山のよう、取って用いるに足り、取りつくしてもふたたびそうなるのであった。人が庫に入ることを望んでいないのだと思い、人も入ろうとしなかった。ある人は「庫を守っている神だ。」と言った。そうかも知れない。『山海経』は諸山の神を載せているが、蛇身や鳥首、種種の異状があり、人の姿になるとは限らない。

  
  亡兄晴湖が言った。王震升という者があり、晩年に愛児を喪い、悲しんで死なんばかりであった。ある晩、たまたまかれの墓を過ぎたが、徘徊し恋々として去れなかった。ふと見ると、かれの子がひとりで丘に坐していたので、いそいで走って近づくと、幽霊も避けなかった。しかし、その手を握ろうとすると、後ずさりし、ともに語ると、様子は冷淡で、聞こうとしていないかのようであった。怪しんでそのわけを尋ねると、幽霊は笑った。「父子は宿縁ですが、縁が尽きればあなたはあなた、わたしはわたしなのですから、もはやお尋ねすることはございません。」。首を振って去った。震升はそれから悲しみがにわかに消えた。ある食客が言った。「西河[100]がこの趣旨を知ることができれば、失明しなかったはずだ。」。亡兄は言った。「これは孝子の至情で、この変幻をなし、かれの父の悲しみを絶ったもので、郗超[101]の密書の趣旨のようなものだ。正しい理ではない。人がこの考えを持てば、父子兄弟夫婦を、すべて浮草の出逢いのように見てしまい[102]、日に日に薄情になってしまうではないか。」。

  
  公が一人の妾をとったが、姿態は艶やか、談笑も穏やかで、よく人の心を得ていた。しかし、ひとり坐すれば凝然として考えていることがあるかのようにしていた。ただ、見慣れていたので訝りもしなかった。ある日、病と称し、戸に鍵を掛けて昼寝していた。某公が窓紙に穴を開けて窺えば、脂を塗り、粉を塗り、釵釧衫裙は、すべてきちんとしており、その後、酒果を列ねたが、祀っている者があるかのようであった。闥を排して入って尋ねると、姫は蹙然[103]と居住まいを正して跪いた。「わたしはもともと某翰林の寵婢でした。翰林は歿しようとしたとき、妻はかならず許さないだろうと思い、売られて青楼に入れられるかもしれないことを慮り、さきに追い出しました。別れに臨み、切切としてひそかに頼みました。『おまえが嫁いでもわたしは恨まない。嫁いでよい場所を得れば、わたしはさらに慰められる。ただ、わたしの忌日になったら、おまえはかならず密室で、盛装してひそかにわたしを祭れ。わたしの魂が来たら、香煙がおまえを巡ることを験にしよう。』。」。某公は言った。「徐鉉が李後主に負かなかったが、宋主は罪しなかったから、わたしがどうして邪魔しよう。好きなようにしろ。」。妾は再拝し、香を焚き、涙は落ちて()に入った[104]。煙ははたして裊裊然と三たびかれの頬を巡り、だんだん蜿蜒と巡って足に到った。温庭筠の『達摩支曲』に「麝を搗き塵と成し香消えず、蓮を(ひね)りて寸と作すも絲絶ちがたし[105]。」とあるのは、この趣旨か。琵琶を別に抱き、すでに旧恩に負いているが、身は去って心は留まっており、牀を同じうして夢を別にしているよりまだましではないか。

  
  交河の節婦が牌坊を建て、親戚がみな集まっていた。表姉妹(いとこ)[106]は幼いときから冗談を言う者であったので、戯れて尋ねた。「あなたは今回、白髪になって節を全うしましたが、この四十余年間、花の(あした)、月の(ゆうべ)に、心を動かされたことはございましょうか。」。節婦は言った。「人は草木ではございませんので、情がないことはありえません。ただ礼は逾えられない、義は背けないと思い、自制して行わないことができただけでございます。」。ある日、清明の墓参が終わり、たちまち目が眩んだかのようになり、喃喃と寝言をいったので、扶けて帰った。夜になると正気づき、その子を顧みていった。「さきほどぼんやりとしておまえのお父さんに会ったが、まもなく迎えると言い、慰労はたいへん懇ろで、人の世のすることを、鬼神はみな知っていると言っていた。さいわいわたしは平生過失がなかったが、そうでなければ黄泉で会うとき、どんな顔で相対せよう。」。半年後、本当に亡くなった。これは王孝廉梅序がかたったことであった。梅序は論じた。「仏は(こころ)の悪いことを戒めるが、これは根本を除く修行であり、上流[107]の人でなければできない。常人は膠膠擾擾[108]として、どうして思いが生じないことがあろう。ただ、恐れがあってしようとしなかったのも、賢いことであろう。この妻の子孫は、すこぶるこの言葉を隠した。わたしもその氏族を挙げようとしませんでした。しかしその言葉は光明磊落として、白日青天のよう、いわゆる「皎然としてみずから欺かず[109]」というものだから、どうして隠す必要があろう。」。

  
  姚安公が南新倉[110]を監督した時、ある倉の裏の壁がゆえなく崩れた。掘ると、死んだ鼠を得たが一石に近く、大きいものは姿が猫のようであった。そもそも鼠は壁の下に穴を掘り、繁殖して日に日に多くなり、その穴も日々拡がり、拡がって壁の下がすべて空となり、力に耐えず倒壊するに到ったのである。公の同僚福公海[111]は言った。「かれらは人間の家を壊して自分たちの家を広げていたまさにその時、かれらの邸宅が人の家に頼っていることを忘れていたのだろう。」。わたしは思った。李林甫や楊国忠たちでさえこの理に明るくなかったのだから、鼠を咎めることはできないと。

  
  亡き曽祖潤生公は、かつて襄陽で一人の僧に会ったが、もともと恵登相[112]の幕客で、流寇の事をすこぶる詳しく述べ、ともに劫数[113]の変え難いことを嘆いた。僧は言った。「わたしに言わせれば、劫数は人のすることで、天のすることではない。明の末年、殺戮淫掠の悲惨さに比べれば、黄巣の流血三千里[114]は言うに足りない。明の中葉以後から、官吏はおしなべて貪婪、紳士はおしなべて横暴、民俗もおしなべて奸悪虚偽で、あらゆる悪事をした。そこで下は凶悪に屈し、上は神の怒りに触れ、百年怨恨憤懣の気が積もり、一朝にして発散したのだ。わたしの見聞では、禍を受けるのがもっとも酷かった者は、いずれも罪悪がもっとも甚だしい者であった。これが天数[115]といえようか。昔、賊の中にいた時、見たのだが、賊がある名家の倅を縛って帳前に跪かせ、倅の妻妾を擁して酒を飲み、尋ねた。『怒ろうとするか。』『とんでもないことでございます。』『仕事することを願うか。』『願います。』。縛めを解き、側でお酌させた。見た者はあるいは太息して忍びなかった。賊の中に陥っていたある老翁が言った。『わたしは今回はじめて因果を知りました。あのものの祖父はかつてしもべの妻をからかい、しもべは異議をとなえると、打って槐に縛り、傍観させて妻と寝ました。この一件だけでも、類推することができましょう。』。」。座に有力者がいて言った。「巨魚は細魚を呑み、鷙鳥は群鳥を打っても、神は怒らないのに、どうして人間にだけ怒る。」。僧は首を振って言った。「かれは魚や鳥にすぎません。人間は魚や鳥なのでしょうか。」。有力者は衣を払って起った。翌日、客を迎えて僧が寓している寺に遊び、辱めようとしたが、すでに旅装を整えて去り、壁に二十字を大書していた。「あなたも言うことはなく、わたしも言うことはない。楼の下には寂として人がおらず、楼上には明月がある。」。有力者の陰事を諷刺しているかと疑われた。後に有力者は結局その一族が滅んだ。

  
  ある郎官[116]の舟が衛河で覆り、一人の妾が溺れた。その屍を探し出したが、両手にはそれぞれ粟一掬を握っていたので、みな怪しいと思った。河岸のある叟は言った。「怪しむに足りません。およそ水に沈んだ者は、上を見れば暗く、下を見れば明るいので、驚き慌て、かならず明るい処から出ることを求めますので、手はみな土を捧げ持つのでございます。溺れた人を調べますと、十の指の爪に泥があるか泥がないかで、生きているときに投げられたか、死んでいるときに棄てられたかを区別します。これはさきに粟を運んだ舟が水底に沈んでおり、粟がまだ腐っていなかったため、捧げ持って手に満ちているだけでございます。」。この論は微に入っているといえる。ただ、上が暗く下が明るいことについては、その理由を言えていない。按ずるに張衡[117]の『霊憲』[118]に言う。「日は譬えれば火のよう、月は譬えれば水のようである。火は外が光っているが、水は(ひかり)を含んでいるのである[119]。」。さらに劉邵[120]の『人物志』[121]にいう。「火や日は外が照り、内が見えず、金や水は内が輝き、外が光ることはできない。だとすれば上が暗く下が明るいのは、もとより水の本性である。」。

  
  程念倫は名を思孝[122]といい、乾隆癸酉甲戌の間[123]、京師に遊びにき、囲碁で国手[124]と称せられていた。如皋の冒祥珠[125]が言った。「かれはわたしといっしょで二流のものだ[126]。今は一流のものがいないので、自惚れているだけだ。」。ある日、門人の呉恵叔[127]らが扶乩し、尋ねた。「囲碁はお得意ですか。」「得意だ。」「凡人と対局しようとなさいますか。」「よろしい。」。時に思倫はわたしの家に寓していたので、ともに囲碁させた。(およそ囲碁の譜は、碁石の位置を数で記し、将棋の譜は、通り道を数で記している[128]。乩仙と囲碁するときは、将棋の方法で行い、縦第九路横第三路に碁石を下すのならば、「九三」とお告げし、あとはすべてこれと同様である。)はじめに数個の碁石を置いたとき、思倫は茫然として解さず、仙機は不測であると思い、名声を損なうことを深く恐れ、思いを凝らしてじっくり考え、背に汗をかき、手が震えて、はじめて一つの碁石を置こうとしたが、心はなおも惴惴[129]としていた。ややしばらくして、特に変わったことはないようだと感じ、思いのままに攻撃すると、乩仙は全局敗れ、部屋中が騒然となった。乩仙はたちまち大書した。「わたしはもともと幽魂で、しばしきて遊び、張三豊の名を騙っただけだ。そこでやや囲碁を解し、すべて答え、この御仁に苦しめられようとは思わなかった。わたしは今からゆこう。」。恵叔は慨然として言った。「長安道上[130]、幽霊も人を欺くか。」。わたしは戯れて言った。「一敗してすぐに真実を吐露するとは、長安道上の鈍鬼のようだ。」。

  
  景州の申謙居先生は、諱を詡[131]といい、姚安公の癸巳の同年であった。天性は和やかで、平生怨み憤る色がなく、孤高独立し、一介も取らず[132]、古の狷者の風があった。衣はかならず縕袍[133]、食はかならず粗糲[134]であった。たまたま門人が祭肉[135]を送ると、市中に持っていって豆腐に換え、言った。「奇矯を好んでいるのではない。本当に食べ慣れていないのだ。」。かつて河間の歳試[136]から帰るとき、童子に一頭の驢馬を引かせ、童子が歩いて疲れれば、乗らせてみずから引いた。薄暮、雨に遭い、荒れた祠に投宿したが、祠は一間だけであり、中に一物もなく、ゆかは汚くて坐せなかったので、板戸一枚を外して戸の前に横臥した。夜半に目覚めると、祠の中で小声で語るのが聞こえた。「外に出て公を避けようとしておりますが、公が戸を塞いでいるので出られません。」。先生は言った。「おまえは戸の中におり、わたしは戸の外におり、ともに害することがないから、避けることはない。」。しばらくするとさらに小声で言った。「男女は区別がございますから、公はわたしを放って出されるべきでございます。」。先生は言った。「戸内と戸外で区別があり、出ればかえって区別がなくなってしまう。」。身を翻して熟睡した。朝になると、村民が見、驚いた。「この中には狐がおり、かつて出て少年を惑わし、人が祠に入ればかならず瓦礫に撃たれていましたのに、公はどうして晏然としているのでございましょう。」。後にたまたま姚安公とこのことに言及し、鬚を扱いて笑った。「狐がいて申謙居を惑わそうとしたのもたいへん珍しいことだ。」。姚安公は戯れて言った。「狐は全天下の人を惑わしているが、絶対君に手が及ばない。奇妙な姿を、狐は見たことがないので、どんな怪物だか分からず、驚き恐れ、逃げようとしたに違いない。先生の人となりを想見することができる。」。

  
  董曲江先輩[137]が言った。乾隆丁卯[138]の郷試で、済南の一僧が寺に寓し、夢みてとある場所にいったが、老樹の下に破屋一間があり、傾き崩れようとしていた。一人の娘が盛装して戸内に坐し、愁え悲しみ、鬱々として憐れであった。誤って他人の奥の間に入ったかと疑い、止まって進もうとしなかった。娘はたちまちかれに向かって遥拝し、涙は涔涔[139]として衣袂を潤したが、終始一言も発せず、胸騒ぎして目が醒めた。数晩後、夢みるとやはりそうであった、娘は顔色がますます悲しく、叩頭すること百余たびに到ったので、逼って尋ねようとしたが、たちまちまた目が醒め、疑いは明らかにできず、ともに寓しているものに告げたが、やはり解せなかった。ある日、寺の庭を散歩していたところ、回廊に古い柩があり、すでに朽ちようとしていた。ふと樹を仰ぎ見れば、夢の中で見たものさながらであった。寺僧に尋ねると、某官の愛妾で、ここに預けて停めてある、きて迎えることを約していたが、今まで数十年、寂として音信がなく、移して埋めようともせず、不安でなすすべなくすること久しいということであった。曲江は豁然として心に悟り、もともと歴城の令と親しかったので、醵金して半畝の地を買い、官に告げて改葬させた。これによって、亡くなった人は土に入ることを安らぎとし、停めることは幽霊の願いではないことが分かる。

  
  朱青雷[140]が言った。高西園[141]がかつて夢みたところ、一人の客が会いにきたが、名刺には「司馬相如」とあったので、驚き怪しんで目が覚めた。何の兆か分からなかった。数日後、思いがけなく司馬相如の玉印を得たが、古沢[142]は斑駁[143]として、篆法[144]は精妙、本当に昆吾刀[145]で刻したものであったので、つねに帯びて身から離さず、いたって親しい者でなければ一見できなかった。塩場[146]で役人をしていた時、徳州[147]の盧丈雅雨[148]が両淮運使[149]となり、この印があることを聞き、会見の時にたまたま求めて見ようとすると、西園は席を離れて半ば跪き、色を正して申しあげた。「鳳翰(わたくし)は半生賓客と交わり、あらゆるものはすべて友人とともにできますが、ともにできないものが二つだけあります。この印と愚妻です。」。盧丈は笑って追いはらった。「誰がおまえの物を奪おう。どうしてそのように執心しようか。」。西園の画品はきわめて高かったが、晩年末疾[150]を得、右腕が不随となり、左腕で揮毫したが、やはり生硬倔強で、いよいよ格別の趣があった。詩格も洒脱で、身を微官に寄せ、蹉跎として歿し、近時の士大夫の間にいたものの、なお先人の遺風に追随することができていた。

  
  楊鉄[151]は詞章は奇麗[152]で、文妖の名を蒙っているが[153]、その名を損なっていない。鞋杯の一事だけは[154]、猥褻淫汚で、無粋の極みであるといえるが、諸々の賦詠に見え、佳話として伝えられている。その後、狂おしい少年が、競って倣い、名士の風流と思っているのは、きわめて不可解なことである。聞けばある豪族が、中元に家で祭りした時、酒を挙げて案の上に置いていると、たちまち一つの杯が爆竹のような音をたて、[155]と中から裂けた。なぜなのかは分からなかった。しばらくして数日前その子が妓女を迎え、この杯で鉄崖の故事に倣っていたことをしった。

  
  太常寺[156]の仙蝶[157]、国子監[158]の瑞柏[159]が、聖藻[160]を賜わったことは、人々はみな知っている。翰林院の金槐は、数人が合わせ抱き、(こぶ)がたくさんあって築山のよう、人にはこれも知っているものがいる。礼部の寿草[161]は、人がすべて知っているわけではない。この草は春に紅い花を開き、火斉[162]を綴っているかのよう、秋に実を結べば珠のよう、『群芳譜』[163]、『野菜譜』[164]にはいずれもこれを載せず、その名を知らなかった。あるひとは田塍公道老(この草は二つの家の田の(あぜ)に種え、これによって境界を知り、犁が及ばなければ一茎も傍らに生えないが、犁がやや侵せばすぐに蔓延して止まず、かえって侵した面積を超えるので、この名を得ている。)だといった。わたしがくわしく調べる[165]と、葉は鋸歯で、やや似ていたが、花は似ていなかったから、その説は間違っている。穿堂[166]の北、事務所の階の前、甬道の西にあり、言い伝えでは、国初から生えており、年を経てだんだん籘本となったという。今は二叉に分かれ、長い枝が参差とし、挺然たる老木となっている。曹地山先生[167]はこれを名づけて長春草といった。わたしは礼部尚書の職にあった時、木の柵を作って守った。門人の陳太守I[168]は、時に員外の職にあったが、その図を作らせた。そもそも醲化[169]が深く、和気が育まれると、一草一虫もそれぞれこのように命を養うのであった。礼部には連理の槐もあり[170]、斎戒する処[171]の南の檐の下にある。鄒小山先生[172]が侍郎の職にあった時、かつて図を描き、詩を題したが、今なお庫に貯えてあるが、大小二本の槐が、並んで生じ、枝と幹が纏わり抱きあっているだけであり、本当に連理というわけではなかった。

  
  道家は祈禳[173]を語り、仏家は懺悔を語り、儒家は徳を修めれば妖に勝るという。二氏はその末を治め、儒者はその本を治めている。族祖雷陽公は数頭の羊を養っていたが、一頭の羊がたちまち人のように立って舞ったので、人々は不吉だと思い、羊を殺そうとした。雷陽公は言った。「羊がどうして舞えよう。憑いている者がいるのだ。「石が晋で語った。」というが、『左伝』の趣旨は明らかだ[174]。禍がすでに完成しているなら、羊を殺しても益はない。禍が完成しておらず、鬼神がこれによってわたしを戒めているのなら、徳を修めるだけ、どうして羊を殺すことがあろう。」。それから一言一動、聖賢に対しているかのようであった。後に順治乙酉の抜貢となり、戊子に副榜に合格し、通判で終わったが、結局わずかな禍もなかった。

  
  三従兄の暁東が言った。「雍正丁未に会試から帰った時、一人の乞食女を見た。口が項に生じ、飲食するさまは常人のようであったが、人妖だろうか。」。わたしは言った。「これはたまたま異気に感じただけで、(あやかし)ではない。駢拇枝指[175]も人々と異なっているが、妖といえようか。わたしは豚の二身一首のもの、牛の背に一足が生じているものを見た。また、聞家廟の社会[176]である人を見たが、右の手のひらは大きさが箕のよう、指は大きさが椎のようだが、左手は通常のようであり、日々右手で筆を取り、書画を売っていた。讖緯を談ずる者に見せると、かならずこれは豕禍[177]、これは牛禍[178]、これは人痾[179]だといい、は何かの禍が起ころうとしているのだ、あるいはある事に反応しているのだという。しかしわたしが見た諸々の異常は、すこしも験がなく、わたしは漢儒の学ではもっとも『春秋』の陰陽[180]、『洪範五行伝』[181]を信じず、宋儒の学ではもっとも『河図洛書』[182]、『皇極経世』[183]を信じない。」。

  
  房師[184]孫端人先生[185]は、文章は淹雅[186]で、性来酒を嗜んでいた。酔った後に作ったものも、醒めている時と異ならず、館閣[187]の諸公は、斗酒百篇[188]の亜流と思っていた。雲南を督学した時、月夜にひとり竹薮の下で飲み、ぼんやり見ると一人の男が壷と盞を注視し、羨んでいるかのようであったので、鬼物だと悟ったが、恐れもせず、ただ手で盞をおさえて言った。「今日は酒は多くございませぬから、譲られませぬ。」。その人はゆっくりと隠れた。酒が醒めてから悔いた。「きて猟酒[189]することができるなら、俗な幽霊ではあるまい。わたしに猟酒しようとするなら、わたしを嫌いでもないだろうから、どうしてかれの来意に背けよう。」。美酒三巨碗を買い、夜に小さい(つくえ)で竹の間に並べた。翌日見ると、酒は元通りであったので、嘆いた。「あの御仁は風雅であるばかりでなく、狷介でもある。やや戯れただけでは、一滴も賞味されない。」。幕客のあるものが言った。「鬼神は酒の匂いを食らうのでございます。どうして本当に飲めましょう。」。先生は慨然として言った。「それなら酒を飲むことは幽霊にならぬ間にするべきだ、将来その匂いだけを喜ぶことになってはならない。」。先生のおい漁珊[190]が、建の学幕にいたとき、わたしのために述べた。思うに魏晋の諸賢は、人を去ること遠くない。

  
  銭塘の兪君祺(たまたまその(あざな)を忘れたが、佑申であったようである。)は、乾隆癸未に、わたしの学署におり、たまたまその『野泊して寝ず』の詩を見て言った。「蘆荻荒寒[191]野水平らかに、四囲唧唧として虫の声あり。長眠の人もまた眠ること穏やかなり難し、ひとり枯松に倚りて月明を見る。」。わたしは言った。「杜甫の詩に。『巴童[192]渾べて寝ず、夜半行舟あり[193]。』という。張継の詩に。『姑蘇城外寒山寺、夜半の鐘声客船に到る。』という。いずれも対面落筆[194]の手法に従い、夜半に聞けたことによって、眠っていないことを書き出しており、巴童の舟、寒山寺の鐘を詠んだのではない。君はこの手法を用い、よく奪胎しているといえる。しかし杜、張が語っていたものは眼前の景物なのに、君が突然幽霊を語っているのは、たいへん愚か[195]ではないか。」。兪君は言った。「その晩、本当に、遠くの月下で、一人の男が樹に寄って立っているのを見たのだ。文士のようであったので、近づいて談じ、寂しさを消そうとしたが、十余歩離れたところで、冉冉として消えたので、この言葉ができたのだ。」。鍾忻湖[196]は戯れて言った。「『雲中の鶏犬劉安(よぎ)[197]、月裡の笙歌煬帝帰る。』[198]、唐人はこれを『見鬼詩』といい[199]、さらに仮想であることを嫌った。公のこの作などは、本当にその名[200]に恥じない。」。

  
  霍丈易書[201]が言った。海大司農がこう言っていた。「名家の子がおり、墳園[202]で勉強していた。園外の住民数十家は、すべて豪族の墓守であった。ある日、塀の隙間から美女が半面を現したので、注視しようとすると、すでに逃げ去っていた。数日後、見ると塀の外で野の花を採っており、しばしば凝視して塀の中を望み、塀の隙間に登り、その半身を現したりしていたので、東家が宋玉を窺っているのだと思った[203]。すこぶる夢に纏わりついたので、ひそかに思った。『この地にいる者はみな不細工なのに、このような美女がいるのはおかしい。また見るものはみな荊釵布裙[204]であるのに、この女だけが盛装しているのはおかしい。』。心に狐鬼かと疑い、やはり流し目したが、一言も交わさなかった。ある晩、ひとり樹の下に立っていると、塀の外で二人の女がひそかに語っていた。一人の女が言った。『あなたの意中の人が月下を散歩していますから、近づかれてはいかがでしょうか。』。もう一人の女は言った。『あのかたはわたしを狐鬼だと疑っていますから、いたずらに驚き恐れさせることはございません。』。一人の女がまた言った。『青天白日にどうして狐鬼がいましょう。愚か者はかくも道理を解さないのですね。』。名家の子はそれを聞くとひそかに喜び、衣を掲げて出ようとしたが、たちまち猛省して言った。『みずから狐鬼でないと称しているが、かれらが狐鬼であることは確かだ。天下の小人にみずから小人と称する者はいない。みずから称さないだけでなく、かならず小人をひどく謗ってみずからが小人でないことを明らかにする。この(あやかし)はその術を用いているのだ。』。腕を振って帰った。翌日ひそかに訪ねると、はたしてこの二人の女はおらず、ふたたび来ることもなかった。」。

  
  呉林塘[205]が言った。以前秦隴[206]に遊んだ時に聞いたのだが、猟師が少華山[207]麓におり、見ると二人の男が[208]と樹下に臥しており、呼ぶとまだなんとか起きられた。そこで尋ねた。「どうしてこちらで倒れています。」。一人が言った。「わたしたちは狐に惑わされたのです。はじめ、わたしは夜歩いていて道に迷い、一軒の山家に投宿しましたが、たいへん美しい一人の少女が、隙を伺ってわたしをからかいましたので、わたしは心を抑えられなくなり、すぐに親しみました。すると、かれの両親に窺われ、ひどく罵り辱められました。わたしは跪いてお願いし、はじめて鞭うちを免れました。その後、かれの父母はくどくど語っていましたが、相談しているかのようでした。翌日、わたしを納めて婿にしましたが、山の上に主人の娘がいるので、交代で労役する、五日に一度当直し、五日は帰ることを取り決め、わたしもそれに安んじました。半年後、癆咳を病み、夜、嗽が出て寝られなくなり、林を散歩しました。すると談笑する声がしましたので、たまたま行って尋ねて見ますと、数()の家があり、男がわたしの妻を擁して石に坐し、月を見ていましたので、たいへん怒り、病をおして男と闘おうとしました。その男も怒りました。『下種野郎がおれの女房を覗き見しようとするか。』。やはり奮いたって殴りました。さいわいかれも病んで疲れていましたので、牽きあってともに倒れました。妻は石の上に安坐し、笑いました。『おまえたちは闘うな。わたしははっきりおまえに告げよう。わたしは本当は二つの家を往来しており、どちらにも当直しろと嘘を言い、おまえたちを五日休息させ、精を蓄えさせ、採補[209]に供していたのだ。今、事は露顕したし、おまえたちの精も尽き、必要がなくなったから、去るとしよう。』。たちまち見えなくなりました。わたしたちは迷って出られず、飢えてこちらに倒れましたが、さいわいあなたたちに遇い、救われたのでございます。」。もう一人の言うことも同じであった。猟師が乾糒(ほしいい)を食べさせると、やや歩けるようになり、引いてその場所を見せた。二人はともに訝った。「以前は、壁や塀はもちろん土、梁や柱はもちろん木、門はもちろん開閉でき、窓はもちろん開閉でき、すべて確かに形があり、幻ではありませんでした。今はどうしてすべて土窟(つちむろ)となっているのでしょうか。中庭は地面が平らで(といし)のよう、浄らかで拭いたかのようでした。今はどうして土窟(つちむろ)以外は、ごつごつとして足を容れられないのでしょうか。窟の広さは数尺もなく、狐はもとより入ることができますが、どうしてわたしたち二人が入れましょう。わたしたち二人の体も変化させられたのでしょうか。」。一人が見ると、向かいの崖の上に破れた磁器があったので、言った。「これはわたしが持って楼に登ったとき、手を滑らせて砕いたものでございます。今は絶壁で路がございませんが、当時、どうして上り下りしたのでしょうか。」。四方を顧みて徘徊したが、すべて惘惘として夢のようであった。二人は狐女をたいへん恨み、猟師を招き、山に入って捕らえさせようとした。猟師は言った。「たまたま遇い、佳偶(めおと)となるなど、世にこのようなうまい話はございません。話がたいへんうまければ、かならずうまくないことがございます。魚が針を呑むのは、餌を貪るから、猩猩が血を流すのは、酒を嗜むからでございます[210]。あなたがた二人はみずからを恨むべきでございますのに、どうして狐を恨まれます。」。二人は黙して止めた。

  
  林塘はさらに言った。ある少年が狐に惑わされ、日に日に憔悴したが、狐はなおもしばしばやってきた。後にまたともに寝たが、すでに疲れて女を相手にすることができなかったので、狐は衣を着ると辞して去ろうとした。少年は泣いて引きとめたが、狐はまったく顧みなかった。怒ってその薄情を責めると、狐も怒った。「あなたとはもともと夫婦の誼がなく、採補のために来ただけでした。あなたは精がすでに尽きました。採るものがなくなったのに去らないのですか。これは権勢によって交わる者は、権勢が破れれば離れ、財貨によって交わる者は、財貨が尽きれば散じるようなものです。ねんごろに媚びているのは、もとより権勢と財貨のためで、その人に情があるのではありません。あなたは某家や某家を、いずれもそのかみ師匠と恃んでいましたが、今はどうして音信を久しく絶っているのですか。それなのにわたしだけを責めるのですか。」。その声はたいへん激しく、看病していた者はそれを聞くとみな太息した。少年は顔を背けて奥に向け、寂として一言も発しなかった。

  
  汪旭初[211]が言った。扶乩する者を見たが、その乩仙はみずから張紫陽[212]と称していたので、『悟真篇』[213]について尋ねたが、答えられず、ただ「金丹の大道は、軽々しく伝えようとしないのだ。」とお告げするばかりであった。たまたましもべの妻が資金を盗んで逃れると、しもべは尋ねた。「まだ追って捕らえることができますか。」。乩仙は判じた。「おまえは過去生において、財貨で人を誘い、かれの妻を買い、さらに飲酒賭博に誘い、かれの財産を奪った。この人が今世で会い、おまえの妻を誘って逃れたのは、妻を買った報いだ。資金を盗んだのは、財産を奪った報いだ。冥数[214]は先に定まっており、追って捕らえることもできないから、やめたほうがよい。」。旭初は言った。「真仙[215]はもとより嘘をつかない。しかしこの論が一たび出ると、およそ奸盗はみな夙因によるものだから、追って捕らえることがなくてよいということになり、悪事を助長するではないか。」。乩仙は答えられなかった。疑う者は言った。「この扶乩する者は、しばしば狡獪な不良少年に従って遊んでいますから、誰かがしもべの妻を隠してこのことを言わせているのかも知れません。」。ひそかに人を遣わして探らせた。薄暮、はたしてとある曲巷[216]に赴き、屋根に登ってこっそりと伺えば、集まって賭博しており、しもべの妻がまさに厚化粧してお酌していた。ひそかに邏卒を呼び、住居を囲ませると、頭を垂れて縛に就いた。法律が師巫(かんなぎ)を禁じるのは、奸民[217]がその中に潜伏しているからである。藍道行[218]はかつてこの術を借り、厳嵩に敗れたが、論者があまり悪いと思わなかったのは、嵩を憎んでいたからである。しかし、楊、沈の諸公[219]が、血を流し[220]首を砕いても[221]争えなかった者なのに[222]、一人の方士が従容として談笑し、かれの生死を制することができるとしたら、その力も大きかr。排除しyとした者が嵩だったのはさいわいだったが、排除が清流に及べば、韓、范、富、欧陽[223]も、かれと対抗できようか。だから乩仙の術は、士大夫の偶然の遊戯であり、詩詞を倡和しても、劇を見るのと同じだと考えればよく、それを借りて吉凶を卜するなら、君子はその結果を恐れるべきである[224]

  
  従叔の梅庵公が言った。「淮鎮[225]の人家に五間の空屋があったので、別の敷地[226]とし、什物を貯えていた。子供は多くは遊びにゆき、跳びはね、踏みしだき、すこぶる騒いだ。戸に鍵を掛けて禁じれば、ひそかに低い塀を越えて入った。通知を大書して戸に貼り、言った。「この部屋は狐仙が住んでいるから、汚すことはできない。」。ひとまず子供を恐れさせようとしただけであった。数日後、夜に窓の外で語るのが聞こえた。「お招きになったことに感謝いたします。すでに引っ越してまいりましたから、あなたのために堅くこの敷地をお守りしましょう。」。その後、人が入ることがあると、磚瓦に撃たれたので、奴隷で什物を運ぶ者もゆこうとしなかった。しばらく修理しなかったので、すっかり崩れてしまい、狐仙は去った。これが「妖は人からおこる[227]」ということである。

最終更新日:20191126

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[1]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB9Zdic8C282532.htm御史台。紀ホは左都御史を三度勤めた。『清史稿』巻三百二十・紀ホ伝「紀ホ、字曉嵐、直隸獻縣人。乾隆十九年進士、改庶吉士。散館授編修。再遷左春坊左庶子。京察、授貴州都府知府。高宗以ホ學問優、加四品銜、留庶子。尋擢翰林院侍讀學士。前兩淮鹽運使盧見曾得罪、ホ為姻家、漏言奪職、戍烏魯木齊。釋還、上幸熱河、迎鑾密雲。試詩、以土爾扈特全部歸順為題、稱旨、復授編修。三十八年、開四庫全書館、大學士劉統勳舉ホ及郎中陸錫熊為總纂。從永樂大典中搜輯散逸、盡讀諸行省所進書、論次為提要上之、擢侍讀。上復命輯簡明書目。坐子汝傳積逋被訟、下吏議、上ェ之。旋遷翰林院侍讀學士。建文淵閣藏書、命充直閣事。累遷兵部侍郎。四庫全書成、表上。上曰、表必出ホ手。命加賚。遷左都御史。再遷礼部尚書。復為左都御史。畿輔災、饑民多就食京師。故事、五城設飯廠、自十月至三月。ホ疏請自六月中旬始、廠日煮米三石、十月加煮米二石、仍以三月止、從之。復遷礼部尚書、仍署左都御史。疏請會試春秋罷胡安國傳、以左傳本事為文、參用公、穀、從之。嘉慶元年、移兵部尚書。復移左都御史。二年、復遷礼部尚書。疏請婦女遇強暴、雖受、仍量予旌表。十年、協辦大學士、加太子少保。卒、賜白金五百治喪、諡文達。」

[2]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6ZdicB3Zdic9512651.htm官署。ここでは御史台。

[3]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE4ZdicBCZdic9A92784.htmまって審議決定すること

[4]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE8ZdicA5ZdicBF186680.htm皇城西華門西の苑名。

[5]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE9Zdic80Zdic80246757.htm朝廷を退出して、自宅で食事、休憩すること。

[6]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE7Zdic99ZdicBD313223.htmを伝達する官

[7]未詳

[8]http://baike.baidu.com/view/3329389.html?fromsyno&hold=source書名

[9]http://baike.baidu.com/view/71229.htm書名

[10]これは『北史』の列女伝のこと

[11]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic8FZdicB2110736.htm修史の法。後夫に殉じた女性を列女とするのは破格であると言いたいのであろう。

[12]http://baike.baidu.com/view/225962.htm

[13]http://www.ourbase.net/bbs/article-134204--3.html「禽之行、在于聚麀、人之体、于内外。陵公主逼幸告誰謂敤首之、翻見斉襄之耻。

[14]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE9Zdic80ZdicBC48541.htm帝王后妃下位に淫行を迫ること

[15]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicBBZdic9358835.htm

[16]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8Zdic82Zdic9D223054.htm肺腑

[17]『史記』巻八十六・豫讓「既去、頃之、襄子當出、豫讓伏於所當過之橋下。襄子至橋、馬驚、襄子曰、此必是豫讓也。使人問之、果豫讓也。於是襄子乃數豫讓曰、子不嘗事范、中行氏乎。智伯盡滅之、而子不為報讎、而反委質臣於智伯。智伯亦已死矣、而子獨何以為之報讎之深也。豫讓曰、臣事范、中行氏、范、中行氏皆#人遇我、我故#人報之。至於智伯、國士遇我、我故國士報之。襄子喟然歎息而泣曰、嗟乎豫子!子之為智伯、名既成矣、而寡人赦子、亦已足矣。子其自為計、寡人不復釋子。使兵圍之。豫讓曰、臣聞明主不掩人之美、而忠臣有死名之義。前君已ェ赦臣、天下莫不稱君之賢。今日之事、臣固伏誅、然願請君之衣而擊之、焉以致報讎之意、則雖死不恨。非所敢望也、敢布腹心。於是襄子大義之、乃使使持衣與豫讓。豫讓拔劍三躍而擊之、曰、吾可以下報智伯矣。遂伏劍自殺。死之日、趙國志士聞之、皆為涕泣。」

[18]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicBAZdic9412863.htm君臣、父子、兄弟、夫妻、朋友つの関係

[19]原文「惟朋友以義合」。「以義合」が未詳。文脈からして、ここでは対等平等な関係ということか。

[20]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5Zdic8EZdic9A317700.htm善良であり、刻薄でないこと。

[21]未詳だが、文脈からして正直ということであろう。http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE7Zdic9BZdicB417236.htm

[22]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA934346.htm天が定めたつながり

[23]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic891511.htm君臣、父子、夫のつながり。道義の根本。

[24]http://baike.baidu.com/view/109981.htm

[25]http://baike.baidu.com/view/159778.htm

[26]題名は『国士』。http://www.capaw.com/QINGSH/ShowArticle.asp?ArticleID=10565

[27]『列子』「柱誌f事莒敖公、自以為不知、而去居於海上、夏日則食菱芡、冬日則食橡栗。莒敖公有難、柱誌f辭其友而往死之。其友曰、子自以為不知故去、今又往死之、是知與不知無異別也。柱誌f曰、不然。自以為不知故去。今死而弗往死、是果知我也。吾將死之以醜後世人主之不知其臣者也、所以激君人者之行、而諮l主之節也。行激節氏A忠臣幸於得察。忠臣察則君道固矣。」。

[28]目的語は「報い」であろう。

[29]『説苑』にこの話なし。

[30]乾隆二十七年。千七百六十二年。

[31]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic88Zdic8626401.htm科挙の試験官

[32]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicA7Zdic80183570.htm清秀瘦削

[33]http://baike.baidu.com/view/3379.htm

[34]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE8ZdicB0ZdicAF339891.htm上の望楼

[35]http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E5%A5%B3%E8%98%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

http://baike.baidu.com/view/275836.htmhttp://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E6%9D%BE%E8%90%9D&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

[36]「黄金の絲」は柳の若い枝の喩え。

[37]山東曹州府の県名。

[38]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6Zdic97Zdic8C347775.htm忠孝節義の人のために牌坊を建て、匾って表彰すること。

[39]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E181616.htm神の道

[40]未詳

[41]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic9CZdicBA343446.htm農作業用の庭

[42]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE5Zdic97ZdicB790433.htm哀号するさま

[43]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic8AZdicA5346465.htm神に感謝すること

[44]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5Zdic93Zdic91108751.htm驚いてなかなか喋れないさま

[45]「糊塗」は「馬鹿な」という意味

[46]これは書名の通志ではなく、普通名詞の通志で、具体的には『山西通志』であろう。

[47]たとえば、同じ山西省の文水県に「狐突廟」がある。http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/k135/image/06/k135s0472.html

[48]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic9DZdic9C134503.htm「杜拾遺」が同音の「杜十姨」誤解されたというある。『席上腐』巻上「温州有土地杜拾姨無夫、五撮鬚相公無。州人迎杜拾姨以配五撮鬚、合杜十姨為誰。乃杜拾也。五撮鬚為誰。乃伍子胥也。」

[49]http://baike.baidu.com/view/224893.htm

[50]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%A5%B5%E5%9B%B3http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E5%A4%AA%E6%A5%B5%E5%9C%96&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

[51]未詳。巻四に見える。

[52]『清史稿』巻一百七十・一等伯莽古爾代等「英徳阿什譚弟之子。康熙五十年五月襲。以事革。

[53]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA0Zdic9A187827.htm一種

[54]http://baike.baidu.com/view/1076351.htm

[55]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6ZdicB3ZdicA22525.htm筆画

[56]http://baike.baidu.com/view/97773.htm?func=retitlehttp://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E7%A8%8B%E9%82%88&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

[57]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%9B%B3%E6%B4%9B%E6%9B%B8

[58]http://baike.baidu.com/view/4151.htmhttp://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E6%B2%B3%E5%9C%96&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

[59]http://baike.baidu.com/view/102528.htm#1http://www.google.com/images?um=1&hl=zh-CN&lr=&tbs=isch%3A1&sa=1&q=%E6%B4%9B%E6%9B%B8&btnG=Google+%E6%90%9C%E7%B4%A2&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=&start=0

[60]http://baike.baidu.com/view/201216.htm

[61]http://baike.baidu.com/view/51813.htm

[62]http://baike.baidu.com/view/50912.htm

[63]原文「『繫詞』又何以別之曰書乎。」未詳。とりあえずこう訳す。

[64]『尚書』の篇名

[65]ここでは『漢書』の五行志のこと。漢書』卷二十七「初一曰五行、次二曰羞用五事、次三曰農用八政、次四曰用五紀、次五曰建用皇極、次六曰艾用三徳、次七曰明用稽疑、次八曰念用庶、次九曰嚮用五福、畏用六極。凡此六十五字、皆雒書本文、所謂天乃錫禹大法九章常事所次者也。」

[66]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/108789.htm&sa=U&ei=X0wITIiDBcSrcY-SpPoN&ct=res&ved=0CAcQFjAA&cd=1&usg=AFQjCNHvJtE1R7cYy85tqkw5cyvQkAP6QQ

[67]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/408614.htm&sa=U&ei=iUwITNn9EYqPcc_FlIYO&ct=res&ved=0CAUQFjAA&cd=1&usg=AFQjCNG117tZaHWtDiGX15hIZpVrouBvgg

[68]http://www.google.com/url?q=http://www.xysa.net/a200/h350/12zhoushu/t-024.htm&sa=U&ei=v4EITL_KDcircfLMmacO&ved=0CAUQFjAA&usg=AFQjCNGfcI7wX_e8JSEPxSelOPMe3c32mg

[69]『大戴礼』の篇名。http://zh.wikisource.org/zh/%E5%A4%A7%E6%88%B4%E7%A6%AE%E8%A8%98/%E6%98%8E%E5%A0%82

[70]http://www.zdic.net/cd/jd/2/ZdicE4ZdicB9Zdic9D320631.htm明堂の九つの部

[71]ここでは洛書のことであろう。洛書は亀に乗って現れたとされる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%9B%B3%E6%B4%9B%E6%9B%B8

[72]『大戴礼』明堂「明堂月令、赤綴、白綴傭也。二九四七五三六一八。盧辯注「記用九室謂法龜文、故取此數以明其制也。」

[73]http://baike.baidu.com/view/847027.htm

[74]『朱子語類』巻第八十八・大戴礼「明堂篇、其制度有「二九四七五三六一八」、鄭注云、「法龜文」也。」

[75]紀ホは『四庫全書総目提要』では、朱子がわざと盧辯の注を鄭康成の注としたと述べている。後注参照。

[76]http://baike.baidu.com/view/621640.htm#4_5http://baike.baidu.com/view/42407.htm

[77]http://baike.baidu.com/view/1383632.htmhttp://zh.wikisource.org/zh-hans/%E5%91%A8%E6%98%93%E4%B9%BE%E9%91%BF%E5%BA%A6

[78]『四庫全書総目提要』洪範皇極「後人以乾鑿度太乙行九宮法。指爲洛書。(案史記日者列傳所載占日七家。太乙家居其一。漢書載太乙諸術亦列於五行家。明爲方技之。事不出於經義矣。)盧辯註大戴礼記明堂篇。始附合於龜文。(案盧辯北齊人。其最爲出。朱子引此註以證龜書。指爲鄭康成撰。朱子博極羣書。豈不知康成未註大戴礼記。特欲申龜文之。別無古證。是不得不移之鄭康成耳。)」http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/ShikoTeiyo/0223602.html

[79]『漢書・藝文志』に「太乙家」という言葉なし。

[80]巻七、二十二に見える。

[81]http://baike.baidu.com/view/57522.htm

[82]未詳。巻一にも出てくる。

[83]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5Zdic96Zdic93114348.htm虫の鳴く声

[84]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE8Zdic93ZdicAC323731.htm

[85]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE7ZdicBAZdicA8205982.htm富豪の子弟

[86]田中儀。字は無昝、号は白岩、詩人田雯の子、徳州の人。歳貢生、鑾儀衛経歴となる。詩詞を好み、『紅雨書斎詩集』がある。

[87]http://www.hudong.com/wiki/%E7%9C%9F%E5%B1%B1%E6%B0%91

[88]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicBAZdic91268847.htm雲水は僧侶道士。http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE6Zdic95ZdicA3323390.htm散人は散自在の人。いずれも真山民のこと。

[89]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE9Zdic97ZdicB2274137.htm閑雲」は悠然と浮かぶ雲。http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9Zdic87Zdic8E286693.htm「野鶴」は士。いずれも真山民のこと。

[90]科挙の受験生が答案を書く、号房という独房には、千字文に基づいて名がつけられている。「秋」は千字文の第二十一番目の字。

[91]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic8FZdicB7188482.htm科挙の試験場の監視員

[92]原文「不牒其商所問真贗」。「牒」が未詳。とりあえずこう訳す。

[93]『太平御覧』巻四百二十一・義中「『会稽賢伝』曰、陳業、字文理。郡守府君卒、双率礼送。双道溺于水、因掘泥波、出其尸。又兄度海、復見傾命、同依止者乃五六人、骨肉消而不可記別仰皇天、誓后土、曰、聞親戚者、必有異焉。因割臂流血、以洒骨上、応時得血住、皆流去。」

[94]巻二える

[95]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE7Zdic99ZdicBE292051.htmさまざまな神霊

[96]未詳

[97]http://baike.baidu.com/view/219737.htm?func=retitle

[98]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE5Zdic89ZdicAF102755.htm清代都察院副官左副都御史の

[99]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E8%A5%BF%E4%BB%80%E5%BA%AB&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[100]http://baike.baidu.com/view/99633.htm子夏のこと。子供を失い、悲しみのあまり失明したという。

[101]http://baike.baidu.com/view/225991.htm郗愔の子で、父に先立って死んだが、父を悲しませないため、遺言して、東晋から禅譲を受けることを目論んでいた桓温との密書を、東晋に忠実であった父に見させ、怒った郗愔は郗超を哭することをやめたという。

[102]原文「均視如萍水之相逢」。水面のウキクサが離合するような偶然の出会い。http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE8Zdic90Zdic8D312049.htm

[103]http://www.zdic.net/cd/jd/18/ZdicE8ZdicB9Zdic99226010.htm不安なさま、憂えるさま

[104]http://baike.baidu.com/view/3305229.html?goodTagLemma原文「落入俎」。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE4ZdicBFZdic8E.htm俎はここでは祭器のこと

[105]「香」は「相」、「絲」は「思」と同音。

[106]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8ZdicA1ZdicA86915.htm自分と姓が異なる、女のいとこ

[107]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8A326224.htm上品、上等

[108]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE8Zdic83ZdicB6156100.htm乱れたさま

[109]典拠がありそうだが未詳。

[110]http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%8D%97%E6%96%B0%E4%BB%93

[111]未詳

[112]http://www.lsqn.cn/mingren/RWJS/ancient/200703/18035.html

[113]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic8AZdicAB27323.htm厄運、災、死

[114]典故未詳。「流血三千里」という言葉は、『後漢書』天文志上・王莽三「四年六月、漢兵起南陽、至昆陽。莽使司徒王尋、司空王邑將諸郡兵、號曰百萬#、已至者四十二萬人、能通兵法者六十三家、皆為將帥、持其圖書器械。軍出關東、牽從象虎狼猛獸、放之道路、以示富強、用怖山東。至昆陽山、作營百餘、圍城數重、或為衝車以撞城、為雲車高十丈以瞰城中、弩矢雨集、城中負而汲。求降不聽、請出不得。二公之兵自以必克、不恤軍事、不協計慮。莽有覆敗之變見焉。晝有雲氣如壞山、墮軍上、軍人皆厭、所謂營頭之星也。占曰、營頭之所墮、其下覆軍、流血三千里。える

[115]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA9282402.htmめた運命

[116]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9Zdic83Zdic8E51024.htm侍郎、郎中等の

[117]http://baike.baidu.com/view/16543.html?tp=0_11

[118]http://baike.baidu.com/view/169110.htm

[119]原文「水則含景」。「含景」が未詳。とりあえずこう訳す。漢典は「含景」に関して「日光照。」と説く。http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE5Zdic90ZdicAB77125.htm

[120]http://baike.baidu.com/view/162653.htm

[121]http://zh.wikipedia.org/zh/%E4%BA%BA%E7%89%A9%E5%BF%97

[122]未詳

[123]乾隆十八年から十九年。千七百五十三年から千七百五十四年。

[124]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5Zdic9BZdicBD346303.htm一国であるにつきも突出した人

[125]未詳

[126]原文「是與我皆第二手」。未詳。とりあえずこう訳す。

[127]巻六・十三・二十一・二十四に見える。

[128]原文「凡弈譜、以子記數、象戲譜、以路記數。」未詳。とりあえずこう訳す。

[129]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE6Zdic83ZdicB4181534.htm憂え恐れるさま

[130]原文同じ。ここでは北京のこと。

[131]未詳

[132]http://www.zdic.net/cd/jd/1/ZdicE4ZdicB8Zdic80330141.htm『孟子·万章上』に出典のある言葉。

[133]麻をつめたどてらhttp://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicBCZdic8A38216.htm

[134]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7ZdicB2Zdic9735803.htm粗悪な食物。

[135]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7ZdicA5ZdicAD175821.htm祭祀の供える肉

[136]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicB2Zdic8165034.htmhttp://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicB2Zdic81284436.htm清代に学政が、年所属の府、州、生に対して行する考

[137]http://baike.baidu.com/view/143641.htm

[138]千七百四十七年、乾隆十二年

[139]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6ZdicB6Zdic9464285.htm雨や涙の止まらぬさま

[140]朱青雷、名は文震、山東済南の人。http://baike.baidu.com/view/211759.htm

[141]http://baike.baidu.com/view/226094.htm

[142]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic8FZdicA4110683.htm漢典は「古人文所示出来的色彩与」と説くが、ここでは玉印の示す色沢であろう。

[143]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic96Zdic91292058.htm彩りが豊かなさま

[144]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE7ZdicAFZdic86199685.htm篆書

[145]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic98Zdic8669161.htm

[146]製塩場

[147]山東済南府の州名。

[148]http://baike.baidu.com/view/209119.htm 

[149]両淮運使。「両淮」は江江以北淮河南北の地区。http://baike.baidu.com/view/324766.htm 運使は官名。http://baike.baidu.com/view/57367.htm 

[150]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE6Zdic9CZdicAB311939.htm四肢の疾患

[151]http://baike.baidu.com/view/885490.htm

[152]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicA5Zdic87299212.htm新奇美

[153]『涌幢小品』文淫妖「布衣王彝、字宗常、有操行、文本経術。会稽楊維禎以文主盟四海、彝独薄之曰、文不明道、而徒以色惑人、媚人、所淫于文者也。作『文妖』数百言之。洪武初、召修『元史』。

[154]『南村』巻二十三・金杯「楊鉄崖耽好声色、于筵間見歌児舞女有小者、脱其鞋载盏以行酒、之金杯。」http://zh.wikisource.org/zh-hans/%E8%BC%9F%E8%80%95%E9%8C%84/%E5%8D%B723

[155]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE5Zdic89ZdicA829507.htm擬音語

[156]http://baike.baidu.com/view/66484.htm官署名

[157]http://zh.wikisource.org/zh/%E8%97%A4%E9%99%B0%E9%9B%9C%E8%A8%98/%E5%8D%B73藤陰雜記』巻三にも見える。

[158]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%90%E7%9B%A3http://baike.baidu.com/view/7406.htm

[159]未詳

[160]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic9CZdicA3194649.htm帝王の文辞。ここでは詩を賜わることであろう。前注で示した『藤陰雜記』巻三に、太常寺の仙蝶が御製の詩を賜ったことを載せている。

[161]未詳

[162]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE7Zdic81ZdicAB295035.htmhttp://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE7Zdic81ZdicAB173003.htm宝珠

[163]http://baike.baidu.com/view/650899.htm

[164]http://www.hudong.com/wiki/%E9%87%8E%E8%8F%9C%E8%B0%B1

[165]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE8ZdicB0Zdic9B250323.htm

[166]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA9ZdicBF32115.htm房屋の

[167]http://www.hudong.com/wiki/%E6%9B%B9%E7%A7%80%E5%85%88

[168]未詳

[169]http://www.zdic.net/cd/jd/20/ZdicE9Zdic86ZdicB239555.htm徳政で黎民を教化すること

[170]未詳

[171]原文「齋戒處」。普通名詞と解す。

[172]http://baike.baidu.com/view/94732.htm

[173]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE7ZdicA5Zdic88168190.htm祈祷して福を求め災を除くこと

[174]『春秋左傳』昭公八年「傳八年。春。石言于晉魏。晉侯問於師曠曰。石何故言。對曰石不能言。或馮焉。不然。民聽濫也。抑臣又聞之曰。作事不時。怨讟動于民。則有非言之物而言。今宮室崇侈。民力彫盡。怨讟並作。莫保其性。石言不亦宜乎。於是晉侯方築虒祁之宮。叔向曰。子野之言君子哉。君子之言。信而有。故怨遠於其身。小人之言僭而無。故怨咎及之。詩曰。哀哉不能言。匪舌是出。唯躬是瘁。批癆\言。巧言如流。俾躬處休。其是之謂乎。是宮也成。諸侯必叛。君必有咎。夫子知之矣。」

[175]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE9ZdicAAZdic88343115.htm駢拇親指第二指結合したもの枝指は手の親指が分岐して六本指になったもの。無用なもののたとえ。

[176]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE7ZdicA4ZdicBE290962.htm土神を祭る集会

[177]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE8ZdicB1Zdic95236632.htm豚のもたらす禍

[178]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE7Zdic89Zdic9B146964.htm牛のもたらす禍

[179]http://www.zdic.net/cd/jd/2/ZdicE4ZdicBAZdicBA17871.htm妖異が人に影響して齎される禍

[180]『春秋繁露』などを意識しているか。『四庫全書總目提要』春秋繁露「其書發揮春秋之旨、多主公羊、而往往及陰陽五行。」

[181]http://www.hudong.com/wiki/%E3%80%8A%E6%B4%AA%E8%8C%83%C2%B7%E4%BA%94%E8%A1%8C%E4%BC%A0%E3%80%8B

[182]http://baike.baidu.com/view/102528.htm

[183]http://baike.baidu.com/view/180040.html

[184]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic88ZdicBF224352.htm明清で、、会の合格の、試験官に対する尊称

[185]孫人龍。http://npmhost.npm.gov.tw/ttscgi2/ttsquery?0:0:npmauac:TM%3D%AE%5D%A4H%C0s

[186]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6ZdicB7ZdicB93814.htm高雅

[187]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicA6Zdic86341389.htm体名。館閣および科試験で流行した書風明清の科士を取るとき、字体が黒、方正、光、大小一律であることを要求された。

[188]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic96Zdic9760324.htm李白

[189]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7Zdic8CZdic8E58667.htm故なく人に酒食を求めること

[190]未詳

[191]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE8Zdic8DZdic92357109.htm荒凉寒冷

[192]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicB7ZdicB4215598.htm巴渝の童。歌舞を善くするという。

[193]『十六夜玩月』「旧挹金波爽、皆玉露秋。山随地、河近人流。谷口樵唱、孤城笛起愁。巴童不寝、半夜有行舟。」

[194]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E5%B0%8D%E9%9D%A2%E8%90%BD%E7%AD%86&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=客体情況描写することによってみずからの情況表現する手法

[195]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE9ZdicB9Zdic9853999.htm

[196]http://www.qiyunge.com.cn/main/productinfo.asp?id=860鍾灃。忻湖は字。長興諸生。書を善くした。(『湖州書譜』)

[197]http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%88%98%E5%AE%89

[198]羅隠『広陵開元寺作』

[199]西清詩话中「高英秀者、呉越国人。与為詩友。口、滑稽、毎見眉目有異者、必噂短于其、人号喙薄徒。嘗譏名人病云、李覧漢史云、王莽弄来曾半破、曹公将去便平沈。定是破船。李群玉詠鷓鴣云、方穿曲崎路、又聴鈎輈格磔声。定是梵語詩羅隠云、犬劉安、月里笙歌煬帝帰。定是鬼。杜荀云、今日偶題題似著、不知誰題。此也、不然、安有四蹄。寧笑而已。」

[200]「見鬼詩」を指していると解す。

[201]東光の人、雍正甲辰の挙人。巻六に見える。

http://hrch43.blog.163.com/blog/static/771897132009111585941943/

http://www.keweishang.com/xc/display.asp?id=256

http://archive.ihp.sinica.edu.tw/ttscgi/ttsquery?0:0:mctauac:TM%3D%C0N%B3%C6

[202]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE5Zdic9DZdic9F106483.htm陵園、墓地

[203]http://baike.baidu.com/view/137580.htm『登徒子好色』に基づく句。宋玉の東隣の娘が宋玉を覗き見することを歌っている。

[204]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE8Zdic8DZdic86276268.htm、粗布裙。女の陋寒素の服

[205]呉至慎。江蘇震澤の人。乾隆十三年閩県知県。http://74.125.153.132/search.q=cache:ny9Zh2c8DZIJ:www.fjsq.gov.cn/ShowText.asp%3FToBook%3D6020%26index%3D86%26+%E5%90%B3%E8%87%B3%E6%85%8E%E3%80%80%E9%9C%87%E6%BE%A4&cd=1&hl=zh-CN&ct=clnk

[206]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicA7ZdicA6224696.htm西、

[207]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E5%B0%91%E8%8F%AF%E5%B1%B1&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=

[208]http://www.zdic.net/cd/ci/23/ZdicE5Zdic84ZdicBD107547.htm疲れたさま

[209]他人の元気、精血を取り、己の身を益することhttp://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9Zdic87Zdic87222326.htm

[210]原文「猩猩刺血、嗜酒故也。」「刺血」は未詳。とりあえずこう訳す。猩猩が酒を嗜む話は『朝野僉載』「安南武平縣封溪中有猩猩焉、如美人、解人語、知往事。以嗜酒故、以屐得之、檻百數同牢。欲食之、眾自推肥者相送、流涕而別。時餉封溪令、以蓋之、令問何物、猩猩乃籠中語曰、惟有僕並酒一壺耳。令笑而愛之、養畜、能傳送言語、人不如也。える

[211]未詳

[212]http://baike.baidu.com/view/138941.htm

[213]http://baike.baidu.com/view/60389.htm

[214]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5Zdic86ZdicA535377.htm天の定めた気数と命運

[215]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic9CZdic9F24615.htm仙人

[216]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE6Zdic9BZdicB2325514.htm裏町、また妓館

[217]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5ZdicA5ZdicB8128699.htm法禁を犯し乱し、めない

[218]http://baike.baidu.com/view/3527016.html?fromTaglist

[219]http://baike.baidu.com/view/218336.htmhttp://baike.baidu.com/view/185927.htm

[220]原文「喋血」。http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5Zdic96Zdic8B57285.htm人流血がたいへんいこと

[221]原文「碎首」。http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE7ZdicA2Zdic8E323739.htm碎くこと死しようとする精神あるいは行

[222]主語は厳嵩

[223]g、范仲淹、富弼、欧陽修

[224]『韓非子』喻「昔者紂為象箸而箕子怖。以為象箸必不加於土鉶、必將犀玉之杯。象箸玉杯必不羹菽藿、則必旄象豹胎。旄象豹胎必不衣短褐而食於茅屋之下、則錦衣九重、廣室高臺。吾畏其卒、故怖其始。居五年、紂為肉圃、設炮烙、登糟邱、臨酒池、紂遂以亡。故箕子見象箸以知天下之禍、故曰、見小曰明。」

[225]http://www.xianxian.gov.cn/gexiang1-2.asp

[226]原文「別為院落」。http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE9Zdic99ZdicA2331424.htm「院落」は房屋前後のあるいはまれた空地

[227]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicA6Zdic96130690.htm『左·公十四年』に出典のある言葉。

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