右台仙筆記/巻六

湖北咸寧に某家の娘がおり、なかなか美しかった。粤寇の乱で、数人が、にわかにかれの家に入り、娘を見て慕い、奪い去ろうとした。かれの父母は農夫、愚かで事理を弁えていなかったので、賊に言った。「娘はすでに某村の某家の息子と婚約しておりますから、どうしてあなたに従えましょう。」賊は言った。「容易いことだ。おれが某村にいって某家の子を殺せば、娘はおれに従えよう。」父母は言った。「某家の息子を殺しても、従いません。賊は言った。「それなら、おまえたち二人をあわせて殺せば、娘はおれに従えよう。」女は事が急であるのを見ると、従容と父母言った。「お父さまとお母さまは、なぜこのように年老いて物分りが悪いのでしょう。将軍さまに嫁げれば、後日、皇妃皇后になるかも知れません。どうしてあの田舎者を慕いましょうか。」さらに賊に言った。「わたしは将軍さまについてゆきますが、父と母は年老いて物分りが悪く、ともに語るに足りません。」両親が娘の衣を引いて泣くと、女は手を振って言った。「ここを去るのはたいへんよいのに、どうして悲しみ苦しむのです。ただ、お父さまとお母さまは即日よそへ移られるべきです。そうでなければ、地方の官府はわたしが賊に従ったことを知り、かならずお父さまとお母さまに罪があると思いましょう。」そう言うと、賊に従って結局去った。わずか数里ゆくと、また賊に言った。「わたしはもともと某家の息子と婚約しておりますが、今、将軍さまについてゆけば、後日、某家はかならず父母に娘を求め、さらに父母の厄介となりましょう。さいわいこの地は某村から近うございますから、いってかれらに別れを告げねばなりません。」賊は従った。娘はふだんからつねに婿の家にいっており、さらにその姑に愛されていた。そこですぐにいってその姑に別れを告げ、さらに言った。「お義父さまお義母さまは、即日よそへ移られるべきでございます、そうでなければ地方の官府はわたしが賊に従ったことを知り、かならずお義父さまとお義母さまに罪があると思いましょう。」姑はそれを聞いて泣いたが、女は顧みないで言った。賊が犯そうとすると、かならずやさしく語った。「わたしはもとよりあなたに従っておりますが、儀式を行わねばなりません、野合はできません。」ゆくこと一二日すると、賊はまた犯そうとした。女は父母と舅姑がいずれもすでによそへ移ったと思ったので、大声で罵って言った。「狗め。わたしは良家の娘で、さらにすでに某家の子と婚約しているのだから、どうしておまえたち犬豚に従おうか。」 賊はかれの心がにわかに変わったのを見ると、たいへん驚いたが、かれの貌が美しかったので、殺すに忍びず、甘い言葉で慰めた。女はますますはげしく罵り、みずから頭を賊の刃にぶつけ、殺された。この子はわたしの長男の嫁が語ったが、かれの姓氏を記憶していないのを残念に思っていた。わたしはこれは障りないと思う『明史·列女伝』に載せられている、[1]孝女、石門の乞食、上海の某家、六安の娘の類は、みなその姓氏を詳らかにしないが、今でも史策に炳然としているではないか。

 

蘇州の桃花塢に慶というものがおり(「」は、俗字で、古にはなく、『集韻』にある[平瓦]字は、蒲孟切、音膨、[亢瓦]の属とあるが。まさにこの字であるかもしれない。)、膂力が多く、郷里はみなかれを憚っていた。某甲がかれと仲違いすると、慶はその仲間を集め、殴ろうとした。甲は恐れ、走って慶の妻の父に告げると、その妻の父は言った。「理で諭せないから、用心して避けろ。」甲は隠れること数ヶ月、たまたま外出し、慶に路で遇い、痛打された。甲は憤り、さらに恥じ、帰ると生阿片煙を飲んで死んだが、郷里にはかれのために一言いってやるものもなかった。しばらくすると、阿も死んだ。その子は二和尚といい、成長し、暮らしも人並みであった。ある日、市場から遅く帰ると、甲に路で遇ったが、甲は叫んで言った。「おまえの親父はわたしを殺したから、今度はわたしがおまえを殺してやろう。」和尚はたいへん驚き、狂奔して家に帰り、大病し、見たことを述べたので家人は盛大に生贄と美酒を供えて祭った。しばらくすると、病ははじめて癒えた。年を越すと、また路で会い、帰ると再び大病した。家人が無数の紙銭を焼いてやると、しばらくして、病はまた癒えた。和尚はひさしく病んだので、仕事を失い、家も没落した。ある日、また路で遇ったが、和尚は見慣れており、恐れもしなかった。甲言った。「わたしは今では昔の比ではなく、食事に事欠き、生きていても面白くないが、いったいどこで死ねるのだろう。」甲は言った。「どうして生阿片煙を食らわない。」和尚は承諾した。夜になると、家人に言った。「某甲が貧乏を凌ぐ策を教えてくれた、わたしはかれの教えに従い、すでに生阿片煙を食らった。」家人が驚いていると、和尚は突然跳びはねて叫び、一時を経て結局死んだ。

 

人王夢薇が言った。かれの郷里の先達に観察[2]の仲公というものがおり、微賎であった時、蒯氏の庭園で読書していた。ある夜、池で澎然と音がすると、にわかに一人の男が扉を推して入ってきたが、顔色はかすかに赤く鬑鬑[3]として鬚があり、公に向かって長跪した。誰かと尋ねれば、叩頭して言った。「公は恐れないでください。わたしは幽鬼でございます。生前は、蒯氏のしもべでございましたが、足を滑らして池で死んだのでございます。冥府はわたしが罪なくして死に、さらに沈淪すること三年代わりを求めなかったことを憐れみ、わたしを推薦して土地神にしようとしましたしかしやはり人の世の人の保証書が必要でございますので、つつしんでやってきて公にお求めするのでございます。」公は笑って言った。「わたしは一介の寒儒だし、陰陽で路も隔たっている。どうしてそんなことができよう。」幽鬼はしつこく求めてやまず、公が名刺を取って「保」の字を書いて渡すと、欣然と叩頭感謝して去った。翌日、蒯氏に尋ねると、ほんとうにそうしたしもべがいたと言った。後に、公は[4]として江西で視学し、眷属を連れて舟に乗って赴任し、待ちで、山の麓に泊まっていた。見れば士女は往来すること蟻のようであった。そのわけを尋ねると、言った。「この山の土地神はふだんから霊験がございますが、今は誕生日に当たっていますので、数十里以内のものたちがきて参拝し、毎年一度の盛会でございます[5]。」公には子がいてわずか十歳であったが、それを聞いてゆこうとしたので、数人のしもべに命じて背負って山に登らせた。ゆけば笙歌は鼎沸し、さまざまな劇が演じられ、見物人は巡って立つこと垣根のようであった。しもべたちが公子を擁してまっすぐ神前にゆくと、公子は突然倒れ、口から白い沫を流し、呼んでも答えず、扶けても助からなかった。しもべは神の怒りに触れたことを悟り、いそいで叩頭謝罪したが益がなかった。人々は言った。「これはかれの父母がくるのでなければだめだ。」しもべはいそいで帰り、公に述べた。公はやむをえず、香燭を調えて夫人と山に登った。にゆき、神像を仰ぎ見ると、さながら蒯氏のしもべであった。そこで言った。「おまえは数年足らず前、わたしに保証するように求めたものか。今、志を得ると、どうして漠然[6]として故旧の情がなくなるのだ。それに子供はなにも知らないのに、どんな無礼があって、ここまで凌虐するのだ。かれが普段威福をほしいままにしていることがわかる、わたしは誤って保証してしまった。」そう言って、手を挙げてその頬を打つと、神の首はすぐに落ち、公子はにわかに蘇った。人々が愕然としていると、公はそのわけを述べてやり、それから信仰は絶えた。

 

蘇州の珠明寺に痴和尚というものがおり、蓬垢面で、嬉笑して節度がなく、そのありさまは痴人のようであったので、号とした。つねに数日食らわず、あるいは一日で数日の食べものを食らった。冬も夏も一着の短い布衲を着、換えなかったがぼろぼろでもなかった。一匹の黒い犬を飼い、跬[7]離れなかった。毎朝城を出る時はかならず、楓橋に登り、西方に向かって呼吸してしばらくすると帰った。市場の果物や菜を、思いのままに奪って食らい、食らいつくすと、その残りを袖に収めた。かれに食べものを奪われたものは、その日は利益が三倍になり、人々はみな楽しみ、代金を求めなかったので、ずっと代金を払うこともなかった。むりに食らわせれば、かならずきちんと代金を払い受け取らないと、その銭を投げて去った。子供とあそぶことを好み、袖の中の物はかならず分け与えたが求めても与えないこともあり、その心は分からなかった。また人を癒やせ、病人が招けばかならずゆき、ゆかなければ、病は治らなかった。某が癆咳を病み、医者たちは手を束ねていたので、招いて診療させたが、来ると、すでに死んでいた。和尚はじっくり見ると大笑いし、いそいで筆を求め、一つの処方を書いていった。「泰山の石一片、蟠桃の仁二十粒、扶桑の木一株を、黄河の水で煎じろ。」人々が難色を示すと、和尚はまた大笑いし、火を求めて焚き、その灰を茶に混ぜて死者の口に注ぐと、すぐ活きかえり、病は失われたかのようであった。かれが他人を治療する時、薬の用い方はすべてこのようであり、みな灰を焼いて水に交ぜて飲むのであったある日、日が傾いても起きなかった。寺僧は驚き、その戸ので窺うと、異香が部屋に満ち、入って見れば、すでに円寂していた。担ぐと、軽いこと蝉翼のようであった。かれが飼っていた黒い犬は探したが死んでいた。

 

俗に、物を掛けることを「弔」[8]といい、湯臨川の『牡丹亭』曲に「高く文章鉅公を弔起す。[9]」というから、明人はすでにそうであったのである。そこで、縊れて死ぬことを「弔死」というが、その字はほんとうは[][10]」であるはずである。『玉篇』の了部の「[]」は、丁了切[11]で、物を掛けるさまである。丁了切なら、その音は「鳥」[12]ようで、「弔」とやや異なるが、やはり同じ音が転じたものである。『広韻』の上声[13]に「蔦」[14]字があり、都[15]で、「鳥」のように読む。去声[16]に「蔦」の字があり、多[17]で、「弔」のように読む。だとすればあきらかに「弔」とも読めるようであるが、因習がひさしく、改められない[18]。河南省城に、いわゆる老弔爺というものがおり、縊れて死んだ幽鬼である。その人は、姓を、名を子和といい、生前、布を売ることを生業としていた。ある日、布数匹を負い、市で売っていたところ、賊に盗まれ、憤って縊れ死んだ。死後、なかなか霊験あらたかで、県庁の捕り手が奉って神とし、尊んで老弔爺といい、そのため廟を建てたのである。およそ盗賊を捕らえようとして見つからない時、祈れば、かならず験がある初めはだけに廟があり、後に中牟県の捕り手が祈って験があったので、やはり廟を建てた。わたしの親家[19]樊玉農観察は中牟[20]で知事をしたことがあり、その長女はわたしの長男の妻だが時にまだ幼く、いってみたことがあった。神像は高さわずか二尺ばかり、立って坐せず、手に雨傘を持ち、布数枚を負い、さながら一市井人であった。祥符の金持ちに某姓のものがおり、一子を産み、田舎女雇って哺乳させた。女は子を背負って出て遊んだが、にわかに子の所在を失い、大捜索しても見つからなかった。お上に知らせると、お上は下役に命じて後をつけさせたが、やはり結局杳然としていた。下役が老弔爺に祈り、外に出るとが前で騒ぎ、導くもののようであったので、祈って言った。「あなたがほんとうに神さまなら、止まってください。」鴉はすぐ止まった。さらに祈って言った。「あなたがほんとうに神さまなら、飛んでください。鴉はすぐ飛んだ。そこでついてゆくと、城外のあるところにゆき、鴉は地に集まって騒いだ。その地を掘れば、子の亡骸が残っており、断たれて八つとなっていたが、誰が賊であるか分からなかった。神に祈り、神もまた指し示さなかった。時に田舎女すでに去り、しばらくすると、また城に入ってその主人に言った。「子を殺したのは、夫です。夫はもともと無頼で、しきりにわたしに向かって銭を求め、その求めを満たしませんでしたので、わたしに帰ることを促したのです。わたしは哺乳している子を慕い、去るというに忍びませんでした。夫は怒り、わたしは気づかないのに乗じ、子を抱いて去り、殺したのです。」そこでお上はその夫を捕らえて来、尋ねると、妻の話の通りであったので、法律通りに論じた。妻はほんとうに愚かで、どうして人を殺せばかならずその命を償うこと然として知らなかろうか。これもしからしめたものがあったようだ。

 

樊和気は、湖北咸寧の人で、わたしの長男の嫁の再従兄(はとこ)の娘であった。その父は希森といったが、財産は郷里で突出していた。咸豊二年[21]、粤寇が来ると、希森は一家で省城に引っ越した。するとにわかに賊が省城を囲んだ。時に和気はわずか十三歳で、父はもともとかれを愛していたので、言った。「わたし一家は逃れる理はないが、おまえは年は幼いから、下男下女たちとともに逃げ隠れられる。わたしには一人娘のおまえがいるだけだ、いっしょに死んではならない。」和気は言った。「お父さまの仰ることは間違っています。お父さまお母さまに一人娘のわたしがいるだけなら、お祖父さまお祖母さまには一人息子のお父さまがいるだけではございませんか。お父さまは逃げ去り、先人の血食を保ってください。一家の女子供は、みなはやく死に、父さまの厄介にならないようにするべきでございます。お父さまはわたしに逃げ隠れるように命じましたが、不幸にして賊の手に落ちれば、人はかならず『樊氏の娘が賊に捕まった』と言いましょうが、この言葉をお父さまはどうして楽しんで聞かれましょうか。」その後、賊の囲みはますます厳しくなり、城は旦夕のうちに破れそうになり、家を挙げて薬を捏ねて[22]待っていた。城が陥ると、父は飲もうとしたが和気はその薬を奪い去り、その母に言った。「これはお母さまと子供たちが服するべきでございますから、わたしは母さまよりさきに嘗めましょう。」そう言うと、すぐ薬を挙げて一気に飲みつくし、言った。「この薬は甘くて飴のようです。」女たちにも飲むものがいた。するとにわかに賊がすでに殺戮をやめたことが知らされ、さらに民を安んずる[23]伝えられたので、それぞれで解毒した。女たちはみな蘇ったが、和気だけはもっともさきに飲んだので、毒が重くて救えず、結局死んだ。時に倉卒として棺を得なかったので、その亡骸を箪笥に収めて、屋後に積んである灰の下に埋めた。まもなく賊がその家に来たので、家を挙げて分散し、おたがいを顧みられなかった。賊が退き、はじめて前後してその家に帰ったところ、男女数十人はいずれもさいわい恙なく、和気が死んだだけであった。そこでまた城に入り、旧居にゆき、積もった灰を掘って探した。その箪笥はもとよりあり、開けば、亡骸はまだ腐っておらず、顔色は活きているかのようであったので、衣衾[24]を調えて改めて納棺したその手足はなお屈伸できたが、腰にかすかに傷があるようで、そもそもさきに亡骸を箪笥の中に収める時誤って傷つけたのであった。しかし人はそれを見ても、その母が悲しむことを心配し、やはり告げなかった。しばらくすると、和気はその母の夢に現れて言った。「わたしはもともと仙女で、死んでふたたび仙人になります。今、杏花仙女のところにおり、たいへん安楽で腰がかすかに痛みますが、あまり苦しくありませんから、お母さまは気になさらないでください。」母は目ざめると人にそのことを語ったが、腰痛の理由が分からなかった、人が見たことをはじめて告げると、ますます夢が嘘でないことを信じた。

 

長男の嫁樊氏が言った。その家の料理人が一匹の鱉を抑え、その後、箸でその頭を挟み、断とうとしたところ、突然その尾のところからさらに何かが出て、頭のようであった。料理人は訝って言った。「もしやこの鱉には二つの頭があるのか。」むりに押し込みまた箸でその頭を挟んだが、頭が出ると尾のところ物も出た。料理人はたいへん怪しんだが、言った。「わたしはおまえを釜で煮、おまえにどんな怪異があるかを見よう。」煮て割けば、中に一人の男がおり、そのありさまは老翁のようで、鬚眉はそっくり残っており、頭に風[25]を戴き、身に氅衣[26]を着、ただその足が見えないだけであった。下男下女たちは回覧し、息子の嫁は時になお幼かったが、やはり取ってみたすでにミイラ化していたが、なお弄べた。ある人が料理人に語って言った。「これは宝で、生きながら捕らえて養えば、天下の宝をすべて得られた。」料理人はそこで大いに悔いた。

 

高君は、臨平の周氏繋がりがあり、わたしが昔臨平に寓していた時、しばしば会った。人はかれの排行が七で、七先生と呼んでいたので、その名は忘れた。鱧魚[27]食らうことを好み、つねにその嫁に命じて手ずから料理させていた。ある日、その嫁一尾の鱧を料理したが、包丁を入れないうちに、鱗の間から血が溢れ出たので、訝って言った。「この鱧は異常があり、見たことがございません。」よく焼いて出し、その異変を告げ、舅に食らわないように勧めた。高はまったく信じず、笑って言った。「魚にはかならず血があるから、これは驚くに足りない。」結局食らった。その日おうちに死んだ。按ずるに、鱧魚は首に七つ星があり、七星魚とも名づけられている。道家は雁を天厭、厭、鱧を厭とし、これが三[28]である。高君は鱧を食らうことを好み、亡くなって命を落としたが、戒めないことができようか。

 

蘇州の閶門内に家一区画があり、浙江の人唐氏が借りて[29]を売っていた。わたしの妻兄弟の子姚谷はそのことに関わっていた。ある晩、同業の某家の子と夜にたいへんながく話し空腹を覚えたので、卵数個を持ってゆき、台所で煮て食らおうとした。戸を出るとすぐ、執っていた燭がにわかに消えた。この家はもともと怪異が著しかったが、谷孫は慣れていたので、さほど恐れず、笑って言った。「もしや幽鬼か。」某家の子を呼んでまた燭を持ってこさせ、台所にゆくと、燭はふたたび消えた。孫は言った。「おまえは消せるのに、わたしは燃やせないのか。」そこで某家の子とともにそれぞれ一つの燭を執り、さらにそれぞれ火種を蔵し、こちらで消えればあちらで燃やし、あちらで消えればこちらで燃やし、何度も消えれば、何度も燃やし、結局、卵をじっくり煮、食らって帰った。さらに小[30]のある家にも、やはり怪異があった。わたしはそこを借りて住んでいたことがある。わたしの長男紹莱が女婿の子原とともに一室に臥し、夜が深けて寝ず、たまたま食を摂ろうと思った。その日、たまたま神を祭るための鶏があり、すでに毛を毟り、血を取っていたが、まだ火を通していなかった。そこで窓の外の短い塀の上の小さな火炉に、鐺を置き、鶏をその中に入れ、石を叩き、火を採り、薪を束ねて燃やした。二人はいずれも炊事に慣れておらず、しばらくしても焼けず、心も疲れたので、薪を抜いて火を消し、帰って枕に就いた。するとにわかに窓の外で扇ぐ音がし、さらに薪が爆ける音がした。火がすべては消えていず、燃えあがるかもしれないと心配し、ともに出て見れば、炉の中にはまったく一筋の焔もないのに、鐺の中は [ボツ][31]然と沸いていた。開いてみると、鶏はすでにくたくたになっていて食らえた。はじめそのわけが分からず、ひとまず取って満腹したが、結局ほかに異常はなかった。思うにこれはかならず狐魅がしたのであって、幽鬼ではない。

 

河南中牟県の間の一人の娘は、生まれながらにして両目が人と異なっていた。その瞳の傍らを白い傷一筋が囲んでおり、幼い時から神鬼を見られた。話せるようになると、すぐ空中に某神人が過ぎ、某仙人が過ぎたと言った人々信じなかったが、某神某仙の名は子供の知れるものではないので、やはりなかなか珍しいことであった。五六歳になると、人のために病を癒やせるようになり、しばらくしてその名声はたいへん盛んになり、招くものが絶える日はなかった。かれが病を治す時は、脈診処方せず、随意に一草一果を食らわせた。あるいは人に命じて市に入って物すこしばかりを買わせたが、買う薬はいずれも人がつねに用いるもので、さらに値は一二十銭に過ぎず、病人が服すれば、癒えないことはないのであった。一時騷然とし、神医と思った。しかし謝礼を受けず食物をその父母に贈っても、少なければ受け、多いと受けないのであった。みずから十八歳を越えられないと言い、期限通り、ほんとうに病むことなく亡くなった。その人はそもそも道光初年に在世していたが、惜しむらくは話者がその姓氏を忘れたことである。

 

湖北に某というものがおり乳医、俗にいう産婆で、初めは他の産婆たちと同じであった。ある日、たまたま畑で死人の手を一本拾い、持ち帰って祭ると、その後、かれの技術はますます優れたものとなった。およそ招くものがいれば、ある時はすぐにゆき、ある時はしばらく遅れてからいった。かれが来るのは、かならずその女の出産直前で、はやく来て待つこともなく、間に合わなかったこともなかった。かれは門に入ると、すぐ生まれるのが男か女かを知り、百人に一人も違わなかった。呼んで来ないこともあったが、その時は女はかならず危ういのであった。いったところでは厚い報酬を求めなかったが、結局これで家を興した。年は八十余で亡くなった。年は容易に取りあげしてやらなかったが、難産のものが招くと、やはり時々ゆくのであった

 

楚人に梅姓のものがおり、中州で官となっていた。その妻が出産しようとしたので、人に命じて産婆を召させた。媼が来、見ると、一人の女が中堂で待っていた。服飾はたいへん艶やかで頭いっぱいに花を戴いており、媼を責めて言った。「来るのがどうして遅れたのです。人さまの大事なのに、このように遅れるのですか。」媼が慌てて謝罪すると、部屋に入って産婦をみるように命じた。お産はなかなか容易くなく、しばらくすると、情勢はたいへん危うくなった。媼は言った。「事ここにいたっては、してはおけないでしょう奥さまをお呼びしてくるべきでしょう。」使用人は言った。「お産しているのが奥さまです。わたしの家にどうしてほかに奥さまがいましょうか。」媼は言った。「わたしを堂で待ち、さらにわたしが遅れたのを責めたのどなたでしょうか。」使用人は聞いてみなたいへん驚き、そうした人はいないといった。媼は信じず、あまねく探したが、ほんとうにいなかった。その後、その女は結局亡くなった。後に事情を知るものがおり、言った。「昔、朱姓の者がこの家におり、その妻が難産で亡くなった。媼が見たことからすると朱氏のと姿が同じだから、きっとその幽鬼だろう。」もしや難産で亡くなったのも、縊鬼溺鬼が代わりを求めるようなものか。

 

某は、山西の人で、州で官となっていた。一人の妹がおり、庶出であった。妹が生まれるとすぐに実母は死んだので、かれ[32]の母に育てられた。幼くして聡明であったので、父母はいずれもとりわけ愛していた。父は臨終の時に某に言った。「かならずよくこの妹を世話しろ。」母は臨終の時やはり某言った。「この娘わたしが生んだのではないが、わたしは実子より愛していた。かならずよく世話するのだ」某は父母の遺志を受け、この妹をたいへんあつく遇した。その妻はなかなか賢く、小姑への待遇もたいへん篤かった。女は美しくて才があり、家事はすべて女が仕切っていた。その後、その妻は死んだが、後妻賢く、やはり奥向きのことを女に譲っていた。女は年はすでに長じていたが、某は配偶者を選ぶのがたいへん厳しく、求婚するものがいれば、某はそれを見、かならず言った。「わたしの妹に釣りあわない。」しばらくぐずぐずしていたが、適当な人は見つからなかった。その後、妻はまた死に、まもなく、また一人の妻と再婚したが、妻は前の二人のように賢くできず、かならず怏怏として言った。「どうして小姑に家政を仕切らせるのです。」しかし、おおやけにその夫に言おうとはしなかった。女はそれを知ったので、しばしば病と称し、家事を報告するはがいれば、嫂に譲った。このようにして一年あまりして、家事はすべて嫂によって決せられるようになった。しかし兄の飲食衣服を、女はなお手ずから調えていた。嫂は心が楽しまず、それから家庭ではやや口論があるようになり、女は鬱鬱として病となった。この時、女は年が三十近かったので、某はいそいで婿を選んでやろうとしたが、結局、適当な人は見つからず、まったく話がまとまらなかった某はたまたま外で仕事していたが、女の病が篤いことを聞き、馳せて帰れば、女はすでに死んでいたので、胸を打ち、たいへん嘆いて言った。「父の遺言は何だった。母の遺言は何だった。妹は死に、わたしは地下で父母に会うのは面目ない。」痛哭して血を吐き、数ヶ月足らずで、やはり死んだ。思うにこの人は父母の遺志を推しいただいてその妹を愛し、であり(てい)であったといえる。しかしはやく婿を選び嫁がせてやれなかった。これは愛していながら愛するすべ知らなかったものであり、これがまさに死んだゆえんである。身をもって殉じても、何の益があろう。惜しいことであった。

 

県の貞女は、その姓氏が分からないので、『明史』の招遠の孝女の例をとって、名を冠する。幼い時から某家の子と婚約していたが、嫁がないうちに某家の子は亡くなった。女は年はわずか十四であったが、父母に頼み、ゆこうとした。父母が許さないと、かたく頼んでやまなかった。かれの叔父は言った。「わたしの家にこのような女がいるのにその志をなぜ叶えない。」つとめてその父母に許すように勧め、夫の家にいった。舅と姑はいずれも望まず、その舅はなお婉曲な言葉で追いはらったが、姑は悪声を発した。女は痛哭して帰ろうとしなかった。その夫の叔父は言った。「どうしてわたしの家にこの貞婦がいるのにその志を叶えない。」その舅と姑にとどめるようにつよく勧めた。姑は女にあえば虐げ、飢え凍えてもかれを救わず、役使すること下女のようであった。冬に手足は凍傷となったが、働いて倦まず、怨言がなかった。姑はかれがまじめであったので、すこし憐れみ愛するようになったが、働かせるのは相変わらずであった。夫の弟はわずか八九歳であったが、女は弟のようにみなした。まもなく、舅と姑があいついで死ぬと、女は家政を司ったが、喪礼はすべて礼法どおりであった。服喪が終わると夫の弟は年が十六になっていたが、女はすぐかれに妻を娶ってやった。妻が来ると、やはりなかなか従順で、女は事々にかならず教え導きさらに言った。「まもなくしたら家政をあなたに任せましょう。」新婦は言った。「わたしは年が幼くて無知でございますので、やはりおねえさまがなさるべきでしょう。」女は言った。「わたしは数年来、心力は疲れ、今後の余生は幾許もありません。あなたがた夫婦はわたしに代わるべきではありませんか。」それから女はすこし家事から離れ、日々裁縫を事とし、一衣一襦、すべてあらたに作ったが、すべて木綿で、すこしのや絹もなかった。その後かれの実家に帰った。それより前、女は時折帰寧すると、暮れないうちにかならず帰り、母がとどめると、舅と姑がいるからと断っていたが、舅と姑が死ぬと、家事があるからと断った。かれは帰寧すると、ただ母のところにおり、兄弟の閾も踏まなかった。このときはあまねくその伯叔兄弟のところにゆき、逗留すること数日で帰った。かれの叔父は人に命じて紅い紬一つを贈らせ言葉を伝えて言った。「叔父さまは使えるか尋ねています。」女はたいへん喜び、受けとると、やはり言葉を伝えて言った。「つつしんで叔父さまに感謝いたします、使えます、使えます。」俗語で「役に立つ」を「使える」というので、変だとも思わなかった[33]帰って夫の家にゆき、義弟夫に家事をたいへんくわしく話した。その夜、作った衣を着け、叔父が贈った紅い紬でみずから縊れた。縊れるとすぐその舅と姑が来、さらに一人の少年を伴って来ていたが、言った。「これはおまえの夫だ。」その後、さらに老人数人が来、室内にいるのはほぼ数十人となった。するとにわかに中溜[34]、井戸、竈の神がすべて来、社公も来、みなつとめて阻んだ。砰然一声、梁に懸かっていたのが切れ、女は地に落ちた。義弟夫婦は声を聞いて走ってき、扉を破って入り、ありさまを見てたいへん驚き、いそいで女を扶け起こせば、すでに蘇っていた。婦は額づいて痛哭し、なないように頼んだ。女は慰めて言った。「わたしは死にません。」そして見たことを述べ言った。「神鬼がみなわたしを阻みましたのに、どうして死ねましょう。」そこで衣を脱いで就寝し、朝になると晏然としていた。翌日、女は盛大に酒食を調え、その先祖を祭り、ならびに中溜、井戸、竈を逐一祭った。人がわけを尋ねると、言った。「かれらの助けに謝するのです。」その晩、結局縊れて死んだ。疑うらくは、どうしても死ぬわけを祭って鬼神に告げたので、鬼神もまた阻まなかったのであろう。年は二十二であった。その叔父が紅い紬を贈ったのは、大いに王炎午[35]が生きている文山[36]を祭った趣きがあった。「使」は「死」と同音で、「使える」とは、「死ねる」だったのであった。そこで一県は轟然とし、かれの貞烈喜び、県令はほんとうにみずからかれの葬儀に臨んだという。

 

江夏[37]の朱雲舫敏中は、もとの配偶者がはやく死に、一男四女がおり、氏を後妻にした氏の娘が実家にいた時、夢みたところ、婦人がかれの前に来、「妹」と呼び、たいへん親しんでいるようであった。龍はもとよりかれを知らず、この人はどうしてわたしを妹というのかとひそかに考えた。婦人はすでに気づいたかのようで笑って言った。「知らないのですか。わたしたち姉妹なのです。今、頼む事がありますから、わたしについてきてください。」そこでともにゆき、部屋を曲がり、さらに厨房を通り、はじめてある所へいったが、嬰児が牀に臥していた。婦人は撫でて言った。「これは(あなた)の子ですから、よく面倒をみてください目ざめて変に思ったが、人に告げなかった。夢みた翌日、朱氏の媒妁が来、結局朱に嫁いだ。結婚して一月を過ぎ、はじめてその家を歩き、厨房から最後の部屋にゆくと、さながら夢で通ったところのようであった入れば、前妻の生んだ子と乳母がいた。そもそも母屋で新婦を娶ったばかりだったので、こちらに移していたのであった。女は憬然[38]として、夢の中で見たのは、きっと前妻だと悟り、自分の寝室に子を移すように命じ、実の子と同じように育てた。後に女は結局子を産まなかったが、前妻の子はよくかれに仕えた。

 

わたしの外姉[39]で周家に嫁いだものの長女が、嘉興の少渠大使[40]嫁いで後妻となった。張ははじめ丁氏を娶り、一男一女を生んでいた。周は張に嫁ぐと、数ヶ月し、突然一人の女夢みたが、紫色の衫を着ており、かれに向かって粛然と拝礼し、言った。「万事お頼みします。」夫人が誰かと尋ねると、言った。「わたしは丁氏でございます。」周はにわかに張の前妻だと悟り、驚いて目ざめると、帳の外には人がいるようであった。掲げて見ればその人はなお牀の前に立ち、ほんとうに紫色の衫を着ており、はっきりと見えていた。周が恐れて叫ぶと、見えなくなった、そもそも生んだ子女を託したのであった。驚いたのは、その紫色の衫がまだ篋の中にあったことで、周はかつてそれを着けたこともあった。人が死んで幽鬼がいるのは当然だが、衣服がまだあったから、もしや幽鬼もあらわれたのか[41]。思うに、およそ物には形質があり、かならず精気があるから、幽鬼はその精気を採って邪を去ったのか、それともこの形に変わって人の信頼を得たのか[42]

 

わたしの家にばあやの胡氏がおり、天津の人で、語るには、かれの農村のある富豪が家を築こうとし、人夫を集めて地均しをした[43]。何媼の夫の兄の子もいっしょであった。すると一つの銀の盆を掘りあてたが、その大きさは[44]ほど、争って得ようとし、口論するにいたった。それが主人に聞こえると、主人は言った。「ここはわたしの土地だ。地上地下は、すべてわたしの物で、おまえたちに関わりはない。」人々は争おうとしなかった。主人は持って帰り、測ると、重さ五十両であったので、匠に命じて溶かさせ、地均ししたものに分け与え、一人二両余りを得た。何媼の夫の兄の子も分け前を受けとって帰ったが、にわかに大病した。医者が一月あまり治療したので、さいわい死ななかった、分けられた銀は尽きた。何媼はつねにこのことを挙げてその仲間たちを戒めて言った。「分外の財は、得ても益がなく、みだりに求めてはならない。」

 

わたしの長男の嫁樊氏が言った。かれの二番目の伯母は体が弱く、病が多く、つねに牀褥におり、年が四十九の時、大病して死んだ。人々は含殮[45]してあげようとしたが、その子は牀頭坐し、手ずからその帳を持ち、人を近づかせず、すでに死んでいるという者がいれば、かならず激怒した。人々ははじめは孝子が悲しんでいるので、奪うに忍びなかった。その後、死んで一夜が過ぎようとしているのに、[46]衾冒[47]は一つも備えなければ、礼に合わないだろうと恐れ、つよくその子に勧めたが、結局奪えなかった。ぐずぐずして朝になると、死者は結局蘇った。蘇ると、すぐ紙銭を焼くように命じて、輿[48]を労わせた。人々がともに驚き、囲んでわけを尋ねると、言った。「舅と姑がわたしを送りかえしたのでございます。」時にその舅と姑は死んでひさしかった。その詳細を尋ねると、言った。「わたしはさきほど夢の中にいるかのようになり、あるところへゆきますと、舅と姑がいました。宇は高く、童僕はたいへん多うございました。舅と姑わたしが来たのを見ますと、訝って言いました。『おまえはどうしてこちらに来られよう。はやく帰るべきだ。』わたしは言った。『すでにこちらに参ったのですから、お父さまお母さまにお仕えするべきでございます。どこへ帰りましょうか。』舅と姑はいずれも許さず、舅は言葉がまだ穏やかでしたが、姑は顔色がたいへん厳しく、杖を持って追いはらって言いました。『去らなければおまえを杖うとう。』舅は言った。『まあやめろ。まあやめろ。』姑と何やら語りますと、姑は部屋に入り、一丸を持って出てき、わたしに呑ませ言いました。『これで去れる。』わたしは徘徊してついてゆくところを知りませんでしたが、外に出ますと舅が陳栄を呼ぶのを聞きました。陳栄は、もともと樊家の奴隷でした。来ると、生前と異ならず、舅は陳栄に命じて轎でわたしを送りかえさせましたわたしが陳栄について出ますと、ほんとうに轎があり、乗ってゆきました。家の門を望見しますと、担ぐ者はにわかに轎を下ろし、簾幕を開き、わたしを呼んで出して言った。『着きました。着きました。』わたしは外からこちらにき、たいへん疲れました。今担ぐ者はなお門外にいますので、紙銭で労うべきでございます。」聞けばその口にはなお薬の香がし、数日後、その病は結局癒えた。人々はそこでその子は何を見てお母さんが死なないことを知っていたのかと尋ねたが、その子も話せなかった。人々は言った。「大病して死ななかったのだから、その寿は計りしれない。」しかし、翌年になるとまた病み、まもなく結局死んだが、死ぬとその子は今度はつよく持たなかった。そこで去年はほんとうに鬼神がそうさせていたことを知った。しかし死んでまた生き、生きて一年してまた死んだのは、意味がないようであった。長男の嫁は言った。「伯母さんは青年で節を守り、五十歳の時、親戚友人がみな誕生祝いし、さらに文を作って表彰しました。」鬼神はこれによってかれの苦節にすこし報いようとしたのか。さらに言うには、かれが死ぬ時なかなか変わったことがあった。その日、天候はたまたま微雨で、看病するものがたまたまそのことに言及すると、かれの伯母は言った。「わたしの宮中に雨は降りませんでした。」何の宮中かと尋ねると、言った。「わたしも何の宮中なのかを知りませんが、建物がたいへん高く大きく、通常と異なっているのに気づきました。さらに、左右に侍しているものはいずれも宮妝ですから間の建物ではないでしょう。」人々は死にそうになってうわごとをいっているだけだと思った。しかし数年後、かれの母は病んで死にそうになると、人に語った。「むすめが来た。従っている宮妝の娘はたいへん多い。」その「むすめ」というのは、伯母をいっているのであった。はじめ、その伯母はたいへん孝で、しきりに食物をその母に贈っていた。死ぬと、家人は秘して告げず、歳時にやはり食物を送っていた。その母は老耄していたから、結局、女がすでに死んだことを知らなかった。そこで死に臨んでその娘を見、ほんとうにいう通りで、やはり驚くべきであった。わたしの舅氏姚平泉先生[49]の『瓶山集』に『三女叔蘭を悼む』の詩があって「易遷里に題名あり、涙を遥天に灑ぎ霄を隔つ。」といい、みずから注して言った。「娘を夢みると、烈であったから、名は仙籍に列なったといっていた。」もしや節烈の婦女は易遷宮にいるのか。按ずるに葛洪[50]の『枕中書』に「童初の府は、易遷宮である。」といい、女の住むところとは言っていない。しかし舅氏は群書に博通していたからかならず基づくところがあろう。惜しむらくは一度も尋ねなかったことである。

 

宝応[51]某家の妻が懐妊して出産しようとしていた。出産の一日前、その夫がたまたま外から来、洋四十を妻に授けると、妻はそのまま枕辺に置いた。その後、妻は男子を産んだので、その夫はたいへん喜び、翌日、女に語って言った。「わたしたち夫婦年が四十を越えているが、今、はじめて子を得たから、盛大に湯餅[52]行うべきだ。昨日の洋銭はどこにいった。またわたしに渡し、子のために三朝[53]をしよう。」妻が辺を探すと、なかった。たいへん驚き、あまねく探したが見つからず、室内にはほかに人はいず、子を生む時に産婆が牀頭坐していただけだから、きっとかれが隠したのだと考えた媼を召して尋ねると、媼はつとめて弁じ、さらに言った。「わたしがほんとうに盗んでいましたら、わたしは雷に撃たれて殺されましょう。わたしが盗んでいませんのに、わたしを盗んだと誣いるならば、あなたが生んだ子は三日足らずで死にましょう。神が鑑みることを願います。」某夫媼の言葉が懇切であったので、やはり疑わなかった。三日の洗児でも、媼を召してそのことに関わらせた。媼が去ると、子は泣いてやまず、晩になると結局死んだ。夫は女に言った。「ほんとうに媼を誣いていたのだ。」婦はたいへん悔い怨み、死んだ子を抱いて泣いた。にわかに暗くなり、雷雨がにわかに来、霹靂一声、懐の子は生き、媼は門の外で死に、洋銭は手にあった。それが媼が隠したものであることは明らかであったが、子が死んだのが媼によるものかはまだ分からなかった。子のために敷物[54]を換えると、一本の針が残っており、子の臍になお血の染みがあった。そこで媼は洗児の時、針を臍収め、ゆっくり入れ、子を殺してその誓いと対応させたことを悟った。媼はこのように狡猾かつ凶悪であったので、雷に誅せられたのは当然である。これらのことを見ると、天道は遠いといえない。

 

嘉興朱氏の妻は唐の許氏の娘であった。妻はなかなか賢く、家の人々はみな愛していた。結婚してまもなく、すぐ大病し、幽鬼が憑いたが、一人は男、一人は女で、兄妹であった。語るには、妻は前世でかれの兄の妻で、その妹に恨みを抱き、不貞であると誣いた。兄は信じ、その妹を罵り、妹はみずからを釈明するすべがなく、縊れて死んだ。その後、兄はその嘘を知り、悔い、やはり縊れて死んだので、兄妹ともにきて命を取ろうとしているのであった。朱氏は盛大に酒食を設け、紙銭を焼いてやり、法事を行ってやったが、幽鬼は結局よしとしなかった。人は幽鬼を責めて言った。「この妻は前生では賢くなかったが、今生でたいへん賢い。おまえたちはかれの前生で命を取らず、かれの今生で命を取るのは、どうしてか。」幽鬼は言った。「わたしは神明に訴え、繰り返し申請し、神が許されるのを待ちはじめて命を取りにきましたので、遅れて今生にいたったのです。」「だとすればどうして実家にいる時に取らなかったのか。」幽鬼は言った。「かれは実家にいた時、その嫂と折り合いが悪く、たいへん虐待を受けていました。これも神明が罰を示すゆえんでしたので、わたしはにわかに殺さなかったのです。今あなたの家に来、たいへん安楽にしていますのでわたしはこれ以上遅れることはできません。」そこで妻はきわめて窶れ、病むこと一月あまりにいたり、もはや人のありさまではなくなった。一人の媼は、かれの乳母は、憐れみ、毎晩かならず妻に付き添って寝た。幽鬼はかならずかれの頬を打ち、頬は腫れて痛み、さらに潰爛したので、いっしょにいようとしなかった。このようにしてしばらくすると、妻は結局死んだ。わたしの家にばあやおり、昔、朱氏に雇われていたが、ほんとうにみずから幽鬼の言葉を聞いたという。

 

唐西の氏の娘が婚約してその夫が死に、操を守って嫁がず、長斎[55]して仏を崇め、足は閾の外に及ばず、親戚郎党はみな賛美していた。三十余歳になると、突然、幽鬼がかれの身に憑き、みずから言った。「生前は某家の妻で労の娘はその夫の兄の子だった。わたしは寡婦暮らしし、鼓脹を病んだので、わたしが密通して孕んだと嘘を言い、族人に公言し、わたしに迫って嫁がせようとした。わたしは迫られ、雉経して死んだので、今命を取りにきたのだ。」さらに女言った。「おまえは十余歳の時に脹を病んだのを、憶えているか。これはわたしがしたことなのだ。わたしは寡婦で脹を病んだ時、密通して孕んだことにされたが、おまえの娘も密通して孕んだか。おまえが人に嫁げば、かならずおまえを難産で死なせよう。嫁がないなら、おまえを鼓で死なせよう。」後にほんとうにその言葉通りになった。ある人はいう、先人の書に、「恵に敵し怨に敵するは、子孫に在らず」[56]とあるが、まして来世はなおさらだと。しかし仏がいうには、衆生が悪事をすると、現報があり報があり報があるという。は、今の身で悪事をして、後にみずから受けるもの、後は、第二第三生で受けるものである。だとすれば、もし業[57]種えれば、かならず業報[58]あり、無量の世の中で流転生死しても、業結[59]が纏いつき、けっして離れない。ああ。やはりたいへん恐ろしいことである。さらに按ずるに『婆沙』にいう[60]。肉屋がおり、七生以来つねに屠殺していたが、七生以前に辟支[61]に一食を施したことがあったので、七生悪道に墜ちない。しかしこの人は七生以来なした屠罪の業は、七生を過ぎれば次第にうけ、逃れられず、善悪ともにそうである。このことからいえば、この娘は前世の悪にすでに悪報があったので今生の善にはやはり善報があるはずであるただ人が見られないだけである。

 

咸寧の人某は、二人の兄がおり、きわめて睦まじかったが、ともに先立って死んだ。呂は突然夢みてあるところにいったが、見ると堂上に長几二つが列なっており、二人の兄はいずれもで仕事を処理し、簿書が積まれたいへん忙しいもののようであった[62]。神がおり、赤髪頳顔で、手ずから筆を執り、前で舞いとび、世俗で描かれている魁星[63]の像のようであった。たちもとおっていると、二人の兄がかれを見、言った。「どうしてこちらに来た。家にはおまえただ一人なのに、どうしてこちらに来た。」そこで起きて神前にゆき、何か訴えているかのようであった。神ははじめは許さなかったが、二人の兄はつよく言ったので、承諾した。二人の兄はにわかにさしまねいて出させて言った。「おまえは寿命一紀を増そう。」そして目ざめ、ほんとうに十二年を越えて亡くなった。これは珍しいことであった。二人の兄がむりに言わなければ、この夢は目ざめなかったのか。筆を執って舞っていたのは、何の神だったのか。君は樊氏と旧交があり、わたしの長男の嫁樊がわたしに語った。わたしは戯れて言った。「これはきっと南斗の神であろう。魁北斗第一星で、この神は魁星のようであったが、赤髪頳顔は、南方の色だから、南斗神であることは疑いない。南斗は生を定めるから、君の寿命が増したのは当然だ。」

 

門下の士司晴江が言った。その伯曽祖宜亭公は諱を骧といい、江寧の諸生で、若くして任侠で、膂力があった。かつて揚州のある塩商の家に住んだ。商人は大広間を持っており、なかなか広かったが、終年その戸を閉ざし、鬼物がいるから、開けないといっていた。公は言った。「開いてみよう。」商人は承知しなかったが、しいると従った。公は大きな盆に米を満たさせ、八卦を上に描いていた。この夜、公は米の上に坐し、手に『周易』一巻を持ち、頭に大きな燭を燃やし、匕首二本を置いていた。夜半になろうとすると、その左の(はしら)で音がして裂帛のようであった。じっくり見ると、人がいて身長は一ばかり、蠕蠕然と動揺して楹から下り、れるほどに長くなり、にわかに長さ一ばかりになり、帽、案の傍らに近づいてゆき、光はにわかに暗くなった。公が匕首で刺すと、かならずすこし退くが、その後また進み、匕首で刺すと、退くことはじめのようであった。進み退くこと三たびしたので、退いて楹の下にゆくと、やはり縮むこと一寸ばかりになって消えた。公は匕首を地に刺し、その場所に印をつけ、帰って米に坐して『周易』を読んだが、夜通しふたたび現れなかった翌日、人に命じてしるしをつけたところを掘らせると、朱塗りの棺が見つかり、字があったが、弁ぜられなかった。相談して焚こうとしたが、公は許さず、地を探して改葬させ、文を作って祭ったところ、その邸宅は平安になった。

 

秀谷鍾は、晴江の伯父であった。弱冠で画名があり、山水、人物、花虫、筆を下すとかならず趣きがあった。道光年間、たいへん公卿の間で重んぜられた。かつて麻姑[64]の一幅を描いたが、その母宜人はそれを気に入り、室内に掛けていた。部屋は狭く、臥榻のすぐ傍らに懸け、下に尿瓶を置いていたが、注意しなかった。にわかに韓は鼻血を病み、血が出ること注ぐかのようで、三昼夜やまず、情勢はたいへん危険であった。かれの親戚雲章が言うには、北山に明秀というものがおり、奇[65]術に詳しいので、許を遣わして孫のところにゆかせて吉凶を占わせた。孫は占うと[66]、言った。「病は危険ですが、大丈夫です。病人の牀の前に神像一幅がありますが、禅院に送って祭れば、病はおのずと癒えましょう。」許は帰って告げると、みな閨闥の中にほかに神像はないといった、ただこの麻姑は、掛けられてすでにひさしく、まったく特段の異常がなかったし、移して禅院に祭るのもよいことではなかった。許は言った。「焼いてはどうか。」そこでその説の通りにし、火に付すと、火焔の中に青い気一筋があり、まっすぐ霄漢を衝き、一時してはじめて散じた。その翌日、韓は病が癒えた。

 

金陵の永福庵の老僧は長齢といい、その俗家[67]は鼓楼北の老菜市にいった。幼い時から勇を好み、力を闘わせ、里中の無頼子と遊んだが、父母は禁じられなかった。かつて某家の娘を招いて妻としてやろうとしたが、かたく娶ろうとせず、父母が強いると、はじめて結婚した。合の晩、塀を越えて逃げ去り、結局ふたたび帰らなかった。まもなく、酒に酔って人を殺して他郷に逃げ、剃髪して僧となった。後に仕えるとき、ひそかに故郷に帰り、永福庵に住んだが、家人は知らなかった。かれの妻は夫が出奔してから、つねに鬱鬱とし、病となり、しばらくしてさらに死んだが、舅と姑に語って言った。「わたしは病が膏肓に入り、もはや生きられるはずはございませんので、僧を招いて法事を行い、冥福に資することができれば、死んでも怨みません。」舅と姑は憐れんで許し、永福庵の僧を招いてやった。僧が来ると、はじめて息子であることを知って、還俗させようとしたが、承知しなかった。会わせると婦は指の彄[68]取ると抛って僧に言った。「これはあなたの家の結納でございませんが、やはりあなたに返しましょう。わたしはあなたと夫妻の情がございませんでしたが、空閨を死守し、みずからあなたに負かなかったと思っていましたわたしの死後は、『大悲』四十九日誦えてやるべきでございます。」さらに舅と姑言った。「どうかわたしの柩を永福庵に停めてください。請いに従わなければ、死ぬとかならず祟りましょう。」翌日、結局死んだ。舅と姑はその祟りを恐れ、要請通りにし柩を庵の西廂に留めた。数ヶ月して僧は病み、日に日にひどく痩せた。庵には老僕が一人おり、香火を司り、俗に道人と称していた。ある時、夜半になろうとし、雨は凄凄としていたが、道人は西廂の門が突然開くのが聞こえたので、ひそかに窺うと、一人の若い女が廊下を巡り、僧のいる部屋に入った。道人は僧が女を隠していることを疑い、いそいで走って捕らえようとすると、女は突然見えなくなったので、かれが人でなかったことを知り、驚いて地に倒れ、一時してはじめて蘇った。そして僧に告げ、さらにそのわけを質した。僧も隠さず言った。「妻は毎晩かならず出、わたしと会いますが、わたしの病はもとよりこれによるものなのでございます。」道人は言った。「これは難しくない。」そこで石工の墨縄を用いて柩の上を縦横にはじいたが、はじきするたびに、柩の中からかならず裂けるかのような音がし、ふたたび出ず、僧の病は癒えた。粤寇の乱になり、金陵が陥ると、僧は去って淮揚の間に遊んだ。乱が収まるとまた還ったが、庵はすでに毀たれていたので、鼓楼[69]の善司[70]住んだ。同治三年[71]にも、まだかれを見た人がおり、年は八十であった。

 

木工石工は墨糸を用いるが、古は墨といい、記』[72]に「まことにのぶれば、欺くに曲直を以てすべからず」というのがそれである。しかし規矩は、いずれも邪を避けるに足りないのに、大工石工の墨だけ、鬼魅が恐れるのはどうしてか。邪は正に勝らないからである。『管子·宙合篇』にいう。「縄は扶撥[73]して以て正となす。」晋の『古文尚書』[74]にいう。「木は縄にしたがへ正し。」『淮南子·時則篇』にいう。「は、万物を(ただ)ゆゑんなり。」高誘は注していう。「『縄』とは、『正』である。」鬼魅が墨糸を恐れるのは、その方を恐れているのである。慈溪の西外にかつて僵屍(キョンシ)がおり、夜に出て人を害していた。ある晩、大工数人が城に登り、女牆に隠れて窺っていると、ほんとうに棺の中から僵屍(キョンシ)跳びだし、ゆくさまは風のようであった。匠はかれが遠く去るの窺うと、その所にゆき、墨糸で棺の四周をはじき再び城に登ってかれが帰ってくるのを見たにわかに僵屍(キョンシ)帰ってきたが、糸のを見ると、入ろうとせず、徘徊四顧し、探すものがあるかのようにしていた。ふと見ると、城の上に人がおり、躍りあがって登ろうとしていた。匠たちがいそいで墨を女牆ではじくと、亡骸は登れず、夜明けになると、後ろに倒れたので、ともに焚いた。

 

金陵の小山の裏手に大悲庵があり、乱の後、屋宇は傾き、ただ前殿と後楼が残っていた。呉生というものがおり、その名は伝わっていないが、貧しくさらに孤児で、その中に住み、日々殿上で生徒を教え、夜は楼に宿っていた。かれの生徒はすべて村童で、輪番で炊事してあげていた。庵にはひさしく僧がいず、徒のほかに人はいなかった。楼の左右はいずれも山で、山中にはもとより荒れた墓が多く、毎晩、陽が西に落ちると、暮色茫たる中、つねに白衣の人が松の下を往来していた。呉は勝手に考え、白は金の象だから、埋蔵金があるかと疑い、窺った。棺内から出ていることが分かったので、理由を設けてはやく生徒たちを帰し、斧を袖にしていった。しかし斧が棺に及ばないうちに、棺内の白衣の人がすでに出てきた。僵屍(キョンシ)であった。たいへん驚き、退いて逃げると、亡骸がついてきた。呉は僵屍(キョンシ)は溝を越えられないと思い、穴のあるところに走って避けたが、亡骸は坑を越え、谷を越え、平地を踏んでいるかのようであった。呉はたいへん苦しみ、駆け戻ったがの戸を閉ざさないうちに、亡骸がすでに追いついていた。呉はいそいで走り、楼に登って倒れた。翌日、弟子たちはみな集まったが、がいなかったので、入って見楼にゆこうとすると、一人の白衣の人が梯に直立していたので、驚いて出て走り、家に告げた。聞いたものはみな来、長い竿に帚を縛って打ったので、倒れたが、顔は活きているかのようで、毛は毵毵として長さ一ばかりであった。人々は称[75]その胸を圧し、かれがまた起きることを恐れた。楼に登って呉を見れば、牀に前に倒れ、口から白い沫を吐き、胸なお温かく、姜湯を飲ませると、はじめて蘇った。質してそのわけを知ると、言った。「あなたはほんとうに幸いでした。思うに僵屍(キョンシ)は登るのが難しく、真夜中に転び、やっと梯の半ばに及んだところで、空がすでに明るくなり、陽気がだんだん盛んになったので、直立して動けなくなったのでしょう。」呉は人々を出てきた棺に導いていった。人々はみなそれ[76]を知っており、言った。「これは某甲の子です。」いって告げると、甲はその亡骸を棺に返し、薪を集めて焼いた。数ヶ月後、呉も亡くなった。ある人が甲に尋ねた。お子さんはどうして白衣を着ていたのです。」甲は言った。「わたしたち夫婦年は六十を越え、ただこの一子がいるだけでございます。この子が死ねば、一族の中に継げるものはおりません。思うに死後、結局服喪するものがおりませんので、あらかじめ白衣にして納棺したのです。

 

軒は、江寧の人で、申、家の言[77]習っていた。某氏を妾としたが、なかなか美しかったので、鄭はたいへん可愛がっていた。睢寧県で幕僚となると、妾を連れてともにいった。官署の西[78]にはもとより狐が多く、妾はたまたまそのことに言及した。その夜、一人の若い女を夢みたところ、美しくて艶やかであったが、かすかに怒りの表情があり、榻の前に来ると、かれの言葉に慎みがなく忌諱を犯したことを責め、言った。「すこし懲らしめなければどうしてその後を禁じよう。」手でかれの顔を払い、かすかに笑って去った。妾は驚いて目ざめたが、苦しみもしなかった。翌日、鏡を覗くと、左のに爪の痕が五つあり、青黒い色をしており、あれこれ治そうとしたが、消せず、心はことに怏怏としていた。たまたま主人が解任されて去ったので、もほかの人に就いた。五年後、また睢寧の知事の招きを受け、やはり妾を連れていって住んだ。一月すると、また前に見た若い女を夢みたが、見て笑った。妾がその瘢痕を消すことを求めると、女は笑って言った。「承知しました。」朝になると、爪痕は元通りになっていた。妾はわたしを許したのだから、かならずわたし欺くまいと思ったので、浄水一盂を置き、西で香を焚いて祈った。三日後、水をとって顔を洗うと、その痕はほんとうにすぐに消えた。

 

周某は、江南督標騎兵であったかつてある武弁に従って古北口外にゆき、旅店に宿った。その地は、山は深く、林は密かで、地は寂しく、人は稀で、つねに虎狼が多かった。日が落ちた後は、出ようとする人はいなかったが、周はそのことを知らなかった。晩飯が終わると、門を出て小便しにゆき、しばらくしても帰らなかった。店ではもともと猛犬数頭を飼っており、日々鉄鎖繋ぎ、夜になると犬を放ち、主人はかならず客に戸を出るな、犬に咬まれるとあまねく告げていた。武弁はそれを聞き、周を呼び、はじめてかれが外出していることを知った。主人は驚いて言った。「今はいつです。まだ外に出ているのですか。もしや虎に食らわれたのではありませんか。」そしてその仲間をすべて集め、炬火を執り、武器を持ち、いって探した。門を出ると、周が俯いて地に伏し、虎がその股に踞坐していた。人々はみな驚き、虎を撃とうとしたが、周を傷つけることを恐れた。虎が突然起きてたち、舌でかれの項を嘗めると、人々ははじめて撃ち、虎は一躍して去った。人々が周を担いで店に入ると、血は淋漉とし、一息が残っているだけであったが薬を塗ると、さいわい死ななかった。しかしそれから項の後ろで骨が外に現れ、ぎざぎざとして、鋸の歯のようで、皮肉は残らず、毛が生えなかった。

 

徐州睢寧県の門に玄武廟があり、言い伝えでは、明代から建てられているということであった、廟は崩れてひさしく、一つの殿舎だけが残っていたが、やはり僧がいなかった。道光丁未[79]の夏、農村の甲乙二老人が、薪を背負って市に入り、売るといっしょに帰ろうとした。門にゆき、城下で小憩し[80]、地べたで熟睡した。一時して甲が目ざめると、乙は所在を失っていたが、荷物すべて残っていた。厠へいったかと疑ったが、しばらくしても来なかったので、いって探した。廟ゆくと、殿前に血痕があり、仰ぎ見れば、乙は空中におり、その腹は(たるき)に貼りつき、まったく繋いでいないのに、墜ちなかった。たいへん驚き、走ってお上に知らせた。お上が来ると、下役に命じてその亡骸を卸させようとしたので、人々が梯で登ろうと相談していたところ、亡骸は突然落ち、調べれば、胸にすでに穴があいていた。その上にかならず怪物が潜んでいると悟り、その笮[81]開いて見たが、何も見えなかった。お上はどうしようもなく、ひとまず甲を帰らせてその家に告げさせた。時に正午であったが、にわかに濃い雲が四方から集まり、雷鳴は殷然とし、まもなく大雨がにわかに来た。突然、迅雷が起こり、殿上では(むなぎ)折れ、(たるき)が崩れ、黒い物が光の中から飛び去り、雨はすぐ止んだ。まもなく、城外から来たものがおり、城から七里で一匹の蝙蝠を撃ち殺した、大きさは牛のようであったと言った。そこで乙を殺したのは、この物だと悟った。

 

咸豊癸丑[82]、粤寇が金陵を陥れた。某というものがおり、江寧将軍[83]の印房[84]の吏であったが、城内から逃げだした。その子は賊の中に陥り、偽職を受けたが、鄧は知らなかった。その後、大軍が城を囲むと、賊勢はきわめて苦しくなった。賊の中から逃げ出したものがおり、鄧に事情を告げたので、鄧はその子に手紙を寄せ、逃げ出すように促した。子は手紙を得ると、歴得てきた銀を、四つの壜に分け、旧居の室内に埋め、大きな磚で覆い、ひそかに標識とし、その父のもとに逃げ。一月足らずで城が回復すると鄧は子が埋めた金が他人に取られることを恐れ、いそいでその子と城に入った。家にゆけば、屋宇はもと通りで、金を埋めたところには標識がなお残っていたので、たいへん喜んだ。夜になって開けば、壜はもとよりあったので、ますます喜んだ。しかしその磚を開けば、空しかったので、たいへん驚いた。にわかに一壜の中に声がしたので、見ると、ただ鱔魚一尾、長さ二尺ばかり胴径一寸のものが、その中を泳いでいた。鄧は金が化したかと疑い、出して殺したところ、血は淋漓として普通の魚と異ならなかった。軒先に懸け、それがまた金に化することを願っていたが、翌日腐った。

 

金陵の南外に村があり、住民百余軒は、すべて姓であった。その地は山水が囲み、林の樹は繁茂し、望めば鬱鬱葱葱として、佳気があるかのようであった。言い伝えでは康熙の時に竇叟というものがおり、堪輿の術に優れ、人のために土地を選んだが、すべて吉であった。かれの二子はしばしば叟に頼んで言った。「お父さまは人のために吉壤[85]選ぶことが多いですが、みずから土地を占い、百年[86]の後に蔵真[87]される部屋にしてはいかがでしょうか。」叟は言った。「すでに手に入れている。」所在を尋ねると、笑って言わなかった。叟が死にそうになると、二子はさらに尋ねたが、叟は言おうとしてやめた。再三尋ねると、言った。「土地はわたしがいる部屋にあるが、おまえたちはわたしの命に従えまい。」子は言った。「お父さまのご命に、どうして逆らおうとしましょう。」叟はそこで穴の場所を示し、さらに命じて言った。「わたしの死後、衣衾棺椁を用いるな。地に八尺の穴を掘り、わたしの亡骸を裸にし、その中に倒立させ、首は下、足は上にし、顔は東に向け、土で覆え。おまえたちは四十九日門を閉ざし、それを過ぎれば出られよう。わたしの命に従えなければ、この地を用いるな。」叟が死ぬと、二子は相談して言った。「亡父の命あのようだったが、裸で倒立させるのは、人の子として心安らかでいられようか。」そこでやや通をきかせ、帛を亡骸に纏わせ、穴に正立させ、その他はすべて父が命じたようにした。四十九日になろうとすると、叟の妻の弟が徐州から叟に会いに来、門に来ると、門が開かなかったので、門を叩いて大声で叫んだ。二子が中から父の遺命を告げると、その妻の弟はたいへん怒って言った。「父は死んだのにわたしに告げなかったのは、おまえの罪の一だ。葬るのに礼をもってしなかったのは、おまえの罪の二だ。さらに天下にどうして父をこのように葬る者があろう。おまえたちはもしや異心を抱いているのか。はやく開かなければ、お上に知らせよう。」二子はやむをえず、門を開き、その舅を招いていった。この夜、五彩の気がその屋の上に見え、翌日、大雷雨があり、霹靂がかれが葬られた穴を壊した。二子が走って見れば叟の亡骸はすでに龍と化していた。角はすべて備わっていたが、両目だけはなお閉じ、全身は蜘蛛の網が纏っているかのようであった。そもそも帛に縛られていたのであったにわかに迅雷が落ちると叟の亡骸は糜爛し、二子もついで死に、子孫はいなくなった。この叟は分外のものをみだりに願い、死後雷に撃たれることを致したのであった。かれの術は優れていたが、それがまさにみずからを害したのであった。

 

楚人の某は、丞倅[88]として蜀中で官となっていた。かれが官となった地はたいへん貧困で、官署あるが、怪物に占拠されていると言われていたので、前任者はみな民屋を借りて住んでいた。某はたいへん貧しく、家を借りる金がなかったのでやむを得ず、一人のしもべを連れて署内に住んだ。その夜、寝るのが恐かったので、よく酒を飲み、ひとまず酒を執って痛飲し腰に利刃を掛けてみずからを守っていた。夜半になると、突然、一人の巨人が闥を排して入ってきたが、勢いはたいへん激しく、見ると、(しろ)くて霜雪のようであった。某はすぐ利刃を抜いてはげしく斬ると、鏗然とものが地に堕ちた。その人は身を翻して走ったので、某は大声で叫んで追い、しもべも傍らの棟から声を聞いて出てきた。某は胆がますます太くなり、ともに追ってあるところへゆくと消えたので、物でしるしをつけた。再び帰って部屋に入り、落ちたのが何か見れば、血の淋漓とした片腕であった。そこで坐して朝を待ったが、ほかに異常もなかった。朝になり、その腕を見ると銀になっていたので、たいへん驚いた。夜にしるしをつけたところにゆき、掘ってみると、中に一体の銀の人形が埋められており、片腕だけがなかったが、断たれた腕をつけたところ、ぴったり合った。担いで帰り、測ると、重さは数千両であった。

 

大林は、上海東郷羅[89]人であった。身は長くて色は黒く、膂力は人に勝り、性は無骨で恐れるものがなかった。幼い時から行商生業としており、妻を娶ろうとしたが、資金がないことに苦しんでいたので、その仲間たちに相談した。時に大邸宅があり、怪異が多く、入るものはかならず死んでいた。ある物好きがかれに約束して言った。「ここに一晩宿れれば、銭を十万集め、結婚の費用にしよう。」羅は承諾したが、かれが約を違えることを心配した。人々はそこで証文を書いて渡した。宅の主人で王姓のものは、それを聞くと喜んで言った。「ほんとうに怪物を駆除できるなら、市場に三の家持っているから、おまえに妻を娶らせ、代金を求めないことにしよう」やはり証文を書いて渡した。その晩、羅は蒜を搗いて泥にし、焼酎の中に混ぜ、飲んでかすかに酔い、大きな数本を持ち、鍵を開いて入った。人々はかれがひそかに出てよそに隠れることを心配し、外からその戸に鍵した羅が中に入ると、枯草が径を覆い、小笹門を塞ぎ、室内には塵が積もること一ばかりであったが、一番奥の一室は清潔で繊塵もなかった。その西側には牀があり、牀には帳があり、衾褥があったが、先にここにいたものが残したものであった。羅はすぐ帳の中に坐し、その異変を伺った。二更過ぎになると、突然大声が戸外で起こり、一人の黒い人が闖然と入ってき、部屋の中を回った。その面目はあまり弁ぜられなかった。にわかに牀の前に迫ったので、羅はにわかに帳の中から躍り出て抱きかかえた。黒い人は逃れられず、両手は抱えられ、挙げられなかったので、羅に向かって息を吹いたが、冷たくて氷のようであった。羅は首を傾けて避けたが、しばらくすると頚が痛み、刀で削られるかのようであったので、むりにその首を回し、やはり幽鬼に向かって息を吹くと、幽鬼も首を傾けて避けた。その後、幽鬼がまた息を吹くと、羅はまた避けた。たいへんながく抱きかかえ、鶏が鳴くと、幽鬼はにわかに縮み、ますます小さくなり、もはや息は吹けなくなった。その体はますます固くなったが、羅はずっと抱きかかえて放そうとしなかった。時にかれの仲間たちはみな近いところで待機していたが、夜明けになるとみな集まって入って見た。羅が抱いていたものは棺で、手を放し、地に倒すと、ばたんと音がし、薪を集めて焚けば、臭くて近づけなかった。人々はかれの胆力を壮とし、金銭家屋を与え、署名した証文の通りにした。この邸宅の怪異は絶えたが、羅頚はそれから傾き、まっすぐにならなかった。その郷里の人は 「幽鬼を捕らえた大」 と呼んだ。

 

于某は、海塩の人で、西城外の沈[90]住んでいた。その妻は下女に遇えば虐げていた。下女はなかなか聡く、年は十六で、しきりに鞭うっていた。ある日、朝起きると、庭に犬の糞があったので、下女が掃除しないことを怒り、鞭うって食らうように迫った。下女はどうしようもなく、俯いてすこし食べ、泣きながら河原にいってその口を漱いだ。すると突然、一隻の船が岸に泊まり、美しい婦人が出てきた。簪珥[91][92]は、いずれもきわめて華麗であった。二人の下女が扶け、歩いて上陸すると、下女を顧みて尋ねて言った。「おまえはこの家の下女か。奥さまに言伝てしておくれ。客が来たから、いそいで奥の楼を掃除し、わたしの寝室にしてくれと。」下女は本当だと思い、馳せ戻って主人に告げようとしたが、門に入るとすぐに倒れ、人事不省となった。かれの女主人が人に命じて扶けて入らせ、姜を飲ませると、しばらくして蘇った。事情を尋ねると、見たことを告げた。奥に楼三部屋があり、什物が収められていたが、住んでいる人はいなかった。下女の言葉を聞くと、入って探ろうとした。着かないうちに、沙石が顔を打ち、入られなかったので、狐だと悟り、すぐにその下女をゆかせた。下女が入ると何ごともなかったが、楼に登って見ると、蓄えられていた什物はすでにすべて傍らの部屋に重ねられていた。中央便坐[93]、左は寝室となり、羅の(ついたて)(ぬいとり)幕で、調度は一新していた。美人二人の下女を指揮し、絨毯を敷き、画幅掛けた。下女が恐れて逃げようとすると、婦人はかれを坐らせ、さらに語った。「聞けばあなたのご主人はあなたを虐待しているとか、わたしはたいへん不満です。今後、またそうしたら、かならずすこし懲らしめましょう。」それからは、于のが下女をすこしでも怒鳴ればかならず人がいてその頬を打つようになった。于の妻恐れ、はじめて下女たちを優遇した。一月あまりして、妻は下女に言った。「ご主人に伝えてください。わたしに洋五十を貸してください、使いますからと。まだあなたの家から出ませんから、借りて返さない心配はございませんと。」下女はそのことを于に告げた。于は一目見ようと思っていたので、下女を遣わして言わせた。「お金惜しみませんが、直接お渡ししなければなりません。」婦人は笑って言った。「承知しました。」于は洋銭を金額通り持って奥の間にいったが、何も見えなかった。楼に登ろうとし、梯に近づこうとすると、突然、眼前片腕が見えたが、浅い色の衫を着けていた。紅い袖を高く捲れば、白い腕が露わになり、金玉の条脱[94]帯びていたが[95]と響いていた。手のひらは紅く潤い、五指は細く葱のようで、指の爪は長さ一寸ばかりであった。于はそれを見ると心が動いたが、突然、嬌声が聞こえた。「受け取りました。はやくゆきなさい。」腕は見えなくなり、于の手中の物もそれとともに消えた。于の娘はまさにこの時、盛装した若い娘が、浅い色の衫を着け、年は二十ばかり、かれにむかってかすかに笑うと、突然消えるのをた。婦がその父娘に姿を現すのが、場所を異にして時間を同じうしていたのも、驚くべきことであった。于には弟の妻がおり、寡婦暮らしすること三年、于は待遇が薄かった。その夜、突然、枕辺で洋銭を得たが于が失った額と同じであったので、かれがあちらで酌んでこちらに注いだことを知った。于も事情を悟り、優遇するようになった。婦人は邸宅にいること半年、突然下女言った。「今から蘇州に去りましょう。」そしていなくなったこれは光四年八月の事であった。

 

塩の吉は、県の諸生で、同県の徐家で教師をしていた。徐の邸宅はなかなか広く、粤寇の乱で、王府となったことがあった。賊が平らいだ後は、白骨が累累とし、空舎に満ち、よそに改葬しても、なお怪異があった。呉はその中に住むこと一二年、日に日に姿が痩せ衰えた。親戚友人が怪しみ、そのわけを尋ねると、かならず何ごともないと言った。しばらくすると、だんだん普段の様子を改め、日々喃喃と親しみ語るようになった。そこでかれの家に告げると、家人が来たが、もはや家人と気づかなかった担いで帰り医者を召して治療させようとすると、呉は突然その父に告げて言った。「病はありませんから、医者はいりません。」その声から察すると、北方人で、娘であった。父はそこで尋ねて言った。「おまえはどこの鬼魅で、ここにきて祟りをなしているのだ。」呉はやはり女の言葉で言った。「わたしはもともと役人の一族で、幼くして文翰に通じていましたが、難に遭い、鬱鬱として死にました。夜台[96]は凄寂で、お子さんとご縁がございますので、きて憑き、百年のながい誼を求めています。祟りをなしているのではありません。」そこで憑いているものがいることを悟り、あれこれ追いはらわせたが、追いはらえなかった。家人が憤って罵れば、罵ってき、殴れば殴ってき、やさしく語れば、清言は娓娓とし、機智は絶倫であった。さらに曲を作ることを好み、美しい声に、聞くものは魄が揺らいだ。家人はそこで鬼妻とすることを約束しかれのために位牌を設けた。するとみずから王姓で、幼名は媚儂であると述べ、さらに、その生年月日をたいへんくわしく話したが、病は結局減じなかった。ある日、家人に告げて言った。「明日は日柄がよいので、お子さんとともに帰りましょう。」その日、呉は結局死んだ。聞けば呉はなかなか謹厳で読書を好んでいたそうである、それなのに淫鬼に殺されたのは、もしや夙怨があったか。

 

最終更新日:2011810

右台仙館筆記

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[1]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/133343.htm&sa=U&ei=EjQ6TrjsHKjXmAWO0Km4Bw&ved=0CBUQFjAB&usg=AFQjCNGCR3ndZk0r_mzl8L7kbnY3D4k-Dghttp://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E5%B1%B1%E4%B8%9C%E7%9C%81%E6%8B%9B%E8%BF%9C&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[2]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA7Zdic82339176.htm清代、への尊称。

[3]http://www.zdic.net/cd/ci/20/ZdicE9ZdicACZdic9176420.htm鬚髪疏らなさま。また鬚髪さま。

[4]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE7ZdicBCZdic96205082.htm官名。翰林院の属官、修撰につぎ、修撰、検討ともに史官。

[5]原文「此年年一盛會也」。「此・年年・一盛會・也」と区切るのであろうが未詳。とりあえずこう訳す。

[6]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE6ZdicBCZdicA0311971.htm冷淡、無心。

[7]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8ZdicB7ZdicAC348394.htm半歩

[8]現代北京語音は「diào

[9]第五十三齣「硬拷」の【僥僥犯】http://wagang.econ.hc.keio.ac.jp/~chengyan/index.php?%E5%85%AD%E5%8D%81%E7%A8%AE%E6%9B%B2%2F%E9%82%84%E9%AD%82%E8%A8%98#w2b5800e

[10]「了」が百八十度回転した形。

[11]反切http://www.google.co.jp/url?q=http://ja.wikipedia.org/wiki/%25E5%258F%258D%25E5%2588%2587&sa=U&ei=w3NATqueIMbtrQf0mKWCBg&ved=0CA8QFjAA&usg=AFQjCNHb4bF-g58bPiaRxWYDo3s6-NVGtwで「[]」の音を表したもの。反切は、二の漢字を組み合わせ、前の漢字が子音を、後ろの漢字が母音と声調を表しているもの。「丁了切」は「丁dīng」+「了liǎo」で音は「diǎo」となる。

[12]鳥」の現代北京語音は「niǎo」と「diǎo」。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE9ZdicB8Zdic9F.htmここでの兪樾の発言は「diǎo」を念頭に置いてなされていよう。

[13]現代北京語の第三声にほぼ相当

[14]現代北京語音は「niǎohttp://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE8Zdic8CZdic91.htm

[15]「都+「了liǎo」で音は「diǎo」となる。

[16]現代北京語の第四声にほぼ相当

[17]「多duō+「xiào」で音は「diào」となる。

[18]蔦」にniǎo」という音のみあってdiào」という音が廃れていることを述べたもの。

[19]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBAZdicB242117.htm&sa=U&ei=ZcI_Tq30DOXQmAX2k4z3Bw&ved=0CBAQFjAB&usg=AFQjCNHjFY11aHbaNR1GQjr-CShCDxnkpg家公http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBAZdicB287330.htm男子にとっての舅あるいは女子にとっての舅に対する称呼。

[20]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/147801.htm&sa=U&ei=ZuBATuKKJMTliALny_ydBQ&ved=0CBkQFjAC&usg=AFQjCNHNejlgLAnzA6SdtoD8X84W15U-dQhttp://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E7%89%9F&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[21]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/wiki/1852%25E5%25B9%25B4&sa=U&ei=B-NATq-wEuzRiALP2MWtBQ&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNENQ8BVQX33KrXAC5bFJKRr8e_h7A

[22]後ろを読むと分かるが、自殺用の毒薬であろう。

[23]「偽りの檄文」というよりは「偽政府の発した檄文」という意味であろう。

[24]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA1ZdicA3229581.htm死者を包む衣服と(ひとえ)(かけぶとん)

[25]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE9ZdicA3Zdic8E69451.htm&sa=U&ei=9aA6Tr7qHsqhmQXy6eC5Bw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNF-XaSq3ucrFkhTwr3QqxcHCwlKiw寒帽。

[26]http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE6ZdicB0Zdic85155672.htm衣服の外をおおう大衣http://www.google.com/search?q=%E6%B0%85%E8%A1%A3&hl=zh-CN&lr=&um=1&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&aq=f&aqi=&aql=&oq=

[27]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/wiki/%25E9%25B1%25A7%25E9%25AD%259A&sa=U&ei=caM6Tq-1A-XPmAXYobG-Bw&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNFbzJ8QzGq4vOyZEMB24IKi1-G2QQhttp://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E9%B1%A7%E9%AD%9A&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[28]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8914983.htm道教食らうに忍びない動物、雁、狗、

[29]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE7ZdicBCZdicAF207662.htm絲綢総称

[30]http://maps.google.com/maps?q=%E6%B1%9F%E8%8B%8F%E7%9C%81%E8%8B%8F%E5%B7%9E%E5%B8%82%E6%B2%A7%E6%B5%AA%E5%8C%BA%E5%90%89%E5%BA%86%E8%A1%97%E5%B0%8F%E4%BB%93%E5%8F%A3&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[31]「鬻」の「米」が「孛」の字。湯が沸くさま。

[32]楊某

[33]原文「俗語以可用為使得、亦莫之異也。」。後で述べられているように、女は実際には「死得(死ねます)」と言っていたのだが、叔父は「使得(使えます)」と聞き間違えたのであった。なお、「使shǐ」と「死sǐ」は北京語では音が異なる。

[34]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD333105.htm屋敷神

[35]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/wiki/%25E7%258E%258B%25E7%2582%258E%25E5%258D%2588&sa=U&ei=eAY-TtHbH-jXmAW1sfGGCA&ved=0CBwQFjAD&usg=AFQjCNFDd3ZkaJ3rUJTsYtkKVbfBWKLB8w文天祥の幕僚。文天祥が元軍の俘となった後、『生祭文丞相文』を書き、文天祥が殉するように激励したことで有名

[36]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/5927.htm&sa=U&ei=rf9ATrq4IMrViAK-ia2kBQ&ved=0CBYQFjAA&usg=AFQjCNGCZCInKEScaJnjubHJaRv4lmYdow

[37]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E6%B1%9F%E5%A4%8F&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl湖北武昌府の県名。

[38]http://www.google.com/url?q=http://zdic.net/cd/ci/15/ZdicE6Zdic86ZdicAC152990.htm&sa=U&ei=THY7TuHhL4a4rAeirqwW&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNHEFrpYH-p46HFBwavRey0V1M3H7wさとるさま

[39]原文同じ。未詳。「外姐」という言葉があり、外祖母のこと。許宝華等主編『漢語方言大詞典』千三百四頁参照。また、「外妹」という言葉があり、異母妹のこと。

[40]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA4ZdicA755184.htm

[41]原文「衣服猶在、豈亦有鬼。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[42]原文「鬼固得攝其精氣以去邪、抑或幻作是形以取信於人邪。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[43]原文「集人夫治地」。「治地」が未詳。とりあえずこう訳す。

[44]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE6ZdicA7Zdic83.htm

[45]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic90ZdicAB44811.htm 「含 とも。 「含歛」 とも。古代の礼で、珠玉米等を死者の口中に、衣衾を易え、棺に入れることを、 「含殮」という。

[46]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicBBZdic9E206598.htmhttp://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicBBZdic9E206597.htm納棺の時、屍体を包む束と衾被。

[47]大小斂に用いる衾とその上から屍を包む覆い。(『大漢和辞典』)

[48]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE8Zdic88Zdic8638647.htm&sa=U&ei=Gbg7TrHGJMPprQe_x-DtDw&ved=0CBIQFjAB&usg=AFQjCNHZzdujKIsK_bocKmbJ9lIJB00UKQ輿http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE8Zdic88Zdic86237352.htm夫あるいは夫。

[49]『庸閑斎卷七「余仁和姚平泉先生光晋、道光乙酉人。

[50]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/27971.htm&sa=U&ei=rclBTrnpDefwmAXFnL3YCQ&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNFhNx-SVDGVG4TCvSQtbq4comwKoQ 

[51]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/33562.htm&sa=U&ei=ADdBTtz5NcbTrQf34fHCBw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNENjOT1-96AXfhEEnBd6cLxhQwSaghttp://maps.google.com/maps?q=%E6%B1%9F%E8%8B%8F%E7%9C%81%E6%89%AC%E5%B7%9E%E5%B8%82%E5%AE%9D%E5%BA%94%E5%8E%BF&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[52]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6ZdicB1ZdicA4288345.htm湯餅http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6ZdicB1ZdicA4288347.htm寿辰および子供が出生して三日目あるいは一か月、一年行する慶賀宴会。寿を象徴する麺をえるので、かくいう。

[53]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8914959.htm漢典に適当な語釈なし。子供が出生して三日目の祝いであろう。

[54]原文「[衣戔] 」。未詳。とりあえずこう訳す。

[55]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE9Zdic95ZdicBF262554.htm 佛教徒がにわたり午後食事しないこと。期素食することもいう。

[56]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic95Zdic8C285064.htm德に怨みにいること

[57]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9A149326.htm&sa=U&ei=vNs7Tv6QEsrzmAWnpMGAAw&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNGjQPJSqpwU-ELvc-FpqS9cdq1uzAの根

[58]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9A218748.htm&sa=U&ei=5uA_TuSGPMTRrQevmPziCw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNFJi62YF_3ox1Ee6qEmwBkH9I7L-Q

[59]悪業と煩悩。結は煩悩の異名(『大漢和辞典』)

[60]『法苑珠林』卷第六十九・後報部第七「如婆沙論云。有一屠兒。七生已來常屠不落三塗。然生人天往來。此由七生已前曾施辟支一食福力故。令七生不墮惡道。然此人七生已來所作屠罪之業。過七生已次第受之。無有得。善惡(此是後報具如六道篇)」。ただ、ここで引用されている『婆沙論』がどういう書物なのかは未詳。

[61]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8ZdicBEZdic9F220916.htm佛教。辟支迦佛陀の略称。http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/434963.htm&sa=U&ei=AjlBTuGELYTNrQf_y_muBw&ved=0CBQQFjAB&usg=AFQjCNE4hRjXjypurq7Fjto4jC3dyw7NyQ

[62]原文「似甚茫遽者」。「茫遽」が未詳。とりあえずこう訳す。

[63]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9ZdicADZdic81310146.htm文運、文章奎星。「奎星」二十八宿の一つ。後漢緯書『孝援神契』に「奎主文章」のがあり、後世これに附会して神とされ、奎星建て神像を作って崇められ、文章衰をつかさどる神とみなされ、科では合格をつかさどる神とされ、 「奎星」「魁星」と改められた。http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E9%AD%81%E6%98%9F&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[64]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicBAZdicBB73173.htm仙女の名。

[65]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicA5Zdic87299179.htm&sa=U&ei=y0BBTrq6PJHJrQfcvPzBBw&ved=0CBAQFjAB&usg=AFQjCNHQG3M824_itIItumS3qe0lZog6lg遁甲http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicA5Zdic87299180.htm占いの

[66]原文「孫布式已」。「布式」が未詳。とりあえずこう訳す。

[67]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBFZdic97327481.htm僧道の出家前の家庭。

[68]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE5ZdicBDZdic84126932.htm輪の

[69]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9ZdicBCZdic9376864.htm&sa=U&ei=bkFBTpW5OYq0rAf57p2nBw&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNHWH1fsF47XfXL2Xu5kYi25jjL-7w大鼓を設置した楼。鼓をって・時報とした。http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E5%8D%97%E4%BA%AC%E9%BC%93%E6%A5%BC&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wlhttp://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E5%8D%97%E4%BA%AC%E9%BC%93%E6%A5%BC&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=li

[70]善司は都天神。胡孚琛主編『中華道教大辞典』千五百二十五頁参照。

[71]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/wiki/1864%25E5%25B9%25B4&sa=U&ei=NkJBTvm_HYLNrQe48o27Bw&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNH9yuZ5z5btIBVm1PnMVudgFuVTNg

[72]『礼記』經解

[73]http://www.googde.com/urd?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic89ZdicB6160234.htm&sa=U&ei=aWI8TvffLcPwrQfbqZj6Dw&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNEyZHjJL10tChoQT_Zw-dhxVv_Rtg傾斜を正すこと

[74]『尚書』

[75]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicA7ZdicB0164738.htm秤のおもり

[76]棺の中の屍体が誰であるかということ。

[77]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic94ZdicB3182300.htm&sa=U&ei=IkNBTtKdBYXirAfKq93MBw&ved=0CBIQFjAA&usg=AFQjCNG3AwMrnnMjDIE1eAcJnZ8mVUnFhQ戦国時代の法家申不害と韓非の併称。後世 「申」で法家を代表する。またの学と称する。これを習っていたということは、法律・実務を学んでいたということであろう。

[78]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA5ZdicBF186894.htm漢典は「指文人的書斎」と説くが、幕僚として住み込んでいる宿舎のことであろう。

[79]http://zh.wikipedia.org/wiki/1847%E5%B9%B4

[80]原文「小憩風於城下」。「風」が未詳。とりあえずこう訳す。

[81]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE7ZdicACZdicAE.htm&sa=U&ei=AkRBTrm5Bs6urAen3rG7Bw&ved=0CBcQFjAF&usg=AFQjCNERhw7of02TRA9czF4bJ3f9Xr4AHg屋上のむしろ。竹あるいは瓦の下、椽の上に敷く。

[82]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/wiki/1853%25E5%25B9%25B4&sa=U&ei=cERBTvmDH4LEmAXv0JTMCQ&ved=0CA4QFjAA&usg=AFQjCNF4MRNhowuYWvSVRfbfJskpmMp1Xg

[83]http://zh.wikipedia.org/zh-hant/%E6%B1%9F%E5%8D%97%E9%A9%BB%E9%98%B2%E6%B1%9F%E5%AE%81%E5%B0%86%E5%86%9B 

[84]未詳だが、官署で印鑑を司る部署であろう。

[85]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic89103312.htm風水の良い墓地

[86]人の死をいう。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE7Zdic99ZdicBE7494.htm

[87]原文同じ。未詳。屍骸を埋葬することか。

[88]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE4ZdicB8Zdic9E16628.htm副職

[89]http://maps.google.com/maps?hl=zh-CN&q=%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E7%BE%85%E5%BA%97%E9%8E%AE&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[90]http://maps.google.com/maps?q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B5%99%E6%B1%9F%E7%9C%81%E5%98%89%E5%85%B4%E5%B8%82%E6%B5%B7%E7%9B%90%E5%8E%BF%E6%B2%88%E8%8D%A1%E9%95%87&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[91]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/18/ZdicE7ZdicB0ZdicAA199844.htm&sa=U&ei=xvk8Ts-MA63NmAWWydSfCA&ved=0CBwQFjAF&usg=AFQjCNHZeVTzESbuC6XKIDOxYfgrNhRclQ簪と耳。高貴婦女の装身具。

[92]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE8ZdicA2ZdicBF200902.htm&sa=U&ei=s_k8Tv77OvDrmAWs1YCWCA&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNHEUKUT3FKVcrXAssvLlMMOGgv6Gw袿衣http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE8ZdicA2ZdicBF200901.htm&sa=U&ei=hEZBTpqrFoabmQXX3cWkCQ&ved=0CA0QFjAA&usg=AFQjCNEhERkKISDB8qP3lmKt0d4zw4q5Tw婦女の上等な袍。http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E8%A2%BF%E8%A1%A3&lr=&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[93]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE4ZdicBEZdicBF96133.htm漢典に適当な語釈なし。居間であろう。

[94]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic9DZdicA1282775.htm&sa=U&ei=6kZBTtryIIjwmAX138W7CQ&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNGiXqdJXccWcjfFXRKJyLtYUl_Feghttp://www.google.com/search?q=%E6%9D%A1%E8%84%B1%E3%80%80%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%9C%8D%E9%A3%BE&hl=zh-CN&lr=&um=1&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&aq=f&aqi=&aql=&oq=

[95]未詳だが、チョンチョンという擬音語であろう。音は「zhēng  cóng」。

[96]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicA4Zdic9C100748.htm墳墓。また冥土をも指す。

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