右台仙館筆記/巻十五
譚麗生[1]は、名を鑫振といい、湖南衡山の人であった。光緒庚辰[2]、第三位で及第した[3]。辛巳[4]の年、杭州にゆき、湖南会館に住んでいた。四月上旬、韜光[5]に遊んで帰り、病を得たが、数日してやや癒えたので、出発しようとした。大きな字を書くことを求める人がいたので、書いていると、突然胸が痛み、血を数升吐いた。このようにすること五六日、一物を吐きだしたが、長さは六七寸で、何か分からなかった。そして日に日に衰弱したので、かれの同年の徐花農[6]庶常は、毎日見舞いにいった。二十三日になると、花農の手を執り、嗚咽して涙を流し、あらかじめ挽聯[7]を求め、さらに像賛を作らせ、ならびにかれの九歳の子が臨書した『玄秘塔碑』[8]を花農に授け、遺児を託する思いをかすかに寓した[9]。翌日、また会いにゆくと、すでに絶命しようとしていた。臨終に酒を求めたので、かれのおいが手ずから三爵を進めると、すべて飲み干した。花農は一爵を進め、さらに泣いて言った。「お子さんを見ることは、自分の子以上にはできないことでしょう[10]。」やはり飲み干し、瞑目した。生死の際、精神は乱れなかったが、やはり夙根[11]のあるものだろうか。もしや前世で霊隠[12]の老僧であったので、韜光に一遊し、その本宅に帰ったのか。麗生が杭州に来た時、わたしはたまたま湖畔の兪楼[13]から呉中の春在堂に帰ろうとしていた。すでに舟に乗っていたが、麗生はそれを聞くと、にわかに肩輿に武林門から出るように命じ、わたしの舟に来、後進の礼で会見した。わたしは答拝する暇がなく、ふたたび呉中で会うことを約したが、かれの毀璧摧柯[14]は、このように早かった。聞けばかれの人となりは、ひろく交遊し、翰墨にくわしく、一生の心血をそこに消費していた。山木はみずから寇り[15]、膏火はみずから煎じ[16]、「君の馬を殺すは道傍の児」[17]で、ほんとうに嘆かわしかった。花農の手紙が来、くわしくそのありさまを言い、そのため衋然[18]とした。わたしはたまたま筆記第十五巻を草したので、記した。
湖北咸寧の余家に一人の下女がおり、女主人に可愛がられ、妾にしようとするものがいても、承諾しなかった。その農村の余翁は、いささか田地を持っており、やや衣食が足りていたが、年は四十を越えて子がなかったので、妾を買うことを計画した。しかし妾を買う値が騰がっていたので、妻を娶ることの方が安上がりでよかった。余家の下女がたいへんよいこと、さらにその主人が代金を求めないことを聞いたので[19]、妻を娶ると偽って余家に頼んだ。余家は一目その人を見ようとしたが、余翁はみずからが年老いているために、意に合わないことを恐れ、その兄の子をゆかせたところ、承諾した。結婚すると、下女は新郎を見ず、降り返ると一人の老翁が部屋におり、しばらく坐して去らなかったので、たいへん厭に思った。坐して丙夜となると、下女は我慢できず、翁に言った。「夜がすでに深けましたのに、ご老人はどうしてこちらにながくお坐りなのでしょう。」翁は答えられず、去りもしなかった。しばらくすると、下女はまた促し、翁は出、その正妻に命じて本当のことを告げさせた。妻は入り、みずから嫂と偽り、下女に言った。「あなたはどうして知らないのですか。このご老人がお婿さんです。」下女は言った。「違います。婿が以前主家に来たのを、わたしは見ました。」正妻は言った。「それは翁の兄の子で、翁があなたの家にゆかせてあなたを助けさせただけです。もしやあなたの主人はこれであなたを欺いたのでしょうか。」下女は惘惘[20]として事情が分からず、すでにこちらに来、主家からも遠いが、どうしようかと思った。そして従った。数日すると、下女は嫂といっていたものが、しばしば部屋におり、その夫とたいへん親しんでいるのを見、訝って言った。「嫂と義弟の間でこのようにするのでしょうか。」その後、さらに人がかれの夫を龍爺と呼び、嫂を呼ぶ時は龍媽というのを聞いたので、夫に尋ねた。「どうして龍爺と呼ばれているのです。」翁は言った。「龍はわたしの幼名なのだ。」「だとすればねえさんが龍媽と呼ばれるのはどうしてでしょうか。」翁は答えるすべがなかった。下女が詰問すると、翁はやむをえず、真実を語った。正妻はおだやかに語り、言った。「実はあなたを騙したのです。これからはあなたたち二人が夫婦となってください。わたしは嫂になりましょう。」下女は言った。「いけません。どうしてわたしのために、あなたがたの夫婦の関係を奪うべきでございましょう、龍爺はわたしの主人で、龍媽はわたしの女主人です。」その夫に仕えてたいへん恭しくし、その正妻に仕えてたいへん謹んでいた。後にその主人余家はそれを聞き、かれが自分を欺いたことを怒り、下女を帰してその婚姻を絶とうとし、下女は承知しなかったので、病気になった。下女はすぐ一子を産み、余翁夫婦はたいへん喜び、三日の洗児[21]、祝い客が座に満ち、賀得と名づけた。しかし家に人は増えたが、連年の凶作であり、余翁も老いて病み、医薬が必要だったので、たいへん困窮した。農繁期にも、作男を雇えなかったので、下女は子を正妻に委ね、みずから農具を執り、南畝[22]に従事し、暑雨祁寒[23]、すこしも休息しなかった。まもなく余翁が死ぬと、葬儀を営み、まったくおろそかにしなかった。ほどなく正妻も死ぬと、下女は言った。「主人と女主人は同じで、どうして違いがございましょう。」やはり同じようにした。つづけて二人の死に遭い、薄田数畝の半ばは人に売り、衣食が不足しそうであった。さいわい賀得は成長し、母を助けて力作したので、数年の後、やや余裕ができた。そしてあらかじめ一人の童女を家で養っていたのを、その子に配した。賀得は年が十七八で、合卺の礼を行い、酒食を整えて親戚友人を集めようとしていたが、結婚の日が来ないうちに、敵襲警報が来た。当時、粤寇[24]はすでに武昌を陥れ、兵を分けて四方に出させ、咸寧も陥り、騒ぎは農村に及び、賀得は結局攫われた。そこで養われていた娘はふたたび実家に帰った。実家が絶縁を願うと、下女は言った。「三年を期限とし、わたしの子が帰らなければ、嫁がせましょう。」その後、人はみな藉藉[25]とし、賀得はすでに死んだと言った。下女はひねもす泣き、さらに病んで耕作に当たれなかったため、食を得ることできなかった。たまたまかれの元の主人の余母呂宜人は、河南でその婿樊君に頼ろうとしていたので、汴梁に連れてゆき、下女は樊家に住んだ。その人がらはきわめて温和で、儕輩はみなかれを愛していたが、かれは子を思うことがきわめて切実で、しばらくすると精神病のようになった。一人で臥したり、人とともに坐したりしていると、しばしば目を瞠って直視し、「賀得が来た。」と言った。臥していてもかならず跳ね上がり、起きてその子が見えなければ、泣き叫び、かならず気絶して地に倒れ、しばらくすると正気づいた。その後、また咸寧から来たものがおり、以前養っていた娘がすでにその実家によって嫁がされたと言ったので、またたいへん悲しみ、病が篤くなった。臨終の時、「賀得が今日本当に来ている。」と大声で叫び、絶命した。そこで人々はみな賀が実は死んでいるのだ、かれの母が臨終の時に見たのは、きっとかれの幽鬼であろうと言った。しかし賀得は実は死んでおらず、下女が死んで数年で、賀得は賊の中から逃れて帰ってきたので、樊家は資金を与え、その母の遺骸を帰葬させた。賀得は後に金陵の人の娘を娶ったが、そもそもかれも賊が湖北に攫っていったもので、夫婦はいずれも勤勉で、家もまた暖衣飽食し、さらに数人の子を生んだ。このことをわたしは長男の嫁樊家から聞き、そもそも下女の主人呂宜人は、息子の嫁外祖母で、わたしはかれのために『余母呂太宜人伝』を作った者であったので、たいへんくわしく知っていたのである。この下女は賢く、さらに老いた節婦であったが、その命運にはなんと不幸が多かったことか。しかし賀得の子若孫は、その余沢を蒙っているから、落魄に到らないことは、もとより決していよう。
湖北咸寧の農村のある民家で、兵乱の時にその子がいなくなった。人がかれの母に教えて言った。「お子さんが着けていた履をとって牀の下に置きなさい。その絇[26]を内に向け[27]、毎晩お子さんの名を呼べば、お子さんはかならず帰れましょう。」その後、ほんとうにそうなった。また二男の嫁の姚氏が言うには、昔、兵を農村に避けたが、その地は周家湾といった。隣家の一子は賊に攫われていったが、やはり人がおり、その母に教え、四十九の家の灯油、灯草を貰い、夜になって燃やし、人が静まった後にその子の名を四十九回呼ばせた。毎晩このようにし、声はたいへん凄絶であった。数ヵ月後、子ほんとうに賊の中から逃げ帰り、みずから言うには、毎晩かれの母が自分を呼ぶ声を聞いたとのことであった。しかしその子はすでに江蘇丹徒県境におり、七八百里隔たっていた。そもそも母子は気を同じくしているので、おのずと感通できるのである。山が崩れ、鐘が鳴るのは、もとより嘘でない[28]。
咸寧の樊君は、わたしの親家翁玉農太守の一族であった。広東に宦遊し、在任中に亡くなった。その子は不肖で、かれの父の柩を僧廬に預け、その資産をすべて取って去り、行方が知れなくなった。数年を経た後、樊君の外弟[29]が用事で広東にゆくと、樊が夢に現れて言った。「わたしの子は不肖で、わたしを棄てて顧みず、わたしの柩は某所にあって帰葬できない。今さいわいあなたが来たから、いっしょに帰ることを願う。」翌日、その外弟が尋ね、ほんとうにその柩を見つけたが、思えば道路の費用もなかなか少なくないので、なお躊躇していた。また夢みると樊が促したので、外弟は言った。「輀車[30]がとおく旅することは、たやすいことではありません。あなたの柩を開き、別に小さな棺を作ってあなたの骨を入れ、故郷の墓に帰葬するのは、よろしいでしょうか。」樊は言った。「よい。」ゆくに臨み、また夢を見たところ、言った。「関所や橋梁および高い山や大きな川を通る時は、わたしの姓名を呼べば、滞りがないだろう。」外弟はすべて従った。家に着こうとすると、樊は一晩前にその家人の夢に現れて言った。「わたしは外弟に従って帰る。」これを見れば、狐が死ぬとき首を故郷の丘に向け[31]、葉が落ちて根の肥やしとなる[32]のと同じであることが分かる。延陵[33]が贏博[34]に葬ったのは、達人の高見だが、孝子慈孫はもとよりこの心を持つことは許されない。
咸寧の余家の娘は嫁いでから死んだ。その母は寡婦で、老いて病んでいた。粤寇が来ようとしていたので、家を挙げて倉皇としてよそへ移ることを謀った。その母が夜にひとり部屋に坐し、ふと見ると、その娘が来、母に言った。「いたるところに烽煙が騰がっているのに、どちらへゆかれます。お母さまも多病で、奔走するのに堪えませんから、旅路に流離なさるのは、死の楽しいのに及びません。」その母は言った。「ほんとうにそうだ。自らに尋ねたが、生きていて何の楽しみがあろう。おまえについてゆけるなら、願うところだ。」隣家の人は、みなその母の独り言を聞いていたが、娘の言葉は聞こえず、ただ幽鬼の声が[ジュジュ][35]としているのが聞こえるばかりであった。翌日、その母に昨晩何を言っていたかと尋ねると、母は事情を告げたが、なお信じなかった[36]。数日後、その母は結局死んだ。
亡祖母戴太夫人の侄孫[37]駿伯茂才は、はやくに亡くなった。かれの妻張氏は一人の娘を産んだが、慰生といい、蔡家に嫁いで死んだ。戴はもともと徳清の人であったが、湖州に引っ越して数十年であった。咸豊庚申年[38]、粤寇が郡城を侵すと、戴氏はよそへ移ることを計ったが、張はためらった。夜になると、突然慰生が大声で叫んで言った。「はやく去ってください。はやく去ってください。」このようにし、数晩すべてそうであった。張氏はそこで決断した。これは余家の娘と心がけがはるかに異なっているが、その母が衰えていることと壮んであることが同じでなかったことによっているだけであろう。しかしその後、趙忠節公[39]がつとめて湖州を守ると、住民もすこしまた集まり、張氏はふたたび城内の旧居に戻った。湖城が陥ると、結局戦災で死んだが、惜しむらくは、結局、その娘の言葉に従わなかったことである。
咸寧の樊家の娘は、李家の子と婚約したが、結婚して一日で、その婿が大病したので、婿の家は結婚の期日を改めることを願った。時に娘の父はとおく他郷に旅しており、娘の母もはやく亡くなっており、兄弟数人がいたものの、みな母が異なっていたので、すこしも顧みなかった。娘はそこでみずから主導して言った。「すでに婚約していますので、もとよりほかの縁談はございません。婿どのに不幸があっても、嫁にゆこうとしますのに、病だけなら、何の障りがございましょう。やはり期日通りになさってください。」そこで疎略に儀式をおこなった。儀式が終わると、婿はたいへん疲労していたが、さいわい娘はよく仕えた。さらに数年後、二子が生まれると亡くなった。娘は独居して操を守り、かれの二子を育てた。しかしその舅は人でなしで、娘が若く美しく、嫁がせれば豊富な結納を得られるので、かれに志を変えさせることを謀った。娘はその謀りごとを知ると、逃れて実家に帰り、その実家のことをすべてそのおじに委ねた。おじは言った。「おまえのお父さんは家産をわたしに託したが、収入は支出に足りない。今、また人が増えたら、どうするのだ。」女は言った。「もちろんですが、わたしも坐して食らう者ではございませんから、おじさまにわたしを雇い人にしていただくのは宜しいでしょうか。」そこで朝晩力作したが、その子を顧みる暇がなかったので、一子は夭折した。後にその実家は日に日に没落し、女は自給自足してその身を終えた。わたしの長男の嫁はこの娘と族昆弟[40]なので、わたしは聞くことができた。身寄りのない貧しい寡婦、煢煢たる白髪頭のことを、ひとまず筆記に残し、幽光[41]が滅びないことを願う。
わたしの長男の嫁樊氏の乳母劉氏は、河南中牟[42]の人であった。湖北の興国州に嫁いだが、その夫と子はいずれも以前に亡くなり、つねに樊家にいた。時にわたしの親家[43]翁玉農[44]太守が河南府を治めており、よく待遇し、かなり貯蓄があった。すると突然、某甲が湖北から来、みずから夫の弟の子であると言ったが、親戚が疏遠であるため、もとより調べられなかった。しかしかれが劉に仕えるさまは、たいへんまめまめしく、病んだところを摩ったり痒いところを掻いたり、衣の暖かさを尋ねたりし、実の子も及ばないものがあった。劉はたいへん喜び、子にしようとした。劉には妹がおり、やはり樊家に雇われていたが、劉に言った。「昔、主人には実の弟の子がおり、わたしは夫が亡くなりましたのでいって頼りましたが、門外で朝まで哭いても、収容、救済されませんでした。今、この人は姉さんと疏遠ですのに、何となれなれしいことでしょう。これはきっと信じられません。姉さん。餌食になられないでください。」その後、甲が来て劉と語る時、その妹はかならずいって加わり、その話を尽くさせなかった。たまたま劉が病むと、甲は外に家を借りてやったので、劉は主人に言い、外戚に身を寄せて養生した。妹がやはり阻むと、劉は言った。「人はもとより同じでない。おまえはこの子をおまえの夫の兄の子のようだと思おうとするのか。この子はわたしにたいへん手厚くし、わたしにも子がいないから、かれに従って去らなければ、さらにどこへゆこう。おまえ。わたしを阻まないでおくれ。後日かならずおまえの厄介となるまい。」妹はどうしようもなく、劉は甲に従ってともに去った。甲は親しくしている婦人がいたので、かれを妻とし、劉とともに住み、母子嫁姑となった。そしてすこしずつ蚕食し、劉の貯蓄が尽きると、偽って劉を某所にゆかせて医者に診察してもらわせ、晩になって帰れば、甲夫婦はどこかへいってしまっていた。劉は傫然[45]として一身となり、結局その妹に頼って亡くなった。ああ。羊肉は蟻を慕わないが、蟻は羊肉を慕い、酢は蚋を慕わないが、蚋は酢を慕う。劉氏は愚かな婦人で、もとよりこのことを知るに足りなかった。しかしかれの妹はなんと智恵があったことか。三たび肱を折れば良医を知る[46]というのは、本当である。
仁和唐栖鎮[47]の農村に沈氏というものがおり、なかなか資産を持っていた。二人の娘を生んだが、男子はいず、族人の子を嗣子とした。父母はともに約して言った。「持っている田宅を、すべて嗣子に与えよう。その銀銭、衣服、骨董の類は、二人の娘で分けよう。」そこで長女はひそかに、妹がいなくなれば、すべて自分のものになろうと考えた。ある日、妹と楼を下っている時、後ろから推し、楼の下に落として死なせ、妹が足を滑らしたことを告げた。その父母ははじめ異変があることを疑わなかった。長女は後に労氏に嫁ぎ、子を生んだが、数年するとかならず死んだ。かれの第五子が死ぬと、妹が憑いて以前のことを言ったので、子の死は、すべてその妹が祟っていたことを知った。後にまた一子を挙げたが死に、第七子になると、恙なかった。あるいは労氏はなお跡継ぎがなくなるべきでなかったので、その血脈を延ばしたか。しかしその子は清狂[48]で賢くなく、あらゆる財物は、すべてかれによって手当たり次第に散ぜられ、十年足らずで費消せられた。その後、この子は、死ぬ一日前、床屋を呼んですべてその髪を剃らせたが、これも怪しかった。さらに、聞けば、かれにはなお二人の娘がおり、一人はもっとも可愛がっていたが、嵇氏に嫁ぐと、やはり奇病を得て死んだという。
胡氏は、湖北の人、もともとは妓女であったが、後に水商売に飽きたので、かれが生んだ娘を劉某に嫁がせ、いっしょに住んでいた。胡はなかなかに貯えを持っており、劉夫婦はよく仕えていた。数年足らずで、胡の貯えはすべて劉に帰属したので、劉は心が日に日に怠り、しばらくすると女も傲慢になり、あまり母を顧みなくなった。胡は老いて病み、牀褥で疲弊していたが、結局訪問せず、飲食もしばしばは得られず、医薬はなおさらであった。胡は憤り怨んで死んだ。後に劉が産んだ男女は、いずれも数年すると死に、死ぬ時にかならず言った。「お婆さまが来ました。」お婆さまとは、その子女その外祖母をいっているのであった。そこで胡が祟っていることが分かった。これは沈女のことと似ている。伝[49]に「子は身の貮なり」という。報いがかれの子女にあったのは、報いがかれの身にあったようなものである。
唐西鎮[50]の王家の二人娘は、いずれも姚家と婚約していたが、父母をともに亡くし、頼るものがいなかった。一人の娘が婚約していた姚家は、もともと王家と繋がりがあった。そもそも姚家の姑は娘の父にとっては母方のおじの子で、外兄妹[51]なのであった。そこでまずはその娘を娶り、姑の実家で養ったが、実際は娘の祖母の家であったので、親族に囲まれ、娘はたいへん安穏であった。もう一人の娘が婚約していた姚家は、まったく瓜葛がなかったが、やはりそうすることを願った[52]。王家の長老は承知せず、言った。「世俗に童養[53]の慣例があるが、貧家がそうしているだけだ。衣冠[54]の一族は、そのようにするべきでない。」しかし姚家がつよく願ったので、承知し、夫の家で結婚を待たせた。はじめて来た時はたいへん睦まじくしていた。しかし姚には娘がいて讒言をなすことに巧みで[55]、その姑はその娘の言葉を聞き入れ、厭悪嫉妬し、しばらくするとますます激しくなった。後に寇難[56]を避け、たまたま徳清の蔡家の娘に会うと、気に入り、招いて子の妻としようとしたので、この娘を追い、実家に帰らせた。媒妁を遣わして王家の長老に、娘が懶惰であったので、離婚したと告げさせた。するとにわかに姚家の子が急病になって死んだ。死んだ日、その姚家の妻で、娘の父と外兄妹のものが見ると、娘の父が外から来、呼んで言った。「二妹、わたしはすでに毛毛を捕らえていったから、つつしんでお知らせしよう。」毛毛とは、姚家の子の幼名であった。そもそも結婚を絶ったものの、命を損なわなかったのだから、にわかにその婿を殺すべきでないようである。さらに讒言でその娘を陥れたのは小姑であったのだから、婿に何の罪があろうか。しかし、世間では童養女[57]がしばしば虐待されている。そもそも娘でありながら夫の家で結婚を待つことからして、その孤独は知れる。憚るものがいないので、凌虐するのである。舅姑は、もともと骨肉でないし、小姑たちは、きそって讒言する。飲食に事欠くにいたり、鞭棰うちはいたるところつねにあり、恨みを含み、声を呑み、多くの人の手を経て死ぬことは、よくあることである。王家の娘の父がその婿を殺したのは、神にお願いすることができたからかもしれない。かれが姚家の妻を呼んで告げたのは、そもそもこれを借りてかれを戒めたのである。ああ。風俗は浮薄であり、人心が浅薄であるので、鬼神のことは、もとより政教の及ばないところを補うに足るものがある。
洛陽の県令秦某は、公務で汴梁にゆき、長期滞在して帰らなかった。かれの妻は役所に、娘および婿とともに住んでいた。にわかに秦が汴梁で大病したので、妻はいってみた。妻にはもともと一人の下女がおり、愛すること娘に等しく、居所はかならずともにしていたが、この時は倉卒として連れてゆく余裕がなかった。この下女は官署に留まっていたが、婿はしきりにかれを使役した。娘はかれが私通していることを疑い、下女を殺そうとし、下女が熟睡しているのを窺い、鋏で刺したが、力が弱く、にわかにその喉を断てなかったため、ながいこと抉り、下女は血肉が散乱して死んだ。すぐに納棺し、担いで野外に置いた。秦の妻が帰ると、家人はみな会ったが、この下女だけは見えなかった。尋ねると、女は急病で死んだことを答えた。かれの傍らに長じる橙(都ケ切、幾橙。『広韻』四十八嶝に見える)があり、突然起きて人のように立ち、さらに数歩進んだ。ともに驚いていると、一人の若い下女が泣いて秦の妻の前に跪き、言った。「奥さまはご存じないのでしょうか。わたくしは死に、死ぬ時はたいへん苦しゅうございました。」秦の妻は驚いて言った。「おまえは××か。」「はい。」そしてくわしく事実を語り、さらに言った。「若だんなさまも、主人でございますから、用事があれば、従わないわけにはまいりません。密通の有無は、もとより知れません。わたしに関しましては、職分に従って仕事していましたもので、ほんとうに他意はございませんでした。それなのに調査を加えず、すぐに毒手を施し、睡眠中に、ほしいままに切り殺されました。人を殺した者は死刑になり、王法を逃れても、どうして冥罰がないでしょう、今すでに神さまにお願いすることができましたから、かならずあのかたの命をお取りしましょう。」秦の妻は撫でて泣いて言った。「おまえはほんとうに苦しかったが、わたしは普段おまえを薄からず待遇していたのだから、どうかわたしに免じて、娘を許しておくれ。」下女は言った。「それはもとよりできません。しかし、奥さまの前でお嬢さまに非礼を加えようとはいたしません。ただ、一たびお膝元を離れれば、もはや我慢することはできません。」そう言うと地に倒れ、扶け起こしてまた尋ねれば、茫然として答えを知れなかった。秦の妻はそこでこの下女のために盛大に法事を行い、仏力に頼って怨みを消し、罪を解くことを願った。このことはそもそも咸豊初年にあり、今まで二十余年だが、その娘が恙ないか知らない。だがおそらく秦の妻が死んだ後、結局免れることはできなかったろう。
中牟県の典史[58]張某は、疽が背に生じたので、巫を召して診察させた。巫は出てくると人に語った。「張さまはかならず亡くなりましょう。わたしは冥土にゆき、張さまのご両親にお会いしましたが、たいへんお怒りで、張さまは不孝である、お父さまの喪が明けないのに赴任し、役人ぶりは、貪婪で人間らしさがないと仰っていました。今、冥土で罪を受けてたいへん苦しんでいらっしゃいます。導かれてあるところへゆき、見ますと張さまが裸で地に倒れ、背中に小さな孔を鑿たれ、中に薪を満たされ、その脂を焚かれていました。どうしてこのようにして生きられる者がいましょうか。」数日足らずで、張はほんとうに死んだ。死後、人がかれの故郷から来て、言うには、張が官に補せられたばかりの時、父は家で死んだが、張は秘して言わず、やはり妻子を連れて赴任したとのことであった。このことはかれの郷里の人にはもとより知るものがいたが、河南にいれば、知るものはなく、中牟にいればさらに知るものはなかった。巫はそれなのに話せたのであった。だとすれば、かれの見た情況は、きっと偽りではなかろう。
『清異録』[59]に、「菌蕈に一種あり、食らえば人は笑う病[60]に罹るので、土人は戯れて『笑矣乎』と呼ぶ。」とあるが、それが死を致せるとは言っていない。しかしこの菌はほんとうに毒があり、笑ってやまず、しばらくするとかならず死ぬのであった。わたしが呉下の馬医科巷[61]にいた時、隣の潘家に一人の媼がおり、その家の妻の母であった。菌を食らった後に腹の中に異常があるのに気づいたので、牀にいって臥していたところ、くすくす笑ったり、大笑いしたりし、驚いてかれの娘に言った。「まずい。わたしはワライタケを食らったから、死ぬだろう。」そう言いながらも、あいかわらず笑いつづけ、まもなく起き、すぐ倒れ、地に臥し、狂って笑った。娘はこのありさまを見ると、驚き慌ててなすすべがなく、わたしの家には、その時、隣家に贈る薬餌があったので、門にいって尋ねた。わたしの次男の嫁が滬上で刊行された『経験良方』[62]を調べてみると、ワライタケを食らう者は、薜荔[63]で治せることが分かった。塀にたまたまこの種があったので、一束取り、湯を煎じてかれに飲ませたところ、まもなく笑いがやみ、今でも恙ない。
咸豊年間、粤賊が浙江の紹興を陥れた。諸曁の包村で義民包立身[64]が郷兵を起こし、賊と戦って一年になろうとし、賊を殺すことは数えきれなかったので、浙江の東部西部の人で、かれに帰属するものはたいへん多かった。包村が破れると、すべて殲滅された。魏某というものがおり、やはり紹興の人で、包村から逃れ出、賊に追われ、後ろから刀でつづけて斬ったが、首は離れなかった。さらに一人の賊がみずから進んでかれのボタンを解き、刃を受けさせようとしたが、ボタンが絡まって解けなかったので、鋭い刃でその喉を刺した。魏は地に倒れ、頚の血は模糊とし、賊は死んだと思い、捨てて去った。魏はほんとうは死んでおらず、賊が遠く去るのを待ち、また起きて立ち、手でその頭を支えていった。数里ゆき、すこし手を放すと、首が突然落ちて逆さに胸に懸かったので、たいへん驚き、やはり掲げて起こし、頚の上に押さえ、さいわいまた落ちなかった。しかしたいへん飢え、そもそも飲み食いしないこと数日であった。たまたま溪の水を掬って飲めば、甘いこと飴のようであった。畑に荑と稗があったので、とって生食したが、そのうまさは名状できなかった。数日してその家へいったが、結局死ななかった。当初は食らうたびに、なお熱気が[ボツ]然[65]と喉から溢れ出ていたが、それはそもそも賊が刃で刺したところで、しばらくすると傷が合わさったが、元通りにはならず、頭だけがやや傾き、つねに左顧しているかのようであった。その嫂は杭州の許家に雇われ、わたしの次女の家であったので、くわしく知られた。珍しいことであった。賊が斬っても死なず、神が助けるのは、裴公[66]のような聖相[67]ならば当然だが、一介の小民なのに、どうしてこうしたことがもたらされたのか。もしや人に陰徳があったのか。『太平広記』巻三百七十六[68]に引く『広異記』にあるが、太原の王穆が、唐の至徳初年に南陽で闘って敗れた際、賊が剣で後ろから穆を斬ったため、筋骨はともに断たれたが、喉だけはなお繋がっていた。はじめは冥然[69]として気づかなかったが、まもなく、頭が臍の上にあるのに気づき、手でむりに頭を支えて頚につけたが、まもなくふたたび落ちたので、髪を分けて両脇に繋ぎ、左腕で髪が解け、頭が懐に落ちると、再び髪を繋いで頭を正した。ゆくこと四十里で、麾下の雑兵がそれを見、載せて軍に帰らせ、養生すること二百余日ではじめて癒えた。頚の周りには肉があって脂のようであり、頭はすこし傾いていたというが、このことときわめて似ている。そして『広記』の記載には、ほかにも鄭会、邵進[70]たちのように、頭が断たれても活きていたものがいるので、やはりまったくそのことがないとは限らない。
江西に譚仙姑というものがおり、いつの人か分からない。ある人は孝女だといい、ある人は貞女だというが、そもそも娘で夭折した者なので、そのことは詳らかにできない。江西では、なかなか霊験あらたかであった。嘉慶、道光年間、湖北は大旱魃で、ある人が言うには、江西の譚仙姑が雨乞いするともっとも霊験があったので、いって迎え、紙で譚仙姑の位を書き、肩輿に置いていた。さらに人に命じて雉尾[71]を取ってその前を導かせ、神が憑依していると言った。神が来、ほんとうに大雨を得たので、廟を建ててやった。その後は祈り報いる[72]ものがいない日はなかった。水旱の大災害があれば、農民はかならずその神を迎えて祈った。ある輿夫が戯れて言った。「空しい輿なのに、これを担いでどうする。」言葉が口から出ると、神輿はにわかに重くなり、この輿夫を圧して地に倒れさせ、ふたたび担ぎ、挙げられなかった。みな神に罪を知り、叩頭して謝罪させたので、またはじめのようになった。按ずるに、陸魯望[73]の『野廟碑』[74]にいう。「江浙の間、山椒[75]水浜には淫祀が多く、婦人で厳かであれば媼といい、娘で顔が艶やかならば姑といった。だとすれば、この風習は唐からすでにそうであったのである。ただ聞けば、譚仙姑の廟は、およそ素行を修めないものは、みな入れず、入ればかならず神に責められていた。ある三人の婦人が廟に入って瞻礼[76]し、帰る時、路ばたの厠を通ると、旋風が突然起こり、汚穢が激射した。中の一人の婦人は衣裙がすっかり汚れ、前後の二人の婦人はたがいに隔たること咫尺であったが、すこしも濡れていなかった。人々はおかしいと思ったが、後にこの妻がもともと凶暴であったことを知った。だとすれば、譚仙姑などは、なお聡明正直の義を失わなかったので、淫祀の例とすることはできないかもしれない。
孟県の劉某は、二子を産み、いずれも成人していた。さらに妾を娶り、一人の娘を産み、女は眼病を患い、巫に見させた。巫は言った。「先祖の墓の風水はこの娘に不吉で、改葬しなければ、目もさらに見えなくなろう。」妾は劉と計り、巫の言葉の通りにしようとした。二子は頑固に承知せず、言った。「巫の言葉はもとより信じられず、わたしの家はさいわい平安で、先祖の墓は年代が古く、どうして軽々しく動かせよう。」しかし妾は朝晩その夫にうるさく言った。「わたしは子がいず、この一人娘がいるだけですが、不幸にして盲目で、娘がいないに等しいのです。二子はただみずから生計を立てることを知って、どうかわたしのために生計を立ててください。」劉はその言葉を収めたので、二子と謀らないので、二子よそに嫁がせ、すぐ先祖の墳を開いた。その棺を起こすと、女が家で大声で叫び、たちまち盲目となった。改葬した後、劉はまもなく死に、二子もあいついで死に、子孫はいなくなった。按ずるに『儀礼·喪服篇』に「改葬緦」[77]とあるから、古人にもともと改葬の礼があったのであろう。しかし鄭康成[78]は注して、墳墓が特別の事情で壊れ、骸と柩が失われようとしていることであるという。この古人の改葬は、後世のように風水によって着想したものではない。ただ、唐の李陽氷[79]の『拪先塋記』[80]は、ほんとうに方士邵権[81]の説を用い、温冥の禁を犯し、窀穸によい所でないといっているので、そもそも唐代にすでにこのような偽りがあったのである。『春秋』荘〔三〕(二)年に、「桓王を葬る」と書いてあるのを、『公』『谷』[82]はいずれも「改葬」と考えている。何劭公[83]はこれを録することをにくむという。仁人孝子は軽々しく改葬を言わないか。
紹興の烏某は、その下女と私通し、一子を産ませた。妻は憎み、その下女を実家に返した。下女が子をつれてゆくことを願うと、許した。下女は房家に嫁ぎ、子も従い、房家の子となったが、烏がいることを知らなかった。後に烏の妻は死に、子がいず、烏はその子を返そうとし、時に下女はすでに死んでいたので、房家に頼んだが、房家は承諾しなかった。ある術者が烏のために謀って言った。「わたしが来させられます。」烏家の祖先の墓の前で、木を削って杙にし、その近くに埋めた。十日後、房家を探れば、その子は左目が盲になっていたので、人に命じて「烏家に帰らなければ、右目もさらに盲となろう。」と告げさせたが、信じなかった。また木を削って杙にし、その右側に埋めた。十日後、その子は右目も盲となった。たいへん驚き、烏にわけを尋ねると、烏は言った。「おまえはほんとうはわたしの子なのだ。」そこで術者のしたことを告げ、言った。「おまえはわたしの子でなければ、烏家の墓がどうして房家の子に関わろう。」子はそこで涙を落とし、烏家に帰ることを願った。房家は留められないことを知り、やはり従った。そこで先に左の杙を掘り起こし、後に右の杙を掘り起こすと、旬日の間に、両目はまた元通り見えるようになった。
紹興城内に天官第[84]があり、吏部陳公[85]の宅と伝えられていた。陳は先に江西で官となり、貴溪龍虎山[86]にいって張真人[87]に会ったことがあった。童子が茶を献じ、手を滑らせてその杯を砕くと、真人は怒り、左右に命じて持ち去らせた。陳は言った。「童子の無心の過ちは、許せる。」真人は承諾し、解くようにと命じた。後に陳が老いて家にいたところ、ある老人が面会を求め、玉如意を献じて言った。「この玉は火災を防ぐことができます。昔は命を救う恩を蒙りましたので、今は銜珠[88]の報いに倣いますが、どうか退けないでください。」陳は茫然として何を言っているか分からず、老人は言った。「過日、真人の屋敷で茶を献じていた童子が、わたしでございます。公の一言がなければ、きっと真人に斬られていました。」陳はそこでかれの姓名を質すと、老人は言った。「ほんとうのことを公に申しあげます。わたしは龍なのでございます。天下の龍は、それぞれ疆域を分け、やはり人の世の州県のようでございます。しかし封地がないものは、かならずさきに真人府で労役に服し、労役が終わると地を受けられます。わたしはすでに労役が終わり、真人の文牒を奉り、来てこの地の龍王となるのです。」陳は言った。「あなたは龍王なら、わたしにほんとうに身を一目見させてくださいますか。」老人は言った。「よろしい。」某日に瓜子湖[89]にいって会うことを約した。瓜子湖は紹興の南門外にあり、広さは六七里で、その西岸にはもともと龍王廟があった。陳は期日になって廟にゆき、欄に拠って望んだ。時にまさに盛暑で、烈日は空にあり、万里に雲がなかった。午後、突然微風が起こり、暴風が激しくなった、黒雲は四方に起こり、またたくまに、雷電がはげしく起こり、いそいで雨がにわかに来た。湖は白浪が天に漲り、はるかに望むと一つの物が蜿蜒として出、長さは十余丈、太さは数尺ばかり、水際で転側して収まらなかった。はじめはその身が見えるだけで、頭と尾は見えなかったが、後にかすかにその爪が現れ、形は鶏の蹴爪のようで、色は黒く漆のようであった。すぐまた両角を現し、まもなく、頭もすべて見え、世間で描かれている絵とあまり異ならなかった。陳に向かって叩頭しているようだったので、陳も手を挙げて答礼した。その後、また水に没し、雨は止み、風は収まり、晴れることはじめのようであった。陳が帰り、贈られた玉如意を梁の間に封緘して置いたが、火災に遭うたび、かならず陳の邸宅にいって消えたので、今でも残っている。このことは沈君祖煒が言った。吏部陳公は、誰か分からず、案頭に『紹興府志』がなく、調べられない。その情況はなかなか荒誕に近く、そもそも古老の言い伝えはこのようであった。沈君は紹郡の人で、はっきり言い、ひとまずために記した。『斉諧』は志怪書であるので、それが信史[90]である必要はない。
沈君祖煒はまた言った。昔、航海するものがおり、帆に風を孕ませてゆき、きわめて順調にしていたところ、突然その後ろで、雷のような音が聞こえた。振り向けば、波浪は湧き、一匹の大魚が舟を尾けて来た。口を開けば、[山含]岈[91]として大きな壑のようで、皓歯は霜戈[92]雪戟を列ねたかのよう、吸ったり吐いたりすると、海水は従って出入りし、洪流は滉瀁[93]として、涛は湧き、風は起こった。水夫はたいへん恐れ、魚屋はますます近かった。時に、舟の中に豚百頭がおり、羊はその半分、米と麺も雑じっていた[94]ので、これらのものをすこし抛って与えることをはかり、かれが食を得ておとなしくなることを願った。はじめは豚や羊、ついで米や麺を、投げれば食らったが、魚にとっては一口に過ぎず、咀嚼を費やさなかった。まもなく諸々の物はすべて尽き、投じられるものがなくなった。魚は心が満足していなかったが、その腹はいっぱいのようであり、鱗を縮め、鬣を巻き、悠然として去った。舟の中の人は喜び、生き返ったかのようであった。これがいわゆる呑舟の魚[95]であり、海中にもとよりいるので、驚くに足りない。沈君はさらに言った。その友の陳姓のものは、かつて台湾にいった。ある日、見ると海面に青気が騰がっていたが、まもなく四散したので、水夫に尋ねた。「これは何か。」水夫は言った。「すべて蚌でございます。群龍がその珠を奪おうとしましたので、逃げただけでございます。後ろを見てください。龍が来ました。」語ってやまず、ほんとうに群龍数十、あるいは青、あるいは黒のものが、四方に飛び去るのが見えた。
湖北武昌県に狼子湖[96]があり、もともと魚が多く、漁舟が集まっていた。光緒辛巳[97]四月朔、雷雨がたがいに起こり、雲霧の中にぼんやりとものが見えたが、人々は龍と思い、みな臥してみた。にわかに霹靂一声、この物が下って落ち、雨もすぐ休んだ。迫って見れば、大きな鰱魚[98]で、長さ一丈あまり、その頭はなお仰ぎ見、すぐには死んでいないようであった。漁師は叉で刺したりしたが、やはり動かず、ふたたび刺すと、はじめて首を垂れて倒れた。そこで住民は集まり、それぞれ刀を持ってその肉を割いて去り、煮て食らったが、味はたいへん肥えて美しく、ほかに異常もなかった。このことは上海刊の新聞に見えるので、上の二つの事に因んで記した。
湖北の武昌に楊姓のものがおり、漢口に店を設け、夫婦はどちらも店にいたが[99]、年が四十を越えても、まだ子がいなかった。かれの弟に一子がおり、楊夫婦はいずれもたいへん愛し、弟に言い、跡継ぎとしようとし、弟も承諾していた。楊の妻はつねに漢口から家に戻り、子のために新たな着物履物を作り、さらにしばしば菓子を食べさせ、子は伯母を母のように見ていた。某年、楊の妻は戻ってきたが、子を愛することは平時と異ならず、すでに一月を越えていた。ある日、子が妻の寝室にゆき、戯れてたいへん楽しんでいた。すると妻が突然出てき、台所にいって刀を執って入り、力いっぱい子を斬った。子は大声で叫んで地に倒れ、死んでいなかったが、さらにつづけて切られ、死んでしまった。その弟夫婦は声を聞いて走ってき、ありさまを見てたいへん驚き、言った。「誰がわたしの子を殺したのです。」女は言った。「わたしです。」弟夫婦はその意図が分からず、子を抱いて泣くばかりであった。しばらくすると、妻も子を抱いて泣いた。弟夫婦はそこで尋ねた。「ねえさんはなぜ倅を殺したのです。」女は言った。「わたしがどうして知りましょう。坊やが死んでしまったからには、わたしも生きようとしません。」頭で塀に触れ、自殺しようとした。弟夫婦はかえっていっしょに慰め、言った。「もとよりねえさんに他意がなかったことは分かっています。これはきっとほかに理由があったのでしょう。わたしたち夫婦は年がなお若く、子が死んでもふたたび生まれましょう。ねえさんはお気になさらないでください。」婦はそこで作った着物履物を出し、子に着けてやり、さらによい材木を買って小さな棺[100]を作ってやった。収めると、婦はあれこれ自殺を図ったので、弟夫婦はたいへんきびしく防いだ。城外にはもともと田宅があり、婦は理由をつけて城外にいったので、弟夫婦もついていった。婦が絶食すると、弟夫婦は飲食を執ってつよく勧め、言った。「嫂が食らわず、わたしたち二人も食らいません。」婦はやむをえず、箸を挙げてやったが、こう言った。「わたしはこの子を殺し、あなたがた夫婦にお会いするのは面目ない。さらにまたどうして主人に会おうか。わたしたち夫婦は老い、子を産めず、万一あなたがた夫婦に最後まで子がいなければ、楊家の血食はわたしで絶えるのではないか。」かれの弟夫婦はかれがかならず自殺することを知り、人に命じて朝晩守らせ、刀や縄の類はみな隠してやった。婦は守るものがやや怠ったのを伺い、竹一節を取り、踏んで砕き、竹の先でみずから喉を刺し、喉を断って死んだ。この妻がこの子を殺したのは、きっと悪鬼が憑依していたのであろう。袁子才[101]先生の『新斉諧』[102]は舅がかれの甥を殺したことを載せているが、これと似ている。
朱某は、蘇州の人で、臨頓路[103]に店を設けていた。咸豊庚申[104]の年、賊が蘇州を陥れた時、朱は道で他人が棄てた娘を見つけ、引きとって養った。数年すると、娘は年が十六七となったので、妻としたが、時に朱は四十歳を越えていた。子女数人を産み、長女は湖州に嫁ぎ、男子はみな異郷で商いを学んでいた。ある年、妻は二人の幼い娘を連れ、湖州にいってその長女に会ったが、しばらくしても帰らなかったので、朱が人を遣わして娘に尋ねさせたところ、母は帰って数ヶ月になるということであった。朱はあちこち探したが、杳として足跡がなかった。しばらくすると、金匱県[105]でかれの妻を見たという人がいた。朱が案内してゆかせると、その妻はほんとうにおり、そもそもすでにほかの男に従っていたのであった。朱がお上に訴えると、朱に帰るように判決したが、まもなく逃げ去ったので、朱は鬱鬱として楽しまなかった。また道路の往還によってその資金を費やし、また店を設けられなかったので、つねにわたしの家にきて炊事の仕事を助けた。下女たちはそのことを言うことこのようであった。「老人が妻と親しくしすぎた」[106]のだから、朱に過ちがなかったわけではまったくないが、子女を養育し、さらにいずれも成人すると、棄てて去り、他人と同じとなってしまった。杜老の詩[107]に「軽薄の桃花水を逐ひて流る」というのは、この娘のことであった。わたしの家のばあや朱氏は、やはり蘇州の人であった。庚申の乱[108]で、その一男一女を負って倉皇と出奔した。その後、たいへん疲れ、二人を守ることはできないと思い、娘を棄てようとした。しかし娘はすでによちよち歩け、地に置くたびに、衣を引いて放さなかったので、やむをえず、やはり背負っていった。ある橋にいったが、たいへん高かったので、朱はその娘を橋堍(「堍[109]」は、俗字だが、呉文英[110]の詞[111]に「たちまち波を凌ぐ断橋の西堍」というから、宋代にすでにこの言葉があったのである。)に置き、すぐにその息子を背負い、橋を渡って去った。数十歩いっても、その娘が岸を隔てて母を呼び、兄を呼ぶのが聞こえていた。乱が収まると、朱はまた蘇州に帰り、労賃を蓄え、なかなかに貯蓄があった。息子のために妻を娶ったが、女の家は陪門財[112]を求め、そのほかの衣裙釵釧、費用はなかなか大きく、数年の貯蓄は、一朝にして尽きた。妻が来ると、その姑に従わず、しばしば罵る言葉があった。朱はわたしの息子の嫁たちに語るたびに、かならず嗚咽して泣いた。考えればこの妻の生年はまさに庚申の後にあったので、かれが棄てた娘の転世かもしれないと疑った。臆度の辞に出ているが、不見識なものではない。
沈某も蘇州の人で、兵乱の時、上海に逃げてゆき、なかなか弁才があった。泰西人の滬瀆で商売するものは、招いてその寓居にこさせ、会計を助けさせ、たいへん得るものがあった。たまたま一人の水夫の妻を見、羨み、娶って妻としようとし、この妻はかれが金持ちであることを好み、やはり身を委ねることを願ったが、もとより夫がいたので、どうしようもなかった。妻には親しくしている婦人で長子というものがおり、平素、ねえさんと称していたので、相談した。長子は言った。「容易いことです。」そこでその舟を借り、偽って某所にゆこうとした。黄浦にゆくと、風浪はなかなか急で、水夫は篙を持って船頭に立ち、長子は言った。「帆がたいへん高いので、下ろすべきです。」みずから出て指図し、にわかに水夫を推して江に落ちさせる一方、救いを求めれば、間に合わなかった。妻はすでにその夫を失い、沈に嫁いだ。乱が収まると、沈は妻と蘇州に帰り、生計は裕福で、たいへん得意になっていた。妻は突然奇病を得、かならずみずから語って言った。「来た。来た。」そして目が眩んで倒れ、このようにすること数年あまりであった。ある日、目を瞠って言った。「今日はほんとうに来た。」地に倒れて絶命した。長子はやはり滬上におり、妻が死ぬ数日前、突然、人と争論しているかのようになり、言った。「これはあなたの妻の謀りごとで、わたしと関わりはない。」さらに言った。「おおくは申しません。あなたについてゆきましょう。」そして入水して死んだ。
蘇州にはさらに陳家の子がおり、兵乱の時、その母に従って乱を避けて上海にいった。ある日、母に語って言った。「門前の大樹の上に紅い衣の人がいてわたしを招いています。」母は怒鳴って言った。「嘘はおよし。目が眩んだだけだよ。」翌日、陳の子はなんと樹に攀じ登り、木の叉の中に坐したところ、にわかに枝が折れ、地に落ちて死んだ。そこで長男の嫁が言うには、かれの同郷余家の娘が、母と食事し、食事が終わると、箸を投げてにわかに出た。郷里の習慣で「飯の後に茶を飲まなければ、食らったものは溶けない。」という。母はそこでその子を呼んで言った。「どこへゆくのだえ。ひとまず茶を飲んでおゆき。」子は言った。「門外に人がいてわたしを呼びましたので、わたしは出てすぐ帰ります。」匆匆と門を出、入水して死んだ。これらのことは、いわゆる夙怨であろうか。
湖北咸寧の余家の娘は、嫁いで石家の妻となった。石はもともと無頼で、日々飲酒賭博に耽っていた。娘が一子を産んで亡くなると、余家は引き取って養った。長じると、外で商いを学ばせた。その子はなかなか勤勉であったので、師はたいへんかれを気に入り、三年になろうとしていた。石はその子にやや貯えがあること、余家が用意する衣装は冬も夏も揃っていることを聞いていたので、みずからその師のところにゆき、その子を連れて帰ろうとした。師は留めようとしたが、石は承知せず、言った。「わたしの子はあなたの弟子であるだけで、あなたの奴隷ではないのだから、あなたはどうして留められよう。」師は奪えないことを悟り、手あつく贈り物して送り出した。その地は石の家から三四百里で、石はその子を連れてゆく途中、たまたま小さな川に阻まれたので、一隻の舟を借りて持ちものをすべて載せた。父子ともに舟に乗ると、石はその子に語って言った。「わたしは○○を××に忘れてきたから、取りにいってくれ。」子は上陸してその地にゆき、くまなく探したが見つからず、帰って父に尋ねようとして、水辺にゆけば、舟はすでに出発していた。岸に沿って追って探したが、見えなかったので、たいへん苦しみ、傫然たる一身は、進退ともに不可であった。やむをえず、路で乞食したが、しばらくすると、跖は穿たれ、膝は露わになり、脛骨は腐爛して[ソ][113]を生じ、病は癒えなかった。乞食たちは憐れんで飲食させたので、死なずにすんだ。咸寧の人がその地を過ぎ、ある人が告げて言った。「この子はあなたの同郷で、連れ返せるか。」その人はついて尋ね、言った。「これはわたしの同郷人余家の甥ですから、帰ったら余家に言ってあげましょう。」帰ると、余家にいって告げ、余家はいそいで人に命じて迎えて帰らせたが、すでに憔悴して人のありさまではなくなった。養生して数ヶ月で、はじめて歩けた。後に余家はさらによそで商いを学ばせ、戒めて言った。「あなたのお父さまが来たら、二度と騙されてはなりません。」そもそも道では、越人を貨で[114]殺すことさえあるのだから、騙すことだけにとどまったのは、驚くに足りない。驚くべきは、父がその子を騙してその資金を取ったことで、これは人の理で論じられない。わたしの書は捜神志怪のために作られているが、これらのことを記すに及んだのは、人に人らしさがなければ、その人は妖であるからであり、魑魅罔兩であって後、それを禹鼎[115]に鋳る必要はないからである。
咸寧の余家に一人の娘がいたが、かれの実家が何という姓か分からなかった。婦はきわめて小さく、椅子、橙子に坐すると、足は地に達しなかったが、性格は柔和であったので、舅姑はいずれも喜び、夫婦も睦まじかったが、しばらくしても子ができなかったので、妻はかれの夫に語って言った。「わたしは自分が出産できないと思います、あなたの家も貧しく、妾をとれませんから、わたしが死んで、あなたが再婚できるようにしたほうがようございましょう。纁雁[116]の費用がございますが、妾を買うより安上がりでございましょう。」夫は言った。「なんということを言うのだ。」婦はそれからひそかに自殺する意思を持った。そこで帰寧し、従容としてその実家に語って言った。「婦人は夫の家を内とし、父母の家を外とする。人に嫁げば、その生その死は、父母の家と関わりない。娘が死んだために、夫の家にゆき、纏いついてやまない人がよく見られるが、これはもっとも理に外れている。不幸にしてわたしは死に、わたしの家がこの悪習を踏まないことを願う。」その家は言った。「おまえはさいわい死んでいないのに、どうしてそんな不吉な言葉を発するのだ。」妻は笑って言った。「わたしは死んでおりませんので、これを言うことができるのです。わたしが死ねば、言うことができましょうか。」帰ると、さらにその夫に語った。「万一わたしが死んでも、悲しまないでくれ。再婚して子を得れば、わたしが死ぬことは生きていることに勝りましょう。」夫ははじめかれに死ぬ意志があることが分からなかった。数日後、人が気づかないのに乗じ、結局縊れて死んだ。余家はたいへん嘆き、実家の人はほんとうに一言もなく、帰って慰めたが、この妻は賢かったといえる。その夫は再婚し、やはり子がいなかったが、娶ったものは持参金がなかなか豊かで、余家はそれに頼って暖衣飽食していた。後に族人の子を自分の嗣子とし、すでに孫を抱いているが、これも地下でこの妻を慰めるに足りるか。
『列女伝·母儀篇』にいう。古は婦人が子を孕むと、目は邪色を見ず、耳は淫声を聞かなかった。これは胎教の法をいうだけである。『博物志·雑説篇』にいうが、婦人が妊娠すると、醜悪な物、異類鳥獣を見せようとしない。さらに、兔は見られない、子の唇が欠ける、生姜は食らえない、子は指が多くなるという。これは禁忌の説に近いが、犯してもにわかに験があるとはかぎらない。湖北だけは、婦人が子を孕んだ時の禁忌がもっとも重く、換胎というものがあり、見た物が、その腹の中に入り、その本来の胎児を換えて去るという。だから婦人が子を孕めば、部屋の中に人物の画像があり、すべて蔵していた。あるいは針でその目を刺し、その目が破れているから、禍をなさないという。一人の娘が寝室に美女の像を懸けていたが、子を産むと、そのありさまは似ていた。美しい女は右手を曲げ、三本指を伸ばし、物を指す姿をしていたが、この子も右手を曲げ、三本指を伸ばし、終生このようであった。また一人の娘がたまたま観劇し、子を産んだが、頭上に肉が隆起し、高い冠を頂いているかのようで、両耳の傍らにはそれぞれ肉一片があって垂れ、巾で覆ったかのようであった。そこで観劇した時、俳優の冠にこのようなものがあるので、換胎したのだと思った。その地にはつねに遊行僧がおり、衣装を担ぎ、村落で乞食し、笈の上に弥勒像があり、これはもっとも忌むものであった。妊婦がそれを見、子を産むとかならず弥勒像に似るのであった。だからこの僧のゆくところ、村人はかならず騒いで追いはらった。妊婦が避けるのが間に合わず、にわかにかれと会った場合は、地に坐し、みずからその履を脱ぎ、左の履を右足に換え、右の履を左足に換えた。この僧もかならず担いでいる荷物を、右肩から左肩に換え、左肩から右肩に換えた。このように向かい合い、人々がみな集まり、この僧を追って去らせると、無事であることができたが、その理はほんとうに究明できなかった。
中牟県に兄弟二人がおり、−話者はかれらの姓名を忘れた。−兄弟時を同じくして病死した。にわかにその弟が蘇ったが、実際はかれの兄が憑いて生きたのであった。弟の妻がかれを引いて部屋に入らせたが、かれは承知せず、退いて兄の部屋に入ると、今度は兄の妻が拒んだ。そこで外に引っ越したところ、旬日の後、気体[117]が充実し、病がない人のようになった。しかし一たび中に入れば、妻たち[118]はいずれも避けたので、やむをえず、出家して僧となった。按ずるに、段成式『酉陽雑俎』[119]に、上蔡県の李簡は病んで亡くなり、汝陽県の張宏義の身に憑いて生きかえったことを載せており、同時に扁鵲が魯公扈、趙斉嬰の心を易え、目ざめるとたがいにその部屋に帰ったことを引いて例証としている。扁鵲の事は何の書に出ているか知らないが、段は群書に博通していたから、かならず基づくところがあろう。こうしたことは、古からあり、古はただこれを「易心」といっていた。『太平広記』の再生部はこれを「易形」といい、今では人は「假屍還魂」という。按ずるに『金史·五行志』には、「大定十三年正月、尚書省が奏した。『宛平の張孝善に子がおり、合得といい、大定十二年三月一日に病で死にましたが、晩になって生き返り、もともとはこの良郷の人王建の子喜児であったといいました。喜児は三年前にすでに死んでいますが、建が家のことを用いて試しますと、くわしく語ることができました。これはそもそも假屍還魂でございますから、王建につかせて子としましょう。』上は言われた。『そうすれば奸邪によって寵幸[120]せられる小人たちは、きそって偽りを生じ、人倫を乱そうから、孝善につかせよ。』」とある。これは假屍還魂の、正史に見えるものである。わたしはかつて死生のことを論じ、鬼神の説を、聖人はもともと語っていたものと考えた。わたしは束髪[121]のとき、『中庸』を読み、すぐ「鬼神の徳たるや、それ盛んなるかな」を知ったが、どうして信じないことができようか。輪廻の説にいたっては、聖人は語っていないが、『列子』の書は、「死と生とは、いったり、帰ったりするものである。こちらで死んだものが、どうしてあちらで生まれないと知れよう。」といっている[122]。これは仏氏の輪廻の説が祖とするものである。後世の羊祜[123]、顧非熊[124]のことなどは、炳然と記載があり[125]、まさに世俗のいわゆる投胎である。ほんとうは投胎は借屍に似ている。人が死んだ当初、霊魂が滅びず、あるいはたまたま初産の嬰児で、まったく面識がないものに遇い、憑いて生まれれば、それを投胎といい、たまたま死んだばかりの人で、形骸は腐っていないものに遇い、憑いて生まれれば、それを借屍というのである。その理は同じである。このことがまったくないとはいえない。しかしかならず人の生死はすべてこのようだというならば、またよしとしない。
元の呉自牧の『夢粱録』[126]にいう。杭城の小民の家には、厠がないことが多く、馬桶があるだけである。毎日汚穢屋が傾けてゆき、これを「傾脚頭」といった。按ずるに、この風俗は、今の蘇州、杭州、いずれもそうである。杭州に小民がおり、傾脚頭を生業とし、横河橋の許家に出入りしていた。許はもともと豪族で、民はその家に入ると、かならず慕って言った。「わたしは死後許家に生まれられ、数日して死にますが、それでも楽しゅうございます。」後に許家の一人の娘が孕み、出産しようとし、夢みたところ、そのものが来、一子が生まれた。人に命じて尋ねさせれば、そのものはほんとうにその日に死んでいた。許家はもともとかれの言葉を聞いていたので、みなこの人が転生したことを悟った。子は生まれて七日で夭折し、願いは叶ったものの、その生はなんと短かったことか。
無錫の楊家の娘は、江西の程家の子と婚約していた。程はもともと豪族であったが、程の子は父母がはやく亡くなったので、幼い時から教育を受けず、長ずれば享楽遊蕩し、流俗に従っていた。程家の長老は楊家に手紙を寄せ、婿入りを願い、束縛を受けさせることを望んだ、楊家は承諾したが、女にその事情を語らなかった。程の手紙は書斎にあったが、娘はひそかにそれを開き、詳細を知り、鬱鬱として楽しまず、寝て病となった。程の子が来ると、翩翩とした裘馬の若者で、挙止は軽はずみ、言葉はふざけていた。女は嫁いだのは人でなしだと悟り、病は増悪したが、程の子はまったく面倒を見なかった。朝に出れば晩になっても帰らず、晩にでれば朝になっても帰らず、賭場でなければ妓館にいた。このようにすること一年あまり、かれの所持金は尽き、女の持参金も、尽きようとし、それから女は病がますます篤くなった。臨終の一日前には、すでに沈沈として死んだかのようであった。程の子はたまたま部屋に入って会ったが、見ると女の腕に金の条脱[127]一つがあったので、取って去った。その後、下女たちはその物が失われているのを見ると、訝って言った。「誰かが隠したのでしょうか。」大捜索を提案しようとした。女はまだ意識があり、かすかにその首を振って言った。「探す必要はない。」女が死ぬと、程も去り、行方が知れなくなった。後に楊家の次女の婿秦君が京師に来、かれに正陽門外で会ったところ、すでに乞食となっていたので、嘆いて言った。「わたしの僚婿だ。こんなことになっていたのか。」銀十両、裘一襲を贈り、さらに言った。「すぐ江西に帰ろう。ゆくなら、旅装を整えよう。」程は言った。「あなたはあなたのために赴任しろ。わたしはわたしのために乞食しているので、あなたに関わりはない。」顧みないで去った。この子は下流にいるのに甘んじ、ほんとうに「別に肺腸がある[128]」ものであった。かれがはじめて楊家にいって婿となった時、楊家は宴し、さらに梨園の劇を演じた。俳優が進点し(唐の崔令欽[129]の『教坊記』[130]にいう。およそ劇を演じようとする時は、さきに曲名を上覧に供し、天子が墨を点じたものは舞い、点じなかったものはそうしないが、これを進点という)、程は『拾金』を点じた。『拾金』は乞食のことで、賓客たちは愕然としていた。あるものはその不吉を憂え、あるものはその闊達さ[131]を賞めたが、程は結局乞食で終わったので、その兆しだったのではないか。山東に陳媼というものがおり、老いた寡婦であった。二子がおり、その長男甲ははやく亡くなり、甲の妻はたいへん賢かった。甲は死後千両を遺し、人に貸してその利息を得れば、姑と嫁二人が自給するには十分であった。次男の乙および妻はいずれも不孝であった。陳媼はもとより甲の妻に頼って住んでいたが、乙は訪問しなかった。まもなく、甲が遺した千両はすべて他人に横領された。甲の妻は生計を立てるすべがなくなり、鬱鬱として楽しまず、しばらくするとぼんやりして病となり、飢飽寒暖はまったく自分では分からなくなった。媼は憐れみ、昼夜看病したが、食物がないことに苦しみ、力作して自給した。甲の妻の実家の親族は陳媼に言った。「これは長くつづけられることではございませんし、長患いで舅姑に迷惑を掛けてしまいます。どうして実家に人がいないことがございましょう。」妻を迎えて帰らせた。媼はそれからその次男に頼って住み、乙夫婦は楽しまなかったが、拒むすべがなかった。乙の妻はたいへん凶暴で、乙も恐れていた。乙が外出するたびに、乙の妻もしばしば実家に帰ったが、姑のために五日の食糧を備えてあげると、かれが帰るのはかならず十日目で、十日の食糧を備えれば、かれが帰るのはかならず二十日目であったので、媼はつねに満腹できなかった。甲の妻は実家に帰ったが、なおその姑を思い、月にかならず一度来、来るとかならず数日いた。毎日庭を巡り、地に割れた瓴甋、敗絮やら、古紙やら、枯れたり朽ちたりした枝があるのを見ると、逐一拾いあげ、その姑に奉った。さらに呼んで言った。「おかあさま、これらの物が金銀に変わるのを待てば、わたしとおかあさまはどちらも飢えて死にますまい。」隣家の人はそれを聞くと、みな嘆息した。乙の妻はことに厭悪し、食事を調えてあげなかった。媼は節食して食らわせたが、もとよりながく留められなかった。数日留めると、かならずやさしい言葉で去らせ、言った。「家にいったら、老いぼれのことを思わないでおくれ。」このようにすること十余年であった。陳家の隣は、もともと宿屋であった。たまたま達官がそこに車を停め、病のためにすこし留まったが、そのありさまをすべて知ると、嘆いて言った。「これはその罪が横領にあるものだ。そもそも二人の寡婦が命を繋ぐよすがにしていたものを横領するとは、人間ではない。」有司に命じてそのことを究明させ、すべてその金を返させた。陳媼は金を得ると、すぐ甲の妻を召して告げた。甲の妻は金がたくさんあるのを見ると、たいへん喜び、精神はにわかに澄み、持病は失ったかのようであった。やはり姑を世話してともに住み、さらに族人の子を嗣子とし、妻を娶って孫を産ませた。乙は異郷で客死し、乙の妻はその資金を持って再婚したが、後夫は飲酒賭博を好み、家業に従事せず、数年足らずで、その持参金を使い尽くした。にわかに後夫も死に、乙の妻は自活できず、路で乞食し、甲の妻がしばしば飲食を与えたが、まもなく痢病で死んだ。
張翁は、閩の人であった。若い時に河南中牟県にいって親戚を訪ねたが、親戚はすでによそへ去っていたので、漂泊して帰れなくなった。しばらく生計を立てるすべがなかったので、その衣装を売り、銭万余を得、星貨舗[132]を市廛の間(「星貨舗」とは、李済翁[133]の『資暇集』[134]に見え、品物を並べて雑然としているさまが、星の繁多であるかのようであるのでいう。)に設けた。たまたま某翁というものがおり、やはり閩人で、市でぶらぶらしていた。ともに語れば、福建語であったので、喜んで言った。「わたしの同郷か。」そこで桑梓[135]の誼を述べ、しばしばともに往来した。張翁が誠実であるのを見ると、言った。「このように零細では、生活するに足るまい。あなたは昔、閩でどんな仕事をしていた。」張は言った。「わたしは昔、薬屋で学び、年を経ておりました。」某は言った。「だとすれば店を開き、薬を売れば、これよりましではないか。」張は言った。「もちろんでございます。資金がないことに苦しんでいるだけでございます。」某は言った。「わたしの資金で、あなたの力を借り、いっしょに店を開き、利があればともにしよう。」翌日、すぐ千両を出して張に授け、言った。「しっかりやってくれ。わたしは今から用事があってさらに閩に戻るが、後日また会おう。」張はそこですぐ中牟で薬屋を開いたが、薬を買うものは門に連なり、利益は三倍になった。張は一銭の収入も、かならず帳簿につけ、年末になると会計し、儲けがあれば、分けて二つにし、言った。「この店はわたしと某君の共有なのだ。」しかし某君は結局ふたたび来なかった。張はみずから閩にいって尋ねたが、その人は見つからなかったので、帰って嘆いて言った。「わたしはどうして某君に報いようか。」そこで某君が一年に得るべき額を計算し、別に蓄え、門に看板を懸け、盛大に施捨した。病人には施薬し、死者は納棺し、飢え凍えたものには衣服食料を与え、大凶作のときには、賑恤し[136]、数十年倦まなかったので、中牟ではかれを善人と称した。後にかれの家はますます豊かになり、その子は同治壬戌[137]に詞林[138]に入ったが、みなかれが善を行った報いであることを知った。ただいわゆる某君は、頭を見せて尾を見せなかったもので、とりわけ驚くべきであった。
わたしの外戚の臨平[139]姚家は、その遠戚に一人の妻がいたが、わたしの外王父[140]の尊属なので、わたしは会うことができなかった。言い伝えでは、かれは生前、姣麗[141]無双で、さらに両足が細く小さく、履を作って疲れるたびに、針と糸を髻に刺し、幇帛は耳の後に垂れ、わずか一枚の葉のようであったが、人は見えなかった[142]。そのためよく歩けず、歩くとかならず下女が扶け、姚美人の名は郷里に聞こえていた。今、臨平に美人埭[143]という地があるが、この妻によって名づけられたのである。かれの嫁はたいへん凶暴で、つねにかれの姑と立ちながら罵り、妻は懦弱でともに争えず、しばらく鬱鬱とし、結局、首を吊って死んだ。妻は翰墨に巧みで、死に臨んでみずから紙に書き、嫁が言い争ったありさまをくわしく述べ、懐に置いていた。その子は探しだすと、それを焼いた。嫁は言った。「およそ縊れて死んだ人は、下に遺魄[144]がありますが、掘り出さなければ、さらに祟ります。」そこで地を深さ数尺掘ると、ほんとうに炭のようものが一つ見つかったので、やはり焼いた。わたしは幼い時にかれの家を訪ねたことがあるが、家はなお暖衣飽食していた。乱の後、再び訪ねると、一人も人がいなくなっていた。字は蓉斎というものがおり、わたしにとってはおじであったが、賊に攫ってゆかれ、最期は知れなかった。ああ。かれの先祖にこのようなことがあったのに、かれの子孫の繁栄する望みがあれば、それは天道がないということである。
道光年間、臨平の農村に一人の娘がおり、中年以後、奇病を得、口は話せず、肢体は動けず、その耳目も見聞きしていないかのよう、昼夜牀に臥し、塊然[145]としてすでに死んだ者のようであった。しかし肌膚はまだ温かく、口鼻にはなお出入りする息があった。医者にその脈を取らせると、そもそも病はなかった。その嫁たちが一定の時間に粥を飲ませると、なお飲み下せたが、飯は咬めなかった。このようにすること五六年であった。ある日、朝起きると、飲ませようとしたが受けず、撫でれば冷たかったので、はじめてかれがすでに死んでいることを悟った。当時は喧伝せられ、珍しいこととされた。按ずるに、紀文達の筆記の中に一事があり[146]、これと似ているが、あちらは男子で、こちらは婦人であることが、異なっている。文達は、心は死んで体は生きているのだというが、わたしは、魂が去って魄が残っているのだと思う。『左伝』は子産の言葉を載せていう。「人生はじめて化すれば魄といひ、既に魄を生ずれば、陽を魂と曰ふ。」わたしは火によって喩えたことがあるが、人の肉体は、薪を集めて束ねたかのようである。火の中に置けば、ほどなく薪が火に化するが、これがいわゆる「人生はじめて化すれば魄といふ」で、にわかに炎炎焱焱[147]として、光焔が昇るが、これがいわゆる「既に魄を生ずれば、陽を魂と曰ふ。」なのである。人が死ぬと、魂は昇り、魄は降るが、やはり灯が消えるかのようで、煙が上に散じ、炭が下に落ちるのは、そのつねである。この妻などは、その魂はすでに去ったが、その魄はなお遺っていたもので、まさに光がすでに消えたが火が絶えていなかったかのようなものである。そこで姚家が遺魄を掘ったことを記し、ならびにこのこと[148]を記し、さらに魂魄の義をこのように[149]説く。また魂魄とは、生前の名で、死後は鬼神となる。孔子はいう。「衆生はかならず死に、死ぬとかならず土に帰る。これを鬼という。その気が上に発揚して明らけく、T蒿[150]凄愴[151]たるものは、百物の精であり、神のいやちこなものである。」生きている時は魂魄といい、死ねば魂は昇って神となり、魄は降って鬼となることが知れる。魂は昇り、魄は降るので、ひとまず生きている時の名で呼ぶ。その実、魂は火の光で、死んで昇るのはその煙にすぎない。魄は火の火となるゆえんのもので、死んで降るのはその煤にすぎない。姚家が掘ったものを見れば、その形は炭のようであったのだから、まさにその理を証明することができる。
唐西鎮の人伊介春には、翠姑という娘がおり、幼い時から木氏の子と婚約していた。木の家は鎖条橋といい、隔たること遠くなかった。後に木氏の家は日に日に没落し、介春はひそかにその妻と謀り、その結婚を絶とうとしていた。翠姑はそれを仄聞すると、鬱鬱として楽しまなかった。咸豊末年、賊が杭州を陥れ、農村はみなたいへん乱れ、介春は妻女をひきいて滬瀆[152]に走り、ほかに娘のために婿を選び、話を纏めた。翠姑はことが切迫していることを知り、縊れて死んだ。このことをわたしは次男の嫁から聞き、たまたま筆記第十五巻を草しおわったので、巻末に記した。そのことは平凡であって奇抜でなく、志怪の例に合わないようだが、稗官小説は、節義を表章することを事としなかったことはない。先大夫[153]の『秦淮烈女篇』[154]に「われに風化の権なければ、わづかに筆一枝を操るのみ。」という。わたしの筆記にこれらのことを載せたのは、この趣意のようなものか。
最終更新日:2015年12月15日
[3]http://zh.wikipedia.org/wiki/Template:%E5%85%89%E7%B7%92%E5%85%AD%E5%B9%B4%E5%BA%9A%E8%BE%B0%E7%A7%91%E6%AE%BF%E8%A9%A6%E9%87%91%E6%A6%9C
[5]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3348284.htm&sa=U&ei=fKWaTvnkN-mTmQXz9o2hAg&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNF3R8hsDIaIRQmIyOkeDtNwdQVNRQhttp://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E9%9F%AC%E5%85%89%E5%AF%BA&lr=&gs_sm=e&gs_upl=1781l1781l0l2453l1l1l0l0l0l0l172l172l0.1l1l0&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi
[6]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1734674.htm&sa=U&ei=y4aoTpCXBJDRmAXk3rDEDw&ved=0CA8QFjAA&usg=AFQjCNHzJ50ly4dw5JMgrJu4JND6DDUTVQ
[8]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/41737.htm&sa=U&ei=9_2UTqO3B8bImAWf953XBg&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGoxI7tnCToNQ-OpQs0uHSM4KO74Qhttp://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E7%8E%84%E7%A7%98%E5%A1%94%E7%A2%91&lr=&gs_sm=e&gs_upl=1406l1406l0l1750l1l1l0l0l0l0l250l250l2-1l1l0&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi
[9]原文「並以其九歲之子所臨玄秘塔碑授花農、微寓托孤之意。」。『玄秘塔碑』を授けることがどうして「遺児を託する思いをかすかに寓」することになるのか未詳。
[10]原文「視君之子、敢不如己之子。」。未詳。とりあえずこう訳す。
[11]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicA4Zdic99115291.htm&sa=U&ei=uv6UTrmtI4WdmQXqmaSOBw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNG5BhoXuKOH5TxtgfeupJ3Ku9itSQ前生の縁。
[12]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1513.htm&sa=U&ei=cYeoTtP6LsLrmAX2tszZDw&ved=0CBcQFjAB&usg=AFQjCNHFRkPEIk9nWUMbYa8AnFaQBkGfQg
[13]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1567794.html%3FgoodTagLemma&sa=U&ei=L_-UTvG5HJGVmQW6t7DsBg&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEILIXgCGSmJK2okdoqEzNyGfhTNw
[14]夭折のこと。『楊荆州誄(並序)』「毁璧摧柯。」李善注「言コ業之美、類於蘭玉。始含芳而積耀、遽毁璧而摧柯、言早夭也。」http://webcache.googleusercontent.com/search?hl=zh-CN&lr=&gs_sm=e&gs_upl=4031l4031l0l4343l1l1l0l0l0l0l125l125l0.1l1l0&q=cache:ZOlu9RmnKREJ:http://www.guoxue.com/jibu/wenxuan/wx_057.htm+%E6%AF%81%E7%92%A7%E6%91%A7%E6%9F%AF%E3%80%80%E6%96%87%E9%81%B8&ct=clnk
[15]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE5ZdicB1ZdicB131117.htm&sa=U&ei=fcSTTs_nJqH3mAXRkdiHBw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNFGQXOvAHi-AmdAiDiZg6pIKNv7dQ山上の樹木が、有用の材に成長したために、人に伐られること。有用であることによって禍を免れないことの比喻。
[16]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE8Zdic86Zdic8F74571.htm&sa=U&ei=54eoTor5CK7HmQWhk9TDDw&ved=0CBcQFjAC&usg=AFQjCNFKLJLxzSAy87wubeHsVAnIPj5QCw油脂が照明にできることによって燃やされること。人が才能財産があることによって禍を得ることの比喻。
[17]原文「殺君馬者道旁兒」。「あなたの馬を走らせて殺すのは、路傍で馬に喝采している人々だ」ということ。人に好まれている人が長生きしないことの喩え。温端政主編『中国俗語大辞典』七百六十六頁参照。『風俗通義』佚文「殺君馬者道旁兒、俗説、長吏食高禄、芻稿豊美馬。馬肥稀出、路傍小児観之、却驚致死。」
[18]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/24/ZdicE8ZdicA1Zdic8B198409.htm&sa=U&ei=DsWTTr_yA6-OmQWX_sTZBg&ved=0CBIQFjAB&usg=AFQjCNHNbdrXgGWXd3vGRF9PxSQ0d9Bj7Q悲傷痛惜のさま。
[19]原文「聞余氏婢甚善、且其主人不責直」。「責直」は、せっついて値を吊り上げることであろう。
[21]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6ZdicB4Zdic973198.htm&sa=U&ei=VoyoTuThG8rFmQX-6oX3Cw&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNEAIPeu36AVoJPHk3fprOy7DbVE9w嬰児の出生後三日あるいは満月の時にその体を洗ってやること。
[22]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5Zdic8DZdic979652.htm&sa=U&ei=VP2WTtXrArDLmAXE4_yBAg&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNH-UvbOjfnN-wWZI0BPvJUSgJbyfw田畑。
[23]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE6Zdic9AZdic9118713.htm&sa=U&ei=af2WTt2zCOjymAWelYjtAQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFIlcsfB6XyOdyY2IH_qGfsj4_GKA夏の大雨、冬の大寒。
[24]太平天国軍
[25]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE8Zdic97Zdic8960159.htm&sa=U&ei=srOaTr3PM4fnmAXa57D4AQ&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNGoNyxu9LCiM7heKWEN9cKblKzoQQ衆多雑乱のさま。擬音語。
[27]原文「其絇內向」。未詳。とりあえずこう訳す。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic86Zdic8594526.htm&sa=U&ei=taCgTpe0KcGziQe5ob3KBg&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNGec28tYVU8nvuPJ6r9vsH17A1eeA
[28]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB1ZdicB1288033.htm&sa=U&ei=P46oTvS-F-KJmQXmwJjADw&ved=0CBkQFjAE&usg=AFQjCNGoWJOskTQwMXhVRgcTd58zU5uRtQ南朝宋の劉敬叔『異苑』卷二「魏時、殿前大鐘無故大鳴、人皆異之、以問張華。華曰、此蜀郡銅山崩、故鐘鳴応之耳。尋蜀郡上其事、果如華言。」後に「山崩鐘応」によって事物がたがいに感応することを喩える。
[29]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicA4Zdic96122062.htm&sa=U&ei=SOeTTrbLDI2imQWh0tGTBw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNFm_oeO3O2puAFUyX_VndAndkcRug表弟。姑舅兄弟をもいう。
[30]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8ZdicBCZdic80209956.htm&sa=U&ei=e-OTTq-MMYHZmAWP7LD4Bg&ved=0CBIQFjAB&usg=AFQjCNGtLY0pZPOArf1HLHIF3SgtTjWBpQ「輭車」とも。「轜車」とも。棺柩を載せる車。
[31]原文「狐死首丘」。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7Zdic8BZdic90317774.htm&sa=U&ei=-eOTTsjiIsT0mAX8kLSABw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNH4mKoh1VZwQ6OXabZd8qsURTr8Ww『礼記·檀弓上』「太公封於営丘比及五世、皆反葬於周。君子日、楽、楽其所自生、礼、不忘其本。古之人有言曰、狐死正丘首、仁也。」陳澔集説「狐雖微獣、丘其所窟藏之地、是亦生而楽於此矣。故及死而犹正其首以向丘、不忘其本也。」後にこれによって「狐死首丘」で郷土に対する思いを喻える。
[32]原文「葉落糞本」。用例http://webcache.googleusercontent.com/search?hl=zh-CN&lr=&gs_sm=e&gs_upl=2734l5281l0l6125l5l4l0l0l0l1l266l766l0.3.1l4l0&q=cache:NV0OZ7DgAM4J:http://www.chazidian.com/shici150753/+%E8%91%89%E8%90%BD%E8%83%BD%E7%B3%9E%E6%9C%AC&ct=clnk
[33]ここでは季子のこと。
[34]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE8ZdicB5ZdicA2156671.htm&sa=U&ei=PeCTTpq-NqLSmAXTgsSRBw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGsoRJyM8UlRC78thD3V64vVVr4mg春秋時の斉国の二つの邑名。漢代ならびに県を置いた。贏県の故城は今山東省莱無市西北にあり、呉延陵季子長子の墓がある、博県はまたの名を博陽といい、故城は山東省泰安市の東南にある。
[36]主語は隣人であろう。
[37]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE4ZdicBEZdic8435185.htm&sa=U&ei=OayoTqLKIIH3mAXw6dzBDw&ved=0CBIQFjAB&usg=AFQjCNGxVeAP6OfUmXqpvbL6N0p0qrln-A兄弟の孫。
[39]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2801355.htm&sa=U&ei=R7qoTr65OqmaiQfDhvSnDg&ved=0CBYQFjAC&usg=AFQjCNG_70cprqIIzimB9Hlx4lQzxqBCIw
[40]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic97Zdic8F161545.htm&sa=U&ei=bSOYTrHdPM34mAXI2YSfAg&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNE-6r0uHwxA7CbZzq1nFB_Q78pPaQ高祖を同じくする兄弟。またひろく同族同輩の人を称する。
[41]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicB9ZdicBD118446.htm&sa=U&ei=J9SiTs_aNuLZmAWWoemWCQ&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNH_f3qqPsy_4i6hbGXfn-39v4eSTw隠れた輝き。人の品コを指す。
[42]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E7%89%9F&lr=&gs_sm=e&gs_upl=1218l1218l0l1406l1l1l0l0l0l0l125l125l0.1l1l0&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
[43]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBAZdicB242116.htm&sa=U&ei=e8SoTsCLPO3wmAX9uPGnDw&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNHxxSf22wBc_nfiJjZRF94Vnw5piAひろく親戚の家を称する。
[44]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/227361.htm&sa=U&ei=ZcSoTrLaB-rEmAWbw6XGDw&ved=0CBcQFjAC&usg=AFQjCNGm-UBnkdLHwkbnSJMGtRxcFAzA2g
[45]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE5Zdic82ZdicAB21556.htm&sa=U&ei=bRSVTse6DPGWmQXQ6f2CBw&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNE2g_miWLufweAqCD9gpGg6Hlsp-g頽唐のさま。萎靡不振のさま。
[46]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8991990.htm&sa=U&ei=1weUTo2YB-PkmAXW9qDoDg&ved=0CBwQFjAC&usg=AFQjCNHME1MN9MACXnbfJMSQG4wAZYlnjA『左伝·定公十三年』「三折肱知為良医。」いう何度も手臂を折れば、折れた臂をいやす方法をしれること。ある事に閲歴が多く、経験に富めば、自然に造詣が深くなることの喩え。
[47]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E5%94%90%E6%A0%96%E9%8E%AE&lr=&gs_sm=e&gs_upl=1078l1078l0l1265l1l1l0l0l0l0l94l94l1l1l0&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
[48]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicB8Zdic85324968.htm&sa=U&ei=mgmUTsTuGOLvmAW5yeyGBw&ved=0CBYQFjAC&usg=AFQjCNELj0f1SZOT-4bjomsAv2KipNQEpg痴顛。放逸不羈。
[49]『左傳』文公十六年
[50]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&lr=&gs_sm=e&gs_upl=1406l1406l0l1625l1l1l0l0l0l0l109l109l0.1l1l0&q=%E5%A1%98%E6%A0%96%E9%95%87&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
[51]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicA4Zdic96119430.htm&sa=U&ei=fw2kTtjeM9D3mAWcp9SMCQ&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNFddm8NiGZKDGl9Zh-LrNSdz0DG5w
http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicA4Zdic96117747.htm&sa=U&ei=lg2kTsqzBNHqmAX3yeChCQ&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNE1cPCyDaRQn4N6Hdwjzlxn-Btq0g苗字の違う従兄妹同士
[52]原文「而亦以為請」。もう一人の娘と同様に、童養媳として嫁入りさせることを願ったということ。
[53]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicABZdicA5101166.htm&sa=U&ei=dw-UTsrqDonFmAXeobiNBw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNHMSZBv-qlhaJbxEWwHzuW5pJ0Xjw幼女を引きとり、かれが成長するのを待って嫁にすること。
[55]原文「讒龗」。未詳。とりあえずこう訳す。
[56]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicAFZdic87216952.htm&sa=U&ei=SBCUTtiRGoTNmAWO19DYBg&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNHyX3wstcHODT0oEyUVeW5N9yDbig内乱外患によって造られた災難。敵の侵犯の難を受けることをもさす。
[57]童養媳に同じ。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicABZdicA5174517.htm&sa=U&ei=i-ioTsj6I62bmQXGu8ygDw&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNEswAXlRuxM5V_J5BCAsa-iJ8YP5Q童養媳婦http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicABZdicA5192825.htm幼女で人に引きとられ、成長して人の嫁となる者。
[58]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic85ZdicB823946.htm&sa=U&ei=Ev-WTZroJI-ycZ310agH&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNEAFtdeUtK4Axiyg4EOaSR3YtTJyA官名。元が始めて置き、明清も置いた、知県の下で緝捕、監獄を掌管する属官。県丞、主簿がいなければ、典史がその職を兼任した。
[59]http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%B8%85%E7%95%B0%E9%8C%84/%E8%94%AC%E8%8F%9C%E9%96%80#.E7.AC.91.E7.9F.A3.E4.B9.8E
[60]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicACZdic91226844.htm&sa=U&ei=jkuUTvTLBqH3mAXRkdiHBw&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNF9pT8JVoKUkNZANrftudBDoPBCVg笑いを自ら禁じることができない病。
[61]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B1%9F%E8%8B%8F%E7%9C%81%E8%8B%8F%E5%B7%9E%E5%B8%82%E5%B9%B3%E6%B1%9F%E5%8C%BA%E9%A9%AC%E5%8C%BB%E7%A7%91&lr=&gs_sm=e&gs_upl=2375l2375l0l2890l1l1l0l0l0l0l187l187l0.1l1l0&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
[62]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/4633381.htm&sa=U&ei=hU6bTtaJKKaKmQWC6aD0AQ&ved=0CCIQFjAF&usg=AFQjCNERLN0aA9cfT7dO0-NszocBa28okA
[63]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE8Zdic96Zdic9C331717.htm&sa=U&ei=r0yUTueuHObHmAXD9vGGBw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGdQ5k0tR4lzTq0sjUIrYDcoHdrtQhttp://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E8%96%9C%E8%8D%94&lr=&gs_sm=e&gs_upl=2031l2031l0l2375l1l1l0l0l0l0l281l281l2-1l1l0&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi
[65]「鬻」の「米」が「孛」の字。湯が沸くさま。
[66]裴度のことか。曾惇『書事十絶』「吾君見事若通神、兵柄收還号令新。裴度只今真聖相、勒碑十丈可無人。」ただ、裴度「賊が斬っても死な」なかったという話は未詳。それとも、単に「聖相」の例として裴度を挙げただけなのか。http://baike.baidu.com/view/21959.htm
[67]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic9CZdicA3194593.htm&sa=U&ei=gU-UTsypG4qCmQXp_KWNBw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEjNy7azx0bM69HR8ggwnzKk_OERQコ行才智が卓越した大臣。後にもっぱら賢能の宰相を指す。
[68]http://www.google.com/url?q=http://guji.artx.cn/article/27366.html&sa=U&ei=ZveoTrTEIoaJmQX16bTXDw&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNGtzVmHWEydTF-ollCFIc9TmxS9Dw
[69]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic86ZdicA526499.htm&sa=U&ei=wk-UTq66L87SmAX2r_zWBg&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNFC-4k2372gXOcz5rSvcV3N4jVsyQぼんやりとしてとらえどころがないさま。
[70]http://www.google.com/url?q=http://guji.artx.cn/article/27366.html&sa=U&ei=ZveoTrTEIoaJmQX16bTXDw&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNGtzVmHWEydTF-ollCFIc9TmxS9Dw
[71]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9Zdic9BZdic89277813.htm&sa=U&ei=bFCUTob-KMrPmAWE5ejnBg&ved=0CBAQFjAB&usg=AFQjCNF2RgAqumLIgK7tDGAAaXbryX-H9w雉尾扇http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9Zdic9BZdic89267038.htm&sa=U&ei=QRWpTrf4DInwmAX72tC-Dw&ved=0CBMQFjAC&usg=AFQjCNE2jY9RinTlSZwjokh0h0YFEH2j3Q帝王の儀仗用具の一つ。http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E9%9B%89%E5%B0%BE%E6%89%87&lr=&gs_sm=e&gs_upl=1094l1094l0l1297l1l1l0l0l0l0l109l109l0.1l1l0&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi
[72]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7ZdicA5Zdic88168180.htm&sa=U&ei=vlCUTqaRHa_qmAWR4_2BBw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNFyyVG5BVm25qakTNJNB5_j1DKRSg社を祀り、春夏に祈祷し秋冬に報告すること。
[73]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/69814.htm&sa=U&ei=9BWpTvD7B-mdmQWT7ZTPDw&ved=0CB4QFjAD&usg=AFQjCNG-vDEiDJufk5WwEhGvWfKbVdSqRQ
[74]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikisource.org/zh/%25E9%2587%258E%25E5%25BB%259F%25E7%25A2%2591&sa=U&ei=IBapTrHjDeGimQXHotzRDw&ved=0CDAQFjAI&usg=AFQjCNEoRpQLNTSnpVM05CIoRYdq1021Pg
[75]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB1ZdicB1308869.htm&sa=U&ei=dR2VTv3sDqnNmAXgo8XeBg&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGjvDRmU7lILCxiFj5H2h1oB42RuA山頂
[76]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/18/ZdicE7Zdic9EZdicBB291054.htm&sa=U&ei=o1GUTs21CMfQmAXFpsX4Bg&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNHL2MkzOJCWCNcxw4PRu8KUGOsq8Q瞻仰礼拜すること。
[77]改葬の時に着ける喪服。「改葬緦」注「謂墳墓以他故崩壞將亡失尸柩也。言改葬者、明棺物毀敗改設之如葬時也。其奠如大斂。從廟之廟從墓之墓禮宜同也。服緦者臣為君也、子為父也、妻為夫也。必服緦者親見尸柩不可以無服緦。三月而除之。」
[81]未詳
[82]春秋公羊伝と穀梁伝
[83]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/222400.htm&sa=U&ei=LpmbTvD0Gu3vmAWt6qGVAg&ved=0CA8QFjAA&usg=AFQjCNGRME3Uf3DOD471WuxKysTgepH27A
[84]未詳
[85]未詳
[86]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/5782.htm&sa=U&ei=7BqpTpC0G4jSmAXzyKG1Dw&ved=0CBkQFjAE&usg=AFQjCNGk3CEOxbpCphEjNrWCbFzZBdn2Eg
[87]正一真人。正一嗣教真人。正一道の教主張天師のこと。官名。龍虎山正一真人。正三品。『清史稿』巻一百十五・僧道錄司参照。龍虎山は江西省広信府の山名。張道陵の子孫が代々居住していた。
[88]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE8ZdicA1Zdic94114982.htm&sa=U&ei=FVaUTo-oA8_3mAWt2NnZBg&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNFfU1uCTnLCc8_x4DoUIy0BSG9vzA鶴が猟師に射られ、噲参がその傷を療やして放ったところ、鶴が夜に明珠を銜えて参に報いにきたという。また、隋侯が出行し、大蛇が傷を負っていたのを薬で療やしたところ、蛇が明珠を銜えて報いたという。『淮南子·覧冥訓』漢高誘注、 晋干宝『搜神記』卷二十参照。
[89]未詳
[90]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBFZdicA1329380.htm&sa=U&ei=_VaUTs3NMpD0mAXZ0LH1Bg&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNHiZ0cNccVp_Q1-L6KclLvfhO9DFw紀事が真実で信じられ、文飾のない史籍。
[91]原文同じ。「唅呀」に同じであろう。口を開けるさま。http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic94Zdic85108125.htm
[92]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE9Zdic9CZdic9C264789.htm&sa=U&ei=JiOWTr_bHqHmmAXb2uWKAg&ved=0CA8QFjAA&usg=AFQjCNFNVWrZeSzOzmXC47_OEuYrfC1Llw明亮鋒利の戈戟。
[94]原文「米麺稱是。」。未詳。とりあえずこう訳す。
[95]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic90Zdic9E104741.htm&sa=U&ei=ujapTs2wDcjvmAW6gvSsDw&ved=0CBoQFjAC&usg=AFQjCNFo4IRP4rBKrc5Dg3CpSd9XTwwH1Q舟を吞める大魚。
[96]未詳
[98]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E9%B0%B1%E9%AD%9A&lr=&gs_sm=e&gs_upl=1250l1250l0l1547l1l1l0l0l0l0l266l266l2-1l1l0&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wihttp://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/74793.htm&sa=U&ei=XDepTuHWJ-KKmQWEkOTJDw&ved=0CBcQFjAA&usg=AFQjCNGt_XAdBHZwXlVwBoqpmpcp-IsosQ
[99]原文「夫婦皆居肆中」。未詳。とりあえずこう訳す。夫が客商として故郷を離れていなかったということをいっているか。
[100]原文「且買良材為作棺櫝。」。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6ZdicA3ZdicBA134360.htm&sa=U&ei=TiGVTrq_EuT0mAXw142NBw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGEWYx8SgpLuXMAmogixqGfF1k4tQ漢典は「粗劣的小棺。」と説くが、ここでは「よい材木を買って」とあるから単に棺の意味であろう。
[101]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/18155.htm&sa=U&ei=yj-pTorJHefwmAXki4GzDw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNH5IZsWYvt6DBMVQ6qLS3POa5HsVw
[102]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1281276.htm&sa=U&ei=4j-pTrKuI6T2mAWf3MjDDw&ved=0CB8QFjAE&usg=AFQjCNFujEawfLtWTlmj23iFlofu5MgNMghttp://open-lit.com/bookindex.php?gbid=65http://yuzhi68.web.fc2.com/zibuyu.htm
[103]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E8%87%A8%E9%A0%93%E8%B7%AF&lr=&gs_sm=e&gs_upl=1063l1063l0l1329l1l1l0l0l0l0l156l156l0.1l1l0&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
[105]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1930322.htm&sa=U&ei=jECpTp6QGeKJmQXmwJjADw&ved=0CBUQFjAC&usg=AFQjCNFVYGn4kHmPZnQ1zdX_tzjLOuDAYg
[106]原文「老夫女妻過以相與」。『易·大過』「象曰、老夫女妻、過以相与也。」http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic9BZdicB859186.htm&sa=U&ei=J42kTqDkLcPqmAWUqfilCQ&ved=0CBIQFjAA&usg=AFQjCNHQbiecG5he9HuRKil5au6GLRKsxQ
[107]杜甫『漫興』其五http://www.google.com/url?q=http://www.ccview.net/htm/tang/shi/df264.htm&sa=U&ei=JUSiTurdNIn4mAXS47mMCQ&ved=0CB0QFjAC&usg=AFQjCNFvz-nnhZU1nSXMrXJ_uVgFQTSoOQ
[110]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/7286.htm&sa=U&ei=AESiTpClMe-fmQXNneCfCQ&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNHUOaYHJi12rmxdWPmxM_MBKQWoTw
[114]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic9DZdic80223567.htm&sa=U&ei=CM-YToqLHcX9mAXQuK36AQ&ved=0CBIQFjAB&usg=AFQjCNFzcLWfivxQZ-0lH5KYA3IavCKmhw人命を害し、財物を奪う。盗賊行為。
[115]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA6ZdicB98653.htm&sa=U&ei=E0CWTpHiEOHWmAWZ-Nz4AQ&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNHj9eQTNhpPQ0bBp8PKPDmaLa2Hyw伝説では夏の禹は九牧の金で鼎を鋳、上に万物を鋳、民に何物が善で、何物が悪かを知らせたという。
[116]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/20/ZdicE7ZdicBAZdic8136439.htm&sa=U&ei=adKYTo7ALYuJmQWb5eGSAg&ved=0CBQQFjAB&usg=AFQjCNG2ROkvvi16yUshjoNoupz3NayovA妻が礼物を持って姑に会う礼。
[117]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6ZdicB0Zdic94287482.htm&sa=U&ei=KjOVTsK2Cu6UmQXEnJ2PBw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEgmIQWrke-Ha1K8LKmSp6hDC37-A精気と身体。
[118]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicA8ZdicA3131666.htm&sa=U&ei=SzOVTstr7fSYBeLK8eEG&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGNP7eXIcD7MGQIU5j-yDA6HB3-Sg相嫁同士。兄の妻は姒、弟の妻は娣という。また、夫を同じくする諸妾の互称。年長のものは姒、年少のものは娣という。
[119]http://webcache.googleusercontent.com/search?hl=zh-CN&lr=&gs_sm=c&gs_upl=1547l1547l0l2828l1l1l0l0l0l0l78l78l1l1l0&q=cache:9fPR4Y5vPPUJ:http://zh.wikisource.org/zh/%E9%85%89%E9%99%BD%E9%9B%9C%E4%BF%8E/%E7%BA%8C%E9%9B%86/%E5%8D%B7%E4%B8%89+%E9%85%89%E9%99%BD%E9%9B%9C%E4%BF%8E+%E9%AD%AF%E5%85%AC%E6%89%88+wiki&ct=clnk
[120]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicA5ZdicB8218209.htm&sa=U&ei=XTWVTujcIarQmAX3wMxN&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNHvJ7-BI5UUFYZ9HCn6Q9KvYznAyQ奸邪によって寵を得ている人。
[121]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic9DZdic9F300968.htm&sa=U&ei=_TWVToaHOOHMmAWbiNyBBw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNG1vpPuqSR6fiXbS94WAIT042u3pA男子が成童の時に髪を束ねて髻にするので、成童の年を指す。
[122]原文「『列子』書言死之與生、一往一反。死於是者、安知不生於彼。」。http://webcache.googleusercontent.com/search?hl=zh-CN&lr=&gs_sm=e&gs_upl=1140l3797l0l4078l3l3l0l0l0l1l391l812l2-2.1l3l0&q=cache:wzSfwPrkeHYJ:http://www.guoxue.com/zibu/liezi/lz001.htm+%E5%88%97%E5%AD%90%E3%80%80%E4%B8%80%E5%BE%80%E4%B8%80%E5%8F%8D&ct=clnk『列子』天瑞篇に見える。
[123]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/26642.htm&sa=U&ei=tlGiTqmtI6PkmAWUq8CkCQ&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNGMW_Na2n6p8nq9QwzSp7-KVd_sKw
[124]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/226254.htm&sa=U&ei=xlGiTo_wGKfJmAWeuvicCQ&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNHV_WBpatib2KYQnu5PIOAFUqnH4g
[125]http://webcache.googleusercontent.com/search?hl=zh-CN&lr=&gs_sm=e&gs_upl=1672l7500l0l8110l20l18l0l8l0l2l172l1407l2.8l10l0&q=cache:24OmPKkh5qgJ:http://lib.ecit.edu.cn/guoxue/%D7%D3%B2%BF/%C6%E4%CB%FB/%CC%AB%C6%BD%B9%E3%BC%C7/390.htm+%E7%BE%8A%E7%A5%9C+%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%BB%A3%E8%A8%98&ct=clnk
[126]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/110672.htm&sa=U&ei=x0ypTtKSIqKDmQXtvKCnDw&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNF3pThTCKZa03WRyAONKaBQkLOcKghttp://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A2%E7%B2%B1%E9%8C%84
[127]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic9DZdicA1282775.htm&sa=U&ei=ME6pTtq3KcX4mAXpr7HCDw&ved=0CBQQFjAC&usg=AFQjCNFvrPk-4TJuFHISryLkB7a4WrViuA腕飾り。
[128]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic88ZdicAB101294.htm&sa=U&ei=8OWUTp6dNYPRmAXD8tGFBw&ved=0CBkQFjAE&usg=AFQjCNGr-pBdJb3wCg7VrnFrzoZZjiB_Bgほかに打算あるいは企図があること。『詩·大雅·桑柔』「自有肺腸、俾民卒狂。」鄭玄箋「自有肺腸、行其心中之所欲。」
[129]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2448234.htm&sa=U&ei=tU6pTvGzO8LImQX17uWvDw&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNE-z2PPklVNlneAhcIcvu1shhCeow
[130]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/747072.htm&sa=U&ei=xU6pTpyaNu-fmQWqzeTKDw&ved=0CBQQFjAB&usg=AFQjCNG5fFMTinC8e6EBcYBrFk_f2ESuEwhttp://www.google.com/url?q=http://zh.wikisource.org/zh/%25E6%2595%2599%25E5%259D%258A%25E8%25A8%2598&sa=U&ei=xU6pTpyaNu-fmQWqzeTKDw&ved=0CBYQFjAC&usg=AFQjCNFPkHLD5_tkjqzdF9AuKKKr8byAvA
[131]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic80Zdic9A327778.htm&sa=U&ei=FeeUTpPaC6fYmAXrjL3tBg&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNHyCgFq46x8mY99A1xbDRibo-WgTQ放肆で小節に拘らないこと。
[132]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic98Zdic9F302302.htm&sa=U&ei=_uuUTv-oEKnImAWB8rGFBw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNHzzLDl-TESpaL0LDWKKKDchOA6rw雑貨店。
[133]李匡乂、李乂、李匡文、李匡義とも。『四庫全書総目提要』巻二十三・『資暇集』参照。
[134]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3988900.htm&sa=U&ei=J-2pToW6EsbhmAXdt_HJDg&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNH0Z6ej5lyXGXyN0vuwmkDnlVl1Zwhttp://zh.wikisource.org/zh/%E8%B3%87%E6%9A%87%E9%9B%86
[135]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicA1Zdic9192165.htm&sa=U&ei=h-yUTpetE8b4mAW2oryGBw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEkGsoZyvOV0w7J5FawkaJphyAZmg故郷あるいは郷親父老。
[136]原文「歲大無、振之行之」。未詳。とりあえずこう訳す。
[138]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicAFZdic8D250489.htm&sa=U&ei=AF2pTqGuOK35mAXInrzMDw&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNHjm_kScwU3RA-OKlJTVlGtLtEwLQ翰林院
[140]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicA4Zdic96122027.htm&sa=U&ei=eFuiTrioC4mJmQWtrsigCQ&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNHTuWzzXkO_1d2ktu3Pri6f35jKoA外祖父
[141]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicA7ZdicA3128608.htm&sa=U&ei=OO6UToquDKPRmAXUmfyABw&ved=0CBYQFjAD&usg=AFQjCNGi4cW2QzK3mXsydRZjEQLumeTlVQ美麗。
[142]原文「幫帛垂耳後、才如一葉、人不見也。」。まったく未詳。とりあえずこう訳す。
[143]未詳
[144]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic97242100.htm&sa=U&ei=I2OZTqC0EouimQXL0b2ZCQ&ved=0CA8QFjAA&usg=AFQjCNE6w59MCCzlcQgkZoXRUHWozLpMCg人の死後に遺された魂魄。
[145]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic9DZdic9732565.htm&sa=U&ei=_vOUToOtJ46fmQXb87XrBg&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEDpbWHjpDrqWbj91egXItFxIg2nQ木然として無知のさま。
[147]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7Zdic84ZdicB1161634.htm&sa=U&ei=mPWUTs-jDuyJmQX8pq3cBg&ved=0CBEQFjAB&usg=AFQjCNEXJjO81xPU0U9_sKpUnCLOJMe4Kg光彩閃耀のさま。
[148]『左伝』の話
[149]「人の肉体は、薪を集めて束ねたかのようである。」ということ。
[150]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7Zdic84Zdic84164609.htm&sa=U&ei=hL-eTu-yDaHymAXa_qmfCQ&ved=0CA8QFjAA&usg=AFQjCNHgcEpyl1YJD3UrfW5C1mTVZKA-xQ祭祀の時に祭品が発するにおい。
[151]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic87Zdic8477021.htm&sa=U&ei=P_aUTpTxI9DymAWmnZn2Bg&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEBXs1OTiha0SwVOOAppJIonauKvg悲傷、悲凉。http://kotobank.jp/word/%E7%84%84%E8%92%BF%E6%82%BD%E6%84%B4 「T蒿悽愴」は香気が立ちのぼって人の心を恐れおののかすこと。鬼神の気の形容。
[152]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6ZdicB2ZdicAA45385.htm&sa=U&ei=D_yUTrmvKNHUmAX_35zWBg&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNE0BSqkkF_-Yz4KchDPLJnsuaUs6g古の川の名。呉淞江下流の海に近い処 (今の黄浦江下流)。
[153]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic85Zdic88106492.htm&sa=U&ei=TGOpTorzGILemAWp77W-Dw&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNFbO7NYppVWNXhVZW0RO1umykOZdA先父。
[154]未詳