第三十四齣 完聚

【破陣子】(旦が登場)幾年か夫と離れ子に別れたる。ひもすがら喜び少なく憂へは多し。愁への来らんことを恐れて(まよね)を掃かず。しかれども愁へは来れば頭は白みぬ。眸を凝らせば両の涙は流れたり。

冤罪を受け海角(うみのほとり)にさすらへば[1]、親を捜して天涯にさへ到るべし[2]。旅行きて(まみ)えしや(まみ)えざりしや。事は遅々たるかのごとし[3]。ひとり耐ふれど誰かは孤寡を憐れまん。空しく柴門(しばのと)に寄りて、黄昏に帰る鴉を数へつくせり。反哺のために家に帰らぬものはなけれど[4]、游子は膝下に帰ることなし。

わたしは倅に親を捜させている。家を離れて半年になるが、音信は返ってこない。倅の安否はいかがであろうか。亭主の生死はどうなっているのだろうか。わたしは眠りは安らかでない。昨夜、燈花は蕊を結び、今朝喜鵲の声は喧しい。喜びはどこからやってくるのだろうか。

【剔銀燈】霊鵲は噪し。報するは何の喜び。もしや父子(おやこ)がすみやかに帰りくるにや。牛カ織女はかれが取り次ぎ、一年に一たび河橋[5](わた)るなり。(さは)ぐを聴けば一声ごとに高きなり。なにゆゑぞすぐに来れる。

【掛真児】(生小生が登場)山川を跋踄すること幾ばくぞ。本日は故園の桃李を見るを喜ぶ。

こちらはすでにわたしの家の入り口だ。倅よ、おまえがまず入ってゆけ。(小生が旦に会う仕草)お帰り[6]

(小生)父上がおもてにいらっしゃいます。

(生旦が会って哭く仕草)

【哭相思】本日再び会はんとは誰か(おも)ひし。珠の合浦に還りゆき鏡の重ねて円かなるかのごときなり[7]

(生)故郷(ふるさと)に別れて二十年(はたとせ)。災難を逃れて天に憐れまれたり。

(旦)今日さいはひに再会す。

(小生)明香[8]をたつぷり捧げて天に拝謝す。

(生)妻が操を守りしことこそいと有り難けれ。子を教へ名を成さしむれば、感激は尽くることなし。

(旦)思えば昔別れたときは、夫婦が会う日はないものと思いましたが、今朝また団円することができました。一家は生き返ったかのようです。

(小生)父上、母上、お掛けください。倅が拝礼いたします。

(生旦)旅をして苦しんだだろうから、挨拶はよい。(小生)

【刮鼓令】わたしは不孝の罪があり。嘆かはしきはそのかみ母の懐にありしとき、いと恨めしき仇人の張敏は、謀略を起こし悪計を施したりき。厳父は辺地に流されぬれば、母親に伉儷(めをと)となるを迫りにき。節義を全うせんとして芳姿を損なふ。家に主なく、嚢も空し。(あした)に思ひ暮に思ひて両の眉を鎖したり。本日は再会し、一家は不虞を喜べり。

【前腔】(生)昔日の困苦を思へば、役所の仕事によりて堤を築きにゆきたり。供応の金がなきため、空欄のある証文を持ち、張家に援助を乞ひにゆきたり。わが美しき妻を見しため、はからずもこれより災禍は起こりたり。いつはりの金額を書き込みて悪行を恣にし、人を殺めて、誣告したりき。お上は是非を辨じたまはず、偽りの自供をし、遠くに流され離れしかども、本日はさいはひに郷閭に還れり。

【太平令】(末が登場)丹墀にて上奏すれば、節孝のことはよく知りたまひたり。都堂[9]は勅令をば帯びて辺地に臨み、香案を置き、威儀を整ふ。

【前腔】(生)家はもともと寒微なり。禄を受くれど功はなければむなしく恥ぢたり。保奏[10]を蒙り、恩庇を受けて、使臣はわざわざ寒居へ来たまふ。

(末)聖旨はすでに到着した。跪いて宣読を聴け。皇帝の詔にいわく。朕が(おも)うに、教化は刑政の本、刑政は輔治の基である。こたび、河南開封府知府范仲淹は、呉県知県周瑞隆の母郭氏のことを奏聞した。郭氏は若くして夫を助け、甘苦をともにした[11]。夫が陥れられると発奮し、身を顧みず、勢いに迫られて危難に臨めば、顔を損ない、操を保ち、勉強を子供に教えた。子は職を棄て、親を捜し、ともに故郷に帰り、父の仇に報いることができた。これは人がなし難いことであり、朕はまことに嘉している。張敏は狼虎の心を抱いているので、斬罪に処するべきであるが、すでに赦免してあったので、万里に遠流し人民とする。周瑞隆は蘇州府知府に昇任させる。父の周羽は封丘県尹に封じる。母郭氏は貞潔宜人に封じる。おのおのに褒賞を加え、風俗を正しくしよう。冠帯を賜い、終生栄誉を与えよう。朕の意に負かぬように。宮居を望み聖恩に謝せ。

(生旦、小生)万歳。天使さま、お掛けください。茶を持て。

(末)それには及ばぬ。(退場。衆が合唱)

【大環着】慈親が子を教へしことに感じたり。慈親が子を教へしことに感じたり。山川を跋渉し遠く尋ねつ。千辛万苦をことごとく経て、血を出し、事情を書きて、鄂州に行き、恩人が父の『台卿集』を与へしことに感ぜり。たまたま旅邸に到りしときに、父子は逢ひたり。その日はまことにゆくりなく、また会ふことを喜べり。これよりは暮に楽しみ朝に歓び、良辰を徒にすることなかれ。富めども不仁なるものは、今ははや遠流に遭へば、はじめてわたしの願ひは叶へり。

【尾声】報いをおんみは記憶すべきなり。古より今に至るまで誰かは報いを受けざりし。賢は賢、愚は愚となれるものぞかし。

 

最終更新日:2007年12月27日

尋親記

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[1]主語は周維翰。

[2]主語は周瑞隆。

[3]原文「此行見否事如」。「事如」が未詳。とりあえずこう訳す。

[4]原文「敢因反哺不還家」。「反哺はカラスが成鳥になるとんできてえるということから、子孝行くすことの。『初学記』巻三十『烏賦』「雛既壮而能飛兮、乃銜食而反哺。」。

[5]ここではいわゆる「鵲橋」のこと。『歳華紀麗』七夕「七夕鵲橋已成、織女将渡」原注引『風俗通』「織女七夕当渡河、使鵲為橋。」。

[6]旦のせりふ。

[7]原文「似珠還合浦鏡重圓」。珠還合浦」は漢の猛将が合浦の太守として赴任すると、貪欲な前任者の時は採れなくなっていた真珠が採れるようになったということから、いなくなっていたものが戻ることの喩え。『後漢書』循吏伝「嘗後策孝廉、舉茂才、拜徐令。州郡表其能、遷合浦太守。郡不産穀實、而海出珠寶、與交阯比境、常通商販、貿糴糧食。先時宰守並多貪穢、詭人採求、不知紀極、珠遂漸徙於交阯郡界。於是行旅不至、人物無資、貧者餓死於道。嘗到官、革易前敝、求民病利。曾未踰歳、去珠復還、百姓皆反其業、商貨流通、稱為神明。」。「鏡重圓」は徐徳言が妻の楽昌公主と戦乱の中で別れる際、鏡を割って分け合い、後にそれが機縁となって再会した、いわゆる「破鏡重圓」の故事から、夫婦が離散した後に団円することの喩え。『本事詩』情感参照。

[8]未詳。

[9]明代、都御史、副都御史、僉都御史をいう。中央から派遣され、官吏の弾劾などをつかさどった。

[10]朝廷に人を推薦保証すること。

[11]原文「早相夫而同受甘苦」。「早」が未詳。とりあえずこう訳す。

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