第三巻

灤陽消夏録三

 

  兪提督金鼇[1]が言った。かつて夜に辟展[2]戈壁(ゴビ)戈壁(ゴビ)とは、沙石が散乱していて水草を生じない地、瀚海[3]である。)を進んでいると、遥かに動物が見えたが、人のようで人でなく、身長は一丈近くあった。急いで追い、弓を挽き、その胸に中てると、躓いてまた起きた。ふたたび射るとはじめて倒れた。近づいて見ると、大きな蠍虎(やもり)で、人のように立って進むことができたのであった。珍しいことである。

 
  昌吉[4]が叛乱した時、逆党を捕らえ、すべて迪化城西の樹林の中で殺した。(迪化は、烏魯木斉(ウルムチ)で、今は州になっている[5]。樹林は数十里に亘っており、俗に樹窩と言われている。)時に戊子八月であった。後に、林の中に黒い気数団があり、短時間で往来し、夜に歩く者はこれに遇うとかならず迷った。わたしは、これは凶悖の(たましい)が集まって妖怪となったもので、蛇が死に、余毒がなお草木に染みているようなものだから、怪しむに足りないと思った。およそ陰邪の気は、陽剛の気に遇えば消える。数人の兵士を月夜に潜ませ、銃撃させたところ、たちまち散じて消えた。

  
  烏魯木斉(ウルムチ)の関帝祠に馬がおり、商人が神に供えたものであった。かつて一頭で山林の中で草を食み、厩舎に帰らなかった。しかし朔望に神を祭るたびに、早朝からかならず祠の外に立っており、屹然として泥塑のようであった。立つ場所は、尺寸もたがわなかった。小の月でも、時間をたがえずやってきた。祭が終わると、行方が知れなくなった。わたしは道士がさきに祠の外に引いてき、話を神々しくしているだけだと思っていた。庚寅の二月朔日、わたしは祠にやや早くいったが、ほんとうに馬が雪の沙漠をゆっくりと歩いて来、耳を垂らして祠の外に立つのを見た。雪の中にはまったく人の足跡がなかったが、これも奇妙なことであった。

  
  淮鎮[6]は献県の東五十五里にあり、『金史』にいう槐家鎮[7]である。馬氏という者がいたが、その家で突然怪事が起こり、夜中に瓦や石が擲たれたり、幽鬼が嗚嗚(ウウウウ)といったり、人がいない場所でにわかに出火したりした。騒ぎは一年余り収まらず、お祓いも験がなかったので、邸宅を買って引っ越した。賃借りした者がいたが、騒ぎは相変わらずだったので、まもなくよそへ引っ越した。そのため、ふたたび訪ねてこようとする人はいなかった。ある老儒はその事を信じず、安値で買うと、日を卜して引っ越したが、寂然として何事もなかったため、徳が妖に勝てたのだと言っていた。その後、盗人が訪ねてきて罵り争い、邸宅の変異は、すべて老儒が盗賊に賄して夜にさせていたものであり、本当の(あやかし)ではなかったことがはじめて分かった。亡き姚安公は言った。「(あやかし)とて幻術に過ぎないが、老儒の幻術がこのようなものであるなら、真の(あやかし)と言うことができる。」。

  
  己卯七月、姚安公[8]は苑家口[9]で一人の僧に遇った。僧は合掌して言った。「別れて七十三年、会ってもお斎食を出さぬのか。」。たまたま宿屋で売られていたのは、すべて精進ものだったので、いっしょに食らった。その年を尋ねると、嚢を解いて度牒を出したが、前明の成化二年に発給されたものであった。何代伝えているのかと尋ねると、にわかに嚢に収め、言った。「おんみはわたしを疑っていらっしゃるから、もはやお話しすることはない。」。食らいおえずに去ったので、結局その真偽はわからなかった。姚安公は、かつてこのことを挙げてわたしを戒めた。「士大夫は奇を好み、しばしばこのやからに煩わされる。たとい真仙真仏でも、そのまま見過ごしたほうがよい。」。

  
  わたしの家の築山に小さな楼があり、狐が住むこと五十余年であった。人は上ってゆかず、狐も下りてこず、たまに窓や扉が風もないのにひとりでに開閉するのが見られるばかりであった。楼の北は緑意軒といい、老樹が陰森としており、夏に涼む場所であった。戊辰七月、たちまち夜中に琴の音と、碁を打つ音が聞こえたので、しもべは奔って姚安公に告げた。公は狐の仕業であることを知っていたので、まったく意に介さず、ただしもべを顧みて言った。「おまえたちが飲んだり賭博したりするよりましだ。」。翌日、わたしに告げた。「海客が無心であれば、白鴎は近づける[10]。たがいに親しんですでに久しいのだから、見ざる聞かざるの対応をするべきだ。」。今でもまったく異変はない。

  
  丁亥の春、わたしは家族を連れて京師に行ったが、虎坊橋[11]の旧宅を買っていなかったので、ひとまず銭香樹先生[12]の空き家に行った。話では、この楼の上にも狐が居るということであったが、雑貨をしまって鍵をかけておくだけで、人はかるがるしく登らなかった。わたしは戯れに一首の詩を壁に貼った。「草草と家を移してたまたま君に遇ひ、一楼の上下しばらく平分す。詩に耽るはもとよりこれ書生の癖、徹夜吟哦するも聞くを厭ふなかれ。」。ある日、妾が鍵を開けて物を取ろうとしたところ、慌てておかしいと叫んだので、わたしが走っていって見ると、床板の塵の上いっぱいに(はす)が描かれており、茎や葉はすっくとして、趣きを具えていた。そこで紙と筆を几の上に置き、さらに一首の詩を壁に貼った。「仙人はたして楼居を好み、文采風流われは如かず。あらたに得たり呉箋三十幅、一一(はす)を描くを得るや。」。数日後に開いて見ると、絵は描かれていなかった。裘文達公[13]に告げると、公は笑って言った。「銭香樹さんのお宅の狐は、やはり文雅ですな。」。

  
  河間[14]の馮樹、やや文才があったが、京師で落魄すること十余年、機会に遇っても、絶対に成就せず、人にお願いしても、口約束ばかりで実際の恩恵は得られないのであった[15]。苦しみ憂え、呂仙祠[16]で夢占いしたところ、夜に一人の男を夢みたが、男はこう語った。「人情が薄いのを恨んではならぬ。この因縁はおまえがみずから作ったものだ[17]。おまえは過去生の中で、虚言によって長者としての名声を博することを好み、善いことがあるのを見れば、けっして褒められないことが分かっていながら、かならず再三励まし、人がおまえに褒められたことに感謝するようにさせた。悪人に遇えば、許せぬものと分かっていながら、再三弁明し、人がおまえに助けてもらったことに感謝するようにさせた。人に損害も利益も与えていないのに、恩恵はすべておまえのおかげとし、怨恨はかならず人のせいとし、偽りはひどいものだった。それにおまえが褒め、助けたものは、すべておまえと関わりなく、利益があろうが損害があろうがどうでもよいものであった[18]。事がすこしでもおまえに関わっていれば、避けるのが速くないことだけを恐れ、人が苦しむのを坐して見ながら、手を挙げるほどの力さえも、煩わしさを憚って使わなかった。その心を今でも反省することができるか[19]。こうして考えると、人はおまえと上辺は親しいが内実は親しくなく[20]、外観は親切だが内心は冷淡であったことになるが、これはよいことであろうか。鬼神が人を責めるとき、一二の行いの失敗は、善行によって相殺できるが、罪が心にあるものに至っては、陰律[21]に容れられない。今生はもう終わりだから、つとめて来世への功徳を修めればよかろう。」。後にほんとうに餓え凍えて死んだ。

  
  史松涛先生[22]は諱を茂といい、華州[23]の人、官位は太常寺卿[24]に至り、亡き姚安公と親友であった。わたしが十四五歳の時、かれが亡き姚安公とある事を語っていたことを思い出す。それはこのようなことであった。「某公が有能なしもべを打ち殺したことがあったが、しもべは後に気の狂った下女にとりつき、某公に弁じた。『わたしは不正をいたしましたから、殺されて当然でございますが、ご主人さまがわたしを殺されましたのには、まったく承服できません。ご主人さまが高い爵位、厚い俸禄を受けていらっしゃるのは、わたしが主恩を受けているのと同じではございませんか。官爵を売り、金銭を蓄え、鉅万に至っているのは、わたしが賄賂を受けたのと同じではございませんか。××の事、○○の事で、是非を顛倒し、生死を逆転させたのは[25]、わたしがひそかに権柄を弄んだのと同じではございませんか。ご主人さまは国に(そむ)けるのに、どうしてわたしがご主人さまに(そむ)いたことをお責めになります。ご主人さまはわたしを殺されましたが、ほんとうに承服いたしません。』。某公は怒って撃ち倒したが、なお嗚嗚(ウウウウ)といって止まなかった。後に某公も天寿を全うすることができなかった。そこで嘆いた。「わたしたちはけっしてそこまではゆくまいが、長いものに巻かれ、坐して俸給を食らいながら、つねに下男下女が仕事をしないのを責めていれば、やはり腹のなかで誹られているのではないか。」。

  
  束城[26]の李某は、棗を売るために隣県に往来していたが、ひそかに宿の主人の若妻を誘惑して帰った。家に着くと、自分の妻がすでに男とともに逃げていたので、驚いた。「この女を連れてきてよかった。さもなければ(やもお)になっていた。」。人が妻の駆け落ちした時期を計算すると[27]、まさに若妻が駆け落ちした日であった[28]。ぴったり報いがあったのに、なおも悟らないのだろうか。その後、若妻は農家に住むことを楽しまず、ほかの若者に従って逃げたので、はじめて茫然自失した。後にその夫が跡を追って束城に来たので、李を訴えようとした。李は若妻がすでによそへ去っており、証拠がなかったので、頑固に罪を認めなかった。争っていると、村に扶乩する者がいることを聞いたので、人々は言った。「神にお尋ねしてはどうか。」。神はお告げとして一首の詩を述べた。「鴛鴦夢(よろ)しく両つながらに歓娯す、記すや否や羅敷[29]にもとより夫のあるを。今日逢ひて一笑を(もと)むるは、あきらかに様に依り葫蘆を()くなり[30]。」。その夫は黙然としてすぐに返った。両県は境を接していたのでそのことを知る者があり、言った。「あの妻ももとはその夫がかどわかしてきた者だ。」。

  
  媼は、わたしの弟の乳母であったが、荔姐という娘がおり、近くの村の民家に嫁いで妻となった。ある日、母が病んだことを聞き、婿が同行するのを待たず、いそいでやってきた[31]。すでに夜になっており、欠けた月がかすかに明るかったが、振り返ると一人の男が急いで追ってきたので、悪人かと思った。曠野で助けを求めることができなかったので、古い塚の白楊の下に身を隠し、(かんざし)(みみわ)を懐に納め、(おび)を解き、頚に繋ぎ、ざんばら髪になり、舌を吐き、目を瞠り、直視して待っていた。男が近づこうとすると、かえって招いて坐らせた。男は逼って見ると、縊鬼だと思い、驚き倒れて起きなかったので、姐は狂ったように奔って逃れることができた。門に入ると、家では大いに驚いた。事情をゆるゆる尋ねると、怒ったり、笑ったりし、近所に質そうと相談した。翌日、某家の若者が、幽鬼に遇って昏倒した、その幽鬼は今なお憑いており、若者はすでに発狂譫語していると喧伝されていた。その後、医薬符もまったく験がなく、癲癇で亡くなった。これは恐怖のあまり、邪魅が機に乗じて憑いたのかも知れず、一切の幻想が、心によって造られていたのかも知れず、神が悪人を殺し、ひそかにその魄を奪ったのかも知れなかった。しかし、いずれにしても狂且[32]の戒めとすることができる。

  
  制府[33]の唐公執玉[34]は、かつて殺人事件を審理、判決していた。ある夜、燭台を点してひとり坐していると、突然かすかな泣き声が聞こえ、だんだん窓に近づいてくるかのようであった。若い下女に出て見るように命じると、嗷然[35]として倒れた。公がみずから簾を開くと、幽鬼が血を浴びて階下に跪いており、声を荒げて叱ると、稽顙[36]して言った。「わたしを殺した者は○○ですが、県官は誤って××を罰しようとされています。仇を雪がなければ、瞑目できません。」。公が「わかった。」と言うと、鬼は去った。翌日、みずから訊問すると、人々は死者の衣履を提出したが、見たものと合っていた。確信はますます堅く、鬼が言っていた通りに、○○を罰することに改めようとした。取調官はあれこれ弁じたが、結局、南山を移すことができても[37]、この事件は動かないと思った。その幕友はほかにわけがあることを疑い、そっと公に尋ねると、はじめてくわしく顛末を話したが、どうしようもなかった。ある晩、幕友は面会をこうと、言った。「幽鬼はどこから来ましたか。」「ひとりで階下に来た。」「幽鬼はどこから去りました。」「突然塀を越えて去った。」。幕友は言った。「幽鬼は、形はあって(なかみ)はございませんから、去るときは奄然[38]として隠れるべきで、塀を越えるはずはございません。」。そこで塀を越えた処を検分してみた。(しきがわら)瓦は割れていなかった雨の直後だったので、幾重もの屋根には、ことごとくぼんやりと泥の足跡があり、まっすぐ外の垣に達して地に下りていた。そこで、指さして公に示すと言った。「これはきっと囚人が身軽な泥棒[39]に賄してさせたことでございましょう。」。公は沈思して恍然とさとり、原案に従った。そしてその事を隠し、ふかく調べもしなかった。

  
  景城[40]の南に荒れ寺があった。四方に住民はおらず、ただ一人の僧が二人の弟子を伴い、香火を司っているばかりであったが、いずれも蠢蠢[41]として村傭[42]のよう、人に会っても挨拶をすることはなかった。しかし、きわめて狡猾であり、ひそかに松脂を買うと、焼いて粉末にし、夜に紙で巻いて火を燃やした。空中に撒くと、炎の光は四方に射した。望み見たものが走っていって尋ねると、師弟は戸に鍵を掛けて熟睡しており、みな気づかなかったと言った。さらにひそかに劇場の袈裟を買い、菩薩や羅漢の姿になり、月夜に棟に立ったり、寺の入り口の樹の下に隠れたりし、望み見たものが走っていって尋ねると、やはり見なかったと言った。あるひとが見たものを挙げて語ると、合掌して言った。「仏は西天におわしますのに、この荒れ寺に来てどうするのでしょう。お上は白蓮教を禁じています。おんみに仇はございませんから、左様なことを仰って、みどもに禍をもたらすことはございません。」。人々は仏が示現したのだとますます信じ、布施は日に日に多くなった。しかし、寺は日に日に壊れてゆくのに、一枚の瓦、一本の椽さえ修理しようとしなかった。そして言った。「この地方の人々は流言を広めることを好み、この件に関しては怪しいことが多いとつねづね言っています。さらに荘厳すれば、人々を惑わす者たちにますます口実を与えましょう。」。十余年貯えてだんだんと富を致した。すると、にわかに盗賊がその部屋を窺い、師弟を殴り殺し、その財産をすべて持ちさってしまった。お上が遺された(ふくろ)(はこ)を調べると、松脂や舞台衣裳の類が見つかったので、はじめて師弟の奸詐を悟った。これは前明の崇禎末年の事であった。亡き高祖厚斎公[43]が言った。「この僧が誘惑しないことによって誘惑したのは、いたって巧妙であった。しかし誘惑して得たものがみずからを損なったので、いたって拙かったといっても可である。」。

  
  ある書生が一人の孌童を愛し、夫婦のようにしていた。孌童は病歿しそうになると、ひどく悲しみ慕い、息が絶えても、手に書生の腕を執っており、開くと離れた。その後、夢に現れ、燈や月の下に現れ、昼にも現れるようになった。つねに七八尺離れており、尋ねても語らず、呼んでも進まず、近づけば退くのであった。そのため、惘惘[44]として精神病になったが、符籙で祓っても験がなかった。かれの父親はひとまずかれを叢林(てら)に泊まらせ、鬼が仏地に入ろうとしないことを願ったが、寺にゆくと、相変わらず現れるのであった。一人の老僧が言った。「さまざまな魔障[45]は、すべて心に起こる。ほんとうにその孌童ならば、それは心が招いたのだ。その孌童でないならば、それは心が迷わされているのだ。おまえの心を空しくしさえすれば、一切はすべて消えよう。」。ほかの老僧が言った。「師は下等の人に上等の法を説いていられますが、このものは定力[46]がなく、心を空しくすることができません。これはまさに病症を説くだけで、薬物を与えぬようなものでございます。」。そこで生に語った。「邪念が纏いつくのは、草が根を生じているようなものだ。物が孔の中にあり、楔で出すとき、楔が孔に満ちれば物はおのずと出るが、そのようにするべきだ[47]。おまえは考えるべきだ。この童が歿した後、その体は強ばって冷たくなり、脹れ、臭くなり、腐り、屍虫(うじ)が動めき、臓腑が裂け、血肉は散乱し、さまざまな色となり、その面目は変貌し、だんだん変色し、羅刹のように変相することを。そうすれば恐怖の思いが生じるだろう。また、この童が生きていたとしても、一日生長するごとに、むくつけくなり、美しさがなくなり、鬑鬑[48]鬚が生え、長い髯は戟のようになり、顔が黒ずみ、髪が斑白となり、両鬢が雪のようになり、頭が禿げ、歯が抜け、背が曲がり、咳をし、涙や涎を垂らすに至る、穢らわしくて近づけなくなることを。そうすれば厭悪の念が生じるだろう。また、この童が先に死んだので、こちらがかれを思っているが、こちらが先に死ねば、かれは貌が美しいから、かならず人が誘い、利益に釣られ、権勢に脅かされれば、かれは寡婦のように貞操を守ることはなく、一朝にして離れてゆき、他人の枕席に進むだろう。こちらが生きていた時に、こちらに向けられていた種々の淫らな言葉、種々の淫らな姿態は、すべてその者に向けられ、歓楽をほしいままにされ、従前のさまざまな愛情は、浮雲が散じて消え、滓さえなくなるかのようになことを。そうすれば憤怒の念が生じるだろう。また、この童が生きていたら、寵を恃んで跋扈し、こちらは堪えがたく、時折喧嘩すると、顔色を変えて罵るかもしれない。こちらが豊かでなくなり、要求を満たさなくなれば、にわかに異心を生じ、容貌が冷淡になるかもしれない。他人の富貴を見れば、こちらを棄ててあちらにゆき、こちらに遇っても、見知らぬ人であるかのようにすることを。そうすれば怨恨の念が生じるだろう。そのため、さまざまな想念が、心に起こったり消えたりすれば、心に隙がなくなる。心に隙がなければ、一切の愛根[49]欲根[50]は入りこむところがなくなり、一切の魔障は祓わなくてもおのずと退く。」。書生が教えられた通りにすると、数日で現れたり現れなかったりするようになり、さらに数日すると消えた。快復してから訪ねてゆくと、寺に二人の僧はいなかった。あるひとは古仏の化身だと言い、あるひとは十方常住[51]は、行き来するものは雲のよう、たまたま逢ったものであり、すでに遊行してよそへいったのだと言った。

  
  亡き太夫人の乳母廖氏が言った。滄州の馬落坡[52]で、ある女が麺を売ることを生業とし、余った麺で姑を養っていた。貧しくて驢馬を飼えなかったので、つねにみずから臼を回し、毎晩四鼓に達していた。姑が歿した後、墓参りして帰ろうとすると、路で二人の少女に遇ったが、少女たちは女を迎えると笑って言った。「いっしょに二十余年間住んでおりましたが、ご存じでしょうか。」。女は驚いてどう答えていいか分からなかった。二人の少女は言った。「奥さま、怪しまないでください。わたしたち姉妹はどちらも狐です。奥さまの孝心に感じ、毎夜奥さまをお助けし、臼を回しておりましたが、上帝さまに嘉せられ、功徳によって、正果[53]を得ることができました。今、奥さまはお姑さまのお世話を終えられましたので、わたしたち姉妹も登仙してゆくのです。つつしんでやってきてお別れし、ご援助にいっしょに感謝いたします。」。そう言うと、その去るさまは風のよう、瞬く間に見えなくなってしまっていた。女は帰ると、ふたたびその(うす)を回したが、力はほとんどなくなっており、昔のように自在に回すことはできなかった。

  
  烏魯木斉(ウルムチ)は、よい狩場という意味である。わたしがその地にいた時、筆帖式[54]がおり、烏魯木斉(ウルムチ)といった。計算すると、かれが命名された日は、西域が平定される二十余年前のことであった。みずから言うには、生まれた時、父がその祖父を夢みたが、祖父は「おまえが生む子は、烏魯木斉(ウルムチ)と名づけるべきだ。」と言い、指でその字を描いて示した、何の言葉か分からないと思ったが、夢はたいへんはっきりしていたので、とりあえずこう名づけた、今ほんとうにこちらに来るとは思わなかった、こちらで死ぬのだろうかということであった。後に印房の主事[55]に昇進したが、ほんとうに在任中に亡くなった。かれは従軍してから亡くなるまで、ずっとこの地を離れなかった。事がすべて前もって定められているというのは、ほんとうにその通りである。

  
  烏魯木斉(ウルムチ)はさらに言った。巴拉という小者がおり、従軍した時は、賊に遇うたびに力戦していた。後に流れ矢が左頬を貫き、鏃が右耳の後ろに出たが、なおも刀を奮って賊を斬り、ともに倒れた。後に仕事で孤穆第(烏魯木斉(ウルムチ)と特納格爾の間にある)にゆき、夢みたところ、巴拉が目通りしにきたが、衣冠はきちんとしており、小者らしくなかった。夢の中で、かれがすでに死んだことを忘れ、今までどこにいたか、今からどこへゆこうとしているかと尋ねると、答えた。「派遣されてこちらを通り、たまたまご主人さまにお遇いしましたので、積もる思いを申しあげたのでございます。」。どのようにして官職を得たのかと尋ねると、言った。「忠孝節義は、上帝が重んじることでございます。およそ国のために命を棄てた者は、奴僕のように下賎なものでも、生前に罪がなければ、冥土でかならず職務を与えられ、もともと罪がある者も、前の罪を消され、人の世に転生するのでございます。わたしは今博克達山[56]神の部将となり、秩禄は驍騎校[57]と同じでございます。」。どこへ行くかと尋ねると、「昌吉でございます。」と言った。仕事は何かと尋ねると、「送る文書がございますが、知ることはできません。」と言った。にわかに目ざめれば、声はなお耳にあるかのようであった。時に戊子[58]六月であった。八月十六日になると、昌吉で変乱があったが[59]、幽鬼はあらかじめ洩らそうとしなかったのであった。

  
  昌吉築城の時、土を掘ること五尺あまりで、紅い絲の刺繍された女鞋(おんなぐつ)得たが、作りは精緻であり、すっかり朽ちているというわけではなかった。わたしの『烏魯木斉(ウルムチ)雑詩』にいう。「城を築き土を掘り土深深たり、邪許[60]相呼ぶ万杵の音。怪事一声ともに注目し、半鉤の新月蘚花[61]侵す。」とは、このことを詠んだのであった。土に入ること五尺余に至り、もっとも近くても数十年であるはずなのに、どうして腐らなかったのか。額魯特[62]の娘は纏足しないのに、どうして弓型で、僅か三寸ばかりのものを作れるのか。これにはかならずわけがあろうが、今は知ることはできない。

  
  郭六は、淮鎮[63]の農家の妻で、その夫の苗字が郭なのか、父の苗字が郭なのかは分からないが、郭六と呼ばれていたと伝えられている。雍正甲辰乙巳の間、大飢饉があり、その夫は生きられないと思い、四方に出て乞食した。行くときに、稽顙[64]して言った。「父母はいずれも年老いて病気だから、おまえには苦労を掛ける。」。妻はもともと美しかったので、村の若者はその食が乏しいのを見ると、金銭で挑んだが、まったく応じず、針仕事だけで舅姑を養った。その後、どうしても養えなくなると、隣人たちを集め、叩頭して言った。「わたしの夫は父母をわたしに托しましたが、今では力が尽きました。ほかに手立てを考えなければ、みな死んでしまいます。ご近所がわたしを助けられますなら、どうかわたしをお助けください。わたしを助けられませぬなら、ひとまず花をお売りしますが、お笑いにならないでください(俗語で婦女が売春することを「花を売る」という)。」。隣人たちはとどまってひそひそ話すと、おもむろに散じて去った。妻は慟哭しながら舅姑に話し、公然と蕩児らと遊び、ひそかに花代を貯えた。さらに一人の娘を買ったが、防備をたいへん厳しくし、よそものにその顔を見させなかった。ある人は妻が大金を得ようとしているのだと言ったが、妻は弁明しなかった。三年余りすると、夫が帰ってきた。時候の挨拶が終わると、妻はすぐに夫とともに舅姑に会い、言った。「お父さまとお母さまはどちらもご健在です。今からお還しします。」。さらに買った娘を引いてき、その夫に会わせると、こう言った。「わたくしの身は汚れてしまいましたので、恥を忍んでふたたびあなたに顔向けすることができません。ほかに奥さんを娶ってさしあげましたので、やはり今からお渡しします。」。夫が驚いて答えないでいると、言った。「とりあえずお食事を調えてまいります。」。台所へゆくと、みずから(くびき)ってしまった。県令が調べにくると、目は炯炯として閉じていなかった。県令は、先祖の墓に葬り、夫の墓には合葬ないように判断し、言った。「墓に合葬せず夫とは隔てるべきだ。先祖の墓に葬り、かれが舅姑と隔たっていないことを明らかにしよう。」。目は閉じなかった。その舅姑は哀号して言った。「もともと貞婦で、わたしたち二人のためにかようなことになったのでございます。倅が父母を養えないとき、夫に代わって父母を養った者を隔てるのでございましょうか。それに身が男子でありながら養えず、避けて若妻に委ねましたが、他人でもその心は分かっています[65]。誰の過ちによって隔てるのでございましょうか[66]。これはわたしの家の事で、お上が関与なさることではございません。」。語りおわると目は閉じた。当時、県民の議論は割れた。亡祖父寵予公は言った。「節と孝はいずれも大事だ。」。節と孝は両全できず、この一件は聖賢でなければ判断できないので、わたしは一言もいおうとはしなかった。

  
  御史[67]の某が処刑されたときのこと、ある取調官が白昼仮眠していたところ、御史がぼんやりと現れたので、驚いて尋ねた。「冤罪だったのか。」「言官[68]でありながら賄賂を受け、章奏を鬻いだ[69]のだから、法により誅せられて当然だ。冤罪ではない。」「冤罪でないならなぜ会いにきた。」「君に怨みがあるからだ。」「取調官は七八人おり、わたしのように古い付き合いがあるものも、二三人いたのに、なぜわたしだけを怨む。」「君には昔から怨みがあったが、出世するときの軋轢に過ぎず、不倶戴天の怨みではなかった。わたしが審問されていた時、君は怨みを買うのを避けて尋ねなかったが[70]、陽陽[71]として徳色[72]を浮かべていた。わたしが判決を受けた時、君は偽りの言葉で慰めたが、かすかに侮辱を含んでいた。他人は法に拠ってわたしを死刑に処したが、君は宿怨に報いることができたためにわたしの死を喜んでいた。患難の際は、人はもっとも心を悲しませるものだ。わたしはどうして怨まずにいられよう。」。取調官は恐懼し、恥じ、謝ると、言った。「それなら、君はわたしに仕返ししようとしているのか。」「わたしは処刑されたから、君に仕返しすることはできない。君がこのような心でいることは、もとより幸福を得る道ではないから、わたしが仕返しする必要はない。ただ、胸に不満があるので、君に知らせただけだ。」。そう言うと、取調官は眠っているかのよう、目ざめているかのようになった。目を開けると、御史はすでにいなくなっていたが、案頭の残りの茶はまだかすかに温かかった。後に親しくしているものが会ったところ、取調官がぼんやりとしていたので、ひそかに尋ねると、顛末をくわしく話し、喟然[73]として言った。「わたしは石を落とさなかったのに[74]、このような恨みを抱かれた。曽子は『哀矜して喜ぶなかれ[75]。』と言ったが、まさにそのとおりではないか。」。親しくしているものは人にそのことを述べたが、やはり喟然として言った。「私心があれば、罰が妥当であっても承服されない。ましてその罰が不当であるならばなおさらのことだ。」。

  
  程編修魚門[76]が言った。「人の怨みとは激しいものである。宋小岩[77]は臨終のとき、短い手紙をその友人に寄せて言った。『白骨は塵とならんも、遊魂はつひに散ぜじ。黄泉(よみぢ)なる業鏡台、なんぢの会ひに来るを待たん。』。わたしはみずからそれを見た。その友人は臨終のとき、手で牀を打って言った。『宋どの、ひとまずお掛けください。』。わたしはそれをもみずから見た。」。

  
  某公が出張して帰るとき、館舎[78]に宿泊したということであった。当時、庭では菊が盛んに咲いていたので、花の下を徘徊していたところ、少年が疏らな竹の間に隠れていた。年は十四五ばかり、端麗温雅で、盛装した娘のようであった。尋ねると宿の主人の子であることが分かったので、呼んでいっしょに語ったところ、たいへん賢かった。扇を取って贈り、流し目すると、近づこうとするかのようであった。某公もその聡明さを愛し、ともに恋々として優しく語った。時に側近たちはまったくいなかったが、少年はすぐに跪き、某公の裾を引くと、言った。「公がお厭いになりませぬなら、公を欺こうとはいたしません。父は冤罪に陥っておりますが、公の一言があれば生かせましょう。公が助けようとなさいますなら、この身を惜しみはいたしません。」。袖を探って訴状を出そうとしていると、たちまち暴風が吹き、六つの窓や扉がすべて開き、従者たちに窺われそうになった。某公は心の中でおかしいと悟り、急いで去らせ、言った。「晩になったらゆっくりと相談しよう。」。すぐに車を出して去った。後に分かったのだが、土豪が殺人事件を起こし、解決しなかったので、胥吏に賄し、某公を連れてこさせ、その家に泊まらせ、ひそかに孌童を買い、偽ってその子としていたのであった。土豪は側近たちにも賄したので、前にいって秦弱蘭[79]の計を行うことができたのだが、はからずも怨霊に異変を起こされたのであった。裘達公はかつて言った。「この公はたまたま余計なことをしたため、計略にはまりそうになった。士大夫は一言一動を、慎まぬわけにはゆかない。顔を包孝肅[80]のようにしていれば、乗じる隙はなかっただろう。」。

  
  明の崇禎末年、孟村[81]で大盗が掠奪をほしいままにしていた。ある娘が美しいのを見ると、その父母とともに縛った。娘は辱めを受けなかったので、その父母を縛って炮烙[82]を加えた。父母はともに悲しげに叫び、娘に命じて賊に従わせようとした。娘は父母を釈放することを請い、そうしたら従おうと言った。賊は娘が自分を紿いていることを知っていたので、どうしても凌辱した後に釈放しようとした。すると娘は跳びあがって賊の頬を打ったので、父母とともに殺され、屍を野に棄てられた。後に賊は官兵と格闘したが、馬は屍の側に来ると、辟易して進もうとせず、ぬかるみに陥り、捕らえられた。娘にはなかなかに霊力があったのである。惜しいことにその氏名は不明である。娘の事を論じる者は、あるいはこう言う。「娘は家にいるときは、父母の命に従うものだ。父母が賊に従うように命じたのに、自分一人の名を成すために、父母の惨状を座視するとは、娘は残酷過ぎるようだ。」。あるひとは言った。「運命には安定しているときと混乱しているときがあり、賊に従うことは婚約と同列にはできない。父母が娼婦になるように命じても、娼婦になるのか。女に罪はないようだ。」。亡き姚安公は言った。「この話は郭六[83]と正反対で、いずれにも守るべき理があったが、心の中ではけっしてそれらをかたく信じようとは思わない。馬の肝を食らわなくても、味を知らないということにはならない[84]。」。

  
  劉羽沖は、その名を佚[85]といい、滄州の人、亡き高祖厚斎公はしばしば唱和していた。性格は偏屈で、古の制度を講ずることを好んでいたが、実際は迂遠で行うことができないものであった。かつて董天士[86]に絵を描くことを請い、厚斎公に『秋林に()りて書を読む。』の一幅に題することを請うたので、厚斎公はこう言った。「兀坐す秋樹の根、塊然[87]としてともに伍するなし。何の書を読むを知らず、ただ見る鬚眉の古きを。ただ愁ふ手の持つ所、あるいは井田譜[88]なるを。」。これは劉羽沖を諌めていたのであった。たまたま古の兵書を得ると、うやうやしく読んで経典(けいてん)とし、みずからが十万の兵を率いられると考えた。たまたま土寇がいたので、みずから郷里の兵士を教練し、土寇と戦ったが、全軍が潰滅し、捕らえられそうになった。また、古の水利書を得ると、うやうやしく読んで年を経、みずからが千里を沃土にすることができると考え、図面を描き、州官に何度も説いた。州官も物好きだったので、ある村で試させたが、水路が完成するとすぐに洪水となり、水路に従って灌ぎこみ、人はほとんど魚となった。それからは意を得ずに憂鬱となり、つねにひとりで庭を歩き、首を振りながらひとりで語った。「古人はどうしてわたしを欺くのだろうか(古人豈欺我哉)。」。このように、一日千百遍この六字を語るばかりであった。まもなく、発病して死んだ。その後、風が清く月が明るい晩には、かならずその魂が墓前の松柏の下におり、首を振りながらひとり歩いているのが見えたので、耳を傾けて聴くと、誦えているのはこの六字なのであった。あるひとがかれを笑うと、すぐに隠れたが、翌日伺うと、やはりいつものようにしているのであった。古に拘る者は愚かだが、どうしてここまで愚かなのだろうか。阿文勤公[89]はかつてわたしに教えた。「腹の中がすべて書物であると、事を損うことができる。腹の中に一巻の書がなくても、事を損うことができる。名棋士は旧い棋譜を棄てないが、旧い棋譜に拘らない。名医は古の処方に拘らないが、古の処方を離れない。だから『叡智によって事理を明らかにするのは、その人次第だ[90]。』と言い、『人に手本を与えることはできるが、人を巧みにさせることはできない[91]。』とも言うのである。」

  
  明の魏忠賢の悪行は、史書に見えないものである[92]。あるひとが言うには、魏忠賢は事がかならず敗れることを知り、一日に七百里を行く騾馬をひそかに養い、逃げるのに備え、貌が自分に似ている者をひそかに養い、身代わりとして準備していたということである。後に阜城[93]尤家店にいたとき、それらを用いてひそかに逃げ去ったという。わたしはこれは無稽の談であると思う。天道によって論じれば、神理[94]が嘘でないなら、忠賢がさいわいに免れるはずは断じてない。人事によって論じれば、忠賢は政務をほしいままにすること七年、みなが知っていたのだから、旧い仲間の家に潜伏しても、小人の交わりは、勢いが衰えれば離れるから、縛って差しだされるだけである。荒僻[95]の地で、農民や牧者の中に隠れるにしても、にわかに閹宦が来れば、異常な言葉、異常な容貌を、驚いて見たり、驚いて聴いたりし、三日足らずでかならず露顕するであろう。遠く封域の外に逃げるにしても−厳世蕃はかつて日本に通じ、仇鸞[96]はかつて諳達[97]と交わったが−忠賢にそうしたことはなかったし、山海は険しく深く、関津[98]によって隔絶しているから、去ってもどこへゆけるであろう。昔、建文[99]が行方を晦ましたということは[100]、後世でも疑わしいこととして伝えられている。建文に失政があったことは聞かないし、人心は去っていなかったので、旧臣遺老には、なお旧君への思いがあった。燕王は武力を用いて帝位を奪い、忠良を屠殺し、天下に支持されてもいなかったから[101]、つぎつぎに匿うことも、あったかもしれない。忠賢は虐炎[102]が天を焼き、害毒は四海に流れ、人々はかれを捕らえて心を楽しませようとしていた。その時は明が亡んでからまだ十五年で、この十五年に、ふかく隠れて現れぬことができようか。だから、ひそかに逃げたという説を、わたしは断じて信じない。文安[103]王岳芳[104]が言った。「乾隆初年、県学でたちまち雷霆が格子を撃ち[105]、文廟を巡った。電光は閃き、赤い(ねりぎぬ)を引いているかのよう、殿門に入ってまた返ること十余度であった。訓導の王著起[106]がいった。『かならず異変がある。』雨を冒して入って見ると、大きな蜈蚣(むかで)が先師の位牌に伏していたので、挟んで階の前に擲つと、霹靂一声、蜈蚣(むかで)は死んで天は晴れた。その背を調べると、魏忠賢の字が朱書してあった。」。その説を、わたしは信じる。

  
  烏魯木斉(ウルムチ)の深山の中で馬を牧する者は、つねに身長一尺ばかりの小人を見たが、老若男女がすべて揃っており、紅柳[107]が花を咲かせる時に、かならず柳を折って曲げて小さい輪にし、頭上に着け、隊をなして舞い躍り、声は呦呦として歌っているかのようであった。時折行帳[108]にいって食べものを盗み、人に掩われると、跪いて泣いた。縛ると、食事しないで死んだ。放てば、はじめはすぐに行こうとせず、行くこと数尺でかならず振り返るのであった。あるひとが追いかけて怒鳴ると、跪いて泣いた。人からやや遠く離れ、追われないと思うと、はじめて(たにがわ)を渡り、山を越えて去った。しかし、その巣穴は結局分からなかった。この物は木魅[109]でもなく山獣でもなく、そもそも[110]の類であった。その名は分からなかったが、姿は小児のようであり、紅柳を戴くことを好むので、「紅柳娃」といわれていた。邱県丞天錦が、牧廠[111]を巡視したとき、一匹を捕らえ、臘[112]にして帰った。じっくりその鬚眉毛髪を見ると、人と異ならず、『山海経』にいう人[113]が、たしかにいることを悟った。きわめて小さいものがあれば、かならずきわめて大きいものもある。『列子』に言う龍伯の国[114]も、たしかにあるはずである。

  
  塞外に雪蓮[115]があり、高山の積雪の中に生えるが、形は今の洋菊[116]のようであり、蓮とは名ばかりである。生えるときはかならず一双であり、雄はやや大きく、雌は小さい。しかし並んで生えないし、根も同じでなく、かならず一二丈離れている。片方を見たときは、もう片方を捜すと、かならず得ることができる。そもそも菟絲[117]茯苓[118]のように、一つの気が化したもので[119]、気が繋がっているのである。この花を望み見たときは、黙って取りにゆけば得られる。指さして告げれば、縮んで雪の中に入り、杳として痕跡がなくなってしまい、すぐに雪を掘って探しても得られない。草木に知覚があることは、理屈では考えられないことである。土人は「山神が惜しんでいるのでございます。」と言うが、あるいはそうかもしれない。この花は極寒の地に生えるが、薬性はきわめて熱い[120]。そもそも二気[121]には偏勝[122]はあるが、偏絶[123]はない。積陰[124]は外に凝り、純陽[125]は内に結ぶ。坎[126]の卦は一陽が二陰の中に陥っており、剥[127][128]二卦で、一陽が五陰の上や下にあるのは、その象である。しかし酒に浸して補剤[129]にすれば、血熱妄行[130]することが多い。あるいはそれで媚薬を調合すると、その禍はもっとも烈しい。そもそも天地の陰陽が調和すると、万物が生じ、人身の陰陽が調和すると、百脈[131]が和する。だから『素問』に「亢なれば害し、承なれば制す[132]。」というのである。丹溪[133]が『陽常有餘陰常不足論』[134]を立ててから、医家はその本旨を失い、しばしば苦寒[135]によって生気を損なっている。張介賓[136]らは偏向を正すあまり、陽を補うことに偏している。参蓍桂附[137]は、流弊によって人が殺されるまでに至っている[138]これは『周易』の道にいう陽を扶けるということの意味を理解していないのである[139]、乾[140]の上九[141]も、「亢龍悔ゆるあり[142]」と戒めている。嗜欲は日々盛んで、羸弱な者は多いが、温補[143]の薬剤は小さな効果を示しやすいので、堅く信じる者が多い。だから、わたしは陽を損なうのに偏るのは、韓非の刑名の学であり、陽を補うのに偏るのは、商鞅の富強の術であると思う。用いた当初はいずれも効果があるが、事を重ねると取りかえしがつかなくなってしまい、その根本を損う点では、同じである。雪蓮に病を養う功能がないのも、この道理である。

  
  唐太宗の『三蔵聖教序[144]』が風災鬼難の域と称しているのは[145]、今の辟展[146]土魯番(トルファン)[147]の地である。その地で沙漠をひとり行く人は、しばしば姓名を呼ばれるのを聞くが、一たび返事して従ってゆくと、ふたたびは帰らない。また風穴が南の山にあるが、その大きさは井戸ほどで、風がしばしば中から出、出るたびに数十里先に達する。先に波涛の音が聞こえ、一二刻遅れて風が来るのである。通り過ぎる路の幅は三四里に過ぎないので、急いで進めば避けることができる、避けるのが間にあわないときは、多くの車を太い縄で繋げて一つにするが、それでも揺れ動き、大江で浪に揺られる舟のようであった。一台の車だけで遇えば、人馬や荷物は、みな一片の軽い葉のように、飄然として行方が知れなくなるのであった。風はすべて南から北に吹くが、数日後には北から南に吹き、呼吸がいったりきたりするかのようであった。わたしは烏魯木斉(ウルムチ)で、辟展の移文[148]を受けとったが、それによれば、軍校[149]の雷庭が、某日に人馬もろとも風に吹かれて嶺の北を越え、行方が知れないということであった。また、昌吉の通判が知らせたところでは、某日午の刻に一人の男が天から下りてきたが、それは特納格爾の流人徐吉が、風に吹かれてきたのであった。にわかに特納格爾の県丞が知らせてきたが、徐吉がその日逃げたということであった。時刻を計ると、巳の刻から正午までに、二百余里を飛んだのであった。これはかの地では怪事ではないが、ほかの所では異聞である。徐吉がいうには、吹かれていた時は、酔っているかのよう、夢みているかのようで、身は旋転して車輪のよう、目は開くことができず、耳は一万の太鼓が乱雑に鳴っているかのよう、口と鼻は物に掩われているかのよう、息は出せず、しばらく力を尽くして、はじめて呼吸できたということであった。按ずるに『荘子』に「大塊[150]の噫気[151]、その名を風となす。」という。気はゆかないところはない、巣穴があるはずはない。気がたまたまあつまり、この異変をなしたのであろう。火気がたまたま巴蜀に集まり、火井[152]となり、水脈がたまたま于闐に集まり、河源[153]となっているようなものである。

  
  何励庵先生[154]が言った。言い伝えでは、明末に書生がおり、藪をひとりで歩いていたところ、書を読む声が琅琅としているのを聞いた。曠野でどうしてこのようなことがあろうかと怪しみ、訪ねてゆくと、一人の老翁が墓場に坐しており、傍では狐十余匹が、それぞれ書物を捧げながら蹲んでいた。老翁が書生を見、立ちあがって迎えると、狐たちはみな書物を捧げて人のように立った。書生は書物を読むことを解するなら、きっと禍をなすまいと思った。そこで揖譲[155]し、地に蓆を敷いて坐した。書物を読んでどうすると尋ねると、老翁は言った。「わたしたちはみな神仙になる修行をしているのだ。神仙になることを求めている狐には二種類ある。一つは精気を採り、星斗を拝し、だんだんと霊力を得て変化し、その後、修行を積んで悟りを得るもので、妖を経て神仙になることを求めるものだ。しかし、邪道に入り、天律[156]を犯すことがあるので、その途は速くて危うい。もう一つは、さきに煉形[157]して人となり、人となった後、内丹[158]を研究し、人を経て神仙になることを求めるものである。吐納[159]導引は、一朝一夕の修行ではないが、ながく堅持すれば、おのずと成就するものであり、その途は迂遠だが安定している。顧みるに、姿はそれ自体は変ぜず、心に従って変ずるものだ。だから、さきに聖賢の書を読み、三綱五常の理に通ずるのだ。心が化すれば姿も化する。」。書生がその書を借りて見ると、すべて五経、『論語』、『孝経』、『孟子』の類であったが、経文があるだけで注釈がなかったので、尋ねた。「経書は注釈がなければ、講習するすべがあるまい。」。老翁は言った。「わたしたちは書物を読み、事理を明らかにすることだけを求めている。聖賢の言葉はもともと難解ではないから、口で授受し、訓詁に通暁すれば、その趣旨を知ることができる。注釈はいらない。」。書生はその持論が異常であることを怪しみ、曖昧にして答えなかった。とりあえず、その年齢を尋ねると、言った。「まったく憶えていない。経書を学んだ日、世にはまだ印刷された書物がなかったことだけは憶えている。」。さらに尋ねた。「幾つかの王朝を閲歴して、世事には異同があるか。」「さほど変わっていないが、唐以前は、儒者がいるだけであったのに、北宋以後は、しばしば某甲[160]が聖賢であると言われているのが、やや違うだけだ。」。書生は理解できず、一揖して別れた。後に道でこの翁に遇い、ともに語ろうとすると、首を振り、すぐに去った。案ずるにこれは先生の寓言であろう。先生はかつて言った。「経書を講じて科挙及第を求めるとき、こまかく敷衍しているが、その言葉が美しくなるほどに経書はますますでたらめとなる。経書を講じて派閥を立て、紛紜として弁駁するとき、その説がくわしくなるほどに経書はますますでたらめとなる。」。趣旨は符節を合わせているかのようである。またかつて言った。「巧妙な術には、かならず不安定な処がある。一歩一歩が着実であれば、いささか失敗があっても、結局、肱や足を損なうに至らない。」。神仙修行の二つの途の話と、やはり同趣旨である。

  
  扶乩する者が江南から来たが、乩仙はみずから「臥虎山人」と称し、吉凶を語らず、人と詩詞を唱和するばかりであった。絵を描くこともできた。絵は蘭竹数筆[161]であったが、形ばかりのものに過ぎなかった。その詩は清浅[162]で、卑俗ではなかった。かつて祭壇に下った時の絶句を直接見たが、「愛殺[163]す嫣紅[164]の水に映じて開くを、小停[165]すれば白鶴一徘徊す。花神[166]わが衣襟の緑なるを怪しむ、(いましがた)莓苔[167]()きて穏やかに睡り来る。」というものであった。さらに舟を詠むときに車の字を割りあて[168]、車を詠むときに舟の字を割りあてると、こう言った。「浅水潺潺として二尺余、軽舟行き来して興いかん。振り向けば岸上に春泥[169]滑らかに、疲牛を愁殺す薄笨車[170]。」。「小車轣轆[171]として烏牛に駕し、酒を載せていささかなす陌上の遊。羨むなかれ王孫の金勒の[172]馬、双輪おもむろに転じて隠やかなること舟のごとし。」。そのほかはおおむねこれに似ていた。その姓名を尋ねると、言った。「世外の人だから、名を留めることはない。」。どうしてもと迫っても、「杜撰[173]命に応ず」と記すばかりであった。甲は乙とともにその符[174]を学び、召すとやはり来た。しかし字は多くは判読できず、扶乩する者は手が慣れていなかった[175]。ある日、乙が符を焚いたが、乩仙は降らなかった。数日後にふたたび召したが、やはり降らなかった。後に甲の家に降ったので、甲は乙が召したときに降らなかったわけを尋ねると、仙は示した。「人は孝とを根本とするが、二つのことで恥じることがあると、人とみなすことはできない。あのものは近頃兄と財産分けしたが、千金を隠し、さらに父に宿債があるから、兄弟ともに償うべきだと偽り、実際には兄の償った金を自分のものにしてしまった。わたしは方外の關g[176]で、俗事に関わらないが、義としてこれらの人々と関わりを持とうとしない。お伝えください。これからは無礼しないでくれと[177]。」。さらに甲に示した。「君は近頃新しい果物を手に入れたが、息子と娘に食べさせ、孤児である侄だけは忘れてしまい、夜通し啜り泣かせた。悪意がなかったとはいえ、心に分け隔てがあることによって、後にふたたびこのようにすれば、わたしはもう来ない。」。亡き姚安公は言った。「わたしはその詩詞を見て、霊鬼だと思ったが、この議論を見ると、神仙のようである。」。

  
  広西提督田公耕野[178]は、はじめ孟夫人を娶ったが、夫人ははやくに亡くなった。公は涼州鎮で役人をしていた時、月夜にひとり衙斎[179]に坐していると、夫人が梢から翩然と下りてくるのを夢みた。平生のように慰労すると、言った。「わたしはもともと天女で、宿命ではあなたの妻となるべきでしたが、縁が満ちたので帰ったのでございます。今回、こちらを通ってお遇いしましたのも、余縁が尽きていなかったからでございます。」。公が自分は何の官位で終わるかと尋ねると、言った。「官位はこのままでは終わりません。離任なさいます[180]。」「わたしの寿命はどれほどだ。」「それを申しあげるのは難しゅうございます。亡くなる時には郷里にいられず、官署にいられず、道路館駅にいられませんが、戦陣で亡くなることもございません。時が至ればおのずとお分かりになりましょう。」「死んだ後にまた会うのか。」「それはあなた次第です。あなたが努力なさって天に昇られれば、会えますが、そうでなければできません。」。公は後に叛苗[181]を征したが、軍が還るとき、戎幕[182]の下で亡くなった。

  
  しもべの魏藻は、性来軽薄で、婦女を覗き見することを好んでいた。ある日、村外れで少女に遇ったが、顔は知っているが姓名住所は知らないようであったので、挑んでともに語ったところ、女は答えずに目で合図し、すぐに西へ去った。藻が注視していると、女は振り返り、招くかのようにしたので、ついていった。近づいてゆくと、女は顔を赤くして小声で語った。「行き来する人が多うございましたので、疑われることを恐れていました。小半里を隔てて、家にゆきましたら、塀の外の東の棟でお待ちしています。棗の樹の下に一頭の牛を繋ぎ、傍らに碌碡[183]がある所でございます。」。その後、だんだんと遠くへいった。薄暮、李家窪[184]に着こうとする頃には、家から二十里離れていた。宿雨が晴れたばかりで、泥に脛は没しようとし、足の指も腫れて痛んだ。遥かに見ると女がすでに東の棟に入っていたので、ひそかに喜び、走っていった。女は背を向けて立っていたが、突然振り向くと、羅刹の姿になっており、鋸の牙、鉤の爪で、顔は藍のよう、眼は睒睒[185]として燈のようであった。驚いて身を翻して逃げると、羅刹は急いで追い、狂奔すること二十余里であった。相国荘[186]に着いたときには、すでに亥の初刻になっていた。その舅の家を見つけると、急いで叩いて止まなかった。門が開くと、すぐに跳びこみ、一人の少女にぶつかって地に倒したが、藻もいっしょに倒れた。女たちは怒って騒ぎ、それぞれ衣を打つ杵を持ち[187]、藻の股を乱打した。藻はあわてて話すことができず、「わたしだ。わたしだ。」と叫ぶばかりであった。にわかに一人の媼が燈を持って出てきて、はじめて婿であることを知り、ともに驚き笑った。翌日、牛車に載せられて帰ったが、床に臥すこと数か月であった。藻が行ったり来たりしていた時、人々はかれがひとりでゆき、ひとりで還るのを見ただけで、羅刹は見ず、少女も見なかった。これはまさに邪が邪を召し、狐鬼[188]が機に乗じて侮ったものである。亡兄晴湖は言った。「藻はそれから二度と女遊びしようとせず、路で婦女に遇うとかならずうなだれていた。これは神明が罰を示したと言ってもよい。」。

  
  わたしの家から十余里のところに、姓を衛というめくらがいた。戊午の除夜、ふだん弾唱(ひきがたり)のために呼ばれている家々にゆき、年末の挨拶をした。食物を与えられたので、みずから背負って帰ろうとしたが、途中で足を滑らし、枯れ井戸に堕ちてしまった。曠野の人気のない路であったし、家々も年越ししており、路を行く人がいなかったので、叫んで喉を嗄らしても、答える者はいなかった。さいわい井戸の底は温かく、食べられる餅餌[189]もあったので、ひどく渇けば果物を食べ、数日間死ななかった。たまたま肉屋の王以勝が豚を駆って帰ろうとしていたが、井戸から半里ばかりのところで、突然縄が切れて豚が逃げ、田の中を狂奔し、やはり足を滑らして井戸に堕ちた。鉤を持って豚を出そうとすると、めくらがおり、僅かに息をしているばかりであった。井戸は肉屋の通り路ではなかったので、何者かがそうさせたかのようであった。亡兄晴湖が井戸の中の様子を尋ねると、めくらは言った。「あの時は何も考えておらず、心はすでに死んだかのようでした。ただ、老母が病に臥しており、わたしの世話を待っていることを思っていました。今はわたしもおりませんので、餓死していましょうから、悲しみが肝臓、脾臓に染みとおり、我慢できなくなっております。」。亡兄は言った。「この一念がなければ、王以勝が駆っていた豚はけっして縄を断たなかっただろう。」。

  
  斉大は、献県の大盗で、かつて人々とともに掠奪していた。ある盗賊はその家の妻が美しいのを見、逼って辱めようとした。刃で脅しても従わなかったので、後ろ手に縛って凳に括りつけ、下着を剥ぐと、二人の盗賊を呼び、左右からその足を支えさせた。斉大は看荘(盗賊の言葉で、屋上で見張りして救いにくる者に備えることを看荘といった。)していたが、妻が叫ぶのを聞き、棟から跳び下り、刃を挺してにわかに入ると、言った。「いい度胸だな。殺してやる。」。洶洶[190]として闘おうとしたが、眼光は餓えた虎のようであった。妻は間髪を容れず、免れた。後に盗人たちはともに縛に就き、いずれも誅せられたが、斉大だけはついに捕らえられなかった。盗人たちは言った。「お上が捕らえにきた時、斉大はほんとうに馬槽の下に伏していました。」。兵役[191]たちはみな言った。「往ったり来たりして幾度か捜したが、槽の下には朽ちた竹一束、約十余本があるばかりで、塵が積もって汚れており、長年棄ておかれているのようだった。」。

  
  張明経晴嵐[192]が言った。ある寺の蔵経閣に狐が居り、僧たちは多くは閣の下に住んでいた。ある日、ひどく暑かったので、ある遊行僧が騒がしさを厭い、すぐに坐具を移して閣の上にいった。すると、僧たちはたちまち梁の上で狐が語るのを聞いた。「みなさんはひとまずそれぞれのお部屋にお帰りください。わたしの眷属は少なくはございませんので、閣の下に移り住もうと思います。」。僧は尋ねた。「ながいこと閣の上に居たのに、どうして急にふたたびこちらに住もうとする。」「和尚があちらにいるのです。」「和尚を避けるのか。」「和尚は仏弟子でございますから、避けぬわけにはまいりません。」。さらに尋ねた。「わたしたちは和尚ではないのか。」。狐が答えなかったので、つよく尋ねると、こう言った。「あなたたちはご自身を和尚だと思っていらっしゃるのですから、わたしがさらに申しあげることはございますまい。」。従兄の懋園[193]はそれを聞くと、言った。「この狐は黒白をとてもはっきりさせている。また、三教の人々に、それぞれ深い反省を起させることができる。」。

  
  甲が乙の妻を見て羨慕し、丙に語った。丙は言った。「あの夫は少々凶暴ですが、ものにすることができます。金をばらまくことを惜しまれなければ、この事を成就してさしあげられます。」。同郷人で放蕩している者を択び、金で釣って頼んだ。「白昼、乙の家に隠れ、わざと乙に聞こえるようにし、捕まったら、盗みをしようとしていたとみずから認めるのだ。白昼は、盗みをする時間ではないし、おまえは容貌衣服が盗人らしくないから、かならず姦通していると疑われるだろうが、罪を認めてはならない。お上に調べられたら罪を認めろ。罪は枷杖[194]に過ぎないし、策を用いてその事件が決着しないようにするから[195]、苦しむことはない。」。同郷人が教えられた通りにしたところ、事件はほんとうに決着しなかったが、乙はその妻を追い出した。丙は乙が悔いることを慮り、妻の実家に乙を訴えさせ、さらにひそかに証人に賄し、妻の実家が勝てないようにさせたので、妻の実家では怒ってよそに娘を嫁がせることにした。乙もきっぱりと妻が嫁ぐのに任せた。甲は大金で買って妾にしたが、丙はさらに同郷人が甲を裏切り、甲の陰謀を暴き、甲が賄して事を収めるようにさせ、都合千金を得た。聞家廟[196]で社会[197]があると、供物をつとめて調えて神を祀り、幸福を求めようとした。一晩前、廟祝は神を夢みた。「××は金をどこから手に入れて、手厚い供物でわたしを祀るのだ。明日来たら、けっして廟に入らせるな。非礼[198]の祭祀さえ、鬼神は受けないのだから、まして不義の祭祀はなおさらだ。」。丙が来ると、廟祝は神の言葉を告げて拒んだが、丙は怒って信じなかった。階にゆくと、舁いでいる者は転び、供物はすべて毀たれたので、悚然として返った。一年あまり後に、甲が死んだ。同郷人は共謀者であったため、しばしば丙の家に往来していたが、その娘を誘って逃げ去ったので、丙も気鬱で死んだ。妻は資産をもって再婚した。娘が徳州[199]にゆくと、人に詰問されて姦通を知られ、書状をつけて本籍に戻し[200]、杖で打たれて公売に付せられれた。時に丙の奸詐はすでに露見しており、乙はたいへん恨んでいたので、財産を売り、女を贖い、三晩夜伽させ、人に転売した。あるひとが言うには、丙が死んだ時、乙はなお娶っていなかったので、丙の妻は乙に嫁いだということである。これはもとより快心の談であるが、そうした事実はない。同郷人が後に乞食となり、娘が流落して娼婦になったということは、ほんとうにあったことである。

  
  益都[201]の李詞畹[202]が言った。秋谷先生[203]が南遊した日、ある家の園亭[204]に仮住まいしていた。ある晩、就寝した後、一首の詩を作ろうとし、沈思していると、窓の外で人が語った。「まだお休みにならないのですか。清詞麗句に、心酔して十余年になります。このたびは、さいわいこの部屋に泊まり、ひそかにお話を聴き、一月を経ましたが、質疑反駁できないことが残念でございます。倉卒によそにゆかれるかもしれませぬので、思いを尽くさないことは、平生遺憾としていたことでございます。ですから無礼を顧みず、窓を隔てて揮麈[205]の談を聴くことをお願いするのでございます。先生は拒まないでいただけましょうか。」。秋谷は尋ねた。「おまえは誰だ。」「別館(はなれ)は奥深く、重門[206]は夜に閉ざされており、もとより断じて人跡の到るところではございません。先生はお心が広く、恐怖はございませんでしょうから、ふかくお尋ねになることもございますまい。」「どうして部屋に入って会わない。」「先生は襟懐が洒脱でいらっしゃいますし、わたしも礼法に飽き飽きとしておりますので、精神を通わせるだけにし、形骸の内にある必要はございません。」。そこで秋谷は日々ともに応酬したが、六義[207]にすこぶる詳しかった。このようにすること数晩、たまたま酔いに乗じて戯れに尋ねた。「君の議論を聴くと、神でもなく、仙でもなく、鬼でもなく、狐でもないが、もしや山中の木客[208]が、詩を吟じることを解しているのか[209]。」。語りおわると寂然とした。穴の隙から窺うと、欠けた月がかすかに明るく、影が蓬蓬然[210]として、水亭[211]の簷の角を掠めて去った。園中では老樹が天に聳えていたので、木魅かと疑った。詞畹はさらに言った。「秋谷が(あやかし)と語った時、客がひそかにそれを聴いていた。(あやかし)は言った。『漁洋山人[212]の詩は、名山勝水、奇樹幽花のようですが、寸土も五穀が植わっていません。雕欄[213]曲榭[214]、人に心地よい池館[215]のようですが、風雨を遮る寝室がございません。彝鼎[216]罍洗[217]が、斑斕[218]として(つくえ)に満ちているかのようですが、炊爨に供する釜甑がございません。纂組[219]錦繍が、たくみに仙人の(はた)から織り出されているかのようですが、寒暑を防ぐ裘葛[220]がございません。舞衣歌扇、十二金釵のようですが、中饋[221]を司る主婦がいません。梁園[222]金谷[223]、雅客が堂に満ちているかのようですが、諫言する良友がいません。』。秋谷はおおいに褒めたたえた。(あやかし)はさらに言った。『明末の詩は、庸音[224]が雑然と奏でられていましたが、漁洋は清新であることでそれを救いました。近人の詩は、浮薄な響きが日々増していますが、先生は露骨であることでそれを救っていらっしゃいます[225](いきおい)はもとより関わりあっており[226]、理は一方が勝っているということはございません。ひそかに思いみますに、二つの流派は、調和しあうべきでございます。合えば双方が美しく、離れれば双方が傷いましょう。』。秋谷はすこぶる不平であったということだ。」。

  
  烏魯木斉(ウルムチ)の道士が市場で薬を売っていたが、ある人が道士は妖術を使うと言っていた。人が見たところでは、道士は夜に宿屋に泊まると、眠る時にかならず佩嚢[227]を探り、小さな瓢箪を出していたそうである。傾けて二粒の黒い物を出すと、すぐに二人の少女がかれとともに寝、暁になると見えなくなっているので、尋ねると、いないと言うのであった。わたしは『輟耕録』の周月惜[228]の事を思いだし、言った。「これは生きている人間の魂を採っているのだ。この術は馬肉を食らえば破れる。」。たまたま中営[229]で馬が死んだので、下役を遣り、ひそかに宿屋の主人に頼み、尋ねさせた。「今、馬肉があるが、食べられるか。」。道士は首を振った。「馬肉をどうしていただけましょう。」。わたしがますます疑い、懲らしめようとすると、同僚の陳君題橋[230]が言った。「道士が少女を連れていたのを、おんみはみずから見ていない。馬肉を食らわないのも、おんみはみずから見ていない。周月惜の話は、陶九成[231]の小説から出たもので、本当かどうか分からず、馬肉が法術を破ったというのも、験があるかどうか分からない。おんみが伝聞の言葉を信じ、無稽の言説に拠り、にわかに大獄を起こすのは、良いことではないようだ。塞外に雑多な人を留めるべきではないから[232]、有司に命じて追いたてて出境させれば十分だ。」。わたしは懲らしめるのをやめた。後に将軍温公はそれを聞いて言った。「徹底的に調べようとするのは度が過ぎている。拷問を畏れてみだりにありもせぬことを供述すれば、重大な事になる。どんな行いをしていたか、確かな証拠もない。追い立てて出境させるのはとてもよくない、別の地に移れば、混乱を醸すかもしれない、烏魯木斉(ウルムチ)にながく住んでいたと言っても、誰がその責任をとる。行跡が疑わしい人は、関所でかならず詰問捜査するべきだ。調べて確かな証拠があるなら、有司に引き渡すべきだ。調べて確かな証拠がないなら、文書を調えて本籍に護送し[233]、民を惑わさないようにさせれば、よいことではないか。」。わたしたち二人はいずれも公の論に服した。

  
  荘学士本淳[234]は、幼いとき、父の書石先生[235]に従っていたが、舟を川岸に泊めていた。夜、足を滑らして川に落ちたが、水夫たちは気づかなかった。漂っていると、人が語るのが聞こえた。「福建学院[236]を救いあげろ。これは関わりのあることだから[237]。いい加減にしてはいかん。」。気がつくともとの舟の舵の先に掛かっていたので、助けを求めて免れた。後にほんとうに福建学政となった。赴任した時、この事を挙げてわたしに語った。「わたしは帰れないのだろうか。」。わたしは立命[238]の説によって励ましたが、在任中に亡くなった。また、その兄方耕少宗伯[239]は、雍正庚戌に京邸[240]にいたとき、地震に遇い、小さな路地で圧死しそうになったが、たまたま二つの塀が向かいあって崩れ、支えあって人字帳[241]の形のようになったので、その中に坐すること一昼夜で、掘りだされた。「死生命あり」とはこのことではないか。

  
  何励庵先生が言った。十三四歳の時、父が官を罷めて京師に帰るのに従っていたが、人は多く、舟は狭かったので、席を敷き、巨きな箱の上に寝ていた。夜分、掌で摩られるのを感じたが、その冷たさは氷のよう、しばらく魘されてから目ざめた。その後、毎晩ことごとくそうなったので、神虚[242]だと思ったが、薬を飲んでも効かず、陸に上がると止んだ。後に箱はそのしもべの物であることを知った。しもべの母は官署で亡くなり、郊外に厝葬されていたが、旅立つに臨んでひそかにその柩を焼き、衣で骨を包み、箱の中に隠していたのであった。人がその上で眠ると、魂は安らぐことができず、この変異をなしたのであった。だとすれば、旅魂[243]が骨に従って返るということは、本当にあるのである。

  
  励庵先生はさらに言った。「聶姓の友人がおり、西山[244]の深い処にゆき、墓参りして返ろうとしていた。気候は寒く、日は短く、翳然[245]として暮れていたので、虎の害があることを畏れ、急いで歩くと、荒れた廟が山腹に望まれたので、急いで駆け込んだ。すでに暗くなっていたが、塀の隅で人が語るのが聞こえた。『ここは人間の世界ではないから、檀越どのははやく去られよ。』。心のなかで僧だと思い、尋ねた。『師はなぜこちらで闇坐していらっしゃいます[246]。』『仏家[247]はでたらめは言わない。わたしはほんとうは縊鬼で、こちらで替わりを待っているのだ。』。聶は毛や骨までぞっとしたが、その後、言った。『虎に殺されるより、幽鬼に殺されたほうが良いですから、師とともに泊まりましょう。』。鬼は言った。『去らぬのもよかろう。ただ、幽明は路を異にしており、君は陰気に侵されるのに堪えないし、わたしは陽気に溶かされるのに堪えぬから、どちらも不安だ。それぞれが片隅を占め、近づかぬようにすればよかろう。』。聶が身替わりを待っているわけを遠くから尋ねると、幽鬼は言った。『上帝は殺生を好まず、人がみずから命を損うことを望まない。忠臣が節を尽くし、烈婦が貞を完うするのは、不慮の早死にだが、天寿を全うするのと異ならないので、身替わりを待つことはない。情勢が切迫し、活路を求められなかった者は、その事がやむをえないのを憫れまれ、やはり転輪[248]に付せられ、生平を調べられ、善悪によって報いを受けさせられるので、やはり身替わりを待つことはない。一条の活路があるのに、小さい怒りを我慢しなかったり、人を困らせようとしたりして、邪気を逞しうし、軽率に首を吊ったものは、天地が物を生長させようとする心に大いに背いているので、かならず身替わりを待たせて罰を示すのだ。だから、幽囚せられ沈滯することが、ともすれば百年に至るのだ。』『人を誘って替わらせる者はいないのか。』。鬼は言った。『わたしはそうするに忍びない。人が縊れるとき、節義のために死ぬ者は、魂が頭頂から上昇し、死ぬのが速いが、怒りや憎しみのために死んだ者は、魂が心臓から降り、死ぬのが遅く、絶命する前には、百脈[249]が湧き、肌膚は一寸ごとに裂けようとし、痛みは切り刻まれるかのよう、胸膈腸胃の中は烈しい炎で焼かれるかのよう、我慢できず、そのようにすること十刻ばかりで、肉体と精神が離れるのである。この苦痛を考えて、縊れようとする者を見ると阻んですぐに返らせているのだ。誘おうとしたりしようか。』。聶は言った。『師がそのようなお考えをお持ちでしたら、かならず天に昇られましょう。』。幽鬼は言った。『そのようなことは望まない。ただ一心に念仏し、悔い改めを望むばかりだ。』。空が明けようとすると、尋ねても語らなくなり、じっくり見ても、見えなかった。後に聶は墓参りするたび、かならず飲食紙銭を持ってゆき、祭ったが、かならず旋風が左右を巡るのであった。一年すると、旋風が来なくなったので、一念が善良であったために、すでに鬼趣[250]から解脱したのだと思った。」。

  
  王半仙[251]がかつてその友である狐を訪ねた。狐はかれを迎えると笑って言った。「君は昨晩、夢みて范住の家にゆき、お楽しみだったね。」。范住とは、県の名妓であった。王はほんとうにそうした夢を見たことを思いだし、どうして分かったのかと尋ねた。狐は言った。「人は陽気を得て生まれるが、陽は上に親しむので[252]、気はつねに頭頂に発散する。眠るときは、神気は心に集まり、霊光[253]が陽気とともに輝き、鏡が影を映すかのようになる。夢が心に生じると、その影はすべて陽気の中に現れ、往ったり来たり生じたり消えたりする。にわかに一二寸の小人に姿を変え[254]、絵のよう、劇のよう、虫が蠕動するかのようにする。人に告げられないことでも、百態がすべて現れ、鬼神はすべてそれらを見ることができるのだ。狐の神通力がある者も、見られるが、その言葉を聞かないだけだ。昨日、たまたま君の家を通ったので、君の夢を見たのだ。」。さらに言った。「心の善悪も陽気の中に現れる。善念を生じれば、気の中のひとすじは烈しい炎のよう、悪心を生じれば、気の中のひとすじは濃い煙のようである。濃い煙が頭を掩っているが、なおひとすじの光があるのは、畜生道中の人だ。ひとすじの光もないのは、泥犁[255]獄中の人だ。」。王は尋ねた。「悪人は濃い煙が頭を掩っており、本当の夢の影はそれ以上見るすべがない。」「人の心はもともと善だが、悪念がそれを蔽う。眠る時には一念は生じず、心はそのもとの状態に還るので、陽気がふたたび輝き、目ざめたばかりの時は、念がまだ起こっていないので、輝きがまだあるのである。念がだんだん起こればだんだん暗くなり、念がすべて起きればすべて暗くなる。君は書を読まぬから、秀才に尋ねてみろ。『孟子』のいう夜気[256]とは、これなのだ。」。王は悚然として言った。「鬼神の観察は、夢寐の中にまで及んでいるのか。」。

  
  雷は地から出る。以前、福建の白鶴嶺[257]でそれを見たことがある。嶺は五十里にわたって高く[258]、雨の時に俯瞰すると、濃い雲がすこしだけ山腹に起こっていた。やがて、一縷の気が、雲の中から湧きだし、まっすぐに激して上った。気の先から、たちまち光が飛び散り、砰然[259]として音がし、火炮とそっくりであった。物を撃つ雷は、天から下る。戊午の夏、わたしは従兄の懋園[260]、坦居と、崔荘[261]の三層の楼で書を読んでいた。窓を開いて四方を望むと、数里が見られた。時に雷雨で、遥かに一人の男が南から来るのが見えたが、荘を去ること約半里ばかりで、たちまち地に跪いた。すると突然、雲が下に垂れ、男は掩われて見えなくなった。にわかに一声の雷鳴があり、光は眼を照らして咫尺にあるかのよう、雲は収まって昇っていた。まもなく、高川[262]の李善人が雷で死んだと騒いでいた。人々に従って見にゆくと、全身が黒く焦げ、拱手して端然と跪き、顔を上げて天を望んでいた。背中に朱書があったが、篆文でもなく、籀文でもなく[263]、草書でもなく、隸書でもなく、点画が絡まりあい、幾つの字かを弁じられなかった。その男は精進し、仏を拝していたが、善行もなく、悪行もなかった。前世の罪や、隠れた悪事があったのだろうか。かれの甥の李士欽[264]は言った。「あの日、朝起きるとどうしても崔荘に赴こうとしましたが、本当は何の用事もなかったのです。雨を冒して来て、あの災難に遭いました。」。あるひとは言った。「あの日、崔荘は大集(崔荘では市人が交易するとき、一と六の日を大集、三と八の日を小集とする。)だったから、鬼神が駆りたてて来させ、人々に見せたのだろう。」。

  
  わたしが兵部で役人をしていた時、一人の下役が狐に惑わされ、痩せて骨ばったので、張真人[265]から護符を貰ってお祓いすると、突然、簷で人が語った。「おまえは下役をしているが、理に合わぬ財貨を得れば、刑戮に遭うだろう。わたしは前世でおまえの再生の恩を受けていたので、艶色で惑わし、おまえの精気を摂り、おまえが瘵疾[266]で普通に死ぬことを望んでいたのだ。今回、追いはらわれたのは、おまえの罪業が重くて救えないということだ。つとめて善行を積むべきだ、まだ万に一つの挽回の望みはあろう。」。それから病は癒えたが、改悛しなかったところ、その後、ほんとうに印章を盗用し、ひそかに馬税[267]を受けとって誅に服した。堂吏でその事を知る者があり、後にわたしに語った。

  
  亡母張太夫人には、下女がおり、繍鸞といった。かつて月夜に堂階[268]に坐していたとき、呼ぶと、東西の回廊から繍鸞が一人ずつ走りでてきた。容貌衣服は少しも異なっておらず、右の襟の角が反りかえって折れ、左の袖が半ば巻いていることに至るまで同じであった。大いに驚いて倒れそうになり、ふたたび見ると、一人だけが残っていた。尋ねると、西の回廊からきたものであった。さらに尋ねた。「東の回廊の人を見たか。」「見ておりません。」。これは七月の事であったが、十一月になるとすぐに亡くなった。福分がすでに尽きようとしていたので、(あやかし)が姿を現そうとしただろうか。

  
  滄州挿花廟[269]の尼は、姓を董氏といったが、大士[270]の誕生日、供物を調えるのが終わろうとしていたとき、突然、軽い疲れを感じ、(つくえ)に寄ってしばらく休んだ。すると、大士が夢にぼんやり現れて、こう言った。「おまえが供物を献じなければ、わたしは飢えを我慢できぬが、おまえが供物を献じても、わたしは満腹することはできないだろう。寺の外に流民四五人がいるが、食べものを貰えず、餓え苦しんで死にそうになっているから、供え物するのをやめてかれらに食べさせてやれ。功徳はわたしに供えるよりも十倍勝っているだろう。」。突然、目覚め、門を開いて見てみると、ほんとうに嘘ではなかった。それから毎年供物を献じおわると、すべて乞食に施して、こう言った。「これは菩薩のご意思だ。」。

  
  亡き太夫人が言った。滄州に轎かきの田某がおり、母が[271]患って死にそうになっていた。聞けば景和鎮[272]のある医者が珍しい薬を持っているということであったが、百余里距たっていた。早朝に狂奔してゆき、薄暮に狂奔して帰ってきたが、息も絶え絶えであった。しかしその夕方に衛河[273]はにわかに増水し、舟は渡ろうとしなかったので、天を仰いで大声で叫び、涙は声とともに下った。人々は哀れんだが、どうしようもなかった。すると突然、一人の船頭が纜を解いて叫んだ。「神の道があるなら、この人は溺れないでしょう。さあ。さあ。お渡ししましょう。」。奮然と舟を漕ぎ、横ざまに白浪を衝いていった。そして弾指の間に、東岸に着いていた。観る者はみな合掌して仏号[274]を誦えた。亡き姚安公は言った。「この船頭の道を信じること[275]の篤さは、儒者に勝っている。」。

 

最終更新日:201151

閲微草堂筆記

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[1]?−千七百九十三)、字厚庵(厚安とも)、清天津の人。清高宗乾隆七年(千七百四十二)の武士。http://dlibrary.tjl.tj.cn/jmqx/renwu/yja.htm

[2]新疆の地名。鄯善辟展http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%BE%9F%E5%B1%95&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[3]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE7ZdicBFZdicB037010.htm

http://www.zdic.net/cd/ci/19/ZdicE7Zdic80Zdic9A334489.htm沙漠。

[4]新疆迪化府の県名。

[5] 『清史稿』卷六十四・甘肅・序言「(乾隆)三十八年、置鎮西府於巴里坤、迪化直隸州於烏魯木齊。」

[6]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&source=hp&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E6%B2%A7%E5%B7%9E%E5%B8%82%E7%8C%AE%E5%8E%BF%E6%B7%AE%E9%95%87%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[7]『金史』卷二十五・河北東路「交河、大定七年以石家圈置.鎮十景城、南大樹、劉解、槐家、參軍、貫河、北望、夾灘、策河、沙渦.」

[8]http://baike.baidu.com/view/1652878.htm紀ホの父容舒

[9]『明史』卷四十順天府「霸州洪武初、以州治益津縣省入.拒馬河舊在北、後徙治南.又南有沙河.東有苑家口巡檢司.」

[10]原文「海客無心、則白鷗可狎。」。唐李白『江上吟』「仙人有待乘黄、海客無心随白」『列子』帝篇「海上之人有好漚鳥者、旦之海上、從漚鳥游、漚鳥之至者百住而不止。其父曰、吾聞漚鳥皆從汝游、汝取來、吾玩之。明日之海上、漚鳥舞而不下也。故曰、至言去言、至為無為。齊智之所知、則淺矣。」

[11]http://baike.baidu.com/view/184674.htm

http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%99%8E%E5%9D%8A%E6%A9%8B&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[12]http://baike.baidu.com/view/236060.htm

[13]http://baike.baidu.com/view/776939.htm

[14]直隸河間府の県名。

[15]http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE5Zdic8FZdicA314225.htm原文「率口惠而實不至。」。

[16]http://baike.baidu.com/view/379988.htm

[17]以下の部分、全体的に趣旨が分かりにくい。

[18]原文「且爾所贊成、拯救、皆爾身在局外、他人任其利害者也。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[19]原文「此心尚可問乎」。未詳。とりあえずこう訳す。「問心」は胸に手を当てて自問すること。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9Zdic97ZdicAE272988.htm

[20]原文「人於爾貌合而情疏」。http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE8ZdicB2Zdic8C9668.htm

http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE8ZdicB2Zdic8C249459.htm

[21]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9Zdic98ZdicB4264154.htm冥土の律法。

[22]未詳。

[23]陝西同州府の州名。

[24]http://baike.baidu.com/view/339144.html?fromTaglist

[25]原文「顛倒是非、出入生死」。未詳。とりあえずこう訳す。

[26]河間県の村名。『清史稿』卷四百四僧格林沁「復連敗賊於河間束城村、獻縣單家橋、交河富莊驛.」

http://baike.baidu.com/view/1105177.html

http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%9D%9F%E5%9F%8E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=il&start=0

[27]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicBFZdic81242025.htm原文「人計其妻遷賄之期」。「遷賄」は財物を運ぶこと。ここでは財産を持って駆け落ちすることであろう。

[28]原文「正當此婦乘垣後日」。「乘垣」は未詳だが、塀を逾えて駆け落ちすることであろう。

[29]http://baike.baidu.com/view/898965.htm

http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7ZdicBDZdic97212948.htm

楽府『陌上桑』に登場する美女の名。王仁の妻で、桑採みの際、に恋慕されるがはねつける。

[30]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBEZdic9D19782.htm原文「分明依樣畫葫蘆」。「依樣畫葫蘆」は原型をまねるばかりで新しいものを作らないことの喩え

[31]叙述者の視点が実家に置かれている。

[32]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7Zdic8BZdic82308381.htm動の軽狂な人。

[33]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic88ZdicB628469.htm

[34]http://baike.baidu.com/view/881976.htm

[35]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE5Zdic97ZdicB790433.htm哀号するさま。

[36]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE7ZdicA8ZdicBD227879.htm跪拜の礼、膝を曲げて拜礼し、額を地に触れ、極度の敬意を表す。

[37]http://www.zdic.net/cy/jd/ZdicE5Zdic8DZdic9711743.htm判決は絶対変わらないことの喩え。『旧唐·李元紘伝』「南山或可改移、此判揺動から。

[38]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicA5Zdic84208722.htmにわかであるさま。また、くらくはっきりせぬさま。

[39]原文「捷盜」。未詳。とりあえずこう訳す。

[40]直隷滄州。『元史』巻五十八・河間路「滄州、中。唐改景城郡。」

[41]http://www.zdic.net/cd/ci/21/ZdicE8ZdicA0ZdicA232435.htmがないさま。また、愚昧無知のさま。

[42]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic9DZdic91135920.htm村で農作業手伝いなどに雇われている人。

[43]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/211227.htm&sa=U&ei=ARqmTb2sCZDovQO-luibCg&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNHp2449MSowUEncaVErTgZzyQtI-g 

[44]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic83Zdic98147823.htmぼんやりしたさま。

[45]http://www.zdic.net/cd/ci/20/ZdicE9ZdicADZdic94311893.htm佛教。梵文訳意訳したもの。修身障碍。

[46]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicAEZdic9A123651.htm仏教五力の一つ。煩悩妄想を除く禅定の力。

[47]孌童を忘れるために、心を空しくするのではなく、孌童の腐敗した姿、その他いろいろなことを考えることを通じて、愛欲を断てということを喩えたもの。

[48]http://www.zdic.net/cd/ci/20/ZdicE9ZdicACZdic9176420.htm鬚や髪が伸びるさま。

[49]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic88ZdicB1171937.htm欲。

[50]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicACZdicB2172633.htm情欲の根。

[51]http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE5Zdic8DZdic81326700.htm往来する僧を接待する寺院。

[52]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E6%B2%A7%E5%B7%9E%E5%B8%82%E6%B2%A7%E5%8E%BF%E9%A6%AC%E8%90%BD%E5%9D%A1&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[53]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE6ZdicADZdicA3331963.htm修行して得た悟り

[54]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicACZdic9444732.htm官名。清代各役所に置された下級の文官。満漢の章奏文書の訳を掌った。

[55]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8ZdicBB93547.htm正六品の官名。

[56]新疆省吐魯番縣の西、天山の最高峰。

[57]『清史稿』卷一百十七・驍騎營八旗都統「驍騎營八旗都統、初制正一品、後改從一品.滿、蒙、漢軍旗各一人.副都統、正二品.旗各二人.參領、正三品.副參領、正四品.九十有六人.滿洲、漢軍各四十人、蒙古十有六人.佐領、正四品.驍騎校、正六品.」

[58]千七百六十八年。乾隆三十三年。

[59]http://www.chinaxinjiang.cn/xjgk/mzzj/t20090513_450521.htm昌吉の屯田で起こった回族の反乱。

[60]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9Zdic82ZdicAA241308.htm掛け声。えんやこらの類。

[61]コケの胞子体。用例:蘇軾『和同年卞山洞祷晴』「神井涌雲蓋、崖垂花。

[62]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE9ZdicA2Zdic9D62955.htm代、西部蒙古各部の称。オイラート。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%88

[63]前注参照。

[64]前注参照。

[65]夫婦の心が別々でなかったことは他人でも分かっているということであろう。

[66]夫も妻もどちらも悪くないからかれらを隔てるのはおかしいといっている。

[67]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5ZdicBEZdicA1331355.htm官名。弾劾をつかさどる。

[68]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicA8Zdic80250715.htm官。

[69]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicABZdicA0192730.htm原文「言官受賂鬻章奏」。「章奏」は臣僚が皇帝にする。この句、賄賂を受けて上奏文に不実の記載をしたことを述べているのであろう。

[70]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicBCZdic95125520.htm原文「君雖引嫌不問」。「引嫌」は嫌疑をさけること。ただ、「引嫌不問」とはどのようなことなのか未詳。

[71]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9Zdic98ZdicB3272174.htm意のさま。陽じる

[72]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE5ZdicBEZdicB7112799.htm恩コしてやったのだとみずからんでいる顔色。

[73]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5Zdic96Zdic9F334196.htm息するさま。

[74]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8B6345.htm原文「我未下石也」。「下石」は井戸にを投げこむこと。人の危難に乗じて害を加えることの喩え。

[75]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5Zdic93Zdic80281348.htm哀矜」は哀れむこと。論語·子』「如得其情、哀矜而勿喜。」

[76]http://baike.baidu.com/view/1904439.htm

[77]宋銑。乾隆二十五年進士。呉県人。

[78]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicA6Zdic86281109.htm賓客接待する場所。

[79]元雑劇『風光好』に出てくる妓女。http://yuzhi.hp.infoseek.co.jp/fengguanghao.htm

[80]http://baike.baidu.com/view/1716.htm包拯。宋代の名裁判官。孝肅は謚。

[81]直隸天津府南皮県の村名。

[82]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic82ZdicAE223770.htm焼き鏝を人にあてる

[83]前話参照。売春して稼いだ金で、夫に代わって夫の父母を養った。

[84]原文「不食馬肝、未為不知味也。」。漢書·儒林·固』に、「食肉毋食肝、未不知味也。言学者毋言受命、不愚」顔師注「肝有毒、食之憙人、幸得無食。為殺、是背経義、故以為喩也」とあるのに基づく句。『漢書』の趣旨は、馬の肝には毒があるので、それを食べないからといって味を知らないことにはならない。それと同じように、武が主君である桀紂を殺したことについて語らなかったとしても、それが愚かなこととはいえないというもの。研究すべきでない事は研究しないことの喩え。http://zhidao.baidu.com/question/1924086.html

[85]未詳。

[86]巻六に出てくる。

[87]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic9DZdic9732565.htm孤独のさまのさま。

[88]書名。宋・夏休『周礼井田譜』二十巻。http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/ShikoTeiyo/0046202.html 

[89]http://www.lsqn.cn/mingren/RWJS/ancient/200703/15945.html

[90]http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE7ZdicA5Zdic9E28774.htm原文「神而明之、存乎其人。」。

[91]http://cy.kdd.cc/9/84/原文「能與人規矩、不能使人巧」。『孟子·尽心』「梓匠輪輿能与人矩、不能使人巧。

[92]原文「明魏忠賢之惡、史冊所未睹也。」。未詳。とりあえずこう訳す。史書に見えないほど凶悪なものであるということか。そうだとしたら、やや大げさに思われるのだが。

[93]直隸河間府の県名。

[94]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E181616.htm神の道。

[95]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic8DZdic92316283.htm荒涼辺鄙。

[96]http://baike.baidu.com/view/1008218.htm

[97]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE8ZdicB0Zdic995319.htm代達靼の首元王室の後裔。

[98]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic85ZdicB3252880.htm要道の所。

[99]http://baike.baidu.com/view/90612.htm

[100]原文「昔建文行遁」。「行遁」が未詳。とりあえずこう訳す。

[101]原文「又天下之所不與」。未詳。とりあえずこう訳す。

[102]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic99Zdic90188298.htm残暴の気焰。

[103]直隸順天府の県名。

[104]未詳。

[105]原文「縣學中忽雷霆擊格」。「擊格」が未詳。とりあえずこう訳す。

[106]永平府臨楡県の歳貢。http://bbs.renmin.cc/bbs/viewthread.php?tid=2559094

[107]http://baike.baidu.com/view/16008.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E7%B4%85%E6%9F%B3&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[108]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA1Zdic8C115633.htmあるいは出游の時に組み立てるテント。

[109]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic9CZdicA8143617.htm樹が変じた妖魅。

[110]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE5Zdic83ZdicAC22860.htm小人。

[111]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7Zdic89ZdicA7147086.htm清代、長城と柳の外に設けられた馬の

[112]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE8Zdic85Zdic8A.htm冬季に塩漬けにし、熏して作った食品。

[113]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicABZdicAB192765.htm小人。

[114]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE9ZdicBEZdic9947242.htm伝説上の大人国。

[115]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9Zdic9BZdicAA275145.htm

http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9Zdic9BZdicAA262893.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E9%9B%AA%E8%8E%B2%E8%8A%B1&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[116]一桂(16881772)に『洋菊譜』があり、さまざまな品種があったようである。

[117]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE8Zdic8FZdic9F203684.htm草の名。菟子。蔓生で、茎は細長、他の植物にからまる。花は淡色。種子は薬用

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&lr=&um=1&sa=1&q=%E8%8F%9F%E7%B5%B2&aq=f&oq=&start=0

[118]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic8CZdicAF334138.htm名。名雲苓、白茯苓。松根に寄生する状菌、皮はK色、皺があり、内部は白色あるいは粉、松根を含むものを茯神といい、いずれも薬用。

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&lr=&um=1&sa=1&q=%E8%8C%AF%E8%8B%93&aq=f&oq=&start=0

[119] 『淮南鴻烈解』説山訓「千年之松,下有茯苓,上有兔絲」。注「茯苓,千歳松脂也。兔絲生其上,而無根。一名,女蘿也」。説林訓「伏苓掘,兔絲死」。『呂氏春秋』精通「五曰人或謂兎絲無根。兎絲非無根也。其根不屬也。伏苓是」。注「屬,連也」。『太平御覽』卷九百九十三・菟絲「抱朴子曰……實不連,以氣相属耳。如莵絲之草下,有茯苓之根。無此莵在下,則絲不得生於上」。 

[120]薬物の「性」とは主に寒・熱・温・涼四種の薬性で、古くはこれを「四気」と称した。これらは薬物の作用に対する生体反応を概括したもので、熱証を軽減治療するのが寒・涼薬、その反対が熱・温薬である。寒と涼、熱と温は程度の差で、普通はさらに“大”や“微”が付されて大寒−寒−微寒などと区別がつけられる。また寒涼や熱温の作用が顕著ではない緩和な薬性を“平”とするが厳密には微寒や微温の一部でもある。http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/paper04/kimigainen.html

[121]http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE4ZdicBAZdic8C292303.htm、陽二気。

[122]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5Zdic81Zdic8F22310.htm一方がもう一方を超越すること。平衡を失うこと。

[123]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5Zdic81Zdic8F298931.htm衰退に向かうこと。この部分、何を言っているのか未詳。

[124]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7ZdicA7ZdicAF162010.htm気の集まり。

[125]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicBAZdicAF32432.htm陽気。

[126]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%98%93%E4%B8%8A%E7%B5%8C%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%8D%A6%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E5.9D.8E

[127]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%98%93%E4%B8%8A%E7%B5%8C%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%8D%A6%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E5.89.A5

[128]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%98%93%E4%B8%8A%E7%B5%8C%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%8D%A6%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E5.BE.A9

[129]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicA1ZdicA5200992.htm身体をする処方。

[130]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%A1%80%E7%86%B1%E5%A6%84%E8%A1%8C&lr=&aq=f&oq=

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&q=%E8%A1%80%E7%86%B1%E5%A6%84%E8%A1%8C&lr=&aq=f&oq=

[131]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE7Zdic99ZdicBE188274.htm血管。

[132]『黄帝内·素·六微旨大』。

[133]朱震亨。http://baike.baidu.com/view/22416.htm

[134] http://db.39kf.com/zhongyiguji/606/gezhiyulun/index.shtml 

[135]苦くて体を冷す働きのあるもの。http://74.125.153.132/search?q=cache:UTNcy2XxbFUJ:shizennori.ftw.jp/u31740.html+%E8%8B%A6%E5%AF%92%E3%80%80%E6%BC%A2%E6%96%B9&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

[136]http://baike.baidu.com/view/143092.htm

[137]http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E4%BA%BA%E5%8F%82&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi人参

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&lr=&um=1&sa=1&q=%E8%93%8D%E8%8D%89&aq=f&oq=&start=0蓍草

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&lr=&um=1&sa=1&q=%E8%82%89%E6%A1%82&aq=f&oq=&start=0肉桂

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&lr=&um=1&sa=1&q=%E9%99%84%E5%AD%90&aq=f&oq=&start=0附子

[138]『閲微草堂筆記』卷十「盧霽漁編修,患寒疾,誤延讀景岳全書者,投人參,立卒。」

[139]原文「是未知易道扶陽」。未詳。とりあえずこう訳す。

[140]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE

[141]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8A16236.htm『易』の卦の第六位にある陽爻を上九という。

[142]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicBAZdicA281648.htm漢典は「高位にいて退を知らなければ、盛んであるのが極まって衰え、亡の悔いを免れないことをいう。」と解説しているが、ここでは「陽気がきわまるとよくないことがある」というくらいの意味で使っていよう。

[143]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6ZdicB8ZdicA94602.htm漢方で、温性の物を用いて補養することを指す

[144]http://www.baus-ebs.org/sutra/fan-read/008/0220/000a.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E5%A4%A7%E5%94%90%E4%B8%89%E8%97%8F%E8%81%96%E6%95%99%E5%BA%8F&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[145]『三蔵聖教序』に「風災鬼難之域」という言葉は見えない。

[146]前注参照。

[147]http://baike.baidu.com/view/30385.htm

http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&lr=&resnum=0&q=%E5%90%90%E9%B2%81%E7%95%AA%20%E7%99%BE%E5%BA%A6%E7%99%BE%E7%A7%91&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[148]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicA7ZdicBB180847.htm関係にない官署でやりとりされる公文。

[149]

[150]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA4ZdicA734026.htm大自然、大地。

[151]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE5Zdic99ZdicAB108701.htm吐気。

[152]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE7Zdic81ZdicAB318301.htm天然ガスの燃える井戸。塩を煮るのに用いた。左思『蜀都』に見える。

[153]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB2ZdicB32750.htm黄河の源。『漢書·西域上·于国』参照。

[154]e。字は君琢、號は勵菴、宛平の人。雍正癸丑の進士、官は宗人府主事。

[155]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic8FZdic96303429.htm主が相えるときの挨拶。

[156]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA985257.htm天界の律令。

[157]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic82ZdicBC275214.htm道家自身の体を修煉することをいう

[158]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic86Zdic857477.htm自身の精気で成した丹金石を焼く煉してつくる「外丹」の対。

[159]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic9089444.htm吐故新。道家の

[160]これは朱子を指しているのであろう。

[161]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE7ZdicACZdic94.htm「筆」は絵を数える単位。

[162]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicB8Zdic85299661.htm清らかだが深くないこと。

[163]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic88ZdicB1179963.htmいたく愛する。

[164]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE5ZdicABZdicA3334497.htm紅く艶やかな花の色、艶麗な花。

[165]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB0Zdic8F109720.htm暫時停留すること。

[166]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8Zdic8AZdicB1202457.htm花を掌管する神。

[167]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8Zdic8EZdic93201514.htm青苔。

[168]原文「又詠舟限車字、詠車限舟字」。「限」が未詳。とりあえずこう訳す。

[169]春のぬかるみ。

[170]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE8Zdic96Zdic84234925.htm素な作りの速度の遅い

[171]http://www.zdic.net/cd/ci/23/ZdicE8ZdicBDZdicA3220954.htm擬音語車輪あるいは轆轤動く音。

[172]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic87Zdic91269292.htm金の飾り轡のついた馬のおもがい

[173]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic9DZdic9C61454.htm格律に合っていないこと。

[174]道士が鬼を駆ったり神を召したり病を治したりするときに使う文

[175]原文「扶乩者手不習也」。未詳。とりあえずこう訳す。

[176]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE9Zdic97ZdicB2278355.htmのない身。

[177]原文「後毋相瀆」。未詳。とりあえずこう訳す。

[178]田o。『清史稿』卷二百八十八・鄂爾泰「廣西八達寨儂顏光色等為亂、提督田o不能討.」『閲微草堂筆記』卷二十一にも出てくる。

[179]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8ZdicA1Zdic99121033.htm役所で員が燕居する

[180]原文「行去矣」。未詳。とりあえずこう訳す。

[181]叛逆した苗族。

[182]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic88Zdic8E85627.htm府、幕府。

[183]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE7ZdicA2Zdic8C321896.htmローラー。

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E7%A2%8C%E7%A2%A1&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[184]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&source=hp&q=%E6%9D%8E%E5%AE%B6%E7%AA%AA%E3%80%80%E6%B2%B3%E5%8C%97%E3%80%80%E7%8C%AE%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=il&start=0

[185]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE7Zdic9DZdic92175940.htm光が閃めくさま

[186]巻六参照。

[187]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic8DZdicA3222466.htm原文「各持搗衣杵亂捶其股」。「搗衣杵」は、衣を洗う時に用いる木の杵。砧の上で衣服を打ち、きれいにする。

[188]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7Zdic8BZdic9065907.htm狐妖鬼魅。

[189]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9ZdicA5ZdicBC59847.htm(へい)類の食品の称。

[190]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6ZdicB1ZdicB9283504.htm大声で凶暴なさま。

[191]未詳だが、兵卒のことであろう。

[192]張若靄。http://baike.baidu.com/view/221181.htm

[193]昭、字は懋園、号は悟

[194]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic9EZdicB7140205.htm枷にかけて杖刑を受けさせること。

[195]原文「當設策使不竟其獄」。未詳。とりあえずこう訳す。

[196]未詳。巻六、十一、十三にも出てくる。

[197]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicA4ZdicBE290962.htm春秋の社日に土地神を祀る集会。

[198]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic9DZdic9E292918.htm制度に合っていないこと

[199]山東濟南府の州名。

[200]原文「牒送回籍」。「牒送」が未詳。とりあえずこう訳す。

[201]山東青州府の県名。

[202]未詳。

[203]http://baike.baidu.com/view/45224.htm

[204]園亭は庭園にあるあずまやであろうが、そこに「借寓」できるのかは未詳。

[205]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic8CZdicA5285876.htm晋人が清談する時、常に麈尾を揮っていたことから談論を揮麈という。

[206]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9Zdic87Zdic8D99737.htm重なりあう門

[207]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD291756.htm詩の六義。、比、、雅、頌。ここでは詩のことであろう。

[208]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic9CZdicA852199.htm深山の精怪。

[209]原文「毋乃山中木客解吟詩乎。」宋・蘇軾『虔州八境圖詩八首』之八「回峰亂嶂鬱參差,雲外高人世得知。誰向空中弄明月,山中木客解吟詩。」

[210]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic93ZdicAC200693.htmったさまもじゃもじゃのさま。また、ぼんやりしたさま。

[211]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6ZdicB0ZdicB4323590.htm辺の亭。

[212]http://baike.baidu.com/view/126685.htm

[213]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE9Zdic9BZdic95143417.htm雕刻彩された欄干美な欄干

[214]屈曲して連なっている高殿。

[215]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6ZdicB1ZdicA071112.htm池のある庭苑と舎。

[216]http://www.zdic.net/cd/ci/18/ZdicE5ZdicBDZdic9D316767.htm祭祀用の鼎、尊、罍などの祭器。

[217]http://www.zdic.net/cd/ci/21/ZdicE7ZdicBDZdic8D197763.htm食前に手を洗う器。罍には清水を入れ、水を取って手を清め、洗で受ける。

[218]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic96Zdic918903.htm色彩が錯雑して燦爛たるさま

[219]http://www.zdic.net/cd/ci/20/ZdicE7ZdicBAZdic82237973.htm赤色の綬帯。ひろく精美な織錦を指す。

[220]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8ZdicA3Zdic9844877.htm裘は、冬衣。葛は、夏衣。四時の衣服を指す

[221]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD304546.htm家中で膳を供すること。

[222]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicA2Zdic81145053.htm西漢の梁孝王の

[223]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic87Zdic91261637.htm晋の石崇が築いた金谷園。

[224]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicBAZdicB8126311.htm常音。庸な文辞や言

[225]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic88ZdicBB212836.htm

http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6ZdicAFZdic9521526.htm

原文「故先生救之以刻露」。「刻露」は露骨であること。

[226]原文「勢本相因」。未詳だが、凡庸なものが衰えれば清新なものが生まれ、清新なものが衰えれば、凡庸なものが生まれるという具合に、趨勢が変化してゆくことを言っているのであろう。

[227]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBDZdicA919680.htm携帯さな袋。

[228]『輟耕録』巻十三に出てくる。http://zh.wikisource.org/wiki/%E8%BC%9F%E8%80%95%E9%8C%84/%E5%8D%B713 

[229]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD304501.htmがいる軍営

[230]巻四に出てくる。福建仙游の人のようである。

[231]『輟耕録』の作者。

[232]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic9DZdic82257210.htm原文「塞外不當留雜色人」。「雜色」が未詳。とりあえずこう訳す。

[233]原文「則具牒遞回原籍」。「具牒」が未詳。とりあえずこう訳す。

[234]http://bike.baidu.com/view/741031.html?fromTaglist

[235]荘柱。雍正五年進士。

[236]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicADZdicA6284317.htm学院官名。学政。

[237]原文「此有關係」。未詳。とりあえずこう訳す。

[238]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7ZdicABZdic8B173561.htm修身性して天命を奉じること。

[239]http://baike.baidu.com/view/741029.htm

[240]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBAZdicAC212696.htm都の邸宅。

[241]未詳だが、テントのことであろう。

[242]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E226173.htm精神虚弱。

[243]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic97Zdic85223410.htm郷に客死した者の魂。

[244]北京西方の山。

[245]http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE7ZdicBFZdicB3205776.htm没、隠滅するさま。

[246]原文「師何在此坐」。坐」が未詳だが、暗闇の中で坐していることであろう。用例:唐白居易『禁中蛩』「西窗独闇坐、耳新蛩声」

[247]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicBDZdic9B211966.htm僧侶。

[248]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8ZdicBDZdicAC210488.htm回。

[249]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE7Zdic99ZdicBE188274.htm血管。

[250]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9ZdicACZdicBC85169.htm鬼道。六道の一つ。

[251] 巻一に見える。

[252]原文「陽親上」。未詳。とりあえずこう訳す。

[253]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7Zdic81ZdicB5266905.htm人の善良な本性。

[254]主語は夢を見ている人か。

[255]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB3ZdicA53099.htm

[256]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicA4Zdic9C25745.htm汚れのない静かな心。

[257]未詳。

[258]原文「嶺高五十里」。未詳。とりあえずこう訳す。

[259]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicA0ZdicB0174493.htm擬音語。雷の音。

[260]昭。乾隆二十二年進士。

[261]今の滄県荘。http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&source=hp&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E6%B2%A7%E5%B7%9E%E5%B8%82%E6%B2%A7%E5%8E%BF%E5%B4%94%E5%B0%94%E5%BA%84%E9%95%87&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[262]直隸河間府交河県の鎮名。

[263]原文「非篆非籀」。http://www.zdic.net/cd/ci/19/ZdicE7ZdicB1Zdic80196206.htm籀は籀文で大篆のこと。http://images.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E5%A4%A7%E7%AF%86&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

篆は篆文で小篆のこと。http://images.google.com/images?hl=zh-CN&lr=&um=1&sa=1&q=%E5%B0%8F%E7%AF%86&aq=f&oq=&start=0

[264]未詳。

[265] 巻一に見える。

[266]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE7Zdic98ZdicB5192252.htm疫病。また

[267]原文同。未詳。

[268]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicA0Zdic82301186.htm階段

[269]未詳。

[270]世音菩http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA4ZdicA733278.htm

[271]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE8Zdic87Zdic8C.htm肚が膨する病、“水”、“気”の二種があり、“”と通称せられる。“鼓”とも。

[272]直隸河間府河間県の鎮名。http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&source=hp&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E6%B2%A7%E5%B7%9E%E5%B8%82%E6%B2%B3%E9%97%B4%E5%B8%82%E6%99%AF%E5%92%8C%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[273]http://baike.baidu.com/view/232851.htm

[274]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicBDZdic9B293257.htm佛の名号。世尊、如来、瞿など。

[275]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBFZdicA115999.htm原文「此舟子信道之篤」。「信道」は正道を信奉すること。『論語·子』「コ不弘、信道不篤、焉能有、焉能亡。

 

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