鐫新編全相楊家府世代忠勇通俗演義志伝八巻
●鬼王が白額虎を蹴り殺すこと
さて仁宗は位にあること四十一年、英宗は位にあること四年、国家も人民も安穏で、辺境の災禍は起こりませんでした。神宗が即位しますと、熙寧五年に、西蛮の新羅国が辺境を侵犯しました。新羅国王は姓を李、名を高材といい、勇力は抜群でありました。そしてあらたに西夏の人で、姓は張、名は奉国というものを部下にしました。その人は身長が二丈、腰巾は二十囲、両頬は突き出て、眼は金星のよう、両脇に八臂があり、人々から「八臂鬼王」と称されておりました。ある日、猟師たちが一頭の白い額の猛虎を追い立て、ぐるりと囲み、喊声をあげて射ておりました。その虎は神虎で、矢がその身に中たっても、ばらばらと地に墜ちて、突き刺さらないのでした。張奉国はちょうどその狩猟の場所を通り、喊声があがって騒がしいのを聞きますと、部下に尋ねました。「前方で喊声があがっているが、何ごとだ」部下は答えました。「猟師が喊声をあげ、虎狩りをしているのでございます」奉国は言いました。「人はしばしば虎が人を食らうと言っているが、わたしは見たことがないから、看にいってみよう」そして轎から下り、狩場に入って虎を看ました。虎は猟師に射られ、腹を立て、咆哮し、跳びあがり、人を咬み、たちまち奉国の面前に跳んできました。部下はあわてて奉国を引っぱって言いました。「旦那さま、はやく逃げられ、傷つけられませぬように」奉国は言いました。「大丈夫だ。あの畜生が近づいてきたら、わたしが蹴り殺してやろう」部下は驚いて逃げました。その虎が近づいてきますと、奉国は何歩か進み、脚を伸ばして一蹴りし、その虎を空中に飛ばし、まるで蹴鞠のようでした。その虎は大声で吼え、地に落ちますと、じっとして動かなくなりました。奉国が進み出て看ますと、七孔から鮮血が迸っておりましたので、猟師たちに手招きして言いました。「虎はもう死にましたから、皆さんはこちらに来られて担いでゆかれ、皮を剥いでください」猟師たちは進み出ますと、跪拜して言いました。「旦那さまは神人にございます。今日はこの悪ものを除いてくださり、ありがとうございます。どれほどの人をこいつに傷つけられたか分かりませぬ」人々は虎を担いで戻り、皮を剥ぎ、その肉を切りますと、重さは合計八百余斤でしたが、そのことはお話しいたしません。
さて、張奉国がある日参内しますと、李王が言いました。「わが国は毎年大宋に進貢し、人を遣わし、その朝廷に入らせているが、いつも廷臣に辱められているので、われわれはとても恥ずかしく思っているのだ。よく考えれﾎ、かれらは人だが、われわれも人なのだから、われわれがかれらを畏れることはない。われわれは今から兵を興して、中原を奪い、過日廷臣に辱められた仇を雪ぎたいと思う。卿に何か策があれば、わたしたちに教えてくれ。謹んで社稷を奉じて従おう」奉国は言いました。「臣の部下には、姓は夏、名は雄という者がおり、力は山を抜き、鼎を挙げることができ、射る矢は百発百中で、重さほぼ九十余斤の大斧を揮えば万夫に当たることができまする。主上にはこのものを先鋒に封じられますように。わたくしは不才ではございますが、総督になり、十万の勇猛な軍を率いて莫耶関へと出撃し、宋の都邑を取りたいと存じます」時に一人の老臣、姓は許、名は武というものがあり、いそいで諫めました。「なりませぬ。大宋は民心が帰順して、山河が一統されており、兵隊は雨のよう、策士は林のようにございますから、かれらを軽視し、破るのがたやすいと考えられてはなりませぬ。主上が臣の言葉を聴かれず、みだりに戦をなされば、正朝[1]の征伐を招き、かならずや覆滅の恨みがあることでしょう」李王が黙っておりますと、奉国が答えました。「老丞相どのはご存じございますまいが、天下は久しく治まって、軍事はすべて廃されており、大宋の往年の良将はみなすでに亡くなっておりまする。今、兵権を司り、辺鎮にいる者たちは、みな金持ちの子弟ですから、わが兵がにわかに進み、攻撃するということを聞けば、心は震え、胆は戦き、戦わずして逃げるのに暇なく、争いにこようとはいたしますまい。この時も天のたまものにございます。天に従い、事を行ない、その国を盛大にしなかった者はおりませぬ」李王は話を聞きますと、大いに喜び、許武の諫めを聴かず、張奉国を封じて伐宋総部行営無敵都管頭にし、夏雄を封じて前部開路威武大酋長とし、即日部落の十五万人を率い、莫耶関に殺到してきました。許武は諫言が従われなかったため、朝廷から出ますと天を仰いで嘆きました。「『天災は、逃れることもできようが、自分が招いた災いは、逃れることはできない』という。わが国は、代々きちんとしていたのだが、この逆賊を部下にしたため、金甌を打ち破られ、われらには身を葬る地がなくなってしまうことだろう」そこで家に戻り、剃髪して僧となり、四海を雲遊することにしました。
さて、莫耶関都指揮使の羅練が出勤し、質問をしておりますと、たちまち新羅国の李王が兵を興して、莫耶関へと攻めてきて、大宋の天下を奪うと公言していることが報されました。羅練は大いに驚き、人に命じて関を築いて防御させるとともに、人を汴京にゆかせて上奏させることにしました。使者が徹夜で汴京にゆきますと、ちょうど神宗が朝議しておりました。使者はただちに中に入り、神宗に上奏しました。神宗は上奏を聞きますと、驚いて群臣に尋ねました。「誰か兵を率いて新羅の賊を征伐できるか」たちまち一人が進み出て上奏しました。「わたくしが兵を率いて討ちにゆこうと思います」神宗が見てみますと、それは右丞相の張茂でした。神宗は上奏を受け入れ、命を下して張茂を統兵征西大元帥に封じ、団練営に行って兵士を操練し、十万の勇猛な兵卒を精選し、討ちにゆかせることにしました。張茂は勅旨を受けますと、団練営にゆき、兵士を選び、試したところ、胡富は勇力が人より勝っており、武藝がきわめて優れておりましたので、先鋒の印を掛けました。兵士たちを点呼し、姓名を記載し[2]、明日の五鼓に出発すると号令しました。命令をしますと、屋敷に戻って休むことにしました。回り道をし、無佞府の前を通り過ぎますと、先払いをする者は口を噤み、跪いて言上しました。「前方は無佞府で、およそ大小の官員はみな馬から下りて通り過ぎねばなりませぬ」張茂は怒鳴りました。「馬鹿を言うな」馬上に端坐し、人々に銅鑼や太鼓を鳴らして通り過ぎるように命じました。
さて楊文広は年すでに六十、ちょうど書館で息子たちに兵書戦策を教えておりました。その長男は公正一郎、次男は唐興二郎、三男は彩保三郎、四男は懐玉四郎といいました。時に文広は講義をおえたばかりでしたが、たちまち屋敷の前で楽器が奏でられましたので、門番を呼び入れて尋ねました。「屋敷の前で、なぜ鳴り物を鳴らしているのだ」門番は答えました。「張茂丞相は団練営へゆかれ、兵を選んで、新羅の賊を征伐することになさいました。これからこちらを通って屋敷に戻られるので、兵らに命じ、太鼓を鳴らし、通っているのでございます」文広はそれを聴きますと、言いました。「つまらない丞相が、今日、大軍を率いたばかりであるというのに、とても誇らしげにしている。それにまだ、戦陣に臨んでおらず、勝負がどうなるのかも分からぬ。それなのにこのように振る舞うとは。かようなことはたいへん理解し難いことだ[3]。老いぼれのわたしは不要になってしまった」そう言いますと、息子たちに言いました。「そのむかし、わたしは息子がいなかったため、狄青はあれこれと計略を立て、われら一門を殺そうと企んだ。そこで後に鶴に化して家に戻り、姓名を隠し、おまえたち兄弟姉妹を生んだのだ。さいわい今はみなすでに成長した。一つには、朝廷はわが一門を優待されてらっしゃるし、二つには、男児は志を四方に馳せるべきだから、そなたたち兄弟は武勇を奮って、朝廷に報いるべきだ。祖宗の名声を墜とさず、わたしが赫奕たる功業を見ることができるようにすれば、死ぬときも瞑目できるというものだ。こんにち張茂はわが家に人がおらぬと侮り、このように無礼に振る舞っているのだ」そう言いますと、四郎懐玉が告げました。「わたくしは今から張丞相どののもとへゆき、前部先鋒の印を掛けることを求め、朝廷に報いようと思いますが、父上は宜しいと思われましょうか」文広は言いました。「そなたはふだん名が知れていないから、あのものはすぐにその職を授けようとはしないだろう。散騎[4]になって、戦に出たとき、能力があるのを示し、将軍を斬り、旗を奪えば、はじめてかれは任用するのを承知することだろう」懐玉は言いました。「散軍[5]になれば、先祖を辱めることとなりましょう。父上、ご安心ください。わたくしはゆけばおのずと方策がございますから、かならずや先鋒の印を奪いましょう」文広は大いに喜んで言いました。「この子にはいささかの胆略があるから、後日、事業を成し遂げられるかもしれない。行ったらとにかく慎重に行動するのだ。観たところ、張茂は善良な輩ではない」懐玉は言いました。「父上はどうしてそれがお分かりになるのでしょうか」文広は言いました。「わたしの屋敷の前は、聖旨によって、官員たちが来たときは馬から下りることになっているのだ。今、観たところ、あの者は三軍を率いただけで、昂昂として得意になり、みずからを不世出の奇才と思い込んでいる。こたび、わが屋敷の前を通っても、馬から下りぬということは、わが家を侮っているということではなく、朝廷を侮っているということだ。朝廷を侮る者に、狼の心、狗の行いでない者があるだろうか」懐玉ははいと返事をしました。次の日の五鼓、懐玉は父母兄妹に別れ、鎧を纏い、馬に乗り、ただちに張茂の屋敷を訪ねてゆきました。張府の人は、すでに兵を率いて城を出て行ったと言いました。懐玉はすぐに追い掛け、城を出てゆきました。十里の長亭まで追ってゆきますと、役人たちが長亭で張茂のために送別をしておりました。証拠に詩がございます。
山嶽精を儲へ胆気豪んに、旌旗の彩色征袍に映ず。長亭に餞別す行営の処、一剣溟[6]に横たはり涛を息めんと欲す。
さて張茂は兵を率いて汴京を出て、西門から十里の長亭にゆきますと、役人たちが人を遣わしてきて言上しました。「みなさんは官亭[7]で、旦那さまのために餞別をいたしますから、しばしご乗馬をとどめられませ」張茂はすぐに兵士に命じ、官亭の路にしばらくとどまらせ、馬を下り、すぐに亭に入り、役人たちと会いました。挨拶をしますと、役人たちは爵位にしたがって腰掛け、盃を取り、張茂に酒を勧めました。さて懐玉は官亭に追い掛けてゆきますと、兵士たちが大勢道に屯しておりましたので、進み出て尋ねました。「張丞相はどちらにいらっしゃいますか」兵士は言いました。「前方の亭でお酒を召されていらっしゃる」懐玉は言いました。「どうしてお酒を召されているのでございましょう」兵士は言いました。「朝廷の官員たちが丞相さまの送別をしているのだ」懐玉はそれを聴きますと、すぐに官亭のそばにゆき、護衛の兵に言いました。「取り次いでくれ。おもてに一人の将軍が、先鋒の印を掛けることを求めにきておりますと」兵士は怒鳴りました。「何者だ。どのような能力があって先鋒の印を掛けることを求めにきたのだ」懐玉は言いました。「構わないでくれ。取り次げばそれでよいのだ」兵士は返事をせずに唾を吐きました。懐玉は怒鳴りました。「狗めが。わたしは自分で会いにゆこう。そなたが取り次ぐにはおよばぬ」兵士は阻みましたが、懐玉が一人に一拳をお見舞いしますと、散り散りに、頭を抱えて逃げまどいました。懐玉はただちに亭の前に押し入り、跪きました。張茂は尋ねました。「そなたは誰だ。兵士を殴り、宴席に押し入るとは」懐玉は言いました。「それがしは楊文広の四子、名は懐玉というものにございます」張茂は言いました。「ばかを言え。楊文広はむかし鶴に化して昇天していったのに、息子がいるはずがなかろう」懐玉は言いました。「その昔、狄太師がわが父を謀殺しようとしたために、わが父は鶴に化し、家に帰り、名を隠すこと四十余年でございましたが、昨日、丞相さまが兵を率いて出征されたことを聞き、丞相さまをお助けするようとわたしに命じたのでございます。なにとぞご採用ください」張茂は文広がまだ生きていることを聞きますと、神宗がそのことを知り、元帥の印を奪いにこさせることを恐れ、大いに怒って言いました。「主君を欺く賊子めは、死ぬのが当然。死んだと詐り、朝廷に出ず[8]、万の刀で誅されても、罪はなお余りある。明日になったら聖上に上奏し、さきにこの賊を誅して、その後で出征しよう」左右に命じて懐玉を縛らせ、推し出して梟首することにしました。役人たちは宥めました。「丞相さまにはお怒りを鎮められますように。かれが楊府の子弟であるなら、かならずや闘うことに長けておりましょう。陣中に連れてゆき、出陣させ、将軍を捕らえて斬り、功で罪を贖うことができるのならば、かれが死ぬのを許すとしましょう。それができなかったときに、斬っても遅くはございますまい」張茂は言いました。「このものはまさに楊府の子弟であることを恃んで、このようにのさばって、みだりに兵士たちを打ち、陣に押し入り、軍令を犯したのだ。さらにわれらを侮ったのは、まことに許し難いことだから、許してはならぬ」役人たちは懸命に宥めました。「丞相さまが兵を出そうとするときに、真っ先に、本国の人を斬られては、はなはだ不吉な兆しとなってしまいましょう」張茂はそこで言いました。「皆さま方の顔を立て、そなたが死ぬのを免れさせよう」左右に命じて釈放し、陣屋へと連れてゆき、使うことにさせました。役人たちはそれぞれ去ってゆきました。この日、日が暮れますと、張茂は兵士に寨を築いて休むように命じ、翌日、出発することにしました。
さて周王は神宗の実弟で、朝廷に在っては、正直かつ公平でありました。この日、ちょうど西門を出て、狩りをしておりますと、一群の人々が、長く短く溜息をつき、ぺちゃくちゃと喋りながら、やってくるのが見えました。周王が人に命じて呼び寄せて尋ねますと、人々は跪いて言いました。「楊文広は死んだと詐り、家におり、一子を生み、その勇猛さは並ぶものなきありさまにございます。こたび、その子は、張丞相の処へいって、先鋒の印を掛けさせるようにと要求いたしましたが、張丞相は大いに怒り、陣に押し入り、軍令を犯すべきではないと言い、兵士にかれを縛らせて、推し出して斬首しようとしているのでございます」周王はそれを聴きますと大いに驚き、尋ねました。「斬ったのか」その人は言いました。「役人たちが懸命に宥めたために、ようやく赦されたのですが、おそらく人が去ってから、晩に斬られることでしょう」周王は人々を立ち去らせ、心の中で考えました。「張茂は出征することはできないだろう。先日、わたしはすでに聖上に上奏し、別に良将を選んで、兵を率いさせようとしたが、適当な人がいなかった。今、あのものは英雄を募って敵に勝つべきなのに、なぜこのような勇猛の士を斬ろうとするのだ。きっと文広が死んでいないことを聴き、文広がかれの兵権を奪いにくるのを怕れたために、さきにその息子を斬って、明日、さらに文広が死んだと偽り、君を欺いたと上奏し、聖上を激怒させ、文広を斬ろうとしているのであろう。あいつはきっとその積もりなのだ」。そこで慌てて馬に鞭打ち、官亭に看にきました。時はすでに黄昏でした。すると数十人の男が一人の若者を縛り、推し出して斬ろうとしておりました。若者は大声で叫びました。「わたしを斬ろうとしているが、わたしに何の罪があるというのだ」周王は馬を走らせ、進み出て、怒鳴って兵士を追い払い、供の者に命じて縛めを解かせ、尋ねました。「そなたは誰だ。張茂がどうしてそなたを斬るのだ」懐玉は逐一そのわけを告げました。周王は言いました。「そなたはわが家の甥っ子だ。わたしが来なければ、酷い目に遭っていただろう」そこで供の者の馬に懐玉を乗せ、屋敷に連れてゆき、休ませました。
次の日、そのことを神宗に上奏しました。神宗は言いました。「楊府の將がみな勇猛であることは、はっきりとしたことなのに、張卿はなぜ懐玉を用いずに、誅戮しようとしたのだろう」周王は上奏しました。「張茂の心を忖度しますに、陛下は文広が死んでいないことをお知りになれば、文広を召してこられて、張茂に代わって軍を率いさせ、張茂から兵権を奪われることでしょう。それゆえに、張茂はさきに懐玉を斬り、さらに文広が死んだと詐り、出仕せず、主君を欺いたと上奏し、陛下を激怒させ、文広を斬らせようとしたのでございましょう」神宗は言いました。「張茂にさような心があるとは限るまい」周王は言いました。「すぐれた者を妬むのは、人情の常、大抵はかようなものにございます。陛下はどうして信じられないのでしょうか。まもなく張茂が上奏をしにまいりますれば、事情がはっきりいたしましょう」このことはお話しいたしません。
●文広が兵を率いて李王を討つこと
さて張茂はその晩、表を書き、次の朝、さらに参内し、神宗に上奏しました。神宗はその表を御覧にならず、勅旨を伝え、召し入れて尋ねました。「卿は昨日兵を出し、今また上奏しにきたが、何事だ」張茂は言いました。「楊文広は死んだと詐り、君を欺いたのでございますから、斬罪にするべきにございます。楊懐玉はみだりに兵士を殴り、陣に押し入りましたから、やはり死罪とするべきにございます」神宗は言いました。「文広が死んだと詐ったのは、君を欺く罪ではあるが、朕が難儀しているのを聞き、子に力を尽くすように命じた気持は好ましい。重刑を加えれば、天理、人情いずれにも従わぬことになるだろう。懐玉が先鋒の印を求めにきたのは、勇敢で好ましいことだから、卿は任用するべきだ。あのものに罪があっても、陣屋へと連れてゆき、出陣させて、功を立てられなかったら、斬っても遅くはないだろう」張茂は帝にそう言われますと、みずからその非を悟り、跪いて上奏しました。「わたくしは万死に値いたします。元帥の印はお返しし、お受けしようとは思いませぬ」神宗は言いました。「卿が受けても構わないのに、断ってどうするのだ」張茂はさらに断りました。周王は機に乗じてさらに上奏しました。「張丞相が再三受けないのですから、陛下には文広どのを召されて代わりになさりますよう」神宗は上奏を受け入れました。そして勅旨を下して文広を朝廷に召し入れ、兵を率いて蛮族を討たせることにしました。文広は勅旨を受け、自縛して参内し、罪されるのを待ちました。神宗は縛めを解くように命じ、冠帯で昇殿させました。文広は昇殿し、叩頭して聖恩に感謝し、上奏しました。「陛下には命を助けていただきまして、千年忘れはいたしませぬ」神宗は言いました。「今、新羅国は兵を挙げ、辺境をはなはだはげしく侵しているので、特に貴殿を元帥にして、兵を率いて征討をしにゆかせるのだ。誰が先鋒となることができるだろうか」文広は言いました。「臣の子がよろしいでしょう」神宗は言いました。「聞けばそなたは、その昔、蛮族を討ったとき、父子して討ったとか。今日、蛮族を討つときも、やはり父子だ。まさに諺にいう、『陣に臨むに父子の兵に如くものはなし』だな。ただ、そなたは気を付けて兵士を指揮し、朕の命じたことに負かぬようにせよ」文広は勅旨を受け、神宗に別れを告げ、すぐに兵を率いて出発の仕度をしました。証拠に詩がございます。
気は胡羯を呑み忠は日に懸かる、志は山河を定め怒りは天に触る。威は賊徒を制し社鼠を潜ましめ、心は王室を懐ひ狼煙を熄ましむ。
さて文広は元帥の印を受け取り、叩頭して帝に別れ、この日、演武場に出て兵を点呼しました。演武場に着き、腰掛けますと、諸将は文広に謁見しました。挨拶をおえますと、文広は言いました。「これから蛮族を討つが、誰が先鋒の印を掛けるのだ」楊懐玉は進み出て言いました。「わたくしがお受けしたいと思います」まさに掛けようとしますと、人混みの中から一人の男が出てきて、大声で叫びました。「おんみら楊家のものだけが先鋒の印を掛け、わたしのような他姓の者は掛けることができないのか」懐玉は怒鳴りました。「どうして印を争いにきたのだ」その人は笑いながら言いました。「こわっぱはまだこの胡さまの名が分からないのか。それがしは駕上帯刀指揮の胡富だ」懐玉は言いました。「指揮であろうがなかろうが、先鋒の印を掛けようと思うなら、軍前で力比べをせねばならぬぞ」胡富は怒りました。「こわっぱは父の力を恃んでこのわしを侮るつもりか」そこで馬を躍らせ出陣し、懐玉と闘うこと十合、懐玉によって紅綿の套索でその馬を倒されました。胡富が落馬しますと、懐玉はかれを擒にし、その手足を縛り、後ろ手にして、帥字旗の下に引きあげました。そして弓を執り、矢を番え、馬に跳びのり、ほぼ百十余歩走らせますと、振り向いて、叫びました。「中れ」兵士たちは大いに驚き、胡富を射殺すのだと思いましたが、懐玉は後ろ手に縛った縄を射て切ったのでした。胡富が起きあがりますと、懐玉は叫びました。「また力比べをしようか」胡富はただちに演武庁にゆき、文広に会い、言いました。「先鋒の印を若将軍さまに譲りたいと思います」この印は張茂が以前、胡富に掛け、茂が元帥の印を返上したとき、いっしょに返納したものでした。そこで、文広は懐玉に先鋒の印を掛けるように命じ、胡富を副先鋒、公正一郎を掠陣使、唐興二郎を提調使、彩保三郎を監糧使としました。この日、差配がおわりますと、さらに三軍に命じて、明朝、みんなで無佞府の前に赴き、出発するのを待つことにさせました。次の日、文広は夫人たちと別れ、軍を率いて西にむかって進発しました。証拠に詩がございます。
白露霜と為り秋草黄なり、鶏鳴き剣を按じ戎行を事とす。轟轟たる鼙鼓雷霆震へ、燁燁たる旌旗閃電光る。江漢波無く千里静かに、山河道有り万年長し。愧づ予の謬りて三軍の令を窃むを、馬革忘るること毋く朔方に在り。
大軍は数日で甘州に着き、甘州都指揮使鄧海は文広を城に迎え入れ、公館に腰掛けさせました。謁見しますと、文広は尋ねました。「西蛮の賊寇は、今どこに来ているのだ」鄧海は答えました。「賊の勢いは盛んで、すでに莫耶関を打ち破り、今は白馬関に至っております」文広はさらに尋ねました。「ここからどれほどの道のりがある」鄧海は言いました。「わずか三百里の道のりにございます」そう言いますと、たちまち一騎が急報しました。「楊順がまた山を下り、掠奪をしにまいりました。今夜、甘州の街を攻め破ると公言しております」文広は言いました。「これはまた、いかなる賊がやってきたのだ」鄧海は言いました。「静山の強盗にございます。中に二人の男がおり、一人は名を楊順、一人は名を劉青といい、賊の頭となっており、八千の人々を集め、しばしば山を下りてきて、掠奪するのでございます。官兵が捕らえようといたしますと、しばしば殺傷されますので、強盗どもをどうすることもできないのです」懐玉は言いました。「今はどこで掠奪しておる」騎兵は言いました。「今は胡村におりますが、ここからは百里の彼方にございます」懐玉は言いました。「わたくしはまずその賊を擒にし、献じるとしよう」文広は承諾し、兵三千を率いて胡村にゆかせ、捕らえさせることにしました。懐玉は兵を率いてほぼ六七十里進みますと、道を大きな群れ、小さな群れの男女が連れ立ってやってきました。懐玉は兵士に命じて呼び寄せて尋ねますと、かれらは答えました。「静山大王が山から下りて掠奪をしておりますので、われらは城に逃げ込んで、避けるのでございます」懐玉はそれを聴きますと、軍を促して前進させました。一つの山を過ぎますと、旗幟は日を蔽い、喧しさは天を揺るがしておりました。懐玉は賊がやってきたのだと考え、兵士に命じて陣を布き、大砲を放ち、喊声をあげさせました。楊順はそれを見ますと、やはり大砲を放ち、陣を布かせました。懐玉は言いました。「何者だ」楊順は楊家府の将軍であるとは知らず、官軍であると考え、言いました。「そなたは老大王さまの名も知らぬのか。楊順とはそれがしのことだ」懐玉は呵呵と笑いながら言いました。「何が大王だ。あっというまに捕らえてくれば、そなたは小王にもなれまい」楊順は大いに怒って言いました。「このこわっぱはほんとうに大胆だな」槍を突きだし、懐玉を捕らえにきましたが、馬を交えること三合で、懐玉は楊順を擒にし、かれを縛って甘州に戻り、文広にまみえました。文広は推し出して斬るように命じました。楊順は命をお許しくださいと頼み、将軍さまのお側に隨わせてくださいと言いました。懐玉は告げました。「この小盗人は凶悪な禍を為してはおらず、殺しても益はございませぬから、一命を許し、陣頭に留めて使うことにいたしましょう」そこで文広は楊順を釈放し、静山に戻って残党を招集し、白馬関にゆき、待機するように命じました。「今からそなたを釈放するが、邪を棄てて、正に帰さずに、また賊となり、掠奪し、民草を害すれば、わたしはみずから大軍を率いてそなたを捕らえ、屍を粉々に打ち砕こうぞ」楊順は唯唯として退き、静山へ残党を招集するためにいそいで戻ってゆきました。
●公正が先鋒の印を争うこと
さて、公正一郎は懐玉が胡富、楊順を擒にし、陣営の人々が英雄であるといって褒め称えるのを見ますと、ひどく憤り、陣幕に入り、父親に告げました。「四弟は先鋒となり、すでに二人の将軍を擒にしました。わたくしも先鋒となり、賊を捕らえて、功績を立てたいと思います」文広は言いました。「先鋒はとても重要な職だから、子にそれをする力量があるのなら、わたしはとても嬉しいが、そなたには無理だろう」公正は言いました。「父上はなぜわたくしを軽んじられるのでしょうか。先鋒になれないのなら、むりに来て争ったりはいたしませぬ[9]」そこで文広は懐玉を呼び入れ、先鋒の印を公正に掛けさせました。次の日、文広が軍を率いて白馬関めざして進発しますと、たちまち前方から一隊の軍がやってきたという報せがありました。人々が見ますと、それは楊順でした。かれが馬から下りて文広に会いますと、文広はかれに命じて軍を率いて前進させました。大軍が白馬関に着きますと、文広は公館に入って腰掛けました。羅練が謁見しますと、文広は尋ねました。「賊が来て幾日になるのだ」羅練は言いました。「すでに二日になりまする」そう答えますと、騎兵が関の前で賊寇が戦を挑んでいると報せにきました。文広は言いました。「公正は三千の軍を率いて迎え撃つのだ」公正は命令を受けますと、鎧を纏い、関を出て、兵士に陣を布かせました。公正は馬を出して叫びました。「蛮族のかしらは誰だ。はやく出てきて交戦するのだ」蛮陣からは八臂鬼王が進み出て言いました。「賊の都督は誰なのだ。王さまはこわっぱのそなたが誰であるのかをご存知ないのだ」公正は言いました。「統兵征西督理軍政大元帥の子、先鋒の楊公正だ。なんじら蛮人[10]は臣妾の邦[11]であるのに、本分を守ることなく、辺境を侵犯し、このような悖逆の所業をしている。このたびは大兵がやってきたが、前非を悔やみ、鎧を脱いで帰順することができれば、それでよしとし、過日の悪を追究しはせぬ。大きな惑いを解かぬなら、擒にし、都に帰り、頭蓋骨に漆を塗って酒器にして、肉を斬り、塩漬けにするとしよう。痛ましいことではないか。その時は悔いても遅いぞ」八臂鬼王は言いました。「本分を守らないとはどういうことだ。德のある者は盛んになり、德のない者は亡ぶのだ。そなたら宋は、むかしはそれでも、すこしは真っ当であったが、今日は、まことにおかしなありさまだ。奸臣賊子は朝廷に満ち、強い者は、堂々と詔書を矯めて威力を示し、弱い者は、かげで詐称し、悪を欲しいままにしている。朝廷の人々はみな龍の鱗に逆らわず[12]、狗の尾を揺らすありさま[13]。こうして観ると、君主は日々驕り、臣下は日々諂い、国が滅亡しないだけでも幸せというものだ。八臂鬼王がそう言いますと、公正は大いに怒り、槍を突き出して鬼王を捕らえにきました。鬼王はかれと二十合交戦しました。鬼王が敗走しますと、公正は手綱を執って追ってゆきました。鬼王はふたたび数合迎え撃ち、考えました。「負けた振りをし、あの山を回り、鉄弾でこいつを打ち殺す方がよかろう」鬼王はふたたび敗走し、山の隅へ回ってゆきました。公正が追いつきますと、鬼王は弾弓を取り、山の隅に立ちました。公正が隅を回りますと、鬼王はすぐに鉄弾を放ち、公正の右脇に中てました。公正が痛みを負って本陣に戻りますと、鬼王は兵を駆って陣に突進してきました。文広はいそいで懐玉に命じ、馬を出して迎え撃たせました。懐玉は出陣して闘うこと二十余合、鬼王は敗走しましたが、懐玉は追いませんでした。鬼王はふたたび数合戦いましたが、懐玉は鬼王の馬を槍で刺しましたので、鬼王は敗走して陣に戻りました。懐玉はやはり追い掛けず、軍をひいて関に戻りました。
次の日、文広は言いました。「そなたたち若造は役に立たぬな。わしが関を出て捕らえるのを看てみよ」そして大砲が響きますと、文広は関を出て、陣を布き、奉国を呼んで話しました。奉国が陣を出ますと、文広は童顔鶴髪、気魄は雲を凌いでおりましたので、ひそかに溜息をついて言いました。「つねづね楊郎は顔が美しいと聞いていたが、今、見たところ、はたしてその通りであった。年老いてなお、あのような風采であるならば、若い頃は、いかばかり美しかったことだろう」そこでこう言いました。「将軍はもう高齢なのに、こたびは遠く辺疆に出てこられた。一旦不測の事態が起これば、往年の英名は台無しになるというのに、そこまで考え及ばないとは何と愚かなことであろうか」文広は言いました。「忠君報国の丈夫は、馬の革に骸をくるまれ、肝胆が地にまみれるのも辞さないものだ。老いさらばえているものの、このことは断じて忘れぬ。今、おまえたちは叛逆しているから、兵を率いて征討するのは、理の当然で、老いていようと若かろうと関係はない。およそ人臣たるものは、その理を求め尽くすのみ。なんじのような臊羯奴[14]どもには分からぬ」奉国が大いに怒り、まさに馬を出そうとしますと、夏雄が前に進み出て言いました。「都管さまが出陣されることはございませぬ。わたくしが馬を出して捕らえましょう」そう言いますと、馬を走らせ、文広を捕らえにきました。文広は馬に鞭打ち、交戦すること三合、流星鎚を夏雄の脳に中てました。夏雄は脳漿を迸らせ、落馬して死にました。奉国は夏維が死んだのを見ますと、戈を揮って文広を捕らえにきました。文広は戦うこと五十余合、勝負は着きませんでした。文広は突然十余人の文広に変化して、奉国を囲みました。奉国は大いに驚き、考えました。「こいつにもこのようなことができるのか」そこでやはり十余人の奉国に化して交戦しました。三日三晩戦いましたが、勝負は着きませんでした。奉国はひそかに考えました。「迷昏陣を下さねば、かれに勝つことはできまい」そこで呪文を誦え、大喝しますと、天地が暗くなり、日月は光を失い、三軍は逃げまどいました。文広は大いに驚き、すぐさま雲に飛び上がり、陣を回って大声で叫びました。「兵士よ、動くな。みな立っていろ。敵であろうが、味方であろうが、進み出てきた者はすぐに斬る」奉国は軍を駆り、陣に入って斬らせましたが、一隊は入ってゆきますと、出てこず、さらに一隊を促して入ってゆかせますと、やはりみな殺されて、一兵も戻ってきませんでした。奉国は言いました。「今度は敵にたばかられてしまったわい。考えてみると、この地で敵に惑わされては、十日足らずでみんな餓死してしまうから、兵を戦わせることはない」そして軍をひき、寨に戻ってゆきました。
文広は雲を飛ばして行ったり来たりしておりましたが、溜息をついて言いました。「あの畜生は迷昏陣を布いたから、兵士たちを救い出すことはできまい。もし十日惑わされれば、みなここで餓死するだろう」心は焦り、左に飛び、右に飛びして、楊順の頭上に飛んでゆきますと、楊順は一人ごちておりました。「わたしの山の後ろには庵があり、庵の前には井戸がある。庵の中には太虚と号する道人がおり、つねにわたしにこう言っている。『大王さまが戦われ、敵に迷昏陣を布かれましたら、この井戸の水を取って注げば、たちまち陣は解けるましょう』想うにこの陣は迷昏陣ではあるまいか。人をあちらに行かせ、水を取ってきて注げば、解くことができるかも知れない」そこで文広は降りてゆき、言いました。「楊順よ、わたしに手出しをしてはならぬ。わたしは文広だ。今、雲の上でそなたが話すのを聴いたが、どこにこの陣を解くことができる水があるのだ」楊順は事情を告げました。「わたしがゆけば、すぐに取ってまいりましょう」文広は言いました。「これは難しいことではない。そなたはわたしの体に伏せて、場所が見えたら、すぐさま降りて、取るとしよう」そこで楊順は文広の背中に伏せ、ひらりと空中に飛び上がりました。ぐるぐる回りますと、楊順は言いました。「こちらにございます」そこで文広は下りて水を取り、言いました。「ふたたびわたしの背中に伏せて、陣に着いたら水を周囲に撒いてくれ」文広は飛んで戻り、陣の周りを翔びました。楊順が水を周囲に撒きますと、たちまち天気は清朗となり、白日が空に現れました。文広は下りますと、軍をひき、関に入りました。兵士たちはみな陣幕の中にゆき、叩頭し、言いました。「文広さまに救っていただきました。まるで命の恩人にございます」そのことはお話しいたしません。
さて奉国は軍をひき、点呼しますと二万人が失われておりましたので、言いました。「死者は生き返ることはできないが、その姓名を記録し、天下を取ったら、手厚く封贈を加えよう」そして宴席を設け、諸将を持て成し、楽を奏でさせて酒を飲みました。つづけて三日飲み、人を遣わして宋の陣の動静を探らせますと、陣には一兵もおりませんでした。兵が奉国に報告しますと、奉国は驚いて言いました。「どうしてかれらに陣を解かれてしまったのだろう」間者を遣わして消息を探らせますと、静山にゆき、井戸水を取り、解いたのだということでした。奉国は言いました。「おまえたち兵士はけっしてみだりに動くな。わたしは水を悪くしてこよう」そして一人の道士になり、静山へゆきました。たまたま庵の前にゆきますと、庵の入り口に「奉国庵」の三文字が書いてありました。奉国は言いました。「この庵はわたしと同名だ」中に入って、叫びました。「師父はいらっしゃいますか」すると一人の道童が出てきて、答えました。「師父はさきほど薬草を採りに出てゆきました」そして尋ねました。「仙長[15]はどちらのお方でしょうか。ご姓とお名は」奉国は言いました。「わたくしは終南に住み、別号は古虚ともうします」道童は言いました。「わたくしの師は太虚といい、仙長は古虚とおっしゃいます。太、古の違いはございますが、下はともに虚に帰するというわけですね。こうして観ますと、世の万物に、虚でないものはございませぬ。虚の真を見、虚の精を得るというのが、仙長の号にございましょう。[16]古虚は笑いながら言いました。「子供なのにこのようなことを知っているなら、道を授けることができますね」そして尋ねました。「この庵はなぜ奉国というのでしょうか」道童は言いました。「朝廷の勅命を奉じて建てたものだからです」古虚は言いました。「この山中によい井戸はありますか」道童は言いました。「前方に一つの井戸があり、その水にすこしすぐれた作用があります。人が幽霊に魘されたり、符咒によって、魂がぼんやりしたとき、この水を撒くだけで、すぐに解けるのでございます」古虚は言いました。「わたくしはたまたま気分がすぐれないので、すこし飲みにゆきましょう。そして井戸端へ往って看ますと、はたして良い井戸水でした。証拠に詩がございます。
千年孤鏡碧く、一片遠天青し。淡味諳嘗して飽き、昏迷解きて醒めしむ。
●八臂鬼王が井戸水を悪くすること
さて道童は、この井戸水が、符咒や幽霊に魘されるのを解くことができると言いました。古虚はそれを聴きますと、文広が取ったのはきっとこの水であると考え、さらに尋ねました。「この山はこの井戸の水だけが良く、ほかにはもうないのか」道童は言いました。「ほかにはもう良い水はございませぬ」そこで古虚は嘘をつきました。「わたしは今日、心がぼんやりしておりますが、この水でも治療することができるでしょう。わたくしを案内し、少々飲みにゆかせてください」道童は言いました。「前方の大きな松の樹の下でございます」古虚は道童に別れ、ただちに井戸端にゆきました。見れば澄澄として底まで清らかでしたので、中に大小便をし、さらに指で水面に符を描き、大喝しますと、井戸水は沸きかえり、どす黒くなりました。そこで身を躍らせ、飛んで本営に戻り、三軍に命令を下し、進んで白馬関を囲ませました。
文広は関で兵を進める策を相談している最中でしたが、たちまち八臂鬼王が兵を率いて関を囲んでいるという報せがありました。文広はいそいで懐玉に命じ、関を出て敵を迎えさせました。懐玉が命を受け、軍を率いて関を出ますと、たちまち狂風がはげしく吹き、砂が飛び、石が走り、天地は真っ暗、ふたたび先日のようになりました。懐玉はいそいで軍をひき、関に入り、文広に告げました。文広は言いました。「あの鬼王はとても憎らしい。わたしは雲に飛び上がり、看るとしよう」文広は様子を看ますと、下りてきて諸将に言いました。「どうしたらいいだろう。かれは四つの門に絶路符、迷昏咒を書き、兵が出れば、狂風がはげしく吹き、砂が飛び、石が走るようにしているのだ。今、考えるに、人を遣わし、朝廷に上奏し、さらに手紙を一通書いて、宣娘姉じゃと魏化をいっしょに来させれば、はじめて賊を捕らえることができるだろう」懐玉は言いました。「この関からどうして出てゆくことができましょう」文広は言いました。「このわしがゆくしかあるまい」兵士たちは哭きながら言いました。「文広さまが去られれば、陣中に主がいなくなってしまいます。鬼王がそれを知れば、この関の兵士はすべて首のない幽霊になってしまいます」楊順は言いました。「元帥さまがふたたび静山へとゆかれ、水を取り、陣を解かれたほうが、援軍を得るよりも手っ取り早いことでしょう」文広はその言葉に従い、奉国庵の前へ飛んでゆき、水を取ることにしました。するとその水は澄んでいた先日と違い、どす黒くなっておりました。文広は仕方なくそれを取り、戻ってゆき、撒くことにしましたが、軍人の体に一滴撒いただけで、たちまち膿血と化しました。文広は大いに驚きましたが、幾千人を傷つけてしまっていました。
さて文広はもともと仙丹を呑んでおりましたので、その水がかれの体に零れても、変化はありませんでした。文広は言いました。「鬼王が消息を知り、毒薬を入れたのだろう」懐玉は言いました。「きっとそうでしょう。父上はわたしを連れて、関からお出しくださいまし。わたしは徹夜で汴京に戻り、兵を得て、救いにまいるといたしましょう」文広は言いました。「そなたが行ってしまったら、陣頭で戦う者がいなくなってしまう」懐玉は言いました。「道中も力量のある者がゆく必要がございましょう」胡富が進み出て言いました。「わたくしがゆきたいと思います」文広は言いました。「そなたがゆこうとするのはとても良いことだ」そして表と家への手紙を書き、胡富に渡し、自分の背に伏せるように命じ、立ち上がり、一跳びしますと、白馬関の外に飛び出しました。さらに公文を胡富に与え、言いました。「この公文を持ち、甘州の鄧海に会い、馬を貰って、徹夜で上京するがよい。はやく行き、はやく戻って、軍務を遅らせてはならぬ」そう言いますと、関に飛び込んでゆきました。
胡富は甘州にゆき、鄧海に会い、馬を貰いますと、汴京めざして進みました。数日で都に着き、張茂の屋敷の前にゆきますと、こう考えました。「張さまは、その昔、わたしを先鋒にされた恩人だ。今日、ここにやってきたのに、挨拶をしにゆかないならば、明日、そのことを知られたときに、穏やかならぬことになる」そこで馬から下りて屋敷に入りました。挨拶をしますと、張茂は尋ねました。「辺境の情況はどうなっておる」胡富は言いました。「楊元帥は鬼王に白馬関で囲まれ、こたび、わたしを遣わして、援軍を得るために戻ってこさせたのでございます」張茂は言いました。「あの老いぼれは、有能であることをひけらかしていたが、今日はやはり負けてしまった」そこで尋ねました。「上奏文はあるか」胡富は言いました。「ございます」張茂は言いました。「家への手紙はあるか」胡富は考えました。「張茂さまは理由がないのに、家への手紙のことを質問されているのは、きっと何かの悪意を持っているのだろう。隠してごまかす方がよかろう」そこで答えました。「家への手紙はございませぬ」張茂は人に命じて手紙を捜し出させますと、手に執って胡富に言いました。「わたしのために仕事をすれば、すぐにそなたを推薦し、護駕大将軍にしていただこう」胡富は言いました。「張茂さま、いかなるご用にございましょう」張茂は言いました。「わたしは今からあの老いぼれの手紙を隠し、偽手紙を書き、あのものが李高材に降伏し、家族を連れ戻すようにとそなたに命じたと言うのだ。そなたは忠心をもって国に報い、朝廷に背こうと思わないので、この手紙を進上したと申すのだ」胡富は言いました。「さようなことはできませぬ。周王はとても恐ろしく、わたくしの九族はみな連座して誅されましょう」張茂は大いに罵りました。「恩義を知らぬ悪党め。周王は九族を誅することができるが、わしはそなたの九族を誅することができないと申すのか」左右に命じて捕らえさせ、きつく縛り、銅の鎚で寸刻みにし、肉味噌にすると言いました。胡富は人々に縛られますと、痛みに耐えられず、叫びました。「張茂さま、命をお助けくださいまし。わたくしはすべて従いましょう」張茂は大いに喜び、人々に命じて縛めを解かせ、胡富を釈放しました。胡富は言いました。「帝に上奏された後、周王がわたくしに罪を加えようとしましたら、なにとぞお味方くださりますよう」張茂は言いました。「それはわたしが引き受けた[17]。ねんごろに頼むことはない」胡富に酒食を与え、いっしょに朝廷に入って上奏しました。「楊文広は、西蛮国の八臂鬼王に、迷昏陣を布かれ、生け捕ってゆかれたために、兵たちはことごとく李王に投降いたしました。こたび、楊文広は、胡富をひそかに戻らせて、家族を連れてゆこうといたしましたが、胡富は国に背こうとはせずに、このことを臣に告げたのでございます。臣は隠そうとせずに、特に陛下に上奏し、お知らせ申しあげまする。現に家への手紙がこちらにございます。龍眼を開かれてご覧になれば、事情がお分かりになりましょう」神宗は手紙を広げてそれを見ますと、大いに怒って言いました。「朕はあのものを酷い目に遭わせたことはないのに、かような心を抱くとは。たとい擒にされたとしても、殉節すべきだ。かれら一家を誅戮せねば、後人を戒めることはできまい」そこで金瓜を持った兵士五六百人に命を下して無佞府にゆかせ、老若男女を問わずすべて捕縛し、法曹に護送し、梟首して人々に示すことにしました。兵士は勅旨を受けますと去ってゆきました。
●周王が計を設けて胡富を騙すこと
さて周王は楊府の家族が捕らえられたことを知りますと、大いに驚き、あわてて御前に進み出て尋ねました。「聖上はなぜ楊門の老若をことごとく棄市されるのでございましょう」神宗は言いました。「卿は知らないのだろうが、こたび、楊文広がかくかくしかじかしたのだ」さらに家への手紙を周王に示しました。周王は言いました。「この手紙をどちらで手に入れられたのでしょう」神宗は言いました。「文広は胡富を遣わし、家族を迎えにこさせたが、胡富は朕に反しようとせず、この手紙を張茂に渡し、張茂はさきほど上奏し、朕に知らせたのだ」周王は言いました。「これは偽の手紙にございます」神宗は言いました。「卿はなぜ偽であると考えるのだ」周王は言いました。「陛下には胡富を召されて昇殿させ訊問されれば、事情がお分かりになりましょう」神宗は勅旨を下し、胡富を召して昇殿させました。胡富が昇殿しますと、周王は尋ねました。「楊文広父子は叛逆したのか」胡富はおびえて戦戦兢兢、周王の言葉の通りに言いました。「叛逆いたしました」周王はさらに言いました。「ほんとうに叛逆したのか」胡富も言いました。「ほんとうに叛逆いたしました」周王は笑いながら言いました。「陛下、この話は偽りにございましょう」張茂は周王が殿上で胡富を訊問しているのを見ますと、事が漏れるのを恐れ、慌てて昇殿して上奏しました。「辺境からの報せでは、西賊の侵寇がはなはだ急であるとのことにございますから、陛下にはふたたび良将を選ばれ、兵を率いて西賊を討たれますよう」周王は言いました。「誰が辺境の情況をかようにすぐに報せにきたのだ」張茂は言いました。「殿下は楊文広どのがすでに擒にされたのをご存じないのでございます。今、胡富がこちらにいることが証拠となりましょう」周王は胡富を指さして言いました。「おとなしく正直に話すのだ」胡富が張茂を見ますと、張茂も目で合図しました。そこで胡富は言いました。「楊家の父子は、かくかくしかじかいたしました」周王は言いました。「わたしは信じぬ。戦に敗れ、楊家の父子が叛逆したのに、一兵卒も汴京に逃げ戻り、そのことを話しにこないはずがあろうか」張茂は言いました。「全軍はみな暗闇に惑わされ、ことごとく降伏したのでございます」そう言いますと、たちまち侍臣が上奏しました。「楊府の一家を捕縛いたしました。午門でご沙汰を待っております」周王は上奏を聴きますと、声を励まして言いました。「そなたら二人は以前の怨みを挟むな。理由がないのに人の命を葬り去るのは、耐え難い濡れ衣だ。『天網恢恢、疏にして漏らさず』ともうすぞ」そこで跪いて上奏しました。「陛下にはご判断をなさってください。これは小さな問題ではございませぬ。楊文広らが投降をしていないのに、陛下がかれの家族を斬られ、消息が辺関に伝われば、楊家の父子は激怒して、江山を安穏に保つことはできますまい」神宗は言いました。「この件を卿はどのように処置するべきであるというのだ」周王は言いました。「臣の考えでは、ひとまず楊家の老若を屋敷に戻し、臣が胡富を連れ帰り、訊問するといたしましょう。それでも白状せぬ時は、徹夜で人を遣わして、白馬関にゆき、様子を探らせ、文広が叛逆したのであるならば、その時ふたたび家族を捕らえ、斬ることといたしましょう。それに、かれの家族は籠の中の鳥にございますから、捉えることは難しくないことでしょう」神宗は言いました。「卿の上奏に従おう」そして、命令を下し、楊家の老若を釈放させました。
周王は胡富を連れて屋敷に戻り、腰掛けますと、胡富を呼び、言いました。「正直に白状すれば、刑具を受けるのを免れさせてやろう。さもなければ、打ち殺すことにしようぞ」胡富は白状しませんでした。周王は左右に命じて二十回厳重に責めましたが、胡富は白状しようとはしませんでした。周王は獄に送って監禁しますと、さらに一計を案じ、獄官を呼び、こう言いました。「しばらくしたら、かくかくしかじかするのだ」この日の夕方、胡富が獄中におりますと、人々が三々五々「濡れ衣だ」と言っておりました。胡富は尋ねました。「どうしたのだ」人々は言いました。「楊府のことにございます。あなたが獄に入れられますと、突然一人の男が白馬関から戻ってきて、楊家の父子は鬼王に投降し、鬼王は兵を率いて甘州をとてもはげしく攻めていると言いました。張茂の手下はそれを聴きますと、男を捉えて張茂に見え、張茂丞相は男を連れて、天子さまに上奏しました。天子さまは大いに怒られ、周王を悪に与した賊と罵り、周王は脅え、これ以上、楊家のことを取り成そうとはしておりませぬ。このことは真か嘘かは存じませぬ[18]。張茂は帝に、すみやかに楊府の家族を捕らえて棄市し、朝廷に背いた罪を明らかにするように上奏をしております。帝は、すぐに仕置場に連れてきて斬るように命令を下されました。張丞相はさらに帝に、あなたを釈放するように上奏し、帝は上奏を受け入れました。ただ周王は、あなたを縛って仕置場にゆかせ、今晩を過ごさせて、明日になったら釈放しようとしております」そう言いますと、門の外で人が張丞相の使者が来たことを報せました。獄官はいそいでその人を迎え入れました。その人は尋ねました。「胡将軍はいずこにいらっしゃる」獄官は言いました。「奥の監獄にいらっしゃいます」その人は言いました。「張さまは、朝廷に、あのかたを釈放するようにと上奏されたのに、どうして今も、厳重な監獄に置かれているのだ」獄官は言いました。「存じませぬ。周王さまは人を遣わし、厳重な監獄に送るよう、言い含めさせたのでございます」その人は言いました。「行って胡将軍を呼び出してくるのだ。あのかたに一言話があるからな」獄官はいそいで門を開け、胡富を出しました。男は言いました。「おまえたちは、ひとまず下がれ」獄官は何度もはいと言い、退きました。その男は小声で胡富の耳元に言いました。「丞相さまは将軍さまにくれぐれも宜しくと仰いました。あのかたは、聖上に、将軍さまを釈放するよう、上奏をなさいましたが、周王はさらに丞相に将軍さまを縛って仕置場へとゆかせ、今晩を過ごさせて、明日になったら釈放しようと言いました。丞相さまはお尋ねになりました。『それはどういうことなのだ』周王は言いました。『禍をあのものが起こしたからにございます』丞相さまは周王が金枝玉葉[19]であるために、ご承諾されました。丞相さまは、それゆえに、わたしを遣わされ、将軍さまにお話しにこさせたのでございます。周王が今晩また来て、拷問をしましても、かたくなにおんみの罪を認められてはなりませぬ。帝はすでにおんみを釈放されてらっしゃるのですから、周王もきびしく拷問しようとはいたしますまい。丞相さまはさらにこう仰いました。仕置場にゆかれ、幽霊が来ましたら、明日、丞相さまが盛大に法事をし、済度なさると。将軍さまは細心になさってください。苦しまれるのも今晩だけで、明日はすぐに楽しみを得られましょうぞ」胡富は言いました。「丞相さまのご庇護に感謝いたします」その人は別れてゆきました。
さて周王はさきに人を遣わして、四五十の棺を担いで仕置場に置かせ、棺蓋を取り、人に命じて中に寝かせ、胡富が来たときは幽霊の叫ぶまねをし、かれに命を求めるようにさせました。さらに豚の血を仕置場に零させ、胡富が来たときに人の血であると思わせるようにしました。指示がおわりますと、周王は人を獄にゆかせ、胡富を縛って仕置場にゆかせました。使者は灯りを持ち上げて、明るく照らして胡富に看せ、こう言いました。「ずいぶんひどく斬ったものだな。これはみな血だ」胡富は多くの棺を見ますと、尋ねました。「多くの棺がここにありますが、どうしたのでしょう」使者は言いました。「周王さまは楊家の人々をこちらへと送ってこられ、一人斬るごとに、棺に入れ、屍を放置せぬようにさせたのだ。文広は投降していないのかも知れぬから、かれが戻ってきたとしても話しがしやすいようにしてあるのだ」そう言いますと、胡富を木の柱に後ろ手に縛りました。使者は言いました。「疚しいことをしたのだから、こちらで苦しみを受けるがよい。わたしは知らんぞ」そして灯りを持って戻っていってしまいました。夜、三更になりますと、あちこちの棺の中で悲鳴が上がり、一つの棺の死体ががばっと起きあがりますと、言いました。「胡富よ、この悪党め。わが家は反逆しておらず、そなたを戻らせ、援軍を得ようとしただけであるのに、なにゆえに悪意を起こし、われら一家の命を陷れたのだ。おとなしくわたしの命を返してくれ」胡富は言いました。「わたしとは関わりはない。すべては張丞相さまがこのようにさせたのだ。わたしはかたくなに承知しようとしなかったのだが、あのものは家僕を呼んできつく縛り、銅の鎚でわたしを打ち殺そうとしたのだ。こたびは不当におまえの一門を殺したが、張丞相さまは明日、盛大に法事を行ない、おまえたちを済度されると仰っていた」そう言いますと、その幽霊は宣姑娘や鮑奶奶などの人々を呼び、進み出させて、この賊をひねり殺そうとしました。たちまち三四の棺の死体がみな起きあがりましたので、胡富は脅えて大声で叫びました。「幽霊だ、幽霊だ」附近の住民はあわてて起きて、尋ねました。「何を叫んでらっしゃるのです」胡富は言いました。「たくさんの幽霊が来たのです。おんみが出てこられなければ、わたくしの魂はむざむざと奪われていたことでしょう」中の一人が言いました。「常日頃、眉を顰めるようなことをしていなければ、真夜中に神さまが叫んでも、心は驚かないものにございます。あなたが楊家府の人々を陥れていないのならば、敵ではないのですから、かれらはあなたを訪ねてこないでしょう。かれらの幽霊が来るのを怖がられることはございますまい」胡富は住民だと思い、周王がひそかに手元に置いている人であることに気付きませんでした[20]。胡富はかれと夜明けまで話したくてたまらず、こう言いました。「ゆっくりとわたしの話をお聴きください。この冤罪事件は、わたしとは関わりがないのです」その人は言いました。「どうしてあなたと関わりがないのでしょうか。それに、楊家の父子はいずれも智謀の人であるのに、どうしてみんな鬼王に捉えられたのでしょうか」胡富は援軍を得ようとしたときに、張茂が謀殺しようとしたことをくわしく話しました。すると周王が出てきて、言いました。「わが子よ[21]。はやくそのことを申しておれば、たくさんの苦しみを受けなくてすんだのだ」そして縛めを解き、屋敷へ連れ帰ってゆきました。
さて周王は胡富の実情を聞き出しますと、次の日、すぐに無佞府にゆき、そのことを知らせました。夫人たちはみな出てきて、命を助けられた恩へのお礼を述べました。周王は言いました。「楊元帥は白馬関で囲まれて、はなはだ危険が逼っているので、今朝、すぐに聖上に上奏し、兵を発して救いにゆくことにしました。ただ、思えば八臂鬼王は変化することができ、朝廷にあのような神人に敵うものはおりませぬので、さきに来てご夫人たちと相談するのでございます。昔、尊府は優れた女将を出されましたが、今でもいらっしゃいましょうか。ご夫人が仰ってくだされば、わたしはすぐに聖上に上奏し、勅令により、兵を率いて前進し、囲みを解こうと思います」夫人たちは答えました。「先日、宋に背いたということを聞きましたので、すぐさま魏化を遣わして、情況を看にゆかせました。殿下にはしばらく腰を掛けてらっしゃいますように。きっと今日、来ることでしょう。さきほどは女将のことをお尋ねになられましたが、屋敷には、幾人かの婦人がいるものの、出陣、出征したものはおりませぬから、ゆくことはできないでしょう。しばらくしたら問いただし、すぐに復命いたしましょう。[22]」そのことはお話しいたしません。
さて楊文広は胡富が都に戻ったものの、ながいこと音信がないので、悶々として楽しみませんでした。劉青は申し上げました。「わたくしが狗に変わって出ていって、火を放ち、賊の糧秣を焼き、兵を得てきて囲みを解こうと思います」文広は承諾しました。劉青は身を揺すり、一匹の黑狗に変わり、頭や尾を振り振り、賊の囲みを出ましたが、西賊はみな気が付きませんでした。劉青が蛮人の糧秣のある処へゆき、石を打ち、火を取り、賊の糧秣を焼きますと、火焰は天に漲りました。文広らはみな城に上ってそれを眺め、劉青が賊の囲みを出たことを知りました。劉青が糧秣を焼き、徹夜で無佞府に戻りますと、周王と夫人たちは軍情を議論しているところでしたので、すぐに進み出て言上しました。「わたくしは劉青にございます。楊元帥さまが白馬関で包囲されたため、援軍を得るために、只今戻ってまいりました」そう言いますと、たちまち魏化が飛んできて庭に止まりました。周王は驚いて言いました。「どうして天から降りてきたのだ」夫人たちは笑いながら言いました。「殿下はご存じなかったのですか。このものは、そのむかし、鴉に化して昇天しました、魏化にございます」周王は何度も溜息をつき、こう尋ねました。「辺境の情況はどうなっておる」魏化は言いました。「楊元帥は白馬関で囲まれて、朝廷の援軍を望まれるありさまは、嬰児が乳を待つかのようにございます」周王は言いました。「わたしは聖上に上奏し、一人の監軍を置くとしよう。そなたの家では統軍を一人選ぶのだ。ぐずぐずとしてはならぬぞ」周王は別れ、胡富を訊問したことと、魏化が白馬関にゆき、様子を探ったことなどを、すべて神宗に上奏しました。神宗は大いに怒り、胡富を遼東口外軍に左遷し、張茂を罷免して庶民にしました。周王はさらに上奏しました。「楊元帥はながいこと囲まれておりますので、陛下には早急に将軍を遣わして救われますよう」神宗は言いました。「誰が兵を率いて進むことができるか」周王は言いました。「殿前検点の孫立が、監軍となることができましょう。統軍正帥はやはり楊府で一人を選んでさせましょう」神宗は上奏を受け入れ、孫立に命令を下して監軍にし、軍五万を率い、白馬関にゆき、救援させましたが、そのことはお話しいたしません。
さて周王が去りますと、夫人たちは一門の婦人を呼んで言いました。「旦那さまは、白馬関で囲まれているが、誰が兵を率いて救いにゆくことができるか」杜氏夫人[23]が生んだ娘は、名を満堂春といいましたが、進み出て言いました。「わたくしが兵を率いてお救いしたいと思います」宣娘は傍らで言いました。「そなたにどんな力があって、囲みを解きにゆくのだえ」満堂春は言いました。「わたくしの手並みはよいのに、おばさまはどうしてわたしを侮られるのでございましょう」宣娘は言いました。「昔、そなたの父上が柳州で囲まれたとき、おばさんはそなたぐらいの年令で、救援にいったのだが、わたしはそなたが若いので、救いにゆけないことを恐れているのだよ」満堂春は言いました。「わたくしはゆくことができますから、おばさまはあまりご心配なさりませぬよう」宣娘は言いました。「大層なことを言うものだ。おばさんは老いてはいるが、そなたが槍を取ってくれば、力比べをしてみよう」満堂春は欣然として槍を執り、すぐさま後花園にゆき、雕鞍に跨り、宣娘を待ちました。宣娘はゆっくりと後からやってきました。二騎は交わること数合、勝負はつきませんでした。宣娘は槍を停めますと、満堂春を諭しました。「そなたは槍の使い方がなかなか良いが、ただ銀色の槍がきらきらとするのには慣れていない[24]。これでは人を防ぐことができるだけで、人を捕らえることはできない。慣れてくれば、人を捕らえることができよう」満堂春は言いました。「お教えありがとうございます」宣娘は言いました。「もう一度試すとしよう」満堂春は言いました。「お教えは素晴らしゅうございました」宣娘はふたたび数合馬を交えますと、呪文を誦えました。すると、たちまち天地が暗くなり、宣娘は中空に飛び上がりました。満堂春も雲に飛び込み、大喝しますと、日はまた明るくなりました。そこで宣娘は下に降り、庭に立ち、満堂春もあとから飛んできて庭に止まりました。宣娘は何度も叫びました。「ゆくことができるだろう。ゆくことができるだろう」時に木夫人はすでに亡くなっていましたが、魏老夫人はまだ生きておりましたので、宣娘は魏太太を呼び出して、言いました。「今、朝廷は讒言を信じ、わが家を憐れもうとせず、ともすれば一家を斬ろうとしておりますから、朝廷の兵を率いることはございませぬ。わたしはこたび郎党を集め、満堂春、鄒夫人、孟四嫂、董夫人、周氏女、楊秋菊、耿氏女、馬夫人、白夫人、劉八姐、殷九娘および魏化、劉青らとともに、弟を救いにいってまいります」これら十二人の婦人はすべて寡婦でした。魏太太は言いました。「それはきわめてよいことだ」そこで郎党二千余りを点呼しますと、宣娘は諸軍に号令し、大砲を放ち、白馬関めざして進発しました。すると突然、周王が軍を率いてきて、馬上で叫びました。「どちらのご婦人が兵を出されていらっしゃるのか。どうして朝廷に入られ、兵士を授かって進まれぬのか」宣娘も馬上でお辞儀をしますと言いました。「軍服を着ておりますので、馬から下りてご挨拶することが叶いませぬが、殿下にはわたくしの死罪をお恕しくださいますよう。昨今、主上は讒言を信じられ、先日は一門のものたちを縛られて、朝廷に入れ、たいへん辱しめられました。朝廷に入り、兵士を授かりますことは面目ないことにございます。ですからわが郎党を率い、賊どもを斬りにゆくのでございます」周王は言いました。「臣下が主君に仕えるときは、その道を尽くすしかございませぬ。小さな怒りは気にしてはなりませぬ。こたびわたしは聖上に上奏し、孫立に監軍となるように命じましたから、おんみらのうち一人が正統軍となり、軍五万を率い、救援しにゆかれてくだされ。今、わたくしは孫立と兵士らを率いてここに来ましたから、いっしょに出発いたしましょうぞ」宣娘は言いました。「殿下からご厚意を受けましたから、後日、一家は犬馬に倣って、ご恩返しをいたしましょう。孫将軍がご同行くださるのなら、わたくしの号令に従うべきにございます。さもなければ、敵に勝つことはできませぬ」孫立は言いました。「軍令に従いたいと思います」宣娘はそこで周王に揖をして馬を返し、軍を促して前進しました。証拠に詩がございます。
十二孀人出でて戎を事とし、腰に龍剣を懸け雌雄を識らんや。風雲陣に入り神鬼を驚かし、関塞の臊塵一掃せられて空し。
数日足らずで、宣娘は軍を率いて甘州に着きました。
さて張奉国は文広を囲み、一月ちかくなりましたが、大宋は兵を発して救いにきませんでしたので、李王天子に上奏しました。「今、文広は白馬関で囲まれて、出ることはできないでしょう。陛下には、人を遣わし、兵を率いて甘州を攻撃させてくださりますよう。甘州を得れば、宋の咽喉[25]は破れましょう。ここから汴京にゆくには、堅固な関所はございませぬから、汴京は手に唾して得ることができましょう。汴京を得れば、文広は孤立無援でここにいることとなり、たとい餓死しなくとも、生きることはできないでしょう」李王は上奏を見ますと、大いに喜んで言いました。「卿は誰に命じて軍を率いて進ませるのかを申してみよ」張奉国は言いました。「臣の妻管氏は兵を率いて進むことができましょう」李王は管三娘に命じ、軍二万を率いて進み、甘州を攻撃させることにしました。管三娘は勅旨を受けますと、軍を率いて甘州めざして進発しました。まさに進んでおりますと、前軍が報告するに、宋が一隊の兵馬を発してきたとのことでした。管三娘はそれを聞きますと、兵士に陣を布かせました。宣娘も兵士に命じて陣を布かせ、満堂春を出陣させました。満堂春は命令を受け、馬を走らせて進み出ますと、尋ねました。「来た者は誰だ」管三娘は言いました。「わたしは新羅国部都管張行営の妻、管三娘だ」そう言いますと、尋ねました。「そなたは誰だ」満堂春は言いました。「わたしは大宋の、蛮族を討った楊元之の娘、満堂春だ」管三娘は言いました。「そなたの父は今では餓鬼となってしまった。なにゆえ今なお事情を悟らず、兵を興して軍に抵抗しようとするのだ。すこし交戦しただけで、捕まえられてしまうだろう。年若い娘が、首のない幽鬼になるとは、憐れなことだ」満堂春は大いに怒り、槍を突き出して管三娘を捕らえにきました。三娘も馬に鞭打ち、刀を揮って迎え撃ち、闘うこと五十合、勝負はつきませんでした。三娘は刀を揮って満堂春を斬りにきました。満堂春は弓を取り、矢を番え、三娘の刀を射落とし、さらに矢を取り、弓に番えて、三娘を射ました。三娘は刀を揮って、矢を断ち切りました。満堂春は言いました。「このあばずれは手並みがなかなか優れている」そこで呪文を誦えますと、あっというまに真っ暗になりましたので、兵士らは逃げまどい、その陣は大いに乱れました。満堂春は兵士が混乱したのを見ますと、上に向かって大喝しました。すると朗然と日が出ましたので、槍を突き出して三娘を捕らえにゆきました。三娘は恐れ、馬を返して逃げました。すると突然、面前にさらに一人の満堂春があらわれました。三娘は驚いて為す術もなく、満堂春に槍で刺されて馬から落ちました。満堂春は馬から跳び下りてきて、三娘の首級を斬り、持ってゆき、宣娘にまみえました。宣娘は言いました。「そなたの最初の功績だ」そして軍を促して前進させ、白馬関から十里のところに駐屯させました。次の日、宣娘は軍議し、魏化を呼び、言いました。「そなたは城に入っていって、わたしの弟に報せ、明日兵を出して交戦させるのだ。兵士は頭を黄色い布で包み、きちんと仕度し、四つの門で太鼓を敲いて喊声をあげるのだ。十回そのようにしたあと、空に角笛が三度響いたら、四つの門を大きく開き、どっと押し出し、ぐずぐずとしてはならぬぞ。はやく行き、はやく戻ってくるがよい」
魏化が命令を受け、城に飛び込んでゆき、帳の前に止まりますと、文広は鬚を扱いて詩を吟じておりました。証拠に詩がございます。
威は辺関を鎮め独り名を擅にし、荊楚を激揚して鬼神驚く。遥かに白璧[26]の朝に還ること重ねてせんことを思ひ、誰か黄金博帯[27]の横なるの為にせん。月は羅浮[28]を照らし炎瘴滅し、風は海島を行き蜃煙清し。家山咫尺にして人千里、翹翹依依として嶺雲を望む。
文広が詩を吟じておりますと、魏化が帳の前に下りてきて、言いました。「元帥さまは、危険な地にいてもなお吟詠し、楽しんでらっしゃいますが、これが人情にございましょうか」文広は言いました。「身は危険の中にあるが、わたしの心は危険の外に遊んでいるから、故郷を離れているために挫かれることはなく、その中にさえ楽しみがあるのだ。このような情況には、わたしだけが身を置くことができるのだ。他人ならとても憂えることであろう」そしてさらに尋ねました。「今、誰が兵を率いて救援しにきているのだ」魏化は言いました。「宣娘さまが三軍を率いてこられ、今、すでに関の外に、兵を駐屯させていらっしゃり、特にわたくしを遣わされ、元帥さまにお報せし、明日、兵を出し、かくかくしかじかしていただくのでございます。わたくしはふたたび出てゆき、兵を率いて交戦せねばなりませぬ」魏化は別れて城を飛び出てゆきました。文広は宣娘の指示に逐一従って、三軍に号令しました。
さて宣娘は魏化を城に入ってゆかせた後、身を躍らせて雲に飛び上がり、鬼王がどんな恐ろしい陣を布いたのかを看ました。周囲を看ますと、溜息をついて言いました。「鬼王は恐ろしく、絶路符[29]を置いている。わたくしが来なければ、この陣を破ることはできないだろう」その場を離れ、普陀山紫竹林の中の、観音大士の座前に飛んでゆき、净瓶を取り、水を一口吸い、ふたたび飛んで白馬関に戻り、周囲に噴き、さらに息を吹きかけて、下りてゆき、そのあと、寨を築き、休みました。次の日、宣娘は軍議をし、兵士に命令を下して、黄色い布で頭を包ませました。さらに満堂春、鄒夫人、孟四嫂を呼んで言いました。「あなたがたは兵五千を率いて、東門に突入してください」さらに董夫人、周氏女、馬夫人、孫立らを呼び、兵五千を率いて、北門に突入させることにしました。さらに魏化、楊秋菊、耿氏女、白夫人らに命じて兵五千を率い、南門に突入させることにしました。さらに劉八姐、殷九娘、劉青らにも命じて、西門に突入させることにしました。「四つの門にみだりに突入してゆかれてはなりませぬ。空に三回、角笛の響きを聴いたら、一斉に突入してください。退却することは許されませぬ」満堂春らは、それぞれ兵を率い、仕度して、待機しました。宣娘は差配をし、ただちに雲に飛びあがりました。城内城外の兵士たちは、紛紛と頭を包み、角笛の響きを聴きますと、交戦しました。城内では、すでに十回太鼓を敲き、喊声をあげていましたが、宣娘は息を吹きますと、一道の清風に化して下りてゆきました。城内と城外の兵士らは、みな頭がきつく締められ、まるで皮帽を帯びているのと同じように感じ、人々はさらに力が加わるのを感じました。証拠に詩がございます。
三軍布を裹み化して虎と作る、西賊一見し驚きて措く無し。縦ひ鬼王能く妖を為すとも、逃れ難し炉中煅煉の苦を。
さて宣娘は雲で息を吹きますと、下りてゆき、角笛を三回吹きました。城内の兵士らはそれを聴きますと、大きく四つの門を開き、一斉に出撃しました。城外の兵士はそれを見ますと、一斉に四つの門めざして突入しました。八臂鬼王は軍を駆り、迎え撃ちました。蛮軍が見てみますと、城内から出てきたもの、城外から入ってきたものは、いずれも黄色い斑の猛虎であり、咆哮しながらやってきました。そこで、みな槍や刀を抛って、逃げましたので、宋軍に踏み殺されたものは、数をも知れませんでした。宣娘は大軍を促し、ただちに莫耶関まで追い掛けてゆきました。八臂鬼王は関に入りますと、四つの門に、たくさんの弓や弩を置き、宋人を射させました。ふたたび兵士を点呼しますと、五万人が失われておりました。さらに一兵卒が言上しました。「管夫人が満堂春に斬られました」奉国は大いに哭いて言いました。「あいつを斬らねば、人間ではない」このことはお話しいたしません。
さて文広は莫耶関まで追ってゆきましたが、四つの門はかたく閉じられ、弓、弩は恐ろしいものでしたので、命令を下して軍をひき、十里退き、平坦な場所に駐屯しました。宣娘、満堂春らは文広、公正らに面会しますと、大哭きしました。宣娘は言いました。「われらの一家は周王さまが救ってくださらなかったら、殺されて、根絶やしにされていたことでしょう」
●宣娘が計略を定めて奉国を擒にすること
文広が寨を築きますと、宣娘は陣幕に入り、かれに言いました。「賢弟は胡富を遣わして、戻って援軍を得させましたが、あのものは張茂の屋敷の前を通り、入っていってかれに会い、かれにかくかくしかじかされて、わが家に禍をもたらしたのです。神宗さまはそれを信じて、捕縛、訊問を行なわれ、その後に、周王さまがかくかくしかじかされ、胡富から事情を訊き出したため、一家の死罪を赦したのです」懐玉は言いました。「朝廷は讒言を信じ、このようにわが家を遇しているのですから、今、われわれが心を労し、力を出して戦闘しても、益はないことでしょう。この印を返上し、一家を引き連れ、ただちに太行山に上って、一人の気儘な閑人となり、束縛を受けないようにしたほうが、ほんとうにすばらしいことでしょう」文広は言いました。「だめだ。わが家は代々忠貞であったのだから、わたしの代になって、そのような不義のことをし、家門を汚してはならん」宣娘は言いました。「八臂鬼王はまた兵を挙げ、その毒悪はもっとも甚だしいものですから、計略を定め、捕らえねばなりませぬ」魏化は尋ねました。「昨日、城内の兵士に命じて、十回、太鼓を叩いて、喊声をあげさせ、さらに頭を黄色い布で包ませましたが、あれはいったいどうしてでしょうか」宣娘は言いました。「八臂鬼王は毒気を吐いて人を害することができる。かれは兵士が太鼓を敲いて喊声をあげるのを聞けば、戦に出ると考えて、かならず毒気を放つのだ。十回吐いて、毒気はだんだん衰えたとき、ふたたび兵士に命令し、黄色い布で頭を包ませ、黄色い斑の猛虎に変えた。だから、角笛が響いてから軍を出したとき、毒気に損われることはなかったのだ。蛮軍は猛虎を見ると、みな戈を抛ち、太鼓を棄てて逃げたため、わが軍は大勝利を得たのだ」魏化らは感服し、言いました。「ほんものの仙人が俗世に降臨されたために、このようなすぐれた策が出せるのでしょう」宣娘が話をおえますと、文広は尋ねました。「姉上は、計略を用いて擒にするとおっしゃいましたが、こたびはいったいいかなる策で勝つことができましょうか」そこで宣娘は、数十の軽騎を遣わし、ただちに甘州に戻らせ、紙を百箱取ってこさせて、陣中で使うことにしました。軽騎は命令を受けますと、飛ぶように去ってゆきました。
数日で軽騎は紙を取ってきました。宣娘は呪文を誦え、指で紙の上に護符を書き、息を吐きかけ、兵士に命じて、それぞれ一枚を取り、身に帯びさせました。「鬼王が来て迷昏陣を布いたら、紙を振るのだ。そうすれば、日はまた明るくなるだろう。飛ぶ沙や走る石に遇ったときも、紙を揺らせば、沙や石はおのずと飛んで戻ってゆこう。大水に遇ったときは、すぐ紙を水面に敷き、両脚で紙を踏めば、自然に浮かび上がるだろう」兵士たちは命令を授かりました。宣娘は懐玉を呼び、紙人、紙馬、長さがほぼ三尺の、二枚の竹板を渡して言いました。「そなたは明日、この竹片を、片脚の下に一枚縛り、身を躍らせて飛び上がり、西方の雲に立つのだ。鬼王が来るのを見たときに、すぐ紙人、紙馬を抛てば、おのずと交戦することができるだろう。あのものはそれを見ればきっと南方へ逃げるだろうが、追い掛けることはない。すぐに地に下り、孫立、公正、鄒三夫人らを率い、大軍を促して、莫耶関に突入してゆき、李王天子を擒にするのだ」懐玉は命令を受け入れました。さらに文広に言いました。「賢弟、そなたは明日、飛んで南方の雲に立ち、鬼王がやってきたときは、すぐに百十余人に変化し、交戦するのだ。かれが東方に逃げたら、いそいで後を追いかけるのだ」さらに魏化を東方の雲に立たせました。「鬼王が来たら、やはり百十余人に変化し、交戦するのだ。かれが北方に敗走したら、やはりゆっくり後を追うのだ」さらに満堂春を北方の雲に立たせました。「鬼王がやってきたら、やはり百十余人に変化し、迎え撃つのだ。かれは四方に兵がおり、逃げる所がないのを見れば、かならず変化するだろう。そなたたちは、わたしが変われといったものになり、いっしょにかれを捕らえるのだ」指示をしますと、人々は計略を理解しました。
さて八臂鬼王は満堂春にその妻を斬られたため、とても憤激し、李王に上奏しました。「このたびは、凶悪な手段を用い、かれらを殺して、寸草も留めないようになされば、臣の恨みははじめて消えることでしょう」李王は言いました。「卿は用心するべきだ。やってきた将軍は、なかなか恐ろしいからな」鬼王は言いました。「大丈夫です」そこで帳を出て諸軍に号令し、やはり関の外の平坦な土地にゆき、宋と対峙し、寨を築きました。鬼王は軍議し、兵士たちに号令し、ふたたび二尺の白布で、小旗を作り、すぐに帳の前に持ってゆき、使わせることにしました。さらに兵士に命じて、大きな水甕を担いでゆかせ、帳の前に置き、満々と水をそそぎました。鬼王は甕の脇にゆき、呪文を唱え、護符を書きますと、兵士に命じて小旗を甕の脇で引きずらせ、すべて引きずりおわりますと、さらに人に命じて、甕の中で、その手と脚を洗わせました。三軍が洗いますと、鬼王は言いました。「おまえたちは手と脚を洗ったから、水面にいるときは、飛んで走ることができるだろう。まもなくしたら出陣するが、おまえたちが小旗を振るだけで、川の水が天に漲ることだろう。宋軍が水に溺れたら、おまえたちは進み出て斬れ」指示をしますと、軍に命じて大砲を放たせ、出陣させました。宋の陣も大砲を放ち、兵を出しました。両軍が遭遇し、蛮軍で人々が小旗を振りますと、水が涌き、浪が高くなりましたので、宋軍はそれを見て大いに驚き、いそいで紙を水面に敷き、脚でその上を踏み、浮かび上がって、蛮兵を迎え撃ちました。鬼王は宋軍をすべて殺したと思い、水を出て、看にきましたが、宋軍は水に浮かんで、交戦しておりましたので、溜息をついて言いました。「今日、敵に遇うとは思わなかったわい。[30]」宣娘はたちまち水が湧くのを見ますと、言いました。「はやく準備をしていてよかった。さもなければ全軍が溺れていたろう」まもなく水の深さは十数丈になり、漲ることをやめませんでした。宣娘が雲に飛び上がって看ますと、鬼王は様子を看に出てきました。かれがふたたび水に入ってゆきますと、その水はさらに一尺増しました。このようなことが数回続きましたので、宣娘は考えました。「中にはきっと水源があるのだろう[31]。わたしは蒼蝿に変化して、あのものが出てきたら、背中に伏せて、入っていって、様子を看よう」考えが決まりますと、鬼王が急にまた出てきました。宣娘は蒼蠅になりますと、ぶうんと鬼王の背中に飛んでゆき、いっしょに水に入ってゆきました。鬼王が甕の脇で呪文を唱えますと、ふたたび水が湧いてきました。宣娘は水中に入りますと、すぐに甕の上に飛んでゆき、鬼王が出てゆきますと、いそいで犀角の柄の金刀を引き出し、缸を粉々に砕きました。すると潮はすぐに消えました。鬼王は大いに驚き、ふたたび水中に入って看にきますと、宣娘は大いに怒鳴りました。「鬼王め、逃げるな」鬼王は備えをしておらず、慌てて数合闘いましたが、形勢は不利でしたので、心の中で、西蛮に戻り、ふたたび手を打った方がよいと考えました。そこで身を躍らせて、天を衝きあがり、ただちに西方めざして逃げました。そこでは、懐玉が雲に立っており、叫びました。「鬼王め、来たな」すぐに紙人、紙馬を抛ちました。鬼王が大いに驚きますと、天兵の大隊と小隊が下りてきました。鬼王が下りてゆこうとしますと、宣娘は後ろから追ってきました。南方めざして逃げますと、今度は文広が「逃げるな」と大喝しました。そこで、ただちに東方に逃げますと、今度は魏化に阻まれました。北方に逃げますと、今度は満堂春が「鬼王め、逃げるな」と大喝しました。鬼王は考えました。「あの女は四方に兵士を布いているから、どうして逃げることができよう。変化しなければ、きっとかれらに擒にされよう」そこで、一匹の蛇に変わり、ただちに水に逃げ込みました。宣娘は大声で叫びました。「鬼王めは一匹の蟒に変わり、水に入ってゆきましたから、わたしたちは鷹に化し、水面を掠め、かれが水から出てきたら、その頭を掴むとしよう」鬼王は水にしばらく潜んでいましたが、宣娘たちが追ってきませんでしたので、宣娘は気がつかなかったのだと考え、水面に浮かび出て、様子を看ようとしました。すこし頭を出しますと、文広に掴まれ、鮮血が迸り、ひどく痛みました。水面で転げ回りますと、宣娘が掴み、魏化が掴み、満堂春が掴みましたので、ふたたび水に沈んで、こう考えました。「蛇に変わるのはよくない。木に変われば、かれらは気がつかないだろうし、掴まれても心配はないだろう」宣娘たちは、ながいこと待ちましたが、出てきませんでしたので、魏化が言いました。「おそらく死んだのでしょう」すると、たちまち前方に一艘の小舟が現れましたので、宣娘は言いました。「あれだ」満堂春は言いました。「まさか」宣娘は言いました。「おまえは違うと言うが、衣帯を解いて、鉄の鎖に変えて、あの舟を縛るとしよう」手に持って、進み出て、縛ろうとしますと、鬼王は鎖の響きを聴いて、揺れ動き、一羽の鳩になり、天に上ってゆきました。宣娘は言いました。「天羅地網を布かなければ、あの賊を捉まえることはできないだろう」そして軍服を脱ぎ、上に向かって投げ、さらに征裙を脱ぎ、下に向かって投げました。鬼王はただちに九天に上ってゆき、追ってくるのが見えなくなりますと、ひそかに考えました。「今回は逃げられたわい」さらにすこし飛び上がりますと、上には網がありました。そこであわてて下降しますと、下にも網がありましたので、大声で幾度か叫びました。「もうだめだ。もうだめだ」宣娘は收網咒を誦え、鬼王は四方の網がだんだんと縮まってくるのを見ますと、ひそかに悲鳴を上げました。宣娘は鬼王を捉えて倒し、かれに正体を現すように命じました。鬼王は正体を現わそうとはせず、何度も叫びました。「おばさま」。満堂春は怒って言いました。「『おばさま』と叫んでも、わたしがそなたを釈放するわけでもあるまい」そして鬼王の体の毛をきれいさっぱり毟りました。文広は言いました。「正体を現せば、残りの命を許してやろうぞ」鬼王は現そうとはしませんでした。魏化は進み出て、剣で両肩に斬りつけましたが、鬼王はまだ正体を現そうとはしませんでした。宣娘は言いました。「太上老君はかつて縛鬼縧をわたしに下さったから、わたしがそれを持ってきてこのものの両足を縛り、白馬関に連れ帰り、逆さ吊りにすれば、このものがその正体を現さぬ心配はない」そこで宣娘は鬼王を縛りました。
白馬関に戻りますと、文広は腰掛けて、軍議しておりました。すると懐玉が李王を推して戻ってきて、帳の前に跪かせました。文広は手下に命じて鳩を秤の竿[32]に逆さ吊りにし、兵士に命じて荊の棒で打たせました。鬼王は痛みに耐えきれず、叫びました。「わかりました。打たれることはございませぬ。正体を現しましょう」見れば頭には二つの角、眼は突き出し、身長は二丈、二つの臂を斬りとられていましたが、まだ六つの臂がありました。兵士たちはそれを見ますとみな驚きました。文広は宣娘を呼び、進み出て縛ってもらい、李王とともに斬ることにしました。文広は李王を裁いて言いました。「そなたは新羅で勝手に国王と称して、とても楽しい思いをしていた。毎年来貢していたが、一度に過ぎなかった。わが宋はそなたに苛刻な要求をしたことはなかったのに、なにゆえみだりに事件を起こし、辺境を侵犯し、捉えられたのだ。国は破れ、家は亡んで、いったい何の益があるのだ」魏化は言いました。「このものはその昔、兵を動かした時、中原を一統しようと考えており、望みはとても大きなものにございました。今日があることを知っていれば、巢穴にじっとして、このようにすることはなかったでしょう」文広は言いました。「昔は天子になり、朝政を総べようとして、望みはかように遠大なものであった。だが、今日では、匹夫となって生きてこの世に遊ぼうと思っても、叶わぬことになってしまった」そこで兵士に命じ、推し出して斬らせました。李王は大声で告げました。「丞相さまにはしがない命をお許しくださいますように。その昔、五カ国の王を釈放されたことに倣われれば、代々犬や馬となり、報いることといたしましょう」八臂鬼王は言いました。「『大丈夫は死を視ること帰するが如し』といわれております。生きたいと哀願されてどうなさいます」そう言いますと、文広は言いました。「為した悪事が異なれば、施す刑も異なるものだ。五カ国は悪を助けたに過ぎないが、そなたはみずから不善を為しているのだから、釈放することはできない。わたしはもともと闕下に護送し、天子さまおんみずからにそなたの首を斬っていただき、四夷に送ろうと考えていた。ただし、そなたは反相[33]の人であり、八臂鬼王は妖術を為し、変化は一つにとどまらず、用心を怠れば、軍民を損おうから、今から斬って、その首を都に届けるよりほかなかろう」証拠に詩がございます。
大いに梟す西賊の首、伝遞し不賓[34]に示す。宇宙重ねて開拓せられ、掀天[35]
事業新たなり。
●宣娘が鬼王を焼くこと
文広が李王、鬼王を一斉に斬首しようとしますと、宣娘は言いました。「李王を斬るのはた易いが、鬼王はすこし難しい。そのものは七たび生き返ることができるのです」文広は言いました。「姉上はどうしてご存知なのでしょう」宣娘は言いました。「賢弟はこの悪者がどのような妖怪であると思うか。このものは弱水の上岩の蟹の精なのだ」
蓬莱山は弱水の真ん中にありました。鬼王は以前、道童に姿を変えて、蓬莱山に上り、様子を窺って、八仙の鍛えた天仙丹頭を盗もうとしましたが、その術がありませんでした。ある日、王母は寿宴を開き、群仙はみな慶賀しにゆきました。鬼王はこの消息を耳にしますと、拐李となって仙洞に入ってゆきました。仙童はそれに気付かずに、こう尋ねました。「師父はなぜお一人で戻ってこられたのでしょう」鬼王は嘘をつきました。「王母さまが、宴席で、われら仙人は蓬莱山で何をするかとお尋ねになったから、われらは天仙丹頭を鍛えましょうと言ったのだ。王母さまは、そなたたち八仙は、わたしに一粒くれまいかと仰ったので、われらは承知し、丹を取るために戻ってきたのだ。そなたははやく先日の天仙丹頭を持ってくるのだ。わたしは八粒を取り、誕生祝いに差しあげることにしよう」そこで仙童は天仙丹頭を取り出してきました。鬼王は八粒を取り、洞窟を出て岩の中に駆け戻ってゆき、丹を七粒飲み、一粒を残しました。鬼王が去ってまもなく、八仙が戻ってきました。仙童はかれを迎えて言いました。「拐李仙師はさきほどゆかれてすぐに戻られましたから、祝い酒をたっぷりと召されてはいないでしょう」拐李は言いました。「わたしは仙人たちといっしょに飲んでいたのに、なぜそのようなことを言うのだ」仙童は言いました。「仙師はさきほど王母さまが丹をご所望だと言われ、わたくしを呼び、天仙丹頭を取り出させ、八粒を持ってゆかれましたから、このような質問をいたしたのです」拐李は言いました。「もうよい。分かったぞ。弱水の蟹精が奪っていったのだ。あのものはいつも道童になり、こちらへ様子を窺いにきていたが、わたしは幾度か剣を振り上げて斬りつけると、弱水に逃げ込んでいっていた。これはさしたることではないので、わたしはかれを咎めなかった。今日はわれらが蟠桃会に赴いたので、今度はわたしの姿になって、洞窟に入ってきて、仙丹を騙し取っていったのだ。今、考えるに、あのものは弱水は一本の毛も浮かばないから[36]、深くその中に隠れれば、仙人たちは入ってくることができぬので、あのものをどうすることもできまいと思っているのだ。わたしは今からあの畜生を捉えよう」そして数十個の火葫蘆を弱水に投げ落として焼きますと、たちまち水が数丈乾きました。巡潮使者はそれを見ますと大いに驚き、弱水龍王に急奏しました。龍王は上奏を聞きますと、慌ててなす術もなく、急いで夜叉を遣わして、天仙さまに「どうしてわたしの居宅を焼かれたのですか」と尋ねさせることにしました。夜叉は勅旨を受け、出ていって、拐李に尋ねますと、拐李は答えました。「そなたの主君がきびしく決まりを設けずに、蟹奴をほったらかしにして、わたしの仙丹を奪いにこさせたので、焼いて捉えるのだ」夜叉はそれを聞きますと、ふたたび龍宮に入り、龍王に上奏しました。龍王は言いました。「そなたは拐李天仙に拜伏し、火葫蘆を収めてくださいとお願いし、すぐに上岩、中岩、下岩の蟹たちを捕らえてきて、だれが仙丹を奪ったのかを調べだし、縛って洞窟に護送してきて、処罰を待たせることにせよ」夜叉は急いで龍宮を出て、龍王の言葉をそのまま、拐李に言上しました。そこで拐李は火葫蘆を収めました。龍王は拐李が葫蘆を収めたのを見ますと、すぐに捕蟹使者三十名を遣わし、三岩へゆき、蟹の王を捕らえさせました。捕蟹使者は命を受け、一時足らずでことごとく三岩の頭目を捕まえて龍宮にやってきました。上岩蟹王は名を方用、中岩蟹王は名を方立、下岩蟹王は名を方美といいました。龍王は宮殿に腰掛け、蟹使は三岩の蟹王を階の下に推しました。三人の蟹王は一斉に言いました。「主上が臣らを捕らえられたのは、どうしてでしょうか」龍王は言いました。「であるおまえたちのうち、いずれの岩の蟹が天仙さまの丹を奪いにいったのだ。天仙さまは火葫蘆でわたしの居宅を焼かれたぞ。おとなしく白状し、あのかたにお返しし、さらに巡使を遣わして、礼物を送り、罪を認めることにせよ」方立、方美は答えました。「天仙さまの丹を奪いましたのは、上岩方用の末っ子にございます」方用は言いました。「そなたらはどうしてわたしの末っ子であると分かるのだ」方立は言いました。「兄上はご存知ございますまいが、兄上の方狗はきわめて凶悪で、つねに力があるのを恃み、下にいるものを虐げているのです。昨日はかれの従者がかれによって辱められ、打ち殺してやると言われていました。従者はでわたくしの岩に逃げ、三公子[37]さまが天仙丹頭を奪われました、すでに七粒を呑まれて、まだ一粒を身に帯びていますと申しております。今、あのものの神通力は広大で、変化は無窮にございます」龍王はそこで方用を罵りました。「どうして躾を厳しくせずに、子供が悪事をするのに任せ、かように大きな禍を引き起こしたのだ」方用は驚き恐れ、何度も言いました。「わたくしは万死に値いたします。ほんとうに存じませんでした。わたくしが岩に戻って、連れてきて、罪に従わせることにいたしましょう」龍王は言いました。「はやく捕らえて、蓬莱に送ってくるのだ。あのものがさらに悪さをしないようにな」方用ははいと答え、龍王は三岩蟹王を釈放しました。方用は急いで岩の中に戻り、左右に尋ねました。「方狗はどこにいる」左右は言いました。「今、裏の通りで拳をして遊ばれています」方用は左右にはやく呼び戻してくるように命じました。左右はすぐに方狗を呼んできました。方用は怒鳴りました。「ろくでなしの畜生めが。このように大胆なことをして、天仙さまを怒らせて、国や家を滅ぼすとは」左右に命じて方狗を縛らせ、龍宮に護送させました。左右が方狗を護送して、龍王にまみえさせますと、龍王は罵りました。「この賊はまことに智恵のない奴だ。一身の利益を貪り、人を怒らせ、朕の国を滅ぼさせるとは」そう言いますと、巡海大使に命令しました。「大きな枷を嵌め、蓬莱に護送するのだ。朕はふたたび龍庫に入り、二つの宝物を取り、天仙に送り、詫びるとしよう」龍王は龍庫に入ってゆきました。方狗は仙丹を呑み、変化は測り難いものがありました。方狗が枷を龍宮の柱にぶつけますと、大音響とともに、河は溢れ、海は沸き、方狗は見えなくなってしまいました。巡海大使が龍王に急奏しますと、龍王は地団駄を踏み、胸を叩き、悲鳴を上げました。巡海大使は上奏しました。「方狗は逃げて、すぐには捉えられませぬから、とりあえず手紙を書いて、しばらく期限を伸ばしていただくことを懇願してから、捕縛、護送をなされた方がよろしいでしょう。今から、礼物を臣が持ってゆき、罪を認めることといたしましょう」そこで、龍王は珍珠綢衫八件、起死回生珠一粒を、巡海大使に命じて持ってゆかせ、八仙に献上させることにしました。巡使は命を受け、蓬莱に送り、叩頭して罪を認めました。拐李が手紙を受け取って看てみますと、方狗が逃げたとのことでした。慧眼を開いて照らしますと、西夏国にいるのが見えましたので、巡使にむかって言いました。「そなたの主君は、心してわれらを敬っているから、われらは罪を加えない。今、礼物を送ってこられたが、起死回生珠は誠意に鑑み、受けとるが、ほかはお返ししよう。今、方狗は、西夏国へと逃げ込んでいったが、わたしはみずから捕らえにゆくから、そなたの主君が捕まえることはない。帰ったらよろしく伝えてくれ」そう言いますと、巡使ははいと返事をし、叩頭し、感謝して去りました。拐李は仙人たちに言いました。「捕らえてきたら烹るとしよう」鍾離は言いました。「ゆくことはない。畜生の災は終わっておらず、民草はなお災を受け、十万の命がかれの手によって奪われるだろう」拐李は言いました。「そうはいっても、八粒の仙丹が損われたのは惜しいことだ」仙人たちは言いました。「八粒の仙丹はかれの命を奪いますから、かれは何の得もしませぬ」拐李はそこで捕らえにゆきませんでした」文広は言いました。「誰が姉上に告げたのでしょう」宣娘は言いました。「わが師の万寿娘娘さまは、先月、拐李らとともに王母の寿宴でこのことを話されましたが、人々は笑いながら言いました。『仙人の世界でも泥棒があるのですから、この世でも盗みがはやるわけですな』先日、兵を率いてきたとき、わたしはわが師に鬼王がどんな妖怪なのかをご存知ですかと尋ねにゆくと、わが師は逐一その顛末を語られたのです」そう言いますと、ふたたび鬼王に尋ねました。「方狗奴よ、そうであろう」鬼王はうなだれ、黙黙として、返す言葉がありませんでした。文広は言いました。「どのようにすれば、かれの命を葬り去ることができるでしょうか」宣娘は言いました。「太上老君は、わが師のおじですから、わたしが老君の処へゆき、鉄鍬、鉄罩、真火などものを借りてきて、かれの七粒の仙丹を吐き出させれば、そのあとで殺すことができましょう」文広は言いました。「もともとかれは八粒を奪いましたのに、今はどうして七粒だけになっているのでございましょう」宣娘は言いました。「先日の風雨、沙石、大水は、すべてこの丹頭が変化したものですが、今はもう使い果たしてしまいました」そう言いますと、さらにこう言いました。「賢弟はしばらく待っていてください。わたしは老君さまの処へ行って、それらのものを借りてきましょう」文広は言いました。「老君さまはどちらにお住まいなのでしょう」宣娘は言いました。「わたしが言わねば、賢弟は知らなかったのですね。老君さまは九天太清宮にお住まいなのです」そう言いますと、朗然[38]と飛んでゆき、ほぼ二時で、戻ってきました。文広は言いました。「物を借りてこられましたか」宣娘は言いました。「借りてきました。老君さまは、かれが作った太乙炉なら、仙丹を吐き出させられると仰っていました」文広は言いました。「どこでその炉を手に入れましょうか」宣娘は言いました。「老君さまは、太乙炉を贈るから、人に運んでこさせると仰っていました」文広は言いました。「この炉で人を焼いてしまったら、以後、煉丹をすることができるのでしょうか」宣娘は言いました。「わたしに贈ると仰いましたから、お返しする必要はないのでしょう」その言葉がおわらぬうちに、身長が三四丈の、二人の金甲天将が、炉を担いで帳の前に置きました。三軍はそれを見ますと大いに驚き、みな言いました。「世の中にこんなに大きな人がいるとは」宣娘は怒鳴りました。「大騒ぎするな」兵士に命じて鬼王を縛らせ、炉の中に置き、鉄罩を被せました。宣娘は炉の周りを歩き、護符を書き、呪文を唱えますと、さらに兵士に命じて石を積ませ、炉に蓋をしました。宣娘は袖の中から真火を取り出して四方を焼き、呪文を誦えました。すると四方の石は焼け、火焰は騰騰と燃え上がりました。つづけて九日焼きますと、ようやく鬼王の口から一つの粒が出てきました。宣娘はすぐに老君の鉄鉗で撮み出し、さらに五十四日焼きますと、ようやく六粒の丹が出てきました。それがおわりますと、宣娘は言いました。「兵士たち、石を運んでくれ。七粒の丹を撮み出したから、このものはもう変化できない。おまえたちはこのものを引き出して、梟首するのだ」兵士たちは寨の外に推し出し、李王とともに斬りますと、鬼王の亡骸はただの大蟹でありました。証拠に詩がございます。
沈没す斜陽の裏、優游し磧汀を乱す。千秋甲胄を完うせば、豈莫耶の刑を受けんや。
さて兵士は李王、鬼王を斬りますと、文広に報せ、八臂鬼王は蟹であったと言いました。文広は言いました。「あの畜生は天仙の丹を奪い、変化して人と成り、多くの民草たちを殺して、怨気が天を衝いたため、今日はこの災厄を受けたのだ」そう言いますと、三軍に、隊伍を整えるように命令し、軍を還して都に戻ることにしました。さらに鄧海、楊順を留めて、白馬関、莫耶関を守らせることにしました。鄧海らは命令を受けますと、莫耶の城郭を修築しにゆきました。次の日、文広は三軍に命令し、途中、良民に迷惑を掛けることを許しませんでした。大砲が響きますと、大軍は白馬関を離れ、汴京めざして去ってゆきました。
数日足らずで都に着きますと、文広は朝廷に入って上奏しました。「李王、張奉国の首級を斬りました。今は皇城の外におり、つつしんで待機しておりまする。陛下には勅令により、首級を四方の夷に示され、将来の戒めとなさりますよう」群臣はみな西蛮を平定したことを寿ぐ表を奉りました。神宗は大いに喜び、命令を下し、二つの首級をあまねく天下に示しました。そして文広を寧国公、宣娘を代園夫人に封じ、満堂春ら十一女将はすべて驃騎将軍に、魏化は護国大将軍、守西侯に封じました。公正一郎は定西伯、唐興は鎮西伯、彩保は撫夷伯、懐玉は無敵大将軍、平遠侯、孫立は殿前招討、都指揮使、劉青は検校大将軍、鄧海は莫耶指揮使、楊順は白馬指揮使に封じました。そのほかの文武官も、それぞれ昇進しました。文広を召して昇殿させますと、帝はかれを慰労し、玉帯一本、黄金百斤を賜わりました。この日、宴を設け、征西をした将佐たちをねぎらいますと、君臣は楽しみを尽くして散じました。証拠に詩がございます。
明良昌運胡塵を洗ひ、楊府の英賢帝臣に属す。吊伐[39]奉天[40]
元より殺さず[41]、今に至るも麟趾適に振振たり[42]。
次の日、文広は参内し、宴に感謝しました。退出しますと、ただちに周王の屋敷にゆき、お礼を言い、別れて屋敷に戻りました。周王も無佞府にゆき、お祝いを言いました。文広は下男に命じて酒を調えさせ、周王を持てなし、ねんごろに心を尽くしました。酒が半ば酣になり、話が張茂に及びますと、周王は言いました。「あの賊を、聖上は、たいへん寵愛されています。今日はまたコネを使って丞相に復職しました」文広は言いました。「法が公正を重んじれば、不正な者は法により、正されますが、法が公正でなければ、刑罰は無辜に及んで、濫悪に施されることはなく、国事は日々に正しくなくなり、国家はだんだん危うくなってゆくものにございます」周王は言いました。「老国公はすぐれた議論を述べられましたが、朝廷の愚かさはいかんともし難いものにございます」この日、周王は心ゆくまで楽しく飲み、三更になりますとようやく別れ、屋敷に戻ってゆきました。
●懐玉が家を挙げて太行に上ること
次の日、文広が広間に現れ、腰掛けますと、四人の息子が一斉に跪き、言上しました。「父上にお知らせ申しあげまする。憎むべき張茂はわが家を陥れましたから、今夜、わたしたちはあのものの家の老若をすべて誅することといたします」文広は怒鳴りました。「皇恩を受けたばかりで、栄耀は朝廷で並ぶものがないというのに、さようなことをしでかせば、王法は情実は通用せぬから、許されることはないだろう。その時は栄耀栄華を失うことはもちろんのこと、死を免れるのも難いことだろう。けっしてさようなことをしてはならぬ」公正らは諾諾として退きました。懐玉は言いました。「兄上さま、このことはひそかに行い、父上に知らせぬようにするべきでしょう」相談は決まりました。元豊二年端陽の夜になりますと、懐玉らは顔を黒く塗り、強盗を装い、張茂の屋敷に討ち入って、家族をことごとく殺しました。逃がれたのは范夫人だけでした。范夫人は次の日、神宗に上奏しました。神宗は大いに驚き、殿前検点卞之勇に命じて城じゅうを十日捜索しましたが、すこしも姿は見えませんでした。范夫人はふたたび神宗に上奏しました。神宗は群臣に尋ねました。「賊はもう捕らえたか」群臣は上奏しました。「行方知れずになっております」神宗は言いました。「国の大臣が殺されたのに、捜し出せぬとは。不問に付しておしまいにすることはできないぞ。このようにすれば、王法はなみされて、朕は必要なくなってしまうだろう」そして大いに怒り、欽天監官に命じて夜、天象を観測し、凶星がどこに落ちるかを看させることにしました。さらに兵士に命じて、四つの門できびしく捕縛を行なわせました。その夜、欽天監官劉江は司天台に上って天象を仰ぎ見ますと、大いに驚き、夜、ただちに楊府にゆき、門に向かって叫びました。門番は尋ねました。「そなたは誰だ」劉江は言いました。「国公にお取次ぎ願いたい。欽天監官が内密のことをお話しにまいりましたと」
さて懐玉は張茂を殺したあと、朝廷に捕縛されるのを用心し、屋敷の門廊[43]に出て、寝ることにしておりました。おもてで門を叩くのを聴き、起き上がり、看にきたところ、門番が取り次ぎにくるのに出くわしました。懐玉は言いました。「どんなことを知らせにきたのだ」門番は言いました。「欽天監官の劉江がなにやら機密を申しあげにまいりました」懐玉は言いました。「看にいって、一人であれば入ってこさせ、もし人が多ければ、明日知らせにくるように返事するのだ」門番は出ていって、門の隙間から見てみますと、劉江一人だけでしたので、門を開け、招き入れました。劉江は懐玉と会いますと、言いました。「わたくしは聖旨を受けて、夜、天象を観ましたところ、張丞相を殺した凶星が、まさに貴殿のお屋敷を照らしておりましたので、さきにお報せにまいったのです」懐玉は言いました。「わが家はさようなことはしておりませぬ。大人のご厚意を賜わりましたから、近日中に、叩頭して感謝いたしましょう」劉江は別れてゆきました。その夜、懐玉は兄弟姉妹を集めて相談しました。「さきほど、欽天監の劉江が屋敷に来て、張茂を殺した凶星がまさにわが家を照らしていると言っていました。あのものはお上に上奏するまえに、報せにきたのです。わたしは明朝、かれが聖上に上奏すれば、聖上はかならずや捕縛、訊問をなさるでしょう。朝廷は讒言を信じられ、われらはしばしば害を被りましたから、お助けしても益はないことでしょう。それに佞臣はいつの時代にもいるもの、かれらは文臣であるのを恃み、武夫であるわれらを虐げ、たくさんの酷い目に遭わせます。わたしの考えでは、聖上が捕縛、訊問の命令を下される前に、郎党を集め、ことごとく太行山に上ってゆけば、心配の根を断ち切ることができましょう。ただ一つ。父上は病が篤うございますから、動かせば、かならず悶死いたしましょう。どうしたら宜しいでしょう」宣娘は言いました。「それは大丈夫だろう。安雲車にお載せすれば、平地のように安穏で、万に一つの失敗もない。ただ、お父さまは忠勇なかた、このことを知られれば、かならずそなたらを捕らえ、参内し、処罰を待たれることだろう」公正は言いました。「人々にこのことを告げないように言い含めるのだ。おばさまが入っていってお見舞いをされ、父上を騙して安雲車の中に入れられたら、われらはすぐに出発しよう」そう言いますと、宣娘は文広の寝室に入り、尋ねました。「賢弟、病状はいかがですか」文広は言いました。「だめでしょう」宣娘は言いました。「賢弟、起きあがり、清潔な部屋に移って横になり、さまざまなことを耳に入れず、鶏、犬、人の声を絶たれれば、恒心のない者たちを避けることができましょう[44]」文広は計略であるとは気付かず、起きあがり、宣娘に隨って安雲車の中に入りました。その夜、懐玉は下男に命じて、護衛の兵士たちは宝物の輜重を整え、車や馬にものを載せ、きちんと配置し、大砲が響きますと、太行山めざして進発しました。
次の朝、范夫人はさらに参内して上奏しました。「わたくしは調べましたが、強盗は無佞府の楊懐玉らで、その顔を黒く塗り、わたくしたちの屋敷に押し入り、一家を殺したのでございます。陛下には勅旨を出されて、捕らえられますように」蔡京は言いました。「怨みがあるというのであれば、疑わしいが、かれらが殺したと極めつけるのは難しい。欽天監官が上奏しにくれば、事情が知れることであろう」そう言いますと、劉江が参内し、上奏しました。「凶星は楊府を照らしておりまする」神宗は大いに怒り、孫立に命令を下し、羽林軍三千を率い、楊府を囲み、一家を捕らえ、盛り場で殺すことにしました。勅旨が下りますと、巡守外邏城御史の汪万頃が上奏しました。「楊府一家は五鼓になり、城門が聞きますと、みな押し出して、太行山へゆきました」周王は大いに驚いて言いました。「国に佞臣がいるときは、忠良は立つことはできませぬ。さきに張茂は偽りの上奏をして、主君を欺き、忠良を陥れましたから、かれの罪も斬罪に当たります。陛下はかれを寵愛し、究問を行なわれなかったために、その時、すでに楊府の人々の心は離れてしまったのです。こたび、張茂は殺されましたが、罪人は捕らえられてはおりませぬ。楊府は陛下がきっとただでは済まされぬことを知り、禍がかれに及ぶのを恐れたために、遠くへ逃れ、身を全うし、害を遠ざけ、飄然として、爵碌を恋うことなく、太行に上ったのです。ただ、将来、四夷が叛乱を起こしましたら、ふたたび誰を遣わして討ちましょう」神宗は言いました。「この件は、どうしたらいいだろう」周王は言いました。「臣の言葉に従って、詔書を発され、楊懐玉らを召し戻し、ふたたび無佞府に住まわせ、勅命により邸宅を修繕し、張茂が死んだことなどをすべて追究されないならば、かれらの心を繋ぎとめられましょう」神宗は上奏を受け入れ、すぐに詔を作って周王に与え、太行へ持ってゆき、楊懐玉らを召し戻し、以前の罪を赦すことにしました。
周王は勅旨を受けますと、太行山へ持ってゆきました。数日で到着しますと、懐玉らが面会しました。周王は言いました。「聖上の詔である。跪いて宣読を聴け」懐玉らはいそいで香机を置き、朝服を整えて勅旨を受けました。周王が宣読をしますと、懐玉らは詔を受け取りました。叩頭して聖恩に感謝しますと、酒を調え、周王のお相伴をしました。周王は席上で尋ねました。「国公はどちらかな」懐玉は言いました。「老父の病ははなはだ重うございますから、まもなく亡くなることでしょう」周王は言いました。「わたしが入っていって看るのはどうだ」懐玉は言いました。「さようなことをなさるには及びませぬ」周王は言いました。「身内なのだから、そのようなことをもうすな」懐玉は言いました。「殿下は太行山に上ったということだけは、けっして仰らないでください。もし仰れば、老父は悶死いたしましょう」周王は言いました。「これまたおかしなことを言う。お父上は、今日、太行にいることをご存知なく、わたしが告げねば分からぬと申すのか。お父上がご存じないなら、どうして上ってこられたのだ」そこで懐玉は安雲車のことをすべて告げました。周王は事実を黙っていることを承諾し、文広に会いますと、言いました。「老丞相どののご病体はいかがでしょうか」文広は言いました。「殿下にはお気遣いいただきまして。わたくしは遠からず泉下に帰することでしょう。ただ、胸の中では耿耿として[45]、殿下のご恩にお報いしようと思っております」そう言いますと、両の泪を頬に流しました。周王は文広の言葉ははっきりしているものの、病勢ははなはだ重いのを見ますと、やはり涙を拭きながら言いました。「老国公よ、もうすこし耐えられよ」そして文広を驚かすことを恐れて、太行山に上っていることなどは隠して言わず、別れを告げて外に出ますと、懐玉に言いました。「聖旨では、汴京に戻るようにとのお達しだ。すぐに出発するがよい」懐玉は言いました。「臣はこちらで死んだ方が宜しゅうございますから、戻りませぬ」周王は言いました。「戻ってゆかぬということは、甘んじて逆臣となり、朝廷に背くつもりか」懐玉は言いました。「臣の妄言の罪をお恕しくださいまし[46]。少々苦情がございますので、すべて殿下にお聴かせしましょう。理によって論じれば、わたくしどもが朝廷に負いたのではなく、朝廷がわたくしたちに負かれたのです。始祖継業は、王侁により、狼牙谷で囲まれて、李陵碑にぶつかって亡くなりましたし、七郎は潘仁美に遭い、たくさんの矢を身に中てられて亡くなりましたし、六郎は王、謝[47]の害を受け、充軍充徒となりました。狄青、張茂の時代になると、わが祖父とわが父は、官職を削られました。聖主が不明であるときは、詞章の臣[48]は、お側近くで可愛がられて、枕戈の士[49]は、遠く離れて疎んじられ、みずからの意見を述べられないのです。讒言が行なわれれば、臣らの命はすぐに刀に懸けられましょう。現在、聖主は、臣らが武器を交えて戦う苦しみを、わずかなりとも考慮され、憐憫を垂れたまうことがございませぬ。臣は嘘の話をでっち上げ、殿下を騙しはいたしませぬ」証拠に詩がございます。
風を飡ひ露に宿る軍を統ぶる時、万種の愁懐只自ら知る。髪を剪り韁を接りて戦馬を牽き、衣を拆き綫を抽きて旌旗を補ふ。雄を争ひ命を授かり飢ゑを耽ひて会し、力を角ひ刀に傷つき痛みを負ひて帰る。聖主那ぞ憐れまん征戦の昔を、讒言一たび入らば即ち屍を分かつ。
周王はそれを聴きますと、尋ねました。「朝廷に戻ろうとしないのは、蛮邦を輔佐しにゆこうとしているのだろう」懐玉は言いました。「『道を直くして人に事へば、焉んぞ往きて三たび黜けられざらん、道を枉げて人に事へば、何ぞ必ずしも父母の邦を去らんや』[50]。これは古人のすぐれた教えにございます。臣の家のものは、代々剛毅な性格で、権臣に阿ろうとはいたしませぬ。それゆえに、朝臣たちとはそりが合いませんでした。さらに想うに、国情はいずこも同じにございます。大宋がこのようであるならば、かの蛮邦もこのようでございましょう。臣は身を隠し、禍を遠ざけて、堂堂たる天朝である大宋をお輔けもうしあげぬのですから、腥い蛮邦を輔けようとはいたしませぬ。それに心と力を尽くし、国をお輔けいたしましても、少しでも奸佞なものに攻撃されれば、九族は絶やされることでしょう[51]。ああ、哀しいかな。痛ましいかな。人を輔けて朝廷に立ったとて、まことにひまでつまらないもの。浮雲[52]が空をよぎっているなら、帰っても役には立たないことでしょう」証拠に詩がございます。
兔は走り烏は飛び疾きこと馳するが若く、人生何事ぞ苦だ謀る。屡朝の宰相は三更の夢、歴代の君臣は一局の棋。禹は九州を併するも湯は業を得、秦は六国を呑むも漢は登基す。人人千年の計を作さんと欲するも、争奈天公の機に応ぜざるを。
懐玉は読みおわりますと、さらに言いました。「一人の賊が滅びれば、一人の賊が興るもの。誰が国を輔佐しても、万世にわたり安らかにすることができませぬ」証拠に詩がございます。
世事龍舟の若し、古今争ひて了らず。勝負[53]両つながらに羊を亡ひ、天地の一芻狗なるのみ。
周王は懇懇と、あれやこれやと迫りましたが、懐玉は聴きませんでした。周王はやむをえず、別れて戻りました。汴京に着きますと、すぐに神宗に上奏し、懐玉が述べた言葉と懐玉が詠んだ詩を、すべてくわしく述べました。神宗はそれを聴きますと、しばらくして言いました。「ああ。これは寡人の不徳であった」感嘆してやめませんでした。さらに周王に言いました。「卿はふたたび勅旨を持って、召しにいってくれ。朕が想うに古の帝王は、夢に見たり、占いをしたりして、賢者を求め、天下を治めた。朕は今、このような賢良の士がいるというのに、用いることができず、かれが林泉に隠遁するのを聴くありさま。古の明君と善美を競うことはできず、天下万世に、朕が無道で凡庸な君主であったといわれよう。卿ははやくゆき、うまいこと話しをしてくれ」周王は勅旨を受けますと、夜にふたたび太行山にゆき、懐玉らに会い、心の中を打ち明け、さんざん宥めました。懐玉らはそれを一笑に付し、あれこれ弁論しようともしませんでした。周王が宥めつづけますと、懐玉は言いました。「殿下からご厚意を受けましたから、もう一つ、意味深長な話を陛下のお耳にお伝えしていただければ、殿下がこちらに来られたことも、無駄ではなかったこととなることでしょう」周王は言いました。「どのような話があるのだ」懐玉は言いました。「聖朝のご指図には、謹んで従いますが、朝廷に入って職を受けよとおっしゃるのなら、屍を粉々に砕かれようとも、絶対に遵うことはできませぬ」懐玉がそう言いますと、周王も仕方なく、別れて戻るしかありませんでした。懐玉は一家を率いて山の麓まで送り、周王に再拝しました。周王は泪をため、怏怏として別れるに忍びませんでした。懐玉は言いました。「殿下は悲しまれないでください。微臣が死ななければ、またお会いすることもできましょう」そこで周王は泪を拭いて別れました。懐玉は山上に戻り、手下に命じて木を伐らせ、家を作り、田地を耕し、自給自足しました。さらに告示を出して郎党に知らせました。「山から下りて人民の財産を掠奪するのは許さない。清貧な人民となり、良い名声を後世に遺し、人々がみなわが家を称えるようにするのだ。われわれは、忠臣の岩穴に退隠するものであり、叛乱をする賊臣の、王の教化に服さない者ではないのだ」証拠に詩がございます。
侯封を塵視して太行に上る、袛社鼠の暗中に傷ふに縁る。繁華眼を過ぎる三春の景、衰朽人を催す両髩の霜。宦海端無くも変態多く、菜羹味有りて飽き諳嘗[54]す。浮生楽を得ば時に隨ひて楽しみ、何ぞ必ずしも憂へを耽ひて汴梁に駐まらん。
後人はこの書を読みますと、詩を作り、懐玉が時機を知っていたことをたたえております。
峻秩崇階孰か肯へて丢てんや、機を知り遠きを平げて早く回頭す。預期す十事の九は願ひの如きを、三平両満[55]ならざるを定めて休む。自ら足を知る時還自ら足り、憂へ無きを得る処便ち憂へ無し。太行の風月閑に帰するの後、一任す人間の春復秋に。
さらにたたえる詩がございます。
朝衣を卸却し簪を棄却す、浮雲富貴心に関はらず。連城の玉は韞されて太行潤ひ、照乘の珠は蔵されて合浦深し。明月花前宵に酒を酌み、薫風竹下昼琴を鳴らす。此の身復宣召に隨はず、只恐る西風短剣の臨むを。
最終更新日：2007年7月14日
[1]敵国をこのようにいうのは明らかにおかしいが、原文の通りに訳す。
[2]原文「載定名姓」。未詳。とりあえず、こう訳す。
[3]原文「殊不暁這様風色」。未詳。とりあえず、こう訳す。
[4]未詳だが、ひらの騎兵であろう。
[5]前出の「散騎」とほぼ同義であろう。ひらの兵のことであろう。
[6]北溟。北方にあるとされる大海。
[7]旅をする官吏の食事、宿泊のために供せられた建物。正史にも見える。
[8]原文「三朝不出」。未詳。「三朝」は朝、昼、晩と朝廷に出ること。それをしないということか。
[9]原文「強来争之何故」。未詳。とりあえず、こう訳す。
[10]原文「小蛮」。「小番」とも。普通は蛮族の兵卒をいうが、ここでは新羅の軍全体をいっているのであろう。
[11] 「臣妾の邦」という言葉を知らないが、文脈、語義からして服従する立場にある国ということで間違いなかろう。
[12]原文「満朝誰逆龍鱗」。誰も天子の逆鱗に触れようとはしないということ。
[13]臣下が卑しく諂うことの喩え。
[15]仙人に対する敬称。
[16]原文「見虚之真、得虚之精、其仙長之号乎」。この論理は未詳。「古」であれば「真」であり「精」であるということか。また「見虚之真、得虚之精」は何か典故がありそうだが未詳。
[17]原文「此乃我之事也」。未詳。とりあえず、こう訳す。
[18]原文「此事不知真假何如」。未詳。訳文はこれでいいのだろうが、前後の文脈に合わない。衍文か。
[19]皇族をいう。
[20]原文「不暁是周王密蔵的人」。「密蔵」が未詳。とりあえず、こう訳す。
[21] もちろん胡富は周王の子供ではないが、このように呼びかけている。親愛の情を表わすか、あるいは自分よりも目下のものという、侮蔑的な響きがあるか。
[22]原文「少頃究問、即来復命」。誰を「究問」するのかが未詳。魏化に楊元帥のことを問いただすということか、家の女たちに女将になれるものがいるか問いただすということか。
[23]杜月英のこと。
[24]原文「但雪花槍照眼一路甚生」。まったく未詳。とりあえず、こう訳す。
[25]要害の地の喩え。要害の地を咽喉に喩えた例は、『戦国策』秦策などの典籍に多数見える。
[26] おそらく文広が自分自身を喩えているのであろう。
[27]黄金の幅広の帯。ここではそれを帯びる高位高官のこと。句の意味は、自分は横暴な高位高官のために働いているわけではないということであろう。
[28]広東省の山名｡
[29]未詳。
[30]今日は向かうところ敵なしだと思っていたということ。
[31]原文「其中必起得有水海」。未詳。とりあえず、こう訳す。「其中・必・起得・有・水海」と区切れよう。
[32]原文「枰竿」。「枰」は「秤」の誤字であろう。
[33]叛逆をする人相。用例は『史記』呉王濞列伝などに見える。
[34]帰順しないこと。ここでは帰順しない者。
[35]天をひっくりかえす。また、天をひっくりかえすかのように盛大なこと。
[36] 『海内十洲記』鳳麟洲に「洲四面有弱水繞之、鴻毛不浮」とある。
[37]三番目の坊ちゃん。ここでは方狗のこと。
[38]音がよく響くさま。
[39] 「吊民伐罪」。被害に遭った人民を慰問し、罪を犯したものを罰すること。
[40]天命を奉じること。
[41] この句の趣旨、未詳だが、「吊伐」「奉天」するものは、もとより殺されることはないという方向であろう。
[42] 『詩』周南・麟之趾「麟之趾、振振公子、于嗟麟兮、麟之定、振振公姓、于嗟麟兮、麟之角、振振公族、于嗟麟兮」に因む句。子孫が繁栄することをいう。
[43]門と建物を結ぶ回廊。
[44]原文「自可避無恒矣」。「無恒」は『論語』子路に典故のある言葉。
[45] 「耿耿」はここでは誠実なさま。
[46]原文「恕臣誑言之罪」。「誑言」は偽りの言葉のことだが、それでは文脈に合わない。訳文のような意味に解す。
[47]王欽、謝金吾のこと。
[48]文官をいう。
[49]戈に枕する士。武官をいう。
[50]出典未詳。『風俗通』十反・安定太守汝南胡伊に「柳下恵不枉道以事人、故三黜而不去」という類似の句が見える。本句の意味は、「自分の道を貫いて人に仕えようとすれば何度でも退けられる。自分の道を曲げて人に仕えれば、いつまでもその国にいられる」ということであろう。
[51]原文「九族廟絶」。「廟絶」が未詳だが、血統が絶え、先祖の祭祀が絶たれることをいうのであろう。
[52] うきぐも。太陽を隠すことから、古来、君側の奸の喩え。
[53] ここでは「勝った者と負けた者」ということ。
[54] つぶさに経験すること。
[55] 「三平二満」とも。平和な状態をいう。