第二巻 

 

灤陽消夏録二

 

  董文恪公[1]が少司空[2]をしていた時に語ったこと。昔、富陽村に住んでいたとき、村の叟が隣家に坐していたが、読書する声を聞くと、言った。「貴いお方、どうかお会いください。」。再三じっくり見ると、さらに八字[3]干支を尋ね、しばらく沈思すると、言った。「あなたは命相[4]がすべて一品でございますから、某年に知県になり、某年に大県を代理し、某年に実授となり[5]、某年に通判[6]に昇り、某年に知府に昇り、某年に知府から布政に昇り、某年に巡撫に昇り、某年に総督に昇られます。よくご自愛なされば、後日、わたしの言葉が偽りでないことがお分かりになりましょう。」。後にふたたびこの叟を見ることはなく、その言葉にも験がなかった。しかしくわしく一生を調べると、いわゆる知県とは、抜貢から戸部の七品官を得たことであり、いわゆる大県を代理するとは、庶吉士[7]のことであり、いわゆる実授とは、編修[8]のことであり、いわゆる通判とは、中允[9]のことであり、いわゆる知府とは、侍読学士[10]のことであり、いわゆる布政使[11]とは、内閣学士[12]のことであり、いわゆる巡撫[13]とは、工部侍郎[14]のことであった。品秩[15]はすべて合い、その年もすべて合っていたが、中央と地方ということだけが異なっていた。これは、その言葉に験があって験がなく、験がなくて験があるということであった。ただ、総督がどうなるかは分からなかった。後に、公はその年に礼部尚書を拝命したが、品秩は合っていた。按ずるに、干支で占うと、奇すしき験があったり、まったく験がなかったり、半ば験があったり、半ば験がなかったりする。わたしはかつてもっとも確かに見聞した者に関して、何度も深く考えたが、八字による貴賎貧富は、大略が似ているだけで、個別の乗除[16]盈縮[17]には、いささか異同がある。無錫の鄒小山先生[18]の夫人と安州[19]の陳密山先生[20]の夫人は、八字干支がすべて同じであった。小山先生は官が礼部侍郎、密山先生は官が貴州布政使で、ともに二品、爵を論じれば、布政は侍郎の尊いのに及ばず、禄を論じれば、侍郎は布政の豊かなのに及ばないので、補いあっていた。二夫人はともに長寿であった。陳夫人は早くに寡婦となったが、晩年は健康安穏であり、鄒夫人は白髪になるまで夫に仕えたが、晩年に子を失い、家計も貧しく、これも補いあっていた。これは地に南北があり、時に初正[21]があるようなものかと疑われた。わたしの六番目のおいとしもべの劉雲鵬は、生まれた時に一つの塀を隔てていただけであった。二つの窓は相対しており、二人の子供はともに(しとね)に落ちて啼いたが、時刻が同じであったばかりでなく、分秒に至るまで同じであった。おいは十六歳になると夭折したが、しもべは今なお生存している。(さだめ)によって賦せられた福分が、同じ量でないはずはないが、おいは富貴の中で生長し、消耗したので先に尽き、しもべは貧賎の中で生長し、消耗することが多くなかったので、禄はなお尽きていないのだろうか。満ち欠けするのは、理の当然だが、命数を知る者がさらに説明してくれるのを待つ。

  
  曽伯祖光吉公[22]は、康煕初年に官位は鎮番[23]の守備[24]であった。その話によれば、李太学[25]の妻は、つねにその妾を虐げ、怒るとかならず下着を剥いで鞭うち、何もしない日はほとんどなかった。郷里には冥土に入ることができる老媼がおり、走無常といわれていたが、その妻を諌めた。「奥さまはあのお妾さんと宿怨がございますが、二百回鞭うって償うべきにすぎません。今は憎む心が盛んで、鞭うちの回数は十余倍を越えようとしており、今度は借りを負っています。それに一般の婦女が刑を受けるとき、国法では衣を剥ぎませんが、奥さまはかならず裸にして辱め[26]、好き勝手になさったため、鬼神に憎まれたのでございます。奥さまはわたしに良くしてくださいますから、ひそかに冥籍[27]を見、お聞かせしないわけにはまいらなかったのでございます。」。妻は笑って言った。「婆あめ、でたらめを言い、わたしにお祓いさせ、金を取ろうとしているのか。」。おりしも経略[28]の莫落[29]が、王輔臣[30]の変に遭い、乱党が蜂起し、李は兵乱のなかで歿した。妾は副将韓公に捕らえられ、その聡明さを喜ばれ、寵を專らにした。韓公には正室がなかったので、家政は妾に操られた。妻は賊に掠われ、賊が破れると捕らえられ、将兵に与えられることになり、韓公のもとに落ち着いた。妾は妻を養って下女にし、堂に跪かせると、こう言った。「わたしの指揮を受けられるなら、毎日朝起きたときに、まず妝台の前に跪き、みずから下着を剥ぎ、地に伏して五たび鞭を受け、その後で仕事すれば、命を許そう。さもなければ、おまえは賊党の妻になったことがあり、殺しても禁じられることはないから、おまえを寸刻みにし、犬や豚に食わせよう。」。妻は死ぬのを恐れていたし、落ち目であったので、叩頭して命令に従うことを願ったが、妾は妻がすぐに死ぬことを望まず、鞭うちはあまりひどくせず、痛みを味わわせるだけにした。妻は一年余りしてほかの病気で死んだ。鞭うった数を計えるとちょうど合っていた。この婦人はまことに愚鈍無恥であったし、鬼神の憎むことでもあったので、姿を現さずにその(たましい)を奪ったのである。この事は、韓公がみずからを隠さず、挙げて果報を明らかにしたため、人々はその詳細を知ったのであった。韓公はさらに言った。「これはその位をあからさまに易えたのだ。明末にかつて襄ケ[31]の間に遊び、術士張鴛湖と宿舎を同じうしたが、鴛湖は宿の主人の妻が妾をひどく虐げ、不平が積もっていることをよく知っており、ひそかに語った。『道家には借形法[32]があり、修煉が成らず、気血がすでに衰え、還丹[33]できない者は、壮健な体を借りるが、眠っているのに乗じて交換する。わたしはかつてこの法を得たから、ひとまず試そう』。翌日、その家で、突然、妻が妾の部屋で語り、妾が妻の部屋で語るのが聞こえた。外に出ると、妻の言葉を話しているのは妾で、妾の言葉を話しているのは妻であった。妾は妻の身を得、ただ黙坐し、妻は妾の身を得、きわめて不満であった。紛紜[34]として、自分は妻であると言い張ったが[35]、親族は判断できなかった。お上に訴えると、お上は怪しいことだと怒り、その夫を笞うち、追い出したが、みなどうすることもできなかった。しかし姿から論じれば、妻は本当に妾になってしまっていた。しかるべき地位にないため[36]、威令は行われず、家を分けて住んで終わった。この事はもっとも奇妙であった。」。

  
  言い伝えでは、ある塾師が、夏の夜、月が明るかったので、門人を率いて河間献王祠[37]の外の田塍(あぜ)の上で涼み、ともに『三百篇[38]』の模擬問題を講じていた。音は琅琅として鐘鼓のよう、さらに子供に『孝経』を誦えさせ、誦えおわるとまた講じた。ふと頭を挙げて祠の門の二本の古柏の下を見ると、ぼんやりと人がいるのが見え、近づいてみると、姿形はすこぶる奇妙であったので、神鬼だと悟った。しかしここは献王祠の前だから、決して妖魅はでなかろうと思ったので、進み出て姓名を尋ねると、言った。「毛萇、貫長卿、顔芝が、王に目通りするためにこちらに来ました。」。塾師は大いに喜び、再拝して経義を授けることを請うた。毛貫はともに言った。「君が講じる話はすでに聞いたが、いずれもわたしたちが理解できることではないので、お答えするすべがない。」。塾師は再拝して言った。「『詩』の趣旨は深く微かなので、下愚に授けることは難しい。顔先生に『孝経』を講じるように頼めるか。」。顔は顔を奥に向けて言った。「君や子供が誦えているものは、遺漏があってでたらめで、まったくわたしの伝えている本ではない。コメントできる処もない。」。にわかに王の命令を伝えるのが聞こえた。「門の外で誰かが酔って語っているかのようだ。もうながいことうるさくしているから、追い払え。」。わたしはこれと愛堂先生[39]がいう学究が冥吏に遇った事は、いずれも博雅の士が、戯語を作り、俗儒を罵っているのだと思う。しかしこれもまた空洞に風が来[40]、桐乳[41]が巣に来るようなものか。  

  亡き姚安公は性格が峻厳で、家に悪い客は来なかった。ある日、襤褸を着た人と対話していたが、わたしたち兄弟を呼ぶと挨拶させ、こう言った。「こちらは宋曼殊さまの曽孫(ひまご)さんで、ながらく音信がなかったが、今回お会いしたのだ。明末の兵乱のとき、おまえの曽祖父(ひいおじいさん)は年が十一で、戦場をさすらっていたが、宋曼殊さまに頼って生きることができたのだ。」。そしてその人のために生計の立てかたをくわしく説き、わたしたち兄弟を戒めた。「義は報いるべきものであり、因果を問題にすることはないが、因果はほんとうにたがうことがないものだ。昔、某公はある人から命を助けてもらう恩を受けたが、富貴になった後、恩人の子孫が零落するのを見ても、漠として見知らぬ人のようにしていた。後に病に苦しみ、薬を服していたところ、その人が手ずから二つの書札を授けるのがぼんやりと見えたが、いずれも封緘されていなかった。見ると、そのかみの救いを乞う書であったので、杯を地に覆し、『わたしは死ぬのが遅かった。』と言い、その晩に亡くなった。」。

  
  宋按察蒙泉[42]が言った。某公は明代に諌官をしていたが、扶乩して寿命を尋ねたところ、神は某年某月某日に死ぬとお告げした。期日は遠くなかったので、つねに悒悒としていたが、期日になっても恙なかった。後に本朝に入ると、九列[43]にいたった。たまたま同僚の家で扶乩したところ、前の神がふたたび降臨したので、某公がお告げに験がなかったことについて尋ねると、さらにお告げした。「君が死ななかったのを、わたしはどうしようもない[44]。」。某公は沈思すると、たちまち車を整えさせて去った[45]。そもそも死ぬと告げられていたのはまさに甲申三月十九日[46]であった。

  
  沈椒園先生[47]が鼇峰書院[48]の山長[49]であった時、高邑[50]の趙忠毅公[51]の旧い硯を示されたが、「東方未明之硯。」の六字が縦書きにしてあり、背に銘があった。「残月熒熒[52]、太白睒睒[53]、鶏三たび(さけ)[54]、更[55]五たび点じ、この時に拝疏[56]して大奄[57]を撃つ、事成らば汝の功を策し、成らずんば汝と同に貶められん。」。そもそも魏忠賢を弾劾した時にこの硯を用いて草疏したのであった。末尾に小さい字一行があり「門人王鐸書く。」と題していた。この一行は刻まれていなかったが、墨痕は深く石の髄に入り、乾けば見えなくなるのであった。水を取って濯ぐと、五字ははっきりするのであった。言い伝えでは、はじめ、王鐸[58]にこの銘を書かせたが、刻まないうちに厄難が起こり[59]、後に配所で刻んだとき、(たくみ)にこの一行は刻まないように言ったということであった。しかし百余年を経ているのに、洗っても消えないのは、すこぶる奇妙なことである。ある人が言った。「忠毅は悪をはげしく憎んでいた。漁洋山人[60]の筆記は鐸の人品は日に日に下り、書品も日に日に下ったと称している[61]。そうだとすれば忠毅には先見の明があり、その名を削り、しりぞけようとしたのであろう。洗っても消えないのは、かれがかつて忠毅にしりぞけられたことを明らかにしようとしているのだ。」。天地の鬼神は、つねに一つの事でたまたまその巧みさを示し、人に戒めの気持ちを起こさせるが、あるいはそれかも知れない。

  
  乾隆庚午、官庫で玉器が失われ、苑戸[62]たちを調べたところ、苑戸の常明が審理を受けている時に、たちまち童子の声になって言った。「玉器は盗んでいませんが、人はほんとうに殺しています。わたしは殺されたものの魂です。」。取調官は大いに驚き、刑部に移送した。姚安公は時に江蘇司の郎中[63]であったので、余公文儀[64]らとともに訊問したところ、魂は言った。「わたしは名を二格といい、年は十四、海淀に住み、父は李星望ともうします。おととしの上元のとき、常明はわたしを引いて観燈して帰り、夜が更け、人が静まりますと、わたしに戯れ、わたしがかたく拒み、帰って父に訴えると言いますと、衣帯でわたしを絞め殺し、河岸に埋めました。父は常明がわたしを隠したと疑い、巡城[65]に訴え、刑部に送らせましたが、証拠がなかったため、別に真犯人を捕らえるように沙汰されました。わたしの魂はつねに常明に憑いており、四五尺離れているだけでしたが、盛んで烈しい炎のようでしたので、近づけませんでした。後に、熱がやや減じますと、だんだん二三尺まで近づき、さらにだんだん一尺ばかりにまで近づきました。昨日はまったく熱いと感じませんでしたので、はじめてとりつくことができたのです。」。さらに言った。「はじめて訊問がおこなわれた時、(わたし)も従って刑部にゆきました。」その門を示させると、広西司[66]であった。言っていた月日を調べると、旧い文書が見つかった。その屍を尋ねると、河岸の×本目の柳の樹の傍にあると言ったので、掘るとやはり見つかったが、まだ腐っていなかった。かれの父を呼んで確認させると、長嘆して「せがれや。」と言った。事は怪誕だが、証拠はすべて真実であった。訊問の時に常明の名を呼ぶと、たちまち夢から醒めたかのように、常明の言葉になり、二格の名を呼ぶと、たちまち昏酔したかのようになり、二格の言葉を話した。たがいに弁じること再三、はじめて罪を認めた。さらに父子で家の事をくどくど語ったが、一つ一つがはっきりしており、疑わしいことはなかったので、実状を上奏した。判決は法律どおりになされた。命が下った日、魂はとても喜び、もともと糕を売って暮らしていたので、たちまち糕を売る声を高らかに唱えた。父は泣いた。「ながいこと聞かなかったが、まるで生きていた時の声のようだ。」。子にどこへ行くかと尋ねると、言った。「わたしも分かりません。去るだけです。」。それからはふたたび常明に尋ねても、二度と二格の言葉で語らなかった。

  
  南皮[67]の張副使受長[68]は、河南開帰道[69]の役人であったとき、夜に讞牘[70]を閲し、独りごとを言った。「みずからくびきって死んだ者の刀の傷は、入ったところは重く、出たところは軽いのに、今回は、入ったところが軽く、出たところが重いのは、どうしてだろうか。」。するとたちまち背後で太息するのが聞こえた。「公はなかなかものの道理がお分かりだ。」。ふり向くと誰もいなかったので、喟然として言った。「ああ。案件を審理するときは慎重にせねばならない。今回はさいわいに誤ることはなかったが、後日誤りのないことをどうして保証できよう。」。そして病と称して帰郷した。

  
  亡き叔母高宜人[71]の父は、諱は栄祉といい、官位は山西陵川[72]の令であった。旧い玉馬があった。地肌はさほど白くなく、血のような染みが斑斑としていた。紫檀を切り、台座にし、それを載せ、つねに(つくえ)の上に置いていた。その前足は、もともとは両足を跪かせ、起きようとしている形であったが、ある日、左足がたちまち伸びて座の外に出た。高公は大いに驚き、閣署で回して見せ、言った。「この物は程朱も(きわ)めることができない。」。一人の館賓[73]が言った。「およそ物は歳を経れば(あやかし)になります。人の精気を得ることが多くても、(あやかし)になれます。この道理は分かりやすく、怪しむに足りません。」。人々は相談し、砕こうとしたが、ためらって決しなかった。翌日になると足は曲がってもとの形にもどった。高公は言った。「ほんとうに知覚があるのだ。」。燃え盛る炉の中に投じると、かすかに呦呦[74]と音がしたようであったが、その後、特に異変はなかった。しかし、高家はそれからだんだんと衰微した。高宜人は言った。「この馬は焼くこと三日で、裂けて二つになったが、それでもその半身を見ることができた。」。さらに武清[75]王慶垞[76]の曹家の(ひろま)の柱に、突然牡丹二朶が生えたが、一つは紫、一つは碧で、瓣の中の脈絡は金絲のよう、花葉は葳蕤[77]としていた。七八日後、萎えて落ちたが、その根は柱から出ており、紋理は連なり、柱の近く二寸ばかりは、枯木のよう、それより上はだんだん青くなっていた。亡き太夫人は、曹氏の姪で、幼いときにみずからそれを見た。みなはめでたいと言ったが、外祖雪峰先生は言った。「物の常に反するものは(あやかし)だから、何のめでたいことがあろう。」。曹家も衰微した。

  
  亡き外祖母が言った。曹化淳[78]が死んだとき、その家では前明の玉帯を殉葬した。数年後、墓前でしばしば一匹の白蛇が見られた。後に墓は水に浸され、棺は朽ちた。改葬の日、他の宝物はすべてあるのに、玉帯を見るとなくなっていた。蛇の身には節々に紋様があり、帯の形のよう、その凶悪な(たましい)が、玉に托して化していたのではあるまいか。

  
  外祖張雪峰先生は、性来高潔であり、書斎では、几硯は優れ、図史[79]は整っていた。つねに入り口を閉ざし、かならずみずからやってきて開いていた。庭には花木が茂り、青苔は緑の(しとね)のようであった。婢僕は命令を受けなければ、軽々しく一歩たりとも踏もうとはしなかった。舅氏[80]健亭公[81]は、年が十一二の時、外祖父が外出しているのに乗じ、ひそかに庭の樹の下に涼みにいった。聞くと室内を人が歩いているかのようであったので、外祖がすでに帰ってきたのかと疑い、息を潜めて窓の隙間から窺うと、竹の椅子の上に一人の娘が坐し、盛装して絵のようであった。椅子の向かいには大きな鏡があり、高さは五尺ばかりであったが、鏡の中の影は、狐であった。懼れて動こうとせず、していることをこっそりと窺うと、娘はにわかにみずからの影を見、いそいで起ち、鏡を四回まわって息を吐きかけた。鏡は霧のように曇った。しばらくして座に戻ると、鏡に息を吐きかけた跡もだんだん消えた。ふたたびその影を見ると、やはり一人の美しい娘であった。見られるのを恐れ、抜き足で帰った。後にひそかに亡き姚安公に語った。姚安公はかつて孫たちのために『大学』の修身章を講じたとき、この事を挙げて言った。「明鏡は空虚であるので、(もののけ)は影を隠すことがない。しかし一たび妖気によって曇らされると、鏡さえ本当の姿を映さなくなってしまう。私心がかたより、最初から目が覆われている者はなおさらだ。」。さらに言った。「私心が妨げとなるばかりでなく、公心も妨げとなる。正人君子は、小人によって機をつかまれて激せられ、頑固猛烈になると、かえって是非を顛倒してしまう者がある。昔、包孝肅[82](したやく)は、権力を弄びながら、杖でうつべき囚人は、杖でうたなかったが、これも妖気が鏡を曇らせたのと同じである。だから、心を正し、意を誠にするときは、かならず格物致知を先にするのだ。」。

  
  花売りの老婆が言った。京師のある家は人のいない菜園に近く、菜園にはもともと狐が多かった。美女が夜に低い垣を越えて隣家の少年と親しみ、事が漏れるのを懼れ、はじめ姓名を偽托し、親しんでだんだんうちとけると、棄てられないだろうと思い、みずから菜園の女狐(めぎつね)だと冒称した。少年は女の容色を気に入っていたので、疑い拒むこともなかった。しばらくすると、突然女の家の上に、瓦が擲たれ、「わたしは菜園にながいことおり、子供たちが戯れに磚石を抛ち、近所を騒がせたことはあったかもしれないが、ほんとうに人を誘惑したことはなかった。どうしてわたしを汚すのだ。」と罵る声がし、事情は明らかになった。おかしなことである。妖狐はしばしば人であると偽るが、この女は狐であると偽ったのであった。人のよく媚びる者は狐に喩えられるが、この狐は人より貞淑であったのである。

  
  遊士[83]がおり、書画によって自活し、京師で妾をとり、たいへん愛していた。宴会で遇うと、かならず菓子を袖に入れて妾に送ることにしており、妾もたいへん仲よくしていた。まもなく病が革まると、妾に語った。「わたしには家がないので、おまえが落ち着く場所はない。わたしには親戚がいないので、おまえは頼るものがいない。わたしは筆墨によって暮らしているが、わたしが死んだら、おまえが琵琶を別に抱くのは[84]、趨勢であり道理である。わたしはおまえに負債を残していないし、おまえも父母兄弟の邪魔だてがなく、自分の意志を行える。すこしも結納金を受けることはない。歳時[85]におまえがわたしの墓を祭ることを約束しさえすれば、わたしは恨まない。」。妾は泣いて指示を受け、納めた者も約束通りにし、さらにたいへん愛した。しかし妾はつねに鬱鬱として旧恩を思い、夜はかならずもとの夫が枕席をともにすることを夢み、夢の中で妮妮として寝言をいうことさえあった。夫はそれに気づくと、ひそかに術士を招き、符籙で鎮めたが、寝言が止むと病気が起こり、だんだんと危篤になった。歿するに臨み、額を枕に打ちつけて言った。「前夫との情が厚く、ほんとうに忘れられないことは、あなたがよくご存じですから、わたしも隠しません。昨夜、さらに夢を見たところ、『久しく追いはらわれていたが、今また来られた。おまえはこんなに病んでいるから、いっしょに帰ってはどうか』と言われましたので、すでに承知しました。特別のご恩によって、わたしの屍をあのかたのお墓に返してくだされば、永遠にご恩に感じることでしょう。けしからぬお願いではございますが、どうかお計らいください。」。そういうと亡くなった。夫も豪士[86]であったので、慨然として言った。「魂はもう往ってしまったのだから、この遺蛻(ぬけがら)を留めてどうする。楊越公[87]は楽昌[88]の鏡を合わせることができたのに、泉下で合葬できないことがあろうか。」。そこで願い通りにした。これは雍正甲寅乙卯の間の事であった。わたしは時に十一二歳で、人が話しているのを聞いたが、その姓名は忘れた。わたしは言った。「再婚してもとの夫に負き、嫁いで二心を抱き、後の夫に負いた。この女は進退窮まっている[89]。」。何子山先生[90]も言った。「思って死ぬのは、殉じて死ぬのに及ばない。」。何励庵先生[91]は言った。「『春秋』は賢者に完璧を求めているが[92]、士大夫の主義によって、児女を律することはできない。その境遇を哀れむのもよく、その志操を憫れむのもよい。」。

  
  肉屋の許方は、かつて二つの甕の酒を担いで夜歩きし、疲れて大樹の下に憩った。月は明るく昼のようであったが、はるかに嗚嗚(ウウウウ)という声が聞こえ、幽霊が墓場から出てきた。姿は怖ろしかったので、樹の後ろに逃げ込み、天秤棒を持ってみずからを守ることにした。幽霊は甕の前にゆき、舞い躍り、大いに喜び、すぐに開けて飲んだ。一つの甕を尽くすと、さらに第二の甕を開けようとし、だんだんと封を半分開いたが、はやくもぐったりと倒れてしまった。許はたいへん怒ったが、見たところ、他に能力はないようであったので、にわかに天秤棒を挙げて撃った。虚空に当たったかのようであったので、つづけて痛打すると、だんだんへたって地に倒れ、一団の濃い煙と化した。変化(へんげ)することを恐れ、さらに百余たび打つと、その煙は地面に平らに広がり、だんだんと散じ、影は薄墨のよう、軽縠[93]のようで、散じるほどに薄くなり、なくなるにいたった。ほんとうにすっかり消えてしまっていた。わたしは言った。「幽霊は、人の余気だ。気はだんだんと消えるので、『左伝』は新しい幽霊は大きく、古い幽霊は小さいと称している[94]。世には幽霊を見た者がいるが、羲軒[95]以前の幽霊を見聞きしたことがないのは、すでに消え尽くしているからである。酒は気を散じる者である。ゆえに、医者の行血[96]発汗、開鬱[97]駆寒[98]の薬は、すべて酒で治すのである。この幽霊は、わずかに残っていた気を、甕いっぱいの酒で散じられたのである。盛んな陽気[99]が激しく動かすのだから、微かな陰気は蒸されて溶け、消え尽くすのは当然である[100]。これは酔って消えたのであって、打たれて消えたのではない。」。この事を聞いた時、酒を戒める者は言った。「幽霊は幻術をよくするが、酒のために、臥して鞭を受けるに至った。幽霊はもともと人が畏れるものだが、酒のために、かえって人に苦しめられたのだ。酒に耽溺する者はよく考えるべきだ。」。酒に耽る者は言った。「幽霊は、姿形はなくても知覚があり、喜怒哀楽の心を免れない。今、冥然[101]と酔って臥し、消えて烏有に帰するのは、本来に返ったのだ。酒の楽しみより深いものはない。仏氏は涅槃を極楽としているが、営営としている者はどうしてそのことを知ろう。」。これが『荘子』のいわゆる「これも一是非、かれも一是非[102]。」ということであろうか。

  
  献県の農家で、牛が麒麟を産んだので、驚いて撃ち殺した。知県の劉徴廉[103]が葬り、碑に「見麟郊。」と刻んだ。劉はもとより良吏であったが、この挙はなんと愚かであろうか。麒麟はもともと仁獣で、牛の子ではまったくない。牛の子でありながら、麒麟で角があったのは、雷雨の時に蛟龍に感じただけである。

  
  董文恪公が及第する前、空き家に泊まったが、そこではしばしば怪異が見られるといわれていた。公は信ぜず、夜、明かりをつけて待っていた。三更過ぎになると、陰風が颯然として、戸がひとりでに開き、人のようで人でないもの数人が、どやどやと押し入ってきた。そして、公を見ると大いに驚き、「この家には(ゆうれい)がいる。」と言い、狼狽して走り出た。公が棍棒を持って追いかけると、さらに叫んだ。「(ゆうれい)が追ってきた。いそいで逃げろ。」。争って塀を越えて去った。公はしばしばこのことに言及し、みずからを笑って言った。「どうしてわたしを(ゆうれい)と呼んだのだろう。」。故城[104]の賈漢恒[105]は、その時、公から経書を教わっていたが、『太平広記』に載せる話[106]を挙げた。野叉が哥舒翰の妾の屍を食らおうとしたとき、翰が側で眠っていると、野叉は言った。「貴人がこちらにいるが、どうしよう。」。翰はみずから思った。「わたしを貴人と呼んでいるから、撃っても害はないだろう。」。そこで起きて撃つと、野叉は逃げて散じた。「『鬼』と『貴』は音が近く、幽霊は先生を貴人と呼んだのに、先生はじっくりお聴きにならなかったのかもしれません。」公は笑って言った。「その通りだ。」。

  
  庚午の秋、『埤雅』[107]一部を買ったところ、中に緑の箋一枚が疊まれており、詩が書かれていた。「愁煙[108]低く(おほ)ふ朱扉双つ、酸風[109]かすかに()つ玉女[110]の窓。青磷[111]隠隠[112]として古壁より出で、土花[113]蝕断す黄金のス[114]。」「草根露下り陰虫[115]急ぎ、夜深く(しづ)かに芙蓉の立つに(おほ)はる。湿蛍[116]一点空塘[117]を過ぎ、幽光[118]照見[119]す残紅[120]の泣くを。」。末尾には「靚雲仙子降壇詩、張凝敬録す。」と題せられていた。そもそも扶乩した者が書いたものであった。わたしは、これは幽霊の詩で、仙女の詩ではないと思った。

  
  滄州の張鉉耳先生[121]は、夢の中で一首の絶句を作った。「江上秋潮岸を拍ちて生じ、孤舟夜泊すれば三更に近し。朱楼十二垂楊遍く、何処の吹簫月明に伴ふ。」。自跋に言った。「夢がまちがった想像であるなら、どうして詩を作れよう。夢がただしい想像であるなら、平生江南にいったことがないのに、どうしてここまで構想できるのか。そのわけは分からないが、とりあえず記録する。桐城の姚別峰[122]は、まったく面識がなく、江南から来たばかりのとき、李鋭[123]の家で会ったのだが、刊刻された近作に、この詩があった。その年月を尋ねると、わたしが夢みた一年あまり後のことであった。篋を開き、旧稿を出して示すと、ともに驚いた。」世間にはほんとうに不可解な事がある。宋儒は事あるごとに理を語るが、この件は理によってどのように究明するのか。さらに海陽[124]の李漱六、名は承芳[125]は、わたしの丁卯の同年[126]であった。わたしの家の広間には淵明採菊図が掛けてあり、藍田叔[127]の絵であるが、董曲江[128]は言った。「どうして風采が李漱六に似ているのだ。」。じっくり見ると本当にそうであった。後に漱六は公車[129]として入京し、この絵を乞うて去り、言った。「平生肖像画を作っているが、いずれもこれに及ばない。」。これも不可解なことであった。

 

景城[130]の西に、幾つかの荒塚があり、平らになろうとしていた。幼いときに通ったところ、老僕の施祥が指さして言った。「これは周某の子孫で、一つの善行で三代を延ばした者でございます。」そもそも前明の崇禎末年、河南山東は大干魃と蝗の害で、草の根、木の皮はすべて尽き、人を食糧にしていた。官吏もそれを禁じられず、婦女幼児は、後ろ手に縛られて市で売られ、『菜人』と言われていた。肉屋はそれを買ってゆき、羊や豚のように裁いていた。周氏の祖父が、東昌から物売りして帰り、店に来て昼食をとろうとしたところ、肉屋は言った。『肉はきらしていますから、どうかしばらくお待ちください』。にわかに二人の娘を曳いて台所に入ると、叫んだ。『お客さまがながいことお待ちだから、まずは蹄を取ろう』。いそいで出ていって止めようとしたところ、一声長く叫ぶのが聞こえ、一人の娘がすでに生きながら右腕を断たれ、床を転げまわり、一人の娘は戦慄して血の気がなかった。周を見ると、ともに哀しげに叫び、一人ははやく死ぬことを求め、一人は救いを求めていた。周は惻然として心が動き、ともに金を出して贖った。一人は生きる見込みがなかったので、いそいでその心臓を刺して殺し、一人は連れ帰り、子がなかったので、妾にしたところ、一男を生んだが、右腕に紅いみみずばれがあり、腋の下から肩胛をめぐっており、さながら腕を断たれた娘のようであった。後に三代続いて血筋が絶えた。人々はみな、周はもともと子がなかったが、この三代は一つの善行が齎したものだと言っているという。

  
  青県[131]の農家の若妻は、性格が軽佻で、その夫に従って働き、形影のように離れなかった。たがいに向きあって笑い、人目を避けず、夏の夜に、ともに瓜畑に泊まっていた。人々は若妻の慎みのなさを軽んじた。しかし若妻は他人に対するときは、顔を冷たい鉄のようにし、人がこっそりと挑発すれば、かならず峻拒するのであった。後に強盗に遇い、身に七たび刃を受けても、なお罵り、汚されることなく死んだので、みなその貞烈に驚いた。老儒劉君琢[132]は言った。「これが『質美しくしていまだ学ばず』というものだ[133]。夫婦の情が篤かったので、死を誓い、二心がなかったのだ。ただ、礼法を知らなかったので、情欲の念が容貌に入りこみ、親愛の心が動静に現れていたのだ。」。辛彤甫先生[134]は言った。「程子は言った。『嫌疑を避けようとする者は、みな誠実さが足りない[135]。』と。この婦人は誠実で異心がなく、坦然[136]として自らの意思に従い、みずからを疑わなかった。これが死んでも操を守ることができたゆえんである。崖岸に立つことを好む者を、わたしは見た[137]。」。亡き姚安公は言った。「劉君は正論で、辛君は激して発した論だ。」。後にその夫は夜に豆畑を守り、ひとり団焦[138]に宿ったところ、たちまち妻が来るのを見たが、嬿[139]としてふだんのようであり、こう言った。「冥官はわたしが貞烈でしたので、来生で乙榜[140]に合格し、官位は県令になることを決めました。わたしはあなたのことを思っていましたため、往こうとせず、官禄[141]を辞して遊魂になり、長くあなたに従うことを求めましたところ、冥官はわたしを哀れみ、許しました。」。夫はそのために感泣し、再婚しないことを誓った。それからは、昼は隠れ、夜は来て、二十年近くそのようにした。時折、子供もそれを窺い見た。これは康熙末年の事で、姚安公はその者の姓名住所を挙げられたが、今では忘れてしまった。

  
  献県の老儒韓生は、性格が剛直で、かならず礼法に従っていたので、村中が長老に推した。ある日、寒疾[142]を得、ぼんやりしていると、幽霊が前に立って言った。「城隍神さまがお呼びだ。」。韓は、命数が尽きて死ぬのだ、拒んでも詮無いことだと思い、ついていった。とある官署にゆくと、神は帳簿を調べて言った。「姓が同じなので、間違えた。」。幽霊を二十回杖で打ち、送りかえさせた。韓は不満であったので、請願した。「人命はいたって重うございますのに、神さまは、どうして愚かな幽霊を遣わして、誤逮捕させたのでございましょう。調べだせなければ、無駄死にしていたところではございませんか。聡明正直だとは誰のことを言っているのですか。」。神は笑って言った。「おまえのことを強情だと思っていたが、ほんとうにその通りだな。そもそも天の運行にさえ歳差[143]がないことは不可能なのだから、鬼神ならばなおさらだ。誤ってすぐ悟るのを、聡明といい、悟って弁解しないのを、正直というが、おまえには分かるまい。思えばおまえは言行に欠点がないから、とりあえずおまえを許そう。今後はこのように軽率にしてはならないぞ。」。霍然として蘇った。韓章美がこれを語った。


  亡き祖父には若いしもべがおり、名を大月といい、年は十三四、以前、村人に従って魚を河で掬っていたとき、一尾の大魚を得たが、長さは二尺に近かった。手で挙げて人々に示していたところ、魚が突然ばしばしと尾を振り、左頬に中てたため、水中に倒れた。人々はかれが起きあがらないことを怪しみ、扶けおこそうとすると、血が(いとすじ)のように浮き出てきた。割れた碗が泥の中にあり、尖頭は刃のようで、太陽穴(こめかみ)を刺していたのであった。それより前、かれの母親が夢みたところ、かれは人によって俎に縛られ、羊か豚のように屠られていたが、なお尽きせぬ怒りがあるかのようであった[144]、目醒めると嫌に思い、人と争わないようにとつねに戒めていたが、魚に撃たれようとは思わなかった。仏氏のいわゆる「夙生[145](うち)()(めい)を負ふ[146]」ということか。

  
  劉少宗伯[147]青垣[148]が言った。「中表[149]に元稹会真の嫌疑[150]を掛けられた者がおり、女は妊娠し、母に悟られたので、夜いつも巨人が来た、体を圧してとても重かった、色は黒かったと言い繕った。母は『きっと土偶が(あやかし)になったのだ』と言い、彩絲(いろいと)を授け、来た時にひそかにその足を繋がせることにした。女はひそかに間男に渡すと、かれは関帝祠の周将軍の足に繋いだ。母は探し当てると、その足を打って断とうとした。後にふたたび密会すると、たちまち周将軍に腰を撃たれ、男女ともに倒れ臥して起きられなくなった。」。みな言った。「神を辱めた報いだ。」。かれらはそもそも私利を謀って禍を人になすりつけたのだが、その術は巧妙であった。しかし巧妙であることは造物の忌むことであり、からくりが万端でも、かえってみずからに及ぶのが、天道なのである。神はかれらの陰険さを憎んだのであって、かれらの侮辱を憎んだのではない。

  
  揚州の羅両峰[151]は、目で幽霊を見ることができ、こう言った。「人がいる処にはならず幽霊がいる。横死した悪霊で、長年沈滞しているものは、おしなべて空き家におり、近づけず、近づけば害をなす。たえず往来している幽霊は、午前は陽気が盛んなので、塀の陰に多く、午後は陰気が盛んなので、四散してさまよう。壁を通り抜けることができ、門戸を通らない、人に遇えば路を避け、陽気を畏れ、到るところにいるが、害をなさない。」。さらに言った。「幽霊が集まるのは、つねに人煙が密集している場所であり、僻地曠野で見ることはきわめて稀だ。厨房の竈を囲むことを好み、食物の匂いに近づこうとする。さらに便所に入るのを好むが、そのわけは分からない。人跡が到ることが稀だからかもしれない。」。かれが描いた絵に『鬼趣図』があり、想像で作ったものかと疑っていた。その中のある幽霊は、頭が体より数十倍大きく、もっとも荒唐無稽にみえた。しかし亡き姚安公からこんな話を聞いた。瑶[152]の陳公が、かつて夏の夜に窓を掛けて臥していた[153]。窓の広さは一丈であったが、突然巨きな顔が窓を窺い、幅は窓と等しく、その身はどこにあるか分からなかった。いそいで剣を抜き、その左目を刺すと、すぐに消えた。窓を向いていた老僕もそれを見、窓の下の地中から湧き出ていたと言ったので、地を一丈余り掘ったが、何もなかったので止めた。ほんとうにこの種の幽霊はいるのである。しかし茫茫昧昧としたものを、どうして確かめられようか。

  
  しもべの劉四は、壬辰の夏に暇を取って帰省し、みずから牛車を御してその婦を載せていた。家を距てること三四十里、夜半になろうとするころ、牛が突然進まなくなると、妻は車中で驚いて叫んだ。「幽霊がいます。首は大きくて甕のようです。牛の前にいます。」。劉四がじっくり見ると、短躯で色黒の婦人が、頭に破れた鶏籠を戴き、舞いながら叫んでいた。「おいで。おいで。」。懼れて車を返すと、さらに牛の前で躍って叫んだ。「おいで。おいで。」。このようにして四面をめぐり、夜明けになった。するとにわかに立ちながら笑って言った。「夜は涼しく何事もないので、おまえたち夫婦を借りて気晴らししただけだ。たまたま戯れたのだから、わたしが去った後、わたしを罵るな。罵ればまた来るぞ。鶏籠は前村の某家の物だから、おまえに渡して還させよう。」。そう言うと、鶏籠を車の上に擲って去った。夜明けに家に着くと、夫婦はともに昏昏として酔っているかのようであった。妻はまもなく病死し、劉四も流落して惨めになった。幽霊はかれらの気が衰えたのに乗じていたのであった。

  
  景城に劉武周[154]の墓があり、献県誌にも載せられている。按ずるに、武周は山後[155]の馬邑[156]の人であり、墓がここにあるはずはないので、隋の劉R[157]の墓かと疑われる。Rは景城の人で、一統志[158]はその墓が献県の東八十里にあると載せている。景城は県城を距てること八十七里であるから、ほぼこれに相当しよう。昔、狐がここにおり、時おり戯れて酔った人をなぶっていた。村に陳双というものがおり、酒飲みであったが、それを聞くと憤って言った。「妖獣がこのようなことをするとは。」。墓所にゆくと、責め、罵った。時にくさぎる者たちが野に満ちていたが、見ると双の父が怒って墓の傍に坐しており、双が跳びはねながら叫んでいたので、進み出て怒鳴った。「どうして酔ってこちらに来、お父さんを罵っているのだ。」。双が凝視すると、父であったので、大いに怖れて叩頭した。父はすぐに走って帰った。双がついてゆき、哀願し、村外れまで追いかけ、地に伏して弁明していると、たちまち婦人や老婆がとりかこみ、大笑いして言った。「陳双さんはなぜ跪いて奥さんに拝礼しているのです。」。双が仰ぎ見ると、今度は妻であったので、驚いて呆然と立ちつくした。妻もすぐに走って帰った。双は惘惘[159]として家に着くと、父と妻はほんとうに外出していなかったので、狐が化けて戯れていたことをはじめて悟り、慚じて外に出ないこと数日であった。聞く者はみな絶倒した。思うに双は狐を罵らなければ、狐に弄ばれることはなかった。双は自業自得である。狐は人をなぶらなければ、双に罵られることはなかった。狐も自業自得である。たがいに争うのは、いずれも一念をみだりに起こしたことによっている。だから仏は「一切の衆生、慎んで因を造る勿かれ[160]」というのである。

  
  方桂は、烏魯木斉(ウルムチ)の流人の子であった、かれが語るには、かつて馬を山中で牧していたところ、一頭の馬がたちまち逃れ去った。(あしあと)を踏みつつ捜しにゆくと、嶺を隔てて嘶く声が聞こえたが、たいへん獅オいものであった。声をたずねて幽谷にゆくと、数匹の(もののけ)がいた。人とも獣ともつかず、全身は、乾いて鱗のようになった古い松のよう、毛髪は、蓬蓬として羽葆[161]のよう、眼は突き出し、色は純白で、二つの鶏卵を嵌めたかのよう、ともに馬を抑え、生きながらその肉を齧っていた。牧人は銃を携行してみずからを守ることが多い。桂はもともと乱暴ものだったので、樹に昇り、銃を放つと、(もののけ)はみな深林に入って去った。馬はすでに半身が食らわれていた。後にふたたび現れることはなかったが、どんな妖物なのかは分からなかった

  
  芮庶子[162]鉄崖[163]の邸内に楼があったが、狐がその上に住んでおり、つねに鎖されていた。狐は夜に台所で食事を作り、書斎で客と宴することがあったが、家人は見慣れていたので訝ることもなかった。狐は盗賊や火を、主人に代わって防ぐことができたので、安住してすでに久しかった。後に邸宅を李学士廉衣[164]に売ったが、廉衣はもともと妖怪を信じていなかったので、みずから往くと開けて見た。楼の上の三つの部屋は、清潔で、わずかな塵さえなかった。中央の部屋は一枚の(むしろ)ほどの大きさで、木の板が敷かれ、整然として几榻のよう、ほかには何も見られなかった。時に修築の最中であったので、その楼をすべて壊し、いられないようにしたが、特段の異変はなかった。落成すると、突然烈火が四方に起こり、たちまち一寸の椽さえなくなってしまったが、隣家の苫草は、一茎も焼かれなかったみなは狐がしたことだと言った。劉少宗伯青垣が言った。「この宅はもともとこの日に焼けることになっていただけだ。焼けるべき運命でなければ、狐は火を放とうとしなかっただろう。」。わたしは言った。「妖魅が逐一法律を守ることができれば、天に雷霆の誅はない。王法が人を殺すことを禁じれば、殺そうとしない者は多くなるが、人を殺して罪せられる者も時々いる。これはもとより理解できないことである。」。

  
  王少司寇蘭泉[165]が言った。「夢午塘[166]が江南で提学した時に、役所の裏に高い丘があったが、夜毎怪光が見えた。一羽の雉と一匹の蛇がその上にいたが、いずれも歳を経て、(あやかし)になることができたのだといわれていた。午塘は若年で意気盛んであったので、鍤や畚を集めて平らにすることにしたが、人々はためらって手を動かさなかった。午塘が怒ってせきたてていると、たちまち風が一枚の(むしろ)を飄してその頭を覆った。いそいで取り除けると、さらに一枚が覆ったが、いずれも署内の涼み棚の上の物であった。午塘は怪しいと感じ、工事をやめたが、今なお巋然[167]として生存している。」。

  
  老僕の魏哲がその父から聞いた話。順治初年に某生という者が、わたしの家から八九十里のところにおり、その姓名は忘れたが、妻と前後して亡くなった。三四年後、その妾も亡くなった。たまたまその家の傭工[168]が、夜歩きし、雨を避け、東岳祠の廊下に宿り、夢うつつでいたところ、某生が枷を掛けられて庭先に立ち、妻妾が従っていた。衣冠が城隍に似た神がおり、磬折して岳神に言った。「某生は二人を汚しましたので、罪がございますが、二人の命を生かしましたので、功もございますから、相殺しましょう。」。岳神は怫然として言った。「二人は死を恐れ、恥を忍んだのだから、まだ許せる。某生が二人を生かしたのは、まさに二人を汚そうとしたためだから、罰するべきなのに、どうして功罪を相殺するというのだ。」。指図して出させた。某生及び妻妾も従って出た。恐れて語ろうとせず、夜明けに家に帰ると、人に告げたが、みな理解できなかった。ある老僕が泣いた。「すごいことです。この事は記録されていたのですね。この事はわたしたち父子だけが存じておりましたが、深く重い恩を受けておりましたので、誓って言おうとしなかったのでございます。今はもう、二朝を隔てていますから、述べようと思います。二人の奥さまは、どちらもほんとうは婦人ではなかったのでございます。前明の天啓年間、魏賢は裕妃[169]を殺し、配下の宮女内監を、ひそかに捕らえて東廠[170]に送り、たいへん悲惨な死を遂げさせました。二人の内監、一人は福来といい、一人は双桂というものが、逃げ隠れました。かれらは主人と知りあいであり、主人はちょうど京師で商売していましたので、夜に落ち合いました。主人は密室に招き入れ、わたしは隙間からひそかに窺っていました。主人は二人に言いました。『あなたたちは声と笑顔が、男とも女ともつかず、普通の人とやや異なっていますから、おもてに出ればかならず捕らえられましょう。女装に改めるなら、捜索は及ばないでしょう。しかし、二人の夫のない婦人が、他人の家に寄寓していては、様子が怪しいのでやはりかならず露見してしまいましょう。お二人は体はすでに清らかで[171]、もとより婦人と異なりませんから、我慢してわたしの妻妾になってくだされば、万に一失もございますまい』。二人は進退窮まっていましたので、しばらくじっくり考えますと、しぶしぶ従いました。そこで女物の装身具を買ってやり、その耳に孔をあけ、だんだん(みみわ)をつけられるようになりました。同時に軟骨薬[172]を買い、ひそかに纏足し、数か月しますと、二人の美女となりました。そこで車で載せて家に帰り、偽って京師で娶った者だと言いました。二人は久しく宮中におり、ともに色白で大人しく、すこしも男らしさがありませんでした。さらに事は意表に出ていましたので、気づくものはおらず、ただかれらが針仕事をしないことを訝り、寵を恃んで驕り怠けているのだと思うばかりでした。二人は主人が救ってくれた恩に感じ、事が収まった後も甘んじて添い遂げました。しかし、ほんとうは巧みな言葉で誘い脅したのであって、かれらの窮状を憐んだのではございませんでしたので、司命[173]に責められて当然でございます。」。ほんとうに、人は欺けても、鬼神は欺けないものである。

  
  乾隆己卯、わたしが山西の郷試を主管したとき、二つの合格答案があった。一つは四十八位に決めたが、草榜[174]に記入する時、同考官の万泉[175]呂令[176]誤ってその答案を衣装箱に収め、捜しても見つからなかった。もう一つは五十三位に決めたが、草榜に記入する時に、陰風が蝋燭を消すこと三四たび、他の答案に代えると止んだ。合格発表の後、開いて弥封[177]を見ると、答案が失われた者は范学敷[178]、蝋燭を消された者は李騰蛟であったので、二人に冥罰があったことを疑った。しかし庚辰の郷試では、二人はいずれも合格した。范は四十八名となり、李は辛丑に進士となった。そこで合格には(さだめ)があり、一年も早められないことを悟った。営営としても仕方がない。たとい求めて得てもそれはそうなる定めであったに違いなく、求めずとも得られたのである。

  
  亡き姚安公が言った。雍正庚戍の会試で、雄県[179]の湯孝廉[180]と同じ号舎[181]であった。湯は夜半にたちまちざんばら髪の女の幽霊を見たが、簾を掲げ、手ずからその答案を裂き、蝶が乱れ飛んでいるかのようにした。湯はもとより剛直であったし、恐くもなかったので、坐ったまま尋ねた。「前生のことは知らないが、今生ではほんとうに他人を害していないのに、どうして来たのだ。」。幽霊は驚いてじっと見、退くと言った。「あなたは四十七号ではないのですか。」「わたしは四十九号だ。」。そもそも二つの空き部屋があり、幽霊はそれらを数えていなかったのであった。しばらくじっくり見ると、挨拶謝罪して去った。まもなく、四十七号で某甲が急病になったと騒ぐのが聞こえた。この幽霊はきわめてぼんやりしており、湯君は不慮の災にあったといえる。さいわいその心に恥じるところがなかったので、咄嗟の間に反駁し、一巻を裂かれただけであったが、そうでなければ危険であったろう。

  
  顧員外徳懋[182]は、みずから東岳[183]の冥官であると言っていた。わたしは深く信じなかったが、かれの言うことは筋が通っていた。以前、裘文達公[184]の家で、わたしに言った。「冥土では貞婦を重んじるが、貞婦には等級がある。子供への情愛や、田宅の豊かさのために、恋々として去らない者が下、情欲の萌すのを免れないが、礼義でみずからを抑えられる者が次、心が枯れ井戸のようで、変化が生じず、富貴も見ず、飢寒も知らず、損得を計算しない者が上である。このような者は千百人に一人もいず、一人いれば鬼神は敬う。ある日、節婦が来たと騒がしく伝えられたので、冥王は顔色を改め、冥官はみな衣服を整えて迎えた。見ると老婆が[185]としてやってきたが、歩むごとにだんだん高くなり、階段を踏んでいるかのようであった。来ると、殿舎の棟の上を通りすぎ、行方が知れなくなった。冥王は憮然として言った。『すでに昇天し、わたしの鬼籙[186]の中にはなくなった』。」さらに言った。「賢臣にも三等級ある。法度を畏れる者は下で、名節を愛する者は次で、王室を思い、国計民生だけを考え、禍福毀誉を考えない者が上だ。」。さらに言った。「冥土では競争を憎む。思うに種種の悪業は、これによって生じ、挫折に遭うことが多く、得より損が多くなる。人の心が巧みになればなるほど、鬼神の(はかりごと)も巧みになる。しかし隠逸はあまり重んじられない、天地が人材を生むのは、もとより世事を補うことを期しており、人人が巣許[187]になれば、今でも洪水は溢れ、瓢を掛け[188]犢に飲ませる[189]地も得られないといわれている。」。さらに言った。「陰律[190]は『春秋』のように賢者を促し、人のために善をなさせる。君子が意固地になって人を妨げても過ちとして記録し、小人が一つ人を利することをしてもかならず小さい善報を与える。世の人々はこの趣旨を知らないので、因果が誤っているのではないかと疑うことが多いのである。」。

  
  内閣学士永公は、諱は寧[191]といったが、病に罹り、すこぶる衰弱していた。医者を招いて診察させたが、すぐには治らなかった。別の医者を招いたところ、前の医者が用いた処方を求めたが、得られなかった。公は若い下女が誤って別の場所に置いたと思い、責めて捜索させ、見つからなければ笞うつと言った。枕に寄りかかって休んでいると、人が燈の下にぼんやりと跪いて言った。「公は下女を笞うたれてはなりません。この処方はわたくしが隠したものでございます。わたくしは公が臬司[192]でいらした時に冤罪を雪がれて助かった囚人でございます。」。尋ねた。「処方を隠したのは何のためだ。」「医者は仲間同士で憎みあい、前の医者の処方を改め、自分の優れていることを示そうとするものでございます。公が服されている薬は誤っていませんが、一回試されただけでございますので、効果が出ていないのでございます。後の医者が処方を見れば、かならずやそれに反して異をとなえ、公は危うくなられましょう。ですからわたくしはこっそりと隠したのでございます。」。公は朦朧としていたので、相手が幽霊であることに思い及ばなかった。まもなくはじめて気がつくと、悚然として汗を垂らし、前の処方はすでになくなっている、記憶してもいないと称し、後の医者にあらためて処方するように頼んだ。用いてある薬を見ると、前の医者の処方であった。そこでつづけて何回か飲むと、病は霍然[193]として失われたかのようになった。公は烏魯木斉(ウルムチ)を鎮守していた時、みずからわたしに言った。「この幽霊は世情を熟知しているといえる。」。

  
  族叔の[194]が言った。肅寧[195]に塾師がおり、程朱の学を講じていた。ある日、遊行僧が塾の外で托鉢していたが、木魚の音が琅琅[196]として、辰の刻から午の刻まで止む気配がなかった。塾師は厭わしく思い、みずから出てゆくと、叱りつけて去らせ、こう言った。「おまえたちはもともと異端で、愚民が時おりおまえたちに惑わされているだけだ。この地にいるのはすべて聖賢の徒なのだから、分に外れたことを考えるのはやめるのだ。」。僧は挨拶して言った。「仏家が衣食を募るのは、儒家が富貴を求めるようなものです。ともにその本来[197]を失っているのですから、先生はどうしても意地悪しようとすることはございますまい。」。塾師は怒り、みずから笞で撃った。僧は衣を整えて起きあがると言った。「ひどいなさりようです。」。布の嚢を地に遺して去った。きっとまた来るだろうと思ったが、日が暮れても結局来なかった。触ると、貯えられているのはすべて小銭であったので、弟子たちはそれを取ろうとした。塾師は言った。「あのものがしばらくしても来なければ、考えよう。きちんと数えれば、争いがないだろう。」。嚢を開くと、蜂たちが湧きおこり、師弟は刺されて顔をすっかり腫らし、助けてくれと叫んだ。近所の人々が驚いて尋ねると、僧がたちまち扉を開けて入ってきた。「聖賢が他人の財貨を隠そうとなさるのですか。」。嚢を提げてすぐに行ってしまった。出るに臨み、合掌して塾師に言った。「異端がたまたま聖賢にご無礼をいたしましたが、なにとぞお許しくださいまし。」。観る者は粲然[198]とした。あるひとは幻術だと言い、あるひとは塾師が仏家を排斥するのを好み、僧侶を見るとかならず譏っていたので、僧が蜂を嚢に置いて戯れたのだと言った。は言った。「この事をわたしは目撃した。さきに多くの蜂を嚢に置いていれば、かならず蠢くから、嚢の外から見えただろう。その時はまったく見えなかった。幻術師といったほうがやや近いだろう。」。

  
  朱青雷[199]が言った、仇を避けて深山に隠れている者がいたが、時に月は明るく、風は清かった。見ると幽霊が白楊[200]の下を徘徊していたので、伏して起きようとしなかった。幽霊はたちまちかれを見ると言った。「出てきてはどうだ。」。震えて答えた。「あなたが恐いのです。」。幽霊は言った。「もっとも恐ろしいものといえば、人間にまさるものはない。幽霊は恐ろしくない。おまえをさすらわせこちらに来させた者は、人間か幽霊か。」。一笑して消えた。わたしはこれは青雷が激して作った寓言だと思う[201]

  
  都察院の倉庫に巨蟒(うわばみ)がおり、時おり夜に出てきた。わたしは官位が総憲[202]であった時に、およそ二度見た。その蟠った跡は、塵に着いた処の幅が約二寸余りであったので、その体は横径五寸はあるはずであった。壁には罅がなく、門にも罅がなく、窓の(れんじ)の幅は二寸に及ばないのに、どうして出入りしているのかは分からなかった。およそ動物は年を経れば姿を変えることができ、狐の(あやかし)は窓の隙間から往来することができるが、その本来の体は窓の隙間に入れるものではない。堂吏は、巨蟒(うわばみ)が出るのは吉凶に反応しているのだと言っていたが、特に験はなかった。神秘的なことを言っていただけである[203]
  

  幽明は路を異にしており、人が懲らしめることができる者を、鬼神がさらに懲らしめることはなく、傲慢でないことを示している。幽明は理を一にしており、人が懲らしめられない者を、鬼神が代わりに懲らしめ、不測の禍を示すことがある。戈太僕仙舟が言った。あるしもべがかつて酔って城隍の神案[204]の上で眠ったところ、神に捕らえてゆかれ、二十たび笞うたれた。両股に青痣が斑斑としているのを、太僕はその目で見た。


  杜生村は、わたしの家から十八里のところにあった。富豪からの賄賂を貪り、その養媳を売って妾にさせようとする者がいた。その嫁は結婚式をしていなかったが、夫と暮らしてすでに数年、ほかに嫁ぐ道理はなかった。しかし事を止めることはできないと思い、ひそかに駆けおちすることを約した。しゅうとしゅうとめは気がついて追い、二人は夜にわたしの村の土神祠に着いたが、泊まれなかったので、抱きあって泣いていた。すると突然、祠の中で声がした。「追っ手が来たら、神案の下に隠れられるぞ。」。にわかに廟守がよろよろと酔って帰ってき、門の外に横臥した。しゅうとしゅうとめが追ってき、足取りを尋ねると、廟守は寝言で答えた。「若い男女二人か。年は約××、衣履が××のものが、××の方にいったぞ。」。しゅうとしゅうとめはいそいで指し示された路を往ったので、二人は逃れることができた。乞食は嫁の父母の家にゆき、父母はお上に訴えようとしたので、売られることはなかった。駆け落ちした時、祠の中には誰もいなかった。廟守は言った。「わたしはまったくこの事を知らなかったし、この言葉を発したことを記憶してもいない。すべて土神の霊の言葉だったのだろう。」。

  
  乾隆庚子、京師の楊梅竹斜街[205]で火事があり、百間近くが焼けたが、あるあばらやは、巋然として一軒だけ残っていた。四方は崩れた垣となり、まったく線引きされているかのようであったが、それは寡婦である嫁が病んだ姑を守って去らない家であった。これはいわゆる「孝弟の至り、神に通ず[206]。」ということである。

  
  于氏は、肅寧[207]の旧家であった。魏忠賢[208]が権柄を盗んでいた時、王侯将相を見ること土苴[209]のごとくであったが、肅寧で生長し、耳目になじんでいたため、于氏を望みみること王謝[210]のごとくであった。おいのために求婚したとき、于氏の娘を得なければ不可であるとした。たまたま于氏の末子が郷試に赴いていたので、置酒してむりに家に迎え、面談した。于生は思った。「婚約すれば、禍は後日にあろうが、婚約しなければ、禍は目前にある。」。にわかに決することができず、言い逃れた。「父が存命でございますので、勝手にするのは難しゅうございます。」。忠賢は言った。「簡単なことだ。君がはやく手紙を書けば、ご父君にすぐ送ることができよう。」。その晩、于翁はその亡父を夢みたが、ふだんそうしていたように、勉強を監督し、二つの問題を出した。一つは「孔子曰く、諾[211]」、一つは「その身を潔うするに帰するのみ[212]」であった。構想していると、たちまち門が叩かれて目を覚まし、息子の手紙を得、恍然として頓悟した。そこで、返事して婚約することにしたが、病がすこぶる危ういと附言し、息子にはやく帰るように促した。肅寧は京師を去ること四百余里、手紙が返ってきたのは、空がかすかに明るくなる頃で、演劇はまだ散じていなかった。于生は匆匆と旅装を整え、途中、官吏で迎える者は、すでに供帳[213]しており、酒を勧めた。家に着いた後、父子はいずれも病と称して外出しなかった。その年は天啓甲子であった。三年後、忠賢は没落したので、父子は難を免れた。事が定まった後、于翁は小さい車に坐し、あまねく郊外に遊び、言った。「わたしは三年間門を閉ざし、今日はじめて花を看て酒を飲むことができた。危なかった。危なかった。」。于生が行くに臨み、忠賢は小さな画像を授け、言った。「まずは新婦にわたしの顔を知らせろ。」。于氏はわたしの家と表戚[214]であったので、わたしが子供の時にはまだこの軸が見られた。表情は修偉[215]秀削[216]、顔面は白く、色はかすかに赤く、二つの顴骨はやや突き出[217]、頬はわずかに狭く、眼光は酔っているかのよう、臥蚕[218]より上には、赭石[219]がうすくぼかされており、やや腫れているかのよう、衣は緋紅で、座の傍の几の上には、金印九つを列ねていた。

  
  杜林鎮[220]の土神祠の道士が、夢みたところ、土神が言った。「この地は業務が繁雑で、守ってやれなかったため、疫鬼が誤って孝子節婦の家に入り、子供を殺すに至った。そのため今回降格されて去ることになった。新たな神は性格が厳格だから、よくお仕えしろ。わたしのように許しはしまいぞ。」。杜林鎮は根拠のない春の夢だと思い、特に意に介さなかった。数日後、酔って神座[221]の傍に臥したところ、寒疾を得て死にそうになった。

  
  景州[222]の戈太守桐園[223]が、朔平[224]で役人をしていた時のこと、幕客が夜中に目醒めると、明月の影が窓に満ちていた。見れば一人の娘が(つくえ)の側に坐していたので、大いに怖れ、家僕を呼んだ。娘は手を振って言った。「こちらにずっとおりました。ご覧になったことがないだけです。今はたまたま避けるのが間に合わなかったのですが、どうしてそんなに驚かれます。」。幕客がますます慌てて叫ぶと、娘は笑って言った。「ほんとうにあなたに禍しようとしていますなら、しもべは役に立ちません。」。衣を整えてにわかに起きると、微風が窓紙を振るわすかのように、(れんじ)を穿っていってしまった。

  
  潁州[225]の呉明経[226]躍鳴[227]が言った。その郷里の老儒林生は、正直な人であった。以前、神廟で勉強していたが、廟はもとより広かったので、間借りしている者が多かった。林生は性来孤高であったので、まったく人付き合いをしなかった。ある日、夜半に眠れず、月下を散歩していると、突然一人の客が来て時候の挨拶を述べた。林生は寂しくしていたので、部屋に迎え入れ、ともに談じたが、たいへん理屈っぽいものであった。たまたま因果のことに話が及ぶと、林生は言った。「聖賢が善をなすのは、みなためにするところがなくしてするのです。ためにするところがあってするのでは、その事が天理に叶っていても、その心は純然たる人欲です。ですから、仏氏の福田[228]の説を、君子は語らないのです。」。客は言った。「先生のお言葉は、純然たる儒者の言葉です。それでご自分を律せられるのはよいですが、それで人を律せられるのはよくありません。それで君子を律せられるのはなおよいですが、それで天下の人を律せられるのは断じてよくありません。聖人が教えを立てるのは、人が善を行うことを望んでいるだけであり、行うことができない者は、導き扶けてそれを行わせ、行おうとしない者は、駆り立ててせまります。そのために刑賞が生じているのです。賞を慕って善を行うことができれば、聖人はその善を褒め、賞を求めてそうしたことを絶対に責めません。刑を畏れて善をなすことができれば、聖人はやはりその善を褒め、刑を避けてそうしたことを責めません。刑賞で天理に従わせながら、賞を慕い刑を畏れることが人欲であることを責め、刑賞に刺激されないことは、よくないといいながら、刑賞に刺激されることも、よくないといえば、人々は手足の措きどころがなくなってしまうでしょう[229]。まして賞を慕い、刑を避けることを、人欲といいながら、さらに刑賞で刺激すれば、人は聖人がほんとうに人欲で民を導いているというでしょう。このような道理がありましょうか。そもそも天下に上智は少なく、凡民は多いのです。聖人の刑賞は、常人以下のために教えを施したものであり、仏氏の因果も常人以下のために法を説いたものです。儒仏は宗旨は異なっていますが、人に善をなすことを教えることに関しては、趣旨は一轍に帰しています。先生は董子の功利を求める説に固執し[230]、仏氏の因果を論駁し、聖人の刑賞によって論駁しようとなさるのですか。先生は緇流[231]が人を誘って布施させ、善をなしていると言ったり、福を得ると言ったり、愚民に潔斎焼香させ、善をなしていると言ったり、福を得られると言ったり、このようにしない者は、善を行っていない、かならず罪を得ると言ったりしているのをご覧になり、仏氏の因果は、まさに人々を惑わすためのものだと思っていらっしゃるだけです。仏氏のいわゆる善悪が、儒家と異ならず、いわゆる善悪の報いも、儒家と異ならないことをご存じないのです。」。林生はそうは思わず、さらに自分の意を述べようとしたが、まもなく夜が明けようとしていた。客が起って去ろうとしたので、かたく引きとめると、たちまち挺然として動かなくなったが、廟中の泥塑の判官であった。

  
  族祖[232]雷陽公[233]が言った。昔、冥吏に遇った者が冥吏に尋ねた。「運命はみな前もって定まっているというが、そうなのか。」「そうだ。しかしそれは窮通寿夭の運命だけだ。唐の小説にいう、あらかじめ食料を知る話[234]は、術士の射覆[235]の法にすぎない。人ごとにこれらの事をこまかく記せば、大地が書架となっても、この簿籍[236]を置くことはできまい。」「運命は変えられるのか。」「できる。大いに善行すれば変わり、大いに悪行すれば変わる。」「だれが決め、だれが変える。」「その人がみずから決め、みずから変え、鬼神には権利がない。」「果報はどうして験があったり験がなかったりする。」「人の世の善悪は一生を論じ、禍福も一生を論じるが、冥土の善悪は前生を兼ね、禍福は後生を兼ねているので、たがっているように見えるときがあるのだ。」「果報はどうして同じでないのか。」「これはみなそれぞれその本命[237]のためだ。人事で譬えると、同じ昇進でも、尚書は一級昇れば宰相となるが、典史は一級昇っても主簿に過ぎない。同じ降格でも、加級がある者は相殺され[238]、加級がなければ降格になる。だからことは同じなのに報いが異なることがある。」「人に先に知らせてはどうか。」「できるものではない。先に知れば、人事は休止してしまう。諸葛武侯はよけいなことをしていると思ってしまうし、唐六臣[239](さだめ)を知っていると思ってしまうだろう。」「どうして人にたまたま知らせることもあるのだ。」「時折示さなければ、鬼神がいないことを恃んで人心は放肆となり、曖昧で知るのが難しいとなれば、あらゆる悪さをするだろう。」。亡き姚安公はかつてこう述べた。「これはあるいは雷陽の論で、冥吏に托したものかもしれないが、理でおしはかれば、やはりこのようなことに過ぎないだろう。」。

  
  亡き姚安公にはしもべがあり、表向きは謹厚であったが謀略に富んでいた。ある日、主人の急の求めに乗じ、詐欺、強迫し、数十両を得た。その妻も悻悻[240]として自惚れ、犯すことができないかのようであったが、ひそかに間男を持っていた。ながいこと間男と駆け落ちしようとしており、資金がないことに苦しんでいたが、この金を得たので、盗んでいっしょに逃げた。十余日後に捕らえられ、夫婦の悪事はどちらも露見した。わたしたち兄弟はたいへん喜んだ。姚安公は言った。「この事件は何と巧みにつながりあっていることか。このようなことになるとは。鬼神がいてかれらを邪魔したのだろう。そもそも鬼神が邪魔するのは、どうして人を喜ばせるためだけであろうか。すべては戒めを示すためなのである。だからこの種の事件に遇ったら、謹みの心を生ずるべきで、歓びの心を生ずるべきでない。甲と乙は友となり、甲は下口[241]に居り、乙は泊鎮[242]に居り、三十里を距てていた。乙の妻が仕事で甲の家を訪ねた時、甲は酒で酔わせて留まらせた。乙は心の中では事情が分かっていたが、文句を言えず、かえって礼を言った。甲の妻は河を渡っていた時、舟が覆り、急流に乗って乙の家の前に至り、人に救われ、乙はそれを確認し、扶けて帰ると、やはり酒で酔わせて留まらせた。甲は心の中では事情が分かっていたが、文句を言えず、やはりかえって礼を言った。その隣家の媼はそのことをひそかに知ると、合掌念仏して言った。『このようなことがあるのか。恐ろしいことだ。』。その子は人が誣告するのを助けていたが、いそいでみずから呼びもどしにいった。おまえたちはこの媼のようにすればよい。」。

  
  四川の毛公振[243]河間[244]の同知に任ぜられていた時に語ったこと。その同郷人で薄暮に山を行く者があり、雨を避けてとある廃祠に入ったところ、すでに一人の男が簷の下に坐しており、じっくり見ると、かれの亡くなった叔父であった。驚いて避けようとすると、その叔父はいそいで止めて言った。「おまえに告げることがあるので、こちらで待っていた。禍せぬから、恐れるな。わたしが歿した後、おまえの叔母はおまえの祖母の歓心を失い、つねに理不尽に笞うたれた。おまえの叔母はおとなしくそれを受け、避けなかったが、心に怨みを抱き、人がいない処でひそかに呪い罵っていた。わたしは冥土で伍伯[245]をし、土神が通報するのをしばしば見ている。おまえに言づて、叔母さんを戒め改悛させてもらおう。悔いることを知らなければ、魂が泥犁[246]に堕ちるのは免れまい。」。そう言うと消えた。同郷人が帰り、その叔母に告げたところ、そのようなことはないとかたく隠したが、悚然として顔色を変え、恥ずかしくてたまらないかのようであった。幽霊の言葉が嘘でなかったことを知った。

  
  毛公はさらに言った。ある人が夜歩きし、一人の男に遇ったが、風体は里胥(したやく)のよう、一人の囚人を縛り、樹の下に坐していた。そこで並んで坐してしばらく休んだ。囚人は啜り泣いて止まなかったが、里胥は鞭うっていたので、この人は心に忍びず、傍からやめるように宥めた。里胥は言った。「これは桀黠[247]の頭目で、平生弄び苛めた者は、数百人にとどまらなかった。冥府は判決し、豚の身を七世にわたって受けさせることにしたので、わたしは護送して往生させようとしているのだ。どうして憫れむのだ。」。この人が悚然として起つと、二鬼も同時に姿を消した。

 

最終更新日:2012929

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[1]http://baike.baidu.com/view/330971.htm

[2]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdicB8313678.htm工部侍郎

[3]http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE5Zdic85ZdicAB6533.htm星命家が人の出生の年、月、日、時に、天干地支を配したもので、各項が二字なので、「八字」と合称し、これによって人の命運を推算する。

[4]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic91ZdicBD112959.htm命運と相貌。

[5]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicAEZdic9E126487.htm定数のある官職で、正式にポストを除授せられること。

[6]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic80Zdic9A46791.htm官名。明清時代に各府にけられ、糧運および田水利等の事務を分掌した。

[7]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicBAZdicB6122979.htm明、清の官名。翰林院に属し、士の等なものと能書の者を選んでこれにした。

[8]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicBCZdic96205082.htm官名。翰林院に属し、位は修撰に次ぎ、修撰、検討とともに史官であった。

[9]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332783.htm官名。・事府に属した。正六品官。

[10]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBEZdic8D19238.htm官名。帝王、皇子に学する官。従四品。

[11]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicB8Zdic83117089.htm清代総督、巡撫の属官で、一省の財賦と人事を管した。従二品。

[12]http://baike.baidu.com/view/979744.htm皇帝の顧問。従二品。

[13]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicB7ZdicA1302467.htm官名。清で、地方政府の官、全省事、吏治、刑、民政等を総攬した

[14]工部副。正二品官。巡撫従二品。

[15]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5Zdic93Zdic81104455.htm官品俸秩。

[16]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE4ZdicB9Zdic98310120.htm人事の消盛衰を喩える。

[17]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic9BZdic88288272.htm寿夭を指す。

[18]http://baike.baidu.com/view/94732.htm

[19]直隸保定府の州名。

[20]陳徳栄。江南布政使。光緒九年『畿輔通志』巻百六十九参照。

[21]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE6ZdicADZdicA3331955.htm古代の「数」に「百刻」法というものがあり、諸あるが、その一つは、一日(十二)を百刻とめるもので、毎刻が六十分なので、百刻で六千分となる。一時は五百分、八刻二十分となる。この二十分を二つの微刻に分け、前を「初初」と称し、後ろを「正初」と称した。明王逵『蠡海集·』参照。

[22]http://book.ifeng.com/section.php?book_id=918&id=64474灝、字は光吉。

[23]甘肅涼州府の県名。

[24]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicAEZdic88300846.htm明清武官名。

[25]未詳。

[26]原文「娘子必使裸露以示辱」。「示辱」は普通は「蒲鞭示辱」という言葉にあるように、形式的に人を罰し、肉体を傷わないことをいうが、ここでは訳文の意味であろう。http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE8Zdic92ZdicB216954.htm

[27]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic86ZdicA521589.htm冥土の籍簿。

[28]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7ZdicBBZdic8F219296.htm官名。重要な軍務がある時に設され位は督の上にあった。

[29]莫洛。『清史稿』巻二百五十三に伝がある。後注参照。

[30]『清史稿』巻六・康熙十三年「十二月庚寅朔、傑書大敗曾養性於衢州、又敗之於台州.王輔臣叛、經略莫洛死之.」『清史稿』巻一百七十一・三等子王輔臣「王輔臣山西大同人。康熙九年、官陝西提督。十三年、以首三桂逆書、封三等子。十四年、以叛革。十五年降、復爵。二十年、卒。停襲。」

[31]襄陽府、ケ州府。襄陽府は湖北省、ケ州府は河南省だが、隣接している。

[32]未詳だが、文脈からして、体を借りる術であろう。

[33]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicBFZdic98248015.htm仙丹を作り、仙人になること。

[34]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicBAZdicB767733.htm紛争するさま。

[35]原文「紛紜争執」。「争執」は固執して争うこと。争う内容を補って訳す。

[36]原文「不在其位」。「不在其位」は『·泰伯』にある言葉「不在其位、不其政」にちなむ。http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8Zdic8D287640.htm

[37]劉徳http://baike.baidu.com/view/155954.htm

[38]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic895725.htm詩経。

[39]関福章。銭塘の人。

[40]原文「空穴来風」。http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE7ZdicA9ZdicBA29047.htm洞穴があれば風が入る。消息と言の播はまったく原因がないものではないということ。火のないところに煙は立たぬ。

[41]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6ZdicA1Zdic90134520.htm桐の実。乳の形に似る。

[42]http://www.decheng.gov.cn/daj/E_ReadNews1.asp?NewsId=158宋弼。

[43]http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE4ZdicB9Zdic9D320517.htm九卿

[44]原文「君不死、我奈何」。

[45]原文「忽命駕去」。未詳。とりあえずこう訳す。

[46]千六百四十四年三月十九日。崇禎帝が景山で自縊し、明朝が滅亡した日。明に殉じるべきであるのに死ななかったあなたを自分はどうすることもできないと幽霊は言っている。

[47]http://baike.baidu.com/view/218475.htm沈廷芳。

[48]http://baike.baidu.com/view/926435.htm

[49]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB1ZdicB1287995.htm書院の長。

[50]河北省の県名。

[51]南星http://baike.baidu.com/view/80555.htm

[52]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic8DZdicA7164254.htmきらめくさま。

[53] 光り輝くさま。唐・韓愈『東方半明詩』「殘月暉暉、太白睒睒。」

[54] 『晉書』卷十七・律暦志中:「蟄蟲始發、鶏始三號。」

[55]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic9BZdicB416645.htm更鼓のことであろう。更を報せる太鼓の音。更は一晩を五つの時間帯に分けたうちの一つ。

[56]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic8BZdic9C146079.htm上奏すること。

[57]「奄」は「閹」に同じ。宦官。「大奄」はここでは魏忠賢をさしている。

[58]http://baike.baidu.com/view/176519.htm

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E7%8E%8B%E9%90%B8&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[59]原文「未及鐫而難作」。「難」は南星が魏忠賢を批判して代州に兵卒として流されたことを指していよう。http://baike.baidu.com/view/80555.htm

[60]http://baike.baidu.com/view/109981.htm

[61]未詳。

[62]未詳。園丁のようなものか。

[63]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic83Zdic8E321515.htm各部に郎中が設けられ、各司事務を分掌した。尚、侍郎の下の高

[64]http://bike.baidu.com/view/650669.html?fromTaglist

[65]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicB7ZdicA143130.htm御史京城の治安を掌する。

[66]『清史稿』巻一百十四刑部「尚書掌折獄審刑、簡覈法律、各省讞疑、處當具報、以肅邦紀.侍郎貳之.十七司各掌其分省所屬刑名.…広西司兼理通政司、広西道御史文移.」

[67]直隸河間府の県名。

[68]雍正四年(千七百二十六年)

[69]康熙五年(千六百六十六)開帰道を置き封府に駐在し封府、徳府、河南府を領した。「道」は道台。http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic93234603.htm清代省以下、府以上の

[70]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE8ZdicB0ZdicB3260669.htm判案の案巻。 zdic.net 漢 典 网】

 

[71]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicAEZdic9C316748.htm明清五品官の妻、母が宜人に封ぜられた。

[72]山西沢州府の県名。

[73]あるいは幕http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicA6Zdic86281130.htm

[74]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic91ZdicA6334192.htm物の叫び声の擬音語。

[75]直隸順天府の県名。

[76]http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&source=hp&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E5%B8%82%E6%AD%A6%E6%B8%85%E5%8C%BA%E7%8E%8B%E5%BA%86%E5%9D%A8%E9%95%87&lr=&oq=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[77]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE8Zdic91ZdicB3320261.htm草木枝葉下垂するさま

[78]http://baike.baidu.com/view/1144808.htm

[79]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic9BZdicBE105340.htm図書史籍。

[80]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic88Zdic85209573.htm母の兄弟。

[81]未詳。

[82]包拯。http://baike.baidu.com/view/1716.htm

[83]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6ZdicB8ZdicB8153781.htm四方を雲遊して活する文人をさす

[84]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7Zdic90ZdicB5143374.htm原文「汝琵琶別抱」。「琵琶別抱」は女性が再婚すること。

[85]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicB2Zdic81284460.htm四季。

[86]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE8ZdicB1ZdicAA236077.htm豪放任侠の士。

[87]隋の素。http://baike.baidu.com/view/34736.htm

[88]楽昌公主。http://baike.baidu.com/view/714447.htm

[89]原文「進退無據」。http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicBFZdic9B228799.htm訳文の意味だが、ここではどちらの夫にも顔向けできないということであろう

[90]未詳。

[91]http://baike.baidu.com/view/1744642.htm何e。字は君琢、号は励菴、宛平の人。雍正十一年の士。

[92]原文「『春秋』責備賢者、未可以士大夫之義律兒女子。」。『新唐·太宗紀賛』「然『春秋』中、常責備賢者、是以後世君子之欲成人之美者、莫不息于斯焉。」

[93]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8ZdicBDZdicBB210273.htm

[94]『左·文公二年』「吾新鬼大故鬼小。」

[95]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE7ZdicBEZdicB2231299.htm伏羲氏軒轅(黄帝)併称。

[96]未詳。血の巡りをよくすることか。謝観等編著『中国医学大辞典』五百五十九頁には「行血解毒湯」という薬を載せる。

[97]漢方の用語であろうが未詳。謝観等編著『中国医学大辞典』百六十六頁には「開鬱二陳湯」などの湯薬名を載せる。

[98]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE9ZdicA9ZdicB1335149.htm寒気を除くこと。

[99]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7Zdic9BZdic9B155709.htm旺盛な陽気。

[100]「盛陽鼓蕩、蒸鑠微陰、其消盡也固宜。」未詳だが、「盛陽」は酒、「微陰」は幽霊であろう。「鼓蕩」は激しく動かすこと

http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9ZdicBCZdic9380217.htm

[101]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic86ZdicA526499.htm昏迷するさま。

[102]『荘子論。

[103]江西泰和の挙人。光緒九年『畿輔通志』巻百九十に伝がある。

[104]河間府の県名。

[105]未詳。

[106]『太平広記』巻第三百五十六・夜叉一。

[107]http://baike.baidu.com/view/1255628.htm

[108]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE6Zdic84Zdic81162355.htm惨淡とした煙波。

[109]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE9Zdic85ZdicB8238220.htm刺すような寒

[110]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic8EZdic89331061.htm仙女。

[111]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic9DZdic92256017.htm鬼火。

[112]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9Zdic9AZdic90341936.htm明らかでないさま。

[113].http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5Zdic9CZdic9F319824.htm金属器皿表面にわたって泥土まれて残された痕。

[114]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE9Zdic87ZdicAD.htm油灯。

[115]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9Zdic98ZdicB4271892.htm秋虫

[116]未詳だが、湿った蛍であろう。用例:李賀『還自會稽歌』「野粉椒壁、濕螢滿梁殿。

[117]未詳だが、人気のない池であろう。用例:『所思』「空塘水碧春雨微、東風散漫。」

[118]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicB9ZdicBD118446.htm微弱光。

[119]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE7Zdic85ZdicA7168504.htm照らし出す

[120]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6ZdicAEZdic8B287275.htm凋んだ花。落花。

[121]。光緒九年『畿輔通志』巻二百三十六に伝がある。

[122]姚士陞。康熙三十八年歿

[123]李之[山華]。滄県の人。光緒九年『畿輔通志』巻二百三十六に伝がある。

[124]山東登州府の県名。

[125]乾隆十七年進士。光緒十六年『山東通志』巻九十五参照。

[126]乾隆十二年。この年、紀ホは郷試に合格している。紀ホが進士に合格したのは乾隆十九年のこと。http://baike.baidu.com/view/10741.htm#2

[127]http://baike.baidu.com/view/88731.htm

[128]http://baike.baidu.com/view/143641.htm

[129]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAC43492.htm受験する挙人。

[130]直隷滄州。『元史』巻五十八・河間路「滄州、中。唐改景城郡。」

[131]直隸河間府の県名。

[132]劉璞。交河の人。

[133]朱熹『論語集注』先進第十一「子張問善人之道。子曰、不践迹、亦不入于室。」注「善人、質美而未学者也。」。

[134]未詳。

[135]原文「凡避嫌者、皆中不足」。『近思録』巻六・家之道「凡人避嫌者、皆内不足也。」。

[136]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic9DZdicA635134.htm平静なさま

[137]原文「彼好立崖岸者、吾見之矣。」。

http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicB4Zdic96114894.htm

崖岸は山崖。「立崖岸」は孤高であること、また操を高く保つこと。

[138]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic9BZdicA2215011.htm形の草屋。

[139]http://www.zdic.net/cd/ci/19/ZdicE5ZdicACZdicBF130803.htm美しいさま。

[140]http://www.zdic.net/cd/ci/1/ZdicE4ZdicB9Zdic99211891.htm

[141]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicAEZdic98124349.htm官位と俸禄。

[142]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5ZdicAFZdic92117857.htm寒邪によって致される疾病。

[143] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%B7%AE

[144]主語は「人」であろう。

[145]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicA4Zdic99115275.htm前世。

[146]出典未詳。

[147]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicAEZdic97311453.htm礼部侍郎。

[148]劉躍雲。http://baike.baidu.com/view/2735474.htm

[149]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332885.htm父、祖父の女兄弟の子孫もしくは、母、祖母の兄弟姉妹の親戚関係。自分とは異姓の実の親族。

[150] 原文「元稹会真之嫌」。密通のこと。「元稹会真」は元稹の『会真記』のことで、崔鶯鶯と張生の密通を描く唐代伝奇。『西廂記』などの戯曲にもなった。

[151]http://baike.baidu.com/view/111107.htm

[152]亭県の地名。現在の鄔橋郷村。

[153]原文「嘗夏夜掛窓臥」。「掛窓」といっているのは、窓が吊り窓になっているからであろう。

[154]http://baike.baidu.com/view/68656.htm

[155]太行山脈の北部地域。

[156]山西大同府の県名。

[157]http://baike.baidu.com/view/408614.htm

[158]『大清一志』。http://baike.baidu.com/view/62064.htm

[159]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic83Zdic98147823.htmぼんやりしたさま。

[160]原文「一切眾生、慎勿造因」。「造因」は果報のもとになる因造ること

http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic80ZdicA0120981.htm

[161]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE7ZdicBEZdicBD204579.htm帝王の仗の中で鳥のを綴って飾りにした華盖(かさ)。また、葬礼仗の一鳥の羽を柄の先に集めて傘状にしたもの。

[162]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicBAZdicB6122967.htm庶子は官名。

[163]未詳。

[164]李中簡。http://baike.baidu.com/view/233312.htm

[165]http://baike.baidu.com/view/208302.htm

[166]http://baike.baidu.com/view/77334.htm『聴雨叢談』巻十「十八年癸酉郷試。主司尚書孫嘉淦、侍郎嵩寿(茂)承、皆畳充衡文之命。江南正考官学夢麟、字午塘、蒙古正白旗人、名士也。蒙古人典外省自午塘始」。

[167]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicB2ZdicBF284849.htm高大独立のさま

[168]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicBDZdicA320668.htmわれ人。

[169]『明史』巻一百十四・熹宗后妃・張裕妃「裕妃張氏、熹宗妃也.性直烈.客、魏恚其異己、幽於別宮、其飲食.天雨、妃匍匐飲簷溜而死.又慧妃范氏者、生悼懷太子不育、復失寵.李成妃侍寢、密為慧妃乞憐.客、魏知之怒、亦幽成妃於別宮.妃預藏食物簷瓦間、閉宮中半月不死、斥為宮人.崇禎初、皆復位號.」

[170]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9C281954.htm明の官署名。宦官が掌管し、官員を監視、人民を弾圧した明代中央の特機関。『明史·刑法志三』参照。

[171]原文「二君身已浄」。「浄」は去勢されていることを婉曲にいったもの。「」といえば去勢すること。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic87Zdic80358177.htm

[172]未詳だが、骨を柔らかくする薬であろう。

[173]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdicB889368.htm生命掌管する神。

[174]試験官が及第者の番号を作成すること(宮崎市定『科挙史』百四十九頁)。ここではその番号を記した文書か。

[175] 山西省蒲州府の県名。

[176]乾隆十九年甲戌科進士

[177]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicBCZdicA5125324.htm試験答案姓名いた部分ったりづけし、不正防止すること

[178] http://catalog.digitalarchives.tw/dacs5/System/Exhibition/Detail.jsp?CID=34911&OID=2682878 

[179]直隸保定府の県名。

[180]未詳。孝廉は挙人。

[181]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdicB7195995.htmの試験会で生が答案を作り宿泊する所。独房で、番号がつけられている

[182]未詳。

[183]泰山。

[184]裘曰修。http://baike.baidu.com/view/776939.htm

[185]http://www.zdic.net/cd/ci/23/ZdicE5Zdic84ZdicBD107547.htmつかれたさま。

[186]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9ZdicACZdicBC257452.htm冥土の死人の名簿。

[187]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicB7ZdicA2217072.htmの併称。隠者指す

[188]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic8CZdic82163083.htm隠者が世を軽んじること。『太平御』巻七百六十二引蔡邕『琴操』:「由無杯器、常以手捧水。人以一瓢之、由操飲畢、以瓢掛、瓢歴歴有声。由以為煩擾、遂取捐之。」

[189]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE9ZdicA5ZdicAE75852.htm爵禄名位操高であることが許由を召して九州の長にしようとしたとき、由は耳が汚れたといってそれを洗ったが、その友父が犢を牽いてきて由が耳を洗っているわけをたずね、それを知ると、犢を上流に牽いていって水をませたことから。

[190]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9Zdic98ZdicB4264154.htm冥土の律法。

[191]未詳。巻四にも出てくる。

[192]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8Zdic87ZdicAC221968.htm提刑按察使司の称。一省の司法を主管する。廉使あるいは按察使をもさす。

[193]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE9Zdic9CZdic8D354895.htmにわかであるさま。

[194]未詳。

[195]直隸河間府の県名。

[196]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7Zdic90Zdic85321452.htm音の清朗なさま。

[197]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE6Zdic9CZdicAC18885.htm人が本来もっている心性。

[198]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE7ZdicB2ZdicB264366.htm笑うさま。

[199]朱青雷、名は文震、山東済南の人http://baike.baidu.com/view/211759.htm

[200]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic99ZdicBD6804.htm名。毛白とも、俗名は大葉

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E5%A4%A7%E5%8F%B6%E6%9D%A8&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[201]原文「余謂此青雷有激之寓言也」。「有激」が未詳。とりあえずこう訳す。

[202]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic80ZdicBB38321.htm明清代、都察院左都御史の称。御史台は古称が台であるため、こう称する。

[203]原文「神其」。未詳。とりあえずこう

[204]http://images.google.com/images?hl=zh-CN&source=hp&q=%E7%A5%9E%E6%A1%88&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi神前供物机。

[205]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&lr=&um=1&q=%E6%A5%8A%E6%A2%85%E7%AB%B9%E6%96%9C%E8%A1%97&ie=UTF-8&sa=N&tab=il&start=0

[206] 『孝經』卷八・感應章第十六「孝悌之至、通於神明、光于四海、無所不通。」

[207]直隸河間府の県名。

[208]http://baike.baidu.com/view/19376.htm

[209]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5Zdic9CZdic9F319839.htmごみ、かす。

[210]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE7Zdic8EZdic8B142347.htm六朝望族王氏、氏の併称。

[211]『論語』陽貨。

[212]『孟子』万章上。

[213]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBEZdic9B87820.htmする、用具、食等物を設けること

[214]姓を異にする血縁者。

[215]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBFZdicAE95891.htm風采堂堂、身体魁梧、高大壮健であること。

[216]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicA7Zdic80183570.htm清秀せていること

[217]原文「兩顴微露」。「微露」が未詳。とりあえずこう訳す。

[218]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic8DZdicA7192496.htm臥している蚕のような眉毛。また、眼窩の下の皺とも

[219]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE8ZdicB5ZdicAD38831.htm鉱石。酸化などの鉱物を含んだ粘土から構成され、一般に褐色を呈し、料にする。

http://images.google.com/images?hl=zh-CN&lr=&um=1&sa=1&q=%E8%B5%AD%E7%9F%B3&aq=f&oq=&start=0

[220] 直隷天津府の鎮名。

[221]http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E154393.htm「神坐」とも。神の位牌。また、神像の坐位をも指す。

[222]直隸河間府の州名。

[223]未詳。

[224]山西朔平府。

[225]安徽潁州府の州名。

[226]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic98Zdic8E35087.htm明清生にする尊称。

[227]未詳。

[228]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE7ZdicA6Zdic8F71883.htm仏教。仏教では布施し、善行し、よい報いを受けられることを、田を耕し、秋に収穫を得るのと似ているとして、かく称する。

[229]原文「人且無所措手足矣」。「無所措手足」は、なすすべがないこと。

http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic97ZdicA0163568.htm

[230]原文「先生執董子謀利計功之」。董子董仲舒。

http://baike.baidu.com/view/19308.htm

漢書』巻五十六・董仲舒伝で、かれが「正其其利、明其道不其功。」と言ったことが述べられており、功や利のために物事を行うことを否定した。

[231]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicBCZdic81236668.htm僧徒。僧尼は多くは黒衣を着るので、かく称する。

[232]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic97Zdic8F333701.htm族祖父。族父の父。自分の祖父の堂兄弟。

[233]未詳。

[234]原文「若唐小所稱預知食料」。原話未詳。

[235]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicB0Zdic8477087.htm物あて游

[236]http://www.zdic.net/cd/ci/19/ZdicE7ZdicB0ZdicBF44956.htm官府

[237]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE6Zdic9CZdicAC13645.htm人の生年の干支。

[238]原文「有加級者抵」。加級は、金を捐納して品級を増してもらうこと。

[239]唐末の六人の亡国の臣。張文蔚・楊渉・張策・趙光逢・薛貽矩・蘇循。『新五代史』巻三十五唐六臣伝参照。

[240]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic82ZdicBB165658.htm愎傲慢なさま。

[241]直隷河間府の下口鎮。後ろに出てくる泊鎮の南に位置する。

[242]直隸天津府南皮の鎮名。光緒九年『畿輔通志』巻六十八参照。

[243]成都の人。挙人。光緒九年『畿輔通志』巻三十参照。

[244]直隸河間府の県名。

[245]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE4ZdicBCZdic8D1693.htm

[246]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB3ZdicA513203.htm地獄。

[247]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicA1Zdic80138335.htm凶悍狡黠な人。

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