第九巻     

 

 

  天后の繍女

  清河県[1]に汪姓、劉姓、閻姓の三人娘がおり、性質はいずれも聡く、容貌も秀麗で似ていた。汪は王氏に嫁ぎ、劉は閻氏に嫁いだが、それはまさに閻の娘の兄で、いずれも儒者であった。閻は王家営[2]の某氏に嫁ぎ、家はたいへん豊かであった。

  乾隆五十一年[3]、閻の娘は病が重くなり、その夫に言った。「わたしと同県の汪家の娘さんおよび嫂はいずれも河口天后宮[4]の繍女[5]で、事情があって下界に流されましたが、今、期限が満ちて帰り、かれら二人もいっしょにゆこうとしています。」その夫はそのことを両家に尋ねると、汪と劉もほんとうに病が篤かった。まもなく閻は死に、汪も死んだ。閻の母はその娘が死に、嫁も死にそうであることを聞いて、たいへん恐れ、いそいで天后の前にいって泣きながら祈って言った。「わたしの娘はすでに死んでおり、たった一人の嫁が、もし死ねば、わたしはどうして生きましょう。どうかすこし留めてわたしを見とらせてください。」その後、劉の病はほんとうに癒えた。

  一年あまりして、劉は突然孕んだが、産もうとする夜、夢みると天后が言った。「おまえの姑が老いていたために、しばらく俗世に留めたのだから、どうして子を産むことが許されよう。」手で押さえ、朝起きると、腹は平らかで常人と同じであった。これより前、劉の娘は幼女の時から閻に嫁いだ後になっても、毎月かならず一二日戸に鍵を掛け、夜通し一人も会うことを許さなかった。ひそかに聞くと、数人が談笑しているかのようであったが、朝になると止んだ。家人がつよく質しても、まったく言わなかったが、この時になってはじめて分かった。今もなお存命である。代州の馮松涛[6]が清河に寄寓した時、その事を見た。

  桃源の女神

  桃源県の鄭氏の娘は、生まれながらにして慎み深く、談笑することは少なかった。年頃になると、ある日、その母に言った。「子は某日に死に、死んで某村の神になると、その地は廟でわたしを祭るべきだ。」母は狂っていると思い、信じなかった。期日になると軽く病み、数日して亡くなった。亡くなった時は端坐し、顔貌は生きているかのようで、部屋の中にはくすしき香りがし、雲旗[7]風馬[8]ありさまを、家人はみなぼんやりと見た。数日後、某村男女が同じ日に夢みると女が告げて言った。「わたしはここで血食し、おまえたちを幸福にしよう。」住民は神と思い、醵金して像を造り、「娘娘廟」と号したところ、たいへん霊異を顕した。乾隆三十四年[9]の事であった。

  女にはもとの下女李氏がおり、もっとも親しんでいた。女は神となった後、毎月かならずしばしば婢を招いた。肩輿で廟にゆくと、昏睡すること終日、目ざめて帰った。神が留めようとし、むりに帰ろうとすれば、肩輿は十人でも挙げられなかった。李氏は嫁いだ後も、招きに応ずること相変わらずであった。五十一年冬になると、李氏は夫に言った。「娘娘がわたしに臘月×日に去るように命じました。去ればふたたび帰りません。」夫はもともと神を信じておらず、諾うばかりであった。その日になると、李は沐浴して香を焚いた。人を遣わしてその夫を招かせて一別した。夫がことさらに帰らないと、李は怒って言った。「わたしは時刻を誤った。来年正月某日に改める。」夫は帰り、死ななかったことを聞くと、でたらめだと思った。

  翌年の某月になると、李はさらにその夫を招いて別れを告げた。夫は怒って言った。「また冗談を言っている。」結局、帰ってかれが死ぬか否かを見た。帰ると、李は普段通り談笑し、家事を幾つか頼むと、(つくえ)に倚って瞑目して死んだ。

  安慶府学の狐

  乾隆五十六年[10]、秋祭りの数日前、籩豆[11]を洗い、あらかじめ供物を供え、明倫堂に列ね、夜に人を遣わして見守らせた。副斎[12]の輿夫に田姓のものがおり、もともと勇敢強健で、一人でその事に当たっていた。その夜は新月で、田は伏して三更になると目ざめ、人がたまたま語るのを聞き、目を開いて見ると、二人が階上を経て、臥榻にゆこうとしていた。田は躍りあがって大声で叫ぶと、二人はすぐに進んでかれと闘った。田は力を奮って一人を捕らえ、階下に抛つと、大声で叫び、狐に変わって去った。一匹はさらに闘ったが、田はやはり捕らえ、抛つとやはり狐に変わって去った。田はもう来ないと思い、就寝した。

  熟睡しないうちに、突然人の声が多くなり、近づいてきた。いそいで起き、見ると一人の叟がいたが、鬚眉はすべて白く、背を曲げて進み、若者十余人を率い、怒鳴って田を打たせた。田は怒り、拳を揮って人々を撃ち、人々はすぐに倒れ、抗えるものはいなかった。叟は怒って言った。「このように憎らしいとは。」そこで躍りあがって頭で田の左脇にぶつかったが、巨石に中たったかのようで、痛くて我慢できず、地に倒れて起きられなくなった。叟は人々に怒鳴っていそいで堂の後ろの左側の薪小屋に引いてゆかせた。田はゆけば生きられまいと思ったが、見ると堂の右に大きな鐘があり、架に懸かっていた。人々が引っ張っていたので、不意を突いて、架の下に疾走し、片肘で架を引き、片手で敵を拒んだ。叟はたいへん怒って、手で田の肘を持ってつよく引いた。田は恐れ、両手でつよく引いた。叟は力が強く、架もろとも数尺引いていったが、鐘の音が鏗[13]とすると、叟は震えて止まり、狐たちに命じて近づいてかれを撃たせた。頭頂から踵まで完膚がなくなり、血を吐くこと数升であった。夜が明けようとすると去り、田も倒れて人事不省となった。

  夜が明けると、執事のものが入ってき、見てたいへん驚き、湯を飲ませると、しばらくして蘇り、くわしく顛末を言ったので、狐が祟ったことを知り、次の夜、十余人を集めて守らせた。人々は臥そうとせず、坐して四更になっても、見えるものはなく、人々もたいへん疲れた。就寝するとすぐ、人々が馳せる音がしたので、目を瞠って仰ぎ見ると、老人が言った。「その人はいるか。」人々はすべて調べて言った。「いません。」老人は言った。「さいわい網を逃れたから、去ろう。去ろう。」そして寂然とした。

  田は一月あまり病に臥し、その後癒えた。癒えた後、刃を持って堂上に宿って復讐しようとしたが、その妻がつよく阻んだので、やめにした。

  湖南の貢院の幽鬼

  乾隆丙午科、湖南の秋闈で、澧州の吏目馮名廷は命を奉って巡場した。第三場十四日の夜、馮は同僚の李某とともに坐して公堂にゆき、李はまさに几にもたれて臥していた。その夜、月光はかすかに明るく、馮が見ると、階下にものがあり、長さは二丈あまり、腰と腹は囷[14]のようで、全身はすべて毛で、両目は閃爍として炬のようで、西の文場から出、ゆっくり歩いて東の文場に入った馮はもともと大胆であったので、恐れず、はじめて会った時に低い声で李を呼んだ。李は目ざめて仰ぎ見、たいへん驚いて(つくえ)に伏し、(もののけ)が去った後に起き、ともに寝所に入り、しもべにいっしょに同じ部屋に臥すように命じた。馮は李が臆病になっていたので、臥すと、ことさらに壁を叩き、牀を打ち、脅かして戯れとした。

  騒いで笑っていると、たちまち大声で嘯き、しばらくして止んだので、人々はみな股栗し、布団を頭に被った。まもなく、人の声が轟然として、馮と李はみな衣を着て起き、監臨[15]、監試[16]の両主考[17]はいずれも起き、人を遣わして内外尋ねさせ、遠近聞かないものはなく、みなたいへん訝り驚いた。その時、頭場[18]の薦巻[19]はすでに十七八が決定され、二人の主考がさらに校閲を加え、七巻を落としたが、後に結局特別の異変がなく、もしやこの七人が合格するべきでなかったのでこのような怪異を致したか。

  雷異二則

  滁州[20]の某村に黄家がおり、ひとり部屋に坐し、午後風雨がにわかに来た。たちまち霹靂一声、左壁の下の諸器物はすべて移されて部屋の中に置かれ、壁から四五尺離れていた。壁の白泥は厚さが三分に過ぎず、やはり壁から四五尺離れ、垣のように立ち、すこしも損なわれていなかった。嫗は驚いて倒れ、しばらくして蘇り、攻撃したものが何か分からず、その家もほかの異変はなかった。

  代州の旅店に二人の客がいっしょに泊まっていたが、ある日、はやく起き、大風微雨の中、一人の客が土炕の上で大きな瓦盆を覆って坐し、一人の客が敷居の上に坐して談話していた。敷居の上に坐する者がふと仰ぎ見ると、家の梁の上に火光二寸があり、小さい蛇が跳びはねているかのようであったので、いそいで炕の上の者を呼んで見せた。その人が答えないうちに、突然霹靂一声があり、屋根が剥がされた。人々が駆け込むと、ゆかに一人が倒れ臥していた。一人は炕の上にかたく坐して動かず、近づいて見ると、すでに死んでおり、頭頂に一つの孔があり、豆のようであった。はじめ雷撃かと疑い、仰ぎ見ると屋根瓦が外に飛び、上から下ったものらしくなかった。屍を移してみると、坐していた盆の底にも孔があって豆のようであった。盆を掲げてみると炕の上もそうであった。なんとゆかから起こり、炕盆を穿ち、腹を通り、頂を貫き、家を破って去っていたのであった。ゆかのものは湯を飲ませると蘇り、死なないですんだ。

  人が魚に変わること

  おいの致華は淮南分司[21]となり、四川の兵餉[22]を輸送して夔州城を過ぎた。途中では男女が騒ぎ、国を挙げて狂っているかのようであったので、尋ねると、言った。「某村の婦人徐氏はその夫と牀をともにして眠り、たいへん愛しあっていました。朝起きますと、妻は面目髪膚は元通りでしたが、下半身はすでに魚の形に変わり、乳以下の鱗甲は腥くて滑らかで、口はなお語れ、容貌も普通で、ただ涕泣哀号して言いました。『わたしは眠るときにとりたてて痛みはございませんでしたが、下半身が痒いのを覚え、掻きますと、だんだん盛り上がり、疥癬を生じようとするだけだと思いました。ところが五更過ぎに両合わさり、伸縮しなくなり、摩ると、すでに魚の尾となっていましたが、どうしましょうか。』夫妻は抱きあって大声で泣いた。」華は家人を遣わして見させたところ、ほんとうにその事があったので、赴任の期限は間近に迫っていたので、逗留せず、お上に知らせた後、それを江に放そうとしたか。それとも家で養っていたかは分からない。尋ねる暇がなかったのである。

  韓昌黎が老相公[23]と称せられること

  韓文公は貢院の土地[24]である。庚子の[25]、嘉興の秀才に陳效曽というものがおり、試験の数日前に廟に入ったところ、廟祝[26]が拝礼させようとした。生はいった。「昌黎をどうして拝する。学問は師とするに足りず、文章は師とするに足りない。」廟祝が強制すると、大声で罵って出ていった。試験が終わると、帰宅して死んだ。

  納棺して数日、その妻は恐れ、小姑と布団を同じくして寝ていた。夜半、小姑が厠へゆき、ふと見ると兄が戸を開け、嫂の帷帳を掲げて入った。嫂は走って出、姑は大声で叫び、家人は集まったが、嫂の声と容貌兄さながらで、大声で言った。「わたしは效曽だが、身はどこにある。」家人は言った。「納棺しました。」狂奔して棺の所にゆき、棺を叩いて泣いて言った。「わたしは老相公に無礼したので、相公の門人家僕はわたしを広間に閉じ込め、老相公は科場の事が終わるのを待ち、わたしを釈放することになっていた。昨日、老相公は、合格発表があったので、わたしを二十板責め、わたしは帰ることができたが、どうしてわたしをはやく納棺してしまったのだ。」さらに大声で泣き、家人は言った。「老相公とは誰ですか。」「土地だ。」「土地とは誰ですか。」「韓昌黎だ。」客は言った。「昌黎は、伯だ[27]。現在の呼称に従えば、伯爺(ボーイエ)[28]というべきだ。家人の呼称に従えば、老爺(ラオイエ)と言うべきだ。そこで冥土では老相公(ラオシャンコン)とだけ称しているのだ[29]。」

  淫することを焦って自縊すること

  京師の香山の某兵の妻は、嫂や義妹とともに住んでいた。嫂はもともと淫乱であり、裏門に小便桶を設け、路を歩いて小便しにくるものを覗き、その陰部を見ることができると、すぐに招き入れてともに淫していた。このようにして年を経ていた。

  ある日、嫂と義妹がともに門の隙間から窺っていると、羊を屠るものが小さい車を推して巷を通り、桶に近づいて小便したが、その陰は昔交わったものに数倍していたので、嫂は狂喜し、迎えて臥榻に入ってゆかせ、すぐ肉屋の下着を解き、媚びた。義妹は傍らに坐し、事が終わるのを見ると、すぐにいって近づこうとした。しかし肉屋は生まれつき持久力があり、午の刻から未の刻になってはじめて事を終わり、腹がたいへん空いたので、飯を求めた。いそいで飯を終えると、義妹はかれが自分のところに来るだろうと思い、やはり下着を弛め、肉屋の一物を指し、啜ってやったところ、肉屋の一物はふたたび起った。嫂は言った。「肉屋さんは性質が猛々しく、あなたは堪えられないでしょうから、またわたしに譲るべきです。」義妹は承諾した。ともに牀に入ると、嫂は癲狂してやまず、義妹は焦ったので、淫水は流れて踵に達し、嫂が自分を欺いたことを怒り、別の家にいって自縊した。そこで義妹の夫の家はお上に訴えたが、嫂に苛められて死んだと思っており、その事の醜悪さを知らなかった。嫂の夫は、街卒[30]で、帰宅し、その妻の顔色が穏やかでないのを見、被褥[31]汚れていたので、ひそかにきびしく質し、はじめてその事情を知り、お上に告げた。

  これは乾隆丙午[32]に刑部の福建司[33]が審理を担当した。判決がなされたが、供述が穢褻であり、上申できなかったので、嫂を不応[34]の重罪ということにし、杖八十とした。

  照海鏡

  宜興[35]の西北郊外新芳橋[36]の邸農[37]は、地を耕して一物を得たが、丸くて羅盤[38]のようで、二尺余りで円く[39]、外枠は紺色で、玉のようで玉でなく、中に白色の石一塊を嵌め、底まで澄明で、で晶のようで晶でなく、聳え立って(かさ)のようであった。鎮東[40]の薬店に売り、代金八百文を得た。塘西[41]の客商某が過ぎ、十千を送り、崇明にいって売り、銀千七百両を得た。海商は言った。「これは照海鏡で、海水が黒々としていても、照らせば怪魚と一切の岩礁を見られ、百里離れていてもあらかじめ避けられる。」

  穀仏

  湖州の沈書記は号を訥庵といい、穀仏一体があり、玻璃の(はこ)に収められていた。(はこ)は長さが半寸、(はこ)の下に座があり、高さは二分ばかり、中に大きな穀物一顆を蔵し、長さは一分半であった。穀物には芒があり、やはり長さは一分許りであった。穀物の傍らに穴があり、晴明に紅い日の中で片目を閉ざして見ると、その穴はだんだん大きく門のようになった。ながく見ると、門から堂が見え、堂から殿が見え、三宝如来[42]像が現れた。像は高さ数丈で、纓絡は荘厳で、見ると胸の前の卍字紋は一尺に満ちていた。傍らに文殊、普賢の二像が立ち、奥深く、人の語るのが聞こえるかのようであった。眼をすこし瞬くと、たちまち見えなくなり、やはり大きな穀物一粒に過ぎなかった。

  沈によればこの物は湖州の某尚書の家に残り、明代の利西公が西洋の墨瓦臘泥迦(メガラニカ)[43]から持ってき、中国に入ったものであるという。かの国では秋の実りの時、この穀物が畑に生え、千里が赤くなる[44]。門人王曇はみずからこの穀物を見たが、今はどこに属しているか分からない。

  丹徒の怪事件

  丹徒県宰の張、名は振綱が、呼ばわる従者とともに門を出ると[45]、突然、一物が空から轎の簷の上に落ちてきた。轎が風をきって走っていると、物はたちまち落ちて衣衩[46]の中に入り、弼弼と跳ねた。驚いて見ると、男子の陰で、長さはわずか二寸ばかりであった。すぐに轎を出、従者に命じて捕らえさせたが、跳んでやまず、見物人は垣のようであった。そこで持って帰って庫に貯え、この事案をくまなく尋ねたが、得られなかった。

  一ヵ月後、西門の水汲み女王大娘は某家の嫁と姑が人を殺したと報せ、捕らえてすぐに尋ねた。そもそも嫁と姑の二人はさきに一人の陝西の客商某に通じ、後にさらに陳姓のものに通じたので、たがいに姦通した。後夫は陝西の客商を斬り殺してばらばらにして埋め、その屍の男女を弁じさせないために、ことさらにその陰を裂いた。あたふたとして収拾がつかず、楼の窓の外に投じたが、本県の官轎の中に落ちたのであった。知府の同僚に知らせ、大笑いしないものはいなかった。謀人[47]の律に照らし、姑、婦、姦夫三人はともに処刑された。

  幽鬼が取りたてを恐れること

  常州のある貧乏人が死に、その家は富豪に売られた。貧乏神が祟ったが、富豪はかれを鎖し、十年近くなっていた。後に富豪も貧窮し、豪邸を売り、引っ越した。すると突然、貧乏神が大騒ぎし、紙銭を求め[48]、祭祀を求め、一家の老若がみな病んだ。おりしも冬の終わりであり、家の主は宿債がもっとも多かったので、債権者が堂に登り、日夜叫び罵ったところ、妖魅はたちまち絶え、病人はすべて治った。翌年になって債務がやや清算され、帳簿が焼かれると、幽鬼はふたたび白日大声で罵り、言った。「わたしは去年取りたてがたいへん多いのを見、生前の古い借金かと疑ったので、避けたのだ。今、焼いた帳簿を見たがすべておまえの家の宿債で、わたしと関わりないから、どうして避けよう。」そこで磚をち、火を擲ち、喚き声は日々激しくなった。家の主も引っ越して二度と住まなかった。

  蘭渚山[49]の北来大仙

  会稽の蘭渚山に蘭亭道院があり、その(なかにわ)は北来大仙が住むところであった。北来大仙とは、狐神であった。

  会稽の商人の陳は若い時に楚に旅し、資金を失い、貧しくて自給できず、病んでもいたので、廃寺に住んだ。ある晩、娘が来たが、容貌は麗しく、衣服は輝き、すべて明珠を綴って作ったものであった。商人は驚いて起きた。女は臂の釧を外して贈って言った。「あなたが貧しいことを知りましたので、贈り物しにきたのでございます。」そして去った。翌日また来た。このようにすること数ヶ月、枕席は快適で、情誼は日に日に篤くなった。商人はそこで金釧でいささか器物を贖い、もとの商売を行い、娘も新居を買い、家事を切り盛りし、さらに日々金銀珠宝などの物を齎したが、巨万を下らなかった。

  数年して、商人の家の手紙が突然来た。商人はその里に自慢しようとしたが、娘が(あやかし)であることを疑ってもいた。ある日、娘が家にいないのを伺うと、商人は突然数百の人夫と童僕らを呼び、旅装を担いでぞろぞろと去らせた。女は帰ると、家じゅうが空しいのを見、商人を追って江口にいったが、商人はすでに高歌して帆を揚げていた。女は流れに臨んで叫び嘆いたが、渡れず、商人は帰郷して富豪となった。

  十年後、娘が来、商人を呼んで言った。「わたしは狐神で、千年陰徳を積み、名は仙籍にある。今回おまえが裏切ったので、すでに天帝に訴えた。江神に命じてわたしの檄文をこちらに授けに来させれば、おまえは死のう。」そして刀を飛ばし、火を擲ち、家は安眠できなかった。あれこれ祓ったが、効果はなかった。ある日、女は空中で嘆いて言った。「わたしは以前情が篤かったので、この極みにいたった。おまえを死なせれば、天下の情ある人々がわたしたちを笑う恐れがある。おまえの家が盛大にお祓いを行い、名山を選んでわたしの霊魂を安んずることができれば、わたしの仇は解けよう。」時に蘭渚山の道士某は道法[50]がもともと優れていたので、醮[51]を四十九日設けてやった。道士は女に言った。「どうしてわたしの蘭渚山に住まない。」女は言った。「たいへん宜しゅうございますが、わたしは五百年住んではじめて去りましょう。」それから来なくなった

  今、道院は羅氏の地産となり、羅氏は像を造ってやり、たいへん麗しかった。しかし女も折々に夜間外出し、世人と談論したという。

  陰嚢を食らって合格すること

  杭州の士人が于文肅祠で祈夢し[52]、眠るとすぐ、一人の悪鬼が一つの腎襄を担いでき、大きさは甕ほどで、言った。「合格しようとすれば、これを食らうべきだ。さもなければ合格しない。」士人は恐れ、むりに食らった。食らうと味はたいへん甘く、の種[53]のようで、しばらく厚い皮の四面を食らい尽くしたが、睾丸二つだけはけっして歯が立たなかった。幽鬼は言った。「棄てろ。おまえはすでに合格だ。」士人は喜び、しかしそれから受験するとしばしば落第した。乾隆癸卯[54]の合格発表になると、士人は首席合格し、はじめて恍然[55]と悟り、そもそも浙中では腎を卵と呼び、「幽鬼」は、「癸」である。「卵」の核を去ると、「卯」の字なのであった

  楊老爺が産婆を招いてとりあげさせること

  嘉興の[56]では楊老爺神を祀り、霊験が多かった。産婆の阿鳳はとりあげして富を致し、遠近のお産する家が招いてくると、はじめて難産することがなくなるのであった。

  突然、雪の夜、人が門を叩いたので、尋ねた。「どちらから来られました。」「冷水湾[57]の楊府で坊ちゃんが産まれ、主人が来るように命じていますので、いそいで船に乗られるべきでございます。」鳳は裘を着て僕とともに船に乗り、ほんとうに冷水湾にいった。邸宅は荘厳華麗であった。門に入ると、主人は軒に臨んで立ち、鳳が来たのを見ると、たいへん喜び、しもべに命じて後堂に導きいれさせた。産婦はまさに牀に臥して叫んでおり、下女たちは燈を持って立ち、みな惨然として言った。「奥さまはお産四日目になります。」鳳は見てみると、そもそも腸が胎に纏いつき、すぐに下れなかったのであった。医術で救うと、胎児はすぐに出た。主人に報せると、主人は金元宝二錠を送った。鳳はそれを収めると、言った。「三朝[58]の後、まいりましょう。」時に空は大雪であったが、部屋では熱気が極まっていたので、鳳は服を脱いで仕事した。

  門を出て船に乗ると、はじめて上着があるのに着けていなかったことを思い出した。帰宅すると空はすでに明け、元宝を見れば金紙を疊んで作られており、皮衣はすでに家に送られていた。そこで同郷の人々は老爺[59]のために三朝をし、囲盤[60]釵果[61]の礼を行い、各廟の神々を迎えてきて祝った。

  尿瓶が節を失うこと

  西人の張某は、如皋の令となった。幕友の王貢南は、杭州の人であった。ある日同時舟で門を出、貢南が夜間にかれの尿瓶を借用したところ、張はたいへん怒って言った。「わたしは西人[62]の慣例で尿瓶を妻妾とみなしているが、この口に何を含んだのか。他人がみだりに用いることが許されようか。先生はたいへん無礼だ。」すぐに下役に命じて杖をとって尿瓶を三十板責め、水に投げさせ、貢南の荷物を岸に抛ち、帆を揚げて去った。

  三頭の虎が命をとること

  元撫軍[63]展成[64]は二人の娘を生んだが、いずれも国色があり、一人は李敏達公[65]の第四子星曜[66]道台[67]に嫁ぎ、一人は誌ュ司寇[68]の子守謙[69]太史[70]に嫁いだ。乾隆壬子[71]の春、わたしは太史と虎丘で会い、たまたま往事を談じ、言った。「おかしなことです。わたしの妻が死にました。結婚の後、琴瑟はたいへん調い、三年になろうとしていました。とある日、閨房で置酒してわたしに訣別の動作をし、言いました。『わたしは前生で猟師で、三頭の虎を殺したことがございますが、虎は魂が散じず、命をとりにこようとしています。今、わたしは孕み、来年の分娩の日はまさに寅年に当たっています。寅年は虎に属し、もしや免れないのでしょうか。』『どうして分かる。』『昨夜、夢の中で金の鎧で虎の冠の神仙がわたしを訴えたのでございます。殺した三頭の虎の中で、二頭の虎はともに人を傷つけたことがございますので、上帝は復讐することを許しませんでした。その一頭の虎は人を傷つけませんでしたので、かれが命をとることを許したのです。』そう言うと泣いてやみませんでした。年を越えると、ほんとうに難産亡くなりました。」

  梁相国が夢を解くこと

  梁文定公[72]は病が篤くなり、夢みてとある場所にいったが、宮殿は嵬峨[73]としており、座客はいずれも知っているものでなかった。公はしばらく語ると、突然喫煙しようと思ったが、火がないことに苦しんでいると、ある人が一つの殿舎を指して言った。「この中に火がございます。」中に坐している神仙は梁を招いて言った。「ひとまずゆっくり一服なさい。一句がございますから、対句をお作りください。」「三代(さんだい)(えい)[74](なんぢ)(たい)()ぐ」の七字を書いた。梁は目ざめると、諸々の門生を招き、病状を見て解釈させたが、みな解せなかった。しばらくすると言った。「わたしは助からない。三は、三中堂(宝)[75]だ。英は、英中堂(廉)[76]だ。泰は、伍中堂(弥泰)[77]だ。三人の役人はわたしとともに死に、わたしはそれに継ぐのか。はやく葬儀を準備しろ。」三日後に薨じた。

  サルに斎食を与えること

  天目山にはサルが多く、サルに斎食を与えにゆこうとするものは、さきに韋陀廟[78]にいって香を焚いて祈った。「某日、山にきてサルに斎食を与えます。」寺僧は牌を掛けて告知してやった。期日に臨むと、主人は饅頭(マントウ)千個を買い、廟の外のゆかに布いた。早朝、サルたちはみな集まったが、一人の大きな老人がおり、白髯は一尺ばかり、飄飄と背を曲げて、傍らに二匹のサルがおり、やはり白鬚であった。老人が助けられてくると、サルたちは跪いて迎えた。老人は南面して地について坐し、サルたちは拱手してやはり坐し、寂然として厳肅で、騒ごうとしなかった。二人の侍者が饅頭(マントウ)を捧げて老猿に献じると、老人は食らい、その後、サルたちがともに食らった。食らいおわると、主人に向かって叉手[79]拝謝して去った。梁履素孝廉[80]はみずからその事を見た。わたしは斎食を施しにゆこうとして、路は険しく、草は深いので、ゆくことを果たさなかった。

  黒熊が字を書くこと

  乾隆辛巳[81]、虎丘に乞食がおり、一匹の黒熊を養い、大きさは川馬[82]ほど、()のような毛は森然と立ち、字を書き、詩を吟じられたが、語れなかった。見にゆくものは一銭で一見することを許されたが、白紙で字を求めると、唐詩一首を大書したので、百銭を報いた。

  ある日、乞食は外出し、黒熊だけがいたので、人はさらにいって一枚を与えて書くことを求めた。熊は書いた。「わたしは長沙子供を教えていたもので、姓は金、名は汝利ともうします。幼い時、この乞食とその仲間がわたしを捕らえ、さきに唖になる薬をわたしに飲ませましたので、語れなくなったのでございます。さきに一頭の黒熊を家で飼っていました。わたしの衣を剥いで縛り、全身を針で刺しますと、熱い血が滴りました。血が熱いうちに、すぐ黒熊を殺し、その皮を剥いでわたしの体を包みました。人の血、狗の血[83]が貼りついてかたくなり、ながく脱落しませんでした。鉄鎖でわたしを繋いで人を騙し、今では金を数万貫近く稼いでいます。」書きおわると、その口を指し、涙を落とすこと雨のようであった。人々はたいへん驚き、乞食を捕らえて有司に送り、採生折割[84]の律に照らし、すぐに杖殺し、黒熊を護送して長沙にゆき、もとの家に渡した。

  按ずるに己未[85]の年、京師の某官が下女と奸淫し、女に舌を咬みきられた。蒙古の医者が来、狗を殺して舌をとるように命じ、熱い血を帯びたまま嵌め、百日門を出ぬように戒め、後に引見したところ、奏対する[86]こともとの通りであった。元の某将軍は陣に入って刀と矢の傷を受けることは数えきれず、血は噴き、息は絶えた。太医某は馬を殺すように命じ、その腹を裂き、将軍を抱えて馬の腹の中に臥させ、数十人で揺り動かさせると、まもなく、将軍は血を浴びて立った。いずれも同じ理である。

  雷屑

  人蔡鳴西[87]と徐佩玉[88]は、中表兄弟[89]で、二人は楚から同じ舟で苧麻[90]を載せて帰った。乾隆戊寅[91]九月十三日の夜、九江に泊まったが、雷雨が激しかった。蔡は怯懦であったので、布団を被って臥していた。銅の飯器[92]が炉に据えられていたが、揺れて落ちようとしていたので、徐は起きて移して置いたところ、電光がただちに下り、森然として双眸に迫り、大きな雷が鳴り、船の柁は抜き去られ、水が溢れて入ってきた。舟人はともに起き、引いて岸に着き、暗闇の中でたがいに什物を運んだ。空がだんだん明けると、徐の頭頂に一本の木が挿されており、長さは約三四寸、周囲は一寸あまりであったので、人々は驚いて徐に尋ねた。徐は自分では気づかず、すこしも痛みや痒みがなかったが、さながら生まれながらのもので、煩わしく一刻も堪えられないもののように見えた。

  隣の舟に人がいて符呪をよくし、言った。「これは雷屑[93]で、罪がなくてあやまって触れたものなら、わたしが抜けます。」徐はたいへん喜んだ。蔡は嘘かもしれないと心配し、そのことを県尹に訴えた。尹が河原にいってじっくり見ると、その人は符を徐の頭頂に描き、口で吶吶と誦えた。手を挙げて一抜きすると、木はすぐに持ちあがったので、さらに小さい黄の符を描いて(きず)に貼った。木は頭頂に入ること一寸あまり、鋭くて錐のようであった。ある人は邪魅を避けられるといった。尹は記録に残すべきだと思い、持って去った。

  翌日、頭頂の紙がひとりでに落ち、はじめのようにたいへんよくなったようであった。奇情奇事、奇技奇人は、どこになかろうか。

  牛

  臨武県[94]の川には激流が多く、東南三十里の地を牛頭[95]いうが、山の形が似ているのでこういうのであった。魚を産することが多いものの、水勢は急で、罟網[96]を施しがたかったが、おおむね白鴿の糞を水に投じれば、魚はみな死んで水面に浮かぶので、小さい舟に乗ったり、下半身裸になったりして、流れに沿って拾うのであった。

  ある晩、二人の男が酒宴に赴いて帰り、岸に沿って歩いていると、水面に巨魚が浮かんでいたので、一人は喜んで朋輩に言った。「すこし待ってはどうか。あの魚をとってこよう。」そして衣を脱いで水に入ったしばらくすると、人と魚はいずれも音をたてなくなった。かれが溺れたかと訝り、いそいで村内の泳ぎが達者な張某を探し、水に入って探すように頼み、若干の金を報酬とすることを約束した。張は許諾し、酒を求めて飲み、たちどころに数斗を尽くし、酔って立っていられないかのようになると、小船を進めて魚が浮かんでいるところにゆき[97]、波を翻して潜り、数歩離れて、浮かんだり、沈んだりした。このようにすること数回、跳躍して岸に登ると、言った。「一人の男が沙の中に坐しており、人が来るのを見るとかならず移って去る。はやく酒を持ってきてわたしに飲ませろ。またいって連れてこよう。」さらに数斗を尽くすと、ふたたび水に入った。

  まもなく波が沸きあがると、張が一人の男の髪を掴み、波を踏んで岸に上がり、地に抛ち、掌で打って言った。「おまえはわたしを煩わし数回往還させたな。このように厄介だとは。ほんとうに憎らしい。打たれて当然だろう。」傍らで見ていた者が懸命に宥めると、はじめて穏やかになった。見るとその男はすでに死んでいたが、まさに昨晩魚を求めたものであった。金をお礼にすることを約すると、張は笑って言った。「わたしは二度痛飲し、腹はすでにいっぱいだ[98]。この術に頼って人から金を騙しとれば、どうして人を迷わす水鬼に異なろう。」すぐ首を振り、手を挙げて去った。張は奇傑の士で水に隠れているものだろうか。

  門の顧君朗村[99]はその日その地を通ってみずからそれを見たが、同時に言うには、土人はその下に龍宮があると称しているとのことであった。以前、一人の幼童があやまって水に落ち、ある官署にゆくと、門に二人の男が坐して対局していた。姿は怪しくて蝦か蟹のようであったが、童を見ると訝り、事情を尋ね、水から送り出した。幼童は今でも存命し、年はやっと三十あまり、人にこの怪異を語ったのであった。

  陰陽山

  川東[100]新寧県[101]の南、地名を火石嶺[102]といい、唐姓のものが精進して仏経を誦えていたが、年は五十あまりで、たちまち病むことなくして亡くなった。四日後、胸はまだ温かかったので、家人はすぐに納棺するに忍びなかった。だんだん蘇り、湯薬と粥を進めると、蘇り、家人に語っていった。

  「先日たまたま門を出ると、一人の道人がおり、布袍に裸足で、呼んでいっしょに歩いたが、この身がままならなくなったと感じた。ゆくこと数里、水音が奔騰しているのが聞こえ、まもなくある河についたが、広さは測りしれず、巨橋は空に掛けられていた。橋の上の人は道人を見ると、笑って呼んで言った。『通霊がきた。』『どこか。』答えて言った。『河です。』さらに数里ゆくと、高い山が聳えたっていたので、尋ねた。『何の山か。』答えて言った。『陰陽山です。』匍匐して登り、懸崖は高く、奇怪で、気色は暗澹とし、真ん中の径は、一人がゆけるだけで、両脇はすべて荊棘であった。見ると多くの人が茂み[103]の中を往来し、路を探しているかのようで、皮膚はすべて荊棘に傷つけられ、血を流して叫んで泣いていた。わたしは恐れて尋ねた。道人は言った。『人で心が真率で、公正無私のものは、この大道をゆける。嘘つきは、みずから荊棘に投じ、ひたすら苦痛を受ける。平生正道に従っていないからだ。』

  「山が尽きると、天の日は清朗となり、城郭が望まれた。道人は言った。『これは太平城で、路ゆく人が雑踏しているが、みな沙汰を待っているものたちだ。』ふと見ると一人の隷卒が牌を持ってきて叫んで言った。『ひとまず三十六人を連れてゆこう。』道人はすぐにわたしを招いて城に入らせた。城内には役所がたいへん多かったが、みな寂然としていた。まもなくある官署にゆくと、額に『業鏡司』とあり、わたしを引いて東の角門の前から、大堂の軒下に立った。見ると右廂[104]の椅子に一人の男が坐しており、礼服に頂帽[105]であった。前には一人の娘が立ち、年は十七八ばかり、かれを引き、泣いて怨んでいた。その男を横目で見ると、まさに同郷の県尹であった。尋ねると、道人は言った。『知事をしていた時、陳家の娘は夫が亡くなって節を守っていたが、父が再婚させようとした。娘は承知せず、後にに訴えた。どちらも美しく若いのを見て[106]、かれらがかならず和合するだろうと思い、嫁ぐように判決したが、娘はなんと自縊して死に、今また来て沙汰を待っているのだ。』

  「まもなく呵殿[107]の声が聞こえ、一人の男が堂に昇って上座に坐したが、方巾大服[108]で、道教の装いに似ており、両房[109]の下役が伺候し、威儀はたいへん厳肅であったので、ひそかに何の官かと尋ねると、言った。『これは冥府の総政[110]だ。』道人は叩頭して会い、たがいに問答したが、言っていることは分からなかった。その後、わたしを連れて跪いて会うと、座上の官は言った。『おまえは世で経を誦えたことがあるか。』『ございます。』さらに言った。『どんな経を誦えた。』『『金剛経』を誦えました。』『おまえはもちろんよい人間だ。ただ『摩訶』をどうして『沙摩訶』と念じた。一字を誤ったので、罰として一除いたのだ。今回おまえを呼んで来たが、はやく過ちを改めれば、おまえに十年の陽寿を返してやろう。去れ。』そこで叩頭して起立した。たまたま先ほどの娘が来、叩頭して会ったが、訴えたことは、ほんとうに道人の言葉の通りであった。座上の官は言った。『おまえはこのように死ぬべきなのだ。』案上から方斗[111]のような一物を抛ち、言った。『おまえはみずから見てみよ。』女は黙然とした。さらに言った。『おまえは誓いを立てて操を守ったから、今から岳主の命を奉り、燕の地に投胎し、皇荘の禄を受けにゆけ[112]。』すぐに堂を退いたが、雲板[113]鼉鼓[114]はさながらこの世の官の儀礼の通りであった。戻って右廂を見ると、も見えなくなっていた。

  「平陽を出ると、三十六人が蹲踞して向かいあい、一人の隷卒が往来し、巨扇を持って仰ぎ、火炎が昇り、高さは数丈であった。まもなく火は収まったが、三十六人はまだいた。隸卒はさらに懐から一珠を出したが、大きさは卵ほど、地上に置き、さらに扇で仰ぐと、狂風がにわかに起こり、三十六人は行方が知れなくなった。驚いて道人に尋ねると、言った。『冥府では人の世と刑罰が異なっている、この陰陽火が悪人を除き、罡風[115]がその渣滓(かす)を挙げ、山に落ちれば虫介となり、水に入れば魚や蝦となる。善行をする人は、別によいゆく路がある。』ふたたび前の路を通って帰ったところ、舅氏[116]の某に遇ったが、豚皮を背に負っており、泣きながら言った。『わたしは不幸にして利川[117]で死に、今から豚に変わるのだ。』家の中門[118]に着くと、道人は去り、今、目ざめたが、自分が死んでいたことを知らなかった。」家人を遣わしていって待たせ、ほんとうに病を患って危篤で、両手は厥逆[119]すること数日、今は霍然[120]とした。娘の事を尋ねると、ほんとうに藍田の宰となったときの案であった。まもなく、その舅氏の子が来て、かれの父がほんとうに某日に利川県で亡くなったといった。

  事は乾隆二十二年四月にあった。唐姓は今なお存命で、語れば絵に描いたようである。康熙庚子[121]の孝廉で、秦で奉職し、代々新寧県の後に住んでいた。わたしはかれの家にいったことがあったが、子は名を霖といい、県学生で、詩文ができ、岐[122]くわしく、やはりくわしくその事を語ったたことがあるた。

  亡夫が妻を冥土に連れていって太公[123]太婆[124]に会わせること

  [125]の荘生家千は、はやく歿した。未亡人陸氏は、乾隆壬子に病に臥した。夏を経、七月六日になり、ふと夢みると、亡夫がとある門に連れていったが、広間はもとの家のようであった。堂に上って見ると舅姑がみなおり、それぞれ悲しみ喜んだ。

  にわかに、衝立の後ろから髯の翁夫婦が杖に縋って出てき、家千は言った。「これは太公太婆で、おまえは会えなかったから、今はただ会うべきだ。」氏は礼法通り拝礼して面会した。髯の翁は言った。「孫の嫁がはじめてわたしに会うなら、もてなすべきだ。」その子が貧乏であることを答えると、翁は嚢を探って銀を出して左右に渡したが、まもなく菜肴が並んだので、周りに坐してともに食らった。翁は盤の中の肉団子を指して家千に言った。「この食べものを持っていって孫の嫁に食らわせてはどうか。」家千はすぐに愀然としてその祖父を見、だめだと思っているかのようであった。翁は語らなかった。食らい尽くすと、氏は進みでて尋ねて言った。「こちらに来たからには、閻王に会えましょうか。」翁は言った。「おまえは罪過がないから、会いにゆく必要はない。」そこで傍らのものを指して氏に言った。「明日の戌の刻、肩輿を来させておまえを迎えさせよう。」そこでにわかに目ざめた。会った髯の翁夫婦のことを述べれば、ほんとうにその生前の容貌で、口吻はそっくりであった。使い走りの人にいたっては、その家のすでに亡くなった下女ばかりで、すべて違わなかった。氏は夢の中では、一家骨肉が集まっていてたいへん楽しかったと言った。

  翌日の七夕、ほんとうに夢の中の二人の僕が輿を担いで迎えに来、期日通りに死んだ。髯の翁は、名を椿、字を書年といい、射洪[126]の県令となったことがあり、生涯真率であった。家千の父は字を実君といい、やはり誠実な人であった。

最終更新日:202279

続子不語

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[1]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/133116.htm&sa=U&ei=5ectT_mnAerzmAXOiJDtBg&ved=0CBwQFjAB&usg=AFQjCNEgquqG_k0TlVfXgc9l90lqjbWI4w

[2]http://maps.google.com/maps?q=%E7%8E%8B%E5%AE%B6%E7%87%9F%E3%80%80%E6%B2%B3%E5%8C%97&hl=zh-CN&gbv=2&gs_sm=e&gs_upl=1141l2016l0l2688l6l5l0l0l0l1l187l780l0.5l5l0&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[3]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/1786%25E5%25B9%25B4&sa=U&ei=ZsMtT8bIJuPJmQWtwLjbDw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFldEEPLz68o1xop57L_JSr3poiMw

[4]未詳

[5]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicBBZdicA3204037.htm&sa=U&ei=tcMtT6aWF7DImQWm2rj4Dw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFkQ_IWnXjVVeHAeiMIqMCGIeARJA刺繍する女。

[6]未詳

[7]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicBAZdic91263194.htm&sa=U&ei=ETXCTvOzFYTFmQXf8emyBA&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNGaixsGi5Ui7nXUbDBFZDTjoHWfsw熊虎の案が描かれた大旗。

[8]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE9ZdicA3Zdic8E69303.htm&sa=U&ei=0SQmT5aYIZGUiQeKoIX2BA&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNH_xa9xukFFQh75SZVkKRzvMJTiTAのように疾駆する馬をさす

[9]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/1769%25E5%25B9%25B4&sa=U&ei=KsQtT-imLevOmAXD8qT3Dw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFjxQS0QgEBD8mHudkM4YkzozU7yQ

[10]http://www.google.com/url?q=http://zh.wikipedia.org/zh/1791%25E5%25B9%25B4&sa=U&ei=YsQtT8X_FsOAmQWNkMDTDw&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNFJBaB-iHAOxIK-oGmsuQhGST_24Q

[11]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE7ZdicACZdicBE335251.htm&sa=U&ei=ccQtT6L7C6abmQX56fn_Dw&ved=0CBoQFjAC&usg=AFQjCNHrDhql1_tVGZy8mZ1lMcf_Shl4Agと豆。祭祀および宴会の時に常用する二種の礼器。竹製が籩、木製豆。

[12]府学の学官の呼称と思われるが未詳。

[13]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic93ZdicBF341698.htm&sa=U&ei=QCYmT_ioLM2UiQfoiNH3BA&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNHNNYef0f2okFS68RR9UcwUdovChg声音が響くさま。

[14]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE5Zdic9BZdicB7.htm円形の穀物倉庫。

[15]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9BZdic91335531.htm&sa=U&ei=dv0nT6CdN6KIiALcyczZAQ&ved=0CBIQFjAA&usg=AFQjCNFJn2QNn6Z096qOt6UhLF5WvHugzA郷試監督官

[16]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7Zdic9BZdic91183308.htm郷試監督官。監臨より格下。宮崎市定『科挙史』百三十頁参照。

[17]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8ZdicBB8766.htm主考官。試験を主管する官。

[18]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5ZdicA4ZdicB4335789.htm&sa=U&ei=qycmT4asOYquiQe3kICXBg&ved=0CCEQFjAB&usg=AFQjCNG_5y--UNpWW9xFNpbsJmdWdI7_Ug郷試あるいは第一試験。、初とも称する。明清両代科試験で郷試、会試はそれぞれ三場に分かれていた。

[19]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic8DZdic90203903.htm&sa=U&ei=vScmT-aOOuOtiQfPnMzaBA&ved=0CBIQFjAA&usg=AFQjCNEOzvpdbqbCOflZ0zxlyBRIX4YMPQ挙の試験中で選ばれた試験答案

[20]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/62373.htm&sa=U&ei=r8UtT8GnLsbSmAX29-jsDw&ved=0CCMQFjAB&usg=AFQjCNGODWXG_yX34L6vztsTjwyIo9K_-Q

[21]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic88Zdic8627286.htm&sa=U&ei=4cUtT47qLtDrmAXJ48TRDw&ved=0CB8QFjAC&usg=AFQjCNH2PdE7Q7nnKOXtDIxPHX9dBYUfGg明清で運司の下分司を設けた。塩務を管理する官

[22]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic85ZdicB510459.htm人の給金。またひろく軍事物資用をさす。

[23]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8Zdic80Zdic81173197.htm&sa=U&ei=RLMsT7XoEIPKmQWi6fjtDw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHFkoCgdZKd5EvYUczHu-xp_feKKA社会の年老いた男子にする敬称。

[24]http://baike.baidu.com/view/188975.htm土地神。

[25]http://zh.wikipedia.org/wiki/1780%E5%B9%B4

[26]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicBAZdic9990281.htm&sa=U&ei=dsYtT4rxG-zEmQXQ3-HiDw&ved=0CCEQFjAD&usg=AFQjCNFECRmFkWVpHA3CZC-6359iX1Uurw宇の中で香火を管理する人。

[27]韓愈は宋代に昌黎伯に封ぜられた。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic98Zdic8C128214.htm

[28]伯に対する敬称と思われるが未詳。

[29]原文「昌黎、伯也。依今時稱謂、當曰伯爺、依家人稱之、當曰老爺、乃冥中僅稱老相公。」。この文、論理が未詳。とりあえずこう訳す。

[30]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE8ZdicA1Zdic97111324.htm&sa=U&ei=BGrCTpnvMcvAmQWkhqywBA&ved=0CA8QFjAA&usg=AFQjCNG0SD_vEJWjLdoVs9a3E4njwqJh5g街道の治安、掃除等の事を掌管する下役。

[31]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE8ZdicA2ZdicAB310292.htm掛布団と敷布団

[32]http://zh.wikipedia.org/wiki/1786%E5%B9%B4

[33]『清史稿』職官志・刑部「尚書掌折獄審刑、簡覈法律、各省讞疑、處當具報、以肅邦紀。侍郎貳之。十七司各掌其分省所屬刑名。」「福建司兼理都察院科、倉場衙門、左右兩翼監督、鑲藍旗、阜成門、福州將軍文移。

[34]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8Zdic8D289606.htm&sa=U&ei=YQUoT9DAPILQmAXj-NXEAw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHHuURIeGTP28U6ticy-O3Bf8xebw法律用語故意犯罪ないことをいう

[35]http://www.google.com/url?q=http://www.hudong.com/wiki/%25E5%25AE%259C%25E5%2585%25B4%25E5%258E%25BF&sa=U&ei=W83zTrrELemKmQW1lbiWAg&ved=0CBIQFjAA&usg=AFQjCNGINIG90UOg1pAHNd0ebz0-cFtjhA

[36]http://www.youbianku.com/%E6%B1%9F%E8%8B%8F%E7%9C%81%E6%97%A0%E9%94%A1%E5%B8%82%E5%AE%9C%E5%85%B4%E5%B8%82%E6%9D%A8%E5%B7%B7%E9%95%87%E6%96%B0%E8%8A%B3%E6%A1%A5%E4%B8%9C%E8%A1%97

[37]農民の邸さん。

[38]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7ZdicBDZdic97197382.htm&sa=U&ei=utgtT7CpEsromAW2hNHPDw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNH_iResA-xl0kqYpr2TudaNdSvVyg方向を定する器。方位の目盛りのある円盤と中装備された磁針で構成される。http://www.google.com/search?q=%E7%BE%85%E7%9B%A4&hl=zh-CN&gbv=2&gs_sm=e&gs_upl=1515l1515l0l1734l1l1l0l0l0l0l172l172l0.1l1l0&um=1&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&oq=%E7%BE%85%E7%9B%A4&aq=f&aqi=g1g-S4g-m1g-mS2&aql=

[39]原文「二尺餘團圍」。「團圍」が未詳。とりあえずこう訳す。

[40]未詳

[41]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/30506.htm&sa=U&ei=ydktT6uHGYeNmQXY6MTZDw&ved=0CBYQFjAB&usg=AFQjCNF358TBs3ZmWoWAYKgGBlo6Ah5rSg

[42]http://www.google.com/search?q=%E4%B8%89%E5%AF%B6%E5%A6%82%E4%BE%86&hl=zh-CN&gbv=2&gs_sm=e&gs_upl=1532l7266l0l7563l8l8l0l0l0l4l266l1595l1.2.5l8l0&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[43]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/1257510.htm&sa=U&ei=XNotT4f0CYrymAXziKj8Dw&ved=0CBUQFjAA&usg=AFQjCNHo5pfvB34FOfZJXLfe_y-QeMAoTA十五世紀から十八世紀まで、欧洲の地に描かれていた南方の假想大

[44]原文「千里赤荒」。「赤荒」が未詳。とりあえずこう訳す。

[45]原文「騶呼出門」。未詳だが、「騶」は従者であり、「騶呼」はこれが先払いをするのであろう。

[46]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8ZdicA1ZdicA9200402.htm&sa=U&ei=f2zCTo25BorPmAXkiM21CQ&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNGag_n730tvEmMkthZVfc3LbdtyFA両側が開いた長衣http://www.google.com/search?hl=zh-CN&q=%E8%A1%A3%E8%A1%A9&gbv=2&gs_sm=e&gs_upl=1250l1250l0l1422l1l1l0l0l0l0l109l109l0.1l1l0&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[47]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE8ZdicB0Zdic8B257819.htm&sa=U&ei=ntooT8vRHoWOiAL59cyyCg&ved=0CBgQFjAA&usg=AFQjCNHRqGkQMXX0yXu3Cg3a4FTaCUxOgw漢典に適当な語釈なし。人を謀殺することであろう。

[48]原文「索鏹討祭」。「鏹」は冥鏹であろう。紙銭。http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic86ZdicA597037.htm

[49]http://webcache.googleusercontent.com/search?hl=zh-CN&gbv=2&gs_sm=e&gs_upl=1109l1109l0l1328l1l1l0l0l0l0l94l94l1l1l0&q=cache:qaaVd6ffaJkJ:http://baike.baidu.com/view/349751.htm+%E8%98%AD%E6%B8%9A%E5%B1%B1%E3%80%80%E7%99%BE%E5%BA%A6%E7%99%BE%E7%A7%91&ct=clnk

[50]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic9335720.htm&sa=U&ei=Y3DCTt6mFIeNmQXo05SQBA&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNHA8grKeRuKeVIQo-Gr-ZWVwlEnmw道教の法

[51]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE9Zdic86ZdicAE.htm神霊に祈祷する祭礼、後にもっぱら道士、和尚が災禍を祓うために設ける場をさす

[52]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7ZdicA5Zdic88225023.htm&sa=U&ei=-HDCTsbXLcfMmAWeocWLBA&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNEqyqb02re8Qiu4nGNcRWytNcUAFQ神に祈求して夢の中で福を予知すること

[53]原文「」。未詳。とりあえずこう訳す。

[54]http://zh.wikipedia.org/wiki/1723%E5%B9%B4

[55]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic81Zdic8D307739.htm&sa=U&ei=b3HCTsWfK8LrmAXkxaXKBA&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNG0otauShcK-6Ka2aepia1xMId-nQはっとするさま

[56]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB9ZdicA1107852.htm&sa=U&ei=9ggoT5mxLqH6mAXS7fSnAw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNF1qFDV7Uc7FpF09Q-iliY15wwO-Q。ひろくやや小さな市鎮をさす。

[57]http://www.aibang.com/youbian/a-%E5%98%89%E5%85%B4%E7%A7%80%E5%9F%8E%E5%8C%BA%E5%86%B7%E6%B0%B4%E6%B9%BE

[58]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic8914959.htm&sa=U&ei=iHLCTs2YA6XqmAXGvMSMBA&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNFNPfN4L1kuttu4F9WASJA7spFD_w結婚後あるいは出生後の第三日を「三朝」と称する。

[59]楊老爺神

[60]原文同じ。「囲盆」の誤りであろう。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6ZdicB7ZdicBB4873.htm&sa=U&ei=xtcsT5LlB9HsmAXL8pnKDw&ved=0CBUQFjAB&usg=AFQjCNHo8MLX1QvyjhlbuhE_n84dKf4bMw京夢華録·育子』「大展洗児会、親賓盛集、煎香於盆中、下菓子綵葱蒜等、用数丈綵之、名曰。以釵子水、盆。者各撒於水中、之添盆。

[61]前注参照。洗児会の時に、子を洗う盥に果物を入れ、かんざしでかき混ぜるようである。

[62]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA5ZdicBF195360.htm&sa=U&ei=O-0tT9O4AdDzmAXo37jiCA&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHmpYAQ1l1w5zv9ltigJvevHpNfYg陝西山西人のこと。

[63]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic8AZdic9A222620.htm巡撫

[64]http://zjjh.tjjh.gov.cn/system/2010/07/21/010026946.shtml雍正十年、州巡。乾隆二年

[65]http://baike.baidu.com/view/33243.htm

[66]前注によれば李衛に星曜という子はいない。次子李星聚、四子李星宿が道台になっているのであるいはこれか。

[67]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9Zdic81Zdic93234603.htm&sa=U&ei=JC0uT7jELMj1mAXW0oDAAQ&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEO_t8HSaM7mKiw2QsjM9MqaCG92Q清代省以下、府以上一の官主管範囲が地区によって分けられたものには済東道、職務によって分けられたものには法道などがある。

[68]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdicB8313681.htm少司寇は刑部侍郎。

[69]未詳

[70]欽天監。また、翰林のこと。http://www.zdic.net/cd/jd/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA313380.htm

[71]http://zh.wikipedia.org/wiki/1792%E5%B9%B4

[72]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/383973.htm&sa=U&ei=DTcrT93tF-zEmQXQ3-HiDw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEhfN9m04H8-3opSp-8ziOrQLn5yA千七百八十六年歿

[73]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5ZdicB5ZdicAC334244.htm嵬峩http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5ZdicB5ZdicAC334245.htm高大雄

[74]http://ctext.org/pre-qin-and-han/zh?searchu=%E4%B8%89%E4%BB%A3%E4%B9%8B%E8%8B%B1

[75]http://baike.baidu.com/view/8674.htm#sub6199077千七百八十三年歿

[76]http://baike.baidu.com/view/223479.htm千七百八十三年歿

[77]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/2757519.htm&sa=U&ei=SjYrT7XPFu3GmQWEqvD0Dw&ved=0CBIQFjAA&usg=AFQjCNGVUhlatVcVg6hNFi8UFp_2dHFNUg千七百八十六年歿

[78]http://webcache.googleusercontent.com/search?hl=zh-CN&gbv=2&gs_sm=e&gs_upl=1125l5453l0l5641l3l3l0l0l0l1l235l579l0.2.1l3l0&q=cache:cGneaMw8KL8J:http://baike.baidu.com/view/42994.htm+%E5%A4%A9%E7%9B%AE%E5%B1%B1%E3%80%80%E9%9F%8B%E9%99%80%E5%BB%9F%E3%80%80%E7%99%BE%E5%BA%A6%E7%99%BE%E7%A7%91&ct=clnkhttp://www.google.com/search?q=%E5%A4%A9%E7%9B%AE%E5%B1%B1%E3%80%80%E9%9F%8B%E9%99%80%E5%BB%9F%E3%80%80&hl=zh-CN&gbv=2&gs_sm=e&gs_upl=1125l5453l0l5641l3l3l0l0l0l1l235l579l0.2.1l3l0&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[79]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5Zdic8FZdic89307674.htm&sa=U&ei=6AooT467Lqf4mAWxguDDAw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNGzXDsyO3tWatc94ELsnZBS27doow両手を胸の前で交差し、恭敬を表すこと。

[80]未詳。孝廉は挙人。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicADZdic9D320217.htm&sa=U&ei=N0wuT83uOvDxmAXzhdDuDw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHHBnp2Els80lne6HMFpiF8fM3JgQ 

[81]http://zh.wikipedia.org/wiki/1761%E5%B9%B4

[82]四川産の馬。あまり大きくないようである。『清史稿』廷桂伝「川馬本不高大、又日繫槽、多羸斃。」

[83]原文「人血、狗血交黏生牢」。狗血は「狗熊」の血のこと。狗熊は黒熊。

[84]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic87Zdic87222322.htm&sa=U&ei=QVwmT_PoI8-UiQe0xLTdBg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEor1AqBBQ7IG00RhnscLMtHhgF5w生きている人を殺し、その肢体を切り、五官腑等を取って薬を作り、財を集める犯罪行

[85]http://zh.wikipedia.org/wiki/1739%E5%B9%B4

[86]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5ZdicA5Zdic8F100664.htm&sa=U&ei=tuAoT5f1K6TViAL7uN3ICg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHM2Nn_vR5iTf4s0DDWOg7dwgMa7w臣下が直接皇帝が出した問題に回答すること

[87]未詳

[88]未詳

[89]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD332885.htm父、祖父の女兄弟の子孫もしくは、母、祖母の兄弟姉妹の親戚関係。自分とは異姓の実の親族。

[90]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8Zdic8BZdic8E338616.htm&sa=U&ei=KOMtT6_vDsuZmQXqnLnODw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEEhQgPS6TTLzKoadBzVLI4bl-3NA多年生草本植物。麻科。茎はまっすぐで、茎皮繊維は堅靭で沢があり、編結紡績、製紙の原料にすることができる。根は薬に入れることができる。

[91]http://zh.wikipedia.org/wiki/1758%E5%B9%B4

[92]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE9ZdicA5ZdicAD62437.htm飯を盛る器具。

[93]文字通り雷の屑であろうが、出典未詳。

[94]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/322278.htm&sa=U&ei=ouMtT_PZI-PqmAXNhIH_Dw&ved=0CCQQFjAC&usg=AFQjCNGrv0nrbry_CdDeRq3QcQMUcTrkWA

[95]未詳

[96]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE7ZdicBDZdic91237302.htm&sa=U&ei=DZooT6TxD5GciQeJ_fDcAg&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHN-I-4kV53h14eg8Jj8H5kagpIEQおよび鳥獣を捕える道具。

[97]原文「踏小船至浮魚處」。「踏」が未詳。おそらく田舟のようなものを足で蹴って進めてゆくのであろう。

[98]原文「腸味已充」。未詳。とりあえずこう訳す。

[99]未詳

[100]四川の東

[101]http://baike.baidu.com/view/1077544.htm#sub6095755

[102]未詳。

[103]原文「叢脞」。漢典に適当な語釈なし。訳文の意であろう。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9B94057.htm&sa=U&ei=6HrCTsW6IorGmAWW0pmxBA&ved=0CA8QFjAA&usg=AFQjCNGZFRL00J6FgJSA6rNFoT5zp8HOow

[104]西の廂房

[105]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9ZdicA1ZdicB6280190.htm&sa=U&ei=iagoT-lo4uaIApX8_MkB&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNGBhGlVfwTOw4Dl-usH7QZBNfg4cw清代、階をする子のある官帽。

[106]娘と再婚相手のことか

[107]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic91ZdicB5104531.htm&sa=U&ei=u3zCTo-cEan8mAWj_-WQBA&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNGB-y0HhBocNaam_vKEF0WYvjKYXA員が出行する時、儀衛が先払いしんがりし、通行人に道を譲らせること

[108]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA4ZdicA733823.htm&sa=U&ei=03zCTumsK-mimQX61YzvCg&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNENr6CPpnOYw5MRpswBVnkGDHGPwQ漢典に適当な語釈なし。ゆったりとした服の意であろう。

[109]原文同じ。未詳。

[110]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6Zdic80ZdicBB237745.htm&sa=U&ei=Kn3CTtPXLZHomAXD4dGwBA&ved=0CBAQFjAA&usg=AFQjCNHyNJH0jJOGGtsKjlyz0LiRan9knA

[111]未詳だが、四角い斗升であろう。

[112]原文「皇莊受祿去罷。」。http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic9AZdic87188422.htm皇荘は明清両代、皇室直の荘園。この句未詳

[113]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicBAZdic91103403.htm仏教の法器。鉄を雲状にた板。撃って時を報せるhttp://www.google.com/search?q=%E9%9B%B2%E6%9D%BF&hl=zh-CN&gbv=2&gs_sm=e&gs_upl=1313l2719l0l3000l2l2l0l0l0l0l187l359l0.2l2l0&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

[114]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/20/ZdicE9ZdicBCZdic8D56491.htm&sa=U&ei=y-UtT-70Nc_tmAXpuOz1Dw&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNERy2vCEL3fJJxeKq1LbbMs9E5pAQ皮を被せた太鼓。

[115]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE7ZdicBDZdicA1197235.htm&sa=U&ei=KeYtT-OJF-bXmAX9stzXBQ&ved=0CCEQFjAB&usg=AFQjCNHCnVqIR1S1l2Uce4YlpvzjoYCMDA道教で高空の風をいう。後にひろく強風をもさす。

[116]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic88Zdic85209573.htm&sa=U&ei=dkwqT56iLOqZmQX73ujNDw&ved=0CBIQFjAA&usg=AFQjCNH5mb5w8CS4jY34kpTwHeqHI9vStw舅父http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic88Zdic85320947.htm母の兄弟。母舅と俗称する。

[117]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/52864.htm&sa=U&ei=Z-YtT7P6EOyVmQWG5qjPDw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNFm06U1rDDf2CkIT6sm-0KQMO8lqQ

[118]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE4ZdicB8ZdicAD304331.htm&sa=U&ei=MyIqT8DeJa_4mAWtrrjjDw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNEVuTAMIMTUT49gDdsaw-AoYK1spg

[119]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5Zdic8EZdicA594025.htm手足厥冷。http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5Zdic8EZdicA57381.htm&sa=U&ei=nu8tT6TbOsj1mAXW0oDAAQ&ved=0CBkQFjAC&usg=AFQjCNGq6EhQMV1kzCZNdBKSF31OtQgejg漢方学の名。「手足厥冷」、「手足逆冷」、「四逆」ともいう。手足四肢が下から上2冷たくなって肘膝にいたる症状。寒、厥、疝等の病症にみられる。

[120]「霍然而愈」という言葉がある。「霍然」は「突然」に同じ。http://www.zdic.net/cd/ci/16/ZdicE9Zdic9CZdic8D354895.htm

[121]http://zh.wikipedia.org/wiki/1780%E5%B9%B4

[122]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5ZdicB2Zdic90209026.htm&sa=U&ei=IOctT4yFIdD2mAXm9eTwDw&ved=0CBMQFjAA&usg=AFQjCNHv3J2UiqhaUSgz5ifNsbLoPKl2HQ漢方の医者あるいは医

[123]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA313365.htm&sa=U&ei=Q-ctT_CKB-qamQW045mGBw&ved=0CB4QFjAB&usg=AFQjCNGGYi3mm9iDY1Db4xbZ-PeplAYsSA祖父。

[124]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA213883.htm&sa=U&ei=MuctT5qxCMznmAWjs9HsDw&ved=0CB0QFjAB&usg=AFQjCNETAV2oVNSbon-BBiKlpwwFBTCJqw祖母

[125]http://www.google.com/url?q=http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6ZdicAFZdic97324028.htm&sa=U&ei=rs4UT9mlH8rfmAWvrYzzAw&ved=0CBkQFjAC&usg=AFQjCNEdVAuQgf5IDEXIPgnV8e_Wk828mQ今の江蘇省常州市。

[126]http://www.google.com/url?q=http://baike.baidu.com/view/123146.htm&sa=U&ei=suctT5b4EYqJmQWb1s31Dw&ved=0CCUQFjAC&usg=AFQjCNFlxzgIvbP5HwXFtdDOzTkEwxBH9A

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