右台仙館筆記/巻十

光緒六年[1]五月、浙江巡撫譚公[2]が上疏して「台州府天台県の民許治邦は乾隆三十五年に生まれ、同治十一年には百三、前の撫臣[3]楊昌浚[4]を通じ、慣例に照らして表彰を請い、あわせて上用[5]の緞子一匹、銀十両を賜りました。このたび、天台県の職員陳補過たちの上申に依れば、許治邦は今年百十一歳となり、長曾孫許尊周は光緒五年八月に二子を生み、次曾孫許尊賢も一子を生んだとのことでございます。許治邦は福溪[6]に住み、人は寿宇[7]に遊び、百齢を越えること十、五世が一堂に集まっています。こいねがわくは天恩の優渥に表彰したまわんことを。」と称し、「礼部に知らしめよ」という勅旨を奉じた。按ずるに、明の徐応秋[8]の『玉芝堂談薈』[9]は古来長寿の人で百数十のものを羅列してたいへん多く、国朝の趙耘菘[10]の『陔余叢考』[11]にも一則があるが[12]、『談薈』の多いのに及ばない。昔、その書を読み、いつもその尋常ならざることに驚嘆していたが、同時代にこうした人がいようとは思いもよらぬことであり、おそらく天壤の間にさらに第二人はいなかろう。

 

同年の魏嚏t士龍[13]が歿して神となったことを、わたしはすでに第七巻に載せた[14]。今度は、杭州の人に聞いたのだが、魏は元の名を然乙といったという。道光元年[15]に恩科郷試挙行した時のこと、魏はこの年の正月に夢みて天榜を見ていたが、その第一位は仁和の魏士龍であった。目ざめて探すと、仁和の学籍[16]にその人はいなかったので、みずから士龍と改名して夢に合わせた。しかしその試験では合格せず、甲辰[17]の恩科郷試なると、本当に第一位で合格したが、夢みた年から隔たること二十四年であった。按ずるに、世俗ではつねに夢みて天榜[18]をみるものがいることを語っている。載籍[19]を調べると、唐人の『前定[20]に載せているが、「陳彦博が夢みて都堂[21]にゆき、見ると調度がたいへん立派で、庭の幃幄は錦繍で飾られ、中に一榻が設けられ、几案が列ねられ、上に尺牘があり、望めば照り輝いて金字のようであった。」という。彦博がひそかに尋ねると、言った[22]。「来年の進士の名で、上界の官司に送って閲覧させるのだ[23]。」これは天榜に近いが、榜とはいわない。また『感定[24]に載せているが、元和初年に進士李固言が受験し、ふと夢みて榜を見たところ、李固言が第二位で及第していた。これは榜といって、天榜とは言わない。天榜の話は世俗が伝えているものである。しかし唐、宋以来、士は科名[25]を立身の階梯としているので、冥冥[26]の中であらかじめその名簿を定めることがあるかもしれず、やはり怪しむに足りない。ただ魏は道光二十四年[27]に郷試に合格したのに、道光元年にさきに夢に現れたのは、なんと速いことか。わたしと許仁山[28]閣学[29]、応敏斎[30]廉訪[31]は、いずれもこの科で合格したものであった。この、三人は年がみな二十四で、そもそもみな道光元年に生まれていたのであった。許は七月に生まれ、応は十月に生まれ、わたしは十二月に生まれているが、魏が天榜を夢みた時、わたしたち三人はいずれも生まれていなかったが、天榜の中にわたしたち三人の姓名があったのだろうか。もしなかったならば、この榜は完全でない。もしあったならば、世間にまだその人がいないのに、どうしてにわかに榜に列ねることができるのか。それにわたしは生まれて六なった時、先大夫がまずわたしを森と命名し、後に今の名に改めたのである。名さえ定まっていなかったのに、鬼神はどうしてあらかじめ知ることができたのか。これは不可思議である。

 

説文[32]に、「孑」は、右腕がないこと。「は、左腕がないこととある。わたしは、左右の両腕がない人も、たいへん少ないのに、古人はどうしてわざわざこの二字を作ったのかと思う。『左伝』「師に孑を授けて以て随を伐つ」[33]によれば、この「孑」は兵器であるので、疑うらくは「も兵器であろう。その説はくわしく『第一楼叢書』[34]六の四に示してある。しかし長男の妻樊氏が言うには、昔、父が中州に宦遊するのに従い、某宦の家の妹に会ったが、容貌はたいへん美しかったものの、左右の腕がなく、尋ねると、生まれつきこのようで、折ったのでないと言っていたそうである。この女は飲食用便の一切に人を必要としていた。冬は衣が厚いので、あまり気づかなかったが、夏になると、紗[35]の衣で、はっきりと見え、両袖の中は空洞で物がなく、まったく見られなかった。そのため女は夏は隠れて出ず、親戚も会うことはまれであった。聞けばかれの兄と嫂はたいへん賢く、この女は家を出て舅姑に仕えられないし、空閨で一生を終えさせるのも忍びないので、ある寒士を家に招き、婿にしようとしたそうだが、その後それを果たしたかは知らない。この女は本当に孑二形を兼ねていた。

 

河南孟県[36]の民某甲は、あつく神仙修煉の術を信じ、呂仙をたいへん崇め、つねに一見できないことを恨みとしていた。ある日、ひとり西嶺[37]の湯王廟に遊び、徘徊遠望し、会うものがあることを願っていた。すると突然人が衣嚢[38]を負って匆匆としてやってきた。見ると、古馴染みの某乙で、梨園の俳優であった。かれは甲に尋ねて言った。「何を考えている。もしやまた呂仙に会おうと思っているのか。呂仙は天上にいるから、どうして会えよう。しかたない。わたしが呂仙に扮してあげるがよいか。」(『説文』に、「扮」は「粉」のように読むとある[39]。しかし『広韻』[40]三十一に「扮」の字があり、「打扮(よそおい)である」と訓じ、音は哺幻切[41]であるから、この言葉も古いのである。)そして衣嚢を解き、冠服を出して服し、星冠[42]霓衣[43]となり、背に長剣を負い、手に麈尾[44]を執り、言った。「呂仙のように見えるか。」「とても似ている。」乙は言った。「それなら呂仙もこのようなものに過ぎない。会うことを求めてどうする。ここから十里ばかりに某村があり、劇を演じ、わたしが登場するのを待っているから、わたしは去ろう。」そして服している帯を解き、ふたたび嚢の中に置き、負って去った。甲はしばらく惘然とし、かれもゆっくり歩いて某村にゆき、俳優を見ようとしたが、寂として何もなかった。村人に尋ねると、みなそうしたことはないと言ったので、たいへん怪しんだ。後日また某乙と会い、どうしてわたしを騙したと尋ねた。乙は言った。「あの日わたしはまったく君に会っていない。どうして騙すことがあろう。」そして会ったのは本当の呂仙で、間近で気づかなかったことを悟った。

 

孟県城の西門外に古い怩ェあり、それがいつの時代の誰なのかは分からなかった。怩フ上には槐の樹が三本あり、俗に三槐墳といい、昔、器物を人に貸すことができた。およそ人の世で吉凶があって必要となる器物は、大きいものは卓椅、小さいものは盤子、疊子の類である(「盤子」、「疊子」はともに唐の貞元十三年の『済瀆廟北海壇祭器碑』に見え、今「碟」とするのは、誤っており、「疊」とするべきである)。一日前に香を焚き、紙銭を燃やし、墳に祈れば、翌日すぐに墳の前に列なり、人が取って用いるに任せた。後に、借りたものが時を経てもしばしば返さなくなると、祈っても験がなくなった。按ずるに『続耳談』に、済源県北海廟が人に金を貸すことを載せている。金を借りようとするものは神に祈って、[45]判断する。神が承諾すると、証文を祠の前の池の中に投じるが、その金額通り銀が浮かび出るのであった。借りたものは期日どおりに元本利子を調え、祭り、感謝して投じると、金が沈んでもとの証文が浮かび出るのであった。そもそも神が人に金を貸すことからして、怪しいことである。塚の中にあるものにいたっては、明器の類に過ぎず、どうして生きている人が用いる物があることができよう、さらに不可解である。

 

孟県民李某は、夜歩いていて鬼に嬲られ、たいへん恐れた。望みみると行く手に燈の光があり、走ってゆくと、小屋三間があり、中に一人の娘がおり、言った。「鬼を恐れられるならば、この門の外にお泊まりください。それなら障りございません。男女には区別がございますので、どうか部屋に入らないでください。」李は従い、地に伏した。女はさらに言った。「朝になりましたら、はやくゆかれるべきでございます。朝になれば用事がございますので、どうか邪魔しないでください。」夜明けになって見ると、小さな怩フ傍らにおり、まったく家がなかった。するとにわかに数人が来て怩発き、棺を担いで去った。尋ねると、言った。「棺の中は某家の処女で、嫁がないで死にました。今、かれの父母は嫁殤[46]の法によって某氏の子と冥婚させますので、その棺を移し、ともに合葬するのです。」李はそこで「朝になれば用事がございます」の意味を悟り、かれが自分に恩を施したことに感じ、紙銭を買って焚いてやった。

 

孟県城の西南の路に溝が三本あり、その地を三道溝という。昔、人がかすかに酔い、夜歩いて溝の中に入ったが、見ると洞門が半ば開き入ると、燈が暗然とし、消えようとしていた。その人がすぐにかきたてると、燈の光はまた明るくなり、振り返って見ると、燈の後ろに銀一錠があったので、懐にして帰った。家に着いて見ると、上に「挑燈銀五十両。」の字があった。以上の孟県のこと三則は、いずれもわたしの門下の士宋伯言桓坊が言ったことである。宋は孟県の人で、わたしが咸豊七年に合格入学させたものである。

 

人が冬に酒を飲み、たいへん酔って家に帰り、途中までゆくと、蹶然として倒れた。里長が通ってそれを見、死んでいると思い、その仲間二人に見守らせ、みずからは街に入ってお上に知らせた。その夜は大雪が降り、見守っていたものはたいへん寒かったので、蘆の席で屍を掩うと、みずからは穴倉に入って寝た。夜半に酔ったものは突然目醒め、すぐ起きて家に帰った。見守っていたものが戻ると、屍が失われていたので、官に責められることを恐れた。そこで某家の男子が死んでわずかに数日で、埋めてある場所が遠くないことを思いだし、発いて取り、負って帰り、ふたたび蘆の席で掩って見守っていた。翌日、お上がきて屍を調べると、酔ったものはそれを聞き、自分のために来たことを知り、役所にいってみずから述べ、言った。「本当に死んでおりません。昨日はたまたま酔って臥していたのでございます。」お上は言った。「それなら屍はどこからきた。」見守っていたものに尋ねると、見守っていたものは隠せず、真実を語った。お上が調べると、屍の生え際に本当に傷痕があった。そこでその妻を捕らえてき、夫の死んだ状況を尋ねれば、もとより人と密通してその夫を殺したものであった。そこで妻を法律通り裁いた。

 

甥に二十万銭の負債があるおじがおり、償う力がなかったので、死んだら牛になって償おうとみずから言っていた。その後、その舅が死ぬと、甥の家でその日すぐに一匹の(こうし)が生まれた。甥はそれが舅であることを悟り、特別な牛として養った。出遊するたび、かならずかれとともにしていた。ある日、路で一人の叟に会ったが、盆盎[47]の類を負って市で売っていた。牛はあやまってぶつかり、その盆盎を砕いたので、叟は怒って牛を打とうとしたが、甥はいそいで止めて言った。「これはわたしのおじでございますから、どうか打たないでください。わたしは盆を償ってあげましょう。」叟がその言葉に驚き、尋ねたので、わけを告げると、叟は言った。「おじさまはどなたでしょうか。」姓名を告げると、叟は言った。「その人がご存命のとき、わたしは銭××を借りましたが、償いませんでした。今、計算しますと、盆盎のちょうどその額に合いますから、わたしの借りは帳消しです。」欣然として去った。またある日、重たい車が山を登っているのにあい[48]、呼んで助けを求められたので、甥はやむをえず牛で助けた。登ると、重人[49]は謝して言った。「たいへんお世話になりました。銭二百千にしましょう。」牛はそれを聞くと、ながく鳴いて死んだ。

 

城外の人が城内から帰る途中、人の呼ぶ声を聞いたが、「捎捎(シャオシャオ)」と言っているようであった。さらに聞くとあいかわらずであったが、振り返って見ても人はいなかった。わずかに数歩ゆくと、地上に銀数十錠があったので、たいへん喜び、拾って銭袋に入れ、負っていった。ある飯屋にゆくと、たいへん空腹だったので、食事した。手を袋に入れて銭を取ろうとすると、中で蠕蠕然と動くのを覚え、見ると、拾った銀はすべて蝌蚪に化していた。たいへん驚き、物陰に捨て、帰って妻孥たちにその異変を語った。あるものがその袋を開いて見ると、なお一匹が残っていた。傾けて出すと、(つくえ)に鏗然と当たった。見れば本当の銀で、測ると重さは三両であった。鬼神が人の手を借り、金を背負って飯屋にゆかせたのだろう。この三両はその「捎捎(シャオシャオ)の労に報いるゆえんであった。「捎捎(シャオシャオ)」とは、北方人の言葉で、物を人に寄托することを「捎」というのである。以上の三つのことは、いずれも宋伯言が語ったが、これも孟県のことかは知らない。

 

河南に逆旅があり、庭に牡丹が数十本植われ、花が開けば五色が揃い、大きさは[50]ほどであった。家族を連れてここを訪れたものがおり、たまたま一小折り、その妻の鬢に挿してやったが、にわかに血が花蒂から流れ出、妻の頬に沿って肩に及んだ。たいへん驚き、異変があることを知り、ふたたび花を枝につぎ、紙で包んだ。夜になると、たちまち女子数十人が袂を列ねて来、口々に罵り、言った。「わたしの妹を傷つけましたね。」一人の童女を連れてきて示したが、傷痕が頚にあり、紙の封は儼然としていた。その人は花神であることを悟り、つつしんで過ちを謝し、さらに言った。「事情を知らず、ご無礼したと思っておりませんでした。さいわいにお許しを得れば、そのことを壁に書きましょう。後にくるものに知らせれば、ながく折られる心配はないでしょう。」女たちは頷き、連れ立って去った。その人はその後も恙なかったが、かれの妻は、血で濡れたところに、すべて瘡生じ、時を経てはじめて癒えた。

 

宝応[51]の人某甲は、肉屋であった。性質は吝嗇で、母がおり、年は七十であったが、肉食しようと思っても、かならず惜しんで与えなかった。ある日、甲が刀を鳴らして屠っていると、母がまたかれに向かって肉を求めた。甲は怒って言った。「おれの指が断たれても、おまえに肉はやらん。」そう言うと突然、自分でも気づかぬうちに、刀が砉然[52]と動き、一本の指が断たれた。ひどく痛んで地に倒れ、ゆっくり起き、傷を包み、嘆いて言った。「これは鬼神がわたしの不孝を戒めたのだ。」それからは過ちを悔い、母に仕えて孝を尽くし、美食を奉ることを欠かさなかった。つねに手を出して人に示して言った。「人の子でありながら父母に孝を尽くさないことができようか。わたしが指を断ったのをみれば、参照できよう。」『易』に、「(すこ)しく懲らして大いに誡むるは、小人の福なり。」[53]というのは、肉屋のことか。

 

汪子余は、杭州の人で、その父は蜀に宦遊し、死後はたいへん貧しかった。子余はまた生まれながらにして多病であったので、若い時から勉強せず、勉強しても句読が分かるだけであった。草花を描けたが、やはり巧みでなかった。婚冠[54]の年になっても、ぐずぐずして娶らず、妻子はいなかった。かれの舅家は唐棲の姚氏であったが、憐れんで家に招いて来、その幼い子の勉強を監督させたので、子余は姚氏に頼ることとなった。生臭ものを断つとはまったく言わなかったが、姚家に十年ばかりいる間、生臭もので一度も唇を汚すことはなかった。することがなければかならず小部屋に入って趺坐し、庚申の日にあえば、坐してひねもす出なかった。姚氏はつねに雇われ人を伴わせた。坐して丙夜[55]になり、雇われ人が見ると、窓の外に黒い影があり、大きさは席ほどであったので、恐れて裏口から出た。それから再びかれといっしょにいようとしなかったが、子余はもとより恙なかった。咸豊十年、杭城が破られた当初、子余は本当に城内に陥っていたが、従容と隙に乗じて逃れ出、ふたたび姚氏を頼って石門の城外に難を避けた。ある日、突然ひとりで沐浴し、新しい木綿の衣に換え、姚氏に向かって別れを告げ、趺坐して亡くなったが、年はわずか四十余であった。姚氏は棺を買って殯し、担いで野に置いた。乱が平らぐと、改葬を図ったが、その棺は失われ、結局見つからなかった。わたしはこの子は得道したものにたいへん似ていると思う。かれの生死の際を見れば、それが分かる。かれが死んだのは、もしやいわゆる屍解か。伝記に載せる諸々の屍解は、その棺がたいへん軽かったり、開いてみるとその衣だけが残っていたり、一本の竹杖に化していたりするが、惜しむらくはその棺を見つけて証明することができなかったことである。

 

わたしの舅氏仁和の姚平泉先生光晋[56]は、道光乙酉[57]科の挙人で、晩年上虞[58]県教諭を選授せられたが、時に年はすでに七十七であった。上虞で官となる前、夢みてあるところにいったことがあったが、四面の山は壁のように立ち、山上の瀑布は屈曲して下に流れていた。虞にくると、仙姑洞[59]に遊んだが、あたかも前に夢みたもののようであったので、訝った。「わたしの前身はもしや山中の老僧か。」後に八十一なり、在任中に亡くなった。易簀の一晩前、紅い燈が宅門から入るのを、家人はみな見た。わたしはかつて先生の家伝を撰し、くわしくそのことを載せた。

 

拆字[60]の術は、古くは相字といった。宋には謝石[61]がおり、何[辵蓑]『春渚紀聞』に見える。明には張乗槎がおり、鎦績[62]の『霏雪[63]に見える。謝石のことは人が多く知っているが、張乗槎にいたっては、その説を知るものは少ない。その方法は、随意に一字を挙げられると、臨機応変に、吉凶を断じるのである。今、江湖でこの技によって口を糊するものは、さきに一定の字について口訣を習い、問いに答えるもので、これではどうして中たることがあろうか。乾隆年間、蘇州の人で范時行というものがおり、たいへんこの術をよくし、かつてわが県に来、紫陽観[64]に寓していた。言うことは多くはなかったが、すべて意味があり、毎日銭六百を得ることを通例としていた。銭が足りれば客を断って寂然と坐し、君平[65]の売卜の風があった。ある兵士が「棊」の字を挙げ、終生の吉凶を尋ねると、范は言った。「およそ囲碁の石は、うつほどに多くなります。将棊の駒は、さすほどに少なくなります。今挙げたこの『棊』の字は、『碁』の字ではなく、木からなり、石からなっていませんから、将棊の駒で、囲碁の石ではなく、おそらく家の人々は日に日に衰えていましょう。」その人は言った。「その通りです。ただ、それはお尋ねしたことではございません。後日どうなるかをお尋ねしているのでございます。」范は言った。「装束を拝見しますと、行伍の中の人で、将棊でいう卒[66]です。卒は自陣にいる時は、一進むだけですが、河[67]を過ぎれば、縦横にすべてゆけます。このことからいえば、あなたは外に出てはじめて志を得ることができましょう。しかし卒が河を過ぎても一進むだけなら、たといあなたが外にでても、あまり志を得ることはできません。」さらに人が「義」の字を挙げて尋ねると、范は尋ねた。「年はお幾つでしょうか。」その人が告げると、范は言った。「それなら生まれた年は羊です。『義』の字は『羊』からなり、『我』からなり、これは「羊年のわたし一人」にすぎず[68]、あなたは終生孤独で妻子を持てません。妻子さえ持てないのですから、他はお尋ねになるまでもございません。」また人が「風」の字を挙げて孕んでいるのは男か女かを尋ねると、范は言った。「真中の『虫』の字を右側に移せば、『虺』の字に似ます。詩に『これ虺これ蛇、女子の祥なり』[69]と言いますから、孕んでいるのはきっと女の子でしょう。」このような話はたいへん多い。わたしは幼い時に古老が言い伝えるのを聞いたが、今すべて記すことはできず、ひとまずこの三つのことを書き、范時行の名が、後日謝石、張乗槎ならんで伝えられることを願う

 

わが県に保済侯戴公祠[70]があり、廟貌は巍煥[71]とし、その奥の楼は侯の真身[72]を奉じていた。乾隆年間、県民徐氏が箕仙[73]を招くと、侯が箕に憑いて言った。「県で大厄があるので、わたしは上帝に頼み、身をもって代わることを願ったところ、帝はわたしにそれを許した。」人々は言っていることが分からず、神の言葉を人に告げ、修省を勧めただけであった。この年の五月、廟で火事が起こり、延焼して奥の楼に及び、すべて灰となり、侯の真身は壊れた。道士の屋は殿の東側にあり、隔たること一丈に及ばず、檐[74]焼けたが結局恙なく、はじめて神の言葉であったと悟り、ますますともに驚嘆した。県を挙げて相談し、その廟を再建することにした。閩中の大工沈某は、椐木を乍浦[75]にいって売り出していた。その中の四株は、大きさは抱えることができるほどで、ある人と値を定め、すでに話が纏まっていた。沈が夢みると、衣冠を着けてたいへん大きく、顔に金光があるものが、こう言った。「これはわたしの家の柱だから、他に売るな。」朝起きて人と話していると、わが県の人がたまたま来、尋ねた。「大きな木があるますか。」「ございます。どちらに用いられましょう。」廟の柱だと告げた。沈は夢に現れたものは戴侯だと悟って、木を援助した。廟ができると、なお余裕の資金があったので、廟の裏に庭園を開き、県民が遊覧する場所とした。わたしは幼い時に廟に入ったが、殿屋は雄峻で、四つの柱はたいへん大きく、父老はなおそのことを挙げて告げていた。咸豊の末になり、県は兵火に遇い、侯廟はまた壊れ、乱の後、再建したが、園林の勝景は旧観に復していない。

 

県民の童樸斎は新市鎮[76]におり、家は資産が豊かであった。その家は深く、奥にある楼は前後それぞれ五間であった。童は家族が多くなかったので、表の楼を寝室、裏の楼を空室にし、什物を貯えていた。ある晩、裏の楼で砰磅[77]と音がしたが、驚かなかった。翌晩になれば、裏の楼でこまごまとした言葉が聞こえ、朝まで止まなかった。夜明けに、童はいって見た。階を登るとすぐに、中で人がこう語っていた。「家の主人が来た。」中の扉がにわかに開き一人の老翁が出てきたが、顔は(あか)く、髪は白く、衣冠は偉然とし、童を招いて中に入れた。童はもともと胆力があり、かれが妖であることは分かっていたが、恐れなかった。入れば几案は童がもともと持っていた物であったが、調度は一新されていた。(つくえ)には鼎彜[78]が列ねられ、壁には書画が懸けられ、架には書籍が置かれ、床にはあつく氍毹[79]が敷かれ、卓椅の類はすべて錦褥で覆われていた。中には珠燈[80]が四つ懸けられ、纓絡は爛然としていた。腰掛けると、翁はみずから言った。「姓は鍾、名は紫霞といい、陜西華陰の人です。家族を連れてあまねく名勝経て、昨日虎丘から来、西湖に遊び、あわせて天台、雁蕩[81]の勝景を窮めようとしています。しかし愚妻がにわかに病みましたので、しばらくあなたの楼をお借りして荷物をとどめているのです。かならずお礼しますので、どうかよその人に聞かせないでください。」語気は雅で、藹然として好もしかったので、童はつつしんで諾った。一日後、また衣冠を整えて面会を請うと、老翁は一人の童子に茶を献じさせ、ほかのものは見えなかったが、楼上では謰謱[82]と小声で語り、数十人がいるようであった。翁は童に語って言った。「いらっしゃったのにまいりませぬのは、まことに無礼でございます。しかし老いぼれは世外の人で、疏懶(ものぐさ)に慣れ、お返しの訪問ができません。どうか罪されないでください。」その後、童は仕事がなければ、かならずの所にゆき、茶を飲んで清談し、日暮れに到るのをつねとした。時には宴を設け、童を迎えて飲み、酒席で、古今の経史百家をほしいままに論じたが、肉を串で貫くかのようであった。南宋、元、明のことに及ぶたび歴歴としてみずから見たかのようであったが、北宋以前になると、そのあらましを言うだけであった。童がたまたま吉凶禍福を尋ねると、言った。「『迪に(したが)へば吉、逆に従へば凶』[83]は、もとより理の当然で、推し測る必要はありません。」さらに書画をよくし、かつて扇面を書いて童に贈ったが、一面は『蘭亭叙』を臨書し、一面は南宮[84]の潑墨[85]の山水を模倣しており、童はたいへん大事にした。おりしも初夏で、庭では荼蘼[86]が盛んに開いていた。童の娘で穎姑というものは、年は九であったが、ひとり花を採りにいっていた。見ると美しい婦人が闌干に倚って立っており、(くろ)の帕[87]で頭を包み、紫の衣、(しろ)の裳であった。一人の垂髫の下女が手で娘を招いたが、娘はゆこうとしなかった。すると婦人はみずから出てきて娘の手を執ったので、ついて入った。見ると老翁が危坐して書を読んでおり、笑って娘に言った。「穎姑が来たから、楼上に坐そう。」楼上に登ると、調度は楼下よりさらに勝っていた。下女たちは年がいずれも十歳ばかりで、婦を夫人と呼んでいた。夫人の寝室は東側にあり、一人の童女がおり、両足は細く小さく、ほとんど並ぶものがなかった。夫人は言った。「これはわたしの娘で、あなたより一若うございますので、妹となさるべきです。」西側にゆけば、一人の美しい少年が坐して勉強しており、夫人は言った。「これはわたしの息子で、兄とするべきでございます。」まもなく、一人の若い女が奥の部屋から出てきたが、夫人は娘に嫂と呼ばせた。そして嫂に命じて点心を作らせた。食らいおわると、さらに一つの籃に食物を盛り、若い下女に命じて庭に送ってゆかせ、穎姑は籃を持って帰った。その母がそれを見ると、藤でもなく竹でもなく、編みはたいへん巧みであった。開いて見ると、中に蘋果[88]四つ、西涼の紫蒲萄数百粒を盛ってあったので、訝った。「この地この時にどうしてこの物があるのか。」その後、折々のものを得るたび、童はかならずその女に贈り物を持たせるように穎姑に命じたが、夫人はさらに異果奇花で報いるのであった。ある日、穎姑は纏足しおえたばかりで、すぐ鍾の所にいったが、うまく歩けなかった。夫人は笑って言った。「あなたのお母さまはを縛るのが下手なのです。わたしが縛ってあげれば、痛くないばかりでなく、速効があるでしょう[89]。」そしてその両の行纏[90]を解き、口で息を吐きかけたが、熱くて蒸すかのようで、足の骨は柔らかくなり、布や(くつした)で圧迫されても、まったく苦しくなかった。一月の後、細く小さいさまは鍾の娘と異ならなくなったので、その母がひそかに包みを開いて見ると、漏れているのは明礬[91]ではなく、白糖であった。その若い女は穎姑に針仕事を教え、端午の日に艾虎[92]及び彩縷[93]を作って贈ったが、やはりたいへん精妙で、ほとんど人工で作れるものではなかった。半年あまりして、童に見えるのは翁と一人の童僕だけであったが、穎姑は翁の一家がすべて見られた。童父娘はしきりに鍾の所にいったが、翁と夫人は庭までいってとどまったので、一度も表の楼にゆかなかった。童はそのことを秘したが、ばあやたちは言葉を漏らさないことはできなかった。郷里で知るものが多くなると、人々はみな童のために危ぶんだが、童は翁とますます親密にしていた。その友徐淳庵は剛直を自負していたが、たまたま山東から帰ってき、童に語って言った。「君はきっと禍を受けよう。家が妖窟となっているのに、なお安全と思うのか。」童は答えなかった。徐は親しくしている貝煉師と相談すると、貝は目を閉ざして黙って坐し、しばらくすると徐に言った。「これは狐だが、人に禍するものではなく、まもなくみずから去るはずだから、追い払う必要はない。」まもなく、一人の道人、黒い顔、虬の鬚のものが、背に一振りの剣を負い、童氏の門口を通り、門番に語って言った。「あなたの家は妖気がたいへん盛んですが、わたしは祓えます。主人に求めるものはございませんが、(あやかし)が死にましたらその皮を得ることを願います。」時に童はたまたまよそに出ており、門番は女主人に告げず、道人を路地からに導いていった。道人はすぐに庭の中で、右手に剣を持ち、空に向かって符を描き、左手に水一杯を持ち、吸って噴いた。すると楼上で語った。「庭で芝居を演じているが、いって見てはどうか。」にわかに道人の手の中の剣がひとりでに落ち、杯も地に落ちて砕けた。道人がたいへん驚いていると、大きな杖で頭を叩かれたかのようになり、よろよろと走り出た。門番はついて走り、閾に躓き、その股を傷つけた。楼上では大笑いしていた。江陰の陳淡山は、童の姻戚で、もともと五雷法[94]をよくしていたが、蘇州から杭州にゆき、新市を出、童を訪ねた。童は食事に留めたが、徐も来、ともに食事した。徐が陳に向かってそのこと[95]を述べると、童は目でだめだと制止したが、陳は言った。「わたしに試させてください[96]。」時に夜半になろうとしていたので、陳は二本の燭を燃やすように命じ、篋の中から五色の紙人形を五つ出し、方位に従って(つくえ)に置き、符を描き、その上に息を吐きかけ、正視して瞬ぎもしなかった。まもなく、紙人形はたちまち起立して(つくえ)を巡って進み、進むのはやや遅かったが、さらに息を吐きかければ、進むのはますます速くなり、その音は隠隠として雷のようであった。五更になると、陳は言った。「妖はすでに去りました。」手で(つくえ)を打つと、紙人形はすべて倒れ、ふたたび篋の中に隠れた。この夜、童の家族は裏の楼がはじめて来た時のように騒がしいのを聞き、ひそかに裏の窓から窺うと、裏の楼の上下がすべて紅い光で囲まれていた。聞くと翁と夫人が語っていた。「もともとはおまえの病が癒えてからゆこうとしたが、今、陳翁が真火[97]で迫っているので、とどまれない。惜しむらくは主人と一別する時間がなかったことだ。」五更になると、声は絶えた夜明けに入ってみると、几と榻は元通りで、地に纖塵もなかったが、調度はなかった。几上に小さな篋があり、開けば、鍾翁が別れの手紙を留めており、言葉は懇切であったが、かすかに徐を怨む言葉があったので、童は読んで黯然とした。ほかには定武[98]の不損本[99]『蘭亭』一冊、郭忠恕[100]の山水一幅を遺していたが、童に贈ったものであった。さらに銀五斤があったが、部屋を借りた代金であった。夫人は珊瑚の簪一本、羊脂玉二つ、明珠四粒、碧霞宝石八塊を遺していたが、穎姑に贈って婚資にしたのであった。淡山は部屋に入ってあまねく見ると、嘆いて言った。「この狐がわたしの真火[101]に迫られても、従容として去れたのは、その道力が深かったからだ。さいわいその大道[102]はすでに成就していたので、去るに臨んで悪さしようとしなかったが、さもなければわたしはその敵でなかったろう。」そして鉄牌二枚を鋳、朱符[103]でその上に書き、一つは広間に釘うち、一つは裏の楼に釘うち、また来るのを防いだところ、後に結局寂然とした。このことは乾隆初年にあり、県民徐晦堂先生がかつてくわしくそのことを記し、わたしはやや編次を加えて書に著した。伝記[104]が載せる、狐が人家に住む話は多いが、このように情があり、礼があるものはない。わたしはかれが去るに臨んで「君子交はり絶えて悪声を出さず」[105]思いがあったのにもっとも感嘆する。この狐は、もしや狐でありながら仙であったものか。

 

貝煉師は、その名を知らず、武康[106]の高池[107]に住んでいた。道術を心得ており、人はみな尊んで「煉師」といい、先に記した、徐淳庵が童家の(あやかし)について相談したものであった[108]。時に嘉興に富豪で姓のものがおり、北門外に住んでいたが、その家は二百余年を経ていたこの年の夏、長雨が降っていたが、突然、黒い物が厨房から出てきた。長さは五六尺、広さは一尺ばかりで、頭、顔、手、足がなかった。近づけば寒気は人に迫り、くわえて冷水を噴射し、これに中たったものは震えて絶命しそうになった。陰雨のたびに見え、晴れた時には見えなかった。佃人[109]の趙某がその家に泊まると、氏の雇われ人はこのことを告げ知らせたが、趙は拳法を心得ていたので、恐れなかった。夜にたまたま大雨があり、趙は雇われ人と痛飲しておおいに酔い、ともに厨房にいって窺った。二更過ぎに、この(もののけ)は本当に出てきた。二人がまっすぐ進んで殴ると、たちまち冷水が放射し、雇われ人は地に倒れた。趙が拳を奮って撃つと、綿に中たっているかのようであったが、腕はすでに断たれていた。大声で叫んで救いを求め、聞いたものが走って集まれば、この(もののけ)はすでに消えていた。見ると雇われ人は顔面が真っ白になり、黙って語れなかった。趙は血の中に倒れ伏しており、呻吟してやめず、しばらくしてはじめて見たことを言えるようになった。断たれた腕はくまなく探したが見つからなかった。その後、二人とも死ななかったが、趙は結局廃人となった。氏は憂え、武康にいって貝煉師に頼むと、貝は言った。「この(もののけ)は陰雨と夜間になった時にだけ姿を現すことができる。気候はまだ浅いので[110]、除くのは難しくない。」そして一枚の符を書き、その弟子に持ってゆかせ、すぐに竈の前で焚かせた。するとたちまち空がにわかに暗くなり、巨雷が家を巡り、屋内の諸物はすべて岌岌[111]と震動した。にわかに霹靂一声、硝煙と硫黄の臭いが部屋に満ち、目が眩んで倒れる人があったが、空はすぐに晴れた。あまねく諸々の物を見ると、すべて元の通りであったが、十余石を入れられる大きな缸で、もともと地中に埋められていたものが、雷に抜かれ、砕かれて数十塊となっていた。見るとその下には清い水が瀯[112]とし、巨きな(どぶがい)がその中に臥していた.その広さと長さは前に見た物と等しかったが、すでに断たれて二つになっており、趙の腕はすぐその傍らにあった。氏は言った。「この缸は前明の時から埋められており、濁った水を蓄え、一晩を経ると清くて甘くなり、用いて茶を沸かせばたいへん美味かった。家中は大事にしていたが、怪物がその下に潜み隠れていたとは知らなかった。」そこでを炭火で蚌を焼いて灰にし、北麗橋[113]の下に棄て、断たれた腕を趙に返した。

 

帰安、徳清、石門三県の境に、古い墓があり、田に背き、河に面し、広さは二畝余りであった。規模はたいへん広くて、兆域はひさしく埋没し、宰木[114]も尽き、河辺の華表[115]だけがなお残っていた。羊虎辟邪[116]の類はすべて地に倒れ、翁仲[117]の倒れたものは五体、その一体はなお(おび)を垂らし、笏を持ち、荒煙蔓草の中にぽつんと立っていたが、半分近くは土に陥っていた。調べられる碑誌[118]はなく、祭掃するものもずっとなく、誰の墓か分からなかった。その墓の傍らの地を侵すものがいたが、しばしば禍を得たので、用心し、侵そうとしなかった。付近の住民が青衣の人が墓域を往来するのを見れば、その日、河ではかならず溺れ死ぬものがあるのであった。溺れる人は、肥えていようが瘠せていようが、一たび頭頂まで沈めば、すぐに掬い上げても、皮骨がわずかに残っているだけで、枯臘(ミイラ)のようになるのであった。そのため人はみな遠くに移り、荒野となっていた。墓の南一里ばかりに某村があり、孫姓のものがおり、その妻は娘を連れて実家にいった。舟で墓前を過ぎると、たちまち一本の青色の手が水から出てきたが、大きさは箕ほど、その娘を攫って水に入れて去ったので、驚いて救ったが、すでに死んでいた。孫はたいへん怨み、土を築いて流れを塞いで掘り、数尺に達したが、何もなかった。さらに一年あまりして、孫の次男と一人の雇われ人は、それぞれ竹籠負い、草を切って帰ろうとしていた。するとにわかに雨が来たが、見ると河の中を一人の男が、竹の(さお)で木の筏を動かして過ぎていた。その子は、筏で河を渡って南すれば、一里におよばないですぐ家につくとひそかに考え、篙を持っているものに金銭を約束して筏に乗った。筏は小さく一人が入るだけであったので、雇われ人はふたたび河岸に沿っていった。数歩ゆき、振り返ると、人と木が水に没していたので、いそいでその家に告げた。孫は家の人々を率いて船を飛ばして来、鉤で水中を掬ったが、その子の屍が見つかっただけで、筏を棹差していたものは行方が知れなかったので、みな妖鬼が化したものだと考えた。孫はますます怒り、術士を募って懲らしめようとした。一人の道人が来て応募し、河の南岸に祭壇を設けた。まさに勅勒[119]を施していると、にわかに風が北から来、一人の青衣の人が風に従ってただちに道人を打った。道人は支えられず、それに圧せられた。青衣の人はたちまち見えなくなった、風もついで止み、人々が道人を見れば、すでにぺしゃんこになっており(扁は音は補典反、『後漢書·東夷伝』に見える)、殷然と血を流していたので、お上に告げて埋めることにした。時に烏程[120]南潯鎮[121]の道士に周静涵というものがおり、道行[122]はたいへん高かったので、孫はいって頼んだ。周は目を閉ざしてしばらくすると、孫に言った。「この(もののけ)は千年修煉しており、わたしはかれの敵でないから、天神を招いて助けとするべきだ。さいわい勝っても、わたしは逃れられぬだろうから、ゆけない。」孫がつよく願うと、周はやむをえずゆき、やはり祭壇を南岸に設けた。一枚の符を焚くと、にわかに風がまた起こり、青衣の人前に現れて言った。「わたしは大道を成就しようとしており、生きている人の気血を得て補うべきですので、人を河で溺れさせ、その気血を取っているのです。しかし、溺れさせたのはすべて死ぬべき人々で、わたしがことさらにかれの命を損なったのではございません。あなたと何の関わりがあって、迫られるのです。」周がかれを遠く去らせようとすると、青衣の人は言った。「わたしは道がなお成りませんのに、去ってどこへゆきましょう。」周はつよく勧めたが、聞かなかった。周はそこで空に向かって符を書き、水を噴いた。青衣の人は笑って言った。「おまえは修行して三世しかなく、四百年に満たないのに、どうしてわたしを懲らせよう。」ただちに進みでて打った。周は令牌[123]を取って危坐したが、青衣の人は近づいて退こうとしなかった。周も壇を下って孫家にゆき、一つの部屋を掃除するように命じ、精神を集中してしずかにその中に坐すること九日、ふたたび壇の所にいって符を焚くと、天神が降りてきた。青衣の人は出てくると、神と敵しようとした。神は巨雷を発し、声は原野を震わし、火が雷とともに出、その光は天を照らしたので、青衣の人は持ちこたえられずに逃れた。周が剣を抛ってその首に当てると、神は周に向かって拱手し、昇って雲際に入り、見えなくなった。村人がともに見ると、空中から物が剣とともに河原に落ち、近づいて見ると、石人の半面であった。河を渡って墓域にゆけば、一つだけ立っていた翁仲は、その顔の右側が剣で斬りとられ、血は流れて地に達しており、河原の半面をつけるとまさに吻合した。その胸と背にあまねく符を書き、人々に命じて掘り起こして砕かせた。村人はその臥しているものも打ち砕いて粉にし、それからは墓前で再び怪異はなかった。周は人々に言った。「この(もののけ)はさらにひそかに五甲子修養すれば、大道を成就していた。惜しむらくは、その速いことを望んだために、このようなことになった。たいへん憐れだ。」人々は周を送って南潯に帰らせたが、門に入るとすぐに、衣冠形周と異ならないものが、外から入ってき、人々はみなそれを見た。周は言った。「わたしは元神[124]が散じようとしている。」塩湯[125]を取って飲むと、その人は周と合って一つとなった。その後、周は多病となり、みずから身後のことを処置し、臨終の時にその弟子に言った。「わたしは名に絆され、元功[126]を損なうことを招いた。おまえたちは戸を閉ざしてみずから修行するべきだ。ほかのことに関わるな。」そして坐化した。これも徐晦堂先生が記したことから出ている、そのことは乾隆初年にあったはずである。わたしが汪謝城広文の撰した『南潯志』を調べたところ、周静涵は名を科耀、一名を道cといい、嘉興の人で、青符[127]、五雷法を習っていた。はじめは武康の升元観[128]におり、後に南潯の広恵宮[129]に住み、著に『補閑吟草』四巻があった。

 

わが県の乾元寺[130]は、羌山[131]の麓にあり、山に背き、河に面し、河を隔てて県城が巡り聳えて(ついたて)のようであった。門前に大路があったが、地は静かで、山は空しく、通るものはきわめて少なかった。県民の某君は、その友と寺で勉強していたが、その友は陰符[132]奇遁[133]の術を習うことを好んでいたので、某はつねに譏り笑っていた。友はかつて月夜に匣を開き一振りの剣を出したが、長さは二尺あまり、晶瑩[134]として目を奪った。持って樹下で舞うと、空中から細かな物が簌簌[135]と地に落ちるのを覚えた。舞いおわり、拾って見ると、樹の細い枝で、長さは一様であった。某が驚き、その剣を執ろうとすると、友は言った。「剣には神光があるから、触れればあなたに不吉だろう。」ふたたび匣に入れて寝た。ある日の薄暮、三門外に散歩すると、友は笑って某に言った。「あなたはつねにわたしが奇門の書を読むのを笑っているが、わたしの技を一見してはどうか。」そして路の中央に立ち、地を画して丸を作ったが、直径は一丈余ほどであった。瓦石数十塊を取り、八つに分けて、丸の外に列ね、坐して待った。まもなく、一人の男が白衣を着、飴を担ぎ、手に小さな銅鑼を持って来、走って丸の中に入った。その人は古馴染みであったが、友は言った。「危ない。この人は躓こう。」話していると、本当に石に触れて転び、その持ち物砕き、さらに膝を傷つけ、地にしばらく坐して去った。某がわけを尋ねると、言った。「わたしが設けたのは、武侯八門陣だ。今日の支干[136]はすべて火だが、その人の着物持物はすべて金だ。それに驚門[137]に入り、傷門[138]を出たのだから、躓かないことができようか。」翌日、某がまたすることをこうたので、設けていると、たちまち対岸の人が城頭から声を荒げてその友の姓名を呼び、言った。「またこちらで悪さしているのか。」友はにわかに地に伏して叩頭し、言った。「もうしわけございません。もうしわけございません。」その声を聞くと、秦人[139]のようであった。はるかに望めば、その人は赤い顔で、目はたいへん大きかったが、残りは雉堞に掩われていた。それにたいへん遠く隔たっていたので、あまりはっきりせず、しばらくすると去った。某はその友を助けて起きさせたが、顔色は死灰のようで、震えてやまなかった。尋ねると、ただこう言った。「わたしの師匠だ。」その姓名を質したが、告げなかった。後にその友はすぐ辞して去ったが、結局その師が誰なのか分からなかった。

 

紹興昌安門外の某村に、張世昌というものがおり、他郷で商いし、つねに何ヶ月も帰らず、家には老母魏氏が妻とともにいるばかりであった。妻と母はもとよりおばめいで、仲もたいへん良かった。姑が病んで鶏を食らおうと思うと、妻は鶏を殺して料理し、一つの切身を取って味見していた。すると姑が妻を呼んだ。妻は呑み込まないうちに答えようとしたが、声は出せず、息が詰まって倒れた。姑はしきりに呼んでも答えなかったので、むりに起きて見ると、すでに死んでいた。おりしも盛夏であったので、かれが暑気中たりになったかと疑い、治療したが蘇らなかった。実家は百里隔たっており、酷暑で待てなかったので、隣人たちを集めて棺を買って納めさせた。また家に棺を停める所がなかったので、担いで先祖の墓の傍らに置いたが、家から隔たること五六里であった。しかし妻は本当は死んでおらず、棺が進んで揺れ動くと、息を吹き替えし、夜になって蘇った。気づくと棺の中におり、苦しくて耐えられなかったが、さいわい棺がたいへん薄かったので、足で蹴り、手で推し、結局破って出た。四野は茫茫として、どこか分からず、棺の傍らに坐して泣いていた。菩提庵の僧で独修というものがおり、傭工の馬四と借金の取りたてをして帰り、その地を通りかかった。泣く声を聞いて尋ねると、妻は事実を告げた。僧は妻が美しいのを見ると、偽った。「わたしは帰る時かならずあなたの村を通りますから、わたしに従ってゆかれてはいかがでしょうか。あなたを連れて帰りましょう。」妻は諾った。ゆくこと一里ばかりで、ある村に着いたが、馬四の兄馬二の家であった。馬四もかれの意図に気づいており、妻を独り占めしようと思い、僧に言った。「このかたは死んで生き返ったのですから、粥を得て養生するべきでございます。わたしと師匠もお腹が空いていますから、どうかわたしの兄の家にいってしばらく坐し、すこし飲食をとってください。」僧はその言葉に従った。しかしこの夜、馬二と妻はともに妻の実家にいっており、家は闃として人がいないことを、馬四はもとより知っていたのであった。門に着くと、鎖筒[140]を壊して入った。隣人は音を聞くと、馬二夫妻が夜に帰ってきたかと思い、尋ねなかった。馬四は米を研ぎ、甑を洗い、僧に炊事させ、ひそかに薪割りの斧を執り、猛然と僧の頭を打ち、殺した。そしてすぐ妻に言った。「おれに従うか。従わなければやはりおれの斧を血ぬるぞ。」妻は恐れ、従ったので、兄の持ちものを席巻し、妻を連れて逃れた。翌日、馬二は帰り、ありさまを見ると、お上に知らせた。独修の弟子は師が殺され、馬四は帰らないことを知ると、やはりお上に訴え、馬四を捕らえることを願ったが、しばらくしても捕まらなかった。張世昌の妻の父魏翁は、女がにわかに亡くなったことを聞き、棺の所に馳せていったが、屍がなかったので、やはりお上に訴えた。お上はいってみたが、そのわけが分からず、下役に捕縛するように命じただけであった。張世昌が帰ると、妻は死に、屍は消えていたので、再三探し求め、一年に及ぼうとしたが、まったく蹤跡をつかめなかった。李茂元は、かれがもともとともに商いしていたもので、この年の秋、ふたたび世昌を迎えてともにゆこうとしたが、世昌は母の病を理由に辞した。茂元は一人ゆき、台州寧海県城外にゆくと、ある家から妻が出てきて水を汲んでいたが、見れば世昌の妻であった。その隣人に尋ねると、県庁の捕り手許保賢の家であることが分かった。にわかに帰って世昌に告げると、世昌は県にゆき、みずから捕縛の任にあたることを願い、お上は公牘[141]をかれに与えることを決定した。世昌と茂元は妻の父魏翁とともに寧海にゆき、妻が出てくるのを伺い、引いて役所に赴き、あわせて公牘を出して証拠とした。お上が妻に尋ねると、妻は正直に以前のことを語った。そもそも馬四は妻を連れて天台にゆき、さらに天台から戻って寧海にゆき、資金は乏しくなると、許保賢の家に身を寄せて雇われ人となったのであった。許は妻を慕い、密通しようとしたが、妻は承知しなかったので、馬四とともに外に出て賊を捕らえようとした。数日して、許は一人で帰り、妻に言った。「馬四は水で死んだ。」妻は異変があることに気づいたが、言おうとしなかった。その夜、妻を裸にして縛り、淫したが、妻は拒めず、辱めを受け、すでに数ヶ月になっていた。お上は許保賢を捕らえ、馬四が死んだ況を尋ねたが、まったく言わなかった。拷問すると、はじめて言った。「誘ってともに外に出て、斧で殺しました。」官が馬四の屍を調べると、傷痕は宛然としていたので、許保賢を法律通りに裁き、妻はもとの夫に返した。世昌は妻が辱めに遭ったのは、本当に悪人に迫られたものであったので、母に告げて引きとらせ、ふたたび夫妻となること初めの通りであった。珍しいことである。貧家の一妻が、やや美貌であったため、三人がかれのために命を落としたのであった。仏の言う「慎んで色と会ふなかれ、色会へばすなはち禍生ず」とは、どうして真実でなかろうか。さらに馬四は斧で独修を殺したが、許保賢が馬四を殺したのも斧であった。「道家は、不当に人を殺せば兵刃でさらに殺されると言う」のだが[142]、やはり恐ろしいことである。

 

広西南寧府の関の前に旗竿が二本あった。某年の秋、住民が望み見ると、旗竿挿し[143]の中に焱焱[144]と光があり、毎晩かならずそうで、すでに一月あまりであった。ある日、大雨が盆を傾けたかのようになり、雷火が落ちて旗竿を撃とうとしたが、旗竿挿しの中に赤い光があって上を衝き、雷はそれに遇うとかならず引いて去り、このようにすること三四回であった。たちまち霹靂が響き、屋根瓦はすべて震えると、赤い光はにわかに止み、雨も止んだ。税関吏が旗竿挿しの中を仰ぎみると、物があるかのようであった。竿に縋って登ると[145]、その中に一匹の蜈蚣が蟠っており、長さは三尺ほどで、赤黒く斑斕とし[146]、すでに雷火で殺されていた。人々はみな驚き、出して竹竿に懸け、見物人に示した。税関吏の料理人がいうには、李元敏がこの夜、外に出て小便したが、見ると蜈蚣の頭の中に光があり、高さは一丈ばかりであったので[147]、宝があることを知り、ひそかに切ってそれを裂き、一つの珠を得た、大きさは龍眼ほどで、李はその珠を隠し、蜈蚣を水に捨てた。翌日、人は蜈蚣が見えなかったので、生き返って去ったかと疑ったが、そのことを問いつめるものはいなかった。李が珠を暗い部屋の中に置くと、燈火に代用できたので、たいへん大事にしていた。かれの妻が珠を出し、取って弄んでいたところ、隣家の妻が来たので、見られることを恐れ、口の中に収めた。まもなく吐き出したが、全身に発熱し、手足は紅く腫れた。毒に中たったことを知り、いそいで雄[148]研いで服し、十日してはじめて癒えた。李が珠を広州にもっていって売ろうとすると、西洋人はそれを見て言った。「これは蜈蚣珠だ。人が毒蛇に齧られた時、この珠で傷ついたところを温めると、毒水が湧き出、すぐに平復する。帯びれば蛇虺を避けられるが、口と鼻には近づけられない。」瓊州の大商人はそれを聞き、千金で買った。用途を尋ねると、言った。「わが州の五指山[149]中では多く奇藍香[150]するが悪蛇毒虺がたいへん多く、人は入ろうとしない。今この珠を持ってゆけば、蛇虺はとおく避け、得るものは莫大だ。」欣然と珠に嚢に入れて去った。李は金を得て帰り、家は小金持ちとなった。これと上の二事も徐晦堂先生[151]が記したことなので、やはり乾隆年間のことであるはずだ。宋洪景盧[152]『夷堅丁志』[153]鄭生夫婦[154]たちの八事を載せ、いずれも董堅老から聞いたといっているので[155]、いずれも昔のことであるが、これも同じことである。

 

『晋書·仏図澄伝』に、「劉曜が洛陽を攻めた時、澄は一人の童子を七日斎さ、麻油を取り、臙脂を混ぜてみずからの掌中で磨り、手を挙げて童子に示すと、燦然として輝いていた。童子は驚いて言った。「兵馬がたいへん多く、一人は長大白皙で、朱の絲でその肘を縛っています。」澄は言った。「それが曜だ。」銭辛楣[156]先生はこれが後世の円光の術の始まりだと言うが、それならば円光も釈氏の呪術の一端である。最近この術を使う者には、あまり験がないものが多い。長男の嫁樊氏が言うには、実家にいた時、かれの六番目の嫂劉氏がたちまち狂疾を病んだ。ばあやたちは円光するものを薦め、招いてきた。まず一室を掃除し、卓上に大きな栲栳[157]を一つ置き、たっぷり米と麦を盛り、中に一枚の鏡を置き、四周にあまねく小さな旗幟及び箭を挿した。そしてその前で一燈を燃やしており、膏は多く燈は明るく、光彩は目に輝いた。三人の童子に正視させ、見えるものがあれば告げさせた。童子はまず一つの大きな門を見たが円くて(コンパス)で描いたかのようで、門内の屋宇は深かった。一人の白鬚の老翁がそのおり、老翁がゆくところを、童子はかならず見られた。見るとかれは堂から部屋に入り、あまねく房闥[158]経、眺めればはっきりしており、障碍がなかった。するとにわかに物があらわれ、四つ足で毛があり、大きさは羊か豚ほどであったが、老翁は捕らえ、一つの大きな缸の中に収めた。術士はまず小さな瓶を卓の下に隠し、童子がこちらに来たと言うのを聞くと、すぐ紙で瓶の口を封じ、「すでに捕らえた。」と言った。すると諸々の象はすべて隠れた。術士は言った。「病人が苦しんでいるものは、今すでに除き去ったから、まもなくすぐ癒えよう。信じられなければ、一事を証とさせてもらいたい。」そしてまた卓の下に一物を隠し、光の中にどんなものがあるか童子に見させた。童子は言った。「大きな銭が二枚あり、大きさは車輪ほどで、一つは表で一つは裏です[159]。」隠してあるものを開いて見ると、本当に銭二文で、一つは表で一つは裏であった。術士は言った。「わたしの術がでたらめでないことは、これによって分かる。」樊氏はあつく贈り物しようとしたが、受けず、言った。「人から一銭でも受ければ、わたしの術はすぐだいなしになる。」その後、劉の病は本当に癒えた。その病を得たわけを尋ねると、言った。「わたしは一匹の猫が部屋に跳び込むのを見、すぐにぼんやりしました。」それなら光の中で見た四つ足で毛のあるものは、まさにこの物であった。

 

秦膚雨が言った。七八時、その族父芝庭の家で金釧一双がなくなったが、盗んだものが誰かは分からなかった。時に揚州の人で王姓のものがおり、円光をよくしていた。そこで、部屋に招いてくると、香案を設け、白紙を切ったが、幅と長さはそれぞれ二尺ばかり、器の上を掩い、四角形にした[160]。その人はそれに向かって呪を誦え、さらに清い水を噴き、さらにしばしば炉の中で焚いている香をとり、その煙気を掬い、紙の上に着けさせた。このようにすること四五度、童子童女数人を呼び、じっくり見せ、膚雨もともにした。紙の左側には諸々の神の姿が見えたが、あるものは袍帯[161]で笏を執り、あるものは甲胄で戈を執り、おおよそ百余人で、鬚眉がすべて見えた。その後ろにいるものは、わずかにその首を現しているだけであった。紙の右側には屋宇の象があり、かれの族父の家であった。族父は寝室の中に坐し、灯下で手紙を書き、幼い孫娘が傍らに立って見ていた。一人の婦人が中におり、釧を盗んで懐に隠していた。すべて絵のようであった。この婦人は昔その家に雇われ、つねに往来しているものであった。問いつめると、本当にかれが盗んだものであった。以前の夜のことを思い返せば、一つも合っていないことはなく、その技も優れていた。

 

生まれながらにして手に紋があることは、昔からあるが、今はおおくは見られない。唐棲の姚氏が一子を生み、手に「升」という紋があった。この子は聡明で、普通の子と異なり、読書して目を通せば暗誦していた。他の技芸も、すこし研究すれば、かならず精妙であった。みな英物と目していた。しかし年がわずかに弱冠で、諸生で終わり、「苗にして秀でず」[162]であったので、郷里では惜しんだ。しかしその人もきっと宿根[163]があるものだろう。

 

唐西の姚氏のある婦人は、賢くて才があり、よく家政を管理し、春と秋の魚菽の祭[164]は、すべてこの婦人が主宰していた。祭の一日前になるたび、一人の婦人がかれに向かって[165]し、「わたしは馬氏でございますが、祭祀になり、尊属たちとともに来ましても、傍らに侍立できますだけで、食事することができません。あなたが憐れみ、末席に杯と箸を設け、『馬氏はこちらに坐してください』と祈ってくだされば、わたしはともにできましょう。」と言うのをかならず夢みた。目ざめてから馬氏とは誰か分からなかったので、あまねく姚氏の長老たちに尋ねたところ、はじめて姚氏の先祖に妾の馬氏がおり、子を産まなかったため、家祭が及んでいなかったことを知った。そこでかれが言っていた通り、杯と箸を設け、さらに「馬姨娘はこちらに坐してください。」と祈った。今でもそれは続いている。言い伝えでは、幽鬼も食を求めるというが、どうして真実でなかろうか。

 

河南中牟県の老孝廉に郭蘭可というものがいた。かれが生まれた時、父はたまたま仮眠していたが、夢の中で人がかれに向かって言った。「某科の二十一位の挙人は郭蘭可だ。」目ざめると、家人が子の生まれたことを告げたので、すぐ蘭可と名づけたが、後に本当にこの試験で合格し、順位もすべて合っていた。だとすれば科名は本当に前から定まっているのである。また孟県の諸生に劉藜照というものがおり、某年、郷試の前夢みて榜[166]を見たところ、かれの姓名があったので、たいへん喜び、かならず合格すると思った。この試験の榜には、本当に劉藜照がいたが、孟県の人でなかった。これは鬼神がその姓名が同じであったので、いささか戯れたのである。

 

汴梁城南の朱仙鎮[167]には、岳忠武廟があった。廟の前には、鉄で鋳られた秦檜夫婦の跪く像があり、わが浙江西湖の岳墳[168]と同じであった。およそ行商する人がその地に来れば、かならず秦檜の頬を打って、王氏の乳を摩り、語るには、このようにしないと、その日市廛で商売しても利を得られないということであった。月がひさしかったので、頬と乳は光沢があって鑑みることができた。廟の傍らに秦家が住んでおり、恥じ、夜に乗じて鉄像を負って河の中に投じた。翌日になると、二像はふたたび水面にあり、浮かんで沈まなかった。人々は環視し、みな驚き、ふたたび担いで廟の前に置いた。

 

趙州城[169]の北に石獅子一体があり、頭じゅうに油汚れの痕があり、雨で湿り、日で炙られても消えなかった。言い伝えでは、昔、少年になり、民家に入ってそこの妻に戯れたが、妻はたまたま夜に紡いでいたので、すぐに燈油を取ってその頭に注いだ。獅子は身を翻して逃れたが、途中までゆくと鶏が鳴いたので、もとのところに帰れず、今でも大道の傍らに蹲踞しているというのであった。以上の二事は、いずれも宋伯言が語った。奉化[170]の潘某は、幼いして貧しく、長じて県吏となり、家を興した。一人の下女を養い、虐げたので、下女は自経して死に、野に槁葬[171]された。一年あまりして、潘がその地を通ると、煙気がその怩ゥら出ていた。近づいて見ると、下女が語った。「ひとまずゆかないでください。わたしとともに帰りましょう。」たいへん恐れ、走ってその家に帰ったが、鬼もついて来、空中で罵る声が聞こえた。にわかに火が笮[172]に起こり、消すとすぐに、他のところがまた焼け、走って消して暇がなかった。親戚がきて様子を見、言った。「何のあやかしだ、白昼に祟りをなすとは。」いってやまないでいると、一つの巨石が空から落ち、かれの頭に中たりそうになったので、逃れて去った。このようにすること四五年、潘氏の人には亡くなるものが相次ぎ、残ったものは寥寥として、資産も尽きた。

 

蕭山の某甲は、家が貧しく、生計を立てるすべもなかったので、吏胥と交わりを結び、訴訟を取り持ち、資産は日に日に豊かになって、悪事をなすことはますます盛んになった。中年を過ぎると淫乱暴虐となり、ほとんど人間らしさがなくなった。とある日、にわかに亡くなり、まもなくふたたび蘇り、みずから言った。「冥府は罪がすでに満ちているから、かならず処刑しろと言っている。ただ、おそらく人の世は悪をなした報いを信じないので、一年生き返らせ、人にわたしがさまざまな辱めを受けるのを見させ、世人を戒めることになった。今、鬼卒数十人がわたしを制御しており、わたしは思い通りにできない。」そう言うと、すぐ走り出て通りに跪き、大声で叫んだ。「わたしは悪事をなした人間でございますから、みなさん、わたしの苦しみをごらんになりませんか。わたしはかつて××と言いましたから、今頬を打ちましょう。」そしてみずから顔を傾けて刑を受け、頬は紅く腫れ 、口から血を流した。さらに言った。「わたしはかつて××をしましたから、今、臀を鞭うちましょう。」すぐ衣を剥いで鞭を受けさせた。付近の人にはかれが叫ぶのが聞こえるだけだったが、一二里離れると、叩き打つ音がはっきり聞こえた。刑を受けおわると、かならず言った。「苦しい。苦しい。皆さんはごらんになりましたか。」このようにすること毎日すべてそうで、城廂(まち)あまねく巡り、全身の血肉が糜爛した。一年が満ちると、結局路上で死んだ。

 

紙牌の遊びは、唐宋人の葉子格[173]に基づいているが、葉子もまた骰子に基づいており、その説は欧陽公の『帰田[174]に見える。今、紙牌の中に紅い点、黒い点があるが、これは葉子格の中の紅鶴、p鶴[175]の名残だろうか。最近紙牌が盛行し、閨閣でもしているものがいる。わたしの親戚のある婦人は、ひさしく病んでうわごとを言い、かならず「二五が来ました。幺六が来ました。わたしの牀に倚り、わたしの布団を圧していますのに、あなたたちはどうして捕らえてくださらないのです。」と言った。言っている二五、幺六とは、いずれも紙牌の用語である。上が二で下が五であることを二五といい、上が一で下が六であることを幺六というのである。この婦はふだん紙牌の遊びをしなかったので、看病していたものは驚いた。はじめはそれでも意に介さなかったが、婦人はしばしば言ったので、その部屋の中を大捜索したが、見つからなかった。その後、楼上の壊れた(たけばこ)の中で、紙牌数十葉が見つかったが、長年用いられず、塵灰が満ちていた。この物が祟りをなしたかと疑い、取って焚くと、婦は本当にそれ以上言わなくなった。そもそも紙牌はつねに人の手にあり、人の手垢に汚れるので、年を経ると神霊に通じるのかもしれない。

 

義烏[176]城の北の隅に、楼氏の廃園があり、槐圃といった。土地はたいへん幽寂で、泉石花木の勝景をおおいにほしいままにしていたが、もともと幽鬼がいると伝えられ、住もうとするものがいなかった。咸豊庚午[177]の夏、傅君錫蕃[178]がその地を借りて避暑しようとしたが、主人は幽鬼がいることを告げた。傅は言った。「もとより知っていますから、恐れません。」主人はそこで一つの部屋を掃除し、榻をその中に置いた。傅は一人坐して二更になったが、月光は皎然とし、まったく見えるものがなかったので、枕に就こうとした。するとたちまち一人の叟が部屋の隅から出てきたので、傅は揖して言った。「もしや幽鬼か。」「はい。」「こちらにきてどうする。」叟は言った。「こちらは前朝の墓地で、こちらに葬られているものはわたし一人にとどまりません。ただ鬼と人とは、やはり気質が似ていることによって集まります。あなたは文士でございますので、一目お会いしようとしているのでございます。」そして坐してともに語り、明末のことを語るとたいへん詳しかった。去るに臨み、園内の花木を挿して言った。「弾指の間にまた荊棘となりましょう。」時に寇の乱はすでに浙江に及んでいたが、義烏はなお兵禍を被っていなかったので、傅は信じなかった。まもなく、賊寇は本当に大勢来、槐圃は廃墟となった。

 

義烏の人陳某は、県の諸生で、親しんだ馮氏を葬送したことがあった。その地にゆくと、馮氏は墓穴を掘りはじめたばかりであったが、掘って五尺あまりにいたると、たちまち古い磚が見え、さらに二尺あまりで、旧い槨が見えた。匠たちはみな別に墓穴を造るべきだと言ったが、地師は頑固に許さず、陳もかれに従った。馮氏の人は言った。「旧い槨をどうしましょう。」陳は言った。「この中の骸骨は、一つも残っておらず、調べられる碑誌もない。遠い世の誰の墓か分からないから、これ以上何を惜しもう。掘って除けばよい。」馮氏はその言葉に従った。陳は葬送して帰ると、発病し、その子に言った。「わたしは馮氏のことに坐して死に、地師も生きられない。」三日の間に、陳と地師は相次いで死に、馮氏だけは恙なかったが、葬った後、その家も日に日に没落した。

 

河南孟県の宋君夢蘭は、字を香谷といい、同治壬戌[179]の進士であった。知県として甘粛に派遣され、命を奉じて涼州にゆき、回民が乱をなすのに遭い、城が陥って死んだが、家ではなお知らせを得ていなかった。かれの族子寛夫は、もともとかれと同学で、たいへん仲が良かったが、ふと夢みると、かれは行袍行裳で軍営の装束のようにし(行袍とは、襟なしの袍である。行裳とは、俗に戦裙[180]という。どちらも『会典』[181]に見える)、一巻の書を取って読んでいた。読みおわると泣いて言った。「わたしはすでに泉下の人となってしまった。」寛夫は瞿然として目醒め、翌日本当に訃報を得た。また浙江義烏の人陳君は、−話者はその名を言わなかった、−かつて分水[182]の訓導となり、後に家で死んだ。その子は時に省城におり、たまたま昼寝していたが、夢みるとその父が外から来、顔色は惨淡としていた。子が迎えて尋ねると、父は言った。「おまえはまだ帰らないのか。おまえを呼ぶものが来よう。」子がその詳細を尋ねようとすると、家から飛脚が来たと報せがあり、いそいで起きてわけを尋ねると、その父が死んだことが分かった。そもそも死者の霊が赴くものとともに来るのは、九巻で記した朱観察[183]、長大令[184]のこととまさに似ている。

 

咸豊庚申[185]、浙江の省城が失陥した。時に何子敬観察紹祺[186]は所用で蘇州にいっていたが、その家族は杭州に留まっていた。恭人[187]陳氏は異変を聞くと、家人に語って言った。「主人はすでによそに出ており、わたしたちは活路を求めることができません。何氏は湘南の名族ですから、老若男女は義として賊に辱められません。」そしてその幼い子慶、慶熙を縛り、池に沈めた。みずからは姻戚の婦人朱氏とともに、縄を引いてともに縊れた。たまたま江南の援兵が来、五日足らずで省城を回復したので、家人がすぐにいってみると、二子は水が浅かったので死んでいなかった。恭人と朱は梁に懸かり、朱は息絶えていたが恭人は救われて蘇られた。みずから言った。「縊れた後、すこしも苦しみませんでしたが、二つの紅い燈が前にあり、導いているかのようでした。ぼんやりとしてついてゆきましたが、ゆく所がどこか分からず、ふとまた天の日を見れば、すでに目ざめていました。」後に原籍に帰り、天寿を全うした。そもそも縊れて数日になっても、なお死なないことができたのだが、このことは本当にまれに聞くことであった。ある人は恭人は従容として操のために死に、節烈は嘉するべきであったので、神鬼に守られたのは当然だと言った。しかし乱離の世、命を棄てて操を守り、死を見ること帰るようなものは[188]、少なくないのに、どうして鬼神は恭人にだけ手厚くしたのか。聞けばかれは平素仏を拝し、経を誦え、寒い時も暑い時もやめることがなかったそうなので、大難で死ななかったのは、これによっているかもしれない。『太平広記』の「報応」[189]で、を仏像を崇めて善報を得た話はおよそ五巻あるが、おしなべて誣妄とすることはできない。

 

杭州の鄭譜香都転は、はじめて礼闈試[190]に応じた時、同郷の魏部郎の家で塾師をしていたことがあった[191]。その家にはもともと狐がおり、譜香が来る前、狐はもとの塾師を追い払い、譜香を代わりにさせたのであった。部郎は言った。「その人はまだ来ないのか」狐は言った。「某日にかならず来ましょう。」その後、譜香は本当にその日に来たので、狐の意見に従って決めたのであった。書斎に入れば、四壁にはすべて新しい紙が貼られ、蝿頭[192]の小字がその上に満ちていたが、雑[193]詩文で、まったくいい加減なものであった。館人[194]は言った。「昨晩はまだこれがあるのを見ませんでした。」譜香は狐がしたことだと悟り、微笑して外に出、他の家にしばらく坐した。するとたちまち淡巴(たばこ)[195]が窓を破って入ってき、その音はたいへん激しかった。この筒は譜香が書斎の中に忘れたものであった。取って見れば、一枚の手紙が縛られており、要旨は「どうしてわたしを軽んじた」ということであったので、やはり数語を書いて返事した。筆を擱くとすぐに、すでに小石が包まれた返書が投げ入れられていたが、このように敏捷ならば、一晩の間に手紙が四壁に満ちたのも道理であった。読んだが、語気はまだ不穏であった。理によって諭せないことが分かったので、それ以上は返事しなかった。まもなく、魏に辞して他家に就いた。譜香はこの狐にも及べないところがあったと言った。部郎の幼い子がはじめて時文を作ることを学び、小講[196]を作ったが、その文はたいへんまずく、ほとんど読むにたえなかった。狐が七八字を換えてやると、意外にもきちんとした文になり、本当に諺にいう点鉄成金[197]であった。また歳末、部郎は、友人が数十両を借りようとしたので、かたく断って言った。「金はない。」するとたちまち砰然[198]と嚢がその前に落ちたが、銀が満ちており、その上にこう大書してあった。「これは蒙古児[199]ではないか。」部郎はたいへん恥じた。後に数年しないうちに、部郎は亡くなり、家族も相次いで亡くなったが、狐はそもそもかれらの衰えた気に乗じて侮っていたのであった。わたしはこれを杜筱舫から聞いた。

 

苑平[200]の許姓は、たまたま一尾の魚を料理し、煮えたので食らい、その頭を器に置いていた。夜になると一点の光があり、熒熒として明星のようで、もって燈に近づけると、燈はそのために消えたので、家人は驚いた。裂いてみると、珠一粒を得た。魚珠[201]は怪しむに足りないが、煮えてなお光を吐け、それに燈を消す怪異があるのは、怪しかった。長洲の朱我斎は本当にみずからそれを見た。

 

最終更新日:201227

右台仙館筆記

中国文学

トップページ

 



[1]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/1880%25E5%25B9%25B4&sa=U&ei=jQ9cTun6DYLprQe0zo2zDw&ved=0CCcQFjAC&usg=AFQjCNHHHsR0hZZmtU5RV1B40nAKCOZf4Q

[2]http://baike.baidu.com/view/598583.htm光緒五年(千八百七十九)浙江巡撫に就任。

[3]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic8AZdic9A222596.htm&sa=U&ei=ARVcTrzfB8yJrAe0rdzHDw&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNG0ARVmWU1wdDb4Fw9WII7zAIdAhw

[4]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1280109.htm&sa=U&ei=nBRcTsXnH87xrQeE25yqDw&ved=0CA8QFjAA&usg=AFQjCNH_u20kkFd1Eog3_QU54DHC2cSASg同治九年(千八百七十年)浙江巡撫に就任

[5]http://www.google.com/url?q=http://zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8A5948.htm&sa=U&ei=PxBbTq7DCMPEmAXGrOilDA&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEe6g7iGxEYboXbnt8zjliFbGtQWA御用

[6]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E3%80%80%E7%A6%8F%E6%BA%AA&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[7]未詳だが、おめでたい世界ということであろう。

[8]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2109252.htm&sa=U&ei=HBZcTvvHNIfqrQe7x5SUDw&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNHCpFOoPoHcTssquG2umW5lOfocxw

[9]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3515218.htm&sa=U&ei=dRZcTqOaHZGrrAf0-MjJDw&ved=0CBUQFjAC&usg=AFQjCNFk4kmcKhia0-i7c_Q5XI1gkpVRFg

[10]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/80198.htm&sa=U&ei=nQVdTqCIMLHvmAXeltEK&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNGCX2gYHDdehwMqWfmS_naVs0W88g

[11]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1997739.htm&sa=U&ei=UxZcTsruOZDwrQfn4rW3Dw&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNFywQNtwgj9Tsikcx5gh_ok3w3ACQ

[12]卷四十二『長寿』参照http://www.guoxue123.com/biji/qing/gyck/041.htm

[13]未詳

[14]参照

[15]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/1821%25E5%25B9%25B4&sa=U&ei=axdcTvzwMdCmrAeFxs2iDw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHM-mPbAPcg8TRoLpBTEPm-exC6Hw

[16]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicADZdicA6284330.htm&sa=U&ei=QeRYTvOZKOWImQWkv82_DA&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGtZICG82p6_I9Ll9GYV8LUVyQ-4A学生の姓名をする册子

[17]http://zh.wikipedia.org/wiki/1844%E5%B9%B4

[18]未詳だが、天界の掲示板であろう。「榜」は掲示板。

[19]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8ZdicBDZdicBD209953.htm&sa=U&ei=yRdcTsOvJcS3rAe6upSODw&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNFZGilYD0A-WKENkINlOyjxeje1jQ籍、典籍。

[20]http://www.google.com/url?q=http://www.tianyabook.com/gudian/taipingguangji/157.htm&sa=U&ei=WBhcTvWQL4_irAfImtmbDw&ved=0CBoQFjAD&usg=AFQjCNFb3CpbNJo5tDjPWmkcfJq87L5Hlw『太平広卷第百五十四に引かれている。

[21]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic83ZdicBD244060.htm&sa=U&ei=5xlcTpG0MM3hrAf3jqWNDw&ved=0CBAQFjAB&usg=AFQjCNEWUvmqcIPIqPRh-bCDdy2sAbyCvQ省。

[22]主語は主事。『太平広記』には「望めば照り輝いて金字のようであった。(望之照耀如金字)」と「来年の進士の名で(明年士人名)」の間に、「彦博私主事曰、此何礼也。」という文がある。

[23]原文「明年進士人名、將送上界官司視。」。『太平広記』では「明年士人名、将送上界官司閲視之所」となっている。

[24]http://www.google.com/url?q=http://www.tianyabook.com/gudian/taipingguangji/158.htm&sa=U&ei=7R5cTvy4CNHirAenmMmVDw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEJAxuKSoAQvLmw5VAIJNEfrCKIMg『太平広卷第百五十五に引用されている。

[25]科挙の功名http://www.zdic.net/cd/jd/9/ZdicE7ZdicA7Zdic91227549.htm

[26]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic86ZdicA564820.htm&sa=U&ei=wx9cTufHKY_rrQeDyNWeDw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEJ6oBURgd7UFfwGb7mOPpUqEFFdQ冥土

[27]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/1844%25E5%25B9%25B4&sa=U&ei=niVcToeMF83wrQef2eGTDw&ved=0CBQQFjAB&usg=AFQjCNGvWzZjs_1MeOGE4_f8FW6UZpVI5Q

[28]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/3213675.htm&sa=U&ei=B75dToiwK-TvmAXv6P0m&ved=0CBAQFjAB&usg=AFQjCNGBILOefG8lWZUUhLJXqGO4yXXquQ許彭壽

[29]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9Zdic98Zdic81270522.htm&sa=U&ei=LSxcTtq2GtDnmAWB7a0B&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNGVBNNKU85BJPZHvjn-XQhE7GHQhA大学士

[30]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/220898.htm&sa=U&ei=cMBdTrjVH4jkmAXIh_U3&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNH3McxwXQWaEhsFA1-h-QpsBABtXQ

[31]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE5ZdicBBZdic89297338.htm&sa=U&ei=HCxcTpDOMYLorQe986i1Dw&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNEkz-hQO9XQ1QDYtXNyLGC2HPXGQA按察使

[32]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/448286.htm&sa=U&ei=23FdToaqJIvyrQfuyKjADw&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNFTLWCtFaTJ5TLNHsrJ27GZ32kcCg

[33]『春秋左傳』莊公四年

[34]兪樾の著作を集めた叢書の一つ。三十巻。

[35]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicBAZdicB1206243.htm&sa=U&ei=xCxcTvmhLsXymAWLg5kZ&ved=0CBIQFjAB&usg=AFQjCNHFqMsZsTNRDaj6JojTdeNR8sDsKQ薄い物の通称。

[36]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/962533.htm&sa=U&ei=C8FdTom2IIuhmQXX_dgO&ved=0CBIQFjAA&usg=AFQjCNEcMBVeWgdOSR4S11Hxy09-McB-mQ

[37]未詳

[38]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA1ZdicA3200396.htm&sa=U&ei=_SxcTtHHMIPJmAXq-qH_Dw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEYiHbI36qJoT6DTgqpi4z-nVAJuw衣服を入れる包みあるいは袋。

[39]「粉」は音はfěn

[40]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/320090.htm&sa=U&ei=eXFdTtWEL8nmrAfwpcnCDw&ved=0CBAQFjAB&usg=AFQjCNGNEfaKxWvio3pDvfYmqAAFQiMB5A

[41]哺」(bǔ幻は(huàn)の反切ということ。音は「buànbàn)」となる。現代中国語の「扮」の発音は「bàn」。

[42]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic98Zdic9F69534.htm&sa=U&ei=nTFcTveyMKXmmAX1laEt&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEyMC4Xsz2mlejOp8EA2wQOCkNU5w道士の帽子。

[43]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE9Zdic9CZdic93259409.htm&sa=U&ei=uDFcTpbJHOGimQWEypUt&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNF5gmlAwrSeiFx5i4snAr-3oPmalg霓裳http://www.zdic.net/cd/ci//16/ZdicE9Zdic9CZdic93267625.htm道士の衣服。

[44]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE9ZdicBAZdic8873335.htm&sa=U&ei=4zFcTtnpBInRmAXMj7k5&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNF2No-xgEuof83ij8IXg8GKbl1T0g古人が閑談するて虫ををはたく工具。細長い木の棒の両側および上端に毛を挿してあるhttp://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E9%BA%88%E5%B0%BE&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[45]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE7Zdic8FZdic93.htm&sa=U&ei=ADJcTuTlK-nZmAXD5t0l&ved=0CBkQFjAC&usg=AFQjCNE2hOKy3b81YXzc8df4KTNVZLW9Og占卜の用具、多くは二つの蚌の殻あるいは蚌の殻に似た竹、木片で作り、地上にち、その上向きになるか下向きになるかを見、吉凶を占う。

[46]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE5ZdicABZdic81129550.htm&sa=U&ei=FTJcTvfYH-bwmAXDxJ0n&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNHN_7YvwMBmoNdQkHiSim58bLGuRw男女が夭亡した後、生者がかれらのために求婚し、女を嫁がして合葬すること。

[47]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic9BZdic86182777.htm&sa=U&ei=WtBVTucnraGZBbCEwJIM&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNFos9QaSoZcuxz-3xdMcWm6rcnWCA盆と盎。またひろくやや大きな容器をさす

[48]原文「遇重車升」。「」は甑。そのような形をした山という。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE7Zdic94Zdic97.htm

[49]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE9Zdic87Zdic8D242769.htm重い押す人。『左·成公五年』「晋侯以伯宗。伯宗辟重、曰、辟重人曰、待我、不如捷之速也。」伯峻注「重人、押送重之人。」

[50]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE6ZdicA7Zdic83.htm&sa=U&ei=mTJcTtPsOYmOmQXo7_wW&ved=0CBAQFjAB&usg=AFQjCNFbIis7GusONMsd5xtqMaKUC02t4gける

[51]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/33562.htm&sa=U&ei=VkFcTojoNMbEmAXM5KEi&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNGhoZGHC9UT-3vjwzfMfSC76qedIQhttp://maps.google.com/maps?q=%E6%B1%9F%E8%8B%8F%E7%9C%81%E6%89%AC%E5%B7%9E%E5%B8%82%E5%AE%9D%E5%BA%94%E5%8E%BF&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[52] http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA0Zdic89182404.htm 擬音語。破裂、折断、啓、高呼の音に用いる。

[53]『易・繋辞下』

[54]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicA9Zdic9A131553.htm婚礼冠礼。

[55]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9915965.htm&sa=U&ei=P0ZcTvi0K4XQmAW9r7EP&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNGFH6ejAz5zy4IIQvG69yHvN7O3Vw真夜中

[56]http://www.google.com/url?q=http://blog.eyh.cn/user2/yuming-yh/3199.shtml&sa=U&ei=ZUZcTrjiLMSAmQWk44QI&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNG6WucV09PV3gV8SVy6MnpXu04WmA

[57]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/1849%25E5%25B9%25B4&sa=U&ei=jEZcTrPNEM7umAWu2J0l&ved=0CBMQFjAB&usg=AFQjCNEly8sBI00jeRjFUgqy8npKK_YNbw

[58]http://maps.google.com/maps?q=%E4%B8%8A%E8%99%9E&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wlhttp://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/6734.htm&sa=U&ei=1kZcTvvSIc7OmAWy8OAs&ved=0CBwQFjAD&usg=AFQjCNE9Cha6PrDq-ijjzjzDp-Ry8oSamw

[59]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/311326.htm&sa=U&ei=60ZcTrLMDeydmQWIsOgP&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGufv_YB7QQYjKxbFNQ__DVabWv0whttp://www.google.com/search?q=%E4%BB%99%E5%A7%91%E6%B4%9E&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[60]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic8BZdic86307455.htm&sa=U&ei=LkdcTsjDM-PgmAXMk_EQ&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNFf8riYeDM81spvJAcqtY_GMCtqRQ破字、相字、字とも称する。文字占

[61]http://baike.baidu.com/view/407655.htm

[62]http://baike.baidu.com/view/4906481.htm

[63]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/287031.htm&sa=U&ei=t0dcTvu-OMH4mAXSp8gp&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNHOAmooO-inbaqnqXdgf0Li2LYdPQ

[64]http://www.google.com/url?q=http://yanxiaguan.com.cn/yxg5.htm&sa=U&ei=Q3VdTsPsAYyGrAfpxumjDw&ved=0CBAQFjAB&usg=AFQjCNFR7oE6EJzg_cBMcWLRAsvXVvUlJg

[65]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/311051.htm&sa=U&ei=fEhcTpvuDofNmAXG4fQ2&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEX57g3tezR6gmNgouIAHkSLOoXHA漢書·王龔鮑伝序』「君平卜筮於成都市……裁日閲数人、得百足自則閉肆下簾而授老子。」

[66]中国将棋の駒の一つ。日本将棋の「歩兵」に相当。

[67]中国将棋で、自陣と敵陣の境目。

[68]原文「義字從羊從我、是止一屬羊之我」。「是止一屬羊之我」が未詳。とりあえずこう訳す。

[69]·小雅·斯干』

[70]http://baike.baidu.com/view/1305852.htm

[71]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/20/ZdicE5ZdicB7Zdic8D111588.htm&sa=U&ei=UzBWTtW5O-PemAWBv9mNDA&ved=0CBUQFjAC&usg=AFQjCNGdElMqsPOJE4h91kEeT1kCRi8JEwhttp://www.google.co.jp/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/20/ZdicE5ZdicB7Zdic8D111582.htm&sa=U&ei=2ulYTpvvK6rvmAX3nYS2DA&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNF1llu9r92VLzcegKW54tOgCd5S0Q盛大光明、高大耀煌。

[72]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9CZdic9F24630.htm&sa=U&ei=rNlYTr3eCqbcmAXfkNSpDA&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNE95FKj9whOLKLBZyTN2Z_iuQlxMg漢典に適当な語釈なし。肉身のことであろう。

[73]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE7ZdicAEZdic95192677.htm神仙名。等によって召され、吉凶等の事を占えるという。

[74]http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE6ZdicAAZdic90229314.htm檐楣。けられた横板。

[75]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/964995.htm&sa=U&ei=aS1YTqWaNKODmQWqnYTDDA&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNGtBuaWHbOhI_uF2xI7vKwwS-OKNwhttp://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B9%8D%E6%B5%A6%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[76]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E6%96%B0%E5%B8%82%E9%8E%AE&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wlhttp://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/329294.htm&sa=U&ei=u05cTvrhA-HSmAWf5eUS&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNEisyWJSEAZGd_EvUnQfSqWn7oJLw

[77]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicA0ZdicB0174496.htm&sa=U&ei=A09cTov6EYj5mAXnhKw5&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNHZgwy2WtIPIh8zaMQtgWGQwRS3jw擬音語。水流激等の声。

[78]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9ZdicBCZdic8E61904.htm祭器、表面に功のある人物を表彰する文字を刻む。

[79]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/22/ZdicE6ZdicB0Zdic8D333647.htm&sa=U&ei=kE9cTq-cL4rKmAWo9pk2&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGbEZEBs-vfvuFsyC-4zgJDGgWTpwあるいは毛とその他の材料を混ぜりした毯子。地毯、壁毯、牀毯、簾幕等に用いられる。

[80]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic8FZdicA0133581.htm&sa=U&ei=oE9cTtG5GYikmQXr-uws&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNFpNFrc7oZLHjnIudSSdW7CqdrpMg珠をった灯。

[81]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/6.htm&sa=U&ei=rk9cTvybBsLtmAXWl_AO&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNFEY8kaRHCmD0oWmp_NSoyfZ3Cfew

[82]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE8ZdicACZdicB0256933.htm&sa=U&ei=EXZZTpiXBefnmAXb4pmLDA&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNGfiVjXVe-GjDs2m2LENyHMFuGC8Qくどくどってはっきりしないこと。

[83]『尚書大禹謨

[84]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5Zdic8DZdic974235.htm&sa=U&ei=y-tYTuLAD5HPmAW-qKGPDA&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGNHoGg6olSzoeC0CKuaOiafaSrzw北宋画家米芾。米芾は礼部外郎となったことがあり、世に米南称せられた

[85]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB3ZdicBC85378.htm&sa=U&ei=4OtYTpL-HcrPmAXSuPGWDA&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGlrzRLCBqLdJRKp2RJH6Z4pS5ehg中国画の技法。水墨をあるいはに撒き、その形状に随って描画したもの。

[86]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/354.htm&sa=U&ei=fF5cTuPSOuvnmAXPzKAQ&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNFX1i_JiRnWAAbewqiSvfqcfD0K-ghttp://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E8%8D%BC%E8%98%BC&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[87]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE5ZdicB8Zdic95.htm&sa=U&ei=n15cTrK4NvGImQWhqaw5&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNG8U-aA2uk1rC-BUBq1FQFZqBNawQ

[88]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8Zdic8BZdicB9335612.htm&sa=U&ei=-YVdToDhLcLWrQeP-fGvDw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNFn0TsDbQJ3EYQFl5vgf0XlrgEhwA林檎

[89]原文「非但不痛、且有捷效。」。「捷效」が未詳だが、すぐに形のよい小さな足が出来上がるということであろう。

[90]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA1Zdic8C109483.htm&sa=U&ei=dzNYTvTLCaHFmAX2x9GmDA&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNG6SmacF86veDXdpW096hh4KBndGQ纏足で足を包む布

[91]纏足の際、明礬を用いる。http://webcache.googleusercontent.com/search?hl=zh-CN&lr=&q=cache:9DWPc5ICCOIJ:http://baike.baidu.com/view/28744.htm+%E7%A4%AC%E3%80%80%E7%BA%8F%E8%B6%B3&ct=clnk「これは、皮膚を収縮させる一方、緊縛後の炎症・化膿に対し湿布剤の役割を果たす。」http://webcache.googleusercontent.com/search?hl=ja&lr=&q=cache:LpymCJgr3eUJ:http://semi.miyazaki-mu.ac.jp/stamiya/soturon/15yonezawa/nisyou.htm+%E6%98%8E%E7%A4%AC%E3%80%80%E7%BA%8F%E8%B6%B3&ct=clnk

[92]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE8Zdic89ZdicBE4868.htm&sa=U&ei=oGVcToGQD8nLmAWP3awU&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNG-W7VZKp0fPbmWuiwNIKGoKu7Row端午に艾を採って作る虎形の物、これを佩びたり戴いたりすると邪を避け、れを祓うという。

[93]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicBDZdicA948055.htm&sa=U&ei=-WVcToyGJoXKmAWmhqU9&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNEg02qxYTVzDbE1Ga_46Eq8YStL2A彩色した

[94]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicBAZdic9492607.htm&sa=U&ei=FWZcTpHKAsbEmAXM5KEi&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEnQO_AgmpWMCWKQID_tKycPpjFjg道教の方。雷公の墨篆得、法に従って行えば、雷雨を致せ、疾苦を祓い、功を立て人を救うという。雷公に兄弟五人がいるので、五雷と称するという。

[95]道士が狐に弄ばれたこと

[96]「五雷の法を試させてください」ということ。

[97]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9CZdic9F24605.htm&sa=U&ei=sjhYTs2NOc73mAWjpPGmDA&ved=0CBAQFjAB&usg=AFQjCNHJiJCUxLdNP6ESkkGxqLJC6jj5AA心中の火。旺盛な生命力の

[98]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/964565.htm&sa=U&ei=tKxZTo3nKqvqmAXeyaTCDA&ved=0CBIQFjAC&usg=AFQjCNHTedcQRQSoeqe_R39xJUWBdH3RfA亭序』の石刻名。唐太宗は晋の王羲之父子の好み、『亭序』真迹を得、人に命じて模写させ、学士院に刻させた。五代梁の汴都に移され、後に乱をわれ、北宋慶暦見され定州州庁に置かれた。大年間、徽宗はその石を取るように命じ、宣和殿に置かせた。北宋が亡ぶと、石もまた散失してわらなくなった。定州は宋定武属したので、この石刻およびその拓本「定武」あるいは「定武石刻」と称する

[99]文字が欠けていない拓本

[100]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/133843.htm&sa=U&ei=42ZcTurAGOKimQWKkZQX&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNFCvRKF-NlYaGW7vDuV2PeWMiF6mw

[101]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9CZdic9F24605.htm&sa=U&ei=cmdYTqmgDeKNmQWjstimDA&ved=0CBAQFjAB&usg=AFQjCNGQBXpMRul8lMl2qiIGK04IIOyz1Q心中の火。旺盛の生命力の

[102]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA4ZdicA7213798.htm成仙の道。高い道行。

[103]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic9CZdicB1132799.htm&sa=U&ei=HjhWTqTVBOSTmQX738SXDA&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNELP9I9PrHD7ogzPNjGbWuSkbXDYg朱墨で書いた符籙

[104]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE4ZdicBCZdicA0212248.htm&sa=U&ei=UI5dTtv8Fc_KiAKqvMGzBQ&ved=0CBIQFjAC&usg=AFQjCNGAl84GcovOtFVRemKD6Hxur7SHng記載された文字をひろくさす。

[105]『史·毅列

[106]http://maps.google.com/maps?q=%E6%AD%A6%E5%BA%B7%E9%95%87&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[107]未詳

[108]参照

[109]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE4ZdicBDZdic8399382.htm&sa=U&ei=RDlWTsr5K6_2mAWLjOGZDA&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNH6dQCZnLoYMIJF3r4H31NVbDLkLA官府あるいは地主の田地を借りて耕している農民

[110]原文「氣候尚淺」。未詳。とりあえずこう訳す。

[111]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicB2Zdic8C334234.htm&sa=U&ei=YEBWTtfxDYSfmQXJ3YSdDA&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNGCypF2qH9Nem50C4tQTjGArUSyWw危急のさま。

[112]原文同じ。こうした言葉はない。「Nの誤りか。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE6ZdicBBZdicA2221375.htm&sa=U&ei=qh1eTsWPOK2ImQXMsJk7&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNEJUcLGw7pJGm0tWfPoRD8mMYREmg「N」は水流回旋のさま

[113]http://maps.google.com/maps?q=%E5%8C%97%E9%BA%97%E6%A9%8B&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wlhttp://www.google.com/search?q=%E5%8C%97%E9%BA%97%E6%A9%8B&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=li

[114]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5ZdicAEZdicB0125861.htm&sa=U&ei=jlFWTsmhG6vNmAWslPywDA&ved=0CBQQFjAC&usg=AFQjCNGAQc2mwt-6xPoqXhsGt6q25R1d7g墓の上の木。

[115]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic8DZdic8E334916.htm&sa=U&ei=rVFWTr_4KMjQmAWzmqGlDA&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNHTdkESNepJPpPYq-qJpK5n5flFjg梁、殿、城垣あるいは陵墓等の前にけられる装用の巨大な柱。陵墓前にけられるものは「墓表」ともいう。一般に石で造られる。柱には彫刻が施される。http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E8%8F%AF%E8%A1%A8&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[116]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8ZdicBEZdic9F21846.htm伝説中の神。鹿に似て尾で、二つの角がある。http://www.google.com/search?q=%E8%BE%9F%E9%82%AA&btnG=%E6%90%9C%E7%B4%A2&hl=zh-CN&lr=&um=1&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&aq=f&aqi=&aql=&oq=

[117]http://www.google.com/search?q=%E7%BF%81%E4%BB%B2&hl=zh-CN&lr=&um=1&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&aq=f&aqi=&aql=&oq=http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicBFZdic81204617.htm&sa=U&ei=oY9cTo70OqjZmAWR09Uj&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEi5-ehoSlHenRs3Vj9LyCkROQnOg墓前の石人

[118]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE7ZdicA2Zdic91292110.htm&sa=U&ei=uRlVTtKvJenrmAXQp8HlDw&ved=0CBMQFjAD&usg=AFQjCNE5NuZVbcQzc7KoYajIpkOuWly_tQ「碑志とも」。碑。碑上に刻まれた念の文字。墓碑、墓誌のことであろう。

[119]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic95Zdic9534869.htm&sa=U&ei=qC9eTvHxNIbjmAX9xLAB&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGeFVtTtwrJIa38chWRC1zPBpaXyA

[120]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E7%83%8F%E7%A8%8B&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[121]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B5%99%E6%B1%9F%E7%9C%81%E6%B9%96%E5%B7%9E%E5%B8%82%E5%8D%97%E6%B5%94%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[122]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic93314740.htm道コ。品行。

[123]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E4%BB%A4%E7%89%8C&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wihttp://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicBBZdicA411389.htm&sa=U&ei=VZBcTpHVAaLQmAX-9cUm&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNFsRB2VQ_AsWpWLdrsHhUVO2TU-ag道士が命令をするために用いる木牌。

[124]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85Zdic8399808.htm&sa=U&ei=YJBcTv7-MeL2mAWK3aQ8&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEJIqDgCAFCgJWcWGB_dDAPNz5y0A精力、精神。

[125]未詳だが、加熱した塩水であろう。

[126]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85Zdic8392198.htm&sa=U&ei=ipBcTrOpI8eHmQXdj5kN&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNHcuyFdz1NAHg3ljexOSTgZaKK7Ow漢典に適当な語釈なし。上の「元神」と同義であろう。

[127]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic9DZdic92261427.htm&sa=U&ei=wZBcTpaWLvDzmAWJ6bw7&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNF9oXTiDFlBy6XJvMTly5cfMFHcVA道教徒が用いる青藤画いた符籙。

[128]未詳

[129]http://www.google.com/search?q=%E5%8D%97%E6%BD%AF%E3%80%80%E5%BB%A3%E6%83%A0%E5%AE%AE&hl=zh-CN&lr=&um=1&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&aq=f&aqi=&aql=&oq=http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/364761.htm&sa=U&ei=UZNcTrrDGOehmQW97fkG&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNHK4AR09aXaQjWJDSbnBQQL3CeL2w

[130]http://www.google.com/search?q=%E4%B8%83%E5%AD%90%E5%B1%B1%E3%80%80%E4%B9%BE%E5%85%83%E5%AF%BA&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=vi

[131]浙江省湖州市コ清乾元呉羌山http://www.youbianku.com/%E6%B5%99%E6%B1%9F%E7%9C%81%E6%B9%96%E5%B7%9E%E5%B8%82%E5%BE%B7%E6%B8%85%E5%8E%BF%E4%B9%BE%E5%85%83%E9%95%87%E5%90%B4%E7%BE%8C%E5%B1%B1

[132]http://baike.baidu.com/view/263384.htm

[133]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicA5Zdic87299180.htm&sa=U&ei=QZddTu6VB4zWiAK71JCzBQ&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNF3ARdu-gG71LsrzXrTuH9xafDLzw数の一

[134]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic99ZdicB6290282.htm&sa=U&ei=hglXTuaaGYbmiAKg36yyCQ&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNFqnvo-f6mRQYTP2aMxmuQhoMw-AQ光亮透明。

[135]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/17/ZdicE7ZdicB0Zdic8C231387.htm&sa=U&ei=k5VcTpzmJeqOmQX5v-0E&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFRpK4nZDzpua9-IK0VjTLJkFFVxA擬音語ふるえるさま。

[136]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic94ZdicAF289848.htm&sa=U&ei=qpVcTtGyEOyhmQWczoU0&ved=0CBIQFjAA&usg=AFQjCNH7y0XTNDIyRuafMmQ0aTlnIwUoOQ干支

[137]http://baike.baidu.com/view/71311.htm遁甲の八門の一つ。驚恐怪異があるということで、むりにこのを出れば驚慌恐乱の事に遇い易いという。

[138]http://baike.baidu.com/view/71311.htm遁甲の八門の一つ。むりに傷門出れば血を易いという。

[139]陝西http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE7ZdicA7ZdicA6.htm

[140]ドアノブのようである。http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E9%8E%96%E7%AD%92&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[141]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85ZdicAC293490.htm&sa=U&ei=MJZcTrXdBIXImAXxlowo&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEYb6pHPXWP-T97kuUsXw_fwNhF5A公文。

[142]原文「道家言枉殺人者、是以兵刃而更相殺」。http://www.eywedu.com/zhuzi/bpznpjs/06.htm『抱朴子』篇卷之六微旨「故道家言枉煞人者、是以兵刃而更相殺。」

[143]原文「旗竿斗」。未詳。とりあえずこう訳す。

[144]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7Zdic84ZdicB1161634.htm&sa=U&ei=e5dcTquOGOqdmQWHmaE6&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNHXaM4mLRA1TlatFZ_VVGH9OIbr9Q光彩耀のさま。

[145]原文「竿而上」。未詳。とりあえずこう訳す。

[146]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic96Zdic918903.htm&sa=U&ei=XUZXTpWBLuv4mAX3vrm5DA&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNHyGSf1jg1EnMqLBozNGy8bue7ahQ色彩錯雑燦爛さま。

[147]原文「見蜈蚣頭中有光、高丈許」。未詳。とりあえずこう訳す。光が頭から一丈あまりの高さまで放射しているということか。

[148]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic9BZdic84329571.htmhttp://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E9%9B%84%E9%BB%84&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[149]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%BA%94%E6%8C%87%E5%B1%B1&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wlhttp://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E4%BA%94%E6%8C%87%E5%B1%B1&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=li

[150]『七修類稿』卷四十一・奇藍香「奇藍香出占城等國、誌書皆書奇南二字、星槎勝覽書棋楠二字、問之人、人不知也。昨見潘希曾使安南、得其國之所賜書物、之於稿、乃此奇藍二字。想誌書等傳寫之訛也。」

[151]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2758915.htm&sa=U&ei=rKxcTqngLsvJmAX4gow7&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNFNzdc7GsU2MObg6mBXhw7X3FdHIQ

[152]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/51801.htm&sa=U&ei=26xcTsWnIMrPmAWh7bEQ&ved=0CBQQFjAD&usg=AFQjCNG8gFQL-OhZTzS3Za7dj5IPq-Pb4A

[153]http://big5.dushu.com/showbook/101095/http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/71229.htm&sa=U&ei=4K5cTvDxC-bPmAWMnJQG&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNEwC7-43M_YP8exBJXGgl8HgoYYpw

[154]『夷堅丁志』卷第十六に『鄭生夫婦』という話がある。http://big5.dushu.com/showbook/101095/1033053.html

[155]『夷堅丁志』卷第十六『雞子夢』に「右八事皆董堅老相授。」とある。「右八事」とは『鄭生夫婦』『安道』『民放鱓』『仙舟上天』『雷丹』『酒蟲』『牛舎利塔』『雞子夢』を指す。

[156]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/109154.htm&sa=U&ei=x7BcTpmLEsvJmAX4gow7&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEYo7lbV70dPY1Xt546n8PDw2kd3w

[157]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicA0ZdicB2347404.htm&sa=U&ei=ArFcTvzjE-yemQXh9509&ved=0CB8QFjAD&usg=AFQjCNEOgOqcOBO7uBdu3P-6oa_O0czUuA

[158]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic88ZdicBF165014.htm&sa=U&ei=7PRYTtSpK6namAXzkKWpDA&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNFPDmRL2jsXWmeJINSB9y8Iqq5YPg閨房

[159]原文「一字而一幕」。未詳。とりあえずこう訳す。

[160]原文「為四方之形。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[161]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8ZdicA2Zdic8D199065.htm&sa=U&ei=bG1XTo3uG82fmQWkmpSoDA&ved=0CBgQFjAE&usg=AFQjCNH8n-Rqx16efd7A-Q6DN4Hw1EmROQ袍腰。君王と官の常服。

[162]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8Zdic8BZdic9760290.htm&sa=U&ei=G7NcTorpEciTmQWY3P0K&ved=0CBAQFjAB&usg=AFQjCNGsmpm_GAxte-UrgDjwFbs-AM3oNw苗が伸びて結実しないこと。人の資質はよいが、なお成就することなく不幸にして夭折することの比

[163]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicAEZdicBF127059.htm&sa=U&ei=NrNcTpn5BObYmAWlttEJ&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNE-VF7MaOPDagpEMcq8DQ1pNjJg5Q佛教、道教で前世の根基をいう。

[164]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9ZdicB1ZdicBC61552.htm&sa=U&ei=XIRXTtDVLu34mAWihZSYDA&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGCiXs6Uu3l4IoXtRGYFv4_BOkXaw、豆祭品にする祭事。

[165]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic95Zdic9B286117.htm衣襟を、恭敬を表すこと。女子の拜礼。

[166]合格掲示板

[167]http://maps.google.com/maps?q=%E6%9C%B1%E4%BB%99%E9%8E%AE&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[168]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1813530.htm&sa=U&ei=67NcTqvIDq33mAX-tYAJ&ved=0CBAQFjAB&usg=AFQjCNGVVDn8eILfBJcKzfPqGr_D-RJszghttp://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E5%B2%B3%E5%A2%B3&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[169]http://baike.baidu.com/view/804622.htm

[170]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E5%A5%89%E5%8C%96&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[171]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE6ZdicA7Zdic8134633.htm&sa=U&ei=5rRcTvfmAarPmAWZuLUH&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNEakUaUoycTiGKOdhhvMe2MCWhXwg草草に埋葬すること

[172]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE7ZdicACZdicAE.htm&sa=U&ei=tfpUTr2GIND0mAW13vUV&ved=0CB4QFjAE&usg=AFQjCNHiMuHObj5fvNhEViU2tAXkziDATg屋上のむしろ。竹あるいは瓦の下、椽の上に布く。

[173]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdicB6203432.htm&sa=U&ei=1rhcTu_nA8KgmQXj8LE1&ved=0CBAQFjAB&usg=AFQjCNH0Oq8jKsNtYu-XDUBcoAAq2NiF_A賭博用具。宋欧陽修『』卷二「葉子格者、自唐中世以後有之……唐世士人宴聚、盛行葉子格、五代、国初猶然、後漸廃

[174]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/795922.htm&sa=U&ei=X7lcTqCNCqGemQWLp-w4&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNHp-SXu375evkwrbGRV8ViznptfgQhttp://www.google.com/url?q=http://zh.wikisource.org/zh/%25E6%25AD%25B8%25E7%2594%25B0%25E9%258C%2584&sa=U&ei=X7lcTqCNCqGemQWLp-w4&ved=0CCUQFjAG&usg=AFQjCNEQofAhejZgkBlIRcfpxFQmxPJlZA

[175]』卷二「大年又取葉子彩名紅鶴、p鶴者、別演為鶴格。」

[176]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9C%8B%E6%B5%99%E6%B1%9F%E9%87%91%E8%8F%AF%E7%BE%A9%E7%83%8F%E5%B8%82&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[177]咸豊年間、庚午年はない。http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%92%B8%E4%B8%B0_(%E5%B9%B4%E5%8F%B7)

[178]未詳

[179]http://zh.wikipedia.org/wiki/1862%E5%B9%B4

[180]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic88Zdic98282875.htm&sa=U&ei=DuFcTqHnJ-nrmAWf550M&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNFQB6DM3WmrQg5rcKd2KXfoMPs4-g腰以下をおおう服。多くは皮革で作る。

[181]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/467358.htm&sa=U&ei=OOFcTqzdN8jamAWTtNU4&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNHX0RFthj5S9jAv9FuWrhSSyG-8Vg

[182]http://baike.baidu.com/view/937593.htm

[183]参照

[184]参照

[185]http://zh.wikipedia.org/wiki/1860%E5%B9%B4

[186]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/34755.htm&sa=U&ei=EONcTp_XJcrQmAXKrr0D&ved=0CBYQFjAD&usg=AFQjCNERxNe3u3ts5P20M9aom0LPa33T-A

[187]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic81ZdicAD166073.htm&sa=U&ei=UONcToyqOc2hmQXZ1dQz&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNE-erFRKMDOR0HqDSWrQm5ASBXWsw妻子への尊称。

[188]原文「舎生取義視死如歸者」。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8ZdicA7Zdic86339139.htm&sa=U&ei=fuNcTpr-Caj3mAXlj4w3&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGuJ0tyym4NWIKe2Eopav9GLD22Dg処刑を帰宅と同様に見る。死を恐れないこと。正のために牲を惜しまないこと。

[189]http://www.zh5000.com/ZHJD/gxjd/2006/zb/qtzb/gxjd-0136.htmhttp://www.zh5000.com/ZHJD/gxjd/2006/zb/qtzb/gxjd-0137.htmhttp://www.zh5000.com/ZHJD/gxjd/2006/zb/qtzb/gxjd-0138.htmhttp://www.zh5000.com/ZHJD/gxjd/2006/zb/qtzb/gxjd-0139.htmhttp://www.zh5000.com/ZHJD/gxjd/2006/zb/qtzb/gxjd-0140.htmhttp://www.zh5000.com/ZHJD/gxjd/2006/zb/qtzb/gxjd-0141.htmhttp://www.zh5000.com/ZHJD/gxjd/2006/zb/qtzb/gxjd-0142.htmhttp://www.zh5000.com/ZHJD/gxjd/2006/zb/qtzb/gxjd-0143.htmhttp://www.zh5000.com/ZHJD/gxjd/2006/zb/qtzb/gxjd-0144.htmhttp://www.zh5000.com/ZHJD/gxjd/2006/zb/qtzb/gxjd-0145.htm

[190]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7ZdicA4ZdicBC177155.htm&sa=U&ei=2ORcTpXgBOrqmAWmrpwJ&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNGwrsAKEre_nRw4w0T5j3NBMtZ8OQ会試。礼部が主催するため、礼という

[191]原文「曾主同魏部郎家。」。「魏部郎を主人としていた」ということだが、後ろを読むと分かるように、教師をしていたのであろう。

[192]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE8Zdic9DZdic87338972.htm&sa=U&ei=VOVcTtDKI8mImQXgo8k2&ved=0CBAQFjAB&usg=AFQjCNF2aHPqxW6bL6Sxi1Y1A0KMWzL5fgのように小さいこと

[193]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic9DZdic82358649.htm文集

[194]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicA6Zdic86281098.htm舎を掌管する人。

[195]原文同じ。未詳だが、煙管であろう。

[196]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB0Zdic8F296349.htm&sa=U&ei=M-ZcTvX2KIP4mAW-8ZgJ&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNE6k4-7b33s3Kx4wAC5cQKhByloCQ明清八股文の「起」「とも

[197]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic82ZdicB956651.htm&sa=U&ei=RuZcTq3ZLeKdmQWS9oEU&ved=0CBoQFjAD&usg=AFQjCNFIqdoPxSf_LgNZ71qFedChfe7h8A文章を修改し、陳腐なもの優れたものとすること。

[198]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicA0ZdicB0174493.htm&sa=U&ei=WeZcTvC8F63PmAWnkoAS&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNFxlWS1-ioHyb6NwXOu22LZFufR8Q器物が落ちる音。

[199]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic92Zdic99235692.htm明清商人がをいう隠語

[200]原文同じ。未詳。宛平の誤りか。http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/803209.htm&sa=U&ei=VedcTqbUHIbamAWik6g1&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNGSoTuQwtgI7p4t9hscGSPp6CNEUA

[201]未詳。氏春秋·本味』「醴水之、名曰朱、六足有珠。」と関係があるか。

inserted by FC2 system