巻四
大定初年、山東の人楊善淵は臨淄の市場の南に土地を買い、道院を建てた。地を掘ると古い磚を得たが、おもてに四十二字が刻まれていた。「大斉戌二年四月八日、南郭石羊巷の楊道円、花磚[2]三千笆を天斎観玉清宮殿上に施し、ながく楊の署名、磚匠楊本堅を記録す。」あるものが考証したところ、この地はそもそも北斉の時の天慶観[3]で、街巷のあちこちには今なお石の羊が残っていた[4]。戌二年とは、高緯[5]の天統二年[6]丙戌の歳のことであった。県にはそれより前には宮観がなく、善淵が土を掘って工事したところ[7]、たまたま古い観と地が合ったのだが、善淵が道円と同姓であったのもおかしなことであった。
盗人が王君和に謝すること
馮翊[8]の士人王献可は、字を君和といい、元豊年間に京師で受験した。合格発表を待っていた時のこと、ある朝、商人が新鮮な魚を持ってき、骰銭[9]を抛って賭けをした。君和が骰銭に祈って前途を占うことにし、抛って魚を得ると、商人は胸を打って言った。「うちの家族は絶食してもう二日なので、親しい人からこの魚を借り、数銭を得、一家の食費にしようと思っていた。あなたは抛って勝ってしまった、わが家は食禄が尽きてしまった。」君和が惻然として悲しみ、魚を取らず、さらに数銭を贈ると、商人は謝して去った。落第して西へ帰る時、澠池を通り、朝に山谷の間を発つと、にわかに群盗に捕らえられ、十数里路を進んだ。夜が明け、客の旅嚢を閲すると、一人の少年が突然まっすぐ進みでて君和に尋ねた。「あなたは京師の旅館で賭けをしてわたしの魚を取らなかったかたではございませんか。今日ここでお会いしますとは。」再三慰謝し、同行者たちもみな許された。同郡の徐安上はそのことを記したという。
広寧山[10]で龍が闘うこと
甲辰、乙巳の歳、広寧は夏の五、六月におおいに暗くなり、雷雨が取りまき、音を出して絶えることがなかった。夜に閭山[11]の上を望むと、白い気がまっすぐ海に連なっていた。まもなく雨が降り、夜通し収まることがなかった。平明、水が村落を浸し、死者は限りなかった。高さ数百尺の大きな崖も、崩れて平地になっていた。下には長い石があり、石の上には杵で搗いたような痕があり、いつの時代に岡に覆われたものか分からなかった。山頂は龍が闘った処で、遺された跡は数十あり、泥にしるされた鱗甲や爪の痕には、長さ五六十尺のもの、長さ百余尺のものがあった。思うに龍たちが集まってここで闘ったため、土人はこの大変に遭ったのであろう。
宣和年間、龍徳宮[14]の花竹池沼の間に、まばらに家を建て、村の農民の住居のようであった。山荘漁市、旗亭茶店がすべてあり、宮女に主をさせた。上皇はそこをゆっくり歩き、命知らずの少年を従えていた。行く先々で、主と客は、恋恋として談笑し、まったく俗世と異ならなかった。去るときは、金銭を払った。播越の禍はすでにこの時にあらわれていたのであった。『呂氏碣石録』。
女真黄
文潞公[15]が元豊年間に洛水の南を治めていたとき、銀李[16]が千葉[17]淡黄の牡丹を献じにき、命名を求めた。公は「女真黄」と名づけた。後の人ははじめてそれが讖であったことを知った[18]。
日本国の冠服
大定[19]末年、日本国が硫黄と沙木[20]を売って明越[21]にゆこうとし、風に漂って登州[22]の海岸に来た。その人は華冠[23]縞服[24]していたが、上には鶏犬が描かれ、挽郎のようであった[25]。みずから言うには、先祖は秦の人で、徐市の船が載せて海に入ったものだ、市は死に、五蕃菩薩[26]になった。国人は今でもかれのために凶服[27]しているということであった。たまたま裕陵[28]が亡くなったので、沙木をとって葬儀に供した。
焦燧の業報
開封の焦燧は、清廉有能であったため大興の推官に選ばれた。囚人を質すとき、罪を認めないものがいれば、すぐ脳勘[29]した。河東路の提刑官になると、突然脳疽を病み、ひどい痛みであった。そこでみずから嘆いた。「わたしは取り調べで脳勘を用いていたが、人もこのように痛かったのか。」あれこれ治療したが、結局たすからなかった。
孔孟の子孫
宣聖[30]の五十三代孫は名を元措[31]、字は夢得といい、仕えて太常卿に至り、泰寧軍[32]節度使を遥領[33]していた。顔子の五十三世孫は名を珍といい、辛丑の年に会ったが、六十余であった。長清[34]には子貢の後裔木老がおり[35]、かつて広威将軍[36]の官にあり、人々は「木威」と目していた。冉子[37]の子孫は農家で、長清の鵲巣[38]におり、末子は牛児、子は改名して阿鞬といった[39]。孟氏にも子孫がいたが、わたしは会ったことはない。孔氏で曲阜にいるものは聖人の諱を避け、「丘」を「区」と読む。これも知っていなければならないことである。
張孝通の冤報
大定末年、武清[40]の人趙士詮は西京[41]で商売するとき、つねに白登[42]を通り、張孝通の家に泊まることが多かったが、その妻はかれと私通していた。孝通はそれを知ると、ひそかに士詮を殺そうと企んだ。ある日、士詮が酔っているのに乗じ、その子定国とともに縊り殺し、屍を野に棄てた。士詮が長いこと帰らなかったので、子が白登に探しにきた。孝通は宿屋の白忠友と仇があったので、ひそかに趙の子に告げた。「お父さまの行方は、白忠友が知っています。」趙の子がお上に訴えると、お上は忠友を縛って拷問した。忠友は苦しみに堪えず、無実の罪に服したが、事件は結局解決しなかった。明昌初年、白の妻は朝廷に訴え、朝廷は賈公守謙[43]を遣わして調べさせた。賈がひそかに県の人に尋ねると、その人はおかしな話をした。張孝通およびその子が一頭の騾馬を駆って某処にゆき、路傍の樹下に憩っていたところ、騾馬が草を求めて逃げたので、定国が怒って鞭うつと、騾馬は突然人の言葉で言った。「おまえは趙客を殺し、さらにわたしを打つのか。」父子は顧みて色を失った。後日、孝通の婦が水を汲んで騾馬に飲ませようとすると、騾馬はさらに語った。「おまえは人を殺したのに、白家に濡れ衣を着せるのか。」孝通父子は言葉が漏れるのを恐れ、殺して口封じしようとはかったが、県の人々はみな知ってしまっていた。賈公がこのことを報告すると、朝廷はすぐに刑部員外孫某を遣わした。孫某が駅を走って県にゆき、孝通父子を捕らえると、一回尋問しただけですぐ罪を認めた。人は神を欺けないことを知った。賈公は仕えて右丞に至った。
魏相が魚を夢みること
参知政事魏子平は魚を食らうことを嗜み、料理人は魚百余尾を養い、普段の食膳に供していた。ふと夢みたところ、魚たちがその身に集まり、退けても去らず、さらに夢みると、魚に圧され、痛くて出られず、しばらく苦悶すると、目ざめた。それからは魚を食らわなかった。
字を見る
宋末に、字を見て吉凶を知るものがいた。上皇が「朝」の字を書き、人に命じて試させると、こう言った。「十月十日に天子がお生まれになり、紹興に南渡して、杭州にとどまりましょう。」「杭」の字を書いて尋ねると、言った。「兀朮[44]が来ようとしていますから、その鋒先をお避けになるべきでございます。」太師梁王[45]は幼名を兀朮といい、本当に兵を擁して南した。験はこのようなものであった。かつて同舎生で孟津[46]の李蔚慶之とこのことに言及したとき、わたしは言った。「古には字を見る術はなかった。他の術に頼っているのだろうか。」李は言った。「そうでない。これは亀卜の名残なのだ。」
夢霊丸
京師法雲寺[47]の僧律師[48]は、失明して数年であった。夢の中で、人が内外障[49]を治す処方を授けたが、瞳孔に水がありさえすれば、かならず癒やすことができるということであった。艾二両、蔓菁[50]の根、枸杞[51]、蒺藜[52]、甘菊[53]、荊芥[54]の穂それぞれ一両、当帰[55]、地黄[56]、川芎[57]、赤芍薬[58]、防風[59]それぞれ一両半、十一味を粉末にする。水と麺の糊で桐子ほどの大きさの丸薬にする[60]。空腹時、食前時に、温水で三、二十丸を飲む。僧が服すると、目はふたたび見えるようになったので、「夢霊丸」と称したという。
呂氏が記した古印章
党承旨[61]は周亜夫[62]の銅印を持っていた。束鹿[63]の柴揖は歴城[64]の簿に転任したとき、彭宣[65]の私印をもっていた。臨淄の農民鄭氏は、地を耕して方寸の銅印を得たが、鈕は九匹の猿猴、細く小さく豆のようで、じっくり見ると、形は完全であった。鄭には子がなかったが、それから九男を生んだので、この印を珍蔵した。
古鼎
燕都の廟学[66]に銅鼎があり[67]、高さは二尺、数斛を容れられ、篆字で「離明[68]神鼎[69]に火を養ふ」の六字が書かれていた。後に裕陵[70]のものとなったが、結局古人がどう用いていたか分からなかった。郭太傅舜兪が語るには、博平[71]路氏の鼎には、款識がなく、文章がなかったが、黄金丹碧が、絢爛として目に溢れ、五升ばかりを容れられ、高さは三尺、その一足はやや大きかったということであった。路氏がこれで茶を沸かすとき、わずかな火でその足を焼くと、水はすぐ沸いた。大定年間、銅禁[72]が行われた時、死蔵しようとせず、大きな足を砕いて折り、お上に送った。足は中が空ろで、折ると銅の屑が炎のように揚がった。天地の間の優れた宝には、生成と破壊とに定めがあるが、凡人の手によって壊されたのは、惜しいことであった。蔡内翰正夫の『古器類編』に二つの鼎を記していう。その一は、明昌三年二月、藍田[73]玉山郷の農民李興が地を掘って得たもので、高さは二尺、両耳に十行の字があり、文は『王四月初吉丁亥』といった。長暦[74]で考証すると、魯の荘公十二年四月が丁亥であり、周の安釐王がはじめて立った歳で、改元していなかったため、年を称さず、月だけで数えたのである。さらに百二字があったが、かならずや周の諸侯が作った器である。その一は、太原三交[75]の西南で、大定九年、汾水東岸の古墓を壊すと、鼎と鐘磐の類があった。鼎の小さいものは五寸ばかり、大きいものは三尺近く、中は黄金色、満たされていた牛羹はなお識別できた。鐘磬は小さいものは二尺に及ばず、およそ十六等あったが、音律の順番になっていた。款識はなかったが、いずれも周の物であった。
西陰の井戸が移ること
戊申正月、武城[76]の東に村落があり、名は西陰といい、民家に井戸があり、四五歩移動したが、井桁[77]は元通りであった。さらに数日して、一人の道士がこの村を通ったが、姿態や服装は常人と異なっており、農具の中に二つの碾があるのを見ると[78]、怒鳴った。「畜生め。こちらにいたか。」脇に挟んで去った。村民は禍が及ぶことを恐れ、家を捨てて遠くへ引っ越した。その後、変わったことはなかった。南宮[79]の士人董徳卿がみずから見た。
海島婦
王内翰[80]元仲の『集録』にいう。「近年海辺の猟師が航海して鶻を求めて、ある島に着いた。そこの人びとは穴居野宿し、諸夷と特に異なっており、言葉がまったく通じなかった。射ると中たったが、血を摩って笑うのであった。猟師は男を見れば殺し、女を載せて帰ったが、岸に着こうとすると、みなみずから水に沈んだ。後日ふたたびゆき、船の人がそれぞれ一人の女を捕らえると[81]、はじめてその家にゆけた。婦人はこちらに来るとさらに食らわず、旬日を越えたものがあった。ある日、みな東の岡の大樹の上で自縊した。」元仲は、黄華老人である。
鶏沢[82]の奇すしき変事
鶏沢の農民五人が、ともに樵していた。門を出、西を望むと風の勢いはたいへん激しかったので、ぐずぐずしてゆこうとせず、さらに一人の叟に阻まれた。四人が家に帰り、一人がゆききして樵していると、激しい風が西北から来、天の日を揺るがした。この人は走って避けるのが間に合わなかったので、溝に臥していると、一人の男に掴みあげられてともに進んだ。進む時、この人は風を踏んで進んだが、見れば同行しているものたちはすべて神鬼であった。ゆっくりとある城を過ぎると、神人は言った。「ここは朝城[83]だ。」さらに東へゆくと。路傍で長い髯の人が拝礼し、酒を勧めた。神人はともに廟に入り、この人を廟の門の下に残した。まもなく、呼びいれて酒をつがせたが、見れば神人はそれぞれ身長一丈あまり、鬼の姿のもの、人の姿のものがおり、衣はすべて錦繍で、香気は人を襲った。この人は座中で酒を勧めたが、座中のものたちは語らず、右手の親指でから次の座で勧めるように指示した[84]。勧めおわると、さらに廟の門の下に出た。まもなく酒宴は散会となり、神人が外に出ると、激しい風がすぐに起こり、この人を置きざりにしてそれ以上訪ねなかった。この人は風が収まるのを伺い、出て人に尋ね、その地は東平[85]で、廟は岳祠[86]であることを知った。乞食すること数日で、家に着いたが、なおぼんやりとして精神病のようであったという。智仲可が語った。
臨晋[87]の奇瓜
臨晋上排[88]の喬英の家は、農業をし、三、二頃[89]の瓜を植えていた。英が西瓜一窠を植えると[90]、広さは畝二分[91]で、千二三百の実を結んだ。後日、地を耕すと、瓜の根は大きさが椽のようであった。辛亥の年、定襄[92]の士人樊順之がみずから見た。
舜麦
河東県[93]の舜寨は麦を産出していたが、粒は普通の麦でありながら縫目がなく、さらに色はやや白く、一つの斗ごとに麺十三斤を得られた。この地は二頃あまりで、数軒の農民が地主となっていたが、たとえば、今年東の家で舜麦が熟すると、翌年は西の家で熟するのであった。処は定まらなかったが、結局二頃の外に出なかった。定襄の周夢卿が語った。
平陽[94]の貢院の鶴
泰安初年、高子約、耿君嗣、閻子秀、王子正は平陽で受験したが、挙子は一万人であった。主司[95]は緋衣の人が謝しにくるのを夢みた。翌朝、試験問題が出されると、同僚にそのことを語った。するとにわかに、鶴の群れが旋舞して楼に来、長いこと去らなかった。主司は胥吏に命じて掲示を出させ、大書して人々に示した。「今回の試験の状元は、河東から出よう。」府試の問題を挙げれば『聖人に金城有り[96]』で、解魁[97]の宋可封は、沢州[98]の人であった。省試の問題は『倹徳[99]は化民家給[100]の本なり』で、省魁は孫当時であった。御試の問題は『休徳[101]を獲承して康寧なるに遑あらず[102]』で、状元の王綱は、平陽の人であった。三元[103]は本当にすべて河東の人であったという。
史学優の合格歳月
河中[104]の李欽叔[105]が生まれたとき、その父之才が湯餅局[106]をおこなった。すると、占い師が延安の史学優に言った。「おんみは後に合格なさるが、この子のもとで合格なさる。合格はたいへん遅いことでしょう。」学優は平素才名を自負していたので、占い師の言葉が正しいとは思わなかった。その後、欽叔は二十三歳で省元に及第し、廷試策で宏詞科[107]に合格し、応奉翰林文字[108]に除せられた。両豫[109]で試験官をし、学優は結局かれの下で合格したという。
昼に怪物を見ること
崇慶元年冬十月、北京の進士趙天瑞、張仲和ら十五人は試験に赴いて戻った。朝に発ち、昼に二匹の物を見た。一匹は四足の獣で前におり、一匹の蛇がつづいていた、二匹の物は歩くのがたいへんはやかった。次の一つは鳥で、跳びはねてやや遅かった。まもなく、見えなくなった。後に兵が動き、中原は乱れた。蘭仲大が語った。
鎮城の地が陥没すること[110]
鎮城が陥没しようとしていた日、州長と佐史[111]が妓楽[112]を率いて官を迎えた。城を出、坐して駅亭[113]で待っていると、一人の婦人が披髪跣足で、喘ぎ、汗かきながら城に入ってきた。尋ねると、姑がにわかに病んだので、薬を買って救おうとしているということであった。しばらくすると、亭にいた人々は、空中で誰かが問答するのを聞いた。「城を出たか。」答えるものは言った。「いいえ。」吏卒はそれを聞くとおおいに驚き怪しんだが、何を言っているのか分からなかった。まもなく、婦人は薬を得て出てきたが、城はすぐに陥落し、城内で免れたものは一人もいなかった。この婦人は孝感によってこの禍を逃れたのだろうか。中京の史監が当時やはり亭におり、みずからその婦人を見たが、惜しいことにこの婦人の姓氏を尋ねなかった。
王子明が盗人を捕らえること
副枢[114]の剛中王公晦は、字を子明といい、沢州[115]の人で、はじめ長葛[116]の簿に任ぜられていた。ある日、水辺にゆくと、突然旋風が馬を追ってきたが、前になったり後になったり、数里にわたって去らなかった。子明はその異常さを訝り、轡を緩めて従った。旋風は水に入り、さらに出ること再三であった。子明が近在の住民を召し、騶卒[117]を交えて水に入って探させたところ、一体の屍を得たが、近頃殺されたものであった。衣服を調べてみると、帯びている小さい革嚢から、買った布の目録および木印一つを得た。子明は黙って隠し、人に語らなかった。県に入ると、すぐに布商人を召し、お上に布を持ってこさせ、買おうとした。布を積んで庭に満たさせ、子明が一つ一つ識別したところ、はたして布にはその印を記したものがあった。そこで次々に尋問し、盗人はすぐに捕らえられた。県では神と称した。そのことは、閑閑公が撰した『墓志』に見える。
泗州の壁に題せられた詞
興定末年、四都尉[118]が南征し、兵士は淮上[119]の良家の娘を攫って北へ帰ったが、娘は『木蘭花』詞を逆旅に題した。「淮山[120]隠隠[121]として、千里の雲峰千里の怨み。淮水悠悠として、万頃の煙波万頃の憂へ。山は長く水は遠く、遮断す行人東望の眼。怨みは旧く憂へは新たに、涙あるも言ふなく晩春に対す。」
賀端中が幽鬼を見ること
わが州の進士賀端中は、大定年間、宣聖廟[122]で斎宿[123]していた。燈下で大きな青鬼を見たが、髪は逆立ち、眼光は松明のようであり、口からは炎を出していた。賀はかけぶとんを頭から被り、牀の下に伏していた。日が高くなると、諸生が来たので、出ようとしたが、戦慄はなお収まらなかった。起きてみると、水甕はすっかり乾いており、硯もそうであり、尿瓶も空になっていたので、人はそれが渇鬼[124]であることを知ったという。端中は孫国鎮の門下に出、辞賦に巧みであるとの名声があったが、その時の試験で合格したのであった。
介虫[125]の怪
東平の薛価は、阜昌初年の進士であった。かつて魚台[126]の知事となり、糟蟹[127]を食らうことを好んでいた。蟹を料理するとき、料理人は生きながら蟹の臍を剥がし、山椒一粒を納め、塩で一揉みし、さらに縄で十字に縛り、糟の甕に入れ、上は盆で覆い、すぐに取って食らった。薛はある日、昨日捕らえた強盗が、獄を破って去るのを夢み、夜半に目ざめた。燭を求め、下役を召して尋ねようとした。燭が来ると、糟蟹がゆっくりと前に満ちたが、どこから来たか分からなかった。薛はそれから蟹を食らわなかった。外曽孫の東平の賈顕が語った。
天慶殿の柱
太原の士人劉進は、衛州[128]に旅した。居所は黄河に近かったが、三夜哭く声が聞こえた。隣人に尋ねると、言った。「近在に哭くものはおりませんから、鬼哭でございましょう。」進は黄河の辺に汴宮の天慶殿から撤去された大木があったことをふと思いだし、筏を作って黄河に浮かべ、水位の変化を待ってゆくことにし、彰徳[129]の軍がこれで薬棚を修理しようとしているといった[130]。昔、石が晋で喋ったというが[131]、この木が哭いたのであろうと思った。翌日、筏が河に浮かぶと、哭き声は尽きた。曹魏の青龍年間、漢の武帝の承露金人[132]を取って、許都に置こうとしたが、出発するに臨み、金人は潸然と涙を流した。李長吉には『金人漢を辞する歌[133]』がある。
神觜渦の水
西京大同府の南にある神觜渦は、池の広さは百余畝、深さは三丈あり、住民はその中で魚を捕っていた。十三年前のある晩、大雷雨となったが、水が突然飛び去り、渾源の東南の山娘子村に入り、さらに大きな池になった。神觜の水がへたところでは、魚が遺されており、尽きることがなかった。
空中の人の言葉
張顕卿は、名は徳といい、遼州[134]の人であった。明昌二年の経童[135]で、貞祐四年の進士であった。みずから語るには、泰安庚午の歳、客と飲んでいたとき、日に向かって酒を注いだが、壷を執っているものに言った。「満杯にする必要はない。誠意を捧げるだけにしよう。」すると突然空中で人が言った。「空中に酒豪がいないことがなぜわかる。」客たちは驚き、すぐにたっぷりとした杯を数回そそいだ。
天が裂けること
元光壬午六月二十四日、崔振之時起が咸寧[136]の知事に任ぜられ、県民を豁口村に集め、賦税を計算した。この地は灞橋から六七里のところにあった[137]。日は巽の方角にあったが、突然天が裂け、東南から西北に到り、数丈の青い気が分かれ、その中に光があり、折れ曲がって雷のようであった。人々は震え、仰ぎ見ようとしなかった。下役と人民数百人がみなそれを見た。振之が語った。
高白の松
徐偉は京兆で役人をしていた時、一人の老人を夢みたが、白髪頭で長身、身に緑袍を着ており、偉に言った。「わたしは後日斧斤の禍を受けるので、どうか守ってもらいたい。」偉はわけが分からず、夢がおかしかったので、忘れなかった。泰安の太守に転任すると、ちょうど岳祠の災があったので、詔してさらに修理した。境内の大木は、すべて採取するに任せた。六十里東にある莱蕪の高白村には、古い松があり、幹や枝がよく茂り、陰は二畝を覆っており、村では数百年の物だと伝えていたが、やはり伐採されることになっていた。村民や父老が悲しんで偉に祈ると、偉は前の夢に気づき、つとめて守ってやったので、結局伐られるのを免れた。その夜、謝しにくるものを夢みた。土人はその側に祠を建て、辛生というものが記録を作った。文士の張聖予が詩を賦した。「蟠根足を蹙めて怪虬隠れ、平頂[138]雲を摩して翠蓋[139]張る。恐れず雪霜の玉を侵して痩せしむるを、卻つて憂ふ雷雨の龍驤[140]に化するを。異材はなんぞあへて梁棟をたすけん。霊夢またよく斧斨[141]を避く。万古天風吹きて老いず、岱宗の山色ともに蒼蒼たり。」
炭中の二仙
皋州[142]の人賈令春は、前の鄜畤[143]の丞であった。興定二年丁丑十月、辺境を守るために澠池[144]にいた。この地は炭が出、炭の穴が露わになっており、取って用を足らすのに任せていた。積み重ねて山を作り、薪を下して焼くと、烈しい焔は熾然としていた。ある日、賈と兵卒が火を囲んで坐していると、突然一つの炭の塊が爆ぜて出てきた。塊が破れると、中に二つの白玉の仙人があり、それぞれ長さは二寸半、眉目、口耳、形体はすべて備わっていた。烏巾を頂いていたが、黒い勒帛[145]のように縛ってあり、双つの帯が下に垂れていた。彫刻でできることではなかった。賈はたいへん珍蔵していたが、兵乱の中で所在を失った。
守蘭童子
孟州[146]の路宣叔は、二十歳前で娶った。まもなく妻が亡くなると、追悼してやまず、鬱々として楽しまなかった。夜に妻を夢みたところ、平生のようにしており、語るには、死後守蘭童子となり、翡翠庵に住んでいるということであった。そして、詩を作って記した。「翡翠庵前花草香る、守蘭童子淡雲の妝。夙縁三生の債を返す、道はず未だ帰らざる人の断腸するを。」「帰らざる人」とは、「死者は帰る人たり、生者は行く人たり」の趣旨を用いたのである[147]。
王先生の予知
東阿[148]の閻生というものは、若い時に醇徳先生平陰[149]の王広道[150]に従って学んだ。醇徳はかつて告げた。「おまえは今年二十五だが、二十年後に失明し、挙子としてはうまくゆかない。辛壬癸甲[151]の術で養生できる、わたしの言うことを学んでみよ。」閻はそこで禄命[152]を学んだ。五十歳の時、本当に失明したが、学芸も優れていた。七十で子が生まれる、享年は八十だとみずから語り、結局その言葉の通りであった。
辺元恕が記す二事
国兵[153]が西から来ると、雲中[154]がまず投降し、後にさらに遼の天祚[155]を捕らえた。国相[156]はその変幻きわまりないことを怒り、城を攻め破ると、無楡坡[157]に壮士を駆りたて、すべて殺した。中に虫の息の絶えないものがおり、やはり屍骸の山の中に枕していたが、雨を得て蘇り、暮夜を待って逃げようとした。人が静まった後、突然吏卒が大勢来て、死者の姓名を呼んだ。呼ぶとすぐにみな答えたが、この人だけは呼ばれなかった。吏卒が去ると、この人は匍匐して起き、やっと家にゆくことができた。医者に薬を求めると、瘡口はだんだん合わさり、さらに数ヶ月で平復した。年が七十余で病死した。同じ頃、曹氏の小童は、兵士に追われ、子供たちとともに乱れはしり、追いつかれたものはみな大きな棒で打ち殺された。曹に着くと、突然二匹の犬が出てき、兵士にぶつかって地に倒した、兵士は怒り、犬を追って民家に入った。出てきたときには、子供たちは散らばって、空屋に逃げることができた。にわかに黄旗を取ってくるものがおり、大声で叫んだ。「国相の軍令だ。人を殺すものは斬る。」被災者たちはみな生きることができた。曹氏の児は後に節度に至った。
王内翰の詩讖
王子端内翰[158]は、泰和年間『残菊』を賦した。「幽花寂寞として多子なく[159]、黄蜂に辦与[160]して蜜脾[161]を実たしむ。」そもそも絶筆であった。王勉道は挽詩を作ったので、「幽花の絶筆さらに傷神す」の句があるのである。
張甫の正夢
張状元甫[162]は、合格する前、人が物をその首と換えるのを夢みる、手ずからさすると、玉であった。甫がたいへん嫌に思っていると、この験があった。閻子秀がそのことを筆記した。
山の石が飛んで落ちること
宣和末年、華山山麓の石子岡で、地震の後、東西が位置を変え、十八か村が押しつぶされた。土人は神さまが引っ越されたといい、すぐに山の祠を遷してあげた。蘭泉張吉甫[163]は賦を作って弔った。明昌四年秋、洽水、渭南の間で、ある日の朝、住民が突然数千人の叫び声を聞いた。眺めると、雲が大きな帷幕のように、空を掩って過ぎていた。まもなく晴れたが、山の南の原は[164]、すでに移動して北の原になっていた。孫通祥は文を作ってそのことを記した。近頃、天興癸巳麦秋の後、恒山公[165]はケ州の五朶山[166]で軍を指揮したとき、倉を聖朶岩[167]に置き、軍租[168]を収め、澗に望む大きな家にはすでに二万余斛を置いていた。ある日、寅卯の間、人は西北に黒い雲があって空を過ぎるのを見たが、勢いはたいへん激しく、ゆっくりと澗のほとりに及ぶと、倉もすぐに崩れた。雲が起こって雨が降り、雨後に人が走っていってみると、それは大きな石で、大きさは数畝、天から下り、二つの澗の間に横たわっていた。麦の倉が崩れたが、一粒の麦も探し出せなかった。これも珍しいことであった。平陰の丞が語った。
壬寅の歳の寒食の時、濮州[171]の霊宝会[172]で孤魂を祭り、醮を設けた。州庁の程威儀という者は、高功[173]会首[174]となることになっていた。人々は言った。「程は符籙[175]を手に入れていないから、どうして醮をつかさどることができよう。」程はそこで東平にゆき、明威籙を受けた[176]。章表には、すでに肩書きが記されていたが、さらに一人の雷師[177]というものが程に代わって醮をつかさどることを求め、監軍[178]の董許之に頼んだ。そしてすぐに文牒の名銜[179]の「程」を改めて「雷」にした。醮して百余日後、雷は病むことなく死んだ。三日で生きかえり、死んで冥土に入ったと語った。「礼部の閑閑趙公は章表を管理しているが、わたしが程威儀の名を改めるべきでなかったので、寿命を二紀[180]短くし、しばらく来させ、世の人々にふたたび過ちを犯すことを許さないことを告げさせたのだ。」そして、門外に追手がたいへん多いから、すぐにゆかねばならないと言った。言いおわると亡くなった。泰安の布衣張知現は濮州にゆき、このことを知った。
密崖に字を題する
明昌末年、盧氏山[181]の密崖[182]は、石壁が高く険しく、人迹が到るところではなかったが、突然字が題せられた。「道民[183]天台の司馬承禎[184]過る」。字は碗のように大きく、墨色は光沢があって紫であった。わたしは中岩[185]を訪ね、白雲先生祠に詣でたが、碑の記載では、承禎は松台[186]に葬られているということであった。そこで詩に言った。「道民まつたく天台を忘るることなし、生死分明に密崖を見る。ために尋ぬ松台千載の鶴、白雲は何処にありて帰り来たらざる。」
秦簡夫[187]の臨終詩
陵川[188]の秦簡夫は、年は四十で、名場[189]に苦しみ、すぐに受験しなかった。臨終の詩に言った。「躯殼[190]は羈栖[191]の宅、妻孥[192]は解逅[193]の恩。雲山最もよき処、随意詩魂を著さん。」筆を抛って亡くなったが、時に年五十七であった。
張子野吉徴
張華子野は、「易は体なし[194]」榜の廷試の後、諸生と庭に坐していたが、突然一羽の鳥が小さい緑衣の判官を銜えて几に落とした。まもなく、子野は合格した。
王生の怨みの報い
定襄邱村の王胡は、陶器瓦器を作ることを生業としていた。明昌辛亥[195]は凶年で、その子の王生という者とともに、山東に食を求めた。ある日、強盗九人が、尉司[196]にきびしく追われ、死を避ける場所がなく、この家に隠れ、事情を告げた。「おれたちは財貨はかぞえきれない。この身が免れることができさえすれば、あなたがた親子と平分しよう。」王はそこで盗人を窯に隠し、部屋じゅうに煉瓦を置いた。尉司の兵はすぐに通過し、何も見えないので去った。胡父子は心が不安であったし、その財貨を利としていたので、夜に乗じて火を起こした。まもなく、九人を燻して殺し、すぐに財貨を持って帰郷した。数年して、財産を殖やしてたいへん豊かになり、郷豪の上に出ていた。泰和年間、王生が五台山に詣で、興善鎮[197]に及ぼうとしたとき、ぼんやりと何物かを見、驚き恐れて落馬し、そのまま物に憑かれた。その家に担いでゆくと、生は幽鬼の言葉を話し、目を怒らして罵った。「尉司はおれたちを追っていたが、逃れられる、財貨を山分けすれば、富を致すに十分だったのに、悪い心を起こし、おれたちを焼き殺したな。尋ねること数年で、今おまえを見つけた、命を償え。」あるときは刃をもち、人に会えばみだりに斬った。その家はどうしようもなく、道士何吉卿を召して祓わせた。何が来て、方術を行うと、鬼はさらに憑いて訴えた。何は怨霊は、法籙で制することができないことを知り、黄籙を作って済度すれば、解脱することができるかもしれないと教えた。胡は斎壇で事情を述べ、事実を明かしたので、人ははじめてかれが富を致した理由を知った。そこで盛大に祠を建て、朝晩祈った。生はまもなく死んだ。紫微劉尊師[198]が語った。
仙猫
天壇[199]の中岩に仙猫洞[200]があった。世間では、燕真人[201]の丹ができあがると、鶏犬も昇仙したが、猫だけが去らず、洞にいることすでに数百年であると伝えていた。旅人が洞窟の前に来て「仙哥」と呼ぶと、ときおり答えることがあった。王屋[202]の知事で臨漳[203]の薛鼎臣が呼ぶと答えたので、みずからわたしに語ってくれた。己亥の夏四月、わたしは陽台宮[204]から上へゆこうとし、洞窟の前を過ぎ、息子の叔儀に命じて呼ばせたところ、呼ぶとすぐに答え、声はたいへん清美であった。そこで詩を作った。「仙猫の声を洞中に聞く、児童によりて君に一問す。ともに燕家に丹竈を嘗めしかど、鶏犬に従ひて青雲に上ることなし。」
田徳秀の早熟
紫芝は、字は徳秀といい、滄州[205]の人であった。その父済は、部掾[206]で、定襄の趙氏を娶り、中都で徳秀を生んだ。生まれて数ヶ月で、隣の李媼はかれを見ると、潸然と涙を流した。人が尋ねると、媼は言った。「ばばあの一人息子は、生まれて二十五歳、太学[207]で名声を得ておりましたが、去年亡くなりました。この子はきわめて似ております。倅が死にました時、ばばあはその顔を咬んで破りましたが、この子の顔の瘡、口の痕はそっくりでございますから、前身を証明することができます。」徳秀は幼くして孤児となり、母の実家で養われ、忻州にいることが多かった。六、七歳で文を作ることを知り、万言をすべて見ていた。十三歳で『麗華引』を賦し、詩情は人を驚かせ、李長吉の風格があった。十六でわたしと交遊し、かつて大雨の後に詩を示した。「酔夢蕭森[208]として蝶翅軽く[209]、一燈語らず夢辺に明るし。虚檐[210]雨急にして三江[211]の浪、老木風高し万馬の兵。枕簟[212]秋に先だちて残暑を失ひ、湖山暁に徹して[213]新晴[214]を見る。牀に対してかつて詩ありしか。ために問ふ韋家の好弟兄を[215]。」わたしの兄敏之はひそかにわたしに言った。「詩のはじめの二句は、幽鬼の言葉ではないか。これは短命なものの相だと思う。」本当に弱冠で亡くなった。
華陀帖
米元章[216]の『華陀帖』二十八字は、靖難の変により、民間に流出し、三四たび持ち主を変えて越王府[217]に入った。王は内府[218]に収められるのを恐れ、二十年間隠したため、知るものはなかった。泰和[219]末年、都城の閻貫道と文士たちが神おろしすると、元章が筆に下った。貫道はそこで尋ねた。「先生の『華陀帖』は、筆迹はきわめて優れ、古今に輝いていましたが、汴京が破られると、なくなってしまいました。先生の会心の書なのですから、きっと誰に隠されているかをご存じでしょう。どうかお告げになってください。」すぐに批があった。「越王の邸で探すべし。」龐都運才卿[220]は、王妃の弟で、貫道はかれに言ってやった。才卿は妃にこい、本当に一見することができた。王は汴で薨じ、禁忌はすぐに廃せられ[221]、文士で王の子密公[222]に従って遊ぶものは、しばしば見ることができた。東坡は杜子美がみずから『八陣図[223]』を解するのを夢み、書生の習性だと言ったが[224]、このことからみると、偽りではない。
梁梅
寿陽[225]の歌妓梁梅は、承安、泰和年間、才色によって河東で名声を得ていた。張状元巨済[226]は寿陽を通ったが、病後で独居していたため[227]、心は楽しまなかった。県の士人の子弟に梅のことを語るものがいた。当時すでに落籍されていたので、ひそかに招くことにし、尼寺で待っていた。梅は薄化粧してやってくると、しばらく坐して杯を干し、『梅花』〔水龍吟〕を歌った。張は遠まわしに正した。「六月に梅詞を唱ふ、寿陽の寒きことを知るべし。」しかしその音調は円熟しており、たいへん斬新であった。歌って「天は百花の頭上を占めしむ、和羹いまだ晩からず[228]」に至ると、張に酒をついだので、張はおおいに奇とした。楽府を贈ったが、「誰か知らん幽谷の裏、まことに寿陽の妝のあらんとは」の句があった。そこで数日留まって去った。
軍中の犬
征西[229]の軍中で一匹の犬が飼われていた。大帥[230]が酒を飲み、部下たちが前列で『落葉曲』を歌うたびに、犬も和した。声節[231]の高下は、すこしも異ならなかった。曲がやむと、それ以上声をたてなかった。わが州の王百戸は、辛丑の年にみずからそれを見た。
蚩尤城
華州[232]に蚩尤城があった。古老がいうには、蚩尤[233]は闞姓なので[234]、「闞蚩尤城」ともいうということであった。城の近くには闞氏が今なお多かった。爾朱栄は、秀容[235]の人であった。今、定襄には爾都統というものがいるが、みずから言うには、先祖に百頃の田を賜ったものがいるので、今でも「爾百頃」家とみずからを称しているそうである。管州[236]に栄廟[237]があり、土人が祈るとたいへん霊験があった。巣賊[238]が敗れると、巣の一族は滅ぼされると言われていたので、一族の人々は、自分たちが罪のない人間だと弁明した。法の網を逃れたものたちは、みな「平」を氏とした。子孫にはわたしの知っているものがいたが、顔は秘府[239]の描く巣の像と似ており、その名を責めようとしないという。
徳升の後身
烏古論徳升[240]は、進士に合格した。興定戊寅、参知政事として太原に寓居した。九月六日に城が陥って殺されたが、その日に慶陽[241]の移刺倉使[242]の家の子として生を授かった。四、五歳で、前身のことを語れ、重厚寡黙であったので、人々は珍しいこととして伝えた。徳升の家の大きな奴隷が、太原から逃げだし、倉使の家に訪ねてきた。子は望みみると、名で呼び、奴隷はそのために嘆いた。ただその死について語ると同じでなかった。奴隷は徳升が斬られて死んだと言い、子は井戸に身を投げて死んだと言った。游麟之は言った。「きっと城が陥ったのを聞き、一心に井戸に身を投げると、意識がなくなったので、さらに斬られたことを知らなかったのだ。」一僧は言った。「そうではない。井戸に身を投げたといっているのは、胎内に入ったことだったのだ。」
田徳秀の詩
田徳秀は幼くして孤児となり、外祖父である広寧府の治中趙君の家で養われた。紈絝[243]の頃、詩を作ると憂悶の言葉が多かった。『乱後凌雲台に登る』に言った。「愁思紛紛として裁ち易からず、凌雲台上徘徊するのみ。乱鴉は斜陽を背おひつつ去り、寒雁は秋色を帯びつつ来れり。破屋煙なく砕瓦空しく、新墳雨を経てすでに蒼苔あり。天翻り地覆るをみづからかつて見る、信じ得たり昆明[244]に劫灰[245]あるを。」翌年、五台で客死した。憂えがないのに悲しむことを、古人は憚った。王荊公の詩に「少壮かるがるしく感慨すべからず、文章尤も憚るしばしば悲哀するを[246]。」とあるが、まことに名言である。
張居士
澶州[247]の人張居士は、禅学[248]において得るものがあった。臨終の歳、静室[249]で坐禅し、その弟子を集めてそれを閉ざし、百日が満ちると開けさせることにした。期日になって戸を開けると、かれは凝然として動かなかったので、すでに亡くなったものと思われた。しばらくすると目を開け、塵を払って起き、沐浴して衣を換え、庭を巡り、親戚友人を慰労した。その後さらに部屋に入り、紙を求めて偈を残した。「幻縁を了脱[250]し、また何かわれを惑はさん。大方[251]に遊び戯れ、逍遥として自得すべけん。」筆を抛って化した。登封の知事張效景がこのことを語った。
米元章の心経呪
米老の一帖は『心経呪』といい、後ろから逆さに七遍となえ、枕席の間に息を吹くと、毒虫はみな近づこうとしない。試すと本当にそうである。
王尊師が天壇[252]にいったこと
わが州の天慶観の王尊師志常は、農家の出であった。年が十六七の時、郊外で羊を牧していたが、一人の道人が日々近づいてき、尋ねた。「わたしについて天壇山にゆきたいか。」王が承諾すると、道人はつれていった。暮にある街に着くと、突然道人を見失った。その地を尋ねると、済源[253]であった。さらにそこから天壇への距離を尋ねると、人は言った。「百余里に過ぎません。」王は帰るところがなかったので、翌日天壇にゆくと、陽台宮[254]に入った。宮中の人はこの児が道人に連れてこられたこと、太原の北から一日で天壇に来たことを聞くと、仙分[255]があると思い、留めて香火童子にした。八年で帰ると、家人はかれがすでに死んだと思っていたので、みな驚き、天慶に送った。今年はもう八十六になるが、精神は衰えておらず、純朴謹厚で、徳のあるものである。
張先生座右の銘
張先生弥学は、東阿の人で、平章政事寿国文貞公良輔の父であった。神道碑はそのことを載せており、その中の座右銘にこういった。「聡明であろうとするなら、まず学問を積むべきである。子孫に要求しようとするなら、まず孝行を積むべきである。」けだし名言である。
最終更新日:2009年10月3日
[3]未詳。正史に見えない。
[4]原文「今巷東道北尚有石羊存焉」。「巷東道北」が未詳。とりあえずこう訳す。また、「石羊」と道観の関係も未詳。
[5]南北朝北斉の第五代皇帝。http://baike.baidu.com/view/182959.htm
[6]五百二十九年。
[7]原文「善淵撥土主之」。「主」が未詳。とりあえずこう訳す。
[8]『金史』巻二十六・京兆府路「同州、中。宋馮翊郡定国軍節度、治馮翊。後改安国軍節度使。舊貢圓繭耳羊、大定十一年罷之。戶三萬五千五百六十一。県六、鎮九。馮翊、倚。有洛水、渭水。鎮二沙苑監。」。
[9]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9ZdicAAZdicB062310.htm
漢典は「旧時芸人に投げたお祝儀。」とするが、ここでは賭博に使う銅銭のことであろう。
[10]『金史』巻二十四・北京路「廣寧府、散、下、鎮寧軍節度使。本遼顯州奉先軍、漢望平県地、天輔七年升為府、因軍名置節度。天會八年改軍名鎮寧。天徳二年隸咸平、後廃軍隸東京。泰和元年七月來屬。戶四萬三千一百六十一。県三、舊有奉玄県、天會八年改為鐘秀県。鎮六、寨四、鎮二歡城、遼西。廣寧舊名山東県、大定二十九年更名。有遼世宗顯陵。寨二閭城、兔兒窩。」。
[11]医巫閭山。遼寧省にある山。http://baike.baidu.com/view/48000.htm#1
[12]宣和、靖康のこと。
[13]http://www.zdic.net/cd/ci/15/ZdicE6Zdic92ZdicAD313917.htm
逃亡、流離。ここでは金に攻められて宋が南遷したこと。宋の南遷は靖康二年。
[14]『金史』巻一百十三・赤盞合喜「龍徳宮造砲石、取宋太湖、靈璧假山為之、小大各有斤重、其圓如燈毬之狀、有不如度者杖其工人。」
[16]まったく未詳。李という銀匠のことか。
[18]「黄」は「皇」と同音なので、女真族の金が皇帝になることの前兆ということになるのであろう。
[19]千百六十一年〜千百八十九年。
[21]明州・越州のこと。現在の寧波・紹興あたり。
[22]『金史』巻二十五・山東東路「登州、中、刺史。宋東牟郡。戶五萬五千九百一十三。県四、鎮二。」。
[25]原文「將如挽郎」。「將」が未詳。衍字か。挽郎は葬儀の時に霊柩を牽いて挽歌を唱う人。http://zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic8CZdicBD143864.htm
[26]まったく未詳。八幡菩薩の誤りか。
[28]金の顕宗の陵墓。ここでは顕宗のこと。完顔允恭(千百四十六年〜千百八十五年)。
[29]未詳だが、脳を締め付ける拷問の一種であろう。
[30]漢の平帝の元始元年に孔子に謚して褒成宣公とした。その後歴代王朝はみな孔子を尊んで聖人とし、詩文では多く「宣聖」と称した。
[31]『金史』巻一百五に伝がある。
[32]『金史』巻二十五・山東西路「兗州、中、泰定軍節度使。宋襲慶府魯郡。舊名泰寧軍、大定十九年更。戶五萬九十九。県四。」
[33]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE9Zdic81ZdicA5232713.htm
職名だけ受けて、みずからは赴任しないこと。
[34]『金史』巻二十五・山東東路「長清、劇。有劘山、隔馬山、黃河、清水。鎮六赤莊、莒鎮、李家莊、歸徳、豐濟、陰河。濟陽鎮四回河、曲堤、舊孫耿、仁豐。」。
[35]子貢は端木氏。
[36]『金史』巻五十五・吏部「正五品上曰廣威將軍、中曰宣威將軍、下曰明威將軍。」
[37]http://baike.baidu.com/view/198049.htm
冉子(前522〜前489)、春秋末魯国(今山東曲阜)の人、字は子有。
[38]未詳。
[39]原文「小兒子牛兒、子改曰阿鞬。」。この部分、前後との脈絡が未詳。とりあえずこう訳す。
[40]『金史』巻二十四・中都路「武清晋県。」
[41]大同。
[42]『史記』巻八「正義括地志云、朔州定襄県、本漢平城県.県東北三十里有白登山、山上有臺、名曰白登臺.『漢書』匈奴傳云冒頓圍高帝於白登七日、即此也.服虔曰『白登、臺名、去平城七里』.李穆叔趙記云『平城東七里有土山、高百餘尺、方十餘里.』亦謂此也.」
[43]賈益謙。『金史』巻一百六に伝がある。
[45]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA87810.htm
『金史』巻四・皇統七年「九月、太保、右丞相宗固薨。以都元帥宗弼為太師。」。
『金史』巻五十九・宗室表「宗弼本名兀。太師、領三省事、梁王。」。
[46]『金史』巻二十五・南京路「孟津、貞祐三年七月升為陶州、十二月復為県。鎮一長泉。舊有河清鎮、後廃。」。
[47]『東京夢華録』大內前州橋東街巷「大內前州橋之東、臨汴河大街、曰相国寺、有橋平正、如州橋、與保康門相對。橋西賈家瓠羹、孫好手饅頭、近南即保康門潘家黃耆圓。延寧宮禁、女道士觀、人罕得入。街西保康門瓦子、東去沿城皆客店、南方官員商賈兵級、皆於此安泊。近東四聖觀、襪豄巷。以東城角定力院、內有朱梁高祖御容。出保康門外、新建三屍廟、徳安公廟。南至街、西去通御街、曰麥稍巷口。以南太學東門、水櫃街餘家染店。以南街東法雲寺。又西去街、張駙馬宅。寺南佑神觀後門。」
[48]原文同じ。律師は仏教で戒律をよく解する人をいう。
[49]漢方の用語。眼球内部に発生する疾病。
[50]http://baike.baidu.com/view/368933.htm
http://images.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E8%94%93%E8%8F%81&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
[51]http://baike.baidu.com/view/11163.htm
http://images.google.com/images?hl=zh-CN&lr=&um=1&sa=1&q=%E6%9E%B8%E6%9D%9E&aq=f&oq=&start=0
[52]http://baike.baidu.com/view/147008.htm
http://images.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E8%92%BA%E8%97%9C&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
[54]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%82%A4
http://images.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E8%8D%8A%E8%8A%A5&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
[57]http://baike.baidu.com/view/39526.htm
http://images.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E5%B7%9D%E8%8A%8E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
[58]http://baike.baidu.com/view/283185.htm
http://images.google.com/images?hl=zh-CN&q=%E8%B5%A4%E8%8A%8D&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
[60]原文「水麺糊丸桐子大」。「糊丸」が未詳。とりあえずこう訳す。
[61]承旨は官名。唐代翰林院に翰林学士承旨があり、位は诸学士の上にあった。宋元もその制によった。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic89ZdicBF9103.htm
[63]『金史』巻二十五・河北東路「束鹿有衡漳水、滹沱河。」
[64]『金史』巻二十五・山東東路「濟南府、散、上。宋斉州濟南郡。初置興徳軍節度使、後置尹、置山東東西路提刑司。戶三十萬八千四百六十九。県七、鎮二十九。歷城鎮六盤水、中宮、老僧口、上洛口、王舍人店、遙墻。」
[67]原文「燕都廟學有夾銅鼎焉」。「夾」が未詳。衍字か。
[68]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE7ZdicA6ZdicBB256337.htm
日のこと。また、君上の明察のこと。この句、含意未詳。
[71]『金史』巻二十五・山東西路「博平、有漯河。鎮一博平。」。
[72]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9Zdic93Zdic9C269412.htm
銅銭を溶かして銅器を鋳ることを禁止し、銅器を回収すること。
[73]『金史』巻二十六・京兆府路「藍田、有藍田山、蕢山、灞水。」。
[74]千百年間の年月朔閏を列挙した暦。
[75]三交堡。『『宋史』』巻八十六・河東路「晋寧軍、本西界葭蘆砦。元豐五年收復、六月、吳堡砦並隸石州。元祐四年、以葭蘆砦給賜西人。紹聖四年收復。元符二年、以葭蘆砦為晋寧軍、割石州之臨泉隸焉。知軍領嵐石路沿邊安撫使、兼嵐、石、隰州都巡檢使。大觀三年、復以石州定胡県來隸。東至剋胡砦隔河五里、南至吳堡砦一百七十里、西至神泉砦二十五里、北至通秦砦二十里。領県二:定胡、中。舊領定胡、天渾津、吳堡三砦。按吳堡砦元豐四年收復、東至黃河、南至綏徳軍白草砦九十里、西至綏徳軍義合砦六十里、北至晋寧軍一百七十里。臨泉。中下。舊領剋胡、葭蘆二砦。按葭蘆砦乃元豐五年收復、後為晋寧軍。神泉砦、地名榆木川、在廃葭蘆砦北。元符元年賜今名。東至晋寧軍二十五里、南至烏龍砦二十五里、西至隔祚嶺界堠五十里、北至通秦砦四十里。三交堡、地名三交川嶺。元符元年、神泉砦築堡畢工、賜名。」。
[76]『金史』巻二十六・大名府路「武城、有永濟渠、沙河。鎮一武城。」
[77]原文「井樁」。未詳。とりあえずこう訳す。
[78]原文「見農具中二地碾石」。「碾石」が未詳。とりあえずこう訳す。
[79]『金史』巻二十五・河北東路「南宮有降水枯瀆。鎮三唐陽、後摧J化、七公二鎮。」
[81]原文「船人人執一婦」。「船人人」が未詳。脱字があるか。
[82]『金史』河北西路「雞澤有洺水、漳水、沙河。」
[83]『金史』巻二十六・大名府路「朝城、鎮一韓張。」
[84]原文「以右手拇指指令從次座者勸」。「次座」が未詳。とりあえずこう訳す。
[85]『金史』巻二十五・山東西路「東平府、上、天平軍節度。宋東平郡、舊鄆州、後以府尹兼總管、置轉運司。產天麻、全蝎、阿膠、薄荷、防風、絲、綿、綾、錦、絹。戶一十一萬八千四十六。県六、鎮十九。」
[86]岳飛廟。
[87]『金史』巻二十六・河東南路「臨晋有三疑山、黃河。」
[88]未詳。地名か。
[89]「頃」は田地面積の単位、百畝に相当。
[90]原文「英種出西瓜一窠」。「窠」が未詳。苗床か。
[91]一畝は約六百六十七平方米。
[92]『金史』巻二十六・河東北路「忻州、下、刺史。舊定襄郡軍。戶三萬二千三百四十一。県二、鎮四:秀容有程候山、雲母山、忻水、滹沱水。鎮四忻口、雲內、徒合、石嶺。定襄。」
[93]『金史』巻二十六・河東南路「河中府、散、上。宋河東郡。舊置護国軍節度使、天會六年降為蒲州、置防禦使。天徳元年升為河中府、仍舊護国軍節度使。大定五年置陝西元帥府。戶十萬六千五百三十九。県七、鎮四。河東、倚。有中條山、五老山、黃河、媯水、汭水。鎮二永樂、合河。」。
[94]『金史』巻二十六・河東南路「平陽府、上。宋平陽郡建雄軍節度。本晋州、初為次府、置建雄軍節度使。天會六年升總管府、置轉運司。興定二年十二月以殘破降為散府。有書籍。產解鹽、隰州香A巻子布、龍門椒、紫團參、甘草、蒼朮。戶一十三萬六千九百三十六。県十、鎮一。」
[96]『漢書贾誼伝』「聖人有金城。」
[97]府試の首席合格者。
[98]『金史』巻二十六・河東南路「澤州、上、刺史。宋高平郡。天會六年以與北京澤州同、加「南」字、天徳三年復去「南」字。貞祐四年隸潞州昭義軍、後又改隸孟州。元光二年升為節鎮、軍曰忠昌。戶五萬九千四百一十六。県六、鎮二。」
[102]『漢書』巻五十六・董仲舒傳「制曰、朕獲承至尊休徳、傳之亡窮、而施之罔極、任大而守重、是以夙夜不皇康寧、永惟萬事之統、猶懼有闕。」。
[103]科挙で解試(郷試)、省試(会試)、殿試(廷試)の首席合格者を解元、会元、状元といい、三元と合称した。http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE4ZdicB8Zdic89323201.htm
[104]『金史』巻二十六・河東南路「河中府、散、上。宋河東郡。舊置護国軍節度使、天會六年降為蒲州、置防禦使。天徳元年升為河中府、仍舊護国軍節度使。大定五年置陝西元帥府。戶十萬六千五百三十九。県七、鎮四。」。
[105]李献能。『金史』巻一百二十六に伝がある。
[106]湯餅会。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6ZdicB1ZdicA4288346.htm
誕生日および子供が出生して三日目あるいは一ヶ月、一周年の時に挙行する祝賀会。長寿を象徴する麺を食べるので、こういう。
[107]『金史』巻五十一・進士諸科「金設科皆因遼、宋制、有詞賦、經義、策試、律科、經童之制。海陵天徳三年、罷策試科。世宗大定十一年、創設女直進士科、初但試策、後搦侍_、所謂策論進士也。明昌初、又設制舉宏詞科、以待非常之士。故金取士之目有七焉。其試詞賦、經義、策論中選者、謂之進士。律科、經童中選者、曰舉人。」。
[108]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE6Zdic96Zdic87328490.htm
『金史』巻五十五・翰林學士院「應奉翰林文字、從七品。」
[110]原文「鎮城地陥」。「鎮城」が未詳。「鎮城」という地名なし。
[111]知事の属官。
[113]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9ZdicA9ZdicBF336944.htm
駅站に設けられた行旅の休息のための場所。
[115]『金史』巻二十六・河東南路「澤州、上、刺史。宋高平郡。天會六年以與北京澤州同、加「南」字、天徳三年復去「南」字。貞祐四年隸潞州昭義軍、後又改隸孟州。元光二年升為節鎮、軍曰忠昌。戶五萬九千四百一十六。県六、鎮二。」
[116]『金史』巻二十五・南京路「長葛、有小陘、洧水。」
[117]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9ZdicA9ZdicBA343256.htm
車馬を掌管する下役。またひろく一般の下役を指す。
[118]未詳。都尉は官名。将軍よりやや低級の武官。
[119]淮河流域。
[120]未詳。淮河流域の山をいうか。
[123]祭祀あるいは典礼の一日前に、斎戒独宿して、誠意を表すこと。
[124]喉の渇いた幽霊のことなのであろうが、古典に見えるかどうかは未詳。
[125]甲殻をもった水生動物をいう。ここでは蟹のこと。
[126]『金史』巻二十五・南京路「魚臺有泗水、涓溝、五丈溝。」
[127]元『居家必用事類全集』「三十団臍不用尖(水洗、控干、布拭)、糟塩十二五斤鮮(糟五斤、塩十二)。好醋半升并半酒(拌苑兼焉j、可飡七日到明年(七日熟、留明年)。」
[128]開封の西北、黄河北岸にある州。
[129]『金史』巻二十五・河北西路「彰徳府、散、下。宋相州鄴郡彰徳軍節度、治安陽。天會七年仍置彰徳軍節度、明昌三年陞為府、以軍為名。戶七萬七千二百七十六。県五、鎮五」。
[130]原文「云是彰徳師欲用修藥棚者」。「彰徳師」「藥棚」が未詳。とりあえずこう訳す。
[131]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE7Zdic9FZdicB3184747.htm
原文「古時石言于晋」。「石言于晋」という言葉は『左伝·昭公八年』に見える。
[132]承露盤を捧げもつ銅人。漢の武帝が立てたもの。
[133]全文「茂陵劉郎秋風客、夜聞馬嘶暁無迹。画欄桂樹懸秋香、三十六宮土花碧。魏官牽牛指千里、東関酸風射眸子。空将漢月出宮門、憶君清涙如鉛水。衰蘭送客咸陽道、天若有情天亦老。携盤独出月荒凉、渭城已遠波声小。」
[134]『金史』巻二十六・河東南路「遼州、中、刺史。宋本樂平郡刺史、天會六年以與東京遼州同、加「南」字、天徳三年復去「南」字。戶一萬五千八百五十。県四、鎮一、關一」。
[135]金に経童科があり、士庶の子で、十三歳以下、二大経、三小経を暗誦でき、さらに『論語』、諸子を五千字以上暗誦し、府試の十五題のうち十三以上で合格し、会試の四十五題のうち四十一題以上合格したものが、合格となった。
[136]『金史』巻二十六・京兆府路「咸寧倚。本萬年、後更名。泰和四年廃、尋復。鎮二鳴犢、乾祐。」
[137]原文「此地在灞橋六七里」。「灞橋六七里」が未詳。とりあえずこう訳す。灞橋は霸橋ともいい長安の東にある橋。
[138]樹のてっぺんが平らになっているさまをいっているのであろう。
[139]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE7ZdicBFZdicA047910.htm
かわせみの羽をかざった車蓋。ここでは樹がそれのようであるといっている。
[142]未詳。皋州という州なし。
[143]鄜県。『史記』巻五秦本紀第五「十年、初為鄜畤」注「集解徐廣曰、鄜県屬馮翊。索隱、音敷、亦県名。於鄜地作畤、曰鄜畤。故封禪書曰、秦文公夢黃蛇自天下屬地、其口止於鄜衍、史敦以為神、故立畤也。正義括地志云、三畤原在岐州雍県南二十里。封禪書云秦文公作鄜畤、襄公作西畤、靈公作吳陽上畤、並此原上、因名也。」。
金代の鄜城県。『金史』巻二十六・鄜延路「鄜州、下.宋洛交郡康定軍節度、国初因之、置保大軍節度使.戶六萬二千九百三十一.県四、鎮一…鄜城有楊班湫.」。
[144]『金史』巻二十五・南京路「澠池有天壇山、廣陽山、黃河、澠河。」
[146]『金史』巻二十六・河東南路「孟州、上。宋濟源郡節度、天會六年降河陽府為孟州、置防禦、守盟津。宣宗朝置經略司。戶四萬一千六百四十九。県四、鎮二。」
[147]李白『擬古其九』「生者為過客、死者為帰人。」
[148]『金史』巻二十五・山東西路「東平府、上、天平軍節度。宋東平郡、舊鄆州、後以府尹兼總管、置轉運司。產天麻、全蝎、阿膠、薄荷、防風、絲、綿、綾、錦、絹。戶一十一萬八千四十六。県六、鎮十九:…東阿、有吾山、穀城山、黃河、阿井。鎮五景徳、木仁、關山、銅城、陽劉。…平陰、有鬱
山、鴟夷山。鎮九但歡、安寧、寧鄉、翔鸞、固留、滑口、廣里、石、澄空、傅家岸。」
[150]『金史』巻一百二十七・王去非「王去非字廣道、平陰人。嘗就舉、不得意即屏去、督妻孥耕織以給伏臘。家居教授、束脩有餘輒分惠人。弟子班帎貧不能朝夕、一女及、去非為辦資裝嫁之。北j有喪忌東出、西與北皆人居、南則去非家、去非壞蠶室使喪南出、遂得葬焉。大定二十四年卒、年八十四。」。
[151]http://www.zdic.net/cy/ch/ZdicE8ZdicBEZdic9B25413.htm
漢典は「一心に公のためにし、個人の利益を顾みない精神。」とする。『書経』に典故のある言葉のようなのだが、文脈には合わないように思われるのだが。
[153]金の兵のことであろう。
[154]『宋史』巻九十・燕山府路「雲中府、唐雲州、大同軍節度.石晋以賂契丹、契丹號為西京.宣和三年、始得雲中府、武應朔蔚奉聖歸化儒媯等州、所謂山後九州也.」
[155]耶律延禧。遼の最後の皇帝。http://baike.baidu.com/view/147929.htm
[156]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic9BZdicBD113735.htm
金の肅宗。完顏頗刺淑。金の太祖完顏阿骨打の父。金の熙宗が即位した後、穆憲皇帝と追諡された。『金史』巻一・肅宗頗剌淑「母弟頗剌淑襲節度使、景祖第四子也、是為肅宗.遼重熙十一年壬午歲生.在父兄時號国相.国相之稱不知始何時.初、雅達為国相.雅達者、桓f、散達之父也.景祖以幣馬求之於雅達、而命肅宗為之.」
[157]未詳。
[159]原文「幽花寂寞無多子」。「多子」が未詳。種が少ないことか。
[160]わけあたえる。
[162]『金史』巻一百十八に伝がある。。
[163]『金史』巻一百二十六・呂中孚・張建「呂中孚字信臣、冀州南宮人。張建字吉甫、蒲城人。皆有詩名。」。
[164]原文「并山南原已移為北原矣」。「并」が未詳。
[165]恒山公武仙。『金史』巻一百十八・武仙「武仙、威州人。或曰嘗為道士、時人以此呼之。貞祐二年、仙率鄉兵保威州西山、附者日#、詔仙權威州刺史。興定元年、破石海于真定、宣差招撫使惟宏請加官賞、真授威州刺史、兼真定府治中、權知真定府事。遷洺州防禦使、兼同知真定府事、遙授河平軍節度使。興定四年、遷知真定府事、兼經略使、遙領中京留守、權元帥右都監。無何、封恒山公、以中山、真定府、沃、冀、威、鎮寧、平定州、抱犢寨、欒城、南宮県隸焉。同時九府、財富兵強恒山最盛。」。
[167]『明嘉靖南陽府志』「此山五峰并峙、聖朶、禅庵朶、摩雲朶、嬌女朶、唖女朶比肩而立」。
[168]未詳。字義、文脈からして、軍が徴集する租税か。
[171]『金史』巻二十六・大名府路「濮州、下、刺史。宋濮陽郡。戶五萬二千九百四十八。県二、鎮三。」
[172]未詳だが、霊宝派といわれる道教の会派の集会であろう。
[173]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9ZdicABZdic9874060.htm
宗教儀式を挙行する時、真ん中の高いところに坐する、道士の中で功徳が最も高いとされる道士。
[176]原文「受明威籙一階」。「明威籙」「一階」が未詳。「明威籙」は符籙の一種か。
[177]「雷」が姓であることは後ろの記述からわかるが、「師」は名前らしくない。役職名かとも思われるが、未詳。
[180]一紀は十二年。
[182]未詳。
[183]道教を信奉したり道教組織に加入したりしている者。
[185]未詳。
[186]未詳。
[187]元曲作者である同姓同名の人とは別人であろう。元曲作者の秦簡夫は大都の人。
[188]『金史』巻二十六・河東南路「陵川有太行山、九仙山。」
[189]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic8D112253.htm
科挙の試験会場。功名を求める場所であるのでかくいう。
[191]他郷に淹留すること。この句、身体を仮の宿に喩えたもの。
[194]『南斉書』巻三十九・陸澄「且易道無體不可以一體求。」
[195]千百九十一年。明昌二年。
[196]未詳。副知事か。
[197]『金史』巻二十六・河東北路「代州、中。宋雁門郡防禦、天會六年置震武軍節度使。貞祐二年四月僑置西面經略司、八月罷。戶五萬七千六百九十。県五、鎮十三。…五臺貞祐四年三月升為臺州。有五臺山、慮虒水。鎮二興善、石觜。」
[198]未詳。
[200]李濂『游王屋山記』「南行又折西北行十五里至陽台宮、在王屋山之麓、唐司馬承祯修真之所也。明皇御書「廖陽殿」三巨字。殿中塑昊天上帝像、旁侍十二元辰、皆伟丽。而白云道院乃在廖陽殿之東。日白云者、承祯别号也。入道院、见大镬一、径丈深数尺、胜国時物也、宮之南有八仙岭、其势如八仙饰冠佩下天拱而向陽台。又有仙猫洞、不老泉、皆去宮不遠。」
[201]五代後晋の道士。烟蘿子。胡孚琛主編『中華道教大辞典』百十頁参照。
[203]『金史』巻二十五・河北西路「臨漳、東山、漳水。鎮一鄴鎮。」
[204]http://www.google.com/search?hl=zh-CN&source=hp&q=%E9%99%BD%E8%87%BA%E5%AE%AE&lr=&aq=f&oq=
前注参照。
[205]『金史』巻二十五・河北東路「滄州、上、海軍節度。宋景城郡。貞元二年來屬。戶一十萬四千七百七十四。県五、鎮十一。」
[206]未詳だが、中央官庁の輔佐官であろう。
[209]原文「醉夢蕭森蝶翅輕」。「蝶翅輕」はいうまでもなく、荘子が夢で胡蝶になったという『荘子』斉物論篇に基づく措辞。
[214]天がはじめて晴れること。晴れたばかりの天気。
[215]原文「為問韋家好弟兄」。「韋家好弟兄」が未詳。韋荘『涂次逢李氏兄弟感旧』「御沟西面朱門宅、記得当時好弟兄。暁傍柳陰骑竹馬、夜隈灯影弄先生。巡街趁蝶衣裳破、上屋探雏手脚軽。今日相逢俱老大、憂家憂国尽公卿。」と関係あるか。
[217]越王の邸宅。越王家に関しては『金史』巻五十九・宗室表を参照。
[219]千二百一年〜千二百八年。
[220]『金史』巻一百二十六「龐鑄字才卿、遼東人.少擢第、仕有聲.南渡後、為翰林待制、遷戶部侍郎.坐游貴戚家、出倅東平、改京兆路轉運使、卒.博學能文、工詩、造語奇健不凡、世多傳之.」都運は轉運使のこと。
[221]原文「明禁隨廃」。「明禁」が未詳。とりあえずこう訳す。
[222]越王完顔永功の子寿孫のこと。密国公。『金史』巻五十九・宗室表参照。
[223]杜甫『八陣図』「功蓋三分国、名成八陣図。江流石不転、遺恨失吞呉。」。
[224]原文「東坡夢杜子美自解『八陣図』、謂是書生習気。」。『東坡志林』巻一「僕嘗夢見人、云是杜子美、謂僕曰、世人多誤解吾詩、八陣図詩云、江流石不転、遺恨失呑呉、人皆以為先生武侯、皆欲与関羽復讐、故恨其不能滅呉。非也。我本意謂呉蜀唇歯之国、不当相国、晋之所以能取蜀者、以蜀有呑呉之意、此為恨耳。此理甚長、然子美死凡四百年、而有不忘詩。区区自別其意、此真書生習気也。」
[225]『金史』巻二十六・河東北路「寿陽興定二年九月嘗割隸平定州。有方山、洞過水。」
[226]状元だが、伝記未詳。正史に見えない。
[227]原文「引病後孤居」。「引」が未詳。
[228]原文「和羹未晚」。未詳。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic92Zdic8C112876.htm
和羹はことなる调味料を加えて作ったあつもの。塩と梅を用いるので、梅に関連して詠まれているのであろう。『書·説命下』「若作和羹、爾惟塩梅。」孔伝「塩、咸、梅、醋。羹須咸醋以和之。」また、転じて政務を調理する宰相をいう。「和羹未晚」はあなたが「宰相になるのはまだ遅くない」ということか。
[229]西夏討伐のことか。
[232]『金史』巻二十六・京兆府路「華州、中。宋華陰郡鎮潼軍節度、治鄭、国初因之、後置節度使、皇統二年降為防禦使。貞祐三年八月升為節鎮、軍曰金安、以商州為支郡。戶五萬三千八百。県五、鎮六。」
[233]伝説中の九黎族の首領。黄帝と涿鹿に戦い、敗れて殺された。
[234]『皇覧·冢墓記』「蚩尤冢高七丈、在東平郡寿張県闞郷城中、因而説蚩尤姓闞。」
[235]『金史』巻二十六・河東北路「秀容有程候山、雲母山、忻水、滹沱水。鎮四忻口、雲內、徒合、石嶺。」
[236]『金史』巻二十六・河東北路「管州、下、刺史。本宋憲州靜樂郡、天徳三年更。興定三年升為防禦。戶五千八百八十一。県一。」
[237]原文同じ。未詳。「巣廟」の誤りか。
[238]未詳。黄巣のことか。
[240]『金史』巻一百二十二に伝がある。
[241]『金史』巻二十六・慶原路「慶陽府、中。宋安化郡慶陽軍節度。本慶州軍事、国初改安国軍、後置定安軍節度使兼總管、皇統二年置總管府。戶四萬六千一百七十一。県三、城二、堡一、寨三、鎮七。」
[242]「移刺」は女真人の姓。倉使は未詳だが、倉庫を管理する官名であろう。『金史』にも八例ほど見られるが、職官志には記載がない。
[243]繊細な絹でつくった裤。貴族の子弟が着た。後に富貴の人の子弟をさした。ぼっちゃん。
[245]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic8AZdicAB27321.htm
「刧灰」。「刦灰」「刼灰」とも。劫火の余灰をいう。南朝梁慧皎『高僧伝·訳経上·竺法蘭』「昔漢武穿昆明池底、得黒灰、問東方朔。朔云、不知、可問西域胡人。後法蘭既至、众人追以問之、蘭云、世界終尽、劫火洞焼、此灰是也。」
[246]『李璋下第』「浩蕩宮門白日開、君王高拱試群材。学如吾子何憂失、命属天公不可猜。意気未直軽感慨、文章尤忌数悲哀。男児独患無名爾、将相誰云有種哉。」
[247]『金史』巻二十六・大名府路「開州、中、刺史。宋開徳府澶淵郡鎮寧軍節度、降為澶州、皇統四年復更今名。戶三萬三千八百三十六。県四、鎮一。」
[249]寺院の住持あるいは隠士、居士が修行する部屋。
[253]『金史』巻二十六・河東南路「濟源、有太行山、孔山、濟水、湨水、沁水。」