続夷堅志

 

巻一

 

鎮庫の宝

越王鎔[1]は丹薬をつくりあげたが、服用するにおよばなかったため、丹薬が鎮州の庫に三百余年所蔵されていた。貞祐初年、真定元帥三喜[2]が城をすてた時、とっていった。平陽[3]にゆくと、胥莘公[4]に弾劾され、没収された。丹は汴京にはいり、豊衍庫[5]におさめられ、名を「鎮庫宝」といった。京城の変[6]の後、わたしは部主事劉卿とともにみにいったが、丹漆の櫃にいれられ、傍らに広成子[7]が道をたずねる像がえがかれていた。中にはさらに漆の盒子があり、高さは五寸、幅は三寸、盒子の蓋の上には九つの環がつくられており、外が八つで中が一つ、金が塗られ、それぞれ流道[8]がつらぬいていた。環の中にはちいさい孔がつくられていた、わたしはそれは九転[9]だとおもった。盒子の中にはさらに銀の盒子があって丹をいれてあり、盒子の蓋には仏が一体ほられ、左には龍、右には鳳が、仏座の下におり、やはりいずれも金でぬられていた。あけてみると、丹自体はことにかるく、盒子の中にみたされており、色は棗皮漆[10]のよう、ひびわれ縦横にあり、まったく今の世の丹砂とにていなかった。わたしはたいへんかるいとおもい、庫番にたずねた。「これにはどんなめずらしいことがあるのだ。」「ほかでもございません、ただ暗闇でつねに怪光を発し、火がおこっているかのようなのでございます。」壬辰の年にみずからそれをみた。

 

金獅猛

正大初年、張聖舞陽[11]県北街に客となっていた。ある日、家婢がある弓手[12]の家から牛の腎臓をかった。刀できろうとすると、刀ははいらなかった。はいでみると、石をえたが、獅子の形をしており、色は泥金[13]をぬったかのよう、前の足はまがって内側にむかい、片方の足に枕して眠っていたが、毎晩光を発していた。高さは二寸あまりであった。くすしき気を受けて化したものであろう。聖嫂の呉が手に入れたが、今でものこっているかどうかはしらない。聖がかたった。

 

康李の正夢

康伯禄、李欽叔は、壬辰冬十二月に河中[14]を巡察した。城がやぶられる一日前、康と欽叔はその神に夢のお告げをもとめた。伯禄の夢は、城がやぶられ、船をあらそって水中におちたところ、錦衣の美人にたすけられてさるというものであった。美人にたすけだされると、眼にいっぱいの桃の花がみえた[15]。欽叔は人から桃符[16]を二つもらうことを夢みたが、上に「新年に入らば、長命富貴ならん。」とかかれていた。翌日、城はおち、伯禄は船をあらそったがのれず、水におちて死に、李は船にのれ、陜県に逃げた。三四日で年があらたまった。陝県知事の楊正卿は人をつかわして桃符をおくらせたが、かかれていたことは夢の中の言葉のとおりであった。正卿がかたった

 

包家の娘がとつげたこと

世間では包希文[17]は正直で東岳速報司をつかさどっているとつたえられており、山野の小民も、みなそのことをしっている。庚子の秋、泰安で、南征した兵が一人の婦人をさらってかえったが、希文の孫娘だといい、たいへんうつくしかった。娼家は高い値でかおうとしたが、女はかたくなにゆかなかった。主家は財貨を利とし、ひどく鞭うったので、女は病気になった。隣人たちはなげきおしんだがすくえなかった。村内のある巫女がひそかに人にいった。「わたしはあの人をのがし、よい人にとつがせることができます。」すぐに主人の家へゆき、目を閉ざし、息を吐き、ながいこと屈伸し、神降ろしの動作をした[18]。まもなく、目を閉ざしてどなり、主人をよびだし、大声でののしった。主人は香火をそなえ、ひれふして罪をこい、何が神さまの怒りにふれたかをたずねた。巫はさらに大声でののしった。「わたしは速報司だ。おまえはどうしてわたしの孫娘を遊び女にしようとするのだ。十日の期限をあたえる。良家にとつがせなければ、おまえの一門をほろぼすぞ。」主家は百拝して罪をわび、数日たらずでとつがせた。

 

鉄の中の虫

わが州の会長老は、飛狐[19]の団崖[20]にすんでいた。寺にはいると、典座の僧がいった。「厨堂の大鍋は、千人に食事を出せますが、火に近づけると音がするようになり、今では二年たっています。人びとは釜が鳴るのは不吉だとおもい、すててもちいようとせず、人々の食事をつくるのが妨げられていますが、師はどうなさいます。」会はいった。「皆さんからこの大鍋をいただきましょう。わたしに処置をおまかせください。」人々は承諾した。そこで椎で釜の底を割ると、穴の中から一匹の虫をえたが、長さは二寸ばかり、色はふかい赤であった。そもそもこの虫は火をとおせば音をだすのであった。淄川[21]の楊叔能も、かつて芒山[22]均慶寺[23]のおおきな大鍋に穴があいたのをみたが、拳をあわせたかのように[24]、中に一匹の虫がおり、地虫のようであかかった。この類のものを人々はしばしばみている。魏文帝の『典論』は、火が烈しいと、物を生ずるはずはないというが[25]、常識的な論にすぎない。団崖のことは、全唯識がしるした。

 

王増寿外力

秀容[26]の東南の双堡[27]の王増寿は、外力と号し、角觝(すもう)をよくし、かなうものはいなかった。泰和末年、お上が駱駝を徴集したので、増寿は詭計をもうけ、(去声)駱駝の足に釘をさして跛にさせ[28]、羊頭村から駝を背負って代州[29]にいった。州知事はほんとうだとおもい、増寿はさらに背負ってかえった。樊帥がかたった

 

石の中の蛇蝎

泰和年間、柏山[30]の長老志賢[31]は、西京[32]の東堂[33]にすみ、常住[34]は十分であったが、すぐにすててさった。渾源[35]楽安橋[36]の山路を修理したとき、牛の心臓ほどの大きさの石を槌でわると、中に蛇がいて蠍螫をんでいたが、人はかれらがどうしてはいっていたのかわからなかった。賢はいった。「この法術はわたしも知っている[37]。怨恨が化したもので、思いにしたがってはいり[38]、千万劫をても解けないものだ。もし解けなければ、後日またわたしをみたことがあるというだろう[39]。」すぐにおおきな杖でうったが、結局、特にかわったことはなかった。全唯識がかたった

 

任氏の老夫婦

定襄[40]の沙村は、樊帥[41]のすんでいるところである。かれがいうには、村内の任実およびその妻張氏は、七十三、同年月日時にうまれ、さらに同年月日時にしんだが、古今にないことであったということである。

 

鄭叟が土禁[42]をおかすこと

平輿[43]南函頭村の鄭二翁は、気が強く、禁忌を信じなかった。泰和八年、その家の東南で工事があったが、あるひとは太いるので、おかせないといった。鄭はいった。「わたしが太なのだから、どうしてはばかることがあろう。」人夫を指揮して工事させた。地をほること二尺たらずで、婦人のあかい綉鞋一双をえた。人夫が工事をやめようとすると、鄭はいかり、とってやき、地をほろうとますますいそいだ。さらに二三尺ほると、黒い魚をえたが、すぐに料理してくらった。十日たらずで、舅姑はともになくなり、さらに長子をうしない、十余人に禍がおよび、馬は十頭、牛は四十頭、しんだりやんだりするものがつみかさなった。のこった者はおおいにおそれ、別の場所にさけたため、禍はおさまった。

 

張童が冥土にはいること

平輿南函頭村の張老は、鶉をとらえることをなりわいとし、友人たちは鵪鶉(うずら)と目していた。すでに老いており、第一子は、成童[44]であったが、ある日しんでしまった。老夫婦は自分たちはおいてたよるものがなくなったとおもい、号哭悶絶、ともにしななかったことをうらんだ。翌日うめようとしたが、それもしのびず、ただ磚をかさねて(つか)をつくり、地にいれること一二尺ばかり、「せがれよ。いきかえれ。」といった。人びとはかれらの痴態をわらったが、かなしむものもいた。三日土をかぶせ、慟哭してやまないでいると、突然墓の中からうめき声がきこえたので、老夫婦はおどろいていった。「せがれがほんとうにいきかえった。」棺の上の磚をのけ、棺をひきだし、その家にかついでかえった。子はほんとうにいきかえり、にわかに湯薬と粥をもとめた。しばらくすると、こうかたった。「はじめ人にとらえられて冥土にゆきましたが、かなしんで主人にうったえました。『父母が老いており、心配ですから、余生がつきて、葬送をおえさせてくだされば、しんでもうらみはいたしません。』冥官はたいへんあわれみ、すぐいいました。『今からおまえをかえらせるが、父親にいえ。狩りの仕事をすてることができれば、おまえの命はのばせると。』と。」その父はこの言葉をきくと、網罟[45]の類をすべてやき、子をつれて寺にはいり、仏に供え物をした。寺に呂姓のおり、年は四十たらず、容貌はたいへん立派で、かつて登州[46]で綱首[47]となった。張童はすぐすすみでて僧にたずねた。「師もいきかえったのですか。」呂はいった。「しななかった。」張童はいった。「わたしは冥土でたずねられていたとき、師が殿角の銅柱にいるのをみましたが、鉄鎖で足をしばられ、獄卒が往来し、棒で師の腋の下をつき、血が淋漓とながれていました。釈放されてかえる時に、獄卒に、呂師がどうして罪をうけたかとたずねますと、『あのものはしばしば斎主[48]の経文をとばしてよむので、この報いをうけたのです。』といっていました。」呂はそれをきくとたいへんおどろいた。そもそもかれは腋の下に漏瘡[49]をやみ、すでに三年になっていた。子供ははじめそのことをしらなかった。呂はそこで一室に潔居[50]し、日々経をとなえることを日課にしたところ、およそ三年で、瘡は平復した。趙長官はみずからそれをみた。

 

土禁二

乙巳の春、懐州[51]の花門生[52]がしもべをひきいて地を掘り、肉塊を得たが、その大きさは三四升ばかりであった。刀できると、肉は羊のようで、膜があった。しもべはいった。「土の中の肉塊を、人は太いい、みるものは不幸になりますから、掘れません。」生はいった。「わたしはいるとは思わない。」さらにほらせると、さらに二つの肉塊をえた。半年たらずで、しぬものが相つぎ、牛馬はすっかりいなくなった。古人はいった。「凶禍があるのにことさらにおかすのは、神に敵対することだ[53]。」申胡魯の隣人がみずからそれをみ、わたしにかたった。

 

熊の群れ

癸卯のはじめ、熊数十万頭が、内郷[54]、z石[55]から西南の山にはいり、口をとざしてともにすすんだ。すでにながくあるいていたので、掌からはすっかり血がでていた。つかれてしぬものがあると、熊たちはみずからくらった。州県は文書でしらせ、わたしは彰徳[56]でそれをみた。

 

刀が花を生ずること

済源[57]の関侯廟の大刀に、辛丑、突然花十茎ばかりを生じた。それぞれが指一本ほどの長さで、繊細で髪のよう、茎の色はかすかな緑で、その先端にはこまかく白い花があり、黍米[58]よりもおおきかった。わたしの同僚李慶の子正甫がわたしにかたった。

 

龍をうむこと

平定[59]の葦泊村で、乙巳夏、馬師婆という婦人が、五十歳ばかりのときに懐妊して六年あまりたっていたのが、その年はじめて一匹の龍をうんだ。官司が由来をたずねると、この婦人はかたった。懐妊して三四年たっても出産しなかったので、その夫の曹主簿は変事がおこるのをおそれ、すぐおいはらわせた。出産のとき、ぼんやりとしながらみたところ、従者がその前にならび、官府にいるかのようであった。一人がすすんでみずからのべた。「数年おあずけしましたが、今はすてさるべきです。来年おばあさんは楽になりましょう。」そういうと、白衣の人に介添えされ、門につくと、人事不省となり、しばらくするとよみがえった。傍らの人がかたるには、暗闇の中で雷が落ちること三たび、龍が婦の身からとびさり、胎児が所在をうしなったということであった。

 

蕭卞のすぐれた政績

簫卞は、貞祐年間寿州[60]の知事となった。ある日、楊津が巡邏してもどると、突然馬前の犬が尾を振ってなれさわぎ、はしったりかえりみたりし、人をみちびこうとしているかのようであった。卞が二人の隷卒をしたがわせると、すぐ西の河岸の枯井戸にゆき、頭をたれて下をみた。隷卒が近づいてみると、井戸端にかすかに血がついており、屍が中にあったので、すぐはしって卞にしらせ、地主をよんでみはらせた。犬はさらにみちびいて城にはいらせると、ある旅館をのぞみみ、ほえてやまず、うったえることがあるようであった。卞が主人をよんでくると、主人はこの犬をしっており、いった。「これは朱客がかっていたものです。数日前に西河で舟をかり、この犬をひいてゆきました。今、犬だけがきたのは、どうしてでしょうか。」卞は船頭すぐにとらえ、ともに県庁にゆき、主人に確認させた。船主と確認されたので、朱客の所在をたずねたところ、拷問をくわえないうちに、すぐ罪を認めた。さらに周立というものがおり、州の西の新寺灘[61]で薪をとっていたところ、虎にくらわれた。立の妻がないて卞にうったえると、卞はいった。「おまえのためにいってやろう。」童僕十余人をひきい、新寺灘にはしっていった。茂みの中に一頭の虎がおり、耳をたれ、目をとざし、おもむろにあるいてすすみ、鬼神がかりたてているかのようであった。卞が一矢でたおし、その腹をさくと、そっくりそのままはいっていた[62]。范司農拯がかたった。

 

土の中の血肉

何信叔は、許州[63]の人で、承安年間、進士に合格した。崇慶初年、父がなくなったため里にいた。庭で夜に光をみると、信叔は「これは宝器[64]だ。」といった。童僕をひきいてほらせると、深さ一丈あまりで、肉塊をえたが、盆盎[65]ほどの大きさであった。家人はおおいにおどろき、すぐうめるように命じた。信叔はその後病でなくなり、妻および家族十余人もあいついで歿した。識者はいった。「肉塊は、太。禍がおころうとしていたので、怪光が先にあらわれたのだ。」

 

美食の禍

燕の人である劉伯魚は、大定年間には資産が随一であった。性来豪侈で、珍味でなければ箸をくださなかった。空家に数百人[66]、すべて尚食[67]の人々を召してすまわせ、しばしば資金援助して養った。肉料理のことをたずねてしると、逐一真似したりした。おいてやむと、財産は日に日にへり、鬱鬱としてしんだ。十数年後、二児は街で乞食した。美食の禍は、耳目で見聞したものは幾人か分からない。ひとまずここにしるす。二つの事も司農がかたった。

 

京娘の墓

都転運使王寂元老の父礎は、平山[68]の知事に任ぜられていた。元老は年が二十ばかりで、はじめて受験したとき、県庁の裏庭で勉強していた。ある晩、花石の間をあるいていると、一人の娘とあったので、その姓名をたずねたところ、こういった。「前任の楊知事の娘でございます。」元老が娘の若く美しいことをよろこび、遠まわしにいどむと、女はいからないでわらったので、まじわった。後日、寒食のとき、元老は友にまねかれ、園の西の空き地で撃丸[69]した。しもべに京娘の墓をさすものがいたので[70]、元老は京娘とはだれかとたずねた。同輩はいった。「前の県令楊公のわかい娘は、字を京娘といい、年頃でしに、こちらにほうむられています。」元老は楊知事の娘ときくと、はじめていぶかった。かえって書斎に坐していると、まもなく女がき、宛転と嬌啼し、すすもうとしてはとどまり、元老にいった。「あなたはすでにわたしのことをごぞんじですから、もう何もいうことはございません。幽明は路を異にしていますから、長居するのはむずかしゅうございます。今は試験日が近づいていますが、かならず合格なさいましょう。途中いささか順調でないことがございましょうが、ご病気であろうとも、ご病気をおしてゆかれるべきでございます。遼陽の道中でおあいしましょう。」そういうとさった。元老はその後病んだので、父母は受験させようとしなかった。一月あまりしてややよくなると、元老は鋭意ゆくことを願ったので、車にのせた。途中遼河淀で、霖雨による泥濘のため、車がすすめなくなった。同行するものは馬を鞭うって出発したが、車は数里すすんだだけで軸がおれた。元老がうれえてなすすべなくしていると、突然田夫が斧を腰にし、車軸を背負ってきた。たずねると、大工であった。元老は感嘆した。「この地の前後二百里には民家がないが、今、大工とあったのは、冥界の助けではないか[71]。」軸をなおしおわると、ゆこうとしたが、にわかに一台の車がき、車の中にいる人は京娘であった。元老は驚喜していった。「あなたもこちらにきたのですか。」京娘はいった。「遼陽の道中でおあいするともうしあげたのをご記憶でございませんか。あなたに禍があることをしりましたので、なぐさめにきただけでございます。」元老はたずねた。「わたしの前途を、しることができますか。」京娘はすぐ車にのり、ただ「尚書さま。おだいじに」といっただけであった。元老は数日たらずで都に達し、合格した。明昌年間に運使[72]になり、車駕[73]が太室[74]で祭祀したとき、礼部尚書を代理し、数日で薨じた。

 

 

神霄[75]の丹宝

宣和の方士[76]は水銀をやいて金に、鋳て銭にした。神霄で鋳たものは、その文字に「神霄丹宝」とあり、五福は、「五福丹宝」とあり、太乙も同様であった[77]。汴梁が陥落すると、銭は府に帰したが、海陵[78]はそれを寵臣にたまった。えたものは帽環[79]にしたが、服すると暑気にあたらなかったという。内蔵庫使王寿孫が語った

 

[80]

西京の田叟は、みずから瓦盆子と号し、年は七十余であった。『尭民図』をつくったが、青縑を地にし、樺の皮でつくった[81]。くらい部屋にちいさい穴をつくって明かりをとり、主客で談笑した。かつてたわむれに袖の蝨数匹をとり、客の衣になげうつと、客はほんとうの蝨とおもってひろったが[82]、その技術はこのようなものであった。性格は剛直で、みずからその技術を神業とし、かるがるしく人にあたえなかった。自分がのぞまなければ、千金でもうけおわなかった。そもそも画は典籍にみえないので、この人からはじまっているのであろう。このことは平陽都運使張伯英の文にみえる。

 

枸杞

泰和初年、定陶の古城がくずれ、枸杞の根があらわれた。大きさは一尺ばかり、ふしている狗のをしており、足と尾はすべてそなわり、口にもこまかい毛があり、背には一本の枝がまっすぐでていた。県外のある農家が手に入れ、村でつたえて観賞していたが、その後、県知事にうばわれた。崔君佐はそれをみたが、ときに十五六歳であった。

 

詩讖

梁仲経は咸平[83]に赴任する道中で、詩をつくった。「山雲は雨ふらんとして花まづかなしみ、客路に人なくして鳥もかなしむ。」劉御史雲卿の詩にいった。「壊壁秋燈かきたつれば夢は破れ、老梧寒雨したたれば愁へは生ず。」李治中平甫がいった。「落葉ははらひつくせず、寒花[84]はみればたちまちしぼむ。」まもなくいずれもなくなったが、これは詩讖[85]であろう。楊敏行の『昼眠』にいう「身は蛻のごとし一榻の上、夢みれば楊花をおひて千里とぶ。」のごときは、幽鬼の言葉そのもので、どうして予言であろうか。

 

敏之兄の詩讖

敏之兄は、貞祐元年癸酉中秋の日、王元卿、田徳秀、田献卿たちをさそってともに宴会しようとしたが、その夜はくらかったのでやめにした。敏之の詩にいった。「佳辰(よきとき)なれど思ひ慰むものはなし、先にめでむなしく吟ぜし昨夜(きそ)(うた)[86]。夜ふけて坐してまつことにうむなかれ、濃き雲のしばらく晴るる時もあるべし。」王、田はたわむれた。「詩境がひろびろとしていない。きみは才がつきたか。」敏之はなげいた。「わずか三十歳で、詩境がひろびろとすることができましょうか。」翌年、城がおち、禍にあったが、年はわずか三十二であった。

 

申伯勝の詩兆

高平[87]の申万全は、字を伯勝といった。正大年間、史院[88]の編修官であったとき、宗室の慶山[89]にしたがって南征した。道中、詩をつくっていった。「ふりむけば西風のなか敝廬[90]にわかれ、崎嶇たれどさらにまた戎車[91]をおへり。人生の行方はもとよりさだまらず、一葦もて江湖をゆくにまかせたり。」数日たらずで、淮水で溺死した。

 

天慶観[92]に鶴がくだること

忻州[93]の西城は、なかば九龍岡の上にあり、宣聖廟、鉄仏寺、天慶観がおかれ、州の鎮めである。天慶観の老君殿は、尊像がきわめてたかくおおきく、唐の七帝[94]がならんでいた。父老は神がつくったものだといっていたが、晋の天福二年の重修であった。毎年二月十五日を、道家は「貞元節」と称している。その日は、鶴があつまってき、おおければ数十羽に達し、すくなくてもかならず一二羽はおり、壇や殿の上をまいとび、しばらくするとさった。州の人びとは観の傍らの城にあつまり、州の刺史は先に鶴をみたものには褒美をとらせると約束した。四方の[95]および遊客でくるものは、三日つきなかった。貞祐の兵乱で、殿がこわされると、鶴はこなくなった。

 

告成[96]の旱魃

貞祐初年、洛陽の地は夏に大旱魃となった。登封[97]の西四十里の告成では、旱魃が猛威をふるっているとつたえられていた。父老はいった。「旱魃がくるときは、かならず火の光がしたがうものだ。」少年たちに命じ、黄昏の後、たかい所にのぼってながめさせると、ほんとうに火の光が農民の家にはいったので、すぐにおおきな棒でうった。炎がとびちり、はしるような音がした。古人は「旱魃は長さが三尺、そのゆくさまは風のようである[98]。」というが、はしるときに音がすることは、のせられていない。

 

玉児(その名であろう)

太原廟学[99]にはむかし幽霊女がいた。女は宋代のある提刑[100]の妾で、正室にねたまれ、鞭うたれてしに、学校の傍らに逆さにうめられたが、そこには桑がはえていた。この鬼はときどき斎舎[101]にはいり、人と冗談を言い、たたらなかった。大定年間、数人が夜に時習斎にやどった。三更すぎ、突然、窓の外に靴音がきこえ、まもなく斎舎にはいり、ねているものたちを手であまねくうっていった。「この人は及第します。この人は及第しません。」その後いった。「おどろかないでください。おどろかないでください。」のちに、すべてその言葉のとおりとなった。学正[102]の馬持正がかたった。ねむっていたものは趙文卿、段国華、郭及之であった

 

王氏金馬

太原の王氏は、先祖が医者を生業とし、陰徳があることで、村内で有名であった。君玉の父の代になると、舅姑はいずれも神仏をうやまっていた。浄室[103]に仏像を安置し、たいへん厳重に鍵をとざし、掃除も母がみずからしていた。ある晩、部屋にはいって香をたき、経をとなえていると、突然、供物机の下からちいさい物がとびあがってでてき、光がそれにしたがっていた。まもなく、声をだしたが馬がいなないているかのようであった。母はたっていのった。「古老は金馬駒がいるとつたえているが[104]、今ほんとうにそれをみた。ほんとうに福をおくろうとしているのなら、ばばあの襟元にきておくれ。」すぐ襟元にむかえると、その物は一とびしてのぼったが、みれば、金馬[105]であった。君玉は天眷二年に合格し、器玉、君玉は、皇統元年に相ついで合格した。同郷の人はそれを誉れとし、「三桂王氏」と号し、府尹は同時にかれらがすんでいる坊を「三桂」となづけた。翁の四子のうち、三子は合格し、一子は蔭補せられた。その孫仲沢にいたり、さらに進士となり、文章、才幹、弁説、書画は、おおいに名士たちに重んじられた。金馬は大きさは三寸、金は棗瓤色、頚はかすかにたかく、尾は上にあがること艾炷のよう、髀や股はまるくなめらかであった。兵乱の後、わたしはそれをみたことがある。濬州[106]の清卿房約が『金馬辞』を賦してやった。

 

王雲鶴

王中立は、字を湯臣といい、[107]の人であった。博覧強記で、たずねるとしらないことはなかった。わかいとき『易』を研究し、場屋[108]で評判であった。家は財にとみ、賓客は日々門に満ち、接待はきわめて豪勢であった。しかしみずからは日々素の麺[109]一杯をくらうばかりであった。四十歳たらずで妻をうしなうと、結婚も受験もせず、一室に独居して僧のようにしていた。このようにして三、四年すると外にでてきた。時人はかれのいうことが高尚で、詩や絵がきわめてすぐれていたので、もののけがついているようだと感じたが、たずねてもかたらなかった。泰安初年、平定で閑閑趙公にあったところ、詩をのこしていった。「閑閑傲浪仙によせてん、むなしく詩酒にしたがひて凡[110]おつ。塵は遮断せりこしかたの路、蓬山[111]にいたらざること五百年。」そしていった。「唐の士大夫五百人は、すべて仙人がくだされたものだが、世味[112]にほだされ、まよってかえらぬものもいる、公とわたしはいずれもそれだ。」ある日、都下にき、閑閑公の家にとまった。『中秋』詩にはこうあった。「明らかにせる山河(やまかは)の影、照らしたる天地の心。人の世に昏暁[113]あれど、わが胸に古今なきなり[114]」の句があり、閑閑はおおいに優れているとした。墨汁一盂を求めたので、いったとおりにあたえた。翌朝、別れをつげずにさったが、壁に「亀鶴」の二字をのこしていた。その大きさは一丈であったが、墨汁はすべてのこっていたので、何で書いたのかわからなかった。しばらくすると、先生[115]が外からきたので、事情をたずねたが、こたえず、傍らに題していった。「天地の間の一老儒、醒むれば記さず酔ひしときの書。(かたへ)の人はあやまちて神仙の字に比すれども、神仙の字にしかざることをおそるのみ。」先生の詩には「酔袖は舞ひ天地(あめつち)の狭きを嫌ひ、詩情は狂して海山(うみやま)の平らかなるを圧したり」、「にはかにおどろく風浪の耳元をすぎたるに、神形[116]の世に来るをおぼえず」、「おんみに感じおんみとかたる機関(からくり)を明かさばわれも驚かん[117]」、といったものがたいへんおおかった。人が世外のことをたずねると、やはり逐一こたえた。大きな字をかくことをこのみ、勢いはきわめて力強かったので、閑閑はきわめて愛した。屏山[118]の李之純はかつて先生にあい、前代の人物を品評し、先儒の論議数十条を目前にひき、それぞれがたがいに論難しているようにし、その後、自分の考えで判断し、博学なもののの中で第一流であるとした。臨終のとき、あらかじめ死期をさだめ、いったとおりになくなったが、年は四十九であった。年は雲鶴と名をかえ、擬栩道人と号した。姿は世のえがく呂公のよう、肩がかすかにそびえているだけであった。

 

董国華

董文甫は、字は国華といい、潞の人で、承安年間に進士に合格した。資性淳朴、世味に淡泊で、人におもんじられていたが、なぜそのようになったかはわからなかった。子の安仁も、道をまなび、宝豊[119]に閑居していた、父子は戸を閉ざして読書し、朝晩食べるものがなくても、平然としていた。先生は金昌府[120]の判官をへて、礼部員外になった。正大年間、公務で杞県[121]にいった。みずから死期をしり、手紙を家人および同僚にかきあたえ、さらに杞の県令と詩をやりとりし、三十余首の多きにいたり、かきおわると坐化した。

 

衛文仲

衛文仲は、襄城[122]の人で、承安年間、進士に合格した。性は淡泊をこのみ、書を読み、道をまなんだので、仕官しても昇進しなかった。平素、東坡の『赤壁』詞をうたうことをこのんでいた。臨終のとき、沐浴して衣をかえ、家人をめして後事をつげ、戸をすぐとざすように命じた。牀に正座して[123]、『赤壁』詞をとなえ、さらに最期の二句をうたった。うたいおわると、怡然としてなくなった。

 

一行墓石記

劉太博機は、貞祐の兵乱の後、湖州刺史から済州[124]にうつった。民家、官舎はすべてやかれていたので、機はさらに州知事の舎宅[125]をたてた。土の(おか)ほると、たまたま古い塚にあたったが、それは唐の一行禅師の墓で、石に「劉機がわたしの墓をこわすだろう。」と記まれていた。

 

明月泉

明月泉は五台山中にある。人が泉にゆき、紗帛で目をかくしながら、下の泉水をみると、月が水中にあるのがみえるので、泉の号にしたのであった。数千百人のうち、一二人がみるのであった。大参[126]楊叔玉は、五台の人で、わたしにいった。「明月泉はわたしがみずからみたもので、伝聞ではない。」

 

石守道の心臓が石に化すること

徂徠[127]の石守道の墓は奉符[128]にある。泰和年間に墓がくずれ、孫たちは棺をそなえてほうむった。骸骨は常人とことならなかったが、その心臓だけは両手をあわせたかのようで、すでに石に化していた。

 

鼎をこわすこと

皇統年間に修[129]で、琉璃瓦をやいた。おおきな鼎をこわしたが、三日とけなかった。鼎がやぶれようとすると、雷のような音がし、三十里外にきこえた。人はいった。物がこわれるには定めがある、厄に会えば、神仙もみずからをまもることができない、この鼎だけではないと。希顔がかたった

 

田鼠

正大丙戌、内郷北山の農民は田鼠[130]が穀物をくらうことをつげた。鼠は大きさが兔のよう、十匹百匹で群れをなし、とおったところでは穀物はなくなった。猟師が数頭をいてとらえたが、重さ十余斤のものがあり、毛色は獺ににていた。このようにおおきな鼠はきいたことがない。

 

天魔がたたること

泰和末年、雷景滂は寿州防禦判官[131]に任ぜられ、弟希顔も任地にいった。官妓の香香は、魔物にたたられ、心はぼんやりとして、数日ねむっておきないこともあった。希顔はその同僚にいった。「ある婦人が天魔につかれ、仏塔の頂につれてゆかれた。婦人がほしいものをおもうと、すぐもってきた。ある日、布の幔をたらした車が塔の下をすぎると、婦人は天魔にいった。『車の中にいるのは貴い人の奥方ですから、その釵をとってきてください。』天魔はさり、しばらくするときたが、何ももっていなかった。婦人が理由をたずねると、いった。『あのかたは福のある人で、神がまもっていますから、ながめるばかりですすめないのです。』婦人はさらにたずねた。『あの人は貴人の妻なので、神がまもっているのですか。』いった。『貴人だからではなく、牛肉をくらわないからです。』婦人はすぐに発願した。『わたしがもしこの祟りをのがれれば、終生牛肉をくらわないばかりでなく、一生人にくらわないようにすすめることをちかいましょう。』はなしていると、天魔は大声でののしってさり、ふたたびこなかった。婦人は大声でさけんで救いをもとめ、その家は縄でひいておろし、結局天寿をまっとうすることができた。阿香が牛肉をくらわず、神仏の前で発願すれば、禍は近づかぬことでしょう。」同僚がその言葉をつげると、香香はすぐ発願した。十余日後、盛装し、酒をもってきて謝した。「学士さまのお教えをうけ、今は元気になりました。」

 

神哥

孫国鎮翰の一族の女には、山魈にけがされたものがいた。魈は自分からいった。「金品が不足したら、すぐもってくることができるぞ。」かつて絹をつんで庭にみたしたが、すべて真定県の倉庫の印があった。女の家は官物がみずからに累をおよぼすので、こないようにたのんだ。まもなく、絹はなくなったが、一頭の白い馬、金や宝石でかざった鞍や(くつわ)が、どこからきたものか、飼葉桶にしばられていた。家人はますますおそれ、ながいこといのると、馬は突然みえなくなった。子供たちはひそかに相談し、魈を「五郎さん」とよび、いった。「もし家に跡継ぎがいなければ、一子をもたらすことができますか。」翌朝、面目が絵のような子供が、錦繍の産着をきて、牀にふしていた。老若は拝していのり、うけることをねがわなかったが、結局のこされた。そこで「神哥」となづけたが、年が六病死した。

 

王確が兄に鞭うたれること

外祖で柔服[132]の簿であった王君は、大定年間に在任中になくなった。そのもっとも幼い弟確は、酒乱で、おさないものや身寄りのないものをしいたげていた。外祖母の張氏はすでにひさしく耐えていたが、うったえるところはなく、病んでおきられなくなった。ある晩、女たちとともにねていると、夜半に燈がくらくなり、さらさらという音がきこえた。まもなく、双陸の駒にふれてそれをみだし、嘖嘖と音をたて、何度もなげいた。外祖母はないて大声をだし、いった。「五叔[133]に酒の力をかりていじめられ、法律も制することはできません。もし禁止しなければ、母子は魚か肉のようになるでしょう[134]。」数日たらずで、確は酔ったので[135]夜に定襄に出、趙村に帰り、途中で外祖父にあったが、手を動かして大声でせめ、すぐに馬の鞭で乱打したので、確は頭をかかえてのがれ、やっと家につくことができた。火をとってみると、衫服はやぶれ、青い腫れは背にみちていた。翌日、外祖の画像の前で百拝して謝し、のちに酒ものまなくなった。

 

王全美の母の詩

定襄の王全美の母は、若いときから仏を信じ、老いると、香火をたてまつることますますまめやかであった。はじめは文字が読めなかったが、とある日、敏之兄にいった。「外甥、わたしはいいかげんに一句を作ったが、偈とみなすことができるかえ。」およそ十数句をつげたが、「天機[136]割断す繁華の夢」だけは、ほとんど知恵によってえたもののようであった[137]。母はまもなくなくなった。

 

蝨の怪

徳順[138]がやぶれたあと[139]、民家官署はすべてやかれた。城の下に、数十の投石器があり、陣中に縄を垂らしていた[140]。この縄をとこうとするものがいたが、みるとつねに一本の縄の上から下まで、おおきな蝨にびっしりつつまれており、脂蝋を燭にそそいでいるかのようであった。汴京がせめられた後もこのようであったという。動乱がきわまると、天地の間ではあらゆることがおこるのである。

 

単州[141]の民の妻

貞祐初年、虞県[142]九は、仏児堌[143]の賊鑽大怪[144]にしたがい、単父[145]で乱をなし、老若数百をとらえた。中の一人の婦人がうつくしかったので、黄はうばいとろうとした、婦はおもてむき賊にいった。「夫がまもなくきますので、一目あってから、とついでもおそくはございませんでしょう。」その夫にあうと、うばいとられたことをうったえ、九を指さし大声でののしった。賊はおおいにいかり、きりころした。きられた処は血がでず、白い(あぶら)がながれたばかりであった。冠禹冀がかたった。

 

戴十妻梁氏

戴十は、どこの人かわからない。乱の後、洛陽東南の左家荘におり、傭作をなりわいとしていた。癸卯の秋八月、一人の通事が豆畑に馬を放った。戴がおいはらうと、通事はいかり、馬の鞭で乱打してころした。妻の梁氏は屍をかついで陣中にいってうったえた。通事は貴家の奴で、主人はかれにたよっていた。そこで牛二頭、白金一笏で、梁に罪をあがなうことにし、こうかたった。「おまえの夫がしんだのも天命だ。二人の子はいずれもおさないから、金を手にいれればみずからやしなうことができよう。この人をころしても、死んだ者に益はない。」梁氏はいった。「わたしの夫は罪がなくてしんだのですから、利益は問題ではありません。こいつに命をつぐなわせることができさえすれば、わたしたち母子は乞食するにもあまんじましょう。」人々は気持ちを変えさせることはできなかったので、梁氏にいった。「みずからこの人をころすことはできまい。」梁氏はいった。「のぞむところです。」そこで刀をとり、みずからきろうとした。人々はこの婦が通事にいきどおり、うらんで、すぐにしなせないことをおそれ、仕方なくころした。梁氏は血をすくってのみ、二子をつれてさった。洛陽の翟志忠がかたった。

 

李昼が眼をやむこと

聊城[146]の李昼は二子をうんだが、一人は失明し、一人はうまれながらにして眼がなかった。李も昨年片目がひからびたので、神霄[147]の何道士をたずねて治療をもとめた。何がかれになにかやましいことをしたかとたずねると、李はいった。「わたしは神像をつくるとき、すぐに目が必要なときは、しばしば神像のこわれている処からえぐりとっていましたが[148]、そのためでしょう。」丁酉春、何は陽平にき、わたしにいった。李は費用を惜しんだために、この報いをうけたのだと。

 

人に尾がはえること

清河[149]の王博は、裁縫をなりわいとし、年は三十七であった。ある日、聊城の何道士のもとへゆき、いうには、丁酉初春、酔ってとある桃園にふしたところ、突然神を夢みたが、金甲をき、戟をもっており、傍らにくるとけっておこした。王が「何をする。」とたずねると、神はいった。「尾をもってきてやったぞ。」その後、尻の骨に痛みを感じた。数日すると、尾がはえたが、指ほどの大きさで、羊の毛をそった尾のようであった。きりとろうとすると、痛みは心髓をつらぬき、あぶってもそうであった。そこでみずから母に不孝であり、空腹にいたらせたので、この報いをうけたのだといった。人がみるたびに、痛みはすこしやんだが、そうでなければたえられなかった。そこで何をたずねて治療をもとめたが、何は手のうちようがなかったので、さった。今は新店[150]にすんでいる。何道士がいった。

 

石公の陰徳

国初、定州[151]唐県[152]の王八郎は、容姿は雄偉で、膂力は人よりすぐれていた。占い師にまどわされ、乱を起こすことをはかった。そして詭計をもうけ、同郷の人の姓名を冊子にしたが、勧誘しないうちに、人に告発された。州の将軍高某が捕縛をおこなったが、冊子にしたがって逮捕したものは、およそ数千人であった。高はすべて反逆したとみなそうとした、石公はときに都司[153]をしていたが、諌止していった。「詭計で人名を冊子にしたのですから、罪があるのは王八だけです。謀略に関与しなかったその他のものたちを、係わりあいにすることはできませんし、反逆に関与したと誣告されたものはなおさらです。」州の将軍はよろこばず、吏に命じてそのことをたださせた。吏は趣意をうけ、その罪をでっちあげた。しかし州の将軍は石公の一言で、かれをうたがい、翌日、石公をめしていった。「王八以下はみなみずから罪を認めましたぞ。おっしゃっていたことは、なんと命知らずなことでございましょう。」石公はいった。「人の冤罪をすすぐためなら、一死もおしみません。」州の将軍はしばらくするといった。「おっしゃるとおりです。かんがえなおしましょう。」翌日、すぐ石公の意見にしたがい、首魁二、三人をころし、ほかはすべて釈放し、あわせて旧い文書をとってやいた。石公の子琚は、進士となり[154]、天眷初年に第一位で合格した。大定年間、左丞相[155]で致仕した。だから石公の陰徳は、同郷の人は老若となくくわしくいえるのである。

 

馬三が嘘をついた報い

恩州[156]の劉馬三は、謀りごとによって富をえていた。かつて詭計をもちいて隣家の袁春の田をとったので、春は官にうったえた。馬三は証文をだして拠りどころにし、結局うばってしまった。春はおさまらず、日々同郷の人々いった。「あいつはあのような嘘をついたから、すでに異類になることになっている。」馬三もちかった。「おれがほんとうにおまえの田をだましとったなら、いったとおりになるだろう。」泰和二年、馬三は病死した。袁春の家では犬が数匹の子を生んだが、中の小さなぶち犬は、腹の毛が純白で、「わたしは恩州の劉馬三です」という七字が朱書されていた。馬三にはもとより敵がおおかったため、みなお金をだしてかおうとし、その後、州刺史のものになった。全州がみなそれをしったが、馬氏の子孫はその辱めにたえず、買って家にかくした。

 

白神官

鄜州の洛交[157]に、大定年間、妖人の白神官というものがおり、妖術をおこなうことができ、にわかに龍をたたせたり、袖をからげて金の手をだしたり、端坐して仏像をみせたりし、怪光は目をうばった。数百里の間のものが、みな帰依し、その考えにたがうものはいなかった。外祖父の王君は、当時この県の主簿[158]をしていたので、白神官をとらえ、あやしいことができるわけをたずねたが、すべて天神のしていることだとごまかした。しかし一甖[159]の狐涎[160]をほりあてると、神官は罪をみとめ、二百の杖うちでしんだ。県境はそのために粛然とした。その後、わたしの舅の師はふたたび洛交にいったが、外祖のときからすでに四十年たっていた。昔のことをたずねると、父老はなおはなすことができ、こうたずねた。「杖で白神官をころした王主簿さまのご子孫ですか。」

 

賈道士の前身

宣徳[161]の朝元観[162]の賈道士は、魚児泊[163]の賈大夫の子で、その前身はもともと潞州[164]人義鎮の王秀才であった。貞祐の兵乱の際、北の騎兵にとらえられたが、騎乗してよそへゆき、にげさった。しかし騎兵においつかれ、槍をその額にあてられてしんだ。しんだ後、気はそこなわれず、かえりみると二人の男がきて介添えし、諸地獄をつぎつぎにさせた。おもわずおそれると、ふたたび介添えしてだした。石橋をすぎると、蓮花の盆の中に[165]、悪血[166]の汁をたくわえ、のませようとしたが、なまぐさいと感じ、口を近づけられず、のもうとしなかった。二人の男はしいず、水中につきおとしただけであった。その後、目をあけると、この家に生をさずかったことをしった。三日で洗児し[167]、満月になると、隣人たちが祝いにき、みながみたが、言葉はださなかった。六七前世のことをかたり、すぐ出家することをもとめたので、父母はやむをえずゆるし、朝元観におくって道童にした。ある日、王秀才をとらえたものが(かん)にき、人が前世のことをかたると、とらえたものもはっきりとおぼえており、まったくあやまりがなかった。その額をみると、傷痕がまだのこっていた。

 

旬会[168]の怪

定襄の魏仲儀は、経童[169]出身で、遼陽[170]の警巡院[171]の判官をえていた。さらに詞賦挙[172]に応じようとし、同輩と夏に勉強をし、十日に一回宴会した。その中の一人の挙子が物故した。その後の旬会のとき、人々は存歿の感にうたれ、故人のために座席をもうけた。まもなく食事がき、人々が匕や箸をあげると、座席をもうけたところでもそうなった[173]。満座のものがなき、大声をだし、結局食事をやめるにいたった。

 

済源の霊験

済源廟[174]は、隋代にたてられた。廟の後ろのおおきな池を、県の人々は「湖」と目していた。酒および冥銭[175]を献じ、他にも供物があれば、すべてこの湖に投じた。毎年暮春に、紙銭の灰[176]が水底からでてくるのを、海醮といった。水がすむ時があると、池底の物がはっきりみえた。あるときは水底の酒尊、繖扇[177]が水面を浮遊するが、これを「神賜(かみのたまもの)」といって。銀杯、香合のように重いものも浮くのであった。みるものは水を囲んで立ち、物がくると、人がそれをえ、ながい網杓子でくみとり、贈り物に拝謝してさった。酒尊にはすべて年月、姓名がきざまれており、のむと往々にして味があったという。

 

最終更新日:2009824

続夷堅志

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[1]原文「越王鎔」。「趙王鎔」の誤りであろう。王鎔は度使で、趙王と称したhttp://bike.baidu.com/view/344595.htm

[2]人名と思われるが未詳。

[3]『金史』卷二十六・河東南路「平陽府、上.宋平陽郡建雄軍節度.本晉州、初為次府、置建雄軍節度使.天會六年升總管府、置轉運司.興定二年十二月以殘破降為散府.有書籍.解鹽、隰州香A卷子布、龍門椒、紫團參、甘草、蒼朮.一十三萬六千九百三十六.縣十、鎮一。」。

[4]http://bk.baidu.com/view/446941.htm。func=retitle

胥鼎。金朝の大臣。莘国公。

[5]『金史』卷五十六・三路檢察司及外路倉庫圉牧等職「南京豐衍東西庫隸運司、貞祐二年同隨朝。」

[6]未詳。千二百三十四年の金の滅亡をいうか。

[7]http://baike.baidu.com/view/302291.htm

http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicB9ZdicBF119577.htm

仙人。晋葛洪『神仙·広成子』にみえる。

[8]原文同じ。まったく未詳。

[9]http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE4ZdicB9Zdic9D296706.htm

九度錬成すること

[10]未詳。字義からして、棗の皮のような色をした漆であろう。

[11]http://baike.baidu.com/view/312904.htm

http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E8%88%9E%E9%98%B3%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十五・南京路「裕州,本方城縣,泰和八年正月陞置,以方城縣為倚郭,割汝州葉縣、許州舞陽隸焉.八千三百.縣三、鎮四:…舞陽本隸許州,泰和八年來屬.有伏牛山、馬鞍山、舞水、汝水、渫水、滍水.鎮二城、北舞.」。

[12]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicBCZdic93128399.htm

宋代の吏役の名称の一。弓箭手とも。巡捕を司った。

[13]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6ZdicB3ZdicA5312847.htm

金箔と膠水でつくった金色の料。

[14]『金史』卷二十六・河東南路「河中府、散、上.宋河東郡.舊置護國軍節度使、天會六年降為蒲州、置防禦使.天コ元年升為河中府、仍舊護國軍節度使.大定五年置陝西元帥府.十萬六千五百三十九.縣七、鎮四」。

[15]原文「美婦援出、滿眼皆桃花。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[16]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6ZdicA1Zdic83327691.htm

五代の時、桃の木の板に聯語を書き、その後き、春聯とした

[17]包拯。http://baike.baidu.com/view/1716.htm

[18]原文「作神降之態。」。「神降」が未詳。「降神」の意に解す。

[19]『金史』卷二十四・西京路「定安晉縣.有桑乾河.貞祐二年四月陞為定安州.飛狐晉縣。」

[20]『元史』・卷一百四十七・史天祥父懷コ「張致盜據錦州、從木華黎討平之.會契丹漢軍擒關肅、復利州、殺劉祿於銀治、斬首五十級、尖山、香爐、紅螺、塔山、大蟲、駱駝、團崖諸寨悉平、虜生口萬餘、得錦州舊將杜節、K軍五百人、即命統之。」

[21]http://baike.baidu.com/view/56576.htm

http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B1%B1%E4%B8%9C%E7%9C%81%E6%B7%84%E5%8D%9A%E5%B8%82%E6%B7%84%E5%B7%9D%E5%8C%BA&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十五・山東東路「淄州,中,刺史.宋淄川郡軍.一十二萬八千六百二十二.縣四、鎮六:淄川倚.有黌山、夾谷山、商山、淄水.鎮三金嶺、張店、顏神店.」。

[22]http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8D%97%E7%9C%81%E5%95%86%E4%B8%98%E5%B8%82%E6%B0%B8%E5%9F%8E%E5%B8%82%E8%8A%92%E5%B1%B1%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』南京路「永城興定五年十二月升為永州,以下邑、碭山、酇縣隸焉.有芒山、汴河.鎮一保安」。

[23]http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/k72/image/09/k72s0836.html

[24]原文「如合拳」。未詳。「まったくおなじように」という意味か。とりあえずこう訳す。

[25]原文「魏文帝『典論』以為火性酷烈、理無生物」。『典論』にこうした記述は見えない。

[26]http://baike.baidu.com/view/557593.htm

山西省忻州市の旧称。

[27]http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B1%B1%E8%A5%BF%E7%9C%81%E5%BF%BB%E5%B7%9E%E5%B8%82%E5%BF%BB%E5%BA%9C%E5%8C%BA%E5%8F%8C%E5%A0%A1&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[28]一時的にびっこにさせ、徴集を免れようとしたということか。

[29]http://baike.baidu.com/view/1752645.htm

http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E5%BF%BB%E5%B7%9E%E5%B8%82%E4%BB%A3%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十六・河東北路「代州,中.宋雁門郡防禦,天會六年置震武軍節度使.貞祐二年四月僑置西面經略司,八月罷.五萬七千六百九十.縣五、鎮十三」。

[30]渾源県にある寺の名。

http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/k135/image/05/k135s0359.html

[31]後ろの「楽安橋」に関する参照。

[32]遼の重熙十三年、雲州大同府とし、西京と称し、金代になっても改めなかった。http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE8ZdicA5ZdicBF104358.htm

[33]未詳。

[34]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE5ZdicB8ZdicB833115.htm

僧、道は寺舎、田地、什物等常住物と称し、常住と称する。

[35]http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B1%B1%E8%A5%BF%E7%9C%81%E5%A4%A7%E5%90%8C%E5%B8%82%E6%B5%91%E6%BA%90%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十四・西京路「應州,下,彰國軍節度使.三萬二千九百七十七.縣三:金城晉故縣.有瓜堆、復宿山、桑乾河、渾河、川水、花城.山陰本名河陰,大定七年以與鄭州屬縣同,故更焉.貞祐二年五月陞為忠州.有花嶺、桑乾河.渾源晉縣,貞祐二年五月陞為渾源州.鹽.」

[36]http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/k135/image/05/k135s0361.html

[37] 原文「此在吾法」。未詳。とりあえずこう訳す。

[38] 原文「隨想而入」。未詳。とりあえずこう訳す。

[39] 原文「他日亦道曾見我來」。未詳。とりあえずこう訳す。

[40]http://baike.baidu.com/view/644767.htm

http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E5%AE%9A%E8%A5%84%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十六・河東北路「晉州.興定四年正月以壽陽縣西張寨置.忻州,下,刺史.舊定襄郡軍.三萬二千三百四十一.縣二、鎮四:秀容有程候山、雲母山、忻水、滹沱水.鎮四忻口、雲、徒合、石嶺.」

[41]『遺山先生集』卷第九『哭樊帥』詩あり。「自倚沈冤有舌存、爭教無路叩天閽。裝囊已竭千金賜、幕誰招萬裏魂。東道漫悲梁苑客、南園多負壽張孫。春風花落歌聲在、夢裏能來共酒尊。」。

また、『遺山先生集』卷第三十四に『樊侯壽冢記』があり「知郡定襄樊侯天勝」という言葉が見える。この人物か。

[42]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5Zdic9CZdic9F319939.htm

土を動かしてはならないという禁忌。

[43]http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8D%97%E7%9C%81%E9%A9%BB%E9%A9%AC%E5%BA%97%E5%B8%82%E5%B9%B3%E8%88%86%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[44]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic88Zdic90306997.htm

齢がやや大きな児童。八以上であるとも、十五以上であるともいう。

[45]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE7ZdicBDZdic91237302.htm

及び捕鳥獣をとらえる道具。

[46]http://baike.baidu.com/view/708394.htm

『金史』卷二十五・山東東路「州,中,刺史.宋東牟郡.五萬五千九百一十三.縣四、鎮二」

[47]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicBAZdicB2206860.htm

運をつかさどる商人のかしら。運は運輸の隊伍をいう。

http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicBAZdicB2206866.htm

[48]http://www.zdic.net/cd/jd/10/ZdicE6Zdic96Zdic8B72185.htm

僧侶、道士の施主。

[49]http://www.zdic.net/cd/ci/14/ZdicE6ZdicBCZdic8F145539.htm

未詳だが、膿が漏る病気であろう。漢典が痔瘻の意とするのは不完全。

[50]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6ZdicB4Zdic81155365.htm

独居すること。

[51]http://bk.baidu.com/view/596916.htm

『金史』卷二十六・河東南路「懷州、上.宋河郡防禦、天會六年以與臨潢府懷州同、加「南」字、仍舊置沁南軍節度使、天コ三年去「南」字.皇統三年閏四月置沁河堤都大管勾司.大定五年置行元帥府.興定五年置招撫司.八萬六千七百五十六.縣四、鎮六」。

[52]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE9Zdic97ZdicA8337508.htm

門生は、ここでは門客、幕僚のこと。

[53]原文「有凶禍而故犯之、是與神敵也。」。出典未詳。

[54]http://baike.baidu.com/view/144394.htm

http://maps.google.com/maps,q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8D%97%E7%9C%81%E5%8D%97%E9%98%B3%E5%B8%82%E5%86%85%E4%B9%A1%E5%8E%BF&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十五・南京路「南陽有豫山、百重山、豐山、梅溪水、白水、清泠水.鎮一張村.內鄉有高前山、熊耳山、水、菊水、淅水、富水.鎮一峽口.」

[55]『金史』卷二十五・南京路下蔡有z石山、潁水、淮水.蒙城宋隸亳州,國初來屬.有狼山、渦水.鎮一蒙館.

[56]http://baike.baidu.com/view/1321371.htm

『金史』卷二十五・河北西路「彰コ府,散,下.宋相州鄴郡彰コ軍節度,治安陽.天會七年仍置彰コ軍節度,明昌三年陞為府,以軍為名.七萬七千二百七十六.縣五、鎮五」。

[57]http://b.baidu.com/view/3695.htm

『金史』卷二十六・河東南路「孟州,上.宋濟源郡節度,天會六年降河陽府為孟州,置防禦,守盟津.宣宗朝置經略司.四萬一千六百四十九.縣四、鎮二。河陽倚.有嶺山、河、湛水、同水.鎮二縠羅、沇河.王屋有王屋山、天壇山、析城山、河.濟源有太行山、孔山、濟水、湨水、沁水.」

[58]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE9ZdicBBZdic8D64662.htm

糯米。

[59]『金史』卷二十六・河東北路「平定州,中,刺史.本宋平定軍,大定二年升為州.興定二年為防禦,十一月復降為刺郡.一萬八千二百九十六.縣二、鎮三。平定倚.有浮山、浮濼水.鎮二承天、東百井.樂平興定四年正月升為州.有樂平山、清漳水.鎮一凈陽.」

[60]『金史』卷二十五・南京路「壽州、下、刺史.宋隸壽春府、貞元元年來屬、泰和六年六月升為防禦.八千六百七十七.縣二、鎮一」。

[61]未詳。

[62]原文「環故在身。」。まったく未詳。とりあえずこう訳す。

[63]『金史』卷二十五・南京路「許州、下、昌武軍節度使.宋潁昌府許昌郡忠武軍.四萬五千五百八十七.縣五、鎮七。」

[64]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicAEZdic9D126563.htm

ひろく珍な器物を指す

[65]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7Zdic9BZdic86182777.htm

盆と盎。やや大きな容器をひろくさす。

[66]原文「閑舎數百人」。「閑舎」が未詳。とりあえずこう訳す。

[67]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicB0Zdic9A107813.htm

官名。帝王の膳食をつかさどる。金元尚食局属宣徽院。后用以指御膳。

[68]『金史』・卷二十五・河北西路「真定倚.有大茂山、滋水、滹沱水.城有滋水、滹沱水.平山」

[69]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic87ZdicBB152205.htm

[70]原文「僕有指京娘墓窩場者」。「墓窩場」は未詳だが、墓のことであろう。

[71]原文「非陰相耶」。「陰相」は未詳だが、訳文の意味であろう。

[72]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE8ZdicBFZdic9051077.htm

官名。水運使、運使、運使等の称。

[73]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE8ZdicBDZdicA622454.htm

帝王の乗る。また、帝王の代称。

[74]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicAA313391.htm

廟の中央の部屋、太をも指す。

[75]神霄宮のことであろう。道観の名。『宋史』卷二十一・政和七年「辛未、改天下天寧萬壽觀為神霄玉清萬壽宮.乙亥、幸上清寶籙宮、命林靈素講道經.」

[76]原文「宣和方士」。未詳。とりあえずこう訳す。宣和年間の方士ということか。

[77]原文「五福者、曰、五福丹寶、太乙者、亦如之。」。「五福宮」「太乙宮」などという道観のことと想像されるが未詳。

[78]http://baike.baidu.com/view/60107.htm

[79]冠帽後部の飾り。周汛編著『中国衣冠服飾大辞典』九十頁参照。

[80]山楸。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE6ZdicA7Zdic84.htm

[81]原文「青縑為地、樺皮為之。」。前後との脈絡が未詳。縑はかとりぎぬ。

[82]原文「嘗戲于袖中搯蝨數枚、亂擲客衣上、客以為真蝨而拾之」。未詳。とりあえずこう訳す。「真蝨」は「田叟の真作の蝨」という意味であれば、一応意味は通るが。

[83]『金史』卷二十四・咸平路「咸平府,下,總管府,安東軍節度使.本高麗銅山縣地,遼為咸州,國初為咸州路,置都統司.天コ二年八月,陞為咸平府,後為總管府.置遼東路轉運司、東京咸平路提刑司.五萬六千四百四.縣八:平郭倚,舊名咸平,大定七年更.」

[84]http://www.zdic.net/cd/ci/12/ZdicE5ZdicAFZdic92316911.htm

寒冷な時に開く花。多くは菊花を指す。

[85]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE8ZdicAFZdic97254173.htm

作った詩が後に生する事を予言していること。

[86]原文「先賞空吟昨夜詩」。未詳。十四日の月を賞でる歌を作ったが、十五夜の月が見られなければそれも空しいという趣旨か。

[87]http://baike.baidu.com/view/166871.htm

http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E9%AB%98%E5%B9%B3%E5%B8%82&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十六・河東南路「澤州,上,刺史.宋高平郡.天會六年以與北京澤州同,加「南」字,天コ三年復去「南」字.貞祐四年隸潞州昭義軍,後又改隸孟州.元光二年升為節鎮,軍曰忠昌.五萬九千四百一十六.縣六、鎮二。高平有頭顱山、米山、丹水.沁水有鹿臺山、沁水、馬邑山.」

[88]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE5Zdic8FZdicB2110743.htm

[89]『金史』卷一百十六・承立慶山奴「族慶山奴名承立、字獻甫、統軍使山之子、平章白撒之從弟也.為人儀觀甚偉、而恇怯無所有.至寧初、宣宗自彰コ赴闕、慶山奴迎見于臺城.宣宗喜、遣先還中都觀變.宣宗既即位、以承立為西京副留守、權近侍局直長、進官五階、賜錢五千貫、且詔曰、汝雖授此職、姑留侍朕、遇闕赴之、仍給汝副留守祿.此朕特恩、宜知悉也。貞祐初、遷武%軍副都指揮使、兼提點近侍局、胡沙虎專權僭竊、嘗為宣宗言之、後胡沙虎伏誅、慶山奴愈見寵幸、以為殿前右副都點檢.三年、大元兵圍中都、詔以慶山奴為宣差便宜都提控、率所募兵往援.俄為元帥右都監、行帥府事、兼前職.」

[90]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE6Zdic95Zdic9D281585.htm

ぼろや。自分の家を謙遜してもいう

[91]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE6Zdic88Zdic8E78327.htm

[92]『宋史』・卷七・祥符二年「冬十月癸未、優賞寧朔軍士.戊子、詔江、浙運H兵卒經冬停役兩月.甲午、詔天下置天慶觀.」元好問に『忻州天慶観重建功コ記』あり。

[93]http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E5%BF%BB%E5%B7%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十六・河東北路「晉州.興定四年正月以壽陽縣西張寨置.忻州,下,刺史.舊定襄郡軍.三萬二千三百四十一.縣二、鎮四。秀容有程候山、雲母山、忻水、滹沱水.鎮四忻口、雲、徒合、石嶺.」

[94]唐七聖。、代宗、コ宗、、穆宗、敬宗。

http://www.zdic.net/cd/ci/2/ZdicE4ZdicB8Zdic836300.htm

[95]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9ZdicBBZdic84316512.htm

道士の冠。道士をもさす。

[96]

http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8D%97%E7%9C%81%E9%83%91%E5%B7%9E%E5%B8%82%E7%99%BB%E5%B0%81%E5%B8%82%E5%91%8A%E6%88%90%E9%95%87&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[97]http://baike.baidu.com/view/31545.htm

http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8D%97%E7%9C%81%E9%83%91%E5%B7%9E%E5%B8%82%E7%99%BB%E5%B0%81%E5%B8%82&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十五・南京路「澠池有天壇山、廣陽山、河、澠河.登封有太室山、箕山、陽城山、少室山,宣宗置御寨其上.舊有潁陽鎮,後廢.」

[98]『神異·南荒』「南方有人、二三尺、袒身而目在上、走行如。」

[99]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5ZdicBAZdic99216676.htm

内に設けられた学校をいう。

[100]官名。http://baike.baidu.com/view/59798.htm。func=retitle

[101]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic96Zdic8B53537.htm

学舎。

[102]文官名。http://baike.baidu.com/view/903113.htm

[103]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic87Zdic80358178.htm

清潔な部屋(多くは和尚あるいは尼の住室を指す。)

[104]原文「古老傳有金馬駒」。未詳。金代、こうした伝説があったものか。

[105]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9Zdic87Zdic91262087.htm

金製の

[106]『宋史』卷八十六・河北路「濬州、平川軍節度.本通利軍.端拱元年、以滑州黎陽縣為軍.天聖元年、改通利為安利.四年、以%%縣隸軍.熙寧三年廢為縣、隸%州.元祐元年復為軍.政和五年升為州、號濬川軍節度、改今額.崇寧三千一百七十六、口三千二百二.縣二%、上.熙寧六年、廢為鎮入黎陽.後復.黎陽.中.」

[107]http://baike.baidu.com/view/409435.htm

http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B1%B1%E8%A5%BF%E7%9C%81%E5%BF%BB%E5%B7%9E%E5%B8%82%E5%B2%A2%E5%B2%9A%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十六・河東北路「岢嵐州,下,刺史.本宋岢嵐軍,大定二十二年為州,貞祐三年九月升為防禦,四年正月升為節鎮,五月復為防禦.五千八百五十一.縣一、堡一」。

[108]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic9CZdicBA95184.htm

の試験場、科場とも

[109]原文「淡湯餅」。湯餅は麺。淡湯餅は素の麺であろう。

http://images.google.com/images.hl=zh-CN&q=%E6%B1%A4%E9%A5%BC&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

http://baike.baidu.com/view/1217011.html

[110]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5Zdic87ZdicA165248.htm

仏家、道家、神仙などの世俗との

[111]http://www.zdic.net/cd/ci/13/ZdicE8Zdic93ZdicAC200673.htm

蓬莱山。

[112]http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8Zdic9616397.htm

功名宦情をいう。

[113]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE6Zdic98Zdic8F294928.htm

明と暗。昼と夜。

[114]原文「人世有昏曉、我胸無古今」。未詳。人の世では朝になった晩になったとあくせくしているが、自分は古今の時間を超越しているという趣旨か。

[115]原文同じ。文脈からして王中立をさしていよう。

[116]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE7ZdicA5Zdic9E165881.htm

精神と形体。

[117] 原文「鑿破機關我亦驚」。未詳。とりあえずこう訳す。

[118]未詳。

[119]http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8D%97%E7%9C%81%E5%B9%B3%E9%A1%B6%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%AE%9D%E4%B8%B0%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十五・南京路「汝州,上,刺史.宋臨汝郡陸海軍節度,國初為刺郡,貞祐三年八月升為防禦.三萬五千二百五十四.縣四、鎮二。梁有霍陽山、崆峒山、紫邏山、汝水、廣潤河.正隆六年,環汝州百五十里州縣商賈,赴湯置市.郟城宋隸許州.有汝水、扈澗河.鎮一道.魯山有堯山、滍水、鴉河.寶豐有豢龍城.鎮一汝南.」

[120]『金史』・卷二十五・南京路「河南府、散、中.宋西京河南府雒陽郡.初置コ昌軍、興定元年八月升為中京、府曰金昌.五萬五千六百三十五.縣九、正隆郡志有壽安縣、紀皆無.鎮四」。

[121]http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E6%9D%9E%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[122]http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8D%97%E7%9C%81%E8%AE%B8%E6%98%8C%E5%B8%82%E8%A5%84%E5%9F%8E%E5%8E%BF&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十五・南京路「襄城本隸汝州,泰和七年來屬.鎮一潁橋.」

[123]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic8DZdicB1328340.htm

両膝を地に着け、上半身を立てること。また身を正して坐することをひろくさす。

[124]『金史』卷二十五・山東西路「濟州、中、刺史.宋濟陽郡、舊治鉅野、天コ二年徙治任城縣、分鉅野之民隸嘉祥、鄆城、金三縣.四萬四百八十四.縣四、鎮二。」

[125]原文「州宅」。未詳。とりあえずこう訳す。

[126]http://www.zdic.net/cd/ci/3/ZdicE5ZdicA4ZdicA7107047.htm

参政の称。参政は官名。

[127]山名。『金史』・卷二十五・山東西路「泰安州、上、刺史.本泰安軍、大定二十二年升.三萬一千四百三十五.縣三、鎮二。奉符倚.有泰山、社首山、龜山、徂徠山、亭亭山.有汶水、梁水.鎮二太平、靜封.」

[128]『金史』卷二十五・山東西路「泰安州、上、刺史.本泰安軍、大定二十二年升.三萬一千四百三十五.縣三、鎮二。奉符倚.有泰山、社首山、龜山、徂徠山、亭亭山.有汶水、梁水.鎮二太平、靜封.」

[129]http://b.baidu.com/view/654356.htm

官名。殿、太廟の務をつかさどる

[130]http://baike.baidu.com/view/128851.htm

http://images.google.com/images.hl=zh-CN&q=%E7%94%B0%E9%BC%A0&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

[131]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE5Zdic88ZdicA4322935.htm

『金史』卷四十二志第二十三・外官{從司屬令、親王府文學、招討司勘事官、諸縣令、警巡副使、知城堡寨鎮、從七品、鹽判、同提舉上京皇城、節鎮軍都指揮使、都巡河、同七品酒使、防禦判官、六人.

[132]『金史』・卷二十四・西京路「柔服夾山在城北六十里.鎮一寧仁、舊縣也、大定後廢為鎮.雲川本曷董館、後陞為裕民縣、皇統元年復廢為曷董館、大定二十九年復陞、更為今名.」

[133]王確は五番目の弟なのであろう。「叔」は義弟のこと。

[134]原文「母子將為魚肉矣」。http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE9ZdicB1ZdicBC343614.htm

「魚肉」は侵害をうける者の比喩。

[135]原文「確承醉」。まったく未詳。とりあえずこう訳す。

[136]http://www.zdic.net/cd/ci/4/ZdicE5ZdicA4ZdicA997691.htm

天の機密をいう。また天意のこと。

[137]原文「殆似從慧中得之」。「慧中」が未詳。とりあえずこう訳す。

[138]『金史』・卷二十六・鳳翔路「コ順州、上、刺史.宋コ順軍、國初隸熙秦路、皇統二年升為州、大定二十七年來屬.貞祐四年四月升為防禦、十月升為節鎮、軍曰隴安.三萬五千四百四十九.縣六、寨四、堡一:舊有上接鎮、通安寨、王家城、牧龍城、同家堡、後廢.」

[139]『金史』・卷十七本紀第十七・正大四年「三月、簽勞效官充軍、有怨言、不果用.以銀贖平陽虜獲男女、分賜官軍者聽自便.大元兵平コ順府、節度使愛申、攝府判馬肩龍死之.大元兵復下平陽.己巳、二倍.」

[140]原文「垂索故在營中。」。未詳。とりあえずこう訳す。

[141]『金史』・卷二十五・南京路「單州、中、刺史.宋碭郡、貞祐四年二月升為防禦、興定五年二月置招撫司、以安集河北遺黎.六萬五千五百四十五.縣四」。

[142]未詳。金代、虞県という県なし。虞城のことか。

『金史』卷二十五・南京路「虞城有孟諸藪.」

[143]地名と思われるが未詳。

[144]鑽大怪は人名と思われるが未詳。

[145]http://baike.baidu.com/view/18327.htm

http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E5%96%AE%E7%88%B6&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十五・南京路「單州,中,刺史.宋碭郡,貞祐四年二月升為防禦,興定五年二月置招撫司,以安集河北遺黎.六萬五千五百四十五.縣四:單父有棲霞山、泡溝.」

[146]http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E8%81%8A%E5%9F%8E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十五・山東西路「博州,上,防禦.宋博平郡.八萬八千四十六.縣五、鎮十一。聊城倚.有山、河、金沙水.鎮二王館、武水.」

[147]神霄宮と思われる。道観名。前注参照。

[148]原文「某生塑神像、急須用目睛、則往往就神像摧塌處剜取之」。壊れた神像から玉眼を抉り取っていたということであろう。玉眼は中国にもあり、塑像で用いられた。呉山主編『中国工芸美術大辞典』三百九十六頁参照。

[149]『金史』卷二十六志第七・大名府路「恩州、中、刺史.宋清河郡軍事、治清河、今治亭.九萬九千一百一十九.縣四、鎮六:…清河有永濟渠、漳渠.」

[150]未詳。

[151]http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E4%BF%9D%E5%AE%9A%E5%B8%82%E5%AE%9A%E5%B7%9E%E5%B8%82&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[152]http://baike.baidu.com/view/640897.htm

http://maps.google.com/maps,q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B2%B3%E5%8C%97%E7%9C%81%E4%BF%9D%E5%AE%9A%E5%B8%82%E5%94%90%E5%8E%BF&hl=zh-CN&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

[153]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE9Zdic83ZdicBD352941.htm

都指使司、一地方の政を掌管する官署

[154]原文「業進士」。「業」が未詳。http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE4ZdicB8Zdic9A.htm

[155]http://baike.baidu.com/view/551138.htm

[156]『金史』卷二十六・大名府路「恩州、中、刺史.宋清河郡軍事、治清河、今治亭.九萬九千一百一十九.縣四、鎮六。」

[157]『金史』卷二十六・鄜延路「鄜州、下.宋洛交郡康定軍節度、國初因之、置保大軍節度使.六萬二千九百三十一.縣四、鎮一。」

[158]官名。http://www.zdic.net/cd/ci/5/ZdicE4ZdicB8ZdicBB8838.htm

[159]http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE7ZdicBDZdic82.htm

腹が大きく口が小さい瓦器。

[160]http://www.zdic.net/cd/ci/11/ZdicE9Zdic87Zdic8E202433.htm

野狐涎。壷に肉を入れ、野外に置き、そこに狐が垂らした涎。人に食べさせると人を惑わすことができるという

[161]『金史』・卷二十四・西京路「宣コ州、下、刺史.遼改晉武州為歸化州雄武軍、大定七年更為宣化州、八年復更為宣コ.三萬二千一百四十七.縣二」

[162]http://baike.baidu.com/view/959932.html

[163]地名。魚児濼、魚濼とも。光緒九年『畿輔通志』巻六十五・輿地二十・山川九参照。

[164]http://baike.baidu.com/view/802745.htm

『金史』卷二十六・河東南路「潞州,上.宋隆コ府上黨郡昭コ軍節度使.天會六年,節度使兼潞南遼沁觀察處置使.七萬九千二百三十二.縣八、鎮四」

[165]原文「蓮花盆子」。未詳。蓮華の形をした盆か、蓮華を盆として使っているのか。とりあえずこう訳す。

[166]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE6Zdic81ZdicB6162293.htm

後子内にっている血。

[167]http://www.zdic.net/cd/ci/9/ZdicE6ZdicB4Zdic973198.htm

旧俗、児が出生後三日あるいはその身を洗うこと。

[168]後ろを読むと分かるが、十日ごとに行われる宴会のこと。

[169]http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE7ZdicBBZdic8F219299.htm

金に童科があり、士庶の子で、十三歳以下、二大、三小経を暗誦でき、さらに『論語』、五千字以上暗誦し、府試の十五題のうち十三以上で合格し、会試の四十五のうち四十一題以上合格したものが、合格となった

[170]http://maps.google.com/maps,hl=zh-CN&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%BE%BD%E5%AE%81%E7%9C%81%E8%BE%BD%E9%98%B3%E5%B8%82&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

『金史』卷二十四・東京路「遼陽府,中,東京留守司.本渤海遼陽故城,遼完葺之,郡名東平.天顯三年,陞為南京,府曰遼陽.十三年,更為東京.太宗天會十年,改南京路平州軍帥司為東南路都統司之時,嘗治於此,以鎮高麗.後置兵馬都部署司,天コ二年,改為本路都總管府,後更置留守司.白兔、師姑布、鼠毫、白鼠皮、人參、白附子.四萬六百四.縣四、鎮一。遼陽倚.東梁河,國名兀魯忽必剌,俗名太子河.」。

[171]http://baike.baidu.com/view/991866.htm

官名。『金史』卷五十七・諸節鎮防禦刺史縣鎮等職参照。

[172]『金史』卷五十一・進士諸科「金設科皆因遼、宋制、有詞賦、經義、策試、律科、經童之制.海陵天コ三年、罷策試科.世宗大定十一年、創設女直進士科、初但試策、後搦侍_、所謂策論進士也.明昌初、又設制舉宏詞科、以待非常之士.故金取士之目有七焉.其試詞賦、經義、策論中選者、謂之進士.律科、經童中選者、曰舉人.」。

[173]原文「而設位者亦然」。未詳。とりあえずこう訳す。

[174]『元史』・卷十一・至元十八年「三月丙申朔、車駕還宮.詔三茅山三十八代宗師蔣宗瑛赴闕.遣丹八八合赤等詣東海及濟源廟修仏事.以中書右丞、行江東道宣慰使阿剌罕為中書左丞相、行中書省事、江西道宣慰使兼招討使也的迷失參知政事、行中書省事.以遼陽、懿、蓋、北京、大定諸州旱、免今年租之半.戊戌、許衡卒.己亥、敕平隸安西行省、鎮遠隸潭州行省、各遣兵戍守.甲辰、命天師張宗演即宮中奏赤章于天七晝夜.丙午、車駕幸上都.丙辰、陞軍器監為三品.辛酉、立登聞鼓院、許有者撾鼓以聞.」

[175]http://www.zdic.net/cd/ci/10/ZdicE5Zdic86ZdicA5212268.htm

人のために焚く紙銭

[176]http://www.zdic.net/cd/ci/7/ZdicE7ZdicBAZdicB8236971.htm

紙銭を焼いた灰。

[177]http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE4ZdicBCZdic9E90726.htm

種の儀仗。ともに長い柄があり、上端は形と扇形になっている。

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