第五巻

灤陽消夏録五

 

  鄭五は、どこの人か分からず、母と妻を連れて河間に流寓し、大工をして自活していた。病んで死にそうになると、その妻に頼んだ。「おれにはもともと錐を立てるほどの土地もなく、おまえも針仕事に拙いから、老いた母はかならず飢え凍えて死ぬだろう。今、おまえと約束しよう。おれのために母を養えるものがいるなら、すぐに嫁げ。おれは死んでも恨まないから。」。妻は約束通りにし、母はそのおかげで生きられた。しかし、世話をやや怠ると、部屋の中で音がし、磁器を砕き、竹を折るかのようであった。ある年、綿衣ができあがらず、母が寒さに泣き叫ぶと、突然鐘鼓のような大きな音がし、塀や壁を揺り動かした。このようにすること七八年、母が死んだ後は静かになった。

  
  佃戸の曹自立は、いささか字を知っていたが、多くはなかった。たまたま寒疾を患い、昏睡していると、一人の下役に引いてゆかれた。途中、もう一人の下役に会ったが、かれは誤逮捕だと判断し、たがいにしばらく罵り、送り返させた。ある場所を通ったところ、石で垣が造られており、周囲は一里ばかり、その中では濃い煙が湧き出、紫の炎が赫然としていた。門額は六字、大きさは(とます)ほど、すべて分からなかったが、その点画を記憶して帰った。記憶していた偏やつくりに拠って推測すると、「負心背徳の獄」のようであった。

  
  世間で夭死する子を債鬼と称することは、古くからある。盧南石[1]は言った。朱元亭[2]の一子は瘵を病んで危篤の際、呻吟してひとりごちた。「まだわたしに十九金を借りている。」。医者はすぐに人参を投ずることにし、煎じたが飲まないうちに亡くなった。その代金はちょうど十九金であった。これは最近の事であった。ある人が言った。四海の中で、一日の内に、夭死する子はどれほどいるか知らないが、前生で債務のある者が、このように多いはずはないと。そもそも死生がめぐり、因果がめぐるのは、恒河の沙のようなもので、累計ははかりしれず、大空の雲のよう、変態は不可思議で、一律に捕らえるのは本当に難しい。しかしその大勢を考えると、怨恨と罪過が絡みあい、財貨によって生じたものが多数を占めている。老子[3]は言った。「天下は攘攘[4]として、みな利のために往き、天下は熙熙[5]として、みな利のために来る。」。人の一生は、みなここに心を労するのである。しかし天地の財貨は、数が決まっている。こちらが得ればあちらは失い、こちらが満ちればあちらが欠ける。虚偽はかくして生じ、恩讐はかくして起こる。業縁の報復は、三生に及ぶ。利を求める者は多いから、償いを求める者の少なくないのは明らかだ。史遷[6]は言った。「人の怨恨は、ひどいものだ。[7]」。君子はむしろそのようなことがあることを信じたほうが、人を深く反省させることができよう。

  
  田舎の女が寡婦となり、狂且[8]が隣家の老婆に賄して挑発させた。夜にその家に入り、扉を閉ざして寝ようとすると、突然燈の光が暗い緑になり、豆のように縮み、にわかに爆然と音がし、紅い炎が四方に射し、円くて二尺ばかり、鏡のように大きくなった。中に男の顔が現れたが、それはもとの夫であった。男女が並んで榻の下に倒れると、家人が驚いて見たため、事は露顕してしまった。ある人が、寡婦には操を失う者が多いのに、どうしてこの幽鬼だけは霊力があるのかと訝った。思うに幽鬼には強弱があり、人には盛衰があるが、これはもともと強い幽鬼で、二人が衰えていたために、祟ることができたのだろう。黄泉(よみじ)で怨みを呑み、怨みが数代に纏っている者は、ほかにどのくらいいるか分からない。魂は体とともに滅ぶとは限らないのである。ある人は妖物が憑き、この変異をなしたのかと疑っているが、そうかもしれない。しかし(あやかし)はみずから生じることはなく、人によって生じるのである[9]。幽魂の怨恨の気が、かれらを召し、邪魅はそれを利用するのである。そうでなければ、どうして陶嬰[10]の部屋に、黎丘[11]の幽鬼がいるのを聞いたことがないのか。

  
  羅仰山[12]通政[13]は、礼曹[14]にいた時、同僚に排斥せられ、ともすれば掣肘せられ、一歩一歩が荊棘の中を歩くかのよう、性質はもともと愚鈍であったので、だんだん怒って病になった。ある日、鬱鬱と枯坐していたところ、ふと夢みて山に行ったが、花は開き、水は流れ、風日は爽やか、心は晴れやか、鬱憤がにわかに消えるのを覚えた。(たにがわ)に沿って散歩し、茅舎に着いたが、老翁に招き入れられてしばらく坐し、談論してすこぶるうちとけた。老翁がどうして浮かぬ顔をしているのかと尋ねると、羅はくわしく苦しみを述べた。老翁は太息した。「これには宿縁があるが、君は分かっていない。君は七百年前は宋の黄筌[15]で、某は南唐の徐熙[16]だった。徐の画品は、もともと黄の上にあった。黄は天子の寵を奪われるのを恐れ、巧みな言葉で排斥し、沈淪困窮させ、恨みを抱いて死なせた。その後、輾転と輪迴したが、会えなかった。今世、業縁がうまく合い、その宿怨を晴らすことができたのだ。かれが君に加えていることは、君のかつてかれに加えたことだから、君はさらに何を恨むことがあろう。往けばかならず返るのは、天の道で、施せばかならず報いるのは、人の情である。原因を作ってしまえば、かならず結果があるものだ。その気が感じあうのは、磁石が鍼を引くかのようで、近づかなければそれまでだが、近づけば吸って解さず、その怨みの結ぶさまは、石が火を含んでいるかのよう、打たなければそれまでだが、打てば激してたちまち火が生じる。それがけっして消えないのは、疾病が潜伏しているかのようなもので、かならずにわかに発する日がある。それがかならず出あうのは、日月が転じていても、かならず会う動きがあるようなものだ。だから、人を害するさまざまな術は、みずからを害するだけなのである。わたしは過去生の中で、君と旧い誼があったが、君が悟らないため、憂患の由来を述べたのだ。君はかれとすでに結着をつけ、これからは、けっして原因を造らなければよい。」。羅ははっと悟り、争う心はにわかに尽きた。数日の内に、宿痾はすべて除かれた。これはわたしが十歳ばかりの時、霍易書先生[17]が言っていたことである。ある人は言った。「これは衛公延璞[18]の事で、先生はたまたま誤って記憶していたのだ。」。その詳細は知らないが、併せて附記する。

  
  田白岩が言った。康煕年間、江南に徴漕の事件があり[19]、官吏で処罰された者が数人いた。数年後、一人の男がその友人の家で乩に降り、みずから言うには、さきほど冥土で某公を訴えたということであった。友人は驚いて言った。「某公は循吏で、両江を総督していたのは、事件の十余年前なのに、どうしてゆえなく訴えた。」。乩はさらに書いた。「この事件は一日で起こったことではない。はじめて萌した時、一人の官を免職にし、一二人の(したやく)を放逐すれば、萌さないうちに患えを消すことができたであろう。某公は忠厚の名を博し、癰を治さないでいると、しばらくして潰れ裂けるが、わたしたちはその難に遭ったのだ。わたしたちは民や国を害したから、現在の、法を執行する者を仇とすることはできない。禍のもとを尋ねると、某公を訴えないで誰を訴える。」。書きおわると、は動かなくなった。結局九幽[20]の下で、判決がどうなったかは分からなかった。『金人銘[21]』にいう。「涓涓(ふさ)がらず、終に江河と為る[22]。毫末も()かずんば、将に斧柯[23](もと)めんとす[24]。」。古の聖人は見識が深かった。この幽鬼の言うことは、けっして無理なものではない。

  
  郷里に姜某という者がいた。臨終の時、その妻に嫁がないように頼んだところ、妻は泣きながら承諾した。後に妻の容色を慕う者がおり、大金で購って妾にした。まさに盛装して車に乗ろうとしたところ、飼っていた犬が突然人のように立って怒号し、両の爪で婦の抱えて顔を齧り、その鼻を裂き、その片目を盲にした。妻の顔は傷つき、買った者は棄てて去り、その後はもう慕う者はいなかった。これは康熙甲午乙未の間の事で、古老にはかれを見た者がまだいる。みな言った。「この犬は義である。恩ゆえに主人を愛したからだ。この犬智である。悪の根源を攻めることができたからだ。」。思うに、犬の見識は断じてそこまで及ばない。これは亡夫の悪霊が憑いたのであろう。

  
  愛堂先生が、かつて酒を飲んで夜に帰ろうとしたところ、馬が突然驚いて奔った。草と樹は茂り、溝と(あぜ)が凸凹していて、躓きそうになること三四たびであった。するとにわかに人が路傍から出てき、片手で轡を引き、片手で扶けおろし、言った。「老母が昔、救われましたので、今、骨折の禍からお救いしました。」。その姓名を尋ねようとすると、すでに所在を失っていた。先生はみずから生平そうしたことはないと思い、幽鬼がなぜそう言ったのか分からなかった。これは仏経にいう無心の布施、功徳のもっとも大きいものであろうか。

  
  張は、杜林鎮[25]の人で、行商を生業としていた。ある日、土地の豪族と路を争い、豪族はしもべに指図して石橋の下に突き落とさせた。時に河は結氷しており、稜角は鋒か刃のようであったので、頭骨は破れ裂け、奄奄と一息を存するばかりであった。里胥はもともと豪族を怨んでいたので、すぐにお上に知らせ、お上はその財産を利とし、獄はすこぶる厳しかった。福はひそかに母を遣わして豪族に言った。「あなたがわたしの命を償っても、わたしに何の益がありましょう。わたしのために、老いた母、幼い子を養ってくださいますなら、わたしは死なないうちに、役所に行き、足を滑らして橋の下に落ちたと言いましょう。」。豪族は承諾した。福はやや字義を知り、なお痛みに堪えてみずから訴状を書け、供述[26]ははっきりしていたので、官吏はどうしようもなかった。福が死んだ後、豪族は約束に負いた。その母はしばしば官に訴えたが、結局供述は拠りどころがあったので、正すことができなかった。豪族は後に酔いに乗じて夜に行き、やはり馬が躓き、橋から落ちて死んだ。みな言った。「福に負いた報いだ。」。亡き姚安公は言った。「甚だしいことだ。審理が難しいのは。人命事件はもっとも難しい。身代わりになり、甘んじて人の代わりに死ぬ者があり、金を貰って和解し、甘んじてその身内を売る者がある。これだけでもにわかに質すのは容易でない。殺された人が、手ずから供述書を書き、その人が殺したのではないと言うに至っては、皋陶[27]が裁判しても、判決することはできない[28]。約束に負いて償わず、幽鬼に殺されなかったなら、財で免れることになっていたであろう。訴訟は千変万化で、あらゆることがある。法律を司る者は理に拠って即断することができようか。」。

  
  姚安公が言った。孫天球という者がおり、財産を命とし、無一文から貯蓄して千両に達し、妻子が餓え凍えても、見知らぬ人であるかのように見、みずからも餓え凍えるのに堪え、一銭も軽々しく使わなかった。病が革まった時、枕頭に貯えを並べ、一つ一つ手ずから撫でて指し、言った。「おまえはわたしのものでなくなってしまうのだなあ。」。嗚咽して歿した。孫は歿する前、狐に弄ばれた。つねにその財貨を取って去り、慌てて死にそうになると、他の所でまた見つかるのだが、このようなことは一度ではなかった。さらに劉某という者がおり、やはり財産を命としていたが、やはり狐に弄ばれた。ある年の除夜、劉の親戚友人の貧しい者は、みな数両を贈られた。劉の普段していることと違うのを訝っていると、劉が牀の前の篋から狐によって二百余両を盗み去られ、礼状数十枚を得たことを聞かされた。そもそも孫の財産は、辛苦して得たものであったが、狐はその吝嗇を咎め、わざわざ戯れたのであった。劉の財産は、多くは偽りによって奪ってきたものであったが、狐はそれを散じたのであった。狐がしたことはむしろ適切なことであった。

  
  わたしが閩中で督学していた時、幕友の鍾忻湖[29]が言った。その友人は昔某公の幕下におり、共同の実地調査をするため[30]、古寺に泊まっていた。朦朧たる月影の中、某公の窓の下に人影が見え、しばらく徘徊し、だんだんと鐘楼に上っていった。心のなかで鬼魅であることを悟ったが、もともと胆力があったので、抜き足して訪ねていった。行けば楼の入り口は閉ざされており、楼の上では二人の男が語っているかのようであった。一人が言った。「どうして何もせずに帰ってきたのだ。」。もう一人は言った。「この地に役人が来ることは稀だ。今さいわい二人の役人がいっしょに泊まっているから、人が静まるのを待ってわたしの冤罪を訴えようとした。さきほどこっそり言うことを聴いたが、揣摩迎合の術でなければ、消弭弥縫の術[31]であり、わたしの事件を処理することはできない。そのためがっかりして帰ってきたのだ。」。そう言うと、太息しているような声がしたが、さらに聴くと、寂然としていた。翌日、ひそかに主人に告げると、顔色を変え、手を振り、余計なことをするなと戒めた。結局それがどんな冤罪なのかは分からなかった。わたしが思うに、このものの友人は、主人に怨みがあり、この話を造り、かれが逃げるのに巧みで、幽鬼に揶揄されたことを述べただけである。この一件に関していえば、主人は幽鬼を見たわけではなく、言葉を耳で聞いたわけではなく、曖昧で、確かな証拠はないのだから、閻羅や包老[32]だったとしても対処できない。それなのに某公を責めるのか。

  
  平原[33]の董秋原[34]が言った。海豊[35]に僧寺があったが、もともと狐が多く、しばしば瓦や石を擲っては、人々を愚弄していた。ある学究が東の廂房の三間を借りて生徒を教えていたが、そのことがあるのを聞くと、みずから仏殿に来、怒鳴って責めた。すると、数晩寂然としていたので、学究は徳色を浮かべていた。ある日、主人が訪ねてきて談じたが、拱揖したところ、突然、袖の中から一つの巻物が地に落ちたので、取って見たところ、秘戯図であった。主人は黙然とし、翌日、生徒は来なかった。狐が人を犯さず、人が狐を犯すと、かえって狐に陥れられるのである。君子は小人に対して、つつしんで備えるだけである。ゆえなくしてその鋒先に触れれば、敗れないことは少ないのである。

  
  関帝祠には、かならず周将軍が造られているが、その名は史伝に見えない。元の魯貞の『漢寿亭侯廟碑』を調べると、すでに「赤兔に乗り周倉を従ふ。」の言葉があるので、その来歴はすでに久しく、その霊験ももっとも著しい[36]。田舎の嫗に劉破車という者があり、語るには、その夫がかつて酔って関帝の香案の前で眠り、周将軍を夢みたところ、蹴られて起こされた、左股には青痣があり、半月を過ぎると消えたという。

  
  幽鬼は輪廻しないというのなら、古から今まで、幽鬼は日々増しているのだから、大地に収容しきれないだろう。幽鬼は輪迴するというのなら、こちらで死ねばあちらで生まれ、すぐに姿を変えて去るのだから、世間には一人の幽鬼もいなくなるはずである。商人や農婦は、しばしば転生し、みな輪迴しているかのようである。荒れた野や塚では、しばしば幽鬼を見るが、輪廻しない者もいるようである。表兄の安天石は、かつて病に臥していたところ、魂が冥府に行ったが、このことを文書を扱っている吏に尋ねた。吏は言った。「輪迴するものもいれば、輪廻しないものもいる。輪迴する者には三つある。福があれば報いを受け、罪があれば報いを受け、恩があり怨みがあれば報いを受ける。輪廻しない者も三つある。聖賢仙仏は輪廻に入らない。無間地獄では輪廻できない。罪もなく福もない人は、墓地を浮遊するに任せ、余気が尽きなければ残り、余気が消えれば滅び、露の珠、水の泡のように生じたり、消えたりし、閑花野草のようにおのずから咲き、おのずから落ちる。このようなものは輪廻できない。寄る辺ない魂魄が人に憑いて妊娠させることがあるが、偸生という。徳の高い僧侶道士が転世し姿を借りるのは、奪舎というが、これらは偶然の変現で、普通の輪廻の中にはない。神霊が下降して清明の世を輔佐し、魔物が群生して縦横に殺戮するにいたっては、気数[37]が成したものであり、輪迴としては論じない。」。天石はもともと輪廻を信じない者であったが、病が癒えた後、そのことを挙げて人に告げた。「かれらの言うことの通りなら、確かに尤もである。」。

  
  星占い師の虞春潭は、人のために占い、多くはよく中たった。たまたま襄漢[38]に漫遊し、一人の士人と舟をともにし、談じてすこぶるうちとけたが、しばらくするとかれが眠ったり食らったりしないことを怪しみ、仙鬼かと疑った。夜中にひそかに質すと、士人は言った。「わたしは仙人でもなく、幽鬼でもなく、文昌司禄の神なのだ。仕事があって南岳にゆくのだが、君と縁があったので、数日相手しただけだ。」。虞はそこで尋ねた。「わたしは命理を、すこぶる知っているとみずから思っていたが、かつて某を占い、大いに貴くなると言ったところ、験がなかった。君は禄籍を司っているから、その理由を知っているはずだ。」。士人は言った。「命はもともと貴くなるはずだったが、熱中[39]により、十の七を削減したのだ。」「仕官して熱中するのは、普通のことだ。なぜ冥罰はこのように重いのだ。」。士人は言った。「仕官して熱中すれば、強悍な者はかならず権力をほしいままにし、権力をほしいままにすればかならず凶悪剛愎となる。孱弱な者はかならず地位に固執し、地位に固執すればかならず陰険で苛酷となる。それに、権力をほしいままにして地位に固執する者は、かならず競争し、競争して軋轢が生じれば、かならず排斥する。排斥するに至れば、人の賢愚を問題にせず、党の異同を問題にし、事の可否を考えず、己の勝負を考える。流弊は言うに堪えない。その悪さは貪酷の上にある。寿命さえも削られる。どうして禄だけに止まろうか。」。虞はひそかにその言葉を記憶していたが、二年あまり後、某は本当に亡くなった。

  
  張鉉耳先生[40]の一族に、牝狐を妾にした者がおり、別に静かな家を営んで住んでいた。牀帷器具は人と異ならなかったが、もともと婆やを持っており、張の奴隸を使わなかった。部屋には纖塵もなかったが、久しく坐すれば陰気が森然とするのを覚え、さらにしばしば談笑するのが聞こえたが、その姿は見えなかった。張はもともと豪族であり、姻戚が集まるたび、みな一見することを願ったが、ことごとく許さなかった。ある日、張が強く迫ると、言った。「某家の某奥さまはまあよいですが、他の方は断じてだめです。」。部屋に入って会うと、挙止は優雅で、貌は三十ばかりの人のようであった。部屋の中で寂しくしているわけを質すと、言った。「奥さまは心がびくびくしていらっしゃいます。部屋にはもともと特別なものはございません。」。後に張がその人にだけ会ったわけを質すと、言った。「人は陽類、幽鬼は陰類です。狐は人と幽鬼の間に介在していますが、やはり陰類で、出るのはいつも夜です。昼は陽が盛んな時ですので、軽々しく人と接しようとしません。某奥さまは陽気がすでに衰えていられますので、お会いできるのでございます。」。張はタ然[41]として言った。「おまえは毎日わたしと休んでいるが、わたしは衰えているのか。」「これには別に理由がございます。およそ狐が人を惑わすのには二つあり、一つは蠱惑といい、一つは宿縁といいます。蠱惑する場合は、陽が陰に蝕まれれば病み、蝕みつくせば死にます。宿縁がある場合は、人にもともと縁があり、気がおのずから感じ、陰陽が翕合するため、しばらく平穏でいることができるのです。しかし蠱惑するものは十分の九、宿縁があるものは十分の一です。蠱惑するものは、かならずみずから宿縁があると称します。ただ人を傷うか人を傷わないかで、その真偽が知れるだけでございます。」。その後、かれに会った人は、まもなく本当に亡くなった。

  
  羅と賈が隣りあわせで住んでいたが、羅は富んでおり、賈は貧しかった。羅は賈の家を併呑しようとし、その値を抑えることにした。他人に売ろうとすると、羅は邪魔した。しばらくしてますます窮したので、やむを得ず値下げして羅に売った。羅は改築し、建物は一新した。落成の日、盛大な宴で神を祭った。紙銭を燃やしていると、突然狂風が巻き起こり、梁の上に着き、烈しい炎がにわかに起こり、煙と煤が広がり、雨のように落ちた。弾指の間に、一寸の椽も残らず、そのもとの家とともに焼けてしまった。火が起こったばかりの時、大勢で消火したが、羅は胸を打って止め、言った。「さきほど炎の中に、ぼんやりと賈の亡父が見えた。これはかれが怨恨によってしていることだから、消しても無駄だ。悔やんでも手遅れだ。」。急いで賈の子を呼んでこさせ、肥沃な田二十畝を、証文を書いて贈った。それからは行いを改め、善行し、長寿で死んだ。

  
  滄州の樊氏が扶乩したとき、河工[42]の某官がいた。乩に降ったのは関帝であったが、突然こう大書した。「それがしが来る前、おまえは文を作って懺悔したが、言葉には弁明が多かった。神に対してさえこのようであるならば、人に対しては推して知るべしだ。そもそも誤って人を傷うのは過ちだが、弁明するのは悪だ。天は過ちは許すが悪は殺す。おまえの巧みな弁明など信じるものか。」。その人は地に伏して恐れ、汗を揮うこと雨のごとくであった。それからは怏怏として失ったものがあるかのよう、数ヶ月病んで亡くなったが、懺悔したのが何事なのか分からなかった。

  
  褚寺[43]の農家に、嫁と姑でいっしょに寝ている者がいたが、夜に雨で塀が崩れ、泥土が簌簌と落ちた。嫁は音を聞くと急いで起き、背で塀を負い、急いで叫んで姑を目ざめさせた。姑は匍匐して炕の下に落ち、嫁は圧死したが、その屍はまさに姑の臥していた処にあった。これは本当の孝婦であったが、微賎であったため、お上に聞かせる人がおらず、しばらくして実家と婚家の姓を忘れられてしまった。言い伝えでは、嫁が死んだ後、姑は哭いて嘆いたという。ある日、隣人がその姑に告げた。「夜にあなたのお嫁さんを夢みましたが、冠と帔[44]を着けてきてこう言いました。『わたしの姑にお伝えください。わたしのことで哭かないでください。わたしは代わりに死にましたので、今はもう神になりましたと。』と。」。郷の父老はみな言った。「わたしが夜に夢みたのもそのようなことだった。」。ある人は言った。「嫁が神になったのなら、その姑の夢に現れてはどうだ。これは隣人が姑の嘆きを和らげようとして、話を造っているのだ。」。わたしが思うに、忠孝節義のものは、歿すればかならず神になる。天道は昭昭として、はっきりとした証拠があるから、この事は本当であると信じられる。一人が話を作り、人々が雷同したとしても、天はわたしたち民によって見、天はわたしたち民によって聴くのだ[45]。人が心で神と思えば、天もかならず神と思うから、嘘であると疑うことはない。

  
  長山[46]聶松岩[47]は、篆刻して京師に旅した。かつてわたしの家に居候し、語るには、郷里に狐と友人である者がおり、賓客朋友が宴会するたび、招いていっしょに坐していた。飲食談笑するさまは、人と異ならなかったが、声は聞こえるものの姿は見えなかった。ある人が無理に会わせようとして、言った。「向かいあっていても見えないなら、どうして交われよう。」。狐は言った。「交わる者は心で交わり、貌を見せて交わらない。そもそも人の心は計りがたく、山川よりも陰険で、虚偽は万端だから、隠れているのだ。諸君はその心を見ず、貌を見せて交わると、かえって親しんでいると思い、貌を見せないと、かえって疏んじていると思うが、誤りではないか。」。田白岩は言った。「この狐は経験が深い。」。

  
  肅[48]の老儒王徳安[49]は、康熙丙戌の進士であった[50]。亡き姚安公はかれから学業を授かった。かつて夏に友人の家を訪ね、その園亭の広々としているのが気に入り、そこに泊まろうとしたが、友人は夜に鬼物が出るのを理由に断った。王はかれが見た一件を挙げて言った。「江南の岑生が、滄州張蝶荘の家に宿を借りた。壁には鍾馗の像が張られており、その高さは人と同じで、前にはさらに一つの自鳴鐘が置いてあった。岑は泥酔して就寝したため、それらを見る暇がなかった。夜半に酒が醒めると、月明かりは昼のよう、からくりがごとごととしていたので、ひどく訝っていたところ、ふと画像を見たので、幽鬼だと思い、(つくえ)の上の端硯を取り、頭を擡げて投げつけると、大きな音が[51]として、戸と窓が震動した。童僕が扉を開き、入って見ると、墨汁は淋漓として、頭と顔はすっかり黒くなり、画の前の鐘及び玉瓶磁鼎は、すでに砕けていた。聞いた者はみな絶倒した。だから、幽鬼を見たというのは、いずれも人がひとりで怯えているだけである。幽鬼がいったいどこに居ようか。」。そう言うと、塀の隅から突然返事があった。「幽鬼はこちらにおります。夜にお目通りいたします。どうか硯で打たれませぬよう。」。王は黙然として出た。後にこのことを挙げて門人に告げた。「幽鬼が白昼会話するはずはないから、きっと狐だ。わたしの徳は妖に勝つに足りないだろうから、避けたのだ。」。かれは終生無鬼の論を持していたのであった。

  
  明器は、古の葬具だが、後の世でも紙車紙馬が作られている。孟雲卿の『古輓歌』に、「冥冥何の須むる所ぞ、すべてわが生人の意なり。」というが、明器はしばし嘆きをやわらげるためのものなのである。しかし、長子汝佶[52]の病が革まった時、その娘が紙馬を焚いてやったところ、汝佶は気絶してまた正気づき、言った。「わたしの魂は門を出、茫茫然としてどこへゆくのか分からなかったが、老僕の王連升が一頭の馬を牽いてき、わたしを送りかえした。恨むらくはその足が跛だったので、すこぶる揺れて不快だった。」。馬を焚いたしもべは泫然として言った。「わたしが悪うございました。火を起こしました時、実は誤ってその足を折ってしまいました。」。さらに六従舅母[53]の常氏は、臨終の時に喃喃としてひとりごちた。「さきほど見にいった新宅はなかなか良かったが、東の壁が壊れていた。どうしよう。」。看病する者がその棺を見にゆくと、左側が朽ち、小さな孔があいていたが、大工と親方はまだ気づいていなかった。

  
  李又先生[54]が言った。昔、貧士で落第した者が、その不合格の答案を焚き、願文で文昌祠[55]に訴えた。夜に夢みると神が語った。「おまえは半生読書しているのに、なお窮達に(さだめ)があることを悟らないのか。」。かつて亡き姚安公に侍し、たまたまそのことを述べた。亡き姚安公は怫然として言った。「又受験する士で、この言葉を伝えるのはよいが、おまえたち手ずから文衡[56]を掌る者が、この言葉を伝えることはよくない。聚奎堂[57]の柱に、熊孝感[58]相国の『赫赫たる科条[59]、袖裡つねに存するはただ白簡[60]、明明たる案牘[61]、簾前いづこにか朱衣[62]あらん』という題聯があるが、おまえは見たことがないのか。」。

  
  海陽の李玉典先輩が言った。二人の生員が仏寺で読書していた。夜に親しみあっていると、突然、壁に大きな円い鏡が現れた。直径は一丈余り、光明は昼のよう、毛髪さえ見えた。簷では声がした。「仏法は広大であり、もとよりおまえたちを咎めぬが、おまえたちは自分で鏡の中を見ろ。何というざまだ。」。わたしは、密会する時、傍に人がいないはずなのに、誰が見ていたのだろうか、二人の生員は断じて自分から話すはずがないのに、どうして聞かれたのだろうかと思った。しかし、その事は理としてはあるべきことで、もとより子虚烏有(そらごと)として見る必要はない。玉典はさらに言った。老儒が廃園の中で生徒を教えていたが、ある晩、垣の外で吟唱する声が聞こえ、弁論する声が聞こえ、諍う声が聞こえ、罵る声が聞こえた、しばらくすると殴る音が聞こえた。庭園の後ろはがらんとして住人がいなかったので、幽鬼だと悟り、震えていると、闘う音が窓の外に来た。そのうちの一人が怒って大声で叫んだ。「あいつはわたしの文を批評したが、本当に腹立たしい。今からいっしょに先生に教えを請おう。」。そして数百言を朗吟し、一句ごとみずから手を叩いた。もう一人は呻吟し、痛いと叫びながら、微笑した。老儒が恐れて言おうとしないでいると、一人が声を荒げた。「先生はいったいどう思われるのですか。」。老儒はしばらく黙った後、枕元で叩頭した。「鶏肋[63]はお手で殴られるには値しませぬ。」。一人は大声で笑って去り、一人は窓の外を往来し、気は咻咻然[64]としていた。夜明けになると静かになった。膠州の法黄裳にこのことを聞いたそうである。わたしはこれも黄裳の寓言だと思う。

  
  天津の孟生文熺[65]は俊才があり、張石粼先生[66]はかれをもっとも愛していた。ある日、墓参して帰り、路傍の酒肆で孟に会ったが、壁を見ると、あらたに一首の詩が書かれていた。「東風翦翦[67]として春衣を(ゆら)し、歩みに任せて芳を尋ね歩みに任せて帰る。紅は桃花に映じて人一笑し、緑は楊柳を遮り燕双つながらに飛ぶ。曲径を徘徊して香草を憐れみ、惆悵す喬林[68]に落暉を掛くるを。記取(おも)ふ今朝延佇[69]する処、酒楼西畔これ柴扉[70]なり。」。そのわけを質すと、隠して言わなかった。つよく質すと、はじめて言った。「たまたま道端で麗しい女を見ましたが、その容貌が絶世でしたので、こちらに坐ってまた出てくるのを願っていました。」。張がその場所を尋ねると、孟は手で指した。張は大いに驚いて言った。「あれは某家の墓園で、荒廃して久しいから、左様なことがあるはずがない。」。ともに尋ねてゆくと、墳墓に草が茂り、杳として人跡はなかった。

  
  わたしが烏魯木斉にいた時のこと、ある日、このような報せがあった。軍校[71]の王某が、伊犁に軍械[72]を運ぶこととなり、その妻が独居していた。その日は、午過ぎになっても、門は開かず、呼んでも答えがなかったので、特別な事情があるはずであった。そこで迪化[73]の同知木金泰に命じて調べにゆかせた。扉を破って入ると、男女二人が枕をともにして臥し、裸体で抱きあい、いずれもその腹を裂かれて死んでいた。男はどこから来たか分からず、また知らない者であった。近所を取り調べたが、茫として手がかりはなかったので、疑獄として結着させようとした。するとその晩、女の屍が突然呻った。見守っていた者が驚いて見ると、すでに生き返っており、一日後に話せるようになり、こう自供した。「この男と幼い時に愛しあい、嫁いでからもこっそりと会っていました。後に夫が西域に駐防するのに従いますと、この男はわたしを思って諦めず、また訪ねてきました。門に来ますと、すぐに部屋に引き入れましたが、近所は気づきませんでした。しばし会っても所詮は別れることを慮り、ともに死ぬことを約しました。刃を受けた時、ひどく痛くて気を失いますと、たちまち夢から覚めたかのようになり、魂はすでに体を離れていました。急いで男を捜しましたが、どこへいったかはわかりませんでした。ひとりだけ沙漠の中に立っていましたが、白草と黄雲で[74]、四方は果てがありませんでした。彷徨していますと、幽鬼に縛られてゆきました。とある官府に至りますと、ひどく辱められ、こう言われました。『このものは無恥ではあるが、命はまだ終わっていない』。百回杖で打たれ、追いたてられて帰りました。杖は鉄で鋳られており、苦痛に堪えず、また気絶しました。そしてようやく蘇り、生き返ったのでございます。」。その股を見ると、杖の痕が重なりあっていた。駐防大臣巴公[75]は言った。「すでに冥罰を受けたのだから、姦通の罪は重罰にせずともよかろう。」。わたしの『烏魯木斉雑詩』に「鴛鴦畢竟双飛せず、天上人間旧願違ふ。白草蕭蕭として旅櫬を埋め、一生腸断す華山の畿[76]。」とあるのは、この事を詠んだのである。

  
  朱青雲[77]が言った。かつて高西園[78]とともに水辺を散歩した。時に春で、氷は解けはじめ、清らかな緑の水がたゆたうていた。高は言った。「思えば晩唐に『魚鱗可憐の紫、鴨毛自然の碧[79]』の句があり、一字も春水を語っていなのに晴波[80]のたゆたうさまは、目の前にあるかのようだ。惜しいことにその姓名を記憶していない。」。朱が沈思して答えないでいると、柳の老樹の後ろで人が語った。「それは初唐の劉希夷の詩で、晩唐ではない。」。走っていって見ると誰もいなかったので、朱は悚然として言った。「真昼に幽鬼を見た。」。高は微笑して言った。「このような幽鬼なら、会ってもたいへん良いことだが、会おうとしてくれないだろう。」。樹に対して三たび揖していた。帰って劉の詩を調べると、この二つの言葉があった。わたしはたまたま戴東原[81]に告げると、東原は言った。「二人の生員が燭の下で対談し、『春秋』の「正月」とは周暦[82]の正月か夏暦の正月かを争い、たいへんはげしく応酬していると、窓の外で突然太息していった。『左氏は周の人だから、周の正朔を知らないはずがございません。両先生は言葉を費やされることはございません。』。出て窓の外を見たが、一人の小童が熟睡しているだけだった。」。これら二つの事を見ると、儒者は日々考証を談じ、「曰若(ここに)[83]稽古す」を講じ、ともすれば十四万言に至っているが[84]、目には見えないが、傍で揶揄している者がいないとどうして知れようか。

  
  松岩[85]がいった。即墨[86]の于生は、驢馬に乗って京師に赴いた。途中高い岡の上で休息し、驢馬を樹に繋ぎ、石に寄りかかって仮眠したところ、突然驢馬が頭を挙げて四方を顧み、浩然として嘆いた。「この地に来ぬこと数十年、青い山々は相変わらずだが、村にはもはや昔の(こみち)はない。」。于はもともと物好きであったので、聞くと躍然として起きて言った。「これは宋処宗の長鳴鶏だ[87]。日日乗ってともに談じれば、長旅で寂しく感じる心配はない。」。揖してともに語ろうとしたが、驢馬は草を齧って答えなかった。何度も誘導し、忘形の交わりをなすことを約したが、驢馬はやはり聞いていないかのようであった。怒ってひどく鞭うつと、驢馬は跳びはねて狂ったように吼えたが、結局話せなかったので、箠で片足を折った。肉屋に売り、徒歩で帰った。この事はたいへんおかしい。夢の中で誤って聴いたのだろうか。それともこの驢馬の宿世の罪により、(もののけ)が憑き、怒って殺させたのだろうか。

  
  三叔の儀南公には、強健なしもべ畢四がおり、狩猟をよくし、十石の弓を引くことができ、つねに野で鶉を捕らえていた。鶉を捕らえることはかならず夜にしていた。さきに枯れた茎を地に挿して穀物の(うね)のようにし、上に網を敷き、牛の角で曲がった管を作り、鶉の声に似せて吹いた。鶉は集まり、さきにすこし驚かせると、だんだん避けて枯れた茎の中に入るが、その後、大声で驚かし、にわかに群れ飛ばせると、すべて網に掛かるのであった。管を吹く時、その音は悲しげであったので、しばしば誤って鬼物を引きよせた。そのためかならず団焦[88]を築き、みずからを守り、武器を持って備えていた。ある晩、月明かりの下、老叟が挨拶しにきた。「わたしは狐だが、子や孫が北の村の狐に怨みを結び、一族を挙げて械闘した。相手の陣にはわたしの一人娘が捕らえられており、戦うたびにかならず後ろ手に縛って駆り出してわたしを辱めている。わたしの陣でもかれの妾を捕らえており、施されたことをそのまま返している。そのため怨みはますます固くなり、今夜こちらで決戦することを約したのだ。おんみが義侠であることを聞いたが、一臂の力を貸してくれれば、終生恩に感じよう。鉄尺を持っている者はかれ、刀を持っている者はわたしだ。」。畢はもともと物好きだったので、忻然としてついていった。草叢の間に隠れ、両陣が交わると、二匹の狐は血戦して離れず、抱きあって手で打つに至った。畢はじっくりと見ると、弦を引いて放ち、北の村の狐を射て倒した。ところが弓が勁く、矢が鋭かったので、矢は腹を貫通し、老叟までも腋を貫かれて死んでしまった。両陣はそれぞれ慌てて屍を奪い、俘囚を棄てて逃げた。畢は二匹の狐の縛めを解き、告げた。「おまえの親族に伝えろ。両家は一勝一敗だから、怨みを解けると。」。それより前、北の村では毎晩戦う声が聞こえていたが、それからは静かになった。これは李氷[89]の事と似ている。しかし氷が江神と戦ったのは禍を防ぐためであったが、この狐はその私憤を露わにし、双方が闘って止まず、双方が傷うに至った。これもやむを得ないことか。

  
  姚安公が雲南にいた時[90]、幕友が言うには、署内の香櫞[91]の樹の下で、月夜に紅裳の女子が盛装して立ち、人を見ればだんだんと土中に没した。人々は発いて見ることを議した。姚安公は卮酒を持って樹の下に注ぎ、ひとりで祈った。「あなたは人を見れば隠れ、祟る気はない、さらにしばしばあなたの姿を現し、骨を暴かれる禍を自分から得ることはない。」。それからはふたたび出なかった。さらに書斎があり、たいへん広く、住む人がひさしくいなかった。舅氏[92]の安公五章[93]は、時に従って雲南にいたが、たまたま夏にその中で裸で寝、夢みたところ、一人の男が揖して言った。「あなたとは幽明路を異にしておりますが、家族がこちらにおりますし、男女の別もございますから、礼によって身を処せられてはいかがでしょうか。」。すぐに目ざめると、それ以上ゆこうとしなかった。姚安公はかつて言った。「樹の下の幽鬼は、理によって諭せ、書斎の魅は、理によって人を諭せた。この郡は僻遠の地の万山の中にあり、風俗は質樸、渾沌として手つかずなので、異類もかように淳良なのである。」。

  
  わたしが二三歳の時に見たのだが、四五人の子供が彩衣金釧で、わたしに従って戯れ、みなわたしを弟と呼び、たいへん愛しているようであった。しかし、やや生長するとすべて見えなくなった。後に亡き姚安公に告げたところ、公はしばらく沈思し、はっとして言った。「おまえの前母[94]は子がないことを残念に思い、つねに尼に命じて彩絲(あやいと)で神廟の泥塑の子供を縛って持ち帰らせ、寝室の中に置き、それぞれ幼名をつけ、日々菓子を食べさせ、子を育むのと同じようにしていた。歿した後、わたしは人に命じて楼の後ろの空き地に埋めさせたが、きっとそれだ。」。その後、(あやかし)となることを恐れ、掘り出そうとしたが、年を経ていてすでにその所在を失っていた。前母は張太夫人の姉であった。一周忌の日、家祭[95]の後、張太夫人が昼寝し、夢みたところ、前母が手で推し、言った。「三妹はとても不注意だ。鋭い刃を子供に渡して戯れさせていいのかえ。」。愕然として目覚めると、わたしがまさに傍に坐し、姚安公の革帯の佩刀を鞘から引きだしていた。魂が帰って祭を受けるということは、確かにあることをはじめて悟った、古人が死者に仕えるときに生者に仕えるときのようにした[96]ゆえんである。

  
  表叔の王碧伯が妻を失ったとき、占い師が某日子の刻に回煞があると言ったので、一家はみな避けて出た。ある盗人が偽って煞神となり、垣を越えて入り、篋を開いて簪珥を取っていると、たまたま別の盗賊も煞神の扮装をして来、幽鬼の声を嗚嗚(ウウウウ)と出しながらだんだんと近づいた。先に来ていた盗人はいそいで逃げ出だしたが、庭で遇った。たがいに本当の神と思い、いずれも驚いて気絶し、向かいあって地に倒れた。夜明けに家人が哭しながら入ってき、にわかに見ると、大いに驚いたが、じっくり見ると盗賊だと知れたので、生姜湯を飲ませて蘇らせ、幽鬼の装いのまま縛って役所に送った。道中、集まって見るものたちは、みな絶倒した。この一件に拠れば、回煞[97]の話はでたらめに違いない。しかし回煞の形跡を、わたしは本当にしばしば見た。鬼神は茫漠としたものであり、結局どうであるかは分からない。

  
  益都[98]の朱天門が言った。甲子[99]の夏、数人の友と夜に明湖[100]の側に集まり、妓女を召してお酌させ、宴はまさに酣であった。妓女はもともと字を知らなかったが、突然筆を執ると、一首の絶句を書いて言った。「一夜瀟瀟たる雨、高楼曉寒に怯ゆ。桃花零落するや否や。婢を呼び簾を巻きて見しむ。」。一人の友人の前に擲った。その人は見おわると、すぐに顔色を変えて地に倒れ、妓女も地に倒れた。まもなく妓女は蘇ったが、その人は蘇らなかった。後に、親しいものにあまねく尋ねたが、結局そのわけは分からなかった。

  
  癸巳甲午の間[101]、扶乩する者が正定[102]から来たが、吉凶を談ぜず、書画を作るばかりであったので、偽っているのではとすこぶる疑った。しかしかれが曹慕堂[103]のために彩色の山水の長巻および酔鍾馗[104]の像を作ったのを見たが、作品はいずれも俗でなかった。さらに董曲江[105]に贈られた一聯を見たが、こうあった。「黄金もて客に結び心なほ熱し、白首郷に還りさらに遊ぶを夢む。」。やはりよく曲江の人となりを捉えていた。

  
  佃戸二曹の妻は凶暴であること甚だしく、ともすれば風雨を罵り、鬼神を罵っていた。隣近所とは、一言でも合わないと、腕を捲り、二本の搗衣杵[106]を持ち、大声で叫んで跳びはね、吼える虎のようであった。ある日、陰雨に乗じて外出し、麦を盗んでいたところ、突然風雷が大いに起こり、鵝鳥の卵のように大きな雹に中たり、傷ついて地に倒れた。すると突然、風が一つの五斗の栲栳[107]を巻いてき、前に落としたので、それを被って死なないですんだ。天もかれの横暴を恐れているのではあるまいか。ある人は言った。「乱暴ではあるが、よくその姑に仕えている。人と争うたび、姑が叱るとかならず服従し、姑が頬を打つと、やはり跪いて受けている。だから、災難に遇っても死ななかったのには理由があるのだ。」孔子は『夫れ孝は、天の経、地の義[108]』とのたもうたが、どうしてそうでないことがあろうか。

  
  癸亥の夏、高川[109]の北に龍が落ち、多くの村人がそれを見た。姚安公が乗り物をしたてて見にゆくと、すでに風雨に乗って去っていた。這って暴れた跡では、穀物が二畝ばかり蹂躪されており、なおはっきりと見ることができた。龍は、神だから、どうして落ちることがあろう。ある人が言うには、雨を降らせるのに誤りがあったため、天に罰せられたのだということである。按ずるに、世は龍が雨を齎せると称しているが、宋儒は、雨は天地の気であり、龍に由らないと言っている。思うに、『礼』は「天時雨を降し、山川雲を出す[110]。」と称し、『公羊伝』に「石に触れて出で、膚寸にして合し[111]、朝を()へずして天下に雨ふるは、泰山の雲のみ[112]」というが、これが宋儒の説の基づくところであろう。『易・文言伝』は、「雲は龍に従ふ。」と称しているので、董仲舒の雨乞いする法では、土龍[113]で召すが、これが世俗の説の基づくところである。おおむね、天雨があり、雷雨がある。油油[114]として雲が湧き、瀟瀟として雨が降るのは、天雨であり、疾風震雷が、すぐに過ぎるのは、龍雨である。見ると龍潭[115]を犯す者は、たちまち風雨を致すが、天地の気が、このようにはやく合うことができようか。鮓答[116]を洗い、梵呪を誦えるものは、やはりたちまち風雨を致すが、天地の気が、このように時間に正確であることができようか。そのため、二つのものをあわせて述べて、理論ははじめて完璧となるのである。規規然[117]として一説に固執するのは、その変化に通じていないことではないか。

  
  村人の王驢は、野で耕作し、疲れて土の塊に枕した。すると突然、肩輿が西から来たが、しもべや馬ははなはだ多く、輿に坐している者は亡き叔父の儀南公であった。公は病に臥しているのに、どうして出てゆくかと怪しんだ。急いで近づいて挨拶し、公としばらく語り、東北に去った。帰って聞くと公はすでに亡くなっていた。見たしもべや馬の数は、焚いた紙器[118]の数とぴったり合っていた。下男沈崇貴の妻は、みずから驢の言葉を聞いた。一月余り後、驢も病んで亡くなった。白昼幽鬼に会ったのは、結局気が衰えていたからだと知れた。

  
  わたしの三女は、戈仙舟[119]太僕[120]の子と婚約していた。十歳で、庚戌の夏至に亡くなった。その一日前、病はすでに革まり、時にわたしは仕事で方沢[121]に居たが、女は突然ひとりごちた。「今日は初八ですが、わたしは明日の辰の刻に去ることになっていますから、まだお父さまにお会いするのに間に合います。」。どうして知ったのかと尋ねたが、瞑目して言わなかった。わたしは九日に儀式が終わると邸に帰り、三女が亡くなるのを見るのに間に合った。亡くなった時、壁に掛けられていた洋鐘が、琤然として八回鳴ったが、これも珍しいことであった。

  
  膳夫[122]楊義は、いささか字を知っていた。姚安公に従って雲南にいた時、ふと夢みたところ、二人の幽鬼が朱票を持って捕らえに来たが、記された名は「楊」であった。義は争った。「わたしの名は楊義で、楊ではない、おまえはきっと誤って捕らえようとしているのだろう。」。二人の幽鬼は言った。「乂の字の上に一つの点があるから、『義』の略字だ。」。義はさらに争った。「従来、義の字をこのように書くのを見たことがない。やはり『乂』の字で、誤って墨を一滴零したのだろう。」。二人の幽鬼は強いることができないで去った。ともに寝ていた者はその寝言を聞いたが、とてもはっきりしていた。にわかに姚安公が終養[123]のために帰り、義は従って平彝[124]にゆき、また夢みたところ、二人の幽鬼が票を持ってきたが、はっきりと楊義の字を楷書してあった。義はなおも承服せずに言った。「わたしはすでに北に帰ることになったのだから、直隸の城隍の管轄となるはずだ、おまえは雲南の城隍だから、わたしを捕らえることはできない。」。しばらく騒ぎ罵った。ともに寝る者が呼びかけると目ざめ、みずから言った。「二人の幽鬼はとても憤り、どうしても許さないようだった。」。翌日、滇南の勝境坊[125]の下に行くと、馬が躓き、地に落ちて亡くなった。

  
  わたしは烏魯木斉にいた時、数匹の犬を飼っていた。辛卯に帰還を許されて東に帰った時のこと、四児という黒い犬が、恋々としてついてき、追い払っても去らず、ともに京師に至った。途中、行篋を守ることたいへん厳しく、わたしが前にゆかなければ、童僕さえ一物も取れなかった。やや近づくと、かならず人のように立って怒り齧った。ある日、闢展[126]の七達坂(達坂は、山嶺という意味であり、およそ七重、曲折して険峻であり、天険と称せられている。)を過ぎた。車四輌のうち、半分は嶺の北にあり、半分は嶺の南にあったが、日はすでに暮れ、すべて越えることはできなかった。犬は一匹で嶺の頂に臥し、左右を望んで見張りし、人影を見るとかならず馳せて監視した。そこでわたしは「帰路煩はさず汝の書を寄するを、風に餐ひ露に宿りしばらく予に従ふ。夜深くしもべの熟睡せし後、ために守る東行数輌の車。」。「空山日日饑ゑを忍びて行き、氷雪崎嶇たり百廿程。我すでに官なければ何の恋ふる所ぞ、憐れむべし汝もまた太痴生なるを。」という二首の詩を賦し、その事実を記した。京に至って一年余り、ある日、毒に中たって死んだ。ある人が言った。「しもべたちは、かれが夜に番をするのが厳しいのを恨み、計略を用いて殺し、盗人のせいにしたが、それは当然のことだろう。」。わたしはその骨を収めて葬り、塚を築き、「義犬四児墓」と題してやろうとした。石を刻み、出塞した四人のしもべの姿を象り、その墓前に跪かせ、それぞれの姓名−趙長明、于禄、劉成功、斉来旺−を胸に刻んだ。ある人は、「この四人のしもべを犬の傍に置くのを、犬はいさぎよしとしないだろう。」と言ったので、わたしはやめ、しもべたちがいる部屋の額に、「師犬堂」と題するのみにした。翟孝廉がわたしにこの犬を贈った時のこと、その一晩前に、旧僕宋遇を夢みたが、叩頭して言った。「思いみますに、ご主人さまは万里に従軍なさいますので、今から、お世話しにまいります。」。翌日、この犬を得たので、はっきり遇が転生したことを知った。しかし遇は生前、陰険狡黠で、しもべたちの(かしら)となっていた。どうして犬になったら忠なったのか。みずから悪業によって堕落したことを知り、悔いて善行したのではあるまいか。これもよく過ちを償ったといえよう。

  
  神は姿を変えることができる。狐で神通力のあるものは、わずかな隙間を往き来できるが、みずからの姿を変えているだけである。宋蒙泉[127]は言った。その家の下女は、狐に惑わされ、夜にはかならず衣を剥がれて寸縷もなくなり、窓の櫺から舁ぎ出され、廊下に置かれ、ともに戯れていた。その夫は刃を露わにして迫ろうとしたが、入り口の鍵は開けられなかった。あるときは、扉を掩って待ちかまえていたところ、みずからが堅く閉ざされ、窓内で怒り罵るばかりであった。ある日、ひそかに鳥銃を蔵し、窓を隔てて撃とうとしたが、期に臨んで銃を探したが見付からなかった。翌日、見ると銭櫃[128]の中にあった。銃は長さが五尺近く、櫃の口は僅かに一尺余りだったので、どうして入れることができたのか分からなかった。これは他の形に変えることができたということである。宋儒はともすれば格物を語るが、このようなものは、どうして理によって推しはかれよう。姚安公はかつて言った。「狐は墓地に住んでいるが、それを建物に変化させる。人が見れば本物のようだが、狐がみずから見るとどうかは分からない。狐は毛と革をそなえているが、それを粉黛に変化させる。人が見ると本物のようだが、狐がみずから見るとどうかは分からない。狐が変化しても、ほかの狐が見るとどう思うかは分からない。これは本当に推測するすべがない。」。

  
  烏魯木斉の把総[129]蔡良棟はいった。この地がはじめて平定された時、かつて巡察して南山の深い処(烏魯木斉は天山の北にあるので、南山と呼ぶ。)にいった。薄暮、見ると(たにがわ)を隔てて人影があるかのようであったので、瑪哈沁(マハチン)額魯特(オロト)語で強盗を瑪哈沁(マハチン)といい、軍隊でもそのもとの名を踏襲している。)かと疑い、草叢の中に伏してひそかに伺った。見れば一人が軍装して磐石の上に坐し、数人の兵卒が侍立していた。容貌はいずれも獰猛で、その言葉はやや遠かったために弁じることはできなかった。見ると一人の兵卒を指揮して石洞の中から六人の女子を呼びださせた。ともに麗しく白皙で、着ているものはすべて絵綵[130]で、それぞれ後ろ手に縛られ、觳觫叩頭して跪き、次々に坐している者の前に引いてゆかれ、下着を剥がれて地に伏し、鞭うたれて血を流し、悲しげに叫んだ。声は林と谷に響き渡り、鞭うちおわるとすぐに去った。六人の女は震え跪きながら送り、眺めて影が見えなくなると、嗚咽しながら洞に帰った。その地は一射[131]で達することができたが、(たにがわ)は深く、崖は険しく、通じられる路がなかったので、弓を使う、力の強い者に命じて、向かいの崖の一樹を集中的に射させた。二本の矢が樹の上に中たったので、それを標識にすることにした。翌日、数十里迂迴し、その場所を尋ねてゆくと、洞窟の入り口には塵が積もっていた。炬火を執って入ると、折れ曲がり、深さは約四丈ばかり、まったく足跡はなかった。昨日遇ったのは何の神だったか、鞭うっていた者は何物だったかは分からなかった。生平見た珍事の中では、これが第一であった。調べると『太平広記』に、天人が飛天夜叉を追捕するのを老僧が見た、夜叉はまさに美女であったとの記載があるが[132]、蔡が見たものもその類か。

  
  六畜[133]が食用に供せられるのは、常の理であるが、殺すのが度を過ぎると、悪業をなす。殺すべきでない人なのに殺せば、やはり怨みに報いることができる。烏魯木斉の把総茹大業が言った。吉木薩[134]の遊撃[135]が、しもべを山に入らせ、雪蓮[136]を探させたが、迷って帰れなかった。ある晩、夢みたところ、しもべが血を浴びてき、言った。「某山で瑪哈沁(マハチン)にあい、(きりにく)にされて食らわれました、残骸はまだ橋の南の×本目の松の樹の下にございますから、いって探してください。」。遊撃が軍校を遣わして樹の下を探しにゆかせたところ、血だらけになって散乱していたが、見ればすべて羊の骨であった。そもそも馬卒がいっしょに(おおやけ)の羊を盗み、ここで殺していたのであった。しかししもべが他の所で死んだかもしれないと疑った。二日後、しもべは猟師に遇って、引かれて帰ったので、羊がしもべの魂を借り、馬卒の罪を発いただけだったということがはじめて分かった。

  
  李媼は、青県の人で、乾隆丁巳、戊午の間、わたしの家で飯を炊いていた。語るには、かれの郷里に農家があり、古墓に隣していたが、飼っていた二頭の牛が、しばしば墓に登って踏みつけていた。夜に夢みたところ、人がかれを責めたが、田舎者で愚かだったので、放って省みなかった。するとにわかに家で怪しいことがさかんに起こり、夜に二匹の(もののけ)が現れるようになった。その大きさは牛ほど、踏んだり蹴ったり、飛んだり跳ねたりし、中庭の(はち)や甕はすべて砕け、そうしたことが数晩つづいた。[137]が家の上に移り、砰然と転げ落ち、火炎が上がり、搗衣砧[138]を撃ち、数片にするにいたった。農家はひどく恨み、鳥銃をたくさん借り、(もののけ)が来るのを待ち、一斉に撃つと、二匹の(もののけ)はどちらもすぐに倒れた。農民は大いに喜び、急いで火を執って出て見ると、飼っていた二頭の牛であった。それからは怪しいことはふたたび起こらず、家もだんだん没落した。牛に憑いて(あやかし)とし、みずからこれを殺させたのは、人を弄ぶのに巧みであったといえる。また、農民の凶暴な気性に乗じ、目的を達することができたのである。

  
  献県城東の双塔村[139]で、二人の老僧が同じ庵に住んでいた。ある晩、二人の老道士が門を叩いて宿を借りようとした。僧が承諾しないでいると、道士は言った。「釈道は別の教えですが、出家していることは同じです。何と見識のお狭い。」。僧は泊まらせた。翌日の晩になっても、門は開かず、呼んでも答えなかった。隣人が塀を越えて入って見ると、四人はまったく見えなかったが、僧房からは一つの物も失われていなかった。道士の旅嚢には数十両が収められていたが、やはりすべてあった。みな大いに驚き、お上に報せた。県令の粟公千鍾が来て調べたところ、一人の牧童が村の南十余里の枯れ井戸の中に死体があったようだといった。馳せて見にゆくと、四人の屍が重なりあっていたが、いずれも傷はなかった。粟公は言った。「一つの物も失われていないから、盗人ではなく、年はいずれも老いているから、姦淫ではない。遇って引き留めて泊まらせたのだから、仇敵ではない、身に一寸の傷もないのだから、殺人でもない。四人はどうしていっしょに死んだのか。四人の屍はどうしていっしょに移ったのか。門は閉ざされて開いていないのに、どうして出られたのか。井戸までは遠かったのに、どうして達することができたのか。事情は理の外に出ている。わたしは人を質せるが、幽鬼を質すことはできない。人に質すことができなければ、疑獄として終わらせるしかない。」。すぐに上官に知らせたが、上官も詰問できず、意見に従った。応山[140]の明公晟[141]は、すぐれた県令であったが、かつて言った。「わたしは献県にゆくと、すぐその事件を聞き、数年考えたが、解くことができなかった。このような事に遇ったら、解くことができないと解するべきである。知恵を働かせれば、失敗が百出する。人は粟公を愚かだというが、わたしはまさにその愚かさに敬服する。」。

  
  『左伝』に、「深山大沢には、実に龍蛇を生ず[142]。」という。童僕の玉保は、烏魯木斉の流人の子であった。はじめは特納格爾[143]の軍屯[144]に仕えていた。かつて谷に入って逃げた羊を追っていたところ、巨柱のような大蛇を見たが、高い岡の頂に蟠り、日に向かって鱗を晒していた。全身は五色が爛然として、錦繍を積んであるかのようであった。頭頂の一本の角は、長さ一尺ばかり、雉たちが飛んで過ぎると、口を開けて吸ったが、四五丈を隔てていても、みな翩然として落ち、矢が壷に投じるかのようであったので、心のなかで羊が呑まれたことを悟った。蛇が見ていないのに乗じ、(たにがわ)を回って逃げ帰ったが、恐れて魂魄を失いそうになった。軍吏図麟はいった。「この蛇は毒が強いが、その角は毒を解くことができ、吸毒石という。この蛇を見た者は、雄黄[145]数斤を持ち、風上で焼くと、衰弱して動けなくなる。その角を取り、鋸でひいて塊にする。癰疽が起こった時、一塊を瘡の頂につけると、磁石が鉄を吸うかのように、くっついて離れることができない。毒気が吸い出されると自然に落ちる。人の乳の中に置くと、その毒が沁みだし、ふたたび使うことができる。毒が軽い者は乳が緑色に変わり、やや重い者も青黯(こいあお)、極めて重い者は黒紫に変わる。乳が黒紫に変わる者は、四五回吸わせると、毒が尽きる。ほかは一二回で癒える。」。わたしは従兄懋園[146]の家に吸毒石があり、癰疽[147]を治すとすこぶる効果があったことを覚えている。その質は木でもなく、石でもなかったが、今になって蛇の角であったことが分かった。

  
  正乙真人[148]は催生符[149]を作れ、人家にはたいていそれがある。これは、雨を乞い、妖を駆るものではなく、真人と関わりはないはずで、きわめて不可解である。ある人が言った。「道書には二人の幽鬼を載せている。一人は語忘[150]といい、一人は敬遺といい、人を難産にすることができる。その名を知って紙に書けば、去る。符はこの二人の幽鬼を制しているのだろうか。」。そもそも四海の内外、産蓐に登る者は、ほとんど恒河沙の数なのに、天下にはこの語忘、敬遺二人の幽鬼がいるだけなのか。それとも一つの場所にそれぞれ二人の幽鬼がおり、一つの家にそれぞれ二人の幽鬼がおり、その名をすべて語忘、敬遺というのだろうか。天下にこの二人の幽鬼がいるだけなら、周遊奔走して祟っていることになろうが、幽鬼は何とご苦労なことか。もし一つの場所にそれぞれ二人の幽鬼があり、一つの家にそれぞれ二人の幽鬼がいるのなら、お産の時は少なく、お産がない時は多いのだから、擾擾[151]として、千百億万の幽鬼が、することもなく、人のお産の時に祟るのをじっと待っていることになるが、幽鬼は何と閑で働きがないことか。ある人は言う。「難産の理由はたくさんある。語忘、敬遺はその一つである。難産が語忘、敬遺のせいであるとは限らないし、語忘、敬遺のせいでないとも限らない。だから神将を召して調べさせているのだ。」。これも一つの解釈である。ただ万一の可能性があるからといって、日々神将を召して調べさせ、神将が来て幽鬼がいれば、追いはらい、神将が来て幽鬼でなければ、むなしく返るのだから、神に無礼していることにならないか。たとい神が無礼を憎まなくても、一つの符籙で一人の神将を召しては、無数の神将を訓練して、幽王の烽火を待たせていることになる[152]。上帝が真人の一つの符籙のために、一人の神を増しており、諸符がすべて同じ神将であるとしたら、この神将が千手千目でも、奔命に疲れるであろう。上帝が真人の諸符のために、わざわざ大量の化身する神を設けて不確かな仕事に供しているとしたら、このようなことは可能であろうか。しかし趙鹿泉[153]先輩は一つの符籙を持っていた。これは明代から伝えられ、徳の高い真人が剛気[154]を鍛錬して書いたもので、試すと、その霊験は響くかのようであったという。鹿泉は嘘をつく者ではないので、わたしは測りしるすべがない。

  
  俗に伝えるところでは、張真人[155]の奴隷はすべて鬼神であるという。かつて賓客と対談した時、お茶酌みは雷神であったが、客が無礼をしたところ、帰るときに雷がついてき、撃たれそうになった。これは斉東の語[156]である。思えばある日、わたしとともに祭礼に陪席したが、中に入ろうとしたところ、朝珠[157]を忘れていたため、わたしに借りようとした。わたしは戯れた。「雷部[158]の鬼律令[159]はゆくのがもっとも疾いのですから、取らせてはいかがでしょうか。」。真人は囅然[160]とした。わたしが福州の使院[161]にいた時、老僕の魏成は、夜な夜な祟られた。ある晩、酔いに任せて怒鳴った。「わたしのご主人さまはふだんから天師さまと親しいから、明日手紙を寄せれば、雷神がすぐに来ようぞ。」。するとすぐに静かになった。狐や鬼もこの話をよく聞いているのである。

  
  しもべの王廷佐は、夜、滄州から馬に乗って帰ってきた。常家磚河[162]に来ると、馬が突然しりごみした。暗闇の中、大樹が行く手を阻んでいたが、もともとなかったものであった。馬をゆっくり歩ませて傍を過ぎると、この樹は四面を旋転し、その前を巡った。数刻で馬はだんだん疲れ、人もだんだんぼんやりとした。するとにわかに知りあいの大工の国姓、韓姓のものが東から来、廷佐を見るとじっと立ち、怪しんだので、廷佐は指さして事情を告げた。時に二人はすでに酔っていたので、いっしょに叫んだ。「仏殿で一本の梁が欠けており、大きな樹を捜している。今、さいわいに見つけたから、逃してはならん。」。それぞれ斧と鋸を持って奔ってくると、樹はたちまち旋風に化して去った。『陰符経』[163]に「之を(とら)ふるに制するは気に在り[164]。」という。木の(あやかし)が大工を恐れるのは、まさに狐の(あやかし)が猟師を恐れるようなものである。大きな威勢で脅かせば、その気炎はかれらを懾伏するに十分である。その力が勝っている必要はない。

  
  寧津[165]の蘇子庾がいった。丁卯の夏、張家で姑と嫁がともに麦を刈り、集めたところ、はげしい旋風が西から来、吹いて四散させた。嫁が怒り、鎌を擲つと、血が数滴降りそそいで地面を浸した。失われたものをいっしょに探していると、嫁は樹に寄りかかって突然昏酔したかのようになり、魂は人に縛られてとある神祠に来た。神は怒鳴った。「悍婦がわたしの(したやく)を傷つけるとは。はやく杖を受けろ。」。嫁はもともと剛愎な性格であったので、大声で言った。「貧しい家は数畝の麦を植え、それを頼りに活きています。烈日の中、嫁と姑で苦労しましたのに、刈りとりが終わったばかりで、怪しい風に吹き散らされてしまったのです。邪鬼だと思いましたので、鎌を擲ちましたが、大王さまのご使者を傷つけようとは思いませんでした。それに使者は往く時、もとより官路[166]がございますのに、どうして乱暴に民の田を通って人の麦を台無しにするのでしょう。こちらで杖を受けるのには、本当に甘んじません。」。神はうなだれた。「このものの言うことは正しいから、ゆかせてよい。」。嫁が蘇ると旋風がまた来、その麦を巻いて一つの場所に集めた。そのことを話した時、呉橋[167]の王仁趾は言った。「これは何の神なのか分からないが、その親しいものを庇わなかったのだから、正直だということができる。しかし、さきに膚受の訴えを聴き、嫁は刑を受けそうになったのだから、かれを聡明というのは、正しくない。」。景州[168]の戈荔田[169]は言った。「嫁がその怨みを訴えると、神はすぐに明察することができたのだから、やはり聡明である。訴える者が哀しんでいるのに、聴く者が愚かであったら、君はこれ以上どう言うつもりだ。」。子庾は言った。「仁趾は人を責めて止む時がない。荔田の言うことが正しい。」。

  
  四川藩司[170]の張公宝南[171]は、亡き祖母の従弟で、その太夫人[172]は鼈のあつものを好んでいた。ある日、料理人は大きな鼈を得、その首を断つと、身長四五寸の小人が、頚からにわかに出、鼈を巡って走った。料理人は大いに驚き、地に倒れ、人々が救うと蘇ったが、小人はすでに行方が知れなくなっていた。鼈を剖くと、鼈の腹の中におり、すでに死んでいた。亡き祖母はそれを取って見た。先母はその時まだ幼かったが、やはり傍で見ていた。装束は職貢図[173]の中の回回の姿のようであった。帽は黄色、(うわぎ)[174]は藍色、帯は紅色、靴は黒色、いずれも紋理がはっきりとして絵のよう、面目手足も、すべて刻画のようであった。館師の岑生はそれを知ると、言った。「これは鼈宝といい、生けどりにし、臂を割いて肉の中に納めると、人の血を啖って生きる。人の臂にこの宝があれば、地中の金銀珠玉の類は、土を隔ててすべて見られる。血が尽きて死んでも、子孫がさらに臂を割いて納めれば、代々富むことができる。」。料理人はそれを聞くと、大いに悔い、思いだすたび、かならずみずからの頬を打った。外祖母の曹太夫人は言った。「岑師の言うことに拠れば、命で財を得ることになる。人は命で財を得ようとするが、財を得る手段は多いのだから、臂を割いて鼈を養うことはない。」。料理人は結局悟らず、みずからを恨んで亡くなった。

  
  孤樹上人は、どこの人か分からず、その名も分からない。明の崇禎末年、景城[175]の荒れ寺にいた。亡き高祖厚斎公が詩を贈ったことがあった。ある晩、燈下でお経を誦えていると、窓の外でざわざわと音がし、人が往来しているかのようであったので、怒鳴って尋ねた。「誰だ。」。すると朗々と応えた。「わたしは野狐で、お経を聴くためにこちらにまいりました。」「某寺の法筵[176]はたいへん盛んだから、聴きにいってはどうだ。」「あちらは人がいる処でお経を誦えていますが、お師匠さまは人がいない処でお経を誦えていらっしゃいます。」。後に厚斎公[177]に述べた。厚斎公は言った。「師はこのことをわたしに告げられましたが、人がいる処でお経を誦えることになってしまいますな[178]。」。孤樹はしばらく憮然としていた。

  
  李太白が筆に花を生じたことを夢みたのは[179]、夢の中の幻影にすぎない。福建陸路提督[180]馬負公書[181]は、性来翰墨に耽り、すこしでも暇があればすぐに書をかいていた。ある日、使っていた大きな筆が筆架に懸けてあったが、突然炎を吐いた。光は長さが数尺、筆先から地に注いだ。そしてふたたび逆巻いて上り、蓬蓬然として、一刻を越えると集まった。署内の弁卒[182]はみなそれを見た。馬公が肖像を描いたとき、わたしはかつて詩を題した。しかし馬公は在任中に亡くなったから、やはり妖しくて不吉なことであった。

  
  史少司馬抑堂[183]は、相国文靖公[184]の次子であった。家にいた時、突然ゆえなく昏倒し、魂が門の外に出、人に扶けられて肩輿に乗るのを覚えた。行くこと数里、また肩輿があったが、後ろから追ってき、大声で叫んだ。ひとまず見にゆくと、文靖公であった。抑堂が輿を下りて拝謁すると、文靖公は語った。「おまえにはまだ出生していない子孫がいるから、今進んでゆくことはできない。」。舁ぐ者に指図して送り返させた。突然目ざめたが、時に年七十四であった。翌年、一子を挙げ、二年後さらに一子を挙げたが、文靖公の言葉の通りであった。これは抑堂が七十八歳の時、京師に来てみずからわたしに語ったことであった。

 

最終更新日:2011623

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[1]盧蔭溥。http://baike.baidu.com/view/2424098.htm

[2]未詳。

[3] 『古詩源』卷一引『六韜』「天下攘攘、皆為利往。天下熙熙、皆為利来。」

『史記』貨殖列傳:「諺曰、千金之子、不死於市。此非空言也。故曰、天下熙熙、皆為利來、天下壤壤、皆為利往。夫千乘之王、萬家之侯、百室之君、尚猶患貧、而況匹夫編 之民乎。」 

[4]れるさま。多いさまhttp://www.zdic.net/cd/ci/20/ZdicE6Zdic94Zdic98325610.htm『古源』卷一引『六韜』「天下攘攘、皆利往。天下熙熙、皆利来。」

[5]紛雑さまhttp://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE7Zdic86Zdic99310268.htm

[6]司馬遷。

[7]『史記』伍子胥列傳。

[8]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7Zdic8BZdic82308381.htm人。

[9] 原文「然妖不自興、因人而興。」。『春秋左氏傳』莊公十四年「妖由人興也、人無釁焉、

妖不自作、人棄常、則妖興、故有妖」。

[10]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic99ZdicB6271009.htm

春秋の娘。若くして寡婦となり、幼孤を紡績して暮らした人がその、配偶者にしようとした。はそれをくと、『黄之歌』を作って志を明らかにした。人はそれをくと、ふたたび求めようとはしなかった。劉向『列女·寡陶』に見える。

[11]氏春秋』に見える幽鬼。他人の子供に姿を変え、人を惑わすことを好んだ。ここでは人を惑わすものというぐらいの意味で使っているか。氏春秋·慎行·疑似』「梁北有黎丘部、有奇鬼焉、喜效人之子侄、昆弟之状、邑丈人有之市而醉、黎丘之鬼效其子之状、扶而道苦之、丈人、酒醒而其子、曰、吾汝父也豈謂不慈哉我醉、汝道苦我、何故「其子泣而触地曰、孽矣。無此事也。昔也、往邑人、可。其父信之、曰、嘻。是必夫奇鬼也、我固嘗聞之矣。明日端復飲于市、欲遇而刺、明旦之市而醉、其真子恐其父之不能反也、遂逝迎之、丈人望其子、抜而刺之、丈人智惑于似其子者、而其真子、夫惑于似士者、而失于真士、此黎丘丈人之智也、疑似之迹、不可不察、察之必于其人也。夫子之相似者、其母常之、知之也。」

[12]羅弥高。の人。字は六、号は仰山。雍正五年(千七百二十七年)丁未科士、三甲一百三十六名。文清吏司主事を授かり、官は江西道察御史に至り、西、山西、浙江察を理した。

[13]通政司。明清内外の奏章と訴訟の文を收受、検查する中央機構。その通政使。http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic80Zdic9A46840.htm

[14]未詳。『清史稿』に二つ用例あり。『清史稿』卷八十二・習儀「習儀凡大祀前四十日、中祀前三十日、旬三、六、九日、太常卿帥讀祝官、贊禮郎執事、樂舞集神樂署、習儀凝禧殿。故事、祭祀先期、太常寺演禮壇廟中。雍正九年諭曰:「是雖義取嫻熟、實乖潔齊嚴肅本旨也。」乃停前一日壇廟演禮。其前二日凝禧殿如故。饗太廟、以王公一人監視宗室、覺羅官。祀先師、祭酒、司業監視國子師生、同日習樂殿庭、令樂部典樂監視亦如之。謁陵寢、讀祝官等亦遇三、六、九日習儀皇陵。又暮將祭享、選大臣打莽式、例演習於禮曹。時議謂發揚蹈氏A為公庭萬舞變態云。」。『清史稿』卷八十二・陪祀「陪祀順治時、詔陪祀官視加級四品以上。康熙二十五年、以喧語失儀、諭誡陪祀官毋慢易。尋議定論職不論級。郊壇陪祀、首公、訖阿達哈哈番、佐領。文官首尚書、訖員外郎、滿科道、漢掌印給事中。武訖游擊。祭太廟、社稷、日月、帝王廟、武至參領、文至郎中、餘如前例。御史、禮曹並糾其失儀者。既以浙江提督陳世凱請、文廟春秋致祭、允武官二品以上陪祀。三十九年、申定陪祀不到者處分。乾隆初元、定陪祀祗候例、祭太廟、俟午門鳴鼓。祭社稷、俟午門鳴鐘。祭各壇廟、俟齋宮鐘動:依次入、鵠立、禁先登階。並按官品製木牌、肅班序。七年、定郊廟、社稷赴壇陪祀制、遣官代行、王公大臣等不陪祀、餘如故。明年、定郊祭前一日申、酉時及祭日五鼓、禮部、察院官赴壇外受職名、餘祀止當日收受。二十七年杪、諭通覈陪祀逾三次不到者、分別議懲。咸豐十年、諭朝日陪祀無故不到或臨時稱疾、並處罰。光緒九年、申定祗候例、大祀夜分、中祀雞初鳴、朝服蒞祭所。」。

[15]http://baike.baidu.com/view/100673.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E9%BB%83%E7%AD%8C&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[16]http://baike.baidu.com/view/52992.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E5%BE%90%E7%86%99&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[17]光の人、雍正甲辰の挙人。巻六に見える。

http://hrch43.blog.163.com/blog/static/771897132009111585941943/ 

http://www.keweishang.com/xc/display.asp?id=256

http://archive.ihp.sinica.edu.tw/ttscgi/ttsquery?0:0:mctauac:TM%3D%C0N%B3%C6  

[18]衛廷璞は雍正元年進士。

http://www.gzlib.gov.cn/special_topic/detail.do?id=326979&specialTopicId=781 

http://www.xctour.com/lswh3_2.aspx?id=6158&tid=327

[19]原文「康熙中江南有征漕之案」。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicBEZdic81119128.htm「征漕」は漕糧を徴收すること。漕糧は東南地域から京師に送られる税糧。ここでいう「征漕之案」が具体的にどのような事件であったかは未詳。

[20]http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE4ZdicB9Zdic9D320615.htm冥土。

[21]『孔子家·周』「孔子周、遂入太祖后稷之堂右之前、有金人焉、三其口、而其背曰「古之慎言人也、戒之哉。無多言、多言多。無多事、多事多患。安必戒、無所行悔。勿、其。勿何害、其将大。勿喟不、神将伺人。焰焰不、炎炎若何。涓涓不壅、終為江河。綿綿、或成網。毫末不札、将斧柯。」

[22]http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE6ZdicB6Zdic938043.htm水流がなければ合流して大河となる小さな問題も注意を加えて正さなければ、大問題になることの喩え

[23]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic96ZdicA7157244.htm斧。

[24]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicAFZdicAB294206.htm

が萌したに重しないでいると、大きな患を成し、除こうとしても、きわめていことの喩え

[25]直隸天津府の鎮名。

[26]原文「生供」。未詳。とりあえずこう訳す。

[27]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9AZdic8B73829.htm虞舜のの司法官。

[28]原文「不能入其罪也。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[29] http://www.qiyunge.com.cn/main/productinfo.asp?id=860 鍾灃。忻湖は字。長興諸生。書を善くした。(『湖州書譜』)

[30]他の役人と共同で調査をするのであろう。

[31]消弭は消除すること。http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicB6Zdic88329286.htm

弥縫は覆い隠すこと。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicBCZdicA5285247.htm

[32]包拯。http://baike.baidu.com/view/1716.htm

[33]山東済南府の県名。

[34]未詳。

[35]山東武定府の県名。

[36] 『四庫提要』桐山老農文集「元魯貞撰。貞字起元。自號桐山老農。開化人。……如武安王廟記迎神中。有蘭佩下兮桂旗揚。乘赤兔兮從周倉句。考周倉之名。不見史傅。是直以委巷俚語」。

http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/ShikoTeiyo/0355301.html 

http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E6%89%80%E5%AE%89%E9%81%BA%E9%9B%86 

[37]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6ZdicB0Zdic94157073.htm気運、命運。

[38]襄陽県と漢口市一帯。

[39]名利権勢逐うことに急であること。http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic83ZdicAD287521.htm

[40]張延緒。順治三年進士。滄州の人。光緒九年『畿輔通志』巻二百三十六参照。

[41]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic83Zdic95166558.htmれるさま憂えるさま。はっとするさま。

[42]治水工事を管理する官http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB2ZdicB3317354.htm

[43]滄州の地名らしいが未詳。http://www.google.com/search?q=%E8%A4%9A%E5%AF%BA&btnG=Google+%E6%90%9C%E7%B4%A2&hl=zh-CN&lr=&sa=2

http://maps.google.com/maps?q=%E8%A4%9A%E5%AF%BA&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[44]霞帔。http://baike.baidu.com/view/350549.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E9%9C%9E%E5%B8%94&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[45] 原文「天視自我民視、天聽自我民聽。」。『尚書』周書泰誓中http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=3925&if=gb&searchu=%E5%A4%A9%E8%A6%96%E8%87%AA%E6%88%91%E6%B0%91%E8%A6%96

[46]山東済南府の県名。

[47]http://baike.baidu.com/view/226687.htm

[48]直隸河間府の県名。

[49]未詳。

[50]康熙四十五年。千七百六年。この年、王徳安という進士なし。

[51]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicA0ZdicB0174493.htm雷、器物落ちたりぶつかったりする音、水流が激する音のさま。

[52] http://www.jixiaolan.net/htm/jianshi.htm 

[53]六番目の堂舅母。堂舅母は母親の実の兄弟の嫁。

[54]李若龍。東光県(今河北省東光県)李荘の人、字は又、雍正十三年(千七百三十五年)挙人、著に『又詩草』がある。光緒『東光県志』に「文詞精粋、詩類香山」とある。

[55] http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%96%87%E6%98%8C%E5%B8%9D%E5%90%9B 

[56]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic96Zdic87160966.htm文章の優劣を判定し、士人を採用する力。紀ホは乾隆二十七年(千七百六十二年)五月、提督学政として福建を学している。提督学政は郷試を主裁する官。

[57]科挙試験が行われる会場である貢院内にある建物のひとつ。

http://www.hudong.com/wiki/%E8%B4%A1%E9%99%A2 

[58]http://baike.baidu.com/view/342531.htm

[59]法令の条文。http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA7Zdic91287572.htm

[60]劾する奏章。http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic99ZdicBD189856.htm履は弊を論じ、拜に憎まれた経験を持つ。前注参照。

[61]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicA1Zdic885367.htm本来官府のことだが、ここでは試験の答案のこと

[62]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic9CZdicB1333247.htm

朱衣使者。科官。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic9CZdicB1135034.htm

『天中』卷三十八の引く宋令畤『侯鯖録』にある、欧陽修が試験官をし、答案を合格とするとき、かれの後ろで朱衣の人が頷くのを感じていたという故事がある。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic9CZdicB1304628.htm

「赫赫科條、袖裡常存惟白簡。明明案牘、簾前何處有朱衣」、全体の意味は、法律ははっきりしているから、情実にとらわれてはいけない。答案ははっきりしており、判定は人間が行う、神が行うのではないということ。

[63]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE9ZdicB8ZdicA1341955.htm痩せて弱い身体の喩え。

[64]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5Zdic92ZdicBB87759.htm喘ぐさま。

[65]未詳。

[66]未詳。卷十七に見える。

[67]く寒さをびているさまhttp://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE7ZdicBFZdicA636944.htm

[68]木が高く大きな林。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE4ZdicB9Zdic94113024.htm

[69]久しく立つこと。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicBBZdicB6302531.htm

[70]寒の家。http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic9FZdicB4307461.htm

[71]http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic86Zdic9B337034.htm 助のにある 

[72]武器、弾薬等の称。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic86Zdic9B337042.htm

[73]新疆迪化府の県名。

[74]塞の秋の荒凉たる景色。http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic99ZdicBD186720.htm 

http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE7Zdic99ZdicBD2286.htm 

[75]巴彦弼http://npmhost.npm.gov.tw/ttscgi2/ttsquery?0:0:npmauac:TM%3D%C4%B1%C3%B9%A4%DA%AB%DB%B4%5D 

[76]華山畿はの歌曲名。言い伝えでは、南朝宋少帝の南徐の一士人が、山畿から雲陽に往った。客舍に年十八九の娘がいるのを、気に入ったが機縁がなかったので、心の病となって死んだ。葬る日、山を、女の家の至ると、牛は進もうとせず、打ってもかなかった。女は沐浴して出ると、歌った。“山の畿、君既に儂の死し、独り活きて施さん。れまるる若く、棺木儂の。”棺はすぐに、女は身を棺に入れて死に、合葬され、“神女塚”といわれたという。『集·清商曲辞三·山畿』引『古今楽録』参照。

http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic8DZdic8E203318.htm 

樂府詩集 卷四十六http://www.xysa.com/xysafz/book/yuefushiji/t-046.htm 

[77]未詳。

[78]高鳳翰。http://baike.baidu.com/view/226094.htm

[79]劉希夷『秋日汝陽潭壁』

[80]陽光の下の波。http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic99ZdicB4325361.htm

[81]http://baike.baidu.com/view/64502.htm

[82]正月は十一月。夏は一月を正月とする。http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicA4Zdic8F216539.htm

http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic91ZdicA8113261.htm

[83]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic9BZdicB079713.htm曰若」は発語辞。

[84]原文「講曰若稽古、動至十四萬言」。「曰若稽古」は『·典』の言葉。「曰若稽古三万言」という言葉があり、「曰若稽古」を解釈するのに三万言を費やすことで、経書を解釈して冗長に失することの喩え。「十四萬言」の根拠は、おそらく(堯典についての)「十餘萬言」+(曰若稽古に ついての)「三萬言」=十四萬言。『漢書』藝文志第十:師古曰:「言其煩妄也.桓譚新論云秦近 君能 堯典、篇目兩字之 至十餘萬言、但 『曰若稽古』三萬言.」

[85]前注参照

[86]山東膠州直隸州の県名。

[87]『幽明「晉兗州刺史沛國宋處宗、嘗買一長鳴雞、愛養甚至、恆籠著窗間。雞遂作人語、與處宗談論、極有言致、終日不輟。處宗因此言功大進。」

[88]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic9BZdicA2215011.htm草屋。

[89]《華陽國志》卷三

http://zh.wikisource.org/zh/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B7%E4%B8%89

《水經注》卷三三 江水引《風俗通》

http://zh.wikisource.org/zh/%E6%B0%B4%E7%B6%93%E6%B3%A8/33 

《太平廣記》卷二九一 引《成都記》

http://www.tianyabook.com/gudian/taipingguangji/294.htm  

[90]乾隆十九年(千七百五十四年)以前。 この年、紀容舒は雲南姚安知府の任期が満了した。

http://www.jixiaolan.net/htm/nianbiao.htm 

[91]http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E9%A6%99%E6%AB%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

http://baike.baidu.com/view/31006.htm

http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9ZdicA6Zdic99302172.htm

[92]母方のおじ。http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic88Zdic85209573.htm 

[93]卷二十二にも出てくる。

[94]後妻の生んだ子女前妻を呼ぶときの称。http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5Zdic89Zdic8D324692.htm

[95]家中での祖先にする祭祀。http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicAEZdicB6318652.htm

[96]原文「事死如生」『荀子』禮論:「故事死如生,事亡如存,終始一也。」『春秋左氏傳』哀公十五:「曰事死如事生,禮也」。『禮記』祭義:「文王之祭也:事死 者如事生,思死者如不欲生,忌日必哀,稱諱如見親。祀之忠也,如見親之所愛,如欲色然」。『弟子規』「喪盡禮,祭盡誠,事死者,如事生」。

[97] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic9BZdic9E318077.htm 死者の魂が数日後に家に戻ること。

[98]山東青州府の県名。

[99]乾隆九(千七百四十四)年

[100] http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%A4%A7%E6%98%8E%E6%B9%96 

http://www.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E5%A4%A7%E6%98%8E%E6%B9%96&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi 

 

[101]乾隆三十八、三十九(千七百七十三〜七十四)年。紀曉嵐五十〜五十一歳。

[102]直隸正定府の県名。

[103]曹学閔。字は孝如、号は慕堂、山西汾陽の人。乾隆十九年士、内学士、宗人府丞となる。http://npmhost.npm.gov.tw/ttscgi2/ttsquery?0:0:npmauac:TM%3D%B1%E4%BE%C7%B6%7B 

[104]http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E9%86%89%E9%8D%BE%E9%A6%97&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[105]董元度。字曲江。http://www.hudong.com/wiki/%E8%91%A3%E5%85%83%E5%BA%A6 

[106]衣を打つ杵。図の下方に見える物。:『三才図会』

[107]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicA0ZdicB2347404.htm

柳でんだ、形状が斗に似た容器。「笆斗」とも。

[108]『孝経』三才章「子曰、夫孝、天之經也、地之義也。」

[109]直隸河間府交河県の鎮名。

[110]『礼記』孔子闍潤E卷五十一。

[111]雲がだんだん集まりあうこと。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8Zdic82ZdicA4162880.htm

[112]『春秋公羊傳』僖公三十一年。

[113]土で作った。雨乞いに用いた。http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5Zdic9CZdic9F296124.htm

[114]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB2ZdicB92016.htm潤沢であるさま。

[115]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE9ZdicBEZdic99345226.htm深淵。

[116]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9ZdicB2Zdic8A343706.htm畜の内臓結石。蒙古人はこれを水に浸して雨乞いに用いる。明陶宗·祷雨』「往往蒙古人之祷雨者……惟取浄水一盆、浸石子数枚而已。其大者若鷄卵、小者不等。然後默持密呪、将石子淘漉玩弄、如此良久、輒有雨……石子名曰鮓荅、乃走腹中所、独牛者最妙。」

[117]はかに拘泥するさまhttp://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8ZdicA7Zdic8444308.htm

[118]紙器:紙製の冥器。 

http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic86ZdicA5323709.htm 

[119]戈源(千六百三十六―千六百九十)。http://www.jixiaolan.com/jianshi.htm 

[120]太僕は太僕寺。馬政を司る官署。http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA87634.htm

[121]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic96ZdicB9161797.htm

方丘。地。夏至に地祇を祭った

[122]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE8Zdic86ZdicB3223394.htm料理人

[123]官を辞めて家に年老いた戚をうことhttp://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7ZdicBBZdic88336617.htm

[124]雲南曲靖府の県名。

[125]http://www.google.com/images?hl=zh-TW&gbv=2&tbs=isch%3A1&sa=1&q=%E6%BB%87%E5%8D%97%E5%8B%9D%E5%A2%83%E5%9D%8A&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai 

[126] 新疆の地名。鄯善県辟展郷。http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%BE%9F%E5%B1%95&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl 

[127] http://www.dzszx.gov.cn/xszx/html/?2184.html 

[128]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic92ZdicB1359935.htm窃盗を防ぐために設計された重品を入れる金属の戸棚。

[129]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic8AZdic8A221760.htm

清代、各地の兵の配下および巡捕五けた。低武官。

[130]未詳だが、模様のある絹織物であろう。

[131]http://www.zdic.net/cd/ci/1/ZdicE4ZdicB8Zdic80330580.htm矢の射程一つ分の距離。

[132] http://www.shuku.net/novels/classic/taipinggj/tpgj095.html 『太平広記』卷第九十五 異僧九・洪ム禅

[133] http://baike.baidu.com/view/39141.htm 、牛、羊、猪、狗、

[134]吉木薩爾(ジムサル)のこと。新疆の地名。正史では「済木薩」と表記される。http://baike.baidu.com/view/266195.htm

[135] http://baike.baidu.com/view/59829.htm 

[136]http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E9%9B%AA%E8%8E%B2%E8%8A%B1&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

http://baike.baidu.com/view/5173.htm

http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9Zdic9BZdicAA275145.htm

[137]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE7ZdicA3Zdic9F148086.htmローラー。

[138]衣を叩く砧。図の上方に見える物。:『三才図会』

[139]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E7%8C%AE%E5%8E%BF%E3%80%80%E5%8F%8C%E5%A1%94%E6%9D%91&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=il

[140]湖北徳安府の県名。

[141]清雍正四年(千七百二十六年)壬子癸丑科の聯捷進士、懐蘭県令、献県令、京郊遊巡使に任ぜられた。清·乾隆四年(千七百四十年)、江西広信、上饒、九江、南康四郡観察使(道台)となった。巻一に見える。

[142]『春秋左傳』襄公二十一年。

[143] http://baike.baidu.com/view/61988.htm 

[144] http://www.zdic.net/cd/jd/6/ZdicE5Zdic86Zdic9B208242.htm (2)

[145]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic9BZdic84329571.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E9%9B%84%E9%BB%84&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E9%BB%84

[146] http://www.jixiaolan.com/jianshi.htm 紀昭

[147]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic97Zdic88304615.htm

[148]正一真人。正一嗣教真人。正一道の教主張天師のこと。官名。龍虎山正一真人。正三品。『清史稿』巻一百十五・僧道司参照。龍虎山は江西省広信府の山名。張道陵の子孫が代々居住していた。巻十、十三にも見える。

http://gan.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A9%E5%B8%AB%E4%B8%96%E7%B3%BB&variant=ganhttp://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:2MPgrylEM8cJ:www.hebdj.com/bbs/ShowPost.asp%3FThreadID%3D22+%E5%BC%B5%E9%81%87%E9%9A%86&cd=15&hl=zh-CN&ct=clnk

[149]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE5Zdic82ZdicAC52979.htm女の分娩を促す符

[150]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8ZdicAFZdicAD255226.htm

神の名。唐段成式『酉陽俎·上』「、敬、二鬼名、臨産呼之、不害人。三寸三分、上下衣。」

[151]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic89ZdicB0285105.htmのさま

[152]原文「即神不嫌瀆、而一符一將、是煉無數之將、使待幽王之烽火。」。幽王は褒姒を笑わせるために緊急事態でもないのに狼煙をあげ、諸侯を呼び寄せたことで有名。この句、用事もないのに神将を呼び出すことを喩えたもの。

[153]http://baike.baidu.com/view/225725.htm

[154]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic88Zdic9A27590.htmの気

[155]前注参照。巻一にも見える。

[156]原文「斉東語」。「斉東野語」のこと。でたらめ。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9ZdicBDZdic90344782.htm

[157]清代朝服の上に佩びる珠。念珠に似、百八粒ある

http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic9CZdic9D159510.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%9C%9D%E7%8F%A0&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[158]で、雷を主管する部http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9Zdic9BZdicB7264218.htm

[159] 「律令」は道教で迅速に走る神をいう。「鬼律令」は未詳だが、鬼卒のことであろう。http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicBEZdic8B315635.htm

[160]笑うさま。http://www.zdic.net/cd/ci/18/ZdicE5Zdic86Zdic81101648.htm

[161]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBDZdicBF19314.htm紀ホは乾隆二十七年(千七百六十二年)に提督学政として福建を学している。その駐在所。

[162]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E5%B8%B8%E7%A3%9A%E6%B2%B3&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[163]http://baike.baidu.com/view/263384.htm

[164]戦勝章の句。ものを捕らえるときは気が大事ということか。

[165]直隸河間府の県名。

[166]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicAEZdic98124360.htm

官府が修建した大道。ひろく大道を称する。

[167]直隸河間府の県名。

[168]直隸河間府の州名。

[169]未詳。

[170]http://www.zdic.net/cd/ci/18/ZdicE8Zdic97ZdicA936839.htm布政使称。

[171]未詳。

[172]官吏の母をいう。http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA104827.htm

[173]http://images.google.com/images?q=%E8%81%B7%E8%B2%A2%E5%9C%96&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

http://baike.baidu.com/view/454347.htm

[174]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE8ZdicA4ZdicB6.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E8%A4%B6%E5%AD%90&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[175]直隷滄州。『元史』巻五十八・河間路「滄州、中。唐改景城郡。」

[176]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB3Zdic9515498.htm

仏教講経説法する者の座席。仏法を講説する集会。

[177]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/211227.htm&sa=U&ei=ARqmTb2sCZDovQO-luibCg&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNHp2449MSowUEncaVErTgZzyQtI-g 

[178]原文「師以此語告我、亦是有人處誦經矣。」。未詳。とりあえずこう訳す。人知れぬところで経を誦えるという状況ではなくなったことをいっているか。

[179]元天宝事·夢筆生花』「李太白少、夢所用之筆、上生花、後天才逸。天下。」

[180]提督は路提督と水提督に分かれていた。http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%90%E7%9D%A3

[181]馬負書。http://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E9%A6%AC%E8%B2%A0%E6%9B%B8

紀ホは馬書という人物であると誤解しているように思われる。『清史稿』卷三百十七に伝がある。

[182]原文同じ。未詳だが、下役のことであろう。

[183]少司馬は小司馬の誤り。兵部侍郎。史抑堂は史奕昂。http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB0Zdic8F109353.htm

[184]史貽直。http://baike.baidu.com/view/827731.htm

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