張国賓撰
楔子
（正末が孛老に扮し、旦とともに登場）
（正末）わたしは絳州龍門鎮大黄荘の者にして、姓は薛、人はみなわたしを薛大伯と呼ぶ。四人家族で、女房は李氏、一人息子の薛驢哥は、学名を仁貴ともうし、その嫁は柳氏ともうす。われらはもとは農民なれど、わが息子薛驢哥は、農民の暮らしをしようとはせずに、毎日ひたすら槍を突き、棒を弄び、武藝とやらを習っておる。女房よ、息子はどこへいったのだ。
（卜児）お爺さん、息子は街へゆきました。
（正末）あいつが来たら、わしに会わせよ。
（冲末が薛仁貴に扮し登場、詩）馬は鞍、将軍は袍を掛け、柳梢の門外[1]に月こそ高けれ。男児は王侯の印を帯びんと欲せば、腰にはつねに血を帯びし刀を懸くべし。
わたしは薛仁貴、年は二十二、絳州は龍門鎮大黄荘に居住して、両親は家に在します。わたしは百姓暮らしをしようとはせずに、毎日ひたすら槍を突き、棒を弄び、弓と矢を練習している。十八般の武藝のなかで、せぬものはなく、知らぬものはない。日ごとこの川べりで雁を射ているが、絳州で黄榜[2]が出て、義軍の兵士を募集しているとのことだ。わたしは義軍に投じよう。今から家に帰って、父上母上に申し上げ、長旅に出ることにしよう。入り口に着いたわい。（会う）父上さま、母上さま、わたしは家にまいりました。
（正末）息子よ、どこにいっていたのだ。
（薛仁貴）父上さま、母上さまはご存知ございますまいが、こたび、絳州は黄榜を出し、義軍の兵士を募っております。わたしは武藝十八般と、満腹の兵書を学んでおりますから、一心に義軍に投じようと思いますが、父上さまと母上さまのお考えはいかがでしょうか。
（正末）息子よ、想えばわれら夫婦は、眼は一対、腕は一双、おまえ一人を頼りにしている。おまえが軍に身を投じたら、われら夫婦は、こんなに年を取っているから、もしものことがあったとき、いったい誰に養ってもらうのだ。
（卜児）息子や、父上の仰ることに従って、軍に身を投じることはやめるのだ。
（薛仁貴）父上さま、昔から、大孝は身を立て、名を揚げ、父母を輝かすことだと聞いておりまする。単に朝晩お仕えし、ご機嫌を伺って、視膳[3]するのは、人の子の末節であり、孝とするには足りませぬ。こたび国家は人を用いるのですから、夷を討って、辺疆を安らかにせねばなりませぬ。わたくしは、武藝を学び、智勇は双つながらに全く、両軍の間にて、たちまち功を立てましょう。すこしでも官位を得れば、帰還して、家柄を改めて、父上さまと母上さまに、いささかの輝きを添えましょう。そうせずに、ひたすら藁屋にじっとして、農民をしていれば、一身の力を無駄にすることでしょう。
（卜児）息子や、とにかく気を付けて、行くがよい。
（正末）まあよかろう。ゆきたいのなら、女房よ、いささかの銀子を調え、息子の旅費にしてやるがよい。息子よ、旅路では気を付けるのだぞ。官職を得ようが得まいが、とにかくしきりに手紙を寄こし、われら夫婦を心配させぬようにするのだ。
（薛仁貴が拝礼をする）今日は吉日、父上と母上に別れを告げて、長旅に出るとしよう。
（正末が唱う）
【仙呂端正好】そなたはこれより村を離れて、郷党を去り、年老いし父母に別れを告ぐべし。
（薛仁貴）わたしはこれより旅に出て、かならずや赤心をもて国家に報い、国土を拡げ、王侯に封ぜられ、帰還しましょう。父上、どうかご安心めされませ。
（正末が唱う）汝は戦場で命を投げいださんとせり、汝は猛く、気は昂昂、身は凛凛、貌は堂堂。いづれの日にか故郷に帰らん。ああ、わが息子よ、われら夫婦が斜めに門に寄りかかり、待ち望むことなからしむべし。（ともに退場）
（旦）亭主どの、わたしは家で、御身にかわって、お世話してさしあげますから、安心をして行かれませ。柴の門の外へお送りいたしましょう。
（薛仁貴）女房よ、家には人がいないから、帰るがよいぞ。父上と母上にお仕えするのだ。わたしを送る必要はない。（拝礼し、別れを告げる）
（薛仁貴の詩）本日ははるかにゆきて軍に投ぜん、願はくは、そなたが父上母上に孝行せんこと。（先に退場）
（旦が悲しむ、詩）芳年連理[4]とはいへど、功名のため、別るるほかなし。（退場）
第一折
（浄が高麗王に扮し、卒子を率いて登場、詩）ただひとり遼東の小国に據る。大唐は帰順せざるを怪しむなかれ、百万の猛将なりとも、何人か鴨緑江を窺はん。
わしは高麗国王じゃ。わが国は、箕子が封土を受けてより、このわしに至るまで、代々高麗の地を守り、ゆえに遼左と称しておる。われらが高麗以東には、さらに十六国があり、みな年ごとに大唐に進貢している。しかし、わが一国のみは、大唐を顧みることはない。これはそもそもなぜかと申せば、わが国は、陸には天山、水には鴨緑江があり、険阻を極めているために、一人が守れば、大唐の百万の軍馬であろうと、飛び越えることはできないからだ。近ごろ配下に、一人の大将、姓は葛、名は蘇文というものを得て、摩利支の官職に封じた[5]。かれには万夫も敵わない勇力がある。大唐は、秦瓊が死に、敬徳が老い、猛将がいないとのこと。これより摩利支に十万の軍馬を与え、まっすぐに鴨緑江白額坡に行き、砦を築き、宣戦布告の手紙を届けにゆかせよう。大唐の名将が馬を出し、わしと闘い、勝つならば、わしは十六国といっしょに、大唐に年ごとに進貢しようと思うておるが、闘ってわしに勝たねば、われわれは戦勝国で、かれは敗戦国だから、かれらをわれらに進貢させて、何のよくないことがあろうか。摩利支はいずこぞ。
（丑が摩利支に扮し登場）わたしは葛蘇文。郎主[6]が呼んでいらっしゃるから、会わねばなるまい。（会う）大王さま、わたくしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（高麗王）摩利支よ、おまえを呼んだはほかでもない。大唐は秦瓊が死に、敬徳が老い、英雄や猛将はおらぬとのこと。これよりおまえに十万の精鋭を分け与えるから、まっすぐに鴨緑江白額坡に行き、砦を築き、宣戦布告の手紙を届けにゆくがよい。大唐の名将に馬を出させて、勝利して功を立てれば、官位を加え、褒美をやろうぞ。
（摩利支）かしこまりました。本日は十万の人馬を率いて、まっすぐに鴨緑江白額坡に行き、大唐の名将に馬を出させて、それがしと交戦させるといたしましょう。大小の三軍よ、わが命を聴け。
（詩）主命を奉じ、精鋭を率て、白額坡にて、砦を築き、駐屯す。唐朝は人馬を出だすこともなければ、かならずや千戦し、千勝すべし。（退場）
（高麗王）摩利支が行けば、きっと功を立てるであろう。国中の人馬を集め、あとから、迎えにゆくとしよう。（退場）
（外が徐茂功に扮し、卒子を率いて登場、詩）若くして錦の帯と紫貂の裘を身につけて、鉄馬[7]西風[8]衰草[9]の秋。手の中の三尺の剣により、談笑しつつ王侯に封ぜらるべし[10]。
わたしは姓は徐、名は世勛、字は茂功、原籍は曹州の離狐県の者。大唐を輔佐したてまつり、軍師英国公の職をぞ拝したる。遼東の摩利支が戦を挑みきたれば、総管[11]の張士貴は、兵を率て摩利支と戦ひたりしかど、鴨緑江白額坡にて、大いに敗れり。しかれども白袍の将軍が馬を出して、三本の矢で天山を平定し[12]、遼兵を退けて、凱旋したりき。このたびは聖上の御諚を奉じて、元帥府にて論功行賞することと相成れり。張士貴はなほも自分の手柄と申せど、一将軍の薛仁貴も、おのれの手柄なりといひ、真偽は明らかならざれば、すでに二将を呼びにゆかせり。
部下よ、轅門の入り口で見張りをし、二将が来たら、わたしに知らせよ。
（卒子）心得ました。
（浄が張士貴に扮し登場、詩）わたしは総管、姓は張、生まれつき、条児糖[13]をば食らふを好めり。一声の陣太鼓をば聴くのみで、顔ははやくも蝋滓のやう[14]。
それがしは総管の張士貴じゃ。自ら軍を率いて摩利支と交戦し、負けてしまった。はからずも、戦っている最中に、たちまちに一把の刀が飛び出し、わたしは驚き、魂も頭上にあらず[15]、馬頭を転じて一散に逃げたのだ。白袍の若者の薛仁貴が馬を出さねば、わたしの命はなかっただろう。今、薛仁貴は三本の矢で天山を平定し、摩利支をば退けた。もとはみなあのものの手柄だが、だれも見ていなかったから、それがしはあのものの功を横取りするとしよう。それがしはすでに功を聖上にお報せし、聖上は、徐茂功と杜如晦に命ぜられ、元帥府にて論功行賞させているから、行かねばならぬ。はやくも着いたぞ。部下よ、取り次いでくれ。総管の張士貴が到着したとな。
（卒子が報せる）軍師さまにお知らせします、張士貴さまが来られました。
（徐茂功）お呼びしてくれ。
（張士貴が会う）
（徐茂功）総管どの、そのむかし、三本の矢で天山を平定したのは、誰の手柄か。
（張士貴）軍師さま、もしもわたくし張士貴がいなければ、高麗はどうして降伏したでしょう。この闘い、三本の矢で天山を平定し、摩利支を退けましたのは、すべてわたくし張士貴の手柄であります。わたくしのほかに誰がおりましょう。
（徐茂功）御身の手柄ではあるまい。ある人が白袍の若者薛仁貴の手柄だと申しておるぞ。
（張士貴）とんでもないこと。みなわたくしの手柄です。あの日はわたしが白服を着ていたのです。
（徐茂功）わしは信じぬ。部下よ、薛仁貴を呼んでこい。
（卒子）薛仁貴どの、いずこにいられる。
（薛仁貴が登場、詩）将軍は三本の矢で天山を平定し、壮士は長歌し、漢関に入る。はじめて知れり、辺境を平定するに、優れたる臣下は多く、筆硯の区区たる間にをらざるを[16]。
それがしは薛仁貴、父母に別れて、義軍に投じ、総管の張士貴に従って、高麗国に赴いた。それがしは港を阻み、三本の矢で天山を平定し、摩利支を退け、凱旋をした。本日は元帥府にて、功績を審査して、官位を加え、褒美を賜わることであろう。軍師さまがお呼びだから、行かねばならぬ。はやくも着いたぞ。部下よ、取り次いでくれ、薛仁貴が入り口におりますと。
（卒子が報せる、）軍師さまにお知らせします。薛仁貴さまがまいりました。
（徐茂功）お呼びしてくれ。
（薛仁貴が会う）軍師さま、わたくしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょう。
（徐茂功）そのむかし三本の矢で天山を平定し、摩利支をば退けたのは誰の手柄だ。
（薛仁貴）そのむかし三本の矢で天山を平定し、摩利支を退けましたのは、すべてわたくし薛仁貴の手柄であります。ただこの一件のみならず、海を渡って遼を平らげましたとき、全部で五十四の大功がございましたが、みな張士貴に横取りされてしまいました。今日、軍師さまがお尋ねになられなければ、わたくしも申し上げようとはいたしませんでした。軍師さま、わたくしにお味方ください。
（徐茂功）張士貴よ、そなたは薛仁貴の功績を横取りしようとしたのだな。これがどうして小事であろう。横取りできるものではないぞ。当日は、誰が陣地の目付をしていたのだろうか。
（薛仁貴）当日は、杜如晦さまが陣地の目付をなさっていました、信じられないのでしたら、監軍を呼んでこられれば、事情が知れることでしょう。
（徐茂功）部下よ、監軍杜如晦を呼んできてくれ。
（卒子）心得ました。
（正末が杜如晦に扮し登場）わたしは姓は杜、名は如晦、字は克明、原籍は京兆杜陵の人。房玄齢とともに朝政にあずかっている。ありがたい聖恩により、兵部尚書と蔡国公を授かった。今、高麗は朝命を尊ばず、辺境を侵しているため、聖上は軍隊を出し、東征し、罪に問おうとなさっている。白袍将軍薛仁貴は、三本の矢で、天山を平定し、摩利支をば退けた。この功績は並大抵のものではない。今、徐茂功が元帥府から人を遣わし、迎えにきたが、手柄を審査するのであろう。見たところ、摩利支はとても勇ましいから、もしも薛仁貴がいなければ、闘って摩利支を退けられなかったろう。（唱う）
【仙呂点絳唇】あたかも猛虎が道を阻めるかのごときなりしかば、なんぴとも防がんとせざりしかども、白袍の兵卒が、勇を奮ひて先駆けて、かれと闘ひ、逃ぐる場もなからしめたり。
（言う）だが、総管の張士貴は、薛仁貴の功を横取りしようとしている。このことは、わしが陣頭で目にしているから、どうして横取りできようぞ。（唱う）
【混江龍】かれらは人を殺しても許さるべきも、他人の功をむりやりに横取りするは許されず。一時の恩賞と爵位を貪らんがため、さまざまな嘘偽りをほしいままにす。なんぢに問はん、九里山での働きはみな誰の力ぞ[17]。凌煙閣になんぢらを描かんときには、金の階に叩頭しつつ、ゆるゆると話しをせんと思ひしに[18]、なにゆゑぞあれやこれやと争へる。またひたすらに紫の朱を奪ふを憎めり[19]。
（言う）話していると、はやくも元帥府に着いた。部下よ、取り次いでくれ。杜監軍がまいりましたと。
（卒子が報せる）軍師さまにお知らせ申し上げまする、杜監軍さまが来られました。
（徐茂功）お呼びしてくれ。
（正末が会う）英公さま、わたくしを呼ばれましたは、いかなるご用にございましょうか。
（徐茂功）用事がなければ呼びはせぬ。その昔、三本の矢で天山を平定し、摩利支をば退けた、二つの手柄は、栄公どのが戦陣の目付けをなさり、きっとはっきりご覧になっているだろう。今、張士貴は自分の手柄であるといい、薛仁貴も自分の手柄であるといい、わたしはすぐには判断ができぬから、蔡公どのに一遍話しをしていただこう。
（正末）これはみな薛仁貴どのの手柄です。
（張士貴）皆々さま、本日は、文武のお役人さまがこちらに揃うていらっしゃいます。この闘いは、もしもわたくし張士貴がいなければ、誰も摩利支に近付くことはかなわなかったことでしょう。三本の矢で天山を平定し、摩利支を退けましたのは、あきらかにみなわたくしの手柄ですのに、なにゆえにあの薛仁貴に褒美を与えるのでございましょう。
（正末）張士貴よ、みな薛仁貴の功績なのに、どうして横取りしようとするのだ。
（薛仁貴）監軍さま、御身は立派なお役人さま。先つ方、海を渡って遼を平らげました時、わたしには五十四の大功がございましたが、みな張士貴に横取りされてしまいました。監軍さま、わたくしを憐れまれ、証人におなりください。
（正末が唱う）
【油葫蘆】そのむかし、鴨緑江のほとりにて、陣を列ねり、
（張士貴）皆々さま、三本の矢で天山を平定したのは、わたしの手柄ではないと仰いますが、いったい誰の手柄でしょうか。
（正末が唱う）文官と武官に対せり、
（徐茂功）三本の矢で天山を平定した、功績はもっとも大きい。なんじらは争うているが、どちらの功績なのであろうか。
（正末）これはわたしの目で見たことにございます。まことに薛仁貴の功績にございます。
（唱う）かのものの天山を平定したる三本の矢は連珠のごとし。
（張士貴）わたくしは総管ですから、功労簿に載せるのに堪えますが、あの薛仁貴はただの馬前の兵卒にすぎませぬから、功労簿には載せられませぬ。
（正末が唱う）ああ、なんぢ将軍は、功労簿をば争ふことは必要なし。鳳凰が飛び、梧桐樹にあるかのごとし[20]。
（張士貴）薛仁貴は高麗の地にまいりましたが、全身に疥癬を生じたために、毎日ひたすら痒みを掻いて、闘いをしておりませぬ。あのものは、一寸の矢も持ってはおりませんでしたから、何の手柄がございましょう。
（正末が唱う）薛仁貴には十大功あり、そなたには一寸の矢もなかりしに、趙高となり秦庭の鹿をみだりに指ささんとす[21]。なにゆゑぞ、龍伯に学び、鰲魚を釣らざる。
（張士貴）わたくしは大げさなことは申しておりませぬ。わたしのように荒馬に乗り、強弓を挽き、冷飯を食べ、ばかでかい葱を齧れるものはいません。もし旨酒を三杯買ってくださるならば、わたくしはまことに堂々たる好漢となりましょう。[22]
（正末が唱う）
【天下楽】英れたる丈夫ぶりをひけらかさんとす、このわれに誰か如くべき。自ら思へり、かの養由基が百余歩離れて楊を貫きたることも物の数かはと。
（張士貴）かの薛仁貴は高麗の地に行って、蝗を敲き、蟹を採り、蜘を掘っていただけで、何も戦はしておりませぬ。
（正末が唱う）何人か大軍を率ゐたる。何人か帥府を統べたる。
（張士貴）口ごたえするでない。おまえに何の手柄があるのだ。[23]
（正末）そなたは言った、
（唱う）功績のなきものは俸禄を請ふべからずと。
（張士貴）わたしは文は三略に精通し、武は六韜を理解して、誰にも劣りはいたしませぬ。
（正末）黙れ（唱う）
【那吒令】そなたの文は、管仲と鮑叔に及ぶことなし。
（張士貴）わたくしの武は。
（正末が唱う）そなたの武は、周瑜と魯粛に及ぶことなし。
（張士貴）わたしの智恵は。
（正末が唱う）そなたの智恵は、臥龍鳳雛[24]に及ぶことなし。
（張士貴）わたしは兵書戦策を、腹いっぱいに収めており、やがて王侯将相の位を拝し、立派な官となりましょう。
（正末が唱う）張子房さへ、朝廷を辞し、山林に帰りゆき、さらにいささかの戦策兵書を習はんとせり。
（張士貴）わたくしは総管でございますのに、田舎の農夫、兵卒あがりの人間におよばないとは。わたくしだけがこのような酷い目に遭わされるとは、どうして承伏できましょう。
（正末が唱う）
【鵲踏枝】そなたは言へり、かのものは農夫、兵卒なりと、
（言う）想えばかの諸葛亮は、
（唱う）南陽に隠居して、すすんで耕作せしにあらずや。
（張士貴）そのものはその後、どうなったのですか。
（正末が唱う）運が開けて、帝主に出逢ひ、一年に三たび茅廬を訪ねしめたり。
（張士貴）諸葛亮は田地を耕し、劉先主は蓆を織り、履を編んでおりました。そのような人々を取り上げて、どうなさいます。
（正末）昔から、忠臣と良将は、みな寒門から出るものだ。さらに一人の話しをするから、聴くがよい。（唱う）
【寄生草】想へば昔、韓元帥は、食をかの漂母に乞へり[25]。もしも蕭何に推薦せられ、将軍となることのなからましかば、漢王[26]はいかでか重瞳[27]をば倒したらまし。明らかに、忠良は、多くは寒門にこそ出たれ。
（張士貴）監軍さま、わたくしに従われ、薛仁貴の軍職を解き、故郷へと追い返し、今まで通り、田畑を耕させればわたくしの願いは叶えられましょう。
（正末が唱う）そなたは沙の堤を築かせ、紫金の梁を推し倒し[28]、漚麻の坑[29]が擎天の柱[30]を支へたるに及ばず。
（薛仁貴）軍師さま、監軍さまの見られたことに、間違いはございませぬのに、どうしてわたしの功績を、張総管の名のもとに記されるのでございましょう。唐の天子が大いに聖明であろうとむだなこと。これもまた、「上明の下暗を知らざる」ことにございます[31]。
（徐茂功）待たれよ、待たれよ。御身ら二人の将軍は、言い争うのをやめられよ。蔡公どのがこの功績を審査するのは、ほんとうに簡単なこと。わたしは今から、真ん中の赤い的を推し出し、その上に一文の銅銭を置き、百歩離れて的を置き、かれらにそれぞれ三本の矢を射させ、銅銭に中てたらば、三本の矢で天山を平定された功績を、そのかたの名のもとに記して、官位を加え、褒美を贈ることにしよう。銅銭に中たらなければ、職を免じて禄を与えず、庶民にしよう。
（正末）英公の申す通りだ。
（張士貴）今からわたしと薛仁貴に、銅銭の的を射させるおつもりですね。お訊ねしますが、軍師さま、中てたらいったいどうなるのでしょう。中たらなければいったいどうなるのでしょうか。そのむかし、凌煙閣[32]に上ったものも、この的を射ることはできませんでした。薛仁貴よ、おまえは正しい心を持つのだ。わたしの手柄を、おまえは横取りしようとし、さらにわたしに的を射させようというのか。おまえがさきに射るがよい。
（正末）英公どの、とりあえず、かれら二人が、矢を射るところをご覧くださいますように。さすれば真偽が明らかになりましょう。
（唱う）
【金盞児】なんぢら二人は、勝負を競ひ、真偽を分かて、
（徐茂功）今日、事をはっきりさせれば、はじめて論功行賞ができるであろう。
（正末が唱う）さすればまさに、功労簿上に過ちはなかるべし。
（徐茂功）銅銭に中たらぬものは職を免じて、銅銭を射たものは、紫衣を着せ、腰金[33]を帯びさせようぞ。
（正末が唱う）中たらぬものは職を免じて、射しものは玉帯に金魚を掛くべし。
（徐茂功）中たらぬものは庶民にし、射たものは三公に勝る位を与えよう。
（正末が唱う）中たらぬものは、農村の三頃の地で、一本の鋤を持たしめ、射しものはかならずや門に十二の戟[34]を並べて、戸に八椒図[35]を列ぬべし。
（徐茂功）真ん中の赤い的を、これより推し出すことにしよう。なんじらは、あの的の一文の銅銭が見えるか。それぞれが三本の矢を射て競うことにせよ。
（薛仁貴）軍師さまの、仰る通りにございます。弓矢をもってきてください。わたくしは三本の矢を射ることにいたしましょう。（矢を射て、当たる。三たびする）
（卒子が報せる）軍師さまにお知らせ申し上げまする。薛仁貴どのが三本の矢を、みな真ん中の赤い的に中てられました。
（徐茂功）すばらしい将軍だ。銅銭に中てたわい。張士貴よ、三本の矢を射ることができるのか。
（張士貴）あのものは射たのでしょうか。あのものの射方は、わたしと同じです。
（徐茂功）よけいなことを申すでない。三本の矢を射るがよい。
（張士貴）そのむかし、凌煙閣に上ったものも、この的を射ることはできないものと思われます。薛仁貴よ、おまえは正しい心を持つのだ。わたしの手柄を、わたしの手柄をおまえは横取りしようとし、わたしに的まで射させるのだな。まあいいだろう。わたしは射よう。わたしは射よう。的を推し出していってくれ。
（卒子）的をご覧になってください。
（張士貴）この的は、いかほどの距離があるのだ。
（卒子）たったの百歩にございます。
（張士貴）さらに七八十歩戻ってまいるのだ。
（卒子）それはたいへん近うございます。
（張士貴）おまえがさらに近付いたとて、わたしがもしも的に中てたら、わたしはおまえの息子となろう[36]。部下よ、弓と矢を持ってきてくれ。三十年間、総管をしていたが、弓がこんなに硬いものとは知らなかったぞ。矢を射よう。さあ、中たれ。
（卒子）中たりませぬ。
（張士貴）中てられぬわけではないぞ。この的が遠すぎるのだ。わたしはさらに射るとしよう。（さらに射る）中たれ。
（卒子）中たりませぬ。
（張士貴）また中たらぬか。この弓はわしの弓ではない。わたしの弓は三升半の米ほどの重さがあるのだ[37]。わたしはさらに射るとしよう。（さらに射る）中たれ。
（卒子）また中たりませぬ。
（張士貴）どうだ。わしは中たらぬと言ったであろう。
（徐茂功）ああ、すべて中たらぬのだな。部下よ、張士貴を捕まえるのだ。
（卒子）心得ました。（張士貴を捕まえる）
（徐茂功）二将が手柄を争ったため、聖上の御諚を奉じ、元帥府にて、審査することと相成った。張士貴は、薛仁貴の功績を横取りしたから、軍令により、もとより斬首するべきであるが、とりあえず斬るのを免じ、庶民にし、農村の三頃の地で、一本の鋤を持たせることにしよう。部下よ、推し出していってくれ。
（卒子）心得ました。
（張士貴）薛仁貴は、もともとは農民なのに、役人となり、わしはもともと役人なのに、農民とされるとは、軍師はまことに惚けておるわい。まあよかろう、今はあいつの話しが通り、わしの話しは通らぬからな、[38]
（詩）総管なれど心は悪しく、本日は、職を免ぜられ、農民となる。もうこれ以上、黄公の三略を習ふことなく、故郷にゆきて、豆腐に酒を三杯呷らん。（退場）
（徐茂功）本日は功罪が明らかとなったから、聖上にご報告もうしあげよう。（退場）
（薛仁貴）監軍さまがいらっしゃらねば、わたしにどうして今日があったでしょうか。このご恩には、後日かならず手厚く報いることにしましょう。
（正末）すばらしい将軍に報いないことはないのだ。（唱う）
【賺煞尾】汝が血に紅く染まりたる戦袍[39]を徒にせず、鐙には征靴[40]の緑を納めたり。一本の方天戟は、古今に並ぶものぞなき。功績を横取りしたる盗人の顔は糞土のごとくして、轅門を出で、豚、狼のごとく逃れり。汝のごとく嬉しげに、前後を取り囲まれたるにしくはなし。一将の功成りて万骨の枯るることなし。
（薛仁貴）わたしになんの功績がございましょう。監軍さまのこのようなお引き立てに感謝いたします。
（正末が唱う）ひとへにそなたが国を拡げて、雲を捕らへて霧を握りて[41]、聖明の君と百霊に扶けられたるお陰なり。（退場）
（徐茂功が登場）薛仁貴よ、そなたにはたくさんの功績があり、三本の矢で天山を平定し、高麗国を平らげたため、聖上の御諚を奉じ、そなたを天下兵馬大元帥とする。宮居を望んで聖恩に謝せ。
（薛仁貴が聖恩に謝する）軍師さまのお引き立てに感謝いたさん。
（徐茂功）元帥どの、聖上は御酒三杯を賜わられたぞ。部下よ、酒をもて。
（薛仁貴）軍師さま、わたくしはお酒をいただくことはできませぬ。
（徐茂功）聖上の御諚を、拒まれてはならぬ。元帥どの、一杯干されよ。
（薛仁貴）聖上の御諚であれば、いただくことにいたしましょう。（酒を飲む）ああ、酔いました。（眠る）
（徐茂功）元帥は酔い、眠ってしまった。部下よ、大騒ぎするのはやめよ。元帥が目覚めたときに、わたしに知らせよ。わたしはひとまず奥の間へ戻るとしよう。（退場）
（薛仁貴が夢を見る）薛仁貴よ、わたしは家を離れて十年、両親は年老いて、かれらを養う人はない。わたしは本日、ひそかに辺境を離れて、軽い弓、短い矢を持つ、駿馬に乗った腹心を数十騎引き連れて、家に帰って、父母を訪ねることにしよう。
（詩）三本の矢で功を立て、太平を定めしがため、元帥の職を授かり、辺境をしぞ鎮めたる。十年の間､故郷に帰る夢を見ず、愁へつつ、天外の慈烏[42]の音を聴く。（退場）
第二折
（卜児が登場）わたくしは薛驢哥の母。わたしの息子が義軍に投じていってから、はや十年、音信はたえてない。われら夫婦は年老いているものの、さいわい嫁が面倒をみてくれている。朝に食べれば、夕に食べるものはない。地を焼いて眠り、地を炙って臥し、眼を睜っても息子が戻ってくることはない。官職を得ているのやらいないやら。ああ。薛驢哥よ、そなたが懐かしくてならぬ。（哭く）
（薛仁貴が登場）それがしは薛仁貴、故郷に父母を訪ねてゆこう。はやくも着いたぞ。わたしの家だ。開けて下され。開けて下され。
（卜児）誰が叫んでいるのだろう。開けるとしよう。（会う）お役人さま、御身はどちらさまでしょう。
（薛仁貴）わたくしは薛驢哥にございます。
（卜児が哭く）息子や、懐かしくてならなかったよ。父上を呼んできましょう。（呼ぶ）お父さん、お父さん。
（正末が孛老に扮し、杖を持って登場）（唱う）
【商調集賢賓】父さんと叫べるは誰そ。
（卜児）わたくしがあなたをお呼びしたのです。
（正末が唱う）ああ。またも、誰ぞやが、わたしの愚かなる子をからかひたるかと思へり。わたしは歩くことも叶はず、前に突つ伏し、後に仰け反る。わたしは立つてをられずに、東に倒れ、西に傾く。わたしは衰へ、体は痩せり。わたしは憂へ、ばさばさの髭と鬢とは、点点と白くなりたり。（哭く）
（唱う）軍に身を投ぜしわが子よ、ああ。汝はいづこにありや。鉄石の人さへ嘆き悲しまん。六卿[43]の元帥の府を掌ることはかなはじ、（哭く）
（唱う）ああ、息子よ、汝は一枚の遠郷牌[44]を釘打たれたりぬらん。
（薛仁貴）わが父上は、年を取り、どのようなお顔になっていらっしゃるやら。
（正末が唱う）
【逍遥楽】ああ。わが息子よ、なんぢが軍に身を投じ、外地に出掛けてからといふもの、わたしは日ごとに元気なく、気もそぞろなり。ああ。わが息子よ、いづこにありてか、日に晒されて風に吹かるる。功名を得ば、苦は尽きて、楽は来たらん。われもまた、なんぢが一本の矢をもて、功を立て、家柄を改めて、祖宗を輝かしむるを望めり。わたしは今や身寄りなく、頼る方なし。（哭く）
（唱う）ああ、わが息子よ。日ごとの米も柴もなし。
（正末が会う）女房よ、わたしを呼んでどうするつもりだ。
（卜児）お爺さん、あなたはすぐに天地に怨み言を仰る。そんなに哭いてどうなさいます。今しがた、お呼びしましたに、いったいどちらにいらっしゃった。
（正末）わたしは村の東へ行って、結婚式の祝いの酒を飲んでいたのだ、
（卜児）お爺さん、あなたは村の東に行って、お祝いのお酒を飲まれたのですね。どこの娘がどこの倅を婿にしたのでございましょう。一遍お話しくださいまし。
（正末）女房よ、わたしの話を聴いてくれ。（唱う）
【梧葉児】劉大公の菩薩女が、あの村の王二を招いて婿とせり。わが親戚らは鐶釵[45]を挿せり。
（卜児）あの人の家の娘は、あなたに拝礼しましたか。
（正末）女房よ、おまえははやくもわたしを話題にするのだな。かれらはさきに舅、姑、おじ、おばたちに挨拶したあと、わしの前に来、まさに拝礼しようとしたとき、「やめるのだ」と言う声が聴こえた。
（唱う）わが前で、かれらを拝礼せしむることなし。わたしは言へり「これはそもいかなることぞ」と。かれらの家の老人たちは、何も話しをせざりしかども、若者たちは、一斉に騒ぎはじめてかく言へり。「その爺さんを拝するなかれ。その爺さんの一人息子は、軍に身を投じて十年、生死も知れず。その爺さんを拝しなば、誰をしてわれらに礼を還さしむべき[46]」。ただかれの一句によりて
（唱う）わたしの涙は頬に満ちたり。ああ、驢哥児や、なんぢは父母を置き去りにせり。
（卜児）お爺さん、喜びなされ、薛驢哥がまいりましたよ。
（正末）どこにいるのだ。
（卜児）息子や、父上に拝礼をしにおいで。
（薛仁貴が正末に会い、拝礼をする）父上さま、わたくしは、父上さまと母上さまにお会いするため、家に戻ってまいったのです。
（正末）不孝者めが、ほんとうにやってきたわい。女房よ、わしはこいつを殴るとしよう。
（卜児が宥める）息子がようやく家へとまいりましたのに、なにゆえ殴られるのでしょう。お爺さん、お怒りをもうすこしお鎮めください。
（正末が唱う）
【後庭花】やるとなったらただでは済まさぬ、（杖を挙げるが、卜児が奪う）
（正末）女房よ、手を離せ。
（卜児）お爺さん、お怒りをお鎮めください。
（三たびする）
（正末が唱う）わしがこいつを殴るのは、わしの勝手だ。驢哥よ、そなたはどのくらいいなかったのだ。
（薛仁貴）十年おりませんでした。
（正末が唱う）二十二で軍に投じて、なにゆゑぞ三十三で帰りきたれる。
（薛仁貴）父上、わたくしは忠を尽くしましたが、あいにく孝は尽くせませなんだ。
（正末が唱う）汝はいつ家を離れて、紫陌[47]に登り、絳州城にて気概を示し、龍門鎮にて策略を施せる。汝はにはかに家柄を改めやうとせしかども、はからずもさらに十数年を経にけり。
【双雁児】曾哀を送りたる趙藁の戻らぬがごと[48]。ああ、息子よ、父と子は相隔たれりと思へども、息子はなほも儼然として存したり。母親は筋力が衰へて、父親は鬢髪が白くなりたり。
（薛仁貴）父上と母上はご存じないのでございます、わたくしは、公然と家に帰ってきたのではなく、ひそかに辺境を離れて、訪ねてきたのでございます。
（正末）女房よ、息子を持てなせ。
（卜児）お爺さん、何で息子を持てなしましょう。
（正末が唱う）
【醋葫蘆】酒を買ひにゆき、鶏をすみやかに裁けかし。
（卜児）お爺さん、どのようにしてお酒と鶏を買ってきましょう。
（正末が唱う）店の東で、旧き麻鞋一対を質入れせよかし。[49]
（卜児）わずかなお酒と食べものを買ったとて、酔わせることはできませぬ。驢哥児は酒量が多いですから。
（正末が唱う）薛驢哥は酒量が多く、海のごとしと申したり、
（言う）女房よ、もてなすためのものがあるわい。
（唱う）寝床の下にはさらに二升の蕎麦があり。ああ、息子よ、いかなる風の吹き回しにて、家に来るや。
（張士貴が卒子を率いて突然登場）薛仁貴だな。聖上の命を聴け。そなたは軍務を執ることなく、ひそかに家に帰ったために、聖上はわたしを遣わし、そなたを捕らえて帰朝させ、罪に処せられようとしている。部下よ、薛仁貴をしっかりと縛るのだ。
（薛仁貴があわてて哭く）どうしたらよいのでしょう。父上さま、誰に救っていただきましょう。
（正末が唱う）
【幺篇】ただ見る、かれの聖旨を開くを。はや驚けば、黄に顔色を改めり。
（張士貴）部下よ、両脇に並んで、その爺さんが進み出ぬようにするのだ。
（卜児が哭く）
（正末）息子や、
（唱う）恐ろしげなる役人は、両脇に居並びて、南海救苦難観自在よりほかは…。[50]
（張士貴）その爺さんを遠ざけて、薛仁貴を奪われぬようにするのだ。
（正末が唱う）わたしは驚き、叩頭し、礼拝をせり。
（言う）大人さま、
（唱う）息子の命を許したまはば、一万の僧の法事に勝るべし。
（張士貴）部下よ、はやく捕まえていってくれ。
（薛仁貴）父上さま、母上さま、お二人をお世話してさしあげられませんでした。
（正末が哭く）（唱う）
【浪里来煞】息子をぽんと門より推し出す。
（張士貴）推し出してゆき、殺してしまえ。
（正末が唱う）目を瞠り、殺さんとせり。わたしの心はむなしく疲れ、いかで耐ふべき。
（張士貴）しっかり縛り、こいつを逃がすな。
（正末が唱う）麻縄で後ろ手に縛られて、もがくは難く、誰にか息子を許さしむべき。ああ、息子よ、逢はんと欲せば、九重の天[51]より赦免の書状が来るよりほかはなからん。
（正末が卜児とともに退場）
（張士貴が薛仁貴を推す）寝た振りをするな。（退場）
（薛仁貴が目覚める）よく眠ったわい。ああ。そもそもこれは南柯の一夢、本当にびっくりしたわい。わたしは先ほど三杯の酒に酔い、たまたま眠り、夢の中、故郷に至り、両親に見えたが、貧しく苦しまれていたわい。ああ、天よ。いつになったらお会いすることができよう。（悲しむ）
（徐茂功）わたしは徐茂功、薛仁貴どのは表の間にて、どういうわけか悲しんでいる。事情を訊ねるべきであろう。（会う）ああ。元帥どの、なぜ悲しんでらっしゃるのです。官位が低いことがお嫌か。
（薛仁貴）軍師さま、くだくだしいのがお嫌でなければ、わたしがゆっくり話すのをお聴きください。
（詩）幼きときより、農民たちの間に長じ、田舎の酒の味を知りたるのみにして、皇封[52]の御酒を嗅ぎたることぞなき。三杯を飲み、酔つぱらひ、魂は故郷に到れり。父母とともに歓び会ひたるに、入り口で、たちまちに大声で叫ぶを聴けり。それは勅旨を伝ふる総管張士貴なりき。張士貴はわたしがひそかに辺境を離れしがため、命を奉じて、やつてきて、罪に問はんと申したり。わたしを後ろ手に縛り、階の前に至りて、一刀のもと、脳天をしぞ砕きたる。おもはず驚き、夢より醒むれば、帥府の表の間にありて睡りたりけり。はるかに望めば、故郷はいづこぞ。父母を思ひ起こして、悲しみの涙を流せり。国を拡げし老軍師さまに申し上ぐべし。故郷を離れし薛仁貴をば憐れと思ひたまへかし。
（徐茂功）さようでしたか。聖上に上奏し、元帥どのには、故郷に錦を飾っていただくことにしましょう。わたしの娘をあなたの妻にし、ご両親にいっしょに会いにゆかせましょう。夫は栄え、妻は貴く、ともに天子のご恩を受ければ、まことに宜しいことでしょう。
（薛仁貴）ありがとうございます。軍師さま。ぐずぐずといたすわけにはまいりませぬ。黄金百両、御酒千瓶を携えて、家に帰って父母に会うことといたしましょう。
（徐茂功の詩）汝は三本の矢によりて、天山を定めしにより、黄金の印を勅賜せられて、拝将壇に登るべし。
（薛仁貴の詩）昔は哭きつつ父母のもとより離れたりしかど、今は笑みつつ故郷に錦を飾ることとなりたり。（退場）
第三折
（丑が禾旦に扮して登場、唱う）
【双調豆葉黄】ここはいづこぞ。ここはいづこぞ。酸棗の林の西ぞ。わが母は、御身をばはやく家へと来らしめたり。狼が御身を咬むを恐るればなり。棗を摘まば、棗を摘まば、御身の脳は抉られん。棗を摘んではをらぬといへど、口中の種はいづこより来りしや。あちこち探し、狼を見ば、塀を飛び越え、御身の母ぢやを驚かすべし。
（言う）伴哥さん、わたしたちは、お墓参りにゆくとしましょう。少しお急ぎくださいまし。
（正末が伴哥に扮し登場）おまえもわたしを待ってくれ。本日は、まさに寒食、すばらしい節句だわい。（唱う）
【中呂粉蝶児】今まさに日は暖かく、風は穏やか、家家は、墓参りする備へせり。いささかの節句の茶菓子と、菜饅頭、飄漏粉[53]、鶏、豚、狗、彘をば用意せり。ひたすらかやうにがつがつと喰らふとは、これぞまさしく、はなはだ悪しき行ひぞかし。
【酔春風】鑞の釵錍[54]は落ちたれば、油をつけし髻は傾く。墓参りする人は多きも、御身のやうに、酒を飲み、歩けども歩き得ず、立てども立ち得ず、酔ふてまた酔ふものはなし。
（禾旦）伴哥さん、田の苗を見にゆきましょう、もう少し急いでください。
（正末）見えるか。遠くから誰かが来たぞ。
（禾旦が慌てる）伴哥さん、一群れの人が来ました。本当にびっくりします。
（正末が唱う）
【十二月】群をなし、若草を踏み、翡翠の羽を拾ひて、集まりて隴に傍ひ、畦を尋むるものならん[55]。ただ紅塵の蕩ふを見る
（薛仁貴が馬に乗り、卒子を率いて登場）それがしは薛仁貴。儀仗を並べてゆっくり行こう。
（正末が唱う）これはそも、一騎の馬が電のごとくに奔馳したるなり。従者らはみな全身に繍を着けたるに、将軍は何ゆゑぞ縞素の衣裳[56]を着けたる。
【堯民歌】ああ。雪神の天より降りたりしにや。
（薛仁貴）百姓よ、止まるのだ。
（正末が唱う）かのものの雄叫びは春雷にしぞ似たるなる。
（薛仁貴）慌てるな。わたしは一言訊ねたいのだ。
（正末が唱う）わたしの心と胆は驚き、びくびくとして惑ひたり。手と脚は、ぶるぶるとして虚仮のごと。じつとして、体はなどか動くべき。わたしは酒を待つことなしに、酔ひを装ふ。
（薛仁貴）これ、そのほう、訊ねるが。
（正末が唱う）
【上小楼】たちまちに聴く、人の言葉と馬の嘶きの猛々しきを。わたしは驚き、ぶるぶる、あたふた、ひたすら哭かんとするよりほかなし。こなたにも、あなたにも、などか逃るることを得ん。わたしはがばと馬前にぞ跪きたる。
（薛仁貴）これ、そのほう、訊ねるから、あれこれごまかすのはやめるのだ。
（正末）滅相もないことにございます。（唱う）
【満庭芳】などてかはあれやこれやとごまかさん。ひたすらにでたらめを言ひ、話の合はざることを恐れり。
（薛仁貴）おまえは土着しているものか、寄留しているものか。どのような仕事をしておる。
（正末が唱う）わたくしどもは、龍門鎮で、夫役に当たれる民戸なり。
（薛仁貴）おまえたちは徒党を組んで、こちらで何をしていたのだ。
（正末が唱う）今日はまさしく百五の寒食[57]、墓参りするものは、みな同郷のものにして、酒を飲むには、素焼きの鉢と磁器の杯をぞ用ゐたる。官員さまに税を徴収せらるることを恐るれば、村に行き、報告せんとしたるなり。お役人さま。仰せにはことごとく従ひまつらん。
（薛仁貴）訊ねるが、東荘里薛大伯の家にいた、薛驢哥という息子のことを、存じておるか。
（正末）存じております。存じております。（唱う）
【快活三】われら二人は麦の脱穀場[58]にて落穗を拾ひたることもあり、樹の梢にて青梨を突付きたることもあり、牛の背に逆さに跨り、笛を吹きたることもあり、生の瓜をば盗みて皮ごと食らひたることもあり。
（薛仁貴）薛驢哥と知り合いだったか。薛驢哥は幼いときからいかなる技を学んでいたのだ。
（正末が唱う）
【迓鼓児】かれ、かれ、かれは幼きときより、かれ、かれ、かれはまじめな仕事に務むることなく、槍、棒をつとめて習ひ、いつかな犁を持たんとはせず、いつも農具を抛ちて、武藝を習ひ、同輩たちを圧したり。弓矢をば与ふればよくそれを射て、荒馬を与ふればよくそれに騎り、しかのみならず、一本の方天画戟[59]を用ゐたり。
（薛仁貴）薛驢哥の両親は、今、誰に養われている。一遍話して、聴かせてくれ。
（正末）かれの老いたる両親は、高齢なれど、ただこの息子があるのみなりき。息子は軍に身を投じ、十年間、音信はたえてなし。父母は家では米や柴に事欠き、眼を見開けど、息子は戻らず、げにも苦しくしたまへり。（唱う）
【鮑老児】息子はやうやく人と成りしに、父母と天地をともにせず。かれは楚館秦楼にてなんぴとに恋々としたりしか。養育の深き恩義をまつたく思はず。憐れなり、両親は、年老いて、力は弱く、身寄りなし。あいつは命を失ひて、坑に陥る、ろくでなしなり。
（薛仁貴）これ、そのほう、おまえは今でも薛驢哥を存じておるのか。
（正末）もちろん存じておりまする。もしもあいつに会いましたらば、あいつの顔を、五十回打ちましょう。
（薛仁貴）これ、そのほう、頭を擡げ、眼を見開いて見るがよい。わたしは薛驢哥ではないか。
（正末）あなたでしたか。わたくしは何も申しておりませぬ。
（薛仁貴）おまえはわたしを十分に罵った。おまえは存じておるまいが、わたしは今や天下兵馬大元帥となり、聖上の御諚を奉じ、故郷に錦を飾り、家に行き、父母に会うのだ。
（正末が唱う）
【耍孩児】御身の老いたる父母は苦しみを受けたまへども、御身は栄え、すつかり厳き体に変はれり。昔よりますます太り、唇を蔽へる髭をいささか伸ばせり。わたしは幾度か御身を罵りたりしかど、ひとまず咎むることなかれ、これもまた、久しく隔たりたるがため、御身に気付かざりしなり。
（薛仁貴）わたしはおまえを咎めないから、わたしが馬から下りないことを許してくれ。
（正末が唱う）ああ。馬の上にあるかのものの堂々たる勢ひを見よ。わたしとともに班鳩を捕らんとし、争ひて古き樹に攀ぢ登り、蛙をば捕らへんとして、泥沼に入りたることをはや忘れたり。
（薛仁貴）わたしが義軍に投じた後、両親はどのように暮らしていたのだ。さらに一遍話して聴かせよ。
（正末が唱う）
【一煞】御身の母御は七十を過ぎ、御身の父御はちやうど八十、兄、妹や弟はなし。御身の父御は、ぼろ家にて、三冬の冷たきを忍びたまひしこともあり、御身の母御は寒炉[60]の灰を一晩掻かれしこともあり。かれらは餓ゑて、身に力なく、肝と腸とは砕けたり。肥えたる羊、白き麺など思ひもよらず、ただ不味き飯、黄ばみたる齏に耐へたまふのみ。
（薛仁貴）父上さまと、母上さまも、わたしのことを想われたことがございましょうか。
（正末が唱う）
【煞尾】黄昏に哭き、夜明けに到り、朝に哭きて、夕に到り、故郷を離れし御身を哭せり。御身の父上母上は、朝な夕なに柴門に倚り、御身を待てど、いつ戻るとも知れざれば、まことに苦しき思ひをなされり。
（唱う）憐れや、御身の老いたる父上、母上は、御身のことを待ち望まれたり。
（正旦ともに退場）
（薛仁貴）両親は、このような苦しみを受けていたのか。ぐずぐずとするわけにはゆかぬ。家に帰って、父上と母上にお会いするべきだろう。
（詩）遼左より戻りきて、黄金百両、酒千尊の君恩を受く。家に帰りてみづからの手で、両親の長寿を祝ふは、畑仕事より幾分か勝るべし。（退場）
第四折
（社如晦が登場）わたしは杜如晦。薛仁貴は遼兵を退けて、三本の矢で天山を平定し、凱旋し、兵馬大元帥を加えられた。徐茂功の娘を薛仁貴に賜い、夫人にし、故郷に錦を飾らせた。このたびは、聖上の御諚を奉じ、勅書をもたらし、徐茂功に示すため、まっすぐに絳州龍門鎮に行き、薛仁貴一家のものに官位を与え、褒美を取らせることにしよう。すでに勅書は茂功へと送ったから、ぐずぐずとするわけにはゆかない。聖上にご報告するべきだろう。
（詩）薛仁貴は、海を越へ、遼を討ち、鴨緑江にて幾たびも功績を建てたれば、黄金を賜はりて、家に帰らせ、長寿[61]をば祝はしめ、封贈を加へ、帰朝せしめん、（退場）
（正末が孛老に扮し、旦とともに登場）わたしは薛大伯。女房よ、息子は軍に投じて十年、音信はたえてなく、家に帰ってこぬのだが、どうしたらよいだろう。
（卜児）息子を軍に投じさせたのは、すべてあなたがしたことですよ。今日、苦しみを受けたからとて、何を仰る。お爺さん、わたしは昨晩、息子が官位を得た夢を見ましたが、ほんとうにこのような福分がございましょうか。
（正末）女房よ、夢は心の想いなのだ。息子よ、おまえが官職を得ようが得まいが、はやめに家に戻ってきてくれ。待ち遠しくてならぬわい。
（唱う）
【双調新水令】家を養ふ息子のために、哭きたれば目は霞みたり。ああ。なんぢが家を去りてより、心の休らふことぞなき。息子よ、長く黄泉路にをりたるにもあらで、なにゆゑぞ十年の間､天涯に留まりて、出世することのなかりし。わが悲しみは、いづれの時にか罷むべけん。
（卜児）お爺さん、息子は決して戻りますまい。悲しんでどうなさいます。
（正末）わたしはひとまず休むとしよう。
（卜児）お爺さん、とりあえずお休みください。わたくしは柴門の入り口で見張りをしましょう。
（薛仁貴が小旦、卒子を連れて登場）わたしは薛仁貴。はやくも家の入り口に着いたわい。部下よ、馬を繋いでくれ。門前にいらっしゃるのは母上か。
（卜児）お役人さま、どちらから来られたのです。御身はどなたじゃ。婆あを驚かさないでくだされ。
（薛仁貴）母上、わたしが薛仁貴であることがお分かりになりますか。本日は、官職を得て、家にまいったのでございます。
（卜児）あきらかに息子薛仁貴じゃ。父上に報せにゆこう。
（卜児）お爺さん、喜びなされ。息子が官位を得て家にまいりましたよ。
（正末）ほんとうか。女房よ、柴門を出て、看るとしよう。（会う）どのものが薛仁貴なのだ。
（薛仁貴）わたくしが薛仁貴です。わたくしの拝礼をお受けください。
（正末が唱う）
【殿前歓】わたしの息子は家に来れり、見よ、かれの従者、人馬に儀仗とやらを。
（薛仁貴）知らぬまに、十年家を留守にしました。
（正末が唱う）その十年は虚事と相成りぬ。真か嘘か。霊鵲児が夕の衙に騒がしく、喜珠児は軒端に巣を掛けて、夢魂の安らふことぞなき[62]。幾日か前、眼のぴくぴくし、昨晩はにはかに灯花[63]の弾けたりしもむべなるかな。
（薛仁貴）三本の矢で天山を平定し、摩利支を退け、天下兵馬大元帥となり、勅命により、英国公の娘のもとに、わたしを招いて婿となしたり。今日は故郷に錦を飾り、父母を訪ねきたれり。お嬢さま、わが父母に拝礼をなさいませ。
（小旦が拝礼をする）お義父さま、お義母さま、わたくしの八拝をお受けください。
（卜児）ああ、御身は英国公さまのご令嬢。もったいなや。
（大旦）われらは今日、父子夫婦で集うたのです。お義父さま、お義母さま、どうか掛けられ、わたくしの拝礼をお受けください。
（卜児）息子や、この十年、さいわいに嫁がわれわれ老いたる夫婦の世話をせり。
（正末が唱う）
【甜水令】わたしは冉冉たる年月と、蕭蕭たる冬の月、炎炎たる長き夏を経、待ちわびて、心をば悲しませ、眼を睜れども、その間の、家事の切り盛り、齏を執り、菜を掘りて、衣を縫ひて、繕ふに、嫁の柳氏の世話になりたり。
（薛仁貴）女房よ、この十年間、父母を養ってくれてありがとう。お嬢さま、わたしとともに柳氏に拝礼するとしましょう。
（小旦）おねえさま、父上さまと母上さまのお世話をどうもありがとうございます。わたくしの拝礼をお受けください。
（大旦）お嬢さま。わたくしは庶民の娘、あなたはお役人さまの箱入り娘、どうかお楽になさってください。
（二旦とともに拝礼する）
（正末）嫁よ、これからは、なんじら二人は、先か後かを争うことをしてもならぬし、妻と妾と言ってもならない。姉、妹と呼びさえすれば、よいだろう。（唱う）
【折桂令】わが家には、賢き嫁はただ一人かと思ひしに、はからずも、そなたはさらに皇恩を受け、美し人をぞ賜はれる。一人は勇烈なる夫、一人は糟糠の妻にして、一人は宰相さまの娘御。一方は礼儀を弁へ、まことに謙譲。一方ははなはだ温良、諍ふことはたえてなし。御身ら夫婦は羨むべく、誇るべく、欠点はなし。田舎娘は、眉の高さに膳を擡げり。お役人さまの娘は、錦の上に花を添へたるごときなり。
（徐茂功が卒子を連れて登場、詩）昨日は鳳闕を辞し、今日は龍門にしぞ到れる。一家は喜びをば増して、千載に皇恩を頌へたり。
わたしは徐茂功。薛仁貴が遼を討ち、功績を立てたため、勅命を受け、故郷に錦を飾らせることとなった。このたびは、聖上の御諚を奉じ、詔勅を持ちつつ龍門鎮に行き、かれの両親と妻の柳氏に、封贈を加え、ふたたび帰朝させるとしよう。着いたところは、あのものの家の入り口だ。部下よ、取り次いでくれ。徐茂功が勅命を奉り、こちらにまいりましたとな。
（卒子）元帥さまにお知らせします。徐茂功さまが聖上の御諚を奉じ、入り口にいらっしゃいました。
（薛仁貴）今すぐ香を用意して、みずから迎えにゆくとしよう。（会う）
（徐茂功）薛仁貴どの、わたくしは、聖上の御諚を奉じ、みづから丹詔をば持ちて、この地に至り、なんぢら一家を官職に封じ、褒美を取らせん。
（薛仁貴）大人さまがいらっしゃるのを、あらかじめ存じておれば、遠くまでお迎えいたしておりましたのに。わたくしの罪をお恕しくださいまし。
（正末、旦が冠服を換える）
（正末が唱う）
【喜江南】ああ。いかで知るべき、かやうなる栄華を受くる日のあらんとは。わたくしどもは蒼き顔、皓き首の百姓なれども、緋袍象簡に烏紗帽を帯ぶるを得たり。息子よ、喜べ。かねてより、汝に兵法を学ばしめしは徒ならざりき。
（徐茂功）薛仁貴どの、御身ら一家は、宮居を望んで跪き、聖上の御諚を聴かれよ。御身には蓋世の功があれば、平遼公を加封して、邑十万戸を食ましめん。両親に百斤の黄金を賜はり、柳氏と徐氏は、ともに遼国夫人に封ずることとせん。欽限[64]は三か月、ふたたび帰朝するがよし。聖恩に感謝せよ。
（衆が聖恩に謝す）
（徐茂功）想えば昔、摩利支は、鴨緑江白額坡にて、軍営を布き、わが大唐の名将に馬を出させた。その時は、わが大唐の名将は、死ぬものは死に、年老いるものは年老いていたために、元帥どのの三本の矢に頼り、ようやく摩利支を退けて、大功を成しとげた。今日、聖上は官職をお加えになり、ご褒美を賜わられたから、功も無駄にならなかったということだ。
（正末が唱う）
【沽美酒】大唐に名将乏しかりしかば、わが子は奮励努力せり。一片の忠心は国家に報い、遼兵と闘ひて、やうやく干戈の罷むを得たりき。
（薛仁貴）父上さま、わたくしは海を越え、遼を討ち、五十四の功績を立てたのですが、あやうく総管張士貴に横取りされるところでした。軍師さまが功罪の審査をなさることがなければ、わたしにどうして今日があったでしょうか。
（衆が徐茂功に感謝する）
（徐茂功）聖上の御諚を奉じ、論功行賞したまでですから、感謝なさるに及びませぬ。
（正末が唱う）
【太平令】唐の天子は生殺を掌れども、張総管は狡猾を逞しうせり。老軍師さまの明察に遇ふことなくば、白袍の功績を帳消しにせられたりけん。本日は爵位と褒美を賜はりて、かやうなる引き立てを受く。ああ、われらは大恩人の御身にいかで報いん。
（徐茂功）元帥どの、あなたの一門が栄えて、勅命により帰朝なさるのは、人生でもっとも喜ばしいことです。本日は、羊を殺し、酒を造って、盛大な宴を設け、祝うとしましょう。
（詞）白袍の将軍は世上に並ぶものぞなき、高麗を平らげて威は辺疆に振ひたり。乾坤[65]を扶けて清く泰らかならしめ、日月を磨き、輝かしめたりき。薛大公は霊椿[66]のごと老ゆることなく、薛大婆は萱堂[67]にともに楽しむ。宰相の娘は妾となるに甘んじ、糟糠の妻こそはいと賢けれ。丹詔が降されて、家じゆうが封贈を受け、家柄は改まり、栄誉は常のものならず。徐茂功の轅門に射藝を比ぶることなくば、薛仁貴はなど故郷に錦を飾らん。