わたしは滄州の南に荘園を持っており、上河涯[1]といったが、今では売ってしまった。昔は水明楼五間があり、下に衛河を見、帆船は欄干の下に往来し、外祖雪峰張公の家の度帆楼とともに、遊覧によい場所であった。亡き祖母太夫人は、夏にはつねにここで涼み、孫たちは交代で侍していた。ある日、わたしが窓を推しあけ、南を眺めていると、男女数十人が一隻の渡し船に乗っており、纜はすでに解かれていた。すると一人の男がたちまち拳を奮い、一人の叟を殴り、岸近くの浅い水の中に落としたので、(きもの)(はきもの)はすっかり濡れた。起き上がって憤り罵ったときには、船はすでに棹差して去っていた。時に衛河はにわかに漲り、大波がただちにそそぎ、洶湧として音をたてていた。一隻の糧船が二つの帆を張り、流れに従って来たが、急いでいるさまは速い矢のよう、渡し船に触れ、柿のように砕いた。数十人はともに沈み、この叟だけが残った。そこで怒りを喜びに転じ、合掌して仏号を誦えた。どこへゆくかと尋ねると、言った。「昨日聞いたのですが、族弟が二十金を得、童養(トンヤンシー)[2]を売って人の妾にし、今日証文を作りますので、いそいで田を抵当に入れ、金を得、その金額の通りにし、持ってゆき、贖うのでございます。」。人々は声を揃えて言った。「あの一撃は、神がそうさせたのだ。」。すぐに渡し船を換えて渡らせた。時にわたしは十歳になったばかりであり、趙家荘[3]の人だと聞いただけで、惜しいことにその姓名を尋ねなかった。これは雍正癸丑[4]の事であった。また、亡き太夫人が言った。滄州の人にその弟の妻に嫁ぐように逼って二人の姪を青楼に売った者がおり、同郷人はみな不満に思っていた。ある日、金を腰にし、緑豆を売り、巨舟を浮かべて天津にいった。晩に河岸に泊まり、船端に坐して足を洗っていた。するとたちまち西岸の一隻の塩舟が、縴索(ひきなわ)が真ん中で切れたため、横ざまに掠めて過ぎ、両舷が擦れ、膝から下は、筋骨が粉砕されて切られたかのようになり、数日叫んで死んだ。亡き外祖父のしもべがそれを聞き、いそいで走って告げた。「某甲がこのような惨禍を得たのは、まことにたいへん怪しい事でございます。」。亡き外祖はおもむろに言った。「この事は怪しくない。このようでなければ、かえって怪しい事だ。」。これは雍正甲辰、乙巳の間の事であった。


  交河[5]の王洪緒が言った。高川[6]の劉某は七間の家に住み、みずからは中の三間におり、東廂の三間は妻が歿して葬る地がなかったので、柩をその中に停めていた。西廂の二間には、幼い息子とかれ[7]の妹がいた。ある晩、子がたいへんはげしく啼くのが聞こえたが、妹の言葉は聞こえなかったので、妹が竈室(くりや)にいて帰っていないのかと疑い、窓の隙間からすでに燈が消えているかどうかを見たところ、月明かりの下に、黒い煙一筋が見え、蜿蜒と東廂の戸の下から出、西廂の窓の下を巡り、しばらくしても去らなかった。妹が目醒めて子を打つと、黒い煙は冉冉と集まって東廂に入っていったので、妻の魂だと悟った。その後、月夜のたびに子が啼くのが聞こえたが、ひそかに起きて伺いみると、見えるものはすべて同じであった。その妹に語ると、妹はそのために感泣した。悲しいことである。父母の心は、死してなおその子を忘れないのか。人の子はその父母を追念するとき、このようにできようか。

 
  先師桂林呂公闇斎[8]が言った。かれの郷里に官位が県令となった者があり、着任の日、その房師[9]某公を夢みたが、容色は憔悴し、深く憂えがある者のようであった。県令は蹙然として迎えて拝した。「旅櫬[10]が帰っていないのは、弟子(わたくし)たちの過ちでございますが、思って忘れようとはいたしません。今回、お蔭さまで官職を得ましたので、辛苦してお(はか)をお造りいたしたく思います。」。そもそも某公は配所で亡くなり、なお僧院に柩をとどめてあったのであった。某公は言った。「それはたいへんよい。しかしわたしの骨を返すより、わたしの魂を返したほうがよい。おまえはわたしの骨が南にあることは知っているが、わたしの魂がこちらにとどまっていることは知らない。わたしがこちらの県令となった当初、荒地を開墾してみた者がいたが、わたしは誤って升科[11]の報告をしてしまった。訴える者は多く、わたしはかれらの言うことが正しいことは分かっていたが、吏議[12]に関わることを恐れ、あらゆる手段で回避し、申告できないようにさせ、今でも民の憂えとなっている。土神が東岳に訴えると、岳神は、事は疎漏によるものだ、みずからを利する心はなかったが、検挙によって昇進を妨げることを恐れたので、その罪はみずからを利することとひとしいと考え、令状でわたしの魂を捕らえ、こちらにとどまらせたのだ。この浮糧[13]が減免されれば、帰ることができよう。困苦飢寒は、言うに忍びない。回想すれば一時(いっとき)の爵禄で、得たものはいかほどであろうか。業海[14]は茫茫として、杳として果てしなく、本当に血に泣き胸を打つ[15]にたえない。今回、さいわいあなたが来てこちらで役人となった。平生の知遇を思い、免除を請求してくれれば、わたしはふたたび転輪[16]に入り、鬼趣[17]を離れられよう。生前の遺蛻(なきがら)を、螻蟻に委ねても、恨まない。」。県令が旧い公文を調べてみると、ほんとうにこの事実があった。後にやんわりと免除を請うてやると、またぼんやりとかれが別れにくるのを夢みた。

 
  交河[18]の及方言[19]が言った。「幽霊を語る者はでたらめが多いが、理として信じられそうなものもある。雍正乙卯七月、静海[20]の南に舟を泊めた。新月は朦朧として、岸を散歩していると、二人の男が柳の下に坐して対談しているのが見えた。行って近づいてみると、やはり欣然と座に招いた。じっくり語るのを聴くと、すべて幽冥の事であった。そのため幽霊かと疑い、震えて逃げようとした。二人は止めた。『訝るな。わたしたちは幽霊ではない。一人は走無常、一人は幽霊を見た者だ。』『どうして幽霊を見られる。』『生まれながらにこのようで、理由を知らない。』。さらに尋ねた。『どうして走無常なのだ。』『夢の中でたちまち捕らえられ、やはり理由を知らない。』。ともに語って二鼓に到ったが、おおむね報応を縷述していた。そこで尋ねた。『冥府は儒家の理で断獄するか。仏家の理で断獄するか。』。幽霊を見た者は言った。『わたしは幽霊を見られるが、幽霊と語れないから、その事は知らない。』。走無常は言った。『そのことを尋ねるべきでない。自分の心にだけ尋ねろ。心に尋ねて恥じなければ、それが陰律のいわゆる善で、心に尋ねて恥じることがあれば、それが陰律のいわゆる悪だ。是と非は共通、幽明は一理で、どうして儒と仏を分けようか。』。その言葉は平易で、巫覡の言葉に似ていなかった。」。

 
  郷里に幽霊を見た者がおり、言った。「幽霊もつねに憧憧擾擾[21]として、営んでいることがあるかのようだが、何事を営んでいるかは分からない。喜怒哀楽もあるが、ただそれが何によっているかを知らない。おおむね幽霊が幽霊と競うのは、人が人と競うかのようである。しかし微陰[22]は盛陽[23]に敵するに足りないので、みな人を恐れる。かれが人を恐れないのは、一つは、人が住居を占拠し、幽霊が不安なので、変相[24]を示して追いたてて去らせようとしていることによる。一つは人に祟って祭りを求めていることによる。一つは桀驁[25]強魂[26]の、戻気[27]が消えていないことによる。人の世の無頼のように、横行し、乱暴し、いずれも気が盛んな者に遇えば避け、運が拙い者に遇えば侵そうとする。あるいは怨霊悪鬼で、神にお願いし、報復して積怨を晴らせる者がいるが、それはここには含まれない。欲心を感じれば、淫鬼がこれに応じ、殺心[28]を感じれば、視Sがこれに応じ、憤心を感じれば、怨霊がこれに応じ、これらはいずれもその人がみずから召したものだが、それらもここには含まれない。わたしはかつて清明に墓参し、遊女が踏青しているのを見たが、妖艶でしなをつくる者は、幽霊たちが従って嬉笑しているが、幽雅で身持ちのよい者は、左右に一人の幽霊もいない。またかつて見たが、学宮に数人の幽霊がおり、教諭の鮑先生(先生は諱は梓といい、南宮の人、官職は献県の教諭で、県志『循吏伝』に載せてある。)が出れば、震えて草の中に臥したが、訓導の某先生が出れば、自在に跳びはねていた。だとすれば、幽霊が侮ろうとするか否かは、すぐれてその人によるか。」。

 
  侍姫の母沈媼が言った。塩山[29]に劉某という者がおり、癃閉[30]を患い、百薬も験がなかった。ある晩、神を夢みて語った。「銅頭の()いた灰を酒で服すれば[31]、すぐに通じる。」「銅頭とはどんなものか。」「あなたたちのいう螻蛄(おけら)だ。」。試すとほんとうに癒えた。思うにこれは湿熱[32]が鬱積していたので、湿熱で湿熱を攻め、その竄利下行[33]の性を借りたのである。州都の官[34]で、気が化することができなければ、本原に求めるのであり、この物が導けるものではない[35]

 
  梁鉄幢[36]副憲[37]が言った。夜歩きしていた者が竹林の辺で(もののけ)を見たが、人のようで人でなく、蠢蠢然[38]と手探りして進み、怒鳴っても応えなかったので、精魅[39]だと悟り、瓦石を拾って撃つと、その物は黒い煙と化し、縮んで林に入り、啾啾と声を出して言った。「わたしは宿業によって飢鬼道に落ち、(めくら)になり(つんぼ)になり、苦しみはさまざまですのに、なぜまた苛められるのでしょう。」。そこで置き去りにした。わたしの『灤陽消夏録』に、王菊荘[40]が語った女の幽霊が、讒言に巧みであったために、唖の報いを受けたことを記しているが、この幽霊は(つんぼ)(めくら)の報いを受けているから、聡明[41]の甚だしかった者であろうか。

 
  先師汪文端公[42]が言った。政敵を謀殺しようとしている者がいたが、良計がないことに苦しんでいた。狡猾な者がひそかにそれを探知し、こっそり薬を包んで献じた。「この薬は腹に入りますとすぐに死にます。しかし死ぬ時の様子は、病死と異ならず、骨を蒸して調べても、やはり病死と異なりません。」。その人はたいへん喜び、そのものを留めて飲ませた。帰れば、その晩に亡くなった。これはあらかじめその薬によって口封じの計をなしたのであった。公はそこで太息した。「薬を献じた者は人を殺すことで人に媚びようとしたが、さきにみずからを殺してしまった。その薬を用いた者は、さきに人を殺して口封じしたが、結局口封じはできなかった。さまざまな謀略も何になろう。」。張樊川先輩[43]は時に座にあり、言った。「孌童を好む者がおり、ある役人の子を好んでいた。手に入れる道理はないと思い、ひそかに愛している妾に頼み、媒婆に托して招かせ、別荘で会う約束をし、捕らえて脅して汚そうとした。期日になると、すでに来たと報せがあったので、すぐにいって捕えようとしたが、にわかに足を滑らして荷塘(はすいけ)の木橋の下に落ち、頭頂まで没しそうになった。騒いで助けを求めて出れば、役人の子はすでに逃れ、妾はすでに鬢は乱れ、釵は傾いていた。そもそもこの子はたいへん秀麗で、妾もかれを気に入っていたからであった。後にゆえなく閨閣を開いてこの妾を追いだし、下女がすこしその事を漏らしたのであった。陰謀は鬼神が忌むものであるということは、嘘でないであろう。」。

 
  花売りの顧媼が、旧い磁器を持って売ろうとしていた。筆洗[44]のようでやや浅く、周囲内外および底にはすべて泑の色がついており、哥窯[45]のようだが氷紋[46]がなく、中は平らで硯のよう、そこだけは磁骨[47]を現していた。境界はたいへんはっきりしており、出入り[48]はすこしもなく、まったく剥落がなかった。何の器か分からず、必要なかったので返した。後に『広異志』[49]を見ると、[50]石室道士の案頭に硃筆および杯を見た話を載せている。『乾巽子』には、何譲之の見た天狐が朱盞筆硯を持っている話を載せている[51]。さらに『逸史』には、葉法善が朱鉢を持って符を書いた話を載せている。唐以前に朱硯はなく、書籍を校勘するときは、朱を杯盞で研ぎ、大きな筆を濡らし、朱を鉢に貯えていたことを悟った。杯盞はやや小さくて口は張っており、筆を浸すのに便利で、鉢はやや大きくて口はすぼみ、濃い墨汁を多く注ぐのに便利であった。顧媼が持っていたのは、そもそも朱盞で、従来鑑賞家が見られなかったものだったのである。いそいで呼んでくると、尋ねた。「あの盞はどこへいった。」「もともと三十銭で買いましたが、井戸の中から出たと言っていました。公が除かれて必要ないとされましたので、二十銭で什物の露店に売ってしまいました。今では一年になろうとしておりますので、もう所在を探すことはできません。」。深く惜しんだ。世には高値で贗物を買うものが多いが、本物の古器はしばしば捨てられていることがあるのである。わたしは方竹杖[52]を丸くし、断紋琴[53]に漆する者ではないのに、手に触れながら失うことがこのようであるのだから、宝を貯えながら明らかにしていないものは、数えきれない(わたしは後にまた朱盞を得、作りはこれと同じであったが、陳望之撫軍に持ち去られた。そこでこの物は世になお多くあり、人が知らないだけだということを知った。)。

 
  先師介公野園[54]が言った。親戚の中に幽霊を恐れない者があり、凶宅があると聞くと、行って宿っていた。あるひとが西山[55]の某寺の後閣[56]で、しばしば怪異が見られると言っており、その年は郷試にあたっていたので、その中に仮住まいした。奇怪な姿をしたものが、毎晩(つくえ)(しじ)の間を巡ったが、恬然として住んでいたところ、危害を与えることもできなかった。ある晩、月が明るかったので、窓を推し、四方を眺めると、美しい女が樹の下に立っていたので、咥然[57]として言った。「わたしを脅かしても動かないので、わたしを惑わしにきたか。おまえは何の(あやかし)だ。こちらへ来い。」。女も咥然として言った。「おまえはもともとわたしのことを知らないが、わたしはおまえの祖姑[58]なのだ。歿してこの山に葬られたが、おまえが毎日幽霊と闘っているのを聞いた。おまえは勉強して十余年、いたずらに幽霊を恐れない名声を博しようとしているのか。それとも科目[59]に力を奮い、祖父を輝かし、家名を揚げることを思っているのか。今夜闘えば、昼は疲れて臥すことになり、試験が日に日に近づいているのに、挙業はまったく疎かになってしまう。これがどうしておまえの父、おまえの母がおまえに命じて食糧を持たせ、山に入らせた本意であろうか。わたしは黄泉路にいるが、実家に情がないわけにはゆかぬので、忠言をおまえに告げたのだ。考えてごらん。」。そう言うと隠れた。ひそかに思うに、言われたことはすこぶる尤もであったので、旅装を整えて帰り、帰ってからくわしく父母に尋ねると、そのような祖姑はいなかった。そこで大いに悔い、地団駄を踏んで言った。「狡い幽霊に騙された。」。奮然としてふたたび行こうとすると、その友人が言った。「幽霊は力で争おうとせず、その姿を変えて忠言で宥めたのだ。幽霊はあなたを恐れていたのだから、窮している敵を追うことはない。」。そこでやめた。この友はよく諍いを解いたといえる。しかし幽霊が言ったことは、正しい理である。正しい理では抑えられず、小手先の言葉では抑えられたが、剛き心を和らげる方法を悟ることができる。

  
  前に閣学[60]札公の先祖の墓の巨蟒(うわばみ)の事を記したが[61]、これは総憲[62]舒穆嚕公[63]の言葉に拠っている。壬子三月初十日、蒋少司農戟門[64]に迎えられて桃花を見、たまたま札公と列坐し、その詳細を尋ねたところ、舒穆嚕公の言葉がでたらめでなかったことが分かった。札公はさらに言った。「もう一つ軼事があるが、舒穆嚕公は知らない。墓守の妻劉媼は、いつもこの蟒とともに寝ていたが、その(しじ)に蟠ってほとんどいっぱいになっていた。来ればかならず火酒を飲ませ、巨碗に注いでいた。蟒が頭を挙げて一嗅ぎすると、酒は減じること一割ばかり、残りはすでに味が淡いこと水のようであった。劉媼に憑いて人のために病を癒やしても、やはりたくさんの験があった。ある日、この蟒を買おうとした者があり、劉媼に銭八千を与え、酔っているのに乗じて舁ぎ去った。去った後に媼はたちまち発狂して言った。『わたしはおまえを待遇することが薄くなかったのに、おまえはわたしを売るのだな。わたしはかならずおまえの(たましい)を奪うぞ。』。みずからを打ってやまなかった。媼の弟は走って札公に告げ、札公はみずから見にいったが、どうしようもなく、数刻を経て死んだ。そもそも妖物が巫女に憑くということはよくあり、妖物に逆らって禍を致すこともよくあるが、金銭を得て妖物を売る事はすこぶる奇であり、金銭を出し、妖物を買う人がいるのは、奇中の奇である。この蟒は今まだその地におり、西直門外におり、土人は紅果園[65]といっている。」。

  
  育嬰堂、養済院はいたる処にあるが、滄州には別に一つの院があって盲人を養っており、官に属していなかった。盲人の劉君瑞は言った。「昔、選人[66]陳某が滄州を過ぎ、資金は尽き、借金できず、進退窮まり、みずから河に身投げしようとしていた。盲人は憐れみ、嚢を傾けてかれが旅するのを助けた。選人は入京し、官位を得、推薦されて州牧に到ったが、つねに盲人を忘れられず、みずから数百金を費やし、漂母への報いをしようとした[67]。しかしあまねく盲人を捜しても見つけることができず、かれの姓名知るものもいなかったので、金を擲ち、その院を建て、盲人を収めて養った。この盲人とこの選人は、いずれも古人[68]といえる。」。君瑞はまた言った。「盲人たちは一間の部屋を残し、朝晩香を焚き、陳公を拝している。」。わたしは陳公の側に、盲人も一座を設けるべきだと思った。君瑞はためらいがちに言った。「盲人は官と坐することはできない。」。わたしは言った。「官として祀れば、盲人はもちろん坐せないが、義によって祀れば、盲人の義は官と等しいのだから、どうして坐せないことがあろうか。」。この事は康煕年間にあったが、君瑞がわたしに告げたのは乾隆乙亥、丙子の間[69]であり、なおこの院に居る者は誰々であると名を挙げられた。今はすでに三十余年になり、それが残っているか廃せられているかを知らない。

  
  明末の兵乱で、曽伯祖鎮番公は年がわずか十一のとき、攫われて臨清に到ったところ、昔の客作[70]李守敬に遇い、独輪車[71]で送り返された。戎馬の間を経て、危険に瀕することはしばしばであったが、絶対に棄て去らなかった。時に宋太夫人がおり、金で報いようとした。まずは頓首して謝したが、その後、金を(つくえ)に置いて言った。「もとのご主人さまが流離していらっしゃいましたので、心に忍びなかったのでございます。褒美を求めるためにまいったのではございません。」。泣いて拝して別れ、その後ふたたび来なかった。守敬は性来剛直で、儕輩に悪事をなす者がいると、齗齗[72]と争っていたので、人々に排除されていたのだが、患難の際、良心に負かないことなおこのようであった。

  
  事には前兆があるが、それがそうであるとは気づかない[73]。しかし日が出ようとして霞が明るみ、雨が来ようとして(いしずえ)が湿るように、あちらが動いてこちらが応じているのである。わたしは四歳の時から今まで、筆硯を離れた日がなかった。壬子三月初二日、たまたま直廬[74]にいたとき、戯れて諸公に言った。「昔、陶靖節[75]はみずから輓歌を作ったから、わたしもみずから一聯を題しよう。『宦海に浮沈すること鴎鳥のごとく、書叢に生死すること蠹魚に似る。』だ。死んだ後、諸君が書いて悼んでくれれば、十分だ。」。劉石庵[76]参知[77]は言った。「上句はまったく公らしくない。陸耳山[78]を悼むなら、適当だ。」。三日後に耳山の訃音が到ったが、もしや(きざし)がさきに現れたものか。

  
  申蒼嶺先生[79]が言った。ある士人が別荘で勉強していたが、塀の外に荒れた塚があり、誰であるのか分からなかった。園丁が言うには、夜中に吟じる声がすることがあるが、盗み聴きすること数晩で、聞こえなくなるということであった。ある晩、突然聞こえたので、いそいで酒を持ってゆき、塚に注いで言った。「泉下で苦吟なさるとは、きっと詞客[80]でいらっしゃいましょう。幽明を隔てていても、気類[81]は異なりませんから、お姿を現していっしょに語らいましょうか。」。するとにわかに人影が冉冉と樹蔭から出、たちまち首を振って去った。慇懃に拝して祈り、再三に到ると、樹の向うで人が語るのがかすかに聞こえた。「あなたがお褒めになったのに感じ、妖物であるからといってためらおうとせず、まさに清談に接し、百年の寂しさを破ろうと思いましたが、はるかに風采を拝見しますと、衣冠は華美、翩翩として富貴の相があり、わたしたち縕袍[82]をきたものと、まったく異なっていらっしゃいます。士人にはそれぞれ志があり[83]、親しもうとはいたしませんが、どうか我慢してお許しください。」。士人は悵悵として返り、それからは吟詠も聞こえなかった。わたしは言った。「これは先生が世を弄んだ寓言だ。この言葉はみずから聞いていないし、傍で聞くものもいなかった。どうしてこの士人が幽霊に揶揄せられてもなお、みずから述べようとしようか。」。先生は鬚を扱いて言った。「鉏麑[84]の槐の下での言葉、渾良夫[85]の夢の中での叫びは、誰が聞いたのか。子はひとり老いぼれを責めるのか。」。

  
  邱孝廉二田[86]が言った。永春山中[87]に廃寺があり、ことごとく焦土であった。言い伝えでは、当初僧がおり、呪術をよくしていた。その弟子は夜に山魈[88]を見ることがあったので、お祓いを請うと、僧は言った。「人はもとより人、(あやかし)はもとより(あやかし)で、双方は関わらない。人は昼に行き、(あやかし)は夜に行き、ともに害さない。万物はひとしく生じ、それぞれにそれぞれの居場所がある、妖は人が昼に出ることを禁じないのに、人は妖が夜に出ることを禁じるのか。」。しばらくして昼も人を弄び、僧寮[89]に静かな場所はなくなったので、はじめて呪術を施したが、妖気はすでに熟し[90]、徒党はすでに多くなっていたので、お祓いできなかった。憤って雲遊し、祓える者を探してともに帰った。壇に登って呼びかけようとすると、雷が落ち、(あやかし)は殲滅されて寺も焼けた。僧は胸を打って言った。「わたしの罪だ。そもそもわたしの呪術ははじめは勝つに足りたのに、勝とうとしなかった。わたしは力が勝つに足りないと思ってから、みだりに勝とうとした。善化[91]の虚名を博し、このような破滅にいたった。『癰を養って患を(おく)[92]』とは、わたしのことだ。」。

  
  飛車劉八は、従孫樹珊の御者であった。かれは車を御するときに鞭策[93]の威を極め、馳駆の力を尽くし、ともにゆく者に遇うと、かならずまっしぐらに追い越さなければすまないので、この名を得たのであった。馬が強いか弱いかに構わず、馬が空腹か満腹かに構わず、馬が生きるか死ぬかにも構わなかった。数人の主人を経たが、馬を殺すことがすこぶる多かった。ある日、樹珊の車を御して従兄弟たちの家にゆき、空の車で帰る途中、馬が追い越しをし、車輪に推され、轍に倒れた。かれの傷はすこぶる軽かったが、心が乱れて人事不省となった。舁いで帰れば、息はすでに絶えていた。勝利を好む者はかならずみずからに禍が及び、不仁な者もかならずみずからに禍が及ぶ。東野稷[94]はをよく車を御することで一国に名声を得たが、馬の力を尽きさせて、結局馬をだめにしてしまった。ましてこの賎しいものはなおさらである。みずからその命を落としたのは、不幸ではなかった。

  
  先祖の光禄公は、滄州の衛河の東に荘園を持っていたが、その地はつねに洪水となり、その水は左右に斜めに伸びて「人」の字のようであったので、「人字汪」といわれていた。後に土語で「人字」を訛って「銀子」といい、また「汪」を転じて「窪[95]」とし、吹唇声[96]で軽く呼んで、音は「娃[97]」に近くなり、いよいよその真相を失った。土は痩せ、民は貧しく、衰退は日に日に甚だしかった。荘園の南八里は狼子口(土語で「狼子[98]」の二字を合わせて吹唇[99]で呼び、音は「辣[100]」に近く、平声である。)。光禄公は言った。「人が狼の口に向かっていては、その栄えないのは当然だ。」。そして荘園の門を北向きに改めた。真北に五里は木沽口という(「沽」の字は土音では「果[101]」と「戈[102]」の間にある[103]。)。門を改めた後、人字窪はだんだん富裕となったが、木沽口はだんだん衰微した。地気が転移したのであろう。そもそも孤虚[104]の説は、本当にあるのである。

  
  人字汪の脱穀場に積んだ柴(俗に「」という。)があり、年を経ていた。土人は中に霊怪(あやかし)がいると言い、犯せば多くは禍を致したが、病があって祈ると験があることもあったので、一本の茎、一枚の葉も採ろうとはしなかった。雍正乙巳[105]は、大飢饉であったので、光禄公は粟六千石を擲ち、粥を煮て救った。ある日、柴が不足したので、この柴を用いようとしたが動こうとするものがいなかったので、みずから祈りに言った。「あなたが神なら、かならず理を弁えていられましょう。今、数千人が空腹で倒れようとしていますが、あなたに惻隠の心がないはずはございますまい。わたしがあなたをお移しし、倉を守らせ、この柴を採り、飢えた者を活かしようとしても、あなたは拒まないでしょう。」。祈りおわると、人々に指図して抜き取らせたが、すこしも異変がなかった。柴が尽きると、一匹の禿げた尾の大蛇を捕らえたが、蟠り臥して動かず、巨きな畚で倉の中に担ぎ込むと、まもなく見えなくなった。それからは霊異もなかった。しかし今まで六七十年、ひそかに入って粟を盗もうとする者がいないのは、倉を守る約束があったからであった。妖物はいたって凶悪であっても道理に屈せざるをえない。「妖は徳に勝らず[106]」とは、このことである。

 
  従孫の樹宝が言った。韓店[107]の史某は、貧しさが骨に徹していた。父が歿しようとしていた時、家には一着の青布袍だけが残っていたので、納棺しようとすると、その母は言った。「家は久しく炊ぎをしていないが、これを持ってゆき、米に換えれば、なお一月あまり活きられるから、どうして土中に棄てられよう。」。史某は忍びず、結局納棺した。この事は多くの人が知っていた。たまたま銀の釧を失った者があり、大いに探したが見つからなかった。史某はたちまち糞壤の中からそれを得た。みな言った。「これは天があなたに衣を償い、あなたの孝を表彰したのだ。」。釧を失った者は銭六千で贖ったが、ちょうど衣の値に合っていた。これは最近の事であった。ある人は「偶然だ。」と言った。わたしは言った。「偶然と思えば、王祥はふたたび魚を得ず、孟宗はふたたび筍を生じなかったろう。幽明の感応は、つねに一事でその機を示すのだ。あなたはどうしてそれを知ろう。」。

 
  景州[108]の李晴嶙[109]が言った。劉生が古寺で子供を教えていた。ある晩、新月の下、窓の外で[110]たる音を聞いた。隙間から窺うと、塀の隙間に二人の影があるかのようであったので、いそいで「盗賊だ」と叫ぶと、たちまち塀を隔てて語った。「わたしたちは盗賊ではなく、あなたに頼みごとをしにきた者なのです。」。驚いて尋ねた。「何を頼む。」「わたくしは夙業により、飢鬼道に落ち、すでに百年になろうとしております。寺の厨房で炊事する匂いを嗅ぐたび、飢えは焼かれるかのようでございます。あなたには慈心があるかのようにお見受けします。残りものの羹や冷たい粥で、澆奠[111]をしていただくことは、できましょうか。」「仏家の経懺[112]は、冥途を済度することができるから、寺僧に済度を求めてはどうか。」「幽霊が済度に逢うのも前因なのでございます。わたしたちは過去生で、官途に営営として、勢いが盛んであれば身を寄せ、勢いが衰えれば振り払って他人のようにしておりました。志を得た時は、もとより困窮したものを救わず、善因を造りませんでした。今は勢いが衰え、どうしてこの善縁[113]に遇うことができましょうか。さいわい財貨は豊富でしたので、さほど惜しまず、貧民や旧友には、ささやかな世話をしておりました。ですから時折憐れみを得ることができ、余瀝に潤されることもあるのです。そうでなければ、目連[114]の母が大地獄の中に鎖されていたとき、食が口元に到ると、すべて猛火に化したように[115]、仏力もどうしようもないことでしょう。」。生は惻然として憐れみ、願いどおりにすることを約束したので、幽霊は感激し、嗚咽して去った。それからつねに残りものの羹や酒を塀の外に注ぐと、ほかにも知らせたかのようであったが[116]、姿は見えず、声も聞こえなかった。一年あまり後、夜に塀の外で叫ぶのが聞こえた。「久しくお恵みを忝くしておりましたので、今、お別れしにまいりました。」。生は尋ねた。「どこへ行く。」「わたしたち二人は救いを求めるすべがございませんでしたので、善をなしてみずからを救おうと考えました。この林の中には野鳥がたいへん多いのですが、弾で射る者がいれば、さきに驚かして高く飛ばせ、鳥網、魚網を使う者がいれば、さきに駆って入らないようにさせました。この一念が、神を感動させましたので、今はもう転輪[117]に委ねられたのでございます。」。生はかつてこのことを挙げ、人に告げて言った。「地獄に堕ちた幽霊でも、その力は動物を救うことができるのに、人がどうしてできないと断ることがあろうか。」。

 
  族兄の中涵が旌徳県[118]を治めていた時、城の近くで虎が暴れ、猟師数人を傷つけたが、捕らえられなかった。県民は請うた。「徽州の唐打猟[119]を招かなければ、この禍を除けません。」。(休寧[120]の戴東原[121]が言った。「明代に唐某がおり、新婚したてで虎に殺された。その妻は後に一子を生み、祈った。『おまえが虎を殺せなければ、わたしの子ではない。後世の子孫が、虎を殺せなければ、やはりみなわたしの子孫ではない。』。だから唐氏は代々虎を捕らえられるのである。」)、吏に礼物を持ってゆかせた。吏は帰ってくると、唐氏は技のたいへんすぐれた者二人を選びました、まもなく来ますと報告したが、来たのは一人の老翁で、鬚と髪は皓然としており、しばしばごほごほと咳をしていた。もう一人の童子は十六七歳にすぎなかった。大いに失望し、ひとまず食事を用意するように命じたところ、老翁は中涵が不満に思っているのを察し、半ば跪いて述べた。「聞けばこの虎は城から五里足らずのところにいるとか。さきにいって捕らえてから、食事を賜っても遅くはございません。」。そこで下役に命じて導いてゆかせた。下役は谷の入口に着くと、進もうとしなかったが、老翁は笑った。「わたしがいるのに、恐れるのか。」。谷の半ば近くまで入ると、老翁は童子を顧みて言った。「畜生はまだ眠っているようだから、呼び醒ませ。」。童子が虎の嘯く声を出すと、はたして林の中から出てきて、すぐに老翁を襲った。老翁は短い柄の斧を手にしていたが、縦は八九寸、横はその半分、腕を奮って屹立し、虎がぶつかってくると、首を傾けてよけた。虎はそのまま頭上を跳び越えたが、すでに血を流して地に倒れていた。見ると、頷の下から尾閭に到るまでが、すべて斧に触れて裂けていた。そこで手厚く褒美を与えて帰らせた。老翁がみずから言うには、腕を鍛えること十年、目を鍛えること十年、その目は毛帚で払っても瞬かず、その腕は青年に引かせたり、体をぶらさがらせたりしても動かせないということであった。『荘子』に「習へば衆神を(ふく)す。巧者は習者の門に過ぎず[122]」というのは、本当である。かつて史舎人嗣彪[123]に会ったところ、暗中筆を執り、条幅を書いていたが、明かりをつけている時と異ならなかった。また聞いたところでは、静海[124]の励文恪公[125]は、方寸の紙百片を切り、ある字をその上に書き、一枚一枚を日に向かって重ねて照らすと、すこしもぶれがなかった。いずれも熟練しているだけで、別に偽りがあるわけではなかった。

 
  李慶子が言った。山東の民家に狐がおり、その家に住むこと数代であった。姿は見えず、声は聞こえず、夜に火事があったり盗賊がいたりすると、扉を撃ち、窓を揺らし、主人に気づかせるだけであった。家が漏ったり壊れたりしている時は、銀銭が鏗然と几上に落ちるので、すぐに修理した。計算すると与えられる金額はつねに費やされる金額を二割超えており、お礼しているかのようであった。折々に、かならず小さな贈りものが窓の外に置かれていた。時折食物でお礼し、窓の下に置くと、またたくまに見えなくなった。かねてから出てきて人を弄ぶことはなかったが、子供がかえってかれを弄ぶことがあり、戯れに瓦礫を窓の中に擲つと、窓から擲ちかえすのであった。あるものは擲ちかえすのを見ようとし、投げてやまない時があったが、やはり擲ちかえしてやまなかったが、決して怒らなかった。ある日、たちまち簷で語った。「あなたは農家ですが、お子さんは孝、弟さんは悌で、お嫁さん、お姑さんや相嫁たちはいずれも温順で、つねに善神に護られていますので、久しくあなたの家に住み、雷撃を避けていました。今、大難はすでに過ぎましたので、つつしんで主人に謝し、去ることにいたしましょう。」。それからはいなくなった。昔から狐は人家に住まうが、このように謹飭なものはない。老氏の「和光」の趣旨から得るものがあったのだろうか[126]。結局謹飭によってみずからを全うし、祓われる禍に遭わなかったのだから、その見識は人より一等勝っている。

 
  従姪の虞惇[127]は、従兄懋園[128]の子であった。壬子三月、わたしに従い、文淵閣[129]の書を校勘し、ともに海淀の槐西老屋に住んでいた(わたしの婿彭煦[130]の別荘で、わたしが修理し、輪対[131]当直するときに休息する場所であった。)。かれが言うには、懋園は朱漆の藤枕を持っていたということである。崔荘の社会[132]で買ったもので、年を経ていた。ある年の夏、つねに枕していたが、嗡嗡(ぶんぶん)音がし、疲れて耳が鳴っているのかと思った。十日あまり後、その音はだんだんと激しくなり、飛ぶ虫が羽を振るっているかのようであった。さらに一月あまりすると、声は外に達し、枕に就かなくてもはじめから聞こえた。訝って割って見れば、一匹の細腰の蜂が、翼を奮って出てきた。枕の四周には鍼や芥ほどの隙もなかったから、蜂がどうして中に卵を産むことができよう。漆を塗る前に卵を産んでいたなら、どうして数年後に生まれたのか。ある人が言った。「それは化生[133]だ。」。しかし蜂は蛹から生まれるもので、化するすべがない。化生だったとしても、どうして他の処では化生しないで枕で化生したのか。他の枕では化生しないでこの枕で化生したのか。枕の中で飲まず食らわず、どうして二月あまりしてもまだ活きていたのか。もし割って出さなければ、死ななかったのか。この理はまったく明らかにすることができない。

 
  虞惇はさらに言った。掖県[134]の林知州禹門[135]は、かれが学業を授かった師であった。みずから言うには、かれの祖父は年が八十余のとき、すでに耄碌して人事不省で、歩くこともできなかったが、まだよく食事していたということであった。しかし一室に枯坐し、鬱鬱として体の不調に苦しんでいた。子孫はつねに椅子で舁ぎ、門外にいって遠くを眺めさせ、気晴らしとしていた。ある日、侍者に命じて入って物を取らせ、ひとり坐して待っていたが、侍者が出てゆくと、椅子とともにいなくなってしまった。一家は悲しみ泣き恐れ驚き、事情が分からず、食糧を持って四方に出て捜したが、やはり足跡はなかった。たまたま友人が労山[136]から来、途中で禹門に会うと、遠くから叫んだ。「お祖父さんを捜しているのではないか。今、山中の某寺にいらっしゃり、ご無事だぞ。」。いそいで馳せて訪ねると、本当にその通りであった。その地は掖県から数百里隔たっており、僧はそのどうして来たか知らず、その祖父は二人の男が舁いで飛んでいったと感じていたばかりで、かれらが誰であったかは分からなかった。この事はきわめて怪しいが怪しいことではない[137]。山魈狐魅が、老人を弄び、遊んだだけであろう。

 
  戈孝廉廷模[138]は、字を式之といい、芥舟先輩[139]の長子で、天姿は清秀、詩や書には、いずれも父の風格があった。父の友人の中でわたしにだけ師事し、わたしは大成することを期待したが、年が四十余のときに、はじめて学官に選ばれた。後に精神病となり、発したり止んだりし、夭折したので、わたしは深く悲しんだ。たまたま従孫樹珏とかれに言及したところ、樹珏が語るには、かれが歿する前、勉強して夜半になると、たまたま景色を題材にして「秋幽窓に入り燈黯淡たり。」の句を得た。対句が出来上がらなかったが、たちまちその友某が簾を掲げて入ってきたので、招いてともに坐して語り、この句を告げたところ、その友は言った。「『魂故里に帰り月淒清たり。』を対にしてはどうか。」。式之は愕然として言った。「君はどうして幽鬼の言葉を発する。」。瞬く間に見えなくなり、かれが人でなかったことを悟った。そもそも衰気がさきに現れると、幽霊は衰気に感じて反応するのである。だから式之もまもなく亡くなったのである。これは『霊怪集』に載せる曹唐『江陵仏寺』詩の「水底天にあり春漠漠たり。」の一聯の事[140]とすこぶる似ている。

 
  曹慕堂[141]宗丞[142]が言った。夜歩きして幽霊に遇った者があり、力を奮って闘った。にわかに幽霊たちが大勢集まり、あるものは沙礫を擲ち、あるものは手足を牽き、左右で抵抗したので、ひどく打撃を受け、倒れることしばしばで、怒りはますますはげしく、なおも死闘して止まなかった。するとたちまち坂の上で老僧が燈を持って叫んだ。「檀越どの、しばし待たれよ。こちらは地鬼の窟宅[143]です。檀越どのは猛士ですが、すでに数層の囲みに陥られており、彼我姿を異にし、衆寡勢いを異にし、一人の血気の勇で、これらのものの無窮の変幻に敵すれば、賁、育[144]も幸いに勝つことはないでしょう。まして賁、育に及ばない者はなおさらです。『難を知って退く』[145]のが、豪傑ですから、しばし一時を忍ばれてはいかがでしょうか、拙僧に従ってひとまず荒れ寺に宿られませぬか。」。この人はにわかに悟り、身を奮って脱出し、その燈影に従っていった。幽霊たちはだんだん遠ざかり、老僧も行方が知れなくなった。坐して憩うて朝になると、はじめて路を見つけて帰った。この僧は人か幽霊か分からず、善知識といえる。

 
  海淀の人が一羽の巨きな鳥を捕らえたが、姿は蒼鵝[146]に似、長く鋭い喙で、目は突き出、眈眈として恐ろしく、鶖[147]でもなければ鸛[148]でもなく、鴇[149]でもなければ鸕[150]でもなく、名は知れず、買おうとする者はいなかった。金海住先生[151]は時に澄懐園[152]に寓直していたが、ひとり買って煮た。味はあまり良くなく、一二切れを食らっただけで、胸膈が氷雪のように冷たく、鉄石のように堅くなるのを覚え、焼春[153]を浴びせても暖気がなかった。衰弱すること数日で癒えた。ある人が言った。「張読の『宣室志』[154]に載せているが、俗に伝えるところでは、人が死んで数日後に禽が柩の中から出、それを『煞』という。鄭生という者がおり、かつて隰川[155]におり、郡官と野で猟し、網で巨きな鳥を捕らえたが、色は蒼く、高さは五尺あまり、解体して見ると、突然見えなくなった。村の人が言うには、ある人が死んで数日になろうとしているが、占い師はこの日『煞』が去るはずだと言っていたそうです。その家が伺って見ると、はたして蒼色の巨きな鳥が柩の中から出てきました。また『原化記』[156]に載せていますが、韋滂が人家に宿を借り、『煞』を射落とし、煮て食らったところ、味はきわめて甘美であったそうです。先生が食らったものは、あるいは『煞』が化したものかもしれません。ですから陰凝の気がそのようであったのでしょう。」。倪余疆[157]は時にまさにいっしょに当直していたが、聞くと笑った。「これも終南の進士だ[158]。」。

 
  黄村[159]から豊宜門(俗に南西門という。)までは、およそ四十里であった。泉源や水脈が、絡まり連なり、長雨の後は水溜りで、車馬はすこぶる滞っていた。李秀という者がおり、空の車を御して固安[160]から帰った。見ると少年がおり、十五六歳ほど、秀麗であること美女のよう、泥道をゆっくり歩き、たいへん疲れている様子であった。時に日はすでに沈もうとしており、秀が通り過ぎるのを見ると、同乗したそうな様子であったが、恥じて言わなかった。秀はもともと軽薄であったので、からかってともに語り、迎えて車をともにしようとしたところ、恥じらいながら乗ってきた。道々菓子を買って食らわせたが、あまり断らなかった。だんだん優しくし、時折冗談を言ったが、顔を頳らめてかすかに笑うばかりであった。数里進んだ後、見るとその貌はやや黒くなったようであったが、なおも気にしなかった。さらに行くこと十余里、暮色のなか、眉目もだんだん改まったように感じられた。南苑の西門に近づこうとすると、広い額、高い(ほおぼね)で、鬑鬑[161]とした鬚があった。みずから目が眩んだのかと訝り、問いただそうとしなかった。逆旅に着いて車を下りると、鬚髩は純白で、老翁となっていた。秀と手を握って別れた。「あなたに愛していただいて、感激はまことに深うございます。ただ老年衰顔で、今晩榻を共にするに堪えず、お心に負くのを恥じるばかりでございます。」。一笑して去ったが、何の(あやかし)なのか分からなかった。秀の表弟はわたしの厨役[162]で、かつて秀がみずから語るのを聞いたのであった。秀はさらにみずから若くて慎みがなかったため、狐鬼の軽侮を招いたことを悔いていた。

 
  文安[163]の王芳が言った。楊生という者がおり、容貌は艶麗であったので、強暴に遇うかもしれないとみずからを慮り、武芸をよく習い、十六七の時に、すでに数十人を相手にすることができた。たまたま通州にゆき、受験し、しばらく京城に住んでいた。たまたまひとり陶然亭に遊んだところ、二人の回教徒に遇い、むりやり酒肆に迎え入れられた。その意を悟り、しばらくともに飲食し、そしてことさらに珍味を求めて食らった。二人の回教徒はたいへん喜び、誘って人のない寺にゆかせ、左右から挟んで坐し、すぐに懐に抱いた。生は片手で一人を抑え、並んで地に倒し、足で背を踏み、それぞれ帯を解くと後ろ手に縛り、刀を抜き、頚に当てて言った。「動こうとする者は殺すぞ。」。かれらの下着を剥ぎ、いずれも淫した。そして責めて言った。「おまえたちは年が三十に近く、親しむに足りないが、人を汚すことが多かったから、わたしがか弱い少年のために復讐したのだ。」。おもむろにかれらの縛めを解き、腕を振ってすぐに出た。後に岳芳とともに歩いていたとき、そのうちの一人に途で遇ったが、振り向いて一笑したところ、その男は顔を掩って逃れ去ったので、岳芳のために述べたのであった。岳芳は言った。「命を損った者に命を還させ、財を奪った者に財を還させるのは、律であり、これは償うべきことだ。しかし人に淫した者には治める罪の律があり、返しに淫を受けさせる律はなく、これは償うべきではないことだ。君のしたことは、痛快と思うのはよいが、理に叶っていると思うことはできない。」。

 
  従孫の樹櫺が言った。南村戈孝廉仲坊[164]は、遵祖荘(土語で榛子荘というが、「遵」は「榛」の疊韻[165]で訛ったもので、「祖」は「子」の双声[166]の転である。近頃は「念祖橋」もあったが、今では訛って「験左」となっている。)にゆき、曹家の葬式に立ち会ったが、聞けばその隣家の鶏が一つの卵を産み、夜になると光があった。仲坊は数人の客とともに見にいったが、時にすでに昏暮で、燈下で見ると、普通の卵と異ならず、燈火を撤去したところ、はたして熒熒と光を吐き、卵の四方は盤盂[167]のようであった。これを部屋の隅に置き、門外に立って見れば、一室は照り輝くこと昼のようであった。客のあるものが言った。「これは鶏が蛟龍に感じ、卵を生んだため、この怪異があったのだ。しばらくして殼を破って出てきたら、主人にとって不吉だろう。」。仲坊は翌日すぐに帰り、結局どのようであったかを知らなかった。案ずるに木華[168]の『海賦』[169]に、「陽氷冶めず、陰火ひそかに然ゆ。」という。そもそも陽気が陰の中に鬱積し、鬱積が極まって外に騰がったのである。『嶺南異物志』は称する。「海中に生ずる魚や(はまぐり)は、暗い処に置くと光がある。」。『嶺表録異』[170]もこう称する。「黄蝋魚[171]の頭には夜に光があり、提灯のようで、その肉にも一片一片に光がある。」。水の生きものは、水と性が同じだからである。海水ではじめて火があり、海錯[172]ではじめて光があるのは、積水が集まり、積陰が凝っているからである。だから百川は陽気を鬱積させることができず、海だけが鬱積させることができるのである。暑月[173]になると腐草が蛍になるのは、層陰[174]積雨で、陽気が蒸して虫に化するのである。塞北[175]の夜亮木[176]は、氷谷雪岩で、陽気が集まって木に附くのである。蛍はすぐに死ぬし、夜亮木は盆盎[177]に移植すると、後に一二年も光を生じない。陰を離れ、気は伸びやかになることができ、だんだんと散じたのである。しかし、鶏卵の夜光は理によって解することができない。蛟龍に感じたという説も、かならずしもそうではあるまい。そもそも段成式の『酉陽雑俎』は称している。「嶺南の毒菌(どくきのこ)には夜光があり、人を殺すことはたいへんすみやかである。」。そもそも瘴癘の集まったものは、温熱を発して陽炎となる。この卵は、あるいは[178]の気が、たまたま鶏に集まったのか、あるいは鶏がたくさん毒虫を食らい、しばらくして鬱積し、毒菌に光がある類なのかも知れなかった。

 
  従姪の虞惇が言った。任丘の劉宗万がこう言うのを聞いた。「ある旗人が任丘に赴いて税を取り立てたところ、たまたま村民が夜に劇を演じていたので、見たところ、二鼓になると散会した。帰途酒が飲みたくなったが、樹の傍の茶店が見えたので、馬を繋いで入った。すると主人が出てきていった。『火はすでに消え、冷たい茶があるだけです。』。部屋に入ってしばらくすると、半杯の茶を捧げて出てきたが、色は深紅で濃くて粘り、匂いはかすかに腥いようであった。飲み尽くし、さらに求めると、言った。『瓶はもう尽きました。さらに残りを捜さねばなりませんので、こちらに坐してしばらくお待ちになるべきでございます。覗き見なさってはいけません。』。その後に久しく待ったが出てこず、ひそかに門の隙間から窺えば、一人の裸の娘を懸け、その腹を破り、木で開き、杯を持ち、その血をこそぎとっていた。驚いて退き、馬に乗っていそいで逃げた。すると後ろで、追いかけて茶の代金を求める声がし、道々絶えることがなかった。宿に着くと、すでに心が乱れており、落ちて倒れた。宿は馬の声を聞いて出て見ると、扶けて入らせた。翌日になると蘇り、その顛末を述べた。ともに行って跡をつけると、馬を繋いだ処に着いたが、平蕪[179]老樹があるばかり、荒れた塚は累累として、(いばら)の茂みに一匹の蛇が懸けられ、その腹の中央を裂き、横から草の茎で支えているばかりでした。」。これは裴yの『伝奇』[180]に載せる、盧涵が盟器[181]の下女に遇ったところ、蛇を殺して酒にしていた事と似ている。しかし下女が客を留めた趣意は、連れ合いを求めることにあった。この幽霊が茶を売っていたのはどうしてか。幽霊が求めるものは紙銭であるのに、また人に向かって銭を求めたのはどうしてか。

 
  田香[182]が言った。景河鎮[183]の西南に小さい村があり、住民は三四十世帯あった。鄒某という者がおり、夜半に犬の声が聞こえたので、衣を着て出て見た。新月の下、見たところ、屋上に巨きな人が坐していた。たいへん驚き、叫ぶと、隣人たちがともに出てきた。ややよく見ると、それは飼っていた牛が頭を挙げて蹲っているのであったが、どうして上がったのかは分からなかった。まもなく喧伝せられ、男女がみな珍事を見にきた。するとたちまち一軒の家から火が起こり、炎は猛く、風は狂い、村じゅうがほとんどすべて焦土と化した。そこで、これは牛の禍で、回禄の兆であったと悟った。姚安公は言った。「時にまさに穀物を収穫しており、(まめがら)や穀草が、(まがき)や茅の家の間に積もっており、延々と接していた。農家は辛苦し、家家は夜半にすべて熟睡していた。にわかに火事に遭えば、この村に生き物はなかったろう。天の心は仁愛であり、この牛で驚かし、夢から醒めさせたのだ。それをどうして(あやかし)と思うのか。」。

 
  同郡の某孝廉は落第した時、豪放不羈であったので、しばしば青楼に往来していた。しかし門に倚る者たち[184]はかれを見ても冷淡にしていた。妓女で名は椒樹という者(この妓女はその姓名が伝わっておらず、これは里巷での戯称である。)だけはかれを尊敬し、言った。「このかたはどうしていつまでも貧しい人でございましょうか。」。しばしば迎えてしたしく飲み、夜合の資金をかれの勉強のために供した。受験になると、さらに金銭を抛ち、旅装を調え、かれの家のために薪や米を求めてやった。孝廉は感動し、腕を握ると誓った。「わたしが志を得ましたら、かならずあなたを妻にしましょう。」。椒樹は謝した。「あなたを貴んでおりますのは、姉妹(なかま)が富家の子弟だけと付き合うのを咎め、人々に脂粉綺羅の中にも、具眼のものがいることを知らせようとしただけでございます。白頭の約に関しましては、聞こうとはいたしません。わたしは性来慎みがなく、絶対に良家の妻にはなれません。箕帚を執った後、思いのままに風月(いろこい)すれば、あなたは堪えられないでしょう。閨閣に幽閉されれば、監獄に坐しているかのようであり、今度はわたしが堪えられません。最初は歓合し、最後は離別するよりも、それぞれが尽きせぬ思いを留めて、長く慕うにしくはございません。」。後に孝廉は県令となり、しばしば椒樹を招いたが椒樹は赴かなかった。中年以後は、車馬は日に日に稀となったが、一度もその官署にゆかなかった。やはり奇女であるといえた。韓淮陰[185]がこの趣旨を知ることができれば、「鳥尽きて弓(しま)はる。」の恨みはなかったであろう[186]

 
  膠州の法南野[187]は、長安に飄泊し、困窮愁苦することはなはだしかった。ある日、李符千[188]御史[189]の酒席で言った。「かつて濼口[190]の旅舎で二首の詩を見たが、その一に言った。『江湖に流落すること十四春、徐娘半ば老ゆるもなほ風塵。西楼一枕鴛鴦の夢、明月窓を窺ひまた人を笑ふ。』。その二に言った。『情を含み忍びざれば琵琶に訴へ、幾度か低頭し髩鴉[191](はら)ふ。多謝す西川の貴公子、あへて紅燭を持ちて残花を賞でんや。』。年月姓名を記していないので、誰が作ったのか分からない。」。わたしは言った。「これは君がみずからの坎[192]を寓しているだけだ。五十六字は一篇の『琵琶行』[193]とするに足りる。」。

 
  益都[194]の李生文淵は、南澗[195]の弟であった。古を好むこと南澗のようであり、雄弁は勝っていた。不幸にして夭死したので、南澗はわたしにかれの墓誌を乞うた。匆匆として果たさず、その事状[196]も失われたので、今まで遺憾に思っていた。ある日、わたしの生雲精舎[197]で古の礼について討論したので、聞いた一事を挙げるとしよう。「博山[198]に書生がおり、夜に藪の中を歩いていたが、見ると役人が松の下に坐しており、呼ぶと語った。じっくり見ると、かれのすでに亡くなった表丈[199]の某公であった。やむを得ず進みでて拝礼すると、家の事をたいへん詳しく尋ねた。生はそこで尋ねた。『古では体魄[200]は野に収められるが、神霊は位牌に依ると称しています[201]。丈人[202]は祠堂をお持ちですのに、どうしてこちらにいらっしゃいます。』。某公は言った。『それは『古は墓祭[203]せず[204]』の文に拘っているのだ。そもそも廟は地を祭り、位牌は霊位を祭るものだ。神霊は来臨すると、この地やこの位を拠りどころにしているだけだ。神霊がつねに廟におり、つねに位牌に附いているなら、代々の先祖と子孫が、人間と幽霊で雑居していることになる。そして、廟がある、位牌があるということは、爵禄がある者のために言っているだけだ。今、一県一郷の中で、廟を建てられる者は万軒に一二軒もなく、祠を建てられる者は千軒に一二軒もなく、位牌を設けられる者は百軒に一二軒もない。神が位牌に依って墓に依らないなら、百千億万の貧しい家では、その先祖がすべて寄る辺ない幽霊となるが、このような理があろうか。鬼神の情況を知る者は、聖人に如くものはいない。明器[205]の礼は、夏后氏[206]以来のものだ。神霊が位牌にいて墓にいなければ、明器は廟に設けるべきだ。それなのにすべて墓の中に埋めるのは、器を神に供するときに神の来ないところに置いていることになるが、聖人はかくも愚かなのだろうか。衛人の合葬するとき離すのは、殷の礼、魯人の合葬するとき合わすのは、周の礼で、孔子は周を善しとした[207]。神が墓にいなければ、墓が分かれようが合おうが、まったく違いはなく、善いも善くないもない。『礼』に「父歿して父の書を読むに忍びず、手沢[208]存すればなり、母亡びてその桮棬[209]を用ゐるに忍びず、口沢[210]存すればなり[211]。」という。微細な一つの物でさえ、このようである。それなのに先人の体魄を、ないもののように見て、別に数寸の木を立て、これはわたしの父、わたしの母の神だというのは、事理を類推することができていないのではなかろうか。寺の鐘が鳴ろうとしているから、ひとまずおまえと別れよう。おまえは今わたしに会ったが、今後は儒者めに惑わされるな。』。生はすぐに立ちあがった。東方はすでに白んでおり、見ると、まさに某公の墓道の前であった。」。

 
  陳裕斎[212]が言った。道観に仮住まいしている者が、一人の狐女と親しんでいたが、来ない晩はなかった。突然、数日現れなくなったが、なぜなのかは分からなかった。ある晩、簾を掲げると、笑みを含んで入ってきた。しばらく隔たっていたわけを尋ねると、言った。「観内の新来の道士を、皆さまが仙人と目していらっしゃいますので、神術があるかもしれないと慮り、しばらく避けておりました。今夜、姿を変えて小さな鼠になり、壁の隙間からひそかに窺いましたところ、大言して世を欺く者にすぎませんでしたので、また参ったのでございます。」「どうしてかれに道力がないことが分かった。」「偽仙偽仏には、技は二つしかございません。一つはことさらに静黙にし、人に推し量れないようにさせるのでございます。一つはことさらに顛狂にして、人にかれが顛狂のふりをしているのかと疑わせるようにするのでございます。しかし本当に静黙な者は、かならず淳朴恬淡で、拘りのある者は、偽りでございます。本当に顛狂のふりをしている者は、かならず遊行して自在であり、軽狂にしている者は、偽りでございます。これはたとえばあなたがた文士が、ことさらに名声を高くするため、あるものは偏屈冷淡にし、人々に狷介であるのかと疑わせ、あるものは酒に耽り、座を罵り、人に狂かと疑わせるのと、同じ術にすぎません。この道士はたいへん軽狂にしていますから、その無能さを知るに足ります。」。時に銭稼軒先生[213]の家でともに飲んだところ、先生は言った。「この狐は眼光は鏡のようだが、舌鋒はたいへん鋭く、身も蓋もないことを免れない。」。

 
  飯炊きの曹媼は、その子が僧であったが、語るには、かつて粤東[214]のある役人が、寺に来て営斎し[215]、その妻が亡くなってすでに十九年だと言っていた。ある晩、燈下に姿を現して言った[216]。「黄泉に来てから、思わない時はございませんでしたが、あなたが亡くなった後に一目お会いできることを願っておりました。ところが今回転輪[217]に入れられ、これからは茫茫として万代にわたり、また会う時はございますまい。ですから冥土の禁を冒して、護送する者に賄し、お別れをしにまいったのでございます。」。その夫は驚き悲しみ、まさに言葉をかけようとすると、たちまち旋風が部屋に入って巻いて去ったが、なおも隠隠と泣き声が聞こえた。だから妻のために和尚に斎食を施して礼懺[218]し、来世の福を求めているのであった。この夫とこの妻は、二人とも相手を裏切らなかったといえる。『長恨歌』にいう。「ただ心をして金鈿のごとく堅からしむれば、天上人間かならず相見えん。」。この一念をもってしなければ、ふたたび来世の機縁のもととなるかは分からないのである。


 『桂苑叢談』[219]は、李衛公が方竹[220]の杖を甘露寺の僧に贈ったことを記している。この竹は大宛国に産し、堅固で正方形、節や鬚が、四面に対称に出ているといっている。案ずるに方竹は今は閩粤に多くあり、珍しいものではない。大宛は今の哈薩克(カザフ)で、すでに版図に属しているが、その地は昔から竹を産しないので、どうして(しかく)のものがあろうか。また『古今注』[221]に載せるが、烏孫に青田核[222]があり、大きさは六升の瓠のよう、空にして水を入れると、にわかに酒になるという。案ずるに烏孫は今の伊犁の地なので、額魯特(オロト)[223]にたずねたところ、みなそうしたものはないと言った。また『杜陽雑編』[224]には元載[225]が芸暉堂を私邸に造ったことを載せている。芸香[226]とは、草の名で、于闐国[227]に産し、その香潔であること白玉のよう、土に入っても朽ちず、搗いて屑にし、その壁に塗り、芸暉と称したのであった。于闐はすなわち今の和闐の地だが、やはりこの物のことを聞かない。ただ西域には草があり、瑪努(マヌ)[228]といい、根は蒼朮[229]のよう、番僧は焚いて仏に供し、すこぶる珍貴であるが、色は白くなく、壁に塗ることもできない。いずれも小説の附会の言である。

 
  黎荇塘[230]が言った。少年がいたが、その父は外で商いしており、ながいこと帰らなかった。息子は慎みがなくなり、嚢家[231]に誘われ、賭博の負けが数百金となった。嚢家は相談し、代わりに金を払い、人々に償うことにし、むりに家を売る証文を書かせたので、息子はやむを得ず従った。母や妻に会わせる顔がないことを慮り、家に帰らず、夜、林に入ってみずから縊れた。帯を結んでいると、馬蹄が隆隆とし、振り返ると、その父が帰ってきており、驚いて尋ねた。「どうしてそのような考えを起こした。」。隠せないと思い、事実を告げた。父はさして怒らず、言った。「これも普通のことだから、そこまですることはない。わたしが今回得たもので償えよう。おまえはひとりで家に帰れ。わたしはひとりでいって金を償い、証文を取り返そう。」。時に嚢家は賭博して散じていなかったが、父がにわかに闥を排して入ってきた。もともとみな知りあいだったので、すべて姓名を挙げて呼び、まずはかれらが誘惑した非を責め、次に脅迫した過ちを責めた。人々は驚いて言葉を措けなかった。その後、言った。「不肖の倅が家の証文を書いたし、わたしも賭博をお上に訴えるのは難しい。今あなたに金を償うから、明日人々に分け与えてくれ。わたしの家の証文を返してくれてよいか。」。嚢家は(すじ)が通っていないことを悟り、言われた通りにすることを願った。その父は腰巾着を解いて嚢家に渡したので、すべて調べて受けとった。父は証文を得るとすぐに燈火で焚き、憤然として出た。その子は家に帰ると食事を用意し、朝まで待っていたが父は帰らなかった。嚢家にいって探すと、言った。「すでに証文を焼いて去りました。」。まさにほかの事情があったかと心配した。翌日、嚢家が篋を開くと、すべて紙銭であった。金はみずから受けとったものであったし、衆目がともに見ていたので、弁明するすべがなく、自分の金を出して償い、みずからが幽霊に遇ったかと疑った。十日あまり後、訃音がほんとうに来たが、歿してすでに数か月であった。

 
  李樵風[232]が言った。杭州の湧金門[233]外で、漁舟が祠の下に泊まっていたが、聞くと祠の中で人の声が騒がしかった。その後、神が怒鳴っていた。「おまえたち野の幽鬼は、どうして文士を辱めた。罪は笞うつのが相当だ。」。さらに聞くと、弁論していた。「人は静まり、月は明るく、幽魂はしばし水辺に遊び、いささかの旅愁を解いているのです。この二人の貧乏書生だけは学を講じ、詩を談じ、くどくどとして止みませんでした。人々はみな理解できず、本当に聞くのが嫌なものでした。ひそかに耳打ちし、かすかに不満を示し、やや遠ざかったことはございましたが、ぶつかろうとはしませんでした。」。神は黙然とし、まもなく、言った。「文雅の事を論じるなら、やはり地を選び、人を選ばれるべきでしょう。先生はお静まりください。」。にわかに燐火が蛍のように、祠の中から出ていった。くすくすと笑って止まず、四散して去るのがはるかに聞こえた。

 
  劉は、滄州の人であった。その母は康熙壬申[234]の生まれで、乾隆壬子[235]になり、年は百一歳、なお強健でよく食べた。しばしば恩詔に逢い、里胥はお上に知らせて穀物や布帛を支給させてやろうとしたが、固辞して願わなかった。去年、表彰を請い、牌坊を断ててやろうとしたが[236]、やはり固辞して願わなかった。ある人が願わないわけを尋ねると、慨然として言った。「貧家の寡婦は、運命がよくなく、まさに困苦していることによって、神に憐れまれ、この寿命を得たにすぎません。一たび過分の福分を迎えれば、死期が到りましょう。」。この媼は見識がことに高かった。その生平を考えれば、騒いで分外の要求をすることはけっしてなく、恬然として平静であったので、天和[237]を養い、この長寿を保てたのも当然であった。

 

 



[1]http://d.wanfangdata.com.cn/LocalChronicleItem_4537839.aspx

[2]http://baike.baidu.com/view/89981.htm夫の家でわれる幼女で、成年すると正式に婚するもの。

[3]未詳

[4]雍正十一年、千七百三十三年

[5]直隸河間府の県名。

[6]交河県の鎮名

[7]王洪緒をさしていよう。

[8]未詳

[9]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic88ZdicBF224352.htm明清、会の合格の、試験官に対する尊称

[10]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6Zdic97Zdic85223697.htm客死した者の霊柩

[11]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic8DZdic87286502.htm明清代、荒地を開墾した場合定の年限(水田六年、旱田十年)たした後、普通の田と同様に糧を徴收すること

[12]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic8F7905.htm官吏の議事

[13]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6ZdicB5ZdicAE3590.htm以外の

[14]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9A108642.htm仏教。世種種因が大海のようであるので、「海」と称する。

[15]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6ZdicA4Zdic8E139311.htm極めて悲痛なさま

[16]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8ZdicBDZdicAC210488.htm

[17]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE9ZdicACZdicBC85169.htm鬼道、仏教六道の一つ

[18]直隸河間府の県名。

[19]未詳

[20]直隸天津府の県名。

[21]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE6Zdic86ZdicA7174286.htm乱不安であること

[22]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE5ZdicBEZdicAE119025.htm漢典は「謂陰気初生」「稀薄的雲、微的」と説くが、かすかな陰気のことで、ここでは幽霊のことであろう。

[23]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7Zdic9BZdic9B155709.htm旺盛な陽気。ここでは人間のこと

[24]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5Zdic8FZdic9824040.htm変化した姿

[25]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6ZdicA1Zdic80305270.htm凶暴倔

[26]未詳だが、悪霊のことであろう。

[27]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic88ZdicBE167793.htm邪気

[28]未詳だが、殺生の心であろう。

[29]直隸天津府の県名。

[30]http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE7Zdic99Zdic83335088.htm大小便が出ないこと

[31]原文「銅頭煅灰酒服之」。「煅」は火に入れて石の烈性を減少すること(中の制法の一つ)。http://www.zdic.net/zd/jd/zi/ZdicE7Zdic85Zdic85.htm

[32]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE6ZdicB9ZdicBF145972.htm

[33]原文同じ。未詳。

[34]http://www.wiki8.com/zhouduzhiguan_5087/膀胱

[35]原文「若州都之官、氣不能化、則求之於本原、非此物所能導也。」未詳。「氣不能化」は尿が出ないことであろう。『素·霊秘典』云、膀胱者、州都之官、津液藏焉、気化能出矣。」。「本原未詳。

[36]未詳

[37]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE5Zdic89ZdicAF102755.htm清代都察院副官左副都御史称。

[38]http://www.zdic.net/cd/ci/21/ZdicE8ZdicA0ZdicA232435.htm貌、愚昧無知の貌

[39]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE7ZdicB2ZdicBE229618.htm妖精鬼怪

[40]巻一に出てくる「王孝廉金英」のこと。巻七にも見える。

[41]視覚霊敏であることhttp://www.zdic.net/cd/jd/15/ZdicE8Zdic81ZdicAA336693.htm

[42]http://baike.baidu.com/view/220005.htm

[43]未詳

[44]http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E7%AD%86%E6%B4%97&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

[45]http://baike.baidu.com/view/185033.htmhttp://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E5%93%A5%E7%AA%AF&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

[46]http://baike.baidu.com/view/361112.htm

[47]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE7ZdicA3Zdic81226662.htm磁器の釉のないところ

[48]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic87ZdicBA24448.htm釉薬がかかっている部分とそうでない部分の境目がぎざぎざになっていないということなのであろう。

[49]http://baike.baidu.com/view/1037589.htm

[50]『廣異記』稽胡。

[51]この話は『太平広記』巻第四百四十八に載せられている

[52]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic96ZdicB9161380.htm方竹で作った杖http://www.zdic.net/search/?q=%E6%96%B9%E7%AB%B9http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E6%96%B9%E7%AB%B9&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

[53]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6Zdic96ZdicAD217134.htm裂けた紋のある古琴

[54]介福(?〜千七百六十二)、字受、号景庵、又号野園、黄旗人。雍正十一年士、政庶吉士、官は吏部左侍郎に至る。http://auction.artxun.com/paimai-40-199474.shtml

[55]http://baike.baidu.com/view/10672.htm#1

[56]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic90Zdic8E305555.htm漢典は「後便殿」と説くが、ここでは奥の仏閣であろう。

[57]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5Zdic92ZdicA588321.htm笑う貌

[58]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA5Zdic96174183.htm祖父の姉妹

[59]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA7Zdic91308032.htmここでは科挙の勉強のことであろう。

[60]内閣学士

[61]参照

[62]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE6Zdic80ZdicBB38321.htm都察院左都御史

[63]http://www.hudong.com/wiki/%E8%88%92%E7%A9%86%E9%B2%81未詳。舒穆嚕(舒穆魯、舒穆禄とも)は満洲人の姓。

[64]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E8%92%8B%E9%94%A1%E6%A3%A8&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=

[65]未詳

[66]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE9Zdic80Zdic89247887.htm任を待つ

[67]原文「將申漂母之報」。http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE6ZdicBCZdic8283489.htm漂母は洗濯女。飢えていた韓信に食物を恵んだ漂母が特に有名。ここでは恩人というくらいの意味で使っていよう。

[68]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic8FZdicA479628.htm古の人。ここでは古朴な人。

[69]千七百五十五、六年。乾隆二十、二十一年。

[70]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5ZdicAEZdicA237600.htm雇われ工

[71]http://baike.baidu.com/view/149354.htm手押し車

[72]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE9ZdicBEZdic8256686.htm争論するさま

[73]原文「莫知其然」。未詳。とりあえずこう

[74]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE7Zdic9BZdicB493917.htm宿直室

[75]http://zh-classical.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%BD%9B

[76]http://baike.baidu.com/view/6082.htm

[77]http://baike.baidu.com/view/28276.htm

[78]巻十二、二十にも出てくる。

[79]巻四に見える。

[80]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE8ZdicAFZdic8D252740.htm辞にけた人

[81]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE6ZdicB0Zdic94142327.htmここでは気質のことであろう。

[82]麻を入れた袍、粗悪な衣服。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE7ZdicBCZdic8A.htm

[83]原文「士各有志」。前後とのつながりが未詳。

[84]http://baike.baidu.com/view/2881767.htm『説苑』立節「晉靈公暴、趙宣子驟諫、靈公患之、使鉏之彌賊之、鉏之彌晨往、則寢門闢矣、宣子盛服將朝、尚早、坐而假寢、之彌退、歎而言曰、不忘恭敬、民之主也。賊民之主、不忠、棄君之命、不信。有一於此、不如死也。遂觸槐而死。」

[85]http://sc.zdic.net/qin/12420506451027800.html%『春秋左傳』哀公十七年「衛侯夢于北宮。見人登昆吾之觀。被髮北面而譟曰。登此昆吾之綿綿生之瓜。余為渾良夫。叫天無辜。」

[86]未詳

[87]未詳

[88]http://baike.baidu.com/view/44425.htm怪物

[89]http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE5Zdic83ZdicA710403.htm僧舎

[90]原文「而氣候已成」。未詳。とりあえずこう

[91]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5Zdic96Zdic84111929.htm教化くすること

[92]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5Zdic85ZdicBB342757.htm生じても治療せず、自身にもたらすこと。

[93]http://www.zdic.net/cd/jd/18/ZdicE9Zdic9EZdicAD82098.htm鞭うち

[94]『荘子』達生「東野稷以御見莊公、進退中繩、左右旋中規。莊公以為文弗過也、使之鉤百而反。顏闔遇之、入見曰、稷之馬將敗。公密而不應。少焉、果敗而反。公曰、子何以知之。曰、其馬力竭矣、而猶求焉、故曰敗。」。

[95]音は

[96]未詳だが、唇方向に息を吐いて出す音であろう。「汪(wāng)」は、発音する時、息が鼻に抜ける。

[97]音は

[98]音はlángzi

[99]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE5Zdic90ZdicB9111488.htm

[100]音は

[101]音はguǒ

[102]音は

[103]原文「沽字土音在果戈之間」。未詳。とりあえずこう訳す。

[104]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicADZdicA4129959.htm

[105]千七百二十五年、雍正三年

[106]『史·殷本

[107]山西潞安府の鎮名

[108]直隸河間府の県名

[109]未詳

[110]http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE7ZdicAAZdicB8165677.htm擬音語碎の声。

[111]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE6ZdicB5Zdic87220590.htm酒をそそいで祭ること

[112]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE7ZdicBBZdic8F229701.htm僧あるいは道士を招いて読懺悔させ、死者を済度させる

[113]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5Zdic96Zdic8490411.htmよい縁

[114]http://baike.baidu.com/view/131037.htmhttp://baike.baidu.com/view/746354.htm

[115]原文「則如目連母鍵在大地獄中,食至口邊,皆化猛火」。『大目干救母文』得美食香餐。便即化火。http://sutra.goodweb.cn/lon/other85/2858.htm

[116]原文「亦似有肸蠁」。未詳。とりあえずこう訳す。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8Zdic82ZdicB8358699.htm

[117]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8ZdicBDZdicAC210488.htm

[118]安徽省宣城市旌徳

[119]猟師の唐さん

[120]安徽徽州府の県名。

[121]http://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E6%88%B4%E9%9C%87

[122]原文「習伏眾神。巧者不過習者之門」。『荘子』にこの句なし。揚雄『答桓譚書』「云、象神、巧者不過習者之。」

[123]http://baike.baidu.com/view/209348.html

[124]直隸天津府の県名。

[125]http://baike.baidu.com/view/804181.html

[126]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5Zdic92Zdic8C294276.htm『老子』「和其光、同其

[127]巻六、十二、十三、十四にも見える。

[128]巻三、二十二に見える。

[129]http://baike.baidu.com/view/57801.htm

[130]未詳

[131]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8ZdicBDZdicAE238948.htm番で昇殿して利弊についてこと

[132]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE7ZdicA4ZdicBE290962.htm春秋の社日に土神を祭る集会

[133]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5Zdic8CZdic96318023.htm他の生物からある昆虫が生じること

[134]山東莱州府の県名。

[135]未詳

[136]http://baike.baidu.com/view/2384.htm

[137]原文「怪而非怪」。未詳。とりあえずこう訳す。一見怪しいが実は怪しくないということであろう。

[138]未詳

[139]http://bk.baidu.cn/view/201101.htm

[140]『太平広記』巻第三百四十九・曹唐「士曹唐、以能、名当世、久不第、常寓居江陵仏寺中亭沼。境甚幽賦詩、得両句曰、水底有天雲漠漠、人無路月茫茫。吟之未久、自以常制者不及此作。一日坐亭沼上、方用怡詠、忽人、衣素衣、貌甚冶、徐而吟、是唐前所做之二句也。唐自以制未翌日、人固未有知者、何遽而得之。因迫而迅之、不而去。未歩間、不矣。唐方甚疑怪、唐素与寺僧法舟善、因言于舟。舟驚曰、両日前、有一少年見訪一碧、示我此。適方欲言之。乃出示唐、惘然。数日後、唐卒于仏舎中。(出『霊怪集』)」。

[141]http://d.wanfangdata.com.cn/LocalChronicleItem_4646157.aspxhttp://npmhost.npm.gov.tw/ttscgi2/ttsquery?0:0:npmauac:TM%3D%B1%E4%BE%C7%B6%7B

[142]宗人府府丞http://baike.baidu.com/view/56727.htm

[143]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE7ZdicAAZdic9F311530.htm神怪の居

[144]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE8ZdicB4ZdicB240024.htm代の勇士和夏育の并称

[145]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE7Zdic9FZdicA5185088.htm原文「知難而退」。うとき機を、できない事をむりにしないこと。

[146]未詳だが、黒いガチョウであろう。

[147]http://www.zdic.net/zd/jd/zi/ZdicE9ZdicB9Zdic99.htmに毛がなく、性貪悪、蛇、等を食らう鳥

[148]http://www.zdic.net/zd/jd/zi/ZdicE9ZdicB9ZdicB3.htm、羽毛は灰白色あるいは黒色、嘴はくて真直ぐ、形は白のよう、江、湖、池沼の近くで生活し、魚蝦等を捕食する。http://www.google.com/images?q=%E9%B8%9B&um=1&hl=zh-CN&lr=&tbs=isch%3A1&sa=2&start=0

[149]http://www.zdic.net/zd/jd/zi/ZdicE9ZdicB8ZdicA8.htm鳥類、雁よりやや大きく、背に黄褐色と黒色の斑があり、ぶのは苦手、よく走り、水をることができる。大はこの仲間。http://baike.baidu.com/view/252672.htmhttp://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E9%B8%A8&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

[150]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE9ZdicB8ZdicAC85429.htm、俗に「魚鷹」といい、羽毛黒色、がありよく、海生活、海藻等を作る人は常に用いてを捕らえる。“鬼”水老”とも。http://www.google.com/images?um=1&hl=zh-CN&lr=&tbs=isch%3A1&sa=1&q=%E9%B8%95%E9%B7%80&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=&start=0

[151]金甡http://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E9%87%91%E7%94%A1

[152]http://baike.baidu.com/view/1334580.htm

[153]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic83ZdicA7170635.htm酒名。

[154]http://baike.baidu.com/view/137971.htm

[155]唐代、河東道の県名。

[156]http://www.hudong.com/wiki/%E3%80%8A%E5%8E%9F%E5%8C%96%E8%AE%B0%E3%80%8B

[157]倪承寛http://baike.02csq.com/view/236023.htm?func=retitle

[158]鍾馗のこと。鍾馗南山西安戸県の人。http://baike.baidu.com/view/9853.htmここでは韋滂をさしていると解す。

[159]未詳

[160]直隸順天府の県名。

[161]http://www.zdic.net/cd/jd/20/ZdicE9ZdicACZdic9176420.htmいさま

[162]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5Zdic8EZdicA8119796.htm炊事を担任する僕。

[163]直隸順天府の県名。

[164]戈涓。光緒九年『畿輔通志』巻二百三十四参照。

[165]http://zh.wikipedia.org/zh/%E5%8F%A0%E9%9F%B5“荒唐”、“螳螂”、“徘徊”などのように、母音が同じ二つの漢字を重ねて作られた熟語

[166]http://zh.wikipedia.org/zh/%E5%8F%8C%E5%A3%B0“彷彿”、“蜘蛛”、“坎坷”などのように、子音が同じ二つの漢字を重ねて作られた熟語

[167]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7Zdic9BZdic98220187.htm円盤と方盂の并称。物を盛るのに用いる。

[168]http://baike.baidu.com/view/201474.htm

[169]http://ja.wikisource.org/wiki/zh:%E6%B5%B7%E8%B3%A6

[170]http://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%B6%BA%E8%A1%A8%E9%8C%84%E7%95%B0http://202.101.244.103/guoxue/%E5%8F%B2%E9%83%A8/%E5%85%B6%E4%BB%96/guoxshibu/dll/006.htm

[171]顙魚という魚のことを黄臘丁というらしいが、未詳。http://baike.baidu.com/view/49388.htm

[172]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6ZdicB5ZdicB7288782.htm海産物

[173]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE6Zdic9AZdic91327165.htm夏月。農暦六月前後小暑、大暑の

[174]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE5ZdicB1Zdic82128244.htm密に布いた

[175]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE5ZdicA1Zdic9E87349.htm以北。またひろく北地区を指す

[176]『広群芳』に見える。http://zh.wikisource.org/zh-hans/%E5%BB%A3%E7%BE%A3%E8%8A%B3%E8%AD%9C/%E5%BE%A1%E8%A3%BD%E5%BA%8F

[177]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7Zdic9BZdic86182777.htm盆と盎。またひろくやや大きな容器を指す。

[178]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6ZdicB2ZdicB413130.htm瘟疫。

[179]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5ZdicB9ZdicB330881.htm草木した原野。

[180]『太平広』巻第三百七十二・http://gj.zdic.net/index.php/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%B9%BF%E8%AE%B0/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%99%BE%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%8C%E3%80%80%E3%80%80%E7%B2%BE%E6%80%AA%E4%BA%94

[181]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE7Zdic9BZdic9F190411.htm明器。古代随葬品の称。

[182]巻二十一に見える。紀ホの姉の婿。

[183]景和鎮。直隸河間府の鎮名。http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E6%B2%A7%E5%B7%9E%E5%B8%82%E6%B2%B3%E9%97%B4%E5%B8%82%E6%99%AF%E5%92%8C%E9%95%87%E6%99%AF%E5%92%8C%E6%9D%91&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[184]原文「倚門者」。「倚門」は妓女。http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5Zdic80Zdic9A20266.htm

[185]http://baike.baidu.com/view/2653.htm

[186]http://baike.baidu.com/view/1057444.html用済みになって棄てられること。ここでは韓信の喩え。

[187]http://blog.sina.com.cn/s/blog_5d99784c0100btns.html

[188]未詳

[189]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5ZdicBEZdicA1331355.htm

[190]http://baike.baidu.com/view/1283632.htm山東済南府の鎮名

[191]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE9ZdicB8ZdicA682071.htm女の黒色の

[192]不遇http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE5Zdic9DZdic8E321171.htm

[193]http://baike.baidu.com/view/33438.htm

[194]山東青州府の県名。

[195]http://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E6%9D%8E%E6%96%87%E8%97%BB

[196]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE4ZdicBAZdic8B96202.htm行状。

[197]巻六にも見える。

[198]山東青州府の県名。

[199]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8ZdicA1ZdicA86903.htm父の、姓の違ういとこ

[200]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE4ZdicBDZdic9358223.htm遺骸

[201]出典未詳

[202]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic888409.htm戚の年者への通称

[203]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE5ZdicA2Zdic93322609.htm墓参り

[204]『後漢書·明帝』「永平元年春正月、帝率公卿已下朝於原陵、如元会注引『』「古不墓祭。秦始皇起於墓因而不改。」

[205]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic98Zdic8E322574.htm陪葬される器物

[206]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5ZdicA4Zdic8F216540.htm夏王朝

[207]『礼記』檀弓「孔子曰%人之祔也離之、魯人之祔也合之。善夫。」巻十でも引用されている。

[208]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE6Zdic89Zdic8B300833.htm手の汗

[209]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic9DZdicAF313788.htm

[210]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE5Zdic8FZdicA3110319.htm器についた口の汚れ

[211]『礼記』玉藻

[212]巻八、二十四にも出てくる。

[213]http://baike.baidu.com/view/181846.htm

[214]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7ZdicB2ZdicA4201688.htm

[215]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE8Zdic90ZdicA5149858.htm食をけて僧道に供し、死者のために霊魂を超度することをうこと

[216]主語は妻であろう。

[217]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8ZdicBDZdicAC210488.htm輪廻

[218]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE7ZdicA4ZdicBC174816.htm仏菩礼拝し文をえ、造った罪懺悔すること。

[219]http://zh.wikisource.org/zh-hans/%E6%A1%82%E8%8B%91%E5%8F%A2%E8%AB%87

[220]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE6Zdic96ZdicB9172718.htmhttp://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E6%96%B9%E7%AB%B9&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

[221]http://baike.baidu.com/view/1004003.htmhttp://zh.wikisource.org/zh/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E6%B3%A8

[222]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9Zdic9DZdic92268742.htm『古今注』草木第六「烏孫國有青田核、莫測其樹實之形、至中國者、但得其核耳。得清水則有酒味出、如醇美好酒。核大如六升瓠、空之以盛水、俄而成酒。劉章得兩核、集賓客設之、常供二十人之飲。一核盡、一核所盛、已復中飲。飲盡隨更註水、隨盡隨盛、不可久置。久置則苦不可飲。名曰青田酒。」

[223]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE9ZdicA2Zdic9D62955.htm代、西部蒙古各部

[224]http://www.guoxue123.com/zhibu/0401/0100/105.htm

[225]http://baike.baidu.com/view/208797.htm

[226]http://baike.baidu.com/view/270181.htm

[227]http://baike.baidu.com/view/65552.htm

[228]未詳

[229]http://baike.baidu.com/view/61078.htm

[230]未詳

[231]http://www.zdic.net/cd/jd/22/ZdicE5Zdic9BZdic8A214907.htm胴元

[232]未詳

[233]http://baike.baidu.com/view/2873188.htm

[234]康熙三十一年、千六百九十二年

[235]乾隆五十八年、千七百九十三年

[236]原文「請旌建坊」。建坊は訳文のとおり。牌坊は旧時為某人の徳行を表彰するためにけられた念の建築物。http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7Zdic89Zdic8C322907.htm

[237]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA965233.htm人体の元気

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