第十巻

如是我聞四

 

  長山[1]の聶松岩[2]が言った。安邱[3]の張卯君先生[4]の家に書楼があり、狐に占拠され、つねに人と対談していた。下女童僕に、隠しごとがあると、かならず人々に暴露した。一家は神のように恐れ、タタ然[5]として悪事をしようとしなかった。これも物いう縄規[6]、姿なき監史であった。しかし狡いのは、ある人がつつしんで仕えれば、かれの短処を隠し、質しても言おうとしないところであった。そもそも聡明さは余りあるが、正直さは足りないのが狐の狐たるゆえんか。

  
  滄州挿花廟[7]の老尼董氏が言った。かつて夜半に目ざめたところ、仏殿で鏗然たる磬の音が聞こえ、人が礼拝しているかのようであった。翌日、その弟子に告げると、弟子は言った。「師は耳が鳴ったのです。」。夜になるとふたたびそうであったので、ひそかに起き、抜き足して窺った。仏光[8]が青く閃き、ぼんやりと物を見わけられたが、見れば磬を撃っているのは、亡くなった師匠であった。一人の若い女が仏に向かって長跪し、喁喁[9]としてくどくど祈っていたが、顔を奥に向けており、誰だかは分からなかった。祈っていることをじっくり聴けば、夫の病のために(さいわい)を求めているのであった。恐れてなすすべがなくしていると、朱の(いたかべ)に触れる音がした。陰気は冥蒙[10]として、燈の光はにわかに暗くなった。ふたたび明るくなると、すでに見えなくなっていた。亡き外祖雪峰張公が言った。「この若い女は、すでに冥土に入っているのに、なおも夫の病を憂えており、聞くと人に夫婦の情を増させる。」。董尼は言い、近頃、一人の花売りの老媼が、夜に某家の墓を通ったところ、にわかに某夫人の魂が樹の下に立ち、手で招いているのが見えた。避けられる路がなかったので、戦慄して拝謁した。某夫人は言った。「わたしは毎晩こちらにおり、一人の知人が便りを寄せてくるのを待ち、待ち望んで眼は穿たれそうになっていましたが[11]、今はあなたに会いました。帰ってわたしの娘、わたしの婿にお告げください、一切の陰謀を、鬼神はすでにすっかり知っているから、さらにむだに心力を費やすことはないと。わたしは冥府で、ひどく鞭うちを受け、地下で先に死んだが、さらに人人が唾はき罵るので、穴があったら入りたく、日々この樹の辺に避け、雨に苦しみ、風に悲しみ、辛酸は万状で、あと何代地獄に落ちれば、転輪[12]に付せられるか分からない。聞けば奪った坊ちゃま[13]の資産が、減少してすべて尽きれば、はじめて生路[14]があるそうでございます。さらに婿どのの密書数通があり、病中螺鈿の小篋の中に置いたが、取り出して廃棄し、後日、口実[15]にされないようにすることを頼んでいました[16]。」。再三言い含めると、嗚咽して消えた。媼はひそかにかれの娘に告げた。娘は「坊ちゃまのために口利きしているのか。」と怒ったが、篋の中の手紙を見るに及び、はじめて悚然とした。後に女の家は日に日に衰退した。親戚の中でそのことを知るものは、みな合掌して言った。「某夫人は生路が近づいた。」。

  
  烏魯木斉(ウルムチ)提督巴公彦弼が言った。昔、烏什[17]を征するのに従った時、夢みてとある山麓にゆくと、六七の行幄[18]があったが、兵士は見えず、数十人が出入往来していたが、やはり多くは文吏のようであった。いって窺いみてみると、亡き護軍統領某公(某は、名はおよそ五文字であったが、公は滾舌音[19]でいそいで呼んでいたので、今は思い出すことができない。)に遇った。手を握って慰労し、尋ねた。「公は亡くなられて久しいのに、今はどうしてこちらに来ていらっしゃるのです。」「わたしは平生愚直でしたので、冥官を受けられ、今、従軍して戦没者を登記しています。」。その(つくえ)の上の帳簿を見ると、黄色、紅色、紫色、黒色の数種があった。「これは()によって分けているのですか[20]。」と尋ねると、かすかに笑った。「どこに紫旗、黒旗があろう。(昔、黒旗があったが、黒い色は夜中に見わけにくいので、藍旗に改めたのである[21]。この公はたまたま知らなかったのである。)これは優劣の順序を分けているだけだ。」「順序はどこで決まるのだ[22]。」「赤心をもって国のためにし、奮って身を顧みなかったものは、黄冊に載せ、つつしんで軍令に従い、死んでも屈しなかったものは、紅冊に載せ、人々に従って駆馳し、いったりきたりして死んだ者は、紫冊に載せ、あたふたと逃げ、生を求めるすべがなく、屍を踏んで裂き、追撃殲滅せられて首を斬られたものは、黒い冊に載せるのだ。」「同時に(めい)を受け、血を流し、屍を横たえているのに、どうして一一区別して、すこしも誤りなくすることができよう。」「これは冥官だけが見わけられるのだ。おおむね人は亡くなっても、魂は居り、精気は生きているかのようである。黄冊に載せられるべきものは、その精気は烈火が燃えあがっているかのようで、蓬蓬勃勃[23]としており、紅冊に載せられるべきものは、その精気は烽煙がまっすぐ上り、風が揺らせないかのようである。紫冊に載せられるべきものは、その精気は雲が電光を漏らすかのようで、往き来して閃いている。この三等の中で、もっとも上のものは神となり、もっとも下のものも善道[24]に帰する。黒冊に載せられるべきものは、その精気は縮み挫けており、死灰のようで炎はなく、朝廷で忠義を褒めたたえるときは、もちろん一律に栄誉を与えられるが[25]、冥府では通常の幽鬼として見られ、問題にもされない。」。巴公は耳を傾けて敬聴し、悚然として敬服し、みずからの将来を尋ねようとしたところ、たちまち砲声で目ざめた。後につねに麾下に告げ、言った。「わたしは陣に臨むたび、この言葉を思いだすと、身を戦争で棄てるのは、鴻毛のように軽いと感じる。」。

  
  『夜燈叢録』[26]に、謝梅荘[27]の戇子の事を載せてあるが、戇子の姓が盧、名が志仁であることが分かっていない。そもそも梅荘自作の戇子伝を見ておらず、伝聞だけに拠っているのであろう。霍京兆易書[28]は、癸蘇図[29]を守っていた時に、轎かきの王二の事が戇子の事と似ていた。後に塞外で歿すると、京兆は哭いて嘆いた。ある晩、にわかに帳の外で語るのが聞こえた。「羊が盗まれましたから、いそいで西北にいって追いなさい。」。出て見るとその通りであり、その声を聴くと、あきらかに王二の魂であった。京兆の一人のしもべが別れて帰ろうとしていたが、その日、この異変を見ると、旅装を解いてゆかず、その仲間に言った。「冥土で王二に笑われるのが恐ろしい。」。

  
  滄州[30]の盲人蔡某が、いつも南山楼[31]の下を過ぎるたび、一人の叟が迎えて弾唱し、向かいあって飲んだ。だんだん親しくなると、かれもしばしば蔡家にきてともに酒を酌み、みずから言った。「姓は蒲といい、江西の人で、磁器を売るためにこちらに来ました。」。しばらくすると、かれが狐であることに気づいた。しかし契りはたいへん深かったので、狐は隠さず、蔡も恐れなかった。たまたま閨閫の蜚語によって訴訟をしているものがおり、衆議は一様でなかったので、たまたま言及し、言った。「あなたに神通力があるなら、かならずその詳細を知っていましょう。」。狐は艴然として言った。「わたしたち道を修めるものは、どうして人家のこまかいことに関わりましょう。そもそも閨房の秘地、男女の密会は、曖昧で明らかにするのは難しく、嫌疑は起こり易く、一匹の犬が影に吠えれば、つねに百犬が声に吠えるに到ります。たとい本当だとしても、どうして他人の事に関わりましょう。一旦口を滑らせれば、人の子孫に数代の恥をかかせることになりましょう。これはすでに天地の和を損ない、鬼神の憎しみを招くことです。まして蛇の杯、弓の影[32]は、ぼんやりとして拠りどころがないのに、点綴誇張し、さながら目で見たかのようで、人は我慢できず、弁明できず、しばしば鬱々として言い難く、怨みを含んで死ぬことになります。その怨恨の気は、永劫に消え難く、幽霊がいるなら、どうして業報がないでしょうか。刀山剣樹の上には、この人のために一座を設けざるを得ないでしょう。あなたはもともと誠実なのですから、このことを聞いても耳を掩うべきですのに、真偽を探って、どうなさるおつもりですか。もしや失明するだけで足りず、舌を犁にしようとなさっているのですか。」。杯を投げるとすぐに去り、それから来なくなった。蔡は恥じて悔い、みずからその頬を打ち、つねにこのことを述べて人を戒め、みずから隠さなかった。

  
  [33]張公夢徴が言った。住んでいる呉家荘[34]の西で、一人の乞食が行き倒れとなったが、飼っていた犬はかれを守って去らなかった。夜に狼が来てかれの屍を食らおうとすると、犬は奮いたって齧り、進ませなかった。すると、にわかに狼たちがたくさん集まってきたので、犬は力尽きて倒れ、食らわれ、その首だけが残っていたが、なお両目を怒って瞠り、眦は裂けんばかりであった。佃戸で瓜畑を番する者がその目で見た。さらに程易門[35]烏魯木斉(ウルムチ)にいたときのこと、ある晩、盗賊が部屋に入り、すでに塀を越えて出ようとしたところ、飼っていた犬が追い、かれの足を齧った。盗賊は刀を抜いて斬ったが、犬は死ぬまで齧って離さず、盗賊はそのために捕らえられた。時に易門には起龍というしもべがいたが、まさ2恩に負いて反抗していた。みな言った。「程太守の家には二つの珍しいことがある。一つは人面獣心、一つは獣面人心だ。」。

  
  わたしが烏魯木斉(ウルムチ)にいた時、驍騎校[36]薩音綽克図(サインチョクト)が言った。以前、江山口[37](カルン)[38]を守っていたところ、ある日の明け方、烏が唖唖(カアカア)と戸に向かって啼いていたので、不吉であるのを嫌に思い、(かぶらや)を引いて射ると、[39]と音をたて、乳牛の背を掠めて過ぎた。牛は驚いて奔ったので、数人の兵卒を呼び、いそいで追わせた。とある山の平地に入ると、耕す者二人にあったが、一人に触れて倒した。扶けて見ると大きな傷はなく、足だけが跛で歩きにくくなっており、かれの家を尋ねると遠くなかったので、ともに舁いで送りかえした。部屋に入って腰掛けぬうちに、子供が、賊がいると連呼したので、ともに出て助けて捕らえれば、流人の韓雲が逃げ、垣を越えて瓜を盗み食いしていたので、いっしょに捕らえた。烏が戸に向かって啼かなければ、薩音綽克図(サインチョクト)は射ず、薩音綽克図(サインチョクト)が射なければ、牛は驚いて逃れず、牛が驚いて逃れなければ、人に触れて倒れさせることがなく、人に触れて倒れさせることがなければ、数人の兵卒はその家に来ず、一人の子供が人が瓜を盗むのを見ただけでは、きっと縛れなかったろう。次々に導いて、結局、縛られて誅に服するようにさせたのであった。烏が来たのは、どうして物が憑いていたのでなかろうか。そもそも韓雲はもともと大盗で、掠奪殺害された者は多かった。そのとき見たものはなかったが、まことに劉剛が幽鬼に遇ったのと因果が同じである[40]

  
  さらに佐領[41]額爾赫図(オルホト)[42]が言った。以前、吉木薩(ジムサル)[43](カルン)[44]を守っていた時、夜に団焦[45]の外で嗚嗚(ウウウウ)と音がするのが聞こえたので、人が出て追えば、だんだんと退いた。人が止まれば止まり、人が返ればまた来、このようにすること数晩であった。ある戍卒は大胆で、刃を持ってついてゆき、声を辿ってゆるゆると山中に入ったところ、一体の僵屍(キョンシ)の前にゆくと静かになった。見ると、野獣が齧って食らった痕があり、すでに干からびて久しかった。卒は還るとそのことを告げた。心の中で埋葬を求めていることを知り、棺を調えて葬った。するとふたたび来なかった。そもそも魂はすでに離れているのだから、骸は何の関わりがあろう。この幽鬼は遺蛻[46]に執着しているが、繭を作ってみずから纏っていることを免れない[47]。しかし螻蟻魚鱉の談[48]は、もとより荘生の達識である[49]。生命を持ったものたちを、太上[50]のように、執着しないようにさせることがどうしてできよう。この事を見ると、棺衾をかならず慎重にするのは、孝子の心であり、屍骸をかならず収納するのは、仁人の政であることが分かる。聖人は鬼神の情況に通じているので、魂は上り、魄は降り、冥冥[51]として知覚がなくなると言ったことはない。

  
  献県の令某が亡くなる前、門番が夜に書斎で人が語るのを聞いた。「かれは数年間、贅沢を享受し、禄をすでに費やしつくしました。かれの父は冥府に訴え、来生の禄一年分を前払いして成し遂げていないことをさせようとしていますが、ご承諾なさいますか。」。令はにわかに亡くなった。董文恪公[52]はかつて言った。「天道は万事たいへん嫉妬深く、奢侈に過ぎても、倹約に過ぎても、不吉を致すに足りる。しかしはっきり調べると、奢侈に過ぎることの罰は、富む者は軽く、貴い者は重く、倹約に過ぎる罰は、貴い者は軽く、富む者は重い。そもそも富んで奢侈に過ぎるのは、自分の財を費やすだけだが、貴くなって奢侈に過ぎれば、その勢いはかならず貪婪に至り、権力が重ければ脅し取るのは容易になる。貴くなって倹約に過ぎるのは、自分の財を守っているだけだが、富んで倹約に過ぎれば、その勢いはかならず刻薄に至り、争いは顕著となり、謀りごとは多端となる。士大夫はつねに深く考え、己を益するものはかならず人を損うことを知っている。万事余剰を留めれば、それが福を招く道である。」。

  
  若い奴隷の玉保が言った。特納格爾(トナゴル)[53]の農家で、突然一頭の牛が牧牛の群に入ってきたが、たいへん肥えて健やかで、しばらくしても追いかけてくる者はなく、探しても牛を失った者はいなかったので、留めて養った。その娘は年は十三四で、たまたまこの牛に跨り、親戚の家に行ったが、牛は途中までくると、蹊径(こみち)に従わず、女を負って嶺を渡り、(たにがわ)を越え、まっすぐ荒れた山に入った。崖は険しく、谷は深く、落ちればかならず粉々に砕けるので、牛の頚を抱いて叫ぶばかりであった、樵や牧童は声を聞くと追って見たが、すでに万峰の頂に居り、だんだんと霧の中に消えた。かれが虎狼に食われたか、谿壑(たに)に棄てられたかは、いずれも知ることはできなかった。みなかれの父がこの牛を貪り盗み、大きな害を齎したことを咎めた。思うにこの牛はこの娘と、宿怨があったに違いなく、駆りたてて留めなくても、かならずほかに報いることがあったであろう。

  
  故城[54]の刁飛万[55]が言った。ある村に二人の塾師がおり、雨後ともに歩いて土神の祠にゆき、石段にしゃがんで対談し、時が経っても去らなかった。祠の前の地は何もなく掌のようであったが、たちまち字のように盛り上がり、ともに起って見れば、泥土に杖で十六字が書かれていた。「涼しいうちに、みずから生徒を教えず、書館[56]に紛れこんでいるのは、恥ずかしいことではないか。」。そもそも祠に住む人がいず、狐がその中に拠り、二人が久しく騒がしいことを怪しんでいたのであった。時に程試[57]で律詩を増したばかりであったので、飛万は戯れて言った。「すぐに文を作り、四言で押韻している。わたしはこの狐に恥じる。」。

  
  飛万はさらに言った。ある書生はもっとも大胆で、つねに幽鬼を見ることを求めたが、叶わなかった。ある晩、雨は晴れ、月は明るかったので、若い奴隷に命じ、罌の酒を携え、墓地にゆき、四方を顧みて叫んだ。「良夜にひとり遊び、たいへん寂しいが、泉下の友人たちで、来てともに酒を酌もうとする者はいるか。」。するとにわかに磷光が熒熒として、草むらに出没した。ふたたび呼ぶと、嗚嗚(ウウウウ)といって一丈ばかりを隔て、すべて止まり進まなかった。その影を数えると約十余で、大杯で酒を酌み、注ぐと、みな俯いてその香りを嗅いだ。一人の幽鬼は酒がたいへんうまいと称し、さらに賜うことを請うた。注いでやりながら尋ねた。「あなたがたはなぜ輪廻しない。」「善根がある者は転生し、悪貫が満ちた者は地獄に落ちる。わたしたち十三人のうち、罪根が満ちず、輪迴を待っているものは四人、業報で死に、輪廻できない者は九人です。」「懺悔して解脱を求めてはどうか。」「懺悔は死んでいないうちにするべきで、死んだ後では役に立ちません。」。酒を注ぐなら尽き、罌を挙げて見、それぞれよろよろと去った。その中の一人の幽鬼が振り向いて言い含めた。「餓鬼(わたしたち)はお酒をたっぷりいただきましたが、ご恩に報いるすべがございません。謹んで一言をお贈りしましょう。『懺悔は死なないうちにするべし。』ですよ。」

  
  翰林院の筆貼式[58]伊実は、伊犁に従軍した時、血戦してにわかに囲まれ、身は七たび矛に突かれた。二昼夜を経て甦り、一昼夜疾馳し、なお官軍に追いついた。わたしが博晰斎[59]とともに翰林にいた時、傷痕があるのを見、顛末をくわしく尋ねたところ、みずから言った。「傷つけられた時は、まったく痛みはなく、たちまち熟睡したかのようになっただけだ。その後、だんだん目覚めれば、魂はすでに体を離れ、四方を顧みるとすべて風沙が満ち、東西が分からなかった。了然としてみずからがすでに死んだことを悟ったが、突然子が幼く、家が貧しいことを思うと、悲しみが心骨に徹し、身は一葉のように思われ、風に従い漾漾として飛ぼうとした。ふと、むなしく死ぬのはご免だ、誓って悪鬼となって賊を殺そうと思うと、身は鉄柱のように思われ、風は揺らせなかった。徘徊佇立していた時、まっすぐ山頂に上り、敵兵がいるところを望もうとしたところ、にわかに夢から醒めたかのようになり、戦血の中に僵臥していた。」。晰斎は太息した。「この情況を聞くと、戦死には恐れることがないように思われる。忠臣烈士は、まさになるのは簡単なのに[60]、人はどうして憚ってならないのか。」。

  
  郷里に古氏がおり、牛を屠ることを業とし、殺した牛は数えきれなかった。後に古叟は両目を失明し、古媼は臨終の時に、肌膚は裂け、苦痛は万状、みずから言った。「冥府は牛を屠った方法に倣い、わたしを割いているのです。」。叫ぶこと一月余りで亡くなった。侍姫の母沈媼はみずからそのことを見た。殺業[61]はたいへん重く、牛は稼穡に功があるので、殺業はもっとも重いのである。『冥祥記』[62]は晋の庾紹之のことを載せ[63]、すでに「精進に勤むべし。殺生すべからず。もしすべて断つことあたはずんば、牛を屠ることなかるべし。」の言葉がある。これは牛を屠ることを戒めるもっとも古いものである。『宣室志』[64]は夜叉と人が雑居すれば疫病が生じるが、牛を食らわない人だけは避けることを載せている[65]。『酉陽雑俎』も載せている[66]。牛を食らわない人なら、疫病に遭っても、本当に伝染しない。小説はもとよりまったく拠りどころがないものではないのである。

  
  海寧[67]の陳文勤公[68]が言った。昔、人家で扶乩して壇に降りた者に遇ったが、安溪[69]の李文貞公[70]であった。公が拝礼して世渡りの道を尋ねると、文貞はお告げした。「得意の時はあまりいい気にならず、失意の時にあまり放言しなければ、ながく安全で結局は吉である。」。公は終身それを誦え、かつて門人に教えた。「得意の時にあまりいい気にならないことは、やや利害を弁えたものはできるが、失意の時に放言しないことは、賢者にもできないことがある。そもそも放言することはどうして怨みごとだけであろうか。馬鹿にして、勝手なことを言えば、禍を招くことは怨みごとよりもはなはだしい。」。そこで思い出すのは、亡き高祖の『花王閣』剰稿に載せる、宋盛陽先生(諱は大壮といい、河間の諸生で、亡き高祖の外舅である。)が贈った詩「狂奴[71]なほ故態のごとく、曠達[72]はこれ牢騷[73]なり。」である。これは公の論とほとんど重なりあっているかのようである。

  
  額魯特(オロト)の娘がおり、烏魯木斉(ウルムチ)の民間の妻となり、数年で寡婦となった。婦はもともと美しかったので、媒妁が日々その門を叩いたが、婦は謝して言った。「嫁ぐならばかならず嫁ぎます。しかし夫は死に、子がなく、舅はすでに老いており、わたしが去れば誰に頼りましょう。舅を養う事が終わるのを待って、後に相談しましょう。」。その家に入り婿し、代わってその翁を養おうとするものがいたが、婦はやはり謝して言った。「男子の性情は一定ではなく[74]、万一舅と仲違いすれば、悔いても手遅れです。やはりいけません。」。そこで身を苦しめて働き、舅は暖衣飽食して安らかで、子が生きていた時に勝っていた。六七年後、舅は天寿を全うした。葬儀が終わると、はじめて痛哭して墓に別れ、彩服に易え、車に乗って去った。論者はその不貞を惜しんだが、孝と言わざるを得なかった。内閣学士永公は時にその地を治めたとき、聞いて嘆いた。「これが『質美しくして未だ学ばず[75]。』ということだ。」。

  
  新城[76]の王符九が言った。その友人某は、貴州のある県令に選ばれ、西商に借財することにしたが、西商は天引きしようとし[77]、謀略は百出していた。某は旅の期限に迫られていたので、我慢したが、西商はこまかい謀略をますます多くした。争論して夜になり、はじめて苦しみを忍んで証文を書いた。証文の記載は百両だが、実際に得たのは三十両に及ばなかった。西商が去った後、金を持ち、篋に貯え、ひとり坐して太息していた。するとたちまち簷の上で人が語るのが聞こえた。「世間にはこんなに不当な事はない。おんみはとても懦弱なので、わたしは怒りが胸に満ちた。もともとはおんみから盗みをしようと思っていたが、今は西商を懲らし、天下の貧乏な役人のために気を吐くとしよう。」。某は胸騒ぎして答えようとしなかった。にわかに部屋の角で窣と音がしたが、すでに垣を越え、すぐに去っていた。翌日、西商が盗みに遭い、篋の中の新旧の借金の証文が、すべて席捲してゆかれたことを聞いた。この盗賊はことに侠気が多かった。しかし西商のすることもたいへんひどかったので、造物に憎まれ、鬼神が巧みに出あわせたのである。

  
  許文木が言った。その親戚であらたに官職を得た者があり、盛んに牲醴[78]を具え、先祖を祭っていた。巫がおり、幽鬼を見られ、ひそかに人に語った。「某家の先祖の霊が祭を受けた時、みな顔色は悲しげで、涙を落とそうとするかのようであったが、裏街の某甲の幽鬼は、向かいの家の屋上に坐し、足を挙げて笑っていた。これはなぜだ。」。後にその人は赴任し、まもなく処刑されたので、はじめてその先祖が悲しみ泣いていたわけを悟った。しかし某甲が喜んでいたのは、まったく分からなかった。しばらくしてかれの隠し事を知っている者が言った。「某甲の娘が美しかったので、かつて某嫗を遣わし、金珠で誘い、ともに数晩寝たことがあったのだ。人は知らないが幽鬼は知っていたのだ。」。人がいないところでも行いを堕落させることができないことを誰が知ろうか。

  
  王梅序孝廉[79]が言った。交河[80]の城西に古墓があり、林木が群生していた。妖魅が隠れているといわれ、侵入する者は、多くは寒熱を患ったので、樵や牧人は近づこうとしなかった。ある老儒は剛毅で向こう気が強く、家から県城にゆくとき、その地がたまたま途中にあったので、通るとかならず休息していたが、傲慢にしても、見えるもの、聞こえるものはなく、このようにして数年を経ていた。ある日、また墓に坐し、上着を脱いで涼んだが、帰ると発狂譫語した。「以前はおまえを古朴な君子と思い、おまえが放縦にするのに任せ、辱めようとしなかった。おまえは近頃裏切りをし、従前の正しい言行は、いずれも上辺だけのものであることが分かった。今はもうおまえを恐れない。」。その家は再三拝して祈ったが、ぼんやりすること数日、それからは索然として気は萎え、その地を通るたび、俯いて疾走した。これを見れば(あやかし)は恐れるに足らないこと、心に邪がなければ、侮っても争おうとしないことが分かる。しかし、これを見れば(あやかし)は大いに恐ろしいこと、行いに欠点があれば、隠してもすべて窺えることも分かる

  
  門人の蕭山の汪生輝祖[81]は、字は煥曽といい、乾隆乙未の進士で、今は湖南寧遠県知県をしている。落第した時、久しく幕府におり、『佐治薬言』二巻を撰した。中に近事数条を載せてあるが、すこぶる戒めに資するに足りる。こんな話がある。孫景溪先生[82]は、諱を爾周といった。呉橋[83]の令であった時、幕客の葉某が、ある晩、酒を飲んでいたが、地に仰臥し、二時(ふたとき)を経て蘇った。翌日、戸を閉ざし、黄紙の疏を書き、城隍廟に赴いて拝して焼いた。そのわけは分からなかった。六日後、さらに前のように倒れたが、しばらくしてまた起きると、署の外に居を移すことを請い、みずから言った。「八年前、山東館陶の幕下にいた時、ある士人が告げるには、不良少年がその妻をからかったということであった。もともと主人に請うてもっぱら不良少年を懲らそうとしていたので、妻が対質する必要はなかった。問事[84]の謝某は、妻の姿色を窺おうとし、訊問することを勧めたので、妻は首を吊り、不良少年も死刑になった。今、不良少年は冥府に訴え、妻が死なななければかれが死ぬはずはなかったし、妻が死んだのは幕僚が呼び出し、取り調べたことによると言った。館陶[85]の城隍神は牒を送って捕らえにきた。昨日、疏を書いて弁明し、妻はもともと対質するべきであった、首唱したものは謝某であったと言った。さきほどさらに文書を送って、『呼び出し、取り調べの趣旨は、妻の容色を窺うことにあり、その怨みを審理することではなかった。考えは謝から起こったが、筆は実際は葉に操られていた。謝はすでに捕らえられてきたが、葉を許してはいけない。』と言っていた。わたしはきっと免れまい。」。一晩過ぎて死んだ。こんな話もある。浙江臬司[86]の同公[87]が言った。乾隆乙亥[88]の秋審[89]の時のこと、とある晩、ひそかに出て下役たちの執務の様子を観察すると、みなすでに熟睡していたが、一室だけは燈燭が明るかった。窓に穴を開けてひそかに窺うと、一人の吏がまさに案牘を整理しており、(つくえ)の前には一人の老翁と一人の若い女が立っていたので、たいへん驚き、しばらくそれを見ていた。吏ははじめ一枚の籤[90]を取り、たちまち草稿を破って書きなおすと、若い女は挨拶して退いた。さらに一つの文書を抜き、しばらく沈思し、一枚の籤を書くと、老翁も揖して退いた。伝えてこの吏に質せば、さきに扱っていたものは、台州[91]の姦通致死の一件で、はじめは緩決[92]に擬律したが、身が青衿[93]に列なっていながら、慎みがなく人を殺めたので、情実[94]に改めたのであった。後に抜いた文書は、寧波の畳殴致死[95]の一件で、はじめ情実[96]に擬律したが、借金を取り立てるためで筋が通っており、死んだのは殴り返したことによっていたので、緩決に改めたのであった。若い女は命を棄てた烈魄、老翁は囚人の先祖の霊であることを知った。こんな話もある。秀水の県署に愛日楼[97]があり、板の梯は壊れて久しく、陰雨のときにはかならず幽鬼が泣く声が聞こえた。一人の老吏が言った。康煕年間、令の母はよく仏号を誦えていたため、この楼を建てたのであった[98]。雍正初年に県令が幕友の胡姓のものを連れてきたが、盛夏にも人と会おうとせず、ひとり楼の中におり、案牘や飲食はみな縄で上げ下げした。ある日、楼上で悲鳴が聞こえたので、従者がいそいで梯を掛けて上がると、胡は裸体で血を浴び、みずからその腹を刺し、全身を切り裂き、彫刻か絵画のようになっていた。そしてみずからこう言った。「以前、湖南の某県の幕下にいたとき、本夫を殺した姦夫がおり、姦婦はお上に訴えましたが、わたしは主人に失察の咎めがあるのを恐れ、捜査捕縛したとして報告し、妻は磔になりました[99]。さきほど見ますと、神が妻を引いてき、刃をわたしの腹に刺しましたが、他のことは知りません。」。叫んで一晩過ぎると死んだ。こんな話もある。呉興の某はよく銭穀[100]を治めることで名声があったが、たまたま同僚に侮られたので、同僚が盗難事件を揉み消した隠事を上官に発いたため[101]、大獄となった。後にみずからその舌を咬みきって死んだ。さらに無錫の張某は、帰安[102]県令裘魯青[103]の幕下にあったが、本夫を殺した姦夫がいた。裘は妻が共謀していなかったので、出獄させようとしたが、張は声高に言った。「趙盾は賊を討たないことを君を殺すこととし、許止は薬を嘗めないことを父を弑することし[104]、『春秋』には誅意[105]の法がございますから、許すことはできません。」。妻は死刑の判決を受けた。後に張が夢みたところ、一人の女がざんばら髪で剣を持ち、胸を打って来て言った。「わたしは死ぬ筋合いはなかったのに、おまえはどうしてたきつけた。」。刃で刺し、目ざめると、刺された処はたいへん痛んだ。それから毎晩祟り、死ぬに至った。こんな話もある。蕭山の韓其相先生[106]は、若くして刀筆に巧みであったが、久しく場屋に苦しみ[107]、子がなく、すでに功名を得ることを断念していた。雍正癸卯[108]、公安県[109]の幕下に居り、神を夢みたところ、こう語った。「おまえは筆孽[110]が多かったため、すべて福禄を削られていた。今、事件の審理が寛容なので、科名[111]と子を与えるから、はやく帰れ。」。信じなかったが、翌晩、夢みたところ、やはりその通りであった。時にすでに七月初旬だったので、試験の期日に間に合わないと答えた。神は言った。「わたしはおまえを送られる。」。目ざめた後、いそいで帰り支度を整え、江をゆけば追い風で、八月初二日に杭州に着き、遺才[112]で受験し、合格した。翌年、一子を挙げた。煥曽は篤実で古風があるから、その話は嘘でないはずである。さらに囚人の跡継ぎが絶えそうになっていた話が記されている。平湖[113]の楊研耕[114]は、虞郷県知事の幕下にいた時、主人は臨晋[115]を兼任していたが、疑獄があって久しく判決しなかった。後に調べると弟が兄を殴って死なせていたのであった。夜、判決文を擬しおわり、燭を消して寝ないでいると、たちまち牀の上の鉤が鳴るのが聞こえ、帳がかすかに開いたので、風だと思った。まもなくまた鳴ったが、帳は鉤に懸かり、白鬚の老人が牀の前に跪き、叩頭していた。怒鳴ると見えなくなったが、(つくえ)の上の紙が翻る音がし、いそいで起きて見れば、擬律した判決文であった。繰りかえし調べると、罪は本当に冤罪ではなかったが、その家は四代一子相伝で、その父に至ってはじめて二子を生んだが、一人は非業の死を遂げ、一人も罪に服すれば、五代で祭祀は絶えてしまう。だから草稿を破棄し、あいかわらず存疑[116]としたのだ。存疑とするのがよいであろう。思うに王法で論じれば、人倫を滅ぼすものはかならず誅するが、人情で論じれば、祭祀を絶やすのも憐れである。生かすことと殺すことにはいずれも妨げがあり、仁と義には結局二つとも妨げがある。どうしても無理に決着させることを求めれば、人を殺したものは死で贖うということになるが、死者の怨みは晴らされても、自分の怨みを晴らして祖父の祀りを絶つことになるのだから、その兄がそれを知ることがあれば、かならずそれを願わぬだろう。願うなら、それは人の心がないということだ。処罰しなくても不当ではない。これは一説である。ある人はさらにこう言う。情は一人の事、法は天下の事であり、兄弟二人だけのものがいて、弟がその兄を殺したとき、祭祀を絶やすことを憐れみ、まったく処罰しないならば、財産を奪い、兄を殺す者は多くなり、どうして法によって倫常を正せようかと。これも一説でないことはない。皋陶[117]がいなければ、この事件は本当に裁くのは難しく、存疑として理に明るい者の論定を待つとよい。

  
  姚安公が言った。昔、舅氏陳公徳音[118]の家にいたとき、にわか雨があり、巳の刻から午の刻に至ると収まったが、雨はすべて麻を浸した水であった[119]。時に西席[120]の老儒が講学していたので、人々は尋ねた。「この雨は畢竟どのような理でございましょう。」。老儒は首を振り、面壁して言った。「『子は怪を語らず』じゃ[121]。」。

  
  劉香畹が言った。以前、山西に旅した時、聞いたのだが、老儒が古い塚を経たところ、同行は中に狐がいると言った。老儒は罵ったが、とりたてて異常はなかった。老儒はもともと生計を立てることをよくし、冬には裘がなく、夏には絺[122]がなく、肴を食らわず、茶を飲まず、妻子は満腹することがなく、小金を貯めて四十両を得ると、溶かして四錠にし、秘蔵して、人には担石の蓄えもないと訴えた。狐を罵った後、蓄えた金がある時はにわかに屋根や樹の杪に置かれたので、梯を使って取った。ある時はたちまち汚泥や浅水のなかにあったので、濡れて取った。ひどい時はにわかに厠に投げられたので、探って洗った。ある時は場所を易え、さんざん探すと見つかった。ある時は消えること数日で、空からひとりでに落ちてきた。ある時は客と対座していると、たちまち帽の簷に納まった。ある時は人に対して供揖すると、たちまち鏗然と袖から出てきた。千変万化し、不可思議であった。ある日、にわかに四つの銀塊が空中を跳びはねたが、蝶が飛んでいるかのよう、弾丸で撃つと、だんだん高くなり、だんだん遠くなり、飛び去ろうとしたので、やむを得ず、香を焚いて祈ると、はじめてみずから懐に投じた。それからふたたびいたずらすることはなかったが、講学の気炎は、すでに索然として尽きていた。そのことを説いた時、ある友人が言った。「わたしは徳によって妖に勝ることは聞いたが、罵って妖に勝ったことは聞かないから、禍が及んだのは当然だ。」。一人の友人は言った。「周張程朱[123]が罵れば、(あやかし)はかならず生じなかったろう。かれが上辺は古朴でありながら中味は古朴でなかったのは惜しいことだ」。一人の友人は言った。「周張程朱はかならず軽々しく罵らない、かれは心が満ち足らず、怨んでいただけだ。」。香は頷いて言った。「この言葉は要点を洞察している。」。

  
  香畹はさらに言った。ある孝廉はすこぶるよく貯蓄し、性来吝嗇であった。その妹の家はいたって貧しく、時に除夜が迫っていたが、炊煙は挙がらなかったので、風雪を冒し、数十里を徒歩し、三五両を貸すことを乞い、来春その夫の館穀[124]で償還することを約束したが、孝廉は妹が貧しいことを理由にかたく断った。妹の母は泣いて助けを請うたが、やはり断った。母は簪珥を外して渡して去ったが、孝廉は聞いていないかのようであった。その晩、盗賊が壁に穴を開けて入り、あるものをすべて持ち去ったが、世間体を気にして、お上に訴えて捕らえさせようとしなかった。半年後、盗賊は他県で捕まり、かつて孝廉の家で盗みをしたことを自供した。財物はまだ十の七が残っていたので、手紙を送って尋ねてきたが、やはり世間体を気にして、認めようとしなかった。かれの妻は財が惜しくて我慢できず、子を遣わして認めさせた。孝廉は心のなかで恥じ、客を避けて会わないこと半年であった。そもそも母子は天性、兄妹は至情である。吝嗇であったため、赤の他人のようにしたことは、本当に聞けば扼腕することであった。盗賊がにわかにそれに乗じたのは、欣快であり、失っても言おうとせず、得ても取ろうとしなかったのは、さらに欣快で、胸を打ち、痛みを忍び、みずからその欠点を隠したのに、妻に暴露され、欠点は結局隠されることがなかったことにいたっては、さらに欣快である。くりかえし翻弄されるさまは、このように巧みであり、誰かがそうさせているかのようでないということができようか。しかし、恥じて客に会わないことができたのだから、わたしはやはりかれが善をなすに足りる点を評価する、この恥じることを充たしているだけで、孝友として伝えてもよい。

  
  盧霽漁[125]編修[126]は、寒疾を患い、誤って『景岳全書』[127]を読むものを招き、人参を投与され、たちまち亡くなった。太夫人は悔い、哭いて極めて嘆いたが、声を出すたび、板壁が格格(ガタガタ)と響き、夜は牀を巡って母さんと叫んだが、あきらかに霽漁の声であると知れた。そもそも年寄りがひどく哀しむことを望んでいなかったのであった。悲しいことである。死んでもなお親を忘れないとは。

  
  海陽の鞠先輩庭和が言った。ある役人の家の妻が臨終のとき、左手で幼い息子を引き、右手で幼い娘を引き、嗚咽して亡くなり、むりに剥がすと放したが、目は炯炯としてなお閉じていなかった。後に燈前月下で、はるかにその姿をしばしば見たが、呼んでも答えず、問うても語らず、招いても来ず、近づいても見えず、あるときは数晩出ず、あるときは一晩にしばしば現れ、あるときは眺めると某人の前にいるのに、某人は見えておらず、あるときはこちらで見えており、あちらでも見えているのであった。おおむね泡影空花、電光石火のようで、一瞬ですぐに消え、一弾指でにわかに現れるのであった。害はなかったが、人人の意中には亡くなった夫人のことがあったので、後妻は夫人の子供を世話するとき、差別の心を生じようとせず、下女童僕も、夫人の子供を世話するとき、凌侮の心を生じようとしなかった。男児が娶り、女児が嫁ぐと、だんだん現れなくなったが、数年後、時々現れることがあった。そのため一家はつねに慄慄として憂え恐れ、夫人の傍にいるかのようにした。ある人は狐魅が憑いているのかと疑ったが、これも一つの説である。ただ、狐魅は人を騒がすのに、これは人に近づかなかったし、狐魅がどういう趣旨で、辛苦すること十余年、しばしばこの幻影をなしたのか。恋々とすることが極まり、精霊が散じていなかったのであろう。人の子たるものは、父母の心が、歿してますますこのように懇切であることを知れば、やはり愴然として感動できるのではあるまいか。

  
  庭和はさらに言った。兄が死んでその遺された甥を食いものにしている者があり、威圧蚕食し、ほとんど自活できなくさせていた。ある晩、夫婦が熟睡し、ふと夢みたところ、兄があたふたと叫んだ。「起きろ。起きろ。火がもう来たぞ。」。目ざめると煙と炎は充満し、逃れられる路がなく、からくも窓を破って出ることができた。喘ぎが収まらないうちに、家は崩れた。すこしでも遅れれば、灰燼となっていた。翌日、いそいでその甥を召し、奪ったものをすべて返した。人がその数日の内に、跖から夷になったことを怪しむと[128]、その男は涙を流してみずからを責め、はじめてそのわけを知った。この幽鬼が骨肉を救ったのは、祟るに勝ること多多である。

  
  高淳[129]の令梁公欽[130]は、戸部の額外主事[131]であった時に、姚安公とともに四川司[132]にいた。その時、六部の規制は厳しく、事情があって官署に入れない者は、かならず人を遣わし、掌印[133]に告げ、掌印は司務[134]に文書を送り、司務は毎日集めて上呈していた。これを出付といい、ゆえなく官署にゆかないことはできなかった。ある日、梁公は官署に入らず、出付もしなかったので、人々は訝った。姚安公と福建の李公根侯は、寓所がいずれも近かったので、退庁後に、いっしょにいって見た。梁公は、昨晩眠った後、たちまちばんばんとぶつかる音を聞いたのであった。それは怒った馬が奔騰しているかのようであり、叫び尋ねても答えるものはなかったので、胸騒ぎして起きて見ると、二人の下僕、一人の御者が、裸体で殴りあっており、殴りあってたいへん苦しいのに、いずれも口を閉ざして一言も発していなかった。時に四隣はすでに眠り、寓居にはほかに誰もいなかったので、どうしようもなく、坐してかれらの闘いを見ていたところ、鐘が鳴るとともに倒れた。朝になると蘇ったが、傷痕は鱗のように重なり、面目はすっかり傷つき、尋ねてもいずれもみずからのことを憶えておらず、思いだすのは、その晩、ともに裏門に坐して涼んでいると、遠くの破屋の址で数匹の犬が跳ねていたので、戯れて磚を擲つと、吠えて跳ねたことだけであった。そして就寝した後に、この変事があったのであった。思うに犬は実は狐で、月下で見たため、はっきりしなかったのであろう。梁公は泰和[135]の人で、正一真人[136]と同郷であったので、訴えにゆこうとした。姚安公は言った。「狐はかってに遊んでいたので、人と関わりはなかった。ゆえなく撃ったのだから、非はかれらにない。非に味方して正を攻めれば、理にあわない。」。李公も言った。「およそ下僕が人と争うときは、まずは自分を抑えるべきだ。理が通っていてもそれを恃んで勝手にしてはならず、理が通っていないときならなおさらのことだ。」。梁公は思いとどまった。

  
  乾隆乙未の会試の前、一人の挙人が永光寺西街[137]を訪れると、美しい女が門外に立っていたので、すこぶる喜び、媒酌に頼んで口利きしてもらい、三百両で納めて妾にし、その家に寓居し、たいへん親しくした。試験場を出て寓居に返れば、破れた窓に麈の壁、闃として一人もおらず、汚穢が堆積し、長年廃棄されたもののようになっていた。隣人を訪ねると、隣人は言った。「あの家は久しく空き屋だったのですが、あの人は来て住んでわずか一月余りしますと、ある晩ひとりで去り、行方が知れなくなりました。」。ある人は言った。「それは狐だ。小説にそのようなことが載っている。」。ある人は言った。「それは娘を囮にし、資産を盗み、遠く逃れ、狐と偽ったのだ。そもそも狐でありながら人を偽るのも狡いことだが、人でありながら狐になるのは、さらに狡いことではないか。」。わたしは京師に居ること五六十年、この類を見ることは数えきれず、これはその一つにすぎない

  
  汪御史泉香[138]が言った。布商の韓某は、狐女に親しみ、日に日に衰弱していた。その配偶者が符籙を求めて祓ったが、しばらく去るとまたやってきた。ある晩、韓とともに寝ると、たちまち衣を着、起坐して言った。「あなたは異心をお持ちです。どうして急に剛気[139]が人を刺し、安らかでなくなったのでございましょう。」。韓は言った。「わたしには異心はない。だが、隣人の呉某は、債務に迫られ、その子を売り、歌童にした。わたしはかれが衣冠の後に下賎に落ちることを憐れみ、四十両を工面して贖おうと考え、寝返りを打ち、眠らないだけだ。」。狐女は蹶然として枕を推すと言った。「そのような考えをなさるのでしたら、善人でございます。善人を害すれば大罰がございますから、わたしはこれで去りましょう。」。接吻し、しばらく息を吐くと、手を揮って去った。韓はそれから元通り壮健になった。

  
  戴遂堂先生[140]が言った。「以前、一人の豪族が、四月八日に、仏寺で懺悔放生していた。たまたま花の下を散歩していたところ、一人の遊行僧に遇ったが、合掌して言った。『公はどうしてこちらに来られました。』『仏事をするためです。』。さらに尋ねた。『なぜ今日仏事をなさいます。』『仏誕日だからです。』。さらに尋ねた。『仏誕日に良いことをすれば、残りの三百五十九日は、みな良いことをするべきでないのでしょうか。公が今日放生なさっているのは、眼前の功徳です。毎年厨房で殺しているものが、この数につりあうに足りるかがお分かりにならないのですか。』。豪族はにわかに答えられなかった。接待僧が代わって怒鳴った。『貴人が護法してくださるから、三宝[141]が光を増すのだ。貧乏和尚が勝手なことを言うな。』。遊行僧は歩きながら笑った。『紫衣の和尚が語りませぬので、貧乏和尚が語らざるを得ないのでございます。』。腕を振ってすぐに出、行方が知れなくなった。一人の老僧がひそかに嘆いた。『この闍黎[142]はまったく事理を弁えていないが、われらの教えにおいては、これはもとより『にはかに獅子の吼ゆるを聞く[143]。』ということだ』。」昔、五台[144]の僧明玉は言った。「一心に念仏すれば、悪念は生じない。日に数回念仏するのは、功徳ではない。日々精進すれば、殺業は永く除かれる。月に数日を除くのは、功徳ではない。うまい食べものに、朝晩飽きているにもかかわらず、月に某日某日だけ肉を食らわなければ、善人であるというとすれば、苞苴(まいない)が公然と行われ、『[145](ととの)はず[146]』というありさまであるにもかかわらず、月に某日某日だけ金銭を受けなければ、廉吏というのか。」。これは遊行僧の言と符節を合わせているかのようである。李杏甫[147]総憲[148]は言った。「これはあの教えがそう言っているだけだ。士大夫が終生精進ものを食らうのは、絶対に無理で、数日月斎[149]を守ることができれば、この数日は罪を減殺できる。数人が月斎を守ることができれば、この数人は罪を減殺できる。まったく守らないことよりは勝っていないか。」。これも、智者の見識、仁者の見識は、それぞれ一義に明るいということである[150]。明玉がいれば、さらに弁難することがあるかは知らない。

  
  恒王府[151]の長史[152]東鄂洛(八旗氏族譜に拠れば、董鄂のはずである。しかしみずから東鄂と書いていたので、案牘冊籍も東鄂と書いている。『公羊伝』のいわゆる「名は主人に従ふ[153]。」である。)は、瑪納斯[154]に謫居したが、そこは烏魯木斉(ウルムチ)に属していた[155]。ある日、烏魯木斉(ウルムチ)にゆき、暑さを避けるために夜に進み、馬を樹の下に休めたところ、一人の男が半跪しているのに遇った。住所を尋ねると、戍卒[156]の劉青だと言った。しばらくともに語ると、馬に乗ってゆこうとした。青は言った。「細かいことでお言伝願います。印房の官奴[157]喜児は(わたし)の銭三百を借りましたが、(わたし)は今たいへん貧しくしていますので、お返しになるべきでございます。」。翌日、喜児に会い、青の言葉を告げると、喜児は驚き、汗は雨のよう、面色は死灰のよう、怪しんでそのわけを質すと、はじめて青がずっと昔に病んで死んだことを知った。死んだ時、陳竹山はその勤勉さを哀れみ、三百銭を喜児に渡して酒脯[158]や紙銭を買わせ、祭らせることにした。喜児は青が親族でなかったので、すべて横領したが、事を知るものはなく、幽鬼に求められることを恐れなかった。竹山はもともと因果を信じていなかったが、ここに至って悚然として言った。「このことは嘘ではなく、この言葉は仮託したものでないはずだ。思うに人は悪事をするとき、人に知られるのを恐れるだけで、人が知るに及ばない処では、したいことをすることができる。今は無鬼の論が、恃むに足りないことが分かった。だとすれば隠悪を負っているものは、心配なのではあるまいか。」。

  
  昌吉が平定された後、俘虜逆党の子供は、諸将に分け与えられた。烏魯木斉(ウルムチ)の参将某は、その実務を司った[159]。みずからはもっとも麗しい者四人を取り、歌舞を教え、脂粉で装い、彩服[160]明璫[161]を着けさせれば、姿態はさまざま、さながら愛らしい娘のようで、見る者はみな心を傾けた。後に金塔寺[162]の副将に転任し、期日になると出発したが、童子たちが衣装を点検していると、たちまち篋の中から繍履四双が、翩然と躍り出、満堂に舞い飛んだが、蝶が群れ飛んでいるかのようであった。杖で撃つと、地に落ちたが、なお蠕蠕として動こうとし、呦呦と音をたてた。識者はそれが不吉であることに驚いた。闢展[163]に行き、台員[164]を鞭で打ったため、鎮守大臣に弾劾せられ、伊犁への流罪の判決を受け、配所で亡くなった。

  
  危急の地では、にわかに奇計が用いられることがあり、不情理な事には、別に理由があることがある。破格になされたことは、膠柱して判断できない。わたしの郷里のある媼は、ゆえなく老婆数十人を率い、にわかに隣村の一家にゆき、闥を排し、その娘を強奪して去った。喧嘩を売ったかと思えば、もともと交際はなく、掠奪結婚かと思えば、媼には子がなかった。郷党は驚いたが、理由は分からなかった。娘の家はお上に訴え、お上はすぐに文書を出して捕らえさせようとした。しかし媼は娘を連れてさきに逃げており、行方が知れなくなっていた。同行の下女や婆やも四散して逃亡していた。多くの人を拘禁し、くりかえし審問すると、はじめて一人が事実を白状した。「媼の一子が癆咳を病んで死にそうになりますと、媼は撫でて嘆きました。『おまえが死ぬのはもとより運命だが、一人の孫も残さず、祖父を餓鬼にさせるのは惜しいことだ。』。子は呻吟して言いました。『孫がかならず得られるというわけにはまいりませんが、望みはございます。わたしは某家の娘とひそかに親しみ、孕むこと八月でした。ただ、産まれればかならず殺されることでしょう。』。子が歿した後、媼は咄咄とひとり語ること十余日、にわかにこの挙を起こしたのですが、娘を奪ってその胎児を守ろうとしただけなのでございます。」。官は憮然として言った。『それならば捕らえることはなく、二三月たったらおのずと返ってくるだろう。』。期日になると、孫を抱いて自首してきた。官はどうしようもなく、不応重律[165]と断じただけで、杖刑に擬し、納贖[166]させただけであった。このことは兔が跳ね、鶻が落ちるかのよう[167]、やや油断するとすぐにいなくなり、この媼も敏捷であること神のようであった。安静涵[168]は言った。「かれが娘を連れて夜逃げした時、三台の車に下女や婆やと自分を載せ、四方向に分かれていったので、居場所は分からず、さらに官路を通らず、横に斜めに折れ曲がり、分かれ路がさらに分かれ路になっていたので、行方が知れなかった。それに朝に発ち、夜に宿り、逗留するのは一日足らず、分娩すると家を借りていたので、寄寓した所を追跡できなかったのであった。その謀りごとはきわめて周密であった。娘は帰ると父母に棄てられ、媼とともに遺児を育て、ふたたび嫁がなかった。かれがはじめに溱洧を関わっていたため[169]、旌典[170]は及ばず、今もその氏族は明らかでない。」。

  
  李慶子が言った。「かつて友人の書斎に泊まり、夜が明けようとしていたところ、たちまち二匹の鼠が跳びはねて追いかけあい、部屋中で風車[171]が旋転し、弾丸が噴射するかのようにし、瓶、彝、罍、洗[172]にぶつかり、すべて翻し、がちゃがちゃと割れ砕ける音に、人々の心はしばらく警戒した。やがて、一匹の鼠が数尺跳ねあがり、地に落ち、ふたたび跳ね、ふたたび倒れ、硬直した。見ると、七竅すべてから血を流していたが、そのわけは分からなかった。いそいで家童を呼び、器物を収めて調べると、柈[173]に干されていた媚薬数十丸のうち、大半が齧られていたので、鼠が誤ってこの薬を呑んだため、狂淫で節度がなくなり、牝は弄ばれるのに堪えずに逃げ、牡は発散するところがなくなり、蘊熱内燔[174]によって死んだことを悟った。友人は出て見ると、驚いて笑い、その後、悚然として言った。『だからこのようなことになったのか。恐ろしいことだ。』。すべて蓄えてあった薬を水に返した。」。そもそも強烈の薬は、鍛錬を加えれば、その力は烈しくなり、その毒も深くなる、わたしは失敗するものを見ることが多かった。そもそも「退之硫黄[175]」は、賢者すら免れず、慶子のこの友人は、命数が尽きるべきでなかったので、鼠を見てたちまち悟ったのだろうか。

  
  張鷟[176]の『朝野僉載』[177]にいう。「唐の青州刺吏劉仁軌は、海運で船を失うことがたいへん多く、除名されて民となり、遼東で働いていた[178]。病に罹り、平壤城下に臥し、幕を掲げて兵士が城を攻めるのを見ていたところ、一人の兵がまっすぐに前方に来て背をむけて坐し、叱っても去らなかったが、まもなく、城頭で矢を放つと、まさに胸に中たって死んだ。この兵がいなければ、仁軌は流れ矢に中たっていたろう。」。大学士温公[179]が烏什[180]を征した時に領隊大臣[181]となり、まさに督兵して城を攻め、たいへん渇いたので、帳に帰って飲んだ。たまたま一人の侍衛も来て飲み物を求めたので、茵を譲ってともに坐した。碗を取ると、賊がにわかに大砲を発し、鉛の弾がかれの胸を貫いて死んだ。この人がやや遅れて来れば、かならず免れなかっただろう。これは公がみずからわたしに語ったことだが、劉仁軌のこととよく似ている。後に公は大金川[182]を攻め、木果木[183]で戦歿した。人の生死は、それぞれその場所があり、陣歿する運命にあるものは、その地でなければ、危険に遇っても助かることが分かる。しかし畏縮して免れることを求めるものは、いたずらに避けているだけではないか。

  
  人と動物は異類であるが、狐は人と動物の間に住んでいる。幽明は路を異にしているが、狐は幽明の間にいる。仙妖は途を異にしているが、狐は仙妖の間にいる。そのため狐にあうことを怪異ということもでき、狐にあうことを通常ということもできる。三代以上は調べられない。『史記・陳渉世家』は称している。「篝火して狐の鳴き声をたて、『大楚興り、陳勝王たらん。』と言った。きっと当時すでにこの怪があったので、托したのであろう。」。呉均の『西京雑記』は称している。「広川王は欒書[184]の塚を発き、撃って塚の中の狐を傷い、後に夢みたところ、老翁が怨みに報いた[185]。」。これははじめて人の姿に化したことであり、漢代に見える。張鷟の『朝野僉載』[186]はこう称している。「唐初以来、人民は多く狐神に仕えた。当時の諺にいう。『狐魅なければ、村を成さず[187]。』。」唐代になるともっとも多かった。『太平広記』は狐のことを十二巻に載せ、唐代が十分の九を占めていることが、証しにできる。諸書の記載は同じでなく、その源流始末は、劉師退先生[188]が詳しく述べている。そもそも旧滄州南のある学究は狐と友で、師退は学究を介して狐と会ったが、体は短小で、容貌は五六十の人のよう、衣冠は古のものではなく、今のものでもなく、道士に似ていた。揖するさまも温和で謙虚であった。時候の挨拶が終わると、来臨の趣意を尋ねた。師退は言った。「世のご一族と接している者たちの、伝聞は異なっており、すこぶる明らかでないことがございます。君は豁達であると聞いたので、みずからを隠さず、惑いを除くようにお願いします。」。狐は笑った。「天は万物を生み、それぞれ名をつけました。狐が狐と名づけられているのは、まさに人が人と名づけられているようなものです。狐を狐と呼ぶのは、まさに人を人と呼ぶようなものであり、どうして隠すことがありましょう。わたしたちの中で、美醜が同じでないのも、人の中で、良莠がひとしくないようなものですが、人が人の悪を隠しませんのに、狐がどうして狐の悪を隠しましょうか。とにかく話して隠さないでください。」。師退は尋ねた。「狐には違いがあるのか。」「およそ狐はみな道を修められて、もっとも霊妙なものは貔狐[189]といい、これは農家に読書するものが少なく、儒家に読書するものが多いようなものです。」「貔狐は生まれながらにしてみな霊妙なのか。」「それはその種類に関わっている。成道しないものが生んだものは、つねに狐で、すでに成道したものが生んだものは、もとより変化できる。」「成道すれば、みずからかならず若い顔をとどめられるのに、小説に載せられている狐に、翁や媼もいるのは、どうしてか。」「成道というのは、人となることだ。その飲食男女[190]、生老病死も人と同じだ。飛昇霞挙[191]にいたっては、また別の事である。これは千百人の中で、一二人が仕宦を求めるようなもので、煉形服気は、学を積んで名を成すようなもの、媚惑採補は、捷径で売ることを求めているようなものだ。しかし仙島に遊び、天曹に登るものは、かならず煉形服気できる。媚惑採補は、傷害があるいは多く、しばしば天律を犯す。」「禁令賞罰は、誰が司っているか。」「小さな賞罰は長が統括しており[192]、大きな賞罰は、土地の鬼神が鑑察しています。禁令がないならば、往来しても姿がなく、出入しても跡がなく、どんなことでもできます。」「媚惑採補は、正道でないのだから、禁令に列ねてはどうか、人を傷うのを待って懲らしめるのか。」「これは、譬えれば、巧みに人から財貨を集め、人が喜んで援助するyにさせることを、王法が禁じていないようなものです。人から掠奪し、人を殺害するに至れば、判決を受けるだけです。『列仙伝』は酒家(のみや)の嫗のことを載せていますが[193]、冥罰に関わっているではありませんか。」「狐が人のために子を生んだことは聞くが、人が狐になって子を生むことを聞かないのは、どうしてか。」。かすかに笑った。「これは論じるに足りない。そもそも取ることがあり、与えることがないだけだ。」「支機[194]を別れるときに贈って、牽牛が嫉妬することを憚らないのですか。」。さらに笑った。「公は放言がすぎ、まったく詳細をご存じありません。およそ女は季姫と子の故事のように、みずから連れ合いを選べますが[195]、妻は定まった連れ合いができれば、規範を越えようとしません。芍を贈り、蘭を採る[196]にいたっては、偶然礼を守らなかったのです、人情物理は、おおむね異ならず、もとより比べあわせて知ることができます。」「人家に住んだり、曠野に居たりするのは、どうしてか。」「成道しないものは、獣を離れておらず、人から遠ざかるのがよいので、山林でなければ不便なのです。すでに成道したものは、すべて人と同じで、人に近づくのがよいので、都市でなければ不便なのです。能力の高いものは、都市山林いずれにも住め、大いに富み、大いに貴い家のよう、その力はあらゆる物をすべて齎せますので、荒村僻地と都会大県に住むのは、同じことです。」。師退と自由に語ったが、その大旨は人に道を学ぶように勧めるだけであり、こう言った。「わたしたちは辛苦すること一二百年、はじめて人の身に化しましたが、あなたがたは現に人の身で、功が成ることがすでに大半に到っていながら、悠悠忽忽[197]として、草木とともに朽ちるのは、たいへん惜しいことです。」。師退は腹に三蔵を収めていたので[198]、招いてともに禅について談じると、謝して言った。「仏家は地位がきわめて高うございますが、あるものは修行が足りず、一たび輪迴に入れば、本来面目[199]を迷卻してしまいますので、とりあえず不死を求めるにしくはありません。確信がございますので[200]、わたしはしばしば善知識[201]に会いますが、考えを変えようとはしません[202]。」。師退は別れに臨んで言った。「今日会ったのも僥倖ですが、わたしに贈る一言がありますか。」。しばらく考えると、言った。「『三代以下は、名を好まないことを恐れる[203]』とは、下等の人の言葉です。昔から聖賢は、むしろ心気が温和で、すこしも作為がありませんでした。洛閩の諸儒[204]は、眉を揚げ、目を怒らし、多くの葛藤を生み出しました。先生はお考えになるべきでございます。」。師退は憮然として自失した。そもそも師退は崖岸[205]がたいへん険しく、時に過剰であった。

  
  裘文達公[206]が言った。かつて石東村[207]がこう言っていたのを聞いた。「驍騎校[208]がおり、すこぶる読書し、文辞について談ずることを好んでいた。ある晩、宿直して宣武門[209]の上で涼み、散歩して麗樵[210]の東にゆくと、二人が(ひめがき)に倚り、対談していた。狐鬼だと悟り、息を潜めて伺うと、一匹が手を挙げて北を指して言った。「ここはもともと明の首善書院[211]だったが、今は西洋天主堂となっている。かれらの星象の推算、器物の製作は、まことに巧みで及ぶことができない、その教えは仏経を変換して、儒理に附会したものだ。わたしは以前いってひそかに聴いたが、談じて結着のつかない処に至るたび、かならず天主によって解説するので、結局広まらないのだが、かれらのすることを見ると、謀略もきわめて狡猾である。」。もう一匹が言った。「君はかれらが狡猾だというが、わたしはかれらがたいへん愚かであることを怪しんでいる。かれらはその国王の命を奉り、航海して来、中国をかれらの教えで化そうとしているに過ぎないが、事勢を忖度すれば、どうしてそうした理があろう。利瑪竇[212]以後、つぎつぎと来たが、その願いは叶えられないのに、けっしてやめない。痴れものではないか。」。一匹がさらに言った。「どうしてあのものたちだけが愚かであろうか。あの首善書院を建てたものたちもたいへん愚かだ。奸党が国政を執り、ひそかに君子の隙を伺っていたときに、誹謗をほしいままにして、群れ集まって清談し、かえって徒党を組んでいるという評判を得て、一網打尽にされたのだから、さらに何を咎めよう。それに『三千弟子[213]』ということは、孔子だけが可能であり、孟子はおそらく孔子に及ばず、講学したものは、公孫丑[214]、万章[215]ら数人だけだ。洛閩[216]の諸儒は、孔子の道徳がないのに、やはり生徒を招集し、千万を重ね、梟鸞[217]はともに集まり、門戸はこもごも争い、だんだんと朋党となり、国はすぐに亡んだ。東林の諸儒は覆轍を鑑みず、さらに虚名を求めて実禍を受けた。今、遺跡を訪ね、往事を思い、賢者を責めないことができようか。」。相対して嘆息していたが、たちまち振り返って人を見ると、翳然[218]として消えた。東村は言った。「天下は『これに趨くこと鶩のごとし』だが、世外の狐鬼は、ひそかに不満に思っている。人が誤っているのか。狐鬼が誤っているのか。」。

  
  王西園先生[219]が河間の太守であった時、人は言った。「献県八里荘河では、夜行く者が多くは幽鬼にあいますが、県の下役馮大邦が過ぎれば、幽鬼は出ようとしません。幽鬼に遇う者が馮の姓名を詐称しますと、幽鬼はやはり避けます。」。先生はそれを聞くと言った。「県の下役が幽鬼を恐れさせることができるのには、かならずわけがあろう、ひそかに調べて懲らすとしよう。」。ある人がとりなしてやった。「もともとそのようなことはなく、人民が作り話をしているだけでございます。」。先生は言った。「県の下役は一人でないのに、馮大邦のためだけに作り話をするなら、やはりかならずわけがあろう。」。命じて捕らえることにした。大邦は恐れて逃げ去った。これは庚午辛未の間[220]の事であった。郡を去った数年後、大邦はなお帰らず、今どうであるか知らない。

  
  郷里に崔某という者がおり、豪族と訴訟していたが、理は正しいのに冤罪を晴らせなかったので、憤りに堪えず、自殺しようとした。夜にかれの父を夢みたところ、父はこう語った。「人は欺けるが、神は欺き難く、人には徒党があるが、神には徒党がない。人間(このよ)で冤罪が酷いほど、地下で冤罪は痛快に晴らされる。今日、思いのままにしているものたちは、いずれも十年たてば業鏡台[221]の前で震えて審問されるものだ。わたしは冥府の司茶[222]となり、さらに判司[223]が帳簿に注記するのを見た。おまえはどうして怒る。」。崔はそれから怨みはすっかり消え、さらに一言もいわなかった。

  
  訴訟に長けた者がおり、ある日、人のために訴状を書き、多くの人を陥れようとしたが、事が複雑で、すぐには整理できなかった。静座構想しようとし、客を通じないように戒め、妻さえも避けて別室にいさせた。妻はさきに隣家の男と目で合図していたが、家には乗じる機会がなく、窺うこと一年あまりで一度も近づくすべがなかったが、ここに至り、機会を得た。後に構想するたび、妻は騒いでかれを乱し、かれはかならず妻を叱って避けて出させるのが、習慣となった。隣家の男は隙をみて来るのが、やはり習慣となり、卒まで露顕しなかった。歿後一年あまりして、妻は密通によって孕み、仇敵に事を発かれ、お上が密通のことをたずねると、事実をくわしく白状した。官は(つくえ)を打つと喟然として言った。「このものは刀筆が巧みであったが、造物はさらに巧みだ。」。

  
  けっして判決できない事件は、人や物から外れたものであるとは限らず、人や物の中にあるほど、明らかにできないものである。門人の呉生冠賢[224]が、安定[225]の令となった時、わたしは西域から従軍して還り、かれの署内に泊まった。聞けば、若い男女がおり、いずれも十六七歳であったが、輿の前に並んで不平を訴えたそうである。若い男が言った。「これはわたしの童養[226]の妻ですが、父母は亡くなり、わたしを棄てて別に嫁ごうとしております。」。若い女は言った。「わたしはもともとこのものの実の妹でございますが、父母が亡くなり、わたしを妻にしようとしているのでございます。」。その姓を尋ねると、なお記憶しており、その郷里を尋ねると、父母はいずれも流浪して乞食し、毎日転々としていたので、すでにどこの人であるかを記憶していなかった。ともに乞食していたものに尋ねると、言った。「こちらにきてわずか数日で、父母がともに亡くなりましたので、その顛末は分かりません。かれらが兄妹と称するのを聞いただけです。しかし貧家の童養媳は、夫とも兄妹と称するのが習慣ですので、区別がつきません。」。ある老吏が請うた。「この件は影を捕らえ、風を捕らえるかのようなもので、漠然として確証がなく、拷問することもできません。結婚させると裁きをしても離別させると裁きをしても、誤りがないことを保ちがとうございます。しかし、離別させる誤りは、誤って婚姻を破るに過ぎず、その損失は小さいですが、結婚させると裁きする誤りは、誤って人倫を乱しますので、その損失は大きゅうございます。離別させてはいかがでしょうか。」。再三取り調べても、裁きはできなかったので、老吏の言葉に従った。そこで思いだすのが、姚安公が刑部で役人をしていた時のこと、織造の海保[227]がまさに財産を没収されており[228]、お上は三人の歩兵にその邸宅を守らせていた。邸宅はおよそ数百()あったが、夜が更けて風と雪であったので、三人はかたく外の戸を閉ざし、ともに奥深い寝室の中で暖をとり、燈を点けてともに飲んでいた。泥酔した後、たまたま燈を掻きたてようとして消してしまったところ、三人は闇の中でぶつかりあい、殴りあった。夜半まで殴ると、それぞれ疲れて倒れ臥した。朝になると、一人が死んでいた。その二人は、一人を戴符といい、一人を七十五といい、傷はやはり深く重く、さいわい死んでいないだけであった。訊問の時に、ともに殴りあって殺しました、処罰されても怨みませんと言った。その晩は暗闇の中で、掴まれたと感じたものはすぐに掴み、殴られたと感じたものはすぐに殴りかえしたが、誰が自分を掴み、誰が自分を殴ったかを知らず、自分が掴んだのが誰で、殴ったのが誰なのかも知らず、その傷の軽重[229]と、誰の傷が誰の殴ったものであるかは、二人が知ることができないばかりでなく、死者を生きかえらせて尋ねても、断じて知ることはできなかったろう。一人の命を二人で償う必要はなかったので、お上に任せて随意に一人を指名しても、悪いことはなかった。取り調べて某人であるとすることに拘れば、三木[230]で厳しく取り調べてもでたらめの自供をするに過ぎないから、どうしようもなかったろう。一月余りすると、たまたま戴符が病死したので、それを機に沙汰やみとした。姚安公はかつて言った。「このことは犯罪であり、争いを起こしたものは、やはり判決できる。しかしその自供を調べれば、争いを起こしたのは本当に誰だか分からない。拷問して取り調べるのは、随意に指名するのに及ばない。今までくりかえし思い返しても、結局一つの取り調べる方法も思いつかない。法官になるのはどうして簡単なことであろうか。」。

  
  文安[231]の王岳芳[232]が言った。その郷里に巫女がおり、幽鬼を見ることができた。かつてある役人の家に来、ひそかにその下女に語った。「奥さまの牀の前に女の幽霊がおり、惨緑[233]の衫を着け、血は胸を浸し、頚は切れそうですが離れておらず、首は反りかえって折れており、逆さまに背後に懸かり、姿はたいへん恐ろしゅうございます。病になろうとしているのでしょうか。」。にわかに寒熱がはげしく起こったので、下女は巫女の言葉を告げた。紙銭酒食を具えて送ると、まもなく癒えた。わたしはかつて風寒暑熱は、すべて病になることができ、幽鬼が祟っているとは限らないと言ったことがある。ある巫女は言った。「風寒暑熱の病は、起こるときはだんだんと起こり、癒えるときはだんだんと退きます。幽鬼の病はにわかにはげしくなり、すぐに止みます。これで区別すれば、はっきりとして間違いはございません。」。この言葉も理に近いようである。

  
  陳石閭[234]が言った。ある旧家の子が数人の客とともに九如楼[235]で観劇した。酒が酣のとき、たちまち一人の客が急病で地に倒れた。扶けて薬を飲ませていると、にわかに起坐して目を瞠り、直視し、さきに胸を打ち、痛哭し、その子の遊蕩を責め、次に歯を齧り、拳を握り、客たちが誘ったことを責めた。詞色はともにはげしく、勢いは打ち齧ろうとするかのようであった。その子は父の語る声であることを知り、匍匐戦慄し、ほとんど血の気がなかった。客たちはみな萎縮してひそかに逃れ、よろよろと足を滑らせ、額を傷つける者があった。四坐はみな太息した。これは雍正甲寅[236]のことで、石閭は目撃したのだが、その姓名を言おうとしなかったのであった。先師阿文勤公[237]が言った。「家が賓客を通じなければ、子弟は士大夫に親しまず、会うのが下女や童僕だけなら、どうして良いことがあろう。家に賓客はたいへん多ければ、かならず淫らな友がその間に交じっており、親しんで影響を受ければ、子弟に無窮の害を齎す。」。数十年来、逐一見聞きしたことを調べてみると、公の言葉は本当に薬石であることが分かる。

  
  五軍塞[238]の王生が言った。田父が夜に棗林を番していたが、林の外に人影があるようであった。盗賊かと疑い、ひそかに伺った。するとにわかに一人の男が東から来て尋ねた。「こちらに立っているのはどうしてか。」。その人は言った。「わたしが棺に入った時、某が傍にいてひそかに良かったといっていたので、怨んで二十余年になる。今はあいつも捕らえられたので、わたしはこちらで、あいつが縛られて通るのを待っているのだ。」。ひどく人を怨んでいるものである。

  
  甲と乙は仲違いしていたが、甲の妻は知らなかった。甲が死ぬと、妻は嫁ぐことを相談し、乙は結納を手厚くして娶った。三朝[239]の後、ともに兄嫂に会いにいったが、帰るときに遠回りして甲の墓にゆき、耕作している者、食事を運搬している者たちの前で、妻の肩を叩いて叫んだ。「某甲よ、おまえの妻が分かるか。」。すると妻は怒り、樹にぶつかろうとした。人々が引きとめていると、たちまち旋風が颯然として、塵沙が目に入り、夫婦はすでに魂を失ったかのようであった。扶けて戻った後は、ぼんやりしたり目ざめたりし、終生癒えることがなかった。外祖の家の老僕張才は、かれの近い親戚で、みずからの目でそれを見た。そもそも正しい道によって怨みに報いることを、聖人は禁じていないが、過分なことは聖人のすることではない。『素問』に「亢なれば害す。」という[240]。『家語』に「満つれば覆る。」という[241]。乙は亢も極まり満も極まっていたのだから、不幸が及んだのはもとより当然のことであった。

  
  僧が誦える『炎口経』は、言葉はすこぶる卑俗だが、魂を召し、食を施す諸の梵呪を聞けば、本当に仏が伝えたものである。わたしが烏魯木斉(ウルムチ)にいたとき、たまたま仲間とそのことを論じたところ、あるものは同意し、あるものは反対した。印房[242]の官奴[243]白六は、大盗の流罪になったものであったが、卒然として言った。「嘘ではございません。以前、ある大家で施餓鬼しているのに出くわしましたので、賑やかに事を行うのを覗こうとしましたが[244]、乗じる機会がございませんでした。高楼の簷の角に伏し、俯いて鈴を揺らして呪を誦えるのを見ますと、黒い影が無数に見え、高さは二三尺ばかり、あるものは垣を越えて入り、あるものは竇から入り、往き来して揺れ、およそ人がいない処にはすべて満ちていました。米を撒く時は、集まったり、散じたり、前になったり、後になったり、巡って奪っているかのよう、また仰いで受けとり、俯いて拾う姿もぼんやりと見えました。その色は薄煙のようで、その形はやや人の姿のようでしたが、五官四体は分かりませんでした。」。それならば幽鬼も食物を求めるということは、本当にあることではないか。

  
  後漢の敦煌太守裴岑の『破呼衍王碑』は、巴里坤の海子(みずうみ)[245]のほとりの関帝祠の中にある。屯軍[246]が開墾していて、土中から得た。その事は『後漢書』に見えないが、文句は深奥、字画は古朴で、断じて後人の偽托したものではなかった。西域の辺境にあったので、拓本をとる人がおらず、石刻の筆画はなお完美であった[247]。乾隆庚寅[248]、遊撃の劉存仁(これは字で、その名はたまたま忘れたが、武進の人であった。)一つの木版を摸刻し、火薬を上に撒き、焼いて傷をつけたところ、きわめて古碑に似ていた。二本がともに世に伝えられると、鑑定家はみな旧い石の拓本を新しいとし、新しい木の拓本を旧いとした。かれらにむかって弁じても、傲然として信じなかった。同時代の物で、目で見た人がいても、真偽を顛倒することはこのようであるのだから、千百年以上のものならばなおさらである。『易』の象数[249]、『詩』の小序[250]、『春秋』の三伝[251]は、あるものはみずから聖人に会っており、あるものは古を去ること遠くなく、経師の授受は、淵源がはっきりしている、宋儒が「漢以前の人はみな知らず、わたしは理で知る。[252]」というのは、これに似ている。

  
  康熙十四年、西洋が獅子を貢いだので、館閣[253]の先輩は多くは賦詠をした。言い伝えでは、まもなくするとすぐに逃れ去り、その進むさまは風のようで、巳の刻に鎖を絶ち、午の刻に嘉峪関を出たというのだが、これは斉東の語[254]である。聖祖が南巡し、衛河[255]から鑾駕を返した時も、なお船にこの獅子を載せていた。亡き外祖母曹太夫人は、かつて度帆楼[256]で窓の隙間から窺ったが、その身は黄の犬のよう、尾は虎のようでやや長く、顔は円くて人のよう、他の獣のように狭くて細くはなく、船首の将軍柱[257]に繋ぎ、一匹の豚を縛って食らわせた。豚は岸に居るときはまだ叫んでいたが、船に近づくとすぐに黙って声を出さなくなった。獅子の前に置き、獅子が俯いて一嗅ぎすると、すでに恐れて死んでいた。纜を解く時、たちまち怒って吼える声がしたが、無数の銅鉦が突然合わせ撃たれているかのようであった。外祖の家の厩の馬十余頭は、垣を隔てて聞くと、みな戦慄して(かいばおけ)の下に伏し、船が去って時を経ても、なお動こうとしなかった。本当にそれが百獣の王であることを信じた。獅子が来た当初、時に吏部侍郎阿公礼稗[258]は、絵は当代の顧、陸[259]であった。かつて手に(ふくろ)を持ち、髪に筆を挿し[260]、直接図を描いたが、筆意は精妙であった。博晰斎先輩[261]の家に旧蔵せられていたが、阿公が手ずからその祖父に贈ったものであった。後にわたしに売られ、かつてある鑑定家に題簽を乞うた。阿公はもともと署名がなく、元代に獅子を献じた事があったので[262]、『元人獅子真形図』と題した。晰斎は言った。「少宰の絵は、もとより元人の下にない。この鑑定に偽りはない。」。

  
  乾隆庚辰[263]、戈芥舟[264]先輩が扶乩したところ、その仙は唐人の張紫鸞[265]で、劉長卿[266]を瀛洲島[267]に訪ねようとし、ともに天姥[268]に遊んだとみずから称した。ある人がその事を尋ねると、一首の詩を書いた。「身は異域より来り、時に見る瀛洲島。日落ちて晩風涼し、一雁雲に入りて杳たり。」。物外に鴻冥[269]し、人の世の争いに関わらないことを暗示したものであった。芥舟と詩を論じ、欣然として応酬し、遊んだ名勝『破石崖』、『天姥峰』、『廬山』の三篇を聯句して去った。芥舟は時に『献県志』を修めていたので、県志の末尾に附録した。かれの『破石崖』の一篇は、前は五言律詩八韻で、対偶声韻がすべて調っているのに、第九韻以下は、たちまち鮑参軍の『行路難』、李太白の『蜀道難』体となっていた。唐三百年の詩人にこの体裁はなく、きわめて規格外れであった。東、冬、庚、青四韻を通押するのは、昌黎の『この日以て惜しむに足る』の詩[270]が、穿鼻声[271]の七韻を一部にした例に倣い、さらにやや古書を読んだもののようであった。やや文筆の心得のある幽鬼が、唐人に偽托したものであろう。

  
  河城(県の東十五里にあり、隋の楽寿県の故城である。)の西の村民が地を掘って一枚の鏡を得たが、幅は一丈あまり、すでにぶつかってその半ばが砕けていた。見た者が一かけらを持って去り、室中に置いたところ、毎晩光を吐いた。およそ数軒ですべてそうであった。これも王度の神鏡が、月に応じて満ち欠けした類である[272]。しかし四角い鏡で幅が一丈あまりのものが、このようにできるところが、さらに珍しい。ある人が鏡がどうしてこのように大きいかと訝った。わたしは、これはきっと河間王[273]の宮殿の物だと思う。陸機と弟雲が「仁寿殿中に大方鏡があり、幅は一丈あまり、過ぎればかならず人の影を写す[274]。」と書いたが、晋代はなおこの制に沿っていたのである。

  
  乾隆己卯庚辰の間、献県で唐の張君平の墓志が発掘されたが、大中七年に明経[275]劉伸が撰したものであった。字画はなお見えたが、文はことに鄙俚であったので、わたしは拓本をとって李廉衣先輩に示し、言った。「古人がすべて今人に勝ると仰いますが、これは唐の文ではございませんか。天下はおしなべて名目を耀かしくしているだけです。その実態を調べれば、筆札[276]をよくするものはかならず晋を称えますが、その時代にもかならず極めて拙い字があったのであり、吟詠をよくするものはかならず唐を称えますが、その時にもかならず極めて下手な詩があったのです。晋代は奴隷もすべて羲献[277]、唐代は屠沽[278]もすべて李杜であったというわけではないのです。西子の東隣は、本当は同姓でしたし[279]、盗跖柳下は同胞でした[280]。美しければすべて美しく、賢ければすべて賢いことがどうしてできましょう。」。鑑定家は宋の硯を得ると、滑らかで墨を受けなくても球図[281]のように大事にし、漢の印を得れば、誤りがあって文をなしていなくても、珠璧[282]よりも大切にする。「何の取り柄がある。」と尋ねると、「古いところが取り柄だ。」という。東坡の詩[283]にいう。「嗜好俗と酸咸を殊にす。」とはこのことか。

 
  交河[284]の老儒劉君琢[285]は、名を璞といい、もともと謹厚で、長者と称し、わたしの家で教師をすること二十余年であった。従兄懋園坦居、従弟東白羲軒は、いずれもかれの弟子であった。かつて河間の歳試から帰り、途中、雨に遭い、民家に宿を借りたところ、主人は言った。「家屋は二間があるだけ、まだ泊まれるが、もともと(あやかし)がおり、狐か幽鬼か分かりません。恐ろしくなければ、旅装をお解きください。」。やむを得ず宿った。燭を消すと、承塵の上が轟轟と震え響き、怒った馬が奔騰しているかのよう、君琢は起きて衣冠を着け、長揖して仰ぎみると祈った。「窮迫した貧乏儒者が、偶然こちらに宿っているのに、わたしに禍しようとするか。わたしはおまえと仇がないのに、わたしに戯れようとするか。おまえともともと交わったこともないのに、わたしを追おうとするか。今夜はかならず行けないが、明朝はかならず留まることができぬのだから、このように余計に騒ぐことはない。」。にわかに承塵の上で老媼が、「客人のお言葉はまことに尤もでございますから、おまえたちはあまり乱暴にすることはない。」と語ったかのようであった。[286]と足音が聞こえ、西北の隅に向かって去り、まもなく寂然とした。君琢はかつて門人に告げた。「思いがけない横逆に遭っても、心を穏やかにすれば、解決する時もあるものだ。あの時、怒り罵っていたら、磚を抛ち、瓦を擲たないとも限らなかった。」。さらに劉景南は、かつて一寓を借り、引っ越してきた晩、大いに狐に騒がれたので、景南は怒鳴った。「わたしはみずから金を出して家を借りたのだから、鳩が鵲の巣を占めるようなことはできない。」。狐は声を荒げて答えた。「君がさきにこちらにおり、わたしがあとから来て争えば、非はわたしにある。わたしがこちらの宅に五六十年いることは、みな知っている。君はどこにでも家を借りられるのに、どうしても来てともに住もうとするのか。これは気を恃んで侵犯することだから、わたしは君に譲ろうとしない。」。景南は翌日引っ越していった。何励庵先生[287]は言った。「君琢が会った狐は理で屈することができ、景南があった狐は理で人を屈することができた。」。亡兄晴湖は言った。「狐を屈服するのは易く、狐に屈服することができるのは難しい。」。


  
  道家に太陰煉形法[288]があり、葬って数百年すると、期が満ちて生き返る。これはその説があるだけで、その事を見たことはない。古に、水銀を棺に納め、屍が朽ちなかったものは、たしかにある。董曲江[289]は言った。「およそ罪の戮屍[290]せられるべきものは、長年葬っても、屍は朽ちない。呂留良[291]は骨を焚かれた時、その棺を開かれたが、貌は生きているかのようで、斬りつけるとなおかすかに血が出た。そもそも鬼神が屍を留め、誅に服させたのだ。」。某人(曲江の親族で、当時その字を挙げたが、今は忘れた。)は、時に浙江で役人をしていたが、命を奉ってその事を監督したので、みずからそれを目撃していた。しかしこの類はいずれも祟らず、祟るものは僵屍(キョンシ)という。僵屍(キョンシ)には二つあり、その一は、新しい屍で納棺されていないもので、にわかに躍りあがって人を打つ。もう一つは久しく葬られて腐らないもので、姿を魑魅のように変え、夜に出遊することがあり、人に逢えばすぐに捕らえる。旱魃[292]がそれであるともいうが、詳らかにはできない。そもそも人が死ねば形神が離れ、これを「神が形につかず」といい、知覚することや運動することがあるはずがない。「神が形につく」というのは、再生のことだが、どうしてふたたび人とならずに(あやかし)となるのか。それに死んだばかりのものや屍厥[293]で、その父母や子供が、抱きしめて放さず、十本の指が肌骨に食いこんでいることもあるのに、知覚がないならどうして躍れ、知覚があるならどうして息が絶えたばかりで、親しいものを忘れているのか。これは邪物が憑き、邪気がかれを惑わして、遊魂が怪異をなしているのではなかろうか。袁子才[294]先輩の『新斉諧』[295]は、南昌の士人の行屍[296]が夜にその友に会ったことを載せているが、はじめは請託し、その後感激し、その後哀慕し、その後、姿を変えて襲い齧った。人の魂は善で、魄は悪、人の魂は霊妙で、魄は愚鈍だという。かれが来た当初、霊は滅びず、魄は魂に附いていた。いって、気がかり[297]がなくなると、魂が散じて百魄が滞ったのだ。魂があれば人となり、魂が去ればその人ではなくなる。世の移屍走影[298]はすべて魄がすることだが、有道の人だけが、魄を制することができ、言葉も確かできちんと筋が通っている。しかし管窺の見は、結局そのほかにわけがあることを疑うのである。

  
  任子[299]が言った。その郷里である人が夜に歩いていたところ、月下で墓道の松柏の間に二人が並んで坐していた。一人は男子で年は約十六七、美しく愛らしかった。一人は婦人で白髪が項に垂れ、佝僂で杖を携え、七八十以上の人のようであった。肩を寄せ、談笑し、心はとても喜んでいるかのようであったので、淫らな婆あめ、少年と狎れ親しむとはとひそかに訝った。やや近づいてゆくと、冉冉として消えた。翌日、誰の家の塚かと尋ねると、某がずっと前に夭折し、その妻は操を守ること五十余年、歿してここに合葬されたものであることを知った。『詩』に「()くれば室を異にし、死すれば穴をともにす。」[300]というのは、情の至りである。『礼』に「殷人のは、之を離し、周人のは、之を合はす。よきかな。」[301]という。聖人は幽明の礼に通じ、人情によって鬼神の情を知ることができる。人情に近くなければ、さらにどうして『礼』の趣意を知ろうか。

  
  族姪肇先が言った。ある書生が僧寺で読書し、放炎口[302]に遇ったが、見ればその威儀は厳粛で、指揮号令し、鬼神を駆使できているかのようであった。そこで喟然として言った。「冥府がかの教えを敬うのは、儒教に勝っている。」。燈影が朦朧としている中、一人の叟が傍で語った。「天下を経綸するのは、聖賢だけに頼り、かの仙仏は神によって及ばないところを補っているだけだ。そのため冥府は聖賢を重んじ、仙仏の上にいさせているのだ。しかし重んじられるのは本当の聖賢で、聖賢と偽ればひそかに天の怒りに触れ、罪も偽仙偽仏の上にある。古風は淳樸で、この類はややまれであったが、四五百年来、囚人は日に日に多くなり、すでに別に一つの獄を増設している。そもそも釈道の徒は、巧みに罪福を述べ、人を誘って施捨させているに過ぎず、妖党が徒党を集め、不軌をなすことを謀る以外に、わたしは(かみ)わたしは仏だと偽称するものは、千万人の中に一人もいない。儒は聖賢と自認している者は、いたるところすべてそうで、民がそれを聴けば惑わされるが、神理は誣い難い。生きては皋比[303]を擁し、歿しては阿鼻に沈むのは、人心に害をもたらし、聖賢に憎まれているからだ。」。書生は驚愕し、尋ねた。「これは冥府の事なのに、公はどうして知っている。」。弾指の間に、すでに見えなくなっていた。

  
  甲乙には宿怨があり、乙は日夜甲を殺すことを謀っていた。甲はそれを知ると、ひそかにその仲間の某に命じ、よそから乙家に入らせた。およそ乙のため謀り、謀りごとをすれば失策はなく、乙にすることがあれば、かならず甲の財産でひそかにその費用を助けたので、費用は省かれて効果は倍した。一二年後、たいへん信用され、もともと信任されていたものたちはみな退けられた[304]。某は隙を見て乙に説いた。「甲は昔ひそかにわたしの妻をからかいましたが、わたしは隠して言おうとしませんでした。怨みは本当に骨に徹していましたが、力が敵しませんでしたので、争おうとしませんでした。あなたも甲に怨みをお持ちだと聞きましたので、あなたのために犬馬の労に服しましょう。あなたのために心を尽くすのは、知遇に報いるためと、この謀りごとのためなのです。乗じられる隙があれば、いっしょに謀りごとを立てましょう。」。乙は望外のことにたいへん喜び、多くの金を出し、甲への謀略を立てさせた。某は乙の金で、甲のために賂し、きわめて周到であった。罠が完成すると、甲の悪行、証人の姓名をでっちあげ、乙に報せ、訴状を書かせた。審問が行われると、事はすべて子虚烏有で、証人たちもみな戈を倒し[305]、一敗地に塗れ、誣告によって流刑の裁きを受けた。たいへん怒ったが、某に親しむことが久しく、平生の隠事は、すべてかれの手に握られていたので、ふたたび事を起こそうとせず、気鬱で死んだ。死んだ時に地下に訴えることを誓ったが、数十年後になっても、報いはなかった。論者は禍端は乙から発している、甲は勢が両立せず、鋌して険に走り[306]、みずからを救ったに過ぎず、その罪は甲にないと言った。某はもともと甲のために間者となったもので、それぞれがその職責に忠実であり、乙は裏切りものではないので、あまり罪を加えることもできず、鬼神は問題にしなかったのである。この事は康熙末年にあり、『越絶書』に、子貢が越王に、「そもそも人への謀略を立てる心をいだき、人にそれを知らせるのは、危険である。」と言ったことを載せる[307]が、まさにその通りである。

  
  同郷の范鴻禧は、狐の友と親しくしていた。狐は酒好きで、范も酒好きだったので、約して兄弟となり、つねに相対して酔って眠った。急にしばらく来なくなったが、ある日、秫の田で逢ったので、尋ねた。「どうして急にお見棄てになったのです。」。狐は首を振った。「みずからの兄弟さえ損なうのに、義兄弟など何のことはないだろう。」。振りかえらないで去った。そもそも范はまさに弟と訴訟を起こしていた。楊鉄崖の『白頭吟』に、「妾を買ふ千黄金、身を許し、心を許さず。使君おのづから妻あり、夜夜白頭吟あり[308]。」というが、この狐の見識とまさに同じである。

  
  献県の捕り手樊長は、その仲間とともに大盗を捕らえた。盗賊は跳んで逃れたので、その妻を官店に繋いだ(捕り手が盗賊を拷問する所を、官店というが、実は私宅である。)。その仲間は妻を囲んでふざけたが、妻は鞭うちを恐れ、黙って動こうとせず、俯いて涙を飲んでいるばかりであった。服を緩めると[309]、長はにわかにそれを見て、怒った。「誰に妻や娘がなかろう。妻や娘が難に遭わず人の手に落ないことをどうして保障できよう。おまえがこのようにしようとするなら、わたしは今すぐにお上に訴えるぞ。」。その仲間は恐れてやめた。時に雍正四年七月十七日戌の刻であった。長の娘は嫁いで農家の妻となり、その晩、盗賊に攫われ、すでに衣を剥がれ、後手に縛られ、辱めを受けようとしていたが、やはり一人の盗賊が怒鳴ってとめた。本当に子の刻のことで、間に亥の刻を隔てているだけであった。翌日、長は報せを聞くと、天を仰ぎ見、舌を上げたまま下ろすことができなかった

  
  裘文達公[310]は邸宅を賜わり、宣武門内の石虎衚衕[311]に住んでいた。文達の前は、右翼宗学[312]であった。宗学の前は、呉額駙[313]府であった。呉額駙の前は、前明の大学士周延儒[314]の邸宅であった。年を経て久しく、奥深く、しばしば怪異があるのを免れなかったが、人に害をなすことはなかった。広間の西の小屋二間は、好春軒といい、文達が賓客を会見する地で、北の壁の入り口は、さらに横ざまに小さな部屋二間に通じていた[315]。童僕が夜にその中に泊まると、眠った後にしばしば魅に舁ぎ出されていたが、幽鬼か狐か分からなかったので、その中に榻を置こうとしなかった。琴師銭生だけは恐れず、やはりとりたてて異常はなかった。銭は顔に癜風[316]があり、顔は極めて老いて醜かったので、蒋春農は戯れて言った。「お顔が幽鬼より素晴らしいので、幽鬼が恐れて逃げているだけでしょう。」。ある日、戸に鍵を掛けて外出し、帰ると、(つくえ)の上に雨纓帽[317]があったが、作りはたいへん良く、新しく、使ったことがないかのようで、たがいに渡して見ると、みな驚いて笑った。そのため狐であって幽鬼でないことを知ったが、取ろうとするものはなかった。銭生は言った。「老いと病でよぼよぼで、しばしば忌み嫌われ、司空さま以外(文達公は時に工部尚書であった。)は、憐れむものはかつて数人もいません。わたしの冠が本当にぼろぼろなので、この狐はわたしが貧しいのを哀れんだのです。」。欣然として取って着け、狐も持ってゆくことはなかった。かれは本当に銭生に贈ったのだろうか。銭生に贈ったのは何のつもりだろうか。まことに不可解である。

  
  かつて杜少司寇凝台[318]とともに南石槽[319]に宿ったところ、両家の轎かきが語っていた。「昨日怪しい事があった。わたしの表兄朱某は、海淀にいて人のために墓守りし、城に入って帰らないので、かれの妻がひとり寝ていた。すると園中の樹の下で闘う声がするのが聞こえたので、窓紙を破ってひそかに窺うと、二人が腕まくりして激闘しており、一人の老翁が杖を挙げて阻んでも停められなかった。にわかに打たれて地に倒れると、ともに姿を現して狐となり、跳びはね、もがき、老翁にぶつかってやはり倒した。老翁はにわかに起き、片手で一匹の狐を押さえると、叫んだ。『倅が不孝をはたらいている。朱五嫂、わたしを助けてくれ。』。朱が伏して出ようとしないでいると、老翁は地団駄を踏んで言った。『土神に訴えてやる。』。ぷんぷんとして散じた。翌晩、園内に鈴鐺(すず)[320]の音が聞こえ、捜査捕縛があるかのようであった。(つくえ)の上の瓦瓶[321]がかすかに動いていたので、怪しんで見ると、瓶の中で小声でこう語っていた。『言わないでください。ご恩に報いますから。』。朱は怒った。『父母の恩にさえ報いようとしないのだから、わたしなどは何ともないだろう。』。瓶を挙げ、門の外の碑趺[322]の上に擲つと、訇然として砕け、噭噭[323]と音がし、かれが捕らえられたと思われた。」。一人の轎かきが言った。「闘って父や母に触れて倒れさせたのは、大した事ではないのに、土神に捕らえられたのは、とても恐ろしいことだ。」。凝台はわたしを顧みて笑った。「轎かきでなければこうしたことは言えない。」。

  
  郷里の張媼が、みずから言った。「かつて走無常をしていましたが、今では免除されています。昔、冥府にゆき、冥吏に『仏に仕えて益がございましょうか。』と尋ねますと、(したやく)は言いました。『仏は人に善をなすことを勧めるだけだ。善をなせばおのずから福を受けるが、仏が福を降しているのではない。供養して仏に福を降すことを求めても、廉吏さえ賄賂を受けないのだから、仏が賄賂を受けることなどあろうか。』。さらに尋ねた。『懺悔にはご利益がございましょうか。』。吏は言った。『懺悔は勇猛精進し、つとめて以前の罪業を償わなければならないものだ。今の人の懺悔は、のっけから罪を免れることを求めるだけだから、どうしてご利益があろうか。』。」この言葉は巫が言おうとすることではないから、たしかな根拠があるようである[324]

最終更新日:2011722

閲微草堂筆記

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[1]山東濟南府の県名。

[2]http://baike.baidu.com/view/226687.htm

[3]山東青州府の県名。

[4]http://bike.baidu.com/view/233985.htm

[5]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6Zdic83Zdic95225461.htm憂えるさま、慎むさま

[6]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7ZdicBBZdicB3207722.htm法規

[7]未詳

[8]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE4ZdicBDZdic9B71470.htm仏像れる光炎

[9]http://baike.baidu.com/view/1037090.htm小声のさま

[10]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5Zdic86ZdicA521900.htm濃密なさま

[11]原文「望眼幾穿」。待ち焦がれることの喩え。ただ、「穿」がどういう状態をいうのかは未詳。『醒世姻』第四回「晁大舍望蕭北川來、巴得眼穿。」。永樂大典戲文『小孫屠』「望得孩兒眼穿。」。

[12]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8ZdicBDZdicAC210488.htm輪廻

[13]原文「小郎」。他人の年少の男子への尊称。http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB0Zdic8F320106.htmここでは死んだ某夫人の幼い男児のことであろう。あまりはっきりと書かれていないが、某夫人の娘とその婿が、幼い男児の財産を奪い、某夫人も生前それに加担していたのであろう。

[14]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE7Zdic94Zdic9F184997.htm転生する機会

[15]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE5Zdic8FZdicA3297059.htm

[16]原文「又婿有密札數紙、病中置螺甸小篋中、囑其檢出毀滅、免得他日口實。」。ここもあまりはっきりと書かれてないが、婿が某夫人に、財産分けに関して密書を送っていたのであろう。それを廃棄し、冥府に知られないようにしてくれといっているものと解す。

[17]新疆烏什直隸廳

[18]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE8ZdicA1Zdic8C115645.htm帝王外出する臨時営帳

[19]未詳だが、巻き舌のことであろう。

[20]()は八旗のこと。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%97%97

[21]未詳。正史にそれらしい記載なし。

[22]原文「次第安在。」。未詳だが、訳文の意味であろう。

[23]さかんなさまhttp://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE8Zdic93ZdicAC323730.htm

[24]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5Zdic96Zdic8485899.htm未詳だが、よい世界のことであろう。

[25]原文「自一例哀榮」。「哀榮」は死後の栄誉。ここではそれを与えること。また、盛大な葬儀を営むこと。http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE5Zdic93Zdic80281354.htm

[26]未詳

[27]http://baike.baidu.com/view/1126710.htm

[28]http://www.keweishang.com/xc/display.asp?id=256

[29]巻六に葵蘇図として見える。未詳。

[30]直隸天津府の州名。

[31]未詳

[32]原文「蛇影杯弓」。http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE8Zdic9BZdic87196390.htm疑心暗鬼のこと

[33]兄弟http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic88Zdic85320947.htm

[34]未詳

[35]未詳

[36]http://baike.baidu.com/view/196680.htm

[37]未詳

[38]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic8DZdicA110777.htm清代、北、蒙古、新疆等の地に設けられた防衛、収税の拠点

[39]泣き声、悲しみ叫ぶ声、また、笑い声http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE5Zdic99ZdicAD88372.htm

[40]巻七参照

[41]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE4ZdicBDZdic9018614.htm八旗で二百人の長

[42]未詳

[43]濟木薩。新疆迪化府。

[44]前注参照

[45]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic9BZdicA2215011.htm円形の藁家

[46]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic97247391.htm遺骸

[47]原文「殊未免作繭自纏」。自分で自分を縛っていることの喩えであろう。

[48]未詳。『荘子』庚桑楚「夫函、介而离山、不免于罔罟之患、舟之而失水、則螻蟻能苦之。故鳥獣高、魚鱉深。夫全其形生之人、藏其身也、不深眇而已矣。」か。ただ、前後の趣旨と合わないと思われる。

[49]原文「自莊生之曠見」。「曠見」が未詳。とりあえずこう訳す。

[50]未詳。太上老君のことか。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%B8%8A%E8%80%81%E5%90%9B

[51]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5Zdic86ZdicA564820.htm暗いさま、意識のないさま

[52]http://baike.baidu.com/view/330971.htm

[53]未詳

[54]直隸河間府の県名。

[55]未詳。巻九にも出てくる。

[56]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE4ZdicB9ZdicA6283950.htm子供を教える場所

[57]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7ZdicA8Zdic8B185689.htm漢典は「按定的程式考後多指科挙銓叙考」と説くが未詳。そこで律詩が課せられるのかも未詳。

[58]http://baike.baidu.com/view/1165281.htm満文漢文の翻訳官

[59]博明http://auction.artrade.com/auction_db/artist_list.cfm?key=B&flag=1&curpage=32

[60]原文「正復易為」。未詳。とりあえずこう訳す。

[61]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE6Zdic9DZdic80156489.htm殺生の罪業

[62]http://open-lit.com/bookindex.php?gbid=460

[63]http://open-lit.com/listbook.php?cid=2&gbid=460&bid=17654&start=0

[64]http://open-lit.com/bookindex.php?gbid=296http://baike.baidu.com/view/137971.htm

[65]巻三『朱峴女http://open-lit.com/listbook.php?cid=3&gbid=296&bid=14048&start=0

[66]巻十四「博士丘濡、汝州旁、五十年前、村人失其女。数忽自、言初被物寐中去、倏止一、及明、乃在古塔中。美丈夫、曰、我天人、分合得汝妻。自有年限、勿生疑惧。且戒其不外也。日両返、下取食、有年、女伺其去、窃之、空如、火髪藍膚、磔磔耳如焉。至地乃人矣、驚怖汗洽。其物返、曰、我、我野叉、与不害。女素惠、曰、我既君妻、乎。君既霊異、何不居人、使我時見父母乎。其物言、我、或与人雑処作。今形迹已露、任公踪、不久当爾帰也。其塔去人居止甚近、女常下、其物在空中不能化形、至地方与人。或有白衣中者、其物避。或枕其唾其面者、行人悉若不。及、女之、向君街中有敬之者、有狎之者、何也。物笑曰、世有吃牛肉者、予得而欺之。或遇忠直孝道守戒律、法者、吾犯之、当天戮。又年、忽悲泣女、已尽、候雨送爾帰。因授一青石、大如卵、言至家可磨此服之、能下毒気。一夕雷、其物遽持女曰、可去矣。如氏言屈伸臂、已至其家、之庭中。其母因磨石之、下物如青泥斗余。

[67]浙江杭州府の州名。

[68]http://baike.baidu.com/view/694281.htm

[69]福建泉州府の県名。

[70]http://baike.baidu.com/view/28415.htm

[71]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7Zdic8BZdic8265838.htm狂放不羈の人。

[72]闊達であることhttp://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic97ZdicB7283797.htm

[73]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7Zdic89ZdicA2297214.htm抑鬱不満。闊達にするのは不幸のもとということか。

[74]原文「男子性情不可必」。未詳。とりあえずこう訳す。

[75]出典未詳

[76]直隸保定府の県名。

[77]原文「抑勒」。未詳。とりあえずこう訳す。

[78]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7Zdic89ZdicB2221472.htm酒といけにえ

[79]未詳。巻十八にも出てくる。

[80]直隸河間府の県名。

[81]http://baike.baidu.com/view/1687049.htm

[82]未詳

[83]直隸河間府の県名。

[84]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE9Zdic97ZdicAE272984.htm拷問する下役

[85]山東東昌府の県名。

[86]提刑按察使http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE8Zdic87ZdicAC221968.htm

[87]未詳

[88]千七百五十五年、乾隆二十年

[89]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA7Zdic8B181444.htm秋に死刑囚を再審すること

[90]付箋のようなものと思われるが未詳

[91]浙江省の府名。

[92]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7ZdicBCZdic93207358.htm死刑囚の死刑執行を遅らせること。死刑囚への再審は秋に行われ、死刑囚は、死刑執行すべき順に、决、可矜、可疑に分類された。

[93]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE9Zdic9DZdic92324857.htm生員

[94]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6Zdic83Zdic85171628.htm前注参照

[95]原文同じ。未詳。字義からすると、何度も殴って死なせることか。

[96]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6Zdic83Zdic85171628.htm前注参照

[97]未詳

[98]原文「令之母善誦仏號、因建此樓。」。訳文はこれで間違いないと思われるが、前後の論理的な関係が未詳。とりあえずこう訳す。

[99]原文「吾恐主人有失察咎、以訪拿報、婦遂坐磔。」。この部分未詳。とりあえずこう訳す。「失察」は監督不行き届きhttp://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5ZdicA4ZdicB1310551.htm

[100]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE9Zdic92ZdicB1267772.htm財務

[101]原文「因密訐其寢盜陰事於上官」。「寢盜」が未詳。とりあえずこう訳す。

[102]浙江湖州府の県名。

[103]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E8%A3%98%E9%AD%AF%E9%9D%92&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=

[104]『春秋繁露』巻一http://zh.wikisource.org/zh-hans/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E7%B9%81%E9%9C%B2/%E5%8D%B701

[105]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8ZdicAFZdic9B253499.htm。人の心を暴露し、責めることhttp://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE8ZdicAFZdic9B277881.htm

[106]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E9%9F%93%E5%85%B6%E7%9B%B8&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=『續佐治藥言』に出てくる。

[107]原文「久困場屋」。「場屋」は科挙の試験場。http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic9CZdicBA95184.htm「久困場屋」は科挙に合格しないこと。

[108]雍正元年、千七百二十三年

[109]湖北荊州府の県名。

[110]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7ZdicACZdic94198823.htm筆によってなした罪悪

[111]科挙の功名http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA7Zdic91227549.htm

[112]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE9Zdic81Zdic9751447.htm郷試を受験する前、学道が実施する試験を受け、合格したものが受験できるが、その補欠者。

[113]浙江嘉興府の県名。

[114]未詳

[115]山西蒲州府の県名。

[116]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5ZdicADZdic98130276.htm決定を下さないこと

[117]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic9AZdic8B73829.htm虞舜のの司法官

[118]巻一、十三、十四に見える。

[119]原文「所雨皆漚麻水也」。「漚麻」は麻を水に浸して、腐敗させ、繊維を取ること。http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE6ZdicB2ZdicA4288990.htm

[120]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE8ZdicA5ZdicBF329044.htm家庭教師、幕僚をいう

[121]原文「子不語怪」。『論語·述而』「子不怪、力、乱、神。」。

[122]http://www.zdic.net/zd/jd/zi/ZdicE7ZdicB5ZdicBA.htm葛布

[123]周濂渓、張横渠、程明道、程伊川、朱熹

[124]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9ZdicA6Zdic86281131.htm教師の謝金

[125]http://www.capaw.com/QINGSH/ShowArticle.asp?ArticleID=10632盧遂

[126]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicBCZdic96205082.htm官名

[127]http://baike.baidu.com/view/90177.htm

[128]原文「人怪其數朝之、忽跖忽夷」。跖」は盗跖であろう。盗賊の名。「夷」は伯夷か。伯夷は孤竹国王の長男であったが、三男の叔斉とともに、次男に王位を譲って隠居した。

[129]江蘇江寧府の県名。

[130]http://njdfz.nje.cn/eWebEditor/uploadfile/undefined/20091012/20091012164849508.pdf字敬旃、江西泰和人、乾隆元(千七百三十六)年.高淳知

[131]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE9ZdicA2Zdic9D62964.htm

[132]『清史稿』巻一百十四・部三庫倉場關各差「尚書掌軍國支計、以足邦用.侍郎貳之.右侍郎兼掌寶泉局鼓鑄.十四司、各掌其分省民賦、及八旗諸司祿、軍士饟糈、各倉、鹽課、鈔關、雜.…四川司兼稽本省關、両金川等處、新疆屯務、成都駐防俸餉、並京城草廠出納、各部院紙硃支費、入官口、贓銀両、凡各省郡縣豐歉水旱、具其數以上.」

[133]未詳だが、印章を管理する役人であろう。

[134]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic8FZdicB8301010.htm官名

[135]江西吉安府の県名。

[136]官名。龍虎山正一真人。正三品。『清史稿』巻一百十五・僧道司参照。龍虎山は江西省広信府の山名。張道陵の子孫が代々居住していた。

http://gan.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A9%E5%B8%AB%E4%B8%96%E7%B3%BB&variant=ganhttp://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:2MPgrylEM8cJ:www.hebdj.com/bbs/ShowPost.asp%3FThreadID%3D22+%E5%BC%B5%E9%81%87%E9%9A%86&cd=15&hl=zh-CN&ct=clnk

正一真人は巻九、十三にも見える。

[137]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%B0%B8%E5%85%89%E5%AF%BA%E8%A5%BF%E8%A1%97&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=

[138]未詳

[139]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic88Zdic9A27590.htm

[140]http://www.guoxue.com/shibu/24shi/qingshigao/qsgx_485.htm戴亨

[141]仏、法、僧http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8916220.htm

[142]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9Zdic98Zdic87278814.htm

[143]原文「突聞獅子吼」。「獅子吼」は仏菩薩が説法する時に一切の外道邪を震懾させる神威。http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7Zdic8BZdicAE346691.htm

[144]http://baike.baidu.com/view/7812.htm

[145]http://www.zdic.net/cd/jd/18/ZdicE7ZdicB0ZdicA0199832.htm賄賂

[146]http://www.zdic.net/cy/jd/ZdicE7ZdicB0ZdicA032388.htm役人振りが清廉でないことのたとえ

[147]未詳

[148]都察院左都御史http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE6Zdic80ZdicBB38321.htm

[149]未詳だが、字義や文脈から判断して、精進の一種で、数日間の精進で、一ヶ月精進したのと同じ効化があるとされているものであろう。

[150]http://www.zdic.net/cy/jd/ZdicE8ZdicA7Zdic8112479.htm

[151]未詳。恒王という人物、正史に見えない。

[152]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE9Zdic95ZdicBF259712.htm王府、郡王府の属官

[153]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic8D112246.htm原文「名從主人」。事物は主人の称している名を名とすること。

[154]http://baike.baidu.com/view/282185.htm

[155]原文「烏魯木齊之支屬也」。「支屬」が未詳。とりあえずこう訳す。

[156]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE6Zdic88Zdic8D327253.htm辺境防備の兵

[157]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicAEZdic98123201.htm役所の奴隷

[158]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE9Zdic85Zdic92239200.htm酒と干し肉

[159]原文「實司其事。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[160]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE5ZdicBDZdicA9124090.htm彩色のある服

[161]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic98Zdic8E297908.htm珠玉の首飾り

[162]http://baike.baidu.com/view/290880.htm

[163]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E9%97%A2%E5%B1%95&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[164]未詳。臺站の官員か。http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE5Zdic8FZdicB0188286.htm『清史稿』巻一百三十八旗駐防之兵「初臺站之改、屬闢展者凡六.臺置外委千、把總一人.葉爾羌西路南北路卡倫六、各置坐卡侍%一人、東西南三路凡二十一臺、各置筆帖式一人.」

[165]法律用語。法に条文がないが、処罰される罪。「不応重」杖八十の刑。李鵬年等編著『清代六部成語詞典』三百三十頁参照。

[166]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE7ZdicBAZdicB3236952.htm銀を納めて贖罪させること

[167]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5Zdic85Zdic9463804.htm原文「兔起」。動作が敏捷なたとえ。

[168]未詳

[169]原文「以其初溱洧」。溱洧」は詩経の篇名。男女の春游の楽しみを歌う。淫乱なこと。

[170]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6Zdic97Zdic8C172790.htm貞烈を表彰する額

[171]原文「飈輪」。未詳。とりあえずこう訳す。

[172]http://www.zdic.net/cd/jd/21/ZdicE7ZdicBDZdic8D197763.htm

[173]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE6Zdic9FZdic88.htm

[174]未詳だが、医学用語で、熱が体内にたまることであろう。

http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E8%98%8A%E7%86%B1%E5%85%A7%E7%87%94&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=

[175]韓退之は硫黄を服したが、病が癒えずに亡くなったという。白居易『思舊』「退之服硫磺、一病訖不痊」。

[176]http://baike.baidu.com/view/124547.htm

[177]http://baike.baidu.com/view/1039792.htm

[178]原文「除名為民、遂遼東效力」。未詳。とりあえずこう訳す。

[179]福。乾隆三十年より三十三年まで烏魯木齊辦事大臣。武英殿大學士。『清史稿』巻三百二十六に伝がある。『閲微草堂筆記』では、十三、十五、十六、十七、二十に出てくる。

[180]新疆烏什直隸廳

[181]http://baike.baidu.com/view/59753.htm

[182]四川懋功屯務廳の土司名。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%8F%B8

[183]四川懋功屯務廳の山名。清史稿』巻三百二十六福伝「三十八年春、福師至功爾拉、賊阻險、不得進、別取道攻昔嶺、駐軍木果木、令提督董天弼分軍屯底木達.木果木、底木達皆故小金川地、索諾木陰使小金川頭人煽諸降番使復叛.諸降番以師久頓不進、遂起應之.先攻底木達、天弼死之、次劫糧臺、潛襲木果木.福不嚴備山後要隘、賊突薄大營、奪局、斷汲道.時大營兵尚萬餘、運糧役數千、爭避入大營、福堅閉壘門不納、轟而潰、聲如壞堤、於是軍心益震.賊四面蹂入、福中槍死、各卡兵望風潰散.」

[184]http://baike.baidu.com/view/348034.htm

[185]『西京雑記』巻六に見える。

[186]『太平広』巻四百四十七引『朝野僉載』

[187]原文「無狐魅、不成村。」。趣旨未詳。とりあえずこう訳す。

[188]劉果実。康熙十八年進士。http://book.guqu.net/qingshihui/12002.html光緒九年『畿輔通志』巻二百三十六に伝がある。

[189]http://bbs.city.tianya.cn/tianyacity/Content/457/1/1582.shtml淄博方言で狐のことを貔狐というらしい。

[190]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE7Zdic94ZdicB773266.htm性欲、性行為

[191]http://www.zdic.net/cd/jd/17/ZdicE9Zdic9CZdic9E265667.htm飛翔

[192]原文「小賞罰統於長」。未詳。とりあえずこう訳す。

[193]『列仙伝』呼子先「呼子先者、下卜也、老寿百余去、呼酒家老曰、急装、当与中陵王。夜有仙人、持二茅狗来至、呼子先。子先持一与酒家、得而之、乃也。上華陰山、常于山上大呼、言子先、酒家母在此云。

[194]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE6Zdic94ZdicAF289875.htm支機石。織女が織機を支えるための石。これを織女が張騫に贈ったという話が宋周密『癸辛雑識前集』引南朝梁宗懍『歳時記』に見える。

[195]『春秋左傳』僖公十四年「夏六月、季子遇于防。使子來朝」注「季魯女夫人也。子本無朝志、為季所召而來、故言使子來朝。國今琅邪縣。」

[196]原文「若夫贈芍採蘭」。『·鄭風·溱洧』、士与女、方秉蕑兮……士与女、伊其相謔、之以勺に基づく言葉で、男女が互いに物してを示すこと。淫佚の行い。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic87Zdic8731101.htm

[197]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE6Zdic82ZdicA0316706.htmうかつなさま

[198]原文「師退腹笥三藏」。「腹笥三藏」は腹に三つの蔵の書籍に相当するような知識を納めていること。http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic85ZdicB983252.htm

[199]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE6Zdic9CZdicAC18886.htm仏教。人が本来持っている心性。

[200]原文「為有把握」。未詳。とりあえずこう訳す。

[201]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE5Zdic96Zdic84114654.htm高僧

[202]原文「不敢見異而遷也。」。「見異而遷」は「見異思遷」とも。情況が変化するとすぐに考えを変えること。http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE8ZdicA7Zdic819958.htm

[203]原文「三代以下、恐不好名、此為下等人言。」。『宋史』巻四百二十三・陳塤伝「好名、孟子所不取也.夫求士於三代之上、惟恐其好名、求士於三代之下、惟恐其不好名耳。」。「好名」は名誉を追い求めること。

[204]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE6ZdicB4Zdic9B1315.htm洛学と学の合称、程朱理学。北宋の程、程頤は洛陽の人、南宋の朱熹は福建で居、学したので、この称がある。

[205]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE5ZdicB4Zdic96114894.htm志節気概

[206]http://baike.baidu.com/view/776939.htm

[207]未詳

[208]前注参照

[209]http://baike.baidu.com/view/85601.htm

[210]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicB8ZdicBD73387.htm高楼。ここでは城門の上の楼であろう。

[211]『明史』巻二百四十三・鄒元標伝「元標自還朝以來、不為危言激論、與物無猜.然小人以其東林也、猶忌之.給事中朱童蒙、郭允厚、郭興治慮明年京察不利己、潛謀驅逐.會元標與馮從吾建首善書院、集同志講學、童蒙首請禁之.元標疏辨求去、帝已慰留、允厚復疏劾、語尤妄誕.而魏忠賢方竊柄、傳旨謂宋室之亡由於講學、將加嚴譴.」

[212]http://baike.baidu.com/view/83745.htm

[213]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8991979.htm

[214]http://baike.baidu.com/view/1236057.htm

[215]http://baike.baidu.com/view/736890.htm

[216]前注参照

[217]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic9EZdicAD117846.htm小人君子

[218]http://www.zdic.net/cd/jd/17/ZdicE7ZdicBFZdicB3205776.htm隠れるさま

[219]http://npmhost.npm.gov.tw/ttscgi2/ttsquery?0:0:npmauac:TM%3D%A4%FD%C0%CB

[220]千七百五十、五十一年。乾隆十五、六年。

[221]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9A219993.htm天と地で衆生の善悪業を映す

[222]原文同じ。未詳。お茶酌みか。

[223]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE5Zdic88ZdicA428299.htm下役

[224]未詳

[225]陝西延安府の県名。

[226]http://www.zdic.net/cd/jd/12/ZdicE7ZdicABZdicA5101166.htm幼いときから養女として家庭に入れている嫁。

[227]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%B5%B7%E4%BF%9D%E3%80%80%E8%98%87%E5%B7%9E%E3%80%80%E7%B9%94%E9%80%A0&lr=&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=

[228]原文「織造海保方籍沒」。「籍沒」は財産を登記し、没収すること。

http://www.zdic.net/cd/ci/20/ZdicE7ZdicB1Zdic8D311527.htm

[229]原文「其傷之重輕」。ここでは戴符、七十五が死者に負わせた傷の軽重のことであろう。

[230]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8914912.htm、手、足につける刑具

[231]直隸順天府の県名。

[232]巻三、十四に出てくる。

[233]

[234]http://baike.baidu.com/view/133301.htm

[235]未詳

[236]千七百三十四年、雍正十二年。

[237]http://baike.baidu.com/view/2013207.htm

[238]未詳

[239]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8914959.htm結婚後三日

[240]『黄帝内·素·六微旨大』。

[241]『孔子家』巻二

[242]未詳。役所の中の、印章を管理する部署か。

[243]前注参照

[244]原文「欲伺其匆擾取事」。「匆擾」が未詳。とりあえずこう訳す。

[245]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6ZdicB5ZdicB713509.htm巻八参照

[246]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicB1ZdicAF6989.htm屯田兵

[247]原文「石刻鋒稜猶完整」。「鋒稜」が未詳。とりあえずこう訳す。

[248]乾隆五年、千七百七十

[249]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%93%E7%B5%8C象数易のこと

[250]http://www.zdic.net/cd/jd/3/ZdicE5ZdicB0Zdic8F88836.htm『毛』で各篇首に冠せられた、主題をした短い序言。

[251]http://baike.baidu.com/view/7715.htm

[252]原文「漢以前人皆不知、吾以理知之也。」。出典未詳。

[253]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9ZdicA6Zdic86256593.htm翰林院

[254]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9ZdicBDZdic90344783.htmでたらめ

http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9ZdicBDZdic90344782.htm

[255]http://baike.baidu.com/view/232851.htm

[256]巻四参照

[257]未詳。舳先か。

[258]http://baike.baidu.com/view/215003.htm

[259]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE9ZdicA1ZdicBE74907.htmの画家顧トと南朝宋の画家探微。

[260]原文「橐筆對寫一圖」。「橐筆」は(ふくろ)を持ち、髪に筆を挿すこと。

http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE6ZdicA9Zdic90334584.htm

[261]前注参照

[262]たとえば『元史』巻十三・至元二十一年に「甲辰、海南貢白虎、獅子、孔雀.」。

[263]乾隆二十五年、千七百六十年

[264]戈濤。献県の人。http://baike.baidu.com/view/201101.htm

[265]未詳

[266]http://baike.baidu.com/view/16916.htm

[267]http://www.zdic.net/cd/jd/19/ZdicE7Zdic80Zdic9B334490.htm東海中の仙山

[268]http://baike.baidu.com/view/678753.htm山名

[269]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9ZdicB8ZdicBF344301.htm高く飛ぶこと、隠者が姿を隠すこと

[270]http://zh.wikisource.org/zh-hans/%E6%AD%A4%E6%97%A5%E8%B6%B3%E5%8F%AF%E6%83%9C%E8%B4%88%E5%BC%B5%E7%B1%8D

[271]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA9ZdicBF188161.htm鼻から息を出して出す音。鼻音。

[272]『太平広記』二百三十『王度』にこうした話が見える。いわゆる唐代伝奇の『古鏡記』。http://www.tianyabook.com/gudian/taipingguangji/233.htm

[273]http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%B2%B3%E9%97%B4%E7%8E%8B

[274]『初学』引機『与弟』「仁寿殿前有大方銅鏡、高五尺余、広三尺二寸。」。

[275]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic98Zdic8E35087.htm

[276]書画http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7ZdicACZdic9421364.htm

[277]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE7ZdicBEZdicB2231303.htm王羲之、王献之

[278]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE5ZdicB1ZdicA0134418.htm屠殺人、酒売り。賎しいもの。

[279]原文「西子東家、實為一姓」。「西子」は美女西施、「西子東家」は東施のこと。東施は醜女であったという。http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9C59266.htmなお、西施、東施ともに姓は施。

[280]盗跖は盗賊の名。http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7Zdic9BZdic97183250.htm柳下は柳下恵。聖人とされる。http://baike.baidu.com/view/46796.htm二人が兄弟だったという説は『荘子』盗跖篇に「孔子與柳下季為友、柳下季之弟名曰盜跖。」と見える。

[281]天球与河、皆古代天子之宝器。

http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE7Zdic90Zdic83126210.htm

[282]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic8FZdicA0333240.htm珍珠と璧玉。

[283]紀ホの記憶違いで、実際は、韓愈『酬司門盧四兄雲夫院望秋作』「雲夫吾兄有狂気、嗜好与俗殊酸咸。」。

http://74.125.153.132/search?q=cache:_QGqxATONLAJ:zh.wikisource.org/zh-hans/%E9%85%AC%E5%8F%B8%E9%96%80%E7%9B%A7%E5%9B%9B%E5%85%84%E9%9B%B2%E5%A4%AB%E9%99%A2%E9%95%B7%E6%9C%9B%E7%A7%8B%E4%BD%9C+%E5%97%9C%E5%A5%BD%E8%88%87%E4%BF%97%E6%AE%8A%E9%85%B8%E5%92%B8&cd=6&hl=zh-CN&ct=clnk

[284]直隸河間府の県名。

[285]未詳。巻二、十三に出てくる。

[286]http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE6ZdicA9Zdic90347437.htm擬音語。硬いものが連続してぶつかる音

[287]http://zh.wikisource.org/zh/%E4%BD%9C%E8%80%85:%E4%BD%95%E7%90%87

[288]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA107339.htm死者が地下で煉形すること

[289]http://baike.baidu.com/view/143641.htm

[290]http://www.zdic.net/cd/jd/15/ZdicE6Zdic88ZdicAE297496.htm屍を晒す刑

[291]http://baike.baidu.com/view/95319.htm

[292]巻七に「旱魃則皆僵尸。」とある。旱魃は旱を引き起こす怪物

http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE6Zdic97ZdicB1317079.htm

[293]http://baike.baidu.com/view/494767.htm人事不省になる病気

[294]http://baike.baidu.com/view/1208308.htm

[295]『新斉諧』巻一「南昌士人参照。

[296]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE8ZdicA1Zdic8C302354.htm漢典は「指徒具形骸、生猶死的人。」と説き、魂の抜け殻のような人とするが、『新斉諧』巻一『南昌士人』を見る限り、「歩くしかばね」の意味であろう。

[297]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicBFZdic83329346.htm

[298]http://www.zdic.net/cd/jd/7/ZdicE8ZdicB5ZdicB0207831.htm

[299]http://baike.baidu.com/view/213076.htm

[300]『詩経』大車。

[301]原文「『礼』曰、殷人之也、離之、周人之也、合之。善夫。」。『礼記』檀弓「孔子曰%、衛人之祔也離之、魯人之祔也合之。善夫。」。

[302]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE6Zdic94ZdicBE315177.htm施餓鬼

[303]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7Zdic9AZdic8B83856.htm虎の皮。講学の師の座席。

[304]原文「素所倚任者皆退聽。」。「退聽」が未詳。とりあえずこう訳す。

[305]原文「證佐亦莫不倒戈」。「倒戈」はここでは、訴えを取り下げることであろう。http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE5Zdic80Zdic92310315.htm

[306]http://www.zdic.net/cd/jd/11/ZdicE9Zdic93ZdicA4275063.htm窮して危険な行動に出ること

[307]http://zh.wikisource.org/zh-hans/%E8%B6%8A%E7%B5%95%E6%9B%B8/%E5%8D%B7%E4%B8%83『越絶書』巻七

[308]http://www.zdic.net/cd/jd/5/ZdicE7Zdic99ZdicBD1117.htm『白頭吟』は司馬相如が浮気したとき、妻の卓文君が作ったとされる詩。司馬相如はこれによって浮気を思いとどまった。

[309]原文「已緩結矣」。「緩結」が未詳。とりあえずこう訳す。

[310]http://baike.baidu.com/view/776939.htm

[311]http://www.hudong.com/wiki/%E7%9F%B3%E8%99%8E%E8%83%A1%E5%90%8C

[312]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicAEZdic97216793.htm宗学は皇室の子弟の学校

[313]額駙は駙馬。皇女の夫。http://www.zdic.net/cd/jd/15/ZdicE9ZdicA2Zdic9D57383.htm

[314]http://baike.baidu.com/view/941899.htm

[315]原文「北壁一門、又横通小屋両楹」。未詳。とりあえずこう訳す。

[316]http://www.zdic.net/cd/ci/18/ZdicE7Zdic99Zdic9C181735.htm皮膚病。白斑

[317]原文同じ。未詳。纓帽の雨天用のものか。

http://www.zdic.net/cd/jd/14/ZdicE7ZdicBCZdicA836145.htm

[318]巻八にも出てくる。http://baike.baidu.com/view/566831.htm

[319]直隸順天府順義県の地名。

[320]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE9Zdic93Zdic83267153.htm

[321]http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE7Zdic93ZdicA6327948.htm陶製の瓶

[322]http://www.zdic.net/cd/jd/13/ZdicE7ZdicA2Zdic91224599.htm石碑の台座。

[323]http://www.zdic.net/cd/jd/16/ZdicE5Zdic99ZdicAD88372.htm泣く声、悲しみ叫ぶ声

[324]原文「此語非巫者所肯言、似有所受之耳。」。「似有所受之」が未詳。とりあえずこう訳す。

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