第三十齣 遇恩
【西地錦】(生が登場)天恩は大いに布きてみな瞻仰す。一身のさいはひに羅網を脱することを喜ぶ。
彩鳳は朝に啣ふ五色の書。陽春はたちまちに布き網羅は除かる[1]。すでに心は寒灰に変はりたれども、はからずも残んの腐草に光は生ぜり。故郷を思ひ、意は不安。咫尺天涯音信稀なり[2]。憐れまれ、受け入れられし恩こそは報い難けれ。心に刻み、違はんとせず。
わたしはさいわい天恩に遇い、故郷に戻ろうとしている。李員外を呼び出してきて、別れを告げてゆかねばならない。話していると、員外がもうやってきた。
(外が登場)幾年かお世話して肉親にさへ勝るなり。笑ひつつ詩酒を談じて晨昏に楽しめり。今日はまた陽関に向かひて別る。驪駒[3]を唱ひつくせば、聞くに忍びず。
(見える仕草。生)多くの大恩を蒙り、感謝は尽きませぬ。恩赦に遇うことができましたので、故郷へ帰ろうと思います。
(外)戻ってゆこうとなさるのですか。家で先生にご無礼があったのでしょう。そのために帰ろうとなさるのでしょう。
(生)ご恩は深く、お礼するのは難しゅうございますのに、なぜそのようなことを仰る。
(生)わたしには、一冊の拙い詩文があり、『台卿集』ともうします。員外さまにお送りしましょう。手元に置いて再会するときの証拠になさいまし[4]。
(外)佳篇を大変ありがとうございます。わたしは白金十両を持っております。路銀として差し上げましょう。
(生)さらに手厚い贈り物を受け、勿体のうございます。
【錦堂月】運の拙き、萍蹤梗跡は、多くの大恩、引き立てを蒙りたりき。この身が生きて還りなば、終生いかで恩義を忘れん[5]。いますぐに草を結びて環を啣へんと思へども[6]、さらにいつまた会ふかを卜せず。
(合唱)別れゆきなば、書斎は寂しきことならん。朝夕誰と相対すべき。
【前腔】(外)知りたまふべし。数年蝸居にてお世話すること淡薄なりき[7]。斯文は相会ひ、意気投合したりしかば、岐に臨み袂を分かつにいかで忍びん。ただ願はくはおんみのはやく家園に行きて、骨肉のふたたびともに歓会せんこと。(前腔を合唱)
【僥僥令】(生)恩多ければ、棄つるは難し。行かんとするも意は遅々たり。水は遠く、山は遥けきものなれば、会ひ難からん。この深恩に報ゆるはいつの日やらん。
【尾声】蕭蕭たる行李は西風の裏。西のかた陽関を出れば故知なし。鱗鴻[8]に遇はば書を寄すべし。
別れの恨みは綿綿たり。恩多ければすべてを言ふは難きなり。
千里の遠きを辞することなく、体をいたはり故郷に行かん。
最終更新日:2007年12月28日
[1]原文「陽春忽佈網羅除。」。「陽春忽佈」は天子によって恩赦があったことをさす。「網羅」は法網。
[2]原文「咫尺天涯音信稀」。「咫尺天涯」は相手は近くにいるのだが、便りを通ずるすべのない境涯をいう。
[3]送別歌。『漢書』儒林伝・王式「歌驪駒」注「服虔曰、逸詩篇名也、見大戴禮。客欲去歌之。」文潁曰、其辭云、驪駒在門、僕夫具存、驪駒在路、僕夫整駕也。」。
[4]原文「留爲後會表照。」。「表照」が未詳。とりあえずこう解釈する。
[5]原文「沒齒怎忘恩義」。「沒齒」は終生の意。『論語』憲問「或問子産。子曰、惠人也。」問子西。曰、彼哉。彼哉。」問管仲。曰、人也。奪伯氏駢邑三百、飯疏食、沒齒、無怨言」。
[6]原文「便待要結草啣環」。「結草」は『春秋左氏伝』宣公十五年に見える言葉。晋の大夫魏武子に娘を助けられた老人が、魏武子と闘った杜回を、草を結んで躓かせ倒した故事にちなみ、報恩のこと。「啣環」は黄雀が自分を助けた楊宝に白環四つを与えた故事。『後漢書』楊震伝の引く『続斉諧記』華陰黄雀に見える故事。「宝年九歳、時至華陰山北、見一黄雀為鴟梟所搏、墜於樹下、為螻蟻所困、宝取之以帰、置巾箱中、唯食黄花百余日、毛羽成、乃飛去、其夜有黄衣童子、向宝再拝曰、我西王母使者、君仁愛救拯、実感成済、以白環四枚与宝、令君子孫潔白、位登三事、当如此環矣」。
[7]原文「數載蝸居。相看淡薄。」。「蝸居」は狭い家。「数年間、狭い家で、ろくなお世話もできませんでした。」。これは謙遜。
[8]魚雁に同じ。書信のこと。