巻三
楊洞微
道士楊谷は、字は洞微といい、代州[1]の人で、華山に隠居していた。風采は秀偉で、言行は卓絶し、平生人に逆らわなかった。『荘子』、『易経』に通じ、世に「荘子楊先生」と目せられていた。明昌[2]年間、詔して徳の高い道士を召した時、天長観[3]に所属したが、まもなく山に帰った。帰ろうとする時、知観[4]の侯生と市で食事したが、幾つかの「火」の字を食卓に書き、さらに侯に頼んだ。「昨日沃州[5]を過ぎ、お母さまが病んでいらっしゃることを聞きましたから、はやく帰られるべきです。」侯は休暇をとって去った。沃州に至ると、母は病んでいなかった、侯生は罵った。「あいつはわたしを騙したのか。」北に帰ると、天長はすでに焼かれていた。また、旅人とッ山の白亀泉[6]に遊んだときのこと、石蟹が出てきたので、客が「蟹が横に進むのは、天性だろうか。」と言うと、洞微は言った。「この物はもともと横に進むが、正しい人にあたらないことは残念だ。」すぐに手で指すと、蟹はまっすぐに進んだ。晩年に中方[7]が気に入り、卜居した。中方はもともと泉がなく、はるばる汲むのに苦しんでいた。洞微は言った。「山がこのように秀でているのだから、泉がないはずがない。」そこで斎戒沐浴して祈り、占うと、吉兆を得た。その時は十月で、庵の近くには葵の花が茂っていた。洞微は言った。「文字では、草と癸で『葵』になるから、これは水のしるしだろう。」道士たちと探しにゆくと、巽の方角の草樹の間に隠隠としてかすかに潤いがあり、掘ると、本当に泉となり、数百人に供することができた。しかし東は深い谷に隔てられ、南は群がる峰に阻まれ、石壁は数百歩にわたって切りたっており、越えられなかった。洞微と弟子呂沢たちは、壁に沿って桟道を造り、往来を通じた。人は桟道の木が朽ちやすいので、転落の禍があることを慮り、壁に沿って石を取り、穴を穿って嵌め、重ねて石橋にし、泉に磚を敷いて池にした。それからは、中方は水を得ることがたいへん楽になったので、今でも人々は「楊公泉」と目している。閑閑[8]はかつて文を作ってそのことを記し、さらにいった。「わが友潘若浄は、字は清容といい、有道の士である。かつて洞微に従って旅し、おおいに嘆服し、いった。『楊洞微のような人物は、古人の中から探すべきだ。』」閑閑は後に華州を過ぎ、洞微を回想して言った。「前年かつて雲台[9]に就きて宿る、先生の華山におはしますを知る。今日白雲峰頂に起こり、かへつて疑ふ鶴に騎り人の世に降りたるかと。」その称賛はこのようなものであった。
測影[10]
司天[11]が測影したところ、冬至と夏至の時、中都[12]以北ではだんだんと異なっている。中都の冬至は一丈五尺七寸六分、夏至は二尺二寸六分[13]、昼は六十一刻、夜は三十九刻である。山後の涼陘金蓮川[14]は、都の西四百里にあって近く[15]、その地はもっとも高い[16]。夏至は昼は六十三刻、夜は三十七刻である[17]。上京[18]臨潢府[19]は都の北三千里にあり、夏至の昼は六十四刻、夜は三十六刻である。『呂氏碣石録』にいう。
猟犬
泰和五年、道陵[20]が雲龍川[21]で猟した。興州[22]は犬を産するが、宗室の咬住[23]が数匹の犬を進上し、言った。「虎を射る時に役に立ちます。」上は試させた。犬は虎を見ると、進みでて誘った。虎が追いかけると、犬たちは群れをなして立ち、前になったり、後ろになったり、左右から隙を窺って引いたり咬んだりした。虎は相手にするのに苦しみ、怒って一二丈跳びあがり、逃れさろうとしたが、犬たちはすぐに追いついた。虎が疲れて倒れると、衛士が進んで射、結局犬たちに倒された。
佃客[24]に雷が落ちたこと
陜州[25]盧村の張海は、同郷のある農民と敵対していたが。佃客が計略を立て、その農民が、積んであった麦を焼いたと誣告し[26]、傍証人となった。海は農民を縛って尉司[27]に護送した。農民は性質が純朴で、弁明できず、死を覚悟した。三人が南の城外にゆくと、突然雷が佃客を撃った。空から落ちると、骨肉はすべてなくなり、皮と髪が残っているばかりであった。士人牛叔玉はみずからそれを見た。時に郭敬叔が陜州の知事であった。
方長老の前身
丹霞[28]の長老義方は、字を志道といい、尉氏[29]の人であった。前身は柳小二といい、やはり県の人であった[30]。大定初年、卑しいものたちが集まって相国寺の三門を焼き、混乱に乗じて軍資庫[31]で掠奪することを相談した。およそ五十人が、分担を決め、柳小二ともう一人の男が火を放つことになった。まず門へいって下見し、機をみて火を放つことにした。柳はひそかに思った。「この門は国の力で造られたもので、大きくて、木でできた山のようだ[32]。火事の後は、ふたたび造れないだろう。このような建築[33]を、わたしが壊してしまうのは、惜しいことだ。惜しいことだ。」嘆いていると、州橋[34]で捕らえられ、拷問されて死んだ。死後、県内の陳家に転生し、六、七歳で前世のことを言えるようになった。父母妻子および埋蔵された財産[35]の所在を尋ねると、柳小二であることは本当に疑いなかった。小二の家ではかれの面倒をみた。法雲寺で出家し、後に鋳和尚[36]から教えを受けた。丹霞寺に住み、みずからわたしに語った。
老趙の後身
鞏州[37]の仇家巷の質屋趙九の老父趙三は、泰安二年に病が篤くなり、その後、臨洮の西小字街の銀孫[38]の家に生まれた。年が十六の時、人に頼んで趙九を訪ねさせ、前後の事情を語り、趙九を呼んで会いにこさせようとした。趙九は人に命じて迎えにゆかせた。鞏州を出ようとすると、家人が走って迎えにきた[39]。趙九は人々の中にいたが、半信半疑であった。孫の子ははるかに趙九を見ると、幼名を呼んで大声で罵り、かれがすぐ会いにこなかったことを怒り、妻に会っても罵り、妻の腕の火傷の痕および樹下の粟を埋蔵してある処を指ししめした。それからは両家を往ったり来たりした。州の将軍で宗室の栄禄[40]、副官の李好復、節度副使の史舜元はそのことを珍しいと思い、みずから尋ねたところ、語るには、人に召され、大きな官府にゆくと、下役が門で待つように言った、しばらくすると出てきて、言った。「先のことを考える必要はない[41]。とにかくわたしについてゆけ。」一頭の騾馬に騎り、数里ゆき、川岸に入ると、一人の婦人が先にそこにいたが、下役は婦人を指して言った。「これがおまえの母親だ。」驚いていると、下役によって水中に推され、記憶がなくなった、三歳になってはじめて前生を悟ったという。
劉致君が異人を見ること
龍山[42]の劉仲尹致君は、年が二十の時、「異物を貴ばずんば民は足る」の試験[43]で合格し、釈褐[44]して賛皇[45]の尉[46]となった。ある日、巡邏し、朝に山の寺にゆくと、壁に詩が書かれていた。「長梢疊葉まさに颼颼、枕底寒声[47]客のためにのこす。野鶴来らず山月堕ち、独眠の滋味五更の秋。」僧に誰が題したかを尋ねると、言った。「一人の旅人で、年は六十ばかり、衣服風貌は奇妙でした。昨夜泊まり、今朝詩を題して去ったのですが、墨はまだ乾いていませんから、遠くへいってはいないでしょう。」致君は弓兵を分遣して後を追わせた。まもなく、兵が知らせにきた。「旅人は山中の大樹の下であなたを待っています。」致君が酒を載せてゆき、客を見、進みでて揖すると、客もかれと対等の挨拶をした。姓名を尋ねたが、答えず、酒を指して飲ませることを求めた。致君はかれの言うことが洒脱なのを見ると、かれが異人であることを知り、平生経伝に関して疑問に思っていることを質問すると、くわしく答え、聞いたことがないことを聞いた。客も致君とはともに語ることができると言い、杯を挙げてなみなみとつぎ、従者にも及んだ。日が暮れようとすると、致君と吏卒はおおいに酔った。目ざめると、旅人はいなくなっていた。致君はその後、詩学[48]がおおいに進歩した。かれの外孫李内翰欽叔がわたしに語った。
潼山の荘氏
霊璧[49]の北四十里は、潼山といい、南華観がある[50]。荘子の後裔二百余家がおり、族長が行第[51]で数えると、二十八翁、二十九翁がいた。お上は杖と印を給い[52]、詞訟を司らせていた。風俗は醇厚で、俗人でありながら談玄[53]をよくするものがいた。介休[54]の烏元章はその『南華』詩に題して言った。「試みに真理を拈りて南華に問ふ[55]、生死もとより夢の覚むるをいかんせん[56]。昼も夜も夢の覚むるを停めしや。古も今も生死は続けるや[57]。潼山歳歳春草を生じ、雎水年年緑波あり。子は逝きて今ははや千歳にて、覚めたる時は何ぞ少なく夢みる時多き。」
王登庸の前身
王登庸は、平州[58]の人で、「日天統に合ふ[59]」榜の進士であった。数県の知事を経、有能であるとの名声を得た。わたしの同年[60]であった。蘇鼎臣が語るには、かれの前身は同郷の劉氏の娘で、年が十六七歳の時、桑を採っていて樹の下に落ちたということであった。傷は重かったが、息が絶えないでいるうちに、霊魂はすでに王家に転生していた。満月で、胎髪を剃ると、前生の痛みをまだ覚えていて哭き[61]、劉家にゆくことを求めた。その後、両家で世話し、挙子とさせた[62]。劉氏の父母が死ぬと、心喪[63]に服すること三年であった。
大明川[64]の奇卵
曲陽[65]の医者郭彦達は、かつて大明川に住んでいた。聞けば田夫の董成というものが、地を掃いて門框までゆくと、地が高く盛りあがっていたので、鍤で平らにしたところ、その後ふたたび高くなるということが三四度あった。訝って掘ると、まずお碗ほどの卵を得た。殼の中を見ると二匹の蛇がおり[66]、一匹は黒く一匹は斑であった。さらに掘ると卵を得たが、前に比べてやや大きかった。彦達は諭した。「神仙に触れてはならない。祭祀礼拝して流せ。」成は言われた通りにし、河に流した。その年、川の下流と上流で雷雨があり[67]、大木数千本を抜き、疫病で死んだ者は数百人であった。
三姑廟に龍が現れること
大名[68]の蚕神三姑廟の近くで龍が現れ、三つの藁屋に臥していた。見たものは数百人であった。見ると龍は鱗甲から黄毛が出、その姿は駱駝の瘤のよう、頭は大樹と等しかったが、腥くて近づけなかった。落ちてしまったので、伸びたり曲がったりして昇ることができなかった。しばらくすると、雲霧がふたたび合わさり、去った。時に己酉歳七、八月であった。
鏡弁
蔡内翰正甫が言った。大定七年秋、蕭彦昭とともに都下で役人をしていた。蕭はある日訪ねてき、古い鏡を出して示した。「近年関中で手に入れ、たいへん気に入っているのだが、背の文四字はまったく分からないし、いつの物かも分からない。」わたしが取ってみると、漢の物であった。文には「長く子孫に宣し」とあった。『宣和博古図』にあるので、図を出して示すと、ほとんど符を合わせたかのようであったため、彦昭は驚喜した。姚仲瞻が座におり、言った。「ぼくの家の鏡も、作りが優れている。宋末に長安の土人の家で手に入れ、太真の化粧箱の中の物と伝えられているが、信じられない。」取らせてみると、背に楷書数十が書かれており、韻文で、句は四言であった。その概略は「華屋交映え、珠簾対して看る、ひそかに聖淑を窺ふ、麗しければつねに瑞し」などの言葉があり、紐に「開元」の二字があった。姚は言った。「その年代を考えれば唐の物だが、どうして太真のゆかりの品と知れるのだ。」わたしは笑って答えず、おもむろに浮休居士張芸叟[69]の作った『冗長録』を出して読ませた。そこにはこう記載されていた。「元祐年間、望賢駅[70]の故地を耕し、鏡を得、わたしに贈ったものがいたが、銘は四字の詩であった。中に『ひそかに聖淑を窺ふ』の句があった。『聖淑』の二字はいずれもすこし空けてあり、『聖』が君、『淑』が后であることを示していた[71]。」この作りとまさに合っていた。望賢は馬嵬から数十里、そもそも遷幸[72]の時に残したものであった。浮休は、陜右[73]の人で、長安で得たのなら、本物である。彦昭はたいへん驚嘆し、一日に二つの珍事があった、書かないわけにはゆかないといった。わたしは言った。「多弁でしばしば予測が中たったために、仲尼は子貢を謗ったが[74]、世はたまたま中たることを語るのは喜ぶので、書かないことができようか[75]。」
呂内翰の遺命
呂防御忠嗣は、平生経学を学んで得るものがあったので、つねにみずからが古人のようになることを望んでいた。臨終の時、子供たちに頼んだ。「わたしが死んだら火葬にするな。火葬は屍を損うことだ。お布施や仏事をするな。お布施して仏事をするのは、尭、舜、文、武、周、孔の教えによらずにわたしを扱うことだ。わたしの言葉に違えば、呂氏の子孫ではない。」子供たちは教えに従い、一人も違おうとするものはなかった。范司農拯之、梁都運斗南はつねにわたしに言った。近年、斗南が「葬式は僧侶にさせるな。」と遺命したのには、拠りどころがあるのである。
宣徳[76]の狂僧
宣徳聖国寺[77]の狂僧は、ぼろぼろの布衣で、暗い部屋に独居していた。夏でも洗濯しなかったが、臭気はなかった。つねに寺の厩舎で[78]、牛馬に合掌して言った。「腹がいっぱいだ。腹がいっぱいだ[79]。」学僧たちはおおいに憎んだ。承安年間、春に旱魃があり、州の副官田公が尋ねた。「いつ雨が降りますか。」僧は言った。「四月二十日に、雨は十分降る。」期日になると本当にそうであった。刺史が中秋に酒を醸そうとすると、僧は言った。「刺史はすぐに東へ去るから、醸す必要はない。」十四日、興中[80]の尹に除せられ、駅車に乗って赴任した[81]。かれの言うことは多くは験があった。范拯が語った。
呂状元の正夢
呂内翰造は、字は子成といった。及第する前、金龍が蜿蜒と天から下り、攫って食らわれる夢を見た。その年、南省[82]で経義の首席となり、詞賦では殿元[83]に選ばれた[84]。閤門[85]が詩を求めると、「状頭[86]家世[87]三葉[88]に伝へ、天下の科名両魁を占む」といったが、その大父延嗣、父忠嗣と子成が、ともに状元であったことをいっていたのであった。
張子雲が神に祈ること
張子雲は蔭によって官に任ぜられたが、かつて『金人[89]露盤[90]を捧ぐ』という楽府を作り、退隠の楽しみを述べ、一時に喧伝された。道陵[91]に召されて書画都監[92]となり、昇進を重ねて冀州[93]の副官になった。ある日、神に祈ると、神は『青門引』詞を示したが、その末句にこうあった。「半紙の虚名[94]、白髪は幾ばくぞ。一棹武陵の帰計[95]、閑適の早きにしくなし。恐らく桃花は、人の老ゆるを笑ふべし。」子雲は即日致仕した。張の友人仲叔が語った。
麻姑[96]が樹をこうこと
寧海[97]崑崙山石落村の劉氏は、財に富んでいた。かつて海辺で百丈の魚を捕らえ、骨をとって梁にし、大きな家を構え、「鯉堂」と名づけた。堂の前に一本の槐があったが、陰は数畝を掩い、世にまれに見るものであった。劉がふと夢見たところ、女官がみずから麻姑と称し、劉をたずね、槐の樹で廟を修理することをこうた。劉は夢の中でおおいに難色を示し、その後言った。「廟はここから数里ですから、どうしてゆくことができましょう。」いいかげんに約束した。目ざめると、奇妙だと思ったが、さほど信じなかった。数十日後、風雨がはげしく起こり、夜のように暗くなった。人々は変事があることを知り、みな部屋に入って隠れた。まもなく晴れると、劉氏の槐だけが失われていた。人々がともに麻姑廟を探すと、その樹はすでに廟の前に倒れていた。
孝順な馬
宣宗朝で、親軍[98]の兵卒が一頭の鉄色の驄を飼っていたが、その馬は人の指示を理解することができた。この兵卒はともに仕事するものがいなかったので、宿直するたびに、馬がみずから寝具を背負ってきた、宿直を終えると、背負って帰った。他人が妨げたり牽いたりすると、声をあげ、蹴ったり齧ったりしたので、人々は近づこうとしなかった。軍隊にあったが、この兵卒がよそへゆくと、馬はみずからそこを訪ね、かならず探しあてるのであった。兵卒は南征した時、谷に落ち、起きられなくなったが、馬は前の二本の足を跪かせたので、轡を執って登ることができた。河中では「孝順馬」と喧伝した。ある日、中貴人[99]が淮上で軍を労った時、たわむれにこの兵卒を隠れさせ、馬を放ってみずから探させたところ、馬は轡を振るわしてながく鳴き、すぐ主人の処にいった。中貴は宣宗に聞かせ、兵卒の月給を増してやった。
蠍台
東京[100]城の東北隅に蠍台があった。大定年間に城を修理した時、人夫が台を壊して土をとった。半ばに及ぶと、石の函があり、開くと、中に石があったが、丸く滑らかな天然のもので、揺らすと物が動く音がした。割ると、二匹の大きな蠍がつるみあっており、転がって離れなかったが、風に触れるとすぐ死んだ。張都運復亨に人が尋ねた。「遼東に蠍はいないのに、蠍が石の中にいた。石が函にあり、さらに土に埋められていた。人はどうして蠍がいることを知って台を名づけたのだろう。」張はしばらく考えると、言った。「石の函を埋めたものは、きっと占いによって知ったのだ。そうでなければ、神が告げたのだ。そのほかのことはわたしには分からない。」
陵川の瑞花
亡父は陵川[101]の知事であった。泰和甲子の元夕[102]、県学で提燈を点すとき、杏や棣棠[103]の枯れ枝を用いて飾りにしたものがいた。提燈が消えると、家童はそれをもらい、県署の仏屋[104]に供えた。四月七日、まず夫人が香を焚き、経を誦えると、杏と棣棠がすべて花を咲かせ、真贋が混じりあっていた。亡父は客を集めてそれを示し、演技のよいことをいおうと思い[105]、『瑞花詩』を賦した。わたしはようやく十五歳であった。
食らわないのに孕むこと
東京の牛家の妻は、年は二十歳前、奇妙な夢を見たので食らわなくなり、食らえば吐いて病むのであった。数年たっても、まったく痩せることはなかった。乙巳の歳、娘をあげ、さらにみずから哺育した。その姑が連れていって范煉師に会わせると、范はその姑を諭した。「お嫁さんは食事をなさらず、便通もございませんのに、どうして入道させないのです。」姑は言った。「嫁は小さい娘に恋々として、離れられないのです。」識者は、この婦は生気[106]を食らっているため、動作は普段通りで、天癸が時々おとずれる、愛根[107]が絶たれていないので、子がいるのだと思った。このことは典籍にも多くは見えない。
右腋から子を産むこと
李煉師湛然は、戊申の秋に入関した。みずから一人の女が出産するのを見たが、臨月になると、突然右腋に大きな瘡を発し、瘡が破れると、胎児と胞衣が瘡から出てきたが、母子ともに安らかであった。
李茂の人相見
完州[108]の知事楊秀実は、正大年間、権刑部主事となり、関陜[109]で賦税を納付していた。占い師の李茂が南方から来たが、人を見て吉凶を語ると、たいへんよく中たった。官府はかれが人びとを惑わしているとして、拘禁した。楊はかれと狎れ親しみ、ひそかにいった。「人に吉凶を語るとき、寿命が長いとか、最後は栄達するとか言えば、人はみずからを慰めることができる。先が長くないとか、しばらくしたら他に災いがあると言うと、憂えを増すだけだ。」そこで茂と食事した時、尋ねた。「吉凶を知ることは望みません。ただ、わたしは老母から離れること十か月、顔を見るのはいつでしょう。」茂は食らいながら笑って言った。「三日でお母さまに会えましょう。」楊は、関、陜は都を去ること千里あまりなのだから、どうして三日で着けようと思った。食事していると、平章[110]の芮公[111]がいそいで楊を召し、辺境の事を早馬で奏聞させることにしたので、三日の昼前に家に至った。楊は今でも奇妙なことだと思っている。茂が後に入京し、恵安寺[112]に寓居すると、朝廷の士人たちは争って尋ねにいった。近侍の焦春和[113]が、門に入ると、茂はすぐ言った。「五品です。五品です。出自が賎しいのが残念なだけです。」焦はもともと世宗の家童であったので、茂が言うのを聞くと、ふかく恥じた。茂はまもなく殺されたが、年は三十三であった。
雷氏の節姑
雷氏は、渾源[114]の人で、西仲、南仲といとこであり、年は十七で、嫁いで応州[115]の丁副官の妻となった。雷氏の群従[116]に喜ばないものがおり、喪中の結婚であると告発したので[117]、結婚はご破算となった。丁は夫人にいった。「離婚はもとよりわたしたち二人の意思ではないが、おまえはこれから再婚するか。」雷は言った。「再婚すれば、両目がめしいることでしょう。」丁は言った。「おまえにその心があるなら、わたしもこの誓いをともにしよう。」その後、丁は前言に違い、再婚したが、まもなく本当に失明した。雷氏は十八歳で寡婦となり、九十七歳で亡くなった。従孫[118]の希顔は、いつも文を作って記録しようとしていたが、結局まにあわなかった。
劉生が青詞[119]を責められること
正大初年、中牟[120]陽橋[121]の人劉慎は、字を栄輔といったが、同郷人の劉六のために追善の青詞を作った。劉[122]は平生悪行をしていたが、栄輔は青詞を作り、くわしく弁明し、さらに通例に従って救いを求めてやった[123]。数日後、栄輔の一番弟子の魯羅児が[124]、病中突然物に憑かれ、家人を遣わして栄輔を呼んでこさせた。劉が来ると、羅児は色をなして怒鳴った。「おまえは昨日劉六のために青詞を作ったが、誰のところででたらめをいっているのだ。」栄輔はそれを聞くと、ひどく恐れ、手ずから自供書を書き、今後二度と青詞を作りませんと言った。羅児はそれ以上話さなかった。この子は成童になったばかりで、青詞が何かをまったく知らなかった。劉の罪悪が顕著であったのに、栄輔がみだりに文飾して幸福を祈願したので、神はこの子を借りて戒めたのであろう。
陵川の人が神に祈ること
陵川の士人劉元方卿が語った。兵乱の後、県の人が神に祈った。楊徴君樸[125]は筆を下せば、詩がもっとも奇偉非凡であった。「書」の字を論じると言った。「なんぢは知るや毫端の心の、万物も礙ぐべからざることを[126]。」さらにいった。「龍は盤りて一気に雲雷[127]定まり、鯨は化して三山[128]に草木枯る[129]。」席上、評事[130]のものが、高麗の匹紙[131]を出して詩を求めると、言った。「霜は詞鋒に入り月痕は缺け、手中覚えずして風雷掣く[132]。」このような八句で、後ろに批があった。「けっして汚れに触れさせるな。神仙はかならず飛び去るだろう。」席氏の嫁は出産して一月足らずであったが、ひそかにそれを見た。三日後、巻を開くと、一字もなく、白い紙があるばかりであった。劉はかつて尋ねた。「生と死の境目は、どのようなものなのだ。」「死か。死か。死を憎めば、はやく死ぬ。生は楽しめるものではなく、死は憎めるものではない。鬼が生を憎むのは、人が死を憎むようなものだ。生者は死者の楽しみを知らないだけだ。」県人の都兪は、字を舜卿といい、もとより鬼神を信じていなかった。ある日、舜卿を召して前に来させると「銀杏を与えよう。」と言った。「どこにある。」と尋ねると、批にいった。「おまえの懐にある。」都が懐を探るとあった。さらに批にいった。「桜桃を与えよう。」都は尋ねた。「臘月なのにどこにある。」批にいった。「すでにおまえの掌中にある。」都が手を開くと、本当にあった。ある日、人々に連枝の紅杏三十余本を分け与えたが、壇にいる人々の数にぴったり対応していた。ある人が尋ねた。「真冬なのにこんなものがあるはずがない。」批にいった。「こちらの冬は、あちらの夏ではないか。」さらに尋ねた。「あちらとはどこにあるのだ。」批にいった。「数万里の外にある。」尋ねた。「どうしてすぐにこちらに来ることができるのだ。」批にいった。「はやくなくてはやく、ゆかないでいたる[133]ということを、知らないのか。」元卿[134]は尋ねた。「神仙は本当にいるのかいないのか。どうかはっきり告げてくれ。」批にいった。「まだ疑うのか。」元卿は今順天[135]に旅しているが、しばしばわたしに語った。だから筆で記し続け、動乱の後に述べたのである。
抱陽[136]の二龍
順天の西北四十里にある抱陽の宝教院[137]の岩では、大小二匹の青龍が寺の潭におり、廟は「顕済」といっている。古碑の記述では、「二青」は隋、唐の間に現れ、「将軍」と目せられ、官は刺史に比せられている。大青は、崇寧五年に崇恵侯に封ぜられ、政和七年に霊益公に進み、小青は、嘉霈侯だったのが、英沢公に進んだ。二匹の龍はそれぞれ長さ二三尺ばかり、色は深緑、朱墨の細かい点が混じり、背中は方勝[138]の模様になっているかのようであった。進むときは首を挙げたが、他の蛇に似ておらず、出るときは木の上を縄のように進んだ。雲雨を起こすことができ、変化は計りしれなかった。同郷の人が祈って祭り、酒を与えれば、直立し、高さは二尺あまり、俯き、盞に近づいて飲んだ。だから前人の詩に「青蛇たちどころに飲む神を祭る酒」の句があるのである[139]。二青は山陽におり、それぞれ一族がおり、数十百匹に達していたが、まったく毒がなかった。大青は片目が眇であったが、その仲間はすべてそうであった。山陰にいるのは雑多な蛇で、いずれも毒があったが、山陽の二青の境を侵そうとせず、ゆけば二青の仲間に噛み殺された。二青の一族も山陰にゆかなかった。村落の子供たちはかれらと親しみ、手で捧げもつに至った。毎夜民家の寝具の中に宿ったが、人も驚き怪しまなかった。この寺では、唐の張燕公説[140]、馮瀛王道[141]、宋の崇儀使大名総管刑仲良、近代の鄭州刺史趙攄子充が、いずれも読書したことがあった。邢氏の継志庵、忘帰軒、燕公の石穴読書堂、明珠窩があった。はじめ、山石が崩れ、杯碗の半分のような穴が現れたが、光沢があり滑らかで彫琢の痕がなく、光彩があるかのようであった。土人は明珠がとびでたので、名づけたのだと伝えていた。山の近く三、四里の所に、昇賢村があり、満城[142]に属していたが、馮王[143]の旧宅であった。辛亥の冬、わたしは毛正卿徳義兄弟、郝伯常、劉敬之らと一遊した。寺僧の顕は、純朴で道行[144]があり、時に年は七十八であったが、龍の美しさを語った。
三秀軒
李都運有之、高戸部唐卿、趙礼部廷玉は、永平[145]の西のある山寺で読書していた。臘月、桃樹一枝が花を咲かせ、大きな蝉がその上に集まり、さらに竹林から一本の筍が出たので、住居を「三秀軒」と名づけた。後に三人はみな合格し、高官となった。
王処存の墓
王処存の墓は、曲陽[146]燕川の西北白虎山の青龍碣にある。己卯八月、完州[147]の人が破壊したところ、骨はすでに灰となっており、銀百余粒、一つの硯、一つの鏡、唐の哀帝がたまった鉄券を得た。券には金字で「忠臣王処存を勅葬す。銭九万九千九百九十九貫九百九十九文を賜ふ。」ときざまれていた。その孫の周臣が語った。
張女の早熟
順天の張万戸徳剛の第八女は、幼名を度娥といい、姿は優れ、眼尾は鬢に入っていた。丙午の秋に小学[148]に入った。生まれて七年で、日々数百言を暗誦していた。戊申二月になると、女史[149]となり、著作し、『孝経』、『論語』、『孟子』、『易・乾伝』から『下繋[150]』、『詩・二南』、『曲礼』、『内則』、『少儀』、『中庸』、『大学』、『儒行』、『祭統』、『祭義』、『経解』、『冠婚』の諸篇、班氏[151]の『女戒[152]』、郝氏[153]の『内則』、『内訓』、『通喪記』六巻に至るまで、すべて暗誦していた。一日に二種の詩を作り、古詩と律詩が十篇に至った[154]。書を学んでおり、筆を下せば成人の風格があった。朝晩家におり、家人が厳粛にしていないと、礼に則って責めた。さらに書物を暗誦して大義に通じることができると、しばしば講義した。対句を作れば、才思敏捷で、小児女子の言葉ではなかった。「睡思[155]昏昏として酔思のごとし、閨心[156]は寂寂として禅心[157]に似る。桃李東風蝴蝶の夢、寒山明月杜鵑[158]の魂。」識者はこの詩は良くないと言った。後日本当に病を得、さらに四日で亡くなったが、わずか九歳であった。郝伯常は詩を作って弔った。
脱殼楸[159]
代州[160]の寿寧観[161]で、宋の天聖年間、楸の樹が老いて枯れた。海蟾子[162]が州を訪れ、不死の薬を売ろうとしたが、三日売れなかったので、薬をこの樹に投じた。翌年、枯枝はふたたび茂ったので、人は「脱殼楸」と目した。白皡子西[163]は詩を題した。「一粒の丹砂は優れて神あり、よく枯れ木をしてふたたび春を生ぜしむ。仙翁の心はまことに知りがたし、枯楸を救ひて人を救はず。」泰和年間、王嘉言[164]の子の告が寿寧観を訪れ、たわむれに白生を評して言った[165]。「子西は詩をもて観中の人を謗れり、なんぢらはなほ石に刻すや。」白はそこでこの石を倒した。
金宝牌
宣政年間、方士が泥を金に変えることができ、「金宝牌」と名づけた。長さは三寸半、幅は二寸半、文には「ながく福地を鎮めん」とあった。代州の天慶観、寿寧観の二か処にこれがあった。天慶観には今なおある、承平の時の人が伝えて観賞したが、あきらかに泥でできたもので、指紋がそのまま残っていた。
歯磨きの処方
茯苓、石膏、龍骨各一両、寒水石[166]二両半、白芷[167]半両、細辛[168]五銭、石燕子[169]の大きいものは一枚、小さいものは一対を、粉末にし、朝晩歯を磨く。繁畤[170]の王文漢卿は、この処方を麟撫の折守[171]から得た。折守は国初に洛陽の帥李成[172]から得た。折は年は九十を越えているが、歯はまったく脱けておらず、虫歯もない。王文も今九十だが、肉を食らう時はなお歯で切ることができる。この処方の優れていることは確かである。
碑子魚
海中に魚がおり、尾と足は亀と異ならないが、背に殼が集まり、石碑が立っているありさまのようである。潮が引けば岸に出て殼を晒し、十百匹が群れをなし、人の声を聞けば沙を這って海に入る。海辺の人は「碑子魚」といっているが、魚なのか獣なのか、はっきりしない。古い話によれば蒲牢[173]という海獣は、鯨が躍れば吠え、その声は鐘のようであったという。今の人は鐘を鋳る時、蒲牢の形に作り、撞木を刻む時、鯨にするが、二つのことには根拠があるのである。そもそも古人は器を作る時、物を象り、舟車、弓箭、杵臼の類でも、まったくいいかげんに作らなかったのだが、後世の人はそのことをすべて知っているわけではない。それならば墓碑の作りは、やはり基づくことがあるのだろうか。そもそも人は魚の形が似ているのを見、こじつけて名づけたのか。
神が胥莘公に告げること
胥莘公がかつて泰山の神を夢見たところ、神は告げた。「わたしを敬っても幸福はない、わたしを侮っても災厄がない、善道を行えば、家運はひさしいことであろう。」つねにこのことを人に語った。ことは家伝[174]に見える。
蛙が鼠に化すること
燕南の安州[175]白羊淀は、南北四十里、東西七十里が、昔は水に占められていた。近頃、甲午の歳に、突然涸れると、淀の中の蛙と亀が、黒い鼠と化し、菰の根を齧りつくした。土壌は柔かくなり、耕すまでもなく、麦の種を蒔けばすぐに育った。住民は数えきれず、客戸[176]が収穫するに任せ、年貢をとるだけであった[177]。この地は山草の根があって固く[178]、耕されたことがなかったが、蛙と亀が鼠に化したことによって麦を得たのも、おかしなことであった。淀には石刻があった。「天は荒れ地は乱るとも、この淀を離るるなかれ。水あらば魚を食らひ、水がなからば麺を食むべし。」だとすれば、これより前にも麦が得られたのだろうか。張侯徳剛が語った。
驢馬の腹の異物
完州旧永平県[179]の粉屋の家で、一頭の驢馬を養っていたが、突然病になった。死ぬ時は、大声で叫び、七昼夜声が絶えなかった。裂くと、大きな腹の中から物を得たが、鉄でもなければ石でもなく、形は栝楼[180]のようで扁平、色は深い褐色で、その堅さは鉄石のようであった。粉屋は変だと思わず、麦囤[181]に抛った。日々の麦[182]はすべてここからとったが、まったく減らなかった。このようにして一年がたつと、同郷の人々は霊妙なものであると噂した。役人の石生というものがもらってゆき、やはり麦の中においたが、くすしき変化はまったくなかった。今、順天の張侯の家にあり、わたしはみずからそれを見た。
俄か雨で羊の首が落ちること
貞祐二年、豊州[183]の楊雲卿は崞[184]県令となった。夏ににわか雨が通った時、南関の外十余里のとことに羊の首が一つおちたが、大きさは車輪のよう、角は上にたち、高さは三尺であった。物怪として代州に申告すると、州庁は軍資庫[185]に収め、朝廷に奏聞した。
関中の丁亥歳の災変
正大四年丁亥、関中で変事が二つあった。平涼[186]の西の草地で、天王[187]の塑像が前後に揺れ動き、およそ二昼夜止まらなかったが、泥塑の衣紋はまったく剥落していなかった。知府の徒単百家奴が拝しにゆくと、拝すること三たびで、像は動かなくなった。知府が去ると、元通り動いた。臨洮[188]城内では、鼠が昼夜声を出し、家ごとにすべてそうであった。ある日の四更近く、鼠の群れが出てきたが、中の大きなものは海鼠のようで白く、鼠たちを率いて南門をでた。門下には弓手が並んで臥し、鼠は道を争い、人の顔を踏んで通った。でるのがまにあわないものは、東南の牧草の原に入り、見えなくなった。府からそこまでは六十里であった。劉善甫のいとこ潤が語った。
珠子氷
臨洮城外の洮水は、冬に小さい氷を結ぶが、芡[189]の実[190]のようで、円く澄んでおり、耳[大目目邑][191]の珠のようである。洮城内の金持ちは、それを手に入れて貯え、盛夏に蜜漿[192]を混ぜるが、真珠の粉[193]のようである。川の上流下流三百里は、冬に眺めると、白く凝って果てないのだが、脚をつけるとすぐに陥ってしまう。そもそも氷の珠は冷たいが、固まって一つになってもいないのである。
炭谷の瓊花
鄠県[194]の西南十里は「炭谷」といった。谷に入って五里のところに瓊花[195]の樹があり、樹の大きさは四人で抱えるほど、閏年になると花が咲くが、初伏[196]に開き、末伏[197]に尽きるのであった。花は白くて玉のよう、群がって咲くさまは八仙[198]が集まっているかのようであった。中に玉蝴蝶があり、高々と花の上に出、花が落ちても地に着かず、宙に揚がるのであった[199]。乱の後、兵に伐られたという。
古銭
東平[200]の人の銭信中は、『銭譜』[201]を参照しながら古銭を手に入れ、およそ数十種を得ると、茶店の劉六に渡した。劉はもともと漕司[202]の胥吏で、好事家と称せられていた。多くの古銭を手に入れると、両家の持っているものを集め、錦の嚢に貯えていた。『銭譜』に年代を記しておらず、品級がもっとも前にあるものも、劉は持っていた[203]。金錯刀[204]がもっとも重厚で、今の世で見られるものはその二、三割だけである。さらに方寸匕[205]があり、形は錯刀と同じで、もっとも多く、人々はさまざまな銭のなかで最高のものに推していた。王莽の大銭[206]で燕尾状のものは、今あるものと比べると、その大きさが四倍であった。文は「端布当千」といった。背後に二文字があり、「絲布」、「泉布」、「貨布」、「流布」とあり、このようにして十布に近かった[207]。さらに一銖、二銖、三銖から五銖までがあった。中に四出紋のものがあったが、それは四角い孔の四つの隅の模様が輪廓に通じているものであった[208]。さらに銭の背が四出文のものがあった。楡莢[209]は、その文は一つは「五金」といい、一つは「五朱」というが、「銖」字を分けて二つにしたものであろう。「涌金[210]」があり、「鏤金」もあった。開元銭には涌金月牙があり、さらに鏤金月牙があり、四角い穴の上に横の涌金月牙一綫があって輪廓に通じているものがある、四角い穴の下の一綫が輪廓に通じているものもあった。この家の収蔵品には、古銭だけでなく、書、画、琴および古物が、すべていささか備わっていた。士大夫は日々ここに集まり、つまらぬ客は仲間にならなかった。東平が破られた後は、古物が残っているかを知らない。
神が甄帥軍[211]を救うこと
定州[212]の帥甄全[213]は、己卯の歳[214]に北の兵[215]に攻められ、恒山の軍[216]に救いを求めたが、恒山は逗遛して進まず、全は城を越えて逃げ、北に捕らえられた。恒山は全が自分に反したと思い、甄の一族で軍中にいるものを誅し、さらに全が入った山寨を奪った[217]。寨の人々は半数が出て食糧を運んでおり、敵軍がにわかに来ると、守るものは備えがなかったので、とても多くの虜が殺された。食糧を運んでいた者は奪われたことを知らず、坦然として寨に帰ろうとしたので、恒山の軍はひそかに窺い、すべて殺してしまおうと計画した。その夜、寨に大きな青鬼が現れたが、眼は杯のようで赤く、光があった。兵士は驚き恐れて逃げ、甄たちはそのために逃れられた。
猪善友
洛西の永寧[218]の肉屋では、豚数十頭を養っていた。ある日、子弟が肉屋にどの豚を屠殺するかと尋ねると、肉屋は柵に攀じて指ししめした。豚たちは驚いて騒いだが、一頭の豚だけは平然として動かなかった。肉屋はその豚を指して言った。「この豚は食がとても細いが[219]、ながく養ってきたから、屠殺できよう。」子弟が柵に入って引くと、縛に就いたが、黙って一声も出さず、刃を刺すと、喉からは血が出ず、死にもしなかった。子弟が肉屋に話すと、肉屋はみずから刃を加えたが、手で探ると、この豚には心臓と肺臓がなかった。肉屋はおおいに驚いて悟り、神仏が化しているのだと思い、刃を地に抛ち、天地四方を拝し、転職を誓った。この豚は死ななかったので、平然として柵に入った。その後、その家は糟糠で養わず、「猪善友」と称した。閭里は喧伝し、遠くから見にくるものがいたが、みな驚嘆した。隣人が来て猪善友を食事に招くと、この豚は応諾するかのようであった。翌朝、招くものが来る前に、豚はすでにこの家の門に坐していたので、その家は食事を与えた。このようにすること三十三日、近在の民家を数遍めぐったが、墓園に蹲ると、動かなくなったので、見ると、すでに死んでいた。辛願敬之[220]が伝を作ってやった。
宮女玉真
大定年間、広寧[221]の士人李惟清元直は、女の幽霊で宋の宮人であった玉真と遇った。玉真の『楊柳枝』詞にいった。「すでに凋めば芳華はさらに留まらず、幾たびか秋を経たりし。故宮の台榭は荒邱なるのみ、振り向くに忍びんや。塞外の風霜家万里、望中[222]憂ふ。楚魂[223]湘血[224]怨みは悠悠[225]、この生休む。」詩にいった。「皓歯明眸路塵に掩はれ、落花流水幾たびか春を経にける。人間天上帰る処なく、しばしなる陽台夢裏の人。」さらに一詩にいった。「みづから憐れむ華色の鏡中に衰ふるを、かるく前歓を棄つるはもとより宜し。相逢ふも情を尽くさざるを恨まず、ただ待つ白鼠[226]の帰期を望むを。」李生はその後、庚子夏六月に、急な心臓の痛みで死んだ。遼東の人はかれのために伝を作ったが、『東都行記』の文が多いので載せない[227]。
項王廟
正隆の南征[228]のとき、烏江の項羽廟を過ぎ、妃嬪を率いて見せ、垓下のことを語ってやり、振りかえると妃たちにいった。「おまえたちの中にも虞姫のようなものがいるか。」この言葉が民間に伝わると、頚を竦めるものがいた。
広寧寺の鐘声
広寧寺に巨鐘があった。ある日、撞いても鳴らなかったが、その音が城の南にある橋の下で聞こえた[229]。通行人はそれを聞くと、みな驚き恐れた。あるひとが寺僧に告げたので、鐃鈸を用意して橋の下で迎えると、鐘がふたたび鳴った[230]。宗室の仲章が語った。
石の杭から火が出たこと
泰和八年冬、京師の大悲閣前にある幡竿をたてる石の杭の隙間から、夜な夜な火が出、四十余日してやんだ。翌年、大火で一万余軒が焼け、閣も焼かれた。衛王は命を発し、虞世南の書「千手眼大悲閣」扁額を救わせようとしたが、火気は盛んであったので、人は百歩外に離れ、近づこうとしなかったという。
永安銭
海陵の天徳初年、燕に卜宅[231]し、中都と称し、析津府を変えて大興にした[232]。工事すると時、地中から古銭を得た、文に「永安一千」とあった。朝議で瑞祥だと思い、長安の例をとり、地を永安と名づけ、東平の中都県を「汶陽」と改め、河南の永安を「芝田」といい[233]、中都の永安坊を「長寧」といった。しかしやはり「永安一千」がいつの時代に用いられた銭かは分からなかった。
最終更新日:2009年11月4日
[1]『金史』巻二十六・河東北路「代州、中。宋雁門郡防禦、天会六年置震武軍節度使。貞祐二年四月僑置西面経略司、八月罷。戸五万七千六百九十。縣五、鎮十三。」
[2]金章宗の年号。千百九十年〜千百九十六年。
[3]道観名。『金史』に六箇所見える。一例を挙げる。『金史』巻十・承安元年「九月丁丑朔、天壽節、宋、高麗、夏遣使来賀。幸天長観。」。
天長観で「災」があったという記述もある。本書の記事と関係あるか。
『金史』巻八十八・石琚「天長観災、詔有司營繕、有司闢民居以廣大之、費錢三十万貫。」。
[5]『金史』巻二十五・河北西路「沃州、上、刺史。宋徽宗升為慶源府趙郡慶源軍、治平棘。天会七年改為趙州、天コ三年更為沃州、蓋取水沃火之義、軍曰趙郡軍。後廢軍。戸三万八千一百八十五。縣七、鎮一。」
[6]ッ山は嵩山。登封県にある山。http://baike.baidu.com/view/4314.htm嵩山の最高峰である少室山に白亀泉がある。陳田夫『白亀泉』「天下白亀三処顕、怡山少室寿仙亭。我今卜築南山頂、得爾為隣祝聖齢。」
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/k72/image/04/k72s0305.html
[8]趙秉文。閑閑居士と号した。http://baike.baidu.com/view/116849.htm
[9]山名。陕西省華陰県境にある。西岳華山の北峰。
[10]「測景」とも。日の影を測り、歳時節候を推算すること。
[11]天象等の自然現象を観察して吉凶を占う人。
[12]『金史』巻二十四・中都路「中都路、遼会同元年為南京、開泰元年號燕京。海陵貞元元年定都、以燕乃列国之名、不當為京師號、遂改為中都。」
[13]計測機によってできる影の長さをいっているのであろう。
[14]『金史』巻二十四・西京路「桓州、下、威遠軍節度使。軍兵隸西北路招討司。明昌七年改置刺史。北至旧界一里半。戸五百七十八。縣一、曷里滸東川、更名金蓮川、世宗曰、「蓮者連也、取其金枝玉葉相連之義。」景明宮、避暑宮也、在涼陘、有殿、揚武殿、皆大定二十年命名。有查沙。有白濼、国言曰勺赤勒。」
[15]原文「在都西州四百里而近」。「州」が未詳。衍字か。
[16]原文「其地最高。」。標高が高いということか。未詳。
[17]昼夜の長さを百分率にして示しているのであろう。
[18]上京会寧府、天眷元年(千百三十八年)京師会寧府を上京とした。故址は今の黒龍江阿城南白城。http://baike.baidu.com/view/420153.htm
[19]『金史』巻二十四・北京路「臨潢府、下、總管府。地名西樓、遼為上京、国初因稱之、天眷元年改為北京。天コ二年改北京為臨潢府路、以北京路都轉運司為臨潢府路轉運司、天コ三年罷。貞元元年以大定府為北京後、但置北京臨潢路提刑司。大定後罷路、併入大定府路。貞祐二年四月嘗僑置于平州。有天平山、好水川、行宮地也、大定二十五年命名。有撒里乃地、熙宗皇統九年嘗避暑于此。有陷泉、国言曰落孛魯。有合裊追古思阿不漠合沙地。戸六万七千九百七。縣五、堡三十七、大定間二十四、後掾B臨潢、倚。有金粟河。」
[20]金の章宗。陵墓を道陵という。『金史』巻十二・泰和八年「乙卯、上不豫。丙辰、崩于福安殿、年四十一。大安元年春正月、諡曰憲天光運仁文義武神聖英孝皇帝、廟號章宗。二月甲申、葬道陵。」
[21]長楽川。『金史』巻十一・泰和二年「五月甲辰朔、日有食之。戊申、如泰和宮。辛亥、初薦新于太廟。壬戌、諭有司曰、金井捺b不過二三日留、朕之所止、一涼足矣。若加修治、徒費人力。其藩籬不急之處、用圍幕可也。甲子、更泰和宮曰慶寧、長楽川曰雲龍。」
[22]『金史』巻二十四・北京路「興州、寧朔軍節度使。本遼北安州興化軍、皇統三年降軍置興化縣、承安五年升為興州、置節度、軍名寧朔、改利民寨為利民縣、撥梅堅河徒門必罕、寧江、速馬剌三猛安隸。」
[23]未詳。「咬住」は金人に多い人名のようで、『金史』には数名見える。章宗朝の「咬住」が誰にあたるかは未詳。
[25]http://baike.baidu.com/view/816987.htm
『金史』巻二十五・南京路「陝州、下、防禦。宋陝郡保平軍節度、皇統二年降為防禦、貞祐二年七月陞為節鎮。戸四万一千一十。縣四、鎮七:」
[26]原文「誣此人以燒麦積」。「燒麦積」が未詳。とりあえずこう訳す。
[27]未詳。副県知事の役所か。尉は県官の副職。
[28]河南省南召県にある丹霞寺。http://baike.baidu.com/view/83424.htm
http://images.google.com/images.hl=zh-CN&q=%E4%B8%B9%E9%9C%9E%E5%AF%BA&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
[29]http://baike.baidu.com/view/140835.htm
http://maps.google.com/maps.q=%E5%B0%89%E6%B0%8F&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
『金史』巻二十五・南京路「尉氏、有恵民河、長明溝。鎮二朱家曲、宋樓。」。
[30]原文「亦縣人。」。未詳。とりあえずこう訳す。
[32]原文「大如木山」。「木山」が未詳。とりあえずこう訳す。
[33]原文「如此功縁」。「功縁」が未詳。とりあえずこう訳す。
[35]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5Zdic9EZdicAB86342.htm
原文「訪父母妻子及墊財所在」。「墊財」は埋蔵された財産。秘密の財産のありかを知っていたということであろう。
[36]未詳。
[37]『金史』巻二十六・臨洮路「鞏州、下、節度。宋通遠軍、皇統二年升軍事為通遠軍節度使。戸三万六千三百一。縣五、寨四、鎮一。」。
[38]未詳。孫が苗字であることは後ろの記述からも明らかだが、「銀」が分からない。銀匠のことか。
[39]原文「家人奔走来迓」。「家人」は趙家の人であると解す。
[40]人名と思われるが未詳。正史に見えない。
[41]原文「不須見長」。「見長」が未詳。とりあえずこう訳す。
[42]『金史』巻二十四・北京路「龍山遼故潭州廣潤軍縣故名、熙宗皇統三年廢州来屬。有榆河。寨一蘭州。鎮一漆河。」
[43]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5ZdicBCZdic82178243.htm
原文「不貴異物民乃足榜」。『書·旅獒』、「不貴異物賎用物、民乃足。」この句に関して出題がなされたのであろう。
[45]『金史』巻二十五・河北西路「沃州、上、刺史。宋徽宗升為慶源府趙郡慶源軍、治平棘。天会七年改為趙州、天コ三年更為沃州、蓋取水沃火之義、軍曰趙郡軍。後廢軍。戸三万八千一百八十五。縣七、鎮一。…贊皇」
[48]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8ZdicAFZdic97253030.htm
詩を作ったり詩を論じたりする学問。
[49]『金史』巻二十五・南京路「靈璧宋元祐元年置。鎮一西固。」。
[52]原文「官給杖印」。「杖印」が未詳。刑罰で用いる杖と官印を給うということか。
[54]『金史』巻二十六・河東北路「西河有謁泉山、比干山、文水、汾水。鎮一郭柵。…介休有介山、汾水。鎮一洪山。」。
http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&q=%E4%BB%8B%E4%BC%91&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
[55] 原文「試拈真理問南華」。未詳。「拈〜」は「〜を」の意に解す。
[56]原文「生死元如覚夢何」。未詳。人間が生まれたり死んだりするのは、昔から、夢が覚めるようなもので、どうしようもないものだという方向か。
[57]原文「古今還続死生麼」。未詳。とりあえずこう訳す。
[58]『金史』巻二十四・中都路「平州、中、興平軍節度使。遼為遼興軍。天輔七年以燕西地與宋、遂以平州為南京、以錢帛司為三司。天会四年復為平州、嘗置軍帥司。天会十年徙軍帥司治遼陽府、後置轉運司。貞元元年以轉運司併隸中都路。貞祐二年四月置東面経略司、八月罷。貢櫻桃、綾。戸四万一千七百四十八。縣五、鎮一。」。
[59]『漢書·律暦志』「日合於天統。」。これに関する問題が出されたのであろう。金代の科挙では史書からも出題された。『金史』卷五十一・詞賦進士「正隆元年、命以五經、三史正文內出題、始定為三年一闢。」「三史」とは『史記』、『漢書』、『東観漢記』。
[60]科挙に同じ試験で合格した者同士の呼称。
[61]原文「前身亦知痛而哭。」。未詳。とりあえずこう訳す。
[62]原文「令挙子」。未詳。とりあえずこう訳す。
[63]喪に服する必要がないのに深い弔意を表すこと。
[64]未詳。正史では『元史』に一箇所だけ見える。『元史』巻一百四十六・楊惟中「定宗即位、平陽道斷事官斜徹恣不法、詔惟中宣慰、惟中按誅之。金亡、其將武仙潰于ケ州、餘黨散入太原、真定間、據大明川、用金開興年號、#至数万、剽掠数千里、詔会諸道兵討之、不克。惟中仗節開諭、降其渠帥、餘黨悉平。」。
[65]『金史』巻二十五・河北西路「曲陽、劇。有常山、曲防水。鎮一龍泉。」
[66]原文「殼膜見中有二蛇」。未詳。とりあえずこう訳す。
[67]原文「川下上雷雨抜大木数千」。未詳。とりあえずこう訳す。
[68]『金史』巻二十六・大名府路「大名府、上、天雄軍。旧為散府、先置統軍司、天コ二年罷、以其所轄民戸分隸旁近總管府。正隆二年陞為總管府、附近十二猛安皆隸焉、兼漕河事。產皺、縠、絹、梨肉、櫻桃煎、木耳、硝。戸三十万八千五百一十一。縣十、鎮十三、旧有柳林、侯固二鎮。大名、倚。鎮一」。
[70]『旧唐書』巻一百六・楊国忠「自祿山兵起、国忠以身領劍南節制、乃布置腹心於梁、益間、以圖自全之計。六月九日、潼關不守。十二日凌晨、上率龍武將軍陳玄礼、左相韋見素、京兆尹魏方進、国忠與貴妃及親屬、擁上出延秋門、諸王妃主從之不及、慮賊奄至、令內侍曹大仙擊鼓于春明門外、又焚芻之積、煙火燭天。既渡渭、即令斷便橋。辰時、至咸陽望賢驛、官吏駭竄、無復貴賤、坐宮門大樹下。亭午、上猶未食、有老父獻、帝令具飯、始得食。翌日、至馬嵬。」
[71]いわゆる闕字についてのべたもの。貴人を示す言葉の上を一文字もしくは二文字分あけ、敬意を示すこと。
[72]帝王が居場所を移すこと。ここでは玄宗が安史の乱の際に蜀に逃れたこと。
[73]陝西。
[74]原文「多言屡中、仲尼所以譏子貢也。」。子貢は顔回におよばない、天命に安んぜず、利殖に励み、予想をよく的中させているということを孔子が述べている。『論語·先進』「賜不受命、而貨殖焉、億則屡中。」。
[75]原文「然世喜道其偶中、予不書可乎」。未詳。とりあえずこう訳す。たなぼたの話を聞くのを世人は喜ぶという趣旨に解す。
[76]『金史』巻二十四・西京路「宣コ州、下、刺史。遼改晉武州為歸化州雄武軍、大定七年更為宣化州、八年復更為宣コ。戸三万二千一百四十七。縣二。宣コ、旧文コ縣、大定二十九年更名。」
[77]未詳。
[78]原文「常于寺家厩舍」。「寺家」が未詳。とりあえずこう訳す。
[79]原文「飽斎。飽斎。」。未詳。とりあえずこう訳す。
[80]『金史』巻二十四・北京路「興中府、散、下。本唐營州城、遼太祖遷漢民以實之、曰/州彰武軍、重熙十一年升為府、更今名、金因之。戸四万九百二十七。縣四、鎮三。」
[81]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE4ZdicB9Zdic988713.htm
原文「乗伝之官」。「乗伝」は駅站の車に乗ること。「之官」は赴任すること。
[82]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE5Zdic8DZdic974227.htm
尚書省の別称。特に尚書省に隷属する礼部を指す。ここでは礼部によって行われる会試のこと。
[84]金代は、天会六年(千百二十八)「南北選」制を定めた。遼の旧土の儒士は詞賦を試験し、北宋の旧土の儒士は経義を試験し、「北選」「南選」と称せられたが、熙宗の時、南北選でそれぞれ経義、詞賦を試験することになった。
http://baike.baidu.com/view/5138.htm.reforce=%BF%C6%BE%D9%D6%C6%B6%C8
[85]閤門使。官名。供奉乗輿、朝会游幸、大宴引賛を掌り、親王宰相百僚藩国を引接して朝見させ、失儀を糾弾した。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic88270464.htm
http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic90Zdic88270464.htm
『金史』巻五十六・宣徽院「東上閤門使二員、正五品。明昌六年省一員、作從五品。西同。副使二員、正六品。明昌六年、省一員、西同。簽事一員、從六品、掌簽判閤門事。西同。明昌六年、以減副使置。西上閤門使二員、正五品。副使二員、正六品。簽事一員、從六品、掌贊導殿庭礼儀。西閤門餘副貳同。」。
[90]承露盤。漢の武帝の時、建章宮に建てられた。
[91]章宗のこと。『金史』巻十二・泰和八年「乙卯、上不豫。丙辰、崩于福安殿、年四十一。大安元年春正月、諡曰憲天光運仁文義武神聖英孝皇帝、廟號章宗。二月甲申、葬道陵。」。
[92]『金史』巻五十六・祕書監「書畫局…都監、正九品、二員或一員。」
[93]『金史』巻二十五・河北東路「冀州、上。宋信都郡、天会七年仍旧置安武軍節度。戸三千六百七十。縣五、鎮三。」。
[94]「半紙」は紙切れ。「半紙虚名」は史書に記された功名をいう。
[95]「棹差して武陵に帰隠する計画(を立てよう)」ということであろう。武陵は陶淵明『桃花源記』で、桃源郷があるとされているところ。
[97]『金史』巻二十五・山東東路「寧海州、上、刺史。本寧海軍、大定二十二年升為州。戸六万一千九百三十三。縣二、鎮二。」。
[99]帝王の寵幸する近臣。もっぱら顕貴な侍従の宦官を称する。
[100]現在の遼陽。『金史』巻二十四・東京路「東京路、府一、領節鎮一、刺郡四、縣十七、鎮五。皇統四年二月、立東京新宮、寢殿曰保寧、宴殿曰嘉恵、前後正門曰天華、曰乾貞。七月、建宗廟、有孝寧宮。七年、建御容殿。」。
[101]『金史』巻二十六・河東南路「陵川、有太行山、九仙山。陽城元光二年十一月升為勣州。有王屋山、濩澤。」
[102]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic85Zdic8324981.htm
旧暦正月十五日を上元節と称し、その夜を「元夕」、「元夜」、「元宵」などと称した。
[104]未詳だが、仏間であろう。
[105]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE7ZdicA5ZdicA5.htm
原文「先人会賓示之、以為文字之祥」。「文字之祥」が未詳。とりあえずこう訳す。宋李流谦『謝宇文正甫恵硯』「人言当為文字祥」。
[108]『金史』巻二十五・河北西路「永平、貞祐二年四月升為完州。」。
[110]官名。平章政事、丞相に次ぐ官。
[111]芮国公完顔合達のことか。『金史』巻一百十二・完顔合達「正大二年七月、陝西旱甚、合達斎戒請雨、雨澍、是歲大稔、民立石頌コ。延安既殘毀、合達令於西路買牛付主者、招集散亡、助其耕墾、自是延安之民稍復耕稼之利。八月、鞏州田瑞反、合達討之、諸軍進攻、合達移文諭之曰、罪止田瑞一身、餘無所問。不数日、瑞弟濟殺瑞以降、合達如約撫定一州、民ョ以寧。三年、詔遷平涼行省。四年二月、徵還、拜平章政事、芮国公。」。
[112]未詳。
[113]『金史』に二箇所名が見える。哀宗の近侍で、金の滅亡に殉じたようである。『金史』巻一百二十四・完顔絳山「三年正月己酉、蔡城破、哀宗伝位承麟、即自縊于幽蘭軒。權點檢內族斜烈矯制召承御石盞氏、近侍局大使焦春和、內侍局殿頭宋珪赴上前、曉以名分大義、及侍從官巴良弼、阿勒根文卿皆從死。斜烈將死、遺言絳山、使焚幽蘭軒。」。
『金史』巻一百三十一・宋珪乞奴「及蔡城破、哀宗自縊於幽蘭軒、珪與完顔斜烈、焦春和等皆從死。」
「近侍局大使」という官職にあったとあるが、職官志に「近侍局大使」という官名はない。近侍局提点のことか。これは五品官。
[115]『金史』巻二十四・西京路「應州、下、彰国軍節度使。戸三万二千九百七十七。縣三、金城晉故縣。有黃瓜堆、復宿山、桑乾河、渾河、崞川水、黃花城。山陰本名河陰、大定七年以與鄭州屬縣同、故更焉。貞祐二年五月陞為忠州。有黃花嶺、桑乾河。渾源晉縣、貞祐二年五月陞為渾源州。產鹽。」
[117]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE8ZdicAEZdicA6252033.htm
原文「訐告服內成親」。「服內成親」は未詳。とりあえずこう訳す。
[119]道士が天庭に上奏したり神将を征召する符籙。朱筆で青藤紙に書写するので、こう称する。緑素とも。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic9DZdic92261503.htm
[120]『金史』巻二十五・南京路「中牟、有汴河、鄭河、中牟臺。鎮四圃田、陽武、万勝、白沙鎮。」http://baike.baidu.com/view/147801.htm
http://maps.google.com/maps.hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E7%89%9F&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
[121]未詳。
[122]劉六のことであろう。
[123]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE8Zdic8DZdic90203901.htm
原文「又依例薦抜」。漢典には「薦抜」に関して「推薦提抜」とあるが、ここでは罪深い死者の救いを求めるという方向であろう。
[124]原文「栄輔作首学生魯羅児者」。「作首」が未詳。とりあえずこう訳す。
[125]徴君は徴士。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicBEZdic81121441.htm
徴士は朝廷によって召された隠者。
[126]原文「汝知毫端心、万物不可礙」。未詳。とりあえずこう訳す。筆先からほとばしり出る才思を、何ものもとどめることはできないという方向か。
[129]原文「龍盤一気雲雷定、鯨化三山草木枯。」。この詩の含意はまったく未詳。
[130]職官名。http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicAFZdic84253158.htm
『金史』巻五十六・大理寺「大理寺。天コ二年置。自少卿至評事、漢人通設六員、女直、契丹各四員。評事三員、正八品、掌同司直。明昌二年省契丹評事一員、大安二年省漢人一員。」
[131]上質な高麗紙。匹紙は匹練のような紙ということ。
http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5Zdic8CZdicB917401.htm
高麗紙は高麗産の綿や絹などを用いて作られた紙。
[132]原文「霜入詞鋒月痕缺、手中不覚風雷掣。」。未詳。詞鋒が鋭く、風雷のように激しいことをいっているか。
[133]原文「不疾而速、不行而至、汝不知之乎。」。『周易』繋辭上「唯神也、故不疾而速、不行而至。子曰、易有聖人之道四焉者此之謂也。」
[135]『金史』巻二十四・中都路「保州、中、順天軍節度使。宋旧軍事、天会七年置順天軍節度使、隸河北東路、貞元二年来屬。海陵賜名清苑郡。戸九万三千二十一。縣二。」
[136]山名。『金史』巻二十四・中都路「清苑、倚。宋名保塞、大定十六年更。有抱陽山、沉水、饋軍河。」。
[137]未詳。
[138]二つの菱形が部分的に重なった形の装身具。またそうした形。
[139]未詳。
[140]張説。燕国公であった。http://baike.baidu.com/view/119197.htm
[142]『金史』巻二十四・中都路「滿城大定二十八年以清苑縣塔院村置。」。
[145]『金史』巻二十五・河北西路「永平貞祐二年四月升為完州。」。
[146]『金史』巻二十五・河北西路「曲陽、劇。有常山、曲防水。鎮一龍泉。」。
[147]『金史』巻二十五・河北西路「永平貞祐二年四月升為完州。」。
[148]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB0Zdic8F296331.htm
児童、少年に初等教育を実施する学校。
[149]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA5ZdicB3305820.htm
女官名。文を書いたりするなどの事を掌管した。
[150]繋辞下。『易』の篇名。
[153]未詳。
[154]原文「日兼二詩、古律至十篇。」。「二詩」が未詳。毎日古詩と律詩を作ったという意味に解す。
[158]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE6Zdic9DZdic9C61394.htm
鳥名。杜宇、子規とも。古の蜀王杜宇の魂が化したものと伝える。
[159]「脱殼」は、ここでは「生まれ変わった」というぐらいの意味であろう。
[160]『金史』巻二十六・河東北路「代州、中。宋雁門郡防禦、天会六年置震武軍節度使。貞祐二年四月僑置西面経略司、八月罷。戸五万七千六百九十。縣五、鎮十三。」。
[161]未詳。
[163]未詳。
[164]王禹偁の子。『宋史』巻二百九十三・王禹偁「禹偁詞学敏贍、遇事敢言、臧否人物、以直躬行道為己任。嘗云、吾若生元和時、從事於李絳、崔間、斯無媿矣。其為文著書、多涉規諷、以是頗為流俗所不容、故屡見擯斥。所與游必儒雅、後進有詞藝者、極意稱揚之。如孫何、丁謂輩、多游其門。有小畜集二十巻、承明集十巻、集議十巻、詩三巻。子嘉祐、嘉言俱知名。」。
[165]原文「戯道判白生云」。「戯道判」が未詳。とりあえずこう訳す。
[170]『金史』巻二十六・河東北路「代州、中。宋雁門郡防禦、天会六年置震武軍節度使。貞祐二年四月僑置西面経略司、八月罷。戸五万七千六百九十。縣五、鎮十三、…繁畤貞祐三年九月升為堅州。鎮七茹越、大石、義興、麻谷、瓶形、梅、寶興。」。
[171]元好問『中州楽府』に「折治中元礼、元礼字安上、丗爲麟撫経略使、父定逺、僑居於忻、遂占籍焉。明昌五年、兩科擢弟、学問該洽、爲文有法度。仕至延安治中、死于葭州之難。」とあり、ここに出てくる「麟撫経略使」の折治中元礼のことか。「守」は地方長官のこと。
経略使は官名。http://baike.baidu.com/view/39207.htm
「麟撫」は「麟府」の誤り。「撫」と「府」は同音。「麟府」は宋代の地名。『宋史』巻八十六・河東路「府州、中、靖康軍節度。本永安軍。崇寧元年、改軍額。政和五年、賜郡名曰栄河。旧置麟府路軍馬司、以太原府代州路ツ轄領之。」。
また、『宋史』に「偽麟府路経略使」の「折可求」という人名が見える。ここに「偽」とあるのは、金に任命された官であるため、宋の立場からかく称したものであろう。『宋史』巻四百七十五・劉豫「初、偽麟府路経略使折可求以事抵雲中、左監軍撒離曷密諭可求代豫。後撻辣有歸疆之議、恐可求缺望、酖殺之。」
[172]『金史』巻七十九・列伝第十七に伝がある。
[174]父兄および先祖の事迹を記載した伝記。
[175]燕南は北京の南のこと。『金史』巻二十四・中都路「安州、下、刺史。宋順安軍治高陽、天会七年陞為安州、隸河北東路、後置高陽軍。大定二十八年徙治葛城、因陞葛城為縣、作倚郭。泰和四年改混泥城為渥城縣、来屬、八年移州治於渥城、以葛城為屬縣。戸三万五百三十二。縣三。」。
[177]原文「其居民不勝挙、聴客戸収獲、但取課而已。」。このくだり、どのような事情を述べているかが未詳。特に「不勝挙」がよくわからない。「居民」は地主、「不勝挙」は収穫量を把握できないこと、「取課」は小作料を取るという趣旨に解す。
[178]原文「此地山草根膠固」。もともと水に浸っていたところがどうして「山草根膠固」という状態であるのかが未詳。とりあえずこう訳す。
[179]『金史』巻二十五・河北西路「永平貞祐二年四月升為完州。」。
[180]「栝蔞」とも。咳止め祛痰薬として用いる。キカラスウリ。
http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicA0Zdic9D305123.htm
http://images.google.com/images.hl=zh-CN&q=%E6%A0%9D%E6%A5%BC&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
[181]囤は竹で編んだ大型の穀物入れ。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE5Zdic9BZdicA4.htm
[182]原文「日課麦皆取于此」。「日課麦」が未詳。とりあえずこう訳す。
[183]『金史』巻二十四・北京路「全州、下、盤安軍節度使。承安二年置、改胡設務為靜封縣、黒河鋪為盧川縣、撥北京三韓縣烈虎等五猛安以隸焉。貞祐二年四月嘗僑置于平州。戸九千三百一十九。縣一、安豐、承安元年十月改豐州鋪為安豐縣、隸臨潢府、二年置全州盤安軍節度使治。有黃河、黒河。」。
[184]『金史』巻二十六・河東北路「崞、有崞山、石鼓山、滹沱河、沙河。鎮一樓板。」。
[186]『金史』巻二十六・鳳翔路「平涼府、散、中。宋渭州隴西郡平涼軍節度。旧為軍、後置陝西西路轉運司、陝西東、西路提刑司。大定二十六年来屬。戸三万一千三十三。縣五、鎮五、寨一。」。
[188]『金史』巻二十六・臨洮路「臨洮府、中。宋旧熙州臨洮郡鎮洮軍節度、後更為コ順軍、皇統二年置總管府。產甘草、菴I子、大黃。戸一万九千七百二十一。縣三、鎮一、城一、堡四。」
[189]http://baike.baidu.com/view/320952.htm
http://images.google.com/images.hl=zh-CN&source=hp&q=%E8%8A%A1&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
[191]原文同じ。まったく未詳。
[193]原文「真珠粉」。未詳。
[194]『金史』巻二十六・京兆府路「鄠、有終南山、牛首山、I陂、渭水。鎮一秦渡。」。
[196]頭伏。夏至の後第三の庚の日、あるいは指従夏至の後第三の庚の日から第四の庚の日の間の十日間。http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic88Zdic9D28076.htm
[197]立秋後第一の庚の日から十日間。終伏、三伏とも。
[199]原文「中有玉蝴蝶一、高出花上、花落不著地、乗空而起。」。まったく未詳。
[200]『金史』巻二十五・山東西路「東平府、上、天平軍節度。宋東平郡、旧鄆州、後以府尹兼總管、置轉運司。產天麻、全蝎、阿膠、薄荷、防風、絲、綿、綾、錦、絹。戸一十一万八千四十六。縣六、鎮十九。」。
[202]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE6ZdicBCZdic95220659.htm
「漕運司」とも。税賦の催征、銭糧の出納を管理し、上供および漕運等事を弁理する官署あるいは官員。北宋では転運司、南宋では漕司、元代では漕運司と称した。
[205]貨幣の名。王莽が鋳造したのではないかとされている。洪遵『泉志·刀布·貨布』参照。
[206]『漢書』巻二十四下「王莽居攝、變漢制、以周錢有子母相權、於是更造大錢、徑寸二分、重十二銖、文曰、大錢五十」。
「十布」は王莽の時に鋳造された十種の貨幣の合称。大布、次布、弟布、壮布、中布、差布、厚布、幼布、幺布、小布。『漢書·食貨志下』参照。
http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE5Zdic8DZdic81326702.htm
ただ、本書にある「絲布」、「泉布」、「貨布」、「流布」は『漢書·食貨志下』には名がない。
[208]http://images.google.com/images.hl=zh-CN&lr=&um=1&sa=1&q=%E5%9B%9B%E5%87%BA%E7%B4%8B&aq=f&oq=&start=0
[209]漢代の貨幣の名。荚銭。重さ三铢、銭面に「漢興」の二字がある。
[210]未詳。陽刻をいうか。
[211]帥軍という官職名はない。将軍のことか。
[212]『金史』巻二十五・河北西路「中山府。宋府、天会七年降為定州博陵郡定武軍節度使、後復為府。戸八万三千四百九十。縣七、鎮二。」
[213]『金史』に一箇所見える。これと同一人物とおもわれる。『金史』巻十六・興定四年「夏四月庚申朔、詔御史中丞完顔伯嘉提控防城事。癸亥、安武軍節度使柴茂破紅襖賊于棗強。祁州経略使段搶破叛賊甄全于唐縣。」
[214]千二百十九年。興定三年。
[215]モンゴル軍をいうのであろう。興定三年はモンゴルが河北全域を制圧した年。
[216]恒山公武仙のことと思われる。『金史』巻十六・興定四年「八月…丙戌、以隨路諸軍戸徙河南、京東、西、南路、各設檢察使、副。恒山公武仙降大元。」。
『金史』巻一百十八「武仙、威州人。或曰嘗為道士、時人以此呼之。貞祐二年、仙率鄉兵保威州西山、附者日#、詔仙權威州刺史。興定元年、破石海于真定、宣差招撫使惟宏請加官賞、真授威州刺史、兼真定府治中、權知真定府事。遷洺州防禦使、兼同知真定府事、遙授河平軍節度使。興定四年、遷知真定府事、兼経略使、遙領中京留守、權元帥右都監。無何、封恒山公、以中山、真定府、沃、冀、威、鎮寧、平定州、抱犢寨、欒城、南宮縣隸焉。同時九府、財富兵強恒山最盛。」。
[217]原文「又劫全入頭山寨。」。「入頭」が未詳。とりあえずこう訳す。
[218]『金史』巻二十五・南京路「永寧宋隸河南府、正隆六年以前寄治於府、後即鎮為縣。有三肴山、熊耳山、嶕嶢山、天柱山、黃河、杜陽水。鎮一府店。」。
[219]原文「此猪食甚少」。「食甚少」が未詳。とりあえずこう訳す。
[220]『金史』巻一百二十七・辛愿「辛愿字敬之、福昌人。年二十五始知讀書、取白氏諷諫集自試、一日便能背誦。乃聚書環堵中讀之、至書伊訓、詩河廣頗若有所省、欲罷不能、因更致力焉。由是博極書史、作文有繩尺、詩律精嚴有自得之趣。」。
[221]『金史』巻二十四・北京路「廣寧府、散、下、鎮寧軍節度使。本遼顯州奉先軍、漢望平縣地、天輔七年升為府、因軍名置節度。天会八年改軍名鎮寧。天コ二年隸咸平、後廢軍隸東京。泰和元年七月来屬。戸四万三千一百六十一。縣三、旧有奉玄縣、天会八年改為鐘秀縣。鎮六、寨四、鎮二歡城、遼西。廣寧旧名山東縣、大定二十九年更名。有遼世宗顯陵。寨二閭城、兔児窩。」。
[223]舜の二妃である娥皇女英。尭の娘で姉妹。舜の死後、湘水に入水したという。http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE6ZdicA5Zdic9A140270.htm
かれらの涙が斑竹の斑点となったと伝えられている。
http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE6Zdic96Zdic918910.htm
斑竹は湘妃竹・湘竹などといい、その斑点が血のようだと歌った詩として、唐白居易『江上送客』詩:「杜鵑声似哭、湘竹斑如血。」がある。
[227]原文「以『東都行記』文多不載。」。「東都行記」がまったく未詳。
[228]海陵王が正隆六年(千百六十一)に宋を攻めたこと。
[229]原文「其声乃在城南橋下。」。未詳。とりあえずこう訳す。
[230]原文「具鐃鈸就橋下迎、鐘復鳴」。「具鐃鈸」という動作が何のために行われるのかが未詳。とりあえずこう訳す。
[231]占卜して建都する場所を决定すること。
[232]この部分、正史の記載と合わない。析津が大興となったのは貞元二年。『金史』巻二十四志第五「大興府、上。晉幽州、遼会同元年陞為南京、府曰幽都、仍號盧龍軍、開泰元年更為永安析津府。天会七年析河北為東、西路時屬河北東路、貞元元年更今名。戸二十二万五千五百九十二。大定四年十月、命都門外夾道重行植柳各百里。產金銀銅鐵。藥產滑石、半夏、蒼朮、代赭石、白龍骨、薄荷、五味子、白牽牛。縣十、鎮一。大興倚。遼名析津、貞元二年更今名。有建春宮。鎮一廣陽。」
[233]『金史』巻二十五・南京路「芝田宋名永安、貞元元年更。有轘轅山、青龍山。」。