鐫新編全相楊家府世代忠勇通俗演義志伝一巻
詩がございます、
楊氏麏興[1]して宋を翊くること深く、風聞将に落ちんとし尽く心を寒くす[2]。青襟[3]は風雲の迅きを叱咤し、緑鬢[4]は剣戟の新らしきを揮揚す。暗地には蝿の白璧を汚すあり[5]、明廷には象の黄金を鋳るなし[6]。英雄は跳び出づる樊籠の外、坐して江山に対し古今を慨く。
宋の太祖は姓を趙、名を匡胤といい、涿郡[7]の人。その父は名を弘殷といい、周朝の検校司徒、岳州防禦使でありました。母は杜氏といい、安喜[8]の人、匡胤を洛陽の夾馬営で生んだときは、赤光が部屋に満ち、異香が夜を経ても消えることがなかったため、人々はかれを「香孩児」と呼びました。長兄は名を匡済、三人の弟は光義、光美、匡賛といいました。弘殷が亡くなりますと、杜氏は寡婦暮らしをしましたが、家を切り盛りするさまは、勤倹かつ厳粛でありました。その頃、匡済、匡実も亡くなりました。匡胤、光義、光美はともに陳拊の門下で学ぶように命ぜられました。拊は華山の処士陳摶の兄で、壮年で刻苦勉励しましたが、試験のたびに及第せず、隠居して教育をし、「循循として人を誘いて」おりました[9]。証拠に詩がございます。
落落[10]たり人間の数十年、身に随ふは鉄硯と一青氈。丹墀は未だ対せず三千の字[11]、碧海[12]は空しく騰る尺五の天[13]。賈誼は長沙に歳月を淹しうし、杜陵[14]は夔府[15]にて風煙に老ゆ。闌に倚り読み罷ふる帰来の賦[16]、腸は断たれり青山の落照の辺。
この時、陳拊は三人の子が卓越しているのを見、心を込めて教え導き、文は孔、孟を伝え、武は孫、呉を授けました。学業が成就しますと、ある日、三人の子を前に呼び、言いました。「わしはもう年老いたから、これ以上おまえたちの師となることはできない。わしには一人の友がいる。鎮州の人で、姓は趙、名は学究といい、異人に遇って教えを受けたことがある。行って教えを請うがよい」匡胤らは別れを告げ、鎮州に行き、学究を師とすることにしました。
後に匡胤は周の世宗に仕え、東西班の行首[17]に補せられ、殿前都指揮使に昇任し、軍政を掌り、世宗に随って征伐し、しばしば大功を建て、人心はかれに懐いておりました。時に世宗は文書の篋の中から木簡を得ましたが、長さは一尺ばかり、一行「殿前点検が天子とならん」という文字が書かれていました。次の日、世宗は殿前点検の張永德を斬り、匡胤にその職に就くように命じました。世宗が崩じますと、子の宗訓が即位し、匡胤を検校太尉に昇進させ、帰德節度使としました。大遼と北漢が兵五十万を合わせ、土門[18]から東に下り、中原を侵したため、朝廷は慌てて会議し、匡胤に禁兵を率いて防がせることにしました。その日、兵を率いて陳橋に出て駐屯し、同行していた指揮使の苗訓善が天文を観、日の下にさらに一つの日があり、長いこと黒い光が揺らめくのを見ましたので[19]、楚昭輔に指し示して言いました｡「これは天命ではないか」その晩、殿前都指揮使石守信、侍衛親軍都指揮使高懐德、殿前都検討張令鐸、殿前都虞候王審琦、虎健右廂都虞候張光翰、龍健左廂都虞候趙彦徽はともに語って言いました。「聖上は幼弱で、われらが力を出して奮戦しても、誰がこのことを知ってくれよう。今はまず趙点検を天子にし、その後で北伐をした方がよいだろう」諸将は相談がまとまりますと、次の日の夜明け、兵士は鎧を着け、戈を執り、匡胤の寝所に迫り、大声で叫びました。「今、われらには主君がおりませぬので、太尉どのを天子に立てたく思います」匡胤は醉って寝ていましたが、人々が叫んだために目を醒まし、服を羽織って尋ねようとしました。諸将は介添えをして広間に出し、黄袍を着せました。人々は並んで拝礼をし、「万歳」と叫びおわりますと、介添えをして馬に乗せ、取り巻いて、汴京に帰還させました。匡胤は轡を攬って[20]諸将に誓いました。「おまえたちは富貴を貪ろうとして、わたしを立てて天子にした、わたしの命令に従うことができるのならよいが、そうでないなら、おまえたちの主君となることはできんぞ」人々はみな言いました。「ことごとくご命の通りにいたしましょう」匡胤は言いました。「太后さま、聖上は、わしが北面してお仕えした方々だから、脅かしてはならぬ、公卿はみなわしの同僚だから、虐げてはならぬ、市中の財物、倉庫の宝器は、奪ってはならぬ。一人たりともみだりに殺すことは許さぬ。命令に従う者は手厚く褒美を取らせるが、命令に従わぬ者は一族を市場で誅する」兵士たちは諾諾として返事をし、隊を整えて進みました。
入城しますと、匡胤を擁してまっすぐ崇元殿に入り、百官を召して朝賀させました。匡胤は言いました。「禅譲の詔がないのだから、にわかに昇殿するわけにいかない」言いますと、翰林承旨陶穀が、袖の中から詔書を取り出し、読みあげました。
朕茲に沖齢[21]にして、未だ国政を諳んじざれば、天位に勝へず。ただ爾太尉のみ、治体[22]に練達すれば、宜しく乾綱[23]を攬るべし。今之を天に卜すれば、天心默順し、之を民に稽ふれば、民情協和す。朕は乃ち放動[24]の遺風に效ひ、神器を掲げて之を授けん。賢卿当に重華の芳躅[25]を歩み、帝籙[26]を膺けてその事を敬ふべし。上はかの蒼の眷顧に負き、下は斯の民の仰望を失ふことなくば可なり。
匡胤は殿前で拜受しますと、昇殿し、袞冕を着け、皇帝の位に就きました。百官は朝賀をおえました。そして周主を鄭王、符太后を周太后とし、西宮に遷しました。天下に大赦し、国号を大宋とし、年号を建隆元年と改めました。三代[27]を封じて皇帝、母の杜氏を封じて皇太后、妻の王氏を封じて皇后、子の德昭を皇太子、德芳を梁王に封じました。兄の子德崇を封じて燕王にしましたが、かれは幼名を大哥といい、人々はかれを八大王と称しました。かれはもっとも才能があったため、みな敬服しておりました。弟の光義を晋王、光美を秦王に封じました。文武百官はそれぞれ一級昇進しました。使者を遣わして郡国に通告しました。証拠に詩がございます、
敕旨は頒行せられ去路は賖く、繍衣は分彩[28]し江花[29]に照る。星は駅樹を披ひ人は千里、為に報ず乾坤の宋家に属するを。
時に華山の処士陳摶は英雄を招き、神器を窺う心を持ち、つねに人を汴京に遣わして消息を探っておりました。この時は一頭の驢馬に跨り、官道をぶらぶらしていましたが、たちまち部下が報せにきました。「このたび、趙点検が禅譲を受けて帝位に登り、使者を遣わし、天下に通告しております」陳摶はそれを聴きますと、慌てて地面に墜ちて、言いました。「鹿の逸く奔るものは、才が高く足の疾い者が得るのだ」[30]さらに言いました。「英雄はたちまちに神仙になるとしよう[31]。名声虚誉を論じれば、かれはもとよりわたしより赫奕たるものだが、身心実益を論じれば、わたしはかれより安泰なるものである。お互いに一得があるのだから、君主と人民となることに拘泥する必要もない[32]」太祖はしばしば陳摶を召しましたが陳摶は出仕しませんでしたので、みずから華山に御幸してかれを訪ねました。陳摶が庵堂に迎え入れ、拝礼をおえますと、太祖は言いました。「貴殿は高臥されているが、天下の蒼生をどうなさるおつもりか。朝廷に入り、大臣に列なることを承知してくだされば、自由に職を択ばせてさしあげましょう。朕は惜しみはいたしませぬぞ」陳摶は言いました。「陛下が誠実な心を開かれ、公正な道を布かれ、天下を治めてくだされば、天下も幸甚、微臣も幸甚にございます。たとい終日朝廷に立ったとしても、このことを申しあげるに過ぎません。わたくしは陛下の厚いご愛顧を受け、他のことは願いませぬ。陛下には、この華山の周囲の土地を、証文を書き、わたくしにお授けください。わたくしが千秋御恩に浴することができれば、一時わたしを求められようとしたご厚意は消えることなく、聖上が隠逸を手厚く遇されていることが示されることでしょう」陳摶がそう言いますと、太祖は喜んで紙と筆を求めて書きました。陳摶が恩徳に謝しますと、太祖は車駕を整えるように命じ、都に戻っていきました。陳摶は嘆きました。「天下はこれで定まった」証拠に詩がございます。
紛紛たる五代乱離の間、一旦にして雲開け復天を見る。草木は百年にして雨露[33]は新たに、車書[34]は万里にして山川は旧し[35]。尋常の巷陌に簪紱[36]多く、取次[37]楼台に管弦を列ぬ。人は太平にして兵馬の無きを楽しみ、鶯花は限り無く日高くして眠る。
宋の太祖が帝位に登りますと、石守信らが上奏しました。「遼、漢が辺境を侵しております。聖駕が親征されれば、兵士は始めて命令に従いましょう」太祖は李維勲に先鋒、王全斌に統軍都督指揮使、石守信に護駕大将軍になるように命じました。三軍はその日のうちに出発し、太原に向けて進み、一日足らずで董沢に到り、北の陣と対峙して、寨を築きました。次の日、太祖は陣幕に入り、言いました。「朕は太原の地理を知らないが、今その実情を窺いたい。朕を輔けて行くものは誰かいるか」。曹彬は言いました。「陛下がみずから往かれることはございません、二人のものを行かせれば十分でしょう」太祖は言いました。「もとよりそなたの言う通りだが、目で見ることの確かなのには及ぶまい」しばらく考えますと、王彦昇、遵訓に言いました。「そなたら二人は良い馬を二頭選んで、西夏の馬を売る客商の装いをして、太原に入り、地理を看て、周囲の形勢を図に描き、持ち帰って朕に観せよ」言いますと、二人は命を受けて去っていきました。
さて北漢の君主は姓を劉、名を鈞といい、妹は薛釗に嫁いでいました。釗はある日ひどく酔い、その妻を殺そうとし、その妻は衣を揮って逃げました。釗は次の日になり、酔いが醒めますと、漢王に辱しめられることを恐れ、自刎して死にました。釗は一子を生み、名を継恩といいましたが、鈞には子がなかったため、継恩を養って自分の子としました。その妹は何元業に再嫁し、二人の息子を生みました。長男は継元、次男は継業といいました。鈞はかれらも養って自分の子としました。漢王鈞が亡くなりますと、継恩は漢王の位に就き、周と敵対し、遼に対しては子と称し、遼に援軍を乞い、周を侵しました。遼は耶律于越に兵三十万を率いさせ、嶺南[38]から出撃しました。漢主は継元に元帥、継業に先鋒になるように命じました。継業は佘氏を娶り、七人の子、淵平、延広、延慶、延朗、延德、延昭、延嗣を生み、さらに二人の娘、淇八娘、瑛九妹を生みました。かれらはともに騎射が得意で、韜略に精通しておりました。継元は兵二十万を率い、白坂河[39]に至り、寨を築きました。この時、宋の兵が向かいあう董沢[40]に寨を築いているのを見ますと、すぐに延広を遣わして宣戦布告書を送り、次の日に交戦することにしました。時に宋の兵は董沢に着いてからすでに五日が経っていました。太祖は陣幕に入り、王、遵二人のことを考えておりますと、たちまち漢主が人を遣わして宣戦布告書を届けてきたという報せがありました。太祖が召し入れますと、文書を差出しました。太祖は見おわりますと、延広にむかって笑いながら言いました。「太原は弾丸の地[41]で、破るのが難しいことはないだろう。帰ってそなたの主君に申せ。すみやかに投降し、王侯に封ぜられる機会を失わないようにするのだと。土地が堅固であるのを恃んで服さないなら、日ならずして捉えよう。生きるのを求めても難しかろうぞ」そして明日会戦することにしました。延広は命を受け、轅門を出ようとしますと、王、遵が陣幕に入り、地図を呈上しました。太祖は広げて看おわりますと、言いました。「太原はこのわしの目の中にある」そこで虎将桑錦を呼び、今夜兵三千を率い、白坂河の左側、大汀淵[42]という地に行き、伏兵となり、明日の午の刻になったら白坂に押し寄せてくるように命じました。さらに米輪を呼び、兵三千を率い、白坂河の右側、鶏籠山という地に行って、伏兵となり、明日の未の刻になったら白坂に押し寄せてくるように命じました。米輪は言いました。「わたくしを桑錦に後れて突入させるのは、失敗があるのを恐れているからでしょうか」太祖は言いました。「土地に遠近があるからにすぎぬ。あまり心配することはない」二人の将軍は晩になりますと、兵を率いて潜伏しにいきました。太祖はさらに高懐德に命じ、明日兵三千を率い、大汀洲に往き、桑錦を応援させ、張令鐸には兵三千を率い、鶏籠山に往き、米輪を応援させることにしました。さらに、王守貞、李継仁に、明日兵一万を率い、近道をして白坂河の後ろに出て突進し、曹剛は兵五千を率い、守貞らを応援するように命じました。太祖が分担を決めますと、諸将は命を受けて去っていきました。
●継業が兵を動かして宋を阻むこと
さて北漢主は陣幕に入りますと、諸将に言いました。「南兵のこのたびの来襲は、昔とはまったく違うが、奇計を用いてはじめて勝つことができるだろう」言いますと、延広が戻ったという報せがありました。延広は陣幕に入りますとこう告げました。「わたくしが観ましたところ、宋の君主は勇猛で、尋常の輩ではございません」漢主は言いました。「何と申していたのだ」延広は言いました。「そなたの主君が投降してくれば、王侯に封ぜられるであろうが、そうでなければ、明日決戦すると申しておりました」漢主は言いました。「かれらの陣を観て、攻撃できる処はあったか」延広は言いました。「隙はありませぬ。ただ轅門を出た時、二人の男が入ってゆくのを見ましたが、先日こちらで馬を売っていた人物に似ておりました。道々考えたのですが、あのものはきっと間者で、土地の形を窺いにきた者なのでしょう」言いますと、継業が上奏しました。「分かりました。聖上が兵を動かして防がれれば、かれは必ず捕らえられましょう」漢主は言いました。「卿はなぜそれが分かるのだ」継業は言いました。「左側は大汀洲、右側は鶏籠山、二箇所に伏兵を置くことができます。宋人は地形を窺ったのですから、かれらは必ず兵を遣わしてここに潜伏させましょう。急いで兵を動かして、途中で阻み、かれらが進攻できないようにさせればよいのです」漢主は言いました。「それが分かっているのなら、はやく兵士に防がせよ。孤は止めはせぬ」継業は勅旨を得て退出しますと、陣中で淵平、永吉を呼びました。「明日の五鼓に、そなたら二人はそれぞれ兵一千を率い、いっしょに左側十五里の路上に行って待機して、号砲が響いたら、一人は大汀洲に殺到し、一人は馳せ戻ってくるのだ」さらに延惠、張德を呼びました。「明日の五鼓に、そなたらもそれぞれ兵二千を率い、いっしょに右側十里の路上に行って待機して、号砲が響いたら、一人は鶏籠山に殺到し、一人は馳せ戻ってくるのだ。しくじるな」さらに妻の佘氏に、白い令字旗を立て、兵一千を率い、白坂河の後ろへ往き、交戦するように言いました。受け持ちが決まりますと、延惠、淵平らはそれぞれ仕度をして去っていきました。
さて、太祖は次の日陣に臨み、頭には双龍昇天黄金盔を戴き、身には双龍昇天繍龍袍を着け、頭上は七簷の繍龍黄羅傘に覆われ、騰雲赤龍駒に跨りました。左手には王全斌、張光翰、潘仁美ら十八人の大将が並び、右手には李継勛、石守信、趙彦徽ら十八人大将が並び、一文字に南に展開しました。北漢主は頭に篏金日月鳳翅の盔を戴き、身に灑花滾龍の衣を着け、頭は珍珠黄羅傘に覆われ、鉄蹄碧玉驄に跨り、上手には継元、耶律休材、張知鎮ら十五人、下手には継業、不花顔児ら十五人がおり、一文字に北に展開しました。太祖は命令を伝え、両軍に無駄矢を放たないようにさせ、二人の君主がみずから出てきて話しをすることにしました。証拠に詩がございます。
旗は西風に拂はれ剣は虹を吐き、師を陳べて旅を列ねともに雄を争ふ。山河は古より真主に帰す、枉しく軍前に向かひて舌鋒を鼓す。
太祖は馬上で尋ねました。「漢主どのはいずこにおられる」漢主は答えました。「孤はここにおるぞ。話は何だ」太祖は言いました。「なんじは太原を盗んで居座り、孤だの寡だのと称し、一隅に生を貪っている。もう十分だ。どうして謀反を企てるのか。朕が来たのは禍乱を平らげ、民草を水火[43]の中から救い、天下を統一するためだ。なんじが上は天運を知り、下は人事を窮め、戈を横たえ、鎧を棄て、手を束ねて帰順すれば、廟に血食[44]が絶えることはない。もし頑迷に抗戦すれば、断じて許さぬ。投降をするか否かを、はやく自ら決めるがよいぞ」漢主は言いました。「三代[45]以来、漢の高祖のみが三尺の剣を提げ、無道の秦を誅し、天下を最も正しくしたが、後世の人々はそれが誤りだったと言おうとはしない。なんじのように孤児寡婦などの人々を虐げて、神器を盗むものとは違う。孤は高皇[46]の後裔であり、この土地を治めているのも、先祖の旧い領土を守っているにすぎない。天にまします高皇の魂が、孤を助け、諸鎮を討って、天下を回復させるのは、当然のことで、過ちではない。なんじは今、みずからが土地を盗んで居座っていることをこそ責めるべきで、孤を責めることはできまい」かれがそう言いますと、太祖は怒って言いました。「誰か朕のためにあの賊を捕らえてくれ」右手の李継勛、左手の王全斌は返事をして出撃しました。北陣からは継元、継業の二騎がともに出てきて交戦しました。四人の将軍は交戦すること数十合、勝負はつきませんでした。太祖はすぐに号砲を放つように命じ、みずから出撃しました。継業は考えました。「太祖を捉えれば、百人の将軍を斬るのに勝ろう」そこで勇を奮って陣に突進してきて太祖と戦いました。太祖も精神を奮い立たせ、敵を迎えること三四十合、伏兵が押し寄せてくることを望みました。継業はその考えを知りますと、負けた振りをして逃げました｡太祖は追いかけ、継業は弓を取り、矢を番え、太祖の胸めがけて射かけました。馬はたちまち頭を上げて飛び上がり、矢を受けて、太祖を地面に振り落としました。継業がまさに進み出て斬ろうとしますと、たちまち潘仁美が殺到して、大喝しました。「逆賊め、わが君を傷つけようとするつもりか」槍を突き出しまっすぐに継業を捕らえようとしました。太祖は馬に跳びのりました。継業は投槍を仁美の馬に中て、仁美は馬から落ちました。継業はかれを捨ておき、太祖だけを追いかけました。太祖は仁美が地面に落ち、継業がさらに紅い令字旗を立てて追い掛けるのを見ますと、ひそかに嘆きました。たちまち二人の将軍が押し寄せて聖駕を救おうとしましたが、それは李瓊勲、王全斌でした。これより先、李、王の二人の将軍は北陣に突入し、漢主を追い掛けましたが、北兵が一斉に「先鋒が宋の君主を射殺したぞ」と叫ぶのを聴きました。声は鼎が沸きたつかのようでした。李、王の二人の将軍は大いに驚き、急いで馬を止め、太祖を救うために馳せ戻ってきました。太祖は慌てて叫びました。「仁美は馬が賊の槍に中たり、今、地面に墜ちているから、先鋒がはやく行き、救ってやれ」李継勲はそれを聞き、馬に鞭打って救いにゆきますと、北軍は仁美を取り囲み、槍で刺しまくっておりました。仁美は地面で左に跳び右に跳び、槍を東に躱し西に避け、まるで拳を打っている[47]かのようでしたが、継勛を望み見ますと、大声で叫びました。「先鋒どの、お助けくだされ」継勛は北軍を追い散らし、その馬を奪い、仁美とともに騎り、轡を並べて北陣から脱出しました。継業は南陣の中で、左を衝き右を突きして、無人の境に入ったかのようでした。さらに兵士に大声で叫ばせ、宋の君主を捉えようとしました。北漢主は李、王の二人の将軍に追いかけられ、逃げたとき胸が痛みましたので、追うのをやめ、自分に不測の災があることを恐れ、銅鑼を鳴らして軍を退きました。
太祖も銅鑼を鳴らして軍を退きました。陣に戻って仁美に会いますと身に数十余箇所槍を受けておりましたので、言いました。「卿は重傷を負い、朕は心に忍びない」そして汴梁に戻って養生するように命じました。さらに尋ねました。「三路の軍の兵士が一人もこないが、どうしてだ」言いますと、三路の敗軍が戻ってきて報告をしました。左側では、淵平、永吉が兵を率いて途中に潜んでおり、号砲が響きますと、一人が桑錦を迎え撃ち、一人が高懐徳に応戦しました。右側では、延惠、張德が兵を率いて中途に潜み、号砲が響きますと、一人が米輪を迎え撃ち、一人が張令鐸に応戦しました。王守貞、李継仁とは一人の婦人が白い令字旗を立てて交戦し、勇猛さには敵う者なく、王守貞は危うくその女将軍に殺されるところでしたが、さいわい李継仁が画戟で斬りかかりましたので、その女はようやく守貞を逃がしました。継仁と守貞の二人が挟み撃ちにしましたが、その女将軍はすこしも怯えませんでした。その後さらに二人の将軍が殺到しますと、王守貞、李継仁は敗走して陣に戻りました。話しをしますと、太祖は驚いて言いました。「朕は初めその女の無謀であることを馬鹿にしたが、今この人を観るに、兵を進めるさまは孫、呉に劣らない。朕は朝晩不安だが、その女は何者だろうか」証拠に詩がございます。
太原の継業は独り霊を鍾め[48]、卓犖[49]として胸に藏すは万甲の兵。敵を摧き囲みを破り風は凍を解き、宋君は驚き訝り威名を詢ぬ。
さて、太祖は北漢の兵を進めていた人のことを尋ね、兵士を点呼してみますと、一万人を失っておりました。太祖はとても悲しみました。曹彬らは上奏しました。「敵はわが軍が撃破されたと考えて、きっと備えをしていないことでしょう。今晩、かれらの寨を奪いにいくことを、陛下はよいと思われますか」太祖は言いました。「朕もその考えだ。ただし、今日兵を進めていた者の謀略は優れているから、恐らくこちらの謀略は見通されており、行けば徒らに軍を損なうことだろう」曹彬は言いました。「構いませぬ。わたくしは数千の決死隊を率いて空の寨を奪いにゆき[50]、外に潜んでいる敵軍が押し寄せてまいりましたら、陛下がさらに大隊を率いて襲撃なさってください。かれらには智謀がありますが、ここまでは考え及ばぬことでしょう」そこで太祖は曹彬、石守信に五千の決死隊を率いて漢の寨を奪いにゆくように命じました、さらに王審琦、王彦昇、李継勛らに三万の精鋭を率いて襲撃するように命じました。分担が決まりますと、三更に出発するのを待つばかりでした。
さて、継業は陣に戻りますと、漢主に見えて言いました。「わたくしは宋の君主を捕まえようとしていましたのに、どうして軍を退かれたのでしょう」漢主は言いました。「孤は胸がにわかに痛み、不測の事態があるのを恐れ、軍を退いたのだ」継業は言いました。「宋の兵は敗れましたが、大将は損なわれてはおりませんから、今晩きっと寨を奪いにくることでしょう。三軍は寨を出、空の寨を残さなければなりませぬ。交戦なさる必要はございません。かれらが号砲を放ったら、おまえたち[51]も号砲を放ち、見せ掛けの声を張り上げ、夜明けになったら様子を看て交戦するのだ」漢主は言いました。「かれらが寨を奪いにきたら、闇に乗じて殺すのに、どうして戦を交えてはならぬのだ」継業は言いました。「宋の君主の用兵は、曹瞞[52]と同じで、決死隊を先に入らせ、その鋒先は防ぐのが難しいことでしょう。大砲を放ち、喊声をあげ、かれらの大隊を欺き、突入させれば、中にいる軍は勇を奮って出撃しましょう。双方が同士討ちすれば、交戦をするよりましでございましょう」言いますと、漢主は大いに悦びました。三軍は計略を授かりますと去っていきました。
さて曹彬、石守信は決死隊を率いて北営に突入し、号砲を放ちますと、北営も大砲を放ち、喊声をあげました。曹彬らは軍が突進してきたと思い、すぐに出撃し、王審琦らも北兵が出撃してきたと思い、まっすぐに突進しました。ともに味方であることに気付かず、一晩闘い、空がかすかに明るくなりますと、はじめて味方であることを知りました｡軍を退こうとしますと、継業が兵を駆って出撃し、大勢の兵を斬りました｡太祖は大いに泣いて言いました｡「両陣はこんなに兵士を損なってしまったわい。どうしたらいいだろう」さらに尋ねました。「敵は何者が謀を立てているのだ。朕はかならず計略を立てて捕らえてやろう」石守信は上奏しました。「巡邏の兵の報告によれば、令公であるということにございます」太祖は言いました。「名を令公ともうすのか」守信は言いました。「いいえ、名は継業ともうします」太祖は言いました。「なぜ令公と呼ばれているのだ」守信は言いました｡「継業が出撃するときは、紅い令字旗を立て、その妻が出撃するときは、白い令字旗を立てますので、令公、令婆と呼ばれているのでございます」太祖は言いました。「朕もこの者は勇気があって、戦上手で、北方で無敵将軍と称されていることを聞いていたが、さらに玄妙な智術を持っているとは思わなかったわい。朕がこの者を帰順させることができれば、四方を征討するときも心配はない」そして兵士に休むように命じました。ふたたび太原の地図を取って看ますと、すぐに何継筠、王彦昇を呼び、兵五千を率いて、石嶺関[53]を過ぎ、鎮定関[54]に行き、寨を築き、遼の兵が到着したら、彦昇が防ぐように命じました。「そなたが嶺の麓で兵を率いて、その退路を絶つ振りをすれば、敵兵は必ず退き、前進しようとしないだろう」さらに王全斌、桑錦を呼び、兵三千を率い、莫勝坡[55]に潜み、太原の兵が来れば、すぐに出撃して防ぐように命じました。太祖が分担をきめますと、四将軍は兵を率いていきました。
●継業が夜に天文を観ること
さて継業は軍を退きますと、その夜、天文を仰ぎ観ました。次の日、漢主の御帳[56]に入り、上奏しました。「わたくしは昨晩星を仰ぎ観ましたが、畢舍[57]月宿に、長雨がある兆しが見えました」漢主は言いました。「どうしたらよいだろう」継業は言いました。「命令を兵士に伝え、外に出て柴を刈らせましょう。軍を三隊[58]に分け、一隊は太鼓を敲いて喊声をあげ、一隊は炮箭を執り、敵を待ち、一隊は柴を刈るのです。戻る際には、『南蛮を焼き尽くせ』と一斉に何回か喊声をあげるのです」漢主は言いました。「それはどういうつもりなのだ」継業は言いました。「敵の心を惑わして、われわれのすることを知られないようにするためです」さらに張得、永吉を呼び、兵三千を率い、鎮定関に往き、遼の兵を迎えさせることにしました。漢主は言いました。「孤は遼軍が救いにくるのを望んでいるのに、なぜ兵にかれらを迎えにゆかせるのだ」継業は言いました。「先日、宋が兵を進めるのを観ましたが、かれらは地理をよく知っておりました。かれらは必ず兵を発して鎮定関に往き、遼の兵を阻むことでしょう。ですから兵を動かして迎えるのです」そして、二人の将軍に言い含めました。「路にはきっと伏兵がおかれているから、心して防ぐように」二人の将軍は兵を率いて去ってゆきました。
さて、宋軍は北軍が喊声をあげて柴を刈っているのを見ますと、次の日、陣幕に入り、太祖に上奏しました、「北軍がかくかくしかじかしております」太祖はその意が解せませんでしたので、心配し、落ち着きませんでした。その夜、天気は清朗でしたので、太祖は諸将とともに陣幕を出て、星を観て、言いました。「漢主の運気は衰えたが、すぐには絶えぬな」言いますと、明月を顧みて、大いに驚き、地団太を踏み、何度も嘆きました。諸将は言いました。「どうなさいましたか」太祖は言いました。「朕は毎日兵士を失うことを憂えて、天文を観なかった。今見ると月が畢[59]を離れているから、大雨はやまないだろう」諸将は言いました。「明日も兵士を出して柴を刈らせましょう」太祖は言いました。「明日午、未の刻になる前に、土砂降りになるだろう」次の日、兵士に柴を刈らせましたが、昼になりますと、はたして大雨になりましたので、北漢主は言いました。「南蛮には半日の薪があるだけで、幾らもあるまい」証拠に詩がございます、
宋主は軍を傷しみ未だ星を睹ず、薪蒸[60]未だ備はらず苦は耐へ難し。滂沱として子夜傾くること注ぐが如く、悶損す沙場戍客[61]の心を。
太祖は雨のため悶々として本陣に坐していましたが、たちまち何承睿が陣に戻ったという報せがありました。太祖は言いました。「大雨だが、今、承睿が戻って勝利を報告したので、朕の心は少し慰められた。継業を恐れさせるにも十分だ。これからは、あのものはわが軍を軽視しようとしないだろう」諸将はまだ信じませんでした。承睿は陣幕に入りますと、上奏しました。「大遼は耶律于越に命じ、兵を率いて鎮定開に至らせました。われら父子が聖上の計略の通りにしますと、于越は怯え、三十里退いて寨を築き、救いにこようとしませんでした。臣は戻ってくる途中、王全斌麾下の遊撃兵[62]に遇い、漢主が張得、永吉に兵を率いて遼の兵を迎えにゆくように命じたということを聞かされました。二人の将軍は傲慢で、この土地に伏兵がいる怕れはないと言い、莫勝坡に着きますと、その地に夜営し、軍勢は楽しく飲んで、大いに酔いました。王全斌は軍を率いて包囲してみな殺しにし、逃がれたものは一人もおりません」太祖は言いました。「雨だったのは惜しいことだ。そうでなければ大事は成し遂げられていたのに」承睿は言いました。「わが父は、陛下が再び兵を遣わされ、防がれることを望んでおります。遼がわが兵の少ないことを知り、大隊を駆って押し寄せてくれば、敵を防ぐのは難しいことでしょう」太祖は言いました。「大丈夫だ。長雨だが、晴れたら太原を破るとしよう。遼の兵はわれわれの消息を聞いただけでも逃げるから、兵を増やす必要はない」さらに言いました。「継業は天文地理を知り尽くしており、ほんとうに神のような人物だ」承睿は言いました。「わたくしはかの地で人が『交戦し、紅白の令旗に遇えば、生きるか死ぬかはかれら次第で、運命は関わりない。』と言っているのを聞きました。その名声は雷の轟きが耳を貫くかのようでございます」証拠に詩がございます、
戦闘は夫が能くし婦も亦能くし、威声は[雨虢][雨虢][63] 雷の轟くが若し。令旗紅白飄揚して到り、十将之に逢はば九は生きず。
太祖は承睿の言葉を聞きますと言いました。「朕は計略を設けてしばしば破られたが、その者の名声は、はたして偽りではなかった」諸将は言いました。「なぜ張、永二人の将軍が全斌に斬られたのでしょうか」太祖は言いました。「継業の罪ではなく、二人の将軍が命令を聴かなかったためなのだ。継業がみずから軍を動かせば、きっとこの禍はなかっただろう。看たところ、継業の智略は、朕よりはるかにまさっている。太原を取ろうとするなら、先に継業を得ねばならぬ。継業を得れば、太原は取るに足りない」この時は雨風が続き、一か月になろうとしていました。ようやく二日晴れますと、太祖は兵を遣わして戦いを挑みました。このようにすることが幾たびにもわたりました。漢主は継業を召して陣幕に入れ、尋ねました。「南兵は晴れればすぐに出てきて戦を挑むだろうが、大遼の援軍はまだ来ていない。どうしたらいいだろう」継業は言いました｡「南兵が戦いを挑むのは、惧れるに足りません。ただ、遼の兵は時間からして、そろそろやってくるはずですのに、今、来ないのは、きっと路に妨げがあるからです」言いますと、兵士に香案を置かせ、卦を得て吉凶を看ました。そして帰妹の卦[64]を得ますと、言いました。「妨げの神が盛んですが[65]、凶ではございません」漢主は言いました。「すでに張、永両名に命じて迎えにゆかせたのだから、どんな妨げがあるかは、兵卒[66]が報せにくることだろう」継業は言いました。「張、永両名の吉凶を占いましょう」占って師卦を得、三爻[67]の表れかたから[68]、判断しました。「六三は、師あるいは輿尸、凶にございます。[69]」大いに驚いて言いました。「張、永二人の将軍はおしまいです」言いますと、宋の兵が喊声をあげて戦いを挑んできました。漢主は言いました。「書状を書いて、宋の兵を欺いて退かせた方がよかろう。孤が太行山に上れば、かれらはどうすることもできまい」継業は言いました。「書状を書いて、降伏すると言われれば、難を逃れることができても、弱さを示すこと甚しいことですから、絶対になさってはなりませぬ」漢主は言いました。「宋の君主が新たに周の禅譲を受け、蜀を伐ち、越を討ち、往けばかならず不利になることがないのは、天意があるからなのだろう。わしがもし逆らえば、民草を損ない、天に罪を得、逃れることは難しかろう。とりあえず天下の地理を論じれば、宋は十中九を得ている。これに比べれば、孤はもともと弱小の国である。小をもって大に仕え、弱きをもって強きに仕えるのは、事局の趨勢を知る者がすることだ。だから太王[70]、勾践は、その昔、それを行ない、始めて存続を図り、最後には強大になったのだ。そなたは孤が弱さを示すと申しているが、かの太王や勾践のしたこともよくないのか」継業は言いました。「聖上の仰ることはご尤もです。そのようになさるのでしたら、奇兵[71]を出して、大いに戦われるべきでしょう。宋は志を遂げられなければ、はじめて願いに従うでしょう。そうしなければ、かれらは兵を退こうとはしないでしょう」漢主は言いました。「卿はよく考えて行なうべきだ」継業は言いました。「聖上も偽りの降伏文書を書くことは必要なく、恐ろしさを示し、かれらに兵を退かせれば宜しいのです」そう言いますと、延広に命じて三千の鉄石[72]の弓兵を率い、その晩に董沢の右側の山麓に潜み、明日号砲が響いたら、兵を駆り、ともに出て射させるようにさせました。延広は計略を授かりました。次の日は晴れましたので、太祖はさらに兵を遣わして戦を挑みました。昼近くなりますと、空はたちまち暗くなり、太祖は軍を退きました。継業は勢いに乗じて兵を駆り、出撃して追いかけ、宋の陣に逼りました。延広は号砲が響くのを聞きますと、軍を促し、一斉に弓弩を射させ、数知れぬ宋の兵を射殺し、とても多くの馬、槍、旗を奪いました。漢主は軍を退きますと、継業に言いました。「卿のすぐれた考えは、まるで周の尚父[73]のようだ」その話しはここまでといたします。
さて、太祖は継業によって大いに攻撃され、軍数万を失いますと、悲しむのをやめませんでした。するとたちまち轅門の外で、北漢主が人を遣わして書状を届けてきたという報せがありました。召し入れますと、書状を差し出しました。太祖がその手紙を見てみますと、
北漢主書を大宋の皇帝の麾下に致す。
孤今師を出し恨みを雪ぐは、周の為なり、宋の為に非ず。詎ぞ意はん陛下承乾[74]し、乃ちその会に遘はんとは。第周守既に滅び、冤仇すでに絶ゆれば、孤復何をか憾まん。実に兵を罷め、生霊[75]を休養せんと欲す。陛下も亦肯へて斯民[76]に父母たるや否やを知らず。然るに太原は、劉氏の廟貌[77] 焉に在れば、縦ひ百計もて之を図らんと欲するも、孤必ず百計もて防ぎ、以て世守の義を尽くし、劉氏の血食[78]を存せんのみ。惟はくは陛下之を憐れみ、之を諒とせんことを。
北漢主端粛謹書。
太祖はそれを見ますと、諸将に示しました。諸将は太祖に兵を退く気持があるのを知りますと、叩頭して死力を尽くし、先に急襲しようとしました。太祖は言いました。「そなたらは、みな朕が訓練した、一をもって百に当たる者たちばかりだから、側近くに置き、喜びと悲しみをともにしている。朕は太原を得ることができなくても、なんじらを駆って鋒刃を冒し、必死の地を踏ませたりはせぬ」
人々はみな感泣しました。時に長雨のため、兵士は多くは病んでおりました。太常博士李光賛が上奏しました。「ちっぽけな晋陽を、聖上がみずから討たれているために、兵糧は膨大となり、聖上は民草に怨まれていらっしゃいます。陛下は鑾駕を還されて、一人の大将に上党に駐屯するよう、お命じになられるべきでございます。夏にはその麦を取り、秋にはその稲を取れば、糧秣が満ち足りて、兵士らは食物を得ることでしょう。とりあえず徭役を緩め、働く者を休ませるのが、平定の策でございましょう」太祖はそれに従い、先鋒の李継勲に上党に駐屯するように命じ、さらに人を遣わして何継筠らを撤退させました。そして趙普に命じて諸将に、囲みを解いて還ると通告させました。漢主も太行山に上ってゆきました。
その後、乾德七年に、太祖は人を遣わして、漢主に書状を届けさせました。その文面は、
太原の土宇、遠くして苗裔[79]の正朔加はらざる者の比に非ず、乃ち朕の輦轂の下なれば、外氏をして据りて之を有せしめ難し。之を譬ふれば臥榻の上、他人の鼾して睡るを容るべけんや。子は今強きを恃み、此の土に虎踞す。若し果たして勇有りて、早く太行を下り、一雌雄を決せば、家国の事定まるに庶幾からん。然らずんば、干戈擾攘し、歳に虚しき日無く、汝巣穴に寧居せんと欲するも、難の難なり。
漢主は看おわりますと、それを継元、継業に示しました。継業は言いました。「聖上は返事をなさる必要はなく、兵が来るのにお任せください。わたくしには、おのずから敵を退ける策略がございます」その後、開宝九年秋八月になりますと、太祖は党進、潘仁美、楊光美、牛思進、米文義に命じ、五路の兵を進め、太原を攻撃させることにしました。漢主は慌てて群臣と兵を退ける策を相談しました。継業は言いました。「人を遣わして遼に救援を求めましょう」遼は耶律に兵三十万を率いて救うように命じました。継業は計略を設け、五路の兵をみな撃破して戻りました。耶律も兵を率いて遼に戻っていきました。
●太祖が太宗に位を授けること
さて開宝九年の冬十月、太祖が病になりますと、晋王は参内して見舞いをしました。太祖は言いました。「なんじは龍行虎歩[80]で、いずれ、太平の天子となるはずだが、必ず賢い宰相の輔佐を得なければならない。朕が西都に御幸したとき、儒生がいた。姓は李、名は斉賢といい、学問は深いものの、狂妄であったため、朕はその時腹を立て、採用するに及ばなかったが、今でもそれを悔やんでいるのだ。なんじが抜擢して宰輔とするがよい。文臣がいれば、武将がいなければならぬ。朕が太原を征伐したとき、一人の将軍がいた。名は継業といい、人々は「令公」と呼んでいた。この人は天文、地理、六韜、三略に精通しており、兵を進め、陣を布き、玄妙で測り難く、智勇兼備の士であった。朕は継業を用いたくてたまらない。後日、なんじが太原を破り、かれを得たら、兵権を授けるべきだろう」さらに言いました。「朕は太后さまが昔病気になられたときに、五台山に参拝することを約束した。朕が想うにこの病は癒えないから、朕の死後[81]、そなたが代わりに行ってお礼をするべきだろう。それに太后さまの遺命を、深く心に刻んでいるが、帝位は必ずそなたに伝えなければならない。そなたは朕の命令に遵うべきで、頼みに背くことがなければそれでよい」晋王は言いました。「陛下の万万春秋[82]を願っております。わたくしは受けるわけにはまいりませぬ」太祖は言いました。「そなたはひとまず退くがよい。明日決定をするとしよう」晋王は退きました。その夜、病が重くなりますと、太祖はふたたび晋王を召し、趙普が参内しますと、後事を言い含めました。太祖は趙普に言いました。「そなたは今から証人となってくれ。朕は謹んで太后の立長[83]の命に遵い、位を晋王に伝える。その後も順番に伝えるべきで、朕の意思に負いてはならぬ」言いますと、誓約書を作り。それを金滕匱の中に置くように命じました。さらに趙普および近臣に座を外すように命じ、晋王を召して寝台の前に来させ、後事を言い含めました。近臣たちには声が聞こえず、はるかに蝋燭の影の下、晋王が席を離れ、謙遜をしているような様子が見えるだけでした。その後太祖は斧を引きよせ地を突き、大声で晋王に言いました。「よろしく頼む」にわかに帝は崩じました。時はすでに四更でした。王皇后は晋王が愕然としているのを見ますと、すぐに叫びました｡「われら母子の命は、すべて陛下にお任せいたします」晋王は言いました。「共に富貴を保てば、憂えはございません」証拠に詩がございます。
太祖の心は堯に似、皇綱を弟に授くるに棄つること毛の如し。早く身後盟誓に違ふを知らば[84]、何ぞ似ん当初与へざるの高きに。
太祖が崩じますと、太宗が即位しました。文武官たちは朝賀をおえますと、王皇后を奉じて開宝皇后とし、西宮に遷しました。天下に大赦をおこない、太平興国元年と改元しました。弟の光美を斉王、德昭を武功郡王、德芳を山南西道節度使、同平章事、八王を殿前都虞候指揮使兼南北招討大将軍、子の元侃を七王に封じました。文武の大官も小官も、それぞれ一級昇進させました。太宗は帝位に登りますと、群臣に言いました。「先帝には遺命があり、太原を取り、五台山に参拝するようにとのことだが、そなたらは二つの事のどちらを先にしようと思うか」曹彬は言いました。「今、わが国の兵は精強、かれらを駆って太原の孤壘を取るのは、枯れ木、朽ち木を砕くようなものです。太原を破れば、勢いに乗じて五台山に参拝することができ、とても都合がようございます」太宗は言いました｡「参拝の気持ちが専一でなければ、神さまはご照覧なされぬだろう」曹彬は言いました。「五台山は太原の北にございます。今参拝しにいかれては、大遼が前で戦い、北漢が後ろを襲い、進むことも、退くこともできません。これはみずから虎の穴へと陥ることではございませんか。ひとまず太原を取れば、五台山へいく路を取ることができ、神さまもわれらの誠意をご照覧なさらぬはずがございません」帝の考えは決まりました。潘仁美に北路都招討使となり、崔俊彦、李漢瓊、劉遇春、曹翰、米信、田重進を統率し、道を分けて北漢を征討させ、党進には先鋒となるように命じました。さらに郭進に命じて兵三万を率いて、白馬嶺に往き大遼の援軍を阻ませることにしました。そして郭進を太原石嶺関都部署に封じました。郭進は兵を率いていきました。
さて大遼の蕭太后は撻馬長寿を遣わしてきて、尋ねました。「宋はいかなる名目で兵を遣わし漢を伐つのだ」太宗は言いました。「太原は朕の土地だが、かれらは今、そこを占拠し、しばしば禍をもたらし、大いに理に逆らっている。それゆえに兵を発して罪に問うのだ。なんじは帰って主君に告げよ。兵を発して救わなければ、元通り和約する。もし護ったら、有無を言わさず、戦うだけだ」長寿は帰りますと蕭太后に上奏しました。太后は言いました。「南朝がかくも不遜なことを言うのは、先帝さまが亡くなったことを侮っているからだ」大遼の君主賢[85]は亡くなり、子の粱王隆緒が立ちましたが、生まれながらに脚の病がありましたので、尊母蕭氏が太后となり、国事を判断しておりました。この時になりますと南府宰相耶律沙を統軍大元帥とし、冀王敵烈を監軍とし、兵十万を率いて漢を救わせました。太宗の兵は絳陽に駐屯し、北漢主は柳都[86]に駐屯し、両軍は一月あまり相対しました。太宗はある日陣幕に入り、ふたたび太原の地図を看ました。それがおわりますと、崔彦俊、石守信に命じ、それぞれ兵五千を率い、太行山に潜み、漢主が負けて戻ってきたら、すぐに出撃しその退路を絶つようにさせました。さらに李漢瓊、劉遇春に命じ、それぞれ兵五千を率い、陰丘[87]に潜み、漢主が敗れて戻ってきたら、すぐに兵を出して遮りとめ、大遼に逃げ込ないようにさせることにしました。さらに曹翰、王全斌に兵三万を率いさせ、明日、東から柳都に突入させることにしました。桑錦、米信に兵二万を率いさせ、明日、西から柳都に突入させることにしました。さらに先鋒の党進、李継勲に鉄騎一万を率いさせ、明日、中央から突入させることにしました。さらに潘仁美に兵十万を率い、太原城を攻撃させることにしました。さらに曹彬、張光翰を左右救護とし、それぞれ鉄騎五千を率いるように命じました。崔彦俊らは計略を授かりますと去っていきました。
次の日、北漢の探馬が急いで漢主に報せました。「大宋の兵が三路に分かれて押し寄せてまいりました」漢主は言いました。「昔、宋の兵が侵入したとき、継業に撃たれたために、かれらはわが軍を正視しようとしないのだ。本日は不幸にも業が病んだが、誰がふたたび孤のために敵を破ってくれるのだろう」言いますと、潸然と泪を落としました。すると一人の男が声を励まして言いました。「上さま、女子供のすることをどうして真似られるのでしょう。かれらには城を攻める策がございますが、われらにも城を守る謀がございます、わたくしが上さまのために敵を破ってさしあげましょう」人々が見ますと、それは宰相の郭無為でした。漢主は言いました。「そなたにはどのような策があるのだ」郭無為は言いました。「聖上にはわたしに命じて将軍たちを指揮させてくださいますよう。わたしにはおのずから敵を破る策がございます」漢主は言いました。「大宋の兵は寨の外におり、はなはだ危険が迫っているから、孤は今、宰相に敵を撃退するように命じよう。将軍たちに命令を聴かない者があるときは、奏聞をする必要はない、すぐにこの剣で誅殺するがよい」無為は跪いて命を受けますと、すぐに継喁、李勛を呼び、兵三千を率い、左から出撃して敵を迎えさせました。さらに楚材、薛陀佳を呼び、兵三千を率い、右から出撃して敵を迎えさせました。さらに淵平、方伯、任牛を呼び、兵一万を率い、聖駕を守って中から出撃させました。さらに張明を呼んで先鋒とし、兵三千を率い、先に出て敵を迎えさせました。さらに延惠、継芳を呼び、軍一万を率い、左右救護としました。諸将は兵を率いていきました。
さて宋の兵は三路にわかれ、大隊と小隊で殺到しました。宋の党進は単騎で先駆けますと、漢の先鋒張明に遇い、馬を交えること数合、張明を一刀のもとに馬から斬って落としました。漢の兵は先鋒が斬られたのを見ますと、みな鎧を棄てて逃げました。宋の兵は一気に押し寄せました。漢主は太原に逃げ戻りましたが、宋の兵がその城を囲んでいるのを見ますと、入ろうとせず、まっすぐ太行山に逃げ戻りました。山麓に近づきますと、たちまち大砲が響き、たくさんの弩が一斉に鳴り、箭が蝗のように飛びました。漢主は馬上で泣きながら言いました。「ここで兵に退路を阻まれるとは思わなかった。孤には身の置き所がない。それに諸将が孤のために苦しみを受けているのは、心に忍びぬ」そこで剣を抜いて自刎しようとしました。諸将は必死に宥めました。「白馬嶺に逃げ、大遼に身を寄せて、ふたたび手を打たれた方がよろしいでしょう」漢主はそれに従いました。陰丘に行きますと、たちまち宋の将軍李漢瓊が行く手を阻んでいるのが見え、さらに背後で喊声があがるのが聴こえました。北漢の君臣は馬上で驚き、顔は土色、魂も体に付かぬありさまでした。漢主は言いました。「これでおしまいだ」後ろの軍はだんだんと近づきましたが、人々が見てみますと、それは佘氏令婆が兵を率いて押し寄せてきたのでした。人々は安心しました。令婆はやってきますと、すぐに尋ねました。「太原城はいかがでしたか」漢主は言いました。「太原城は宋の兵に包囲されたため、孤は入ろうとしなかったのだ」令婆は言いました。「太原が陥落していないのでしたら、わたくしは血路を開き、聖駕を護って入城し、遼の援軍を待つことにいたしましょう」漢主は承知しました。令婆は白い令字旗を立て、先駆けて突撃しました。宋の兵はそれを望み見ますと、散り散りに逃げました。城のほとりに殺到しますと、趙文度は漢の兵であるのを見、慌てて門を開け、城に迎え入れました。漢主が腰掛けますと、趙文度が言いました。「この城はそなたによって守られたから、敵を退けた日には、孤は手厚く褒美を取らせるぞ」さらに令婆に尋ねました。「どうして孤が災難に遭ったことを知ったのだ」令婆は言いました。「夫は病がやや癒えて、夜、天文を観ましたところ、上さまが撃破され苦しみを受けていることを知りましたので、わたくしは今日、私兵を率いてお救いしたのでございます。山を下りてまいりますと、軍が路を遮りましたが、わたくしに撃破されました。さらに一兵卒を捉えて尋ねますと、聖上が白馬嶺にいかれたとのことでしたので、まっすぐ馳せて救援をしにまいったのです」漢主は言いました。「継業が軍にいれば、南蛮がこのように勝手に振る舞うことを許さなかっただろう」溜息をつきますと、さらに群臣に尋ねました。「大遼の援軍が来ないのは、なぜなのだ」すぐに一兵卒が言上しました。「先日撃破されたのでございます。わたくしは宋の兵の振りをして宋の陣に紛れ込み、宋の君主が上将の郭進に雄兵三万を率いて白馬嶺に駐屯し、遼の兵を阻むように命じたことを聴いたのでございます。遼は耶律沙、敵烈に命じ、兵二十万を率い、白馬嶺に至らせますと、耶律沙が敵烈に言いました。『白馬嶺の麓には大きな谷川がある。兵士がすべて到着したら、計略を設けて渡ることにしよう。そうせずに、わが軍が渡っている最中に、宋軍に出撃されたら、われらはすべておしまいだ。』敵烈は言いました｡『宋人は軍がそろっていないことなど知りませぬ。ここに駐屯していては、かれらはわれらが怯えていると考えましょう。それに軍事は神速を貴びますから、渡っても構わないでしょう。』谷川を渡り、上陸しますと、陣を張る前に、郭進が軍を駆り、一斉に殺到しました。遼の兵は紛紛として谷川に落ち、死者はとても多く、敵烈は宋の兵に斬り殺されました[88]。耶律斜軫は軍を率いて巡邏しており、遼、宋が交戦していることを聞きますと、急いで軍を駆ってきましたが、耶律沙ら数十人を救っただけでした」漢主はそれを聴きますと、言いました。「天はどうしてわたしを生まれ、宋のかような酷い仕打ちに遭わせたもうのか」。そう言いますと、さらに潘仁美が兵を率いて戦を挑んできたという報せがありました。令婆は言いました。「わたくしが出馬して、宋の者の首級を幾つか斬ってくれば、かれらは城に逼ろうとしなくなることでしょう」漢主は言いました。「そなたはもとより勇ましいが、いかんせん、かれらは多く、われらは少ないから、軽軽に動くわけにはいかぬ」令婆は言いました。「上さまどうぞご心配なく」鎧を纏って城を出て、仁美と交戦しました。ただ一合で、令婆は負けた振りをし、弓を執り、矢を抜きますと、身を捻って仁美を射ました。仁美は左の股に矢が中たり、馬から落ちました、令婆は馬を馳せて進み出て斬ろうとしました。仁美の部将の洪先が急いで救いにきましたが、令婆と交戦すること三合で、令婆によって一刀のもとに、馬から斬って落とされてしまいました。洪後は兄が斬られたのを見ますと、大いに怨み、馬を出して罵りました。「あばずれめ、なにゆえかような無礼をはたらく」令婆と馬を交えること数合、やはり令婆に斬られました。党進は西門で攻撃をしていましたが、南門で令婆によって洪先兄弟が斬られたことを聴きますと、まっすぐ救援しにきました。令婆と交戦すること数合、勝負はつきませんでした。そこで令婆は絆馬索[89]を党進の馬脚に掛け、力を込めて引きますと、党進は人馬もろとも倒れました。令婆は進み出て捕らえようとしましたが、たちまち軍を退くための銅鑼が鳴るのを聴きました。令婆は入城しますと、漢主に尋ねました｡「聖上はなぜ軍を退かれたのでしょう。党進を斬らなかったのは惜しゅうございます」漢主は言いました。「孤は曹翰の軍が殺到するのを見、さらに王全斌、米信、桑錦、曹彬が四方から烏や雲のように押し寄せてくるのを見たので、なんじが失敗するのを恐れて、軍を退いたのだ」この話しはここまでといたします。
さて太宗は潘仁美が矢に中たり、洪先兄弟が斬られ、党進が倒されたことを知りますと、心の中で大いに怒って言いました。「その糞女めを捉え、斬って肉味噌にすれば、朕の心は始めて収まることだろう」三軍を率いて攻撃しました。さらに長連城[90]を築かせて太原を囲みました。城の上からは矢石が雨のように降りそそぎ、宋の兵も近付こうとはしませんでした。漢主の城中では兵糧が尽きようとし、外からも援軍はなく、城内は大いに恐れました。太宗はみずから兵士を率い、厳しく攻撃し、その城に完全な壁がないのを見ますと、城が破れて人民がことごとく傷つけられることを恐れ、手勅を書き、すみやかに投降するよう通告しました。使者は城下に至りましたが、入れてもらえませんでした。太宗は怒り、諸将に命じて全員に二重の鎧を着け、城下に陣を列ねて射させました。矢は針鼠の針のようでした。城中が危うくなりますと、太宗はふたたび通告しました。「漢主はすみやかに投降し、富貴を保つべきだろう」漢主はその夜、李勛を遣わし、表を奉って投降を願いました。太宗はそれを許しました。次の日、太宗は入城し、城台[91]に登り、楽隊を連ね、諸将と宴しました。漢主は役人たちを率いて縞衣素帽で、台の下で処罰されるのを待ちました。太宗は襲衣玉帯を漢主に賜わり、かれを召して台に昇らせました。漢主は台に昇り、叩頭して謝罪しました。太宗はかれを釈放し、検校太師、右衛上将軍を授け、彭城郡国公に封じ、手厚い恩賞を与えました。漢主は恩徳に謝しますと、太宗は劉保勲に太原府を治めるように命じました。保勲が命に従ったことはお話しいたしません。
●太宗が令公を招降すること
太宗は漢主を封じますと、尋ねました。「そなたの継業が陣に臨んでおらぬのはなぜなのだ」漢主は言いました。「太行山で病を患っております」太宗は言いました｡「治っただろうか」漢主は言いました。「すでに少しく癒えました」太宗は言いました。「朕は今特に詔を賜わり、代州刺史に任じよう。そなたは腹心に命じて、使臣とともに届けにゆかせよ」漢主は令婆をともに行かせました。使臣が太行山に到りますと、令婆は使臣に言いました。「夫は性格がきわめて剛毅でございますから、わたくしが先に戻って話をしましょう、大人は後からいらっしゃってください」この時、継業は病がすっかり癒え、まさに兵を発して、山を下りようとしておりましたが、令婆が急に戻ってきましたので、尋ねました。「殿さまは宋人と交戦されたが、勝負はいかが相成った」令婆は言いました。「このたび、城を献じて投降されました」継業は驚きました。「なぜ兵を駆り、奮戦せぬのだ。戦に負けたら、むしろ社稷のために死に、先君に地下で会うとき、恥じないことを願うものだ。甘んじて膝を屈して、北面して他人に仕え、万世にわたり唾を吐かれ、罵りを受けろというのか」令婆は言いました。「宋の君主は使臣を遣わし、勅旨を齎し、あなたを代州刺史に封じにこられましたので、わたくしがわざわざ先にお話しをしにきたのです」令公は言いました｡「使者が来たらば殺すまでだ。手ずから斬って、その後で兵を発して太行を下り、聖上を救い、太原の疆境を恢復しよう」令婆は急いで諌めました。「そのような家を滅ぼす事をされてはなりませぬ。観たところ、宋の君主は龍行虎歩で、真命の天子[92]です」令公は聴きませんでした。使臣が来ますと、令公は刀を持って殺しにゆき、令婆は急いで抱きとめました。ところが病に罹って癒えたばかりで、さらに漢の君主が宋に降ったことを聞きますと、怒気でもともとの病が悪化し、大声で叫び、昏倒しました。人々が扶け起こしましたが、默默として言葉がありませんでした。令婆は急いで使臣を山から下りさせました。使臣は太原に戻りますと、上奏しました。「継業は投降しようとせず、わたくしを殺そうといたしましたが、幸い令婆に阻まれました。どういうわけか、大声で叫び、昏倒いたしましたので、わたくしはすぐに脱け出して、逃げ戻りました。あのものは命に抗いましたから、兵を出し、罪に問われれば宜しいでしょう」太宗は言いました｡「忠義の士である。朕はたいへん気に入った」ふたたび党進を遣わして詔をもたらし、特に督同上将軍を加えることにしました。党進は詔を持っていきました。
さて、継業は養生し、一日で病が癒えましたので、その晩、外に出て天文を観ましたが、宋の君主の星が炯炯として幽薊[93]に臨んでいるのを見ますと、嘆きました。「これは天命であり、人がどうこうすることができるものではない。わたしが病になり、兵を進めて主君を護ることができないのは、すべて天意なのだ」令婆は言いました。「幸い昨日、使者を斬らなかったので、帰順する路がございます」
令公は言いました。「何を言うか。国家が亡びれば臣下も亡びるのが、正しい道理だ。かりそめに生を貪り、富貴を望み、不忠不義の事をすることはできない」そう言いますと、律詩を一首吟じました、
奮中[94]に恥を蒙り事嘆くに堪へ、首を回らせば何方か是れ故家なる。悽愴たり太原城上の月、人の情涙の胡笳に落つるを照らす。
次の日、党進は詔を届けにきましたが、継業は受けませんでした。すると郭無為がさらに来て、言いました。「聖上のお言葉を伝えよう。事はすでに定まったから、抵抗しても無駄である」継業は言いました。「死んで黄泉路に行くことを誓ったのだから、断じて職を受けるわけにはいかぬのだ」漢主も寵臣を遣わして、言いました。「聖上はもっぱら将軍に投降してくるように通告されている。主君がここで殺されたのなら、臣下は殉ずるべきだが、今日来ないのは、逆臣であるということだ」継業は言いました。「臣節を全うしておりましたのに、悖逆としてわたくしを責められるとは」そこで言いました。「わたしを投降させたいのなら、党将軍には宋の君主に報告をされてください。三つの願いに従われれば、太行を下りましょう。そうでなければ、この首は斬られても、この膝は屈しませぬと」党進は言いました。「三つのこととはどのようなことですか」継業は言いました。「一つには、漢主の配下だけに居り、大宋の職を受けませぬ。二つには、宋の君主の指揮には従いますが、召見には従いませぬ。三つには、わたしの部下に関しては、斬殺するとき勅旨を求めることはしませぬ」そう言われますと、党進は太原に戻り、上奏しました。「継業は聖上が三つのことに従われれば、投降すると申しました」太宗は言いました。「どのような三つのことだ」党進はかくかくしかじかと言いました。太宗は言いました。「宋の職を受けぬとは、どうして従うことができよう。臣下とならないのであれば、あのものは必要あるまい」漢主は上奏しました｡「陛下はひとまず従われ、あのものが投降してきたときに、手厚い恩賞で心を掴まれれば、職を受けない心配はございませぬ」太宗は承諾し、党進に命じ、ふたたび太行山に行き、招かせることにしました。党進は勅旨を受けますと、ふたたび太行山に行き、継業に言いました。「この前の三つのことを聖上は承知されたから、将軍どのは仕度をし、山を下りられよ」継業は私兵に命じ、輜重を載せ、党進とともに入ってきて太宗に見えました。太宗は令公を見ましたが、表表[95]たる威儀、昂昂たる意気、まるで猛虎の姿でしたので、大いに喜んで言いました。「朕は太原を得たが、そなたを得たほうがましだわい」そして楊の姓を賜わりました。この日、宴を設けて令公、令婆、七人の息子、二人の娘をねぎらうように命じ、その席をともにしました。酒が半は酣になりますと、太宗は言いました｡「朕は先帝の遺旨を受け、五台山に往き参拝をするように命じられているが、道のりがさらにどれだけあるかを知らない、将軍どのはわたしを護って往かれてはくださいませぬか」。継業は当初、太宗が姓を賜わり、宴を設けるのを見たときは、あまりありがたいとも思いませんでした。しかし、宴席で太宗が殷勤な言葉で、平生と同じように楽しんでいるのを見ますと、心の中で、太宗は真の帝王の器であると考え、心から敬服しました。そして、太宗に尋ねられますと、答えました。「陛下の手厚い恩賞を受けましたので、わたくしは聖駕を護りたく思います」太宗は大いに喜び、即日、党進、李漢瓊、潘仁美に命を下し、大軍を率いて五台山めざして進発させました。兵士たちは途すがら、旌旗は隊隊[96]、剣戟は稜稜[97]というありさまでした。太行山に到りますと、その山は峯は切り立つ崖のよう、石は重なり嵯峨として、高きこと幾千仞というありさま。証拠に詩がございます。
一坡上れば復一坡、群峯は豈敢へて並びに嵯峨たる[98]。人間の平地は遠きこと許の如し、頭上の青天は高きこと多からず。桂を折る手は月窟を扳くに堪へ[99]、詩を吟ずる筆は銀河に蘸すべし。此の間は便ち是れ神仙の境、那の蓬莱に比し更に若何ぞ。
その日太行山を過ぎ、数日足らずで五台山に着きました。太宗の車駕が山門に至りますと、はたしてすばらしい寺院であり、その有様はといえば。
四囲に千丈の青松有り、明晃晃たる一輪の明月は上り龍鱗[100]に映え、万竿の茂竹、滑剌剌たる一陣の風は来たりて鳳尾[101]を揺らす。内に五方[102]の佛殿を創立し、霞光[103]は閃閃[104]、常に住む半空の中。両廊の僧舍に、香篆[105]は氤氳として、翠盤[106]は方丈の内。古的白怪、咭叮骨都[107]たる太湖山。七長八大[108]たる如来釈迦牟尼佛。前に三門十二架を創り、後に法堂五百咫を起つ。木魚を敲動し地獄を驚かし、撞き来たれば鐘鼓は天関[109]を震はしむ。地は道[110]を愛せず、活活として[111]一座の五台山を生下し、人は善願を修め、巍巍として大雄[112]を立起して勝景と成す。
太宗がまさに寺に入ろうとしますと、五百人の僧が一斉に来て跪き、聖駕を迎えました。太宗は寺に入り、手を洗い、参拝しますと、みずから歩いて山をあまねく遊覧し、詩を吟じました。
筇に扶れて絶巘[113]に登り、好景は平川[114]を邁る。潭は禅心の寂しきを印し、松は野鶏の還るを邀ふ。紅雲は漢闕[115]を瞻、宝閣は天関に接す。帰路斜陽の裏、鐘声暮煙に起こる。
太宗が吟じますと、長老は太宗を迎え、方丈に戻らせ、休ませました。
次の日、太宗は長老に尋ねました。「天下の寺院の景観で、これに勝るものがあるか」長老は申しあげました。「この寺は民間の財物で建立したものではなく、唐朝の則天太后さまが建てたもので、天下の寺院でこれに勝るものはございません」太宗は言いました。「ほんとうにその通りだ。朝廷の金銭、食糧がなければ、かように大規模にはできない」すると潘仁美が上奏しました。「聞けば昊天寺は、五台山より勝っているとのことにございます」太宗は言いました。「昊天寺はどこにあるのだ。知っているなら、朕を守って一度遊覧すればよかろう」八大王が慌てて上奏しました。「昊天寺は幽州と蕭后の境界にあり[116]、遼人が知れば、兵を発して聖駕を襲い、まことに「自らその戚えを貽る」[117]こととなりましょう。陛下には仁美の言葉をお聴きにならず、即日軍を還して汴京に戻られるのが、万全の策であります」太宗はそれを聴かずに、言いました。「安心するのだ、遼人は朕が枝を折るかのように太原を取ったのを知り、胆を冷やしているだろうから、兵を発して侵入してくることはあるまい」大遼の間者賀君弼は太宗の聖駕が昊天に往こうとしているのを知りますと、徹夜で人を遣わして蕭太后に上奏しました。后はそれを聞きますと大いに喜び、使者を遣わして五か国の蛮王とともに、急いで兵を発して宋の君臣を包囲しにきましたが、その話しはここまでといたします。
さて、太宗が五台を離れ、車駕が遼東の国境の地に到りますと、前軍が報せました。「北遼の兵が押寄せてまいりました」太宗は言いました。「誰が敵を迎えるのだ」淵平は鞍から転がるようにして馬を下りますと、答えました。「わたくしがまいりましょう」太宗は言いました。「虎の父には虎の子がある」そして兵三千を率いて敵を迎えさせました。淵平は出馬し、遼の将軍麻里慶忌と交戦すること十余合、慶忌は大敗し、逃げていきました。淵平は軍を収め、聖駕を護って幽州に入りました。
●太宗が昊天寺に御幸すること
太宗は次の日に城を出ますと、昊天寺に往き景色を賞でることになりました。証拠に詩がございます。
乘輿は迢遞として名山を訪ね、遥かに望む西天は咫尺の間。月に対して経を談ずれば諸天は静かに、陽に向かひて衲[118]を補へば老僧は閑たり。雲は瑞気を浮かべ蒼龍は起ち、松は風清[119]を引き白鶴は還る。此に到らば一塵も渾べて染まらず、更に何処にか禅関[120]を求めん。
太宗は遊覧をおえ、聖駕は幽州に戻って休みました。その夜の三更になりますと、城北で喊声が天を揺るがし、夜明けになりますと、遼の兵が幽州城を包囲しました。太宗は言いました。「朕はすぐに遊覧しようとする心が勝り、八大王の上奏に従わなかったため、今日、はたしてこの災難を受けてしまった」そう言いますと、楊令公が上奏しました。「ここは雄州にとても近いのですから、すみやかに人を遣わし、魏直、楊雄を召され、軍を率いて、急いで救援しにくるようになさいませ」太宗は言いました。「蛮将がとても厳重に包囲している。どうして出てゆくことができよう」淵平は言いました。「わたくしがまいりましょう」太宗は言いました。「気をつけて行くのだぞ」淵平は帝に別れ、馬に乗り、軍を率いて南門から出撃しました。土金秀、土金寅は兵を率いて路を遮りましたが、淵平と交戦すること数合で敗走しました。淵平は追わずに、まっすぐ雄州へゆきました。雄州に到りますと、魏直は役所に迎え、手勅を看ますと、すぐに牙将[121]の楊文虎、楊清らとともに軍十万を率い、幽州へ行きました。城から十里のところで、淵平は魏直に言いました。「将軍さまはしばらくここに駐まられませ。わたくしは単騎で城に突入し、報せを伝え、内外呼応することといたしましょう」魏直は言いました。「お言葉は、まさにわたしの考えにぴったりです」淵平は馬を走らせ、城内に突入し、太宗に上奏しました。太宗は言いました。「援軍が来たのなら、明日内応せよという命を伝えよ。ぐずぐずしてはならぬ」令公は上奏しました。「わたくしにはさらに一計があり、陛下に危険がないようにすることができましょう」太宗は言いました。「そなたにはどのような計略があるのだ」令公は言いました。「臣の四子延朗の死罪を赦し、かれに陛下の装いをさせ、北門を出て投降させ[122]、わたくしが陛下を守って南門を出れば、はじめて虎穴を抜け出ることができるのです」太宗はその計略に従いました。令公は六郎に聖駕を護らせ、五郎は八大王を守り、二郎、三郎は為右の援軍となり、七郎は先鋒となり、ぐずぐずとして命令に従わない者があれば斬罪に処することにしました。すると階のもとで一人の男が言いました。「わたくしも蕭后を生け捕るための計略を上奏いたします」この人は誰でしょうか。王殷でありました。太宗は言いました。「申してみよ」王殷は言いました。「令公父子は聖駕を護って城を出て、わたくしは城に留まり、太鼓を敲き、喊声をあげ、士気を高め、陛下が幽州を離れた後に、城を献じて投降を装えば、蕭后は必ずやわたくしを任用しましょう。万歳[123]が後日兵を発して討ちにきたとき、わたくしが内部から消息をお伝えすれば、かならずや蕭后を生け捕ることができましょう」太宗は承知しました。次の日、令公は聖駕を護って城を出ました。太宗は言いました。「卿は朕のために心を砕いているのだな」令公は言いました。「肝脳が地に塗れても、職分として当然のことにございます。陛下はどうしてそのようなことを仰るのでしょう」太宗は人を遣わして降伏文書を蕭后に送りました。蕭后も深くは信じず、人に消息を探らせますと、北門が大きく開き、一輌の逍遥車輦[124]が推し出されてきて、車上には宋の君主が端座し、頭に衝天冠を帯び、身に赭黄袍を着け、黄羅傘で覆われていたとのことでした。大遼の兵士はみな宋の君主が投降するのを看にきました。ところが令公は王殷を留めて城を守らせ、父子五人と諸将は聖駕を護って、南門を出ていきました。そして河東の三百の決死隊に命じ、淵平とともに四郎の車駕を護って北門を出、投降する振りをしました。遼の将軍天慶王は車輦を接見しますと、言いました。「大宋の皇帝どのは、車を下りて相見えられよ」四郎は答えませんでした。天慶王はさらに言いました。「宋の君主どの、無礼であろう。投降してこられたのなら、車を下りられてはどうか」すると淵平が後ろで弓を執り、矢を番え、天慶王を射殺しました。四郎は軍を促して突撃し、護城の外に到りますと、さらに遼の将軍韓得譲に遇いました。得譲は淵平が天慶王を射殺したことを知らず、やはり馬上でお辞儀をして挨拶しました。四郎は答えず、傘を持つ者を見ました。傘の柄は長槍で、傘を持つ者は四郎の意を察し、傘の柄を四郎に向けました。四郎はすぐに槍を引き抜きますと、韓得譲の項にむかって刺し、得譲は落馬して死にました。四郎は馬に跳びのり、三百の決死隊とともに南にむかって突進しました。蕭后は宋の君主が投降する振りをして、韓得譲、天慶王を殺したことを聴きますと、心の中で大いに怒り、軍を促して南にむかって押し寄せましたが、このことはお話しいたしません。
さて、令公らは太宗を守りながら城を出、五十里以上進みますと、太宗が尋ねました。「四郎はどうなっただろうか」令公は言いました。「ご心配には及びませぬ。用心し、前進なさればよろしいのです」進んでおりますと、韓延寿が軍を率いて路を遮りました。太宗は大いに驚き、手足をばたばたさせました。六郎は言いました。「陛下、驚かれないでください。わたくしは賊を斬ってまいりましょう」言いますと、出馬して延寿を撃退し、聖駕を護り烏泥坵に行きました。太宗は馬を下り、腰掛け、兵士を点呼しましたが、令公、七郎が見えませんでしたので、言いました。「朕のために、父子兄弟が離散したのは、ほんとうに悲しいことだ」さらに六郎に言いました。「そなたはなんと酷いのだ。なんじの父と兄とを救いにいかぬとは」六郎は言いました。「わたくしは聖上をお護りし、父兄を顧みないのでございます、心が酷いのではございませぬ」太宗が立ち上がって、眺めますと、急に喊声があがるのが聞こえましたので、六郎に言いました。「喊声があがっている処には、なんじの父も必ずいよう。そなたは忠を尽くして朕を護り、難を逃れさせたのだから、さらに孝を尽くして父を救いにゆくべきだ」六郎は言いました。「わたしが行けば、誰が陛下をお守りするのでしょう」太宗は言いました。「朕にはおのずから計略がある、なんじははやく行くべきだ」六郎は馬に乗り、喊声のあがっている所へ突進してゆきました。太宗は六郎を行かせますと、諸将とともに高州城に入りました。一食を摂る時間にも満たないうちに、遼の兵が押し寄せて、城を囲みました。太宗が城に上りますと、城の下では遼の将軍の耶律仲光が大声で叫びました。「宋の君主ははやく投降し、万刀の苦しみ[125]を受けるのを免れられよ」太宗は言いました。「六郎が去り、誰がこの囲みを破るのだ」そう言いますと、たちまち城の北から三騎が飛ぶようにやってきて、遼の兵を追い散らして入城しました。それは令公、六郎、七郎でした。その話しはここまでといたします。
さて蕭后は完勝を得、王殷は城を開いて投降しました。蕭后は入城し、群臣と相談し、幽州に国を立てました。蕭后は朝廷を設けますと、諸将に言いました。「宋の君主は投降すると偽って逃げてしまったが、幾人を生け捕ったのだ」諸将は言いました。「十人を生け捕りましたが、みな宋の名将にございます」太后は言いました。「名将は捕らえられ、宋人はすっかり胆を冷やしただろう」そこで捕らえられた将軍を押し出して看せにくるように命じました。まもなく、蛮人が十人の将軍を階の下に推してきましたが、延朗はすっくと立って、跪きませんでした。太后は罵りました｡「蛮狗め、跪かぬとは、何のつもりだ」延朗は声を励まして応えました。「誤って賊奴の手に掛かったからには、死ぬだけのこと。もう何もすることはない」后は怒り、推し出して、一斉に斬るように命じました。延朗はまったく惧れる色がなく、怒って言いました。「斬られればすべては終わり、怒ることもない」そう言いますと、頸を伸ばして斬られるのを待ちました。太后はその気慨が激烈、風采が抜群であるのを見ますと、心の中でとても気に入り、蕭天左に言いました｡「瓊娥公主の婿にこの者をとろうと思うが、そなたはどう思う」天左は言いました。「叛逆者を容れ、投降者を許すのは、王者のすること。太后さまのお考えはきわめて正しいことにございます」后は言いました。「ただあのものははなはだ剛毅で、今は従わないだろう。従うことを承知しても、やがて変心するかもしれない、婿にとらない方がよかろう」天左は言いました。「深い恩、厚い徳をもって扱えば、服さぬはずがございませぬ」后は言いました。「そなたが良い媒酌となり、話しをし、何と言うかをみるとしよう」太后は勅旨を受けますと、延朗に話しました。延朗は考えました。「主君も父親も生きているのに、命を軽んじて死ぬことはない。ひとまず従う方がよい、ここに留まり、隙を窺い、報復を図ったほうが、死ぬよりはましだろう」しばらく考えますと、言いました｡「太后さまが死ぬのを許してくださったのは、幸いでありますが、結婚までを望むわけにはまいりませぬ」
天左は言いました。「貴殿は容貌魁偉なために憐れんで、このようなことをしたのだ。そうでなければ、生きることはできなかったぞ。固辞してはならぬ」そこで延朗は承諾しました。太后は承諾されたことを后に上奏しました。后は釈放するように命じ、尋ねました。「なんじは姓名は何というのか」延朗は心の中で考えました。「実名を言えば、きっと許されないだろう」そこで楊の字を分け、でたらめに答えました。「わたくしは姓を木、名を易ともうします」后は言いました。「宋ではどんな官職だったか」延朗は言いました。「わたくしは代州教練使をしていました」后は喜び、衣冠を調えるように命じ、吉日を選んで瓊娥公主と結婚させましたが、そのことはお話しいたしません。
さて太宗は汴梁に戻りますと、楊業を便殿に招き、慰めました。「朕が危地を離れたのは、卿ら父子の力によるものだ。ただ淵平らの生死はどうなっただろうか」業は言いました。「淵平は性格がとても剛毅でございますから、きっと命はございますまい」言いますと、侍臣が上奏しました。「逃げ戻ってきた兵士が言うには、蕭后は淵平が遼帥天慶王を射殺したことを怒り、軍を駆って幾重にも取り囲み、淵平と河東の三百人の決死隊はすべて殺され、逃れたものは一人もいないとのことにございます。二郎延広どのは遼の兵に射られて落馬し、軍勢に踏みにじられて亡くなりました。三郎延慶どのは短剣を持った軍勢に斬りまくられて亡くなりました[126]。四郎延朗どのは遼の兵にその馬を倒されて、生け捕られました。延德どのは行方が知れませぬ」太宗は上奏をそれを聞きますと、驚いて言いました。「子供たちがみな誅戮に遭ったのは、寡人の過ちであった」泣き咽び、とても哀しみました。業は言いました。「聖上の深いご恩を蒙り、死をもって報いることを誓ったのです。今子供たちが公務のために死んだのは、その場所を得たというもの。陛下がそれを哀しまれるのは、過ぎたことではございませんか」太宗は言いました。「ああ、何を申すか。このたびの災難で子供たちが敵と闘わなければ、朕の命はおしまいだった。特別に贈封し、その死に報いるべきだろう」太宗がそう言いますと、令公は帝に別れて退出しましたが、そのことはお話しいたしません。
●太宗が勅命により無佞府を建てること
次の日、太宗は命を下し、胡延賛を御禁太尉、滄州横海郡節度使に、楊令公を左領軍衛大将軍、帰命無佞侯、三営総管、中正軍雄州節度使に、楊延昭を倉典使、迎州防禦使、三千里界河南北招討使に、楊延嗣を三関排陣使、潞州天党郡節度使に封じました。さらに淵平らが公務のために死んだため、ともに侯を追贈し、廟を立てて祀りました。六郎[127]の名が武功郡王[128]の諱を犯しているため、景の名を勅賜し、さらに金花柴郡主を降嫁させ、独力で朕[129]を救った殊勲を表彰しました。六郎は恩徳に感謝しました。太宗はさらに命を下し、天波門外金水河のほとりに、無佞府を建て、令公を住まわせることにしました。さらに金銭五百万を賜い、令公のために清風無佞天波滴水楼を建て、表彰しました。証拠に詩がございます、
忠義全家は国の為に謀り、命を捐てて駕を保ち幽州を出づ。九重の寵は異なり勲績殊なれば[130]、特に立つ清風無佞楼。
太宗が贈封をおえますと、楊令公らは恩徳に謝して退出し、無佞府に行き家族を住まわせ、雄州の任地に往きました。
さて大遼の耶律休哥らは、耶律吶が汾陽で宋の兵に勝ったことを聴きますと、人を遣わし蕭后に上奏し、兵を進めて、汴京を取るように言いました。后は朝議を開き、群臣たちと南下することについて相談しました。右相の蕭撻懶が上奏しました。「わたくしは兵二万を率い、宋から金明池[131]、飲馬井[132]、太原城を奪いにいきたいと思います。大宋がこの三箇所を返すのを承知すれば、しばらく要害の地に駐屯し、その隙を待つことにしましょう。そうでなければ、国中の兵を発して土門を攻めることにしましょう」撻懶は勅旨を得ますと、即日大将韓延寿、耶律斜軫とともに兵を率いて瓜洲[133]から南下しました。消息が汴京に伝わり、近臣が太宗に上奏しますと、太宗は怒って言いました。「賊の騎兵がしばしば辺境を攻めているから、朕は今から親征し、幽州の耻を雪ぐとしよう」寇準が上奏しました。「陛下の車駕が頻繁に出られては、万乘の尊[134]を軽くし、天下を敬服させる威望はなくなり、北蛮に軽んじられ、意に介されなくなるでしょう。わたくしの考えでは、一人の大将に命じて攻めさせれば十分で、聖駕がみずからお出ましになられることはございますまい」太宗は言いました。「誰が兵を率いて行くことができるだろうか」寇準は言いました｡「潘仁美は辺境の事情を熟知しておりますから、軍を率いて攻めさせましょう」太宗は上奏を受け入れ、すぐに勅旨を下し、仁美に招討使、統軍都元帥を授け、兵を率いて北遼を征討させることにしました。
仁美は勅旨を受けて屋敷に戻りますと、顔に憂えを浮かべました。その子の潘章が尋ねました。「聞けば父上は兵を率いて北伐され、威権を極められたというのに、なぜ楽しまれないのでしょうか」仁美は言いました｡「先鋒が欠けているので、心配しているのだ」章は言いました。「父上、なぜお忘れになられたのですか。楊業が宜しいでしょう。むかしの怨みに、これによって報いることができましょう」仁美は章の言葉を聞きますと、とても喜び、翌朝上奏しました。「陛下には楊業父子を先鋒とされ、ともに進んで遼を討たせてくだされば、賊はたやすく破れましょう[135]」太宗は上奏を受け入れ、使者を雄州に遣わして、楊業に指示を与えさせました。詔に曰く。
北番[136] 入寇し、朝野征彸[137]たり。今仁美に命じて行営招討使為らしむ。爾業父子三人は先鋒と為り、遼賊を征勦すべし。詔命の到る日、即ち代州の行営に赴き聴用[138]せよ。違ふ毋かれ。
使臣が詔をもたらして去りますと、寇莱公は八大王の屋敷に赴いて言いました。「仁美は令公への怨みが骨髄に徹している、今、推挙して先鋒にしたのは、恐らく殺すつもりだろう。これは国を誤る重大事だ」八王はそれを聞きますと大いに驚き、すぐ参内し、上奏しました。「令公は昔仁美を射、このたびは推挙され、先鋒となりました、恐らく仁美は恨みを抱いて暴虐をほしいままにし、軍にとってはよくありますまい」仁美はすぐに進み出て上奏しました｡「今は公務を共にして、一家も同然、家人が家人を害するわけがございませぬ。わたしは決して小人のすることを真似たりはいたしませぬ」太宗も心の中で怪しいと思いましたので、胡延賛に救応使となるように命じました。
潘仁美らは兵十万を率い、汴京を離れ、十日で代州に至りました。代州の傅昭亮は人々を率いて迎え、仁美は公館に入って腰掛けました。昭亮が目通りをおえますと、仁美は尋ねました。「なんじはどこに寨を築くことができるか存じておるか」昭亮は言いました。「ここから西北に行きますと、鴉嶺という地がございますが、そこに寨を築くことができましょう」仁美は軍を率いて鴉嶺に行きました。寨を築きますと、すぐに兵士が韓延寿が兵を率いて戦いを挑んできたことを報せました。仁美は大いに怒り、鎧を纏って馬に乗りました。韓延寿が突進してきますと、仁美は劉均期を出撃させましたが、馬を交えること十合で、均期は鞭に中り、痛みを負って逃げ戻りました。さらに賀懐に出撃させましたが、馬を交えること二十合で、賀懐は矢に中たり、負けて本陣に戻りました。仁美は二人の将軍がともに敗れたのを見ますと、みずから勇を奮って出撃し、馬を交えること十合、やはり敗れて戻りました。次の日、仁美は陣幕に入りますと、言いました。「賊は手並みがはなはだ優れ、すぐに破るのは難しいが、どうしたらいいだろう」王侁は言いました。「賊は楊先鋒だけが防ぐことができ、他の人では防ぐことはできません」仁美は言いました。「楊家の父子はなぜ来ないのだ」そう言いますと、兵士が楊令公が謁見しにきたことを報せました。父子三人が馬を下り、陣に入って、仁美に見えますと、仁美は怒って言いました。「軍令では『刻限に来なければ斬罪に処す。』とある。このたびなんじは先鋒となり、今でも事態は逼迫している。このたび法に背いたからには、いかなる罪になることか」そこで首切り役人を呼び、轅門から推し出し、斬首して人々に示そうとしました。証拠に詩がございます。
一たび先鋒と作るは是れ禍胎、讒邪は忿りを懐き英才を害す。嘆くに堪へたり継業の先見無きを、何事ぞ遅遅として早く来たらざる。
六郎は進み出ますと告げました。「遼は三路の軍を発して、三関に殺到しました。われら父子はかれらを撃退してから来たため、期限に遅れてしまったのです。太師どのには罪を許されますように」胡延賛は傍らで宥めました。「元帥さまにはひとまずかれらの罪を許され、明日、出陣して功を立てて罪を贖わせられますよう」仁美は勧めに従い、令公父子三人を釈放しました。仁美は延賛が軍で目付をしているので、令公を謀殺するのは難しいと考え、一計を案じて、延賛に言いました。「陣中で、弓や矢などが不足している。代州に往き、取ってきて使うがよい」延賛は仁美に別れを告げ、代州にいきました。令公は仁美に別れて本陣に退き、夜になりますと、天文を仰ぎ見て、大いに驚き、太白星が尾宿を率いて鬼宿の中に入るのを見ますと、言いました。「このわしは運命を逃れられない」
次の日、令公は仁美に謁見して言いました。「彦嗣は軍を率いて掠奪し[139]、蔚、朔の二城は空ですから、わが子の六郎に命じて、兵を率いて二つの城が境を接する所に潜んで、救援の兵を遮断させ、わたくしは一軍を率いて蔚、朔二州の山の後ろを襲えば、大遼の九州は簡単に得ることができましょう」仁美は言いました｡「老いぼれめ、結構なことだな。そなたら父子は遠くへ去って敵を避け、わたしはこちらで敵に当たるというわけか」令公は言いました。「大丈夫です。胡延賛どのに元帥さまを守らせ、堀を深くし、壁を高くし、延寿を防いでいただくのです。十日足らずで、わたくしが勝利した兵を率いて戻れば、敵を破るのは、た易いことにございます」仁美は言いました。「近きを棄ておき、遠きを取るとは。もし勝たなければ、かえって鋭気を損なうだろう」そう言いますと、たちまち遼の兵が戦を挑んできたという報せがありました。仁美は令公を出馬させようとしました。令公は言いました。「本日は日柄が悪うございます。北方の人々は書物の趣旨を知らないために、忌むことがございません。わたしたち南方人は書物を読んでおりますから、事あるごとに日を択び、忌むことがございます。くわえて賊の勢いは盛んですから、ひとまずその鋒先を避け、かれらの兵がすこし疲れるのを待って、兵を駆り、出撃すれば、必ず完勝することができましょう」仁美は言いました。「周は甲子の日に興り、紂は甲子の日に亡んだのだから、吉日を択ぶことはない。このたび、なんじを先鋒としたが、あれやこれやと勿体をつけ、そのように恐れていては、諸軍を激励することはできないだろう。すぐに鎧を纏って出馬し、二度とつべこべ言うのはやめよ」護軍王侁が言いました。「将軍どのはふだん無敵と号されていらっしゃるのに、今、敵を見て、口実を設けて戦われないのは、異志を抱いているのではございますまいか」令公は言いました。「わたくしは死を畏れているのではございません。時に利がなく、無駄に命を傷なえば、功績を立てることはできません。わたくしは太原の投降兵で、死んで当然だったのですが、聖上は殺されず、兵権を授けられました。今、敵に遇ったのに放っておいて、撃たぬわけにはまいりませぬ。かれらの隙を伺って、尺寸の功を立て、聖上のご恩に報いるのみにございます。しかるに諸君はわたくしが異心を抱き、奮戦しようとしないと責めていらっしゃる。自らを可愛いがろうとは思いませぬ。皆さまのために、先に行くべきでしょう。ただ陳家谷は山が険しゅうございますから、皆さまは陳家谷では歩兵と強弩で応援をなさってください。そうしなければ、皆殺しにされましょう」そう言いますと、馬に乗り、兵を率いて寨を出、言いました。「元帥は謀を設け、私怨に報復しようとし、国を誤る重大事には気付いていない」ふと頭を擡げて遼の旗幟を望み見ますと、大いに驚き、泪を拭いて言いました。「悲しい。悲しい。わしの命はおしまいだ」六郎は言いました。「父上、なぜそのような不吉なことをおっしゃるのです」令公は指さしながら言いました。「どこも命が損なわれる兆しばかりだ」六郎がじっと眺めますと、遼の兵の旗には、前には羊、後ろには虎が描かれ、羊[140]を捕らえておりました。六郎は言いました。「吉凶はあてになりませぬ｡天子さまの洪福により、勝つことができましょう」証拠に詩がございます。
遥かに番旗[141]を見れば虎羊を撲つ、令公の両眼に泪は悽惶[142]。聖朝の福縦ひ山の如く重きも、保ち難し英雄の喪亡せざるを。
●令公が狼牙谷で殉節すること
大遼の元帥斜軫は楊業が出撃したことを聞きますと、ふたたび都部署蕭撻懶を路に潜ませ、さらに土金秀を出撃させました。令公は六郎に出馬するように命じ、交戦すること四十合、土金秀が敗走しますと、父子三人は兵を率いて追撃しました。
さて、仁美は心のなかで令公を殺そうと考えましたが、令公が去るに臨んで伏兵となるように言いましたので、不本意ながら王侁らとともに陳家谷に陣を布くことにしました。寅の刻から午の刻になりましたが、業の消息を得ることができなかったため、人を物見台に登らせて眺めさせましたが[143]、何も見えませんでした。兵たちはみな遼の兵が敗走したと思い、功名を争おうとし、一斉に谷の入り口を離れ、交河に沿って南進しました。行くこと二十里で、業が戦って敗れたことを聞きますと、仁美はひそかに喜び、諸軍を率いて鴉嶺へと退きました。令公と蕭撻懶は戦いながら逃げ、陳家谷に行きましたが、一兵卒も見えませんでしたので、胸を敲いて大泣きし、罵りました。「仁美めが、このわしを陥れたな」大遼の韓延寿は兵を率いて蜂のように集まり、幾重にも令公父子を包囲しました。七郎は言いました。「兄じゃは父上を守りながらこちらで持ち堪えていてください。わたくしは単騎で馳せ戻り、兵を得て、救援をしにまいりましょう」令公は哭きながら言いました。「行くのなら気をつけるのだぞ。この世では恐らくそなたに会えないだろう」七郎が馬に乗り、陣に突入しますと、遼の兵は単騎で突進してくるとは思ってもいませんでした。七郎は谷の入り口を出ていき、鴉嶺の本陣に着いて馬を下りました。
時に九月の重陽で、仁美と諸将は菊を賞で、楽を奏で、酒を飲んでおりました。証拠に詩がございます。
月下に衣を搗つは何処の声ぞ。四星[144]は戸を帯び夜は沈沈たり。籬辺の黄菊は幾年の夢、天畔の白雲は千里の心。酒興は那ぞ知らん風の帽を落とすを、笳声[145]は偏へに惹く涙の襟に盈つるを。狼烽[146]は息まず貂裘は破れ、忍び聴く晴空に隻雁の吟ずるを。
七郎は寨に着きますと馬を下り、兵士にはやく元帥に「楊延嗣が援軍を得るために戻ってきました」と言上するように命じました。人々は言いました。「元帥さまはお酒を召されているところなのに、おまえはなにを慌てているのだ」七郎は大いに怒り、剣を抜いて鞘から出し、人々を怒鳴って退け、陣幕の前へ行きますと、言いました。「元帥さまにお知らせもうしあげまする。わたくしの父と兄とが、遼の将軍によって、陳家谷の入り口で包囲されておりますので、元帥さまには、すみやかに兵を出されて、お救いくださいますように、お願いもうしあげまする」仁美は言いました｡「なんじら父子はふだん無敵と号しているのに、このたびはどうして敵に囲まれたのだ」七郎は言いました。「われわれ父子の戦がまずかったのではなく、仁美さまがわが父の言葉を聴かれず、谷の入り口に潜もうとされなかったため、この災に遭ったのでございます」仁美は怒って言いました。「この畜生め、わたしの過失を指摘するとは。本日は剣を持ちながら、陣に入って、分を越えて上官に盾突くとは、まことに憎むべきことだ」大声で兵士に命じ、推し出して斬り、死刑に処することにしました。劉均期らが宥めました。「七郎には罪がございますが、昔、聖駕を護った功績に免じて、お許しになられてもよろしいでしょう」そこで、仁美は七郎を釈放しました。その夜、兵士に命じ、酒で七郎を酔わせ、樹に縛り、さんざん矢で射て、胸に七十二本の矢を中てました。七郎が死にますと、仁美は陳林、柴敢に命じ、屍を担いで、桑乾河に棄てさせることにしました。陳、柴両名は翌朝河辺に担いでいき、投げ棄てましたが、その屍は漂って岸に着きました。二人は大いに驚いて言いました。「不思議だ。不思議だ。英雄は非業の死を遂げたが、魂がこのように散じないとは。それに七郎は聖駕を護った功臣だから、朝廷が後日事情を調べだしたら、禍は小さくあるまい。われら二人は病軍を守るふりをして[147]、南燕に往き、八大王に知らせれば、後の患えを絶つことができるだろう」柴敢はしばらく考えますと、言いました。「一つには、雁門を過ぎるのが難しいし、二つには、われらは実の親戚ではなく、かれらに代わって怨みを晴らすのは難しい」言いますと、北方から一騎の馬がやってきました。二人がそれを見ますと、六郎でした。六郎は言いました。「わが弟が援軍を得るために戻りましたが、お二人はご存知でしょうか」二人は以前の事情を告げました。六郎はそれを聴きますと、声を放って大哭きしました。陳林は言いました。「将軍どの、哭くのはおやめくださいまし。急いで汴京に赴き、上奏しましょう。われら二人が証人になりましょう」六郎は言いました。「父は今、谷の中で囲まれ、危険は旦夕に迫っておりますのに、どうして行くことができましょう」しばらく考えますと、言いました。「わたしが潘招討を尋ねて、援軍を得ようとすれば、また殺されてしまうでしょう。お二人に胡将軍を呼んでいただき、相談をすることにしましょう」陳林は言いました。「胡将軍は武器を取りにいかれ、まだ陣に戻られてらっしゃいませぬ」六郎は言いました。「戻られていないなら、わたしは代州に赴き、路で迎えることにしましょう。お二人は寨に戻り、わたしが援軍を得るために戻ったと決しておっしゃらないでください」そう言いますと、別れを告げ、馬に乗って去っていきました。二人が七郎の亡骸を埋めて寨に戻り、仁美に報告しておりますと、たちまち一兵卒が報告しました。「六郎どのは単騎で戻ってきましたが、本陣に入らず、南方へいきました」仁美は言いました。「誰が捕らえにいくのだ」陳林、柴敢がすぐに答えました。「われら二人が往きたいと思います」そこで仁美は兵三千を率いて追うように命じました。
さて六郎は延賛を路で迎えますと、泣きながら言いました。「どうかお助けくださいまし」延賛は言いました。「どのような苦情があるのだ」六郎はその事をすべて訴えました。延賛は言いました。「ひとまずそなたの父上を救いにゆき、その後で朝廷に上奏し、七郎の怨みを晴らすことにしよう」たちまち陳林、柴敢が兵を率いて殺到し、仁美がかくかくしかじかしたと告げました。六郎は言いました。「お二人はどうなさるおつもりですか」陳林は言いました。「それがしは他の者が兵を率いて将軍さまを殺すのを恐れ、仁美に尋ねられますと、われら二人が返事をし、兵を率いて追いかけることを願ったのです。幸いに、仁美は従いましたので、それがしはこの軍を率いて、いっしょに行って、囲みを破り、老将軍をお救いしましょう」六郎は礼を言い、延賛らとともに陳家谷に向けて進みました。
さて令公は二人の息子が来ませんでしたので、兵士が谷の中で餓死することを恐れ、兵を率いて出撃し、土金秀に遭遇しました。馬を交えること数合、金秀は負けた振りをしました。令公は戦で頭がぼんやりし[148]、路を間違え、出口であると考えて、まっすぐに突進しますと、土金秀は見えなくなりました。頭を上げて看ますと、両山は牙のように交わり、樹は密に茂り、どこであるかも分かりませんでしたので、心の中でとても慌て、兵卒に命じて土民に尋ねさせました。まもなく、兵卒が報告しました。「土民は狼牙谷であると申しております」令公は大いに驚き、ひそかに、羊[149]が狼の牙に遭えば、これ以上活きることはできないと思い、人々を率い、勇を奮って出撃し、遼の兵百余人を斬り殺しました。さらに馬に鞭打って前進しましたが、馬は疲れて、走ることができなくなりましたので、令公は深い林の中に匿れました。耶律奚底が林の中の軍服の影めがけて矢を射ますと、令公の左臂に中りました。令公は怒り、ふたたび林を飛び出しますと、遼の兵は四散しました。令公は前方の山に廟が見えましたので、軍勢を率いて見にいきますと、李陵の廟でしたので、馬を下り、律詩一首を壁に題しました。
君は是れ漢の将、我も亦宋の臣なり。一般[150]陷害に遭ひ、怨恨は幾れの時にか伸びん[151]。
題しますと、兵士たちに廟に駐屯するように命じました。耶律奚底は、兵士たちに、接近して敵に傷付けられないようにせよと命じ、谷の入り口で囲み、敵が兵糧が尽きて餓死したら、往って梟首することにしました。軍勢は命令を受けますと、みな退いて谷の入り口を守りました。
さて令公は遼の兵が戦を挑んでこないのを見ますと、絶食しましたが、三日たっても死にませんでしたので、人々に言いました。「聖上はわたしを厚く遇されたから、わたしはほんとうに辺境を防ぎ、賊を討ち、ご恩に報いようとした。ところが奸臣に逼られ、王師[152]は敗れてしまった。どの面さげて活路を求めることができよう」時に麾下にはまだ百余人がいましたが、かれらにも言いました｡「おまえたちにはみな父母と妻子がある。わたしと死んでも益はないから、逃げ戻り、天子さまにお知らせし、わたしの代わりに事情を伝えよ」人々はみな感激して言いました｡「将軍さまとともに死にとうございます」令公は考えました。「外からは救援がなく、遼の兵には幾重にも囲まれており、所詮この禍からは脱け出せまい。それにわたしは普段から無敵と称し、遼人に生け捕られれば、かれらの辱めを受けるから、今のうちにさっさと死んだ方がよいのだ」考えが決まりますと、南に向かって拝礼をして言いました。「太宗さまにはくれぐれも龍体を保たれますよう。わたくしはこの世では朝廷に還り、また龍顔を拝することはできませぬ」言いますと、紫金の盔を取り、李陵の碑にぶつかって死にました。年は五十九歳でした。兵士たちは令公が死んだのを見ますと、奮起して谷から出撃し、ことごとく遼の兵に斬り殺され、二三人が逃がれただけでした。後の静軒先生[153]に詩歌がございます。
力は尽き鋒は銷え[154]馬は罷聵す[155]、悲しむに堪ふ良士の生きて回らざるは。陵碑[156]は千古斜陽の裏、一度人看ば一度哀しむ。
後の人にはさらにその節を守ったことを褒めた詩がございます、
鉄石の肝腸断断[157]たり、甘心死に就く李陵の碑。稜稜たる正気は天地に瀰り、烈日秋霜四海知る。
最終更新日：2010年11月9日