第一巻 灤陽消夏録一

 

乾隆己酉の夏、秘籍を整理するため、灤陽[1]で仕事した。時に校勘整理はとっくに終わり、官吏を監督し、題簽を貼らせ、書架に置かせるだけであった。昼は長く、仕事がなかったので、見聞を追録し、思い出せばすぐに書き、まったく定まった形式がない。稗官小説は、著述と関わりないことは分かっているが、街談巷議は、勧懲に益することがあるかもしれない。ひとまず抄胥[2]に渡してこれを保存させ、(なづ)けて『陽消夏録』という。


 胡御史牧亭[3]が言った。かれの郷里で、あるひとが一匹の豚を飼っていたが、隣家の老人を見るとかならず目を怒らせ、狂ったように吼え、突進して噬ろうとし、他人を見たときはそうしないのであった。隣家の老人は、はじめはたいへん怒り、買ってその肉を食らおうとした。その後、はっと悟った。「これは仏経にいう宿怨かもしれない。世には解けない怨みはないものだ。」そこで高い値で贖い、寺に送り、長生豚とした[4]。後にふたたび見ると、耳を垂らして親しみ、以前の様子ではなくなっていた。かつて孫重[5]が描く伏虎[6]応真[7]を見たところ、巴西[8]の李衍[9]が。「至人猛虎に騎れば、之を馭することなほ騏驥[10]のごとし。あにかれもとより馴良[11]ならん、道力その(あら)きを消す。すなはち知る天地の間、情あらばみな契るべし。ともに金石の心[12]を保てば、為に畏忌[13]多きこと無し。」と題していたが、この事の解説とすることができる。


 滄州の劉士玉孝廉は、書室を狐に占拠されていた。かれらは白昼、人と対談し、瓦や石を擲ち、人を撃ったが、その姿は見えないのであった。知州は平原[14]の董思任で、良吏であったが、その事を聞くと、みずから追い払いにいった。人間と妖物は路を異にするという道理をさかんに述べていると、突然、簷から朗々と声がした。「おんみは官となり、すこぶる人民を愛し、金銭も取っていないなら、わたしはおんみを撃とうとしないが、おんみが人民を愛するのは名誉を好み、金銭を取らないのは後患を畏れているだけだから、おんみを避けることもせぬのだ。おんみよ、やめられよ。余計なことを言って、酷い目に遭わないようになされよ。」董はあわてて帰り、咄咄[15]として楽しまぬこと数日であった。劉の下女はたいへん愚鈍で、狐を畏れなかった。狐もかれを撃たなかったので、あるひとが対談した際、そのことを取り上げて狐に尋ねた。狐は言った。「あのものは下働きだが、真の孝婦だから、鬼神が見ても避けるものだ。わたしたちならばなおさらだ。」劉が下女をこの部屋に住まわせると、狐はその日のうちに去った。


 愛堂先生[16]は言った。聞けばある老学究が夜歩きしていたところ、突然その亡友に遇ったが、学究はもともと剛直だったので、さほど怖れず、どこへ往くのかと尋ねた。亡友は言った。「わたしは冥吏で、南の村へ魂を取りにゆくため、たまたま路をともにしただけだ。」そこで並んで歩いた。一軒のあばらやに着くと、幽霊は言った。「これは文士の(いおり)だ。」「どうして分かる。」と尋ねると、「人というものは、白昼は忙しくして、精神は変動しているが、眠っている時だけは一念が生ぜず、精神が澄明になる。胸中の読んだ書物は、一字一字がすべて光芒を吐き、百竅[17]から出る。そのさまは縹渺[18]繽紛[19]として、(かがや)くさまは錦繍のようだ。学問が鄭孔[20]のよう、文才が屈宋班馬[21]のような者は、上は霄漢を照らし、星月と輝きを争い、その次は数丈、その次は数尺、だんだんと品が下って、きわめて下の者も熒熒として一燈のよう、戸や窓を照らしている。人は見られず、鬼神がそれを見るだけだ。この家の上の光芒は高さが七八尺なので、分かるのだ。」学究は尋ねた。「わたしは今まで読書してきたが、睡眠中の光芒はどれほどだ。」幽霊はしばらくためらうと言った。「昨日、君の塾を通ったら、君はちょうど昼寝していた。君の胸中の高頭講章[22]、墨巻[23]五六百篇、経文七八十篇、策略三四十篇は、一字一字が黒煙に化し、屋上に籠め、生徒たちが読誦する声は、濃雲密霧の中にあるかのよう、ほんとうに光芒を見なかった。嘘を言ったりはせんよ。」学究が怒って叱ると、幽霊は大いに笑って去った。


 東光[24]の李又先生[25]がかつて宛平相国[26]の廃園に行ったところ、廊下に詩二首があり、その一首にこうあった。「颯颯として西風は破櫺[27]に吹き、蕭蕭として秋草は空庭に満つ。月光穿漏す飛簷[28]の角、照見す莓苔[29]半壁の青。」その二に言った。「耿耿たる疏星は幾点明るき、銀河時に片雲の行くあり。欄に憑き坐して聴く譙楼[30]の鼓、数ふること(つづ)けて第五声を敲くに到る。」墨痕は陰気で、ほとんど人が書いたものらしくなかった。


 董曲江先生[31]は、名は元度といい、平原の人、乾隆壬申の進士で、翰林に入り、散館[32]し、知県に改まり、さらに教授に改まったが、病と称して故郷に帰った。若いとき、夢みたところ、人から一本の扇を贈られたが、上に三首の絶句があった[33]。「曹公[34]馬に(みづか)ふ天池[35]の日、文采[36]西園故知に感ず。至竟[37]心情終に改まらず、月明花影旌旗に上る。」「尺五[38]の城内馬を並べて来り、垂楊一例[39]赤鱗[40]開く。黄金の屈戍[41]雕胡[42]の錦、信ぜず陳王[43]八斗の才[44]。」「簫鼓鼕鼕[45]画燭の楼、是れ誰ぞみづから小涼洲[46]を按ずる。春風荳[47]知んぬ多少ぞ、並びに()る秋江一段の愁。」言葉は多くは難解であった。その後もまったく験がなかったが、そのわけは分からなかった。


 平定[48]の王孝廉執信は、かつて父が楡林で役人をするのに従い、夜、野中の寺の経閣[49]の下に宿ったが、閣上で人がくどくどと語り、詩を論じているようだったので、こちらに文士は少ないのに、このようなことがあるはずはないとひそかに訝った。じっくり聴いたが、結局あまりはっきりとは聞こえなかった。その後、話し声はだんだんと閣の廊下に出てきたので、ややはっきりした。一人が言った。「唐彦謙[50]は詩格が高くないが、『禾麻[51](すた)れ辺気を生じ、草木春寒く戦声を起こす』は佳句だ。」一人が言った。「僕はかつてこんな句を作った。『陰磧[52]の日光雪に連なりて白く、風天の沙気雲に入りて黄なり』。みずから関外に行かなければ、この景色は見られない。」一人はさらに言った。「僕も一聯を作った。『山は辺気に沈む無情の碧、河は寒声[53]を帯ぶ亘古[54]の秋』だ。」すこぶる辺城の日暮のさまに似ているとみずから言い、ともにしばらく吟賞していた。寺の鐘が突然鳴ると、寂として音がしなくなった。夜明けに起きて見ると、(かぎ)で閉ざされ、塵に掩われていた。「山は辺気に沈む。」の一聯は、後に任総鎮の遺稿で見た。総鎮は名は挙[55]といい、金川に軍を出した時、百戦して陣歿した者であった[56]。「陰磧」の一聯は、結局誰の言葉なのか分からなかったが、その精霊が長く存在し、任公とともに遊ぶことができるのだから、やはり尋常の幽霊ではあるまい。


 滄州[57]城南の上河の岸に、無頼の呂四というものがおり、凶暴であらゆる悪事をするので、人々は虎狼のように畏れていた。ある日の薄暮、不良少年たちと村外で涼んでいると、たちまち隠隠と雷鳴が聞こえ、風雨がまさに至ろうとした。はるかに見れば一人の若い女が、川岸の古廟の中に逃げ込んだかのようであった。呂は不良少年たちに言った。「あいつを犯そうぜ。」その時はすでに夜になっており、陰雲で真っ暗であった。呂がにわかに入り、女の口を掩うと、人々はともに衣を剥ぎ、弄んだ。にわかに雷光が窓を穿ったので、顔を見たが、その妻に似ていたので、いそいで手を放して尋ねたところ、間違いなかった。呂が大いに怒り、妻を捕まえ、河に擲とうとすると、妻は大声で叫んだ。「あなたは人を犯そうとしていたから、人にわたしを犯されたのです。天理は明らかでございますのに、それでもわたしを殺そうとなさるのですか。」呂は言葉に詰まり、いそいで衣と袴を捜したが、すでに風に吹かれて河に入ってしまっていた。おろおろとして為す術もなく、みずから裸の妻を背負って帰った。雲は散じ、月は明るかったので、村じゅうが笑いさざめき、争って進み出て事情を尋ねた。呂は返事することができず、河に身投げした。そもそもその妻は帰寧し、約一月で帰ることになっていた。ところが実家が火災に遭い、住む家がなくなったので、期日前に返ったのであった。呂はそれと知らずにこの難に遭ったのであった。後に妻が夢みたところ、呂が来て言った。「おれは罪業が重く、ながく泥犁[58]に堕ちることになった。生前母に仕え、孝を尽くしていたので、冥官に文書を調べてもらい、蛇の身を受けられ、今から往生するのだ。おまえの次の夫がまもなく来るから、新しい舅姑によく仕えろ。冥土の法律では、不孝の罪はとても重いから、自分から冥土の釜を踏むな。」妻が再婚する日になると、部屋の角に赤練蛇[59]がおり、首を垂れて下を見ており、恋い慕っているかのようであった。妻が以前の夢を思い出し、頭を挙げて尋ねようとすると、にわかに外で鼓楽の音が聞こえた。蛇は部屋の上に跳びはねること数回、奮然として去った。


 献県の周氏の(しもべ)周虎は、狐に惑わされ、二十余伉儷(めおと)のようにしていた。狐はかつて僕に言った。「わたしは煉形[60]してすでに四百余年になりますが、過去生の中で、あなたに業縁がありましたので補わなければなりません。一日満たなければ、一日昇天することができません。縁が尽きれば、わたしは去ります。」ある日、囅然[61]としてみずから喜び、さらに泫然[62]としてみずから悲しみ、虎に言った。「今月の十九日、縁が尽きるので、別れなければなりません。すでに一人の婦人を見立てしてあげましたから、嫁に迎えることができましょう。」そこで銀を出し、虎に渡し、礼物を備えさせた。それからは嬿[63]として狎れ親しむこと、平素に勝り、影と形のように、つねに離れることがなかった。十五日になると、突然朝起きて別れを告げた。虎が期日前であることを怪しむと、狐は泣いた。「業縁は一日も減らせず、一日も増やせませんが、遅くなるか早くなるかは遇った時間次第です。わたしはこの三日の縁を残し、もう一度会うことにするのです。」数年後、ふたたび来、三日睦みあって去った。行くに臨んで嗚咽して言った。「これからは永遠にお別れです。」陳徳音先生は言った。「この狐は余りの日を残したが惜福[64]する者はこのようにするべきだ。」劉季箴は言った。「三日後には、結局別れなければならないのだから、しばらく留めることはない。この狐は四百年煉形したのに、懸崖撒手[65]の境地に到っていないが、事に臨む者はこのようにするべきでない。」わたしは思う。二公の言葉は、それぞれ一理に明るく、それぞれ妥当であると。


 献県県令の明晟[66]は、応山[67]の人、かつて冤罪事件を雪ごうとしたが、上官が承諾しないのを慮り、ぐずぐずとして決断しなかった。儒学[68]の給仕に王半仙という者がおり、一匹の狐と友達であったが、ちょっとした吉凶を語れば験があることが多かったので、尋ねにゆかせると、狐は色を正して言った。「明さまは人民の父母[69]なのですから、冤罪か冤罪でないかを論じるべきであって、承諾するか承諾しないかを尋ねるべきではありません。制府[70]李公の言葉をご記憶でしょう。」給仕が報告すると、明はぞっとした。そして言うには、制府の李公衛[71]が栄達していなかった時、一人の道士とともに(かわ)を渡ったが、たまたま船頭と争う者がいた。道士は太息して言った。「命がまもなく尽きるのに、数文の金銭を争うのか。」その人はにわかに帆脚に掃われ、江に堕ちて死んだので、李公は驚いた。川の真ん中で風が起こり、舟が覆ろうとしたとき、道士が禹歩[72]して呪を誦えると、風は止んで渡ることができた。李公が再拝して、命を救われたことを謝すると、道士は言った。「たまたま江に堕ちたのは運命なので、わたしは救えなかった。公は貴人なので、危難に遇っても渡れたが、これも運命なのだ。わたしは救わざるを得なかったのだから、何も感謝することはない。」李公は再拝して言った。「お師匠さまのお教えを受けましたから、わたしは終生運命に安んじましょう。」道士は言った。「万事そうすればよいというわけではない。一身の窮達に関しては運命に安んじるべきだ。運命に安んじなければ競い、争い、あらゆる悪事をしてしまう。李林甫、秦檜は善人を陥れなくても、宰相になれたのに、いたずらにみずから罪を増したのだ。国の財政、民の生計のよしあしは、(さだめ)とはいえない。天地が人材を生み、朝廷が官職を設けるのは、命運を補うためだ。身に職権を握りながら、手を束ねて(さだめ)に任せているのであれば、天地が人材を生じる必要はないし、朝廷が官職を設けることはない。晨門は言った。『是れその不可なるを知りて之を為す』と[73]。諸葛武侯は言った。『鞠躬尽瘁し、死して後に已む』と[74]。成敗吉凶は、予測できるものではない。これは聖賢の立命[75]の学である。おんみよ、ご理解なされよ。」李公は謹んで教えを受け、拝して姓名を尋ねた。道士は言った。「言えば驚かれるだろう。」舟を下りて行くこと数十歩、翳然[76]として姿を消した。昔、会城[77]にいたとき、李公がこの事を話したが、この狐がどうして知ることができたのかは分からなかった。



 北村の鄭蘇仙は、ある日、夢みて冥府に行くと、閻羅王が録囚[78]しているところであった。隣村の一人の媼が殿前に行くと、王は顔色を改めて拱手し、一杯の茶を賜い、冥吏に命じてすみやかに善処[79]に送らせた。鄭はひそかに冥吏に尋ねた。「農家の老婦でございますのに、どんな功徳があるのです。」冥吏は言った。「この媼は一生己を利して人心を損うことがなかった。己を利する心は、賢士大夫さえも持たずにいられぬことがある。己を利する者はかならず人を損い、種種の虚偽がそれによって生じ、種種の罪悪がそれによって造られ、ひどい場合は、臭を万年に(のこ)し、毒を四海に流すに至る。すべてはこの一念が害をなしているのだ。この媼は田舎女でありながら、みずからその私心を制することができ、読書講学する儒者はかれに対して愧じることが多かった。王が優遇するのは当然だ。」鄭はもともと考え深かったので、それを聞くとタ然[80]として悟った。鄭はさらに言った。「この媼が来る前、一人の役人が公服で昂然と入ってき、みずから称するには、行った所では一杯の水を飲むだけで、今でも鬼神に恥じないということでした。」王は笑って言った。「官を設けて民を治めると、下は駅丞閘官[81]に至るまで、みな取り扱うべき利弊がある。しかし金銭を求めなければ良い役人だというのなら、木偶を堂に立てれば、水さえ飲まないわけだから、公よりも勝っているのではないか。」役人はさらに弁じた。「わたしは功はございませんが、罪もございません。」王は言った。「いたるところで保身しようとし、某事件と某事件のとき、嫌疑を避けて発言しなかったのは、民に負いていないか。某事件と某事件のとき、面倒を畏れて告発しなかったのは、国に負いていないか。三年間のことを考績[82]すると、功はなく罪がある。」役人は大いに不安げとなり、気勢はにわかに減じた。王はおもむろに顧みると笑って言った。「おんみの気勢が盛んなのを咎めたのだ。冷静に論じれば、三四等の良い役人だったら、来生でも冠帯を失うまい。」すぐに転輪王に送るように命じた。これらの二事を見ると、人心の奥底を、鬼神はすべて窺えることが分かる。賢者のひそやかな一念も、責められるのを免れない。「(なんぢ)の室に在るを()[83]」とは、本当にその通りである。


 雍正壬子、役人の家に嫁がおり、平素喧嘩することはなかった。にわかに狂電(いなずま)が窓を穿ち、火の光が閃いているかのよう、雷楔[84]が心を貫いて入り、左の脇を貫いて出、その夫も雷の炎に焼かれ、背や尻までが黒く焦げ、息をしているばかりであった。しばらくして蘇ると、妻の屍を顧みて泣いた。「わたしは性格が強情で、母と言い争うことがあったかもしれない。おまえはひそかに恨みを訴え、燈に背き、涙を掩うだけだったのに、どうして雷が誤っておまえに中たったのか。」主謀者を重く罰するということが[85]、幽明ともに同じであるのかどうかは分からない。


 無雲和尚は、どこの人か分からない。康煕年間、河間[86]の資勝寺[87]に投宿し、終日黙坐し、話しかけても答えなかった。ある日、突然禅牀に登り、界尺で(つくえ)を拍つと、泊然[88]として消えさった。見れば(つくえ)の上に偈があった。「削髪して家を辞し六塵[89]浄く、自家(しばら)く了す[90]自家の身。仁民愛物[91]無窮の事[92]、もとより周公孔聖人あり。」仏法は墨子に近いが、この僧は楊朱[93]に近い。


 寧波の呉生は、北里(いろまち)に遊ぶことを好んでいた。後に一人の狐女に親しみ、しばしば密会していたが、なお青楼に出入りしていた。ある日、狐女は尋ねた。「わたしは化けることができ、あなたが慕っているひとでしたら、一見してすぐにその容貌をまねることができます。あなたがちょっとお想いになれば、すぐ参りますから、黄金で女を買うよりましでしょう。」試すと、たちまち姿を変え、本物と瓜二つであったので、その後は外出しなかった。かつて狐女に言った。「花に眠り柳を()くことは[94]、本当に楽しいが、惜しいことには幻で、心は所詮一膜を隔てているのだ[95]。」狐女は言った。「そうではございません。声色の娯しみは、もとより雷光石火です。どうしてわたしが誰かをまねることだけが幻でございましょう。その誰かも幻なのです、その誰かだけが幻なのではなく、わたしも幻なのです。千百年来の名姫美女はみな幻です。白楊緑草、黄土青山に、一つとして古の歌舞の場でなかったところはございません。雨を握り、雲を携え[96]、香を埋め、玉を葬り[97]、鶴に別れ、鸞に離れするのは[98]、臂を曲げ伸ばしする間に過ぎません[99]。才子佳人が会うとき、時刻でかぞえても、日でかぞえても、月でかぞえても、年でかぞえても、かならず別れの(とき)があります。訣別には、数十年で別れるものもあれば、しばらく遇って別れるものもありますが、いずれも懸崖で手を放すかのように、瞬く間に(くう)となります。翠に倚り、紅に寄るのは[100]、すべて春の夢のようにぼんやりとしたものではございませんか。宿縁がもともと深く、終生ともに暮らしても、紅顔は駐まらず、白髪に侵され、人の身は、旧態に復しません。現在の粉黛を塗った眉や頬も、幻であるといえます。どうして(わたし)が誰かをまねすることだけが幻でありましょう。」呉は灑然[101]として悟った。数年後、狐女は辞して去り、呉は狎遊(いろあそび)をやめた。

交河[102]の及孺愛[103]、青県[104]の張文甫は、いずれも老儒で、ともに献県[105]で生徒を教えていた。かつてともに南村北村の間で夜歩きしたが、館からはやや遠く、荒れ野は寂しく、草木の茂みは薄暗かった。張は怖れて返ろうとし、「墓地には幽霊が多いから、長居することはできない。」と言った。するとにわかに一人の老人が杖に縋ってやってきて、二人に揖して坐し、言った。「この世に幽霊がいるはずがない。阮瞻の論をお聞きではないか[106]。お二人は儒者なのに、どうして釈氏のでたらめをお信じになる。」そして、程朱の二気[107]屈伸[108]の理を闡明し、分析証明し、言葉は流暢であった。二人はそれを聴くといずれも頷き、ともに宋儒が理をしっかり認識していることに感嘆し、たがいに対話したが、姓名を尋ねるのを忘れた。たまたま大きな車数台が遠くからやってきた。牛鐸は錚然[109]としていた。老人は衣を振り、いそいで立ち上がると言った。「泉下(よみじ)の人は、ながいこと寂しくしている。無鬼の論を支持されていなければ、お二人を引きとめて一晩談じることはできなかった。これでお別れだが、謹んで事実を告げよう。侮られたと咎めないでもらいたい。」わずかな間に、然としてすでに消えていた。この地にはきわめて文士が少なかったが、董空如先生[110]の墓に近かったから、あるいはその魂であろうか。

河間の唐生は、悪戯を好んだが、土地の人は今でもそのことを語ることができる。いわゆる唐嘯子という者がそれである。塾の教師が、幽霊がいないことを好んで講じ、こう言った。「阮瞻は幽霊に遇ったというが、そのようなことはない。僧侶がみだりに蜚語(でたらめ)を造っただけだ。」唐は夜に土を窓に投げ、ごとごとと戸を撃った。塾の教師が驚いて誰だと尋ねると、「わたしは二気の良能だ[111]。」と言った。塾の教師は大いに怖れ、頭を隠し、股を震わせ、二人の弟子に朝まで見張らせた。翌日は困憊して起きなかった。友人が尋ねてきたが、呻吟しながら幽霊がいると言った。唐のしわざであることが分かっていたので、みな手を叩いた。しかしそれから(あやかし)は盛んに動き、瓦石を抛ち、戸や窓を揺らし、何事もない夜はなかった。はじめは唐がまた来たのだと思っていたが、じっくり様子を見たところ、本物の(あやかし)であったので、弄ばれるのに堪えられず、館を棄てて去った。そもそも震え戦いた後、羞恥が加わり、その気がすでに怯えていたために、狐はかれが怯えているのに乗じて攻撃したのであった。「(あやかし)は人から興る」とは[112]、このことであろうか。

 

 天津の某孝廉は、数人の友人たちと郊外で踏青[113]した。いずれも年少で軽薄であった。見れば柳の木陰を、若い女が、驢馬に騎りながら通っていたので、その朋輩がいないのをいいことに、人々を呼び、その後を追い、卑猥な言葉でからかった。若い女は特に答えず、驢馬に鞭うち、はやく進んだ。二三人がさきに追い付くと、若い女はたちまち驢馬を下り、なまめかしく語り、喜んでいるかのようであった。すぐに某と三四人は追い付いたが、じっくり見ると、まさにその妻であった。しかし、妻は騎乗を解せず、その日郊外に行く理由もなかったので、疑い、怒り、近寄って怒鳴った。妻は相変わらず笑っていたので、某は怒気が湧きおこり、手を揮い、その顔を打とうとした。すると妻はたちまち驢馬の背に飛び乗り、別の姿に換わり、鞭で某を指して責めた。「他人の妻には、あれこれ卑猥なことをするのに、自分の妻には、このように怒り、恨むとは。おまえは聖賢の書を読みながら、「恕[114]」の一字さえ理解していない。どうしてその名を桂籍[115]に載せられようか。」責めおわると、すぐに行ってしまった。某は顔色は死のよう、路傍に直立し、去れなかったが、何の(あやかし)なのかは分からなかった。

 

 徳州の田白岩[116]が言った。「額都統という者が、滇[117]と黔[118]の間で山を歩いていたところ、道士が美女を石に押さえつけ、その(むね)を剖こうとしていた。女は哀しげに叫び、救いを求めていたので、額がいそいで馬に鞭うって駆けつけ、にわかに道士の手を抑えると、女は一声叫び、火の光に化して飛び去った。道士は地団駄を踏んで言った。『おんみはわたしのしていた事を台無しにした。この(あやかし)はすでに百余人を惑わして殺していたから、捕らえ、誅し、害を除こうとしていたのだ。しかし、すでにたくさんの精を取り、歳を経て神通力を持っており、その首を斬っても(たましい)は逃げ去るので、その(むね)を剖いて殺さねばならなかったのだ。おんみは今逃したが、さらに限りない禍をもたらすだろう。一頭の猛虎を、深山に放置すれば、沢の麋、林の鹿は、その牙でどれほど命を損なわれるか分からない』。匕首を匣に入れ、残念そうに(たにがわ)を渡って去った。」これは白岩の寓言で、いわゆる「一家の哭くは何ぞ一路の哭くに如かん[119]。」ということである。貪官汚吏をひとまず許せば、みずからは陰功であると思い、人々も多くは忠厚であると称える。しかし窮民たちが妻子を売ったり質入したりしていることは、すこしも考えることがないのであり、このような長者は役に立たないのである。


 献県の下役の王某は法律文書を書くのに巧みで、他人の財貨を奪うのに長けていた。しかし貯蓄するたびに、かならず意外な事件が起こり、費消してしまうのであった。城隍廟の道童が、夜、回廊に行くと、二人の下役が帳簿を持ち、計算しあっていた。一人が言った。「あいつは今年蓄えがすこし多いが、どんな方法で費消させるべきだろう。」沈思していると、一人が言った。「翠雲一人で十分だから、手間は掛からない。」この廟にはしばしば幽霊が現れ、道童は見慣れており、怖れることもなかった。しかし翠雲とは誰かは分からず、誰が決算しているのかも分からなかった。まもなく若い妓女翠雲が来、王某は大いに寵愛し、貯蓄の八九割を費消した。さらに悪瘡に罹り、医薬をことごとく用いたが、癒えたときにはすでに無一文となっていた。人はかれが平生取ったものを数えたが、指折り数えると、約三四万金であった。後に狂疾を発して急死したが、納める棺がなかった。

 
 陳雲亭舎人[120]が言った。台湾の駅使[121]が館舎に泊まったところ、美女が塀に登り、下を窺っていたので、怒鳴って探したがいなかった。夜半に瑯然[122]と音がし、一片の瓦が枕元に擲たれたので、怒鳴って尋ねた。「何の妖魅(あやかし)だ。天使を侮ろうとするとは。」窓の外では朗々と答えた。「公は禄命[123]が重うございます。わたしは公を避けるのが間に合わず、公は怒鳴ってお探しになりました。神罰にふれるのを恐れ、今でも不安にしております。今、公は睡眠中に邪念を萌されましたので、誤って駅卒の娘になり、後日納められて妾になろうといたしました。人心が一たび動けば、鬼神はそれを知るのです。邪によって邪を召したのですから、わたしを咎めることはできません。瓦を投げてお報せしましたのに、公はどうしてお怒りになるのです。」駅使は大いに愧じ、夜明けにならないうちに、いそいで旅仕度して去った。

 
 葉旅亭[124]御史の邸宅でのこと、突然、狐の(あやかし)が白昼に対談し、葉に住まいを譲るように迫り、騒ぎ立て、悪戯した。杯盤はひとりでに舞い、(つくえ)(しじ)はひとりでに動くに至った。葉は張真人[125]に告げ、真人は法官[126]に委ねた。まず一枚の護符を書いたが、貼った途端に裂けてしまった。次に都城隍に願文を奉ったが、験がなかった。法官は言った。「これはきっと天狐だから、拝章[127]しなければだめだ。」七日間法事を行った。三日目になっても狐は罵っていたが、四日目になると婉曲な言葉で和解を請うた。葉は狐を苦しめることを望まず、その事をしとげないことを願った。真人は言った。「すでに拝章したから、手遅れだ。」七日目になると、たちまち格闘するのが聞こえ、門や窓は壊れて堕ち、薄暮になっても止まなかった。法官はさらにほかの神に助けを求め、擒にし、(もたい)に貯え、広渠門[128]外に埋めた。わたしはかつて真人に鬼神を駆るわけを尋ねると、言った。「わたしも理由は分からないが、法術に従って行っているだけだ。鬼神はたいてい印によって働かされ、符籙は法官に管理されている。真人は官長、法官は胥吏のようなもので、真人は法官がいなければ符籙を作ることができず、法官は真人の印がなければ、その符籙には霊験がない。その中で験があるものがあったり験がないものがあったりするのは、各役所の文移[129]章奏[130]が、受理されたり受理されなかったりし、すべてをかならず行うことができないようなものだ。」この言葉はすこぶる理に近い。さらに、もしも空家や深山で、にわかに妖怪に遇っても、君は調伏できるかと尋ねると、言った。「たとえば大官が通行するとき、盗賊はおのずと避ける。無知な悪党が、にわかに高官を犯せば、手に兵符[131]を握っていても、人員の調達は間に合わず、すぐにはどうしようもない。」この言葉もすこぶる的確である。だとすれば一切の神奇な話は、すべてこじつけである。

 
 朱子穎運使[132]が言った。泰安の知事であったとき、聞いたのだが、士人が岱岳の深い処に行くと、石壁の中から突然人の声が聞こえた。「どこで経書の香りがするのだ。転世した人間が来たのだろう。」[133]とした雷のような響きとともに、石壁が開き、貝闕[134]瓊楼[135]が峰の頂に現れ、耆儒[136]が冠帯で下りてきて迎えた。士人は驚愕し、尋ねた。「ここはどこですか。」「経香閣だ。」士人が経香閣の意味を尋ねると、言った。「話せば長くなるから、坐って話そう。昔、尼山[137]は詩を刪定し[138]、万年に教えを垂れ、大義微言[139]は、次々に伝授せられた。漢代の諸儒は、古を去ること遠からず、訓詁箋注は、先聖の心を窺い見ることができるかのようであり、淳樸であり、浅薄でなく、党派を立てて名誉を競う習慣はなく、それぞれが師の説を伝え、淵源に誠実に遡るだけであった[140]。唐に及んでも、斯文[141]は改められなかった。北宋になり、注疏十三部[142]を石に刻むと、先聖はそれを嘉した。大儒たちは新説が日々興り、次第に学統が絶えるのを慮り、この閣を建てて貯えた。中にあるのは初版本で、五色の玉を函にし、聖教を尊び、歴代の官刻の本を配し、白玉を函にし、帝王が章句を明らかにした功績を顕彰し、いずれも南を向いている。左右は各家がひそかに刊刻した本で、一部ができるたびに、かならず初印の精良なものを取り、時代順に、この閣に収め、蒼玉を函にし、汲古[143]の勤勉さを褒め、いずれも東西を向き、すべて珊瑚を簽にし、黄金の錠前と鍵を作ってある。東西両廡[144]は、沈檀[145]を几にし、錦繍を茵にし、諸大儒の霊は、年に一回見に来、ともにこの閣に列坐する。後ろの三間は唐以前の諸儒の経義[146]であり、錦の帙に入れられ、一つの庫に収められている。それ以外は、著書が身の丈に等しく、声誉が世を覆っていても、すべてかれらがみずから名山に貯えるのに任せ[147]、この門に一歩も入れない。これが先聖の志である。諸書は子の刻、午の刻になると、一字一句が、ことごとく濃い香りを発するので、『経香』と題している。そもそも一元[148]は斡運[149]し、二気は絪縕[150]とし、陰は午の刻の半ばに起こり、陽は子の刻の半ばに生じる。聖人の心は、天地と通じている。大儒たちは聖人の理を闡明し、その精髄も天地と通じているので、感じあっているのである。しかしそれはこの学を伝える者であって始めて嗅ぐものであって[151]、他の人々はそうではない。世の儒者たちはこの十三部を、(あぶら)を焚いて日に継ぎ[152]、終生研究したり、厳密に探求し、あれこれ攻撃したりしているが、それぞれその悟性を拠りどころにしているだけである。おんみは四代前は刻工であり、かつて手ずから『周礼』半部を刊し、余香がまだあるので、おんみが来たのを知ることができたのだ。」そこで案内し、閣廡[153]を周覧させ、茶菓で歓待した。送別のとき、言った。「よくご自愛なされよ。この地は来るのが容易ではない。」士人が振り返ると、万峰が天を挿しているばかりで、杳として人の姿はなかった。思うにこの話は荒誕(でたらめ)で、ほとんど漢学を尊ぶ者の寓言である。そもそも漢儒は訓詁を専門にし、宋儒は義理を尚び、漢学は粗雑で宋学は精緻であるようである。しかし訓詁に明るくなければ、義理をどうして知ることができよう。おしなべて誹謗し、糞土のように見るのは、大輅となってから、椎輪を罵り[154]、迷川[155]を渡ってから、にわかに宝筏[156]を焚くようなことであるのを免れない。そのため、宋儒を攻める者が、さらに紛紛として起こっている。だからわたしは『四庫全書・詩部総序』を撰したとき、こう言った。「宋儒が漢儒を攻めるのは、経書を解説する見地からしているのではなく、漢儒に勝ることを求めているだけだ。後人が宋儒を攻めるのも、経書を解説する見地からしているのではなく、宋儒が漢儒を謗るのが不満なだけだ。」韋蘇州の詩[157]にいう「水性おのづから静かなりと云はれ、石中にもまた声なし。如何(いかん)ぞ両つながらに相激すれば、雷(めぐ)り空山驚く。」とは、このことである。冷静に論じれば、『易』は王弼がはじめて旧説を変え、宋学の萌芽となったので、宋儒は攻めない。『孝経』の語義は明瞭であり、宋儒が争っているのは、今文と古文の字句であって[158]、やはり重大な趣旨と関わりがない。これらはひとまず措いて論じない。『尚書』、三礼、三伝、『毛詩』、『爾雅』の諸注疏に至っては、すべて古義に基づいており、断じて宋儒がよくするところではない。『論語』『孟子』に関しては、宋儒が一生の精力を積み、一字一句を斟酌しているが、断じて漢儒の及ぶことではない。そもそも漢儒は師匠を重んじ、淵源がおのずとあるが、宋儒は心悟[159]を尚ぶので、研究が深くなり易い。漢儒は旧文[160]に固執し、伝[161]を信じ過ぎることがあり、宋儒は臆断に拠り、経文を改めるのに勇むことがある。その得失を数えれば、どっこいどっこいである。ただ漢儒の学は、書を読み古を調べなければ、一言も下すことができず、宋儒の学は、おのおのがみな空談できる。そこには蘭艾[162]がともに生じ、ほんとうに人の心を満足させないものがあり、それが譏られ笑われるゆえんである。この種の虚構の話も、理由なくして作られたものではないのである。

 
 曹司農竹虚[163]が言った。その族兄は歙から揚州に行き、途中友人の家を訪ねたが、おりしも盛夏であったので、招いて書屋に坐らせたところ、たいへん爽やかであった。晩にその中に泊まろうとすると、友人は言った。「(あやかし)がいるから、夜は泊まれない。」曹は無理に泊まったが、夜半に物が入り口の隙間からもぞもぞと入り、薄いこと夾紙[164]のよう、部屋に入ると、だんだん開いて人の姿になったが、娘であった。曹が特に畏れないでいると、たちまちざんばら髪となり、舌を吐き、縊鬼の姿となったが、曹は笑って言った。「髪のようだが、すこし乱れているな。舌のようだが、すこし長いな。これも畏れるに足りぬわい。」すると突然みずからその首をとって案頭に置いたが、曹はやはり笑って言った。「首があっても畏れるに足りぬのだから、首がないならなおさらだ。」幽霊は技が尽きたので、倏然として消えた。帰途ふたたび泊まったところ、夜半に入り口の隙間がまたもぞもぞと動き、頭を露わにしたので、唾を吐いて「またこのつまらん奴か。」と言ったところ、入ってこなかった。これは中散の故事と似ている[165]。そもそも虎が酔っている人を食らわないのは、その人が畏れを知らないからである。畏れれば心臓は乱れ、心臓が乱れれば精神は散じ、精神が散じれば幽霊はそれにつけこむことができるが、畏れなければ心臓は静か、静かであれば精神は全く、精神が全ければ暴戻の気は犯せないのである。そのため中散のこのことを記した者は、「神志は湛然、幽霊は恥じて去った。」と称しているのである[166]
 

 董曲江[167]が言った。黙庵先生[168]が総漕[169]であった時、官署に土神[170]馬神[171]の二祠があり、土神だけに(つれあい)があった。その末っ子は才を恃んで傲慢であったため、土神は鬚だらけの老翁なのだから、美女を擁しているべきでなく、馬神は年若いのだから、まさに良い連れ合いになるだろうと言った。そしてすぐに女神の像を馬神祠へ移したところ、にわかに昏倒して人事不省になった。黙庵先生がその事を聞き、みずから祈り、移して還すと、意識が戻った。さらに聞いたところでは、河間の学署でも、土神に女神の像が配せられていたので、ある訓導が黌宮[172]に婦人の像を作ることはできないと言い、別に小さな祠を建てて遷したところ、土神はその幼い孫に憑き、「おまえは理屈は正しいが、私心を抱いている。おまえの邸宅を広げようとしているだけだから、わたしは承知しないぞ。」と言った。訓導はまさに侃侃として古の礼を談じていたが、にわかにその隠しごとに触れられ、大いに驚き、任期が終わるまで居ようとはしなかった。二つの事はよく似ている。あるひとは言った。「訓導は廟を遷すとき、なお礼節をもってしたが、董は神をたいへん冒涜したから、罪は重くて当然だ。」わたしは思う。董は若く、放誕であっただけだが、訓導は内に私心を挟み、己を利し、上辺は公義[173]を借りながら、人々を黙らせていた。神がその陰謀を暴かなければ、人々はなお祭祀を正しくしていると思っただろう。『春秋』は心を誅したのだから[174]、訓導は罰が董より重くて当然である。

 手品はいずれも手の使い方がすばやいだけのことである。しかし搬運術[175]は本当にある。思い出せば幼いときに外祖雪峰先生の家で、一人の手品師が酒杯を(つくえ)に置き、掌を挙げて撫でると、杯は(つくえ)の中に陥入し、口と(つくえ)が平らになったが、(つくえ)を撫でても杯の底は見えなかった。まもなく取り出したが、(つくえ)は元通りであった。これは障目法[176]かもしれない。さらに魚の膾の入った大きな碗を挙げ、空中に擲って消してしまった。取り戻すように言うと、言った。「できません。書室の画厨(たんす)[177](ひきだし)[178]の中にございますから、みなさまがご自分でお取りになってください。」時に賓客や従者が雑沓していたが、書室には骨董が多かったので、すでに厳重に閉ざされていた。それに(ひきだし)は高さは二寸ばかり、碗は高さは三四寸ばかりなので、絶対に入れるはずがなかった。でたらめを言っているのかと疑い、ひとまず(かぎ)を取り寄せて開けて見ると、碗が(つくえ)の上に置かれ、代わりに仏手が五つ入っていた。もともと仏手を入れてあった盤には、代わりに魚の膾が入っており、(ひきだし)の中に収められていたが、これは搬運術ではないか。「理のかならず無き所、事のあるいは有る所なり。[179]」とは、このようなことである。しかし実は理としてもあるのである。狐怪山魈[180]が、人の物を盗み取るのは、珍しくなく、狐怪山魈を祓える者も、珍しくなく、祓えるなら、役使することができ、人の物を盗み取ることができるなら、人に代わって物を取ることができるのだから、何のおかしなことがあろうか。

 
 旧僕の荘寿が言った。「昔、某官に仕えていたとき、一人の役人が早朝に来、さらに一人の役人が続いて来ました。いずれも親友でした。かれらの様子はひそかに消息を届ける者のようでした。にわかにみな去り、主人も車を用意させ、つぎつぎに出、黄昏になると帰ってきました。車は傷み、馬は疲れ、たいへん困憊していました。すると突然、前の二人の役人がまたやってきて、燈の下で耳打ちしたり、頷いたり、手を振ったり、眉を顰めたり、手を叩いたりしていました。相談しているのがどんな事なのかは分かりませんでした。二鼓になりますと、遠く北の窓の外で、くすくすと笑い声がしましたが、室内では聞こえませんでした。訝っておりますと、突然、さらに長嘆する声が聞こえました。『そのようにすることはない』。はじめ主客はみな驚き、窓を開けていそいで見ますと、新雨の後で泥は掌のように平らか、まったく人の足跡はございませんでしたので、みなわたしの寝言かと疑いました。わたしはその時、盗み聴きをするなと戒め、避けて南の軒の外の花の棚[181]の下に立っていました。本当に眠っておらず、言葉も発していませんでしたが、結局それが何なのかは分かりませんでした。」

 
 永春[182]の丘孝廉二田は、たまたま九鯉湖[183]への道中で憩っていたところ、童子が牛に騎ってきたが、進むのはたいへん速かった。丘の前に来るとしばらく止まり、朗々と吟じた。「来るに風雨を衝きて来り、去るに煙霞を踏みて去る。ななめに照らす万峰の青、是れ我が山に還るの路。」村童がこのような言葉を作れるはずがないと訝り、じっと考え、尋ねようとしたが、笠の影が杉や檜の間に見え隠れして、すでに半里ばかり隔たっていた。神仙が戯れたものなのか、郷塾の子供が人の誦えているのを聞いてたまたま記憶していたものなのかは分からない。

 
 莆田の林教諭霈は、台湾で任期満了して北上した。涿州の南に至り、車を下りて小便したが、あばらやの塀の外に、磁器のかけらで一首の詩が彫られていた。「騾綱[184]隊隊銅鈴響き、清暁寒を衝き駅亭を過ぐ。我みづから鞭を垂れ残雪を玩び、驢蹄緩く踏む乱山の青。」落款には「羅洋山人」とあった。読みおわるとひとりごちた。「詩にはいささか趣があるが、羅洋とはどこだろう。」すると屋内から返事があった。「湖広の人のようだな[185]。」入って見ると、固まった塵、腐った葉があるばかり。みずから幽霊に遇ったと悟り、タ然として車に乗り、つねに鬱鬱として楽しまず、まもなく亡くなった。

 
 景州[186]の李露園基塙[187]は、康熙甲午の孝廉で、わたしの僚婿(あいむこ)であった。博雅で詩に巧みであり、需次[188]していた時、夢の中で一聯を作った。「鸞翮中散[189]、蛾眉屈左徒[190]」目醒めたが自分で解釈することはできなかった。後に湖南の知事となり、在任中に亡くなったが、まさに屈原が行吟した地であった。

 
 亡祖母張太夫人は、一匹の小さな花犬(ぶちいぬ)を飼っていたが、下女たちはかれが肉を盗むのを患え、ひそかに扼殺した。その中の一人は柳意といったが、夢の中でつねにこの犬が齧りにくるのを見、眠るとかならず寝言をいうのであった。太夫人はそれを知ると、言った。「下女たちはいっしょに犬を殺したのに、どうして柳意だけに怨みを抱いているのだ。これはきっと柳意も肉を盗んでいるので、犬の心を承服させることができないからに違いない。」問い質すとはたしてその通りであった。

 
 福建汀州の試院でのこと、堂前の二本の古柏は、唐のもので、神がいるといわれていた。わたしが按臨した日、(したやく)は樹に詣でて拝礼するべきだと言った。わたしは木の(あやかし)は害を為さないから、放っておけばよい、祀典[191]にあるものでないから、使者[192]が拝するべきでないと言った。樹は枝葉が高く聳え、幾重かの家を隔てても見ることができた。その晩は月が明るかったので、わたしは階の上を歩いたが、梢を仰ぎ見ると二人の紅衣の人がおり、わたしに向かって磬折[193]拱揖[194]し、冉冉として次第に消えた。幕友を呼び出して見せたときには、まだ見えた。わたしは翌日樹に詣でてそれぞれ揖をかえし、一聯を祠の入り口に刻んだ。「参天の黛色つねにかくの如し、点首する朱衣あるいは是れ君。」これもすこぶる珍しいことである。袁子才はかつてこの事を『新斎諧』に載せたが[195]、記述がやや異なっているのは、伝聞の誤りである。

 
 徳州[196]の宋清遠[197]先生が言った。呂道士はどこの人か分からないが、幻術を善くし、かつて田山張司農[198]家の食客となっていた。折しも朱藤[199]が満開で、賓客たちが集まって賞でていたが、一人の俗士は、言葉が野卑で、喋喋としてやまず、ことさらに人々の興を殺いでいた。一人の少年は性格が軽薄であったが、ひどく嫌悪し、余計なことを言うなと罵った。二人が腕まくりしそうになったので、一人の老儒が仲裁したが、どちらも従わなかったため、老儒も怒りを顔に表した。満座の人々は楽しまなかった。道士は童僕に耳打ちし、紙と筆を取ってこさせ、三つの護符を描いて焚いた。すると、三人は突然起きあがり、中庭をぐるぐる回ること再三であった。俗客は東南の隅に趨いて坐し、喃喃としてひとりごちたが、聴いてみると、妻妾と家のことを談じており、左右を振り返って仲裁するようにしたり、うれしげにひとり弁じたり、罪を認める動作をしたりし、片膝を屈し、両膝を屈し、叩頭して止まなかった。少年を見れば、西南の隅の花欄[200]に坐し、流し目し、妮妮[201]としてやさしく語り、笑い、礼を言い、小声で『浣紗記』を唱い、呦呦[202]として止まず、手ずから拍子をとり、あらゆる放埓なの姿を呈した。老儒は石凳の上に端坐して『孟子』の斉桓晋文の事一章を講じ[203]、字句を解説し、指さしたり、振り返ったり、四五人と対談しているかのよう、手を振って「違う。」と言い、目を怒らし「まだ分からないか。」と言い、ごほごほと咳して止まなかった。人々は驚き、笑ったが、道士が手を振ると止んだ。酒が酣になり、道士がさらに三つの護符を焚くと、三人は惘惘[204]としてじっと坐し、しばらくするとだんだん目ざめ、思わず酔って眠ってしまったと称し、無礼を謝した。人々は笑いをかみ殺して散じた。道士は言った。「これはささやかな術で、大したものではない。葉法善[205]は唐の明皇を引いて月宮に入ったとき、この護符を用いた。当時の人々は誤って本物の仙人だと思い、迂儒は偽者だと思ったが、いずれも井の中の蛙にすぎない。」後に旅館で、護符を用い、通りがかりの貴人の妾の魂を摂った。妾は蘇った後に車に乗り、妾は道士に連れてゆかれた道と家を覚えていたので[206]、貴人にいそいで捕らえるようにと言ったが、すでに逃げ去ってしまっていた。これは『周礼』が怪民を禁じる所以か[207]

 
 交河[208]の老儒汲潤礎[209]は、雍正乙卯の郷試のとき、晩に石門橋[210]に行ったが、客舎はすっかり満員であった。一軒の小屋だけは、窓が馬の飼葉桶に臨んでおり、泊まろうとする者がいなかったので、ひとまず旅装を解いた。馬たちが跳びはねていたので、夜は寝られなかった。人が静まった後、突然、馬が語るのが聞こえた。汲は雑書を読むのを好み、宋人の小説に堰の牛が語る話があるのを記憶しており[211]、鬼魅ではないと分かっていたので、息を潜めて聴いていた。ある馬が言った。「今日ははじめて飢えを忍ぶ苦しみが分かった。生前にごまかした秣代は、今どこにある。」ある馬が言った。「わたしたちは多くは圉人(うまかい)から転生したが、死んでからはじめて悟り、生きているときは気がつかなかったのは、ほんとうに嘆かわしいことだ。」馬たちはみな嗚咽した。ある馬が言った。「冥土の判官もあまり公平でないな。王五はどうして犬になれたのだ。」ある馬は言った。「冥土の鬼卒が言っていた。あいつの女房と二人の娘はともに淫濫で、その銭をすべて盗んで間男に与えたから、罰は半分にするべきだと。」ある馬は言った。「本当にそうだ。罪には軽重がある。姜七は豚に堕ち、身は屠られ、わたしたちにも及ばない。」及が突然かるく咳すると、静かになった。汲はつねにこのことを挙げて圉人(うまかい)を戒めた。

 
 わたしの侍姫の一人は、平生罵語を発しなかった。みずから言うには、その祖母は罵るのが上手であったが、後にまったく病がないのに、突然舌が爛れ、喉に達し、飲食言語ができなくなり、転げ回り、数日で死んでしまったのをその目で見たとのことであった。

 
 某生が家にいた時のこと、たまたま遅く起き、妻と妾を呼んだが来なかった。若い下女に尋ねると、言った。「一人の少年に従って南へ去りました。」刃を露わにして追い付き、まとめて斬ろうとすると、少年はたちまち見えなくなった。老僧は紅い袈裟を着、片手に鉢を持ち、片手に錫杖を振り、その刀を受け止めると、言った。「まだ悟らないか。おまえは貪る心がたいへん重く、妬む心がたいへん重く、欺く心がたいへん重いのに、人に悟られることもなかった。鬼神は悪事を隠すことを忌み、この二人の女に、このようなことをさせておまえに報せることにしたのだ。かれらに何の罪があろう。」そう言うとやはり見えなくなった。生は黙然として連れかえった。二人の女は言った。「少年は初めてで面識はなく、親しんだこともございませんでしたが、たちまち惘然として夢のようになり、ついていったのです。」隣近所も言った。「お二人は駆け落ちしたわけではありませんし、もともと仲が良くなかったのですから、一人の男についてゆこうとするはずがございません。それに、駆け落ちであれば、かならず人を避けますから、白昼堂々と行き、ゆっくり歩き、追ってくるのを待つはずがございません。」それが神罰であることは、確かなことだが、結局その悪をはっきりさせることができなかった。ほんとうに隠悪である。

 
 事がみな前もって定められているというのは本当である。戊子の春、わたしは人のために『蕃騎射猟図』に題した。「白草天に(つら)なり野獣肥え、(ゆみ)()(なんぢ)の馬の飛ぶがごときを愛す。何ぞ当たらん黄羊[212]の血を快飲し、一たび天山に上りて雪に打囲(かり)するに。」その年の八月、西域に従軍した。また、董文恪公[213]はかつてわたしのために『秋林捜句図』を作った。烏魯木斉に着くと、城の西に深林があり、老木は雲に達し、数十里に亘っていた。前の将軍伍公弥泰[214](あずまや)を中に建て、「秀野」と題していた。そこを散歩したところ、さながら以前の絵の景色のようであった。辛卯、京師に還り、みずから一首の絶句を題し、言った。「霜葉微かに黄にして石骨青く、孤吟みづから怪しむ太だ零丁[215]なるを。誰か知らん早く作る西行の(きざし)、老木寒雲秀野亭。」

 
 南皮の瘍医某は、技術はすこぶる優れていたが、ひそかに毒薬を用いることを好み、大金を脅し取り、その要求を満たさないと、かならず殺してしまうのであった。そもそもその術は秘密であり、他の医者は解せなかった。ある日、その子が雷に撃たれて死んだ。今その人はまだ生きているが、もう招こうとする者はいない。あるひとは言った。某はとても多くの人を殺したが、天はどうして某を殺さないでその子を殺したのか。これは不当な罰だと。そもそも罪が極まっていないときは、罰は子に及ばず、悪が極まっていないときは、殃は世に及ばない。その子を殺したのは、禍が子孫に及ぶことを明らかにするためである。

 
 安中ェが言った。昔、呉三桂が叛したとき、六壬[216]に精しい方術師がおり、部下になりにゆこうとし、一人の男に遇ったが、やはり三桂の部下になるのだと言っていたので、いっしょに泊まった。その男が西の塀の下で眠ろうとすると、方術師は言った。「そこで眠ってはいかん。この塀は亥の刻に崩れるだろう。」その人は言った。「おんみの術は深くないな。塀は外に向かって崩れるのであって、内に向かって崩れるのではない。」夜になるとほんとうにその通りであった。わたしはこれはこじつけの談であると思う。この人は塀がどちらに崩れるのかを知ることができたが、三桂がかならず敗れることを知らなかったのだろうか。

 
 ある僧が交河[217]の蘇吏部次公[218]の家に遊んだが、幻術を善くし、奇術を行うこと窮まりなく、呂道士と同門だと言った。泥を捏ねて豚を作ったことがあったが、呪すると次第にもぞもぞ動き、さらに呪すると突然声を出し、さらに呪すると躍り上がるのであった。そこで料理人に渡して客に供したが、味はあまり良くなかった。食らいおわると、客たちは嘔吐したが、吐いたものはすべて泥であった。一人の士人が雨のために同宿していたが、ひそかに僧に尋ねた。「『太平広記』に、方術師が一片の瓦に呪文を掛けて人に授け、壁に線を引くとすぐに開き、他人の閨閣にひそかに行くことができたことが載っています。師の術はこのようにすることができますか。」「それは難しくない。」一片の瓦を拾ってしばらく呪すると、言った。「これを持っていれば行けるが、話してはならん。話せば術は解けてしまう。」士人が試すと、壁ははたして開いた。ある場所に行くと、慕っている者がまさに服を脱ぎ、就寝していた。僧の戒めを守って語らず、すぐに扉を閉じ、榻に登り、狎れ親しみ、女も睦みあうと疲れてぐっすりと眠った。ふと目を開くと、妻が榻の上で眠っていた。たがいに訝っていると、僧が訪ねてきて責めた。「呂道士は一念を誤ったため、すでに雷誅を受けた。君はわたしにも累を及ぼすのか。小さな術で君に戯れたが、盛徳を損なわないでくれ。これからは二度とこのような考えを起こすな。」そして太息して言った。「この一念は、司命がすでに記録した。大きな責めはないが、禄籍[219]に妨げがあるだろう。」士ははたして困窮し、晩年訓導[220]となったが、貧寒に終わった。

 
 康煕年間、献県の胡維華は、神仏を礼拝することによって人々を集めて不軌を謀り、住んでいる場所は大城[221]、文安[222]を通ってゆけば、京師まで三百余里、青県、静海を通ってゆけば、天津まで二百余里であった。維華は兵を二手に分け、一方は不意を衝き、いそいで京師にゆき、一方は天津に拠り、海船を掠奪することを謀った。有利ならば天津の兵も北に趨き、不利ならば天津に逃れてゆき、舟に乗り、海に浮かんで去ることにした。偽官を置いたが、事はすでに漏れていた。官軍は捕らえ、囲んで火攻めにし、(おさなご)さえも遺さなかった。はじめ維華の父は資産が豊かで、窮乏したものを救うことを喜び、さほど大きな悪事をしていなかったが、隣村の老儒張月坪に艶麗な娘がおり、国色と称せられているのを見て心酔した。しかし月坪は堅物であったから、娘を人の妾にするはずはなかった。そこで、月坪を招いて勉強を教えさせることにした。月坪は父母の柩が遼東にあり、故郷に返せないことを、いつも悲しんでいた。月坪がそのことにたまたま言及すると、維華の父はすぐに金を出して棺を帰らせ、葬る土地を贈った。その後、月坪の田に屍が横たわっていた。それは月坪の敵のものだったので、お上は謀殺のかどで月坪を取り調べたが、維華の父はあの手この手で弁論してやり、月坪を釈放させた。ある日、月坪の妻が娘を連れて帰寧したが、三子はいずれも幼かったので、月坪は家に帰り、家を守り、数日ほどで返ることにしていた。維華の父はひそかに仲間を遣わし、夜、戸に鍵を掛け、その家を焼いたため、父子四人はみな焼死してしまった。維華の父は、表向きは驚き悼み、代わりに葬儀を営み、しばしばその妻女を援助したので、妻は維華の父に頼った。娘を嫁にとろうとする者があると、妻はかならず維華の父とともに謀り、ひそかに邪魔して成就させなかった。維華の父はやがてだんだんと娘を妾にしたいという意思を示した。妻はその恩に感じていたので、承諾しようとした。娘は当初乗り気でなかったが、夜にその父を夢みたところ、父は言った。「おまえが行かねば、わたしは絶対に心を楽くすることができない。」娘は命を受けた。一年あまりで維華を生むと、娘はたちまち病死した。維華はその血筋が絶えた。

 
 また、わたしの家から三四十里のところに、その下僕夫婦を凌虐して死なせ、その娘を妾にした男がいた。娘はもともと聡明で、その男の飲食物品を管理したが、すべて意に叶っていた。さらに、およそ歓心を博することなら、淫らにしたり、狎れ親しんだり、あらゆることをした。人々は娘が仇を忘れてしまったと噂した。惑溺が深まると、男は娘の言うことだけを聴いた。娘はまずかれを奢侈に導き、財産の十分の七八を費消させた。さらにかれの骨肉を讒言し、仲違いさせ、家の中を仇敵同士のようにさせた。次にしばしば『水滸伝』の宋江柴進らの事を説き、英雄と称し、盗賊と交わるように唆したので、ついに人を殺した廉で処刑されることになった。処刑の日、娘はその夫のために哭せず、ひそかに卮酒を携え、その父母の墓を祭って言った[223]。「お父さま、お母さまは、つねに夢の中でわたしに祟り、憤然としてわたしを撃とうとなさっているかのようでしたが、お分かりになりましたか。」人々ははじめて娘の宿願が報復であったことを知り、言った。「この娘のしたことは、人が予測できないばかりでなく、幽鬼も予測できなかったから、機略は深いものだったのだ。」。しかし陰険であるということはできない。「『春秋』は心を(たづ)[224]。」というが、もとよりともに天を戴かない者だったのだ。

 
 わたしが烏魯木斉にいたとき、軍吏が牒文[225]数十枚をととのえ、墨と筆を捧げもってきて判を請うた。「ここで死んだ旅人の棺が本籍に帰るときは、牒文を送るのが慣例です。そうしなければ魂は関中に入れぬのでございます。」冥土に行くので、朱印は用いず、その印も墨を用いていた。見ればその文はたいへん卑俗なものであった。「旅券発給の件:某処の○○、年は○○ 、○年○月○日に当地にて病死す。親族が柩を運んで本籍に帰る時は、旅券を発給すべし。沿路の関所を守る鬼卒は、すみやかにその魂を取り調べ旅立たせ、金を取り立て引き留めぬようにすべし。」わたしは言った。「これは下役が口実を設け、お金を取っているだけだ。将軍さまに申しあげ、この慣例を除いてもらおう。」十日後、あるひとが、城西の墓地の中で鬼哭が聞こえる、牒がないため帰れないからだと告げたが、わたしはそのでたらめを罵った。さらに十日すると、あるひとが、鬼哭がさらに城に近づいてきたことを告げたので、やはり罵った。十日後、わたしが塀の外にいたとき、顬顬[226]と音がしたが、わたしはなおも下役の偽りだと思っていた。数日後、声は窓の外に来た。時に月は明るく、昼のよう、みずから起きて捜してみたが、本当に誰もいなかった。同僚の観御史成[227]は言った。「公の理屈は正しく、将軍でさえ変えられません。しかし鬼哭は本当に皆が聞いております。通行証を得られぬ者が、ほんとうに公を怨んでいるのです。一度発給してやり、とりあえず悪口を防いでみてはいかがでしょうか。鬼哭が相変わらずでしたら、公も文句をお言いなさい[228]。」そこでしぶしぶかれの言うことに従った。その夜は寂然としていた。さらに軍吏宋吉禄は印房[229]にいたが、たちまち昏倒し、しばらくして蘇ると、その母が来るのを見たと言った。にわかに台軍[230]が官牒[231]を呈したので、開いて見たところ、哈密からの報せで吉禄の母が子に会いにきたが、途中で亡くなったということであった。天下にはないことはなく、儒生は常識的なことを論じているだけである。わたしはかつて『烏魯木斉雑詩』百六十首を作り、その中の一首に「白草颼颼として冷雲に接し、関山疆界は誰か分けん。幽魂来往するに官牒に従ひ、原鬼の昌黎竟に聞かず[232]。」とあるが、それがすなわちこれら二つの事である。

 
 范蘅洲[233]が言った。昔、銭塘江を渡ったとき、一人の僧が舟に乗ってきたが、すぐに坐具を置き、帆柱に倚り、問訊[234]もしなかった。言葉を掛けると、ゆっくりと答えたが、目はほかの場所を見、まったく蘅洲を気に掛けていなかった。蘅洲はその傲慢さをけしからんと思い、それ以上語らなかった。時に西風がひどく激しかったので、蘅洲はたまたま二句を得、言った。「白浪船頭(せんとう)(ふる)はし、行人石尤[235]に怯ゆ。」下聯は続けず、再三吟じた。すると僧は突然目を閉じて微かに吟じた。「如何ぞ紅袖の女、なほ倚る最高の楼。」蘅洲はかれが言っていることが分からず、ふたたび言葉を掛けたが、答えなかった。纜を繋ぐ時になると、一人の少女が楼の上に立っており、まさに紅い服を着けていたので、大いに驚き、再三問いただすと、言った。「たまたま見えただけだ。」しかし煙水はE茫として、建物は遮られていたのだから、本当に見られたわけがなかった。予知したのかと疑い、挨拶しようとすると、すでに錫杖を振りながら去ってしまっていた。蘅洲は惘然としてわけが分からず、こう言った。「あれはもう一人の駱賓王[236]だ。」 

 

 清苑[237]の張公鉞[238]が河南鄭州で役人をしていた時、官署に桑の老樹があった。抱きかかえようとしても手が届かず、神物が棲んでいるといわれていたので、嫌に思って伐った。その晩、その娘は燈の下で一人の男を見たが、面目手足及び衣冠は、すべて濃緑色で、声を荒げて言った。「おまえの父親がとても横暴なので、ひとまずおまえを見せしめにしよう。」驚いて叫ぶと、ばあやや下女が来たが、すでに呆けてしまっていた。後に戈太僕仙舟[239]に嫁いだが、まもなく亡くなった。悪鬼を駆り、淫祠を毀つのは、まさに狄梁公[240]、范文正[241]公たちのする事で、徳が勝ることができなければ、失敗しないことは少ないのである。

 
 銭文敏公[242]が言った。「天が与える禍福は、君主の与える賞罰のようなものではないか。鬼神の照覧は、官吏の審議のようなものではないか。今かりに『某は人柄に瑕疵がなく、官途にあっては実績があるが、門は凶方に向かっており、築造は凶日を犯していたから、罪によって処罰するべきだ』という弾劾文があれば、上司は受理するか却下するか。さらに『某は人柄に瑕疵が多く、官途にあっては功績がないが、門は吉方であり、築造は吉日に当たっていたから、功によって昇進させるべきだ』という薦牘[243]があれば、上司は受理するか却下するか。官吏がかならず却下することを、鬼神が受理するというのか。そのため、陽宅[244]に関する言説を、わたしは決して正しいものとは思わない。」と。この喩えはいたって明快であり、このことを風水師に質したところ、やはり弁明できなかった。しかしわたしは本当に凶宅があるのを見た。京師の斜向かいの給孤寺道南のある邸宅を、わたしは弔いにゆくこと五たびであった。粉坊琉璃街[245]極北道[246]の西にある邸宅を、わたしは弔いにゆくこと七たびであった。給孤寺[247]の邸宅は、曹宗丞学閩[248]がかつて住んでいたが、入居してまもなく、二人の下僕が、ある晩ともに急死したため、恐れて引っ越した。粉坊琉璃街の宅は、邵教授大生[249]が住んでいたが、白昼しばしば異変を見ても、毅然として畏れず、その中で歿した。これはまたいかなる道理であろうか。劉文正公[250]は言った。「地を卜したり、日を卜したりすることは、書経や周礼に見える[251]。吉凶がなければ、聖人は何を卜することがあろうか。ただ、これは今の術士[252]が知っていることではないだろう。」これは公平な論である。

 
 滄州の潘班[253]は、書画を善くし、みずから黄葉道人と称していた。かつて友人の書斎に泊まったところ、壁から小さな声が聞こえた。「あなたは今晩、人を留めていっしょにお休みになりませんから、出ていってあなたに寄り添いましょう。」班は大いに驚き、書斎を出た。友人は言った。「部屋に昔からこの(あやかし)がいるのだが、艶麗な娘で、害はなさない。」後に友人はひそかに親しい人に語った。「潘君は終生青襟[254]に苦しむのだなあ。この(あやかし)は幽霊でも狐でもなく、何物かは分からないが、卑俗な人に遇っても出ず、富貴の人に遇っても出ず、才士の零落した者に遇ったときだけ、出てきて枕席に進むのだ。」後に潘はほんとうに不遇で終わった。十余年後、突然夜に書斎で啜り泣く声が聞こえた。翌日、大風が杏の老樹を折ると、その(あやかし)は絶えた。外祖張雪峰先生[255]はかつて戯れて言った。「この(あやかし)はとても佳い。その識見は綺羅[256]の人を超えたところにある。」

 
 陳楓崖光禄[257]が言った。康煕年間に楓[258]の太学生が、別荘で読書していたところ、草むらに石のかけらがあった。すでに断裂剥落していたが、数十字だけが残っていた。たまたま一二のまとまった句があったが、夭折した娘の墓碑のようであった。生はもともと物好きだったので、その墓がかならず近くにあると思い、つねに茶菓を石の上に並べ、なれなれしい言葉で祈った。一年あまり後、美女がひとりで菜園を歩いていたが、手に野の花を執り、生を顧みて一笑した。生は走ってその側に近づき、目で合図し、籬の後ろの灌木の茂みに引き入れようとした。女はじっと立ち、まっすぐに見、思うことがあるようにしていたが、たちまちみずからの頬を打って言った。「百余年間、心は古井戸のようであったのに、一朝にして遊び人に動かされてしまうとは。」足踏みすること再三、奄然として消えたので、はじめて墓中の幽霊であったことが分かった。蔡修撰季実[259]は言った。「昔、『棺を蓋って論定まる[260]』と称せられたが、この件に関していえば、棺を蓋ってもなお論が定まるのが難しいことが分かる。もともと貞叔な亡魂であっても、一念の過ちにより、従来の行いを失いそうになるのだ。」晦庵先生の詩に「世上人欲の(あやふ)きに如くはなし、幾人かここに到り平生を誤る[261]。」というが、その通りである。

 
 王孝廉金英が言った。江寧の書生が古い家の廃園に宿った。月夜に美女が窓から窺っていたので、幽霊でなければ狐だと気付いたが、その艶麗さを愛し、畏れもせず、部屋に招き入れたところ、すぐに宛転[262]として近づいてきた。しかし終始一言も発せず、尋ねても答えず、笑いを浮かべて流し目するばかりであった。このようにすること一月あまりであったが、そのわけは分からなかった。ある日、捕らえてしつこく尋ねると、筆を取り、字を書いた。「わたしは前明の某翰林の侍妾でしたが、不幸にして夭折しました。平生、讒言に巧みで、一門の骨肉を水火のようにさせたため、冥府で責められ、罰せられて(おし)の幽霊になったのでございます。すでに死んで二百余年になりますが、あなたが『金剛経』十部を書いてくださり、仏力により、苦海から解脱することができましたら、代々ご恩に感じましょう。」書生はその願い通りにすることにした。写しおわった日、美女は書生のところにやってきて再拝し、筆を取り、字を書いた。「金剛経で懺悔したおかげで、すでに鬼趣[263]を脱しました。しかし前生の罪は重いので、業を帯びて往生することしかできません。なお三代唖婦となり、はじめて語ることができましょう。

 

 最終更新日:2012716

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[1]直隸永平府の駅名。

[2]文書の抄写をつかさどる下役。

[3]胡紹鼎。字は雨方、号は牧亭、孝感の人。乾隆甲戌の士、御史となった。『所存集』がある。

[4]原文「送仏寺為長生猪」。「長生猪」は、放生され、食事だけを与えられている豚のことであろう。

[5]未詳。

[6]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE4ZdicBCZdic8F71635.htm猛虎を制伏すること

[7]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicBAZdic94182513.htm仏教羅漢の意。真道を得た人の意。

[8]古郡名。四川省閬中県。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE5ZdicB7ZdicB4.htm

[9]未詳。

[10]駿馬http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicAAZdic90340313.htm

[11]善良であること。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9ZdicA9ZdicAF337857.htm

[12]心。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic87Zdic91319360.htm

[13]厭悪http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic95Zdic8F181250.htm

[14]山東済南府の県名。

[15]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic92Zdic8462722.htm感嘆声。めたり訝ったりする気持ちを表す

[16]關福章。銭塘の人。

[17]未詳。文脈からして、人体の孔と思われるが、具体的に何を刺すのかは未詳。

[18]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE7ZdicBCZdicA583490.htmにしたがってるさま

[19]然とぶさまhttp://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE7ZdicBCZdicA464315.htm

[20]鄭玄http://baike.baidu.com/view/34623.htm

孔穎達http://baike.baidu.com/view/74662.htm

[21]屈原、宋玉、班固、司馬遷。

[22]経書の正文の上の空白に記された、解釈の文。後に、こうした文の付せられた経書を指す。

[23]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE5ZdicA2ZdicA845019.htm科挙の合格答案。

[24]直隸河間府の県名。

[25]李若龍。東光県(今河北省東光県)李荘の人、字は又、雍正十三年(千七百三十五年)挙人、著に『又詩草』がある。光緒『東光県誌』に「文詞精粋、詩類香山」とある。

[26]王熙。http://baike.baidu.com/view/203076.htm

[27]未詳だが、壊れた(れんじ)であろう。

[28]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE9ZdicA3Zdic9E66275.htm檐とも檐が反りあがり、びあがるかのように見えるもの

http://images.google.com/images.hl=zh-CN&q=%E9%A3%9E%E6%AA%90&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[29]青苔。http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8Zdic8EZdic93201514.htm

[30]上の望楼。http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE8ZdicB0ZdicAF339891.htm

[31]http://baike.baidu.com/view/143641.htm

[32]明清翰林院に庶常、新しい士で庶吉士の格を得た者は入学習、三年の期が試験行った後、成績良な者は留修、検討授かり、そのほかは各部事中、御史、主事、州官になったが、これを「散」といった。http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic95ZdicA366810.htm

[33]以下の詩、後に「言葉は多くは難解であった。」とあるように、含意未詳である。

[34]『藝文類聚』卷三十九「魏陳王曹植公宴詩曰:公子敬愛客、終宴不知疲、清夜遊西園、飛蓋相追隨、明月澄清景、列宿正參差、秋蘭被長坂、朱華冒場レ池、潜魚躍・暁函すツ嗣長盪沺た錐菴按丹轂、輕輦隨風移」。

[35]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA996642.htm天上仙界の池。また、山の池。

[36]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic96Zdic87328507.htm艶麗な色彩。美な文章。美な衣服。

[37] http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8Zdic87ZdicB3230893.htm畢竟。

[38]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8EZdicBB30210.htm「去天尺五」のこと、きわめて高いところをいう

[39]http://www.zdic.net/cd/ci/1/ZdicE4ZdicB8Zdic80330425.htm一律。

[40]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicB5ZdicA438807.htmの赤いの赤い

[41]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicB1Zdic88133261.htm屈戌とも。窓、衝立、箪笥などの

[42]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE9Zdic9BZdic95125912.htm菰の

[43]http://baike.baidu.com/view/6255.htm曹植。

[44]http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE5Zdic85ZdicAB91009.htm八斗才」は、才が高いことのたとえ。

[45]擬音語。トントン。

[46]未詳。涼州のことかもしれないが、「小」が未詳。涼州府の曲名、多くは塞の旅生活を叙述する。

[47]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8Zdic8DZdicB3201475.htm植物名。「草荳「白荳」とも。

http://baike.baidu.com/view/39830.htm

http://images.google.com/images.hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%8D%B3%E8%94%BB&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[48]山西省の県名。

[49]未詳だが、蔵経閣であろう。経蔵。

[50]http://baike.baidu.com/view/227159.htm

[51]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7ZdicA6ZdicBE162471.htm麻。·豳·七月』「黍稷重、禾麻菽麦。」ひろく作物を指す

[52]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9Zdic98ZdicB4271851.htm塞外の沙漠。塞外は寒冷なのでこう称する。

[53]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5ZdicAFZdic92217398.htm冬の響きさびしい音。

[54]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE4ZdicBAZdic9875453.htm古来。

[55]『清史稿』巻三百十一に伝がある。

[56]『清史稿』巻三百十一・哈攀龍「十三年、高宗東巡、攀龍迎鑾、命往金川、隸総督張廣泗軍、署松潘鎮総兵。出美諾溝、取撒臥山、大松林、達諸寨。分兵出馬溝右梁、察形勢、得其險要、搜截松林、賊蔽松設卡。毀其二、徑左梁山溝、斃賊數十。進克足寨、焚寨四、水城一、殺賊二十餘。尋與署重慶鎮総兵任挙合兵攻色爾力石城、挙沒於陣。」

[57]直隸天津府。

[58]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB3ZdicA513203.htm

http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB3ZdicA53099.htm

[59]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicB5ZdicA4208628.htm 

http://baike.baidu.com/view/663040.htm 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%9E%E3%83%80%E3%83%A9_(%E3%83%98%E3%83%93) 

[60]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic82ZdicBC275214.htm道家自身の体を修することをいう

[61]大いに笑うさま。

[62]涙がはらはらと落ちるさま。

[63]しとやかで美しいさま。

[64]楽しみを享けるのを控えること。

[65]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic82ZdicAC182584.htm

[66]清雍正四年(千七百二十六年)壬子癸丑科の懐蘭県令、献令、京郊遊巡使にぜられた。清·乾隆四年(千七百四十年)江西広信、上、九江、南康四郡察使(道台)となった。

[67]湖北徳安府の県名。

[68]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE5Zdic84Zdic9221780.htm元、明、清代に各府、州、県に設立された生員がする学校。

[69]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE7Zdic88ZdicB672153.htm「父母官」は、州県の地方官をいう。

[70]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic88ZdicB628469.htm宋代の安使、制置使、明清両代の督は、「制府」と尊称されたZDIC.NET 典 网》

 

[71]http://baike.baidu.com/view/33243.htm

[72]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA6ZdicB98645.htm跛行することをいう。夏の禹が治水するとき労苦のあまり病となり跛行していたためという。また道士が法術を行うときのきかた

[73]『論語』憲問第十四「子路宿於石門晨門曰、奚自晨門者人也。子路曰、自孔氏。曰、是知其不可而為之者與。包曰、言孔子知世不可為而強為之。」

[74]『後出師表』

[75]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7ZdicABZdic8B173561.htm修身して天命じること

[76]隠れるさま。

[77]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic9CZdic81176364.htm省城のこと。

[78]http://baike.baidu.com/view/162472.htm皇帝と各級官吏が定期あるいは不定期に監獄を巡視し、冤罪を防ぐ司法制度。

[79]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5Zdic96Zdic84114672.htm浄土

[80]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic83Zdic95166558.htmはっと悟るさま。zdic.net 漢 典 网】

 

[81]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic97ZdicB8278152.htm閘官は閘門を管理する官吏。

[82]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8Zdic80Zdic83287569.htm一定の基準にしたがって官吏の成績考査すること。

[83]『毛詩』大雅・抑

[84]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9Zdic9BZdicB7264532.htm雷神が雷を起こすのに用いるとされる道具。形が斧楔に似ているのでかく称する。

[85]原文「律重主謀」。未詳。とりあえずこう訳す。

[86]直隸河間府。

[87]光緒十年『畿輔通志』巻百八十一参照。

[88]恬淡としたさま。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB3Zdic8A2941.htm

[89]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD23733.htm仏教色、声、香、味、触、法。「六根」と接し、心を汚し、煩悩を致す。

[90]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE4ZdicBAZdic86.htm」は「おしまいにする」という意味か。

[91]http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE4ZdicBBZdic8119123.htm民や生物を愛護すること。

[92]原文「仁民愛物無窮事」。「無窮事」が未詳。限りなく人民生物を愛するということか。

[93]http://baike.baidu.com/view/99137.html学説、極端個人主義提倡、墨子功利主、利他主思想反動であるとされ、孟子はしばしば両者せてじているという

[94]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9CZdicA0189323.htm原文「眠花藉柳」。妓女に親しむことのたとえ。

[95]原文「意中終隔一膜耳」。未詳。とりあえずこう訳す。本物とはやはり違うということを言うか。

[96]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic8FZdicA1163420.htm男女の合をさす。

[97]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic9FZdic8B105667.htm美女を埋葬することをいう。

[98]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic88ZdicAB292177.htm原文「別鶴離鸞」。「別鶴」とも。離散した夫婦の喩え。

[99]原文「一曲伸臂頃耳」。未詳。とりあえずこう訳す。

[100]原文「倚翠偎紅」。http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic80Zdic9A294013.htm

女性と親しむことのたとえ

[101]はっと悟るさま。http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6ZdicB4Zdic92290134.htm

[102]直隸河間府の県名。

[103]卷九 如是我聞三、卷十四 槐西雜志四(原注:先生於余為真從表姪、然幼時為余開蒙、故始終待以師禮。)および卷十八 姑妄聽之四にも見える。

[104]直隷天津府の県名。

[105]直隸河間府の県名。

[106]http://baike.baidu.com/view/213236.htmの人。無鬼をとなえていたことで有名。

[107]、陽二気。http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE4ZdicBAZdic8C292303.htm

[108]http://www.zdic.net/cd/jd/8/ZdicE5ZdicB1Zdic88217551.htm退。

[109]未詳だが、金属が鳴る音であろう。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE9Zdic93ZdicAE.htm

[110]巻六・二十一にも出てくる

[111]張載『正蒙』太和第一「鬼神者、二気之良能也。聖者、至誠得天之謂、神者、太妙應之目。凡天地法象、皆神化之糟粕爾。」

[112]『左·』荘公十四年「妖由人也。人無衅焉、妖不自作。」

[113]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE8ZdicB8Zdic8F319483.htm「蹋青」とも清明前後に野を遊覧する習俗。清明節を踏青節という

[114]仁。まごころ。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE6Zdic81Zdic95.htm

[115]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicA1Zdic82215448.htm

科挙合格した人の名簿。

[116]田中儀。字は無昝、号は白岩、人田雯の子、徳州の人。歳貢生、鑾儀衛経歴となる。詩詞好み、『書斎詩集』がある。

[117]雲南。

[118]貴州。

[119]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE8ZdicB7ZdicAF.htm『五朝名臣言行』巻七に見える范仲淹の言葉。路」は宋代の行政区画。http://baike.baidu.com/view/2690815.htm#1 

[120]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8Zdic88Zdic8D312111.htm陳雲亭は未詳。舎人は官名。舎人のこと。

[121]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9ZdicA9ZdicBF336941.htm公文、信を伝える人。

[122]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7Zdic90Zdic85133761.htm音が清朗であるさま。

[123]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicA6Zdic84184589.htm人生利禄命運。

[124]未詳。

[125]に見える。

[126]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB3Zdic9563945.htm道士する尊称

[127]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic8BZdic9C136460.htm鬼神にする祈祷文。ここではそれを鬼神に捧げることであろう。

[128]http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&source=hp&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8C%97%E4%BA%AC%E5%B8%82%E5%B4%87%E6%96%87%E5%8C%BA%E5%B9%BF%E6%B8%A0%E9%97%A8&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[129]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic96Zdic87139906.htm、公文。

[130]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicABZdicA0192730.htm臣僚が皇帝にする

[131]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic85ZdicB581280.htm将兵を動かすときに用いる凭

[132]http://www.hudong.com/wiki/%E6%9C%B1%E5%AD%90%E9%A2%96

淮南運使になった。http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicBFZdic9051077.htm

運使は官名。水運使、運使、運使等の称。

[133]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5Zdic89ZdicA829507.htm音が響くさま

[134]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE8ZdicB4Zdic9D237587.htm貝を飾りにした宮闕。本来は河伯が居る龍宮水府、後に壮室をいう。

[135]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7Zdic90ZdicBC218147.htm「璚楼」とも。美な建築物。文の中で仙中の楼台をさす。

[136]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8Zdic80Zdic8685448.htm徳の高い老儒。

[137]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicB0ZdicBC215192.htm孔子。

[138]『史·孔子世家』「古者『』三千余篇、及至孔子、去其重、取可施于礼、上采契、后稷、中述殷、周之盛、至幽、之缺……三百五篇、孔子皆弦歌之。」

[139]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE5ZdicBEZdicAE301584.htm「微言大とも微言は、精深微妙な言辞。大義は、『』、『』、『礼』、『諸経に関する要。後に精微な言に包含されている深奥な意

[140]原文「篤溯淵源」。「篤溯」が未詳。とりあえずこう訳す。

[141]原文「斯文未改」。http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic96ZdicAF327279.htm

「斯文」は「この文」、ここでは経書の文のこと。「斯文未改」は未詳。文脈からして、「あたらしい学説が出なかった」ということか。

[142]十三経の注疏。

[143]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6ZdicB1ZdicB2906.htm古籍、古物を研究あるいは収蔵すること。

[144]「廡」は壁がついた回廊。

[145]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6ZdicB2Zdic88326539.htm沈香木檀木。

[146]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7ZdicBBZdic8F206740.htm経書意義

[147]原文「総聴其自貯名山」。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic8D89727.htm「名山」は永くえるべき書物をおさめる所。

[148]http://www.zdic.net/cd/ci/1/ZdicE4ZdicB8Zdic80330087.htm事物の始まりをいう。

[149]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE6Zdic96ZdicA1162156.htm運行すること

[150]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicB0ZdicA477724.htm氤氳に同じ。陽二気の交会和合の状をいう。

[151]原文「然必伝是学者始聞之」。「必伝」が未詳。とりあえずこう訳す。

[152]原文「焚膏継晷」。http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7Zdic84Zdic9A67777.htm

膏は油脂、灯燭を指す。晷は日光。灯を点して、日光に繋げること。勤勉に工作あるいは読書することをいう

[153]未詳だが、殿閣・廊廡であろう。廡は壁つきの回廊。

[154]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA4ZdicA734114.htm輅は美な大。椎輪は条のない原始の車輪

[155]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8ZdicBFZdicB7246597.htm

http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8ZdicBFZdicB7305979.htm迷妄の世界をいう。

[156]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicAEZdic9D133216.htm仏教。衆生を導き苦海を渡彼岸に到達させる仏法の喩え。

[157]『聴嘉陵江水声、寄深上人』「鑿崖泄奔湍、稱古神禹跡。夜喧山門店、獨宿不安席。水性自云靜、石中本無声。如何兩相激、雷轉空山驚。貽之道門舊、了此物我情。」なお、原詩の「石中本無声」は『閲微草堂筆記』では「石中亦無声」となっている。

[158]原文「宋儒所爭、只今文古字句」。「今文古字句」が未詳。とりあえずこう訳す。孝経には今文孝経と古文孝経がある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E7%B5%8C

[159]未詳だが、悟りのことであろう。

[160]前代の典籍。http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE6Zdic97ZdicA7198272.htm

[161]あるいは経義闡明した文http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE4ZdicBCZdicA0.htm

[162]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic85ZdicB060195.htm

草と艾草。蘭は香り、艾は臭い。ここでは良いものと悪いもののたとえ。

[163]『清史稿』列伝巻三百二十一列伝一百八曹文埴杜玉林王士棻「曹文埴、字竹、安徽歙県人。乾隆二十五年二甲一名進士、改庶吉士、授編修。直懋勤殿、四遷翰林院侍讀学士、命在南書房行走。再遷・事府・事。居父喪、歸。四十二年、詣京師、謁孝聖憲皇后梓宮。喪終、仍在南書房行走。授左副都御史。遷侍郎、刑、兵、工、諸部、兼管順天府府尹。軍機章京、員外郎海昇毆殺其妻、以自縊報、其妻弟貴寧爭非是。命左都御史紀ホ等驗尸、仍以自縊具獄。貴寧復爭言、海昇與大学士阿桂有連、驗不實。更命文埴與侍郎伊齡阿覆驗、得毆殺、以聞。上文埴等不徇隱、公正得大臣體。阿桂以嘗奏及語袒海昇、坐罰俸、ホ下吏議、刑部侍郎景禄、杜玉林及郎中王士棻等皆遣戍。擢文埴部尚書。復命與伊齡阿如通州督漕政、漕船回空較早、命議

[164]原文同じ。未詳。しおりの類か。

[165]中散は未詳。後ろにあるように、この故事の中に「神志湛然、鬼慚而去」という句があるらしいのだが、こうした句を持つ康の物語が何に載っているのか分からない。

[166]原文「神志湛然、鬼慚而去」。

[167]董元度。平原の人。光緒『山東通志』巻百七十参照。

[168]汪文儀。休寧の人。

[169]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic80ZdicBB207519.htm明清漕運を管する官。

[170]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5Zdic9CZdic9F319885.htm土地神。

[171]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE9ZdicA9ZdicAC91662.htm馬の平安をまもる神。

[172]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE9ZdicBBZdic8952943.htm

[173]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAC98316.htm公正な理。

[174]原文「春秋誅心」。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8ZdicAFZdic9B277881.htm「誅心」は、人の心を暴露、指摘すること。誅意とも。『後漢書』巻四十八・霍諝伝「諝聞春秋之義、原情定過、赦事誅意、故許止雖君而不罪、趙盾以縱賊而見書。」

[175]未詳だが、ものを別の場所に移動させる術であろう。

[176]目くらましの術。

[177]原文同じ。未詳。とりあえずこう訳す。「厨」は「橱」に同じであろう。

[178]原文同じ。未詳。とりあえずこう訳す。

[179]原文「理所必無、事所或有」。出典がありそうだが未詳。汤显祖『牡丹亭題詞』「第云理之所必無、安知情之所必有邪。」をもじっているか

[180]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB1ZdicB1103750.htm物怪、「山」、「山臊」、「山繅」とも

[181]原文「花架」。未詳。とりあえずこう訳す。

[182]福建永春直隸州。

[183] http://big5.huaxia.com/ly/shls/pu/00189338.html 

[184]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE9ZdicAAZdicA171253.htmを運ぶ騾馬の隊列

[185]湖南省長沙に羅洋山がある。『清史稿』巻六十八・長沙府参照。

[186]直隸河間府。

[187]景州の人。

[188]任官を待つこと。http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE9Zdic9CZdic80264671.htm

[189]延之『五君詠·中散』「翮有」。

[190]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicB7ZdicA686675.htm左徒は楚の官名。屈原の左徒になったため、屈原をさす。

[191]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicA5Zdic80183891.htm祭祀礼を記載した典籍。

[192]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBDZdicBF85427.htm命を奉じて使いに出た人。

[193]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE7ZdicA3ZdicAC347787.htm腰を曲げること。

[194]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic8BZdicB177769.htm拱手して揖し、敬意を示すこと。

[195]巻二十一『福建』に見える。

[196]山東済南府。

[197]宋来会、字は清源、清、号は秋圃、徳州の人。雍正癸卯の拔。『近思集』がある。

[198]田山姜の誤り。http://baike.baidu.com/view/154704.htm.func=retitle田雯。(千六百三十五〜千七百四)字は子、(紫とも)また霞とも、号は山姜号した。徳州の人。康熙三年(千六百六十四年)士、部侍郎に至った。『古懽堂集』三十六巻、『黔二巻、および『河志籍考』十巻がある。

[199]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic9CZdicB1333263.htm紫藤。

[200]花壇の柵。

[201]未詳だが、やさしいさまであろう。

[202]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic91ZdicA6334192.htm口から低く微かな音をするさま。

[203]『孟子』梁惠王章句上「齊宣王問曰齊桓晉文之事可得聞乎。」

[204]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic83Zdic98147823.htmぼんやりしたさま

[205]http://baike.baidu.com/view/303497.htm

[206]原文「識其路逕門」。未詳。とりあえずこう訳す。

[207]怪民」は性行が奇怪、精神が異常な人。『周礼·天官·人』「閽人、掌守王之中之禁……奇服怪民不入注「怪民、狂易。」

[208]直隸河間府

[209]未詳。

[210]http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E6%B2%A7%E5%B7%9E%E5%B8%82%E4%BB%BB%E4%B8%98%E5%B8%82%E7%9F%B3%E9%97%A8%E6%A1%A5%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl鎮名。

[211]宋・呉曽撰『能改齋漫録』卷十八・中宵牛語

[212]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicBBZdic8461321.htm野生羊の一。毛は黄白色、腹の下は黄色を帯びるので、かくいう。草原と沙漠地帯で生活する。

[213]『清史稿』列伝巻三百五「董邦達、字孚存、浙江富陽人。雍正元年、選拔貢生。以尚書勵廷儀薦、命在部七品小京官上行走。十一年、成進士、改庶吉士、授編修。乾隆三年、充陝西試考官、疏言官巻數少、以民巻補中、報聞。授右中允、再遷侍讀学士。十二年、命直南書房、擢閣学士、以母憂歸。逾年、召詣京師、命視梁詩正例、入直食俸。十五年、補原官、遷侍郎、歷戶、工、吏諸部。二十七年、遷左都御史、擢工部尚書。二十九年、調禮部。三十一年、調還工部。三十二年、仍調還禮部。三十四年、以老病乞解任、上諭曰「邦達年逾七十、衰病乞休、自合引年之例。惟邦達移家京師、不能即還里。禮部事不繁、給假安心調治、不必解任。尋卒。賜祭葬、諡文恪。」

[214]『清史稿』巻三百二十三に伝がある。

[215]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9Zdic9BZdicB6321831.htm孤独無依のさま。痩弱のさま。

[216]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAD312714.htm陽五行を用いた占いの一つ。

[217]直隸河間府

[218]未詳。

[219]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicA6Zdic84174805.htm天上あるいは冥府が人の福、禄、寿を記録する簿冊。zdic.net 漢 典 网】

 

[220]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE8ZdicAEZdicAD249954.htm学官名。明清府、州、儒学の助教

[221]直隸順天府の県名。

[222]直隸順天府の県名。

[223]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE9Zdic85ZdicAC.htm原文「而陰攜卮酒、酬其父母墓曰」。「酬」をそそいでること

[224]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic8EZdic9F10203.htm原文「『春秋』原心」。「原心」は本意を推究すること。『漢書·薛宣』「『春秋』之、原心定罪。」顔師注「原謂尋其本也。」

[225]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE7Zdic89Zdic92222920.htm公文、文

[226]『説文』「顬顬、鬼聲」。

[227]未詳。

[228]原文「則公亦有詞矣」。「有詞」が未詳。とりあえずこう訳す。

[229]未詳。印を掌管する部署か。

[230]『清史稿』巻一百三十七・沿邊墩臺、卡倫、鄂博、「其軍臺之制、始於順治四年、自張家口迤西、河迤東、設臺三百四十四座、臺軍七百三十二名。自張家口迄山海關迤西、設臺四百十七座、臺車一千二百五十一名。」。

[231]未詳だが、官公庁の発する手紙であろう。

[232]http://baike.baidu.com/view/2518.htm昌黎はいうまでもなく韓愈のこと。『原鬼』は彼の書いた文章の一つ。

[233]范家相。字は左南、蘅州。浙江会稽の人。乾隆四十九年(千七百八十四)士、柳州知府。著述は『環渌軒詩鈔』、『三家』、『詩審』等。

[234]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9Zdic97ZdicAE265284.htm僧尼が人に向かって合掌し、敬意を示すこと。

[235]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic9FZdicB3184733.htm

商人尤某が石氏の女を娶り、仲睦まじくしていた尤が行して帰らなかったとき石は思い患って病になり、死にんで「あのかたが行くのを阻めず、事ここにいたった。商人が遠くへ行くときは、わたしは大風になって天下の人のために阻もう。」じたという話が元伊世珍『琅嬛』の引く『江湖紀聞』に見え、後に逆を「石尤」と称するようになった。『琅嬛』引『江湖紀聞』「石尤風者、伝聞爲石氏女、嫁爲尤郎婦、情好甚篤。爲商遠行、妻阻之、不從。尤出不歸、妻憶之病亡。臨亡長嘆曰、吾恨不能阻其行、以至於此。今凡有商旅遠行、吾當作大風、爲天下婦人阻之。自後商旅發船打頭逆風、則曰「此石尤風也。遂止不行。婦人以夫姓爲名、故曰石尤。由此觀之、古時仍有尤姓也。近有一榜人自言有奇術、恆曰、人能與我百錢、吾能返此風。人有與之、風果止。後人云乃密書「我爲石娘喚尤郎歸也、須放我舟行」十四字、沈水中。」

[236]http://baike.baidu.com/view/9950.htm詩人。李敬業の乱の時、敬業のために檄文を起草し、敬業が敗れると行方不明になったが、僧となって銭塘の霊隠寺に住んでいたともいわれる。

[237]直隸保定府

[238]州知州。字は有虔、号は毅亭、直隶保定府清苑(今属河北)の人。清雍正八年(千七百三十)士、乾隆三年(千七百三十八)と八年(千七百四十三)二度州知州となり、『州志』を主修した。信陽知州、光州知州を任し、懐慶府知府を代行した。『州大辞典』参照。

[239]戈源。戈源(千六百三十六〜千六百九十)、字は仙舟、献乾隆十九年士、太僕寺少卿

[240]狄仁傑。梁国公に封ぜられた。http://baike.baidu.com/view/21940.htm『新唐書』卷一百一十五・狄仁傑「楚俗多淫祠、仁傑一禁止、凡毀千七百房、止留夏禹、太伯、季札、伍員四祠而已。」 

[241]范仲淹。http://baike.baidu.com/view/5465.htm『宋史』卷三百一十四范仲淹「帝惻然、迺命仲淹安撫江、淮、所至開倉振之、且禁民淫祀。」。

[242]銭維http://baike.baidu.com/view/181846.htm

[243]人材推薦するhttp://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic8DZdic90203919.htm

[244]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE9Zdic98ZdicB3275581.htm時、輿家が活きている人の住宅をこう称した。墓地を宅というのと相対する

[245]http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&source=hp&q=%E7%B2%89%E6%88%BF%E7%90%89%E7%92%83%E8%A1%97&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl粉房琉璃街。現存。

[246]未詳。

[247]『京坊巷志稿』西珠市口大街「即南大街。井三。中城副指署在南、衙署。有珠市汛。迤西西柳井、井一。北有万善孤寺。」

[248]曹学閔。字は孝如、号は慕堂。汾陽の人。乾隆十九年進士。官は宗人府府丞。『皇清書史』参照。

[249]雍正元年(千七百二十三)癸卯恩科進士。陰の人。大名府教授

[250]劉統勳http://baike.baidu.com/view/79431.htm

[251] 原文「卜地見書、卜日見禮。」。『尚書』・召誥「成王在豐。欲宅洛邑。使召公先相宅

。作召誥。召誥。惟二月既望。越六日乙未。王朝 自周。則至于豐。惟太保先周公相宅。越若來。三月。惟丙午朏。越三日戊申。太保朝至于洛。卜宅。厥既得卜」。『周禮』大宰「帥執事而卜日」。『周禮』肆師「凡祭祀之卜日」。

[252]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE6Zdic9CZdicAF93737.htm儒生。占卜、星相等を職業としている人。

[253]光緒十年『畿輔通志』巻二百三十六に伝がある。

[254]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic9DZdic92324857.htm青衿。明清の秀才の常服。

[255]張世鈿。鎮海の人。

[256]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicBBZdicAE206812.htm

綺羅を着ている人。多くは貴婦人、美女の代称。

[257]陳孝泳。http://baike.baidu.com/view/2556215.htm

[258]江蘇松江府の鎮名。

[259]蔡以台。http://baike.baidu.com/view/1427521.html

[260]『明史·劉大夏』「人生蓋棺定、一日未死、即一日憂責未已。」

[261]『宿梅溪胡氏客館観間題詩自警二』。

[262]依々たるさま。

[263]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9ZdicACZdicBC257255.htm

餓鬼道http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9ZdicACZdicBC257255.htm

 

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